そもそも藤原独裁とは何か?
血筋による藤原北家の権力継承という答えは正解ではない。
正解は、藤原氏の教育機関である勧学院の出身者による権力継承である。
律令制によれば、国の教育機関である大学寮を卒業して役人となり、経験を踏んで出世した後に貴族となるのが決まりである。そして大学寮では律令と律令に基づく政治学が教えられる。ゆえに、律令制の元での教育を受けた者は誰もが律令派となる。これは藤原冬嗣とて例外ではなかった。
だが、藤原冬嗣は自分の子供たちを大学に通わせなかった。その結果、藤原長良も藤原良房も、独学で学識を身につけ政治の世界に飛び込むこととなった。そして、律令は必ずしも現状と合致するものではないという反律令の思想が誕生し、律令に基づかない現実に即した政治を行うべしとする思考となった。
勧学院とは、この、現実に即した政治をいかに展開すべきかという教育をする教育機関である。通う資格は藤原氏のみ。そして、卒業は大学寮卒業と同じと見なされる。
この「律令に基づかない」という一点が強調され、忠平の頃にはかえって現実離れする結果となったが、それでも国を動かす根幹である律令を否定する教育は継承され、一大勢力となって朝廷内に君臨することとなった。
左大臣藤原実頼や、亡き藤原師輔は、藤原氏の原点回帰を狙ったようである。そして、生涯をかけて、この反律令による思考をマニュアル化している。多少能力の劣る者であっても容易に学べるように。
それが「有職故実(ゆうそくこじつ)」である。「有識」とは過去の先例、「故実」とは行動に関する根拠やルールのことで、藤原氏をはじめとする上流貴族たちのこれまでの行為や行動を体系づけたものである。
ただし、実頼と師輔の兄弟が完全に意見を一致させたわけではなく、それぞれ異なる有職故実を成立させている。実頼の有職故実は「小野宮流」、師輔の有職故実は「九条流」と、異なる流派となったほどであるから。
しかし、律令を批判しながら、先例に従いルールを縛るのであるから、これはかなりの自己矛盾をはらんでいると言うしかない。
藤原良房の思考は、スティーブ・ジョブズではないが「シンク・ディファレント(think different)」。この日本語に訳しようのないニュアンスを含むたった二語を政治の世界で展開したのが藤原良房である。当然ながら平安時代初期に英語などないし、シンク・ディファレントという言葉もない。だが、概念ならあった。これまで当たり前とされてきたことを見つめ直し、全く新しい物事を打ち出すという概念である。当時の人が常識として考えていたことを否定し新たな概念を提唱したことで、「まさかそんな考えをするとは」と多くの人が驚愕したのだ。
この、既存の概念を否定し新たな概念を提唱するやり方は、藤原基経を経て、藤原時平までは継続していたのだ。これは良房のシンク・ディファレントのDNAそのものが時平までは継承されていたからで、「良房が何をやったのか」ではなく「良房がどう考えたのか」という教えが時平にも伝わっていたからである。だから時平は平然と律令回帰を実行した。現実の問題を解決するためには律令に回帰すべしと考えたからである。
ところが、この考えが忠平で断絶した。「良房がどう考えたのか」ではなく「良房が何をやったのか」が思考の中心になってしまったのだ。
こうなるとシンク・ディファレントではない。律令を批判するという命題を出していることで律令批判は継続する。だが、その行動パターンは律令遵守と何ら変わらない、あるいは、よりいっそう強化された先例遵守の思考となったのだ。
有職故実はその先例遵守のマニュアル化である。それも、きわめて細かく、きわめて易しいマニュアルである。そして、勧学院で学ぶ教育が、「現実の問題を対処するために常識に捕らわれない考え方をしろ」ではなく「有職故実の通りに思考し行動しろ」になってしまった。
この結果何が起こったか?
質の劣化である。
目を覆いたくなるような貴族の質の劣化が起きてしまったのだ。
貴族は高貴な身分で生まれたから尊敬されるのではない。その行為と結果により尊敬されるのである。飢えに苦しむ人を助け、仕事を失った人に職を用意し、暮らしを向上させることが貴族の責務であり、その責務を果たすからこそ尊敬されるはずなのに、ただマニュアルに従って行動することが貴族の責務と解釈され、いかにマニュアルに従って行動してきたかが評価基準とされるようになってしまったのだ。
庶民の暮らしを向上させるアイデアを思いついたとしても、有職故実に書いてなければそれはやってはならないこととなってしまった。政務は儀式化し、発言も儀式化し、思考まで儀式化してしまった。
これらはみな、藤原良房が聞いたら卒倒しかねない質の劣化の証である。
マニュアル化のメリットは誰がやっても同じ結果を得られることにある。
マニュアル化のデメリットは誰もが同じ結果を得てしまえることである。
能力の劣る者、貴族としての質に乏しい者、人として尊敬できない者でさえ、有職故実というマニュアルに従えば貴族としての責務を果たせてしまえるようになってしまった。
その兆候は藤原氏の時代を継ぐと見られる者に既に現れていた。藤原師輔の三男の藤原兼家と、兼家から見れば叔父にあたる藤原師氏の二人である。
この二人に対する評伝を見る限り、貴族として人の上に立てる人物に相応しかったかどうか怪しい。
藤原師氏は悪人ではない。むしろ善人である。だが、凡庸なのだ。弟の藤原師尹に出世レースで先を越されるなど、出世欲を欠いている。実頼とともに空也の主催するイベントに参加しただけでなく、空也と親交を深め、空也とともに貧民救済にあたった記録もあるから、この人は根っからの善人なのだろう。こういう見え透いた善行をする人間は、徹底した偽善者か、根っからの善人の行動である。そして、前者であればかなりの割合で出世していくのに対し、後者の場合は人の良さにつけ込まれ、まず出世はしない。
それでも善人であるし、庶民の救済を考えるのだからまだいい。
もっと問題なのは藤原兼家である。
この人を一言で表すと、粗暴。暴力が服を着て歩いているような人間であり、この人がもし今の時代に生きていたら、中学でイジメを繰り返し、被害者を自殺に追い込んだとしてもおかしくないであろうというほどの、何の存在価値もない悪人である。
こういう人間は自分のワガママを貫き通す。理由にならない理屈を並べて自分のワガママを貫く。自分のせいで誰かが危害を被っても何とも思わないし、自分より格下に考えている人間が自分より恵まれた境遇にあることを絶対に許さない。
するとどうなるか?
まずは贅沢に走る。衣食住の全てで自らがいちばん恵まれている境遇でなければ気が済まず、そのために藤原氏の財産を平気で浪費する。
また、自分がいちばん恵まれていなければ気が済まないのだから、恵まれた人間であることをあの手この手を使ってアピールする。手っ取り早いのは自分より格下と考える人間を攻撃し続けることで、攻撃して勝つことにより自らの優越性を手に入れようとする。
これでは周囲はたまったものではない。
それでも父の藤原師輔が健在の頃はおとなしかった。父師輔の権威には太刀打ちできないと悟っていたからおとなしくしていたのであろう。だが、父が亡くなった。こうなると兼家を制御できる者はいなくなってしまう。強いて挙げれば左大臣の藤原実頼ということになるが、もともとからして実頼と師輔は対立関係にあるのだから、左大臣の権力で抑えることはできても、叔父の権威で抑えるのは無理な話である。そのため、反発しては実頼に抑えつけられるのを繰り返すのみとなる。
左大臣の実頼でさえ反発するのだから、二人の叔父、師氏と師尹に対する反発は記すまでもない。二人とも甥の粗暴を嘆くものの、叔父たちにはどうにもできなかった。
独裁を敷こうという藤原氏がこの有様である。
それまでにも藤原氏に反発する貴族は数多くいた。だが、良房にしろ、基経にしろ、時平にしろ、歴代の藤原氏は貴族としての能力で反発に立ち向かい、そして勝ち続けてきたのである。
それが、貴族としての能力は劣るのに、ただ藤原氏であるという理由だけで恵まれた地位に就け、マニュアルに則って行動すれば貴族としての責務を果たせたこととなるのだ。
これでは、藤原氏以外の貴族はたまったものではない。
とは言うものの、藤原氏以外という括りは弱すぎる。仮に藤原氏打倒に成功しても、その後のビジョンがない。ビジョンもないのに政権交代をしたらどうなるか、今の日本人は民主党政権という悪夢を身を以て体験したからわかるであろうが、この時代の貴族は体験しなくてもわかっていた。
国が壊れるのだ。
それもただ壊れるのではない。各地で戦乱が沸き起こり、京都は廃墟となり、日本の歴史も、日本という国家そのものも終わってしまうのだ。平将門や藤原純友の悪夢は、現代人にとっての阪神大震災や東日本大震災のように決して忘れることのできない災厄である。その災厄が復活してしまい、国が壊れてしまう。
平将門にしろ、藤原純友にしろ、結果的に鎮圧することができたというだけで、朝鮮半島がそうであったように、あるいは中国がそうであったように、そして実際に渤海国が被ったように、国家を消滅させる大惨事となりかねなかった大災厄である。この災厄を繰り返すのは絶対に許されることではなかった。
平将門も、藤原純友も、中央での出世を果たせず地方に流れていった貴族であることに違いはない。鎮圧することができたのは元々の勢力が弱かったからで、これがもし、かなりの勢力の持った存在が中央での出世を果たせず地方に流れていったらどうなるか。日本の国土は延々と続く内戦状態になる。
この、かなりの勢力を持った存在というのが藤原氏である。もし何のビジョンもなしに藤原氏打倒に成功してしまったら、藤原氏そのものが地方に流れた貴族となり、軍勢を率いて反乱を起こすことが考えられてしまう。藤原氏とはそれほどまでに強力なのだ。
それに、藤原氏打倒に成功したとしても、打倒を成し遂げた勢力がそのままであるなど考えられない。源氏や、平氏や、橘氏や、その他の貴族が相互に争うのは目に見えている。そして、争いに敗れた者はやはり地方に下って反乱軍を率いる身となる。
そうなったら、日本国は消滅してしまうか、消滅でなくとも廃墟となってしまう。
藤原氏を打倒し、その上で国家を存続させる手っ取り早い方法、それが律令であった。律令による政務を復活させ、律令に基づいて国家を運営させればどうにかなる。少なくとも、藤原良房の登場する前の時代には戻れる。
本心から律令を信奉している者もいたが、多くは、反藤原氏という立場から律令に走るようになった。
それまで細々とした存在になっていた律令派が、応和四(九六四)年三月一五日、明確な形で復活した。
勧学会(かんがくえ)の開催である。
勧学会とは、名目上は念仏を唱える集まりである。
このときの勧学会には大学寮の学生と天台の僧侶らが集ったとあり、参加した者の名として、大学寮の学生である慶滋保胤(よししげのやすたね)、橘倚平、高階積善、そして、後に有国と改名することとなる藤原在国といった名が残っている。何れも大学の主流と見なされていた紀伝道の学生である。一方、天台の僧侶については、参加したという記録はあっても、誰が参加したのかという記録はない。
勧学会は以下のように開催されたと推測されている。
まず、会場となったのは比叡山西麓の月林寺か、あるいは親林寺のどちらか。確定はできていない。
そのどちらかの寺院に、勧学会の前日である三月一四日に大学寮の学生たちが集い、一泊する。
翌三月一五日が勧学会の本番で、この日の早朝に比叡山から天台の僧侶たちが下山してきて、大学寮の学生たちの集う寺院に入る。ここから勧学会が始まる。
早朝は法華経の購読がある。それから夕方まで議論を重ね、夕方からは念仏を唱え、夜は仏教の功徳を称える漢詩を作成する。その後、学生たちは白居易の詩を、天台の僧侶は法華経を朗読して、双方とも徹夜して議論を重ねる。
徹夜で議論したまま朝を迎え、ここで勧学会は終了。僧侶は比叡山に、学生たちは京都へと戻っていく。終わったときには目にクマができ、声がかれ、いかにも疲れ切った様子となっていたが、当の本人は満足した表情でいる。
これは無関係の者から見れば何とも不気味な集まりである。
しかし、当人たちは真剣だったのだ。
勧学会に参加したのは若き貴族や僧侶たちで、未来を真剣に心配することでは誰もが同じであった。そして、このまま藤原独裁が復活してしまったときの日本を真剣に心配していたのだ。
この勧学会に参加した者の多くが律令精神への回帰を命題に掲げ、いかにして律令制を復活させるかを真剣に議論した。参加しなかった者からすると時代遅れを感じさせるテーマの机上の空論であったが、若者たちは真剣であった。
この勧学会がどのようなものであったかを理解するには、四〇年前の学生運動や、近年だと反原発デモを思い浮かべていただければいい。何れも国政には何の影響も与えないどうでもいい集まりである。周囲からすると、暇人が何をそんなに騒いでいるのかと、半ば呆れ、半ば冷笑する。
それでも当人たちは真剣である。
真剣に国を考え、社会を考えている。
その根底には自分をエリートと考える傲慢さがあり、エリートではない者が政権を握っていることへの怒りがあったが、そんな本音など表に出さない。そこにあるのは国を良くし、社会を良くするにはどうすればいいかを考え、議論することである。重要なのは国を良くすることでも社会を良くすることでもなく、エリートである自分がエリートらしい議論をしていることそのものなのだから。
もっとも、中には冷めた者もいる。
藤原氏でありながら勧学会に参加している藤原在国は、一応は藤原北家の人間である。ただ、先祖をさかのぼると藤原冬嗣の兄の藤原夏野にたどり着くから、藤原北家の本流に近いと言えば近いが本流そのものではないし、父とともに地方を転々とした幼少期を過ごし、藤原氏でありながら勧学院ではなく大学寮に通い、菅原道真の孫の菅原文時の門下生となったという経歴からも、藤原氏の一員と言うより、律令派の一員とするしかない。
ところが、藤原在国はいとも簡単に律令派を裏切るのだ。そして、藤原兼家、藤原道長の親子の右腕として藤原独裁を支える活躍をするようになるのだから、勧学会の参加者たちから普通の藤原氏以上に激しい攻撃を受ける身になるのもやむを得ない。
ただ、藤原在国にはわかっていたのだ。勧学会の不毛さを。
エリート気取りの若者が天下国家をいかにすべきか議論しても、あるいは仏典を読もうと、漢詩を作ろうと、漢詩を読もうと、それで一粒のコメも、一本の糸も生まず、あるのは本人の満足感だけであることを。
応和四(九六四)年という年は甲子(きのえね)の年である。
甲子園球場の名は球場の落成が甲子の年である大正一三(一九二四)年であったから「甲子園」と名付けられたものであり、応和四(九六四)年と甲子園は全くの無関係というわけではない。
甲子の年とは、王朝交代の革命の年とされてきたである辛酉の年の四年後であり、以前から変乱の多い年とされていた。これを甲子革令という。この変乱を防ぐための改元は、中国では何度も行われていたが日本では一般的ではなかった。強いて挙げれば桓武天皇の手による長岡京遷都が甲子の年であるぐらいであり、それとて革令と結びつける考えはこの時点ではなかった。
この甲子の年に村上天皇は目をつけた。
正確に言えば事態が好転しないことへの焦りである。四年前の応和改元からここまで、劣悪とまでは言わないにせよ、天暦年間のような平穏な好景気の時代とはなっていない。天暦年間は意識しなかった平穏さや景気の良さは、失われてはじめてその貴重さに気づくものである。
応和四(九六四)年六月一八日、村上天皇は天文博士の賀茂保憲らに革令の当否を論じさせた。この賀茂保憲はこの時代のカレンダーを管理する役職にある。ただのカレンダーと考えてはいけない。天皇の責務の一つとしてカレンダーの管理があり、他国のカレンダーを受け入れることはその国への服従を、日本国独自のカレンダーを維持することは国の独立を意味するのである。賀茂保憲はその責任者であった。
カレンダーの管理と単純にいうが、天文博士の称号からもわかるとおり、賀茂保憲はこの時代の天文学のトップに立つ人物である。天文学という学問はただ単に星を観測する学問ではない。長い年月、それは自分が生まれるはるか前からという長大な時間の天体観測をもとに、自らの観測を加え、後世に伝えていく学問である。ゆえに、天文博士の元には古今東西の天体観測に関する記録が存在する。その観測記録を元に、甲子の年の革令を論じさせるのである。
現在の感覚でこれが科学的かと問えば、科学的ではない。天体観測は科学であるし、天体観測の結果、これから起こる天体の動きを予測するのも科学であるが、それができたところで政変の予測などはできない。できると言いはるとすればそれは似非科学だけである。だが、当時はこれが最先端の科学と考えられていたのである。
賀茂保憲がどのような結論を出したか記録は残っていない。だが、村上天皇の決断は残っている。
およそ一ヶ月後の応和四(九六四)年七月一〇日、康保へ改元。
藤原氏の他氏排斥は、ただ単に藤原氏以外の氏族を政権から遠ざけることを目的としているのではない。
藤原氏の政策と大きく異なる、そして、藤原氏の政策遂行にとって障害となる人物を政権から遠ざけることが他氏排斥の主目的である。政策の違いによるものであるから、藤原氏以外であっても政策の一致を見れば追放とは無縁であるし、藤原氏でも政策が異なれば追放のターゲットとなる。
しかも、承和の変、応天門の変と続いた二度の他氏排斥事件は藤原氏からのアクションではない。藤原氏打倒を掲げた者の起こしたクーデターが失敗に終わり、クーデターの首謀者と関連者に対して国家反逆罪を適用し、しかも律令に従えば死刑になるところを減刑して追放処分としているのだから、事件の結果は他氏排斥でも、経過だけ見れば偶然の連続に過ぎない。
歴史用語で昌泰の変とされる菅原道真の「追放」も、実際には国家存亡の危機に直面した菅原道真が自らの意志で九州に渡っただけのことで、太宰府の地で菅原道真が亡くなったから伝説となったのであり、役目を終えて無事に帰京していれば、日本国滅亡の危機を救った英雄として歓待されこそすれ、伝説とはならなかったはずである。
承和の変で追放された橘氏と伴氏、応天門の変で追放された伴氏と紀氏、そして昌泰の変で「追放」された菅原氏。こうした氏族はこの時代も健在であった。しかし、かつてのような勢いはない。源氏、平氏、藤原氏に並ぶと評される橘氏は太政官に一人しか貴族を送り込めていない。大和朝廷の時代から日本の軍事力を支えていた伴氏は、貴族の一員ではあったが、武門からその姿を消している。紀氏は貴族であるが目立った姿を見せることはなく文芸にその名を残すのみである。その何れにも該当しないのが菅原氏で、道真登場以前、すなわち、大学に身を置いて当代随一の学者として君臨する家系であることを続けている。実際、菅原道真の孫の菅原文時は文章博士として大学に君臨し続けている。
他氏排斥というなら、この三つの事件よりも、藤原忠平の人事政策を見るべきである。承和の変、応天門の変、そして昌泰の変で追放されたとされる氏族はその後も中央政界に残り続けていたのに対し、政変という今ならトップニュースを飾るような出来事に訴えなかった忠平の時代になって、藤原氏以外の氏族は勢いが小さくなるのだから。
藤原氏の政策に反する者を中央政界から遠ざけるという点では三つの事件と同じなのである。だが、藤原氏の政策とは藤原専用の学校である勧学院で学ぶ教育であり、後に有職故実として体系化される勧学院の教育に逆らう貴族を中央政界から遠ざけるシステムを作り出すと、自然と藤原氏以外の勢いは衰えていく。
だが、もし、勧学院以外の学校が有職故実を受け入れ、律令ではなく有職故実による教育を受け入れたとしたらどうなるか?
藤原氏でなくとも中央政界で道を築けるのではないか?
藤原氏の打倒ではなく、藤原氏との協力で、中央政界に身を示す。そう考えた者が現れた。
康保元(九六四)年一一月五日、橘氏の教育機関である学館院が、勧学院の教育システムを受け入れ、大学寮別曹として認可された。これは、藤原以外の氏族の中では最も強力と考えられていた橘氏による律令派からの離脱であった。
律令派の崩壊は、藤原氏である藤原在国の裏切りだけではなく、藤原氏以外の氏族の裏切りも存在していたのである。
康保元(九六四)年一一月、紫宸殿前庭に桜が植えられた。これを、右近の橘と対比して、左近の桜という。
右近の橘、左近の桜という組み合わせは古事記や日本書紀にすでに登場する古いものであるが、遣唐使の派遣が盛んになり中国文明が大量に流入すると、樹木と言えば梅の木、花と言えば梅の花と、中国で愛されている梅が全ての植物のトップと見なされるようになった。
その流れを止めて、古来の橘や桜を復活させたのが仁明天皇である。ただし、朝廷中枢にはなおも梅が残っていた。それは、梅が中国から伝わった文明のシンボルであり、律令に基づく政治を行うことのシンボルでもあったからである。
と同時に、梅は律令派にとっての象徴でもあった。桜を愛さないわけではない。橘の木を憎むわけでもない。ただ、それらよりも梅を愛でることが律令派として古来からの律令を守る者の心のより所であったのである。
その梅がなくなり、桜になった。
厳密に言えば、かなり前から梅ではなく桜が植えられるようになっていたのである。ただ、その位置づけは焼け落ちてしまったからやむを得ず橘の木や桜の木で代用するというものであり、本来は梅を植えておくべきとする建前は残っていたのである。
だが、右近の橘だけでなく左近の桜が確立された。そして、紫宸殿に植えるのを橘と桜に戻すと定められた。
無関心な第三者からすれば、単に樹木の植え替えだけではないかとなる。だが、こういったシンボル的なものほど、信条にすがる者にとっての重要事であったりするのである。
勧学会を開催して律令派を強固にし、藤原独裁の打倒と、律令に基づく政治体制の構築を図った律令派の面々にとって、シンボルである梅が完全に失われたことは、国が完全に律令からの脱却を決めたという絶望感を漂わせる大問題であったのである。しかも、「梅から桜に変える」ではなく、「本来は桜であるべきところが梅になってしまっていたので桜に戻す」という名目。これは律令派にとって反発したくても反発できない名目であった。
藤原良房の時代は、律令派と言えば高齢者であり、反律令派が若者であった。
藤原良房が権力を握ると、反律令派が高齢者となり、律令派の方が若者となった。
これは何も、価値観の大転換が起こったわけではない。
現時点で権力を握っている者に反発する若者が、現時点の権力への反論を掲げる主義主張に傾倒しているだけである。現代の日本でネトウヨと一括りにされる現象が起きているのも、現時点で権力者となっているのが、立法でも、行政でも、司法でもなく、第四の権力であるマスコミであり、そのマスコミの論調に従う教育者や政治家や言論人であるという現状が存在するからである。既存権力であるマスコミの伝える歴史や社会と異なる、そしてその多くはより真実に近い歴史観や社会観がネット上に提示されているから、マスコミが批判されると同時にネットの意見がより多く支持されるのであり、政府批判ではないという点は珍しいが、権力批判という点では人類史上永遠に繰り返される現象が今の日本で起きているに過ぎない。
現状の権力を支配する命題があり、その権力を批判する命題があり、若者が批判の命題に傾倒するという、人類史上永遠に繰り返されるこの現象が平安時代中期のこの時代だけ起こらないなどということはあり得ない。そして、この時代の命題は二つしかない。律令と、有職故実となった反律令の二つである。
有職故実と名を変えた反律令の命題が権力を握っている状況にあって、権力に反発する若者が党派を結集するのは不可解な現象ではない。
とは言え、これは一枚岩ではないのである。
律令と反律令という点で二つの命題は真逆の思考であるが、前例を踏襲し、新しいことを生み出さないという点、つまり、現実主義ではないという点では一致するのである。そして、この現実主義ではないという点が、反律令に対する反発としての党派の結成を遅らせる原因にもなっていた。
律令派が自分たちのリーダーと考えている源高明はこのとき五二歳の大納言。貴族の序列で行くと、左大臣藤原実頼、右大臣藤原顕忠に次ぐ三番手である。
だが、厳密に言うと源高明は律令派ではない。厳密に言えば、律令でも反律令でもない第三の道を探っていた者であり、第三の道を模索する若者たちの支持も集めていたのだ。
つまり、律令派という勢力と、律令派でも反律令でもない第三勢力の双方から、リーダーとして担ぎ上げられていたのである。
源高明は配慮に欠ける無神経な行動を示すこともあるが、前例踏襲では現状の問題を解決できないとする考えの持ち主でもあった。ゆえに、敵は多いが、その一方で、現状を否定する若者たちに支持されもしたのだ。
しかし、現状は問題が多いと考えるが、それに対する明確な解決方法を提示できないのも事実であった。
この時代、藤原独裁に対抗する者は、ある者は律令をそのまま遂行すればよいとし、またある者は有職故実でも律令でもない第三の道があるはずと説いた。源高明も第三の道を求めた一人である。
だが、その第三の道が具体性を持っていない。
現在でも、批判は一人前だが対案は全く出さない、あるいは出せないという人たちがいるが、源高明は、そしてその支持者たちは、現在のそれと同じだったのである。現状を批判する自分の知性を優れていると妄想し、批判する自分たちと意見の合わない者は知性が劣っていると断言していたのだ。
たしかに弁証法ではテーゼに対するアンチテーゼを提示し、テーゼとアンチテーゼとを組み合わせることでより真理に近づけるという思考法を行なうが、それでも対案なき批判は全く無視される。だが、それをわからずに批判だけをする者が数多く存在する。何が良くないかを列挙し、ゆえにそれはダメであると結論づけることで自らの知性を誇る者がいるのもまた、人類史上、どの社会にもどの時代にも存在する現象である。
だが、彼らは一定数の支持を集めるが、まともな社会では権力者とはなれない。
権力者となれない理由を自らに求めるならまだ救いはあるが、彼らはその理由を自らの外に求めようとする。社民党であったり、共産党であったり、そしてついこの間までは政権政党であった民主党であったりと、今の日本に住む者は批判だけで対案を示せない者の発する批判をいやというほど聞かされてきた。しかし、彼らの反省の言葉を一度でも聞いたことがある者などいない。
源高明は、無視することはできない存在となっていた。より正確に言えば、無視するにはやかましすぎる存在となっていた。
これを藤原氏が快く思うわけはなかった。
しかし、藤原が快く思わなくとも、源高明は村上天皇の母親違いの兄である。
そして、藤原独裁を牽制するという点では、村上天皇にとって源高明以上のカードはなかった。
これは康保二(九六五)年四月二四日に、右大臣藤原顕忠が死去したことで明白となった。
臣下の第二位にある者の死去である。順当に行けば三番目に位置する大納言源高明の昇格である。だが、大納言には同時に藤原師尹もいたのだ。藤原氏は当然ながら藤原師尹を後任の右大臣にするよう推挙する。
一方、村上天皇は藤原氏の推挙を拒否。順当な措置として大納言源高明を右大臣に就任させると発表した。
現在でも、選挙協力までした政党間で、おまけに一五はある大臣のポストを分配するのに様々な駆け引きが繰り返されるというのに、二つしかない大臣のポストを全く異なる派閥のトップ同士で一つずつ分け合うのだから、これで混乱が起きない方がおかしい。
藤原氏は村上天皇の親政を縁の下で支えているのは自分たちだと思っているし、反藤原は村上天皇の親政を支えているのは自分たちであり、藤原氏はその障害であるとしている。これでは議論が永遠に平行線をたどる。もっとも、議論と言っても、藤原の提案を源高明が批判するという図式しかないのだが。
康保二(九六五)年時点で左大臣藤原実頼は六六歳。平均寿命が八〇歳に達する現在でさえ、普通に考えればこれから何かを始めようという年齢ではない。ましてや、平安時代は五〇歳で高齢者と呼ばれる時代である。平安時代の六六歳は、いつ何があってもおかしくない年齢とするしかない。
ところが、藤原実頼は六六歳になって表立って行動し始めるのである。それも、これまでの評判を覆すように颯爽として。
実頼にしてみれば理解できなくもない。
父忠平亡き後は村上天皇の親政であり、自分は村上天皇を支える一臣下であればよかった。対立しているとは言え、藤原氏という共通項で括られた者が一丸となって村上天皇を支えているという自負もあった。つまり、表立って何かをするのは村上天皇であり、自分は、そして藤原氏は影に徹すれば良かったのだ。かつての藤原長良のように。
ところが、新しく右大臣となったのは自分たちと対立する源高明。源高明の妻は今は亡き藤原師輔の娘であり、師輔が健在であった頃はここまで明確な対立とはなっていなかったが、師輔亡き現在、誰もが藤原氏と源高明の対立を、いや、より正確に言えば、源高明を担いでいる反藤原の面々との対立が色濃く存在していることを知っている。
こうなると、国政が政争になってしまう。一分一秒を争っていようと、それが命に関わる問題であろうと、何よりも前に対立を優先させる面々が権力者となったのだ。
実頼は政争を避け始めた。その上で、国の手を介さずに藤原氏としての行動を始めたのだ。その結果が藤原氏の独走である。村上天皇親政を否定したのではない。村上天皇親政は継続するし、村上天皇からのトップダウンがあるならばその政策が有効とさせるが、トップダウンがなく臣下たちが対立している場合、そして村上天皇からのトップダウンまで時間がかかりすぎるという場合、藤原氏は村上天皇の決裁を仰ぐことなく行動するのである。
前兆ならばあった。空也に対する支援がそれである。空也のときはあくまでも藤原氏の誰かによる支援であり、それが実頼の手によるものかどうかはわからない。だが、実頼が絡んでいることは間違いない。
そこで実頼は悟ったのではないだろうか。
飢えに苦しみ、日々の暮らしに絶望する京都市民を救うためにどうすればいいかを考えたとき、国ではなく、藤原氏として行動するのは藤原良房以来の伝統であることを。そして、実頼にはその伝統を復活させる能力も資産もあることを。
康保二(九六五)年だけに絞っても、以下の災害が記録に残っている。
七月四日、雅楽寮(うたりょう)で火災。楽器を全て消失する。
八月二八日、大風により京都の官舎や民家が破損。
一〇月二七日、兵庫倉で火災、累代の戒具を消失。
こうした災害にあって、老体に鞭打って真っ先に動き出したのが藤原実頼であり、実頼率いる藤原氏の面々であった。その中でも、今や誰もが認める藤原の側近である清和源氏の武士たちの活躍はめざましいものがあった。
故ドラッカー教授は、「非営利組織の経営」をはじめとする著書で人生におけるセカンドキャリアの意義を説いたが、その実践については、今から一〇〇〇年以上前に実現させた人がいたのである。
もっとも、藤原独走にも限界はある。いかに日本一の資産を持つ身であろうと、国家予算を自由自在に駆使できるわけではない。小規模な災害であれば、あるいはある程度の規模のイベントであれば村上天皇の決裁を仰ぐことなく藤原氏の資産を投入できる。
しかし、その限界を超えるときがある。国家予算を投入しなければならないような大事業を展開するときや、国家予算による支援を必要とする大災害が起こったときである。
翌康保三(九六六)年閏八月に起こったのは、国家予算による支援を必要とする大災害の方であった。
康保三(九六六)年閏八月一九日、京都に大洪水が発生。五条から六条より南が海のようになった。
平安京は碁盤の目のように道路が東西南北に走っている。そのうち東西に走る道路を条という。五条から六条というと、平安京を南北に二分するあたりの道路となる。その道路から南が海のようになったのだ。平安京の南半分が水没する大惨事であり、東京で言うと山手線の南半分、銀座も、丸の内も、六本木も、渋谷も、中央線から南のエリアが全て水没してしまったようなものである。
この大惨事に実頼はただちに動いた。ただちに動いたが、藤原氏の資産を全てつぎ込んでも、人材をつぎ込んでも、被災者の全てを救済することはできなかった。ここは国家予算の投入が絶対に必要である。
ところが、このタイミングで右大臣源高明が反対したのである。首都の市民の救済が必要であることは認めるが、あれこれと理屈を付けて国家予算の投入に反対する。役人を派遣して被災者の救済にあたるのも反対、国庫を開いて穀物を被災者に配給するのも反対、水害後の伝染病の治療も、壊れた家屋の修繕を補助するのも反対と、とにかくありとあらゆる支援計画に反対したのだ。表向きの理由は国庫財政の欠乏だが、本音は別にあることをその時代の人は誰もがわかっていた。
これにはさすがに村上天皇も呆れたが、右大臣が頑迷なまでに反対するとなると天皇の強権をそう簡単に発動するのは不可能となる。
さすがに反対が激しすぎて世論を敵に回していると悟ったのか、被災者に対し穀物や生活物資を配給し、今年度の納税を免除すると決まった。しかし、決まったのは災害発生から二〇日も経った康保三(九六六)年九月九日のことである。
政争のために、あるいは、自分で自分を誉めてもらいたいために繰り返す反対意見のせいで、あまりにも無駄な時間を費やしている。このあまりの遅さと無意味さに源高明のもとを離れる者が続出した。
この康保三(九六六)年はもう一つ大きな出来事が起こっている。とは言え、当時の人の中でそれが大きな出来事だと考えたのは家族だけで、一般市民まで大きな出来事と考えたわけではない。
その出来事とは?
この年、藤原道長が産まれたのである。
しかし、藤原道長の生まれがこの年であることはわかるのだが、誕生日がわからない。いや、わからないのは誕生だけではなく、藤原道長が父藤原兼家の何番目の子かもわからない。四男とする説がある一方で、五男とする説もある。要は、その出生がはっきりしない。
父の藤原兼家が今は亡き藤原師輔の三男であること。藤原道長の母は藤原時姫であること。同じ母から、道隆、道兼の二人の兄と、超子、詮子の二人の姉が産まれていること。同じ母からは弟や妹が産まれていないこと。別の母から数多くの兄と姉が産まれ、また、妹も産まれているが弟は一人も産まれていないこと。わかっているのはそれだけである。
つまり、当時の人はそうなるとは思わなかったであろうが、藤原道長は藤原道兼の末っ子として産まれたこととなる。
また、藤原道兼という人物そのものが、粗暴であること以外、当時の人からあまり認知されていなかった。
無論、今は亡きかつての右大臣藤原師輔の次男であることは知っている。だが、その職掌は左京大夫。今で言う千代田区議会の議長である。首都の政務に関わる職務を務めてはいるが、国家の政務に関わる人材とは見られていなかった。
藤原氏の後継者は、藤原兼家の兄でもある参議の藤原伊尹だと多くの人が考えていたのである。兼家は後継者の弟に過ぎず、ましてやその末っ子が後の太政大臣になるなど誰が考えようか。
親政に陰りが見えてきたことは村上天皇も理解していた。しかし、自らの親政を覆し、藤原忠平の時代のように関白太政大臣を置く必要はないとも考えていた。
だが、村上天皇はもう一つ理解していた。現在のこの天皇親政が微妙なバランスの上で展開されていることを。自分がもし退位したら後を継ぐのは皇太子の憲平親王である。だが、憲平親王には自分のような政務ができないと考えていた。
政務ができない理由は若すぎるからか? たしかに憲平親王はまだ一八歳である。だが、先例を見れば清和天皇は若くして藤原良房と渡り合った記録があるのだから、一八歳ともあれば天皇としての職務をこなせる年齢である。
皇太子であることを差し置いても憲平親王の美貌は有名であり、宮中の女性の黄色い声援を浴びていた。しかし、その行動は声援ではなく悲鳴をあげさせるものであったとされている。
ここから先は信憑性が薄いとするしかないのだが、憲平親王の逸話として次のような話が残っている。
父の村上天皇が手紙を送り、しばらくして憲平親王から返信が届いたので開いてみると、書状に記されていたのは文字ではなく男性の陰茎の絵。
あるいは一日中とりつかれたように蹴鞠を続け、足が傷だらけになっても止めなかった。
あるいは清涼殿の衛士の詰所の屋根に登り焦点の定まらぬ視線で惚けていた。
何れも常軌を逸した行動である。もっとも、これらは言われ無き誹謗中傷の類であり、言われた側ではなく言った側の方が非難されるべき内容であるし、その内容にしても後世になって尾ひれの付いて広まった話であってどこまでが当時の誹謗中傷そのままであるのかわからないが、少なくとも村上天皇を心配させる内容ではある。
憲平親王の生涯を追ってみて感じるのは、憲平親王という人はとにかく生真面目で何でも自分で背負い込んでしまう人であり、また、敵を増やしてしまう性格の人であるということ。現代まで続くその悪評も、憲平親王の敵の残した言われ無き誹謗中傷が発展して広がった言葉であり、しかも、憲平親王自身がその誹謗中傷を耳にして大きく傷ついているのである。誹謗中傷を受けるのは執政者の宿命であるが、それを受け流せるようでないと執政者にはなれない。
真面目に何でも受けてしまう性格の憲平親王を見て、村上天皇は自分の死後を考えたようである。康保四(九六七)年に入ると村上天皇の体調が目に見えて悪化するようになったのだ。おそらく病気であるが、村上天皇の罹患したのはどのような病気かはわからない。ただ、命に関わる大病であることは間違いなかった。
村上天皇はまだ四三歳であった。予定でいけばあと二〇年は生きて親政を続けるつもりであったし、二〇年あれば皇太子の交替も、交替できる人材の育成も可能であると見込んでいた。だが、命に関わる病状にあると悟った村上天皇は一つの覚悟を決めた。
これまで続けてきた親政を終わらせ、藤原忠平の時代のように藤原独裁を復活させることである。そのために関白の職務を復活させることも検討した。すでに元服を迎えている憲平親王は摂政を置けない。だが、関白なら置ける。その関白に藤原実頼を就任させるという計画を立てたのだ。
村上天皇の病状悪化は、反藤原の人間にとっても痛手であった。村上天皇が退位し憲平親王が即位したら、間違いなく藤原独裁が復活する。それも、かつての藤原忠平のような時代が復活する。これは恐るべき事態であった。藤原氏だけが権力を握る恐れだけでなく、平将門や藤原純友の時代が復活してしまう恐れである。
藤原氏も、反藤原も、村上天皇の病状回復を祈祷することでは意見の一致を見た。
康保四(九六七)年五月二〇日、村上天皇の疾病により畿内など二六カ国に卒塔婆六〇〇〇基を建てさせると決まった。
この時代にも医学はある。医学はあるがその水準は現在と比べものにならない低さである。ゆえに、医学でどうにもならない場合は加持祈祷に頼ることとなる。
このときも加持祈祷に頼った。頼ったが、村上天皇の病状は悪化の一途をたどった。
康保四(九六七)年五月二五日、村上天皇逝去。同日、憲平親王が践祚。冷泉天皇の治世の開始である。
予定で行けば、同時に左大臣藤原実頼が関白に就任し、天皇親政を終わらせ藤原独裁を再開するはずであった。
ところが、ここでまた源高明が反対を示した。関白は律令にない職務である上に、冷泉天皇は元服を迎えている以上補佐役は不要である。また、これまでの二人の関白、藤原基経と藤原忠平の二人はともに太政大臣として関白になったのであり、左大臣である藤原実頼は関白になる資格がないという理論である。
これは恒例の言いがかりであると誰もが理解していた。
源高明にとって重要なのは藤原独裁を食い止めることであり、そのためには政務の停滞も問題にはならなかった。いや、停滞を問題視する意識すらなかったということか。
先に、冷泉天皇、当時の憲平親王が言われ無き誹謗中傷を受けていたと記したが、その誹謗中傷を生み出しているのは源高明ら反藤原の貴族たちなのである。無論、表立って誹謗中傷したわけではない。だが、表向きは敬意を払っていても、裏では容赦なき誹謗中傷を繰り返している。
冷泉天皇はまだ耐えていた。そして、藤原氏たちはその誹謗中傷を繰り広げる者から冷泉天皇を守ろうとした。それでも、混乱は続いたのである。
もっとも、政務が止まっていたという記録はない。今の日本だって、衆議院の解散から総選挙、そして、新内閣の発足まで一ヶ月かかるのは普通であり、その間に何かあっても旧体制が対処するようになっている。それを考えれば、親政を行なっていた村上天皇の逝去から一ヶ月はこれまでの状態で続いたとしてもおかしくはない。
ただ、この状態がこれからも延々と続くのは異常事態であると誰もが認識していた。
この異常事態を続けるのは不可能であると認識したのは、冷泉天皇自身が、天皇としての通常政務ならばこなせても、天皇親政を実施できる能力はないと自分で認めたからである。
正式な即位をしたわけではないが、すでに冷泉天皇は天皇としての職務を始めている。そして、村上天皇が行なっていたのと同じだけの職務を果たそうとしている。だが、それは不可能であった。村上天皇だからできたのであり、自分にはできないと考えたのだ。しかも、そのできないことを理由に非難される。村上天皇はできたのに冷泉天皇はどうしてできないのか、と。
後世の資料にはいろいろと尾ひれがついていて、冷泉天皇についてのエピソードは、天皇として以前に、人としてどうかと思わせる内容になっている。これは陽成天皇が受けたのと同じ仕打ちでもあるが、実際にあったエピソードをかなりねじ曲げ、場合によっては全くの無からエピソードを捏造し、ときの天皇をはじめとする執政者を極悪人や無能とさせるのは珍しくない。現在も安倍首相や麻生首相に対するマスコミの批判が全て的外れの言いがかりであったことが判明しているが、それと同じことは一〇〇〇年前にも起こっていたのである。
冷泉天皇は極悪人でも無能でもなかった。しかし、村上天皇だからこそ遂行できた天皇親政を継続できるほどの能力はなかった。ただし、その能力が自分にはない以上、亡き父の村上天皇の取り決めの通りに藤原実頼を関白に任命することが最善であるとは認識していた。
社会人の人は思い浮かべていただきたい。一日八時間の勤務時間に、一六時間分の仕事量が押しつけられたらどうなるか。そして、一六時間分の仕事量がこなせないときに容赦なく罵倒されたら精神的にどうおいつめられるか。冷泉天皇の心境はこれで理解できるであろう。
村上天皇は抜群の職務遂行力に加え、不要と考えた仕事は容赦なく割愛することで勤務時間中に全ての業務を終えている。不要と考えた仕事については、当初は左右の大臣に振り分け、右大臣が源高明になってからは左大臣藤原実頼に任せたのだ。
一方、冷泉天皇は自分の仕事を全てこなそうとした。いや、してしまった。その結果、仕事は片づかなくなり、業務時間を過ぎても残作業が山積する事態となった。これを解決するには仕事を減らすしかないのだが、冷泉天皇はそれができなかった。
後世になっていろいろと尾ひれの付いたエピソードも、元をたどれば、冷泉天皇のこなせる以上の作業量が舞い込んでしまい、しかも、右大臣の妨害にあって作業の割り振りもできず、自分で抱え込まなければならなくなったことから起こる、過度のストレスを伴う過労である。
不真面目とされる人の多くは不真面目なのではない。自分のこなせる以上の仕事量を押しつけられてどうにもならなくなっている人なのである。
康保四(九六七)年六月二二日、冷泉天皇は反発を押し切る形で左大臣藤原実頼を関白に任命した。これにより天皇親政は終了した。
と同時に、冷泉天皇の病身を理由とし、関白藤原実頼を准摂政とするとも宣言された。ただし、准摂政の宣旨を用意したのは権中納言藤原伊尹と蔵人頭藤原兼家であり、公式に宣旨を発給する役割にある左大弁藤原頼忠(実頼の子)にすら知らされていなかったという事態もあった。
これを聞いた実頼は、自分のことを「揚名関白(名ばかりの関白)」と称して嘆いた。
これもまた冷泉天皇を無能とする悪評となるのである。関白だけならまだしも准摂政とは何たることかと。それも、預かり知らぬところで宣旨が出たとは何たることかとの悪評が。
摂政と関白はどう違うか? 「摂関」と呼ばれ総称されることの多いこの二つの役職であるが、平安時代末期になるまでは明確に区別されている。
摂政は天皇が職務を遂行できないときに天皇の代理を務める役職であり、その地位は天皇の近親者でなければ就けない。藤原良房が人臣初の摂政に就任したことで、聖徳太子以後続いていた皇族でなければ摂政となれないという決まりは撤廃されたが、藤原良房は清和天皇の実の祖父である。つまり、天皇の近親者が天皇に代わって職務を務めるのが摂政であるという原則は守っている。天皇の近親者による天皇の職務代行がその役割であることから、朝廷の儀式において天皇が臨席する場合、摂政は人臣の列から離れ、天皇の横に座ることが認められている。
病身の天皇に摂政が置かれるのはおかしな話ではない。だが、准摂政となると異例である。冷泉天皇の病身を考えれば摂政でもおかしくないのだが、摂政となれる人材が近親者ではない藤原実頼である以上、このような対策をとらざるを得なかったのであろう。そして、実頼は准摂政の名目は行使することなく、関白として行動することとしたのである。
一方の関白は天皇を補佐する役目であり、天皇の近親者でなければならないという決まりはない。天皇の近親者、特に天皇の祖父が関白に就任するケースが非常に多かったが、名目上は、血筋に関係なく、人臣の中から特に選ばれた一名が天皇に助言する役目であって、天皇に並ぶことは許されない。儀式などで天皇が臨席する場合でも、摂政と違い、臣下の列の一人として並ばねばならないのである。
後世になるが、豊臣秀吉が関白に就任することが出来たのは、関白はあくまでも人臣の中から選ばれた者が就く役職の一つに過ぎなかったからであり、関白ではなく摂政に就任することを望んだとしたら、豊臣秀吉がいかに天下の覇者になったとしても、摂政には就任できなかったはずである。
藤原実頼の場合、冷泉天皇との血縁関係は薄い。しかし、人臣の中から選ばれた者が関白に就任するという鉄則に従えば順当な判断である。この時点で人臣最高位にあるのが左大臣の藤原実頼であり、また、それは亡き村上天皇の意志でもある。右大臣源高明がどんなに批判しようと、この一ヶ月間の冷泉天皇親政で政務が破綻していたという現実を目の当たりにしては、批判の声をどんなに挙げようと無視される。
関白となった実頼が最初に着手したのは、律令である。
と言っても新たに律令を制定したのでも、律令派に鞍替えしたのでもない。
康保四(九六七)年七月九日に、延喜式が正式に施行するとしたのである。
延喜式自体は忠平の時代に完成していた。公表も済んでいた。ただ、施行がまだだった。
このタイミングでの延喜式施行は、律令派へ打撃を与えると同時に、有職故実のさらなる強化にもつながった。
式というのは律令の施行細則である。律令の取り決めに対して事細かに記してあるため、律令そのものを読まなくても式だけ読んでその通りに行動すれば、律令に則った政務や祭事ができることとなる。
延喜式はこれまでの式の集大成としてもよい式で、延喜式だけを読めば他が不要となるほどであった。律令の本文も、弘仁格式も、貞観格式も、さらに延喜格すらも不要となる精密さであったのである。おまけにかなりの部分が有職故実と重複している。
たしかに日々の政務の中には延喜式でも記していない部分はある。ところが、延喜式ですら記していない律令の施行細則も有職故実にならばあるのだ。そして、関白藤原実頼は有職故実に則った政務をしている。
するとどうなるか。
律令派の存在意義が無くなってしまうのだ。律令派は現在の政務が律令に則っていないと批判し、律令に立ち返れと主張している。ところが、有職故実に則って政務をする実頼は、延喜式に則った政務をしていることにもなり、律令に則った政務をしているのと同じとなる。それが律令の本筋から離れた拡大解釈であったとしても、実頼の政務は律令派の否定の根拠となる律令違反ではなくなるのだ。
しかも、延喜式の正式施行とは、国として延喜式に則った政務をすると宣言することである。これは、前例踏襲を批判する源高明らへのこれ以上ない牽制となった。
冷泉天皇は村上天皇の皇太子であったので、村上天皇の亡くなった後は冷泉天皇の治世となる。これは誰もが当然のことと考えていた。
しかし、その後については誰一人として明瞭なイメージを掴めていなかった。冷泉天皇に男児がいなかったからである。
冷泉天皇に全く子供がいなかったわけではなく、女児ならばいる。奈良時代までさかのぼれば女性の天皇もいるという先例を挙げて、女系天皇を考える者もいた。
一八歳という若さを考えれば、これから産まれるかもしれない男児を待つ余裕もあるはずとの意見もあった。
冷泉天皇と母親違いの兄である広平親王は自分こそ後継者に相応しいと主張していた。
臣籍降下して源氏となっていた源高明や源兼明を皇族に復帰させて後継者の一人とさせるべきとの意見も出た。もっとも、これは政治的対立の激しさから、皇族に復帰させれば貴族でなくなるため堂々と太政官から追放できるという裏の意味もあった。
だが、関白実頼の意見は違った。そして、この意見は冷泉天皇も同意することであった。
冷泉天皇の実弟で、このとき九歳の守平親王を皇太弟とするという意見である。
これに対し最も反発したのが、やはりと言うべきか右大臣の源高明であった。またいつもの批判癖が出たのかと考えてしまうところだが、このときの批判はこれまでの何でも反対の批判ではない。なぜなら、冷泉天皇の母親違いの弟の為平親王も候補者の一人であったからである。この為平親王は源高明の娘を妻としているから、源高明にとっては甥であると同時に義理の息子でもあった。
皇太子は天皇に何かあったときに新たに天皇に即位する義務がある。それを考えたとき、冷泉天皇と二歳差の一六歳の為平親王の方がより安心できる。これは表向きの名目として充分成立する。無論、本音は言わない。自分の娘婿を帝位に就けたいと言ってしまったら、それがいかに真実でも支持を失う。
これは実頼ら藤原氏とて同じことである。藤原氏の血の濃い守平親王に皇統が続くのと、藤原氏との関係が薄い為平親王に皇統が行ってしまうのとでは、政治に与える影響力が全く違う。先に記したように、関白ならば血縁関係が無くても就任できるが、摂政となると近親者でなければ就任できないのだ。
冷泉天皇が実頼の意見に同意したのも、摂政・関白の政治の連綿性を考えてのことである。冷泉天皇は現在まで伝わっているような悪評と異なり、天皇としての職務について充分に理解している。と同時に、自分が村上天皇ほどの能力の持ち主でないことも理解している。その上で、天皇としてなすべきことを考えたときの最善が、実弟を後継者とすることであった。
実弟が九歳で、もう一人の有力な候補者である為平親王が一六歳であるという年齢差は関係ない。だいいち、冷泉天皇自身が一八歳という若さである。この若さは今すぐ何かがあると考えられる年齢ではない。何年か経過したときのことを考えると、自分と二歳差である為平親王より、九歳差のある守平親王の方が後継者として相応しい。
後継者を実弟に定めた冷泉天皇は、康保四(九六七)年一〇月一一日、正式に即位した。
これまで、天皇の即位は大極殿で文武百官を集めて行うと決まっていたが、冷泉天皇の体調も配慮して、内裏内の紫宸殿での挙行となった。本来は今回限りのやむを得ない対応であったのだが、これが先例となり、以後の即位礼は紫宸殿で行なわれるのが通例となった。
これまでの慣例では、関白とは太政大臣のつとめる職務である。
この理由を前面に掲げて左大臣藤原実頼に対し関白辞任を迫るのが通例であった源高明であったが、その根拠は康保四(九六七)年一二月一三日に終了した。
冷泉天皇がこの日、左大臣藤原実頼を太政大臣に昇格させると発表したのである。空席となった左大臣には右大臣源高明が昇格。新たな右大臣には藤原師尹が就任した。
忠平の死から続いていた太政大臣の空位が終了し、同時に、太政大臣が関白に就くという慣例に従った体制が成立した。
これまでは関白であるといっても藤原実頼の職掌は左大臣。人臣のトップであっても太政官における決議を覆す権力はない。だが、太政大臣となると話は違う。太政大臣になれば太政官の決議を覆すことができるのだ。
一二月一三日の人事は大臣だけに限っていない。大納言源兼明が従二位から正二位へ昇格し、藤原伊尹が権大納言に就任している。藤原氏の後継者と見なされていた伊尹が出世ルートの王道である権大納言に就くと同時に、反藤原の参謀的存在であった大納言源兼明が大臣に匹敵する位階である正二位になっている。
しかしなぜ、関白藤原実頼は、藤原氏だけではなく反藤原を掲げる源氏を優遇したのであろうか?
普通に考えれば自派だけを優遇し他派は冷遇するものである。少なくとも現在の議会制民主主義では、政権与党に反発する野党第一党の人間を内閣に採用するなどあり得ない。あったとしたらそれは裏切り者呼ばわり覚悟で離党した上での党の移動を成した者だけである。
藤原氏を優遇して他の貴族を冷遇した藤原忠平の方が正常で、藤原氏以外も厚遇する、それも、反発を隠さぬ者ですら厚遇する実頼の人事政策は異常に見えてしまう。
これはもう、それが藤原氏の人事政策なのだと考えるしかない。良房も、基経も、時平も、自分に反対する者であろうと人事においては反対か賛成かに関係なくその人の実績と能力に見合った人事をしている。それをしなかった忠平は、人事で冷遇された者たちが地方に下って武装し、平将門や藤原純友の率いる反乱軍に加わって国家反逆を計ったという大失敗をしている。これを繰り返すぐらいなら、これまでの藤原氏の人事政策に忠実に、反藤原の者にも相応の役職と位階を用意する方が被害が少ない。
そういえば、テロに走るのは、選挙で議席を獲得できないほど支持が少ない主張をして周囲から浮いている者ばかりである。
テロに走る者を取り締まるのは権力者の義務である。
その意味で、権力者としての実頼は義務を完全に果たしているとは言い切れない。
康保五(九六八)年七月一五日、東大寺と興福寺が荘園をめぐって乱闘した。口論となったのではない。対立したのでもない。武装した僧兵や武士たちが武力で殺し合ったのである。
寺社同士の争いはもはや恒例行事としてもよい。寺社が荘園を所有して独自の収入を挙げ、収入源である荘園の拡張を図り、荘園の奪い合いから寺社同士の争いとなるのは珍しくなかったのだ。
荘園を巡る争いが貴族対寺社という図式であれば、寺社は貴族に呪いをかけるぐらいできるし、そこまでいかなくてもオカルティックな噂を流すこともできる。都合が悪くなれば菅原道真の祟りがあると言えばいいのだし、祟りは道真だけでなく、不遇の最期を迎えた人なら誰でもでっち挙げることができた。
一方で、貴族には武力がある。武士を動員して寺社に攻め込ませれば建物を灰にするぐらい簡単だ。寺社が祟りを口にしても、他の寺社を利用して「今回の攻撃は神仏の認める行為であり、祟りなどない」と宣言させればそれで終わりだ。こうなると、貴族と寺社との対立は、互いに現実に立ち返り、互いに落としどころを見つけて相互不可侵を維持できる。
ところが、寺社同士となると互いの権威のかかった問題になり、争いは醜くなる。要はどっちの寺社が上かという争いになるのだ。それも、互いの宗教観をぶつけてのディベートではなく、互いに抱える武力を使っての殴り合いだ。
おまけに、東大寺と興福寺は奈良の地でほぼ隣り合って君臨している上に、東大寺は皇族に連なる貴族、特に源氏の支援を受けているのに対し、興福寺は藤原北家の支援を受けている。東大寺は聖武天皇による建立で国の支援を受けてきた寺院であると主張すれば、興福寺は藤原鎌足を起源とする歴史ある寺院であり、東大寺は真新しい新興勢力にすぎず、国からの支援は桓武天皇の時に終わっていると主張する。
このときの争いは真新しくない恒例の争いである。東大寺も興福寺も互いに自分の方を格上と考え相手を見下している。その争いが荘園を巡る争いとなって奈良の地で具現化したのである。
実頼は藤氏長者として興福寺を、太政大臣として東大寺を抑え込もうとした。だが、その抑え込みは一瞬しか効かなかった。争いは止まったが、対立は根深く残ったのである。この対立の解消は平清盛を待たねばならない。
現代の我々は一世一元の制により、元号は天皇が崩御しない限り変わらないと考える。
だが、これは明治時代からの規則であり、平安時代は天皇の崩御や交替は元号を変える機会の一つであっても、変更が必須となっていたわけではない。一人の天皇がいくつもの元号を用いるのも珍しくないし、新たな天皇が前天皇の元号をしばらく使い続けるのも普通である。実際、冷泉天皇が帝位に就いてからもしばらくは、村上天皇の定めた元号である康保を使い続けていた。
しかし、前天皇の定めた元号を新天皇が一年近く使い続けるというのは珍しい。
その珍しいことを冷泉天皇が行なっていたのは、やはり村上天皇の威光が大きかったからであろう。藤原独裁を抑え込んで天皇親政を実現させた天皇と、関白も太政大臣も復活させて藤原独裁に復帰した天皇とでは世間の評判がやはり違う。
それに、人は、生者に対してはその失敗に目を向けても、死者に対してはその功績に目を向けるものである。しかも、その功績は相対的なものである。村上天皇は前天皇である朱雀天皇の治世と常に比較されてきた。そして、朱雀天皇の治世に起こった反乱と、その反乱が消えた村上天皇の治世とを比較すれば、どうしても村上天皇に軍配が上がる。
この状態で即位した冷泉天皇は、それが村上天皇の頃から続いている問題であろうと、その問題点が追求され悪評を受けることとなってしまう。これはもはや、人間とはそういうものなのだと割り切るしかない。元号を変えなかったのも村上天皇の威光を利用するしか、自らの受ける悪評をそらす手段がなかったからであろう。
この悪評は一九歳の少年天皇にとって多大なストレスをもたらすものであった。
康保五(九六八)年八月、京都とその周辺の治安悪化が大問題となっていた。村上天皇の頃から存在し続けた問題であったのに、それも日常の光景となっていたのに、このタイミングになって問題視されるようになったのだ。
冷泉天皇は、関白藤原実頼の助言のもと、京辺の山野の盗賊を追補する命令を出した。
と同時に、改元を宣言した。もはや村上天皇の威光を頼れないと考え、治安悪化に本格的に乗り出すという意志を見せるためである。
康保五(九六八)年八月一三日、元号を「安和」に改元。平和と安全を求める冷泉天皇の考えが元号にも表れた。
もっとも、本当に平和で安全であるかどうかは別の話であるが。
延喜一六(九一六)年に罪人とされ追放処分を受けながら刑に服さず、それどころか平将門の乱の鎮圧で名を挙げた、藤原秀郷という武士がいる。
藤原秀郷には子供が何人かおり、そのうちの一人、藤原千晴は勧学会に参加するなど、京都にあって文人として生きていた。このように、地方の武士団として勢力を見せている者の子弟が京都に上り、役人として、さらには貴族としての道を選ぶのは珍しくない。何しろ、地方で一大勢力を築けば莫大な財産が築ける。その財産をもとにすれば有力貴族や有力寺社と接近が図れるし、中央政界で出世して地位を獲得するきっかけにもなる。藤原千晴の行動は地方の武士団の子としてはごく普通である。
もっとも、全員が全員京都に上ってしまうと武士団が解体してしまう。武士団を維持することが財産を維持することでもあるのだから、普通であれば何人かはそのまま地方に残って武士団を維持する、あるいは、武士団の分家を作る。
藤原秀郷の場合、藤原千常が武士団を率いる立場となった。千晴が兄で、千常が弟であると記録には残っている。
ただ、どういうわけか藤原千常はこのとき信濃国にいた。藤原秀郷は下野国の武士団の頭領である。平将門追討の功績により下野国司、さらに後には武蔵国司になったという記録はあるが、信濃国とは関係ない。
藤原千常が信濃国にいて何か問題があったのか?
信濃国にいること自体は問題ではない。だが、そこで戦乱を起こすとなると通常の事態ではなくなる。
安和元(九六八)年一二月一八日、信濃国で藤原千常が争乱を起こしたとの連絡が京都に届く。この知らせを聞きつけた朝廷は混乱した。冷泉天皇も、関白藤原実頼も、かつての平将門の乱の再現かと驚愕したのである。
藤原千常が信濃国で起こした戦乱についての記録の詳細は残っていない。
おそらく、地方の武士団同士の抗争であり、それが大きな問題となる前に藤原千常にとって満足行く結果となって、抗争が次第に沈静化したのではないかと推測される。
研究者によっては、藤原千常がこのときの関東で一大勢力となっていたのではないかとする人もいる。何しろ下野国司や武蔵国司を歴任した関東地方の有力者の子である。また、関東一円に絶大な勢力を築いた平将門が戦死した後、関東地方で目立った戦乱が起こっていない。これは、平将門に代わる勢力が関東で名を馳せており、この名を馳せている勢力こそ藤原秀郷と藤原千常の親子なのではないかと推測されるのである。実際、藤原千常はこの一〇年後に下野国で源肥らと争乱をしている。抗争を起こしておきながら無罪放免で、わずか一〇年でまた争乱を起こしているのだから、一定規模の勢力を築き、維持していたと推測されるのである。
ただ、このときの狼狽は冷泉天皇や関白藤原実頼の統治能力に疑念を抱かせることとなった。戦乱を鎮圧するのでなくただ狼狽するのみという姿を見て、頼りがいがあると考える人はいない。
源高明ら反藤原の勢力を、現在の権力に逆らうことの自己陶酔であり、反対のための反対と考えるのは簡単である。そしてそれは事実である。だが、現在の権力が問題と考える信条があったのも事実である。
この現在の権力の問題をさらに痛感することとなったのが安和二(九六九)年二月七日に起こった事件である。右大臣藤原師氏と、この日に中納言に就任したばかりの藤原兼家の家人が乱闘を起こし、死者を出す惨事となったのだ。
藤原兼家の粗暴な行動は以前から有名であり、四一歳となったこの歳になっても健在であった。普通、こういう粗暴さは年齢とともに影を潜めるものであるが、藤原兼家の素行の悪さは年齢を重ねても正されることがなかったどころか、年齢とともに増幅していたのである。その上、この粗暴さは兼家の従者たちにも伝染していた。兼家の見下す相手本人にはさすがに手出しをしなかったが、その相手の従者たちには乱暴狼藉を働いていたのである。特に、人のいい右大臣藤原師氏を見下していた兼家の態度は、そのまま従者たちに引き継がれていた。
しかし、雇用主がお人好しだからと言って、その従者たちまでお人好しだとは限らない。
ましてや、兼家の従者たちの乱暴により師氏の従者で死者が生じているのである。
これで復讐心が沸かないほうがおかしい。
無論、兼家の従者たちだって自分たちのしたことを理解しているし、兼家自身も従者たちの行動を自覚している。いくら粗暴であっても、さすがに自分たちのしたことの重大さはシャレにならないと考えており、それが兼家の邸宅の要塞化となって現れていた。京都中を荒らし回る盗賊たちは、国の施設に押し込んで盗みを働くことはあっても、兼家の邸宅に手出しする者は誰もいなかったほどであった。
盗賊ですら諦める兼家の邸宅への襲撃を師氏の従者たちは計画していた。
そして、そのタイミングがやってきた。
藤原兼家の中納言就任の日である。建物全体が祝賀ムードに包まれるとあれば警備も薄くなると考えたのだ。
おまけに、師氏の従者は一人や二人ではない。詳細の人数はわからないが数百人という集団であったと日本紀略に残っており、簡単な警備では追い返せないだけ人数からなる集団が各々武器を持って兼家の邸宅を襲撃した。日本紀略には「打ち破る」と書いているから、正門に詰めかけて襲いかかるのではなく、塀を壊し、壁を壊して建物を襲撃したのであろう。
祝賀ムードに水を差された兼家側であるが、ボディーガードの武士が前面に立って騒動を鎮めようとするも、その数はわずか三名。ただし、武士以外の従者の中には烏帽子を脱いで鉾を構えて応戦したともあるから、純然たる武士は三人でも応戦できる者の数はもっと多い。何しろ、この時代の男性が烏帽子を脱ぐというのは、現在では全裸になるに等しい痴態である。その姿であろうと構うことなく応戦するというのだからその覚悟はかなりのものがある。
とは言え、多勢に無勢であることに違いはなく、その上、師氏の従者たちは事前に準備を重ねた上での襲撃である。武装においても抜かりはなく、弓矢を携えての軍勢の行進であり、その弓矢を遠慮せずに兼家の従者たちに浴びせたのだ。
この騒動の結果、兼家の邸宅は半壊し、兼家の従者たちに死傷者が出た。兼家の被害の詳細や師氏の従者たちの被害の有無についてはわからないが、何れも軽いものではなかったであろう。
この騒動を目の当たりにして、新たに藤原氏への尊敬の念を抱く者がいるであろうか?
関白藤原実頼の弟である右大臣藤原師氏の従者と、甥である中納言藤原兼家の従者が武器を持って殴り合ったのである。物騒に感じて遠回りに眺めて近寄りたくないと感じたであろうし、こんな人間どもが国家を左右する立場にあるのを喜ぶわけなど無かった。
二つの勢力があるとき、一方の失態はもう一方の支持を集める役に立つ。
二つの勢力が敵対するとき、一方の失態はもう一方にとって絶好の攻撃材料となる。
この失態は、源高明にとって絶好の攻撃材料であった。
源高明は藤原氏に対する責任追及をはじめた。右大臣藤原師氏の右大臣辞職と、中納言藤原兼家の中納言辞職を要求したのである。また、任命責任は関白藤原実頼にもあるとし、実頼にも関白辞任を求めた。
これらの要求はとうてい受け入れられる内容ではなかった。
確かに武器を持って暴れ回ったのは事実である。だが、これは特別な事態ではなかった。地方に目を回せば荘園を巡る争いが繰り広げられているし、京都市内の争いも各所で頻発している。規模の大きさから師氏や兼家のケースは目立ったが、それを追求すると源高明を含む全ての貴族が処罰の対象となってしまうのだ。ここでの源高明の要求は明らかにダブルスタンダードであった。
だが、ダブルスタンダードであろうと、京都市民の多くは源高明の支持に回ったのである。藤原氏が災害救助に尽力したことなど忘れ去り、藤原氏の権力が腐敗し、藤原氏同士の争いが繰り広げられていることに嫌気をさしていたのだ。
おまけに、今回の騒動の被害者である兼家への同情が全く寄せられなかった。京都市中を我が物顔で練り歩く兼家の従者たちが痛めつけられたことを心から喜んでいたのである。
また、加害者側である師氏への同情もなかった。市民の誰もが、今回の師氏の従者たちの行動が、これまで兼家の従者たちから受けてきた仕打ちに対する反抗であることは理解できていた。理解できていたが、反抗が犯行になると同意はできなかった。弓矢を持って邸宅に襲いかかり、邸宅を破壊し、何人もの人を殺したとあっては支持できないのだ。
右大臣藤原師氏と中納言藤原兼家の失脚を求める源高明の要求は、市民感情の反映でもあった。
藤原氏は何とかする必要があった。
安和二(九六九)年二月一九日、昭陽舎が放火される事件が起こった。昭陽舎は平安京の後宮の一つで、かつては村上天皇妃である藤原安子が居住し、藤原安子が飛香舎に移った後は為平親王が住んでいた。
源高明の娘を妃とする為平親王の住まいが放火されたとあってはただ事ではない。しかも、犯人が捕まっていないのである。
源高明はこれこそ藤原氏が自分を追い落とすための陰謀であると訴え出た。たしかに藤原氏は限りなく怪しいが、藤原氏の誰の手による犯行なのか不明であるし、そもそも証拠がない。証拠もなしに怪しいというだけでは逮捕できないのは現在もこの時代も同じである。もっとも、現在と違ってかなりあやふやな証拠でも逮捕に必要な証拠とされていた時代であるから全く同じとはできない。
ただ、これで対立は決定的となった。源高明は藤原氏に反旗を翻したのである。
源高明は藤原氏の独裁が続く現在の政体は非正義であると訴え、藤原氏は源高明の方を反政府勢力として弾劾する。源高明が昭陽舎の放火を藤原氏による陰謀だと訴えれば、藤原氏は源高明の自作自演だと訴える。そんな泥仕合となったのである。
このような泥仕合を目の当たりにしたとき、多くの人はどちらが勝者になるかを考えるようになる。
しかも、延喜式の成立により律令遵守を題目とする律令派のアイデンティティが崩壊していたときである。律令を守ることに主眼をおくと藤原氏を支持しなければならず、反藤原を鮮明にすると反律令とならなければならないというジレンマが律令派の面々を包んでいたのだ。
これまでの例でいけば勝者は常に藤原氏であった。承和の変でも、応天門の変でも、昌泰の変でも藤原氏は勝ち、藤原氏の敵となった者は追放となった。そのため、アイデンティティ崩壊を目の当たりにして態度を不明瞭にしていた者の中から藤原氏に接近する者も現れた。
もっとも、過去の何れも藤原氏の仕掛けた政争ではない。承和の変は反藤原のクーデター未遂事件。応天門の変は反藤原の陰謀失敗。昌泰の変はそもそも政争ではなく、当時の国際情勢を考えての結果である。この前例を考えると藤原氏のほうが何かをするとは考えられない。この先例を踏まえれば、積極的な藤原氏支持を表明するのは拙速であったとするしかない。
そもそも藤原氏に反藤原を追い落とす必要はどこにもないのである。考えてみていただきたい。この時点で圧倒的に優位に立っているのは藤原氏の方なのである。源高明がいかに左大臣であろうと、時代は関白太政大臣藤原実頼のものなのだ。しかも、藤原氏の後継者も数多く内裏に姿を見せるようになっており藤原氏の時代はしばらく続くと考えるのが普通である。
確かに藤原氏に対する支持率は下がっている。もしこの時代に選挙があり、このタイミングで総選挙を実施したら、藤原氏は世論の前に敗れ去っていたであろう。だが、この時代に選挙はない。藤原良房や基経は市民の支持を背景に権力をつかんだし、藤原忠平も高い支持を受ける統治者であったが、この時代の政治家にとっての市民の支持というのは、充分条件であっても必要条件ではなかった。
この市民の支持を過信する者も多く現れた。反藤原感情から源高明に接近する者が続出したのである。この時点での源高明の支持率は高かった。このままでいけば、かつて藤原良房がそうであったように市民の支持を背景に権力を掴めたかもしれない。だが、それは賭けるとするにはあまりにも無謀なギャンブルであった。
歴史上よく見られる現象であるが、政情不安定となったとき、若者が新進気鋭の勢力に、高齢者が旧来の勢力に荷担することがよくある。この現象の理由は単純で、新進気鋭の勢力が権力を掴んだら若者の手に権力が渡り、旧来の勢力が勝ったら高齢者の手に権力が留まるという、ただそれだけの理由である。
藤原氏は高齢者の取りまとめを行なった。
安和二(九六九)年三月一三日、藤原在衡に命じて、粟田山荘で尚歯会を開催させたのである。
これはかなり計算された取りまとめであった。
まず、尚歯会という名目である。尚歯会は本来高齢者の集いそのものを意味するが、唐代になって七〇歳前後の高齢者が集って詩歌管絃の遊園を催す集いとなった。藤原氏はそのイベントを、自身も七八歳と高齢である大納言の藤原在衡に開催させたのである。
さらに、この藤原在衡という人選も絶妙であった。藤原在衡は藤原北家の一員ではあるものの、本流とは言い切れない素性である。しかも、多くの藤原氏が勧学院を経て貴族となるのに対し、藤原在衡は大学の文章生となってから貴族になっている。これはかつて律令派の一員として政界に名を馳せていた高齢者にとっては仲間としても良い感情を抱かせる材料である。これで、高齢の元律令派の貴族が反藤原を旗印に源高明のもとへと流れ込むのを抑えることができた。
源高明の側はこれを、高齢者たちが自分たちを見限ったのではなく、高齢者なしの若者たちによる勢力構築がさらに進んだと見なした。考えてもらいたい。新進気鋭の勢力に高齢者の熱狂的な支持があるだろうか。学生運動の多くは学生だから運動に走るのではない。自分たちをエリートと考え、現時点で権力を掴めていない理由を、自分たちより劣った高齢者が現時点で権力を掴んでいるからだと見なしているから運動に走るのである。
源高明の元に過激な思考と行動を持つ若者が続々と集まり、その過激さを忌避する者が藤原氏のもとへと集う、一触即発の状態となった。
一触即発の事態を収束させるのは、事態の沈静化だけではない。爆発させることもまた、事態の沈静化の一つの手段である。
その爆発が起こったのが安和二(九六九)年三月二五日。
この日、左馬助の源満仲から一つの密告があった。
中務少輔の橘繁延(たちばなのしげのぶ)、左兵衛大尉の源連(みなもとのつらぬ)、僧侶の連茂といった源高明の元に集う過激派たちが謀反を企てているとの密告である。
源満仲からの報告によると、計画は皇太弟守平親王を廃し、為平親王をこれに替えるというものであった。これを単なる皇位継承者交替の策謀とするのは拙速である。為平親王は源高明の娘と結婚しており藤原氏とのつながりは薄い。このまま為平親王が即位したら源高明が摂政となれるのである。しかも、源高明自身が臣籍降下によって源氏なった身であり、皇族復帰も、さらには皇位に就くのも決して不可能な話ではなかったのだ。
源満仲は藤原氏の側近中の側近としてもよい清和源氏のトップである。一見するとこの密告そのものが藤原氏主導による策謀であったと考えられる。しかし、源満仲の密告を受けたときの内裏の騒動は「天慶の大乱(平将門・藤原純友の乱)の如し」であったというから、藤原氏の全面結託による策謀とは言い切れない。実際、右大臣藤原師氏はこの知らせを受けて動揺し取り乱している。
それでもこの知らせを聞いた貴族たちは内裏に集い、警備を固めると同時に、東国へ通じる三関を閉めて内乱の芽を摘もうとした。繰り返すが、この時代の人たちにとって、平将門や藤原純友はついこの間まで現実に存在した悪夢なのである。その悪夢の可能性が存在するとあっては平然としてはいられない。
警備を固めるだけでなく、検非違使に対して容疑者の拘束の命令が出た。ただちに源連、橘繁延の両名が捕らえられ、左衛門府で参議藤原文範らによって尋問したところ、容疑を認める供述が得られた。
これで決定的となった。
左大臣源高明による反乱と、その鎮圧が宣言されたのである。
源高明がこの知らせを寝耳に水の出来事と感じたとは考えられない。源高明の手際が良すぎるのである。
反乱の知らせが京都中を駆けめぐったのは三月二五日。ただし、反乱の知らせの第二報は反乱失敗の知らせである。そして、知らせの駆けめぐった翌日である三月二六日に源高明は出家している。しかも、源高明は自邸である西宮第に籠もって抵抗した。出家したのだから処分の対象外であり、処分の撤回があるまで外には出ないと宣言したのだ。源満仲は西宮第を包囲したが、内部の状況が不明では動くに動けなかった。何しろ反乱を起こそうとしている人間である。邸宅の中に軍勢を用意し、武器を揃えていたとしてもおかしくない。
ただ、源高明の方も、武人である源満仲の前には武力による抵抗は困難であると考えた。軍事経験の有無は、こうした用意の内容にも現れるのである。
武人というものは、ただ単に戦場で武功を挙げることを目的とするのではなく、いかにすれば被害を最小限に食い止められるかを考えるものである。源満仲にとっては、より大きな爆発が起こる前に、緊張状態を破裂させてしまって一気に解決しようとするのは普通の思考であった。つまり、準備が完全に整う前に源高明を動かし、邸宅に閉じこめることに成功してもいたのだ。
源高明の出家とニュースを聞きつけたとき、朝廷内では議論が沸き起こった。後の院政と違い、この時代、出家した者は政務に関与しないのが普通であった。しかし、源高明の出家のニュースの届く前に処分は決まっていたのだ。左大臣源高明を大宰権帥に左遷し太宰府へ追放。謀反の首謀者三名、源連は伊豆国に、橘繁延は土佐国へ、平貞時は越前国へ配流。また、彼らと行動をともにした藤原千晴は隠岐国、僧蓮茂は佐渡国へ配流。実行犯が本州や四国なのに対し、行動をともにした二名は日本海を渡った島への流刑となったのは、実行犯ではなく犯行計画を立てた者をより重くする処分となったからである。
また、左大臣源高明の追放によって空席となった左大臣には右大臣の藤原師氏がそのままスライド。右大臣には大納言藤原在衡が昇格するとも決まった。
なお、主人の右大臣就任に狂喜乱舞する藤原在衡の邸宅の従者たちを藤原在衡が一喝するという事件があったのもこの日である。
この処分が決まった状態で飛び込んだ源高明出家のニュースに対し、朝廷内は議論が飛び交ったようである。出家して政治から離れた者を処分すべきか、出家すれば反乱の罪から逃れられるのか。
結論は、出家有無に関わらず源高明を追放処分とするものであった。
これで全て終わったと誰一人として考えなかった。
なぜか?
源高明は相変わらず自邸に閉じこもり、源連と平貞節の二人が姿を消したからである。特に、一度は逮捕されたはずの源連が姿を消したのはあまりにも手際が良すぎる。しかも源連は、後述するが、ただ単に自分一人で逃亡したのではないのだ。
追放処分が下ったと聞いておとなしくその処分に従うとは限らない。ましてや、時代を変えると息まいている過激派である。平将門のように、あるいは藤原純友のように、地方に下って朝廷に反旗を翻すことを企んでもおかしくない。実際、後の源平盛衰記には、為平親王を東国に連れ出し、東国で勢力を築いて朝廷を討ち取る計画であったと記されている。
出家することで処分から逃れようとしていた源高明は屋敷の包囲に対し抵抗を見せていたが、武力による抵抗も無理、出家による免罪も無理と悟ると、安和二(九六九)年四月一日、自邸に火を放った上で投降した。消火しようとしても無駄であった。西宮第は完全に消失してしまったのだ。これで物的証拠の全てが消えた。反乱に参加しようとした者は誰なのか、武器を集めていたのかどうか、それらを調べようとしていた矢先の邸宅の全焼である。これが怪しくないはずがない。しかも、源高明は完全に口を閉ざしており、立場が悪くなると自分は一介の僧侶に過ぎないと強弁する。これではどうにもならない。
結局、源高明は何一つ供述することなく太宰府に流刑となった。
既に拘束されていた橘繁延の土佐への配流は、火災のあった四月一日に、僧侶の連茂の佐渡への配流と、藤原千晴の隠岐への配流は翌四月二日に実施された。
そして、安和二(九六九)年四月三日、源連と平貞節の捜索命令が出された。
と同時に、もう一人の捜索命令が出された。為平親王の子の為定親王である。源高明から見れば孫にもあたるこの幼児の姿がわからなくなったのだ。話によると源連とともに逃亡したのだという。もしかしたら、これが源高明の策謀であったのかもしれない。
実は、この源連と為定親王、いや、臣籍降下の対象となったから源為定と呼ぶべきか、この二人の姿は安和二(九六九)年を最後に史料から消えるのである。朝廷が総力を挙げて捜索したのに最後まで見つからなかったのだ。
唯一の例外と言うべき記録は、東京都檜原村に伝わる伝承である。源為定を連れて源連がこの地まで逃れてきたという伝承があり、東京都桧原村小岩の八坂神社前の畑は現在でも「タメサダやしき」と呼ばれているだけでなく、 かつては「王子が城」と呼ばれ、「タメサダやしき」の東側に流れている小さな沢は「王子川」と今でも 呼ばれているのである。
おそらく武蔵国に逃れてきたのであろうこの二人の記録はここで終わる。その後どうなったのかを伝える史料はない。
反乱の知らせにもっとも動転したのは冷泉天皇であった。明らかに体調に異変をきたし、天皇としての職務を遂行できなくなったのである。
史料の中にはこのとき冷泉天皇が奇行に走ったと伝えるものがあるが、反乱の知らせを聞いて平然としていられず取り乱したであろうことは考えられても、史料にあるような奇行は考えづらい。
しかし、奇行有無はともかく天皇としての職務が遂行できなくなったのは事実である。いかに藤原実頼が関白であると言っても、関白は天皇の助言者であり、天皇の職務を代行できる立場にはない。
それに、冷泉天皇自身が現在の自分の体調を理解していた。まだ二〇歳の若さであるが、若さと健康とは必ずしも一致しない。この状態で天皇の職務を遂行できないと考えた冷泉天皇は、皇位から退くことを決意する。
安和二(九六九)年八月一三日、冷泉天皇退位。皇太弟であった守平親王が受禅し円融天皇となる。円融天皇はまだ一一歳であり、元服していないため藤原実頼がスライドする形で摂政に就任することとなった。
これは先例を破る摂政就任であった。先帝の関白太政大臣なのだから摂政についてもおかしくないと考えられるかもしれないが、摂政とは天皇の近親者の就任する職務である。
藤原実頼は円融天皇の祖父の兄という血縁関係であるから、血縁関係が全く無いとは言えないが、当時の基準からすると薄いと言わざるを得ない。聖徳太子から藤原実頼までの歴代の全摂政を見渡しても、皇族の誰かや、人臣のうち天皇の実の祖父が摂政になるケースしかなく、祖父の兄という藤原実頼のケースが最も血縁関係の薄い摂政である。
ただ、政策の連続を考えるのであれば関白であった藤原実頼が摂政にスライドするのがベストであった。先例を破ることになるが、先例を守って混乱を起こすより、先例を多少拡大解釈しても政策を連続させて政情を安定させる方が良い結果になると誰もが考えたのである。
安和二(九六九)年九月二三日、円融天皇が正式に即位。これで安定はさらに進むと思われた。
ところが、安定を乱す出来事が安和二(九六九)年一〇月一五日に発生する。少し前から言葉遣いが不明瞭となり、目に見えて体調悪化が見えていた左大臣藤原師尹の死である。何の前触れもないところで訪れた突然の体調悪化と急激な死に、世間の人は源高明を追放したことによる祟りが、すなわち、かつての菅原道真と同じ祟りが降りかかったのだと噂した。
だが、摂政藤原実頼はこの噂を否定。源高明の残党の手による毒殺だと主張した。
安和二(九六九)年一一月八日、それまで姿をくらませていた平貞時を逮捕できたのも大きかった。毒殺犯としての罪状も付け加えた上で、平貞時はただちに越前へ配流となった。
これにより、藤原氏の最後の他氏排斥とされる「安和の変」は終わった。藤原氏の陰謀とするには追放された側の用意が周到すぎ、謀反計画にしては藤原氏にとって都合の良い結果に終わる事件である。
摂政となり国勢の実権を握ることとなった藤原実頼の前に立ちはだかっていたのは、国家財政の危機である。いや、この問題は以前から存在し続けていたとしても良い。
何も国家財政の危機の問題を放置していたのではない。源高明らの反対勢力が大騒ぎするので手出しできなかったのである。強引に政務を展開しようとしたら武力蜂起だってありえるとなれば、さすがに強引な政策を展開することはできない。
だが、反対勢力の一斉追放を行なった今ならば財政問題に着手できる。
実頼の行なった財政政策は減税を伴う緊縮財政であった。
この時代、国家財政の赤字という概念はない。税収だけが国の収入であり、税収以上の支出はできないのである。支出を増やすために現在のように赤字国債を刷るという仕組みがない以上、支出を増やしたければ税収を上げるしかない。つまり増税である。
だが、税の徴収システムが破綻していた。合法にしろ、非合法にしろ、税が免除される荘園が各地に点在しており、税はその他の土地に掛けなければならない。
朝廷は各国の国司に対し、国別の税の徴収を命じている。どのように税を集めるかは国司の裁量次第だ。理想は任国内の全ての荘園に税を納めさせることだが、それができるほど国司の権限は高くない。何しろ荘園の持ち主は国司のはるか上に位置する上級貴族や、貴族と匹敵する権威を持つ寺社である。そうなると、徴税の矛先は国司の権威でどうにかなる土地に向けられる。
近くに存在する田畑なのに、一方は荘園であるため免税であり、支出は荘園領主向けの年貢のみ。その額は安い。一方は荘園でないか、荘園であっても国司より権威の弱い貴族や寺社の所領なので、税が課せられる。
これでは税の不公平感が出ない方がおかしい。
不公平感を減らすには減税することである。税そのものが少なくなれば不公平感が減る。荘園領主に年貢を納めるか、国に税を払うかの選択になるだけだ。
安和三(九七〇)年三月一五日、円融天皇の命令により、服御常膳の四分の一を減らすとの命令が出た。まずは第一段階として円融天皇個人の予算を二五パーセントカットするというものである。
だが、この支出カットが天皇だけに留まるとは思えない。かなりの可能性で貴族や役人の給与カットにもつながるのである。これまで何度も画策しながら源高明らの猛反発により実現しなかった政策を、やっと実現させることに成功したのである。
もっとも、猛反発する理由もわかる。何しろ、村上天皇が天暦一〇(九五六)年に行なって大失敗したのと同じ政策なのだ。だからついこの前の失敗を繰り返すのかという反発があってもおかしくない。
だが、少し考えれば今回の円融天皇の、正確に言えば摂政藤原実頼の命令と、村上天皇の失敗した命令とに大きな違いがあるのがわかる。それは、穀物の絶対量。不作のときの減税は京都市中に流通する穀物量が減って飢饉を招くが、不作でなければ減税によって京都市中に流通する穀物量が増えるのである。
これは現在にも通用する話であるが、減税と増税、好景気と不景気の組み合わせは、不景気のときに増税し、好景気のときに減税するのが正解なのである。よく、不景気のときに増税をしたらますます景気が悪くなるという人がいるが、そんなことはない。不景気というのは市場に流通する資金の絶対量、平安時代でいうならばコメをはじめとする穀物の絶対量が減っている状態である。このときに減税をすると、現時点で資産を持つ者は資産を守ろうとするようになるから市場に資産が出回らない。何しろ資産を吐き出すより抱えるほうが自分の暮らしがより良い暮らしになるのだから。
無論、資産の少なさに苦しみ貧しい暮らしをしている人がいるのは知っている。ただ、そうした貧しい人たちを救うために自分の資産を吐き出そうとしない。ひどいケースになると、充分な資産を持ちながら自分を貧困者と考え、他者を援助するどころか他者に援助してもらおうと考える者がいる。これは二一世紀の現代日本の年齢別資産状況を見ればご理解いただけるであろう。
市場に資産を出回らせるようにするには、増税をして資産を持つ者から強制的に資産を没収して市場に資産をばらまく必要がある。そうしないと貧しい者が資産を手に入れるチャンスすら失ってしまうのだ。現代日本がデフレに苦しみ、二〇代から三〇代の者が不安定な非正規職で安月給に苦しみ、結婚もできず、子供を産み育てることもできず、ただただ過労死するのみという一方で、六〇歳以上の高齢者、特に年金生活者は充分な資産を持ち、しかもその資産を使うどころか貯金して死蔵させているという現状を見たとき、購入欲の少ない高齢者ですら買わざるを得ない生活必需品に課税して強制的に資産を吐き出させるのは、景気対策の王道であるとしても良い。
一方、好景気というのは市場に資産が出回っている状態である。このようなときはそもそも手元に資産を抱え込んでいない。つまり、増税を命じられても手元に資産が無いのだから税を払うことができない。すると、税を払うために資産を使うのではなく貯め込まねばならなくなり、市場に流れる資産の動きを止めてしまう。こうなると待っているのは景気の減速だ。
税は国や地方自治体の行う事業のための予算を確保する方法であるが、同時に、市場に流通する資産の量を調節し、強制的に景気を調整するという機能もある。
同じ減税でも、村上天皇は不景気のときに減税をしたから失敗したが、摂政藤原実頼は好景気のときに増税しようとしているのである。方法は同じでも、政策の意図としては真逆とするしかない。
安和三(九七〇)年三月二五日、元号を天禄に改元するという布告が行なわれた。新しい時代の創世を印象づける目的で。
しかし、新しい時代の創世に反対する勢力は、首謀者の追放後もなお勢いを止めてはいなかった。
天禄元(九七〇)年四月二日、冷泉院が突然焼け落ちたのである。
冷泉院は単なる建物ではない。かつては村上天皇が仮の御所として居住し、冷泉上皇も退位後の住まいと定めてここまで七ヶ月住み続けてきた建物である。この冷泉院が焼け落ちたのだ。
摂政藤原実頼は緊縮財政に反対する者の放火と考えて捜査を命じるが、放火犯の摘発はできなかった。
安和の変によって反藤原の勢力を追放したことで、藤原氏の一党独裁が事実上実現した。藤原氏でなければどんなに優秀でも政権に加われない。藤原氏の藤原北家の本流であればどんなに無能でも政権を握れる。そんな時代が完成したと考えたのだ。
そんな時代になって、人はどう考えるであろうか。
権力を志向しながら権力を握れないと考えた者が走る最後の手段は、古今東西テロリズムと決まっている。それは平安時代中期においても代わりはない。
安和の変によって藤原独裁は完成されたとしてもよい。そして、これからおよそ一〇〇年に渡って確かに政局は一見すると安定したように見える。だが、テロの取り締まりのために武士が勢いを強めると同時に、藤原氏内部の争いが繰り広げられる時代の登場でもある。
藤原実頼はこの悪循環を止めようとしたのか? 結論から言うとしていない。しかし、悪循環であるとは認識している。認識していてもこの悪循環を崩すことは国家存亡の危機を招くに等しいと考えていたのだ。だから悪循環の中でもがき苦しみ、どうにかして結果を出そうとした。
藤原実頼は自分の立場について、外戚ではないため師輔の子供たちから軽んじられており、自分の関白の地位も「揚名関白」、すなわち、名ばかりの関白である、と評している。たしかに藤原伊尹、兼家、兼通といった藤原師輔の子供たちから見れば、利用する価値はある一方、目障りな存在でもあったろう。
そして、彼ら師輔の子供たちが次代の藤原氏を、それはすなわち次の日本を担うのである。実頼自身にも子供がいるのに、時代は弟の子供たちのもとへと移っているのだ。
甥たちに軽んじられ、自らを卑下しながらも、老いた身に鞭うって国政を支えている藤原実頼に対する京都市民の評価を、藤原氏の面々はわかっていなかった。
天禄元(九七〇)年五月一八日、摂政太政大臣藤原実頼死去。享年七一歳。
このときはじめて、藤原氏は藤原実頼が京都市民にどのように思われていたのかを知った。
実頼の死を聞きつけた京都市民が大挙して、実頼の邸宅である小野宮第に押し寄せ、亡き実頼に一目会わせろ、それができないならせめて門前で追悼させろと請願してきたのである。
このときはじめて、藤原氏の面々は実頼が京都市民にどう思われていたのかを知った。
天禄元(九七〇)年五月二〇日、故藤原実頼に清慎公の称号を贈る。同日、右大臣藤原伊尹が後任の摂政に就任することとなった。
甥の摂政就任と、摂政としての政務遂行が安定しているのを見届けるのを待っていたかのように、天禄元(九七〇)年七月一四日、忠平の子で最後まで残っていた大納言藤原師氏が亡くなった。享年五八歳。
絶対的独裁者として四〇年に渡って君臨し続けてきた藤原忠平の子供たちは、天禄元(九七〇)年をもって全員故人となった。そして、時代は藤原師輔の子供たちの時代へと移り、師輔の子供たちの争いが始まると誰もが考えた。しかし、誰一人として、その争いの勝者が兼家の末っ子になると考えた者はいなかった。
藤原道長、このときわずか五歳。
- 天暦之治 完 -
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