長徳元(九九五)年四月一〇日、正二位関白藤原道隆。四三歳の若さで死去。
同日、内大臣藤原伊周が関白代行の職務から解かれる。名目上は父の死による服喪のため参内できなくなることに伴う措置であるが、誰の目にも関白不適格の烙印を押されたことは明白であった。
関白の死去が当時の国政に与えた影響は計り知れないが、忘れてはならないのは、このタイミングが伝染病の荒れ狂う日常であったということである。
関白が亡くなったのであるからただちに後任の関白を選定すべきところであったのだが、それどころではなかったのだ。
長徳元(九九五)年四月一九日、この時代最高の医師と評される丹波康頼が死去。
長徳元(九九五)年四月二三日、正二位大納言藤原済時が死去。
内裏を見渡すと、一人、また一人と病に倒れ命を失っているのだ。何月何日に亡くなったという記録が残っている者はまだ恵まれている。多くの者は、それも貴族としてカウントされる地位の者ですら、「伝染病により大勢亡くなった」の「大勢」に加えられているのだ。
一条天皇は建て直しを模索した。そして、長徳元(九九五)年四月二七日、新たな体制を発表した。
正二位右大臣藤原道兼を関白とすると発表。翌日には藤氏長者にも任命されたことで、名実ともに藤原氏のトップは藤原道兼であると宣言された。
兄が関白になった日、従二位権大納言藤原道長が左近衛大将に就任。無論、弓矢が趣味であるという点を買ってのことではなく、武士との接点を持っていることが重要視された結果である。
藤原道隆亡き後はこの兄弟が文武のトップとして君臨する体制とすると発表したことで、落胆を隠せなかった者がいる。関白代理まで務めた藤原伊周である。このタイミングにおいて藤原伊周には何もなかった、すなわち、藤原道隆の後継者は、子の藤原伊周ではなく、弟の道兼と道長の二人であると正式に宣言されたのである。
当時の人はこれである程度の落ち着きを見せるであろうと感じた。
ところが、その期待は裏切られるのである。
関白に就任した藤原道兼が最初にやったのは、当然とも言うべきだが、伝染病対策である。関白に就任したその日にはもう、全国に向かって六観音像を描き、大般若経を写すよう命令が飛んでいる。現在の感覚ではそれが伝染病対策になるわけないが、当時の感覚では誰もが感嘆すべき伝染病対策であった。就任直後のこの一事だけでも藤原道兼は高い支持を受けたのである。
さらに、長徳元(九九五)年五月二日には、関白藤原道兼が慶賀のイベントを開催している。こちらは現在の感覚でもわかる。伝染病が原因ではあるが、この時代の日本が不景気感に満ちていたのは紛れもない事実であり、不景気感を和らげるのにイベントを開催するのは現在でも通じる話である。
この三五歳の若き関白の登場は新たな時代を予感させるものであった。
ところが、新たな時代を予感させはしても、伝染病が沈静化することはなかったのである。
慶賀のイベントを開催したまさにその日、『蜻蛉日記』の作者でもあり、関白藤原道兼にとっては義理の母でもある藤原道綱母が亡くなった。
さらに、長徳元(九九五)年五月八日には、左大臣源重信も亡くなった。左大臣という人臣のトップの者がいなくなったことで、これから先、関白でもある右大臣藤原道兼にかかる責務はかなり重いものになるであろうと多くの者が考えた。
そこまでならまだどうにかなったであろう。ところが、まさにそのとき、関白右大臣藤原道兼が倒れたというニュースが飛び込んできたのだ。
すでに七四歳と高齢の左大臣の死にはまだ落ち着いていられた当時の人たちも、三五歳という若き関白が、それもたった一二日前に関白になったばかりの者が倒れたという知らせには驚きを隠せなかった。
その驚きを隠せなかった最中にさらに二つのニュースが飛び込んできた。一つは中納言源保光が倒れたという知らせ、もう一つは関白右大臣藤原道兼が亡くなったという知らせである。
この知らせの翌日、前日に倒れた中納言源保光も亡くなったという知らせが飛び込んできた。
わずか一二日、そう、たった一二日で一条天皇が構築しようとした新体制が終わりを迎えたのだ。
それもただ単に終わりを迎えただけではない。左大臣も右大臣も太政大臣も関白もいないという異常事態が始まってしまったのだ。
宮中に混乱があふれかえり、誰もが何をしたら良いのかわからなくなっている中、ただ一人そびえ立つ大黒柱として一気に着目を浴びたのが権大納言藤原道長である。すでに左近衛大将である藤原道長はこの時代の武のトップであると同時に、文においても亡き関白藤原道兼の右腕として存在していた。三〇歳という若き藤原道長だけが、混乱を隠せない宮中においてただ一人圧倒的な存在感を放っていたのである。
藤原道兼の葬儀が執り行われた長徳元(九九五)年五月一一日、従二位権大納言藤原道長に宮中の雑事を統率せよとの宣旨が下った。
先例のない宣旨であるが、これはやむを得ないといえよう。
関白も、太政大臣も、左大臣も右大臣もいない上に、内大臣藤原伊周は関白失格の烙印を押されている。つまり、人臣でこの混乱を収束できる地位にある者がいないのだ。そして、収束できる可能性を持っているのは権大納言の藤原道長だけなのである。
この、一条天皇の命令の効果はすぐに発揮された。
年齢はまだ三〇歳、地位も権大納言という大臣から離れた低い地位でありながら、藤原道長はこの混乱を収束させることに成功したのである。
それでも伝染病が荒れ狂っている現状だけはどうにもならなかった。
長徳元(九九五)年五月二五日、正二位大納言藤原朝光死去。
同日、正三位中納言源伊陟死去。
長徳元(九九五)年六月五日、従二位権大納言藤原道長に内覧の宣旨が下った。
内覧の宣旨とは、天皇に奏上する文書も、天皇から下賜される文書も、誰よりも先に読めるという権利を与えるという命令である。それでは関白と同じではないかとなるが、実際、権威としては関白に等しい。ただし、関白ではない。
そもそも関白とは人臣の最高位者が天皇の相談役を務めるというものであり、少なくとも大臣でなければ就けないと考えられていた。そして、この時点の藤原道長は権大納言、すなわち、大臣より二つ下の地位の者である。この地位の者が関白に就くなど先例がない。ただ、次々と人が死んでいく状況にあって、ただ一人、毅然とした態度で宮中に君臨している藤原道長だけが、この時代の人たちにとっては唯一頼れる存在に思えたのである。
ゆえに、正式な関白ではないが、関白に等しい権利である内覧の宣旨が与えられたのである。
一度は関白への道を閉ざされたものの、新たに関白になった藤原道兼が亡くなったことでもう一度チャンスが巡ってきたと考えた藤原伊周にとって、藤原道長への内覧の宣旨はショックであった。
このショックに追い打ちをかけるように、母親こそ違えど藤原伊周にとっては頼れる兄であった正三位権大納言藤原道頼が、長徳元(九九五)年六月一一日、二五歳という若さで命を落とした。たった二ヶ月の間に、尊敬する父と頼れる兄の二人を失ったのである。これで落胆しないとしたらその方がおかしい。
それでも、藤原伊周にはたった一つだけ心の支えがあった。
自分がただ一人の大臣であり、藤原氏の中でも、そして人臣全体を見渡しても、自分が頂点に君臨しているという一点である。正式な長者任命はまだだが、人臣のトップである自分が藤原氏のトップに立つはずであり、藤原道長は自分に仕える家臣の一人であると考えていたのだ。
そのたった一つの寄って立つところは、長徳元(九九五)年六月一九日、突然打ち切られた。この日、従二位藤原道長が右大臣に就任、同時に藤氏長者に就任すると発表されたのである。伊周の思いとは逆に、伊周の方が道長に仕える一家臣へとなってしまったのだ。
三〇歳の右大臣藤原道長は、関白でも、摂政でも、太政大臣でもない。この時点での人臣最高位ではあるが、その地位は議政官を構成する一大臣であり、議政官の決議を覆せる権力も、ましてや、議政官の決議に反する政策を遂行する権力もない。
しかし、議政官を完全に取り仕切る存在になっていた道長にとって、議政官の決議が自身の意に反する結果になるなどあり得ないことであった。
現在の日本のような議会制民主主義の国では、議会の決議が何よりも優先される。たとえ内閣総理大臣の判断が議会と反するものであろうと、日本においては国会の決議が国の決議であり、内閣総理大臣は国会の決議に基づいて政策を実行する義務を持つ。
だから、与野党逆転という現象が起こると、内閣の意志と国会の決議とが一致しないこととなり国の動きがおかしくなる。そこで、民意を問うために衆議院の解散総選挙で国会の意志の再確認をし、再度内閣を選びなおするという手順をとる。
しかし、与野党逆転がなければ、すなわち、国会の決議と内閣の意志とが一致していれば、政策はスムーズに遂行できるし、少数派である野党がいかに解散総選挙を訴えようと、その声は負け犬の遠吠えにすぎない。
藤原道長は権大納言の頃から議政官においてその弁論の能力で他を圧倒していた。今は亡き兄の関白藤原道隆と意見が対立しようと自らの政策を立案し、議政官にかけ、弁論の能力で議政官の決議を獲得して上奏してきた。
議政官は現在の国会と同様、多数の意見が結論である。全会一致である必要はない。ゆえに、反対意見だって出るが、どんなに反対意見を出そうと賛意を得られなければ反対意見は決議に影響を与えない。せいぜい時間を無駄にしたというだけである。
道長はこの現状を理解していた。自らの意志が議政官の決議となり、摂政も、関白も、太政大臣もいない現状では誰一人口を挟む者はおらずに一条天皇に直接上奏される。もっとも、関白同等の権利である内覧の権利を持つ者はいたが、それは他でもない藤原道長なのだから、やはり誰一人口を挟む者はいないと同じである。
そしてあることに気づかされた。太政大臣も、摂政も、常置である必要のない職務である。いや、藤原良房がそれらの地位に就くまでは、誰もその地位に就く者がいないというのが通常態であったのだ。さらに、関白に至ってはそもそも律令のどこにも記されていない職務である。藤原良房が太政大臣になり摂政になったのも、藤原基経が関白になったのも、あくまでも緊急事態を打破するための特別措置であった。その特別措置が日常化し、議政官の上にさらなる権威者が常置するようになったのだ。
その特別措置を外してみたのが村上天皇であるが、村上天皇逝去後、天皇の職務の多さに摂政や関白の必要性が認識され常置されるようになった。それ以後、摂政も関白もいないというのはあり得ない光景になってしまったのだ。裏を返せば、摂政や関白の存在理由は天皇の職務の多さが理由なのだから、天皇の職務の方を減らすとどうなるか? 摂政も関白もいない状態であってもこなせるのだ。
では、太政大臣はどうか。太政大臣がいない状態は珍しくもない。何しろ亡き菅原道真に贈ったぐらいであるから、もはやこれはキャリアに対する名誉の称号のようなものである。しかも、太政大臣となると議政官の一員としてカウントされなくなるから、発言することはおろか、決議に参加すること自体ができなくなる。いくら拒否権があると言っても、奏上された意見が気にくわないから握りつぶすしかできないのでは自らの意見を議決に反映させるのも難しくなる。
自分の忠実な家臣を議政官に送ることで議政官を遠隔操作するぐらいはどの太政大臣もしてきたが、遠隔操作と本人の直接操作とではやはり違う。
議政官を操れている藤原道長にとって、摂政も、関白も、太政大臣も、自らの政務遂行に支障を生じさせる地位でしかないのだ。藤原道長自身がその気になればいつでも関白に就けるのに、残っている日記のタイトルも『御堂関白記』なのに、この人はついに関白に就くことなく人生を終えるのである。関白の権限の一つである内覧は手にしたが、関白の職務の一つである国事行為における天皇の代理を引き受けない、すなわち、名誉の称号に興味を示すことなく、常に政務の最前線に立ち続けることを選んだのである。
藤原道長が右大臣になったことで、藤原伊周は人臣のナンバー2に位置づけられることとなった。
トップに立つ者の最大の協力者としてのナンバー2なら問題ない。そうであるがために自身の能力を最大限発揮し、後世まで語り継がれる名参謀となった者は数多くいる。
だが、権力争いで準優勝となった結果のナンバー2はもの悲しい。健闘した敗者を讃えるのはスポーツの世界だけであり、それ以外においてはトップに立たなければ全て負け犬なのである。どこかの政治家の言葉ではないが、二位では駄目なのだ。
その駄目である二位になってしまった藤原伊周は、議政官で浮く存在になった。話しかける者もおらず、議政官で何を発言しても何の反応も返らず、ついには内大臣藤原伊周不在という状況に気づかない者もでる始末であった。
現在の国会でいうと、議席数一桁の少数野党である。やかましく煩わしい存在であるが、国会審議に何らかの影響を与えることはないという野党を思い浮かべていただきたい。藤原伊周はこのような存在になったのだ。
ついこの間まで関白代行まで勤め、次は自分の時代だと考えていたのに、そして、多くの者が次代の権力者としての藤原伊周にすり寄っていたのに、気がつけば藤原道長が盤石な政権基盤を築いており、藤原伊周の周囲からは人が消え失せ、すり寄る者が消え失せてしまっていた。
勢いの弱まった者がおとなしく消失することは少ない。最後まで何かしらの抵抗を見せるものである。そして多くの場合は、当人にとっては劣性からの起死回生を脳内で描いているのに対し、周囲の者には消える直前に明るく輝くロウソクになぞらえるものである。
では、藤原伊周は何をしたのか。
長徳元(九九五)年七月二四日、右大臣藤原道長と内大臣藤原伊周が論争した。
藤原実資は『小右記』に「宛も闘乱の如し」と記しており、いつ殴り合いに発展するかわからない状態になったのだろう。
もっとも、現代人は国会や予算委員会での与野党入り乱れての乱闘を何度も目の当たりにしている。このときの論争は、現代でも見られる国会の混乱が一〇〇〇年前にもあったというだけの話であり、人類は人類自身が思い描いているほど進歩するような生き物ではないという教訓を教えてくれる。
この論争の結末は残されていないが、両者ともこれでおとなしく引き下がったわけではないことだけはわかる。
というのも、その三日後に本当の殴り合いに発展しているのである。もっとも、殴り合いの当事者は本人ではなくその従者であるが。
忘れてはならないのは、議政官の中では一個人であっても、いざ邸宅に戻れば数多くの武士をボディーガードとして従えるだけの権勢を持っていることである。それは、トップに立った藤原道長だけではなく、負け犬となった藤原伊周においても同じことであった。
そして、主君の状況は家臣にも伝播する。
長徳元(九九五)年七月二七日、平安京の七条大路で、右大臣道長の従者たちが権中納言藤原隆家の従者たちと乱闘を繰り広げたのだ。藤原隆家は藤原伊周の実の弟であり、権中納言ではあるものの、伊周の実の弟であることを考えればわかる通り、若い。この時点でわずか一六歳、現在の感覚で行くと高校一年生である。
後年、「さがな者」、つまり、手の付けられない荒くれ者と評されることになるが、現在でも想像つく通り、大人になってそう呼ばれる人間の少年時代が品行方正な若者であったなどとは到底想像できる代物ではない。藤原隆家も例外に漏れることなく、現在で言うところのヤンキーであったし、その従者たちというのもヤンキー集団の一味だと評するしかない者たちであった。
その者が自らに降りかかった不遇を黙って受け入れるであろうか? その答えは「否」である。何しろ武装して京都市中を練り歩くようになったというのであるから、物騒なことこの上ない。
このような集団を多くの人は恐怖と憎しみを持って遠巻きに眺めるが、そうではない人たちもいる。それは何か。腕力で渡り合える自信のある者である。
忘れてはならないのは、藤原道長の手には国のオフィシャルの軍事力があるだけでなく、源頼光をはじめとする武士の支援があったことである。その上、執政者になった以上、治安維持についての責任も存在する。
つまり、道長はこの物騒な集団を正々堂々と腕力で取り押さえることができるのだ。
多くの人が恐怖をもって眺めている藤原道隆の従者たちという名のヤンキー集団と、道長の従者たちが七条大路で激突した。激突と言っても、弓矢を構えただけでなく実際に矢が飛び交ったというのであるから、現在の感覚で行くとピストルで撃ち合うような危険極まりない激突であった。なお、藤原実資の『小右記』には先に手を出したのは道長の従者たちだという。
それにしても七条大路と言えば当時の庶民の憩いの場でもあった東市の南を東西に走る通りである。当然ながら貴族自身が姿を見せることは滅多にない。その貴族自身が姿を見せない場所に貴族の従者たちが武装してうろつくのだから、庶民にとっては迷惑この上ない話であったろう。
その迷惑この上ない話に困っていたところで起こったこの乱闘は、物騒な光景ではあったが、庶民にとっては溜飲の下がることでもあった。
さらに、乱闘があったために駆けつけた検非違使たちが逮捕したのは、先制攻撃を食らった側の藤原隆家の従者たちだけ。道長の従者たちは無罪放免となったのである。いかに普段から暴れているとは言え、このときに限っては先制攻撃を食らった側である。逮捕されたのが隆家の従者たちだけというのは普段の光景を知る庶民たちにとってはごく当たり前のことだと考えたが、当事者は理不尽と感じた。
理不尽と感じた当事者の仲間の矛先は、検非違使ではなく道長の従者に向かった。長徳元(九九五)年八月二日、再び暴動が発生し、このときに道長の従者の一人が命を落としている。
普段から暴れ回っている人間の思考に従えば、仲間が亡くなったのであるからこれで道長の従者たちは怖じ気づいて二度と逆らわなくなるはずであるが、藤原道長はそういう人間ではない。容疑者引き渡しを藤原隆家に命じ、引き渡さない場合は藤原隆家を謹慎処分に処すと発表したのである。
残念ながら、藤原実資の『小右記』にはこの後どうなったのかの記事がないが、無事解決したとは思えない。というのも、長徳元(九九五)年八月一〇日に、高階成忠が陰陽師に藤原道長を呪詛させるよう命じたという記事が残っているからである。
それに対し、藤原道長は徹底抗戦ではなく懐柔策を提示している。このあたりが藤原道長という人物の評判を呼ぶもとなのだろう。
長徳元(九九五)年八月二八日、正三位内大臣藤原伊周が皇太子居貞親王の東宮傅に就任した。
これが道長の提示した懐柔策であった。
次の天皇になることが約束されている居貞親王のもとに、大臣が兼任することが通例の東宮傅(とうぐうのふ)として内大臣藤原伊周を遣わすのは何らおかしな話ではない。それは時期執政者となる若き大臣の歩む通常のコースである。
その上、この時点の藤原道長にはまだ後継者がいない。子供がいるではないかというが、長男の藤原頼通はこのときまだ四歳。いくらなんでも何かあったときにバトンタッチできる年齢の者ではない。つまり、現時点では藤原道長が権力を握っているが、今ここで道長に何かあったとしたら藤原伊周が藤原氏のトップに立つしかないのである。
自分と激しく敵対し、実際に武力衝突をし、陰陽師を使って呪いを掛けようとまでした人間を自身の後継者に任命するのだから、藤原道長という人間はかなり度量の大きな人間だとするしかない。
ところが、これを藤原伊周の立場で考えるとどうなるか。「自分の次の時代は君の者だと言われた」としても素直に喜ぶなどできない。何しろ議政官という言論が物を言う舞台で自分は完膚無きまでに敗れ去っていたのである。そして、藤原の後継者争いに敗れ不遇に遭い、怒りにまかせて勝者になった藤原道長にぶつかっていったのである。
ここで敵として弾劾されたのならまだ爽快であった。反藤原道長の勢力として自らを位置付けることでアイデンティティを維持できた。道長を追い落とすことに勢力を注ぎ込み、来るべき時が来たら道長に取って代わることを生き甲斐とすることができた。
それなのに、藤原道長に全て許され、道長の後継者にまで任命された。
多くの人は道長の寛容を褒め称えるであろう。道長の行為に文句を言う人などいないだろうし、当人にとっても文句の付け所などない。しかし、敵として認識している人間に全て許され後継者に任命されたのだ。これでどうして平然としていられよう。
寛容は敵視以上にプライドをズタズタに引き裂くものなのだ。
伝染病の流行で人員が減ったこともあり人事刷新が求められるようになったことで、右大臣藤原道長の主導する人事が展開された。
内大臣藤原伊周を東宮傅にしたのを皮切りに、中納言藤原懐忠を左衛門督兼任とし、参議藤原実資を権中納言に昇格させると同時に右衛門督兼任とさせた。
さらに、正四位下参議藤原公任を左兵衛督に抜擢した。
それにしても、かつて自分のライバルと見なされていた藤原公任や、後に自分の悪評を書き記すこととなる藤原実資についても平然と人事を用意したのは、それが藤原道長という人なのだと結論づけるしかない。敵といっさい妥協することのなかった藤原道隆と違って、この人は敵であろうとその能力に見合った職務と地位を用意する人であったとするしかないのだ。
その光景がより如実に示されたのは対外関係。長徳元(九九五)年九月六日に若狭国に来着した宋の商人朱仁聡ら七〇名あまりを越前国に移すことととなったのだが、このときに後手に回らざるを得なくなったという現実を藤原道長は痛感したのだ。
朱仁聡という商人は一癖も二癖もある存在であった。たしかに身分は商人である。記録には永延元(九八七)年に来日した記録もあり、朝廷に羊を献上したという記録も残っている。
だが、何でわざわざ若狭国なのか。若狭国から少し歩けば琵琶湖にたどり着く。琵琶湖を南下すれば目と鼻の先に京都がある。
しかも、地図を見ればわかるが、宋は日本海に面している国ではない。つまり、宋の商人が若狭国に来るには、宋の海岸を出航したのち、朝鮮半島、対馬、九州の当たりを通過し、日本海を横断して行かなければならない。これは当時としてはかなりの長距離航海である。途中で何度の日本海沿岸に寄港したであろうことを考えても、京都の目と鼻の先に宋の船が帰着したというのは通常のことではない。
あくまでも通商で寄港したというならそれはそれで構わない。だが、初回に寄港したであろう九州で何もできなかったというのは日本の対外折衝能力の低下を意味しているのだ。
長徳元(九九五)年一〇月一八日、太宰大弐の地位から藤原佐理を罷免し、藤原在国を新たに任命したのである。藤原在国が勤めていた勘解由長官には参議の平惟仲が就任した。
かつて藤原兼家が「まろの左右の目」とまで評した二人が、藤原道長のもとで復活したのである。
長徳二(九九六)年一月一日、ちょっとしたニュースが流れた。
太宰大弐藤原在国が、名前の「在」の文字を「有」に改めたのである。ゆえに、以後は藤原有国となる。
前年の伝染病の混乱が一段落し、人事もある程度落ち着いたのか、長徳二(九九六)年については新年恒例の人事刷新はこれと言ってないはずであった。だから、長徳二(九九六)年一月のニュースは藤原有国の改名だけになるはずであった。
そう、はずであった。
その予定を、こともあろうに内大臣藤原伊周が壊してしまうのである。それも最悪な形で。
事件が起こったのは長徳二(九九六)年一月一六日、つまり、毎年恒例の人事発表である除目の発表日の前日である。
この日の夜、藤原伊周と隆家の従者が、故一条太政大臣藤原為光の邸宅で花山法皇を射ったのだ。それも偶発的なものではなく、計画を練った上での犯行であったのだ。
当初は威嚇目的であったという。すなわち、闇夜の中を故藤原為光の邸宅に向かおうとしている花山法皇を威嚇するために弓で射ることを目的としており、弓で射殺すことを目的とはしていなかった。
ところが、さすがに法皇となると当然のことながら従者を連れている。そして、従者と言えば完全武装した武士と相場が決まっている。そして、自分たちがまさに護衛している方が弓で射られ、実際に法皇の着衣の袖が貫かれてしまう。こうなると黙っていられるわけがない。ただちに反撃に打って出た。
一方、弓を射った方は覚悟の上での犯行である。法皇に向かって弓を射るのであるから無事で済むなど毛頭考えていないし、相手の護衛がこちらに向かってくることも当然考えている。
結果は双方入り乱れての乱闘である。さすがに花山法皇は乱闘から逃れて逃げ延びたものの、この乱闘の最中に花山法皇の護衛が二人命を落とした。しかも、ただ単に命を落としたのではなく、伊周・隆家の従者達たちよって首を切り落とされ持ち帰られるという事態になった。
花山法皇襲撃事件が問題にならないわけがない。
それでも当初、花山法皇は今回の件を穏便に済ませようとしたようである。何しろ花山法皇が故藤原為光の邸宅に向かった理由は愛人との逢瀬のためである。出家して僧侶となった者が、こともあろうに女性に逢うために闇夜に紛れて邸宅に忍び込もうとしたところを襲われたのだ。花山法皇にとっては隠しておきたい秘密としておきたかったに違いない。
おまけに、この頃の花山法皇の居住する花山院というのは、当時の平安京の人たちにとっての恐怖の場所であった。何しろ前を通っただけで荒くれ者の武士たちが花山院から次々と現れては乱暴狼藉を働くというのだから穏やかではない。おとなしく停まって言うことを聞けば多少の出費でやり過ごすこともできるが、停止を無視して通り過ぎようとすると、まずは石、ついで矢、さらに武士本人がやってきて暴れ回るというのだから、これで花山院に好き好んで近寄ろうとする人がいたらその方がおかしい。何しろ、こちらも血の気の多いことで有名であった藤原隆家が、武士でもある従者たちを従えて牛車で花山院の前を通り過ぎようとしたことがあったが、従者たちが花山院の武士たちに蹴散らされ藤原隆家もやっとの思いで逃げ帰ることのできたという有り様であったほどなのだ。
花山法皇襲撃を命じた側は、このような花山院の現状に対する不満を募らせてもいたのであろう。そして、命じられた側にとっては屈辱を晴らす絶好の機会と感じたに違いない。
しかし、事件は想像をはるかに超えて拡散した。人が実際に殺されているだけでなく、首を切り落とされ持ち去られるという大事態になっているのである。既に京都市民の間に話題が広まっており、これをもみ消すなど朝廷の力をもってしても不可能な事態となっていた。
それにしてもどうして藤原伊周と隆家の二人が花山法皇に弓を射るなどという大それたことを命じたのであろうか。
一つは藤原隆家の個人的な恨み。隆家のような不良少年というのは、敵に負けたとしてもそれに屈服することはない。屈辱を受けたらどんな手段を使ってでもやり返すと考えている人間にとって、闇夜の襲撃は卑怯なことだと全く考えない。それどころか正当な報復だとさえ考えている。
一方、藤原伊周はどうか。この人は断じて不良ではない。むしろ真面目な人間である。ただし、真面目な人間によくあることであるが、不正義を許さない。出家しているわけではない藤原伊周の場合、いかに結婚していたとしても愛人の一人や二人はいてもおかしくはない。現在の倫理観では不倫として弾劾されるところであるが、この時代の倫理観では大臣クラスの貴族ならばごく当たり前のことと認識されていた。このあたりは源氏物語における光源氏の女性遍歴を思い浮かべていただければおわかりいただけるであろう。
そして、藤原伊周は故藤原為光の邸宅に住む三の君と呼ばれる女性(本名は不詳)を愛人としていた。
ところが、いつの頃からか花山法皇も故藤原為光の邸宅に足繁く通うようになっていた。このようなとき、女房がいるくせに愛人の元に通う自分のことを棚に上げて、浮気相手に怒りを示すのは人間相手の本質であるとも言える。
もっとも、伊周は、弟の持ちかけてくる襲撃相手が花山法皇であると知っていたかどうか怪しいものがある。おそらく、藤原伊周が知っていたのは、愛人の元に通う僧侶がいるというものであったろう。その僧侶が高い身分で従者を引き連れるほどの者であるから出家した貴族であるぐらいは考えていたかも知れないが、それが法皇であるとは夢にも考えていなかったのではないかと思われる。
その不正義を成敗するという弟の持ちかけてきた正義の話に乗ったのではないか。そして、うまく行けばこれで名誉挽回のきっかけを築けると考えたのではないであろうか。
脅しをかけるように命じられた武士たちは、かなりおおごとになると理解していたようであり入念な準備をしての犯罪決行であった。そして彼らは知っていた。襲撃相手がかの憎き花山院の武士たちであることを。狭い世界での熱狂が興奮を呼び、乱闘の結果、人を二人殺して首を切り落として持ち帰った後になってはじめて、自分たちの襲った相手が花山法皇であったと改めて悟ったのではないだろうか。いかに警護の武士が憎くとも、相手は法皇なのだ。
ちなみに、事件が起こった長徳二(九九六)年一月一六日時点ではまだ、犯人が誰であるのか判明していない。花山法皇が何者かによって襲撃を受け、従者二名が殺され、首無し死体となってしまったということだけがニュースとなって伝わっている。
ところが、この時点で犯人が誰であるかを知っていた人間がいる。藤原道長である。一般にこのような大事件が起こったとき、トップのもとに情報が昇るのはおかしな話ではない。それに道長には個人的に武士とのコネクションがある。おそらく武士の中での情報やりとりの結果、犯人が藤原伊周と隆家の住まいに常駐している武士であるとの情報のぼってきたのであろう。
とは言え、その武士が個人的な犯行として襲いかかるなど考えられない。従者二人の首を切り落として持ち帰るなど異常すぎる行動である。この時代の武士と武士との抗争がいくら現代のヤクザの抗争に似ていると言っても、法皇の従者ではなく法皇本人に襲いかかるなどというのは尋常ならざる事態である。唯一納得する理由付けとしては、雇用主がそのように命じたときのみ。
藤原道長は犯人が誰であるかを驚いたと見え、ただちに権中納言藤原実資のもとに緊急の書状を届けている。この時点の藤原実資は検非違使を指揮する検非違使別当を兼任している。すなわち、京都の警察権力のトップに位置しているのが藤原実資である。藤原道長からの手紙は、今回の事件の解決のために検非違使の派遣をほのめかすものであった。
道長からの手紙には、内大臣藤原伊周と中納言藤原隆家の家臣が、花山法皇に襲いかかり、花山法皇の従者のうち二人が殺害されたことが記されていた。つまり、藤原実資に対して、内大臣藤原伊周と中納言藤原隆家を逮捕せよと命じるものであった。
それでも表面的には犯人不詳の状態が続く。
現在でもそうだが、捜査令状無しに家宅捜索などできないし、逮捕状無しに逮捕することなどできない。証拠無しに犯人を決めつけることなどできないのである。
藤原伊周と藤原隆家の兄弟が犯人であるという話はまだ広まっておらず、二人とも議政官に姿を見せてはいる。
藤原実資は議政官に姿を見せながら、検非違使に命じて証拠集めに奔走した。
証拠が揃い捜査が始まったのは長徳二(九九六)年二月五日。なお、このときは藤原伊周や隆家の自宅ではなく、伊周の家司である菅原童宣と源致光の邸宅の捜索である。
菅原童宣の邸宅を捜索した検非違使の手によって、邸宅内に八名の武士が常駐していたことが判明した。一方、源致光のもとに潜伏していた武士たちは七名から八名いたが、その全員が検非違使の到着前に脱出していた。
花山法皇に弓を向けた者の捕縛には失敗したが、これで花山法皇襲撃事件の裏事情が判明した。花山法皇を襲撃した者の黒幕は、藤原伊周、あるいは伊周の弟の藤原隆家、あるいは兄弟二人ともである。
議政官では容疑者となった内大臣藤原伊周と中納言藤原隆家の処罰をいかにすべきかという議論が沸き起こったが、この時点ではまだ容疑であって確定ではない。
長徳二(九九六)年二月一一日、一条天皇より直々に、藤原伊周・隆家兄弟の罪科を決定せよとの勅が道長に伝えられ、明法博士に罪名の勘申をさせることとなった。法律に基づく処罰とするためには法律の専門家の具申が必要であった。
当時の貴族には一般庶民よりも刑罰を軽くするという特権があった。だが、今回の事件は花山法皇に弓を向けるという大犯罪でもあった。これはかなり微妙な法律的判断を求められることであった。何しろ先例が全く役に立たないのだ。
貴族の犯罪に対し正式な処罰を下せるのは天皇のみ。仮に摂政がいれば摂政が代行することも可能であるが、この時点の一条天皇に摂政はいない。ゆえに一条天皇の名によって処罰を下す必要があるのだが、慣例として議政官から上がってきた処罰内容をそのまま、あるいは一等減して宣告することになっていた。
その間も、そのまま処罰が下ることなくじりじりと時間が過ぎていった。
一条天皇としては最愛の中宮定子のことを考えてであったともいう。藤原道隆亡きいま、中宮定子の後ろ盾となっているのは中宮定子の実兄でもある内大臣藤原伊周である以上、藤原伊周がいなくなったら中宮定子の地位も不安定なものとなるのだ。
この頃の中宮定子の様子について枕草子を探してもムダである。枕草子はその時代の宮中生活を伝えるという意味では第一級の史料であるが、同時刻のルポタージュ要素はどこにもない。そもそも、藤原伊周に関する記述についても長徳元(九九五)年以後どこにも観られなくなるのである。ゆえに、作者清少納言がどのような思いで中宮定子やその実兄の藤原伊周を眺めていたのかわからない。
よって、公的記録を追いかけていくしかないのだが、その公的記録によれば、長徳二(九九六)年三月四日、中宮定子が宮中を出て二条第に移った。この二条第に藤原伊周と隆家の兄弟が住んでいた。ただし、二条第のほうでも中宮定子を迎え入れる余力はなかったようで、中宮の里帰りにも関わらず閑散としたものであったという。
長徳二(九九六)年三月二八日、一条天皇の実母でも東三条院詮子が病気となった。一条天皇はただちに病気からの回復を願う大赦の実施を命じたが、すでに花山法皇襲撃事件は藤原伊周と隆家の兄弟が起こしたものであるというのが京都市中では決定事項となっている現在、これは病気ではなく呪いによるものであるという噂が広まった。噂を強めるためなのか、大赦の前日に、女院の寝殿の下から呪いの人形が掘り出されたという噂まで登場した。
さらに、長徳二(九九六)年四月一日、法琳寺から伊周が太元帥法を行なっているという密告があった。『栄花物語』巻第四にも、臣下が勝手にやってはならない太元帥法を密かに伊周がやっているという噂が広がったことが記されている。
伊周と隆家の兄弟は完全に世論を敵に回していた。そして、この世論に逆らうのは得策ではなかった。
議論に議論を重ねた末の長徳二(九九六)年四月二四日、ついに処分が下った。内大臣藤原伊周は内大臣を罷免し太宰権帥に任命して太宰府に追放する。内大臣は空席とする。中納言藤原隆家は中納言を罷免し出雲権守に任命して出雲国へ追放する。後任の中納言には道長の異母兄である藤原道綱が就任する。
同日、検非違使に対し藤原伊周・隆家の両名の捕縛命令が下る。指揮をするのは左衛門権佐惟宗允亮。惟宗允亮は、捕縛のための軍勢を派遣するとともに、近衛府に常駐する武士に対して東三条院藤原詮子の警備を命じた。藤原伊周・隆家の従者である武士たちの報復を危惧してのことである。
この時点で既に二条第は平安京の庶民が詰めかける騒動となっていた。
ところが、この状態のまま拮抗するのである。検非違使が一気に二条第に突入するでなく、藤原伊周や隆家の軍勢が抵抗を見せるでなく籠城するのだ。
しかも、籠城する際に、中宮定子を前面に掲げて籠城した。一条天皇の最愛の女性が宮中を去ったこと、宮中を去って二条第に向かったことは特に大きな注目を集めなかったのに、このタイミングで大きな意味を持つようになったのだ。
検非違使から宮中に対し連絡が届くものの、その連絡の全てが、検非違使が命令を遂行できない理由を記すものであった。特に、中宮定子が兄の藤原伊周と手を取り合って決して離れずにいることが検非違使の動きを止めるものであった。
強行突入の指令が出たのは長徳二(九九六)年五月一日。
二条第に突入した検非違使は、夜御殿の戸を打ち破り、組入や板敷等をはがし、家宅捜索を始めた。その結果、藤原隆家の拿捕に成功したものの、藤原伊周は消息不明。また、中宮定子は検非違使の乱入に耐えきれず髪を切って出家した。ちなみに、この時代の女性の出家は、剃髪ではなく、髪を首のあたりで切り整えるものである。
藤原伊周が行方不明になった。このニュースが平安京中で持ちきりになった。何より、あの厳重な警備をかいくぐって脱出したことが驚きの目を持ってみられた。そして、行方不明になった藤原伊周がどこに行ったかという噂が平安京の至るところで飛び交い、ある者は平安京北西の愛宕に向かったらしいと話し、またある者は平安京の北にある北野の地に向かったらしいと話した。
行方不明になっていた藤原伊周の姿が見つかったのは五月四日。それも、捜索の結果ではなく出頭であった。藤原伊周の供述によると、平安京南東の木幡にある、亡き父の墓に詣でていたという。実際、現在もJR木幡駅の周辺には藤原氏塋域の名で歴代藤原氏の墓が点在しており、藤原氏塋域の碑文の中には「南院関白道隆」として藤原隆家の名も刻まれている。
この出頭時、藤原伊周は既に出家していたという。また、藤原伊周は自分の身一つで移動していたのではなく、母の高階貴子とともに父の墓に詣でていたという。ただし、出家したはずなのに伊周の頭髪は剃られておらず通常のままであった。
藤原伊周はここで、自分は既に出家した身であるから罪を問われない対象であると主張した。また、息子とともに行動していた高階貴子は、息子の追放と自分も一緒に行動すると宣言した。
その二つの主張とも受け入れられることはなかった。髪を剃り落としていないことからも藤原伊周の出家は無効であると確認され、改めて太宰府に向かうよう宣告される。また、高階貴子の同行も山崎までとし、それ以後は京都に連れ戻されると決まった。
それでも藤原伊周は抵抗を見せたようである。本来なら太宰府に向かうべきところなのに、体調不良を理由に播磨国に留まったのである。京都から太宰府は一ヶ月の旅路だが、播磨なら数日で行き来できる距離。現在だと下手すれば通勤圏内である。
ちなみに兄のこの行為と同じ事を弟もしており、出雲国に行かなければならないところなのに、体調不良を理由に但馬国に留まっている。
これで一段落ついたかと誰もが思った。
ところが、長徳二(九九六)年六月九日未明、さらに事件は終わっていないことが判明したのである。中宮御所となっていた二条第が焼け落ちたのだ。
このとき既に妊娠していた中宮定子は武士に護衛されて祖父の高階成忠の家にいったん移ったのち、牛車に乗って高階明順の住まいに移ったのである。これにより、中宮御所としての二条第の役割は失われた。
御所を失った中宮は、普通に考えれば宮中に戻らねばならない。しかし、中宮定子は宮中に戻ることはなかった。
するとどうなるか。一条天皇の最愛の女性という地位が空席になったのだ。ここでうまくいけば一条天皇の後継者の祖父の地位を手にできる。
さっそく動き出したのが大納言藤原公季である。娘の藤原義子を入内させたのだ。さらに、大納言藤原顕光も娘の藤原元子を入内させる動きを見せ始めた。
この動きに、藤原道長は何ら同調していない。同調しないのは当然で、道長の娘の中でも最年長の藤原彰子ですらこの時点でわずか八歳である。いくらなんでも八歳の幼女を宮中に送り込むわけにはいかない。ただし、この幼女に対する教育についてはかなり早い時期から気に掛けており、この時点で既に将来の教育係候補に目を付けている。
その教育係候補の女性の本名は伝わっていない。
だが、その女性の名は日本中の誰もが知っている。
紫式部である。
紫式部が藤原彰子の教育係となるのはこれより一〇年ほど後になってからである。だが、この時点で藤原道長の妻である源倫子付きの女房として出仕していたという説があり、藤原道長はかなり早い段階から紫式部の存在を知っていたと現在では推測されている。
長徳二(九九六)年七月二〇日、右大臣藤原道長が左大臣に昇格。後任の右大臣には大納言藤原顕光が昇格し、中納言源時中が大納言に昇格した。
同日、権中納言藤原実資が中納言に昇格し、平惟仲が権中納言に就任した。
内大臣藤原伊周と中納言藤原隆家がいなくなった議政官の体制がこれで固まった。
この新たな体制が直面したのは経済問題であった。
不作により市中に出回るコメの量が減り、インフレを巻き起こすようになっていたのだ。
さらに、インフレは数多くの失業者を生み、京都市内の各地で放火が発生するまでになってしまったのだ。
これを放置するようでは執政者失格である。かといって、このタイミングで妙案を出し問題解決を図れた執政者は極めて少ない。いないわけではないが、それは時代の許した対策を受けてのことであり、同じことを藤原道長がやって成功するとは限らないのだ。
成功例をさかのぼってみてみると藤原良房まで行き着かなければならない。しかも、藤原良房の時代に荘園という概念などない。荘園という概念がないところで、大規模農園を中心とする自給自足コミュニティを建設し、そのコミュニティで失業者を吸収すると同時に日本国全体の生産量を増やしたのが藤原良房であり、その藤原良房の生み出した結果が、自給自足コミュニティである荘園である。
この時代になると荘園の存在が当たり前になっていただけでなく、どれだけの荘園を有しているかが貴族としてのステータスとなっていたほどである。何もないからこそ荘園という真新しい概念で失業の吸収と生産性向上を図れたのであり、荘園が当たり前となった状態では、荘園による失業の吸収も、荘園による生産性向上も期待できない。
実はこの年のインフレに対して、左大臣藤原道長が何かをしたという記録はないのである。ただ、それと何もしなかったこととは必ずしも一致しない。何らかの対策をしたであろうこと、そして、その対策がある程度の効果を発揮したであろうことは推測されるのである。なぜかというと、インフレの記録も、火災頻発の記録もこの頃に消えるのである。
話を二一世紀の現在に戻した上で思い出していただきたいのが、東日本大震災直後の品不足である。コンビニエンスストアやスーパーマーケットから商品が消えたことはニュースになった。しかし、商品が並ぶようになったことはニュースにならなかった。気がつけばだんだんと商品が増えており、気がつけば品不足がなくなっていた。そして、ニュースでも棚に商品が並ぶ店頭を映して「かつてのような品不足は解消しております」という報道があっただけである。
突然訪れた非日常はニュースになるが、非日常から日常に戻ったときは、鉄道や道路の復旧工事完了といったわかりやすいものでもない限り、ニュースに、つまり記録にならないものである。
ニュースがないということは、問題の解決を意味する。
さて、先に宋の商人の朱仁聡が若狭に到着したことは記したが、朱仁聡に限らず、この頃から宋が日本に対し積極的なアプローチを仕掛けてくようになっていた。
宋の立場に立てばわからなくもない。北の契丹の圧力に加え、宋の属国であった高麗が契丹に征服され今では契丹の忠実な衛星国である。南に目を向ければかつて侵略を加えたベトナムが構えており、宋は北と東と南で敵に囲まれる状況であったのである。
この状況で唯一どうにかなりそうであったのが日本であった。契丹とベトナムとともに対宋包囲網を敷いていると宋は考えてきたが、状況を冷静に考えてみると、契丹とベトナムとは戦火を交えたのに対し、日本との関係においては一滴の血も流れていない。
ただし、かつての唐の頃のように日本から外交的アプローチがやってくることは期待できなかった。唐が最盛期であった頃は、唐の文化、唐の制度、唐の法律などを学びに来る日本人が多くいたし、朝鮮半島情勢をふまえても日本は唐と国交を結ぶだけのメリットがあったが、今となってはそんなものなどない。宋と国交を結ばなくても困らないし、宋から学ぶものもない。それどころか、五代十国の混乱で失われた唐代の書物が日本から逆輸入されてくるほどなのだ。
日本は外交的に孤立を選んだのである。日本との国交を結んで宋の味方に引き寄せ、少なくとも契丹と高麗とに対峙させるというのは宋の考えたシナリオであって、日本の望むシナリオではなかった。
藤原道長が左大臣に就任する前日、宋の商人である朱仁聡から朝廷に向けてガチョウと羊が献上された。現在で言うとさしずめジャイアントパンダを日本によこすようなものである。この珍しい動物は京都市中でちょっとした話題になったが、藤原道長の回答は、献上品の返却であった。それどころか、許可なく日本にやってきて勝手に献上したということで、朱仁聡に対する罪名を審議させている。
朱仁聡に対する罪名を審議させている頃、平安京を震撼させるニュースが飛び込んできた。
藤原伊周が密かに京都に戻っているというのである。
追放になったはずの藤原伊周が勝手に京都に戻ってきたというのは、現在の感覚で行くと無期懲役の犯罪者が脱獄したのと同じである。当然のことながら騒然となり、未だ噂の段階ではあったものの、藤原道長は直ちに京都市中の捜索を命令。
花山法皇への襲撃という言い逃れのできない犯罪に対する抗弁のための上洛、あるいは、藤原道長政権打倒のための反乱のための上洛という噂が広まった以上、これを放置することは許されなかった。
捜索の結果、伊周の京都入りは本当のことであったと判明した。ただし、それは抗弁や反乱ではなく、自らの罪を承知の上でのことであり、母である高階貴子の容態が急変したと聞きつけたための、覚悟の上での京都入りであったことが判明した。そして、高階貴子の死を藤原伊周が見届けたことも判明した。
情状酌量の余地のある理由での法令違反であったが、その情状酌量を道長は認めず、藤原伊周は再び太宰府へと追放となった。それも、途中での病欠を認めぬ徹底した処罰であった。
藤原伊周は、せめて妹の出産を見届けさせてほしいと懇願したが、その願いは認められなかった。
長徳二(九九六)年一二月八日、藤原伊周が太宰府に到着。
長徳二(九九六)年一二月一六日、一条天皇にとっても第一子となる修子内親王が誕生。
もしここで中宮定子が産んだ子が男児であったら、その子が皇位継承者筆頭となり、伊周は天皇の伯父となるところであった。そうなっていれば歴史は変わっていたであろうが、中宮定子の産んだ子は女児であった。
藤原伊周は、太宰府の地で天皇の伯父になることが叶わなかったことを知った。
長徳三(九九七)年元日の時点で、人臣のトップは正二位左大臣の藤原道長である。三二歳という若き左大臣と言いたいところであるが、この若さでの左大臣自体は珍しくはない。ただ、若き左大臣は珍しくなくても、このような若者が左大臣であるときというのは、四〇代以上のベテランが太政大臣や摂政や関白に就任していて、必ずしも左大臣が人臣のトップではないというときである。
それと比べ、この時点の藤原道長は人臣のトップである三二歳の若き左大臣である。これは珍しいとするしかない。しかも、道長のライバルになる人間が誰もいないのだ。強いて挙げれば藤原伊周と言うことになるのだが、この人は太宰府に追放されている。
議政官を操れるようになっていた藤原道長にとって、現状以上の地位や位階はかえってジャマになるものであった。従一位になるのはかなり名誉なことであるし、太政大臣もかなり名誉なことであるし、関白もかなり名誉のことであるのだが、その全てについて、道長は何の興味を示していない。何しろ左大臣に専念できている現状ならば国政を操れるのに、名誉を求めると国政を操れなくなってしまうのだ。
前年に吹き荒れたインフレと、頻発する火災という問題を解決した藤原道長は、目の前の問題を一つ一つ解決するという、特筆すべきことのない、しかし、着実な政務を遂行した。
この頃の道長の政務について記録すべきところがあるとすれば、この年の四月に藤原伊周と隆家の兄弟の追放を解除したことぐらいである。ただし、追放解除となっただけであり前職に復帰できたわけではない。
さて、追放のそもそもの原因は花山法皇への襲撃であるが、花山法皇襲撃の原因のうちの一つである花山院の武士たちの悪行について、誰もが諦めていたわけではない。毒を以て毒を制すという感じで、同じく暴れ回ることで有名な藤原隆家とその従者たちが花山院の従者の二人を殺したことは、誰もがとんでもない事態であると認識したものの、拍手喝采する者もいたのである。
花山院、すなわち花山法皇の警備をする武士を取り締まるなど、当時の概念からすれば不遜の極みであった。何しろ、その不遜の極みをした藤原伊周と隆家の兄弟が、本人が直接手を下したわけではないにせよ追放刑を喰らったのである。確かに追放解除となったが、公職追放の状態であることに違いはない。
ただし、それはオフィシャルな立場に限っての話である。
プライベートな部分に目を向けると、花山院の武士たちは恐怖を感じていたのである。他でもない。藤原隆家の復讐についてである。
追放されていたが追放解除となって藤原隆家が京都に戻ってきたということは、藤原隆家の従者たちが再び結集することを意味した。それは、花山法皇個人ではなく、花山法皇の従者たちへの攻撃を隠さない集団が蘇ったことを意味したのである。
このまま放置すると再び武力衝突することは目に見えている。要はヤクザの抗争と同じだ。
ただし、藤原隆家の従者たちを取り締まることはできない。どんなに怪しいと言っても、彼らは法の裁きを受けた上で刑罰を喰らい、その刑罰を終えた上で現在を迎えている。つまり刑期満了を迎えた元犯罪者であって、この時点では刑罰を受けるような犯罪を起こしていないのである。
一方、花山法皇の従者たちの犯罪は明白である。邸宅の前を通る人に向かって襲撃をかけるなど正常な光景ではない。花山法皇という超法規的な存在がいるからこそ法の裁きを受けないだけで、法を厳密に適用しようとすれば有罪になる。
一方は何ら犯罪を起こしていないために裁かれず、もう一方は超法規的存在の庇護のもとで裁かれず、ただただ緊張感の張りつめている状況であるというのがこの当時の京都市民の思いであった。そして、この緊張はいつしか爆発すると誰もが考えていた。
しかし、左大臣藤原道長は違っていた。
長徳三(九九七)年四月一七日、平安京を震撼させるニュースが飛び込んできた。
この日はもともと賀茂社に派遣された祭司の一行が平安京へと戻ってくる日であり、紫野まで出向いてその祭列を見物するのが京都市民にとって年に一度の娯楽であった。
これは花山法皇も例外ではなく、紫野まで見物に出かけている。無論、徒歩で出向いたわけはなく、牛車に乗っての移動であり、牛車の周囲は花山院の従者たちに守られていた。
良くない意味で京都銃の注目を集めている従者たちである。自然と人は遠ざかり、花山法皇の目立つ牛車と目立つ従者たちを遠目で眺める平安京の庶民たちという光景が紫野で展開されていた。
藤原道長はこのタイミングを狙っていた。花山法皇の従者たちへの逮捕命令を出したのである。しかも、その命令は一条天皇のお墨付きまで受けていた。つまり、天皇自らの逮捕命令であり、この命令に背くことは国家反逆罪になるのである。
命令はあくまでも花山法皇の従者たちの逮捕命令であって、花山法皇自身には何の処罰も出ていない。しかし、花山法皇は意味するところを理解した。法皇としての権威を一条天皇が否定したのである。しかも、場所は紫野という公共の一帯であり、半ば要塞化していた花山院ではない。
検非違使の登場に慌てふためいたのは花山院の従者たちである。本来ならば花山法皇の護衛が役割なのに、検非違使の姿を見ただけで逃走してしまったのだ。気がつくと牛車に乗ったままの花山法皇が取り残されているという有り様である。
おまけに、花山院の従者たちが逃げていった先というのが、花山院。
つまり、警察である検非違使に花山院が包囲されるという事態になったのだ。しかも、当の花山法皇を護衛したのが他ならぬ検非違使たち。つまり、従者たちが守らなければならない存在が、従者たちを逮捕しようとしている者のもとに居るという状態になったのである。
検非違使の警察力は、純然たる武士の他に、「放免」と呼ばれる者たちがいた。この者たちはどのような存在であるかというと、かつて犯罪を犯して収監され、刑期満了を迎えて塀の外に出た者たちである。検非違使は、元犯罪者のうち更正した者を、生活の安定を保証する代わりに警察権力に組み込んでいたのである。
つまり、このときの花山院は検非違使である武士たちに加え、元犯罪者たちによって包囲されていたということとなる。これはそれまでであれば考えられない光景であった。しかも、花山院という建物は平安京の中でも選りすぐりの高級住宅地にある邸宅である。周囲の光景と全く溶け込まない者たちが花山院を包囲したとあって、平安京の庶民たちは強い好奇心に刈られた。
花山院に立てこもった従者たちが法の裁きを受けなければならないことは、彼ら自身が強く理解していた。
包囲される前日の長徳三(九九七)年四月一六日の夕方、左大臣藤原道長の邸宅である土御門殿を訪れていた参議藤原公任と参議藤原斉信の二人は、土御門殿を出たあと西へと向かっている。そちらに自宅があるからだが、その道というのは当時の人たちが恐れていた花山院の前を通る道でもあったのである。
やはりと言うべきか、牛車は花山院の従者たちによって包囲されてしまった。しかも、従者たちは完全武装した上に武器を牛車に向けている。
少しの沈黙の後、始まったのは花山院の従者たちによる投石である。小さな石が投げられ始めたと思ったら、石はだんだんと大きくなり、ついには牛車を破壊しかねない巨石まで投げられる始末。
それでも牛車の中にいた藤原公任と藤原斉信の二人はまだマシだった。悲惨だったのは牛車の外にいた随員たちである。彼らは石の襲撃をまともに喰らっただけでなく、花山院の中へと連行されていってしまったのだ。
四月一七日に検非違使たちに発せられた逮捕命令は、この襲撃と拉致監禁についてである。この言い逃れできない犯行に対し、花山院の従者たちは当初こそ抵抗を見せたものの、日が開けた四月一八日に花山院の従者が四名逮捕されるという結果に終わった。
ちなみに、このときの記録は、藤原道長の『御堂関白記』にも、藤原行成の『権記』にも記されていない。もしかしたら原本にはあったかもしれないのであるが、現存する巻にはこの前後の日付の部分そのものが抜け落ちており、記録が残っているのは藤原実資の『小右記』だけである。
いったん宮中から離れていた中宮定子が宮中に戻ったのは長徳三(九九七)年六月のことである。名目上出家していたはずの中宮定子であるか、なし崩し的に還俗したこととなる。また、この宮中復帰に伴い清少納言も宮中に戻っている。
ただし、宮中に戻った中宮定子に用意されたのは職御曹司(しきのみぞうし)であった。正暦元(九九〇)年一〇月二五日に皇太后藤原詮子が移ったことで朝廷内の女性権力の推移を思い知らされることとなった建物が今度は中宮定子の住まいになったのだ。職御曹司は宮中の中心部から離れた建物であり、「内裏の外、大内裏の内」と称されていた。しかも、このときは鬼が出るという噂まで聞こえていた建物であり、かなり劣悪な場所が用意されたとするしかない。
ところが、この劣悪な環境がかえって中宮定子に、そして清少納言にとっても良い結果をもたらすのである。ただでさえ人通りの少ない建物であり普段から行き交う人の姿もまばらである。夜になるとさらに人通りは減る。その減った人通りの中、他ならぬ、一条天皇が人目を忍んで中宮定子の元に足繁く通うようになったのだ。
さらに一条天皇が通うようになると追従する貴族達も中宮定子のもと、より正確に言えば、中宮定子を中心とするサロンに通うようになる。どのような貴族が中宮定子のサロンに訪れたかは枕草子に記録が残っているのだが、人目を忍んでサロンにやってきた男性たちは、まさか一〇〇〇年の時を経ても自分の密かな行動が記録として残されるとは夢にも思わなかったであろう。
さて、この枕草子が評判を呼ぶようになったのもこの頃からである。
なにやら清少納言が面白い文章を書いているというのが宮中で評判となって、印刷技術の未熟なこの時代でありながら、清少納言の文章が次々と書き写され、宮中でベストセラーへとなっていくのである。
このベストセラーの愛読者の中には他ならぬ藤原道長もいた。普通に考えれば藤原道長は中宮定子の兄弟である藤原伊周と隆家の二人を追放した人物なのだから、中宮定子にとって政敵となる存在のはずなのだが、藤原道長という人間は、兄の藤原隆家と違って言論弾圧をしない人間である。自分に対するどんな辛辣な批判をしても、そのことで処罰されるようなことはなかった。この意味でも、藤原道長という人は真の自由主義者なのである。
それにしても藤原道長の言論に対する態度は実に興味深い。作家の塩野七生氏はその著書『ローマ人の物語』の中でユリウス・カエサルの言論に対する姿勢についてこのように記しているが、これと似たものが藤原道長にもあったのだ。
「言論弾圧によって書けないのならば、責任は言論を弾圧した側に帰すことができる。だが、弾圧されたわけでもないのに自主的に筆をとらないとしたら、その責任は誰にも転嫁しようがないではないか。また、自分が一度は剣を向けた人に許され、命を助けられただけでなく高官に任命されたとしたら、それによって感ずる後ろめたさを誰に向けることができるのか。(ローマ人の物語第Ⅴ巻「ユリウス・カエサル ルビコン以後」三二八ページ)」
中宮定子のサロンの女性たちはここで言う「一度は剣を向けた人」、すなわち敗者であった。その敗者が勝者である藤原道長によって何ら処罰されることなく、中心部から離れているとは言え宮中に戻り、かつてのように一条天皇の寵愛を受け、数多くの貴族達が足繁く通うようになっている。その上、側近の一人が書いている文章も何ら圧力を加えられることなく宮中でベストセラーになっている。
このような状況になったとき、中宮定子のサロンで何が起こるであろうか?
清少納言が中宮定子のサロンで孤立するようになったのだ。
敵に許されることの合理的理由を考えつかない人に、清少納言の文章がベストセラーになれている理由は理解できないものであった。藤原道長が言論弾圧をしない人であるということ自体が理解できるものでなく、清少納言が藤原道長に接近した、あるいは、清少納言が藤原道長のスパイであったという話まで飛び出したのだ。
枕草子の評判が上がれば上がるほど清少納言の孤立は深まり、清少納言の孤立は枕草子の品質をさらに高めていった。続きが出れば出るほど評判が深まり、評判が高まれば高まるほど清少納言がサロンで孤立するようになっていったのである。
中宮定子が宮中に戻ってきた頃、藤原道長は一つの問題に直面していた。
宋が日本に接近していることも、契丹、高麗、そしてベトナムが宋の東半分を包囲する状態になっていることも、宋の接近はこの状態からの脱却をはかっての選択であることも藤原道長も理解していた。
その藤原道長にとって、長徳三(九九七)年六月一三日に、高麗から書状が届いたことは特に驚きでもなかった。
日本と高麗の関係は、日本と新羅との関係に比べればまだ穏当であったが、正式な国交を樹立していないという点では新羅の頃と変わらない。ただし、かつての新羅とこの時代の高麗とでは一つだけ大きな違いがある。
それは、新羅は唐に服従しながらも唐と敵対することもある不完全な服属国であったのに対し、この当時の高麗は純然たる契丹の属国であったということ。高麗からの書状も、名目こそ隣国からの書状であったが、実際は契丹の息のかかった書状であった。
中身も想像していたとおりであった。対宋包囲網への正式参加を求める内容である。
道長は返答に窮した。いや、道長一人だけではなく議政官の誰もが回答に窮した。
ここで包囲網に参加すれば安全を得られる可能性が高まるが、高麗が契丹から受けている仕打ちを考えると日本が契丹からの侵略を受ける可能性がある。かといって、包囲網への参加を拒んだら契丹と敵対することとなるからやはり契丹からの侵略を受けてしまう。どちらを選んでも同じ可能性があるのだ。
議論を重ねた末の決断は、包囲網への参加拒否であった。契丹と宋とどちらかを選ぶように迫られたわけであるが、道長はそのどちらも選ばなかったのである。民間交易は残すが、正式な国交は結ばないとする日本国の方針を今後も維持するとしたのだ。
その上で、道長は日本海沿岸諸国や九州各国に対して防衛指令を発動した。国交を求める動きを拒否したということは、宣戦布告の絶好の口実ともなりうるのだ。
長徳三(九九七)年七月五日、それまで空席であった内大臣の地位に藤原公季を就ける。また、道長にとっては腹違いの兄にあたる藤原道綱を大納言に任命した。といっても、内大臣や大納言に就けたことに意味があるわけではない。
意味を持つのはその四日後である。長徳三(九九七)年七月九日、内大臣藤原公季を左近衛大将に、大納言藤原道綱を右近衛大将に任命したのだ。そして、道長個人のコネクションでつながっている武士たちをこの二人の指揮命令下に置いたのである。これがこの時代の日本国の取り得る最高の武力体制であった。
国交拒否の知らせは契丹を怒らせたと同時に高麗をも怒らせた。
新羅の頃から既にそうであったが、朝鮮半島の国々にとって日本は格下の国である。高麗からの書状も、契丹の息がかかった書状であるとは言え、高麗人の考えた日本に対しての文面である。すなわち、格上から格下への命令文である。
その書状を拒否したというのは高麗にとって許されざる蛮行であった。
特に契丹の支配下に置かれているという現状を唯一忘れることのできる概念が、自分たちよりも下の存在があるという意識である。その自分たちよりも下の存在というのが日本であった。
その日本が格上である自分たちに逆らったというのは、高麗人に激しい怒りを呼び起こした。
長徳三(九九七)年一〇月一日、太宰府から緊急連絡が届いた。正体不明の海賊が、筑前、筑後、薩摩に侵略してきたというのである。このニュースが平安京に届いたとき、高麗からの侵略が始まったという騒動がわき起こった。
平安時代の貴族というと政務と無頓着で夜な夜な宴会に明け暮れていたというイメージがあるが、この一大事にそのようなことをしていたなどという記録など無い。何しろ正式なニュースが朝廷に届いたのが現在の時刻で言うと午前一時。それから議政官全員に緊急招集がかかり、緊急討論が始まったのである。結局その日の貴族達は宮中で徹夜である。中には物忌みに該当する日であるとして昼間の政務を休んでいた貴族もいたが、この緊急事態にそんな悠長なことなど言う者はいなかった。
翌一〇月二日、一条天皇の命令により海賊追討命令が出された。この命令が太宰府に届いたのが一〇月一二日だというのだから、この時代の通信速度を考えれば異常とするしかないスピードである。
この異例のスピードは京都から太宰府への往路だけではなく、太宰府から京都への復路でも発揮された。しかも、太宰府からほぼ毎日のようにニュースが届いたのである。大宰大弐として藤原有国を太宰府に派遣していることの成果が現れた結果でもあった。ただし、情報は正確かつ適切なものであったが、その内容というのがさらに被害の状況は悪化の一途をたどっていることを示すものであった。対馬、壱岐、肥前、肥後、大隅などの九州各国も侵略の被害に遭い、民家が焼かれ、男女合わせて三〇〇名ほどが海賊に拉致されていったというものであった。
このときの拿捕された海賊は自分が奄美大島の人間だと主張しており、自分たちは高麗人ではないとしている。たしかに薩摩や大隅といった朝鮮半島から遠い地域が襲撃されたのだから、現在の研究者の中にもこのときの海賊の正体は朝鮮半島の人間ではないとする者もいる。だが、当時の人は高麗人海賊による襲撃と考えたし、現在の研究者の多くもこのときの襲撃は高麗人による犯行だとしている。
長徳三(九九七)年一一月二日、太宰府から自称「南蛮人」四〇名あまりを拿捕したという報告が届いたが、拉致された日本人たちは日本の地に戻ることができなかった。
年が明けた長徳四(九九八)年一月、高麗からの侵略が一段落ついたと誰もが考えていた。実際、一月七日には太宰府から絹と綿が進上されており、通常に戻ったという安心感を誰もが共有していたのである。
ところが、長徳四(九九八)年二月二一日に平穏は到来していなかったことを思い知らされることとなったのである。備前国鹿田荘に住む梶取佐伯吉永から、運送中の荷物を摂津国長渚浜(現在の兵庫県尼崎市のあたり)の住人である高先生(こう・せんじょう)秦押領使らに奪われたことを検非違使に訴えでたのである。海賊問題は、国外からの侵略だけではなく国内問題になっていたのだ。より正確に言えば以前から存在していた問題が藤原純友という最悪の形で爆発し、爆発後に沈静化して、またくすぶり始めてきたのだ。
この問題に藤原道長はどう対応したのか。実は何もしていない。いや、何かをできる状態ではなくなっていたのである。
長徳四(九九八)年三月四日、左大臣藤原道長が辞表を提出したのだ。理由は病気のためということになっている。当然のことながら、一条天皇も議政官の面々もこの辞表提出に驚きを見せ、必死に引き留めをはかっている。しかし、道長は出家も辞さないという意思まで見せている。
左大臣藤原道長が土御門殿にこもって内裏に参内しないために政務が停まってしまった。かといって、病気ではどうにもならない。実際に道長の様子を見に行かせたところ、道長は激痛にさいなまれて立ち上がることすらできなくなっているのである。政務を執るどころか呼吸するのも困難な状態になっているのだ。
翌五日、一条天皇は道長の病気の回復のために、僧侶へ祈祷を命じるとともに、収容されている犯罪者のうち軽微な犯罪の者の釈放も決定した。こうした祈祷や恩赦は国難の沈静化に効果があると考えられていた時代であり、このときの決定もこの時代としてはごく普通のことである。もっとも、藤原行成の日記によると、釈放に該当する犯罪者は三人しかおらず、拡大解釈したとしても一三人までしか増やすことができないというものであった。
長徳四(九九八)年三月一二日、藤原道長に与えられていた内覧の権利が中断となった。かといって誰かが新たに内覧の権利を手にしたわけではない。
翌一三日、道長が辞表の撤回を表明。ただし、病状の回復に至っていないため休暇を願い出ており、一条天皇は許可を与えている。
それからしばらく、宮中と、道長の住む土御門殿との間を何度も使者が行き来するようになった。病床の道長が政務に参加する形でこの国が運営されるようになったのである。いくら情報インフラが発達した現在でも内閣総理大臣が病床で横になったまま国政を指揮するというのは考えられない事態であるが、この時代の日本はその考えられない事態を選んだのである。
なぜか?
道長以外の人間が誰もいないのだ。
藤原道長が権力を握ったことで朝廷の人事構成が道長を頂点とするピラミッドとして完成してしまったのである。右大臣藤原顕光も、内大臣藤原公季も、藤原道長の政務を支える手足であって道長の代わりを務めることのできる頭脳ではない。
一度は出家を覚悟するほどの病状であったにも関わらず、それを理解しているからこそ道長は辞表を撤回し、自らの病状の回復を前提とした上で、通常ならざる事態での政務遂行を選んだのである。
しかも、その政務遂行で何ら支障が出ないことが判明したのだ。
長徳四(九九八)年三月二八日、神祇官の庁舎で火災が発生した。他の建物であればただちに消火作業にあたれるが、神祇官という神聖な建物の火災であったために誰もが何もできず、どうすべきか延々と議論が続く事態になったのである。その事態を収束させたのは、病床に伏せているはずの左大臣藤原道長からの書状、そして、道長の派遣した武士たちであった。一刻を争う事態であることを告げると同時に、神祇官の火災に対する先例も提示することで、何もできずにうろたえている貴族達の動きを封じたのだ。
ここにいる誰もが、ここにいないはずの藤原道長のリモートコントロールの前に敗れたのである。これは宮中の誰もに、自らの無力感と、道長の存在感の大きさを実感させるものであった。
長徳四(九九八)年四月二日、藤原道長が内裏に復帰した。ただし、入れ替わるように藤原行成が病欠している。
藤原行成の病欠は、この時代にとっては単に一人の貴族が宮中から姿を消しただけであるが、現代人にとっては大きな損失となっている。というのも、小右記も御堂関白記もこのあたりの記録が現存しておらず、唯一記録が残っているのが藤原行成の日記である『権記』だけなのだが、その権記ですら、長徳四(九九八)年四月の次の記録が七月まで飛んでいるのである。
よって藤原道長の宮中復帰後の様子についてはその他の記録から推測するしかないのだが、その数少ない記録である長徳四(九九八)年四月一〇日、松尾祭で田楽の間に雑人が争い、平安京内で多数の死者が生じたと同時に、山崎でも放火があって、舎屋三〇あまりが焼亡したと記録に残っている。
さらに、その年の五月に一度は沈静化したはずの天然痘の流行が確認された。
庶民の熱狂が死者を生み、流行病が死者を生んでいる。
宮中に復帰した藤原道長であるが、このときもかなり無茶をしての参内であり、お世辞にも元気溌剌ではなかった。
いや、道長だけが不健康だったのではない。数多くの貴族がこの時期に体調を崩し、議政官は刃の欠けた櫛のように空席が目立つようになってしまったのである。
普通であれば現状で体調に問題ない者でどうにか対応することを考えるであろう。
だが、藤原道長は、このとき誰もが思いつかなかった人材を抜擢したのである。
その者の名は、藤原隆家。
道長自身が追放し、ついこの間追放解除したばかりの者を、藤原道長は呼び寄せたのである。
もともと道長自身もあまり素行の良い若者ではなかったのだが、藤原隆家は道長ですら品行方正に見えるほど悪辣な若者であった。とは言え、その悪辣さも裏を返せば自分なりの正義があった。花山法皇に弓を向けたのも、花山院の従者たちの暴力に抵抗する意味があってのことであった。
このような人間は、敵とするには恐ろしいが、正義という共通項でつながる一致点を見いだすことに成功すれば有用な人材となる。
それに、このときの藤原道長には後継者がいない。道長に万が一の事態が起こったとき跡を継ぐのは藤原伊周となるのだが、伊周の統治者としての能力はお世辞にも高くはない。能力だけで見れば隆家のほうがまだマシであったのである。
かつて藤原道隆のブレインであった高階成忠が、長徳四(九九八)年七月一日、七三歳で亡くなった。最後の最後で孫の運命が開けたことを喜んだかもしれなかったが、高階成忠の死はこれから始まる悲劇の序曲にもなってしまったのである。
長徳四(九九八)年七月になると藤原行成の記録が復活してくるので詳細を追えるようになるのだが、追えば追うほど絶望感しか感じられなくなる。天然痘とはまた違った伝染病が流行し始めたのだ。
まず、七月五日、一度は宮中に復帰した藤原道長がまたも体調を壊して起きあがれなくなってしまった。道長は今度こそ命の危機を考え、再び辞表を一条天皇に提出している。当然のことながら、この辞表は受理されなかった。
さらに七月一一日には権大納言であった源重光が死去。
七月一四日にはあまりにも病気に倒れる貴族が多いため、ついに内裏が封鎖された。誰も内裏に参内することなく、代わりに手紙のやりとりでの政務遂行となったのである。現在の感覚で言うと、直接会って話し合うのではなくテレビ会議を開催するというところであろう。
この悲劇を幸いなことと記すには問題があるが、幸いなことに、このときに流行した病気の症状を他ならぬ藤原行成が記してくれている。何しろ、藤原行成自身がこのときに流行した伝染病に罹患したのだ。
藤原行成は七月一五日まではどうということなかった。しかし、一六日に突然倒れ、激しい全身の震えと腹痛にさいなまれた。藤原行成は自分の腸が引きずり出されているようだと表現している。その後僧侶に祈祷を頼んだと記しており、おかげで命を取り留めたと記しているのだが、一七日には一日で四回から五回、前日と同様の腹痛に苦しんだことが記録されており、一八日になってやっと熱が引いたとある。つまり、丸二日にわたって高熱に苦しんでいたことになる。その後も体調は平常に戻ったわけではなく、参内できるようになるまでに一ヶ月を要している。しかも、この一ヶ月での復帰というのは、病気に罹患した者の中でも例外的に軽い症状であった藤原行成の話であり、他の貴族はより長期間倒れ続けたか、命を落とすまで倒れ続けていたのどちらかであったのである。
七月二〇日、道長の腹違いの兄である大納言の藤原道綱も病に倒れ、右近衛大将の辞表を提出している。この辞表も一条天皇は却下した。
七月二五日、参議の源扶義が四八歳で死去。
また、詳細な日付はわからないがこの月に参議であった藤原佐理が亡くなっている。
次々と倒れて命を亡くしているのは貴族だけではない。高熱を伴う伝染病に加え、五月から観測されていた天然痘が平安京に蔓延し、道という道に死体があふれかえる事態になってしまったのだ。
この日常を目の当たりにしてどうして平然としていられようか。
たかが病気で参内しないとは何事だと考えていた貴族もいたが、いざ自分が病人になってみると、とてもではないが身動きできない苦痛であることが身を以て理解できてしまったのだ。その上でリモートコントロールに成功していた藤原道長に対する評価も、病弱ではなく、病を乗り越えてのリモートコントロールをした不屈の精神力に変わった。
貴族の中でも比較的軽めの症状で済んだ藤原行成でさえ、参内するまで一ヶ月は休んでいたのである。しかも、その間は何もしていない。いや、何もできなかった。
伝染病の流行が山を越えた長徳四(九九八)年九月一日、鴨川の堤防が決壊した。
未だ多くの貴族が倒れている中、病中の藤原道長のリモートコントロールが発動した。ただちに被災者の収容に向けて動き出したと同時に、今年度の収穫が厳しくなることを見越した上で貯蔵していた食糧の確認を命じている。次年度の収穫までの間、定期的に食料供給が出来るようにである。
道長の体調は幸いにして復調し、宮中に参内できるまでになった。倒れていたとしてもリモートコントロールでどうにかなるのを当時の人たちは理解した。
しかし、リモートコントロールは緊急事態であることに変わりはないのである。道長に何かあった瞬間に政務は瓦解することに違いはないのだ。万が一のことを考えて藤原隆家を呼んだと言ってもこの時点の隆家には何もない。実力で言えば伊周よりはマシであるというだけでオフィシャルなものは何もないのである。
長徳四(九九八)年一〇月二二日、武人の人事発表が行なわれた。既に内大臣藤原公季が左近衛大将を、大納言藤原道綱が右近衛大将を兼任しているから、武人の任命はそれより下の地位の者になる。源頼定、右近衛中将。藤原実成、右近衛中将。源経房、左近衛中将。ここまではごく普通であり誰も何も驚かないでいる。
しかし、翌一〇月二三日の発表は誰もが驚きを隠せなかった。藤原隆家が兵部卿に就任したのである。律令制においては、兵部省が国防のトップであり、近衛、兵衛、衛門といった武人たちは兵部省配下に位置し、シビリアンコントロールに置かれることとなっていた。
とは言え、実際の兵部省やそのトップである兵部卿は名誉職のようなところがあり、武の人事や実務遂行は左右の近衛府が行なうことが通例化していたのである。
かつて中納言を勤めたほどの藤原隆家であるから、兵部卿に就任する資格は充分にある。それは理解できるが、このタイミングで、律令制上、国家の武全体の上に立つシビリアンコントロールのトップの地位に藤原隆家が就くのは簡単に結論づけられる事態ではない。しかも、左右の近衛大将でこそそのままであるが、その下の中将を入れ替えている。
最も簡単に説明づけられる理由としては、国の緊急時に藤原隆家が国の軍事力を指揮命令できるようにするとの理由である。道長に何かあった場合、現在の議政官の面々の議論を待っていては事態が悪化するのは神祇館の火災で痛感させられた。そのようなとき、少なくとも即断即決できる藤原隆家が兵部卿になっていれば最悪の事態を脱することができるのである。
藤原隆家の抜擢が無意味なことではなかったと悟らせる事態が起こったのは、長徳四(九九八)年一二月二六日のこと。この日、伊勢国から、平維衡の軍勢と平致頼の軍勢が衝突したというのである。この緊急連絡に対し、兵部卿藤原隆家はただちに軍勢の配備を命令。放置しては平将門や藤原純友の二の舞になるとし、ただちに対処するよう要請を出したのである。
この無言の圧力もあって、左大臣藤原道長の主催する議政官は連絡を受けたその日のうちに伊勢国司に対して、軍勢を率いていた二人の京都召還命令を下すことができた。
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