北家起つ 1.縄文時代終結

 平城上皇の出家、薬子の自殺、そして仲成の死刑。

 ライバルを一掃した藤原冬嗣(ふゆつぐ)はまだこのとき三五歳。平均寿命の短い当時でもこの若さならば未来はまだまだ長い。

 その長い未来を前にして、ライバルを蹴落とし、権力を一手に掴むことに成功した冬嗣はこれからの人生を栄光の日々としてもおかしくはなかった。

 だが、歴史はそれを許さなかった。

 歴史が冬嗣に課したもの、それは、天災と人災という名の試練である。


 「左衛士督従四位下、藤原朝臣冬嗣、式部大輔兼任を命ずる。」

 「はっ。」

 反京都の勢力を一掃することに成功した冬嗣は、嵯峨天皇に働きかけて国の一新を図った。

 まず、大同五(八一〇)年九月一三日、平城上皇の子であり皇太子であった高岳親王の職を解任し、後継として、嵯峨天皇の弟である大伴親王を皇太弟として任命した。

 そして、自分を「式部大輔(しきぶのすけ)」に就けさせた。

 式部省は役人の人事考課を担う官庁であり、そのトップである「式部卿(しきぶのかみ)」には皇族が就任することが慣例となっていたため、他の省庁においてはナンバー2である「大輔(すけ)」の役職が、式部省においては省庁の事実上のトップを意味する。

 通例ならば、式部大輔とは正五位下の者が就任する職務であり、従四位下である冬嗣がこの地位に就くことは格下げを意味する。だが、冬嗣にとってはそれが格下げでも公的根拠に基づく役人の人事権を握ることのほうが重要であった。

 その結果、九月一五日には一五人、一六日には二五人といったペースで、一五日から一九日までの五日間に五〇名以上の貴族や役人に対し新たなポジションが与えられることとなった。

 「奴の時代になったか。」

 時代を掴んだ冬嗣を藤原葛野麻呂(かどのまろ)は横目で眺めた。

 葛野麻呂は冬嗣と同じ藤原北家に属する。だが、本流はあくまでも冬嗣であり、冬嗣の父である内麻呂が一族の長。葛野麻呂は遣唐大使の重責を果たしたことで出世はしたが、平城天皇と接近したため今となっては冷遇される身となっていた。

 それでも、反乱に参加しなかったために罪に問われることはなかった。

 そしてもう一人、冬嗣によって地位を得ながらも冬嗣を冷ややかな目で眺める者がいた。このとき美濃守に就任した参議正四位下藤原緒嗣(おつぐ)である。緒嗣は桓武天皇の忠臣として名を馳せた藤原百川の息子であり、冬嗣より一歳上である。縄主と同じ藤原式家の一員であり、縄主とは従兄弟の関係にあたる。

 緒嗣は桓武天皇の元で早熟の出世を遂げていた。元服は桓武天皇の手によってであり、一八歳で貴族の一員に加えられ、二九歳で参議に加わるという異例の出世スピード。これは父である藤原百川の威光を受けてのものであった。

 桓武天皇の末期には高齢の貴族相手に堂々たる論陣を張り、桓武天皇のライフワークとしてきた平安京建設と蝦夷平定の二つを中断させるという結果を残した。

 平城天皇の元でも参議として、さらには観察使として活躍。そして、田村麻呂の後任として東北地方の安定を勤める陸奥出羽按察使(あぜち)に就任し、東北地方に出向く。

 だが、帰ってきたのは平城天皇が上皇となり、反乱が起き、鎮圧されたあと。

 緒嗣は都を離れたことが致命的なダメージとなり、嵯峨天皇の時代に乗り遅れた。

 一九日には元号を「大同」から「弘仁」へと変更する。この改元の際に、嵯峨天皇は、「穀物も豊作で倉庫は満ち、人々の暮らしも豊かになっている。それらは全て神仏のおかげである」と高らかに宣言した。

 奈良の挙兵から十日も経たずに人事と元号を一新したことは、嵯峨天皇、そして、今や誰も疑う者のいない朝廷の実力者である冬嗣の存在を大きく示す効果があった。

 嵯峨天皇の言葉が正しければ神仏の加護に満ちた豊かな時代の始まりであり、危機に対する素早い対処、従来の枠にとらわれない人事、そして、新しい元号、これらは普通ならば新しい希望に満ちた時代の到来を予感させるはずであった。

 ところがそうはならなかった。

 代わりに民衆を襲ったもの。

 それは、失望。


 奈良の勢力が成立できた要因の中には権力から突き放された貴族や寺院の勢力というものがあったが、最たる原因は民衆の生活の困迷である。

 特に、重い負担が民衆を苦しめていた。

 この時代の民衆とは、そのほとんどが農民である。都市生活者もいたが比率で言うとそれは高い数字ではなく、畿内を離れたところに住む地方の民衆とはイコール農民であると考えても良い。そのため、対民衆政策と対農民政策とはかなり一致する。

 その政策が負のスパイラルを生んでいたのがこの時代であった。

 法で定められている直接税の税率はわずかに三パーセント。現在の日本の所得税や住民税の税率と比べるとかなり低い数字であり、夢のような数字と言える。

 だが、負担はそれだけではない。

 この時代の農民は、現在で言うサラリーマンではなく、個人商店や中小企業の経営者と考えていただきたい。

 小さいながらも経営のトップに立つ身であり、日々の経営の結果が自分や家族の生活に直結する身、つまり、自分の田畑の収穫が自分の生活に直結する身である。収穫が良ければいい暮らしが出来るが、悪ければ生活が苦しくなる。

 世の中の経営者の中には無借金経営として銀行を必要としない経営をする経営者もいるが、運転資金を銀行から借りて経営する経営者のほうが多い。

 これが農業となると、運転資金=種籾を借りて、利益=収穫したコメを返すというサイクルになる。前年度の収穫(=利益)が出れば翌年度の種籾(=運転資金)を自前で用意できるが、前年度の収穫が乏しく種籾がなくなった場合は誰かから借りなければならない。

 この時代の種籾の貸し出しにつけられた名、それが「出挙(すいこ)」である。

 この出挙の利率が一〇〇パーセントを超えるようになったのが問題となっていた。

 たしかにコメはムギやトウモロコシなどの他の穀物よりも生産性の高い農作物である。

 この当時の技術、この当時のコメの品種でも、一粒の種籾から五粒から一〇粒のコメの収穫を見込むことができた。ちなみに現在では、最高の技術、最高の天候、最高の土壌、最高の品種といった条件が揃えば、一粒の種籾から一二〇粒の米が収穫できる。この当時はそこまでの技術も品種もなかったが、それでもこの時代でのヨーロッパでは一粒のムギを蒔いて二粒のムギの収穫ができれば御の字とされていたことを考えると、一〇倍の収穫が考えられることは、ヨーロッパと比べれば恵まれていたと言える。

 だが、出挙の返済を考えると恵まれているなど言えない。利率通りに出挙を返し、税を納めた後には自分たちの生活する分がぎりぎり残るかどうかであり、種籾までは残らないのが普通であった。

 そのため、翌年の春になったらまた種籾を借り、収穫まで田畑を守り続け、収穫して返済するというサイクルに入らなければ生活が成り立たない者が大多数を占めた。

 出挙の返済がこの時代の農民の負担に占める割合は高く、収入の五〇パーセントを軽く超えていた。

 経営の流れとしては中小企業の自転車操業と同じである。

 出挙の名目は貧者救済のための施策である。種籾まで食べ尽くしてしまい翌年の耕作ができなくなってしまった農民を救うのだから、この名目自体は褒められるべきものと言えよう。

 だが、この出挙、ビジネスとして眺めると、ミドルリスクだがハイリターンを見込める魅力的な投資であった。

 なんと言っても、半年から八ヶ月で倍額が戻ってくるのは投資として魅力が高い。そのため、国が率先して出挙を行っていたし、地方に赴任した国司や、その地域の郡司、現在の感覚でいうと都道府県知事や市町村長もそのビジネスに参加していた。

 だが、リスクもハイリスクとまでは行かないにしろなかなかに高い。

 何しろ相手は自然。荒れ狂う自然にさらされた農業には不作という結果が伴い、乏しい収穫に終わるならまだマシで、ときには収穫ゼロという結果さえある。収穫が無ければ利子どころか元本が戻ってこない。恫喝しようが、法に訴えようが、無いものはとれない。

 この一〇〇パーセントという利率、これはそうしたリスクをふまえての利率設定であるとも言える。どんなビジネスでもそうだが、担保となるべき資産がない相手へ貸し出しをする者は、不良債権となる可能性の高ければ高い相手ほどその利率を高くする。現在の金貸しがヤミに近づけば近づくほど利子が高くなっているのもリスクがその分高いことの反映。

 さて、この出挙であるが、国や地方が直接農民に貸し出すことは少ない。一応あるにはあるが、たいていの場合、国や地方はその地域の有力者、つまり、大きな土地を持ち、大勢の耕作者を抱える、現在の感覚で行けば大企業を相手にして貸し出すのが普通であった。こうした大企業相手ならばリスクが低いと見なされるため、出挙の利子も低い。これを「公出挙(くすいこ)」という。

 中小企業としての農家が種籾を借りるのはこうした大企業である有力者からなのが普通であった。こうした地域の有力者が種籾を農家に貸し出すことを「私出挙(しすいこ)」という。

 そして、公出挙として受け取った種籾をそのまま私出挙に回すことが頻繁に見られるようになった。

 例えば、公出挙として年率三〇パーセントで借り、その種籾をそのまま農民に年率五〇パーセントで渡す。そうすると、中間の大企業は差分である二〇パーセントをそのまま収入とすることが出来る。

 中小企業の農民としても、自分相手には貸してくれないが、大企業が間に入ってくれれば種籾を貸してくれるということで、年率が高くなってもそれに頼る。

 種籾が無限にあるわけではないから、貸し出す側はより有利な結果が期待できる相手を選ぶ。つまり、収穫が見込めそうな相手を最優先にする。収穫が見込める農家は利率の安いところを選べるが、見込めないところは利率を高く設定しているところしか選べない。

 リスクを踏まえて利率を上げ、その利率通りの返済があると、一時的に高くなった利率は常態となり、莫大な負担とともに莫大な収益をもたらす。

 その結果、種籾を貸し出す側に回す余力がある者がこぞって出挙に参加するようになっただけでなく、私出挙で借りた種籾を別の農民にさらに利子を上乗せして貸し出すという農民同士の取引まで発生し、出挙は福祉政策ではなく投機となる。

 ここに、国のトップから末端の農民までが参加するバブル的なビジネスモデルが成立した。

 だが、これは豊作でなければ成り立たないビジネスモデルであった。

 不作になった瞬間、バブルは壊れ、出挙が不良債権と化してビジネスに関わる全ての人に打撃を与えることになる。

 不作になると、まず、私出挙が返されなくなる。返すだけの収穫がないのだから返しようがない。それでも返済を求めて農民の食い扶持を奪うという非常手段も頻発したが、それは、餓死する農民や、田畑を捨てて逃亡する農民が激増するという結果を招いただけで、返済を埋めるまでは行かなかった。結果、出挙は不良債権と化して大企業に襲いかかる。現在で言う中小企業の倒産である。

 私出挙の返済が止まっても、公出挙の返済を止めてくれるわけなどなく、大企業にも返済が迫られる。余裕のある大企業ならばその分の返済も可能だが、それが何度も続くとどんな大企業だろうと経営は下り坂になる。

 経営が苦しくなった大企業は、私出挙の貸し出しの審査を厳しくするようになる。前年の収穫が良くなかったところに種籾を貸し出さないようにし、貸し出すとしてもそれまでより高い利子を設定するようになる。これなど、貸し渋りにあって運転資金の確保に苦しむ中小企業と同じである。そして、こちらもまた、種籾が無くなって耕作できなくなるという中小企業の倒産を招いた。

 また、自分のところで雇っていた耕作者、特に奴隷(当時の言葉では「奴婢(ぬひ)」)や、自分の土地を持たない小作農をクビにすることも起きた。耕作の対価として支払っているコメ、つまり人件費の削減である。他のどんな策を用いようとこれ以上支払うべき財源が無くなったとき、人件費を削ろうとするのは今の時代と変わらない。

 その結果、土地を失った失業者が生まれる。

 また、残った者にとっても、これまで耕していた田畑を減らされた人数でやらなければならなくなるのだから、これは労働量が増えるということである。それでいて、得られる報酬は前と変わらないかむしろ減っている。これについては、現在のサービス残業やワーキングプアを思い浮かべていただきたい。

 中小企業の倒産、経営不振、貸し渋り、失業者の増大、労働環境の悪化、ワーキングプア。

 これらは平成になってはじめて現れた現象ではない。

 平城天皇はこの負のスパイラルを絶つべく、こうした重荷を課す国司や郡司の上に観察使を設置し、過重な負担を課す地方官吏を次々と追放し、大規模な減税を決行した。

 負のスパイラルの原因は貴族や官僚の腐敗であり、腐敗を食い止めれば生活は向上するとの考えからである。

 そして、負担の高さが民衆の重荷になっているとして、コメ以外の税率を下げることで民衆の生活水準が上がるように画策した。

 民衆はこれに感謝した。そして、未来に希望を見た。これで自分たちの暮らしは良くなると考えて。

 この希望は長く続いた。実際に生活水準が上がったわけではなく、統計的にはむしろ生活が悪化していたのだが、それでも希望はあった。

 平城天皇が退位して観察使が形骸化し、ついには廃止されても、民衆はまだ希望を完全に捨ててはいなかった。

 国司も郡司も何事もなかったかのように舞い戻り、出挙の高い利率が復活しても、民衆にはまだ希望があった。

 奈良の都という最後の希望が。

 何もかも捨てて奈良に行けばそこには平城上皇がおり、平城上皇に守られた奈良には豊かな暮らしがあるというのはもはや伝説となり、奈良へと向かう民衆の流れは無視できないものになっていた。

 その奈良の勢力が消失させられ、民衆は最後の希望を失った。

 時代が変わったことに対する希望より、自分たちの希望が失われたことへの失望のほうが強かった。時代はその希望を奪った者達のものであり、自分たちは再びあの苦しい暮らしを続けていかなければならないのかという失望が民衆を襲った。

 それでも、朝廷には失望を希望に変える方法があった。わかりやすい形で負担が少なくなる、あるいは生活の苦しさがなくなるといった政策を早々と打ち出すことである。そうすれば、新しい時代の始まりを希望に変えることができる。

 それなのに、この十日間の政策は宮中の中だけのことに終始し、民衆を省みるものではなかった。

 民衆にとっては、貴族の人事がどうなろうが、元号が変わろうが、取り立てて大騒ぎするようなものではない。その大騒ぎするようなものではないことに終始していることは失望の上積みをしただけだった。

 冬嗣はそれをわかっていた。

 わかっていたが、動くに動けなかった。

 冬嗣は、現在の経済の混迷が出挙にあると確信し、その利率を下げることをかなり早い段階で画策していた。


 ところが、人事には口出ししなかった桓武天皇の忠臣たちも、冬嗣のこの政策には頑迷に抵抗した。

 特に葛野麻呂と緒嗣の反発が激しかった。

 貴族の反発の理由は地方へ赴任した際の収入が減らされることにある。

 もっともそれは本音であり、建前としては、それによる国庫収入の減少がある。直接税の比率の低さはとてもではないが国をやっていけるだけの金額ではなく、出挙による高い比率の税収が得られるからこそ国はやっていけるのだとして反発した。実際、平城天皇による減税は国庫収入の減少と財政不安を招いており、嵯峨天皇は当初、出挙の利率を上げることでその危機を乗り越えようとしていたほどである。

 結果は、冬嗣ひとりが宮中で孤立する状況。出挙の税率引き下げが議案に挙がっては直ちに却下される状態が十日間続いた。

 だが、九月二三日、嵯峨天皇が突如、緊急措置として出挙の利率を最高三〇パーセントとするよう命じたことから事態は急転する。

 「何を勝手なことをなさるか!」

 緒嗣は驚きを隠せなかった。

 「帝を操り人形とでも思っているのか!」

 葛野麻呂は怒りを露わにした。

 誰もが、嵯峨天皇の背後に冬嗣が居ること、そして、この命令が冬嗣の意見そのものであることに気づいた。

 嵯峨天皇の前でありながら冬嗣を罵倒する他の貴族たちの声も響いた。

 冬嗣は立ち上がって、罵倒する貴族の前に立ち、見下ろして無言で睨みつけた。

 その表情は仲成を死刑にしたときと同じ表情だった。

 「主上! いかがなさるおつもりですか。」

 葛野麻呂は視線を逸らし、嵯峨天皇に冬嗣を諫めるよう言った。

 当初は葛野麻呂たちに意見を合わせていた嵯峨天皇であったが、その意見は次第に冬嗣の意見へと近づいていった。

 嵯峨天皇は悩んでいた。冬嗣の打ち出した緊急措置は嵯峨天皇のこれまでの政策を一八〇度転換するものであり、財源の裏付けのとれた政策ではない。だが、それは民衆の失望を減らすために有効であるとも考えられた。

 この葛藤が嵯峨天皇を支配し、決断するのに十日かかった。

 「今はまず、農民を救うことを考えよ。」

 「税を減らし、この上、出挙まで減らしたら、国庫は立ちゆかなくなります。」

 「それはわかっておる。だが、それよりも農民を救うことだ。」

 「しかし……」

 そのとき、それまで黙っていた冬嗣が口を開いた。

 「何をごちゃごちゃ言ってんだ。文句があるなら貴様の手で民衆を救ってみろ。」

 目上を目上とも思わぬその口調は、その場を静かにさせるのに充分だった。

 「何を言うか!」

 葛野麻呂の反発を示す言葉が出るのに少し時間がかかった。

 「口を開けば他人の批判ばかりで、何ら自分の意見も言わずにいることが恥ずかしくないのか。私が利率を下げると言ってから十日も経っている。それが不満なら、それに変わる意見を出したらどうだ。時間がないとは言わせぬ。貴様等も貴族を名乗るなら、十日も経って意見の一つも考えられないような能なしではなかろう。」

 「誰に向かって口をきいているのか!」

 「私が敬意を払うのははただ一人、主上のみ。貴様に払う敬意など無い。口をきいてやっただけでも感謝しろ。」

 冬嗣の強引なやり方に貴族は猛反発した。

 だが、彼らはすぐに気づいた。

 この十日間、冬嗣が何をしてきたか。

 冬嗣は、人事権を握っているのである。そして、冬嗣より下位の者は息の掛かった者を抜擢し、冬嗣一門とも言うべき派閥を作り上げることにも成功していた。

 気がつけば、高位の者こそ桓武天皇の忠臣で占めているが、それより下は異なる派閥の者になっていた。三位以上の高齢の貴族とその仲間という派閥、そして、冬嗣を中心とする四位以下の若い貴族の派閥。仲成の始めた世代間の対立がここに完成した。

 もっとも、冬嗣の側に若い者が多いと言っても「比較的」という形容詞がつく。高齢の貴族側に属する緒嗣は、世代的には冬嗣に近い。

 いくら冬嗣が人事権を握っているとは言え、三位以上の貴族に対する人事権はない。三位以上の貴族の圧倒的大多数は桓武天皇の忠臣であり、冬嗣との関係は反奈良ということでは一致していたが、それが無くなれば明確な敵対関係となる。

 このときの冬嗣は従四位下。本来であれば三位以上に口出しできるものではない。

 だが、冬嗣には奥の手があった。

 嵯峨天皇とは同じ世代であり、意見を同じくすることが多い。そして、自分自身が嵯峨天皇の右腕を務めている。これは、公私両面において、嵯峨天皇に働きかけをする機会が他の者より圧倒的に多いことを意味する。

 そのため、自分のアイデアを嵯峨天皇に伝え、嵯峨天皇がそれに賛成すれば、冬嗣の意見は天皇の意志になる。

 この時代にはまだ摂関政治という概念がない。だが、その基礎となる考えは、このときに誕生した。

 ただ、その第一歩となる出挙の利率引き下げに対する民衆からの感謝の声は全く挙がらなかった。

 これには三つの理由がある。

 まず、そもそも出挙の最高利率は法で定められており、年によって違いはあるが三〇から五〇パーセントと定められている。この時点でもその法は有効であり、一〇〇パーセントというのはとんでもない利率であると同時に、法に反する利率でもあった。観察使が国司や郡司を処罰できたのはその法に違反するということを根拠としている。

 つまり、冬嗣の定めた利率はこれまで何度も定められながら守られなかったことを繰り返したにすぎず、今回も結局守られずに今まで通りになるとの思いが強かった。

 次に、労働環境や失業対策が全くないことへの不満がある。

 田畑を捨てた者、働く場所を失った者を奈良は受け入れた。しかし、その奈良が無くなってしまった。あとで待っているのは生活する手段がないという現実である。

 それなのに、提示した政策は出挙の利率を抑えることだけ。これでメリットがあるのは今の時点で田畑を持っている者だけであり、田畑を持たぬ自分たちはこれからどうやって暮らしていけばいいのかという不満への回答が無かった。そして、俘囚にくれてやる援助があるなら自分たちにくれという思いが日に日に強くなっていた。

 最後に、冬嗣個人に対する不信がある。

 自分たちの希望であった奈良を壊滅させたこと、仲成を捕らえただけでなく死刑にしたこと、罪もない女性を悪女に仕立て上げ自殺に追い込んだこと、こうした冬嗣のこれまでの残虐な行動を前にしては、その他の奈良派の貴族を許そうと、民衆のためという名目の政策を掲げようと、易々と信じてくれるものにはならない。

 宮中には出挙の利率引き下げに対する民衆の反応が届いた。

 冬嗣に反発する者はこれ幸いと冬嗣への攻撃を始めた。

 「出挙の利率を引き下げたことに対する感謝が無いのは、冬嗣の人徳に問題があるからではないのか?」

 葛野麻呂の手厳しい一言だった。

 葛野麻呂は冬嗣より二〇歳上の五五歳。位も、役職も葛野麻呂のほうが上で、本来ならば冬嗣は敬意を払わねばならない相手のはず。

 「結果が出れば、人徳など関係なかろう。」

 「ならば結果が出ると言うことか。」

 「出なければそのときに次の手を考えれば良い。挑戦して敗れた者に、挑戦すらしなかった者が口出しする資格など無い。仲成は少なくとも挑戦はした。貴様は仲成以下だ。」

 その葛野麻呂を冬嗣は平然と罵倒していた。

 葛野麻呂をはじめとする貴族を敵に回し、民衆も敵に回した冬嗣に、一ヶ月後、さらなる難問が現れた。

 一〇月二七日、陸奥国に二〇〇人ほどの集団が海の向こうから押し寄せてきた。このとき押し寄せてきたのは北海道の縄文人(当時の用語では「蝦夷(えみし)」)の集団という説が有力であり、このときの朝廷も海の向こうの蝦夷が渡来してきたということで対応している。

 現在、日本の歴史は旧石器時代より始まり、縄文時代を経て弥生時代に至るとするのが一般的である。だが、弥生時代が始まったと同時に縄文時代の暮らしをしていた人が消えたわけではない。

 狩猟・採集を生活の基礎とし、農業を行なわない、あるいは、行なったとしても農業を生活の基礎とはしない彼ら、言うなれば縄文人たちはこの時代にも存在していた。それを当時は「蝦夷」と呼んでいた。

 桓武天皇の時代に坂上田村麻呂による東北地方の制圧があったが、まだ東北地方全域を制圧したわけではなかった。県で言うと、青森県の全域と、岩手県の北部、秋田県の北部がまだ京都の支配下に組み込まれておらず縄文時代が続いているという状況である。

 また、制圧した東北地方も、それより北の東北地方や北海道と同じ縄文人の住む土地という認識もされていた。このとき朝廷の支配下に入った縄文人は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、日本人より一段下に見られていた。ただし、課税はされず、農地を開墾しての定住生活が成立するまで食糧や布などの生活物資が与えられるなど、生活の面で優遇されていた。

 民衆の出挙の利率引き下げに対する反発とはこれである。

 税を納める自分たちは苦しい生活をし、さらには不作から出挙が返せないために暮らしの手段を失ったのに、俘囚は国の援助で税を納めることなく生きている。それは理屈ではどうにもならない感情だった。

 さらに、蝦夷や俘囚に対する当時の庶民の視線は「野蛮人」というものであり、国に逆らう異民族というものであった。反発の中にはそうした差別感情も色濃くあった。

 実際、制圧時に捕虜にした蝦夷は見せ物であるかのように朝廷に連れて行かれたし、強制的に地方に移転させられる俘囚も居た。東北地方に残った縄文人に対しても、狩猟・採集を中心とする縄文時代の生活習慣を野蛮と一括し、農耕を中心とする日本の習慣をするよう押しつけていた。

 ただし、そのおかげで狩猟・採集を中心とする生活より安定した生活が送れるようにもなっており、生存率の向上に伴う人口の増加、そして生活水準の向上が徐々にではあるが実現しつつあった。

 これは縄文人にとって相反する二つの感情を生み出していた。侵略され支配され、日本人より格下に扱われているという屈辱と、支配されるようになった結果、それまでよりも良い暮らしを手にできるようになっているという希望である。

 時代は後者の感情が優先してきていた。支配を受け入れることでそれまでは夢でしかなかった飢えの少ない暮らしを手にできると理解したことが大きく、日本の支配に組み込まれた東北地方の縄文人と、組み込まれない北海道の縄文人、この二つの地域の交流は次第に細くなっていった。

 それまでなら二〇〇人の縄文人の渡来など日常の光景として記録に留められなかったであろう。しかし、今はもう時代が変わっていた。二〇〇人の渡来がニュースとなる時代へと。

 それでもこのときの陸奥国の官吏の対応は、野蛮人に対する対応と言うより、海の向こうの同胞に対する対応だった。このときの官吏は何名であったのか、また、その官吏の名前は何かといった記録は残っていない。

 その官吏にとって海を渡ってきた者らは自分たちの仲間であり、また武装集団というわけではなかったこともあり穏健に対応しようとしていた。おそらくであるが、このときの官吏自身が俘囚であった可能性が高い。そしてこれは、官吏の仲間に対する友愛であるだけでなく、桓武天皇の対外強硬路線とは逆の平城天皇の対外融和路線の影響がまだ残っていたということでもある。

 だが、融和路線の交渉は強硬路線の交渉より難しい。そのため、彼らとの交渉は困難を極めた。

 日本からの主張はとにかく帰国してほしいというものであったが、縄文人は、既に冬を迎え海が荒れていること、故郷の生活が厳しいことを挙げて、このまま日本にとどまること、さらに、俘囚が受けているような当面の生活の補償を要求してきた。

 交渉の結果、とりあえずの保証として、食料と衣服を彼らに支給し、翌年まで彼らを保護することが決まった。

 都にその情報が届いたのはその交渉がまとまったあとである。

 「陸奥や出羽はまだ本朝(ほんちょう・当時の人が「我が国」という意味で使用していた語)の力の及ばぬ地。そこに住む者らは海の彼方の者と同じ言葉を話し、同じ暮らしをしている。そうした者が海の外からやってくることなどおかしなことではあるまい。」

 報告の第一報を聞いた嵯峨天皇は悠長に構えていた。

 冬嗣はそれに対して何も言わなかった。

 「それに、本朝には毎年数十から数百の新羅人が逃れてきておる。海の外より人が来るのは、本朝の暮らしが豊かで実り多いものであると考えたからではないか。ならば、本朝より追い出すのではなく、本朝で暮らすことの素晴らしさを感じさせるべきであろう。」

 「……、御意。」

 冬嗣のその言葉にはためらいがあった。

 嵯峨天皇は当時の東北地方の実情を理解しておらず、都に伝わる断片的な情報で東北地方を把握していた。

 そして、東北地方からの最新の情報を聞いた嵯峨天皇は特にこれといったアクションを示さなかった。新羅からの亡命者が珍しくないことから新羅以外の地域からの亡命者があってもおかしくはないだろうと考えたのか、それとも、たかだか二〇〇人と考えたのか、このときの嵯峨天皇はあくまでも一時的な出来事だと考えたようである。

 だが、冬嗣はそう考えてはいなかった。

 それが何であるかはわからないが、少なくとも何か良くないことが起こる前触れではないかという思いがあった。

 その冬嗣の思いは正解だった。

 二〇〇名の渡来はこれからの問題の前兆だったのである。

 環境の変動による大飢饉という問題の。

 意外かもしれないが、農業が食糧確保の圧倒的多数を占める地域では、環境の変動があってもすぐには命に直結しない。まず生活が苦しくなり、命に影響を与えるのはしばらく経ってからとなる。

 環境の変動が起こると不作になり、食料品の値上がりが起こり、店頭から食料品が消え、台所の食料も消えて、生活が苦しくなる。

 だが、生活が苦しくても蓄えさえあれば生きていける。

 農業という行動自体が自然界ではあり得ない量の食糧を確保する手段であり、生活できる以上の食糧を確保することも可能である。つまり、蓄えがある間は、環境の変動があっても、生活が苦しくなるが生きてはいられる。そして、命に影響を与えるのはその蓄えがなくなったとき。

 そのときになってやっと飢饉が始まる。

 だから、環境の変動を察知してから飢餓対策まで、普通であれば時間を確保できるし、何らかの対処も可能となる。

 一方、狩猟や採集が中心だと、環境の変動はすぐに命に直結する。

 狩猟や採集の基本は自分たちが生活できるだけの食糧の確保であり、蓄えるほどの食料の確保をしていることもあるがその蓄えは農業の比にはならない少なさに留まる。つまり、その日の食料をその日に手に入れるのが暮らしの基本であり、食料が手に入るならその場に留まるが、食料が手に入らないと食料の手に入るところへ移動することとなる。

 だから、狩猟や採集で生活している人たちが移動を始めるということは、自然界で何かが起こることの前兆である。

 陸奥に二〇〇人規模の人が押し寄せたのはその例であった。

 その一ヶ月後、冬嗣は東西から同じ知らせを受け取った。

 「不作のため税が納められなくなっております。」

 「不作となり、田畑を捨てる農民が続出しております。」

 各国から続々と同様の知らせが飛び込み、無事を伝える国は一つとしてなかった。そして、特例としての免税を求める国が続出した。私出挙どころか、公出挙も戻ってこなくなったのである。

 このときになって冬嗣は、漠然とした不安の正体を知った。

 「まずいな……」

 それが何なのかはわからないが、自然界に何かが起こっているのは理解した。

 その結果、今年のコメは不作だと。それも、これまでにない不作になると知った。

 一一月二八日、冬嗣は願いのあった中から三河国(現在の愛知県東部)と美作国(現在の岡山県北部)の二ヶ国の税を、今年に限り免ずるように命じる。

 「免税とは、大げさにもほどがあるのではないか。」

 「無いものをとれるか。少しは考えてから物を言え。」

 本来であれば願いのあった全ての国に適用すべきであったが、それでは国家財政が成り立たなくなる。そこで、名目として大嘗祭のときに珍しい献上品を送ったこの二ヶ国への返礼とした。

 だが、これは一時的な対策に過ぎなかった。

 そのあとも各地から不作の情報が届いた。税の免除を願い出るだけでなく、不足するコメを運び込んで欲しいという願いとともに。

 全国的な不作であることを理解した冬嗣は、もはや一刻の猶予もないと嵯峨天皇に進言する。

 「このままでは餓死者が出ます。」

 「餓死とは大げさな。冬嗣殿もヤキが回ったか。」

 「冗談などでは無い! 状況もわからずへらへらしている貴様に何がわかる。」

 そして、冬嗣は手に持っていた書類を床にまき散らした。

 書類は木簡と紙とが混在し、床に落ちるときに木簡の乾いた音が響いた。

 床に落ちた書類を手にとって眺めた瞬間、葛野麻呂から笑いが消えた。

 嵯峨天皇への冬嗣の進言は苦渋に満ちたものだった。ついこの間、神仏の加護により豊作に恵まれ、民衆の暮らしが豊かになったと宣言したばかりである。

 書類を見た嵯峨天皇は、その現実は受け入れた。しかし、具体的な対策を出すことができなかった。

 いや、嵯峨天皇だけでなく、冬嗣を含む宮中の誰もが打開策を打ち出せずにいた。

 奈良の軍勢に対処するための出費が国家財政を圧迫しており、税を減らすどころか増やさざるを得ない状況であったのに、コメが不作とあっては税収を増やすわけにはいかず、逆に国からコメを出さなければならない。

 ここにいる誰もが、二ヶ月前には民衆の希望であった奈良を壊滅させ、平城天皇や仲成の独裁を批判した者である。

 そして、権力を掴んだときに待っていたのはこの現実。

 それまでは自分では何もせずただ他人を批判していれば良かったのが、今はもう批判ではなく自分たちで何かをしなければならないという現実に、誰も何もできなくなっていた。

 「これは薬子の祟りではないのか。」

 「いや、仲成の復讐だ。」

 貴族の中には、ついこの間の仲成の死刑や薬子の自殺を持ち出す者もいた。

 「どうするんだ、冬嗣。おまえのせいだ。おまえが奴らを殺したから……」

 そして、全ての責任を冬嗣に押しつけようとした。

 「だと言うなら私個人を呪い殺せば済む話。私がなお生きている以上、祟りだの、復讐だのと考えるのは無意味だ。そんな戯言を言っている暇があるなら今年の不作への対処を考えろ。能なしどもが。」

 冬嗣は貴族たちに広まりつつあったその思いを完全に否定した。

 しかし、不作、不作による食糧不足、不作による貧困、不作による税収の減少、これらを解決する妙案など何一つ浮かばなかった。

 職を失い、生活する手段を失った人が逃れてくるのは大都市と決まっている。奈良壊滅後のこの時点でそれは平安京しかない。

 そして、不作から来る経済苦境は平安京の貴族の目の前で起こるまでになっていた。

 ボロボロの服を着て、食べ物を手にしていないために痩せこけ、生活する手段もなく、ただそこで死ぬのを待つだけという人の群れが、平安京の道という道にあふれるようになった。


 冬嗣は悪化する一方のこの光景を毎日、車の窓から眺めていた。

 「お願いします。おめぐみを。」

 まだ首の据わらぬ赤ん坊を抱えた女性が冬嗣に施しを求めて来た。

 「お助けください。」

 車の前に立ちはだかった女性を見て、御者は車のスピードを緩めた。

 しかし、冬嗣は関心を抱かぬといった風情で命じた。

 「行け。」

 「し、しかし、このままじゃ……」

 「構わん。」

 スピードはそのままであったが停まる様子はなく、女性はひき殺される直前で何とか助け出された。

 この光景を見た民衆から猛然たる非難が沸き起こったが、冬嗣はそれを気にすることなく通り過ぎた。

 「よろしかったのですか。」

 「一人にやれば他の全員にやらねばならなくなる。」

 「それはそうですけどね、いやね、人情ってもんがあるんじゃないですか?」

 「あとであの女性と子供を連れてこい。」

 「何をなさるおつもりで。」

 「詮索は無用だ。」

 「へい。」

 その日の夜、御者はこの母子を連れて、冬嗣の屋敷を訪ねた。

 「命ばかりは……、せめて、この子だけでも……」

 女性は恐怖に震えていた。

 油が貴重で夜になると寝るしかないこの時代、夜に明かりが灯っているだけでもここは別世界だと感じたのに、室内には夢にまで見た豪勢な食事が並んでいる。これはいったい何のパーティーかと思わせたが、ここにいるのは冬嗣のみ。どうやらこれが冬嗣の夕食らしいと感じた。

 「別に殺すわけではない。それより座ったらどうだ。」

 女性は力なく座り込んだ。

 「母一人、子一人か。」

 「……、はい……」

 「夫はどうした。」

 「亡くなりました……」

 「そうか。ときに、その子はいくつだ。」

 「先月生まれたばかりにございます。」

 「私も人の親、子を大事にする気持ちわからぬでもない。ましてやまだ生まれたばかりとあっては可愛いことこの上なかろう。」

 「はい。」

 「では、その子を抱えたまま車の前に立つのは危険と考えなかったのか。」

 「……」

 「子を思う親の愛はわかる。だが、子を利用するのは許せぬ話だ。」

 冬嗣は立ち上がり、女性の横に来てから座った。

 「!」

 女性は本能的に冬嗣を避けた。

 「細い手だ……」

 冬嗣は女性の右手をとった。

 「米の飯はどれだけ食べてない。」

 「……、この子が生まれてから一度も……」

 「そうか。それではまともな乳も出るまい。」

 「……、はい……」

 「子を思う親の気持ちか。それも良かろう。」

 それから部屋の明かりは消された。

 冬嗣には五人の妻がいたと記録されており、記録に残っているだけで八人の息子と二人の娘をもうけている。また、その他にも愛人がいたらしいが、平城上皇のように恋愛に人生を左右されるようなことはなかった。

 女性にモテたかと考えるのは難しい。名門貴族中の名門貴族なのだからそうした上流階級に対する憧れの視線はあっただろうし、この時代の貴族が子供を産ませるために何人もの女性と関係を持つことは珍しくないから、セックスに不自由していたとは思えない。

 しかし、それが恋愛になったかどうかは怪しい。

 この人は本気で恋をしたことがないのではないかとさえ思う。女性を口説くのが似合わないし、口説くこと自体考えられない。

 だが、厳しさを前面に出している人間が時に見せる優しさは人を魅了し、恋愛感情となることもある。

 自分から積極的に誰かを好きになることはなくても、誰かに好かれることはあったのかも知れない。

 我が子とともに冬嗣の車に立ちはだかった女性は夫を捨てたとは考えなかっただろう。夫を捨てたのではなく子供を捨てられなかっただけだと。

 だが、彼女は結局冬嗣を忘れることができず、冬嗣もまた彼女や彼女の子を見届けていた。

 ふるさとの佐保の河水けふもなほかくて逢ふ瀬はうれしかりけり

 これは思い出の女性とのひとときを詠んだ冬嗣の歌である。

 オフィシャルの冬嗣は厳しい人であった。他者を冷たく突き放し、命などゴミのように軽く扱う冷徹で冷酷な人間というのが世間における冬嗣の評価であった。そのため、オフィシャルな場での冬嗣には常に緊張がつきまとっている。

 ただ、プライベートの冬嗣はそこまで緊張させていない。笑いの絶えないという雰囲気ではないにせよ、時に温情を見せ、時に優しさを醸し、細かな気配りを欠かさない。

 使用人の子が熱を出したと聞きつければ自ら駆け回って薬を手に入れ、子供が産まれたと聞けば誰よりも先に出産祝いを用意する。結婚に喜び、死に悲しみ、どんなに身分が低かろうと、冬嗣は自分のために働く人を見捨てることはなかった。

 こうした配慮を冬嗣自身が行うことで、冬嗣に仕える者は、冬嗣が自分のことを見てくれているという思いを抱かせることになった。

 そのため、冬嗣の周囲にいる者が下す冬嗣評は高い。信頼できると思わせるし、この人についていこうとも思わせる。

 狩りが趣味で、日本後紀には嵯峨天皇と一緒に狩りに出かけたという記録が数多く残っている。狩りは夏も冬も行われ、冬の寒い最中に野山を駆け回ると身体が冷えるため、身体を温めるために日本酒を温めて飲んだという記録がある。異説もあるが、どうやらこれが燗の始まりらしい。

 そのほかの趣味となると、漢詩や和歌が挙げられる。この時代の貴族たる者、漢詩や和歌が作れなければ貴族失格のところもあるので仕方なく作ったのかもしれないが、漢詩については「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」の勅撰漢詩集の全てに自作の詩が採用されているほどの出来映え、和歌については「後撰和歌集」に和歌が残っている。

 そこにオフィシャルの厳しさを見せる冬嗣はいない。

 だが、オフィシャルの冬嗣は厳しい。

 このため、外から見れば一貫しない性格に見える。

 だが、本人にはそれで一貫している。冬嗣に言わせればオフィシャルとプライベートを使い分けているだけで、不特定多数を前にすれば冷徹で命を軽く扱い、特定個人と前にすると温厚で命を重く扱うという一貫性があるではないか、となる。

 では、そのオフィシャルな冬嗣、つまり、政治家としての冬嗣を見た場合の評価であるが、これが難しい。

 政治家の冬嗣は間違いなく冷酷である。そして冷徹でもある。ただ、結果が伴っていない。近現代の歴史で言うと、性格としては朴正煕に似ている。ただし、朴正煕は国民生活の向上を実現させたのに対し、冬嗣の治世下では間違いなく生活が悪化している。

 これに対する反論もあるだろう。朴正煕は大統領として絶対的な権力を握ったが、冬嗣はあくまでも臣下の一人。結果を出せなくてもそれが冬嗣の責任とはならないのではないか、と。

 だが、奈良の勢力を壊滅したことで、朝廷権力は嵯峨天皇に集中することとなった。そして、冬嗣はその嵯峨天皇を操ることで、権力を発揮できるようになった。名目上はどうあれ、事実上、この時点の日本における最高権力者は冬嗣である。

 ただ、少なくともこの時点において、冬嗣が権力者としての責任を果たしているとは言い切れないのも事実。

 古今東西、権力者のもとには例外なく情報が集まるが、それを生かすかどうかはその人次第。有能な権力者は早々と掴んだ情報を生かすし、もっと有能な権力者は自分から情報を手に入れることに神経を払う。

 冬嗣はお世辞にもその情報を生かしているとは言えない。情報を手にすると言っても自分から求めてではなく向こうからやってくるのをただ受けるだけである、

 平城上皇の頃から明らかとなっていた出挙という国家経済システムの破綻も理解していたとは言い難い。ただ単に利率を下げれば解決すると考え、力ずくで利率を下げ、国家財政を悪化させている。

 また、不作の前兆として伝わった東北地方からの情報に対するアクションがゼロ。良くないことが起こるのではないかという思いを抱いたが、思いを抱くだけなら誰にでもできる。問題は、その思いを実現させるか否か。このときの冬嗣はその思いを実現できるだけの権力を持っていたにもかかわらず動いていない。そして、実際に地方から不作で税に支障が出るという情報が来てからやっと立ち上がる。

 不作は情報を掴んだところでどうこうなるものではないが、対策なら情報を早めに掴めたことでどうにか出来たはず。たとえば、平城上皇や仲成が奈良でしたように公共事業で失業問題にあたるといった方法で。

 ところが、立ち上がるのも遅ければ、対策も打ち出さず、議論はするが先送りになるばかり。結果、何もかもが後手後手に回り、被害を事前に食い止めるどころか、被害をかえって悪化させている。

 もっとも、それは冬嗣一人ではない。おそらく情報を掴んでいたであろう嵯峨天皇にも言えるし、冬嗣の取り巻きのおかげで職務を掴んだ貴族や役人にも言える。

 会議は日々繰り返されるが、具体的な対策は誰も打ち出すことができずにいた。

 不足分の税収を埋めるために有力者から税を召し上げようという意見も出たが、すでに限界まで負担させている状況で、有力者の中には公出挙が払えず、家財道具一式を残して夜逃げするという事態が頻発していることでアイデアは消滅した。

 寺院への課税も考えたが、寺院もまた所領の田畑の不作のため収入が減り、抱えている僧侶を修行や還俗という名目で寺から放逐し、寺院内の僧侶の数を減らしている状況では、寺院の維持に手一杯で税を納める余裕などなかった。これなど、現在の業績不振の企業のリストラと同じである。

 およそ二〇日後の一二月一八日、嵯峨天皇はやっと一つの行動を起こす。参議の一人である巨勢野足(こせののたり)を八幡大神宮に参らせ、神の力で今の苦境をどうにかしようとさせたのである。

 そして、翌日には七名の僧侶に読経を命じた。今度は仏の力を借りようということである。

 ただし、これらは何の結果も生まなかった。

 生み出したものがあるとすれば、不作に対して何もできず、神仏にすがらなければならないまで追い詰められている朝廷の姿を白日の下に晒したということだけ。

 具体的な打開策を打てないまま、翌弘仁二(八一一)年を迎えた。

 「正三位、藤原朝臣葛野麻呂、渤海使饗応役を命ず。」

 「御意。」

 「従四位上、藤原朝臣冬嗣、現業務は兼任の上、参議に命ず。」

 「はっ。」

 新年の儀式は何事もなかったかのように例年通りに行われ、年始恒例の人事刷新として貴族や役人の出世が公表された。冬嗣もこのときに参議へ出世している。

 「奴が参議とは世も末だ。」

 「嘆くな。参議にもなればボロも出ようというもの。反撃はそのときを待てばよい。」

 貴族たちは、冬嗣が参議となったことに反感と警戒感を抱いた。位からすれば冬嗣の参議は妥当だが、このときの貴族たちには、その妥当性よりも、冬嗣がついに自分たちの最後の牙城に乗り込んできたのかという思いであった。

 だが、冬嗣の主な関心はそこにはなかった。

 宮中が儀式や恒例行事に終始しているその間も各地から情報は届いており、そのどれもが絶望的なものばかりであることが、冬嗣の脳裏を支配していた。

 海の向こうからの渤海からの使者は、渤海でもやはり不作のため農民が土地を捨てる状況が頻発し、新羅からの難民が大挙して押し寄せていることを伝えた。

 陸奥・出羽の二ヶ国では特に不作の状態が激しく、大勢の農民が田畑を捨て逃亡していることを伝えてきた。

 不作による食糧不足は日本国内だけの問題ではないことが明らかになった。そして、民衆を救うための何らかの対策が必要だというのが貴族や役人の共通理解となった。

 ただ、財源がどこにもなかった。

 それでも嵯峨天皇は、そして冬嗣はできる限りのことをしたのである。

 ただ、空になった国家財政でできることは限られていた。

 二月五日、京都近郊にある無料の病院「施薬院」の設備を拡充させた。朝廷の所有していた薬草栽培用の田畑を施薬院に与えたのである。この結果、それまでは皇族と一部の貴族しか使用できなかった高価な医薬品が一般庶民の治療にも使用できるようになった。これには善行を積んでの御利益という目的があった。

 翌二月六日には死刑の一時停止を含む刑罰の減免が発せられ、このときに獄中にいた罪人に対する恩赦が同時に実行された。これもまた御利益を求める善行の一つとして意図されたものである。なお、このときは現在死刑判決が出ている者に対する執行の一時停止であって、死刑そのものの廃止となったわけではない。

 嵯峨天皇は信仰の力でこの苦境を脱しようとしていた。善行を積めば神仏の御利益で何とかしてくれるのではないかという思いである。

 必死にもがき苦しんで神仏に頼む姿は痛々しいが、神仏の御利益はなかった。

 全国の田畑から農民が次々と消え、食料を求めて各地を放浪しているという情報がほぼ毎日朝廷に届いてきた。

 冬嗣は現在の状況を調べるように命じるが、調べるだけで、流浪する彼らを救う手だては打ち出せなかった。

 特に、陸奥と出羽の二ヶ国の状態が最悪だった。

 農耕の浸透はまだ途中で、生活の中にそれまでの縄文時代の生活が溶け込んでおり、田畑からの収穫による食糧確保が関東以南と比べて少なかった。

 また、気候の問題もあり東北地方の田畑での収穫量は他の地域より少なかった。

 しかし、東北地方が農耕経済化し、それまでよりも安定する暮らしが実現しつつあるという情報は北海道に届いていた。

 という状態での環境の変動である。

 環境の変動はまず北海道の自然を襲い、北海道の狩猟・採集で暮らせなくなった人が津軽海峡を越えて本州にやってきた。昨年の二〇〇人という情報は偽りではなかったが、押し寄せてきた二〇〇人は第一陣に過ぎなかった。第二陣、第三陣と人の流入は続き、数百ではなく数千から一万以上というレベルで人が押し寄せるようになった。

 しかし、東北地方でも状況は大して変わらなかった。

 農業が浸透しきっておらず蓄えが少ない。

 環境の変動で自然界からの狩猟・採集が減る。

 そして、増える人口。

 瞬く間に食糧不足が東北地方北部に襲いかかり、食料を求める人の群れは群衆から軍勢に変わりつつあった。


 名目としては、京都の朝廷からの独立を目指す「反乱軍」であるが、役所を襲い、倉庫を襲い、村々を襲い、略奪の限りを尽くす、秩序無き武装強盗集団である。

 もはや役所の警察権力でどうこうなるものではなくなった。

 東北からは早急に軍勢を派遣するよう要請があり、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に再度東北地方に出向くよう命じる。

 だが、田村麻呂の体調がそれを許さなくなっていた。

 桓武天皇の忠臣として軍を率い東北地方を制圧してきた田村麻呂も、このときすでに五四歳になり、かつての風邪すら知らぬ健康は消え失せ、病のせいで身動きできぬほど衰弱していた。

 軍勢の派遣は国家財政にとって大きな痛手であったが、武装強盗集団を放っておくなどできぬ話である。

 「とにかく反乱軍の動きを制御することです。綿麻呂ならば任せられます。」

 床に伏したまま動けなくなった田村麻呂が指示を出し、冬嗣がそれを聞き取っていた。

 「反乱軍の動きを制するには二万六千の軍勢が要ります。ただちに集めてください。」

 「二万六千……」

 冬嗣は田村麻呂の出した数字に絶句した。今の朝廷にそれだけの兵士を出す財源などない。

 「それができなければ、今ここで反乱軍を制したとしても、時を経ずに第二第三の反乱軍が生まれます。」

 「第二第三を出さなければよいのでは?」

 「いかにして。」

 冬嗣は視線を逸らし何も答えなかった。

 田村麻呂は冬嗣が何か考えているらしいことはわかったが、そこから先は自分を必要としないことなのだろうとも悟った。

 この先は政治の世界。自分の世界ではない。

 田村麻呂は綿麻呂と違い、貴族に列せられようと武人であり続けようとつとめ、それを実践してきた。

 朝廷の雰囲気、特に会議が苦手で、可能なときは文屋綿麻呂を代理に立てて出仕させていることから、単に政治が苦手なだけとする考えもある。

 だが、軍が権力を握ったときの恐ろしさを知っていたというのも理由にあるのではないだろうか。

 田村麻呂は、どんなに理不尽な命令であろうとそれに従い、命令を果たせるように努力してきた。軍事力を握る自分がシビリアンコントロールに従うことこそ国内の安定と平和をもたらすという信念があったのだろう。

 田村麻呂は貴族でもある以上、宮中において発言することはできたはずである。だが、田村麻呂が何か意見を言ったのは後にも先にもたった二回、それも、戦場からの手紙だけである。ただし、その一度目の意見が緒嗣を通じて桓武天皇の対蝦夷政策を一八〇度変えるきっかけにさせ、二度目の意見が奈良の反乱を壊滅させるきっかけとなっている。

 発言力はあったのだ。ただ、それをほとんど使わなかっただけで。

 二月八日、日本国内の俘囚が東北地方の反乱軍に合流することのないよう、それまで移住者一代限りであった生活援助を俘囚の子にまで適用し、よりいっそうの生活の安定を図った。

 その上で、翌二月九日、田村麻呂の副官として戦場を渡り歩いた文室綿麻呂を筆頭に、佐伯清岑や、田村麻呂の弟である坂上鷹養らを東北地方へ派遣した。田村麻呂の進言では二万六千人の軍勢であったが、それだけの軍勢を整える余力は朝廷にはなかった。そのため、綿麻呂には兵士を現地で採用せよとの命令が下った。

 それでも、この派遣は、ただでさえ厳しくなっていた国家財政をよりいっそう悪化させることとなった。

 冬嗣は民衆の不満をそらす策に出た。

 今でもそうだが、民衆の不満の募っているときに、何か外のことに目を向かせるというのがある。

 大イベントを用意したり、スポーツの国内・国外試合に熱狂させたりというのがそれであるが、それよりもはるかに大規模で、かつ、長期的に目を向かせる手段がある。

 戦争。

 東北地方を制圧するための軍勢派遣は大々的に公表され、東北地方からの戦況の様子は刻一刻と朝廷に伝えられ、朝廷はその中で都合の良い部分を公表した。

 「陸奥国の蝦夷の反乱。死者多数、村は荒廃す。」

 「駐留軍苦境。至急援軍を要す。」

 「朝廷、文屋綿麻呂に反乱軍追討を指令。」

 「反乱軍追討開始。戦況は我が方に有利。」

 「反乱軍敗走。我が方の軍勢、反乱軍に占拠された村を解放。」

 民衆は「野蛮人」の蛮行に怒り、その制圧に歓喜した。

 だが、同時に悲劇を生み出した。

 俘囚への虐待がそれである。

 日本の元で暮らすことになった蝦夷は、そのまま東北地方に留まる者もいたが、まとまった単位で日本各地に移住させられ、そこで農地を切り開いて生活するよう命ぜられた者もいた。ただし、それが成り立つまでの間、生活は国が保証する。

 彼らは税が課されず、また、出挙と同様に種籾を受け取るが、それに対する返済義務がなかった。つまり、この不作にあっても暮らしが安定していた。

 彼らは日本人と溶け込んで暮らすのではなく、自分たちだけで集まって集落を形成していた。

 ただでさえ見下している相手が、自分たちと触れ合うことなく、暮らしの保証を受けた上に負担から逃れて生活している。

 そこへ飛び込んできた東北地方からのニュース。

 蝦夷の集団が武器を持って暴れ回り、東北に住む日本人が襲撃され、奪われ、殺されているという知らせは、ただでさえくすぶっていた反感に火をつけるに充分だった。

 飢餓に苦しむ日本人にとって、格下であるはずの俘囚が何かを持っていることすら怒りを呼ぶことだった。

 何もかも捨てて逃げ出すことが出来た俘囚はそれだけでも幸運だった。

 俘囚のために渡された生活物資は跡形もなく持ち去られ、飢えを満たすために使われた。

 俘囚の開墾した土地は日本人のものとなった。

 そして、多くの俘囚が殺され、レイプされ、奴隷として売られた。

 自由の身になれた俘囚も元の土地に住むことは許されず、集落から追放された。

 日本各地で血の惨劇が繰り広げられた。

 その情報は二月中には朝廷に届いていた。

 にも関わらず、冬嗣が行動したのは三月に入ってから。

 蜂起した民衆が俘囚を襲い尽くした三月一一日になってやっと、俘囚の現状を調査するよう命令を出したのである。

 これは、あまりにも遅すぎる。

 だが、民衆の不満をそらすために暴れさせるだけ暴れさせておいて嵐が収拾するまで待っていたとしたら話は変わってくる。

 冬嗣が狙っていたのはそれだった。

 戦争を起こして民衆の不満を外に向け、国内の安定のために内部の俘囚にも敵意を向けさせ、さらに、負担の大きい俘囚の数そのものを減らす。

 それが冬嗣の考えた不作への対処だった。

 この冬嗣の態度に身をかけて抗議した者がいた。緒嗣である。緒嗣は早急な俘囚の保護を主張し、受け入れられない場合は全ての職を辞すと表明した。ただし、これは却下されている。

 東北では蝦夷が日本人を襲い、それ以外では日本人が蝦夷を襲う混乱は次第に収束してきた。

 綿麻呂の軍勢が次第に北上し、それまで京都の権力の及ばなかった岩手県北部に侵攻。また、反乱軍に襲われた村を救済し失業を解消すると同時に、今後の軍勢の移動を容易にするため、道路工事を中心とする公共事業を展開する。これは大伴今人が山陽地方(資料には「備?国」とある。二文字目は記録に残されていない)に赴任していた頃の経験に基づくものであり、このときのルートは現在の国道四号線とほぼ合致する。

 山を崩し、森を切り開く工事は難航した。また、蝦夷も日本人もそのような肉体労働に反発していた。

 しかし、民族に関係なく動員して道路を開削することで便利な暮らしが実現することが理解され、互いの協力関係が相互理解を呼んで蝦夷と日本人との融和が図れた。

 つまり、東北の占領地帯では民族間の対立が多少は解消され、互いに融け込む平和的な収束が計画され、一部ではあるが実現してきたのである。

 しかし、東北より南の地域での収束は、間違えても平和とは呼べぬものだった。

 襲うべき俘囚が居なくなったがための収束である。

 逃げ出した俘囚の数を掴みとることは出来なかったが、蜂起による被害は調べることが出来た。

 不完全ではあるが、奴隷として売り飛ばされた俘囚を解放することも、集落に閉じこめられレイプされ続けてきた俘囚を解放することも出来た。

 だが、それだけだった。

 それまでの集落に戻っても、家は焼かれ、田畑は奪われ、生きる手だてが何一つ残されていなかった。

 生き残った俘囚の日本人へ対する怒りは激しいものがあった。

 平安京に詰めかけた者の中に俘囚は居なかった。

 そこは俘囚に対するもっとも激しい差別を見せる場所であった。寄り立つものなど何もない人間でも、他人を見下すことによる最後のプライドは存在する。自分を賛美し他人を見下す極端な思想に走る人間は右も左も関係なく人間社会の敗北者。

 しかし、最後のプライドにすがろうと、生きる手だてのないことはどうやってもごまかせない。

 ある者は生きるために犯罪に走り、またある者は生きるために身体を売った。一杯の粥をめぐって殺し合う光景さえ起こるようになった。

 奈良が健在であったらこうした人は平安京ではなく平城京に流れ、平城上皇や寺院が救っていたはずである。だが、奈良を壊滅させた今とあってはそれもできない。

 平安京に寺院はほとんどない。それは、困窮者を助けるコミュニティがないということでもある。

 今までは、大問題であることを頭では理解していた貴族であっても感覚で理解してはいなかった。だが、今はもう違う。

 貧困は目の前で起こっている問題なのである。

 四月一一日、失業対策のテストケースとして河内国(現在の大阪府)に三年間の緊急援助が実施されることとなった。堤防工事に失業者が動員され、食料と給与の原資として銭三〇〇貫が貸し出された。

 四月一四日、借り入れ前のムギを馬の飼料として刈り取ることが許可された。ムギが実るのを待ってから収穫するよりも、青々とした草の段階で刈り取って馬の飼料として売るほうが倍の収益になるためである。これは、生活に困った農民の生活を少しは楽にする効果はあったが、そのすぐあとに訪れる食糧危機を悪化させる原因ともなった。この許可は弘仁一〇年三月一四日に禁止されるまでのおよそ八年間続いた。 

 四月二二日、国家財政悪化に伴う増税が議論される。平城天皇の時代に暫定的に下げられてきたコメ以外の税率を、律令に定められた税率に戻すというものである。これには賛否両論噴出した。

 国家財政の悪化の結果、国で救える最貧困者を救えなくなっていた。だから増税だと。

 今ここで増税したら最貧困者がさらに増えることになる。だから税は上げないと。

 これに対する結論は五月二日に決まった。畿内についてはかつての税率を復帰させ、それ以外の地域では、名目上の税率は元に戻すが絹などの布による代納を認めるというものである。

 五月二〇日、朝廷は貧困者に対する食料の無料支給を決定した。

 こうして順を追うと、不作に対する経済苦境に対し、あの手この手で対応していることが読みとれる。

 しかし、対応するだけで解決とはなっていない。

 五月二三日、坂上田村麻呂死去。享年五四歳。

 桓武天皇に忠誠を尽くして東北地方の制圧を進め、奈良の反乱の鎮圧にも功績のあった武人も、病には勝てなかった。

 田村麻呂の死の情報を綿麻呂が掴んでいたのかどうかはわからない。だが、掴んでいたところで綿麻呂の軍勢の勢いが止まることはなかった。

 軍勢は次第に北上を続け、反乱軍はその勢いを弱めていった。

 この時点の綿麻呂の軍勢はおよそ一万五千人。京都から連れていった兵よりも現地で集めた兵のほうが多かった。だが、この人数では、一丸となって攻め込むことは可能でも、制圧した場所を守るための人員を割くことは困難。

 やはり田村麻呂が主張した二万六千人は必要だった。

 そのためにはさらに一万人以上の人員を増やさねばならない。しかし、京都から軍勢を送ってもらえる余裕など無い。そこで、人員はさらなる現地調達となる。

 綿麻呂はまず、自分たちの軍勢は、蝦夷を攻める日本軍ではなく、武装強盗集団を壊滅させるために結成された、民族の垣根を越えた連合軍であると宣言した。

 その宣言に共鳴したか、縄文人の中には綿麻呂の軍勢に加わる者も現れた。もっとも、戦乱に巻き込まれて生活が苦しくなった者が、戦乱のどちらか一方、それも優勢な方に身を投じることでとりあえずの暮らしを計画することは珍しくない。

 綿麻呂はそうした者を歓迎し、武具と食料を与え、それがさらなる縄文人の軍勢加入を呼び寄せた。

 だが、それでも軍勢は足らない。

 そこで、嵯峨天皇に働きかけ、綿麻呂の軍勢に参加して兵役を務めた者に限り、三年間の納税を免除すると布告させた。俘囚は既に免税であるため、ターゲットは東北地方に入植した日本人である。

 これに興味を引かれたのか、軍勢は綿麻呂が望む人数に増えた。

 綿麻呂は、自分たちを民族の垣根を越えた連合軍であるとしたが、新たに軍勢に加えた者を、日本人は守備、縄文人は攻撃と分けている。つまり、新たに加わった日本人を集落にとどめて、集落警護の軍備に就かせている。

 これには二つの効果があった。

 まず、農業に慣れた日本人が残るほうが次の収穫をより多く見込めること。農業に不慣れな縄文人の兵士を常駐させるより、農業に慣れた日本人の兵士を常駐させるほうが、戦闘ではないときに農民として働かせた場合の効果が高いと判断してのことであった。

 そして、二番目、こちらのほうが重要だが、綿麻呂は日本各地で繰り広げられていた血の惨劇を知っていた。東北地方では両民族の相互理解による友愛を深めているが、それは理屈であって感情ではない。仲間の受けた苦痛の前には理屈など簡単に吹き飛ぶ。

 惨劇を起こさない方法はただ一つ、両者を接近させないことである。

 東北地方の日本人は少数派。俘囚に対する日本人の攻撃と同じことが東北で起こるとすれば、立場は逆転し、被害者は日本人となる。そのため、守るべきは日本人の住む集落。

 その日本人の集落を日本人が守る分には何も起きない。その兵士がその集落出身ならもっと安心である。

 だが、蝦夷の兵士が日本人の集落に派遣されたらどうか。

 結果は、守るべき兵士と、守られるべき農民との戦闘。

 日本人が蝦夷に殺されたこと、蝦夷が日本人に殺されたこと、これを忘れるなというほうが無理である。

 一方、綿麻呂の軍勢に攻められ続けている反乱軍は壊滅状態にあった。日本の勢力内に侵攻していたのが逆に自分たちの勢力を縮めることとなり、内部分裂さえ起こすようになっていた。

 軍勢結集前、日本と蝦夷との事実上の国境となっていたのは岩手県北部から秋田県北部にかけて。それより南では反乱軍であった軍勢も、それより北では日本の侵略に抵抗する義勇軍であった。

 ところが、自分たちを守るはずの義勇軍が、こともあろうに蝦夷の集落を襲ったのである。

 彼らには兵站という概念も、根拠地からの補給路という概念もなかった。だいたい、自分たちで充分な食料を用意しての行軍でもないし、食糧確保の手段を計画しての行軍でもない。ろくな食料も持ち歩かずに行動し、必要とするものは全て現地調達。日本人の集落を襲うときの名目は日本への抵抗であっても、実際は自分たちの空腹を満たすことが目的だった。

 綿麻呂の軍勢の前に敗北を重ね、北へ北へと逃れている間もそれは同じだった。ただ、それまでターゲットとしていた日本人の集落はもう無かった。

 そこにあるのは自分たちの故郷の集落。

 それを彼らは襲ったのである。

 これが反乱軍に内部分裂を生んだ。

 反乱軍の中にはその集落出身の者もいる。そして、その集落に住む仲間のために軍勢に参加した者もいる。

 故郷を襲うべきか否かの議論はされた。そして、襲うべきではないとする一派と、襲うべきとする残りとの対立が生じ、襲うべきではないとする一派が綿麻呂の元へと逃れてきた。今は戦闘中。逃れる場所があるとすればそれは敵の軍勢の元しかない。

 綿麻呂の元へ逃れた者のリーダーであるツルキは、故郷であるオラシベ(岩手県二戸市浄法寺町)がかつての仲間たちに襲撃されたこと、襲撃した者のリーダーがニサテ(岩手県二戸市仁左平)出身のイカコであること、現在はトゥモ(青森県七戸町)を本拠地とし、周辺の蝦夷を集めて軍事訓練を積み、綿麻呂に対抗しようとしていることを伝えた。

 これは綿麻呂にとって天からの恵みとも言える情報だった。

 蝦夷の軍勢の恐ろしさはそのゲリラ戦法にある。

 いつ、誰か、何名で、どのように襲ってくるか全くわからない。誰が指揮しているのかも、どこが本拠地なのかもわからない。そのため、常に注意を払わねばならない上に、攻めても攻めてもこの戦乱のゴールが見えない。これは兵士たちに大きなストレスとなって襲いかかっていた。

 それが、敵のリーダーの名前も、敵の本拠地もわかっただけでなく、向こうがゲリラ戦法を捨てて真正面から対決する意志を示しているのである。

 兵士を襲っていたストレスは消え、ゴールを目の前にするかのような解放感が広がった。その最後の戦闘をすればこの戦争は終わるという感覚とともに。

 一方、朝廷に伝わる情報は希望を抱かせないものばかりであった。

 水害にみまわれ、田畑が水没し家を失う地域があった。

 かと思えば、干害で井戸も川も枯れる地域が出てきた。

 被害の原因も状況も異なるが、どちらも生活の手段を失った農民たちが、とりあえずの生活を求めて放浪生活に放り出されたことでは共通していた。

 しかし、被災者に対する援助は全く無かった。心無いからでなく、援助にまわせる国家財政が無いからである。

 朝廷ができたのは被災者の税の一部免除だけである。

 国の援助のないことは被災者を失望させるだけだった。

 この命令が発せられたのは八月一一日。

 この時期に自然災害に対する減税処置命令が下ったということは、この年の収穫もまた期待できないものに終わるという可能性が高まったということである。

 嵯峨天皇はさらに神仏を頼るようになった。いや、その奇跡以外に頼るものなど無かったというほうがよい。

 嵯峨天皇は娘の一人である仁子内親王を斎内親王(神社に仕える皇族の女性)とし、伊勢神宮に派遣し祈祷させた。このときの仁子内親王はまだ七歳。純真無垢な少女のほうが祈祷にふさわしいと考えられた結果である。

 だが、これも危機から逃れる手だてではなかった。

 それどころか、九月一二日には大型の台風が京都に現れ、その暴風雨による深い爪痕を残した。

 翌日には台風の被災者へのコメの支援が実施された。

 地方の被災者は減税だけで対処しながら、京都の被災者には援助する。これは、貴族たちの目に届く範囲での被害か否かという違いであると同時に、まもなく収穫のときを迎えるという時期だからこその対応だろう。

 最後の最後まで取っておいたコメを放出しても、もうすぐ秋の収穫がある。そうすれば国庫はリセットされる。そう考えたからこそ、米倉が空になるまでの援助をしたのではないだろうか。

 しかし、結論から言うとそれは誤りだった。

 東北の綿麻呂から物資不足を訴える手紙が来た。

 綿麻呂の軍勢は反乱軍と違い、集落を襲って略奪するということがない。それどころか、襲われた集落の復興のための物資提供までしている。ただ、それは立派なことだが、補給を常に受け続けることができる環境が整っていなければできない話。

 その行為は、京都の朝廷の勢力下ではまだ可能であったが、国境を越えて進撃している今とあっては期待できない。

 さらに、京都を襲った台風は勢力をなおも続け東北地方にも姿を見せた。東北各地で水害や土砂崩れが発生したのである。

 綿麻呂はその復旧支援に人を割かなければならなくなった。

 そのために窮状を訴える連絡を出したのに、回答はつれないものだった。

 「米倉はもう尽きました。綿麻呂に送るなど無理でございます。送ることができたとしても、その途中の窮状を救うことなく通り過ぎさせると、反発どころか内乱が起きかねません。」

 「どうにかならぬか。」

 「どうにもなりませぬ。」

 冬嗣を批判することの多かった葛野麻呂も、このときは冬嗣に同調している。

 ここにいる誰もがその状況をわかっていた。わかっていたがどうにもならなかった。送るような物資の余力などもう無くなっていた。

 それでも討議は繰り返されたが、出た結論は、必要とする兵を現地で調達せよという命令だけだった。

 ただし、嵯峨天皇の名で記した文書であっても、それを口にしたのは冬嗣であるということを匂わせた。

 綿麻呂と冬嗣の面識がないわけはない。

 ただ、その関係は間違えても友好的なものではなかった。

 一個人としては、冬嗣に対する感情の悪化は奈良の反乱のときまで遡る。平城上皇派と見なして逮捕し牢に入れたのが他ならぬ冬嗣。そのときは田村麻呂の取りなしで釈放されたが、綿麻呂の冬嗣を見る視線はこのとき確実に悪化していた。

 貴族の綿麻呂としての悪化はその後、冬嗣が宮中で見せる、葛野麻呂をはじめとする上位で高齢の貴族に対する、礼儀も何もあったものではない図々しい態度、さらに、嵯峨天皇をまるで操り人形のように操って権力を握っている現状が拍車を掛けたものだった。これは頭では理解しようと感情が許せるものではなかった。

 それに輪を掛けて、武人の綿麻呂にとっても悪化したのがこのとき。

 それまで田村麻呂の副官としてやってきた綿麻呂は田村麻呂を尊敬していた。田村麻呂が朝廷との交渉を苦手としているのを見るや、綿麻呂は自分が田村麻呂の代理として朝廷で熱弁を振るった。

 その真面目で清廉潔白な生き方は息苦しく感じられることもあったが、武人として賞賛される要素の全てを兼ね揃えていた田村麻呂に従う兵士は多く、今の綿麻呂の軍勢が進軍できているのも、自分が率いているからではなく、亡き田村麻呂の右腕であった人が率いているからに他ならない。

 だが、田村麻呂の戦闘が成果を出したのは、それらの要素に加えて、桓武天皇が後ろで全面サポートしていたからである。

 田村麻呂が申し出る前に桓武天皇は必要とする全てを田村麻呂に届けさせていたし、朝廷で熱弁を振るう綿麻呂の言葉にも耳を傾け、最大限の援助をしていた。

 ところが、もう桓武天皇はいない。軍事のバックアップという点で桓武天皇の果たしてきた役割を現在では冬嗣が一手に担うようになっているが、担っているだけで応えているわけではない。

 綿麻呂とて現在の国家財政の窮状を知らないわけではない。

 理屈はわかる。コメの余裕など無い。

 だが、それにしてもやり方が冷たすぎる。

 現地調達の命令に綿麻呂は怒り狂った。

 そして思い出した。

 自分の上に立っているのは、平城上皇を責め立て、薬子を自殺に追いやり、仲成を殺した男なのだと言うことを。

 そして、その男は、自分の意見に耳を傾けるどころか、「現地調達せよ」という命令を発した。

 これは綿麻呂を決心させるに充分だった。

 もはや冬嗣は信頼できない。

 戦争の何たるかも理解していないし、この混乱にあっても何ら対処していない。対応はしているが、それはどう見ても結果の伴うものにはなっていない。

 自分自身も貴族であり朝廷の裏表を知り尽くしている綿麻呂は朝廷の政務がどのようなものであるかを知っている。そして、その能力も把握できている。それが、桓武天皇の頃はおろか、仲成が政権を握っていた頃よりもはるかに劣っているのが今の朝廷だと結論づける根拠となった。

 そして、これから先、自分たちの窮状を訴えてももはや何ら回答も得られないだろう。ならば、今の自分に出来ることは、今の戦力でできるだけ早く戦争を終わらせることのみと考えた。

 そして、こう結論づけた。

 冬嗣は無能だと。

 神社や寺院に足を運んでの神仏頼みにはメリットがある。

 実際にその場に行くことで、都ではわからない地方の状況をこの目で見る機会を得ることである。

 「もはや一刻の猶予も無きこと。わかっておりますな!」

 「伊勢もか……」

 「伊勢だけではない! 本朝の全てがそうなのだとなぜわからぬ! こうしている間にも、一人、また一人と命を失っておる。なぜ救うと言わぬ!」

 冬嗣はわからないわけではない。ただ、どうにもできないことだった。

 仁子内親王の伊勢参詣は、御利益はもたらさなかったが、京都から伊勢神宮に至るまでの道中の現状を冬嗣に伝えるというメリットはもたらした。仁子内親王に付き随って伊勢までの往復を果たした者らが語る道中の様子は、冬嗣にとって貴重な情報となった。

 それは、伝え聞き、書状で目にしていた以上のものであった。

 農村という農村がことごとく貧困に襲われ、田畑という田畑がことごとく不作となり、食料は無く、人々は痩せこけ、飢餓と疫病で次々に人が死んでいる。

 内親王の行幸を迎えることすら伊勢にとって過重な負担となり、結果、伊勢からの納税はどうあがいても無理だと断言せざるを得なくなった。

 「それは仲成の爪痕だ。」

 「な……」

 ところが、冬嗣はそれを前年の奈良の反乱による負担の後遺症と断言した。そして、一一月九日、伊勢国に対し、奈良の反乱の後遺症と行幸を迎え入れたことに対する褒美と合わせるかたちで、今年の納税を免除するとの布告を出した。

 彼らが絶句したのは、冬嗣の持ち出したその理由である。

 あまりにも突拍子もない理由に二の句が告げなかった。

 もっとも、伊勢に対する免除に何らかの理由を設定しないと他のどの国の税も免除しなければならなくなる。ただでさえ破綻している財政においてそれは許されなかった以上、伊勢だけが特別であるという何らかの理由付けが必要だった。

 「民に米無く、蔵に米無し。わかっているだろうが。」

 「それはわかっておる。だが、それをどうにかするのがそちの役目にあろう!」

 「米は天から降ってくるものではない。救えるだけの米など無い。本朝にも、外国(とつくに)にも。」

 明日の食料もなく、明日の希望もなく、ただただ生きているだけの日々を過ごす京都の民衆にとって、東北地方からもたらされる戦果だけが喜びであった。

 何もできずにいる朝廷も、綿麻呂からもたらされる戦果を伝えることで民衆の不満を薄めることに成功していた。

 そして、そのときはついに訪れた。

 一一月一三日、朝廷は勝利を宣言した。

 東北地方の蝦夷は綿麻呂の前に全面降伏し、日本の国境は津軽海峡に達した。

 本州からは蝦夷がいなくなった。日本の暮らしを受け入れない者は北海道へと逃れ、残った者は日本人とされた。人々の意識の中ではまだ残っていたが、これから先、「蝦夷」という言葉は北海道に住むアイヌを指す言葉になり、東北地方に住む者は誰であれ日本人となった。

 この日、縄文時代は終わった。

 「正四位上文屋朝臣綿麻呂に従三位を授ける。」

 綿麻呂はその功績が認められ従三位に昇進し、冬嗣より上の位になった。

 綿麻呂に従って軍を率いた者たちもそれぞれ昇進し、五位の位を授けられて貴族に列せられる者が数多く出た。

 民衆はその発表に狂喜乱舞し、飢えも忘れるほどであった。

 綿麻呂の派遣からは一年経っていない。だが、桓武天皇の命による遠征開始から数えると今年で三八年になる。

 その間、長い休戦期間もあり、相互交流もあったが、人々の意識としては、日本はその間、東北地方に住む蝦夷に侵略され続けていたのである。地図を眺めれば日本のほうが蝦夷を攻め込んでいるのだが、感覚としては、日本人が殺され、日本人の村が荒らされ、日本のものが奪われている日々という感情であり、軍勢派遣はあくまでもそれに対する抵抗だった。

 蝦夷は憎しみであり恐怖であった。東北から遠く離れた土地でも、当時の日本たちが言う「野蛮人」の侵略はいつ起きてもおかしくない恐怖であった。

 それが無くなったことは誰もが共有できる喜びであった。

 だが、綿麻呂自身は手放しで喜んでいなかった。

 東北地方の犠牲と負担が大きすぎた上に、流入のために人口が増え、結果、不況と貧困がほかのどこよりも吹き荒れていたのだから。

 戦場となった陸奥や出羽では、開墾されたばかりの農地が荒らされたため、もとの狩猟・採集生活に戻る者も出てきた。だが、環境の変動もあって、今の東北地方の山林や海や川といった自然の恵みは、増えた人口を養えるほどではなかった。

 また、より豊かな暮らしをしようと南へ移住する者が続出した。南に行けば豊かな農地もあるし、今よりもいい暮らしができるという考えも広まっていた。

 しかし、これでは今回の戦乱のきっかけと同じ状況である。武器を持った集団ではなく平和的な移住だとしても、移りこんでこられる側にとってみれば、来てくださいと願い出ているわけではないし、この不作のせいで彼らを支える余力もない。歓迎されない集団が押し寄せるのでは、遅かれ早かれ衝突するのは目に見えている。

 綿麻呂は占領軍の司令官としての立場で、東北地方に住む者の移住を厳禁し、自分たちの集落に留まって農耕生活をするように厳命する。その代わり四年間は税を免除するとした。それまでは綿麻呂の軍に参加することが免税の条件であったが、参加有無に関係なく免税となったのである。

 その上で、綿麻呂は全軍の八割を除隊させ、故郷へ帰した。すでに戦闘は集結し、あとは治安維持に必要な軍勢がいればよいという判断である。

 これは現実的な判断である。

 気候のせいで南よりもともと収穫が劣る上に、農業が浸透してから日も浅いため、元々税率が低かったほどである。そこにやってきた不作。これは納税に耐えうるレベルではない。

 さらに、自分たちの維持費用も馬鹿にならない。この時点で綿麻呂の元には二万人の兵がいたが、その人数を養えるだけの余裕はもう無かった。物資が少なく兵士への配給を減らしている状況であり、必要としない兵士は一刻も早く除隊させる必要があった。

 だが、これらは綿麻呂の独断専行であり、綿麻呂に与えられた権限を大きく越えるものだった。

 その情報を聞いた冬嗣は苦言を呈している。

 しかし、冬嗣の苦言を聞き入れる綿麻呂ではなかった。この人は田村麻呂と違い、シビリアンコントロールの効かない武人である。

 その上、綿麻呂は功績により従三位に上り詰めている。いくら冬嗣が権力を掴んでいようと、人事権を握っていようと、自分より目上である綿麻呂は簡単にどうこうなる身分ではなくなっていた。

 東北と京都の間で手紙が往復した。

 冬嗣は独断専行を非難した。ただし、どうせよという具体案は何も記されていなかった。

 綿麻呂は自分の主張を冬嗣に対して展開した。事後承諾せよというものである。

 戦闘らしい戦闘のほとんどない奈良の反乱でさえ伊勢の免税の名目になった。一方、こちらは三八年間の戦闘である。

 伊勢に嵯峨天皇の命による斎内親王の行幸の負担があるなら、こちらは嵯峨天皇の命による軍勢派遣の負担がある。

 だから、綿麻呂の権限による免税は、理屈も備わった上での現実的な政策であった。

 「やむを得ませぬ。伊勢を免税としたなら、陸奥も出羽も免税となります。」

 「しかし、四年は多すぎるのではないか。」

 「陸奥も出羽も戦乱にさらされ荒廃しております。四年は必要でございましょう。」

 結果、冬嗣は綿麻呂の意見を受け入れた。

 それが兵士たちには不評であった。

 免税は軍勢に参加した者のみが得られる報酬のはずだったのに、軍勢参加の有無に関係なく適用されるようになった。風雨に晒されながら戦地を転々とし、武器を持って血を流し続けた今までの苦労はいったい何だったのかという思いが兵士達に蔓延した。

 しかも、自分たちの五人のうち四人が軍をクビになるというのである。生活苦から軍に参加した者もいる。帰るべき故郷を失った者もいる。それなのに、綿麻呂は軍を辞めて故郷に帰れと命令するのみ。

 戦闘で傷ついた者への保証もなく、軍を辞めたあとの再出発の手段も用意しない綿麻呂は、戦闘が終わる前は兵士からの尊敬と信頼を集めていたのに、戦闘が終わった今になって兵士の尊敬と信頼を失ったのである。

 一二月一一日、綿麻呂帰京。

 こうした帰京は戦闘をともにした兵士も一緒であることが普通なのに、綿麻呂の周辺にはほんの少しの兵士しかいなかった。

 京都の民衆は歓呼を持って綿麻呂を出迎えたが、田村麻呂の時のように一万人以上の兵士が続いていたのとはあまりにも違う光景に愕然とした。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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