この時代の日本人は白河法皇が圧倒的権力者として君臨していること、藤原忠実の後を継いだ関白藤原忠通は前任者よりも白河法皇の言いなりになる関白であること、議政官は白河法皇の命令を法にするための儀式の存在になっていることを自覚していた。
鴨川の東に生まれた白河の大邸宅とその奥にそびえる九重塔は白河法皇の勢力を示すものであり、法制化を求める陳情も内裏ではなく白河に向かっている。内裏で働くより白河で働くほうが役人としての成功であり、白河法皇にいかに近づくかが貴族としての成功である。
白河の地に成立した大邸宅は白河法皇の私邸である、ということになっているが、実際にはかなり高度な役人組織が存在している。この役人組織のことを院庁(いんのちょう)という。院庁そのものは宇多上皇の頃には既に存在しており、また、院庁そのものではないが院庁に相当する職務を務める者は嵯峨上皇の頃にはもう確認できる。白河法皇は、これまでの上皇や法皇のもとに存在した院庁を自分のもとでも構築したということになっている。表面上は。ただし、規模が違う。
院庁で働く者の多くは、生まれの地位こそ低いが優秀な者で、かつ、野心と実利を計算できる者である。
彼らは役人であるから位階を持つ。位階を持っていれば位階に応じた給与は貰えるがそれで充分と考える者は、ゼロではないというレベルで表現するほどしかいない。ほとんどの役人は位階に応じた役職を求め、位階と役職の双方で給与を貰うことを考えている。また、給与体系そのものも、位階に応じた役職に就くことを前提としたものとなっている。位階だけでは満足な暮らしとはならず、役職給が加わってはじめて位階に応じた生活水準となるという仕組みだ。ところが、位階は絶対評価。現在の感覚で行くと自動車の運転免許のようなもので、合格者数に上限などなく合格点に達していれば誰でも運転免許証を取得できるのと同様に、その位階に相応しい職務がこなせると判断されたら、人数制限無しに位階は上がるのだ。その一方で、役職には限りがある。こうなると、位階に見合った役職の空きはそうは現れないし、何の役職にも就けないよりはマシだと考えて現在の自分の位階より低い位階でも就ける職務を希望するようになる。役職の数は限られているから、本来であれば従三位を対象としている役職に正二位の者が就くなどという事態が起こり、従三位の者が正四位下の職務、正四位下の者が従五位上の職務を務めるというようにズレていく。これが繰り返されると、位階だけあって何の役職も得ていない貴族や役人が増え続けることとなる。
そうした者に白河法皇が報酬と引き替えに白河の地での院庁の仕事を提供したらどうなるか? 一般に、朝廷を離れて朝廷以外の仕事をすることは役人のキャリアアッププランにおいてデメリットとなる。その間は何の仕事をしていなかったと判断されて人事考課でマイナスになるのだ。それは院庁も例外ではなく、白河法皇以前の院庁は、朝廷での職務を断念した者か、あるいは個人的に心酔している上皇や法皇への奉仕というイメージを伴っていた。いかに院庁にて上皇のために働いていると言っても、何の仕事をしていないために評価を得られない人よりも次の役職を得るのにマイナスになってしまうのだから、院庁を選ぶ人はそうはいない。
しかし、朝廷外の仕事であっても人事権を持つ白河法皇のもとでの仕事となると話は変わってくる。院庁での勤務実績が評価を得るどころでは終わらず、白河法皇の鶴の一声で朝廷において大抜擢されることもある。さらに言えば、報酬は朝廷に残るよりも白河法皇の元に行くほうが高くなる。人によっては院庁でのキャリアを積んだ後で朝廷に移ってキャリアを積み、また院庁に戻って、さらに朝廷に移ってというキャリアアップを築き上げるケースも見られるようになった。院庁がそれだけの組織へと拡大したということである。
さて、院庁はどういう仕組みになっていたのか?
院庁に勤める役人のことを、総称して院司(いんのつかさ)という。元々は他の職務との兼職が通例であったが、白河法皇の頃には院司に専念する者が当たり前になった。
まず、上皇や法皇の周囲で雑務に当たる者がいる。これを院御随身(いんのみずいじん)、または御随身(みずいじん)という。元々は上皇の身辺警護のために天皇が派遣した一二名の近衛府の武人であり、上皇が出家して法皇となると二名を除いて御随身は元の職務に戻ることとなっていたが、時代とともに、上皇の出家後も御随身が全員継続して法皇のボディーガードにあたるようになり、白河法皇の頃になるとボディーガードだけでなく日々の雑務を遂行する職務になっていた。白河法皇の結成させた北面の武士は、制度上は院御随身の一員ということになっており、その給与も院御随身として支払われていた。
院御随身がボディーガードをはじめとする武的な役割を担っていたのに対し、文的な役割を担っていたのが院蔵人(いんのくろうど)である。本来であれば蔵人になる資格を持っていながら役職の空きが無いために蔵人になることのできなかった者を院庁で採用したのがこの職務のスタートであるが、白河法皇の頃になると立場は逆転し、院蔵人になれなかった者が朝廷で蔵人になるというケースが当たり前になっていた。
院御随身と院蔵人の面々の上司として六位相当の貴族が就任したのが院主典代(いんのさかんだい)である。院庁において文書の作成や記録の作成に当たる職務であり、白河法皇が朝廷に送り届ける文書を白河法皇に代わって記すのも院主典代の職務であった。また、院庁での勤務を希望する者の採用や、朝廷に出向いて優秀な貴族や役人に声を掛けて院庁にスカウトするのも院主典代の役割であった。
院主典代の上司であり、院庁のナンバー2でもあるのが院判官代(いんのはんがんだい)。院庁の文書には院判官代の印鑑が押され、署名が記される。かつては五位の貴族、または六位の役人のうち、朝廷での出世を断念した者が就任する職務であったが、白河法皇の時代になると四位の貴族が就任することも珍しくなくなった。この職務を終えた後で朝廷に戻るのが貴族としてのキャリアアップとしての新しい光景となったのである。
院庁のトップが院別当(いんのべっとう)。この職務は上皇や法皇の側近中の側近が務める職務であり、その職務は公卿補任にも記されるほどである。公卿補任とは、議政官の一員であるか、あるいは三位以上の位階を持つ貴族のみがその名を残すことができる記録であり、公卿補任に名がある者が務めるというだけでも院別当の価値の高さがわかる。それでもかつては、かつて議政官の中枢であった者が政界を引退する前に務める、あるいは、三位以上でありながら議政官に入れずにいる者の職務であったのだが、白河法皇の時代になると、朝廷内の官職が現在進行形でかなり高い者が兼職する光景へと変貌し、そのために議政官の議決を白河法皇が操ることが可能であるというシステムとなった。
白河法皇の意見はほぼ間違いなく議政官で可決される。ただし、可決されるまでの間はあくまでも誓願であり、白河法皇が法令を作って欲しいと訴えているというニュースは広まっていても、議政官で可決されるまでは正式な法令ではない。しかし、法令となることが決まっている内容について、まだ正式な法令ではないという理由で無視するというのは現実的な話ではない。院庁が白河法皇の要望であるとして議政官に対して提出した誓願そのものが、白河法皇の定めた法令という扱いを受けるようになる。
白河法皇の要望は、口頭で朝廷に届けられるわけではなく、文書で届けられる。
もっとも軽い文書は「院宣(いんぜん)」という。元来は上皇や方法が話したことを院司の誰かが書きとどめ、その書きとどめた者の署名で届けられる文書であるが、手順の簡単さから緊急事態において用いられることが多くなった。
一般の文書は院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)で、この文書には白河法皇の署名がある。なお、白河法皇直筆というわけではなく、文書を記すのは院主典代であることが通例であり、院判官代、院別当のチェックを経て、白河法皇が署名をしてはじめて正式な文書となる。
同じ法案についてこの二種類の文書の両方を朝廷に送ることがある。まずは院宣を送り、次に院庁下文を朝廷に届けるのである。朝廷では院宣を受け取ることで白河法皇の当初の意図を推し量り、院庁下文を受け取った後に正式な法案審議に入るという手順をとっていた。また、院宣も、院長下文も一般公開される文書であり、世間に対する公表としては、院宣の時点で概略の公表となり、院庁下文で詳細の公表となった。たとえば寺社のデモを取り締まるよう白河法皇が朝廷に訴え出た場合、まずは院宣で白河法皇が寺社のデモの取り締まりを計画していることが公表され、次いで院庁下文にてどの寺院がどこで開催するデモを、誰にどのように取り締まらせるのかが判明するという具合にである。
この仕組みを見るとわかるが、院庁は徹頭徹尾、白河法皇の独裁を強固なものとするための組織になっている。院庁では全てが白河法皇の意見と意思に基づいており、院司は白河法皇の公私のサポートをし、白河法皇が政務に専念できるようにし、白河法皇の意見と意思の文書化と実現化にをするのが仕事であったのだ。
一見するとメチャクチャな仕組みに見えるかもしれないが、二〇世紀、そして二一世紀に生きる現代人も似たようなものを経験している。一党独裁だ。
ナチスや共産党といった一党独裁の国では、官僚や閣僚になるのと、一党独裁の党の党員や幹部になるのと、同じだけの価値を持つ。ときには党員としての価値のほうが高いこともある。正式に政府の一員として活動しているわけではないのに、その行動は政府をも動かし、政府の決定に匹敵する、あるいは政府の決定を上回る決定となることもある。
白河法皇の作り上げた院政も、突き詰めて考えれば、朝廷の枠に収まっていない政治団体の活動である。その意味で現在の政党と大差は無い。しかし、白河法皇の時代の院庁は一党独裁の国における独裁の党に匹敵する権威を持っている。しかも、白河法皇の発言はすなわち国の法律となる。
どこかで見た光景である。
日本国でどこかで見たような光景が展開されていた頃、中国大陸では動きが見られた。
金軍が遼に侵攻し、遼の王宮がズタズタになったのである。
遼の皇帝である天祚帝は、一一二二年三月七日、首都燕京を脱出。
残された遼の皇族は、耶律大石、李処温、張琳、蕭乾といった面々に天祚帝の叔父である耶律淳を補佐させる形で三月一三日に新政権を作り上げ、金の侵略に抵抗することとした。耶律淳を新皇帝である天錫帝とし、公式的には逃亡した天祚帝は遼の一部を構成する地域の藩王ということになった。ただし、天祚帝は自分こそが皇帝であると宣言し、叔父の皇位就任を認めなかった。ここに遼は分裂し、国家の終焉は目の前に迫ることとなった。
首都燕京に残って金に対抗してきた者も旗色が悪くなっていることは否応なく自覚できていた。そんな中、六月二四日に天錫帝が六一歳で亡くなる。天錫帝の五男の耶律定が新しい皇帝に任命され、天錫帝の未亡人である蕭徳妃普賢女が国政の補佐をした。ただし、崩れゆく国にあってこの体制はあまりにも弱かった。
大陸の向こうで金が遼に侵略し、遼が滅亡寸前であるというニュースが伝わってきたとき、日本は何をしていたのか。
藤原忠実が不在で、源俊房は左大臣を辞している。
内大臣藤原忠通が関白に就任したが、体制はこれでも弱いと感じられた。
同様の感情を抱いたのは院庁も同じであり、院司を送り込むことが前提となってはいるが、議政官の大幅入れ替えの指令が白河法皇から飛んできたのである。
保安三(一一二二)年一二月一七日、人事の大幅なシャッフルが行われた。
関白内大臣藤原忠通、関白左大臣に就任。
右大臣源雅実、太政大臣就任。
大納言藤原家忠、右大臣就任。
権大納言源有仁、内大臣就任。
以上、四名の大臣が総入れ替えとなった。
さらに、権大納言は五名中四名、中納言は二名とも、権中納言は八名中六名、参議は五名中四名がこの日に就任した。特に参議に新しく加わった四名は全員、院司からの転属組であった。
人事のシャッフルは翌年に向けた布石であった。
通常、年が明けてしばらくすると、人事考課の結果である除目(じもく)が発表されるのだが、保安四(一一二三)年の一月にそれはなかった。とは言え、それは異例なことではなかった。前年一二月一七日に、国外情勢の急変に対応するために人事のシャッフルがあったのでその影響と誰もが考えたし、これまでの歴史を振り返っても、大規模な人事異動のあとの除目は静かなものに終わるか、あるいはそもそも除目そのものが行なわれないことが普通である。
ほとんどの人は特におかしなことと考えなかった。
ただし、一つの噂は広まっていた。
白河法皇が、鳥羽天皇を退位させて、顕仁親王を即位させようとしているという噂である。
もっとも、その噂を聞いた人はあまりにも無責任な話だとも考えた。ただでさえ、国外では遼という隆盛を極めた国家がまさに滅ぼうとしている局面である。前年末に大幅な人事のシャッフルをしたのもそのためであることを考えると、ここで鳥羽天皇を退位させることは無益どころか有害でしかない。いかに白河法皇が無茶をする人であろうと、このタイミングでそのような暴挙には出ないだろうと誰もが考え、そして、噂を笑い飛ばした。
そうした楽観論を白河法皇は粉々にした。
保安四(一一二三)年一月二八日、顕仁親王を皇太子とすると同時に、鳥羽天皇が退位したのである、いや、退位させられたのである。このときから顕仁親王こと崇徳天皇の治世が始まる。崇徳天皇の統治の最初は、鳥羽天皇の退位に合わせて関白を辞任した藤原忠通を崇徳天皇の摂政に任命したことに始まる。
保安四(一一二三)年二月一九日、崇徳天皇が正式に即位。大極殿において即位礼が執り行われ、崇徳天皇は摂政藤原忠通に抱かれて高御座に昇った。その様子からもわかるとおり、崇徳天皇はこのとき、数えで五歳、満年齢で三歳である。幼児が国政のトップになるという、安定性に欠ける政治体制を白河法皇は作り出してしまったのだ。
藤原忠実は京都を離れて宇治の地に住まいを移し、鳥羽上皇も表舞台から姿を消した。議政官は白河法皇の送り込んだ者が占めており、白河法皇と対立するどころか、白河法皇に多少なりとも意見する者もいなくなった。
白河法皇が圧倒的な独裁者となったとほぼ同時に、日本海の向こうから最新情報が寄せられた。
遼の首都である燕京は金の占領下に置かれたが、遼の亡命政権が各地に誕生し、それぞれが金に対して抵抗運動を見せているというものである。
抵抗運動は燕京を含む燕雲十六州全体に拡がっているが、その命運は既に見えている。
それより問題なのは、軍事同盟を結んでいるはずの宋と金との対立である。宋と金との同盟関係では、遼の領土の大部分は金の領有が前提となっていたが、燕雲十六州は宋の領土とすることになっていた。宋と遼との間で二〇〇年に渡って領土問題ともなっており、幾度となく宋は燕雲十六州の奪還を目指していたのだが、奪還どころか宋は遼の前に敗北を重ね続け、燕雲十六州の中の都市である燕京が遼の首都として発展していくのを黙って見つめているしかできなかった。
その燕京を含む燕雲十六州が二〇〇年ぶりに宋の元に戻ってくるというのは宋にとって慶事であったはずだが、忘れてはならないのは、燕雲十六州に攻め込んでいるのは金であって宋ではない。戦って血を流しているのは金の兵士であって宋の兵士ではない。無論、宋の兵士も何もせずにいるわけではない。遼に対して戦闘を挑んでいるし、戦いの期間そのものは金の軍勢より宋の軍勢のほうが長いほどである。ただ、遼に対して戦闘を挑むも敗れ続け、燕雲十六州の制圧など夢のまた夢になっていたのだ。
日本としては、宋との軍事同盟締結を拒絶したことが正解に終わったことを意味した。国家滅亡の危機を迎えている遼を相手にしているのに勝利を掴むこともできず、さらに言えば遼を滅ぼしてもすぐに金との戦争になるであろう宋との間に同盟を結んでいては、この戦争に巻き込まれるところだった。そこまで見通していたと言うよりも、幸運が重なったと言うべきか。
関白を辞めなければならなくなった藤原忠実は表舞台から姿を消した。
退位に追い込まれた鳥羽上皇も表舞台から姿を消した。
そしてもう一つ、表舞台から姿を消した勢力があった。
清和源氏だ。
忘れ去られてしまったのではない。白河法皇が武門を求めるとき、この頃になるとほぼ例外なく伊勢平氏に、特に平忠盛に指令を飛ばすことが多くなったのである。そして、平忠盛はその期待にある程度は応えた。そう、ある程度は。
平忠盛がいかに奮闘しようと、平忠盛の指揮できる軍勢は少なく、その武力も弱い。純粋に軍事力だけで考えれば表舞台から姿を消したとは言え、清和源氏のほうが圧倒的に強力だった。世間の人は、清和源氏に対する不満を抱いてはいても、清和源氏の持つ武力を忘れてはいなかったのである。
清和源氏の武力を忘れてはいなかったのは白河法皇も同じである。保安四(一一二三)年七月一八日、延暦寺のデモ集団が京都に押し寄せるという情報が飛び込んできた。白河法皇は、いつもなら平忠盛に出動を命じるところであったが、この日は平忠盛と源為義の両名に出動を命じた。当初は平忠盛だけが対峙すると想定していたデモ隊は日吉社神輿を奉じて意気揚々と入京を企てたが、デモ隊が目の当たりにしたのは平忠盛と源為義の連合軍であった。
平忠盛だけなら相手にできると考えていたデモ隊であるが、源為義もいる、いや、主力が源為義率いる清和源氏である軍勢相手には、ただただ撃退されるしかなかったのだ。デモ隊は神輿を鴨川に投げ捨てて退散し、デモ隊の一部は祇園社、現在の八坂神社に立てこもった。
さすがに宗教施設に立てこもったなら追いかけてくることはないだろうと考えたデモ隊であったが、源為義率いる清和源氏は祇園社を包囲した上で、逃げ込んだデモ隊の引き渡しを要請した。このままでは祇園社が戦場になると考えた祇園社の者と、身の危険を感じている延暦寺のデモ隊、そして逃げ込んだデモ隊の引き渡しを求める源為義ら清和源氏との間で争いとなり、神殿が壊れる事態となった。神殿は後日建て直すこととなったが、延暦寺のデモ隊の損害は神殿の損害よりも大きかった。延暦寺のデモ隊が損害を受けたということで、延暦寺のデモ隊の残りの面々が園城寺のデモ隊の襲撃を受けるようになったのだ。
祇園社の神殿が破壊されたことは衝撃であったが、このときの源為義の行動を正当なものであったと評価する人がいた。
表舞台から消されたはずの鳥羽上皇である。
鳥羽上皇は、デモ隊の行動そのものが許されざることであり、祇園社に逃げたことそのものが許されざることであると宣言。神殿の破壊は逃げ込んだ延暦寺のデモ隊側に責任があるとし、神殿再建費用を延暦寺が全て負担すべきであると主張したのである。
この主張を比叡山延暦寺はどのような思いで受け止めたであろうかは容易に想像できる。ただし、延暦寺にとって鳥羽上皇は既に過去の人であり、敵の一人として把握することはあっても直接の攻撃対象と考えることすらなかった。
しかし、延暦寺は大切な点を見落としていた。
源為義が鳥羽上皇に接近したという一点である。
白河法皇が院庁を軸にして院政の官僚システムを作った。ただし、そのシステムは白河法皇個人に由来するものであり、白河法皇亡き後も継続されるものではない。そして、白河法皇は既に七〇歳を超えている。いつ何があってもおかしくない年齢だ。白河法皇の身に何かあったときを迎えた瞬間、誰が白河法皇の地位に就くのか? 現在のままで行けば鳥羽上皇である。現在はまだ権力を掴めていないが、鳥羽上皇が白河法皇に代わって権力を掴むことがあれば、掴んだ後で鳥羽上皇に仕えるようになった者よりも、掴む前から鳥羽上皇のもとで仕えてきた者のほうが、より大きな権力を手にできるようになる。
おまけに、この時点の源為義の官職は低い。何しろ検非違使にすらなっていない。同年の平忠盛が貴族に列せられ国司まで勤めるようになったのとは大違いである。この境遇の差を利用すれば、鳥羽上皇は源為義を側近の一人として迎え入れることも不可能ではなくなる。白河法皇の院司が朝廷権力に匹敵する地位を持つなら、これから先、鳥羽上皇の院司が朝廷権力に匹敵する地位を手にしてもおかしな話ではない。
鳥羽天皇は一五年の在位期間を経て退位した。桓武天皇の平安遷都から二五名の天皇が誕生し、その在位期間の平均は一三年七カ月だから、一五年の在位期間は統計だけで考えれば平均より長い。
しかし、鳥羽上皇には一点のみ、例外中の例外がある。鳥羽上皇はこのとき二〇歳なのだ。五歳で父である堀河天皇の死に直面し、悲しむ間を持つことも許されず、何もわからないまま帝位に就き、摂政の藤原忠実、祖父の白河法皇らとともに天皇として政務にあたり、自分がしていることは何なのか、政治とは何なのか、そして、自分は天皇として何をすべきなのか、何の影響から脱却すべきがわかるようになったときに、まさに脱却すべき影響の手によって退位を命じられた。
二〇歳と言えば、本来ならこれから人生をどうしようかを考える年齢である。しかし、鳥羽上皇は二〇歳でリタイヤをした、いや、祖父の手によってリタイヤさせられたのだ。しかも、その祖父というのがまさに脱却すべき影響そのものである。祖父の元から離れて自立しようとしていた矢先に祖父の手でリタイヤさせられたのであるから、これで祖父に対して鳥羽上皇が好感情を抱くであろうか。
自分の治世中に飢饉を発生させたのは、通常であれば政治家として大きなマイナス評価となるところなのであるが、世間の人はその責任を鳥羽天皇に求めなかった。世間の人も、鳥羽天皇も、何が原因なのかわかっていたのだ。白河法皇が格差縮小を理由として展開した荘園拡大が、生産性の悪化を生じさせた現在の苦痛を生む原因となっているのである。ゆえに、直近でなすべきは荘園拡大を食い止めて縮小へと向かわせること。確かにそれは格差の拡大を生むが、飢餓に比べれば格差のほうがまだマシだ。
ただし、白河法皇の荘園に手を付けるということは、白河法皇に逆らうことを意味する。白河法皇はそれを許すような人ではない。実際、鳥羽天皇は退位させられ、まだ幼い我が子に皇位を譲らされている。これで白河法皇の独裁は継続が決まり、同時に、格差縮小と引き換えの貧困はさらに悪化することが決まった。
この鳥羽天皇とほぼ同じ境遇を迎えていたのが、この頃から鳥羽上皇のもとに参じるようになった一人の有力者、すなわち、前関白の藤原忠実である。このとき四六歳。二〇歳よりは歳上ではあるが、やはりセカンドライフを考えるような年齢ではない。鳥羽上皇と同様に父の死によっていきなり矢面に立つこととなり、政治家としてやるべきことがわかるようになり、ここでもやはり白河法皇に逆らうしか正解はないというという結論に至ったところで、関白を辞めなければならなくなった。あるいは、置かれた状況は鳥羽上皇よりも深刻かもしれない。上皇ならば権力を取り戻すチャンスはあるが、第一線を退いた藤氏長者が復権したという例はないのだ。藤原道長にしろ、藤原頼通にしろ、隠居後は、無視できる存在ではないにせよ、第一線に返り咲いて強い影響力を発揮することは無かった。藤原忠実はその前例の無いことをしようとしているのである。
この二人は同じ結論を導き出した。
白河法皇の死後に、白河法皇の作り出した仕組みを利用して権力を掴み、その上で白河法皇の政治を否定する。皮肉にも、白河法皇の作り上げた政治システムを利用することが、白河法皇の政治を否定するもっとも簡便な方法になっていたのだ。
鳥羽上皇が自分の死後を狙っての権力掌握を狙っていると知った白河法皇は、露骨なまでの自派優遇と、鳥羽上皇の院庁に向かった面々の排除を始めた。特に着目を集めたのが太政大臣源雅実であった。源氏初の太政大臣となった源雅実は白河法皇に意見を述べることが許された数少ない人物であったが、そして、白河法皇も源雅実に関してだけは逆らおうとも許さざるを得ない状態であったのだが、この頃になると太政大臣源雅実が明らかに白河法皇の下から離反し、鳥羽上皇の元に姿を見せるようになっていたのである。
藤原忠実は過去の人であり、源為義は有力な武人であっても議政官の一員ですらないが、太政大臣源雅実の離反となると話は変わる。太政大臣も議政官の一員であることに変わりはないが、太政大臣は議政官の議決に対する拒否権を有している。つまり、鳥羽上皇のもとに姿を見せるようになった太政大臣源雅実を通じて、鳥羽上皇は議政官の議決に対する拒否権を発動することができるようになったのである。
もはや白河法皇と鳥羽上皇との対立は隠せないものになっていた。
ただし、鳥羽上皇と白河法皇との間には、切り離すことのできない一つの繋がりがあった。鳥羽上皇の中宮である藤原璋子である。鳥羽上皇のもとに嫁いでも白河法皇との連絡は取り続けており、ときには鳥羽上皇とともに白河法皇のもとを訪れている。これだけを見れば祖父と孫夫婦との家庭円満をイメージさせる話であるが、白河法皇はそういう人ではない。鳥羽上皇と白河法皇の間には常に緊張感が漂い、それは、白河法皇の寵愛を受けていたはずの藤原璋子が仲介しての訪問であろうと緊張が解けることは無かったのだ。
私的な訪問でさえこうなのだから、多少なりとも政治的なことが絡むと緊張はより深まる。たとえば源為義に対して延暦寺のデモを防いだ功績を認めるべきではないかとする鳥羽上皇に対し、白河法皇の回答は何も無かった。鳥羽上皇にできたのは、ようやく見つけた検非違使の空席の一つを源為義に渡すことだけであった。
同年の平忠盛は既に貴族となり国司も務めたのに、源為義はようやく検非違使である。源為義は自己のこの待遇に不満を持ったようであるが、白河法皇が睨みを利かせていることに加え、犯罪容疑者をかくまってきたことによる庶民からの不満を考えると、現状を受け入れなければならないと自分で自分を説得させる必要もあった。
そしてこれは源為義にとってとばっちり以外の何物でもないのだが、この頃、源為義の父である源義親を名乗って、海賊として暴れる者、また、山賊となって暴れ回る者が日本各地に登場していたのだ。源為義はその都度、それは父を偽称する者の犯行であって自分には関係ないと訴えなければならなくなっていたのであるが、それは同時に、源為義の父は海賊となって平正盛に討ち取られたのだと思い出させられることにもつながっていた。
保安五(一一二四)年四月三日、天治への改元が発表された。崇徳天皇の即位に伴う改元であり、即位から一年に渡って改元されなかったことのほうがおかしな話であった。この時代は即位と同時に新元号に改元するというわけではなく、新天皇の即位後も前天皇の定めた元号を使い続けることは珍しくなかったが、一年というのは長すぎる。今までなぜ改元しなかったのだという思いを抱くほうが普通であった。
その改元以降の天治元(一一二四)年の記録を見ると、物の見事に白河法皇の独裁が機能している。人事を見ても、白河法皇に逆らう者はいない。経済政策も白河法皇の政策がそのまま展開している。鳥羽上皇のもとに白河法皇への反発心を抱く者が集まっていたが、鳥羽上皇の権威はこの時点ではかなり弱いものがあった。
ところが、視点を移すと、もう一人の独裁者が見えてくる。
平泉の藤原清衡だ。
白河法皇の独裁政治が庶民生活の目に見えた向上という政治に求められる唯一のことを果たしてきたとは言いがたい。飢饉を発生させたことなどは政治家として失格とするしかない結果であるとは言え、独裁政治が結果を出すことはある。白河法皇の独裁政治が結果を出さなかったのであって、トップダウンの統治そのものは成功したら成功をさらに加速させるという効果も持っているし、何より、問題把握から命令までが早く、問題が起こっても早期に解決する効果を持つ。
こうした独裁政治の成功例を平泉で展開していたのが奥州藤原氏の藤原清衡だった。新都市平泉は多くの人を集め、奥州藤原氏の支配の及ぶ地域では比較的平和で豊かな暮らしが実現していたのである。東北地方に生活を求めて移住する者も多く、その中には滅亡寸前の遼からの亡命者も含まれていた。
新しい大都市として目に見えて発展してきていた平泉に、天治元(一一二四)年、新しいランドマークが誕生した。中尊寺金色堂がそれである。一説によると、それは八月二〇日のことであるという。金箔によって装飾された豪奢な建物は多くの人を圧倒させると同時に平泉に住む者の誇りともなり、その豊かさをアピールする効果も呼び寄せた。特に、国家滅亡の危機を迎えている遼や、新興国としてまさに羽ばたきつつある金といった海外の国々からの視線は強いものがあった。
視点を中国大陸に移すと、ここでも大きな動きが見られた。
遼と並んで宋にとっての脅威であった西夏が、金に臣属するようになったのだ。
金、遼、宋の三カ国の争いの中にあって、西夏の立場は不明瞭なところがあった。宋と同盟を結ぶでなく、かといって遼の側に立つでなく、遼に攻め込んだかと思えば、遼の亡命政権も受け入れている。立場が鮮明ではない。
一つ一つはその時点における自国にとっての最大利益を求めた結果であるというのは理解できる。この時代の日本だって同じことをしているのだから他国のことは言えない。しかし、途中に海があって物理的に隔てられている日本と、陸地で国境を接している西夏とでは置かれていた状況があまりにも違いすぎる。隣国の戦争において日本と西夏とで同じ選択肢を選んでも、陸の国境と海の国境とでは国の安全という点で厳然たる違いが存在する。
金の勢力が極めて強くなり、もはや遼の滅亡は時間の問題というタイミングで、遼の亡命政権を受け入れて保護していることは、金の矛先が次は西夏に向かうという未来を予期させる話になる。そこで西夏が選んだのは、亡命政権の金への引き渡しと、国家全体の金への服従であった。それこそが、戦争をしている国を隣にしている国家が平和を手にする方法だった。この方法は金にしてみれば悪い話ではない。西方の国境を安定させるのはありがたい話であるし、亡命政権が存在していては遼の再興を許してしまう。遼を攻め落としたあとのことを考えると西夏の行動は金にとってありがたい話であった。
金にとってありがたい話は、現在進行形で滅ぼされようとしている遼にとって最悪な話であるが、宋にとってもやはり最悪な話となった。
この頃には海上の盟が有名無実化し、遼の滅亡後は金と宋との対決が目に見えていた。宋はここで西夏を誘い込むことで金と対抗する手段を探っていたのであるが、その手段が潰えたのである。過去に二度、同盟を申し入れた日本は、このときは選択肢にも登場しなかった。日本が遼からの亡命者を受け入れていることは、宋にとって、敵国とは言い切れないにしても、味方とは計算できない勢力であると判断するに充分であった。
ただし、日本の貿易船は宋に寄っている。宋の東シナ海沿岸には、九州や沖縄のみならず、東北地方からやってきた船までもが常に停泊しており、人やモノの行き来が頻繁に繰り返されていたのである。現在の青森県にある当時の国際交易港であった十三湊や、奥州藤原氏の本拠地である平泉の遺跡からは、京都で発掘されるよりも多くの宋の時代の物品が発掘されている。
天治元(一一二四)年一一月二四日、藤原璋子を待賢門院とすることが公表された。
律令に従えば、天皇の后の公的地位は夫の退位と同時に喪失することとなる。こう書くと女性天皇のときはどうするのかと思うかもしれないが、その点については後述するので、ここでは女性天皇を考えないで話を進める。
公的地位が失われると言っても、ついこの間まで天皇の后であった女性であり、何もかも取り上げられて無一文で放り出されるわけではないが、公的地位を持たない女性であることに違いはない。公的地位があれば朝廷から給与が支給されるし邸宅も用意されるのだが、公的地位が無いと給与も無ければ邸宅も無くなる。
そこで選ばれたのが、院号である。
退位した天皇は必ず上皇となるのではない。退位した天皇に院号が与えられてはじめて太上天皇、すなわち上皇となり、上皇となった後に出家して法皇となる。ちなみに、生前に退位した天皇が院号を受けられなかった例は日本史上一度も無いので、生前に退位した天皇のうち、上皇とならなかったケースはない。また、院号を受ける前に亡くなった場合でも必ず院号が贈られている。ただ、制度としては院号があってはじめて上皇となり、朝廷から公的地位を得ることとなる。
現在の我々は白河法皇や鳥羽上皇と記しているが、この書き方にするよう定められたのは実は明治時代のことで、それまでは白河院や鳥羽院というのが呼び名であり書き方であった。上皇や法皇という書き方にするように定められた明治時代に、今後、退位した天皇について記すときは、出家していなければ上皇、出家していれば法皇と書き分けるよう定められ、現在の歴史用語としては院ではなく上皇や法皇のほうが広く普及しているので本稿でもその書き方に従っているが、歴史資料には白河院や鳥羽院という記されかたが一般である。
漢字の「院」の元々の意味は「警備施設の施された大きな建物」であり、天皇が退位すると退位後の邸宅と警備の人員、そして、生活費とすべき年次予算が朝廷から与えられることから、退位後の邸宅を贈られること、すなわち、院号を受けることが上皇になることを意味するようになった。
院号は本来、退位した天皇にのみ与えられるものであったが、一条天皇の代から、天皇を経験しなかった皇族が院号を受けるケースが登場してきた。初例は正暦二(九九一)年に皇太后藤原詮子に対して贈られた東三条院の院号で、このとき以後、天皇の母や祖母、また、上皇の后にも院号が与えられることが通例となった。藤原璋子が待賢門院となったのも、上皇の后にして天皇の生母という、院号を受けるに相応しい資格を得ていたからである。
ただし、東三条院は文字通り東三条殿という建物が邸宅として提供されていたのであるが、待賢門院の場合は建物の提供はなく院号のみとなっている。これは待賢門院が差別されたからではなく、白河法皇の時代になると建物の提供を伴わずに院号を与えるのみとなるのが通例となっていたからである。
では、女性天皇の場合はどうなるのか?
女性天皇の夫は妻の退位後に院号を受けるのかと考えるかもしれないが、実は、院号という概念に女性天皇という想定は全くなされていないのである。
この時代から見て最後の女性天皇である称徳天皇の逝去から三百四十四年が経過している。平安時代の人も、奈良時代まで女性天皇が存在していたことは知っている。しかし、それは過去の話という概念であり、この時代の人は女性天皇のことを全く考えていなかったのだ。皇位は男性が継承するものであり、女性が皇位に就くという概念は無かったのである。
と同時に、女性の社会的地位の低さの問題もあった。通い婚であるこの時代、父が亡くなり、夫に見捨てられた女性は、間違いなく貧困を極めた。身寄りの無い老いた女性の境遇としては小野小町の老後の凄惨さが語り継がれているが、藤原忠実の継母である藤原信子もなかなかに凄惨な境遇である。藤原忠実の父である藤原師通は当初、藤原全子を妻とし息子の忠実をもうけていたが、藤原摂関家内部の対立の解消のためとして離婚させられ、藤原信子と結婚した。この継母である藤原信子に対する藤原忠実の態度は極めて冷たく、藤原忠実の息子で藤原信子とは祖母と孫の関係にあたる藤原頼長の日記には、晩年の藤原信子の様子を現在では放送禁止用語となる言葉で書き記している。
そのような困窮に至らせないためには、父や夫に頼ることなく生きていけるだけの生活基盤を女性でも築けるようにする必要があったのだが、男女差別が現在と比べものにならないレベルで露骨であるこの時代、女性が生活基盤を築く方法など無かった。女性で荘園領主になった例もあるにはあるが、それは特筆すべき例外であって一般的では無かった。寺院に身を寄せることができれば幸運で、性を売る女性となる者もいた。
退位した天皇の后に対する公的地位を考えるというのはこうした女性の社会的地位の低さとつながっている。かつて天皇の后であった女性が生活に困窮するというのは、社会福祉問題であると同時に国家の誇りにも関わる話だったのだ。
ちなみに、これまでの日本国の歴史には八名、重祚を含めると合計一〇代の女性天皇がいるが、四名が生涯独身、残る四名は夫を亡くして独身となってからの即位であり、女性天皇の夫という存在は日本史上一人も存在しない。
白河法皇の独裁政治は、一言で言うと手詰まりであった。
景気が悪くなっていて回復する見込みはない。
何かをしなければいけないという思いから焦りは生むが、焦ったところで何も生まない。白河法皇のこれまでの政策の積み重ねが景気の悪化の原因であり、景気を回復させるためには白河法皇のこれまでの政策のほうを否定しなければならない。白河法皇は薄々感づいていたようであるが、白河法皇が自分の過去を否定することは断じてあり得なかった。
景気回復のためには何かをしなければならないが、自分のこれまでの政策を否定することもできない。このような人は、自分の政策の否定ではなく、自分の政策の不徹底に原因を求め、また、不真面目という理由で自由を縛り、一見するともっともらしい、しかし、実現するとなると息苦しさを伴う政策を展開する。
天治二(一一二五)年、まずは殺生禁断令が再確認された。永久二(一一一四)年二月一四日にペット飼育禁止令が出たが、この時点ではまだ生計の手段としての漁までは禁止されていなかった。しかし、このときの命令では、生活のためであろうと神社および皇室に献上する魚を捕る網を除く全ての漁網は全て処分するよう命じられ、処分に応じない者は漁網を没収するとしたのである。ただし、処分まで一年の猶予を与えている。
狡猾なのは、新しく法律を作るのではなく、かつて天武天皇が発令した法を蘇らせたことだ。法を作るのでは「これまでこれで生活していたのに、生活手段を取り上げられては生活できない」という反発を受けるが、法が存在しているなら、それまでの生活が否定されるようなことであろうと、法を守ってこなかったという理由で取り締まりが可能となるのだ。
白河法皇がなぜ殺生禁止を打ち出したのか、であるが、白河法皇自身が出家した僧侶ではあるから、僧侶としての義務である殺生禁止に目を付けたというのは想定できる範囲である。ただし、それだけが理由とは思えない。
経済の視点に立つと、白河法皇の行動も、同意はできないが理解はできるのである。水産物というのは京都における最高級品だ。京都は海から遠く離れているから新鮮な海産物などない。あるとすれば日持ちをさせるために加工した海産物か、鴨川や琵琶湖をはじめとする京都周辺の淡水の水産物ということになるが、どちらもこの時代では高級品で、庶民がそう簡単に口にできるものではない。荘園拡大による格差是正を図ってきた白河法皇が、京都における格差是正を求めて高級品の取り締まりにあたったというなら理解できる話である。
殺生禁止の次は緊縮財政だ。
景気の問題を無視して国家予算のことだけを考えれば、緊縮財政というのは歴史上何度も見られた手段ではある。IMFが破産寸前の国家に対して援助をするときの条件とするのも緊縮財政だ。緊縮財政とは、一言でまとめると無駄な税の使い道をするなという指令なのだが、このキャッチフレーズが曲者だ。無駄な税を使わないのであるから一見すると税負担そのものは増えず、納税者はさほど痛みを感じない、あるいは全く痛みを感じないと思うかもしれない。しかし、税が足りないのだから出費を抑えるというのは、税によって仕事を得ている人を失業させ、税支出の見直し以上の税収不足を招いてしまうのだ。待っているのは、失業か、失業しなければ給与の減額。どちらも望んでいた結果ではない。断じて。
荘園はもともと失業者を吸収するために生まれた経済体である。そして、荘園は増えている。ただし、荘園が増えていることと失業をより一層吸収することとは別の話になってしまっていたのである。
この時代、平安京に住んでいたのはもともと平安京に住んでいた人だけではなく、地方で食べていけなくなったために京都に流れてきていた人もいたのだ。何しろ飢饉が起こっている。食べていけなくなれば流れていくのは都市、それも大都市である。この時代の日本で食べていけなくなった人の流れ着く都市と言えば平安京のことであり、京都の執政者は京都に流れ込んできた貧しい人達に食料を配るだけでなく、職業を与えることで、京都に身を置いて、あるいは京都から離れたにしても手に職を持った状態で誇りを持って生活できるようにしていたのである。
それを白河法皇の緊縮財政は停めてしまった。
二〇一五年に日本語訳も発売されたマーク・ブライス氏の著書「緊縮策という病」は、人類がこれまで何度となく繰り返してきた緊縮財政が、その国の財政にどれだけの悪影響を与えたか、どれだけ貧困に陥ったかを記した一冊である。この著書にもある緊縮財政による失敗のパターンは一様であり、その一様は白河法皇の出した緊縮財政も含まれる。
景気が悪くなっているのであるから支出を抑えて財政健全化を図ろうと白河法皇は考えたのであろうし、現在の日本国の財政事情を白河法皇が知ったなら、そして、予算を編成する権利を得たならば、問答無用で支出削減による債務の縮小を選んだはずだ。
マーク・ブライス氏が証明したように、緊縮財政によって国内の景気が改善した例は人類史上一度も無い。白河法皇はその一度も無い例を計画したのかもしれないが、結果は数多くの失敗例の一つとして名を刻んだだけであった。後に待っていたのは失業者の増大である。
それでも、中国大陸で起こっていたことに比べればまだ平和だと言える。
既に風前の灯火となっていた遼が、一一二五年、正式に滅亡したのだ。遼の領土はそのほとんどが金の領土となり、遼の住民は多くがそのまま金に組み込まれ、一部は日本へ、一部は高麗へ、一部は宋へ、一部は西夏へ逃れた。
そうした亡命遼人の中で特筆すべきは、遼の王族の一人である耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を建国した人たちである。西遼は間違いなく遼の継承国家の一つなのであるが、移動距離が尋常ではない。燕京、現在の北京市を首都としていた遼が、現在の国で言うと、モンゴル、ウィグル、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンを経て、トルクメニスタンにまで移動したのである。文化圏で行くとそこはもうムスリム文化圏であり、その中にいきなり、中国と同様の元号を使用し、トップは皇帝を称し、仏教を信仰する人たちが権力を握って、中国奪回を図る国が誕生したのである。歴史にIFは厳禁と言うが、これから一〇〇年後、世界を席巻することとなるモンゴル帝国によって滅ぼされなかったならば、遼は念願通りに東へと軍勢を進め、かつての首都である燕京を取り戻したかもしれない。
一方、宋は遼の事実上の滅亡という最良の結果を得たはずであったが、すぐに新しい現実に直面した。遼を滅ぼした金が、これまでの遼と同じ、あるいはそれ以上に強い圧力を伴った新国家として宋と直面することとなったのである。
金はさっそく、海上の盟に基づいた作戦分担の結果を宋に求めた。
答えはわかっていた。宋は遼の攻略のために兵を送りながら何もできず、戦勝はほぼ全てが金の軍事力によるものだったのである。同盟の誓いを守ったのは金であって宋ではない。このため、金は宋に対して違約金を求めたのである。
この違約金に対する宋の選択ミスが、翌年さらなる不幸を生むこととなる。
天治二(一一二五)年一二月五日、京都を大火が襲った。折からの南から北へ流れる風に乗り、炎は北へ北へと広がって行った。
こうした予期せぬ災害のときは執政者の力量が問われるものであるが、白河法皇はどうだったか?
結論から言うと、論外。何もしなかったのだ。
家族を亡くした人を思いやることも、住まいを無くした人に仮の住まいを用意することもなく、火災などなかったかのように振る舞ったのだ。火災発生ということで自動的に出動がかかる検非違使たちが被災者の救出にあたったし、住まいを失った被災者を一時的に収容するよう建物を開放したのだから、朝廷としてならば、火災においてとるべき対応はとっている。しかし、それは充分な支援ではなかった。ただでさえ緊縮財政で予算が削られ、予算削減が人員削減を生み、支援にあたる人の数そのものが減ってしまっていたのである。
時期は一二月、しかも時間は亥刻というから、現在の時制に直して午後一〇時。火災から逃れることに成功してもこの時期のこの時間はさぞ寒かったであろう。
白河法皇が何もしなかったこのときの火災を、当時の史料は「古今比類なし」と述べたのち、出火元である五条坊門油小路から貴族の邸宅街である二条河原に至る地域の、およそ九〇町が灰になったと書き記している。出火元は庶民街でも燃え広がった先は貴族街であったこともあり、確認できるだけで六〇もの貴族や役人の邸宅が全焼したとある。
このとき焼け落ちた建物の中には、聖徳太子によって建立されたという言い伝えもあり、嵯峨天皇の命令で国家鎮護の役割を担うこととなっていた天台宗頂法寺の本堂、通称「六角堂」も含まれていた。国の平和を願うための建物が灰となったことが当時の人にもたらした不安は相当なものがあったろう。
白河法皇はこの不安に対しても無反応であった。六角堂の再建は全く話に上がらず、再建の請願をしても院庁は動かない。朝廷に言うようにと伝えるだけである。しかも、ただでさえ緊縮財政が敷かれているので、朝廷もどうにかできるわけではない。
結局、庶民が費用と労力を出し合って再建することとなった。このときより、六角堂は朝廷の手を離れた庶民のための建物へと変化することとなる。
この火災に対して白河法皇が何かしらの行動をとったことが確認できるのが、火災から一カ月以上を経た天治三(一一二六)年一月二二日のことである。
一カ月以上を要したが、これでやっと被災者の支援がはじまるかと思ったら、そうではなかった。白河法皇のとった行動は大治への改元である。たしかに改元にふさわしい規模の災害であったとは言え、被災者が求めていたのはそんなことではない。亡くなった家族を追悼することであり、生き残った自分たちの暮らしを作ることである。住まいを取り戻し、仕事を取り戻し、これからの生活を取り戻すことを求めているのに、白河法皇はそれらのどれをもせず、無料でできるとまでは言えないにせよ、本格的な被災者支援に比べれば安値で済ませることのできる改元で済ませようとしている。これで白河法皇が新たな支持を獲得できるとすればそのほうがおかしい。
白河法皇は言うだろう。自分は多くの人から支持を受けている。その証拠に、院庁に入りたがる者は途切れがなく、院に荘園を寄進する者は後を絶たない、と。
断言するが、この時代の白河法皇の政策に積極的な支持をしていた人は極めて少ない。政策だけで考えれば白河法皇に従おうなどという意欲は絶対に湧かない。絶対に湧かないが、白河法皇は絶大な権力を持っている。白河法皇のもとに近寄ることができれば人生一発逆転が図れるのだ。それまでは藤原摂関家に生まれるか、あるいはごく一部の限られた源氏に生まれなければ掴めなかった出世街道が、白河法皇との接点を持つというただそれだけのことで掴めるようになる。下剋上と言えば戦国時代を思い浮かべるかもしれないが、白河法皇の時代は、白河法皇に近寄ることで下剋上を実現できるようにもなっていたのである。
人事は白河法皇の気分で決まる。白河法皇という人は、逆らう者は絶対に許さないが、白河法皇を褒め称える者、白河法皇が気に入った者であれば際限なく許す人である。そのような人に気に入られれば人生の一発逆転が果たせるとあれば、政策に否定的であろうと白河法皇に近寄ることも厭わない。正しいことであるかと言われれば否である。美しいことであるかと言われればそれも否である。しかし、正しさと美しさを貫いていては人生が破滅するとあっては、話は別だ。
自分の政策の正しさを疑わない白河法皇は、大治元(一一二六)年六月二一日、一年前に宣言したことを実行した。
殺生禁断の猶予期間終了を告げると同時に、集められた漁網が白河の地で焼き尽くされた。漁業を生業とする者にとっては失業を意味するが、漁業を生業としない者にとっては白河法皇への忠誠をアピールする絶好の機会だ。この日に合わせて各国からおよそ五〇〇〇もの漁網が集められ、競うように白河の地へと運ばれてきていたのである。
積み上げられた漁網が灰になるのを眺め、白河法皇は自分の政策の正しさ、自分への支持の高さを疑わなかったであろう。そして、以前からの懸念であった格差問題はこれで無事に解決したと安堵したであろう。
その思いをさらに強固なものにさせたのが全国各地から届いてきていた安定の報告である。近年にない好天と適度な雨量が早々にこの年の豊作を予期させ、その予期は秋に実現した。ついこの間まで餓死者が出ていたのが嘘であるかのような豊作となったのである。
あくまでも記録の上では。
たしかに、気候変動についての記録は特になく、地震や台風といった自然災害も見られない。しかし、この間まで続いていた飢饉は自然災害が直接の原因であっても、その真因は白河法皇による荘園改革の生み出した生産力低下にある。自然災害さえなければ豊作であったというのは理解できなくもないが、あまりにも急すぎる。
このようなとき、歴史はヒントとなる。
一九二九年のニューヨーク市場株価大暴落に始まる世界大恐慌は、文字通り、全世界を不景気の底へと沈めた。全世界の就業者の三分の一が失業し、全世界の資産の三分の一が失われたのである。そんな中、世界大恐慌の影響を受けなかった国がただ一カ国だけ存在した。共産主義国として誕生して間もないソビエト連邦である。ソビエトは、世界恐慌の影響を受けておらず、失業者もおらず、経済は継続して発展していると発表したのである。この発表を受けた世界の経済学者や政治学者は、ソビエトの経済システムの研究に取り組み、それまであたり前であった資本主義経済による民主主義体制に対する疑念を抱く者も続出した。しかし、誰一人として、このときのソビエトの成し遂げた、世界恐慌の影響を受けない政治経済体制を説明できた研究者も、自国にも展開しようとしてソビエトと同じような成功を達成した政治家もいなかった。
ソビエトの成功の理由が明らかになったのはずっと後になってからである。
ソビエトは、世界恐慌の影響を受けないことに成功したのでなく、世界恐慌の影響を受けていることを隠すのに成功したのである。失業率は二五パーセントに達し、失業していない七〇パーセントの勤労者も食料配給が半分以下に減らされ慢性的な栄養失調状態に陥っていたことが判明したのは、ソビエトの経済政策が、そして共産主義という思想が間違いであると判明してからであり、そのときにはもう、取り返しのつかないところまで至ってしまっていたのだ。
と、ここまで書いてあるのを読んで疑念に思った方もいるのではないだろうか? 二五パーセントが失業し、七〇パーセントの勤労者の食料配給が半分になったなら、残る五パーセントは何なのか、と。
正解は、死者である。餓死者であり、殺人の被害者である。世界恐慌の影響を受けた国々の中でもまだマシと言えるのは失業率の数字のみであるが、全国民が勤労をしていることになっているソビエトで、失業しているというのはそれだけで有罪だ。二五パーセントの失業率は、そのまま犯罪者としてソビエト各地の強制収容所に送られ、奴隷としてこき使われることになった人の割合に該当する。
全世界が世界恐慌から脱して世界恐慌以前の暮らしを取り戻してもなお、ソビエトの経済と社会はそれより前に戻ることはなかった。戻ることができたのはソビエトという国家が滅亡してからである。
白河法皇はそこまで無能ではないかったが、自分の失敗を認め、自分の政策にとって都合の良くない報告が上がってきてもそれを受け入れるほどの人でもなかった。その結果が、報告内容の改竄であり、虚報の報告である。毛沢東や金日成、日本で考えると東條英機や宮本顕治と言った無能無知な独裁者のときによく見られる光景が、大治元(一一二六)年の日本でも起こったのだと考えると、全てが説明できる。
大治元(一一二六)年一〇月二一日には、豊作という形で結果を出すことができた、と白河法皇は考えた自身の政策をさらに強化するとして、京中の籠鳥を集め、放たせる。永久二(一一一四)年の宣言の再確認という位置づけであるが、規模は永久二(一一一四)年のときをはるかに上回り、鵜飼いの鵜や、狩猟用の鷹や犬も許されないとして放されたのである。農民はこの年の豊作を白河法皇の殺生禁断のおかげであると絶賛し、白河法皇もこれで格差の解消がより一層進むと考えたが、狩猟や漁猟を生活の糧とする者にとっては失業を意味していた。そして、白河法皇はそうした失業者に対する救済措置を何らとらなかった。
先に世界恐慌におけるソビエトの状況を記したが、一九三〇年代の資料の中に、現在から考えるとソビエトの経済政策の失敗が原因であると考えることのできる現象が残されている。
それは、ポーランドへの亡命者が続出していたこと。
第二次大戦後はソビエトの植民地とさせられたポーランドであるが、第一次大戦後にロシアから独立し、世界恐慌当時はソビエトと国境を面している独立国となっていたポーランドは、その時代の考えでいけば共産主義に同調しない人が選ぶ亡命先の第一位であった。もともとロシア語はポーランド語の方言と言ってもいいほど近い言葉であり、使用する文字は違うが、ロシア語が話せればポーランド語もある程度は話せるとあって、言葉の壁で亡命をためらう人であっても選ぶことのできる亡命先だったのである。
当時は共産主義に反対するからこそポーランドに逃れるのだと考えられていたが、実際には、共産主義という失敗した社会での生活に苦しむ人が流れこんだのである。
では、生活苦を迎えても生活苦を訴えただけで人生が終わってしまう共産主義国のような国へと落ちぶれてしまっていた大治元(一一二六)年時代の日本ではどれだけの人が亡命したのか?
結論から言うと、ゼロである。島国である日本では国外に逃れるとしても海に出ていかなければならず、その航海は極めて危険である。しかし、仮に日本が島国でなかったとしても、この時代の日本人が国外に亡命していたとは思えない。
なぜか?
国境を超えるとそこでは戦争が繰り返されていたからである。
遼の滅亡で戦争は終わったと考えたのは余程の能天気な人だけであり、そうでない人は遼を滅亡させた金の次なるターゲットに気づいていた。それに、金の主張は無茶であると一刀両断できるほどのものではなかった。
遼を滅亡させるために宋と金は同盟を結び、ともに遼へと軍勢を派遣したが、金の軍勢は遼を壊滅させたのに対し、宋軍は遼の軍勢の前に敗走を重ねるしかできなかったのである。事実上、金一国だけで遼を滅亡させたようなものである。同盟に従えば両国は協力して遼を滅ぼすこととなっていたのに、約束を守ったのは金であり、宋は約束を守らなかったのだから、金としては宋に違約金を求めても当然という主張が成立する。
しかし、宋はその違約金の支払いを拒否しただけでなく、金の国内に内紛を起こさせようとし金の弱体化を図ったのだ。結果は宋と金とが一触即発の事態に陥っているという危機的状況である。日本での暮らしが苦しいからといって簡単に亡命するわけにはいかないのは、日本からの亡命先としてはこうした国しかなかったからである。
宋と金とが一触即発の事態となっていることについて、楽観的な人は、双方とも歩み寄って戦争にはならないだろうと考えていた。特に、宋の南部、現在の上海付近で宋と交易をする商人たちが持ち帰る情報は、危機的状況ではあるが最終的には平和に落ち着くだろうというものであった。
この予想は破られる。
金軍が宋に向けて侵略を始めたのである。
弱体化していた遼に勝てなかった宋の軍勢が、遼を打ち破った金の軍勢に勝てるはずもなく、宋の首都である開封が金の軍勢に包囲される事態となった。
宋の皇帝である徽宗は責任をとるとして退位。皇帝の地位を息子の欽宗に譲った。この状態で帝位を譲られた、いや、帝位を押し付けられた欽宗はいい迷惑である。父の失政のせいで首都が包囲されたのに、責任を取るという名目で責任逃れをして、自分に責任を押し付けたのであるのだから。
父に怒りをぶつけたところで首都が包囲されている状況に変化はなく、欽宗は、首都を包囲する金軍に対し、領土の割譲と賠償金の支払いを条件とする講和を結ぶこととなった。この講和条約は屈辱的なものであり、宋の内部でもそのような講和条件を結ぶぐらいなら死を選ぶほうがマシだと考える者が続出し、その結果、講和の条件が果たされるどころか、領土の割譲も賠償金の支払いも全く進まなかった。
宋のこの態度に対する金の回答は、首都開封への攻撃である。四〇日間におよぶ戦闘の末、一一月には首都開封が陥落し、金は前皇帝の徽宗と現皇帝の欽宗の二名を含む宋の皇族や官僚など数千人を捕らえて北方へ連行した。これが、講和を選ぶぐらいなら死を選ぶと宣言したことの結果であった。彼らは死を選ぶことが許されなかったのである。死の代わりに待っていたのが金の国内での奴隷生活であった。特に、宋の皇室の女性たちが迎えた運命は凄惨なものであった。運が良くても、金の皇帝や皇族、あるいは将兵の妻妾。そうでない女性は金が設営した国営の妓楼である「洗衣院」に入れられて娼婦とさせられたのである。
欽宗の弟の康王構は、幸いにしてこのとき首都開封にいなかった。そのため金に捕らえられることがなく江南に逃れることができた。彼は江南の地で皇帝に即位し、臨安(現在の杭州)への遷都を宣言。宋は、領土こそ半分にまで減ってしまったが、国家としては継続することに成功したのである。歴史用語としては、開封が首都であった時代を北宋、臨安を首都とするようになって以後を南宋と使い分けている。
中国大陸の戦乱がこれでひと段落ついたと考えた人はいない。
江南に逃れた南宋は、領土奪回と、金に囚われた人たちの救援のため、そう遠くない未来に軍勢を北上させるであろうし、黄河周辺の領域まで版図を広げた金はそれを迎え撃つために、そして宋の完全制圧を目指して軍を南下させるであろう。
結果から言えば、遼の滅亡と北宋の終焉、そして南宋の誕生までに至る流れはここで一旦止まる。南宋は江南の経済力と地の利が活きる上に、金に目を向けると、広大化してしまった金の領土の統治のために軍を分散させなければならなくなったことから金の軍事力の弱体化が生じたことで、南宋は国家として継続しえたのである。ただし、南宋誕生の時点でこのような未来を想像する人などいるわけない。白河法皇のこの後の選択を、この後の中国大陸の歴史を知った上で判断するなら、これまでの白河法皇の政策のように否定だけで済ませられる。しかし、平和になるという楽観論が裏切られたあと、もう一度、やはり平和になるという楽観論を主張できる人などそうはいない。ほとんどの人は戦争に備え、戦争の巻き添えを喰らわないように対処する。その意味で、白河法皇のこのときの判断を簡単に否定することはできない。
白河法皇は何をしたのか?
宋の首都である開封が陥落したという一報を聞きつけたと同時に、日本海沿岸諸国の国司を入れ替えたのである。金が開封を陥落させ宋の北部を領有したと言っても、金の本土と呼べる地域は日本海沿岸の地域であり、朝鮮半島経由で来るか、あるいは、沿海州から日本海を横断して来るかの違いはあるが、金が日本に攻め込むとしたら東シナ海を渡って九州に攻撃をするのではなく、日本海沿岸の地域をターゲットとするのは想定できる光景だ。
そこで白河法皇は、国司としての実績のある貴族や軍事指揮力のある貴族が日本海沿岸の地域の国司になるよう、国司の入れ替えをしたのである。白河法皇に取り入ることで出世が果たせるのは事実であるし、このタイミングで国司に選ばれた者も白河法皇に取り入ることで出世してきた面々である。とは言え、これを成実人事と一刀両断に否定することはできない。全くの無能者を出世させたわけではないのだ。若き貴族の抜擢はあっても、彼には軍事指揮権の実績があったのだから。
ただ、軍事指揮権があり、また、国司としての実績があり、そして、白河法皇の命令で動かすことのできる者がこのときの国司任命一覧から漏れている。
平忠盛だ。
平忠盛を動かせなかった理由は明白で、この時点でも平忠盛の公的地位は越前守だったからである。京都に身を置いてはいるが、越前国の統治は平忠盛の指揮下に置かれていたのである。既に越前国という日本海沿岸の、それも京都に直結する敦賀の、港を抱える重要地域の国司である者を、わざわざ他国の国司とさせる意味はない。
一方、平忠盛と並び評される源為義は、このとき、全く召集されていない。白河法皇がいかに国外情勢に目を向けていたとしても、それが国家存亡の危機をも考えなければならない事態に陥っているのだとしても、鳥羽上皇のもとに身を寄せている人物を選ぶことはなかった。また、源為義はこのとき検非違使であり、相変わらず寺社の武装デモが続いていることを考えると、デモ集団から京都を守る存在としてならば、鳥羽上皇のもとに身を寄せている人物であろうと源為義は計算できた。
もっとも、源為義がこの境遇を喜んで受け入れていたわけではない。
平忠盛が国司になったのだから、平忠盛より活躍している自分も国司になっていなければならないというのが源為義の考えだったのである。役目であるからデモ集団と向かい合うし、役目であるから京都とその近辺での犯罪者を逮捕するが、結果を出しても評価されないことへの不満はいつ爆発してもおかしくなかったのである。
この不満を鳥羽上皇も藤原忠実も利用した。自分のもとにかつての源義家の流れを組む武士団がいるのだということは無言の圧力として機能した。白河法皇が北面の武士によって自らの身の安全を図ると同時に平安京にも圧力を掛けてきたのと同じ構図を、鳥羽上皇は清和源氏を利用して構築できたのである。
大治二(一一二七)年時点で崇徳天皇はまだ九歳、満年齢で言うと八歳である。現在の感覚で行くと小学校三年生だ。
崇徳天皇に対しては、この時代でとることのできる最高の教育が行われていた。現在の小学三年生が受けるような教育ではなく、帝王学、すなわち、天皇としてこの国をいかに統治すれば最良の結果を残せるのかという教育を受けている。小学三年生というのは大人が考えているほど子供ではない。これぐらいの年齢になれば世の中というものがわかってくるし、自分が置かれている境遇も理解できる。
そして、一つの答えも出る。
白河法皇が元凶であるとの答えが。
不景気は続き、失業者が増え、そして何より自由が減ってきている。白河法皇に気に入られることだけが役人や貴族の関心となり、少しでも逆らえば人生引退へと追い込まれる。自分の父がそうであるように、そして、父の関白であった藤原忠実がそうであるように、人生はこれからだという年齢であろうと第一線から追放される。この問題が日本国を包み込んでしまっていると考えたのである。
白河法皇にとって鳥羽天皇が目障りな存在になってきたので退位させて幼い崇徳天皇を即位させたら、今度はその幼かった天皇が徐々に成長してきて自分に逆らう存在になってきつつあった。これがもし、もっと不真面目な少年で政治に対して何の興味も示さない少年であったら白河法皇にとってこれ以上無く都合の良い天皇であり続けたであろうが、白河法皇にとっては残念なことに、そして日本国にとっては幸運なことに、若き天皇は優秀で真面目な少年であったのだ。
真面目な人間を堕落させるのは、簡単な話ではない。不真面目な、少なくとも当人にとっては不真面目と考えるような誘惑を用意しても簡単にはなびかない。それは何も自制心が強いからではなく、落ちぶれたくないという思いが強いからなのだ。現在の若者が不良にもならず、学生運動に身を投じる者も激減しているのも、真面目になり、かつ、優秀になったというのもあるが、ああは落ちぶれたくないという感情が強くなったからに他ならない。白河法皇は崇徳天皇の視線を政治から逸らそうとあれこれ画策したようだが、全て失敗している。
かといって、崇徳天皇が全くの無趣味で学問と政治に没頭しているのではない。現在でも、成功している政治家や学者、あるいは成果を残している経営者、さらには多くの優秀なビジネスパーソンといった人達に共通していることが一つある。それは、本業と全く無関係の趣味を持ち、その趣味のために本業の休暇を取ることを厭わないという行動パターンである。崇徳天皇は真面目だが無趣味であったわけではなく、和歌の世界に没頭するという趣味があった。この時代の人達にとって最高の教養であった和歌を趣味とするのは、誰もが手放しで称賛するような趣味のありかたであった。和歌と言えば摂政藤原忠通ものめり込んでいるところがあり、この点で、若き天皇と若き摂政は気が合ったようである。
自由が失われた暮らしを迫られているとき、庶民というものは、それなりに対応するものである。不自由を受け入れるフリをして、目に見えぬところで逆らうなどというのは人類史上どこでも見ることのできた光景だ。
それは大治二(一一二七)年時点の平安京についても例外ではない。
平安京というのは計画された都市である。平安京は東西と南北に道が走り、庶民街においては四方を道に囲まれた一辺およそ一二〇メートル四方の正方形の区画が一つの町内会を構成するように計画されていた。
しかし、桓武天皇の平安遷都から三三四年も経過すると、都市の生活と都市計画とは一致しなくなる。その最たる例が町の構成であった。
本来、道を挟めば別の町である。一方、道を挟まなければ同じ町である。
これは感覚と一致するものではなかった。同じ道を日常で使うなら同じ町の一員であるという感覚を抱く。それは、自宅の前を走る道の向こうも例外ではない。同じ区画でも違う道を使う場所は、知識としては近隣であることを知っていても、日常で接する人達ではない。
この結果、京都市内の町が、区画単位から通単位に変わるようになった。町の独自の名が誕生すると同時に、町の住所を告げるにも区画名ではなく道路名になったのである。
権大納言藤原宗忠が大治二(一一二七)年六月一四日に記した日記に、三年前から始まった祇園御霊会が、区画単位の町ではなく通単位の町で開催されたことが記されている。これだけを見れば町内会の夏祭りが生活に根ざした町の単位で開催されたというだけのこととなるが、「先導する馬に乗っている人も含めて金銀錦繍のド派手な格好をし、貴族から巫女から数百人が着飾って練り歩くこんな分不相応な贅沢三昧の祭を、白河法皇と鳥羽上皇が並んで拝見するとは」と記すとなると、それまで縛り付けられていた質素倹約のタガが一気に外れた様子が見てとれる。
このきらびやかな様子を眺めていた白河法皇は何を思ったであろうか?
もしかしたら、自分の進めてきた政策の成功で庶民でもこれだけ豊かな暮らしができるようになったのかとでも考えたのかもしれない。
白河法皇の政策のせいで豊かになった人は、ゼロでは無いが、かなり少ない。現状維持を含めて貧しくならなかった人を探すほうが早いほどである。
ところが、ここで目を見張るほどの裕福さを見せるようになった人がいたのだ。
奥州藤原氏である。
奥州藤原氏が白河法皇の政策を率先して受け入れたおかげで裕福になったのではない。白河法皇の政策を全く受け入れなかったおかげで裕福になったのである。
奥州藤原氏が裕福らしいということは、そして、奥州藤原氏の建設している都市の平泉がかなりの豊かさを期待できる土地であることは、平安京にも知られていた。しかし、その規模を具合的な数値で知ることのできた人はいなかった。
その数値がはじめて記録に記されることとなったのが、大治二(一一二七)年一二月一五日のことである。といっても、豊かさを示す数値を奥州藤原氏が公表したわけではなく、偶然が重なって豊かさを示す数値が公のものとなったのである。
始まりは日吉社の所有する荘園で殺人事件が発生したことである。
事件以前、そもそもその荘園が日吉社であることが知られていなかった。そこでなぜ、この荘園を日吉社が所有しているのかを調査したところ、奥州藤原氏が日吉社に寄進したのだということがわかった。地方の有力者が有力寺社に荘園を寄進することはおかしな話ではない。日吉社と言えば比叡山延暦寺にある有力寺院であり、延暦寺のデモ集団が担いでくる神輿は日吉社の神輿であるほどに密接な繋がりがある。また、平泉の中尊寺は延暦寺が建立した寺院であるから、奥州藤原氏が日吉社に寄進すること自体は当然のことを見なされた。
当然なことと見なされなれなかったのは奥州藤原氏の寄進した荘園の大きさである。七〇〇町歩、およそ八〇〇ヘクタールという広さだ。と言われてもピンと来ないかもしれないが、東京で言うと東京駅から六本木ヒルズ、大阪で言うと大阪城から京セラドームまでの一帯の広さに相当する。これだけの広さの荘園を寄進するとなるとかなりの負担となるはずなのだが、奥州藤原氏は、そして藤原清衡は平然としていたのである。これで奥州藤原氏の豊かさが如実のものとなった。
ただ、この奥州藤原氏にも弱点があった。
後継者問題だ。
藤原清衡という圧倒的存在である当主がいて、藤原清衡は奥州安倍氏と清原氏の双方の血を引くがゆえに、今なお残る両派にとってトップに相応しい人と見られていた。
しかし、その子となると両派の派閥争いが蘇ってしまう。藤原清衡の子としては、名が残っているだけでも四人の男性がおり、その他に二人の男性がいたことが確認されている。その合計六人のうち誰が奥州藤原氏を継承するのか決まっていなかったのだ。
その中でも有力な後継者候補として、大治二(一一二七)年時点で三八歳前後と推定されている藤原惟常と、二三歳前後と推定されている藤原基衡の二人がいた。藤原惟常は清原氏出身の女性を母として生まれたことが確認されているが、藤原基衡は誰を母として生まれたのか確認されていない。当時の公式見解によれば平氏の女性を母として生まれたとなっているが、有力な説として、奥州安倍氏出身の女性を母として生まれたのではないかとされている。
二人の年齢差がかなり離れているが、それは次のような事情が存在していたからである。
元々藤原清衡は清原氏出身の女性を妻とし、妻との間には子供もいたが、後三年の役で妻子とも殺害されていた。後三年の役の後で迎え入れた清原氏出身の女性が生んだのが藤原惟常であり、その後、妻と死別。新しく別の女性を妻として迎え入れるも、死別。そして迎え入れた四人目の妻との間に生まれたのが藤原基衡である。その他にも側室はいたようであるが、後継者として見なされるようになっていたのは正式な婚姻より生まれた者のみであった。
この二人の後継者候補について奥州藤原氏の記録は、藤原惟常のことを「小館」、藤原基衡のことを「御曹司」と記している。どちらも後継者を意味する言葉である。
妻問い婚が当たり前であった時代ではあるが、女性を自分の邸宅に迎え入れる婚姻形式も、ケースとしては少ないとは言え珍しい話ではなかった。有力者の場合、新しい妻を迎え入れる前に前妻との間に産まれた子は別の邸宅を構えさせて父と別居するのが通例であり、このようにして父と別居することとなった後継者のことを、当時の言葉で「小館」と称した。
一方、新しく迎え入れられた女性が子を産むと、その子は「御曹司」と呼ばれるようになった。御曹司いう語は現在では大金持ちの跡取りをイメージさせる言葉であるが、当時は同居人や居候という意味であり、後継者を意味する語ではなかった。しかし、この頃から、有力者の後継者の有力候補であり、かつ、その有力者と同居する者を「御曹司」と呼ぶことが見られるようになり、藤原基衡は、後継者としての意味を伴う意味での「御曹司」となった。
二人の有力な候補者がいる上に、藤原清衡はこのとき既に七二歳になっている。いつ何があってもおかしくない年齢を迎えているということだ。
話を京都に戻すと、白河法皇の健康状態にも不安が見られるようになっていた。
藤原清衡は七二歳だが、白河法皇は七七歳だ。
平均寿命が八〇歳を超える現在ならばともかく、当時は五〇歳で高齢者扱いされる時代である。対立を隠さずにいた鳥羽上皇ですら祖父の安否を気遣うようになり、この頃には祖父と孫との二人の院が揃って出かけるようにもなっている。
かつてのように頻繁に熊野古道を歩いて熊野詣をしたというような体力的な無茶は利かなくなっている。移動範囲は平安京とその周辺に限られるようになり、また、自分で何かするのではなく使者を派遣したり、あるいは自分のもとに呼び寄せたりすることも珍しくなくなった。
自分の身体が明らかに衰えてきていると悟った白河法皇は、自らの死後を考えるようになった。皇統の継続については問題ない。既に崇徳天皇が帝位を継いでいる。崇徳天皇を補佐する摂政藤原忠通は、かつての藤原道長のような突出した才能を有しているわけではないが摂政としての任務は充分にこなしている。
心配なのは自らが築き上げた院政という仕組みそのものである。白河法皇に言わせれば、院政のシステムがあるおかげで格差が減り国民は豊かになっているのだが、自分の死後に何かあったら鳥羽上皇がこのシステムを壊してしまうかもしれない。そうなれば、格差は再び広がり、貧困は再び頭をもたげてくることとなる。鳥羽上皇と、鳥羽上皇の元に足を運ぶようになっている藤原忠実が権力を握り、白河法皇の政治を白紙に戻すようなことは許されないと考え、どうにかして自分の政策が継続することを考えるようになった。
鳥羽上皇のもとに集うようになっているのは、藤原忠実を除いては、白河法皇のもとに近寄るのでは出世競争に負けると考えた者である。その意味では白河法皇のもとに近寄って出世を掴んだ者と一緒である。そして、こうした面々が権力を握っている間は白河法皇派という一つの派閥を形成できる。その派閥に権力を握らせ続けることで、白河法皇の政策を継続させようというのが、白河法皇の企みであった。
権力を握らせ続けること自体は可能であったろう。
問題は、彼らが白河法皇の政策を是としているか否かである。
答えは明白で、否。
彼らは地位のために白河法皇に近寄ったのであって、政策に賛同して近寄ったのではない。となれば、白河法皇がこの世を去ると同時に、白河法皇の政策への賛意を示す必要も無くなる。
白河法皇はこれを理解していなかった。
白河法皇も弱っていたが、奥州藤原氏の藤原清衡も弱っていた。
大治三(一一二八)年には、藤原清衡の体調は病人のそれになっていた。
奥州藤原氏は歴代当主の遺体を中尊寺金色堂に保存させた。言わばミイラとさせたのである。そのため、藤原清衡がどのような身体の人であり、どのような病状であったのかもわかる。
身長は一五九センチ。当時の男性の平均身長は一五九センチから一六三センチと推計されているので、ギリギリで当時の男性の平均身長ほど。また、痩せ型ではあったが筋肉質でもあり、身体はかなり鍛えられていたことが判明している。
病状としては脳溢血ないしは脳腫瘍で、晩年は身体の左側が不自由であったろうことが確認できる。その頃に藤原清衡の妻が夫の病状回復を祈願して納経をしたことが記録に残っているので矛盾はしていない。
その藤原清衡の死についてであるが、二つの説が出ている。大治三(一一二八)年七月一三日に亡くなったとする説と、その三日後である七月一六日に亡くなったとする説である。
藤原清衡が亡くなった瞬間は、見かけの上では後継者争いが勃発してはいなかった。ただし、それはいつ爆発してもおかしくないものであり、平泉は一瞬にして緊張感に包まれることとなった。
ここで機先を制したのが藤原基衡である。父と同居していたというのは有利に働く。当然ながら奥州安倍氏がそのまま藤原基衡の支持に回るが、清原氏の中でも藤原清衡の後継者としては藤原惟常より藤原基衡のほうが相応しいと考える者が次々に出て、大治三(一一二八)年のうちにはもう、奥州藤原氏の実権のほとんどを握るようになっていた。
この動きの中でもっとも目立ったのは、東北地方に移り住むようになっていた藤原氏の子孫である。藤原秀郷を祖先とする彼らは藤原基衡を藤原清衡の正式な後継者であると宣言し、藤原惟常は藤原清衡の子であり藤原基衡の兄であることは認めたものの、奥州藤原氏の中においては藤原基衡に仕える一人に過ぎないとしたのである。彼らは、公的には藤原を姓としていたが、副官を意味する「佐(すけ)」から、苗字として「佐藤」を名乗るようになっていた。もっとも、副官であることを苗字の一文字目として選んだ藤原氏は何人も存在するため、このときの藤原氏達を歴史用語として「信夫佐藤氏(しのぶさとうし)」とする。
奥州藤原氏の世代交代のニュースが平安京に届いた頃、平安京でも新しい時代に向けた一つの出来事が起きていた。
崇徳天皇の元服である。
何度も記しているが、皇族の元服は天皇が加冠役を務めるという決まりがある。そして、天皇自身の元服は太政大臣が加冠役を務めると決まっている。
吉日を選んで元服するということは既に決まっているので、まずはその吉日をいつとするのかの調査依頼が陰陽寮に出される。陰陽師たちの出した答えは翌年の元日。鳥羽天皇も一月一日に元服しているので、これで親子二代続いて一月一日の元服となる。なお、祖父の堀河天皇が元服したのは一月五日なので、元日イコール天皇の元服に相応しい日とは限らない。
崇徳天皇の元服の前に太政大臣を任命しなければならないが、その役割は摂政左大臣藤原忠通がいるので問題なかった。もっとも、一度でも太政大臣に就任するとその瞬間に議政官から離れることとなるので、法案審議権が失われる。現在の感覚で行くと、内閣の大臣であり続けることはできても、国会議員に立候補することは許されなくなるというところか。まあ、現行憲法にそのような規定はないが。
そこから遡って、藤原忠通の太政大臣任命の日も決まった。年末に除目をするときにはもはや恒例となっていた一二月一七日である。ただし、通例と違って大治三(一一二八)年の一二月一七日は、摂政左大臣藤原忠通の太政大臣への昇格のみが発表され、他の官職については何の発表も無かった。
この一連の流れを危惧した人がいた。
位階としては従一位を持ってはいるが官職は何も持っていない藤原忠実である。
藤原忠通が太政大臣になる。これは当然の流れだ。
問題は、藤原忠通のあとである。男児がいない。大治三(一一二八)年時点で藤原忠通に後継者はいなかったのである。白河法皇の勢力が強くなってきたとは言え、藤原摂関政治はなお健在だ。藤原忠通には女児ならばいるから、女児を崇徳天皇のもとに入内させ、男児を産めば次期天皇の祖父としての摂政や関白となることも可能だ。しかし、男児がいないとなると藤原摂関政治そのものが終わってしまう。
そのときを踏まえての対応も藤原忠実は考えていた。藤原忠実の次男で、藤原忠通の年齢の離れた弟である藤原頼長を天治二(一一二五)年に藤原頼通の養子とさせている。何かあったときは次男を藤原摂関家の当主とするようにさせたのである。兄弟とはいえ二三歳の年齢差があるから、親子としてもおかしくはない年齢差ではある。なお、そのときはまだ頼長という名ではなく菖蒲若(あやわか)という幼名であった。
大治四(一一二九)年一月一日、崇徳天皇元服。ここまでは予定通りである。
その八日後の一月九日、白河法皇の想定もしていなかったことを太政大臣藤原忠通は発表した。藤原忠通の娘の聖子が入内したのである。崇徳天皇一一歳、藤原聖子八歳。この時点では永承五(一〇五〇)年の藤原頼通の娘藤原寛子の入内が最後であったから、実に七九年ぶりに摂政や関白の娘が入内したこととなる。
それにしても一一歳と八歳というのは若すぎる。白河法皇もこれはかなり驚きを隠せなかったようであるが、そこにある焦りについては理解もした。あるべき藤原摂関政治の姿を取り戻そうとしているのだというのは納得できる話でもあったのである。
大治四(一一二九)年一月一六日、藤原忠通の娘聖子を女御とすることが正式発表された。
八歳の女御は普通であればニュースとなるところであるが、その前後に起きたニュース群のほうが話題となり、藤原聖子については特にニュースにならなかった。
そのニュースとは、一二歳の平清盛の抜擢である。
貴族として国司を務めた平忠盛の息子であり、親の位階に基づく蔭位の制に従えば、元服直後に従五位下として貴族に列せられたのはおかしな話ではない。ただし、平忠盛が武士であることを考えると異例になる。
この異例に追加されたのが、大治四(一一二九)年一月二四日に公表された一つの人事である。平清盛が左兵衛佐に任命されたのだ。武士の子が、武士が就くこと自体は珍しくない左兵衛府の武人に列せられることで公的地位のデビューをするというのはよくある話である。しかし、デビュー前に貴族に列せられていること、デビュー時の地位が左兵衛佐という副官の地位であること、さらに、デビュー時はまだ一二歳という異例重ねの人事は、平安京内外の全ての人を驚かせるに充分であった。あまりにも強い驚きであったために、平清盛は白河法皇の子供なのではないかという噂まで流れた。
その噂は間もなく打ち消された。越前国司の任期満了後、備前国司へと異動していた平忠盛に一つの司令が出たのである。瀬戸内海の海賊追討だ。瀬戸内海を海賊が暴れまわっているのは知らぬ者のいない有名な話であった。藤原純友が暴れまわっていた時代から一七〇年は経っているが、その衝撃はこの時点でもなお語り継がれる惨事だったのである。その惨事を食い止めるのは誰かがしなければならない。それは極めて危険な仕事だ。命に関わると言っても過言ではない。その危険な任務を託すにあたって、その身に何かがあったときもその者の息子の安全と将来を白河法皇が保証するというなら話を受けるに値する、いや、それぐらいの交換条件でも用意されていないならば受けるに値しない危険な仕事なのだ。
おまけに、海の向こうでは遼が滅び宋がその領土を半減させていた。代わりに登場したのが振興勢力である、金帝国。主要構成民族である女真族はこれまで何度も日本に海賊として押し寄せてきていた。ただでさえ中国大陸で不穏な情勢を迎えると日本も無事では済まないというのに、海賊として名を馳せてきた民族が国家を作り帝国を称したのである。
その金は朝鮮半島の高麗を支配下に置いた。こちらもまた有名な海賊だ。海賊が主産業であった新羅とまではいかないにせよ、高麗もまた、多くの海賊を生み出している。藤原純友が瀬戸内海で暴れていた頃、その構成員のほとんどは日本人ではなく、日本語も通用しなかった。指揮官クラスは日本人だが、日本語は指揮官同士の間でしか用いず、船の中での会話はもっぱら、新羅語とも高麗語とも呼ばれる古代朝鮮語であった。
この二つの民族が手を組んで海賊となり押し寄せてきた。しかも、日本国内の海賊が仲間となって加わって暴れだしていた。
瀬戸内海は日本の内海である。ただし、三六〇度が陸地で囲まれた湖ではなく、海峡を通じて日本海や太平洋につながっている海である。ということは、国境の外からやってきた海賊が船に乗ったまま乗り込むことが可能な海ということだ。おまけに、瀬戸内海沿岸の都市はそのほとんどが港町で、港から遠く離れた都市というのは少ない。つまり、船で港に乗り付けて港町を襲撃して目ぼしいものを奪い去るのにさほど時間を要しない。日本海沿岸と比べて直接襲撃される可能性は低いが、襲撃されたときに受ける被害は日本海沿岸の比ではない。何しろ、逃げる時間が無い。海賊の中には瀬戸内海を主戦場とする日本人の海賊もいたから、瀬戸内海の海図も、どの港に行けばどれだけ奪えるかもわかっている。そこに、これまでの海賊とは比べ物にならない規模の海賊集団が押し寄せるのである。
被害を受ける側は、奪われるものがないからといって安心とは言えない。海賊は人そのものも奪う対象とするからだ。人を拉致して売りさばく、あるいは自分のところで抱え込んで奴隷としてこき使うなんていうのもよくある話だ。拉致された日本人が朝鮮半島に連れて行かれるのは二〇世紀に始まった出来事ではない。
人を拉致し、抵抗すれば殺すという集団がある日突然やって来る。しかも言葉が通じない。これを恐怖と呼ばずになんと呼べばいいのか。その恐怖を無くすことが平忠盛に課せられた使命であり、一二歳の息子の厚遇はその対価であった。
瀬戸内海では万人に等しい恐怖が広まっていたが、東北地方では一人が、瀬戸内海に匹敵する恐怖に怯えていた。
藤原惟常である。
父の死から間もなく、藤原基衡は奥州藤原氏の所有する建物の整理を始めた。と書くと都合がつくが、要は、兄の住まいを手放すことを決めたのである。建物の所有がいかに奥州藤原氏という氏族全体のものであるとは言え、住んでいる人の意見を一切聞き入れることなく、それどころか問うことすらなく、建物を更地にするから出て行けと言われて、誰が素直に受け入れるであろうか? 藤原惟常は弟の司令を拒否。その上で建物に籠もっての徹底抗戦を決めた。決めたのだが、ここで一つの事実が明らかとなった。
自分に従う家臣が少ないのだ。
実母の出身である清原氏ですら、徹底抗戦を狙う藤原惟常に従う者は少なく、そのほとんどが、藤原清衡の正当な後継者として藤原基衡を選んだのである。
藤原惟常は思い違いをしていたのだ。
自分の母は清原氏であり、後継者争いが展開されるとしたら清原氏は自分の味方となるであろうという思い違いである。
これだけでも藤原清衡の後継者に相応しくない。
藤原清衡は、それまでの氏族間の争いが繰り広げられていた東北地方に平和をもたらした人である。藤原清衡の前には、清原氏であるとか、奥州安倍氏であるとかは全く関係なく、さらには東北地方出身であるかどうかすら一切関係なく、ただただ、平泉を中心とする新しい平和な暮らしを作り上げることに専念してきたのである。それが後三年の役で妻と子を殺された上で出した藤原清衡の結論であり、その結論に賛同して、藤原清衡の前では氏族に関係ない人間関係を作り上げてきたのだ。
それを続けようとする藤原基衡と、藤原清衡以前のように氏族間の争いを始めようとする藤原惟常と、果たしてどちらを選ぶのか。答えは明白である。
どちらが先に仕掛けてきたかを考えれば、責任は藤原基衡にある。しかし、戦争を始めようとしたのはどちらかを考えると、藤原基衡の行動はむしろ称賛に値する。
藤原惟常は情勢の不利を悟り、越後国への逃亡を図った。その情報を突き止めた藤原基衡は追っ手を差し向けて、藤原惟常とその一行、およそ二〇名を全員殺害した。
この殺害についての記録は奥州藤原氏の側には一行も一字も残されていない。記録が残されているのは平安京の記録である。
平忠盛が海賊退治に乗りだし、奥州藤原氏では凄惨な事件と引き替えに後継者が決まっていた頃、白河法皇は自分の政策に緩みが出ていると考え、さらなる引き締めを図った。
大治四(一一二九)年三月、まずは近江国の漁民に対する取り締まりを始めた。禁止されている漁網を使用したことを理由に逮捕したのである。法の厳密な適用であったが、この処置を目の当たりにして新しく忠誠を誓うようになった人はいなかった。
大治四(一一二九)年六月二六日には再び漁網の焼却が実行された。いくら禁止と言っても漁業で生活する者にとって仕事道具を奪われては生計が成り立たない。そのため隠れて漁網を使う漁師は後を絶たなかったのである。近江国で漁民が逮捕されたことも仕事道具を奪われることを受け入れる人はいなかった。生まれてからその職業で生きていくと考えて生きてきて、その職業のための訓練を積み、その職業で生活できるようになったところで、贅沢品を生みだしているとして職業そのものが禁止された。しかも、転職に対する何の対処も無いままに。
さらに言えば、平安京とその周辺ではたしかに水産物が贅沢品であったが、海に面する土地では、あるいは湖に面する土地では、水産物こそが日常の食料品であり、獲得した水産物を運んで交換することで農産物をはじめとする他の食料品を得ているのである。ここで漁業を禁止するというのは、漁業で生きる人に失業を命じるだけでなく、農作物を売る人にとっても売り先を無くすことを意味する。これで景気が良くなるとしたらそのほうがおかしい。
検非違使庁の前に積み上げられた漁網は山のようになった。その漁網を焼くのであるが、夏の暑さに加え、煙と炎の勢いは激しく、検非違使庁の周囲は大きな被害を被った。漁網を焼く匂いは平安京の広い範囲に広がり、白河法皇に対する不満の声はもはや公然と聞こえるようにまでなった。
これまでの白河法皇であったらそのような不満の声を容赦せずに取り締まっていたであろう。しかし、大治四(一一二九)年の白河法皇は違った。
大治四(一一二九)年七月一日、摂政藤原忠通を関白に任命すると発表された。
元服したのだから摂政が関白になる。ここまではおかしなことではない。
ただ、奇妙なことにここに白河法皇がいなかった。代わりにいたのは鳥羽上皇である。公式な発表は無かったが白河法皇に何かが起こったことは明かだった。
大治四(一一二九)年七月六日の夕方、白河法皇の院御所が慌ただしくなった。鳥羽上皇と待賢門院璋子が呼び寄せられたのである。そこで鳥羽上皇が目の当たりにしたのは下痢と嘔吐を繰り返す白河法皇の姿であった。
白河法皇は自分の様子を見ないように二人に言って退出するように命じたが、二人とも退出を拒否し白河法皇のもとに留まった。
僧侶が呼び寄せられた。祈祷による病魔退散を目的としてはいたのだが、真の理由は死の瞬間まで念仏を唱えさせるためであることが見てとれた。
大治四(一一二九)年七月七日午前、白河法皇逝去。享年七七。
白河法皇は死に際して二つの命令を出した。一つは殺生禁断令を継続すること、二つ目は火葬とはせず土葬とすることである。白河法皇は土葬のための場所まで指定していたのである。
鳥羽上皇はその両方を完全に無視した。
崇徳天皇の名で殺生禁断令は廃止するとの指令が出て、漁網を利用したとして逮捕された近江国の漁師はただちに釈放された。
白河法皇の遺体は火葬とされ、土葬の場所として指定されていた鳥羽の三重塔は、白河法皇の遺体ではなく白河法皇の遺灰が納められた。
白河法皇の葬儀が執り行われたのは大治四(一一二九)年七月一五日のこと。その日、数多くの貴族が法皇の葬儀の場に駆けつけ、法皇がいかに偉大な存在であったかを称えあった。白河法皇の魂が聞いていたら泣いて感激するであろう感謝の言葉の列挙である。それは藤原忠実も例外ではなく、白河法皇の功績を列挙し、偉大な存在が亡くなったことを惜しみ、その様子を日記に書き記している。
とは言え、それは誰もが目にするであろう日記である。
極秘の日記となると手厳しい。
ワイロにまみれ、情実人事に手を染め、気に入った人だけでなくその子供も国司に任命した。中には一〇歳になったかならないかという子供もいる。荘園は自由自在に自分のものとし、格差を無くそうとしながら格差は広がり、それでいて日本全体は貧しくなっている、と、見つかろうものなら即刻逮捕されること間違いなしの内容である。
藤原忠実のそれが偽らざる感情であったとするしかない。
この感情は藤原忠実に限らない、この時代の多くの人の感情であったとも言える。
この感情が広まっている環境下で、時代は白河法皇のいない時代を迎えることとなったのである。
― 天下三不如意 完 ―
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