朱雀天皇の治世と藤原忠平の生涯を追いかけるとき、絶対に欠かすことの出来ない人物が一人いる。
より正確に言えば、その人の時代であることを説明するとき、京都で一番勢力を持っていた貴族の名が藤原忠平であり、そのときの天皇が朱雀天皇であるという説明の成されることが普通である。
その人物の名は、平将門。
多くの歴史書では道真の死の後すぐに平将門を描く。もしくは、道真の怨念を描いてから平将門を描く。つまり、この二つの事件を連続して描くことが多いが、今回の作品ではそのようなスタンスをとっていない。それは、この二つの事件が連続していないからである。何しろ道真の死からここまで四半世紀もの時間差があるのだ。
前作「左大臣時平」で菅原道真の死から五年後の時平の死までを扱い、今回の作品では時平の死後の日本を描いている。その四半世紀も描いているため、連続させたくてもできないのが実状である。
その四半世紀の間に出てくる平将門の記録は極めて少ない。延喜一八(九一八)年から一〇年間、藤原忠平のもとに仕える武人であったことが記録に残っているが、その一〇年間は将門が何歳から何歳までの一〇年間のことであったのかの記録が残っていないのである。
将門の記録が登場するようになるのは延長八(九三〇)年になってからで、この年、将門は忠平の元を去って故郷の下総に帰郷したとある。忠平のボディーガードをしていた頃、将門は忠平に対して幾度か朝廷のオフィシャルな武人としての地位を求めたようであるが、忠平からの返答は無かった。藤原北家独占の例を見ても忠平は人事に巧みな人物であるとは言い切れず、このときの将門に対する処遇が将門の反乱の遠因になったとする説もある。
忠平の元を去ったのは中央での官職を得られなかったからでもあるが、年齢的なものもあると推測されている。この時代、地方の貴族の子弟が京都の貴族に仕える武士となるのは一五歳頃からで、三〇歳になるかどうかという年齢になると退職金をもらって故郷に帰るのが通例であった。将門は桓武天皇の五世孫という血筋であるが、同様の血筋の貴族の子弟は珍しくない。
将門が一般的な武士と同様に一〇代後半から二〇代にかけての日々を忠平に仕える武士として過ごしたとすると、将門の生年を延喜三(九〇三)年とする説はかなり有力な説となる。とすると、このときの将門は二七歳となり、中央に上った貴族の子弟が地方に帰郷する一般的な年齢となる。なお、延喜三(九〇三)年生まれとするのは将門が道真の生まれ変わりであることを宣伝するための意図的な計算であるとし、実際には元慶八(八八四)年頃ではないかとする説もある。ただ、そうすると将門はこの時点で四六歳となってしまい、それだと年齢が高すぎてしまう。ここはやはり、延喜三(九〇三)年生まれかどうかはともかく、延長八(九三〇)年時点の平将門は三〇歳になるかならないかという年齢であったと考えるべきであろう。
下総に帰った翌年である延長九(九三一)年にはすでに、将門は「女論」によって伯父である平国香や平良兼と不和になったとされている。将門の生涯を記した『将門記』には「女論」とあるだけでその詳細は伝わってないが、他の資料によると、前常陸大掾であり常陸に広大な荘園を所有していた源護(みなもとのまもる)の娘、もしくは良兼の娘を巡る争いであったと考えられている。
源護には三人の娘があり、それぞれ将門の伯父である平国香、同じく将門の伯父の平良兼、将門の叔父の良正に嫁いでいるのは記録に残っているが、その三人姉妹のうち誰か一人を将門の妻とすることを願っていたのに、三人とも自分の妻に出来なかったという争いではないかというのが、現在考えられている最も有力な平将門の「女論」である。三人姉妹の誰でもいいというのはいい加減極まりない話と思われるが、それは恋愛結婚を前提と考えているからいい加減に感じるのであって、源護の持つ所領の相続を考えるのであれば、三人姉妹の誰かと結婚することで所領は獲得できるのであり、そこに恋愛の介在する余地はない。そして、この、所領の獲得を望みながら所領を獲得できなかったことが原因となって将門は父の兄弟たちと対立したと考えられている。
将門の父である平良将は高望王の三男であり、長男の平国香や次男の平良兼を差し置いて従四位下鎮守府将軍となるなど、一族の中で最も出世していた。下総国で大規模な農園の開拓も行い荘園を獲得するなど所領を増やしていたが、将門が中央にいる間にその所領を国香や良兼らに奪われるようになっていた。一説によると将門が京都にいる間に良将は亡くなったという。長子相伝が確立されていないこの時代、所領をはじめとする死者の財産は息子ではなく兄弟の手に渡ることは珍しくない。また、忠平は故郷に帰る将門に対し、左大臣として相応しいだけの退職金を与えているのも、父の所領の相続ではなく、新たな所領の開墾を意図してのものである。
しかし、新たな所領を開拓するより、すでに存在する所領を相続するほうがより容易である。
将門にしてみれば、父が労力をつぎ込んで開拓した荘園を伯父たちに奪われたのみならず、新たな所領を手にするチャンスも伯父たちに奪われたのである。これは簡単に飲み下せる現状ではなかった。
平国香や平良兼が将門のこの感情を知らないわけはなかった。そのため、京都から下総に戻る将門を途中で迎え撃つという事件も起こった。このときは将門と、将門の叔父の一人である平良文が協力して対抗することで、将門は伯父二人を打倒し、良兼は人質として娘を将門に差し出した。将門は女系による領地相続を確認した後に良兼の娘を妻とした。これは、良兼の立場からすれば、娘を人質に取られた上に自分の所領を将門に奪われるということでもある。
中央に目を向けると、忠平の統治能力の低さが如実に現れていた。
醍醐天皇の退位と同時に摂政となった忠平は、理論上、天皇と同じだけの大権を手にしているはずである。だから、醍醐天皇の政務を継承すれば少なくとも安定は出来るはずであった。そして、政権の安定ということならば忠平は実績もあった。醍醐天皇の治世の最盛期には忠平も左大臣として辣腕を振るっていたし、忠平は何と言っても現実主義を前面に掲げる良房と基経の後継者なのだから、現在の日本に必要な施策を実施してくれるはずという期待があった。
ところが、忠平は亡き醍醐天皇のその期待を裏切ってしまったのである。
政治家の評価は庶民生活の良し悪しで決まるが、その中の指標の一つとなるのが、治安。襲われる心配なく街中を歩けるというのは当然のことであり、それができない政治家は政治家失格であると言うしかない。そして、忠平はその指標において政治家失格とするしかないのだ。
京都に強盗集団が多発したのも、前年の落雷をピークとする道真の怨霊の噂によるパニックというのは言い訳にしかならない。生活に対する不満と未来に対する不安、そして、失業という現実が合わさって治安の悪化を生んでいるのに、治安の悪化に対する対処が不充分だったのがこのときの忠平であった。
治安を良くするには二つの方法を実践するしかない。未来に安心を持てる職業を用意して失業を減らすことと、犯罪者を徹底的に処罰することの二つである。延長九(九三一)年二月八日、近衛府、衛門府、検非違使らに夜警させるよう命じたのは、二つの方法のうちの後者であるから、これはごく普通の対策と言える。
一方、前者に対する政策は全くなかった。これについては現在の日本を考えてもらえば理解できるであろう。コンクリートから人へとか、グローバリゼーションとか、いろいろな言葉を掲げてはいるが、結局は勤労者を減らし、勤労者一人当たりの作業時間を増やし、給与は据え置くか以前より下がっているという現実があるのに、どうやって将来への安心を感じられようか。その上、新しく仕事を興そうにも失敗する可能性は極めて高く、仕事を興して失敗したら、莫大な負債を抱えてホームレス生活になるという現実がある。貧困ゆえに仕事を興す初期費用も用意できないし、成功したところで待っているのは世界一の利率である法人税。働いても働いても税に持って行かれるだけだというのでは意欲など湧くわけがない。挑戦を消極的にさせる上に敗者復活の機会を用意しないのだから、これでは経済がますます消極化し、失業率は悪化し、仕事を手に入れたとしてもそれは過労死と隣り合わせの仕事になってしまう。
この時代もそれは同じだった。この時代の職業と言えば何といっても農地であるが、農地の新規開拓は進まず、進んだとしても治安の悪化により農村に安心して住めなくなっているのだから、人災による国の基幹産業の衰退と言うしかない。基幹産業の衰退を呼んだのは天候不順もあるから必ずしも人災だけが原因であるとは言い切れないが、労働に対する収穫量が乏しく、農村に残ったとしても生活できないという社会になってしまっているのは充分に人災である。
この人災があるから生きるために都市に人が流れてくるのだが、都市に行ってもそんなに職業があるわけではない。貨幣経済は破綻し、コメや布を中心とする物々交換の経済が当たり前となっているのだから、手元にコメも布もない以上、何か仕事を新しく始めようにもスタートの段階で初期投資費用がないという現実がある。そして、成功したらしたで膨大な税が課せられるようになってしまっていた。
今が豊かであればこれからも豊かでいられるが、豊かでない者が豊かになるチャンスはほとんどない。このような社会で豊かになっているのは、現時点で税から逃れられる荘園を持つ貴族や寺社とその荘園で働く農民だけで、それ以外の多くの日本人は、未来を手にするなら過労死を、過労死を逃れるなら失業を運命として受け入れなくてはならなかった。
そのどちらも受け入れられないことへの結果が治安の悪化だったのだ。
治安の悪化に対処するべく、忠平は、延長九(九三一)年四月二六日、承平に改元すると宣言した。また、五月一一日には常平所の穀物を売却することを定め、京都市内に穀物が安値で供給された。
だが、そのどちらも問題の解決にはつながらなかった。改元は何の効果ももたらさなかったし、穀物の安値の供給も、供給が尽きたらそこで終わり。終わった後に待っているのは、貧しい者でも穀物を買えたには買えたが、豊かな者はもっと穀物を買うことができ、終わってみれば貧富の差がさらに拡大したという現実だけである。
忠平はこのあたりを理解していたのかどうか怪しい。
良房は大規模な農園を自費で開拓し失業者を救済した。
基経は養父のこの政策を受け継いだだけでなく、イベントを頻繁に開催することで人為的な好景気を生んでいた。
忠平にはこの両方がない。すでにある荘園を維持することには苦心するが、新たな荘園を開墾することはなく、失業者の救済もなかった。すでにあるイベントは例年通りに開催するが、新たなイベントを創造することはなく、人為的な好景気も生み出さなかった。
全ては前例なのである。新しく何かを始めることに恐怖を感じてでもいるのか、忠平の生涯に新たな施策はない。新たな問題が起こっても既存の制度や既存の法で対処しようとしている。これは紛れもなく律令派の思考であり、律令派の行動である。だが、忠平は反律令を掲げた良房や基経の政策を継承していると考えていたし、現実主義を打ち出した時平の政策を、律令的ゆえに良房や基経の政策から逸脱していると考えて批判したのである。
これは何たる矛盾であることか。
そして、何たる不幸であることか。
この時代の日本人にとっても、忠平個人にとっても。
忠平が律令派の一員として、何であれ律令に従うのであれば論理矛盾は起きなかったのに、何であれ律令に従おうとする律令派の貴族を批判しながら、自分は前例に固執し、新たな施策を打とうとしなかったのである。
延長九=承平元(九三一)年に起こった大規模な治安悪化も、突き詰めれば忠平の無策が原因だとするしかない。その芽は醍醐天皇の治世にはすでに芽生えていたというのは言い訳にしかならない。芽生えていても摘み取ってしまえば犯罪はなくなるのに、忠平は摘み取ろうとする政策を打っていない。失業を減らそうともしていないし、貧困を無くそうともしていない。ただ、現状を維持し、現状の豊かさを手放そうとしない人に手を着けることなく、失業者を切り捨てて貧困を増やしただけである。
豊かな者が貧しくなることが少ない代わりに、貧しい者が豊かになることも少ない社会は、明らかに異常である。だが、これは不満を抑えられる。豊かな者は財産を守れるのだから批判しない。貧しい者は誰もが豊かになれないのだから嫉妬しようがない。
当時の人は忠平を悪く言わなかったという記録は嘘ではない。だが、現状に満足していたかと言えばその答えは断じて否である。
承平元(九三一)年七月一九日、宇多法皇没。享年六五歳。宇多法皇が息子の死を、そして、現実世界の混乱をどのように眺めていたのかを伝える史料はない。道真の死後は政治の表舞台から距離を置くようになり、道真の怨霊の噂にも何ら声明を出すことなく、ただただ、仏教に自らの救いを求め、何ら手をさしのべることなく寺院に籠もっていただけである。
この承平元(九三一)年という年は、一二月二日、群盗横行に対処するべく、さらなる警護の増強を命じたという記録を持って終わる。
ただ、この群盗はそれまでのものとは明らかに規模が違っていた。
京都の外から群を成して市中に押し寄せただけでなく、亡き藤原菅根の邸宅に押し入って立てこもり、検非違使や六衛府の武官たちと互角の市街戦を演じたのである。邸宅からは矢が雨のように降りかかり、死傷者も数多く現れた。籠城は丸一日続き、最後は群盗が武器を投げ出して降伏したが、京都市民は、これはむしろ幸運なのだと考えられた。
なぜなら、群盗のほうが勝ってしまうことが珍しくなくなってしまっていたのだから。
いったい群盗は何人いるのかわからない。捕まえても捕まえても次から次へ現れる。京都の外からやってくることも多いということで、山崎などの京都の手前の地点の警備を強化してもみたが、それでもいつの間にか京都に奴らはやってきてしまうのだ。そして、暴れ回って、盗み回る。京都の路上を強盗が風を切って歩くのが当たり前になり、取り締まらねばならない側は我が身を守るのに精一杯で市民を守ることもできなくなってしまった。その上、どんな重い罪を犯しても死刑になることはない。牢獄に閉じこめるか、はるか遠くに追放するかしか処罰がなくなり、牢獄に閉じこめられた者はいつの間にか脱獄し、遠くへ追放された者は追放先を抜け出していつの間にか京都に戻っていた。
たしかに犯罪者を捕らえよという命令は下った。だが、命令が下ったことと犯罪者を捕らえることができるかどうかは別問題であった。また、犯罪者を捕らえることに成功しても、犯罪者に刑罰を下せるだけの社会システムは出来ていなかった。
年が変われば凶事もリセットされると考える人は多いし、現実の悪夢も年が変われば無かったことになると考える人も多い。そんなささやかな希望を持って、多くの人は承平元(九三一)年という年を諦め、新年を待ち望んだ。承平元(九三一)年の終わりが地獄の日々の終わりであると考えたのだ。
しかし、地獄はまだ始まったばかりであることを気づいてはいなかった。
承平二(九三二)年、ついにその知らせが届いた。
海賊が瀬戸内海を荒らし回っているという知らせである。規模の大小はあれど海賊自体は前から存在しているから、海賊の知らせが京都に届くことは珍しくもなく、当初はいつも通りの知らせだと考えた。
だが、すぐに、今回の知らせはこれまでの知らせと完全に異なることを悟らなければならなくなった。
海賊が瀬戸内海を制圧してしまい、京都と九州を結ぶ連絡網が遮断されたのである。連絡網と言っても古代ローマ帝国のように街道を網の目のように張り巡らせているわけではなく、メインとなるのは瀬戸内海と山陽道の二つで、補佐として山陰道と四国を横断する南海道があるだけだが、メインとなる瀬戸内海と山陽道の両方が海賊の横行で機能しなくなってしまったのである。
忠平は海賊を捕らえるよう命令を出した。
この命令を受けた一人が藤原純友である。純友は、藤原基経の兄の藤原遠経の子である藤原良範の三男だから藤原北家の一員でもあり、藤原北家を優遇する忠平の人事政策に乗って出世していなければならない人間なのだが、どういうわけか記録には全く姿を見せていない。生年には様々な説があるため確定していないが、もっとも有力である寛平五(八九三)年の生まれとする説に従うと、承平二(九三二)年時点ではもうすぐ四〇歳になろうかという年齢になっている。
藤原北家の人間でありながら四〇歳になるまで何の記録も残していないのは異常事態である。そのため、藤原基経の兄の孫であるという主張は箔を付けるための捏造であり、実像を表していないのではないかとする説まである。
だが、こうも考えられる。
出来が悪かったのではないか、と。
藤原北家の人間だという理由だけで無条件に高い地位が与えられるわけではない。藤原北家のうち、藤原家専用の教育機関である勧学院での成績が優秀な者だけが大臣への進む道を与えられ、そうでない者は自己の運命によらねばならない。確かに他の貴族よりは優位なポジションからスタートできるが、そこから先は実力になのである。
四〇歳になってやっと従五位下の位階が与えられて海賊鎮圧のために伊予国へ派遣されたというのだから、貴族としての藤原純友の能力も知れてしまう。後の歴史を見れば、この人には確かにリーダーシップならばあったが、教養とか、政治家としての手腕とか、統治者として必要な素養とかが欠けている。言い方は悪いが、もっともケンカが強いためギャング集団のボスに君臨できているものの、暴れ回って近隣住民に迷惑をかけるしか脳のないチンピラと同じだったのだ。
瀬戸内海に派遣されたのも、少なくともケンカは強いのだから殴り合いなら役に立つというだけのことで、貴族としての使命感などは二の次とするしかない。
忠平にしてみれば出来の悪い親戚を都合良く追い出すことに成功したというところだが、この判断は最低最悪の結果を生んでしまった。
最悪の結果を生んだのは忠平の親戚に対する処遇だけではなかった。この年、再び伝染病が猛威を振るい始めたのである。
承平二(九三二)年の四月より伝染病が大流行し、多くの市民が病に倒れ、命を失った。そしてこれもまた道真の呪いだという噂が広まった。
治安の悪化、海賊の跋扈、天候不順、失業の増大、貧富の差の拡大、再チャレンジのない社会とただでさえ未来を絶望させる状況であるところに加わった伝染病の流行は、未来への希望をますます無くすのに役立つだけだった。
医学水準が現在と比べものにならないこの時代では伝染病の流行に対処できる手段だってたかが知れているが、それでも統治者が未来への希望を抱かせる政策を打てば市民の動揺はどうにかなる。それなのに、忠平はこの状況でも全くの無策であった。忠平の成した政策と言えば、自分を従一位に昇格させたことと、従一位にして摂政であり左大臣である者、すなわち忠平自身は牛車に乗ったまま内裏に入ることが許されるという特権を作っただけであった。
伝染病の猛威は季節が変わってもなお続き、八月四日、伝染病は宮中にも押し入って、右大臣藤原定方の命を奪った。これまでの功績を評価するとして亡き右大臣に従一位を贈ったが、それが景気を良くするわけでも、治安を回復するわけでもなかった。
治安の悪化は年が変わっても収束することなく、承平三(九三三)年一月二三日、忠平は京都の警備体制の再構築を命じた。再構築と言えば聞こえはいいのだが、一人当たりの勤務時間と管轄を増やすと同時に定期的に割り振られている休暇を減らしたのである。その上、給与はそのまま据え置かれ、出世も極めて数少ない例外しか見られなかった一方で、勤務態度不良を理由に降格される武官が大量に発生した。
インセンティブもなく、バックアップもなく、ただただ働けと命じる忠平の姿勢にやる気を失う武官が続出し、再構築したはずの治安維持体制が早々に破綻した。
こんな命令を出した理由は単純で、国家財政の破綻。税収が需要に全く足らないのだ。今と違って国家財政の赤字を国際で充填するという考えはないから、税収だけが国家財政である。だけど治安悪化の対策は欠かせないから、いまの人員に無茶をさせるしか出来ない。今もよく見られる最悪の人事政策である。
忠平の立場に立てば、予算が限られている以上、今の状況で治安を回復させなければならないとなるのだろうが、実際に受け持つ立場にとってそれは、理屈として受け入れることは出来ても、感情として受け入れることなど出来ないことだった。懸命に働いても全く評価されず、一度の懸命な努力が前例となってノルマ化され、全力疾走を続けさせられているのは理屈でどうこうなる話ではないのだ。
この予算不足に眉をひそめた女性が一人いた。忠平の五歳下の妹で、醍醐天皇の妻でもあった藤原穏子(ふじわらのやすこ)である。彼女は皇太后として得ている給与の四分の一の返上を申し出た。皇太后である自分が給与の返上を申し出れば兄をはじめとする貴族たちも給与返上を申し出て国家財政が多少なりとも改善されるのではないかとの思いがあったのである。
だが、妹の思いに兄は応えなかった。国家財政の緊迫も、その結果である治安の悪化もそのままにしておきながら、自分の財産を減らそうとは全く考えなかったのである。荘園は相変わらず安泰で、閉ざされた世界を形成していた。荘園の持ち主である貴族たちも豊かな暮らしを維持しており、その豊かさは増やすものであって削るものではなかった。穏子が期待を寄せたもう一人の兄である仲平も、前年に亡くなった藤原定方の後を受けて右大臣になり、右大臣に合わせた待遇と報酬を求めた。
この苦境にあっても、富める者は誰一人として、荘園の外に置かれている人たちを助け出そうとする意欲を見せなかったのだ。
地方から、特に瀬戸内海沿岸の諸国から、海賊が暴れ回り生活が破壊されているという悲痛な叫びが届いていたが、朝廷は、神頼みと、海賊拿捕の命令だけをして、神頼みのための予算も、海賊拿捕のための予算も割かなかった。
特にやっかいなのは、瀬戸内の海賊が新羅の海賊の残党と手を結んでいることであった。操船術に長けた新羅人は、攻め込まれる側にとってはやっかいな海賊として手に負えない存在だが、暴れ回る側に立つと頼れる味方となる。その上、新羅人の多くは故郷を失っている。新羅はもはや風前の灯火であり、故郷に戻ってもその土地は別の国の領地になってしまっている以上、帰るべき場所などない。その彼らの居場所となったのが瀬戸内海の海賊だった。
ひどいケースになると、海賊集団が新羅人のみから構成されるというケースまで発生した。一〇〇年間に渡って日本への侵略を試みては失敗し続けた新羅が、皮肉なことに、国家滅亡の最期の瞬間に日本へ侵入することに成功したのだ。
承平四(九三四)年五月九日には、山陽道、南海道の諸国に対し、海賊が平定するように神に祈れという命令が出された。祈願のための予算は各国の負担であり、京都からは出ていない。
承平四(九三四)年七月二六日には、海賊を捕らえるために在原相安(ありはらのすけやす)に武士を率いさせて瀬戸内海に行くよう命令が下ったが、そのための国からの予算はゼロではないにしても乏しいものであり、在原相安は軍勢のためにかなりの自己負担を強いられている。
既に述べたように朝廷の財政はとっくに底をついていた。何しろ貴族や役人に与えられる給与まで目減りしてきていたのだ。その代わり、貴族や役人が既に手にしている資産については、何ら手を着けられることなく保護されている。
給与の目減りの仕組みは巧妙であるが単純な方法でもあった。新たな採用を削り、出世を抑えたのである。これだと、既に地位を掴んでいる者は現状維持が保証されるし、医学の発達している時代ではないからある程度の年齢になると自然死が多くなる。よって、時とともに給与を受け取る立場の者が減り、結果として人件費の抑制となる。
だが、これを喜ぶ者がいるだろうか。努力しても、結果を出しても、評価は良くて現状維持で、そうでなければ下がるだけ。役人となり貴族となるための努力をどれだけこなしても、貴族になる道はおろか役人になる道が閉ざされる始末である。
税の支出を見直すときに公務員の人件費を減らせというのはよく言われる主張であるが、その主張を実現するために公務員の人件費総額を削ると、待っているのは公務員になることを目指しながら公務員になれなかった高学歴失業者と、働いても働いても給与が上がらない末端の公務員、そして、公務員と同じ仕事をしながらパートタイムジョブの契約しかできない身分も給与も不安定なワーキングプア、そうした人々の増加であり、主張が本来求めていたこと、すなわち、ろくに仕事もしていないのに高い給与を貰っている恵まれた公務員の削減となることは少ない。
それでも公務員の人件費を減らすという主張を実現させたというのならば嘘ではないのである。忠平が実行したのは今の日本で起こっているのと同じことであり、忠平も、今の日本の都道府県知事や市町村長も、公務員の人件費削減という目的ならば達成したのだ。ただし、それは最悪の結果を伴って。
恵まれた者だけが恵まれた暮らしを過ごす。そうでない者は恵まれた者となれない。これで未来に希望が生まれ、治安が良くなったとすればそのほうがおかしい。忠平だってそこまで愚かではない。だが、忠平の立場で言えば「国の予算が底をついているという現実がある以上、仕方のないことではないか」となる。
そう、全ては「仕方のないこと」なのだ。「あれもしなければならない」「これもしなければならない」のはわかっているが、「だけど予算が残ってない」という現実があるのだから、「仕方がない」と、口にする。
しかし、「仕方がない」という言葉は政治家が絶対に口にしてはならない言葉でもあるのだ。仕方がないからと自己が背負わねばならない責任を放棄し、自己弁護を優先して現実の困難を放っておくようでは政治家失格と言うしかない。なぜなら、政治というのは、現在起こっている問題を力ずくで解決することなのだから。だから政治家にはそれだけの権力が与えられているのだし、庶民は力ずくで問題を解決させるために税を払っている。それを、「仕方がない」という口上で逃げるのは、「自分は能力が低いから現状では問題を解決できない」と言うのと同じである。これではわざわざ税を払ってやる意味などないし、税を受け取る資格もない。
このときの忠平は明らかに政治家失格であった。
確かにこのときの日本は、並の政治家であれば「仕方がない」で逃げだしたくなる状況が続いていた。
陸奥国分寺や東大寺では落雷による火災が発生し、伝染病はなおも続き、治安は悪化して田畑は放棄され、海賊は瀬戸内海を荒らし回っている。
国外に目を向ければ、旧渤海の領域では契丹による大量殺戮により多くの渤海人が殺され、朝鮮半島では高麗が百済の領域に進行し、百済北部の三〇城を占領して数多くの百済人が難民となった。
また、滅亡寸前の新羅から逃れてきた者が瀬戸内海の海賊に加わり日本国内で暴れ回っている。
国の内側も外側も滅茶苦茶な状況になってしまっているというのがこのときの京都の貴族たちの心情であろう。「少し前までは安定と平和があったのに、今は動乱の日常が続いている。自分たちは何と不幸な時代に生きているのか」と。それはあくまでも自分が時代の被害者であると考え、与えられた権力を生かそうとしない受け身の姿勢であった。
承平四(九三四)年一二月に、瀬戸内海の海賊が伊予国喜多郡の不動穀三〇〇〇石あまりを奪うという知らせを聞き、その海賊の首謀者がかつて忠平の命令によって瀬戸内海に派遣した藤原純友であると知ったときも、貴族たちは世の不幸を嘆くだけで何もしなかった。
ちなみに、後のかな文学のスタートとして位置づけられる紀貫之の「土佐日記」であるが、この作品は承平四(九三四)年一二月二一日をスタートとしており、紀貫之は可能な限り瀬戸内海を避ける道程を選んでいることが見てとれる。土佐国から阿波国へ向かうルートも可能な限り瀬戸内海から遠くなるように行動し、四国から本州へと向かうとき、通常ならば船で一気に難波津(現在の大阪港)へと向かうのに、紀貫之は淡路島の南端に上陸し、可能な限り陸路を選んで、海の上が最短距離となるようなルートを選んだのち、和泉国へ上陸している。土佐から京都への帰還の日程のうち、海の上にいたと考えられるのはわずか二日だけという当時としては異例なルートであったのも、海の上の海賊を恐れたからであろう。
一二月二一日に土佐国府を出発した紀貫之が京都に戻ってきたのは承平五(九三五)年二月一六日のこと。およそ二ヶ月間の移動距離というのも異例である。いくら交通が発達していないこの時代でも、土佐から京都に移動するには二〇日もあれば充分であったにも関わらずその三倍近い日数を要しているのは、最短時間を選んだ場合の身の危険を考えてのことであった。そしてそれは、紀貫之一人だけの特別な選択ではなく、この時代のごく一般的な考えとなってしまっていた。貴族の移動ですら安全を保障できない、いや、貴族であるがゆえに安全を保障できない、そんな治安の悪い日常になってしまったのである。
そしてこの承平五(九三五)年二月というのが、日本国中に走る激震のスタートとなる月でもあったのだ。
京都にはまだ情報が届いていなかったが、承平五(九三五)年二月四日、後に「平将門の乱」とも「承平・天慶の乱」とも称されることとなる内乱が始まったのである。
記録によればその日、源扶、源隆、源繁の三兄弟が常陸国野本に陣を敷いて将門を待ち伏せ、合戦となったとある。合戦となるぐらいだから、手ぶらで歩いていたところに襲いかかるような光景ではなかったであろう。
戦闘の状況について、将門側の記録は「望んでいた戦闘ではなかったが、前後とも囲まれ身動きできない状態になってしまい、やむを得ず戦闘となった。神の加護があったために我々の弓矢は風に恵まれて敵陣に向かい予想通りに矢が命中した。激しい戦闘となったが三兄弟は敗れた」と残している。
一方、三兄弟側の記録はより凄惨である。
「常陸国の野本、石田、大串、取木などの地域にあった三兄弟の領地のみならず、三兄弟の味方をした地域の民衆の住宅まで将門は全て焼き払った。将門の焦土作戦から逃れようとする人々の多くは、炎から逃れたら将門の軍勢の弓矢の標的にされることを知り、やむを得ず炎の中へと戻った。この焦土作戦でこの地域の収穫も倉庫も全て灰になった。将門はさらに、筑波、真壁、新治の三郡にも襲いかかり、奪えるものを全て奪っただけでなく、およそ五〇〇戸の家屋を燃やし、多くの人が焼け死んだ。将門の炎は寺社であっても逃れられず、山王神社は焼け落ちた。常陸国衙の役人も、常陸の一般市民も、この悲劇に泣き悲しみ、子が親と、妻が夫と死に別れる悲劇が各地で起きた。」
そして、この将門側の蛮行のさなかに、将門の伯父で、この時点の関東地方における平氏のトップと目されていた平国香が亡くなっている。戦死なのか自害なのかを史料は伝えてくれない。しかし、将門が略奪のかぎりを尽くした地域はまさに平国香の領地である。その領地で暴れ回り、人家を荒野にしたことは、平氏における将門の立場を孤立させるに充分であった。
図式は単純化した。平将門とそれ以外の人たちである。源氏も、藤原氏も、そして、血を分けた平氏の面々でさえも、将門と敵対する存在となったのだ。
その中でも強硬な反将門となったのは源護である。将門に襲いかかって戦死した三兄弟は源護の三人の息子である。三人の息子が揃って亡くなったことは源護を深い悲しみに沈ませただけでなく、激しい復讐心を抱かせた。源護は、当時としては異例のスピードで、この戦闘の記録を京都に送り届けたのである。
このような不祥事は当事者からではなく国司からの定期連絡によるのが普通なこの時代にあって、当事者である源護が記録を京都に届けたというのは異例であったが、源護としては自分で送り届けるより他はなかったのである。何しろ、三人の息子と将門の戦闘、そして、戦闘後の将門の蹂躙、これはどちらも常陸国府の目と鼻の先の場所で展開した出来事であるにも関わらず国司は動かなかったのだから。
京都でこの知らせを受け取った平貞盛はこのとき左馬允の地位にあり、将来にかすかな展望を見ていた。左馬允は地方出身の貴族としては異例の出世であり、周囲の人も、平貞盛は近い将来、中央で勢力を築くようになるであろうと見ていた。しかし、貞盛は知らせを受けると直ちに辞表を提出し、一個人として常陸へと戻っていった。義兄弟が三人も殺され、父の平国香も亡くなり、義父の源護も命の危険にある。また、連絡によれば少なくとも千名以上の人が将門によって殺されているはずである。これは捨てておける事態ではなかった。
とは言え、今の貞盛の手に軍事力はない。よって、急ぎ帰還はするが、直ちに報復に打って出るという選択肢はなかった。直ちに故郷へと戻るのも、軍事力を整えるのに時間をかけなければならないと知っての上での行動であった。
関東で武士団が暴れている。それも、かつて忠平の元に仕えていた平将門が暴れている。
西では海賊が暴れている。それも、忠平が海賊鎮圧のために派遣した藤原純友が海賊のトップになって暴れている。
忠平は、自分の親戚と、かつての部下という二人が、国の東西で暴れていることに心痛めた。ただ、心を痛めただけで何らかのアクションを起こすことはなかった。
武士団同士の戦闘は割と多く聞こえてくるニュースであったし、海賊が暴れ回るのも頻繁に耳にするニュースであった。その当事者が自分の関係者であることは心苦しく感じるものの、暴れ回ることそのものについてはもはや日常の光景となってしまっていたのだ。
日常の光景となってしまった人災は戦乱だけではない。承平五(九三五)年三月六日には、延暦寺で火災が発生し、四〇あまりの建物を焼失する騒ぎとなった。
その上、朝鮮半島からは、新羅が完全に滅亡したとの連絡も届いた。かつて日本に戦争を仕掛け、海賊となって日本海沿岸を襲い、奪い、日本人を拉致していった国が滅んだことに対する感慨はなかった。
かつての新羅は海を隔てた野蛮人であり、日本に迷惑をかける存在であり、日本人は日本人であることに誇りを抱いて野蛮人に対決し、そして常に勝っていた。
だが、今や日本人が日本国内で暴れる事態となってしまったのだ。
そこに誇りはなかった。
この危機に存在感を見せるようになったのが寺社であった。神仏に祈願することでこの苦境を逃れられると訴え、時には布施を、時には田畑を、さらには人そのものを要求するようになっていた。
寺社にとって現状はありがたい光景であった。何であれ道真の噂に転嫁できるのだ。豊作を祈り、その願いが叶えられたら神仏に祈祷した寺院のおかげ、叶えられなかったら道真の怨霊のせい。これでは寺社が肥えて行くばかりである。
その結果何が起こったか。
寺社が、武士団とはまた違った勢力集団へと成長してしまったのだ。寺社の勢力を巡って他の寺社と争い、寺社の雇った武人や、時には僧侶自らが武器を手にして争いに参加するまでになった。寺社自身や周囲の人たちを護るために武器を持つ寺社は珍しくなかったが、今やその護るための武器が攻撃のための武器へと変わってしまったのである。延暦寺が焼けたのも、元を正せば寺社同士の争いの結果に他ならない。
忠平はこの状況を苦々しく思っており、対処も少しではあるが実行した。承平五(九三五)年六月三日に、検非違使に対して、東大寺や興福寺の関係者の乱行を取り締まらせよう命じたのがそれである。ただ、そこで取り締まりの対象となったのはあくまでも関係者であって寺社そのものではない。寺社の持っていた免税を否定して宗教法人への課税を平然と行なった時平と違い、忠平は寺社勢力に手をつけていないのである。
手をつけていない理由は二つ。一つは時平の政策の否定が忠平政権の大前提であり、時平の政策を繰り返すということは、自分の支持基盤を失うことにつながるからであった。もう一つは、ここで寺社に手をつけることが得策ではなかったということ。寺社を苦々しく思っているのは庶民も同じであったが、庶民は道真の怨霊への恐怖があり、寺社はそうした怨霊に対抗できる存在だと認識していたのである。寺社を苦々しく思っていても、寺社に手をつけてしまうと道真の怨霊がさらに恐ろしい形で生活の上に覆い被さると考える者は多く、忠平は、寺社の関係者を取り締まるよう命じるという形でしかこの状況への対策をとれなかったのである。
六月三日の命令が遂行された可能性は低い。というのも、承平五(九三五)年六月二八日に、海賊平定を祈るという名目で大々的な祈祷が行なわれたからである。祈祷するよう命じるのではなく国が祈祷するのだから、こうした祈祷に要する費用は国が負担するのが通常なのであるが、国の負担は祈祷に要する費用だけではない。あれやこれやと名目をつけて国の負担を増やし、祈祷の名目で寺社が収入を増やすという行為は普通に見られるのである。国の命じる祈祷が行なわれたということは、宗教法人に対する国の政策を中止し、政策によって生じた宗教法人の負債を税で相殺すると宣言するようなものである。つまり、忠平は寺社からの圧力に負けたのだ。
関東で起こった戦乱はさらに急展開を迎えた。
承平五(九三五)年一〇月二一日、平将門率いる軍勢と、源護・平良正連合軍とが常陸国の新治郡川曲(かわわ)村で対決した。
三人の息子を平将門に殺された源護の怒りは激しいものがあった。また、将門の叔父の平良正は、兄を亡くし、妻を通じて義兄弟であった三兄弟の死を嘆き悲しんでいた。そこで一計を画して、平国香と、源護の三人の子の仇討ちに立ち上がったのである。
ただ、このときの行動は二人ともまっとうすぎる行動であった。平将門を打倒することを宣言し、そのための軍勢を集めることを公言したのである。情報というのは、関係する人間が多ければ多いほど、その情報をもっとも知られてはならない人間の元に届きやすくなる。打倒される立場になった将門は源護と平良正の挑戦を迎え撃つと宣言。将門もまた軍勢を集め、二人の元に向けて軍勢を進めていった。
その二つの軍勢がぶつかったのが川曲村である。
戦闘がどのような状況で展開されたのかはわからない。
しかし、結果ならばわかっている。
将門の圧勝。平良正も源護も、自らに従う兵を率いて自領へと戻っていった。
ただ不可解なところが一点ある。それは戦死者の数で、わずか六〇人。何かの記録の間違いではないかと思い少し考えた結果、ある結論たどり着いた。将門はどうやら、意図して兵を殺さなかったのではないか、と。
二月四日の戦闘で将門の軍勢は大量殺戮を行なった。それは民衆の間に反将門感情を広めるのに充分だった。結果は、将門の領地からの大量逃亡者である。将門の元で生活したくないと考える人が大量に生じ、将門の領地の田畑は耕す者のいない荒れ地となってしまった。
将門は感じたのではないだろうか。状況はどう考えても将門が不利なのである。領地も、権威も、権力も将門は劣っているのである。それは集められる軍勢の差となって現れていた。かなり無茶をしても一〇〇〇名の兵士を集めることが出来るかどうかというのが将門の軍事力の現実だったのだ。この数を増やすには自領を広げるだけでなく自領に住む人の数を増やさなければならない。もっとも手っ取り早いのは自分の元に人を連れてくることであり、それも、強引な拉致ではなく自発的な移住のほうがありがたかった。
将門の元に行けば豊かな暮らしが過ごせるという評判を広め、自分のもとから人が出て行くのではなく、自分のもとへ人が流れ込むようにしなければならない。これに成功すれば、自領と自領の人口を増やし、兵を増やすだけでなく、相手の勢力を弱めることにも成功するのだ。
それに、源護も、平良正も、職業軍人を率いて戦闘に訴え出たわけではない。この時代の武士は農民の兼業であり、戦うときだけが武士で普段は農民であった。つまり、ここで敵兵ということで殺してしまったら、将門は農民を平気で殺すという評判が立ち、将門はますます関東地方の中で孤立する。逆に、生かした上で無罪放免とすれば、将門は敵兵を殺さずに生かして返してくれたという評判が立つ。何しろ、源護も、平良正も、かなり強引に兵士を募集しているのである。収穫が終わったあとだからいいものの、兵士たちは望んで戦場に出向いたわけではなく、領主の命令だからと無理矢理武器を持たされて戦場に駆り出されたのだ。
強引に戦場に駆り出された挙げ句、駆り出した当の本人は二人とも逃亡。残された俺たちはどうなるのかと不安に刈られ動揺しているところで出た将門からの無罪放免の指令。これは敗残兵たちを狂喜乱舞させた。
関東地方に戻っていた平貞盛は、将門の勢力が武力でどうこうなるものではない規模にまで成長したこと、親族である平氏を敵に回してもその勢いが衰えないことを目の当たりにし、平将門に対処するのは困難なことになると考えた。
平貞盛は当初、将門の勢力を認めた上での講和を考えていた。少し前であれば、講和とは対等な勢力同士が無駄な戦闘を控えるように誓い合う紳士協定となり得たであろう。しかし、今や、将門に対する講和とは、将門の敵が将門に降伏することを意味するまでになってしまったのだ。
命を取り留めた源護は、今回の争乱を朝廷に訴え出た。
この年の争乱に平将門は全く責任がないなどと言えない反面、源護は被害者であると訴えることはできるのだ。将門から仕掛けられなければならない状況に源護のほうから追い込んだのは事実にせよ、将門の側から仕掛けての戦闘であり、源護は好き好んで戦闘をしたわけではないという理屈は成り立つ。二月は攻められたから護っただけであり、一〇月は息子三人の仇討ちである。死者が出ているのだから現在の法に照らせばさすがに源護を無罪判決とするわけはないが、この時代の考えでいけば源護は無罪である。
無論、将門にも言い分はある。将門にすれば父である平良将の領地を取り返しただけのことであり、それをどうのこうの言われる筋合いはない。だが、この時代の掟では将門の主張は受け入れられない主張である。現時点で領地を持っている側のほうに正当性があり、いかに息子とは言え故人を持ち出しての領有権の主張は認められないのだ。
源護は自分が犯罪の被害者であるという前提で、朝廷に対し、法のもとでの解決を求めたのである。源護の訴えを受け入れる形で、承平五(九三五)年一二月二九日、平将門に対する出頭命令が出された。
この訴えと前後して、太宰府から新羅人殺害事件の情報が届いた。
新羅は、北から高麗に、西から百済に攻め込まれて勢力を衰えさせられた結果、この年、新羅王国最後の国王である敬順王が高麗に降伏したことで、国家として終了している。しかし、国家終了と民族終了とは必ずしも一致しない。国家が亡くなってもその国家の国民であることを意識する人は残るし、自分のアイデンティティを国家存続に寄せる人もいる。国王が高麗に降伏しても、また、西からいくら百済に攻め込まれようと、伝説を入れれば一〇〇〇年間続いた国家の意識が消えることはない。ましてや、新羅人の意識は、高麗や百済は新羅より劣った存在であり、その劣った存在のもとに降りるなど断じて認められないというものであった。
その結果が、亡命のようなもの、つまり、日本に逃れるという決断であった。
ただ、それは亡命のようなものであるが、亡命ではない。国外に逃れるという意味では亡命なのだが、他国の保護のもとで生きるのではなく、他国を侵略して自分たちの勢力を作り上げようというのだから、これは亡命と呼べない。普通に考えればそんなものを歓迎するわけなどなく、上陸させるさせないで争いとなり、終わってみれば新羅人殺害という結末になった。
朝廷は直ちに、高麗に対して新羅人殺害事件があったことを報告。ただし、今の日本政府と違って弱腰ではなかった。新羅人を殺害する事件があったがそれは犯罪に対する抵抗の結果であり、今後日本に対して侵略することがあれば同じ結果をもたらすということを突きつけたのである。
朝廷から出された将門の出頭命令は関東になかなか届かなかった。何しろ、一二月末に出された命令が将門のもとに届いたのは翌年九月になってからである。当時の情報通信レベルがいかに稚拙なものであったと言い訳をしようと、これは異常なまでの遅さとするしかない。
将門は自分に出頭命令が届いているなど想像だにしていなかった。将門はあくまでも自領を広げ、自領の人口を増やすことに専念していたのである。
そのために将門が用いたのはタックスヘブンであった。他の荘園より税率を下げ、田畑の所有者の名義を将門に変えさせるように促したのである。見返りとして戦時の従軍を求めたが、ここでいう戦時というのは田畑の防衛のこと、つまり自分の耕している田畑の収益は将門に払う年貢以外の全てを自分のものに出来るという生活を維持するための防衛であり、また、田畑に襲いかかってくる盗賊からの防衛を将門が保証するという契約であった。
将門が領地を拡大し人口を増やしているということは、周囲からすれば領地を減らされ人口を奪われているということに他ならない。しかも、延長八(九三〇)年に帰郷してからわずか六年での急成長である。これが三〇年ぐらいの長期間であれば子供がたくさん産まれたのだという考えで済むが、わずか六年では移住以外に成人人口が増えるなどあり得ない。WIN-WINの関係ではなく、パイの奪い合いになるのだ。
これは奪われた側にとってはたまったものではない。
奪われた資産を奪い返し、同時に仇討ちも果たす計画が持ち上がった。
ただし、繰り返し書くが、この時代の武士は職業軍人ではない。あくまでも本業は農民であり、戦闘のときだけ武器を手にする武士となるのである。優先順位は何よりもまず農業であって、攻められて抵抗するのならばともかく、攻め込もうというとき農地を捨ててまで戦闘に打って出るわけではないし、そのようなことを命令したら、命令不服従どころか、一斉蜂起を招きかねない。農地と農民を護るのが荘園領主の役目であり、荘園領主を護るために農民がいるのではないのである。
よって、戦闘は農作業の手が多少は空いたときという条件が付けられる。
この条件がある以上、戦闘に向いた時期がいつであるのかは将門のほうも把握できる。それが事前通告のない奇襲攻撃であっても、攻めてくる可能性が高い時期は農民にも多少の暇ができるので兵を整えるぐらいは可能になるから、奇襲が奇襲として成功するとは限らなくなる。
将門のもとに出頭命令が届くのは承平六年(九三六年)九月になってからなので、それまでの将門は、自分の敵と向かうあうことだけを考えていられた。
それは将門の敵も同じことで、収穫の時期を迎える前に片づける必要があった。
将門は関東地方で有数の勢力を持つまでになっていた。ただし、将門が関東地方の大部分を掌握したわけではない。将門の敵は、一つ一つの勢力ならば将門に劣るが、将門の敵が一致団結することがあれば将門は手も足も出なくなるのである。
ゆえに、反将門感情を旗印に将門を打倒すべき集団と束ねる必要があった。その音頭をとったのが平良正である。
平良正はまず、下総国司であった兄の平良兼に連絡をとった。公的地位を持つ平良兼はむやみやたらに任国を離れるわけにはいかない。しかし、平国香亡き現在、関東地方の平氏のトップの地位は平良兼のもとにあり、良兼にとっては兄、将門にとっては伯父にあたる平国香を死にいたらしめたこと、源護の三人の子を殺害したこと、そして、千名を越える被害者を生んだ殺戮を行なったことなど、将門の蛮行を見過ごすことは出来なかった。
それに、将門の影響は平良兼の本拠地でもある上総国にも至っていたのである。上総国の荘園の者がよりよい暮らしを求めて将門のもとへと向かっていく光景が日常化しており、その流れをくい止めるのは荘園領主としての役目であった。平良兼は軍勢の派遣を承諾したのみならず、根拠地である上総国から任国である下総国に兵を呼び寄せ、自ら兵を率いて常陸国へ向かったのである。
次に平良正が招いたのは平国香の子である平貞盛であった。平貞盛は平国香の領地を相続していたが、その領地は将門の蛮行によって灰燼に帰しており、復旧作業に追われていた。そこに軍勢派遣の要請がきたのだが、その態度は消極的なものとなっている。本音を言えば叔父の誘いを断りたかったのであろう。史料によれば親族同士の争いを避けることを主張したとなっているが、実際のところはこのまま戦いとなっても将門に負けると考えてのことではなかったか。
過去二回の戦いで将門はどのように戦ったか。
二回とも将門は攻め込まれたにも関わらず、将門の本拠地である下総国豊田郡は全くの無傷。それどころか、攻め込んだ側の根拠地が戦場となり被害を被っている。普通ではあり得ないこの光景が将門の戦闘では現実となっているのは、将門が情報収集能力に長けていたからとするしかない。いつ、どこで、誰が自分に対して攻め込もうとしているのかを事前に読めているから、より本拠地から遠いところで敵を迎え撃ち、戦闘に勝利している。これは純粋に武将としての能力の差であり、叔父二人も、そして平貞盛本人にもそのような能力はない。
この状況下で上総国司が軍勢を派遣した。その数は不明だが、平良兼の勢力があれば二〇〇〇名以上の兵士を集めて派遣することが出来たであろう。
ただ、それだけの数の兵士を誰にも知られずに派遣できるなどありえない話であるし、将門の軍勢が劣勢となるのは将門の敵が連合したときであり、連合する前ならば将門の軍勢のほうが優勢なのだ。この優位を活かすことなく敵の合流を許すなど、普通の武人なら絶対にしない。
貞盛は自ら軍勢を派遣したにはした。ただ、叔父二人のような意気軒昂とした出陣にはなれなかった。
承平六(九三六)年六月二六日、良兼自らの率いる軍勢が下総国香取郡の神崎にたどり着き、川を渡って常陸国にたどり着いた。軍勢は遠征のゴールだけではなくこの争乱そのもののゴールが間近に迫っているという高揚感に包まれた。
ところが、将門はここで奇襲を仕掛けたのである。船で川を渡って野営をしている途中の奇襲に兵士たちは驚き、戦闘に打って出る前に逃走を始めた。平良兼も兵士たちを率いて西へと逃走、将門はその後ろを追いかけるようになった。将門はここでも意図的に敵兵たちを殺していない。この奇襲での死者は多く見積もっても八〇名という少なさである。
西へと逃げていった平良兼の軍勢は下総国衙へ落ち延びた。戦国時代や江戸時代は容易に攻め落とせない城が日本各地に作られていたが、この時代、そのような城郭は東北地方の一部にあるだけ。四方を塀に囲まれ、門には衛兵が控える国衙は、後の時代ではごく普通の建造物だが、この時代では堅固な要塞であった。平良正はその要塞に立てこもって抗戦の構えを見せたのである。
軍勢にやってこられた下総国衙はいい迷惑である。隣国の現役の国司が軍勢を率いてやってきて、何の断りもなく建物を要塞として扱い、塀の向こうの軍勢と向かい合っているのだ。
下野国司の藤原弘雅は以下の条件で両軍の仲裁を図った。
将門は平良兼とその軍勢の帰郷を認めること。
良兼は将門の荘園領有権を認めること。
下野国司を仲介とする停戦は実現し、下野国衙を包囲していた将門は部下たちに包囲を開放するように命令した。
この戦いにより将門の評判は確立された。戦えば勝つ。勝つだけではなく敗者を許す。敗者を許すばかりか自らの荘園に招き入れて生活を保証してくれる。ついこの間の大量殺戮を忘れなかった者は多かったが、それでも多くの庶民は将門を選んだのである。
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