朝廷からの連絡が来ないまま時間を過ごしていた源義家は、援軍なしでの軍事行動を決意する。清原清衡とともに軍勢を進めた源義家は、出羽国沼柵(現在の秋田県横手市雄物川町)にある清原家衡の本拠地までたどり着いた。ただの陸奥国司であれば国境の外まで軍勢を派遣したこの瞬間に国司失格の行動となったところであるが、源義家は鎮守府将軍を兼任している。ゆえに、軍勢を派遣する先が出羽国である場合に限り、陸奥国の外まで軍勢を派遣することが許される。
ただ、いかに権限があろうと、戦闘に勝てるかどうかは全く別の話である。季節は冬。軍勢の移動に適した季節ではない。兵糧はどうにかなったとしても、攻城戦に適しているとは言い切れないのだ。
結果は、攻城失敗。
攻撃を仕掛けるものの沼柵を落とすことはできず、撤退を余儀なくされたのである。
この戦いの結果は、去就を定めきれずにいた者たちに決断させるに充分であった。特に、兄弟の叔父にあたる清原武衡が清原家衡のもとに参戦したのである。清原氏内部の争いという点で立場を決めかねていた者は、清原武衡の決断に促される形で続々と清原家衡のもとへと加わっていった。
しかし、ここで冷静な判断を下した者もいた。吉彦秀武である。吉彦秀武は、第一戦こそ弟の勝利に終わったが、最終的には兄が勝つと見定めたのだ。その上で、全軍を源義家の元へと合流させた。ついこの間まで清原真衡に刃を向けていた軍勢がそのまま清原清衡の軍勢の一部を構成するようになったのである。もっとも、清原真衡に刃を向けていたのは清原清衡も同じであり、かつての仲間同士が再び仲間同士になったとも言えるが。
ではなぜ、吉彦秀武は兄が勝つと考えたのか?
清原家衡の軍勢が増えすぎてしまったのを見逃さなかったのだ。
誰だって勝ち戦に乗っかりたい。そして、戦いが終わった後は勝者として敗者の上に立ちたいと考えるものである。第一戦に勝利したのは清原家衡であるから、勝ち戦に乗っかりたいと考える者は清原家衡のもとに向かう。ただ、清原家衡が勝てたのは、清原家衡の戦略ではなく、沼柵の防衛能力の高さにある。決して多いとは言えない軍勢でありながら沼柵に籠って攻撃に耐え続け、相手が攻城を諦めて撤退したというのが勝った理由であった。ここで重要なのは、沼柵の中の人数が少なかったことである。
場内の人数が少ないということは、蓄えていある兵糧の消費も減らせるということなのだ。おまけに、収穫があった直後だから蓄えは充分にある。攻められ続けても、食い物もあれば水もあるという状況であれば耐え続けられる。だが、今や清原家衡は大軍になってしまった。こうなると、蓄えておくべき兵糧も増えてしまう。だが、季節は収穫の時期をとっくに過ぎている。兵糧を新しく手に入れるなど無茶な話だ。
清原武衡は、沼柵ではなく金沢柵(現在の秋田県横手市金沢中野)に移るよう勧めた。沼柵も充分に攻め込まれづらい建物であったが、金沢柵は昔から難攻不落の要塞と扱われている。実際、のちの戦国時代にも同地点に城が築かれたほどで、周囲が断崖絶壁の岩山のてっぺんにありながら、山を降りると目の前に羽州街道が走っている。人の移動も物資の移動も容易でありながら攻撃は難しい要塞となると、これ以上の好条件は考えられない。ここに籠もれば安全と考える人はたくさんいるだろうし、籠もるだけで戦いの勝者になれると考えればたくさんの人が押しよることとなる。それだけの人を養えるだけの蓄えがあるかどうかは別問題であるが。
逐一届く東北地方の情勢不安は京都では特に大きなニュースとならなかった。それを打ち消すはるかに巨大なニュースがあったからである。
前兆は見えていた。応徳三(一〇八六)年一一月二〇日に大規模な人事異動があったのである。議政官の中に絞れば大納言二名、中納言二名、参議一名の異動だけであるが、議政官の外まで目を向けると、文官武官ともその地位を上げている。
これで何か大きなことがあるのだろうと考えた人たちにとって、起こるであろう何かとして考えていたのは、白河天皇の弟の輔仁親王の元服と皇太子就任である。後三条天皇の定めた路線を正しく継承することが起こるのだろうと誰もが考えていたのだ。
だが、その予想は一一月二六日に裏切られる。
この日、白河天皇の子の善仁親王が皇太子に就任したのである。未だ元服を迎えていない幼子の皇太子就任は驚きを隠せなかったが、その驚きをさらに増すこととなったのが白河天皇の退位宣言である。退位した段階で皇太子がいるのだから、帝位は皇太子善仁親王が継承することとなる。堀河天皇の誕生である。
また、白河天皇が退位したことで、白河天皇に任命されたことで関白の地位にあった藤原師実は無官の存在となったが、その直後、堀川天皇の名で藤原師実を摂政に任命すると発表された。元服を迎えていない天皇であるから摂政の任命はおかしなことではない。
これらの流れがたった一日で立て続けに起こり、禎子内親王は結果だけを聞かされることとなった。母が藤原氏である皇族が帝位を継承するという藤原摂関政治の復活宣言に怒りを爆発させたというが、手続き自体は何ら問題ない以上、文句のつけどころはない。後三条天皇の意思を無視するのかという怒りもあったようであるが、退位した白河上皇は祖母の言葉に全く耳を傾けなかった。退位した自分にはもう、帝位についてどうこう言う資格など無いとして。
それにしても、白河天皇はなぜ退位したのか?
桓武天皇から白河天皇までの計二三名の天皇の平均在位期間は一三年。退位時点で白河天皇は在位一四年を迎えていたから平均在位期間を超えていたこととなる。天皇という職務の心労は庶民の想像の及ぶところではなく、摂関政治を批判する動きがどれだけあろうと摂政や関白という役職が存続できたのも、天皇という職務の負担を軽減する必要があったからである。
それでも長期間に渡って天皇という職務を務めると心身ともにただならぬ負担が積み重なる。その意味で、一四年に渡って天皇をつとめあげた白河天皇はそろそろ退位をしてもおかしくはない。だが、白河上皇は退位時点で三四歳という若さだ。天皇としてのキャリアは平均を超える長さであったとしても、三四歳はキャリアを引退するような年齢ではない。いくら平均寿命が現在より短い時代であるとは言え、六〇歳や七〇歳を迎える者は珍しくもない。ましてや上皇だ。当時としては最高の栄養状態と医療が受けられる。長生きは約束されていると言ってもいいだろう。
それを踏まえて考えると、一つの先例が出てくる。
他ならぬ実父の後三条天皇である。
後三条天皇は息子に帝位を譲って上皇となった。
なぜか?
摂関政治とは何なのかを考えると答えが出る。摂政や関白の権力は、天皇の権威を利用できるところにある。摂政のサインと印鑑があれば天皇の御名御璽と同様に法案を法律とすることが出来るし、関白は摂政ほどの権限を有さないにしても天皇の相談役としての権威は無視できるものではない。
それは、上皇も同じではないか? 摂政のように天皇の御名御璽と同等のサインや印鑑を持てるわけではない。だが、その権威は関白をはるかに凌駕する。理論上、上皇がどのような決断をしようと天皇の決定は上皇の決定を覆せるし、上皇の意思を摂政のサインと印鑑で覆すことも不可能ではない。そう、あくまでも理論上は。
現実に目を向けた場合、誰が上皇の意思に逆らえようか?
それも、天皇はまだ幼いために摂政が実権を握る前提である上、摂関政治のシステムはかつてのような強固さを見せなくなってきている。記録を遡れば、一九歳で退位した冷泉天皇が四二年間に渡って上皇であったという記録があるが、冷泉上皇の時代は摂関政治の最盛期であり、藤原道長というあまりにも強大すぎて摂政にも関白にも就く必要の無かった存在が君臨していた時代である。同列に比較できるものではない。
当然ながら禎子内親王の激怒は隠せるものではなかった。白河上皇は祖母の激怒を無視するつもりであったが、禎子内親王の存在は無視するにはあまりにも巨大すぎた。それでなくても白河天皇には敵が多い。意図的に敵を作り出し、敵に対する攻撃を繰り返すことで政権を維持してきたという経緯がある。裏を返せば、攻撃対象とされた人たちが白河上皇に対する反旗を翻す機会を伺っているということでもある。その中心人物として、禎子内親王と、皇位継承権を外された輔仁親王は絶好の存在であった。
白河天皇が退位して白河上皇となったこともまた、白河上皇に対する半期のチャンスであった。堀河天皇は実子がまだいないどころか、それ以前に元服すら迎えていない。堀河天皇に何かあったとき、皇位継承権の筆頭は輔仁親王ということになる。奈良時代まで時代を遡れば退位した天皇が再び天皇になったという記録はあるから白河上皇が天皇に復帰するという可能性もあるし、寺院に入っている覚行法親王を呼び戻すという手もあるが、この時点で堀河天皇と最も近い親王となると叔父である輔仁親王ということとなる。
輔仁親王もまた元服を迎えていないことでは堀河天皇と同じであるが、翌年一月に元服を迎えることが決まっている。となると、天皇に何かあったときの次の帝位としての皇位継承権筆頭の地位はさらに強固なものとなる。
年が明けた応徳四(一〇八七)年初頭、輔仁親王が元服した。ところが、皇族の男児であれば内裏で元服するのが当然であるところなのに、輔仁親王の元服の議は禎子内親王の住まいである室町第、加冠役は大納言藤原実季、理髪役は近衛少将の源道良という、皇位継承権筆頭の男性とは思えない対応であった。普通ならばいずれも太政大臣や左大臣、あるいは右大臣の役目であり、内大臣がつとめるとしてもそれは例外というレベルであったのだ。そして、白河上皇からの使節派遣は無し。
これで白河天皇の思いは全ての人が知ることとなり、同時に、禎子内親王の怒りも誰もが知るものとなった。
東北地方ではこの頃、金沢柵に居を構える清原家衡を討つべく、源義家と清原清衡の軍勢は金沢柵へと軍を進めていた。何月何日に出発したのか、どれだけの軍勢が金沢柵へと向かっていたのかを明確に記した資料は無い。
その代わり、この後三年の役に関する逸話は数多く存在する。
逸話を総合すると、金沢柵を根拠地に定めた清原家衡は、根拠地に向かって源義家らが軍勢を進めていることを事前に把握しており、その対処を施していたことが読み取れる。
もっとも有名な逸話として、金沢柵の西を南北に走る羽州街道を進軍していた源義家が、街道の両脇が草むらに覆われていること、そして、空を飛ぶ雁が突如として群れをなさず乱れたのを見て、乱れているまさにその下の草むらに伏兵が潜んでいるという兵法の教えを思い出し、教えの通りおよそ三〇名と推測される草むらに潜んでいた清原家衡の伏兵を打ち破ったというものである。
「雁行(がんこう)の乱れ」と呼ばれるこの故事は源義家が大江匡房から兵法を学んでいたことを示すものであり、後世の物語の筋道としては、源義家が前九年の役での活躍を主君である藤原頼通に語ったのを耳にした大江匡房が「器量はよき武士の合戦の道をしらぬよとひとりごち給ひける(武士としての力量はあるが軍勢の指揮はまだまだだ)」と語り、それを源義家が耳にして「さる事もあるらん(そのとおりだ)」と返した後、源義家が大江匡房に弟子入りし兵法を学んだ、となっている。
大江匡房は長久二(一〇四一)年生まれだから、長暦三(一〇三九)年生まれの源義家の二歳下となる。前九年の役の終結が康平五(一〇六二)年末であるから、伝承の通り前九年の役の活躍を藤原頼通に語っている頃とすると、二四歳の源義家が二二歳の大江匡房に弟子入りしたこととなる。
歳下に学ぶことを恥じる人もいるが、源義家はこの雁行の乱れのとき、武芸ばかりで文の道に通じていなければこの伏兵のことも把握できずに敗れていたであろうと述べ、歳下の大江匡房から兵法を学んでいたことの正しさを周囲に漏らしたという。
難攻不落とされた金沢柵に戦乱の勝利を確信した者が詰めかけたことで、金沢柵がかえって危機的状況になったことを誰よりも先に理解したのが、他ならぬ清原武衡である。自分の決断で清原家衡が優位になり、自分の判断で金沢柵が根拠地となったが、まさにその結果が絶体絶命のピンチを招いたのである。
金沢柵は孤立した山の上にあり、山を降りると羽州街道に出る。羽州街道は、現在で言うと福島県福島市から山形新幹線沿いに山形に行き、山形市から天童市を経て新庄市へ行き、さらに北上して横手市へ行き、横手市から北西へと進路を変え秋田市へ行くという街道である。現在でも重要な大動脈であるが平安時代でもその重要さは変わらず、羽州街道に面しているが故に金沢柵が孤立せずにいられたのである。
だが、羽州街道と切り離されると金沢柵は完全に孤立する。おまけに、四方から孤立した山の上にあるということは、四方を囲まれたらにっちもさっちも行かなくなるということなのだ。それを食い止めるために伏兵を差し向けたのも清原武衡である。ただし、失敗した。軍勢がこちらに出向いているという段階で孤立を食い止める予定であったのが失敗したと知った、孤立を食い止める次の手を考えなければならなくなった。金沢柵と羽州街道をつなぐ通路を確保することである。
攻撃する立場に立つと、その通路を占拠してしまえば戦いは一気に有利になると言うことである。四方を囲まれた山の上に大軍が詰めかけると兵糧はただちに無くなる。兵糧を定期的に確保しなければ待っているのは飢饉、そして餓死だ。戦争の勝敗の八割は兵站で決まる。定期的に食料が確保できることを保証しなければ戦いに勝つか負けるか以前に、戦いそのものができなくなる。裏を返せば、相手の兵站を麻痺させてしまえば、わざわざ戦闘に打って出なくても勝てると言うことになる。
このままでは危険な状態となるとして、金沢柵に集った軍勢は包囲しようとしている軍勢に激しい攻撃を仕掛けてくる。この攻撃の中で一つのエピソードが生まれた。
源義家率いる軍勢の最前線で、わずか一六歳の若者が奮闘していた。その若者の名を鎌倉景正という。名から想像できるとおり鎌倉地方の武士で、鎌倉地方の武士によく見られるように平氏の一員であった。後の源平合戦でも平氏に属しながら源氏である源頼朝の軍勢に加わる武士は珍しくなかったが、それは源平合戦から一〇〇年前も同じであった。
この時代の通例として、一六歳の若者が単身主君に従って戦場に赴くとは考えづらい。鎌倉景正の父の鎌倉景成に従っての従軍であったと推測される。
さて、この一六歳の若者が何をしたのか?
清原家衡の軍勢の放った矢が右目を貫いたのである。鎌倉景正は右目に矢が刺さったまま矢を射った相手を射殺した直後に兜(かぶと)を脱ぎ、「手負うた」と叫んだあとで仰向けに倒れた。
倒れた鎌倉景正に駆け寄ったのが、同郷の三浦為継である。矢を目に喰らった戦友を助けるために駆け寄った彼は、鎌倉景正の矢を引き抜こうとした。
それが良くなかった。矢を抜こうとするのはいいが、鎌倉景正の顔に足を掛けて、草むしりでもするかのように矢を引き抜こうとしたのである。
これに鎌倉景正が激怒した。右目に矢が刺さったままであるにもかかわらず、刀を抜いて三浦為継に掴みかかった。何をするかと驚いた三浦為継に、鎌倉景正はこう叫んだ。「弓箭にあたりて死するは武士の望むところなり。いかでか生き存えて足にて面(つら)を踏まるゝ事あらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なん(弓矢を喰らって死ぬのは武士の本望だが、顔を土足で踏まれるのは我慢ならない。これから貴様を敵として斬り殺して俺も死ぬ)」と。
鎌倉景正の言葉に返す言葉もなく、三浦為継は膝を降ろして、鎌倉景正の顔を手で押さえ、鎌倉景正の右目に刺さった矢を抜いたあと、厨川の水で傷を洗った。
現在でも厨川の周辺では片目の鰍(かじか)が生まれるという。
東北の情勢をよそに、白河上皇は新しい情勢を作り上げようとしていた。
誰もが理解していた。理論上の摂政は藤原師実であるが、事実上の摂政は白河上皇であると。
白河上皇には政治的に何かしらの権限が与えられているわけではない。何を言おうとそれは参考意見に過ぎず、全ての最終決定権は堀河天皇に存在している。堀河天皇の御名御璽があれば、なくても摂政藤原師実のサインと印鑑があれば法案は正式な法律となる。そこに白河上皇の入り込む余地は無い。理論上は。
事実上は白河上皇が最高権力者であった。堀河天皇も、摂政藤原師実も、白河上皇の意思に背いて何かをするなど不可能であった。
とは言うものの、この時点ではまだ、院政という言葉で連想されるような独裁者とはなっていない。それよりも、それまで抑制されていた自由を満喫するかのようにあちこちに出歩くようになった。
まず、応徳四(一〇八七)年二月五日には、鳥羽殿の完成に伴って平安京の外に出た。これで内裏を離れたこととなる。もっとも、上皇には内裏に住む義務など無い。それどころか、これまでの上皇は全員、内裏を離れた場所に設けられた専用の御所に住まいを構えていた。白河上皇が鳥羽殿に住まいを構えたとしても、平安京の外であるという点は異例であるが、それ以外は前例に従っている。
一方、白河上皇に気を遣いながらも、堀河天皇の時代が始まったことをイメージづけることは行われていた。天皇即位に伴う改元も応徳四(一〇八七)年四月七日に実施された。新元号は寛治。一世一元の制となっている現在は新天皇の即位が新しい元号のスタートであるが、この時代は新しい天皇の即位から少し経った吉日に改元することとなっていた。新しい天皇が即位したら新しい元号になるというのは現在と変わらぬ共通認識であるが、年が改まっても改元せず、即位から半年ほど経ってからの改元というのは珍しいことではなかった。
寛治元(一〇八七)年五月一九日、白河上皇、摂政藤原師実、内大臣藤原師通といった面々が宇治に御幸した。京都への帰還は五月二一日のことである。
白河上皇自身もそうだが、堀河天皇も母親も藤原氏である。そして、藤原師実と藤原師通の親子とともに、藤原師実の実父、藤原師通にとっては祖父である藤原頼通の建立した宇治平等院に出向いた。世間の人は、このときの宇治行幸で藤原摂関政治が復活したのだと実感した。
一方、藤原摂関政治とは違う政治の実感も存在した。
寛治元(一〇八七)年六月二二日、休日以外の出勤が命じられた。それまで、休日と規定されていなくても貴族が物忌みを理由に公務を欠席することは認められていたのだが、このときの命令を機に、公務欠席が難しくなった。とは言え、貴族というのは現代人が考えているほど休みが多くはない。理論上は元日から大晦日まで毎日が公務であり、昼であろうと夜であろうと出勤が命じられたら内裏に赴かねばならない。その代わり、給与は高い。
適度に休みをとっていたのは、そうしなければ過労で倒れるからであり、藤原道長はその日記で何月何日に体調を崩して公務を休んだかを記録しているが、そうしなければ過労で倒れてしまっていたであろう。あるいは、体調不良そのものが過労の結果であるとも言える。
適度に休みをとるのも、怠けているからではなく、そうしないと働けないからである。とは言え、日本国というのは働かずに休むことを悪と決めつけて糾弾する風潮がある。それがそのまま法律になった結果、休めないという法律になった。
結論から言うと、この法律は失敗であった。法律が守られなかったのではなく、貴族の質が目に見えて劣化したのである。それも、貴族本人の資質の低下による劣化ではなく、貴族の目に見える過労による劣化である。
この法律を考えたのは誰かというのはわからない。休むのを良しとせず、常に働き続けるのを良しとする誰かがそれを考え、その意見に同調した者が賛成多数となって可決されたとするしか無い。
話を東北地方に戻すと、金沢柵の清原武衡にとって最も恐れていたことが実現した。
源義家、清原清衡、そして、吉彦秀武の率いる軍勢が金沢策を包囲したのである。
清原武衡はこの恐れを誰よりも先に実感したが、金沢柵の多くの者は自らの軍勢の多さに勝利をますます強く確信するようになった。兵糧の危険を訴えても聞く耳を持つ者はいなかった。前九年の役での黄海の戦いで、兵糧が乏しくなった源頼義の軍勢が、乏しい兵糧で動かせる兵力を投じて決戦を挑んだ結果、戦闘と呼ぶよりも殺戮と呼ぶべき結果となったことを多くの者が知っている。その差は、兵糧の有無ではなく、動員できた兵力の違いである。仮に兵糧が乏しくなったとしても、金沢柵の中の兵士を集めて一気呵成に攻め込めば戦いは終わると考えたのだ。
金沢柵の指揮を担っていたのは、名目上は清原家衡であるが、実質上は叔父の清原武衡である。清原家衡は、古き良き時代の清原氏の復活を考えていた。奥六郡を支配下に置くことは喜ぶべきこととして受け入れても、本拠地はあくまで出羽国であり、奥六郡は植民地という認識しかなかったのである。ましてや、奥六郡を中心とする東北地方の一大勢力など想像もしていないことであった。
一方、事実上の指揮官となっていた清原武衡は野心的であった。これは清原氏内部の争いであり、兄と弟のどちらがトップに着くかという争いである。そして、弟は出羽国の清原氏の存続を考えており奥六郡は重要視していない。ここで弟が勝ったなら、かなりの割合で清原家衡は奥六郡から手を引く。では、誰がこの奥六郡を手にするか? 清原武衡である。兄が勝ったならば奥六郡を手にするなど夢のまた夢であり、その場合、自分は清原氏を構成する軍団の一員でしかなくなる。だが、弟が勝ったならば一国一城の主、それも、東北地方随一の生産性を持つ奥六郡の主だ。兄弟のうちどちらが勝つかを考えて弟が勝つと判断したのは、双方の戦力を冷静に考えた結果であると同時に、自分の野心を踏まえてのことでもあったのだ。
この想定される戦果を、そして、奥六郡の支配権を夢見たのは清原武衡だけでは無い。戦いの勝者となり、豊かな奥六郡を手に入れることを考えた者は数多くいた。そして、その多くの者が金沢柵に詰めかけていた。呼べば呼ぶほど人が集まり、金沢柵の兵力は増えていく。それは兵力のぶつかり合いならば有効なことであったが、兵糧を考えると致命的であった。
金沢柵を包囲することを主張したのは吉彦秀武である。
吉彦秀武は、この戦いの当初こそ反旗を翻していたが、基本的には清原氏の忠実な家臣である。反旗を翻した理由も清原氏の存続を考えてのことであり、清原真衡と、清原清衡と、やろうとしていることは同じではないかと言われても、前者と後者とでは時間が違う。前者の場合は清原氏の存続を脅かすことになると考えられる時代情勢であったが、後者の場合は清原氏の継続を促すこととなると考えられる時代情勢となったのだ。それに、
ただし、現実的な人でもあった。金沢柵に詰めかけた兵士の多さは源義家の軍勢が太刀打ちできる人数ではない。清原清衡の軍勢も、吉彦秀武の軍勢も足したとしても戦力差は大きい。このまま戦えば間違いなく負ける。負けるとわかっている戦いに挑む者もたしかにいるが、それは、それしか方法が無いと追い詰められた者だけである。このときの源義家の軍勢には、戦いに挑む以外の手段があった。
その手段とは?
戦わないのだ。戦わず、金沢柵にこもった兵力が消耗することを狙うのだ。
兵糧攻めは残酷ではあるが有効でもある。食べ物が少なくなれば人は動けなくなる。餓死する者も増えるし病気が蔓延して動けなくなる者も出てくる。より有利に戦うために軍勢を集めたというまさにそのことが兵糧攻めを強固なものにさせてしまうのだ。
清原武衡はそれがわかっていたからこそ、兵糧攻めが成立しないように羽州街道とのつながりを死守しようとしたのだが、それに失敗した。失敗して、誰よりも先に兵糧攻め対策が必要だと考えて行動した。
それが、金沢柵の中での食料制限である。
清原武衡の指示のもと、金沢柵の中での食料配布に制限が始まったが、これに対する反発もあった。食料をケチるなという反発である。食べ物が無くなりそうだというのならば、これだけの軍勢がいるのだから一気呵成に攻め込んでいけばそれでいいでは無いかというのである。
四方を囲んでいる源義家の軍勢もそれぐらいはわかっている。だからこそ戦いに挑むわけなどなく、金沢柵の中からの攻撃に対しては、ただただ柵の中に押し返すことに徹したのである。
東北地方の戦乱が金沢柵の兵糧攻めになっているという情報は京都に届いていた。ただし、源義家の軍勢が劣勢であるとの情報も届いていた。兵糧攻めとして最初に思い浮かべるのは前九年の役の転換点となった黄海の戦いである。兵糧が少ないために動かせる兵士が少なくなったがために、戦闘と言うよりも殺戮になったという過去である。情勢はたしかに源義家の側が相手を兵糧攻めにしている状況であるが、兵力で言えば源義家の側が劣っている。ここまでくれば、源義家の敗北という未来を予想する者が続出してもおかしくもない。
寛治元(一〇八七)年七月九日、朝廷の命令による戦闘終結を命令するための使節を東北地方に派遣することが決まった。ただし、誰を派遣するかで喧々諤々の論争となり、より正確に言えば、誰かを派遣しなければならないとは理解しているが、その誰かというのは誰もが自分のことではないという状態になり、朝廷の議論は完全に止まってしまったのである。
ただし、貴族の中にただ一人、東北地方に行く意欲を見せていた者がいた。源義家の弟の源義光である。だったら源義光を派遣すればいいではないかというところなのだが、源義光には京都で一つの重要な役目を背負っていたために東北地方へ送り出すわけに行かなかった。このときの源義光の役職は左近衛尉。源義家が東北地方にいる間の朝廷の治安維持を一手に引き受けていたのである。その対象は延暦寺や園城寺といった僧兵たちも例外ではなく、白河上皇や堀河天皇の周囲を守るのが武装した源義光の役割であったのだ。兄の危機ということで東北地方に派遣させてくれと願い出ていたのであるが、朝廷からの回答は二つ。どうしても東北地方に行くというのであれば左近衛尉の職務を捨てよ。左近衛尉であり続けるならば東北地方行きは認めないというものである。
兵糧攻めということで時間が経つほど包囲している側が優位になるが、兵力そのものは包囲されている金沢柵の側のほうが多い。そのため、包囲を破ろうと一点突破を図ろうとする攻勢が多々あり、包囲が破られそうになったこともあった。
これに対して源義家が採用したのは「剛臆の座」というものであった。
「剛の座」と「臆の座」の二つのエリアを用意し、その日の戦いかたが勇猛果敢であったと判断されたら剛の座に、臆病であったと判断されたら臆の座に座らねばならないのである。それが武士一人一人全員について毎日判断されるのだ。人によっては臆の座から剛の座に移ることもあるし、その逆に剛の座から臆の座へと移ることもある。
一度も臆の座にならなかったとして藤原季賢は賞賛されたが、その一方で、一日も剛の座に座れなかったとして非難される武士も現れた。
自分たちを包囲している軍勢が、勇猛なのか臆病なのかを基準とする人事評価をしていることは金沢柵の中にも届いていた。
金沢柵の中ではこの人事評価を利用しようとする声が出た。特に、自分たちを取り囲んでおきながら動かずにいること自体が臆病極まりないことではないかという声が出た。
この声をまとめ上げたのが清原家衡の乳母(めのと)であった千任(ちとう)という人物である。ちなみに、乳母(めのと)という役職ではあったが男性である。
千任(ちとう)は、金沢柵の櫓(やぐら)に上り、塀の外に聞こえるようにこう叫んだ。
「汝が父頼義、貞任宗任を討ちえずして、名簿を捧げて故清将軍に語らひ奉れり。偏にその力にてたまたま貞任等を討ちえたり。恩を荷ひ徳をいたゞきて、いづれの世にかむくひ奉るべき。しかるを汝すでに相伝の家人として、かたじけなく重恩の君を攻め奉る不忠不義の罪、定めて天道のせめをかぶらむか(貴様の父の源頼義は前九年の役で安倍氏を攻めあぐね、臣下の礼までとって清原武則将軍を味方に引き入れた。そのおかげで戦いに勝ったのに、その恩義も忘れて攻め込むとは天罰に値しようぞ)」
この叫びは金沢柵の中の士気を高めることにも繋がったが、金沢柵の外の殺気を強めることにも繋がった。
前九年の役において、源義家が清原氏に臣従の誓いを立てたのは事実であるどころか、積極的に宣伝したことである。兵力は少なく、兵糧も、すなわち、この時代の貨幣であるコメも少ないという情勢で、予算全部を清原氏に負担させた上で清原氏を朝廷軍の一員として参加させるには、源義家が臣従の誓いを立てたというアピールをすることがかなり重要な意味を持っていた。
ただ、自分たちの大将が勝利のためならプライドを捨てても構わないという考えでいることと、自分たちの大将のプライドが傷ついているのを黙って見ていられることとは全く別の話である。それに、プライドを傷つけようとする者に対して、怒りと憎しみを向けることはあっても同意することなどない。源義家個人は鷹揚に構えているように見えても、その周囲は黙っていられなかったのだ。
部下たちの怒りを目の当たりにした源義家は、千任(ちとう)を生け捕りにした者は望みのままの褒美を与えるとし、千任(ちとう)を捕らえるためならこの命を差し出しても構わないとまで述べた。
寛治元(一〇八七)年九月二三日、源義光が京都を出発。朝廷の命令に背いたため、左近衛尉の職を解任された。
源義光率いる軍勢が金沢柵に到着したとき、彼らの目の当たりにしたのは生き地獄であった。金沢柵の中の兵士たちは骨と皮だけのやせこけた姿になり、金沢柵の中には白骨死体が散乱していた。そのどれもが、死して朽ちて白骨化したのではないことは見てとれた。
金沢柵の中の食料は完全に無くなり、餓死した者が続出していた。源義家に降伏するからと金沢柵から逃げ出して命乞いをしてきた者もいたが、彼らに待ち構えいていた運命は死であった。金沢柵から逃げ出したらどうなるかを示すために、金沢柵の中からも見える場所で殺害されたのだ。命乞いのための脱走の結果が示されたことで、金沢柵から逃げ出す者はいなくなった。飢え死にするか、源義家の軍勢に殺されるかの選択肢しか無くなったのだ。
源義光の軍勢が到着したのを目の当たりにした清原武衡は降伏を決意する。しかし、ここで清原武衡は常識を疑うような降伏の仕方を提示した。源義光に金沢柵の中に来てくれというのだ。
戦いをしている最中に、敵陣地、それも圧倒的劣勢にある敵陣地にノコノコ出かけていく者がいるであろうか? 実は一瞬だけ源義光が金沢柵に行こうとしたのであるが、兄からふざけるなと言われて取りやめている。
とは言え、金沢柵から降伏の打診があったことは事実であるため、誰かを派遣する必要を感じた源義家は、使者として、剛の座にあり続けたことで名を馳せている藤原季賢を派遣することとなった。ただし、金沢柵の中に入ったものの、降伏の訴えなど全く耳も傾けなかった。では、何をしたのか? 金沢柵の中を探らせたのである。どのような建物があり、どの建物に誰がいるのか、また、金沢柵の中の食糧事情はどうなっているのかという情報が筒抜けになった。
もはや陥落は時間の問題となっていた金沢柵は、最後の攻勢に出た。
寛治元(一〇八七)年一一月一四日の夜半、金沢柵出火。金沢柵の軍勢は自らの陣地に火を放ったのだ。金沢柵の中の面々は、燃えさかる炎のどさくさに紛れて逃げようとしたのである。それが突然の出火であれば源義家の軍勢にも多少なりとも驚きを持って見られたが、源義家はこの日に金沢柵で何かあることを事前に察知していたようで、寒くなってきている季節ということもあり、火を灯して身体を温めておくように部下たちに命じておいた。
出火のどさくさによる脱走も難しくなったと悟った清原家衡はここで一つだけ意地を見せている。愛馬の花柑子(はなこうじ)を弓で射殺したあとで逃走した。
源義家の軍勢は逃げるのを許さなかった。
炎の中に飛び込んで、逃げようとする清原家衡の軍勢を、一人、また一人と殺害していった。
ところがここに二人見つからない人がいた。清原武衡と清原家衡の二人である。清原武衡は刀の鞘の先端を壊してシュノーケルのようにして、金沢柵のすぐそばの蛭藻沼の中に沈んで身を潜めていた。清原家衡は低い身分の者に仮装して金沢柵の混迷の中から逃げ出すことに成功した。
一方、殺されることなく真っ先に生け捕りにされたのが千任(ちとう)である。
生け捕りにされた千任(ちとう)が目の当たりにしたのは、沼から引きずり出され、源義家に命乞いをしている清原武衡の姿である。命乞いもむなしく千任(ちとう)の目の前に清原武衡は首を切り落とされた。
千任(ちとう)は、櫓で叫んだことと同じことを叫ぶように命じられた後、歯を壊され、舌を切り落とされ、両手を縛られ木に吊された。吊された千任(ちとう)の足下には清原武衡の切り落とされたばかりの首がある。千任(ちとう)は足を上げて顔を踏まないようにするが、力尽きて顔を踏みつける形となった。
この時点で清原家衡の姿は不明である。
清原家衡の所在がわかったのは金沢柵陥落から半月以上を経た寛治元(一〇八七)年一二月のことである。
突然、源義家のもとに清原家衡の切り落とされた首が届けられたのだ。逃げ延びていた清原家衡を発見したのは縣小次郎(あがたこじろう)という者である。低い身分の者に扮装していることを縣小次郎に見破られた清原家衡がどのような経緯で首を切り落とされる運命を迎えたのかを記す記録はない。記録はただ、清原家衡の首が届けられたことを記したのみである。
寛治元(一〇八七)年一二月二六日、源義家から戦勝の報告が朝廷に届けられた。反乱を起こした清原武衡らは斬首されたと報告。これで後三年の役は終結した。
ところが、これに対する朝廷の回答は、源義家を、そして、源義家に従って従軍した武士たちを落胆させるものであった。この戦いは源義家が勝手に起こした私的な争いであり、戦いの勝利に対する報償どころか、戦費負担すら朝廷は認めなかったのである。おまけに、源義家は戦いの責任をとらされて陸奥国司と鎮守府将軍から解職され、陸奥国司の後任として藤原基家が任命されたという報告まで届いた。
これに対する怒りを隠せなかった源義家の家臣たちを鎮めたのは源義家である。自分の持つ所領を、後三年の役での働きに応じて家臣たちに分配したのだ。もともと関東地方の武士たちは清和源氏の忠実な家臣であったが、その彼らがよりいっそう忠実な家臣となった。さらに、関東地方以外のところから従軍した武士たちも源義家の忠実な家臣となり、源義家はその勢力を拡大させることとなったのである。
もう一つ勢力を拡大させたのが清原清衡である。清原氏はこの戦いの後、藤原氏を名乗るようになった。奥州藤原氏の誕生である。清原清衡の実父は藤原氏であるから、藤原姓を名乗ること自体はおかしな話ではない。問題は、刃を向けてまで清原氏の存続を訴え続けた吉彦秀武がこれを許したのだろうかという点であるが、これに対する明確な答えはない。それ以前に、後三年の役を最後に吉彦秀武の名は歴史から姿を消している。研究者によると、後三年の役の終結時点で吉彦秀武は七〇歳以上であったと推測されていることから、このあたりで亡くなったのではないかという説もある。
年が変わった寛治二(一〇八八)年、表面上は後三年の役など無かったかのような日々が始まっていた。
しかし、この年の記録を読むと、この時代の人たちの恐怖心が伺える。宗教への傾倒が甚だしいのだ。
一月一〇日、左大臣源俊房らが園城寺に出向いた。名目としては亡き藤原頼通の妻である隆姫女王が前年一一月二二日に亡くなったことに関する法事である。当時としては、いや、現在でもかなりの高齢である九三歳での死について、当時の人はこれという記録を残していない。もっと言ってしまえば、左大臣源俊房が園城寺に出向いたという記録がなければ、没年も命日もわからなかったであろう。
寛治二(一〇八八)年二月二二日には、白河上皇が高野山に出発している。
三月九日には白河上皇が石清水八幡宮に御幸し、四月二一日には賀茂祭に白河上皇が顔を出している。
宗教への傾倒は参詣や行事への参加だけではなく、宗教勢力への譲歩も含まれる。宗教勢力と武士とが争った場合、武士の側に理があろうと、朝廷は宗教勢力に加担するようになった。実際、一一月三〇日には、宇佐八幡宮の神輿を弓矢で射ったとして藤原実政が伊豆に流されている。
ここまで宗教勢力に対して譲歩したのは、ときの朝廷が宗教勢力に対して頭が上がらなかったからなのかというと、それは半分しか正解にならない。たしかに朝廷は宗教勢力に頭が上がらなくなっていたが、それよりも問題だったのが国民感情である。後三年の役も手伝って、宗教に救いを求めようとする国民の声が大きくなりすぎてしまっていたのだ。いかに源義家の私的な戦闘であると朝廷が結論づけようと、多くの国民にとっては戦争が現実のものとなっていたのだ。天候悪化と荘園整理の影響による作付けの悪化は、市場(しじょう)に出回るコメをはじめとする食料のインフレを招いた。それだけでも時代が悪化しているという感覚を呼ぶのに、時代の悪化をより確信づけられる戦争という現実。その救いを宗教が満たすことはなかったが、宗教勢力の突きつける恐れを払拭できる状況も存在しなかった。
さて、寛治二(一〇八八)年二月二二日に白河上皇が高野山に出発したと書いたが、高野山に赴いたのは白河上皇だけではなく、摂政藤原師実、左大臣源俊房、右大臣源顯房、内大臣藤原師通,さらに、大納言四人、中納言四人、参議五人が同行しているという、現在で言うと内閣がこぞって行動するようなものであった。これは現代人にとっては考えづらいこと、強いて挙げれば明治初頭の岩倉遣欧使節レベルの話であるが、それは当時の人も同じで、白河上皇がどのような旅程であったかが克明に記されているほどである。二月二二日に出発し、京都に帰ってきたのが三月一日。その間、京都から主な貴族がこぞって消えたのだ。そして、残されていたのはこのときわずか一〇歳の堀河天皇。高野山までの旅程の振り返りは後述するとして、京都にわずか一〇歳の堀河天皇を残し、摂政も、三人の大臣も、主な貴族もことごとくいなくなっているという状況は許されることであったのであろうか?
結論から言うと、問題無かった。
一〇歳というのは、大人が考えているほど幼くはない。分別もつくし、政治についての一家言ぐらい持てる。それに、主な貴族が高野山に向かっているとは言え、議政官になるほどの地位ではないにしても実務をこなすには充分な地位である貴族たちは京都に残っているのだ。
先に、寛治二(一〇八八)年という年は宗教への傾倒が甚だしかった年であったと記したが、白河上皇に従って高野山に赴いていた貴族たちが考えていたのはもう少し現実的なことであった。
高野山の南東にある熊野から神輿を担いだ僧侶たちがやってきて京都でデモをしたのは永保二(一〇八二)年のことである。それから延暦寺や園城寺、あるいは奈良の諸寺院が暴れるようになったが、京都市民に与えたインパクトとなると熊野大社のデモがもっとも強烈であった。特に、神輿を持ち出してデモをしたことのインパクトは強烈であった。
この熊野大社の行為に対して執政者としてなすべきことは何かを考えた場合、答えは熊野大社にデモを起こさせないことである。デモが主義主張を訴えるための手段としてならば認められるが、通った後はゴミが散乱するだけでなく、略奪が繰り返され、暴行が繰り返され、街は竜巻が過ぎ去った後のような破壊の跡へと変貌してしまう。一言で言うと、民度が低すぎるのだ。
このデモをいかにして封じ込めるか?
白河上皇の考えたのは、熊野大社と京都とを結ぶ情報網の構築と交通網の見直しである。熊野大社で不穏な情勢が確認できれば京都にただちに情報が飛んで対策を練ることが可能となる。情勢次第では交通網を駆使して武士たちを熊野に向けて派遣する。京都に来て暴れ回る前にデモを武力で壊滅させることを視野に入れたとしてもいい。
にしても、それでなぜ高野山なのか? 高野山から熊野大社までは、現在でこそバスで三時間もあれば着く距離であるが、徒歩がメインの当時では三日から四日の距離がある。高野山に参詣するのと熊野に行くのとではあまりにも距離が違いすぎる。
ただし、こう考えると納得ができる。京都と高野山との間の情報網と交通網の構築が最優先だったのではないか、と。
どういうことか?
京都から熊野大社に行く方法は二種類とされていた。
一つ目は、伊勢神宮から紀伊半島を時計回りに巡って熊野那智大社に出た後、北西へ山道を進む方法。これを伊勢路という。
二つ目は、住吉大社から紀伊半島を反時計回りに巡って紀伊田辺に出たのち、北東へ山道を進む方法。これを紀伊路という。
京都と伊勢神宮との間も、京都と住吉大社との間も、当時としてはかなりレベルの高い交通網や情報網が敷かれている。
だが、第三の方法があったのだ。
それが現在、小辺路(こへち)と呼ばれている、高野山と熊野大社とを結ぶおよそ七〇キロの道である。現在でこそ熊野古道の一つとして把握されており、観光客が通ることもある道であるが、その観光客向けの案内にも、それも、道路が当時と比べて整備されるようになった現在でも、本格的な登山の装備をした上で二泊三日から三泊四日の予定で行くよう要請されている道である。たかが七〇キロの道と考えるかもしれないが、その途中には踏破しなければならない一〇〇〇メートル級の峠が三箇所もある上に、途中に集落がない箇所も多々あり、道そのものが雪で埋まることも珍しくないのだ。
つまり、地元住民の生活道路として存在はしていても、国の情報網・交通網に組み込まれる重要な幹線道路とは認識されていなかったのである。
裏を返せば、極秘裏に行動する場合は有用な道路となる。何しろ人目につかないまま移動できるのである。たどり着いた先の高野山から京都へは、通常は紀ノ川沿いに西に進んで、現在の和歌山市付近で海岸沿いに出たのち、海沿いを北上してから住吉大社まで行くものである。だが、高野山から紀ノ川に出た後、下流へと向かうのではなく上流へ向かい、奈良に出てそのまま北に進んで京都に行く方法もあったのだ。
こうなると、熊野大社から突然の襲来があったときに、朝廷として何の事前対処もできなくなる。何しろ情報を掴めるのは奈良までやって来たときであり、奈良と京都は対処する時間を稼げるわけではない近さである。
これだけの貴族が揃って高野山までやってくるとなると、その道中は間違いなく整備されたものとなる。そして、京都に残った堀河天皇との情報網を構築した上での旅となれば、旅で構築した情報網がその後も生き残り続けることとなる。京都で何かあれば白河上皇のもとに情報が届くようになっている旅であったが、それは同時に、白河上皇がたどり着いた地点から京都までの情報網が構築されたことも意味するのだ。
寛治二(一〇八八)年の高野山御幸は次のような旅程であった。
二月二二日、京都を出発。白河上皇と摂政藤原師実は牛車に乗っているが、その他の者は徒歩である。行き先は奈良。午前九時頃に京都を出発した一行は、正午頃に宇治に到着し平等院を訪問。
翌二三日の午前には奈良の東大寺を訪問し、正午頃に高野山に向けて出発。なお、その日にうちに到着しないことが予期されていたので、大和国葛上郡(現在の奈良県御所市)にあった民家を借り、一日限りの御所とした。
翌二四日、そろそろ太陽が姿を見せようかという時刻に一日限りの御所から出発。紀ノ川を船で下る。紀ノ川は大和国葛上郡のあたりから西へ下るので、川の流れに任せれば高野山への入り口にたどり着ける。もっとも、太陽が昇る前にはもう出発したと言っても川辺にたどり着いた頃には午後になっており、高野山への入り口にたどり着いたらそこで二四日の旅程が終わる。前日同様、民家を借りて御所とした。
二五日、白河上皇も徒歩で移動する。町石道と呼ばれる全長およそ二二キロの道で、この時代でも既に高野山への参詣道として整備されていた。なお、道路名の語源となっている町石(ちょういし)とは一町(およそ一〇九メートル)ごとに置かれている石造りの道しるべであり、町石の近くに立つと次の町石が見えるので、高野山への参詣で道に迷うことがないようになっている。高野山へ参詣する者は町石を見つけるたびに手を合わせて礼拝することになっているが、この町石ができたのは鎌倉時代であり、白河上皇らが参詣したときは木製の卒塔婆が設置されていた。ゆえに、通りの名も町石道ではない。
この日、高野山は雨が降り注いでいた。現在でも大人の足で八時間を要するのが町石道である。雨模様の中で山道を登るのは危険と判断され、午後三時頃、途中にある民家が臨時の御所に指定された。そこで一泊するのである。
二月二六日朝、朝食後ただちに出発したが、天候の影響もあり、高野山金剛峯寺に到着したときにはもう日が暮れていた。もっとも、町石道というのは高野山への参詣道であると同時に風光明媚な観光スポットの多い場所でもある。また、白河上皇のやろうとしているのは京都と高野山との交通網の整備と情報ネットワークの構築であり、高野山金剛峯寺に到着することだけを旅の目的としているわけではない。高野山金剛峯寺に到着し、金剛峯寺の建物の一つである中院を御所としたのが現在の時制で言うと午後七時頃だから予定よりは時間が掛かったことになるが、時間を掛けてでも構築する必要のあった旅の目的の一つはこれで達成されたこととなる。
さて、このあと白河上皇ら一行は高野山金剛峯寺で数日を過ごした後、三月一日に京都に戻ってきたのであるが、帰路については詳しい記録が残っていない。最終日、正午には宇治にいて、午後二時には平安京に到着していたというのであるから、当時としては異例なスピードである。もっとも、これだけのスピードで移動できるだけの交通網を構築した、馬に乗ったならもっと早く情報のやりとりが可能になったことをアピールする目的を考えるとそれはそれで正解と言えよう。
寛治二(一〇八八)年一二月一六日、太政大臣藤原信長が従一位になった。これにはちょっとした驚きを持って迎え入れられた。太政大臣でありながら従一位でなかったのかという驚きではない。まだいたのかという驚きである。
このときの藤原信長は六七歳であるから、キャリアの積み重ねとして六七歳で従一位太政大臣は妥当と言えば妥当であるが、既に表舞台から一三年も姿を消しているとなると話は穏やかではなくなる。そのような人物を糾弾するならまだしも位階を上げるというのは納得いかない人が多かった。
ただ、その直後の発表を受けると誰もが納得した。
藤原信長、太政大臣を辞任。
同日、摂政藤原師実が太政大臣に就任。
これで藤原信長は政界引退に追い込まれたこととなる。これまでは正二位の位階に相当する給与と太政大臣の職務に対する給与の双方が払われていたが、今後は位階に相当する給与を受けるだけに変わる。
働いていないのに給与を貰うのはどういうことかと思うかもしれないが、年金制度の存在しなかったこの時代において、加齢のために職務から離れる、現在の感覚で行くと定年退職という概念は朝廷に仕える者しかなかった。そして、定年退職を迎えた後も位階を維持することで位階に相当する給与を支払い続け、生活の手段を保持させ続けたのである。現在の感覚で捉えると、給与は定年退職時の半分ほどに減るが、死ぬまで年金を受け取れるというところか。
それはたしかに税金の無駄かもしれない。だが、その支払いを拒否すると、待っているのはより大きな出費。最も少ない負担で藤原信長をどうにかするには、従一位に昇格させることを条件にしての太政大臣辞任というのは許される範囲内であった。
さて、いかに税の無駄遣いををどうにかしなければならないと考えたとしても、それまで放置していたことをこのタイミングでどうして蒸し返したのかという疑念がある。
その疑念は、年が明けた瞬間に解消された。
寛治三(一〇八九)年一月五日、堀河天皇が元服した。
皇族が元服する場合、天皇が加冠役になることが決まっている。
ところがここで一つ問題がある。天皇自身の元服はいったい誰がやるのかという問題である。
この問題について、平安時代の人は一つの結論を出していた。太政大臣が加冠役をするのである。
となると、政務ボイコットをし続けている藤原信長を引っ張り出してこなければならないのだが、もともと白河天皇の政治に反対してボイコットを選んできた藤原信長が、白河天皇が後三条天皇の意思に背いて即位させた堀河天皇の元服の加冠役として一三年ぶりに表舞台に姿を現すなどあり得るだろうか?
この時点で堀河天皇はまだ一一歳である。元服には若すぎる。
とは言え、前年の高野山参詣という、白河上皇をはじめとするこの時代の主要人物がこぞって京都から離れている間にあっても政務を滞りなく遂行したという実績がある。一一歳の元服は若いという批判があったとしても、前例もあれば実績もある以上、元服そのものは問題のあることではない。
問題があるのは太政大臣の存在である。藤原信長ではない人物を太政大臣にしなければならなくなったのだ。この時点で太政大臣に最適な人物となると摂政藤原師実しかいない。ついこの間まで正二位の太政大臣がいたが、本来なら従一位でなければならない。そして、従一位の位階を持つ者となると藤原師実ということとなる。ちなみに、位階の最高位である正一位は死者への名誉を伴った称号であるため、生者に対する位階の最高位となると従一位となる。
藤原師実は最初から堀河天皇の元服のためだけの太政大臣就任であることを納得しており、寛治三(一〇八九)年四月二五日、藤原師実はわずか四ヶ月で太政大臣を辞任した。
後三年の役が終わったのは寛治元(一〇八七)年の年末のことであり、それに対する朝廷の最初のアクションが、戦争そのものを源義家の私的な戦闘とするものであるとすることと、源義家を陸奥国司から解任し、後任として藤原基家が任命したというものであったというのは既に記したとおりである。
問題は、この新しく任命された藤原基家からの報告である。
国司は、任国ごとに設定されている税である官物(かんもつ)を国に納める義務を持っている。ところが、源義家はそれをしていなかった。そもそも後三年の役があったのだから納税どころではなかったのであるが、国司の義務を果たしていなかったというのはその通りである。
とは言え、朝廷はこのとき、源義家が私的な戦闘をしたという理由で陸奥国司を罷免している。つまり、国司失格の評価を一度下している。そして、このときの朝廷の判断は批判的な意見が多々挙がってきており、ここでさらに呼び出して納めていない官物を納めろと命令するのは、封じ込めてきたはずの民意を呼び覚ます恐れがあるのだ。
それに、源義家は後三年の役のあとの朝廷の判断に反発を示し、本拠地である鎌倉に籠もったまま京都に出てこないでいる。京都に出てこないでいるのは源義家一人ではなく、関東地方で清和源氏に仕える武士たちがこぞって鎌倉に籠もっているのだ。京都に呼び出すとなると、命懸けで後三年の役を戦いながら朝廷の判断のせいで何ら褒賞を受けられなかった武士たちもこぞってやってくることとなる。
記録には、寛治三(一〇八九)年一〇月一〇日に、源義家についての審議があったと残されている。ただし、どのような審議なのかということは記録に残っていない。
後の記録から推測すると、白河上皇はどうにかしなければならないと思っていたようであるが、ここで源義家のやったことを特例として認めてしまうわけにはいかないとも考えていたようである。そして、源義家は国司としての役目を全うできなかった元国司という立場であり続けることとなった。
国司は任期を終えたときに国司としての責務を果たしたことを証明する書類を提出しなければならない。この書類を監査するのが勘解由使であり、この監査のことを受領功過定(ずりょうこうかさだめ)という。受領功過定では主に任国の納税実績が監査され、ノルマを果たしてはじめて国司としての役目を全うしたという扱いになり、人事評価となる。このときの評価次第で位階が上がったり次の国司に就任できたりするのであるが、ノルマ達成の国司などごく普通に見られることで、達成したからと言って無条件に出世するわけでも次の役職が手に入るわけでもない。ちなみに、納税が遅れた場合でも後になって不足分を納めることは許されているが、全て納め終わるまではそもそも受領功過定の対象にすらならない。そして、源義家は、受領功過定を受ける以前の段階で止められているという扱いになっているのである。
ここで特例を認めるわけにはいかなかった。後三年の役という戦争があったではないか、そもそも戦争を鎮圧するために東北地方に派遣されたのが源義家ではないかという意見もあるが、ここで特例を認めると、意図的に戦争を起こし、「戦争があったために納税できなくなりました」と報告して納税を拒否することが認められるようになってしまう。
朝廷は「特例は認めない」「ノルマ分の納税を果たすように」という指令を鎌倉に送りつけた。これに対する源義家の返答はないが、源義家の行動は判明している。源義家は私財を削って、少しずつではあるが朝廷に納税したのである。通常、このような納税の遅れは利子も課せられるものであるが、源義家に対して利子を課していたのかどうかはわからない。
この頃の白河上皇の政治的権威は不明瞭なところが多い。
後に院政と呼ばれる政治体制の定義からすると、既に白河院政は始まっていることになる。しかし、寛治三(一〇八九)年時点の白河上皇の政治的権威は院政として想像するような権威を伴ったものではなかった。
既に退位した以上、白河上皇が何をしようとそれで国政が左右されることはない。実質上は無視できないとは言え、理論上は、白河上皇が何を言おうと議政官の採決には無関係なことであるし、議政官の採決に堀河天皇の御名御璽があれば、あるいは摂政藤原師実のサインと印鑑があれば、それは法律として有効になる。
この頃の朝廷は、明確な指揮権者がいない状態で動いていたとするしかない。理論上のトップは堀河天皇であり、元服したとは言え摂政がいるのだから摂政藤原師実が実質上のトップであったとも言える。あるいは、藤原道長の時代まで遡っての政治体制である議政官での議決が最高意思決定機関であったとも言える。司法・立法・行政の三権分立ならぬ、堀河天皇・摂政・議政官からなる三権分立と言えば格好はつくが、現実には、誰もが責任をとろうとしない無責任な政治体制であったとも言える。
源義家に対する処遇はその顕著な例と言える。京都では戦乱を感じ取ることができなかったとは言え、それは断じて源義家の私的な戦闘ではない。しかし、源義家がしたことを公式な戦争であると判断してしまうと特例を認めてしまうこととなる。戦争であったことを認めてしまうと前例にないことを立て続けにこなさねばならなくなる。戦争終結に対する褒賞も必要であるし、戦争ゆえの免税も認めなければならない。褒賞次第では源義家が中央政界に有力な地位を築くことともなる。
責任をとりたがらない者が権力を握ると、前例の無いことはできなくなる。前例の無いことをしようとすると、それによる責任は派生する。責任をとらずに前例の無いことをすることなどできない。だったら、前例の無いことをしないまま平穏無事であり続ける方がマシだと考える。
後世、白河院政の特徴として挙げられる白河法皇の独裁は、この無責任な政治体制と無関係であるとは言えない。独裁政治は批判を受けることも多々あるが、独裁者となった者が責任を全て背負うなら、つまり、自分の責任が免除されるのならば、独裁政治を受け入れてもいいと考える人は多いのだ。
この政治体制は問題があると考えた人物が二人いる。白河上皇と内大臣藤原師通である。退位して上皇となったのは皇統の継続を自らの血筋で実現させるためであると同時に、今なお摂関政治からの脱却を命じた後三条天皇の政治を支持する面々へ権力を渡さないことを宣言する目的があってのものである。また、この時点の白河上皇は、自らを関白に比する存在と考えていた。堀河天皇の相談役であり、その助言が何かしらの政治的な束縛を伴うものではないが、重要な意思として政権を操れるものとなると考えていた。
この白河上皇の思いは、半ば成就し、半ば不完全なものとなった。
確かに白河上皇の思いは重要な意思となっている。しかし、白河上皇の意思に従うこととは、白河上皇の意思が前例に背くものであった場合に責任を背負うということになるのだ。誰もが責任をとりたがらないこの時代の政治体制において、白河上皇の助言は、前例踏襲であるがゆえに責任を放棄できる場合以外、有効とはならなかった。
もう一人が内大臣藤原師通である。かつては一〇代の若き貴族であった藤原師通も、もう二八歳になっている。この人は、前例を踏襲することにさほど強い意欲を見せてはいなかった。前例を破るときに派生する責任にも臆することはなかった。そして、この人には院政という政治の仕組みが理解できていた。それも、白河上皇個人の資質がそのまま政治の質につながる不安定な仕組みであると理解していた。
白河上皇は自らを関白に比する存在とすることを画策していたが、藤原師通にとっての白河上皇は退位した天皇であり、政界の表舞台から去った存在でなければならなかったのである。高野山に詣でるのに同行したのは、それがバカンスであると同時に、それによる高野山と京都とを結ぶ交通網と情報網の整備に意義を見出していたので特に何も言わなかったが、白河上皇の意見と自分の意見とが異なっている場合、自分の意見の方が優先されるべきであると考えるようになっていたのだ。
なぜか?
白河上皇が画策している院政という仕組みは極めて不安定だからである。藤原摂関政治が二〇〇以上に渡って存続できたのは、摂関政治というシステムができあがっていたからである。多少能力が劣る者が出てこようと補完できるような仕組みができあがっているし、藤原氏内部の派閥争いが結果として一定以上の質の向上を保証するようにもなっていた。だが、白河上皇が始めようとしている、そして、後三条天皇も意図はしていた、天皇を辞したがために天皇としての責務から離れることが許されつつ、天皇に匹敵する存在として君臨するという仕組みは、あまりにも強大すぎる権力者を生み出してしまう。白河上皇なら問題ないだろうと考えても、白河上皇の次の時代に問題が起こることもありうる。白河上皇はこれまで、前例を無視したこともあっても、そのときは自分が前例となるとして前例を拒否しているのであり、前例なき政務そのものを無制限に受け入れているわけではないのである。
白河上皇がしようとしていることが前例となって日本国に誕生した場合、システム内に自浄能力を持つ摂関政治の安定は壊れ、何ら自浄能力を持たない絶対的な独裁者が誕生してしまう。独裁政治が無条件で悪だとは言わないが、一個人の能力にシステムが委ねられ、しかも自浄能力を持たないというシステムは、堅牢であるが、結果を生まないときの代替も効かないというデメリットがある。
政治のあり方を考えれば、白河上皇が天皇でなくなったがゆえに権力を発揮できる仕組みのほうが今は結果をもたらすであろう。しかし、それは後世に大きな禍根を残し、後世を貧困に導くことになる。繰り返すが、政治家に対する評価はただ一つ、国民生活が目に見えて良くなったことだけで決まり、正義や清廉潔白さなどは国民生活の目に見える向上が存在しない限り、どうでもいい話である。
政治のあり方について白河上皇と意見を異にしていた内大臣藤原師輔であるが、白河上皇の意見に無条件に賛成することが一つだけあった。
それは、輔仁親王について。
後三条天皇は、藤原氏を母としない皇族が皇位を継承すべきであると考え、母が藤原氏である白河天皇はあくまでも、本来の後継者である実仁親王が皇位を継ぐに相応しい年齢になるまでの中継ぎの天皇という扱いであった。それを否定したのが他ならぬ白河天皇自身である。実仁親王の死に伴い、白河天皇の子の善仁親王と、実仁親王の弟の輔仁親王と、どちらが皇太子となり次の天皇になるかという争いで、善仁親王を推したのが藤原師通である。善仁親王の政治家としての資質を見抜いたということもあるが、政局の安定を考えると、輔仁親王という答えは無かったのだ。
白河天皇は、藤原氏の女性を母とする我が子善仁親王を皇太子に就けたと同時に天皇を辞し、皇太子に皇位を譲って上皇となった。
このように即位した堀河天皇に対し、また、堀河天皇を即位させた白河上皇に対し、後三条天皇の意思を尊重すべしとする派閥の反発は強かった。そして、堀河天皇にはまだ子がいない。つまり、皇位継承権の筆頭は、輔仁親王となるのである。
輔仁親王の存在は、後三条天皇の威光にも支えられて、想像以上に強固なものとなっていた。白河天皇は敵を作ることで自らの政権を安定させてきたが、それは同時に、白河天皇の敵という大きな括りでの大同団結を生み出すこととなり、輔仁親王はその象徴となったのである。輔仁親王を象徴として一つになっている集団を敵と見ることでは、白河上皇も藤原師通も意見の一致をみた。そして、この敵対勢力に皇位が渡ることはいかなる事情があろうと認められないということでも意見の一致をみていた。
これは単に正常の安定だけを考えてのことではない。後三条天皇の展開した政治があまりにも危険だったのだ。荘園を否定し、荘園を削減し、最終的には荘園など存在しない経済を作り上げようとしたのが後三条天皇であるが、その結果は、貧困。税収が減り、失業者が増え、収穫が落ち、市場(しじょう)はインフレに見舞われている。荘園が格差の元凶と考え、荘園をなくせば格差が無くなるというのはあまりにも短絡過ぎる考えであった。そして、後三条天皇の前と後とでは、後三条天皇の後の方が暮らしが悪化しているという共通認識も出来上がっていた。ただ、白河上皇や議政官の面々は荘園制の否定が貧困の原因であると考えていたのに対し、輔仁親王派は荘園制否定の不足が貧困の原因と考えていた。ここで輔仁親王派に皇位が渡るということは、彼らが不足と考えている政策を遂行することを意味する。考えられる結末は、お世辞にもバラ色とは呼べない。
二年前、主な貴族を連れて高野山に参詣した白河上皇は、寛治四(一〇九〇)年一月二二日、熊野に御幸した。
皇族の熊野詣そのものは延喜七(九〇八)年の宇多法皇が最初である。ただし、宇多法皇の熊野詣は一僧侶としての参詣であったのに対し、白河上皇は皇族としての御幸である。
白河上皇らの御幸は熊野大社にとって驚異であった。自分たちが迷惑なテロ集団であるかのように扱われ、白河天皇の敵と扱われ、京都市民の敵と扱われているのである。その上、ある日突然京都に姿を見せるためのルートであった小辺路(こへち)の出口である高野山が、京都と情報で繋がった土地になってしまったのだ。神輿を担いでいきなり京都に姿を見せるからインパクトがあるので、事前に情報が届いていて、何月何日頃にやってくる見込みであるかがわかっているとなると、インパクトも何もなくなる。それに、小辺路(こへち)はお世辞にも気軽なハイキングコースとは呼べない。苦労して高野山にたどり着いた頃には心身ともに疲労困憊の状態になっている。それでも、突然京都に姿を見せることで強いインパクトを与え、自分たちの訴えを伝えることに成功すれば苦労は報われるであろうが、突然の登場どころか事前に予告され対処も立てられている状態での京都到着はインパクトを呼ばない。
熊野大社がこの状況を喜んで受け入れるわけではない。追い詰められた者は、暴動を起こす頻度は減っても、暴動を起こすとなったらその規模は冗談では済まない規模となる。
白河上皇が最終的な目標としていたのは熊野大社が暴動を起こしにやってこないことである。そこで白河上皇が狙ったのが、飴と鞭の両方であった。
白河上皇は途中まで熊野大社へのメインルートである紀伊路を通った。ここまでは普通である。だが、紀伊半島の海岸線を進んだ後、田辺で曲がって熊野大社に向かうのが通例であったのを、さらに南へと進んだのである。そして、那智勝浦まで来て、周辺の土地およそ一〇〇町を熊野大社へ寄進したのだ。皇族による自社への寄進自体はおかしなものではない。さらに言えば、皇族であるとは言え、この時の白河上皇はあくまでもプライベートのバカンスという体裁でいる上に、寄進したのも個人的に所有していた土地である。これで熊野大社は那智勝浦まで広がりを見せたこととなる。
以前から熊野大社と那智大社とは密接な関係があった。現在の熊野那智大社は山の上に社殿があるが、もともとは那智滝に社殿があり、那智滝を修験の場としていたのである。また、熊野の奥深くではなく海沿いにある速玉大社も熊野大社と無関係ではなかった。ただし、この時点ではあくまでも熊野大社が圧倒的存在として君臨しており、速玉大社は熊野大社と無関係ではないが重要視されておらず、那智大社に至っては熊野大社の修験の場としての認識しかされていなかった。歴史を紐解いてみても、熊野大社は日本三代実録にその最初の記録を確認できるが、速玉大社の記録は正史にはついに確認されることないままであり、那智大社に至ってはそもそも神社であったという記録すらない。
白河上皇は、この那智大社と速玉大社を熊野大社と合わせて一つにまとめたのである。これを熊野三山検校という。つまり、熊野詣をするならば、熊野大社だけでなく、熊野那智大社と熊野速玉大社にも参詣するのを儀礼化したのだ。
熊野大社にとっては自らの勢力を広げることを意味するのみならず、今まで以上の参詣者を集めることとなる。寺社が純粋に信仰のための場であるといくら主張しようと、寺社を経営するためには何らかの資産運営が必要となる。この時代における自社の資産と言えば荘園であり、熊野大社からわざわざ京都までやって来て暴れたのも、名目はどうあれ、事実上は熊野大社の資産獲得が理由である。だが、荘園に頼らない資産形成ができたらどうなるか? 参詣という名目での観光客が増えて収入が増えれば、資産運営もより軽いものとなるだけでなく、観光客というのは良い評判を伴えば、もう一度足を運ぼうかというリピーターや、評判が良いのだから一度は足を運んでみようかというニューカマーを呼び込んでさらなる利益をもたらす一方、評判が悪くなれば途端にを運ばなくなる。ここでの評判というのは、霊験あらたかというのもあるが、それより重要なのが熊野大社での体験、東京オリンピック招致の言葉を振り返れば「おもてなし」である。観光客相手にデモ隊が暴れまわろうものなら観光客は二度とこなくなるとなれば、熊野大社がこれまでのように資産を求めることがあっても、採るべき手段は、デモ隊を組んで暴れまわることではなく、参詣者を快く迎え入れることとなる。つまり、熊野大社で勝手にデモ隊を鎮圧してくれることとなる。
そして、これは副産物を生んだ。正確に言えば副産物の方がメインで参詣者の増大は副次的なものなのであるが、熊野大社はそう考えなかった。熊野大社が副産物としか考えなかった白河上皇のメイン、それが、熊野大社を京都から遠ざけることである。
熊野那智大社と熊野速玉大社が熊野大社を構成する寺社に加わったことで、熊野大社から紀伊山地の真ん中を突っ切って高野山まで行く小辺路(こへじ)の価値が薄れただけでなく、紀伊田辺から紀伊山地へと入って行くこれまでのルートも価値も薄れたこととなる。と同時に、伊勢から熊野速玉大社へ、あるいは紀伊から熊野那智大社へ行くルートが当たり前になれば、熊野大社は京都から真っ直ぐ南へ向かう場所にある寺社ではなく、紀伊半島を大きく回ったところにある寺社であるという認識ができる。心理的な距離が遠くなれば、気軽にデモなど行けるわけがなくなる。
寛治四(一〇九〇)年時点では堀河天皇はまだ一二歳である。現代日本の感覚で行くと小学校高学年だ。この世の仕組みについては理解できるし、政治について語ることはできるが、基礎学力を積み重ねる必要のある年齢でもあるということ。そのため、堀河天皇はこれまで年齢相当の教育を受けていたのだが、現在で言う中学校から高校年代に相応する教育へとステップアップするところに来ていた。
この中高等教育を担当する侍頭に任命されたのは大江匡房である。この時代の最高の知識人を家庭教師として迎え入れたことについて特に何かを言う者はいなかった。なお、初日は漢書を用いた政治学の講義が行われたようである。
大江匡房は堀河天皇の資質を見抜いたようで、後世の記録には、と言っても鎌倉時代の歴史書であるが、その中には堀河天皇の聡明さについての記録が見える。
これが愚鈍な天皇であれば後の世に言うところの院政が成立するところなのであるが、堀河天皇はその幼さを除いて、院政を要する場面はない。また、摂政藤原師実が健在であるため、後世の院政における上皇や法皇のような圧倒的権力を持った存在を必要とはしていない。
形骸化してきているとは言え律令はまだ有効である。そして、律令に従えば摂政は天皇の内裏としての権限を有するが、上皇や関白は実権を持たない。無視できる存在ではないが、法律の上では実権を持たない相談役なのである。ゆえに、白河上皇の意見を摂政藤原師実が無視したとしても法の上では許されるのである。無論、事実上そのようなことはないが。
それが、寛治四(一〇九〇)年一二月一〇日に一変する。と言うのも、藤原師実がこの日、摂政を辞任したのである。いかに堀河天皇が若いと言っても元服している以上、堀河天皇の摂政がいることはおかしな話で、およそ一年にわたって摂政であったことのほうがおかしな話であったのだ。
なお、同日、堀河天皇は藤原師実を関白に任命しているので、摂関政治の継承という点では続いている。後三条天皇の目指した摂関政治からの脱却は、元服後の堀河天皇が関白を起き続けることと表明したことで、完全に消滅した。
藤原頼通の政権の終わり頃から摂関政治の終焉は半ば期待を伴って予期されていたが、いざ実現してみると国民生活の悪化という隠しきれない現実がやってきた。
そのため、摂関政治の終焉のほうを無かったことにして摂関政治の復活を実現させたとこの時代の人は誰もが思っていた。そして、堀河天皇が藤原師実を関白に任命したことで摂関政治の復活は完成したと誰もが考えていた。
寛治五(一〇九一)年という年は、それまでのドタバタした騒ぎが収束して平穏無事な時代の始まりとなるであろうという期待も持たれていた。
その期待は、災害によって覆される。
災害はまず、一月一二日に京都を襲った暴風によってはじまった。この暴風によって大極殿の西廊が崩れ落ちたところがスタートである。なお、このときの災害の救援として派遣されたのが源義家の次弟で、後三年の役に参戦しなかった源義綱である。後三年の役に参戦しなかったことで、次弟は兄と違って朝廷における地位を維持することが出来ていた。そして、このときの暴風についてただちに動き出したことで京都における信頼を得ることに成功したが、こうしたスタンドプレーは、源義家に付き従って後三年の役に参戦し、そのために鎌倉に留まらざるを得なくなっている清和源氏の武士たちから激しい非難を浴びるようになっていた。
源義綱のスタンドプレーは、白河上皇のボディーガードを務めることと、火災に見舞われた清水寺の避難民救出にあたったことでピークを迎えたが、それは同時に反感を強めることを意味してもいた。
暴風は純然たる天災、火災は人災と言えなくもない天災であるが、そのあとで人災としか形容できない災害が発生する。源義家の一派が鎌倉に留まっていると言っても、所有している荘園が関東地方だけに留まっているわけではない。少なくとも父の源頼義が持っていた荘園は相続しており、河内国に清和源氏の所有する荘園があったことは確認できている。
問題はこの河内国の荘園の所有権である。清和源氏の後継者は源義家であり、河内国の所領も源義家が相続していた。しかし、源義家は朝廷から追放されたも同然の身である一方、源義綱は朝廷において確固たる地位を築いている。こうなると、両者とも所有権を主張してもおかしくない事態となる。荘園は現在の株式会社に似ており、荘園の所有権は現在の株式所有に相当する。そして、現在でも株式の相続となると揉めるものであると同様に、この時代の荘園の所有権の相続もまた揉めるものとなる。
裁判による判断で決着を付けようというのが現在の相続での争いであるが、この時代の相続の争い、それも武士同士の相続の争いとなるとどうなるか? 本人は姿を見せないが、代理戦争は起こる。
源義家の郎党である藤原実清と、源義綱の郎党である藤原則清がまずは争いだした。これに対し、まずは源義綱が軍勢を指揮しはじめ、次いで鎌倉の源義家も軍勢を集めているというニュースが届いてきた。
これに対する朝廷の反応は素早かった。源義家とその随兵に対し、今後いかなる理由があろうと京都に来ることを禁止すると同時に、源義家が現時点で所有している以上の荘園所有を禁止したのである。その荘園の中には、まさに争っている最中の河内国の荘園も含まれていた。
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