天下三不如意 5.山法師たち

 とは言え、事件は事件として審理されてはいたのだ。許されざる事件であるが、この時代の法に基づいて審理されていたのであるから、この審理自体は問題ないはずである。
 しかし、比叡山延暦寺はここを問題視した。
 殺人という穢れをなした人物が知らぬ顔をして首都にやってきたのは大問題だという一大キャンペーンを打ち出したのである。現代の日本人には理解できない概念であるが、この時代では充分に有効な概念であった。もっとも、未だに福島県に対する差別を隠さない人間がいるから、そうしたレベルの人間だったら現代の日本人でも理解できてしまうのであろうが。
 天永二(一一一一)年一一月一九日、源明国に対する判決は佐渡への配流に決まった。配流は、死刑の無いこの時代では最も重い刑罰であるが、同じ配流でも配流先がどこであるか、また、配流先でどのような暮らしとなるかでランクがある。佐渡国への配流は重い方に分類されるとは言え、佐渡島は無人島では無い。この時代の佐渡は三万人の人口があったと推計されている島であり、平安時代でこれだけの人口を擁する島となると断じて不便な暮らしの島では無い。そして、流罪となった犯罪者が配流先で牢に閉じ込められるとは限らず、配流先で自由な暮らしをする者も多かった。その中には源明国も含まれる。つまり、配流という最上級の刑罰ではあるが、最上級の刑罰の中では軽い方の刑罰となったのである。
 源明国にとっては重い刑罰の中での軽い判決であったが、源明国を押しつけられることとなる佐渡国にとっては迷惑極まりない話であったようで、島の中で暴れてどうしようも無いから配流先を変えてくれという誓願があがってきたという記録がある。

 源明国の流罪は清和源氏の武士団にとってダメージになったと比叡山延暦寺は考えた。
 その結果が、天永三(一一一二)年三月一三日のデモの再開である。この日、延暦寺僧徒が祇園社に集まって強訴を復活させたのだ。
 およそ四年ぶりの強訴とあって平安京では緊張が走ったが、幸いにして大きな混乱は無くて済んだ。ただし、それは清和源氏の手による厳重な警備のもとでのデモであり、少しでも警備に逆らうならただちに逮捕されるという種類のものであった。現在でもデモそのものは禁止されてはいない。ただし、デモをするのには事前に申請を出して許可をとり、警備が配備された状態で行う必要がある。
 警備が配備されているデモだと、二つのことを未然に防げる可能性が高まる。一つはデモ集団に対する反発が実力行使にいたること。もう一つはデモ隊そのものの暴徒化である。特に比叡山延暦寺はデモを起こすたびに暴徒と化して暴れてきた前例がある。その恨みは平安京内外の多くの庶民に広まっており、清和源氏が警備するという感覚より、いつでも清和源氏が牙をむいて比叡山延暦寺のでも集団に向かっていく準備が整っている中でのデモ行進だという感覚のほうが強かった。
 おかげで、このときの比叡山延暦寺のデモは比較的平和なものに終わった。
 つまり、デモによって自らの要求を突きつけようとする目的は果たせぬまま終わったということである。
 そんな中、鳥羽天皇は一つの祝宴を開催した。白河法皇六〇歳を祝う賀宴を六条内裏で盛大に挙行したのである。それはまるで、寺社のデモを封じ込めることに成功したことを祝うかのような盛大なものであり、六条という平安京の庶民街の中に内裏を構える鳥羽天皇を通じ、圧倒的権威を持った存在である白河法皇を平安京の庶民が支持するという姿勢を示したかのようであった。

 一方で、現実も明瞭になった。
 本来、幼帝鳥羽天皇を支えるのは摂政である藤原忠実の役割であるのだが、ここまで藤原忠実が登場していないのだ。
 それだけではない。朝廷の最高意思決定であるはずの議政官の決議を超える存在が登場したという現実である。前年の記録荘園券契所は確かに議政官決議によって復活となった。しかし、そのきっかけは白河法皇の強い推薦であり、議政官はその推薦をそのまま通しただけである。つまり、法的には白河法皇の意見など単なる陳情にすぎないということになるのだが、事実上は、白河法皇の意見は国政の最高決定であり、朝廷はその追認しか残されていない。これが現実だった。

 それまで何人もの人が考え、実行に移し、そして悉く失敗してきた藤原摂関政治の打倒は、このとき成立した。藤原摂関政治を廃止するわけでも、律令制の時代に戻るわけでもなく、白河法皇が圧倒的存在感を持つ個人として君臨し、藤原摂関政治の仕組みを何一つ変えることのないまま独裁者として君臨する形で成立したのだ。
 ただし、システムとしては弱い。白河法皇という特別な存在が君臨してはじめて機能するシステムであり、白河法皇の身に何かあったらその瞬間にシステムは瓦解する。白河法皇が取り立てた人材は地位を失い、白河法皇の荘園は領主不在の荘園となる。
 また、政治家の唯一の役割である庶民生活の向上という点でも、白河法皇は果たせていない。日本国内最大の荘園領主となり、所有する資産も日本国内最大のものとなっているが、その資産を有効活用したとは言い切れないのである。ここでも藤原道長の話になるのだが、藤原道長は生前、国内最大の荘園領主であり、抱えている資産も莫大なものがあったが、同時に支出も多かった。火災が起これば被災者の支援のために出費し、失業者が増えれば失業対策のための出費を増やす。あまりにも出費をしすぎて住まいである土御門殿が焼け落ちたあとの再建費用を捻出できなくなったほどである。一方、白河法皇にそうした出費の記録は見えない。いったいどこに白河法皇の抱える荘園からの利益が消えてしまったのかと疑問を感じてしまう。
 という疑問を抱いたとき、一つのヒントが見つかった。労働人口あたりの生産能力である。律令制の頃は一〇〇人あたり一三二人分の生産に留まっていた。これでは、養うことのできる非労働人口、すなわち、子供や高齢者数もたかが知れてしまう。
 この数値が、藤原道長の時代になると一九八人分にまで増えている。これだけの余剰生産があれば生活に余裕も出る。養える人数は当然増えるし、新しい産業を起こす余裕だって生まれる。
 この数値が、後三条天皇の荘園整理令をきっかけに一八〇人分という数値に下がった。律令制の頃と比べればはるかに多いが、藤原道長の時代と比べるとあまりにも少なすぎる。これで生活の余裕など生まれるだろうか? 白河法皇が引き継いだのは、藤和道長の時代の生産性ではなく後三条天皇の時代の生産性なのだ。
 おまけに、荘園を巡る争いは日常茶飯事だ。荘園そのものを奪おうとするだけでなく、荘園の生産性を上げるためには人材のスカウトだってする。荘園領主として横暴に振る舞おうものなら、あるいは、年貢の税率を上げようものなら、そのような態度を食らった側が今の田畑を捨てて別の荘園の田畑に行ってしまう。これなど現在で言う転職と同じだ。安月給とか労働時間が長いとかの理由で会社を辞め、それまでの経歴を活かして他の会社に就職するなんてことは珍しくもない。人材が引き抜かれて困るというなら、引き抜かれないような待遇を用意しなければならない。勤労者はいつまでも安月給と長時間労働に耐えているわけではない。

 これは平安時代も同じである。荘園の生産性を維持するためには人材を確保し続けなければならないし、人材確保は締め付けでどうこうなるものではない。
 この時代の荘園領主が選べた人材保持の手段は三つ、税率、社会保障、社会的地位である。
 どういうことか?
 税率はわかりやすい。年貢を安くすれば負担が減るから人材も引き抜かれにくくなるし、他の荘園から人材を引き抜きやすくできる。
 社会保障であるが、現在のような医療制度や年金制度は想像するだけ無駄である。しかし、自然災害や戦乱に巻き込まれたときの復旧は、荘園領主の力量でどうにかなった。また、荘園が抱える武士団が荘園内の治安維持と荘園外からの襲撃に対する防御を果たすことがあった。年貢が高くてもいざというときに頼りになるというのは、荘園に人材を引きつける要素にもなった。
 最後の社会的地位であるが、これは荘園住民であるという事実上の身分であった。同じ庶民でも、どこかの荘園に正式に属する庶民と、荘園で生活しているが荘園の正式な住民ではない庶民、そして、どの荘園にも属していない庶民との間には、目に見えぬ、しかし、あまりにも巨大な壁が存在していたのだ。人手が足らないから引き抜くというとき、ターゲットとなるのはどこかの荘園の正式な住民である者であり、正式な住民ではない者も、どの荘園にも属さない者も、相手にはされなかったのだ。荘園領主は自分の抱える荘園の住民に対して、まさにその荘園の住民であるという社会的地位を与えることで人材をつなぎとめていたのである。
 白河法皇の荘園は、元々荘園でなかった土地を荘園とさせたものである。荘園になることができない土地を荘園とし、荘園の住民にしか得られなかった社会保障をどうにかし、荘園の住民になりたくてもなれなかった人を荘園の住民とさせた。ただ、その全てが従来の荘園と比べて不充分だった。どこの荘園でもない土地と白河法皇の荘園とでは、白河法皇の荘園を選ぶ。しかし、白河法皇の荘園と他の荘園とでは、他の荘園を選ぶ者が多くなっていた。こうなると、荘園領主の選べる人材保持の手段の一つ、税率をどうにかするしかなくなる。少なくとも他の荘園より年貢が安いのだと示さなければ白河法皇の荘園は維持ができない。
 年貢の税率を安くすれば、白河法皇の元に入ってくる収入も減る。全体が大きいから総額も大きいが、荘園住人一人当たりの年貢で言うと高くは無い。それでいて、荘園に対する社会保障は白河法皇の個人支出だ。水害が起これば白河法皇が負担して復興させ、盗賊が押し寄せてこないように警備するのも白河法皇の負担でまかなう。こうなると、手元に資産はさほど残らなかったはず。藤原道長がしたように、自分の荘園の住民というわけではない平安京の一般庶民の救済にまで手は回らなかったであろう。

 本来なら、ここで救済に回るべきは国の税支出なのである。しかし、白河法皇が荘園を拡大させたために、朝廷の元に入ってくる税収入は激減していた。白河法皇の荘園拡大は、荘園とその他の間に横たわる格差問題については有効に機能したかもしれない。それまで荘園に関われなかった者にとっては夢のような話であろう。しかし、日本国全体を考えれば、特に、白河法皇の荘園に入ることもできなかった人にとっては、貧しさをより悪化させる愚策になってしまったのである。
 白河法皇がそれをどこまで理解していたかはわからないが、確実に言えることは一つだけある。それは、自らを関白に比すべき存在とすべく退位後の身の処し方を考えてきた白河法皇にとって、かなり高い形での理想的な自己をようやく形成できたと考えたことである。
 そうでなければ説明できないことが天永四(一一一三)年一月一日という、まさに年替わりの初日に起こった。この日、鳥羽天皇が元服したのである。
 鳥羽天皇の元服は前年中から企画されていたことであった。元服に合わせて前年中に藤原忠実の官職上昇が繰り返されたからである。
 まず、天永三(一一一二)年一一月一八日、藤原忠実がいったん右大臣を辞任している。これで藤原忠実は摂政専任となった。
 それから一カ月を経ていない天永三(一一一二)年一二月一四日、藤原忠実、太政大臣就任。藤原忠実は三五歳という若さで摂政太政大臣という人臣最高位の地位を獲得したこととなるが、鳥羽天皇の元服を考えるとそれは当然のことであった。
 皇族の元服は天皇の手で加冠される。ただし、一つだけ例外がある。それは天皇自身の元服。元服したことを示す加冠を務めるべき天皇が元服するというとき、天皇に対して誰が加冠するのか。平安時代はこのあたりのマニュアルもきっちりと整備されていて、その役は太政大臣が務めると決まっていた。天皇の元服時に太政大臣がいないなら、そのときの摂政を一時的に太政大臣にして元服の儀に参加させるというのはマニュアル通りであった。このときの藤原忠実のように太政大臣への昇進のために、摂政と他の職務、例えば左大臣や、このときの藤原忠実のように右大臣を兼任していた場合は、太政大臣に昇進するのに合わせてそれまでの兼職を辞任するのも通例通りであった。

 この時代、年齢は一月一日に加算される。それは天皇とて例外ではなく、天永四(一一一三)年一月一日に鳥羽天皇は一一歳になった。いかに現在より若くして大人扱いされる時代であるとは言え、一一歳での元服はあまりにも若すぎる。
 しかし、幼帝であるがゆえに設置することとなっている摂政という職務に目をやるとどうなるか? 摂政という職務は律令で規定されており、藤原忠実がその職務に就いているのも法で定められた通りである。一方、白河法皇がいかに自分を関白に比すべき存在として捉えようとその地位は明瞭なものではない。仮に藤原忠実と白河法皇とで意見の対立を見たとき、藤原忠実のサインと印鑑は御名御璽の代役として通用するが、白河法皇は参考意見に留められる。つまり、権威はともかく権力は藤原忠実のほうが上なのだ。
 だが、鳥羽天皇が元服を迎えたなら話は変わる。元服後もしばらくは摂政が存続し続けることは通例だが、原則としては、天皇元服と同時に摂政は関白に転じる。そして、関白は律令に定められた職務ではなく、全くの無影響ではないにせよ、関白の意見は最終決定ではなく、天皇の裁可における参考意見に留まる。つまりここで、藤原忠実と白河法皇は同格になる。そして、持つ権威白河法皇のほうが圧倒的に上である。ここではじめて、白河法皇が関白に比すべき存在として確立されることとなる。
 さらに白河法皇にはメリットがもう一つ加わる。それは、国事行為に携わる義務からの解放だ。天皇は、日々の政務だけでなく、行事をはじめとする国事行為に携わる義務を有する。多忙、もしくは体調不良等で携わることのできない場合は関白が代行することもある。その間は自分の時間が得られないとか疲労が蓄積されるとかの問題もあるが、もっと重要な問題は国政が止まることである。サラリーマンならわかると思うが、仕事中に、いかに業務の一環であると言っても、仕事とは無関係の会議とか書類づくりとかに時間が奪われ、肝心の仕事の質が下がったり、仕事をこなすために残業が増えたりすることは珍しくない。このどうでもいい業務に対する不満を持ち、こうしたどうでもいいことから逃れるにはどうすれば良いかを考える者も多いが、だいたいの場合は失敗する。なぜなら、そうしたどうでもいいことというのは、仕事をしない者にとっては仕事をしていると錯覚させる効果があるのだ。いかにそれが負担であり無意味であると言っても、会議や書類を相手にするぐらいしか仕事をしている実感を得られない者には理解できない話なのだ。
 だが、そうしたどうでもいいことから完全に解放され、時間の全てを仕事に割り当てることが許されるならどうなるか? 間違いなく生産性が上がり、効率が上がり、結果が出る。
 今からおよそ九百年前の白河法皇はそれらの義務に携わらなくても良いという特権を獲得した。つまり、最高の生産性を残せる環境を手にしたのだ。活かせるかどうかは別として。


 清和源氏の人気が上がっていることを快く思わないのは、清和源氏の矛先が向いている寺社勢力だけではない。清和源氏が白河法皇の切れるカードになるまで白河法皇の最大のカードであった伊勢平氏も快く思わない存在であった。
 伊勢平氏の立場に立つとわからないでもない。白河法皇がここまでの勢力となる前から、一族の命運を白河法皇に賭けてきたのが伊勢平氏である。藤原摂関家とのつながりで武士としての名声を手にしてきた清和源氏と違い、伊勢平氏は、もし白河法皇が権威を手にできなかったら、白河法皇とともに歴史の闇に埋没するところだったのである。
 一族の命運を白河法皇に託すというのは一つの賭けである。それは危険な賭けであったが、賭けに勝利したときに得られる栄光は莫大なものとなる、はずであった。
 その栄光を横取りしたのが清和源氏だ。源為義にしてみれば、一族の多くの者が亡くなり、あるいは追放され、残されたのはまだ幼い自分である。しかも、源為義は官職を一応持っているが、その地位は低い。トップでこれなのだから他の面々の官職はもっと低く、無位無官の者も珍しくない。官職で言えば伊勢平氏のほうがはるかに高いのだ。
 天永四(一一一三)年三月一四日、伊勢平氏の官職の高さを見せつける出来事が起こった。前の日に夜に蘭林坊の御倉町に入った盗賊夏焼大夫を伊勢平氏である平忠盛が逮捕したのであるが、その功績として、平忠盛に従五位下の位階が送られたのである。伊勢平氏のトップである平正盛が五位の貴族になったのではない。その息子の平忠盛が父親を追い抜いて五位の貴族になったのである。
 清和源氏のトップが若き源為義であることは繰り返し記してきたが、この平忠盛は源為義と同い年である。若きトップとして名を馳せていた源為義も、もう一九歳になっている。これぐらいの年齢になれば貴族の一員として列せられていてもおかしくない。源為義にその焦りがなかったと言えば嘘になる。それでも世代の先頭を走っているという自負はあったが、同い年で、さらに言えば同じ武士に区分される立場なのに自分より先に貴族になる者がいるとは全く想像もしていなかったのだ。

 若くして責任ある仕事をこなした者は、世代の先頭を走っていると自負するものである。それは同時に、自分以外の同世代の者が視界に入らなくなることを意味する。そして、誰の目にも見える形で自分を追い抜く同年代が現れるのを目の当たりにすると、どうしようもない焦燥感に襲われることとなった。
 一方の平忠盛にしてみれば、これまで源為義が着目されてきたことは知っているが、所詮は自分よりも下の官職の者である。源為義の父である源義親は朝廷に楯突いた反逆者であり、自分の父である平正盛に討ち取られた者の息子に興味は無い、と表向きは演じていた。本音を言えば、自分より格下の源為義がヒーローとして扱われていることは我慢ならなかった。我慢のならなさを官職の高さで埋め合わせできてきたのであるが、ヒーローとして扱われるのは官職の高さではなく武人としての行動である。平忠盛が盗賊逮捕に乗り出して成果を残したのは、武人としての行動を見せて世間の評判を得ることを求めたからである。強盗の逮捕は誉められるところであるが、このタイミングでなぜ、検非違使でもない平忠盛が逮捕劇に乗り出してきたのか。想像は容易である。平忠盛にとっては他ならぬ武人としての評価で源為義を乗り越えることを狙っていたのである。従五位下に昇進したのは想定を超えた話であったが、それは良い意味での想定外であり、喜びを隠せぬ評価であった。
 第三者にしてみれば同い年での切磋琢磨で、健全な競争ではないかとなるが、忘れないでいただきたいのは、伊勢平氏も清和源氏も武装勢力なのである。この時代の物騒な武装勢力と言えば寺社勢力という答えが即答で出るが、清和源氏も伊勢平氏も極論すれば物騒な武装勢力であることに違いはないのだ。
 単なる切磋琢磨を超えた、互いが互いを監視し合う二つの武装勢力が白河法皇のもとで併存していると考えると、その取り扱いは慎重を極めざるを得なくなる。

 この対立を白河法皇が狙っていたとしたら?
 そう考えざるを得ない行動を白河法皇は天永四(一一一三)年閏三月二日にとっている。白河法皇が平正盛の邸宅のある六波羅堂に御幸したのだ。名目上は一僧侶の訪問であるが、誰がその名目を信じるであろうか?
 六波羅は鴨川の東に位置する。同じく鴨川の東に位置する白河と比べると、六波羅のほうが南になる。平安京北部の高級住宅地の東に位置するのが白河で、平安京南部の庶民街の東に位置するのが六波羅である。
 平安京は大まかに記すと東高西低で、平安京の西を流れる桂川の周囲は洪水を繰り返す湿地帯ということもあって、平安京建設直後こそ宅地ができ、貴族の邸宅も並ぶ光景が見られたが、気がつけば平安京は西半分が荒野と化していた。平安京の西半分が人の住まない土地に変貌した一方、平安京の東には人口が集中し、集中は平安京の壁を越えて東に伸びて鴨川沿いにまで至っていた。ただ一ヶ所、六波羅だけを除いて。
 なぜ六波羅が除かれたのかの理由は単純で、鴨川の東岸のうち六波羅のあたりは頻繁に洪水を繰り返す土地だったのである。頻繁に洪水を繰り返すと言うことで宅地の造成は成されず、その代わりに、寺院が多く建てられる土地となった。寺院が洪水に平気とは言えないが、一般の宅地よりは水害に耐えられる。
 寺院の建ち並ぶ土地であった六波羅であるが、時代とともに鴨川の河床がだんだんと下がってきて河岸段丘が形成されてきたのである。洪水が繰り返されるとは言え、その頻度は下がってくると宅地としての造成も始まる。そこに目を付けたのが伊勢平氏である。新興勢力である伊勢平氏が平安京北部の高級住宅地に屋敷を構えるなど無謀な話であるが、六波羅であれば広大な屋敷を構えることも可能だ。その屋敷に白河法皇が行幸したのである。
 さて、白河法皇という人は、平安京から距離を置いた、しかし、平安京に睨みを利かせることのできる土地に居を構えてきた人である。平安京の南の鳥羽離宮や、あるいは平安京の東の白河の地が白河法皇の居するところであった。その白河法皇が六波羅に目を付けないわけがない。特に、政務をするにあたっての必要な設備をどこに構えるかという視点で、六波羅はなかなかに優れた土地である。水害の多さだけが難点であったがその難点も現在は解決されてきている。
 ここまで条件が揃うと、白河法皇が六波羅に足を運ぶのもおかしな話ではなくなる。
 白河法皇は伊勢平氏の住まいに立ち寄ったのでは無い。伊勢平氏が京都での拠点として構えている六波羅に政務組織を作るつもりなのだ。そのとき、清和源氏と伊勢平氏のどちらが重要視されるようになるだろうか?

 鴨川の東にあるのは、新興住宅地としてもいい六波羅だけではない。京都の観光名所を挙げると必ずランキング入りし、毎年多くの観光客が詰めかける清水寺も鴨川の東に存在する。と言うより、六波羅の東にあるのが清水寺だ。実際に清水寺に行ったことがある人はわかると思うが、清水寺というのは鴨川を渡った後、当時は六波羅と呼ばれていた土地を通り過ぎ、両側に数多くの土産物屋が並ぶ坂を登ってはじめて到着する寺院である。坂を登らなければ清水寺に到着しないということは、鴨川の洪水が仮にあったとしても清水寺は浸水しないということを意味する。そのような地理的な条件があるからこそ、坂上田村麻呂に由来する歴史ある寺院であり続けることが可能だったとも言える。
 この清水寺の支配権を争っていたのが、比叡山延暦寺と奈良の興福寺である。平安京の目と鼻の先にある歴史ある寺院の支配権というインパクトは無論、坂の上に拠点を築けば平安京に与えるプレッシャーもかなりのものとなる。デモ集団が押し寄せるのであっても、京都の北東の比叡山から、あるいは、京都の南の奈良からやってくるのと、平安京の目と鼻の先からやってくるのとでは全く違う。
 この清水寺の支配権を巡る争いそのものは、力ずくで押さえつけられてきた。デモ集団がいかに強力であろうと、伊勢平氏と清和源氏の連合軍が相手となると自重せざるを得なくなる。
 しかし、ここに来て、伊勢平氏と清和源氏の対立が見られるようになった。これは、連合軍を脅威に思っていた勢力からすれば吉報であった。
 清水寺のトップを別当という。天永四(一一一三)年閏三月時点では円勢えんせいという僧侶が清水寺別当を務めていた。円勢は延暦寺で出家した延暦寺系の僧侶であった。円勢が清水寺の別当に就任できたのは、法勝寺や尊勝寺といった白河法皇建立の寺院における仏像群の造立を主導し、白河法皇にその成果が認められたことに由来するという、典型的な白河法皇主導の論功行賞での人事の結果だった。延暦寺と興福寺とで争っているところで延暦寺系統の僧侶がトップに立っていたのは興福寺にとって我慢ならぬことであったが、行動を起こそうものなら白河法皇に逆らうこととなり、白河法皇の命令で出動することとなる伊勢平氏と清和源氏の連合軍が彼らの前に立ちはだかるとあっては我慢するしかなかった。
 というタイミングで届いた連合軍結成の可能性減少という情報は、彼らにとっては吉報であった。我慢しなくていいというリミッター解除を意味したのであるから。

 天永四(一一一三)年閏三月二〇日、興福寺主導の武装デモ発生。デモ集団は清水寺別当円勢の罷免を要求し、春日神木を奉じて勧学院の前で強訴をはじめたのである。興福寺は藤原氏の氏寺であり、勧学院は藤原氏専用の学校である。興福寺のデモ集団の中にいる者の中には勧学院で学んだ経験がある者もいるし、勧学院でまさにいま学んでいる最中の者と親類である者もいる。藤原摂関家の圧力を発動させることを求めるデモは数千人規模には及んだ。
 藤原忠実は清和源氏の出動を要請し、源為義も要請に応えた。しかし、デモ集団の規模があまりにも巨大だった。数千人レベルとなると清和源氏のみでは対処不能で、伊勢平氏との連合軍を組めば蹴散らすことも可能であろうが、伊勢平氏を動かせるのは白河法皇のみ。この時点では清和源氏しか動けておらず、デモ集団が暴徒と化すのを食い止めるのが精一杯であった。清和源氏は、特に源為義は、白河法皇の命令により伊勢平氏が動くのを待っていた。
 デモ集団と清和源氏とのにらみ合いは翌日になっても変わらずにいた。相変わらず伊勢平氏は登場せず、伊勢平氏の出動を要請する白河法皇への使者も満足いく回答を得られなかった。清和源氏にできたのは、いざというときに備えて近隣の人達を避難させることだけであった。
 天永四(一一一三)年閏三月二二日、三日目にして待ちに待った白河法皇からの返答が来た。ただしそれは、伊勢平氏の出動ではなく、興福寺の要求を全て受け入れるというものであった。円勢の罷免決定である。清和源氏は、特に源為義は、白河法皇がデモ集団の要求を全て呑んだことに落胆を隠せず、興福寺主導のデモ集団は狂喜乱舞した。あまりにも狂喜乱舞しすぎて祇園社を破壊したほどである。祇園社、現在の八坂神社はもともと興福寺のもとに存在する寺社であったが、この時代は延暦寺の支配下の寺社となっていた。興福寺にとっては、裏切って延暦寺に付いた寺社という、これ以上無い憎しみの存在であったのが災いした。
 憎しみの存在を破壊しつくすデモ集団に対し、平安京の軍勢は無力だった。清和源氏は勧学院と藤原摂関家の邸宅の警備で手一杯で祇園社まで手が回らなかった。北面の武士も伊勢平氏も白河法皇の警備から外されることが許されなかった。検非違使も、逃げ惑う庶民を救済するのが限界だった。


 天永四(一一一三)年閏三月二九日、延暦寺の復讐が始まった。破壊しつくされた祇園社を目の当たりにした延暦寺のデモ集団は、鴨川の東岸を南下して清水寺に向かった。別当解任の影響でこのときの清水寺は興福寺の支配するところとなってきつつあったのだが、わずか七日では体制構築など無駄である。この短期間で興福寺ができたのは、清水寺に居する興福寺系の僧侶を抜擢して地位を与えることだけであった。
 そのような状態の清水寺に、神輿を担いだ延暦寺の僧兵を中心とするデモ集団が襲撃をかけたのである。清水寺の堂舎が破壊され、清水寺は一日で延暦寺の武力が支配する寺院へと変わったのである。


 延暦寺のデモ集団はここで、清水寺における興福寺系の僧侶のトップである実覚(じっかく)を逮捕し流罪とするよう、白河法皇に対して要求を突きつけた。内裏でも、藤原忠実宛でもなく、白河法皇に対して要求を突きつけたのである。白河法皇は北面の武士と伊勢平氏による自身への警備を継続させる一方で、清和源氏に対しても出動を命じた。命令の内容はただ一つ、白河法皇を守れという内容である。暴れまわるデモ集団に対して何かしろと命じられるのかと思いきや、白河法皇の警護が命令の内容だったのだから、平安京内外の庶民の身の安全のことに全く配慮をしていないと結論づけるしかない。この命令は、清和源氏の武士達にとって失望を増幅させるだけであった。
 仕事だから出動命令に従うし、命令だから白河法皇の警護にもあたる。ただ、これまでの一連の流れで、誰が白河法皇に対して新しく敬意を抱き、また、敬意を深めるであろうか?
 全ては白河法皇の独り相撲なのだ。
 絶大な権力を持っていると自負しながら、デモ集団に怯えて要求を全て受け入れてしまうというのはあまりにも弱々しい。デモを民主主義における必然であるとか、デモこそが民衆の声であるとかの意見もあるが、それはあまりにもバカにしている話である。民主主義をバカにする話であるし、民衆をバカにする話である。デモに参加するのが国民の半数を上回るというなら、たとえばルーマニアで一九八九年に起きたようなデモであるなら間違いなく民主主義である。だが、たかだか数千人、あるいは数万人のデモなど、ただの騒音である。庶民の声としては、デモで暴れている連中を何とかしてくれ、懲らしめてくれ、逮捕してくれという声しかない。
 それなのに、白河法皇はデモ集団の要求を全て受け入れたのみならず、この時代において京都で集めることのできる軍事力のほぼ全てを動員して、ただ自分の身を守るためだけに配備させた。
 清水寺を手に入れたと思ったら比叡山延暦寺のデモ集団にしてやられ、清水寺を奪い取られた。これで興福寺が怒らないわけはない。


 ただし、ただちに興福寺が行動を起こしたわけではない。いかに奈良から京都まで一日で移動できる距離であると言っても数千人規模の移動となると簡単にできる話では無い。数千人が京都まで行って帰ってくるだけでも、持って行かなければならない食料だけでかなりの量だ。いかに平安京が首都であるとは言え食料が豊富なわけなどなく、食料の現地調達をしようものなら、それがきっかけとなって伊勢平氏と清和源氏の連合軍が成立してしまう。そして興福寺のデモ集団は退治される。
 興福寺が再度デモを起こそうと計画していることは京都にも届いていた。
 タイミングの悪いことに、四月一四日には藤原忠実が太政大臣を辞任し摂政専任となっていた。もともと鳥羽天皇の元服に合わせた太政大臣就任であったため、元服前後の四カ月に渡って太政大臣であったのはむしろ長かったのだが、このタイミングで太政大臣を辞職して摂政専任となったことは、太政大臣であるからこそ届く情報が藤原忠実のもとに届かなくなることを意味してもいたのだ。それでも藤原摂関家の情報網と、摂政としての情報収集は可能であるが、太政大臣をトップとする公的情報網が藤原忠実の元から切り離されたことは痛手であった。何が痛手か? 情報という点で白河法皇が先頭に立つのが痛手だった。
 天永四(一一一三)年四月二九日、白河法皇は検非違使に出動を命じた。
 もう一度繰り返す。白河法皇が検非違使に出動を命じた。
 白河法皇に検非違使に対する指揮命令権は無い。検非違使の出動を要請することはあっても検非違使に出動するよう命じる権限など存在しないのである。しかし、白河法皇は検非違使に出動を命じ、検非違使である平正盛、平忠盛、源重時が白河法皇の命令に従い、軍勢を率いて宇治へと向かった。その他に、清和源氏の一員である源光国と、検非違使の一人である藤原盛重の二名が率いる軍勢が比叡山の西側の山麓である西坂本に陣を敷いた。比叡山からの軍勢が来たら西坂本で食い止め、興福寺からの軍勢が来たら宇治で食い止めるという算段である。
 以上の流れの中で、組織図上の検非違使のトップである検非違使別当でもある権中納言藤原宗忠は全く登場してこない。それどころか、全て事後承諾である。情報が届いたときにはもう検非違使達が軍勢を率いて京都を後にしていた。
 ほぼ同じ頃、興福寺からデモ隊が出動したとの連絡が白河法皇の元に届いた。

 デモ隊の要求は四つ。
 天台座主仁豪を逮捕し流罪とすること。
 法性寺座主寛慶を逮捕し流罪とすること。
 祇園社を春日大社の末社にすること。
 実覚の配流を停止すること。
 以上の四条件である。
 それらの全てが認められるまでデモ集団は京都に居座ると宣言し、実際にデモ集団が奈良を発って京都へと向かっていた。
 このデモ隊と検非違使の衝突が起こったのが宇治である。
 史料によると、興福寺のデモ勢力と間違えて、検非違使側が鹿に弓矢を構えたことが衝突の原因であったという。現在でも奈良公演には多数の鹿がいるが、それらの鹿は春日大社の鹿である。春日大社では鹿を春日大社明神の使いの動物として信仰しており、この時代の春日大社は興福寺配下の寺社であったことから興福寺の面々も春日社のこの鹿への対応を守っていた。つまり、鹿に弓矢を構えるなど断じて許されないことであったのだ。
 もっとも、鹿に弓矢を構えたことはきっかけの一つでしか無い。デモ隊と、デモ隊の前に立ちはだかる機動隊とがいつ衝突してもおかしくないという状況で、そのきっかけがたまたま鹿だったというだけである。いつ衝突してもおかしくないところで起こったぶつかり合いは、終わってみれば検非違使の勝利であった。興福寺の主導するデモ隊が多くの者が命を落とし、宇治の地は血で染まった。
 最悪の結末となった興福寺のデモに対し、追い打ちというべき処罰が下ったのは天永四(一一一三)年六月八日のこと。この日、興福寺のデモの中心人物でもあった経覚と隆観の二人の僧侶に対し、白河法皇を呪詛したという理由での流刑が決まったのである。呪詛したというのは証拠もない言いがかりだと当時の人は誰もが思ったが、デモの責任をとらせるという真の目的にも誰もが気づいていたし、その必要性も誰もが感じていたため、誰もがこの処罰に賛成した。
 それから一カ月以上経た天永四(一一一三)年七月一三日、デモの騒動を忘れ去りたいとの思いから、時代刷新を目的に永久に改元すると決まった。
 この年に起こった一連のデモ騒動を「永久の強訴」というのはこの改元があった年の出来事だからである。厳密に言うと改元前であるから天永のはずなのだが、天永という元号を忘れ去りたいという思いがあったのだろう、新元号である永久を事件の名称とするようになった。


 永久元(一一一三)年九月一日、鳥羽天皇が病気で倒れた。この瞬間、多くの人が思い出した。皇統の連続性についてである。皇位継承権を持つ者がいなくなるわけではない。しかし、白河法皇の子や孫で皇位継承権を持つ皇族となると、出家し僧籍にある者を還俗させなければ、一人もいなくなってしまう。
 鳥羽天皇が亡くなるようなことがあれば、白河法皇の弟である輔仁親王が帝位に就くこととなる。自らを関白に比すべき存在として認識し、天皇の祖父であるという権威を以て権力を行使してきた白河法皇にとって、この異母弟の存在は気にならないわけはなかった。ただし、気になるとは言っても自らが築き上げてきた権威に支障が出るような事態については考えてこなかった、いや、考えないフリをしてきたのだ。
 鳥羽天皇は元服したとは言え、まだ幼い。幼いが、ここまで健康に育ってきていたし、このまま時間が経てば、男児が生まれ、皇統は継続すると確信していたのだ。
 その確信が崩れた。白河法皇は慌てふためきながら、祖父として祈祷を重ね、全国の寺社に対しても祈祷するように命じた。この命令はデモを繰り返してきた比叡山延暦寺や奈良の興福寺も例外ではなく、デモ集団の求めてきたことのうち、僧侶の処罰の白紙撤回要求についてが祈祷効果を上げるための特赦として認められた。
 このように記すと孫の身を心配する祖父の焦りに見えるが、白河法皇の焦りはそれだけが理由ではない。それよりももっと大きな理由は頑迷なまでに藤原摂関政治の否定を求める勢力にある。言わば後三条天皇派としてもよい勢力である。勢いは衰えてきているとは言え、頑迷なまでの律令派、そして、頑迷なまでの反藤原勢力というのは存在する。そして彼らは後三条天皇の掲げた改革を骨抜きにした白河法皇を是とせず、後三条天皇の治世に戻すことを画策していた。

 現在の民主主義国では全ての政治勢力が選挙という審判を受けるが、この時代はそんなものない。自派の掲げる者が帝位に就いたらそれだけで政権を担えるのである。永久元(一一一三)年九月時点では、鳥羽天皇の身に何かあって帝位を降りなければならなくなったというだけで、政権交代が成立してしまうのだ。何しろ彼らは後三条天皇の子にして、藤原氏の女性を母としない、つまり、白河法皇の異母弟である輔仁親王をトップに掲げているのである。輔仁親王が天皇としての資質を充分に備えていようと、帝位に就いたら周囲を固めるのは後三条天皇の時代への回帰を狙う勢力だ。この勢力がもう一度国政を担うようになったら、間違いなく日本国の経済は破綻する。
 後三条天皇の荘園整理は格差是正の面では理解できる理論であったが、現実はあまりにも苦しいものがあった。失業者が増え、生産は鈍り、インフレが悪化し、肝心の格差は縮まるどころかむしろ強く固定されてしまったのだ。聖帝とまで評され、生前から支持者の多かった後三条天皇の政策に逆らうのは得策でははなかったが、国民生活を考えた場合、従うのもそれはそれで得策ではなかったのだ。その結果が改革を空文化させての骨抜きであり、自らを関白に比すべき存在として扱う新しい政治体制の構築であったが、そのどちらも、政務の土台として藤原摂関政治が存在することを前提としていた。実績も歴史もあり、マニュアル化までされている藤原摂関政治が日々の政務を扱い、白河法皇はその上に立って指揮権を発動するという仕組みの構築を白河法皇は考えていたし、それがかなり完成してきてもいたのである。
 これが白紙に帰したらどうなるか?
 後三条天皇派の政権となったらどうなるか?
 白河法皇自身のみならず、ほとんど全ての日本国民が、またあの不況に後戻りすることとなる。
 何としても食い止めなければならない。その思いが白河法皇に一つの策略を思い描かせた。


 この政略の必要性をさらに強く意識させる出来事が生じたのは、永久元(一一一三)年九月三〇日のことである。
 この頃にはもう、幸いにして鳥羽天皇の病気は平癒した。
 平癒したことで勢いを増したのが寺社勢力である。
 永久の強訴は数多くの血が流れ、結果としては、延暦寺にはプラス、興福寺にはマイナスの結果をもたらした。そのプラスを増幅させ、マイナスをプラスマイナスゼロにまで持ってきたのが鳥羽天皇の健康回復を求める祈祷命令である。そして、鳥羽天皇は健康を回復した。
 問題はここから先である。
 鳥羽天皇の健康が回復したのは祈祷の効果によるものであるとの考えから、永久の強訴で当初求めていた要求を再び突きつけるようになったのだ。
 いや、もともとあった要求だけならまだいい。ここにきて新たな要求も出てきたのだ。それは、法性寺座主の寛慶から突きつけられた天台座主仁豪の罷免要求である。罷免要求の理由としては永久の強訴時に比叡山の勢力が清水寺を破壊したこと。その責任を延暦寺が未だに果たしていないのは問題であるとし、責任を取らせるために、延暦寺のトップである天台座主を辞任させるべきだとしたのである。なお、天台座主をトップと考えるのは比叡山延暦寺だけでなく園城寺もそうであるが、園城寺は自分たちこそが天台宗の正式な宗派であり、自分たちから天台座主が選ばれるべきであると考えている。つまり、天台座主を自分たちのトップであるとは考えているが、延暦寺の僧侶である仁豪をトップとして認めているわけではない。
 では、法性寺座主の寛慶が園城寺から次の天台座主を選ぶべきと考えていたのかというと、それも違う。寛慶が考える天台座主、それは、自分自身である。これはさすがに図々しい話に思えるが、この話に賛同する者はかなり多かった。どれぐらい多かったかというと、強訴を企てようとして実際に人が集まり、検非違使が軍勢を率いて強引に解散させたほど多かった。

 寛慶にそれだけの人望があったのか? それもあるだろうが、もっと大きな理由は寛慶が藤原道長の孫であるという点である。藤原道長は長子頼通に藤原摂関家のトップの地位を譲り、藤原頼通はそのおかげで摂政、関白、太政大臣へと就任できたが、藤原頼通の異母弟にはそこまでの権威を与えなかった。それでも寛慶の父である藤原頼宗は右大臣にまで出世できたのだが、その子となると父ほどの出世は見込めないし、最初からそれは諦めてもいた。
 その代わりに選んだのが宗教界であった。宗教界は実力社会であり、無位無官の一般庶民のもとに生まれた身であろうと出家後は本人の僧侶としての実績だけで地位が決まる、ということになっているが、やはり皇族や有力貴族の子弟となると違う。出家直後のスタートから優位な地位に就けるだけでなく、出家後の出世競争でも特別枠が与えられていて僧侶としての実績など関係なしに出世していく。寛慶はまさにそうした僧侶の代表であった。
 これは寛慶だけの話ではない。数多くの寺社に皇族出身者や貴族の子弟が鎮座し、圧倒的権力を握って人を操っている。寛慶は同じ天台宗の僧侶に対する行動であったが、その行動が寺社の枠を超えるとどうなるか? 永久の強訴はその一例である。
 裏を返すと、皇族や貴族と繋がりを持つがために、その皇族や貴族に連座が効くということでもある。現代日本の法だと子や弟が何かしらの不祥事をしでかしたところで親や兄まで法的な連帯責任を取らされるなどということはないが、平安時代はそれが有効でああった。
 これで白河法皇の決意は固まり、策略も決まった。

 決意が固まったあとで必要となるのはきっかけである。
 そのきっかけが起きたのは永久元(一一一三)年一〇月三日(資料によっては一〇月四日とするものもある)のことである。この日、白河法皇の三女で鳥羽天皇の准母である令子内親王の御所に一通の落書が投げ込まれた。現在でいうと差出人不明のeメールが送られてきたというところか、あるいは、ソーシャルメディアの書き込みがあったというところだ。
 落書の内容は捨て置けぬものであった。鳥羽天皇暗殺と輔仁親王の擁立を画策する者がいると書かれていたのである。鳥羽天皇暗殺の実行予定犯として醍醐寺の千手丸の名が記されてもいた。当時の人はその名前だけで、醍醐寺の稚児であり、まだ年若き少年であることがわかった。
 寺院における稚児というのは、寺院内で生活する、剃髪せず、女装することも頻繁に見られた少年のことである。本来は、身寄りのない男児を寺院が成人するまで保護するという仕組みの結果なのであるが、すぐに、女人禁制の寺院において女性の役割を担い、僧侶の性的な相手をする存在になった。千手丸のように名前の最後に「丸」がついているのは稚児の中でも特別な存在であり、寺院内において観音菩薩と同格に扱われたことを意味する。丸の名を持つ稚児を愛人とするというのは寺院内におけるヒエラルキーの一つの頂点でもあったのである。なお、稚児は成人して、女装をしても女性的な役割を果たせなくなると、寺院を出るか、そのまま寺院にとどまって出家するかの選択肢が示されたが、どちらの進路を選んでも稚児であった頃の名を捨て新たな名を名乗るのが通例であったため、千手丸はそこまでの年齢には達していないことがわかるのである。
 千手丸は直ちに捜査を受けることとなった。
 その結果判明したのは以下のことであった。自分を愛人としている醍醐寺座主の勝覚が千手丸に対して醍醐天皇殺害を命令したこと、勝覚は実兄である仁覚に命令されたこと、九月に鳥羽天皇が病気になったのも仁覚が呪詛したことが原因であり、呪詛によって病気になったまでは計画通りであったが、祈祷のせいで呪詛が打ち破られてしまい、計画を変更せざるを得なくなったことであった。仁覚は輔仁親王の護持僧であり、輔仁親王を皇位に就けるために鳥羽天皇の暗殺を計画したのだという。
 仁覚と勝覚の兄弟はともに左大臣源俊房の子である。つまり、千住丸の供述はそこまで語っていないにせよ、この暗殺計画は左大臣源俊房に連座が及ぶ計画だったのだ。
 呪詛だの祈祷だのを理由とするのは現代社会では通用しないが、平安時代なら通用する。それに、呪詛だの祈祷だのを迷信だと喝破できても、侮辱や名誉毀損にあたるなら裁判に訴え出てもおかしくない案件ではある。

 ただ、どこまで本当なのかは怪しい。これらの供述は全て千手丸の主張である。そして、千手丸の取り調べにおいて拷問が行なわれたことは容易に推測できる。資料には「厳しい尋問」とあるが、容疑者の取り調べに拷問が認められていたこの時代、思い通りの主張を容疑者にさせるために拷問を繰り返すことは珍しくなかった。ついでに言えば、現在の日本国憲法では拷問そのものが禁止されているだけでなく、自白は証拠の一つではあるが自白のみによる逮捕は許されていない。さらに言えば、拷問での供述はかなりの可能性で嘘八百となる。それまで黙っていたのを拷問によって語るようになったのではなく、それまで正しいことを供述していたのを、取り調べの側の思い描いていた供述になるよう嘘をつくように変わるだけである。
 千手丸の供述は白河法皇にとってあまりにも都合の良すぎる供述であった。
 永久元(一一一三)年一〇月六日、検非違使によって仁覚が逮捕される。仁覚は犯行を否認。全てはでっち上げであると主張した。
 白河法皇は、あくまでも孫の身を案ずる祖父として貴族たちに相談するという名目で、源雅実、藤原忠実、藤原為房といった主だった貴族たちを呼び寄せた。その中には、計画に関連しているということもあって左大臣源俊房は除かれている。議政官の会議において議長を務めるのは左大臣の役割であり、左大臣が不在ならば右大臣、右大臣も不在なら大納言筆頭の者が議長をつとめる。しかし、このときはあくまでも私的な集いであり、誰が議長で、誰がどのような発言をし、誰がどのような採択に賛成し、あるいは反対したのかといった公式記録は残さない話し合いとなった。
 この時の話し合いの結果が公表されたのは永久元(一一一三)年一〇月二二日のことである。
 鳥羽天皇の暗殺を企んだとして千手丸は有罪。佐渡への流刑とする。
 鳥羽天皇暗殺計画の主犯は仁覚と断定され、同じく有罪。伊豆への流刑と決まった。
 千手丸に暗殺を直接命令した勝覚と、兄弟の父である左大臣源俊房は無罪。また、輔仁親王も単に事件に巻き込まれただけであるとして不問に付すと決まった。
 以上の判決は全て、理論上は議政官の決議を鳥羽天皇に上奏し、鳥羽天皇の名で発布したという形をとっている。だが、それらの流れは儀式に過ぎず、全ての決定は白河法皇に呼び寄せられた際の私的な会合で決まっていたのである。
 左大臣源俊房はこの判決を不服とするが、議政官の決定は左大臣であろうと覆すことなどできない。それは皇族である輔仁親王も同じで、皇族であろうと天皇の名で発令された以上、従う義務がある。
 それでも抵抗は見せた。輔仁親王は判決が白紙撤回されるまで自邸に籠ると宣言し、左大臣源俊房も輔仁親王に同調して自宅を閉鎖した。皇位継承権筆頭である輔仁親王が籠もったことは鳥羽天皇の身に何かあったときに皇位に空白が生じることを意味し、左大臣が籠もったことは決議のたびに左大臣不在のための臨時措置を取らなければならないことを意味する。そのどちらも政務の停滞を意味するが、同時に、急進的な反藤原勢力を抑えることも意味した。急進的な反藤原勢力にとって利用できるカードは輔仁親王しかなく、藤原氏以外の貴族としてカウントできる氏族となると村上源氏ということになるが、その村上源氏のトップである左大臣源俊房も動けないとなると、これはもう、手出ししようが無くなるのだ。


 この事件は皇位継承問題の後回しと引き換えに、一つの政治的安定を生んだ。
 朝廷の議決が法案であり、天皇の御名御璽によって法令になるという大前提は残されていたが、それらはともに儀式に過ぎなくなり、白河法皇の判断がそのまま法案になって法令となるという仕組みが生まれたのである。院政の開始はいつなのかを明確に述べることはできない。後三条天皇の退位に始まるとする説、白河天皇の退位に始まるとする説、堀河天皇崩御と鳥羽天皇即位を契機とする説など多々ある。また、白河天皇が自らを関白に比すべき存在とすべく退位し、退位後の白河上皇、出家後の白河法皇が自らを関白であるかのように振舞っていたのは既に記した通りである。しかし、それまでの白河法皇は、無視など許されない有力者であることは事実でも、法的には権力を持たない人物であるはずだった。それが、ここに来て、法的な権力の無さを感じさせないまま、権力者として行動するようになったのである。ただし、綱渡りに似た慎重さを持った状態で。
 藤原摂関政治がそうであるように、白河法皇の院政も、律令に逆らっているわけではない。律令の拡大解釈を重ねた状態で、律令にはない存在が合法的に権力を行使できるようになったのである。
 しかし、藤原摂関政治を始めた藤原良房や、摂関政治のピークを呼び寄せた藤原道長にはあった政治家として必要な資質を、白河法皇は持ち合わせていなかった。個人の能力に依存しないシステムづくりの資質である。国政の全てが白河法皇に集中しているわけではないが、国政の全てに白河法皇は口出しできる。白河法皇の命令一つで、それまで白河法皇が関与してこなかったことが白紙撤回されることも珍しくなくなった。
 藤原良房や藤原道長であれば、そもそも関与しないということがありえない。草案を練る段階で自派の者を参加させているし、あるいは自分自身が参加している。そのために接することとなる情報量は多大となったが、早い段階で情報に接しているために、最後の最後で白紙撤回するなどということは無かった。
 白河法皇はそれをやった。自分のところに情報が来るのは最後の方になってからで、最後の最後でそれまでの議論を全否定する意見を通して平然としているのだ。
 こうなると何が起こるか?
 接する情報量は藤原良房や藤原道長とさほど違いは無かったであろうが、藤原良房にしても、藤原道長にしても、情報に接していても問題なければそのまま進めさせていたのに対し、白河法皇の場合は、白河法皇が賛同したという明確な証拠がなければ政務が動かなかくなった。これでは政務の停滞を間違いなく生む。


 永久二(一一一四)年には、白河法皇が院政として権力を握ったと確実に言える。なぜそれが言えるかというと、前年末に摂政藤原忠実が関白に転じたことで、鳥羽天皇と対する立場として、藤原忠実と白河法皇が、法制上は全くの同格になったからである。同格になったと言うだけなら白河法皇が権力を握ったと断言できないと思うかもしれないが、この年に矢継ぎ早に出された朝廷からの命令のレベルが明らかに低いことを考えると、院政の失敗の証左とするしかない。それは何も、白河法皇個人の政治家としての能力の低さに由来するのではない。白河法皇の確立させた院政という仕組みのレベルの低さに由来するのである。
 政治家の評価は庶民生活が目に見えて向上したか否かだけで決まる。目に見えて向上した場合に限り政治家として合格、それ以外は不合格である。それは、庶民の支持を集める政策を実行したかどうかで決まるものではない。庶民の支持を集める政策でも庶民生活の向上が果たせなければ不合格であるし、その逆に、庶民から忌み嫌われる政策を押し付けても結果として庶民生活が目に見えて向上したならば合格である。
 白河法皇の政策は、庶民の反発を浴びながら、庶民生活の水準を下げるという、最悪の組み合わせであった。
 まず、永久二(一一一四)年二月一四日に贅沢禁止令が出た。摺衣(すりごろも)を作ること、着ること、販売することが禁止されたのである。同日、博徒禁止令も出た。前者は庶民の怒りと失業を呼び、後者は庶民の喝采と闇経済を生んだ。双方とも庶民生活の向上という点では不合格である。
 次いで、永久二(一一一四)年三月二三日にはペット飼育禁止令が出た。当時の日本語に「ペット」という語はないが、動物や鳥を飼うという概念はある。この日禁止されたのは鳥を飼うことで、鳥を飼っているところが見つかったなら、鳥を空に放たねばならなくなっただけでなく、飼っていた者は逮捕され、鳥籠は飼い主自身が破壊するよう命じられた。
 同日、平安京の道路修理命令が検非違使に対して出された。検非違使自身が道路を補修するのではない。地元民に道路を補修させ、参加しない者を検非違使に逮捕させるのである。その上、道路補修に要する費用は地元の負担だ。
 何か新しいことをするのと、既に存在するものの否定と、どちらが簡単かという質問への答えは単純明快で、存在するものの否定。新しいことをするには一定以上の能力を必要とするが、否定ならバカでもできる。今でも、否定だけしてアイデアを出さずにいる者は多いが、否定した後でアイデアを出す者は少ないし、出てくるアイデアが賛同できる内容であるというケースはもっと少ない。
 白河法皇は何がダメなのかを把握する能力はあっても、どうすれば良くなるのかを提示する能力を持ち合わせていなかったのだ。このような人が権力を握ると、とりあえず何かしようとして、みっともない結果に終わる、何かを禁止するというのは、何かをしたつもりになる最も簡単な方法だ。ただし、結果が伴う可能性は、低い。

 白河法皇の形作った院政には多くの欠陥があるが、欠陥の中でも最たるものは、全てが白河法皇に集中してしまっているというところにある。
 時間は全ての人に等しい。そして、時間あたりにこなすことのできる作業量には限界が存在する。だからこそ、自分一人で仕事を抱え込まずに誰かに仕事を任せる必要がある。この仕事の割り振りをマネジメントと言う。それでも自分一人で抱え込んでしまうような人というのは存在する。優秀で次々に作業をこなすような人に仕事が集中するというのはよくある現象であり、組織においては仕事が特定個人に集中しないようにするのを業務とする管理職が必要となる。そして、管理職に必要なスキルは業務をこなすスキルと何の関係も無い。学ばせようと、管理職に専念させようと、できないものはできない。管理職に全く向いていない人間を管理職にさせようというのは、左利きを無理矢理右利きにさせるのと同じで、ただの時間の無駄であり、できるようにさせたところで組織にとってメリットは何もない。管理が必要なら管理ができる人間を呼び寄せるしか無いのである。
 白河法皇は管理職に向いている人間ではなかった。仕事を一人で抱え込んでしまう人間なのだ。さらに厄介なことに、白河法皇がトップである。管理職というのは上司になる宿命を持っているが、トップに立つ人物のさらに上に立つ人物などいない。おまけに、自分のところに情報が届いていないと納得できないのだ。要は自分の知らぬところで話が進むことが許せないのである。こうなると、全てが白河法皇の許可待ちとなる。それで政務がスムーズに進むとしたらそのほうがおかしい。
 さすがにこの問題を白河法皇は認識したようで、特に検非違使が白河法皇に向けて奏上する犯罪者の処罰に関する採決依頼について、検非違使で専決するよう、つまり、白河法皇に結果だけ奏上すればいいと指令を出している。


 前年明らかとなった皇統断絶の危機を打破すべく、白河法皇は慣例に則って関白藤原忠実の娘である藤原勲子を鳥羽天皇に入内させることを意図した。それは父である藤原忠実も異論の無い話であったが、問題があった。
 白河法皇が出した条件だ。
 藤原璋子を藤原忠実の息子である藤原忠通に嫁がせるという話である。藤原璋子と言えば白河法皇の寵愛する祇園女御の養女であり、あたかも白河法皇の娘、ないしは孫娘であるかのような立場で見られていた女性である。
 ここで出てくる四人の年齢をまとめると、以下の通りとなる。
 藤原忠実の娘、藤原勲子、一九歳。
 藤原忠実の息子、藤原忠通、一七歳。
 藤原璋子、一四歳。
 鳥羽天皇、一一歳。
 一七歳と一四歳の婚姻は、この時代普通である。
 一方、一一歳の少年の元に一九歳の女性が嫁ぐというのは、珍しいとは言え、前例のある話でもあった。つまり、父親としての藤原忠実が逡巡するような年齢差ではなかった。
 しかし、藤原忠実は逡巡した。藤原璋子という女性に対して逡巡したのである。
 永久二(一一一四)年八月三日、白河法皇は藤原忠実に対し、いつになったら藤原璋子を迎え入れるのかという催促をしている。それも、陰陽師に吉日を占わせて婚姻に適した日を選んだ上での催促であるから、かなり本気であったと言えよう。
 ところが、藤原忠実は返事を曖昧にしたまま後回しにしているのである。それも、自分の娘を鳥羽天皇の元に嫁がせるのも断念するも止むなしと、つまり、それまでの藤原摂関家が執念を燃やしてきていたことを断念する覚悟を持った上での後回しであった。
 何があったのか?

 まずは、純粋に父としての逡巡。藤原璋子には様々な噂がつきまとっている。数多くの男性と関係を持っているとか、その中には白河法皇まで含まれているとかという噂である。白河法皇と関係を持ったという噂はこの時代から一〇〇年後に記された「古事談」にしか記載がなくその信憑性は怪しいものがあるが、数多くの男性と関係を持ったという記録は、まさに藤原忠実自身がその日記に残している。もっとも密通現場を直接見たわけではないが、藤原璋子が性的に奔放であるという噂は平安京の内外に広まっており、この女性を自分の息子の嫁に迎え入れるのは躊躇わせるものがあった。
 そして、もっと大きな逡巡は、藤原璋子の血筋。性的な奔放さがあろうとも、白河法皇の寵愛を受けた祇園女御の養女として成長してきた女性であれば、摂関家に迎え入れる女性として不都合は無い。しかし、彼女の実の父が亡き藤原公実となると話は別である。鳥羽天皇の即位時に藤原忠実と摂政の地位を争った人物の娘を迎え入れると言うことは、自分の息子と彼女との間に男児が産まれたら、藤原公実の子らの勢力がさらに勢いを増すことになるのだ。
 永久二(一一一四)年時点で、藤原公実の子のうち確認できるだけで五人は貴族に列せられ、うち二人は鳥羽天皇の秘書役でもある蔵人頭である。さらに藤原璋子以外にも最低でも五人の女児がいて、それぞれ藤原氏や村上源氏の有力者のもとに嫁いでいる。つまり、藤原北家の本流ではないにせよ、藤原氏の中で決して無視できない有力勢力となっていたのである。その一員である藤原璋子が藤原忠実の息子の元に嫁ぎ、男児を産み、その子が藤原摂関家の当主である藤氏長者になろうものなら、藤原摂関家の中心が藤原道長の息子の系統から、藤原公実の系統へと移ってしまう。
 これは容易に認めることのできる話ではない。藤原道長以来の権力継承の前提を全否定する話になるのだ。父系は藤原道長の系統ではないかと言われても、まさに藤原摂関家がこれまでやってきた母系血縁による権威の確立を、藤原氏という狭い範囲でも行えるようになってしまうのである。
 これは、それまでの摂関政治の基幹とも言うべき婚姻に基づく皇室とのつながりを断念するに値する話であった。


 藤原璋子の婚姻が拒否されたことは白河法皇にとって想定外のことであったが、もう一つ想定外のことがこの年起こった。
 源為義の不祥事である。
 厳密に言えば清和源氏の起こした不祥事の責任を源為義がとらなかったのである。
 永久二(一一一四)年八月一六日、上野国司から検非違使に対して一つの訴えが起こされた。源為義の郎党である足利家綱が国衙領に押し入り財物を盗んでいったというのである。郎党の起こした不祥事は一族のトップの責任であるとし、その責任を源為義に問いただしたのだ。
 この告発を源為義は否定。そもそも足利家綱は自分の郎党ではないというのがその主張である。告発した側は足利と名乗る以上清和源氏ではないかと主張するも、足利家綱は清和源氏でないだけでなく、清和源氏の一員として武士団に参加したこともないと返答した。
 この時代の平安京の多くは足利家綱という人物を知っている。ただし、それは武士としてではなく、平安京で毎年開催される相撲節会に参加する力士としてであった。この時点で既に足利という苗字を名乗っており、また、同時期に足利を苗字とする武士が多数登場していることから、当時の人は足利家綱を清和源氏の一員だと思っていたようである。
 ところが、調べてみると足利家綱の正式な名は藤原家綱。何のことはない。藤原摂関家の末裔が下野国足利で勢力を築き、地域名を苗字として名乗るようになっただけなのだ。厄介なのは、同じ地域にも清和源氏がいて、清和源氏のほうもやはり足利を苗字とするようになっただけでなく、清和源氏の武士団の中で名を馳せるようになっていた。そのため、相撲節会で登場する足利という苗字の武士は清和源氏だと勝手に思われていたのである。ちなみに、室町幕府の将軍となる足利家は清和源氏の子孫のほうの足利であり、藤原氏の子孫のほうの足利ではない。
 これだけを見ると源為義は全くの言いがかりで訴えられたことになるのだが、源為義はこの年、記録に残っているだけで四件の訴えを起こされている。その四件目が、足利家綱が強盗をしたことに対する管理監督責任での訴えである。では、残る三件は何か?
 殺人容疑のある者をかくまったのが一件、強盗容疑のある者をかくまったのが一件、源為義の郎党が他者の荘園に侵入したのが一件。足利家綱の一件も含めると、源為義自身が何かしらの犯罪に手を染めたから訴えられたというのは無い。しかし、容疑者を自宅にかくまうのは捜査の妨害であり、郎党が他者の荘園に侵入したのも管理監督責任を問われる話である。こうした積み重ねが源為義の評判低下を、ひいては清和源氏の評判低下を呼び寄せるようになったのだ。

 そこで、各事件の詳細を見てみると、源為義が本当に訴えられなければならないものなのかという疑念を抱く。犯罪者をかくまったことは、法的には許されないことでも、白河法皇の権限集中を緩和させるために、検非違使は奏上不要で逮捕し判決を下し入牢させる権限を持つようになったことを考えると、単純に有罪と決めつけることはできない。おまけにこの時代は弁護士という概念が無い時代である。こうなると、検非違使が容疑者と扱った瞬間に有罪となることを意味する。この状態で容疑者とされたらどうなるか? 誰が助けるのか?
 無罪を勝ち取ることはできなくても、逮捕をしにきた検非違使から容疑者を守ることはできる。清和源氏にはその武力がある。力ずくで守るというのは野蛮と思うかもしれないが、自分の無実を主張するためには、逮捕されない環境に身を置いて、自分の無実を自力で証明するしかない。その環境を用意できるのが清和源氏だったのだ。
 源為義の郎党が他者の荘園に侵入したというのも、訴えとしては理解できるが、源為義の郎等の側からすればその荘園は清和源氏の荘園であって、他者が横取りしてきたのを取り返そうとしたに過ぎない。実際、荘園への不法侵入の訴えと同時に、荘園の所有権確定の訴えも出ている。
 ただ、今も変わらないと言えばそうだが、この国は犯罪容疑者を徹底的に弾劾する。まだ容疑であると言うだけで真犯人と証明されたわけでないのに、犯罪者扱いされ、プライバシーは失われ、徹底的に責任を追及される。その追及に向けた怒りは、犯罪者の人権を守ろうとする人に対しても向けられる。
 それは荘園の保有というこの時代であれば当然に認められた権利の行使も許さないという感情に行き当たる。それがいかに自分の荘園であると主張しようと、犯罪者をかくまう者は犯罪者と同じであり、犯罪者に権利などないと考える人の前には、法で認められた権利を主張することも許されないという感情になる。
 つまり、義心に従って犯罪容疑者の味方をすることは、この時代、全くメリットの無いことだったのである。

 そのメリットの無いことを清和源氏は一手に引き受けた。
 なぜ清和源氏が犯罪容疑者の保護に乗り出したのか?
 おそらく以前からやっていたのだろう。武士とは基本的に守る存在である。頼られた人を守るために武装する。と言っても無料で守るのではなく相応の対価を求めるが、依頼されたら守るのが武士である。犯罪者から身や財産を守るだけでなく、犯罪者扱いされたら、現在の弁護士の役割とは違うが、それでも無罪を主張する者に無罪を主張する時間を保証するために守る。
 それがこのタイミングで一気に脚光を浴びたのは、検非違使の捜査に歯止めを掛ける存在が無くなってしまったから。白河法皇のもとにあまりにも多くの裁決が集中しているがために政務をこなせなくなったから、負担を軽減させるために白河法皇への奏上を不要とする案件を決めた。ここまでは理解できるが、よりによって、命と財産に直結する検非違使の司法判断を切り離したのだ。こうなると、誰も検非違使を止めることが出来なくなる。それまでは少なくとも白河法皇の元まで奏上することで人権と財産を取り戻すチャンスを持っていたのに、白河法皇に奏上できなくなったため、検非違使が逮捕すれば有罪であるし、検非違使の判決は覆すことのできない最終判決となる。
 これは、犯罪への怒りを持つ人にとっては、容疑者が早々に逮捕され断罪されるという素晴らしいシステムに見えたが、実際に容疑者にされた人にとっては冗談で済まされないシステムになってしまった。冗談では済まされないシステムが確立されても最後の拠り所として機能し続けたのが、清和源氏だった。

 白河法皇は清和源氏が評判を下げながらも容疑者の保護に当たっていることを知り、ただちに検非違使の判決を見直した。
 一つ一つの判決は法に則ったものだった。ただし、弁明の機会も無く、有罪である証拠はあまりにも乏しかった。
 そしてここが一番重要なことだが、治安は回復していなかった。
 犯罪があったので容疑者を逮捕して刑罰を下した。これだけを見ると正しいように見えるが、その容疑者が真犯人であると断定できるケースは少なかった。検非違使の匙加減一つでどうとでもでき、匙加減の結果を以て逮捕の実績とした。
 逮捕された人が真犯人であるとは限らなかった。
 事態を重く見た白河法皇であるが、検非違使の捜査を監視することはしなかった、いや、できなかった。する余力が無かった。
 白河法皇にできたのは、検非違使が有罪とした犯罪者に対する恩赦だけだった。
 永久二(一一一四)年八月二〇日、後朱雀天皇皇女正子内親王逝去。享年七〇。
 永久二(一一一四)年一〇月一日、堀河天皇皇后篤子内親王逝去。享年五五。
 この二人の死を追悼することを理由に、永久二(一一一四)年一一月八日、恩赦を実施した。白河法皇の提案を議政官が審議して鳥羽天皇の名で公布するという、手間と時間のかかる、しかし、そうしなければ合法とはならない方法で恩赦が決まった。
 その中には、鳥羽天皇を呪詛したとして流刑となった僧の仁寛の関係者も含まれていた。本来有罪では無かったが、自主的に謹慎した源俊房については、謹慎を解くように命ずる恩赦が出た。
 もっとも、この恩赦で源俊房が政界に復帰することは無かった。永久二(一一一四)年一二月二日を最後に、源俊房の名が史料から消える。左大臣の地位は辞職していないため、左大臣が政務ボイコットの状態を続けていることとなる。


いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000