次に来るもの 3.後三条天皇退位

 さて、しつこいくらいにこの時代の通貨は「コメや布地」と書いてきたが、途中から通貨がコメしかないかのような書き方をしてきた。ここに、この時代のインフレの問題点がある。

 コメや布地が通貨として機能している、いや、コメと布地の二種類が通貨として機能していると言うことは、モノやサービスの売買をコメにするか布地にするか選べると言うことでもある。

 化学繊維など存在しないこの時代、布地というのは天然繊維である。

 では、どのような天然繊維があったのか?

 まずは絹である。発掘調査の結果、日本国での絹生産は紀元前二世紀にはすでに始まっていたことが判明しており、律令における税制でも絹織物を納めるよう規定されていた。農家の貴重な副業であると同時に、絹糸を作り出す蚕の餌となる桑の栽培も重要な副業であった。ただし、生糸や絹織物が明治時代から昭和中期にかけての日本の重要な輸出品であったことは脳裏から捨てていただきたい。この時代の日本の絹織物は質が低く、輸出品とするには不適格であったからである。日宋貿易の品目を見ても、絹織物や生糸は日本が宋から輸入するものであり、宋へと輸出するものではなかった。そもそも、絹織物を作って税として納めろと命じられているのだから最低限のノルマさえ果たせばそれで充分であり、質を高めようなんて意欲は全くなかったのである。もっとも、税では無く売り物とする前提の絹織物はさすがに高品質である。稲作には向いていないが絹織物の生産には向いているという土地である場合、コメを納める代わりに絹織物で、つまり、コメがとれる土地で納める以上の絹織物を税として納めることになっていたが、税として納める分の絹織物はテキトーに済ませておいて、市場(いちば)で売り買いするための絹織物は最高級品を作り上げる。この結果、税として納められた絹織物は通貨として市場に流通し、売買用に織られた絹織物は売り物として市場(しじょう)で流通するようになる。

 次に麻である。絹は紀元前二世紀という比較的新しく伝来してきた繊維素材であるのに対し、麻は縄文時代の遺跡からも見つかる古くからの繊維素材である。絹が高級品であったのに対し麻は一般庶民の繊維としてもっとも一般的であった。絹織物の作ることのできない地域では絹織物ではなく麻の布を税で納めることとなっていた。絹織物よりは一段下に見られていたことから納めるべき麻布の量は絹織物より多く設定されていた。もともとは絹織物の三分の一の価値とされ、絹織物の場合、一反、すなわち、長さ一五メートル・幅六五センチの絹織物を納めれば六人分の税を納めたことになるとされていたのに対し、麻布の場合は同サイズの納税が二人分の税ということになっていた。

 これが、平安時代になると絹織物一反と麻布六反が等価値となるまでになった。もっとも、上に政策あれば下に対策ありということで、絹一反と麻布一反のサイズが同じでは無くなった。絹一反は長さ六丈(一七メートル七六センチ)と伸ばされた代わりに幅が一尺九寸(五六センチ)へと細められ、麻布一反は、横幅が広がったものの長さが四丈二尺(一二メートル四三センチ)と縮められた、より正確に言えば、少しずつサイズをごまかし続けてこの数値へと落ち着いた。税を納める側からは「長さと幅が違っていますが布地としての面積は同じです」という言い訳があったようだが、律令に定められた面積とこの時代の麻布一反の面積とを比べると、一二パーセントほど面積が減っている。

 日本の伝統的な衣料として思い浮かぶ衣類にはそのほかに木綿があるが、この時代、木綿は一般的ではない。木綿は飛鳥時代に日本に確かに伝わったが一般に普及するようにはならず、一般に普及するのは戦国時代になってからである。この時代から二五〇年ほど前の渤海との交易で日本から渤海へと輸出されたという記録はあり、平安京の市(いち)でやりとりされた製品の中には木綿も含まれているから、この時代の人が木綿という繊維を知らなかったわけではない。だが、後三条天皇時代における木綿とは富裕層向けの嗜好品であり、通貨として利用できるほど流通しているものではなかった。

 現在では一般的な天然繊維でありながら当時は富裕層向けの嗜好品であったという点でさらに特筆すべきは羊毛である。十二支に入っているぐらいだから日本国で羊という存在が知られていなかったわけではない。ただ、羊そのものがきわめて珍しい動物と扱われており、その毛を刈り取って衣服とするという発想は考えづらいことであった。富裕層の持つ超高級品として羊毛製品があったという記録があるにはあるが、そのように扱われているものを一般の布地として考えるのは厳しい。

 以上が後三条天皇の時代における日本国の衣料事情である。

 そして、この衣料事情を前提として、コメと布地とが通貨として市場(しじょう)に流通している。

 というタイミングで、まずコメの量が減った。新しく生み出される布地の量も減ってきているが、もって三年というコメと違って、布地ははるかに長持ちする。この結果、通貨としての価値が、円安ドル高ならぬ、布安コメ高になった。同じ品物をコメで買うときと布地で買うときとで必要となる手持ちが激変することとなったのである。

 どういうことかというと、コメはコメ、布地は布地とそれぞれ異なる貨幣価値が存在しているのである。

 二一世紀の現在に住む我々は、あるいは、ブレトン=ウッズ体制崩壊後の変動相場制に住む我々は、貨幣価値というものが頻繁に変わるものだと理解している。仮に一ドル一二三円四五銭という数字であったとして、一分後に一ドル一二三円六七銭になっていたとしてもおかしくはないと知っている。ただし、日本国内で流通している通貨は日本円のみであり、ドルだといくらになるかというのを考えるのは貿易に関わる人か、海外製品をドル決済で直購入する人ぐらいなものである。貨幣価値は頻繁に変わるものだという概念は知っているが、通貨が一つではないというのは考えづらいものとなっている。

 だが、平安時代は、コメと布地の二種類の通貨が存在していた。そして、コメと布地と二種類の通貨が手元にあるという人が普通だったのである。そして、布地を使ってモノやサービスを買おうとすると、必要となる布地の量が日に日に増えてきている。コメのほうが少ないし貴重になると考えれば、相対的に価値が下がることとなる布地でモノやサービスを買おうとする。誰もが同じ考えで行くと、布地の価値はますます下がり、コメの価値はますます上がる。たとえば、ある書物一冊の値段がコメだと三升、布地だと絹一反だという場合、書物を買いたいという人は一反の絹を持って行くか三升のコメを持って行くかを選べた。しかし、コメの値段が上がり布地の値段が下がるとどうなるか? コメ二升、もしくは絹二反という値段になる。コメを持っている人にとってはデフレである一方、布地を通貨として使おうとしている人にとっては手に負えないインフレだ。

 ただし、ここで布地というモノの特性が発揮されることがある。それは、ごまかしが効くということ。先ほど、麻布の面積が一二パーセントほど減ったと記したが、それがさらに進行した。布一反を通貨単位とした場合、一反の面積を減らせばインフレに対処できる、と通貨としての布地を使う側は考える。

 これは正しいことではないと後三条天皇も考えたであろう、延久二(一〇七〇)年二月七日、絹一疋の長さを三両二分と定めると布告した。ここで定めたのは絹のみであり、麻布については定めていない。一疋というのは布地の長さの単位のことで、二反と等しい。両は長さ全般の単位で一両が四〇尺に相当するから、三両二分だと一二八尺となる。本来の絹一反は長さ六丈、つまり六〇尺。一疋となるとその二倍だから一二〇尺となる。絹一疋の長さを伸ばすと言うことは、通貨としての布地の貨幣価値切り上げを意味する。コメの値段が上がり布地の価値が下がったのであるから、布地の量を増やせばコメと布地とで貨幣価値が釣り合う。これは理論上正しい。

 もっとも、上に政策あれば下に対策ありというのは世の常。絹一疋を一二八尺とする命令を後三条天皇が出した。市場(しじょう)はその命令に従う。ただし、尺貫法という代物は現在のメートル法と比べものにならない不安定な存在である。

 現在の日本国は、世界の多くの国と同様にメートル法が浸透している。ヤード・ポンド法の国に行ったり、あるいはゴルフやアメリカンフットボールのように距離をヤードで表する競技でメートル法ではない単位を受け入れたりすることがあるが、基本的には、距離はメートル、重さはグラム、容積はリットルで考える。ただし、日本文化がそのようになったのは昭和四一(一九六六)年以降のことで、それまでは尺貫法とメートル法が混在していた。現在の日本の建物や日用品でも、メートル法で表すと中途半端な数字であるが、尺貫法だとピッタリとはまるというケースが散見される。

 尺貫法を捨ててメートル法になったのは法による強制があったからだが、もう一つ忘れてはならない点があった。それは、度量衡としての完成度。尺貫法というものは長期間に渡ってぶれ続けてきた、不安定な度量衡だったのである。その不安定さを明治維新以後は改良しようとしたし、実際にある程度の改良も進んでいたのだが、メートル法の完成度の前にはどうにもならなかった。明治維新以後の近代学術が機能しても不安定であり続けた尺貫法は、近代学術を頼れない時代ではより一層不安定なものとなる。律令で定められている一尺をメートル法に直すと三五・六センチであったが、平安時代になると二九・六センチへと縮んでしまった。あくまでもオフィシャルには。

 厳密にはもっとい加減であった。現在のように同じ目盛りを刻んだ定規を複製できるだけの技術はこの時代存在しない。厳密に言えばあるのだが、その技術が発揮されることを望んでいない。長さも、重さも、容積も都合よく解釈されてきたのが尺貫法である。たとえばこの時代で言うと、一尺の長さを現在のメートル法に直して二九センチ、さらには二八センチと縮めることで、絹一疋を一二八尺という規則は守っていると称するようになったのである。

 モノやサービスの値段が上がっている状況というのは、生産者としては嬉しい話である。何しろ売上が増えて給与が増えることを意味するのだ。しかし、消費者にとっては苦しい話となる。それまで手にできていたモノやサービスが手に入らなくなるのだ。そして、物価上昇が真っ先にダメージをもたらすのは、生産者としての収入が無い者、次いで、生産者としての収入が少ない者である。執政者とは、こうした声に耳を傾ける義務がある。もっとも、耳を傾けすぎて、消費者を守るために生産者にさらなる苦痛を与え続けているという日本国の失われた二〇年という失敗もあるが。

 物価上昇は、生産者を守り、経済成長を続けるためには不可欠である。かと言って、バブル崩壊以後の日本ほどである必要はないが消費者は守らねばならない。そのあたりが執政者としてのバランス感覚なのだが、このときにやってはいけないことが一つだけある。それは、物価を法律で強引に固定してしまうこと。物価が上がったために社会問題となっているとき、法律を定めて、あるいは既にある法律を再起動させて物価の上限を定め、それ以上の物価は許さないとするのは、人類史上あまたの執政者が挑戦し、例外なく失敗し続けてきた政策である。物価というのは、あるいは経済というものは、政治よりはるかに巨大であり、法律で簡単に制御できるような代物ではない。政治の力でどうにかしようとしたとき、経済は地下に潜り、市場(いちば)からはさらにモノが消え、市場(しじょう)からは通貨が消え失せる。それを、政治の力で制御しようとすること自体に無理がある。物価に対して、あるいは経済そのものに対して政治ができるのは、現在の経済が誤っていると超然とした態度を示すことではなく、現在の経済を受け入れた上で、国民の暮らしがいかに前よりも向上するのかを考えて実行することだけである。

 そもそも、価格はどうやって決まるのか? よく言われるのが、需要と供給のバランスで決まるという説明であるが、この説明は間違っている。価格を決めることができるのは売る側だけであり、買う側が誰も手を上げない値段をつけようと、あるいは、買う側が殺到するような値段をつけようと、それは売る側の自由である。値段設定は売る側の最大利益を計算してのものであり、外部によって統制されるようなものではない。

 たとえば、コンサートホールやスタジアムの入場券が瞬く間に売れてしまう一方で、誰かが定価で買った入場券が本来の倍以上の価格で裏取引されるなどということについて、それを需要と供給にバランスによる価格の適正化と擁護する声が挙がることがあるが、コンサートやスポーツイベントの主催者はより長期的な売り上げを考えてその値段にしているのであり、裏取引の価格は適正価格ではなく、単なる寄生者でしかない。二〇〇〇円でコンサートに来てくれた人が、一〇年間、毎年二回足を運んでくれれば、コンサートの主催者は入場料だけでその人から一〇年間で四万円の売り上げを計算できるが、その価格が闇取引のせいで高騰してしまい、とてもではないが二〇〇〇円では入場券が買えなくなったとき、今後一〇年間のファンであることを期待できるであろうか? 裏取引を正当化する人の主張するように適正価格を見直すという名目で、入場料を二倍の四〇〇〇円に高騰させたとしても、その人がファンでなくなったとすれば、一〇年間の売り上げは二倍の八万円ではなく、一〇分の一にしかならない四〇〇〇円である。これは最大利益だなどとはとてもではないが言えない。これはスポーツイベントでも、あるいは品薄で人気商品となっているものでも同じで、売る側が最大利益を考えた値段設定をしているときに横から寄生者がやって来て小遣い稼ぎをしようというのは、売る側と買う側の両方に大損害を与えるだけである。

 一方で、原価高騰による値上げや、人件費高騰による値上げに対し、「その値段では買えないから安くしろ」という外部の声もまた、売る側に張り付いた寄生者でしかない。高いから買わないという人は、安くなっても買わない。買わないことの理由を値段の高さにしている人の声に合わせて、原価を割り込む値段設定にして、あるいは、従業員がまともな生活のできなくなる低レベルの給料にさせる値段設定にして安くさせても、「安くしてくれてありがとう」と寄生者は絶対に口にしない。「もっと安くできるはずだ」と文句を言うか、もっと安い値段設定にしているところに身を移すだけである。

 価格というのは需要と供給のバランスではなく、供給者が最大利益となるよう考えた末に決まるものである。これを高くなったから安くしろとか、不自然に安くなっているから高くしろと外部が口出しするのは、供給者の最大利益を壊すだけでなく、そもそも利益の出ない構造にさせ、さらに未来の利益をゼロ、あるいはマイナスへと導く所業である。

 このような状況に対し、執政者がとれる政策はあるのか? それともないのか?

 答えは、ある。

 それは古今東西のほとんどの執政者が手にできている権力構成要素の一つでもある。

 その政策とは、税制。

 増税と減税を国家財政や地方財政の健全化ではなく、景気を調整する政策として使うのである。

 不自然に値下がりしているときに執政者がすべきは、増税である。特に、安値を強要する寄生者にターゲットを絞った増税である。安値を強要し自分の懐が痛むのを良しとしない寄生者が増えれば増えるほど、市場(しじょう)から通貨が減り、景気はより一層悪化する。市場(しじょう)から減り、寄生者のもとに死蔵されるようになった通貨を吐き出させるような増税をすることで強引に市場(しじょう)に流通する通貨を増やせば、不自然な値下がりが生み出すデフレ不況は解消する。

 一方、値上がりしているときにすべきは減税である。特に、生産者に対する減税である。値上がりというのはそもそもの絶対量が足らないために起こる現象である。コメの値段が上がったならコメの量を増やせば、布地の値段が上がれば布地の量を増やせば、値段は下がる。ただし、そのためには生産を増やさなければならない。働いても税として持っていかれるだけというのは生産意欲を落とすだけでなく、生産の性能そのものを落とすことにつながる。税を払うために給与を減らしたり、税を払うために人手を減らしたりして、生産が増えるとは夢ですら考えることができない。先ほどのコンサートの例でいうと、収容人員三〇〇〇名であるために入場券が売り切れるというケースで、収容人員を倍の六〇〇〇名に増やせば入場券が売り切れずに定価で全員に行き渡ることも考えられるが、ここでも減税が効果を発揮する。それだけ大きな施設を用意したり利用したりするのは負担がかかるものであるが、その負担に対する税を減らせば、用意に要する費用、人件費、管理費、施設利用費が抑えられるために負担が軽くなり、大きな施設を用意したり利用したりしやすくなり、入場券の発券枚数を増やして入場券を定価で行き渡らせることができるようになる。

 後三条天皇は、荘園の不正義を正そうとした。その動機は理解できる。だが、待ち構えていたのは生産性の低下であった。生産性の低下が物価高騰を招き生活苦を招いた。増税はたしかに不景気のときにとるべき対策であるが、そこでターゲットにすべきは生産者に打撃を与えるような増税ではなく、資産を死蔵する寄生者に対する増税である。それなのに、荘園整理という事実上の増税策は、資産を死蔵する寄生者ではなく生産者に対する増税となってしまった。かといって、とるべき策であった減税というのは後三条天皇が許すはずはなかった。ここでの減税というのは荘園の拡大を意味する。後三条天皇が心血を注いでいる荘園整理を逆行させることは、かりにそれが有効な経済政策であると当時の人が考えて進言したとしても、絶対に認めることは無かったであろう。


 延久二(一〇七〇)年三月二三日、後三条天皇は一つの決断をする。関白藤原教通を太政大臣に任命したのである。

 それは、後三条天皇の即位とほぼ同時に始まった後三条天皇親政に対する一つの回答でもあった。

 延久二(一〇七〇)年時点の議政官は、二九歳の左大臣藤原師実のもとを、六三歳の右大臣源師房と四九歳の内大臣藤原信長の二人が支える体制になっている。ただし、藤原信長は、藤原氏という枠組みではあるが、関白藤原教通の子ということもあり、藤原師実と藤原頼通の後継者争いをする関係であった。既に貴族としての実績も充分で年齢も申し分ない自分のほうが、貴族としての経験も浅く年齢も若い藤原師実よりも、藤原氏のトップに立つにふさわしいと考えていたのである。後三条天皇は藤原信長のこの感情を利用したのであるが、それが功を奏して議政官の力を弱めさせ、比例する形で後三条天皇の力を強めることに成功したのであるが、議政官の力が弱まることは国力を落とすことも意味したのである。そのわかりやすい現象が、経済であった。

 朝廷は信用ならないから、今のうちに信用のおける存在に頼ろうとする。通貨価値が上がってしまい、日本政府の信用が下がると円高になり、アメリカ政府の信用が下がるとドル高になる。平安時代で言うとコメ高だ。政府の信用を上げるというのは通貨政策の一つとして有効である。その意味で、藤原信長の父である関白藤原教通を太政大臣にして議政官の強化を図ったのは正しい。

 ただし、藤原頼通と弟の藤原教通の二人の政治家としての質を比べると、疑問符が付く。父親があまりにも偉大すぎたために見劣りして捉えられることが多いが、それでも藤原頼通は、日本国の歴代執政者、すなわち、天皇、上皇、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、征夷大将軍、鎌倉幕府執権、そして内閣総理大臣という面々を並べてみたら、充分に上位に来る資質と実績を記録している。しかし、弟の藤原教通となると、それらの資質や実績はお世辞にも高いとは言えない。平均に達しているかどうかというレベルである。人心掌握術はお世辞にも高いとは言えなかったし、経済政策を主導できる技能も無かった。藤原頼通に逆らいながらも藤原頼通を支える存在としては役割を果たしたのだから、基礎学力が低かったわけでは無いが、トップに立つに必要な何かは無かったのだ。

 藤原教通のキャリアは藤原氏のトップキャリアとして順当なものであったのだから太政大臣に就任する資格も問題なかった。ただ、藤原教通が太政大臣になったというだけでは朝廷の信用を取り返せるほどのインパクトを生まなかったのだ。

 藤原教通もそのことをわかっていたのか、太政大臣に就任した二日後の延久二(一〇七〇)年三月二五日に、隠遁した藤原頼通が住まいを構える宇治に足を運んだ。すでに忘れ去られた人になりつつある兄の威光を利用しようとしたのであろうし、兄の打ち立てた長期政権からの継承をアピールしようとしたのでもあろう。ただ、それは太政大臣藤原教通の政権を強化することにも、朝廷の信用を上げることにも、残念ながら繋がらなかった。朝廷よりも信用のおける通貨としてのコメの値段が上がり続け、物価も上がり続けていたのである。

 後三条天皇の前に突きつけられた現実は、経済問題だけではなかった。規模としては経済問題よりも小さいが、流されることになる血の量は、経済問題の日ではないという問題である。

 問題の発端は、延久二(一〇七〇)年四月、天台座主の明快が亡くなったことに起因する。天台座主は、一言で言えば仏教のうちの天台宗のトップであるが、天台宗内の派閥争いの結果、山門こと比叡山延暦寺と、寺門こと園城寺の対立が先鋭化していたこともあり、天台座主を誰にするかという問題はこの二つの派閥の間にさらなる争いを生むこと必定の話であったのだ。

 延久二(一〇七〇)年五月九日、勝範が天台座主に就任することが決まった。この勝範は比叡山延暦寺の僧侶であり、当然ながら山門派に属する。これを寺門派が認めるわけはなく、園城寺の僧侶たちが京都に押し寄せる事態となった。これを現代のイメージで考えると、首相官邸や国会議事堂前でのデモに相当する。このデモ活動での寺門派の要求は二つ。ただし、二つとも実現されることを望んだわけではなく、どちらか片方の要求が認められるならそれでよしとするものであった。

 一つ目の要求は、天台座主の交代。一度就任した勝範を天台座主から降ろし、新しく寺門派の僧侶を天台座主に就けることを求めるものであった。

 二つ目の要求は、天台座主に代わる新しい地位の創設。山門派の僧侶が天台座主になるのは認めるが、天台座主よりも高い地位を創り出し、その地位に寺門派の僧侶を就けることを求めた。

 当然のことながら、山門派はそんなもの認めるわけがない。山門派は自分たちこそ正当な天台宗であり、寺門派は誤った天台宗であると考えているのである。そもそも寺門派の存在そのものも許さないという感情でいるのを、山門派が天台宗の重要なポストを独占して寺門派の上に立つという形にして怒りの爆発を抑えているのである。それが崩れた瞬間、比叡山延暦寺の僧侶が京都に押し寄せてくることは目に見えている。

 後三条天皇が出した妥協案は二点。一つは、園城寺の敷地内に天皇のための祈願専用の寺である御願寺を建立することを認めたこと、もう一つは、法華会(ほっけえ)の創設である。法華会とは法会(ほうえ)の一種であり、法会(ほうえ)そのものは既に存在していた。ただし、宮中で開催される法会以外の認められていたのは、興福寺における維摩経と、薬師寺における最勝経の法会のみであり、法華経についての法会はこの時点ではまだ無かったのである。この法華経についての法会である法華会を創設することは天台宗の昔からの念願であった。山門派と寺門派とがどんなに激しい対立を見せようと、法華会の創設という一点では手を取り合うのが当たり前の光景であったのだ。

 ではなぜ、天台宗は法華会の創設にこだわりを見せたのか? この理由は二つある。一つは、天台宗が法華経を基本経典とする宗派であるということ。維摩経や最勝経に認められている法会が法華経に認められないというのは天台宗のプライドに関わる話であった。

 そしてもう一つ、このもう一つの方の理由がはるかに強烈なのだが、法会を開催し、法会の講師を務めることが、律令に規定されている僧侶としての出世ルートだったのだ。どんなに僧侶としての実績を積み上げようと、どんなに多くの人を救い出そうと、法会の講師を勤めなければ僧侶としての出世を果たせなかったのである。天台宗の僧侶が天台座主の地位にこだわったのは、法会に関われない天台宗の僧侶にとって天台座主ことが出世の頂点だからであったが、天台座主という地位は律令のどこにも記されていない。一方、法会によって出世する僧侶としての役職名は律令に明記されている。極論すれば、法会の講師を勤めれば日本全国どこでも通用する国家資格を手にできたが、どんなに激しい競争に勝ち抜いて天台座主になったとしても、それは天台宗の内部だけでしか通用しない民間資格のままなのである。

 後三条天皇は、初年度は寺門派から講師を出すという前提で、山門派と寺門派で毎年交代して講師を出すという条件をつけた上で、法華会の設置を決めた。

 とりあえずはこれで延久二(一〇七〇)年のデモは鎮静化した。しかし、山門派と寺門派の対立が消えたわけではない。


 後三条天皇の不況脱却を願うあの手この手の手段はことごとく裏目に出ていたが、ここで裏目をさらに加速させる出来事が起こった。

 国民の不満をそらせるために陸奥国司源頼俊に北海道遠征を命じ、のちに「延久蝦夷合戦」と呼ばれる軍事行動を命じたことはすでに記した。そして、その軍事行動は何の結果ももたらしていないこともまた記した。前述では、何の結果ももたらさなかったという結果を記したが、延久二(一〇七〇)年のはじめの時点ではまだ戦争状態のままではあった。ただし、その戦争が市井の人々の話題になることはなく、言わば、忘れられた戦争となっていたのである。

 この戦争が終わったのは以下のような経緯であった。

 陸奥国司源頼俊がいなくなった陸奥国衙で、国衙に勤める官僚である藤原基通が陸奥国の印鎰を盗み出し、下野国まで逃げてきたのだ。その上で、下野国司であった源義家のもとに出頭したのである。源義家は印鎰窃盗の容疑で藤原基通を逮捕したと朝廷に報告した。

 その報告を受け取った朝廷は、延久二(一〇七〇)年八月一日に陸奥国司源頼俊を召還させた。朝廷の命令であるため、軍を指揮していた陸奥国司源頼俊は軍勢から離れて陸奥国府に戻ることとなった。

 朝廷としては、命じた軍事行動を止めなければならないほどの自体が陸奥国衙で起こったために、陸奥国司を国衙に戻さねばならなくなった。盗まれたのは印鎰(いんやく)、すなわち、国司が書類に押すのに使用する印鑑と、国府の予算でもある正倉を開けるための鍵であり、鍵によって守られるべき中身そのものではない。現時点で書類が偽造されたわけでも、予算でもあるコメが盗み出されたわけでもないが、そのどちらも今すぐ起こってもおかしくない出来事である。この大事件は北海道遠征を命じられている国司をただちに呼び戻すのに何ら不都合はない。

 もっとも、このタイミングで窃盗があり、窃盗犯が源義家のもとに出頭したというのは、この時代の誰もがその裏面を理解できた話であった。始めたはいいが早々に勝ち戦になれるとも思えず、何のメリットももたらさない戦争を強引に終結させるために、東北地方の事情をよく知る源義家が仕組んだのだと理解できたのだ。早々に勝てるとも思えず、勝ったところで何のメリットもない戦争を、他ならぬ後三条天皇が命じて始めてしまった。これは、臣下がどうこう言おうと、さらには実際に軍を指揮する武人が何か言おうと、取りやめることのできる話ではない。仮に後三条天皇が自らの判断の誤りを脳裏に多少なりとも浮かべたとしても、それでこれまでの主張を取りやめるなど全く考えられない話である。後三条天皇は、失敗の原因を自らの主張ではなく、自らの主張を正しく遂行しないほうに求める統治者なのである。

 源義家は後三条天皇のその性格を熟知していた。だからこそ、後三条天皇が主張を変えなければならないほどの大事件を用意する必要があったのだ。

 不景気にしろ、インフレにしろ、そして北海道をターゲットとして東北地方ではじめた軍事行動にしろ、そのいずれも後三条天皇の起こした人災であることに違いはない。極論すれば、人災は人間の手でどうにかなる。難しいかもしれないが、人災だけであれば人間の手だけでどうにかなると考えることができる。不景気に絶望しても、インフレに絶望しても、どうにかなると考えることができる。

 だが、ここに天災が加わるとどうなるか? お世辞にもバラ色の未来とは言えない。

 延久二(一〇七〇)年一〇月二〇日、巨大な地震が京都内外を襲った。家は壊れ、寺院は壊れた。震災は京都だけではなく奈良にも被害を与え、東大寺が大損害を被った。インフレに苦しみ、不景気に苦しんでいるところで起こった震災は絶望を生み出した。この時代の記録は建物の被災しか残っていないが、人命に関わる話がゼロであったとは考えられない。仮に命を落とした人が一人もいなかったとしても、記録に残った建物の被災は震災の被災者に絶望を与えるに充分な話である。

 震災の数多くの厄介の中に、一度の揺れでは済まないということもある。その後も何度も余震が繰り返され、その都度、絶望が次から次へと生まれる。

 後三条天皇がそのことを理解していなかったわけではない。後三条天皇自身は、インフレや不景気への対策をしていて、それがまだ結果を出していないだけだと考えている。災害というものが天の下した執政者失格のサインであるというこの時代の認識は後三条天皇も持っていたが、それは自身の統治の正当性を強める根拠と捉えていたのだ。何しろ、後三条天皇の認識では、人災は終息に向かいつつあり、天災はそもそも発生していなかったのだから。

 ところがここで、地震という、弁明の余地のない天災が発生したのだ。これは後三条天皇を落胆させるに充分であった。天は自分を統治者失格と判断したというのだから気軽に考えられる事態ではない。後三条天皇の動揺はその後の行動にも現れている。名目はあくまで上東門院藤原彰子の病気平癒であるが、神仏に祈りを捧げることで対処しようとしたのだ。延久二(一〇七〇)年一一月七日にば大規模な恩赦を実施し、一一月一七日には各国の神社仏閣に対する支援を表明。一一月二六日には後三条天皇自らが円明寺に足を運び、僧侶たちに読経を命じた。さすがに天皇自らが読経を命じるとあって集められた僧侶は一六〇名という大規模な人数になったが、残念ながら、それと災害鎮静化との間に関係はなかった。


 延久二(一〇七〇)年がまもなく終わろうとする頃、朝廷にちょっとしたニュースが飛び込んできた。陸奥国府の印鎰を盗み出したために源義家に捕らえられたということになっている藤原基通の随身が京都に姿を見せ、朝廷に出頭したのだ。

 このときの出頭でどのような話が伝えられたのかの記録はない。ただし、推定できることがある。それは、後三条天皇の命じた軍事行動の現実。陸奥国司源頼俊と清原貞衡の二人が軍勢の主軸を担っていることになっていたが、そしてそれが後三条天皇の命じた軍事行動であったのだが、実際には清原貞衡だけが軍勢を率い、源頼俊は何の役割も果たしていなかったのだ。

 源頼俊に武人としての才覚がなかったわけではない。実際、一一年後の永保元(一〇八一)年には園城寺のデモ隊を鎮圧する功績を見せている。そもそも、武人としての能力があるからこそ陸奥国という戦乱があってまもなくの国の国司に任命されたのである。

 ではなぜ、このときの遠征で源頼俊は役立たずとなり、清原貞衡だけが軍勢を率いる事態となったのか? これはひとえに、二人の用意できる軍勢にある。いかに国司と言え、源頼俊が陸奥国において家臣団を形成しているわけではない。付き従う者が一人もいないわけではないが、軍勢とするには不充分な人数にとどまる。清和源氏はたしかに相模国鎌倉を根拠地として関東地方に家臣団を形成しつつあったが、遠く北海道まで軍勢を派遣できるほどの勢力を築き上げているわけではない上に、源頼俊はそもそも清和源氏の頭領ではない。清和源氏としてならば軍勢に参加する者であっても、源頼俊個人の人望で軍勢を集められるほどでは無かったのだ。

 一方、素性不明とはいえ清原貞衡は東北地方で勢力を築き上げてきている清原氏の一員であり、家臣団からなる軍勢を結成するのは、容易とは言えないにせよ不可能な話では無かった。

 ここに、陸奥国における事情が加わる。前九年の役で安倍氏が消えたことで権力の空白が埋まれ、その空白を目指して陸奥国と出羽国の武士団が現在進行形で勢力を拡大していたのである。後三条天皇から出された北海道遠征の指令は、清原氏にとって軍勢を進めて勢力を拡大する絶好の名目となったのだ。

 指令ゆえに動かざるをえなくなった者と、動き出す絶好の機会を待っていた者という構成では、否が応でも差が出るものである。


 延久三(一〇七一)年、一人の僧侶が日本中の話題を集めた。その僧侶の名を成尋(じょうじん) と言う。

 彼はいったい何をしたのか?

 宋に行こうとしたのだ。

 民間人が宋に行くこと自体は珍しくない。貿易商人や僧侶が東シナ海を東西に横断することもあったし、沖縄を経由して宋に行くこともあった。ゆえに、成尋が宋に行こうとするのは特に珍しい話ではなかった。

 しかし、成尋が藤原実方の孫となると話は変わる。藤原氏の中でも藤原北家が、藤原北家の中でも藤原忠平の子孫が政界において圧倒的地位を占めているという時代にあって、藤原忠平の五男藤原師尹の子である藤原実方の孫となると、大臣とまでは言わないにせよ、議政官の一員を構成していてもおかしくない血筋である。

 その血筋の者が、このタイミングでいきなり宋に行くことを朝廷に願い出たのだ。成尋は七歳で出家してから比叡山延暦寺で順調に出世を遂げていた。血筋によるところがあったとは言え、藤原頼通の護持僧も勤めたというのだから、この時代の僧侶に成尋という僧侶のことを質問したら、雲の上の存在という答えが返ってくるであろう。その上、成尋の所属する比叡山延暦寺は、寺門派と激しい争いを繰り広げている。ここで、成尋という、血筋も、僧侶としての実績も申し分ない僧侶が宋に行く。宋に行って国境を超えた仏教界の交流を果たすとなると、名目上は仏教の興隆が、実質上は山門派の権威拡充が待っている。これは単なる外交問題ではなく国内問題にもなりえた話であった。

 宋に行くことを以前から願い出ていたのだが返事はなかった。しかし、この時代のほとんどの人は成尋が宋に行きたがっていることは知っていた。その延長線上の出来事として、延久三(一〇七一)年二月二日、成尋(じょうじん)が太宰府に姿を見せた。宋行きの船に乗るためである。

 やらに問題となったのがこの時代の仏教事情である。唐が滅亡して五代十国の時代の混迷を経て、宋が成立したというのが中国大陸の大雑把な流れである。この間の混迷は仏教界にも少なからぬダメージを与えており、このダメージを回復すべく、失われた時代に仏教文化を守り続けていた日本国の仏教に救いを求める動きがあったのである。実際、中国大陸では失われた経典もに日本国内では手に入ったし、空也や源信といった高僧も、そしてその教えをまとめた書も、日本国には存在していた。日本から高僧が来てくれるというのは、宋の仏教界にとってこれ以上ない朗報だったのである。

 また、当時の宋は王安石の主導する新法がまさに最高の支持率を得ている頃であった。その一方で、新法に反対する勢力である旧法派の勢いは依然として根強く、新法派の勢力をさらに拡張させ旧法派をさらに追い込むのに、宋における新法と同様に国内に大規模な改革を推し進めている日本からの使者を招き入れるというのは絶好のアピールポイントになった。とは言え、成尋自身は藤原北家の本流の人間であり、後三条天皇の推し進める改革を新法派と比すると、むしろ旧法派に置くことのできる人物でもある。新法派にとって歓迎すべき国賓であると同時に、旧法派にとってもまた歓迎すべき国賓になる。

 国内問題であり、かつ、外交問題でもある成尋の渡航について、後三条天皇は判断に苦しんだようである。判断に苦しんだのは後三条天皇だけでなく、議政官の面々もまた判断に苦しんだ。出港させないわけにはいかないが、出港させるわけにもいかないというのだから、苦しい判断以外の何物でもない。


 延久三(一〇七一)年という年は、政治的に見ると特に大きな動きのなかった年に見えた。しかし、後三条天皇にとっての気がかりが生じた年でもあった。

 その気がかりとは、後三条天皇の後継者。後継者ならば既に皇太子である貞仁親王がいるではないかと考えるところであるが、貞仁親王には一つ、後三条天皇の視点で言うところの問題があった。貞仁親王の実母が藤原氏であるという点である。後三条天皇がここまで摂関政治と決別した政治を展開できたのは、実母が藤原氏でない、すなわち、自らの身に何かあったために摂政を置く局面を迎えたとしても、その存在は藤原氏でないということを意味する。しかし、貞仁親王の実母は藤原氏の藤原茂子であり、貞仁親王が即位した後、貞仁親王の身に何かあったとしたら、摂政に就くのは藤原茂子の義兄である権大納言藤原能長ということになる。これでは摂関政治に逆戻りだ。

 後三条天皇が考えたのは、自分と同様に藤原氏を実母としない皇族が行為を継承することであった。そして、その皇族が延久三(一〇七一)年二月一〇日に誕生した。実仁王である。なお、この時点ではまだ実仁王であり、実仁親王ではない。親王でないため、実仁王に皇位継承権はない。皇位継承権の高い男児が生まれてすぐに親王となるというのは明治維新以後に始まった話であり、平安時代は、いかに高い皇位継承権を伴って生まれた男児であろうと生後まもなく親王になれる時代では無かった。実仁王の実母は源基平の娘である源基子であり、皇族を母とするわけではないが藤原氏を母とするわけでもないため、時代が時代であったら、永遠に天皇になることなく死ぬまで王のままであるか、平氏となるか、特例ということで直前に親王にして貰ったうえで源氏になる前提で臣籍降下宣下を受けるかのいずれかであったろう。しかし、後三条天皇の時代になったがためにかえって、実仁王の皇位継承権は高まったのである。実仁王が皇位を継承するならば藤原摂関政治の再現とはならない。さらに言えば、この時点で源基平は故人となっている。天皇の祖父として権力を握った藤原道長の例を繰り返す心配は絶対にない。こうなると、後は親王になるだけで皇位継承権のかなり上位に食い込める。

 とは言え、既に皇太子としての実績も充分に果たし、後三条天皇の右腕になっている貞仁親王を皇位継承権筆頭から外して、二月に生まれたばかりの乳児を皇位継承県筆頭につけるわけにはいかない。今後の数十年の政局を考えれば正解かもしれないが、現時点の政治を考えるならばそれはあまりにも無謀な選択である。

 このまま貞仁親王を皇太子とし続けるのか、それとも、藤原氏と関連性を持たない実仁王を後継者にするのか、後三条天皇は大いに悩むこととなった。

 このような縁戚関係は、藤原氏の方が圧倒的に経験豊富である。貞仁親王が藤原氏を母とし、実仁王が源氏を母としている。普通に考えれば藤原氏と源氏の対立ということになるが、内部で派閥争いをしてはいても外に対しては一枚岩になる藤原氏と違い、源氏は一枚岩になることなど考えられない。後に源氏といえば清和源氏を意味するようになるが、この時代、特に注記がなければ源氏とは村上源氏のことである。そして、実仁王の祖父であり、この時代では既に故人となっている源基平は、源氏としては少数勢力である三条源氏である。後三条天皇としては同じ源氏だという視点から、藤原氏の対抗勢力になりうる源氏を利用しようとしたのだが、藤原氏は同じ源氏であることを意識させない方法を実践した。

 まず、村上源氏の一員であり、かつては藤原頼通の後継者とまで言われていた右大臣源師房の子で、この時点では権中納言であった源顕房の長女を、いったん、左大臣藤原師実の養女とする。そのため、この時点で源顕房の長女の姓名は藤原賢子となる。延久三(一〇七一)年時点では一五歳の少女だが、平安時代の一五歳は初婚年齢としてむしろ遅い方である。

 藤原氏はこの一五歳の少女を皇太子貞仁親王に嫁がせたのである。嫁がせたのが延久三(一〇七一)年三月九日というのであるから、実仁王生誕から一ヶ月も経っていないという素早さである。それでいて、貞仁親王一九歳、藤原賢子一五歳という、年齢的にもこの時代であればごく普通の新婚夫婦の誕生である。しかも、左大臣の養女にして右大臣の実の孫、しかも、藤原氏である上に村上源氏の血を引いているという、誰も文句が言えない上に藤原氏にとっても村上源氏にとっても最高の結果を、わずか一ヶ月で実現させたのだ。

 後三条天皇は、父としては息子の最高の結婚を喜んだであろう。だが、藤原摂関政治の再興を意味するこの結婚に恐れを感じないわけはなかった。

 この恐れは、延久三(一〇七一)年三月一二日、すなわち、貞仁親王の婚姻からわずか三日後にさらに強固なものとなって後三条天皇の目に飛び込んできた。

 関白太政大臣藤原教通が、宇治にいる兄の藤原頼通の八〇歳の記念祝賀に出かけたのである。この時代、誕生日という概念はない。そもそも、何年に生まれたのかの記録はあっても何月何日に生まれたのかの記録が無い者は珍しくなかった。たとえば藤原道長は康保三(九六六)年生まれだということしかわからず誕生日は不明、藤原頼通も正暦三(九九二)年生まれであることは明らかであり、一説によれば一月生まれらしいということまではわかっているが、何月何日生まれなのかはわからない。だからなのか、何歳になったかという祝い事をするのに誕生日を選ぶなんてことはしなかった。

 隠遁した藤原頼通が数え年で八〇歳を迎えたということの祝い事をする、それも、弟が兄の長寿を祝うという、ただそれだけのことである。

 だが、関白太政大臣が、皇族でも無い相手に頭を下げるのである。しかも、その人物に対して頭を下げることを誰もおかしなこととは思わないという状況である。隠遁したがために、市井の市民の口から藤原頼通の話題が登ることは減っている。だが、まだ健在なのだ。その気になれば貴族を自由自在に操れる者が京都と目と鼻の先にある宇治に健在であるというのは、後三条天皇にとって脅威以外の何物でもなかった。

 後三条天皇はこのとき、自分に対する包囲網が敷かれていると感じていたであろう。たしかに反藤原摂関政治に燃える側近には恵まれている。そして、皇太子貞仁親王という優秀な後継者もいる。しかし、いかに優秀な側近であろうと藤原摂関政治とは無縁ではいられなかったし、皇太子貞仁親王も藤原摂関政治に取り込まれてきている。こうなると、恐れを感じない方がおかしいとするしかない。


 後継者である実の息子は、自分への惜しみない協力者である。しかし、その血筋は、自分が障害をかけて否定してきた藤原摂関政治の再現につながる。

 この状況を、皇太子貞仁親王はどのように感じていたのか。そのことを直接的に伝える資料はない。しかし、のちの記録を振り返ると、父への尊敬と同時に、父への反発も現れるのである。藤原賢子との婚姻を後三条天皇が快く思わなかったことは容易に想像できるが、後三条天皇ほどの権力があれば皇太子の結婚相手に口出しすることぐらい造作もない。つまり、皇太子が後三条天皇の望まぬ相手と結婚するというときに後三条天皇が何もしていないということは、後三条天皇が皇太子貞仁親王を突き放したことを意味するのである。

 後三条天皇に何かあったとしたら皇太子貞仁親王が即位する。今のところは。藤原氏の血を引かない実仁王が帝位に就くことのできる年齢になれば皇太子を変更させることも可能だ。

 こうなると、皇太子貞仁親王としても、父への無条件の尊敬とはいかなくなる。藤原摂関政治が誤りであり、荘園制が格差拡大の元凶であるという認識は持っていた、そして、その認識を父と共有していたが、認識を遂行するにあたって自分を邪魔者として排除しようというのは容認できる話ではなかった。

 この頃の記録を読むと、後三条天皇の政務における最大の協力者であるはずの皇太子貞仁親王の姿が見えなくなる。前年までは後三条天皇の行幸に従ったり、同タイミングで天皇の命令を受けて別の場所へ行幸したりしていたのがこれまでの皇太子貞仁親王であったのに、延久三(一〇七一)年に入ると二人の協力関係が姿を消すようになる。

 荘園制の否定、藤原摂関政治の否定と並んで、後三条天皇が心血を注いでいたのが内裏再建である。そのピッチが上がってきた。内裏再建は国家的事業であり多大な予算を要するが、その予算を後三条天皇は各国の国司に命じていた。

 予算を各国に命じた直後は大混乱を招いていた。国司たちは、それまでは統治国内の税を減らして、不足分は自分の荘園で得られる年貢で充足するという手を使えていたのが、内裏再建予算を命じられた瞬間に統治国内の税率が杓子定規に適用されるようになったのだ。杓子定規であるために荘園でも免税はできず、荘園を免税とすると荘園以外の農地の税率を上げるしかない。ゆえに、混乱する。だが、それからもう二年を経過している。二年あれば国司の半分は入れ替わる。荘園だろうと関係なしに税を課しても意に介さないという、後三条天皇の支持者で半数を占めさせるのに充分な時間だ。

 後三条天皇が内裏再建にも執念をかけているのは誰もが知っている。そのピッチを上げるよう命令が出そうであるというのも誰もが気づいている。国司の交代が進んでいるのも誰もが知っている。だが、その命令が出る日が延久三(一〇七一)年三月二七日だといううのは誰もが想像できなかった。

 延久三(一〇七一)年三月二七日、修理左右宮城使を設置。現在の感覚でいくと、内裏と平安京の修理だけを職務とする省庁を新設し、専属の大臣を置くようなものである。それも二人。もっとも、これだけであれば前例の無いことではない。内裏再建の過去の事例と比較すれば穏当なものである。

 だが、まさにその日が源基子に女御宣旨が下ったとしたら。実仁王は、藤原氏の血を引いているとはカウントされない皇族である。厳密に言えば藤原氏の血も引いていなくはないが、実仁王が即位したとしても藤原氏が摂政になることはできない以上、藤原氏の血を引いているとは言えない。その実仁王の唯一の泣き所となっていたのが、実母が御息所であるという地位の低さであったが、女御となると話は変わる。

 それから内裏再建は急ピッチで進むのだが、急ピッチの流れの中に、皇太子貞仁親王の記録が徹底的に消される。それだけではなく、後三条天皇との同行も無くなった。円明寺から名称変更となった円宗寺に後三条天皇が行幸したのが延久三(一〇七一)年六月二九日。それまでであれば父に同行するか、あるいは同タイミングで別の寺院へ赴いたという記録があったはずなのに、このときの後三条天皇の行動の記録の中に皇太子貞仁親王の記録はない。それどころかどこで何をしていたのかもわからない。

 延久三(一〇七一)年八月一〇日、関白太政大臣藤原教通が太政大臣を辞任して関白に専念することとなった。そして、その二日後、実仁王が実仁親王となった。これで名実ともに、実仁親王が皇位継承権第二位に、すなわち、次の次の天皇になることが決まった。藤原教通の太政大臣辞任自体は前例に従ってのごく普通の流れである。しかし、その二日後に親王宣下、それも生後六ヶ月の幼児に親王宣下をするというのは異例中の異例であった。後三条天皇と皇太子貞仁親王とに何かあったら、皇位はこの生後六ヶ月の幼児である。そこまでは言わないにせよ、今ここで後三条天皇が退位することとなったら、皇太子はこの生後六ヶ月の幼児である。皇太子貞仁親王に男児が生まれたらその子のほうが優先されるのではないかという考えを思い浮かべなかったのであろうかはなはだ疑問であるが、このあとの後三条天皇の行動を考えると、皇太子貞仁親王に子供が生まれた後のことを全く考慮していない、あるいは、まだ生まれぬその子よりも実仁親王は間違いなく優先されると確信していたとするしかないのである。

 そこにあるのは、後三条天皇の後継者という枠を超えた、後三条天皇によって未来が決められた若者の姿であった。後三条天皇は、自分の忠実な右腕でもある実子が、自分の意思に逆らう時代を迎えるとは考えなかったのであろうか。

 後三条天皇が心血を注いだ内裏再建は、延久三(一〇七一)年八月二八日に結実した。この日、里内裏、すなわち仮の内裏としていた四条宮から、正式な内裏に遷ったのである。

 これだけを記せばめでたしめでたしとなるのであるが、次の記録を読むととてもではないがめでたさを伴った内裏再建の結実では無くなる。

 左大臣藤原師実、右大臣源師房、事情があり参仕せず。

 左右の大臣が、はっきりしない理由を述べることなく後三条天皇の内裏遷御に同行しなかったというのだから尋常ではない。病気やケガでどちらか片方がかけるのはやむを得ないが、二人ともいないのである。

 そこで、他の貴族はどうなのかと調べてみると、考えづらい記録が出てきた。

 延久三(一〇七一)年一〇月一三日に皇太子貞仁親王が昭陽舍へと遷ったという記録である。昭陽舍自体は内裏における皇太子の居住スペースであるから、皇太子貞仁親王が昭陽舍に住まいを構えるのは皇太子として当然のことである。

 問題は、後三条天皇の内裏遷御からおよそ五〇日を経ていることである。では、皇太子貞仁親王はその間どこにいたのか? 一〇月四日に妻の叔父にあたる源師忠の邸宅から、左近衛府に遷ったという記録があるから、一応は大内裏の中にいたこととなる。左近衛府は大内裏の建物としては大きい部類に入るから、皇太子のための居住スペースとしては不都合ではない。ただ、忘れてはならないのは、左大臣藤原師実がこのとき左近衛大将を兼任しているということである。名目上の地位になりつつあるとは言え、左近衛大将はこの国の武力のトップに立つ権力であり、この国の全ての武士に対する指揮命令を発動できることになっている。そのような地位にある者の勤めることになっている場所に身を寄せていたのだ。

 後三条天皇以前に藤原摂関政治に対抗した天皇としては、花山天皇、三条天皇、即位当初の後冷泉天皇といる。だが、花山天皇は早々に出家に追い込まれ、三条天皇は病気もあって退位を余儀なくされ、後冷泉天皇は現実と向かい合ったために藤原摂関政治へと戻っていった。

 歴史を繰り返すなら、後三条天皇も遅かれ早かれ藤原摂関政治に戻ることとなる。というタイミングで、それまで後三条天皇最大の協力者であった皇太子貞仁親王が藤原摂関政治に近づいている。

 これは後三条天皇に気づかせるに充分であった。


 延久四(一〇七二)年一月、一人の藤原氏が表舞台に登場し、一人の藤原氏が表舞台から去った。

 延久四(一〇七二)年一月二五日に、左大臣藤原師実の息子の藤原師通が元服。同時に従五位上に叙位されたことで、左大臣藤原師実の後継者が政界に登場したこととなる。

 それから四日しか経ていない一月二九日に藤原頼通は出家した。ゆえに、これで藤原頼通は正式に表舞台から姿を消したこととなる。

 祖父が去って孫が登場したということとなるのだが、ここで一点、疑念に持った方がいるのではないだろうか? 後三条天皇の政権と入れ替わるように、藤原頼通はとっくに表舞台から去っているのではないか、と。藤原頼通はたしかに宇治にこもって隠遁生活をしている。そして、いっさいの官職から辞している。しかし、その身分はあくまでも貴族のままであり、復帰しようと思えばできなくもない身であったのである。それがこの瞬間に、理論上の可能性も無くなった。

 当時の人がこの二つのニュースを耳にしたときの感想は、往生際の悪さ、ではなかったであろうか? 藤原頼通がこのタイミングで出家するとニュースで耳にするまで、藤原頼通がまだ出家していなかったと知ることは無かったであろう。歴史を繰り返すなら、後三条天皇の政権はそう長くは続かない。そして、藤原摂関政治に戻る。それを考えて出家を後回しにしていたのではないかと考えたであろう。だが、藤原頼通が出家したというニュースで忘れかけていた事実に気づかされた。藤原頼通が既に八一歳という、五〇歳で高齢者扱いされるこの時代は当然、二一世紀の現在でも高齢者として扱われる年齢になっているのである。その年齢にある者がカムバックの機会を狙っていたというのは往生際の悪さしか感じなられい。

 それに輪をかけたのが、藤原頼通の孫でもある藤原師通の元服と貴族入りである。八一歳の高齢者の孫が貴族入りすること自体はおかしくない。だが、藤原師通がこのときまだ一一歳だと考えると、これはかなりの無茶な話である。

 藤原師実の後継者を貴族入りさせることで未来の土台作りをして、それからやっと出家する。これは往生際の悪さを通り越して不気味さすら感じられる。


 前年、宋に渡るために太宰府に赴いた僧侶の成尋(じょうじん)が、宋へと旅だったのは延久四(一〇七二)年三月一五日のことである。出発地点は太宰府の最寄りである博多ではなく肥前国松浦壁島であった。その肩書きは、あくまでも一人の僧侶としてのそれであり、藤原氏の一員としてのものではない。だが、成尋がどういう船で宋へと向かったのかを見ると、どう考えても一僧侶のものと思えなくなる。

 宋人(実際の記録は「唐人」)が船長を務める船であり、その一点でも特別である。遣隋使船にしろ、遣唐使船にしろ、日本と中国大陸の国々との間の外交使節になりうる船は、日本から隋や唐に使節を送るのが通例であるため、日本人の操る船に隋人や唐人が乗り込むことはあっても、その逆はあり得なかった。それが、今や宋が派遣した船に日本人が客人として乗り込むのである。

 これに対する日本側の出費であるが。コメ五〇石(およそ七五〇〇キログラム。現在の日本円で一五〇万円ほど)、絹一〇〇匹(現在の日本円で二四〇万円ほど)、砂金四両(およそ六七グラム。現在の日本円で三〇万円ほど)、紙一〇〇帖、鉄一〇〇廷(およそ二〇〇キログラム)、水銀一八〇両(およそ六・七五キログラム)。これは成尋とその一行、合計八名が宋の地で事実上の現金として使用するための物資である。一個人が簡単に持って行ける分量ではないが、国の出費としては気になるレベルではない。気になるべきは、物々交換を前提とした積み荷だと言うこと。貨幣経済が消滅した状態で現金を持って行くとなるとこうなるのだ。

 東シナ海を渡った一行は、三月二五日、蘇州へ到着。ここで持って行った物資の中から砂金三両と水銀一〇〇両で宋銭を購入した。言わば港で外貨交換手続きをするようなものであるが、成尋はこれを交換ではなく「銭を買う」と表現している。

 日本国の経済はインフレが通常態となっていた。より正確に言えば、布地をベースとする経済ではインフレとなり、コメをベースとする経済ではコメの異常高騰によるデフレというのが通常態となっていた。

 どうにかしなければいけないというのは後三条天皇も認識していたが、物価を力尽くでどうにかしようとする姿勢は変えなかった。それどころか、後三条天皇は物価を力尽くで押さえつけようとする動きを強めるのである。

 経済情勢が悪化している最中であっても、たった一つだけ救いがあった。それは平安京の失業率の低さである。少なくとも仕事はあったのだ。内裏再建工事という失業率を低下させる公共事業が。後三条天皇が内裏に戻っても内裏の再建工事そのものは続いていた。しかし、建設工事はいつか終わる。

 延久四(一〇七二)年四月三日、大極殿の再建工事完了を以て、内裏再建工事完了。同一五日、大極殿で内裏再建工事を祝う祝祭が執り行われ、後三条天皇と主立った貴族、そして、工事再建工事に携わった全ての人が招かれた。天皇主催の、天皇隣席の祝宴に招かれることはこの時代の最高級のもてなしであったが、そのもてなしと、工事終了後の就職の保証とがつながることはなかった。祝祭終了の瞬間、内裏再建工事で生きてきた人たちは生きる術を失ってしまったのだ。

 それだけでも大問題なのに、延久四(一〇七二)年という年は春先からさらなる大問題が吹き荒れた。天然痘の大流行である。天然痘は、年齢も、性別も、身分差もなく襲いかかる。天然痘から逃れることのできるのはかつて天然痘に罹患したものの、命を落とすことなく過ごせた者だけである。

 ただでさえ荘園制を否定して産業生産性を落としているところに加え、天然痘で命を落とす者が続出しているとあって、これでモノが市場(しじょう)にあふれるとなどと言うことがあるだろうか? それでも地方はどうにかなる。互いに支え合う仕組みが一応はある。だが、都市にそれはない。都市は周囲から流れ込んだ物資と、都市内で生み出す物資とを、互いに支え合うのではなく自力で生きていくことが求められるのが都市である。厳密に言えば、地方での互助の仕組みで生きていられなくなった者、地方での互助を拒否してより豊かな暮らしを求めて流れてくるのが都市である。都市は地方にない豊かさがある一方、互助が乏しいため、自力で生きることが求められる。その自力で生きることの指標が通貨である。

 インフレは通貨で手にできるモノやサービスの量が減り、デフレはモノやサービスで手にできる通貨の量が減る。物資の量が減り、コメの量がもっと減っているため、通貨としてのコメを持つ者だけがメリットを受けるインフレが悪化した。

 延久四(一〇七二)年八月一〇日、後三条天皇は最後の手段に打って出た。

 沽価法の制定である。

 估価法(こかほう)とは、物価を固定するという法律である。供給者が物価を決めるのではなく法律で決めてしまうというのだからムチャクチャである。

 昭和末期の世界のニュースを覚えている人にとっては、商店の店頭に何も無く、手にできるかどうかわからない物を手に入れるために延々と続く行列に待ち続けるという、共産主義国の街角の光景を思い浮かべていただければ良い。あれと全く同じことが後三条天皇の時代にも生まれたのだ。

 それまでは、とんでもない価格になってはいたが、無茶すれば買えた。少なくとも商品は店頭に並んでいた。

 だが、估価法で物価が定められた瞬間、その価格でなければモノが売れなくなるので、商品が店頭から消える。法に定められた金額で売ったら、現時点の市場価格よりも遙かにやすい金額なのですぐに売れる。売り切れる。売り切れたとしても利益にならない。場合によっては估価法で定められた売り値が仕入れ価格よりも下回ることだってある。そうなったら、賞味期限を迎えてしまう前に手放すとか、在庫を抱えてどうしようもなくなっているときのダンピングとかでない限り売るわけがない。売り物が腐らないのなら、估価法が有名無実になって適正価格で売れるようになるまで手元に置いておいた方がマシである。

 まともな執政者であれば価格決定権を供給者から取り上げたりはしない。物価が上がっているなら、そしてその理由がモノの不足にあるなら、生産を増やす方法を考えるものである。ところが、ここで打ち出すべき政策とは、荘園整理と估価法の廃止という、後三条天皇が執念とともに打ち出してきた政策なのである。これを認めることは後三条天皇のアイデンティティの全否定につながる。とうてい認められるものではない。

 現代人は後三条天皇のこの態度を笑えない。経済悪化の現実を認めず自らの主義主張を繰り返したことで、庶民生活を破壊した政治家など珍しくもない。

 後三条天皇は、自らの定めた估価法と荘園整理をさらに強化することにした。経済不振の原因を、自らの政策そのものではなく、自らの政策の不足と考えてのことである。これもまた、人類の歴史で何度となく見られてきたことであった。

 後三条天皇の周囲は、徐々に薄くなってきていた。後三条天皇の政権による新しい時代への熱心な期待は影を潜め、後三条天皇は暴走を強めていたのである。

 とはいえ、後三条天皇の親政は盤石である。議政官の決議が上奏されて政策となるという仕組みは続いてはいるが、後三条天皇の独裁も続いているのだ。つまり、議政官で練られた政策が後三条天皇に上奏されて法案になるという従来の仕組みは存在していたが、議政官を無視して後三条天皇が独自に法令を発令する仕組みも共存していたのである。そして、この二つの法案が真逆の決断を下した場合、たとえば、後三条は賛成し、議政官は廃止を訴える法案が存在した場合、優先されるのは後三条天皇の意思のほうであった。現在の感覚で行くと、衆議院と参議院とが異なる決議になった場合に衆議院が優先されるようなものである。もっとも、議政官がどのような法案を上奏したかは公表されるので、庶民の支持を得られる法案が議政官から上奏されたのを後三条天皇の意思で廃案にしたとなるとさすがに後三条天皇の支持にも関わるから、そうやたらに廃案にはできない。

 後三条天皇が考えたのは以下の二点であった。

 一つは、後三条天皇の操れる貴族を議政官に送り込むこと。これは何も、後三条天皇の政策に心酔している必要は無い。藤原北家の主流派に対抗する勢力を作り上げ、藤原北家内部の対立の結果、反主流派であるがゆえに結果的に議政官として後三条天皇と同意見になれば良いのである。

 もう一つは、後三条天皇自身が摂関政治を展開することである。

 前者はわかる。後三条天皇の息のかかった貴族が議政官に増えれば、議政官の決議を後三条天皇の意思のもとに操ることができるようになる。

 問題は後者である。後三条天皇が人生をかけて否定してきた摂関政治を後三条天皇自身が展開するとはどういうことか?

 ここで思い出していただきたいのが、皇太子貞仁親王が天皇となった場合、藤原摂関政治の復活があり得てしまうことである。一方、実仁親王は藤原氏を外戚としていない。ゆえに、関白はともかく、摂政を藤原氏とすることはできない。

 この外戚としての摂政の地位に、実父である後三条天皇が就いたらどうなるか? 無論、天皇が天皇の摂政になるなどあり得ない。だが、上皇ならどうなる?

 延久四(一〇七二)年一二月一日、後三条天皇の計画が始まった。

 まずはこの日、女御源基子に准三后の地位が与えられると決まった。源基子はこれで、皇后や上皇と匹敵する地位と給与を手にしたこととなる。

 さらにその翌日、藤原忠家と源顕房が権大納言に、藤原能季、藤原泰憲、藤原資仲の三人が権中納言に、藤原基長、藤原伊房、藤原実季の三人が参議に就任した。実に八人もの貴族が議政官で新しい地位を手にしたのである。議政官の合計はこの時点で二二名。うち八名が藤原氏でなく、残る一六名のうち藤原北家でない藤原氏が一名いるので、藤原北家のうち後三条天皇の名によって新しい地位を手にしなかった貴族、すなわち、純然たる藤原北家の本流は少数派になる。

 その上で、延久四(一〇七二)年一二月八日に後三条天皇は決断をした。何の前触れもなく退位を宣言したのである。同時に二〇歳の皇太子貞仁親王が即位し、実仁親王が皇太子となることに決まった。白河天皇の治世の始まりである。同日、後三条天皇の退位に合わせていったん関白を辞任した藤原教通は、白河天皇より関白に任命された。

 おそらく、後三条天皇は政略的退位をかなり準備した上で実行したことは、このあとの白河天皇の即位の流れを見ても一目瞭然である。

 退位を宣言したのが一二月八日で、一二月一二日には天皇を辞した後三条前天皇が正式に後三条上皇となった。

 延久四(一〇七二)年一二月一六日の夜、後三条上皇と皇太子実仁親王が関白藤原教通の邸宅である二条第に足を運び、内裏における帝位は白河天皇のみとなった。

 翌一二月一七日、白河天皇が建礼門に足を運び、伊勢神宮からの奉幣を受ける。これで、神が白河天皇の即位を承認したこととなる。

 そして、延久四(一〇七二)年一二月二九日、大極殿において、白河天皇が正式に即位した。

 このスピード感は異常である。退位してからわずか二一日で白河天皇が正式に即位しただけで無く、天皇を制御しうる存在である上皇が君臨し、白河天皇の後継者である皇太子も任命されたのである。

 これを白河天皇はどのような思いでいたであろう?

 父としても政治家としても父を尊敬していた。しかし、自分の母親が藤原氏であるというただ一点が足かせとなって、天皇となっても政務を遂行できないのである。

 皇太子貞仁親王は後三条天皇の最大の協力者であると自他共に認めていたし、後三条天皇が退位した後で帝位に就くとしたら皇太子貞仁親王以外にあり得なかった。そして、実際に後三条天皇が退位して皇太子貞人親王が白河天皇として即位した。

 ただ、白河天皇の即位は後三条天皇の政略の一環扱いされたのだ。

 後三条天皇は摂関政治を否定したが、関白藤原教通は存在し続けた。なぜか? 天皇の日常の政務を儀礼的に過ごすだけでも心身ともに耗弱する。藤原道長は二〇年に渡って左大臣のままであり続け、摂政になったのは後一条天皇が即位してから元服するまでの短期間であり、関白にはついに就任しなかったが、それはむしろ例外である。天皇に課せられた日常の政務が一人の人間としてこなせる仕事量を超えたとは言わないが、それに近い仕事量であった。関白藤原教通がいることで、後三条天皇は日常の政務を軽くでき、後三条天皇の考える改革のための時間を確保できたのである。

 この考えを一歩進めると、こうなる。

 天皇としてこなさねばならぬ政務の多さ、これは変えられない。

 だが、後三条天皇自身が天皇でなくなれば、政務の多さはもはや問題ではなくなる。藤原氏が摂政や関白として振るってきた権力を、後三条天皇が震えるようになれば話は変わるのである。

 その方法こそ、退位であった。退位すると同時に後継者を天皇に就ける。自身はもう天皇でないから天皇としての政務とは無関係でいられるが、天皇の実父としての影響力は無視できるものではない。それこそ摂政や関白のレベルを超えたものになる。歴史上、上皇は何人も誕生した。天皇に強い影響を与えることのできた上皇も数多くいた。だが、上皇を摂政や関白に比類する存在として認識したのは後三条天皇が、いや、後三条上皇が最初だった。

 その上、白河天皇は藤原氏の女性を母としているが、白河天皇の皇太子となった実仁親王は藤原氏の女性が母親ではない。つまり、現状はたしかに藤原氏の摂政や関白が存在しているが、実仁親王の時代となったら藤原氏は摂政にも関白にも就けないこととなるのだ。厳密に言えば、摂政はともかく関白は藤原氏である必要が無いのだが、藤原良房以後の摂関政治で藤原氏が摂政と関白を独占してきたことは、摂政や関白になれるのは藤原氏だけであるという固定観念を作り出すに充分であった。後年、豊臣秀吉は皇室と全く血のつながりがない状態で関白になったが、豊臣秀吉は関白になる前、いったん藤原氏の養子になって藤原秀吉として関白に就任している。そのような手順を踏むという考えもなかったこの時代、藤原氏の女性を母としない天皇が誕生するというのは、藤原氏以外の者が摂政や関白になる、あるいは、摂政も関白という役職そのものが消滅することを意味してもいた。

 この後三条天皇の考えを院政のスタートとするか否かについては議論が分かれる。厳密に言うと、大正時代までは後三条上皇を院政のスタートとする考えが当たり前だったのである。だが、昭和に入るとこの考え方に疑問が持たれるようになった。

 ポイントは三点。後三条天皇の治世における災害の多さ、白河天皇の皇太子として実仁親王を指名したこと、そして、後三条上皇の健康問題である。災害を天が突きつけた統治者失格のサインと考え、後三条天皇はそのサインに従って退位した。これ自体は過去の天皇退位でよく見られたことであり後三条天皇は過去の天皇退位と比較してもおかしなものではない。また、摂関政治の否定を前面に掲げた後三条天皇の政治を完成させるために藤原氏を母としない実仁親王の即位を計画した。そして、後三条天皇はこの頃には既に病気が重くなっていた。この三点が合わさっての退位であり、後三条上皇は必ずしも院政の開始を図っていたのではないというのが昭和に入ってから登場した学説である。

 これに対し、災害の多さと後三条天皇の病気については疑問符が持たれるようになってきた。災害の多さは過去に災害を理由に退位した天皇と比べても少ないことと、後三条天皇に対する健康不安の資料が存在せず、登場するのは退位後であることがその理由である。ただし、実仁親王の即位を目論んでいたというのは共通している。

 後三条天皇は、摂関政治を否定するために、退位して上皇となって摂政や関白を超えた権威を身につけることを意図していた。ここまでは間違いない。しかし、現在の概念における院政そのものを開始しようとしていたとは考えられないのが実情である。後三条天皇が意図していたのは摂政や関白に比肩する権威であって、天皇の持つ権威ではないのである。法案を法令として世の中に送り出すためには天皇の御名御璽が必要で、いかにかつて天皇であったと言っても上皇の御名御璽は不要であるし、上皇がどのような政務を展開しようとしても天皇が拒否すれば上皇の政務は現実のものとならない。上皇はあくまでも相談役であり、強い影響力を行使できるとはいえそれは決定とはならないというのが後三条天皇の目指した退位後の自身の姿である。これを院政と呼ぶには、後三条上皇の権威が弱すぎる。

 ここで、根本に立ち返る必要がある。

 そもそも院政とは何かということ。

 院政とは、現在でこそ第一線を退いたトップが、新しくトップに立った人に前任者として圧力をかけて、第一線を退いた後も影響力を保持し、事実上の最高意思決定者であり続けることを意味するようになっているが、これは院政が当たり前になった後にできた概念であり、院政という概念の無かったこの時代に院政を始めようとするなどあり得ない。

 つまり、後三条天皇の退位の時点で存在した問題に対する解決策として後三条天皇の退位と白河天皇の即位、そして、白河天皇の後継者として実仁親王を指名したことだけが事実として存在し、院政開始の宣言などどこにも存在しないのである。さらに言えば、白河法皇の院政も最初から完成形として誕生したものではない。その時点で存在した仕組みを利用しての権力の維持と拡張が結果として院政と呼ばれるものになったのであり、後三条天皇が院政を始めようとしたのか否か、後三条上皇の退位後は院政であるか否かを問うのは、質問自体無意味とするしかない。

 後三条天皇が目指したのは、退位後の自分が関白に比肩する権威を身につけることであって、関白をはるかに超えた意思決定者になることを目指してはいなかったのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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