嘉祥三(八五〇)年一月六日、仁明天皇体調不良で倒れる。
翌一月七日、仁明天皇不在のまま、左大臣源常、右大臣藤原良房の二名により、この年の昇格者が発表される。皇族一名、貴族一四名がこの日昇格。同時に一三名の役人が新たに貴族となる。このとき、正四位下であった源融が従三位に、従四位下であった藤原良相が従四位上に昇格している。
仁明天皇の回復は一月八日には成されていたと考えられる。この日の行事が滞りなく行われており、前日の昇格者発表のときのようにわざわざ仁明天皇が不在であることを記してはいないから。
一月一五日、新たな役職の発表が行われる。対象者三一名、うち二八名が地方官。このとき地方官に任命された者にはある共通点がある。
若さ。
貴族になって間もない者がほとんどを占め、中には日本的な物を良しとする最新の流行にとりつかれた者もいるほどであった。
なぜここで若者なのか、それは、一月二六日に発せられた勅命で判明する。
嘉祥三(八五〇)年一月二六日、仁明天皇から勅命が発せられた。盗賊が京都市中に群れを成して多発し、一般市民の被害が甚大に及んでいる。闇夜に乗じての放火のみならず白昼堂々と略奪に働く者も出る始末。よって、京都市を監督する左右の京職と五畿諸国の国司に対し強盗団の拿捕を命じるという内容である。
良相の再登場も検討された。だが、良相の指揮力がかつてと変わりないとしても、良相の抱える兵士の質の低下がこのとき見て取れるようになってしまったのだ。
かつて良相が行なった治安悪化の元となる強盗団の拿捕は承和五(八三八)年。そのときは治安が劇的に解決したが、それから一二年も経てば状況は変わる。そのときと同様の生活苦はあって新たな強盗団の発生は次から次へと起こる一方で、かつては力ずくで強盗団を退治していた面々が年齢を重ね、かつての行動力が期待できなくなってしまった。しかし、貴族としての日々を重ねるにつれて、良相個人が握っていた黒い人脈は薄れてきている。つまり、良相配下の兵士の新陳代謝がうまくいかなくなっている。
その上、京都と五畿の治安悪化が京都とその周辺だけで起こっているわけはない。地方でもそれは起こっている。いや、地方のほうがその度合いが激しく起こっている。
若き地方官に命ぜられたのはその治安対策であった。それも、力ずくでねじ伏せる治安対策であった。
かつて良相がやったように毒を以て毒を制する形でもいい。
軍事力をフル稼働させるのでも良い。
どのような形であれ犯罪者を捕らえ、安全を回復することが課せられた使命である。
強盗団追討の命令の翌日である嘉祥三(八五〇)年一月二七日、仁明天皇は五畿七道の諸国に治安悪化と天災の鎮圧のための祈祷を各国に命じた。
しかし、その祈祷の対象はただちに自分のこととなる。
二月一日、仁明天皇がまた倒れる。これまでであれば数日で回復したが、今回はこれまでのような一日二日で回復するような物ではなかった。皇太子道康親王が急遽呼び寄せられたのである。これは前例のないことであった。
嘉祥三(八五〇)年二月五日には皇太子道康親王に加え、左大臣源常、右大臣良房の両名が仁明天皇の元に呼び寄せられる。その翌日には仁明天皇の体調回復を祈る祈祷が各寺院に命令された。
それでも仁明天皇の体調は回復せず、回復を祈るために、二月七日、桓武天皇の陵墓である柏原山陵に仁明天皇の体調回復を祈る使者を派遣した。
二月一五日には元遣唐使で天台宗座主の円仁をはじめとする六〇名の僧侶が紫震殿に集められ、三日間の大般若経転読が命じられた。
二月一九日には、国家行事でなければ会おうとしなかった太皇大后が仁明天皇の元に使者を派遣した。
二月二二日、三名の僧侶が集められ、仁明天皇の体調回復を祈る三日間の祈祷が始まった。
このときの仁明天皇の症状がどのようなものなのかは記録に残っていないが、他の日の記録と重ねると何らかの伝染病であった可能性がある。と言うのも、この時期、死者が頻出しているのである。特に、二月二五日に仁明天皇の妹である秀子内親王が死去したことは仁明天皇に大きなショックを与えた。
二月二七日には奈良の各寺院に三日間の読経が命じられた。
三月五日には、前回の六〇名では足らなかったというところなのか、一〇〇名の僧侶を紫震殿に集めての三日間の大般若経転読が命じられた。
三月一〇日、京都市内と近郊の合計七つの寺院に使者を派遣し、読経を命じた。
三月一一日、さらに一三の寺院が読経対象として追加された。ただし、損傷の大きい寺院の修復がセットである。
三月一四日、桓武天皇陵である柏原山陵にて宣命が読み上げられた。
三月一六日、これらの祈祷も何ら功を奏すことなく仁明天皇の体調が悪化していることから、仏教の加護を求めるため、殺生の厳禁と、重犯罪者を除いての恩赦が命じられた。
三月一八日にはその延長として、京都市中から追放されていた和気齊之と讃岐永直の京都入りが許され、登美直名や伴龍男ら遠流処分が下っていた者の罪が許された。
しかし、それらの全ては無駄であった。
三月一九日、仁明天皇が退位を宣言。当時に出家することを発表した。もう誰もが、仁明天皇が四〇歳にして亡くなると覚悟した。
そして……
嘉祥三(八五〇)年三月二一日、仁明天皇死去。
本来ならばここで皇太子道康親王がただちに内裏に赴いて践祚(正式な即位ではないが天皇の地位に就き天皇としての職務を果たすこと)しなければならないが、道康親王は内裏に赴くことなく、皇太子の在所である東雅院で践祚した。
道康親王はこの日から文徳天皇となった。
翌三月二二日、仁明天皇の葬儀の概要が発表される。こうした葬儀の担当者が誰になるかで次の権力構造がある程度読み取れるが、このときの文徳天皇の判断では読み取ることができない。良房派も律令派も両方重要な地位を占めているからである。同日、国内に三日間の喪に服すよう命令が下った。
三月二三日、息子の死を知った太皇大后橘嘉智子が出家。同日、弟の源明も全ての官職を辞して出家した。もともと学問に染まる人生を願っていたところ、半ば強引に貴族界に入れさせられ参議にまでなった人間である。これまでは兄のためと耐えてきたが、兄の死は源明にとって思い描き続けてきたことを決断させるきっかけとなった。
三月二五日、仁明天皇が山城国紀伊郡深草山陵に埋葬される。この場所について、宮内庁の公式見解によれば名神高速道路よりも南にある京都市伏見区深草東伊達町ということになっているが、これは江戸時代末期に造営されたもので明確とはなっていない。最も有力な説は、名神高速道路の北、京都市伏見区深草瓦町の善福寺のあたりとである。
この葬儀は時代の主要人物が揃って執り行われた。実子である文徳天皇も当然ながら参列している。
ところが、重要人物でありながらこの葬儀に参列しなかった人が一人いる。良房の一人娘で文徳天皇の妻でもある藤原明子である。普通に考えれば夫の父の葬儀なのだから参列しないのはおかしな話であるが、誰一人それを咎める者はいなかった。むしろ、参列したらそのほうが咎められたであろう。
仁明天皇の埋葬が行なわれているまさにそのとき、明子が男児を出産した。男児は惟仁親王と名付けられる。良房は四六歳にして祖父になったこととなる。
なお、惟仁親王は文徳天皇のはじめての子ではない。文徳天皇には確認できるだけで一八名の妻がおり、惟仁親王誕生の時点で男児だけでも四人の子どもが確認できている。
そして、惟仁親王は文徳天皇の第四皇子である。
すると、一見すると計算が狂うこととなる。惟仁親王の誕生時に四人の男児がいるから惟仁親王を加えると男児が五人となる。その五人目の男児である惟仁親王が第四皇子。一人足りない。
この残る一人が、のちに藤原基経の右腕として、また藤原時平の師として、宇多天皇政権下で右大臣を務めることとなる後の源能有(よしあり)こと能有親王である。能有親王は母親の生まれの身分の低さから早々に皇位継承権から外されていたのだが、実はこの能有親王の母、氏名の記録が残っていないものの、出身が伴家であることならば判明している。
つまり、後に律令派と対立して全権を掴むことになる能有親王は、伴善男の遠い親戚でもあるということとなる。
父帝の葬儀も終わり、正式な即位はまだでも文徳天皇の政務はこれで始まることとなるのであるが、すでに皇太子時代から判明しているとおり、文徳天皇は良房の娘を妻としていても、その政治信条は律令派にある。
これを具体的な行動とするとどうなるか。
内裏に足を運ばなくなる。
平安京の大内裏の東側には皇太子の在所として用意されている西雅院や東雅院があり、皇太子時代の文徳天皇はそのうちの東雅院に住んでいた。本来ならば践祚と同時に東雅院を出て、天皇の住まいである内裏に行かなければならないのだが、文徳天皇は東雅院に留まり続け、内裏に赴くことを断固拒否したのである。
もっとも、合理的な理由が皆無なわけではない。長年皇太子として東雅院に住み続けていた文徳天皇にとって、東雅院とは皇太子のための建物だとか、自分が住み慣れた建物だとかを意味するわけではない。皇太子道康親王の周囲が律令派で固められていた影響で、東雅院という建物自体が律令派の面々の集う場所であり、拠点となっていたのだ。
この律令派優先の姿勢は、文徳天皇が正式に即位した四月一七日以後も変わることがなかった。
天皇の即位にあわせて貴族たちに新しい位を授けることは珍しくない。このタイミングでの位の昇格は、即位をともに祝うという名目であっても、位を授ける者を自分の頼りとするものであると天皇自ら宣言することを意味した。そのため、新天皇即位時に名が呼ばれなかった者は、その天皇の治世下での出世については大きなハンディキャップを背負うこととなる。
文徳天皇は即位と同時に三九名の貴族を呼び寄せて新たな位を与えた。その中には良房派の貴族もおり、一見すると律令派のみを優遇してはいない。実際、このタイミングで左大臣源常が正二位に、源信が従二位に、源定が正三位に、藤原長良が正四位下になっている。一方の律令派の面々は、小野篁と藤原良相が正四位下になり、ここで良相が長兄の長良と位で追いついたこととなる。また、伴善男も従四位上へと出世した。
ところが、この三九名の貴族の中に良房はいない。前年一月に従二位になったばかりだからすぐに新しい位に就くのはおかしな話であるかも知れないが、それを言うなら良相だって前年一月に昇格したばかりであるし、善男に至っては二階級特進である。
これは文徳天皇の対良房に対するこれ以上ない宣言であった。
天皇在位中は内裏で住む天皇の配偶者たちは、新天皇の即位後、新天皇に内裏を渡して自分は出て行くことが定められている。
今回のケースで行くと、死去の直前に退位した仁明天皇の皇后であった藤原順子(良房の妹で良相の姉)は息子である文徳天皇と入れ替わりに内裏を出て行かなければならないはずであったが、今回は文徳天皇がなかなか内裏にやってこないので、内裏を渡すことができず留まり続けていた。
この処遇に対する意見は真っ二つに割れた。文徳天皇が内裏に行くまで皇太后が内裏に留まるべきとする意見と、既に仁明天皇は退位したのだから皇太后は内裏を出ていくべきとする意見とである。前者は良房が主張し、後者は文徳天皇が主張した。と言うより、前者を良房が主張したから後者を文徳天皇が主張したと言っても良い。
良房が求めていたのは、文徳天皇が内裏に入ることである。これは主義主張とかを抜きにした、純粋に効率の問題だった。東雅院はたしかに立派な建物である。そこで生活するのにも困らないし、皇太子の風格を際だたせるだけの設備もある。
だが、天皇が政務を執るのに相応しい場所ではない。
小さいのだ。
内裏の四分の一の面積しかなく、天皇が政務をするために必要な人数を収容することができない。
無駄な人員を削って小さな政府を目指すという考え方もあるが、それは貴族を四分の一にし、残された貴族や役人の一人当たりの仕事量を四倍にしないとこなせない。これでは理論どころか妄想の世界である。当然のことながらこんな事を言い出す者はいない。
では、文徳天皇が内裏に行くことを選ばせるにはどうすればよいか。内裏が空になれば文徳天皇も移動することになるであろう。だが、いかに兄とはいえ、皇太后の住まいを勝手に移すなどできない。皇太后の住まいを移すには文徳天皇の命令がないとどうにもならないのである。
しかし、文徳天皇が良房の意見を素直に受け入れるわけはない。
だから、良房は最終的な目的とは逆の意見を主張した。良房の主張と逆の意見を文徳天皇に主張させることで、内裏を空にさせるために。
嘉祥三(八五〇)年四月二二日、順子皇太后が東五條院(現在の大丸京都店の南あたり)に移り住むこととなった。
この移転に伴い、順子皇太后の警護をしたのは弟の良相。良相の命によって京都市内の軍勢が集められ、内裏を出て東五條院に向かう姉の乗った輿(こし)の周囲を固めた。これは京都中の軍勢を集め律令派の軍事力をアピールする効果もあり、実際に京都市民はその軍勢の多さに目を見張った。
予定なら、母の転居を終えた後で文徳天皇が内裏に入るはずであった。
ところが、文徳天皇はその後も東雅院に留まり続け、天皇としての政務には相応しいと言えない東雅院で政務を続けたのである。
その内容は律令派の主義主張をそのまま展開させたものであった。
嘉祥三(八五〇)年四月二六日、富豪による山野の占有を禁じる命令が出た。良房のはじめた大土地所有が田畑の所有に留まるのであれば、それはまだ律令に則った行動と解釈できるが、それが田畑以外の場所にまで展開されると律令の精神に背くこととなる。
律令の根幹は全ての土地が国の物であるとするものである。田畑については耕してはじめて収穫を得られるのに対し、山野は自然の恵みをそのまま収穫とする。量は圧倒的に少ないし、なにもせずに収穫を得られるわけではないが、イメージとしては、働かなければ財産を得られない田畑の領有なら問題が無くても、働かずに財産が得られる山野の領有は認められないとする意識があった。
この命令が施行はされたが、守られなかった。事実上の領有であったり、田畑とするという名目での山野の使用があったりと、命令違反は横行した。
嘉祥三(八五〇)年五月四日、嵯峨上皇皇女、橘嘉智子死去。自らの死を悟り息子と会うことを拒否した彼女は、息子の死を先に看てから死を迎えた。
このときの嘉智子太皇太后の遺言が残っている。もっとも、遺言の文書そのものではなく、伝説であるが。
伝説によると、嘉智子太皇太后は、飢饉が人間だけでなく鳥や獣にも及んでいるとし、また、自身の宗教観を示し、周囲の人々の物心を呼び起こすために、自分の遺体を道ばたに放置させて白骨となるまでそのままにさせたという。また、肉体が白骨となるまでの過程を絵師に描かせたともいう。
歴史書によれば「深谷山」に埋葬されたことになっており、明治時代の研究によって檀林皇后嵯峨陵として嘉智子太皇太后の場所が特定されたが、そのあたりのことは不明点が多い。
承和の変の追放者が追放解除となったのは既に行なわれていたが、首謀者二名、伴健岑と橘逸勢の名誉回復はまだであった。
そのうちの一人、伊豆で亡くなった橘逸勢の名誉が回復したのは嘉祥三(八五〇)年五月一五日のことである。故人となった橘逸勢に正五位下を追贈し、本郷に帰葬する。伴健岑についての罪がまだ許されなかったのは、伴健岑がまだ生存していることともう一つ、逸勢の追放からこれまで見せてきた逸勢の娘の孝行の姿勢に心撃たれる者が多かったからである。
逸勢は同情の余地のない重犯罪者と考えられていたのがこの時代だったが、それでも、父の追放に涙を流して抵抗し、父が亡くなるときまで父の側に付き添い、亡くなった後も尼僧となって父の墓を守る孝行娘の姿勢は都でも評判を呼んでいた。
このタイミングで逸勢の死後の名誉回復をするのは、文徳天皇の人気回復という点でも効果的だった。
文徳天皇の践祚から間もなく二ヶ月となるが、人気は決して高くはなかった。
律令派が権力を握り良房派が再び野党となったことは感覚として掴めていたが、律令派政権の誕生良房政権誕生時のような万感の期待がない状態での政権後退は、期待よりも困惑であった。
そもそも、仁明天皇の政権、つまり、良房が権力を握る反律令派の政権がが終わりを迎えるとは誰も想像していなかったのである。仁明天皇は体調を悪くすることはあっても回復はしてきたから、今回の体調不良もそれと同じで、時間が経てば仁明天皇はまた復帰するし、反律令派の政権もずっと続くと誰もが信じていた。
それが、体調回復が難しくなり、仁明天皇の政権の終わりが現実味を帯びてきて、気づいたら皇太子道康親王の政権、すなわち律令派の政権が樹立されていた。
若き天皇ということで新しい時代の到来を予感させるものはあったが、変化を期待された中で起こった変化ではないため、新政権樹立直後に起こるような高い支持率というものがない。それでも、変化直後に目に見えるような生活の劇的な改善があれば高い支持率につながるが、相変わらず地震も起これば、暴風も吹き荒れる。インフレは収拾しないし、治安も悪いままと、マイナスの要素が前政権の時と同様に続いている。
期待されない変化は支持を獲得するのが難しい。支持を獲得するとしたら、目に見えて生活が良くなったときだけである。
文徳天皇は明らかに焦っていた。
やる気に満ちて天皇位に就いた文徳天皇は自らの理想とする政治をするつもりであったし、それが結果を出して、誰からも絶大な支持を得ると確信していた。
だが、結果が出なかっただけでなく、支持も得なかった。
このようなとき、権力を握った者は自らの権力基盤を確固たる物にしようとする。例えば側近で周囲を固め、異なる派閥の者を排除するといった感じで。こうすれば支持がなくても、そして結果が出なくても、少なくとも権力基盤は安泰と言える。
文徳天皇には一つだけ手段が残されていた。即位を祝しての昇格は貴族たちに大盤振る舞いしたが、新たな役職の大盤振る舞いはまだだということである。そこで、文徳天皇は自らの味方であること間違いない者に役職の大盤振る舞いをしようとした。ところが、その恩恵にあずかれた貴族はわずか一三名。位の昇格では三九名に対する大盤振る舞いだったことを考えればこれは少ない。
少ないのは当然で、ポストが空いていなかったのだ。
任期満了に伴う役職交替は年始に行なわれるのが通例。死去や引退、更迭によるポストの空きはある程度あるのが普通だが、年始に行なわれてから五ヶ月間では満足行くポストの空きなどない。
異なる派閥の者を懲戒免職させてポストの空きを無理矢理作るという手段を文徳天皇はとっていない。承和の変のときに反良房派が一掃されたが、それは武力に訴えてのクーデターという処罰せざるを得ない事情が存在したからであり、今回はそんなものない。
結局、来年一月に行なう予定の役職割り振りを、七ヶ月前倒しで行なうしかなかった。
良房が右大臣になってから天災人災が続出したことを、律令派は良房への攻撃材料としてきた。
その理屈で行けば、律令派政権となったら天災も人災も消えていなければならない。
ところが、消えていない。
地震も起きたし大きな雹も降った。流れ星が夜空を埋め尽くしたし、雷も落ちた。
人災はともかく天災は変わっていないのである。
文徳天皇は神の力を借りようとし、それまで地位が認められていなかった神々に公的な地位を与えるとしたが、それも無駄であった。
改元のきっかけのときのような珍しい亀が見つかったので献上させたが、それも何の話題にもならなかった。
律令に基づく政治をしようとしても天災が続き、支持率も低い。その上、何をしようとしても財政問題が立ちはだかっている。
嘉祥三(八五〇)年七月二日には京都市内の生活困窮者への施を実施したが、それが支持率の回復には全くつながっていない。
文徳天皇を熱狂的に支持する者は確かにいたが、それは最新の流行に乗った若者たちであり、将来の野心を持つ者を律令派に引き入れることにも成功してはいたが、それと支持率とは別なのだと気づかされた。
文徳天皇が即位して以後、良房は目立った動きを見せていない。右大臣としての職務は遂行するが、かつてのように自らの資産を投げ出してのセーフティーネット新規構築は少ない。全くのゼロではないが、緒嗣政権時代に二〇代の良房が行なったように、借金までして資金を出して新田を開発させ、京都の失業者に職を与えることが少なくなった。
ただし、自身の所領で生活する身となった者への保護は行なっている。かつてのように良相の武力を頼ることはできなくなっているが、集落に住む者が自分たちの生活を自分たちで守ることは推奨し、そのための資金援助もしている。
働く意欲も意志もある失業者が減ったのがその理由であろう。京都の路上に座り込んで、働かずに施しを受けてその日暮らしをする者には、何を与えても無駄であった。それより、懸命に働く者が自分たちの暮らしを守れるようにすることのほうが意義もあるし結果も出た。
政権に就いている間は、働く意欲があろうと無かろうと、この国に住む全ての人を守らなければならない義務がある。だが、政権を失った今はそんな義務など無い。働く意欲のある者だけを守れば良くなったのである。
良房の生涯を考えたときに気づかされるのは、この人は企業の経営者としてならば超一流なのだということ。企業の売り上げを伸ばし、働きがいを増やし、社員の生活を守る才能は群を抜いている。当時の一般常識であった律令を守る精神さえ、社員と社会が豊かになるためならば平気で破っている。
ただし、政治家としても超一流なわけではない。一流ではあるが、超一流ではないのである。国全体の失業を減らし、国全体の生活を豊かにし、国全体の治安を良くするのが超一流の政治家だが、良房ができたのは一部であって、政治家としての力量は国全体とまでは至っていないのである。
嘉祥三(八五〇)年七月一七日、文徳天皇から一つの歩み寄りがあった。
良房の父である亡き藤原冬嗣に太政大臣の称号を送ったのである。
「太政大臣」は現在「だいじょうだいじん」とも「だじょうだいじん」とも読むが、令義解によると、本来の読みは「おおいまつりごとのおおまへつぎみ」。律令に記された職ではなく臨時の職務であるが、臨時職ではあってもその地位は皇太子に匹敵し、人臣の最高位である左大臣をはるかに凌駕する。
そのためなかなか任命されることがなく、皇族以外でこの地位に就いたのは奈良時代に二人、恵美押勝(藤原仲麻呂)と道鏡の二人がいるだけである。もっとも、恵美押勝の場合は太政大臣を「大師」と称していた時期であり、道鏡の場合も太政大臣ではなく「太政大臣禅師」への就任であるから、厳密な意味での太政大臣に就いたのは皇族しかいない。
道鏡の失脚以後は生きている人が太政大臣に就くケース自体がなくなり、死者へ与えられる称号としてのみ残った。それも基準があり、与えられるのは天皇の母方の祖父のみとなっていた。
となると、文徳天皇の母方の祖父にあたる亡き冬嗣に、太政大臣の称号が与えられることはおかしな話ではない。だが、冬嗣は文徳天皇にとって祖父にあたると同時に、良房にとって父にあたる。
歩み寄りとしたのはそこである。
良房に反発し、良房とは真逆の、律令派の信念に基づいた政治をしようと考えていた文徳天皇ではあったが、皇位に就いてから四ヶ月経って気づかされたのは、良房に匹敵する政治家が律令派には一人もいないという事実である。
先に良房は超一流の政治家ではないと記したが、この時代の全ての政治家を採点して順位をつけるとすれば、良房は平均点のダブルスコアを稼いで文句無しのトップに来る。
この良房を抜きにした政治をした四ヶ月の混迷は文徳天皇に現実を見せた。頼りにしていた篁は文人としては超一流でも政治家としては良房の足元にも及ばない。良相は武力ならあるが政治力は貧相とするしかない。善男にいたっては他人のやることに文句を言うときだけ目を輝かせ、それ以外のときは行方をくらます有り様である。
ここで冬嗣に太政大臣の称号を渡すのは、政治家藤原良房の復帰を願ってのことである。
ただ、文徳天皇が妥協しなかったのが一点だけある。律令派の政権の継続である。ゆえに東雅院に留まり続けるし、律令の精神への回帰も求める。文徳天皇が良房に求めたのは、律令派の権力は続くし、政治も律令に基づくが、政治そのものは良房が行なうことである。
これはムシが良すぎる。何をやるのかの命令だけしておいて、実際の行動は良房に任せるということは、結果が出たら自分たちの功績で、結果が出なかったら良房の責任になるということである。
良房もそう考えたのか、息子として亡き父への称号付与に感謝するのみに留まった。
嘉祥三(八五〇)年七月二四日、豪雨が京都を襲い、各地で堤防が決壊する。これに対する文徳天皇の行動は記録に残っていない。
もっとも、何もしなかったとは考えづらい。いくら何でも被災者の救援ぐらいはしたはずである。ただ、大学頭であった頃の良房がしたような大々的なアピールとはならなかった。
良房の居ない政務でできることは限られる。
とは言え、良房は政務をボイコットしているわけではない。内裏には律儀に足を運んでいる。これは良房だけでなく、左大臣源常や、大納言、中納言といった面々も内裏には足を運んでいる。
内裏に足を運んでいないのは文徳天皇のほうであり、現実はともかく、理論上は文徳天皇のほうが政務ボイコットをしている形になる。文徳天皇は内裏から遠く離れた東雅院に居続け、東雅院から天皇としての命令をし、内裏にいる左大臣や右大臣がそれに従って日々の政務をしてはいる。
文徳天皇は左右大臣や大納言たちに東雅院に来るよう命令するが、それは拒否された。結果、内裏と東雅院を書類を持って行き来する蔵人たちといった光景が展開された。
文徳天皇としては、自派の人員を増やして勢力を拡張し、律令派の権勢を示すことで律令に基づく政治を既成事実とし、左右の大臣や大納言・中納言といった面々を自分たちにひれ伏させた上で律令派の政治のために利用したかった。これもまたムシの良すぎる考えである。
そのためか、文徳天皇はポストに空席ができればすぐに埋めたし、ポストの空きが無くても国命を持った役目を作り出して任命している。嘉祥三(八五〇)年八月五日には七名、八月八日には二名、八月一二日にも二名の皇族や貴族が役目を得ている。その中には地方の寺院や神社への派遣もあるが、それらも国命を持った役目とされた。
役職は空いたり作ったりしないと与えることができないが、位なら好きなだけ与えられるのではないかと考える人がいるかも知れないが、それは違う。
まず、位は役職と密接につながっている。全ての役職は位に応じて与えられることとなっており、無制限に位を与えたら、位だけ合って役職のない無職者を増やすこととなる。
それに、給与は役職と位の二本立てになっている。位だけあって役職の無い者でも、位に応じた給与は支払わなければならない。無制限に位を与えたらそれこそ国家財政を破綻に導くこととなる。
そのため、位の付与は役職の付与と同様に慎重にならざるをえず、これもまた空席を埋めるしかできないのである。
嘉祥三(八五〇)年九月二三日、その位の空席ができた。それも従三位という高い位の空席である。
文徳天皇はこれを利用しようとした。
ターゲットとなったのは、良房の兄、藤原長良。
承和の変までの長良は、下手すれば良房以上の存在感を持った存在であった。良房が居なくても長良は貴族として存在できたであろうが、長良が居なくては良房が貴族としてあり続けることなど不可能であった。
その長良についての記録は承和の変を境に減少しだす。
権力を握るまでは長良の調整力が良房にとっては必要不可欠でありそのため記録にも残りやすかった。だが、権力を握って以後の長良の調整力は必ずしも必要不可欠ではなくなる。こうなると長良は数多くの良房派の貴族の一人に過ぎなくなり、記録も少なくなる。
無論、藤原氏のトップとしての地位、そして藤原氏の財産は長良の管理の元にありつづけたし、この二つを良房が狙うこともなかった。長良は一貴族として出世していったものの、良房を裏で支える影の存在であることを隠しはしなかった。
この長良が、良房を裏切って律令派に走った弟の良相をどう考えていたのかを記す史料はない。ただ、その温厚で敵を作らぬ性格からも、明白な敵として弟の良相を認識することはなかったと考えられる。
文徳天皇はこの長良を自派に引き入れようとした。長良に従三位の位を与えると発表したのである。
長良は東雅院に足を運び、甥でもある文徳天皇から従三位の位を受けた。
だが、長良はただ位を受けただけではない。位を受けたその場で文徳天皇を叱責したのである。天皇が内裏に行かないのは何たることであるか、と。
大臣も大納言も毎日内裏に足を運びいつでも正しい政務が執り行われるように準備を整えているのに、文徳天皇一人が東雅院に留まっているために政務に支障を生じている。これは律令派への手厳しい皮肉だった。
今の政務が滞っているのは文徳天皇一人が内裏に行かないためであるというのは、律令派の面々が政務において何ら役割を果たしていないことを示す。
長良はこれまでに何度か、公衆の面前で良房を叱りつけたことがあるがそれ以外に怒りの感情を見せたことはなかった。それが、表向きは文徳天皇に向かっての叱責、実際は律令派の全否定である。
東雅院の中が騒然となった。
良相も善男も長良の無礼を問題視し長良を処罰すべきであるとしたが、長良は善男のことは無視し、良相に対してはいつまでもこんな所にいないで内裏に戻れと、兄として命じた。
唯一まともに声を掛けたのは篁に対してだけだった。それも、戻ってこい、という簡単な一言だけ。
かつて緒嗣が権力を握っていた頃の律令派は、少なくとも現実の政治に直面していた。だが、良房が権力を握った後の律令派は現実に直面することなく理想を延々と語るのみの集団となっている。現在で考えると、一九六〇年代から七〇年代にかけて展開された学生運動とか、権力を握りようのない野党とかと中身は同じ。この社会は、そしてこの国はどうあるべきかを考えて討論し行動するが、具体的な中身などどこにもない。
一般的に若気の至りと考える人もいるが、これは若さなど関係ない。知性の有無である。知力が劣るがために権力を握れず、権力を握ることが無いために現実と接することもなく、現実を知らないために空想の世界で世界とはどうあるべきかを論じる、理想主義者がやっている政治ゴッコ。
それが何の準備もないまま権力を握ったために混乱が起きていると長良は見抜いていた。
長良の引き入れには失敗したが、長良の叱責も失敗した。文徳天皇は相変わらず東雅院に住み続け、律令派の面々もまた東雅院に籠もっている。
役職の空きが出たら自派への人員引き入れのために大盤振る舞いする姿勢も変わらず、律令派は徐々にではあるがその勢力を増していった。ただし、位の大盤振る舞いはしていない。長良に従三位の位を与えたのが数少ない例外となる。
しかし、勢力を増すことと現状が改善することとに繋がりはない。文徳天皇は現状の改善を試みるが、具体的な政策のないまま改善を訴えても何も起きない。
頼りとするところは神仏と祖先であった。
嘉祥三(八五〇)年一〇月五日、貴族と役人合わせて一五名に、京都近郊各地の陵墓への参詣を命じ、一〇月七日から八日にかけては各地の寺院や神社に奉られている神々に位を与えた。
ところが、神頼みの効果は全くなかった。それどころか、文徳天皇を落胆させる大災害が起こるのである。
嘉祥三(八五〇)年一〇月一六日、出羽国から緊急連絡が届いた。大地震が発生し多数の死者が出ているという連絡である。現在の調査によればこのときの地震のマグニチュードは七・〇と、巨大ではあるものの史上類を見ない大災害であったわけではない。しかし、出羽国府の城柵が壊れるなど出羽の中心部の建物が数多く崩壊し、圧死者が多数発生。また、この地震で津波も発生し、津波の海水が最上川を逆流して堤防を破壊。逆流した海水は国府から四キロのところまで迫るなど、出羽国の中心部の都市機能を破壊するのに充分な被害をもたらした。
この大災害に文徳天皇は無力だった。
七〇名の僧侶を集めて大般若経を転読させ、七名の僧侶に不眠不休で三日間の祈祷をさせたが、この行為はかえって、災害に対して何もできずにいる無力な天皇というイメージを伝えるのみだった。
この現実を前に、嘉祥三(八五〇)年一一月一八日、ついに文徳天皇は倒れた。
体調は戻ったが、天皇の重圧、そして政治家として現実に向かい合うことのプレッシャーを感じた文徳天皇は、嘉祥三(八五〇)年一一月二五日、それまで空席であった皇太子の地位を埋めることとした。
それだけなら何のニュースにもならないが、このとき皇太子に指名されたのは惟仁親王である。生まれてからまだ一年経っていない幼児を皇太子に任命するのは無責任としか言いようがない。
だが、血統を考えるとこれもやむをえなかった。
母の身分を考えれば惟仁親王しか選択肢はないのである。普通に考えれば第一皇子である惟喬親王が皇太子に就くべきなのだが、惟喬親王の母である紀静子は今は亡き紀名虎の娘。片や惟仁親王は第四皇子だが、母の藤原明子は右大臣藤原良房の娘。これでは権勢を考えても惟仁親王を皇太子とせざるを得ない。
皇太子の指名は単に次に天皇になる人を前もって指名しておくことではない。天皇の身に何かあった場合のことを考えておくのが皇太子の指名である。
良房に逆らい続けていた文徳天皇だが、自分が居なくなった後も良房無しの政権を維持できるという思いはなかった。自分に何かあったら良房の元にまた政権を返さなければ、この国はさらなる混乱につながると確信していたのである。
ただし、惟仁親王が永遠に皇太子であり続けさせるつもりはなかった。惟喬親王が元服したら直ちに皇太子の地位を惟喬親王に移すことを考えており、つまり、惟仁親王が皇太子であるのは惟喬親王が成人するまでの暫定措置であり、惟喬親王が成人したら律令派の政権は継続するのだということを公言している。
良房はこの文徳天皇の発表に対し何も回答せずにいた。
嘉祥四(八五一)年一月一日、文徳天皇としては始めての朝賀であったはずだが、文徳天皇はこれを欠席した。相変わらず東雅院に籠もって内裏に出ないでいる。
一月一一日、今までは別々の日に発表されることが多かった位の昇格と新たな役職の発表を同時に行なった。とは言え、位については前年の即位時にかなり大盤振る舞いしているので空席は少なく、一〇名の役人を新たに貴族に迎え入れているぐらいしかない。
一方、役職は文字通りの大盤振る舞いである。その数、三三名。しかもそのうち三一名が地方官である。たまたまこのタイミングで任期満了を迎えたというのもあるがそれだけが理由ではない。
文徳天皇は前年の震災を利用したのである。
震災の影響を考慮して、という名目で、震災の影響のなかった地域の国司も交替させている。新しい国司は無論、律令派の貴族に限定される。
こうした国司の任命権は文徳天皇のみが持つが、その推薦をするのは式部大輔である伴善男の役割である。善男は巧妙な推薦をした。
全員が全員律令派の者ではあるが、その全員が善男と協力関係にあるわけではない。律令派は、律令の精神こそ正しいとする純粋な律令派から、律令派に属するほうが自分の立身出世に有利だから律令派に身を置く者もいる。
律令派の面々にとって律令派のリーダーとは文徳天皇であり、善男は有力者の一人であることは認めてもリーダーとは認めていない。そのリーダーとは認めていない小男がしゃしゃり出て律令派を仕切ろうとしている。
これを不快に思う者も多く、中には善男を公然と非難する者もいたため、律令派が一枚岩であったわけではない。
そこで、国司に任命する、それも震災からの復旧が急務であるがために京都滞在を許されず、任国に向かわなければならない国の国司に任命することで、自分にとって目障りな貴族を堂々と京都から追放できたのである。
善男のこの行動の先例については、承和一一(八四四)年の按察使という先例で誰よりも良く知っているだけに、良房は何も言えなかった。
以前からの天災の収拾を図る文徳天皇は、それまで小出しにしていた神々への位の付与を、これを期に一斉に行なうこととした。嘉祥四(八五一)年一月二七日、位を持たない神については一律で正六位上を付与するとの詔である。
神々に対して人間が位を与えるのをどうかと考えるのは現代人の感覚。当時の人はそれが当たり前だと考えていた。天皇は神に位を与えることのできる存在であり、神も人間と同要、その地位に応じて位が与えられる存在であると認識していた。
にしても、超自然の存在に対し役人の最上位ではあるが貴族ですらない位を与えて平然としていられるものなのだろうかとも思うが、これについてはそれがこの時代の感覚なのだと言うしかない。
文徳天皇の理屈はこれで天災が収まるというものであったが、位をケチったせいか、天災はこの後も続く。
それだけではまだ足りないと考えた文徳天皇が命令したのか、それとも自ら進んで兄の暴走を食い止めようとしたのか。律令と反律令との政争に嫌気がさしたのかはわからないが、嘉祥四(八五一)年二月二三日、仁明天皇の第七皇子で文徳天皇の異母弟にあたる常康親王が出家した。
さらに、その翌日には仁明天皇の女御の一人であった藤原貞子も出家。こちらは亡き夫を偲んでと公表されている。
これだけ天災が続き政争も繰り返されると、さすがに世の中を絶望視したくなる気持ちも湧いてくるのであろう、仏教に救いを求める人の数が日増しに増えていった。本来は寺院勢力を排除して作ったはずの平安京とその周囲に一つまた一つと寺院が登場するようになるのもこの頃である。
天災はそうした人々をあざ笑うかのようになおも続いた。
嘉祥四(八五一)年三月一五日、地震。
嘉祥四(八五一)年三月二一日、月蝕。
嘉祥四(八五一)年四月四日、地震。
律令に基づいた政治を構築すると言っておきながら、践祚からこの一年でしたことと言えば、山野の所有禁止、役職の付与、位の付与、神頼み、仏頼み、だけ。山野の所有禁止を除けば真新しい物でもなければ画期的な政策でもない。唯一の例外である山野の所有禁止も結局は空文に終わっていることを考えれば、文徳天皇の政治の中身は何もしていないと同じである。
東雅院に籠もって具体的な政策を示さぬまま時を過ごす文徳天皇がやっと動き出したのは、嘉祥四(八五一)年四月二八日になってから。
元号を「嘉祥」から、「仁寿」へ改元した。前回の嘉祥への改元は白い亀が吉兆だからという理由での改元であったが、今回の改元は白い亀二匹、プラス、前年七月に石見国で観測された甘露(天皇や皇帝の徳が高いときに天から降るとされる甘い液体)を吉兆としての改元である。
だが、誰が見ても今回の改元は厳しい経済情勢や天災を逃れるための改元であった。
ただし、逃れようとすることと、実際に逃れられることとは別の話である。
地震、雷雨、豪雨、増水。
何とか鎮めようとまた神頼みをするが、やはり地震。
その間、内裏と東雅院との歩み寄りは何度か試みられたが、内裏は文徳天皇の内裏入りを主張するのに対し、東雅院はあくまでも律令に基づく政治を主張する。最低限の政務をするため内裏と東雅院を蔵人が行き来するのが日常の光景となっているが、本当に最低限に留まっている。
その結果何が起こったか。
政治そのものが停滞した。
おかげでこの年の史料は異様に少ない。何月何日に天災が起こったか、何月何日に人事が発表されたか、何月何日に神頼みをしたか、それしか記録が残っていないのである。
研究者によっては、この時期の政治は事なかれ主義の消極的な物であり、その責任を良房に背負わせている研究者もいる。しかし、この責任は良房にあるとは考えられない。良房は右大臣としてできることはしているし、天皇の採決を必要とせず独断で行動できる事項については独断で動いている。ただ、右大臣ではどうにもならないことについて文徳天皇が動かずにいたのである。
象徴であり権威は充分に持っているが、権力としては参政権すら持たない現在の天皇と違って、この時代は天皇が絶大な権力を持っている。右大臣をはじめとする貴族がNOと言おうと、天皇がYESと言えばそれはYES。だが、YESにしろNOにしろ、天皇が発言しなければどうにもならない。
文徳天皇は、現実がうまくいっていないことについては理解していた。だが、現実を目の前にして自分の理想を拒否する考えはなかった。側近と敵対する天皇というのは何人もいた。だが、ここまで徹底的に側近との接触を拒否し、政務を停滞させた天皇はそうはいない。これもまた、理想主義の弊害であろう。
仁寿元(八五一)年八月一〇日、京都を大水害が襲う。
これまでは文徳天皇の決済を求め続けていた良房であったが、このときついに文徳天皇の決済を求めずに行動した。
文徳天皇が動いたのは八月一四日になってから。水害被災者の救済にあたるよう詔を出すが、そのときにはもう、良房は二〇代の頃のように私財をなげうって救済にあたり、大勢の被災者を救出し終わった後だった。
その上、文徳天皇は詔を出してもすぐに行動に移してはいない。文徳天皇の行動開始は翌一五日になってから。検非違使を派遣して京都市内の災害者の救済にあたらせたが、もう既に救済は良房の手によって完了しており、生活再建の順番になっていた。
この行動の遅さは、文徳天皇、そして、文徳天皇の属する律令派に対する京都市民の支持が決定的に離れるきっかけとなった。
文徳天皇はジレンマに陥っていた。市民の支持を得られないだけでなく、不支持の世論が良房らの支持に向かっている。だからといって、それまでの自分の人生を全否定することとなる律令派との訣別はできない。
良房が右大臣となってからの天災の連発も、自身が天皇となってからの天災の連発を考えればプラスマイナスゼロになる。
そのように考えていた文徳天皇に対し、文徳天皇が即位した後も良房が右大臣であるから、天がそれを律するために天災を続けているという解釈ができると言った者がいたが、これは文徳天皇の機嫌を悪くした。天皇である自分よりも一大臣に過ぎない藤原良房を天が選んだこととなるのだから。
ここで律令派の支持率が回復することがあるとすれば、律令派の精神に基づく、あるいは精神から離れるといったことに関わらず、政策を打ち出して市民の生活を良い方向に劇的に改善させるしかない。
そんな一発逆転の策など無かった。
律令派にできたのは、神頼みと、空席を埋めることだけだった。
仁寿元(八五一)年一一月七日、良房が正二位に昇進する。律令派への反発もあって市民の支持を集めている良房を評価することで律令派の支持低下を防ごうとする思惑ではあったが、思惑は外れた。
良房を評価することと律令派の支持向上とはつながらなかった。
ならばと、一一月二六日には、源弘や長良ら二四名の貴族を昇格させ、新たに二四名の役人を貴族に加えた。これは律令派の人員を増やすには役に立ったが、律令派の支持向上にはやはりつながらなかった。
仁寿二(八五二)年一月一日、文徳天皇がついに東雅院を出た。と言っても行き先は内裏ではなく大極殿である。それでも、とりあえず東雅院を出たことは文徳天皇にしては妥協なのである。
文徳天皇には一つだけ希望があった。良房には後継者がいないという問題である。
現在、政権は律令派にある。権力は良房派にある。若手は律令派にいる。
良房一人が反律令派のトップに君臨し、他の良房派は良房に従う一貴族に過ぎない。ということは、良房が居なくなったら反律令派は瓦解し、後に残るのは律令派だけ。時間はかかるが、現状のままならいつかは訪れることであり、良房が居なくなるのを待てば自派のみだけが存在する時代がやってくる。
そう考えていたからこそ、仁寿二(八五二)年一月一五日の新人事を深く考えることなく一人の若者に職を与えたのであろう。
この日は年始恒例の新人事の発表。もっとも、位については前年末に大量放出していたので、この日の人事は役職の発表のみとなる。この日に新たな役職を獲得した貴族は二三名。人数的にはごく普通の数である。
このような新人事の一斉発表のときに天皇の前に進み出ることが許されるのは新しい役職を得た貴族のみで、貴族でないのに呼ばれるのは、天皇の側近を務めることとなる蔵人に選ばれた者のみ。
蔵人は天皇の側近として秘書役を果たす職務であり、若手貴族や、役人のうちの貴族候補者がこの職を務める。蔵人の職務を勤めあげると自動的に貴族に任官するようにもなっており、役人にとっては蔵人に選ばれることが一つの目標であった。また、有力貴族の子弟が元服すると同時に蔵人に就くことも珍しくはなかった。そのため、蔵人に任命する儀式が元服式を兼ねることはまれに見られ、長良の長男の国経(くにつね)や、次男の遠経(とおつね)も蔵人に任命されたときの儀式を以て元服式としている。
この日新たに蔵人に選ばれたのは、長良の三男、手古。一六歳であり年齢的にも申し分なく、兄二人が蔵人を務めたことを考えれば三男に対する処遇としても何らおかしくはないはずであった。元服に合わせ名を「基経(もとつね)」に改名するが、兄二人が「~経」という名であることを考えても、ごく普通の三男であるはずであった。
ところが、元服し蔵人になった直後の基経を、良房は養子にしたと発表したのである。
一見すれば、男児が複数人いる兄の三男を、男児のいない弟が養子として迎え入れただけのことである。
だが、これは簡単に済む問題ではない。良房の養子になるということは反律令派のトップの後継者に就くということである。その上基経は、藤原家ではない母から生まれた兄二人と違い、藤原北家の出身である藤原乙春から生まれている。これは、反律令派のトップに就く身であると同時に、藤原氏のトップに就く身、すなわち、長良と良房の双方の権力を継承する身であることを意味する。
基経のデビューを聞いて良相は激怒した。
別の派閥になったとは言え、弟である自分が、長良の持つ藤原氏トップの地位と、良房の持つ政治家としてのキャリアの両方の地位を継ぐと確信していたのである。この二つの地位を加え、自身の持つ軍事力を合わせることで、最高権力者となることを良相は確実視していた。
それが突然の消滅である。これに驚いたのは良相本人だけではない。
良房が以前から甥たちの教育に熱心になっていたことは知っていたが、それが自身の後継者育成のためとは全く想像していなかった。何と言っても、良相は三九歳で実績も申し分なく、その地位も従三位陸奧出羽按察使兼大納言である。これだけ揃えば良相が後継者筆頭なのは常識と言っても良かった。
その良相を差し置いて指名された後継者は、海のものとも山のものともつかない一六歳である。何も知らぬ第三者から見れば、これは無責任としか言いようがない。
だが、少し事情を知れば基経を後継者に任命することはおかしな話ではない。
まず、良房はこの年で四八歳。人生五〇年と考えられる時代であっても、この年齢になればおそらく六〇歳までは生きていられると計算できるだろうから、あと一二年。現在一六歳の基経もそのときは二八歳になっている。良房が貴族デビューしたのは二二歳であったことを考えれば、二八歳は充分すぎる年齢。
次に、手古という幼名であった頃の基経に対して施された英才教育がある。藤原家の者は公教育である大学ではなく、藤原家専用の教育機関である勧学院で英才教育を施されるが、手古はその成績が別格であった。簡単に言えば、良相より出来がいい。
一方、良相は軍を率いることにつけては抜群の才能も示すし、篁の教育のおかげで貴族としての一般常識を身につけたが、知の分野では平均であってそれ以上ではない。
そして何より肝心な政治家としての能力については疑問符を付けざるを得ないのが良相である。
律令派に身を置いて東雅院に足繁く通っているが、良相が律令派に身を置くようになったのは善男に誘われたから、厳密に言えば善男に利用されたからである。
確かに基経の政治家としての力量は未知数である。だが、政治家としての能力が劣ることの判明している良相より、政治家として未知数の基経のほうが政治家としての可能性は高い。それに、基経の政治家としての技量が劣るものであったとしても、基経には血筋という強力な武器がある。権力者としての地位が掴めなかったとしても、最悪、藤原のトップの地位を維持できれば良いのである。
後継者基経を公表したことの効果はすぐに現れた。
これまでは、中高年が良房派で、若者が律令派。律令を基本とし日本的な物を良しとすることが若者の証であったのだが、そのさらに下の世代が今度は反律令派に走り出した。
かつて良房がそうであったように、大学に身を置いて役人になるための日々を過ごす若者が基経の元に集い、良房支持を訴えたのである。
彼らにしてみれば、律令派とは、自分たちの上に覆い被さって出世の障碍となる目障りな世代である。律令派と反発することでは、良房から基経に権力が継承されたとき、基経とともに出世へと進めることも意味していた。
もっとも、これだけなら若者が基経を利用したということになる。
だが、基経はそんなタマではなかった。厳しさを漂わせる良房と違って実の父である長良のような穏和さを持っていたが、リーダーシップという点では良房の後継者であること文句なしと言っても良いものであった。
その上、蔵人としての基経の能力が文徳天皇の文句の付けようのない中身であった。相変わらず内裏に出てこない文徳天皇であったが、内裏との連絡が皆無なわけではない。内裏に対し命令文を送っているし、内裏からの請願も聞いているし、その返答も出している。その文面を読み上げるのは蔵人の役目の一つであるが、いつしかそれが基経の専門の役割になった。ただ書いている文章を読み上げるだけでなく、文とともに受け継いだ伝言を漏らさず伝え、些細な質問でも確認に回り、確実に応えた。
一つ一つは何ということのない日常の所作でも、連続すればマンネリズムにも陥るし、自分の勝手な解釈を加えることもあるが、基経にはそれがなかった。相手の都合に合わせて聞こえの良い中身に言い直す蔵人も珍しくもなかったが、それも基経にはなかった。こうなると、聞きたくもないことを聞かなければならない代わりに、基経が伝える中身であれば問題なく真実であるという信頼にもなる。
基経は一六歳にして、律令派、良房派双方の信頼を獲得したのだ。
もっとも、良房派にとっては自派の若きホープの誕生であるのに対し、律令派にとっては手強い相手の誕生となるのであるが。
基経出現は律令派のアピールポイントが一つ失われたことを意味する。若さである。律令派の支持は少ないが、ゼロではない。そのゼロではないうちの少なからぬ部分が、若さをアピールした結果であった。若さを前面に打ち出すことで、何ら具体例を伴っていなくても、新しさを打ち出すことができていたのである。
基経登場はそれを失わせた。新しさを求める思い、そして、現状打破を求める思いが、ついこの間まで中高年のものと見なされていた良房派へと注がれることとなったのである。
しかし、律令派にはもう一つのアピールポイントがある。実際に天皇が居るということである。文徳天皇が行動を起こせば、左大臣が何を言おうと、あるいは右大臣が何を言おうと、それは決定であった。
もしここで文徳天皇が強権を発揮し何らかの行動を起こしていたとしたら、律令派の支持もある程度は向上したであろう。
だが、文徳天皇にそれはなかった。
文徳天皇は相変わらず、神頼みと人事の大盤振る舞いしかしなかった。その他にしたことがあるとすれば、宮中の行事のうち、内裏に行かなくても済ませられることぐらい。前年と違いがあるとすれば、東雅院に籠もって一歩もでなかった文徳天皇が、東雅院の外には出るようになったということである。
冷然院や豊楽院といった大内裏の外の建物にまで足を運ぶようになり、それまでは大内裏の中に入ってきた一般市民の様子しか知らなかった文徳天皇が、京都市中の現実を多少なりとも垣間見ることになった。
多少なりとも垣間見て感じた結果。それは平安京の路上で日々を過ごす市民たちの貧しさである。
治安の悪化と不作で農地を捨て都市に流れ込んだが、都市に出ても職はない。それでも多少なりとも働いて現金を稼ぐことはできたが、インフレが現金の価値を台無しにしている。
この現実を見た文徳天皇は、ただちに市内の失業者を救援するよう指令を出す。だが、その答えは満足のいく内容ではなかった。
律令派からは、その救援が律令には記されていないばかりか、農地を捨てて都市に出てきたことは律令違反であり、犯罪として取り締まるべきとの回答だった。そして、直ちに班田を実施して失業者を農地に戻さなければならないとした。
良房派からは、京都市中の救援を以前から行なっており、これ上の救援を出す財政的な余裕はなく、援助できる穀物の蓄えもないとの回答だった。そして、全ては市中に出回る食糧の不足が生活の混迷につながっており、この解決のためには、律令に逆らってでも食料の絶対数を増やさなければならないとした。
どちらも意見は同じなのである。
市中の失業者を農地に戻し食料を増やすことがそれである。
ただ、律令派は班田の実施で、良房派は律令に逆らった上での農地の拡張で、という方法の違いがあった。
この点では、良房派のほうが具体的で、かつ、実績も伴うものであった。
律令派は班田を実施し、配布された土地を耕せと命令するのみであった。荒れ果てた土地を復活させ、新しい農地を開墾し、土地を維持する費用は国持ちであったが、そこに土地を守る武力はない。強盗団が襲いかかってきたらそこで全てが終わってしまうのである。
一方、良房派は土地の私有を前提としていた。良房ら有力者の私有地ではあるが、土地の初期投資費用も維持費用も有力者持ち。ここまでは班田と同じだが、こちらは強盗団から土地を守るだけの武力もあった。天候不順による不作は防ぎようがなかったが、強盗団に収穫を奪われるリスクなら少なかった。
ただ、そのどちらにも問題があった。農業をする意欲も無い者を無理矢理農地に連れていっても何もならない。都市に流れ、働かずに福祉で生活をできるようになった者にとって、働かなければ生活できない暮らしは苦痛であった。これが、手厚い福祉がもたらした現実である。
仁寿二(八五二)年三月一三日、文徳天皇は各国の国司や郡司に治水対策を命じた。水害対策もあるが、主目的は農業用水の確保である。
これは班田ではない。新しく土地を切り開くにせよ、現在の田畑を利用するにせよ、農業生産性を上げるサポートをすることが目的であり、これにより利益が出るのは現在田畑を耕している者と、これから耕そうとする者である。
これは律令派と良房派の双方の妥協点を探った結果であった。治水を命じること自体は律令違反ではない。だが、律令の精神には反する。
律令の精神は手厚い福祉と平等。文徳天皇の命じた治水は律令違反ではない。利益は平等でもないし、ただちに手厚い福祉にもつながるわけでもない。だが、増産にはつながる。
文徳天皇のこの命令は、良房派からは好評に迎え入れられたが、律令派からは不満の声が挙がった。特に、善男の不満の強さは周囲をしらけさせるに充分だった。
善男の主張は、今回の治水命令で利益を得るのは一部の有力者の持つ大土地のみであり、班田耕作者にはほとんど利益が出ない。その有力者のために国庫を使って工事をすることは、律令の精神に反するというものであった。
理屈の上ではそうだろう。だが、有力者の利益になるから反対という題目を掲げてはいるが、この人は何であれ反対するのだ。善男にとって重要なのは他人を批判することであって、この国を良くすることではない。
さらに、善男は反対するだけしておいて、その代わりにどうするのかという意見を全く表明していない。これがもし、律令の精神に則って全ての人に平等に展開される政策であったとしても、善男は反対をしていたはずである。
この善男の態度は文徳天皇を考えさせるに充分だった。いや、善男だけではない。律令派の面々全体を再考させることにもつながった。
良房に反対し、律令に理想を求め、過去の日本こそ目指すべき姿であるとする文徳天皇であったが、律令に従った政治をすれば全てが解決するという考えは、完全に捨て去るまでには行かないにせよ、疑問を抱かせることにはつながった。
そして、良かれと思って出した命令は、敵であるはずの良房派に絶賛され、味方であるはずの律令派から非難された。
それでも文徳天皇は東雅院に留まり続け、律令派の面々との日々を過ごした。良房派からは内裏に出向いて政務にあたるよう要請を受け続けていたが、文徳天皇の答えは、明確な政策を打ち出すことのない、人事と神頼みの日々である。これならば律令派の反発がなかった。
これは天皇の採決を必要とする重要案件がなかったことを意味してもいる。つまり、文徳天皇が東雅院に籠もって内裏に出てこなくても、各地から寄せられた請願を左大臣や右大臣が討議し、その結果を文徳天皇に奏上し、文徳天皇が特に律令派の反発を気にすることもなくそのままで良しとした、そういう案件しか無かったということである。もっとも、天皇の日々の政務とは大部分がそういうもので、横からごちゃごちゃ言うぐらいはできても、律令に逆らっているわけでも律令の精神に背いているわけでもない内容だということぐらい律令派の面々もわかっていた。
ところが、この年の七月に寄せられた連絡は、国論を二分した。地方から労働義務に対する不満が高まり、いつ暴発してもおかしくないという連絡である。
律令に従えば、二一歳から六〇歳までの男性は年間三〇日、六一歳以上の男性はその半分、一七歳から二〇歳までの男性さらにその半分までの期間、各国の国司は労働力として集めても良いとなっていた。これが労働義務としての雑徭(ぞうよう)である。この義務に対する報酬を払う国司もいたが、中には無償で強制労働をさせる国司もいた。
この労働義務に対する民衆の不満が朝廷に届いていた。
良房派は労働義務の中止と、労働義務を課す場合は相応の報酬を支払うことを主張した。この労働義務のせいで肝心の農作物にまで影響が出ている以上、労働義務を廃止し、食糧増産に務めるべきである。各国の国司にはインフラ整備を務める義務もあるが、そのための費用は既に国から出ているのだから、労働をさせるのなら、義務ではなく有償での人員募集とすべきである、という主張である。
これに対する律令派、特に善男の反発は強かった。労働義務があるからこそインフラが維持できているのであり、無くなったらインフラの維持もできなくなる。各国の予算はインフラを維持させるための報酬を払えるほどではなく、報酬分を増やすとなるとその分の国庫負担も増す。ゆえに、反発があろうと変えるべきではない、との主張である。
だが、律令派の真意はそこではない。
律令派政権となって以後、数多くの貴族が新しい役職を獲得したが、その九割以上が国司をはじめとする地方官である。この地方官という役職は、一期六年を勤めあげれば一生暮らせるだけの資産が稼げるウマミのある職務であった。
無論、それは給与の高さからではない。
横領と収賄と着服の結果である。
善男が主張したのは事実ではある。たしかに、各国の予算はインフラ整備を全て有償でこなせるだけの額ではない。
だが、国司に支払われる給与があれば話は別である。私財を持ち出して担当国のインフラ整備を実施すれば、労働義務に頼る必要はどこにもない。これが良房からの反論である。良房は実際に私財を持ち出して、有償で労働力を募ってインフラを整備した経験がある。その結果、国司を勤めながら終わってみたら私財はマイナスになるという珍しい例を生んだ。
不可能では無いという前例が持ち出されては律令派の反対の根拠も失われる。
仁寿二(八五二)年七月一九日、肥前・豊後領両国の貧民一万六〇〇〇名の労働義務を免じると定められた。これは良房派からの妥協であった。一地域の、それも、貧しい者に限定しての義務免除である。
ところがこれでも善男は激怒した。自分の意見が否定されたことに腹が立ったのか、興奮がおさまらず顔を真っ赤にして怒鳴りちらし、最後のほうは何を言っているのかわからなくなった。
これで善男の評判が上がったとしたら、そのほうがおかしい。実際、このときの民衆の評判は良房派に集まり、善男個人、そして、善男が所属しているという理由で律令派全体に対する非難の声が高まっている。
それはこの月の末の災害によってさらに増幅した。
仁寿二(八五二)年七月二八日、台風が京都の近郊を襲う。京都市中の被害は甚大ではなかったが、京都近郊の農地が被害を受け、この年の収穫に影響をもたらすことが確実となった。おそらくその他の地域でも被害を生んでいたことであろう。
良房はこのとき、文徳天皇に被害状況を伝えるとともに、災害からの復旧を提言した。このときもまた善男は反対し、文徳天皇の認可もなかなか得られなかったため、良房は私財を提供しての復旧にあたった。
善男はこれもまた批判する。救済は国の管轄事項であり、一個人が乗り出すべきことではないという主張である。
この主張は民衆の善男への反発が増すのに役立つだけだった。もっとも、善男は自分に向けられた民衆の反発を気にしていない。
善男という人は、民衆を人間と思っていなかったのではないかとさえ思う。自分を有能な存在と考え、自分以外の存在については、貴族については認識するも自らより劣る存在としか考えず、民衆に至っては人間ではなく風景としか認識していなかった。ゆえに、善男にとって自身へ向けられた反発の声は風景が奏でる騒音でしかなかった。
善男とは逆に、このタイミングで評判を高めている者が居た。良房の養子となったばかりの藤原基経である。
台風は閏八月一二日にも京都を襲った。このときは家屋が数多く崩壊し木々も倒れる惨劇となった。
これに対する朝廷の対応は閏八月一六日になってから。廩院(国の命令で職務に就く人に支給される穀物を保管する蔵)のコメを京都市中で風害にあった者に支給したのだが、これは遅すぎた。そのときにはもう良房の手による救済が始まっていたのである。
このときの救済の陣頭指揮を執ったのは基経であった。良房が蔵人なったばかりの一六歳の若者を養子にしたことは知っていたが、その姿を見た者は少なかった。
その一六歳の若者が同年代の若者とともに被災者の救援に出向いたことを知った京都市民は、今でこそ律令派の政権になっているが、良房の次は律令派ではなくこの若者の時代になるのだと考えるようになった。
基経の外見は、小野篁や在原業平といった絶世の美男子でもなければ、伴善男のように醜い小男でもない、至って平凡である。知性があるとも感じないが無いとも感じない。リーダーシップを強くは感じないが頼りないとも感じない。貴族として生まれなければ、そして、良房の養子となっていなければ、どこにでもいる京都の民衆の一人として埋没してしまいそうな平凡な人間としか感じない。しかし、真面目な若者であり、そして、良房がそうであるように、民衆のことを見捨てない人であるとも印象づけた。
これは、基経に対する親近感を抱かせ、右大臣の後継者にも関わらず、基経が庶民の代表のような存在であることを印象づけるのに役立った。
夏から秋にかけて、文徳天皇は再び消極的に戻る。
積極的に動かなければならない災害が無くなったわけではない。大雨も降ったし地震も起きた。文徳天皇はその都度、神に祈りを捧げ、仏に救いを求めた。
それでも、特に大きな出来事はない。
ただ、時代は確実に変化していた。新たな者が登場する一方で消えゆく者もでてきたのである。今まで東雅院に姿を見せていた者が一人、姿を見せなくなったのもこの頃。
律令派最大の良心と考えられてきた小野篁が、東雅院から姿を消しただけでなく、公衆の面前に現れることもなくなった。記録には病に倒れたとあるが、それが何の病気であったのか、それがどのような症状であったかのかを伝える記録はない。
一方、比叡山延暦寺からも同様の連絡が届いてきていた。出家して比叡山に籠もっていた源明も篁と同様の病気で倒れたという知らせである。
これはただ事ではないと考えたとしてもおかしくはない。良房はこの二人の病がただの偶然ではないと考え、伝染病のおそれがあると結論づけた。しかも、これから寒くなる季節を控えている。これから先、多数の死者が出るのではないかと考えたのである。
文徳天皇の元にもこの知らせは届いていたし、良房からもこの冬の大量死を憂う連絡が来たが、何の手だても打てずにいた。良房からは最低でも東雅院を出ることを要請されたが、それについても何の回答もなかった。
仁寿二(八五二)年一二月一九日、文徳天皇は小野篁に従三位の位を授けた。参議がいくら位と連動していない職であるとはいえ、参議兼左大弁での貴族が従三位になることは珍しい。もっとも、篁のこのときの従三位就任が先例となり、後には参議正二位という例も現れる。
仁寿二(八五二)年一二月二〇日、源明が死去したとの連絡が比叡山から来る。三八歳での死であった。
その二日後の一二月二二日、小野篁が死去したとの連絡が来た。五〇歳での死である。律令派の良心で威圧感のあった篁の存在が消えたことは律令派にとってあまりにも大きなダメージであった。
一二月二六日、病魔退散を願っての金剛般若経の読経を命じた。
仁寿三(八五三)年は仁明天皇の頃の通例に戻った。
一月一日の朝賀は大極殿で行われた。内裏に足を運ばないのは相変わらずだが、それ以外は仁明天皇の頃と同じだった。
過去三年間の役職や位の大盤振る舞いが消え、位の昇進が一月七日、役職の付与が一月一六日に行われた。このとき、伴善男が正四位下に登る。また、前年の篁の死去に伴い空席となった左大弁には藤原氏宗が昇格した。
篁が亡くなったが、それ以外は前年と変わらない一年の始まりである。大きなイベントが企画されているわけでも、大きな事件が続いているわけでもなく、この年はこのままいつも通りの日々が続くと誰もが考えていた。
しかし、前年に良房が危惧していたことが現実となり、例年どおりではない日々が現れてしまった。
天然痘の流行が観測されたのである。
前年の篁や源明の死が天然痘であったかどうかは不明であるし、良房の上奏したのも天然痘を念頭に置いたものかもわからない。ただし、良房の上奏した伝染病対策は無視され、何ら動きを見せなかったことが、被害を増幅させることとなった。
この時代、天然痘の原因がウィルスによるものという考えは無かったが、天然痘が伝染病であり、天然痘患者の側にいる人が天然痘になるという知識は既にあった。そのため、人が多くいるところを避けて天然痘の被害を避けるということも頻繁に行われた。
仁寿三(八五三)年二月二日、文徳天皇がついに東雅院を出た。東雅院は、政務をする最低限の設備ならばあっても、狭い場所に大勢の者が集中しているため伝染病を食い止める効果は薄い。そこで文徳天皇は平安京を離れ梨本院(現在の京都市左京区大原にある「三千院」)に移った。その後、太皇太后橘嘉智子の死後空きとなっていた冷然院に移動することもあったが、基本的には梨本院を主たる居住地とした。
文徳天皇のような立場であれば天然痘から逃れる手段を持っている。だが、そのような立場の者は常に例外。天然痘が流行していようと日々の暮らしをしなければならない者にとっては、天然痘だからと言って好きに移動するなどできない。
結果、天然痘の流行が暗い影を落とした。つい昨日まで健康であった者が、突然の高熱に襲われ、気がつけば全身発疹が現れ、死を迎える。これは恐怖としか言えない。
天然痘は、老いも若きも、身分の差も貧富の差も関係なく襲いかかる。唯一天然痘の被害を免れることができるのは、かつて天然痘に罹りながらも死を迎えることなく完治した者のみ。普通、天然痘は再感染しない病気であり、天然痘が再感染したという例は医学書に例外的に載っているだけである。
天然痘に感染した場合、発症から一〇日以内に三人に一人が亡くなる。命を取り留めた者も天然痘の痕跡が全身に残り、以後の人生に支障を与える。この伝染病の絶望感は人々から気力を奪い、社会を停滞させるに充分だった。
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