天下三不如意 1.藤原師実亡きあと

 格差が問題だと考えるのは現在も平安時代も同じである。
 そして、格差社会の解決方法が存在しないのも、現在も平安時代も同じである。
 厳密に言えばあるのだが、それは、格差のほうがまだマシと言える絶望、すなわち、戦争、革命、大規模自然災害のいずれか、あるいはそれらの組み合わせである。豊かな者も貧しい者も等しく貧しくなったため、「格差が無くなった」という言葉は嘘ではなくなるが、そこに登場する社会は、格差社会の解消した形として求められる誰もが豊かな社会とは真逆の、誰もが等しく貧しい社会である。
 格差とは豊かさとともに生じる宿命であり、豊かさを捨てることなく格差を無くすことはできない。豊かさと等しさとを天秤にかけて豊かさを選び続ける限り、格差から逃れることはできない。
 その上、豊かさを捨てれば格差が無くなるとは言い切れない。格差が無くなる可能性が存在するというだけである。残念ながら、社会というものは等しさと豊かさとが等価交換できるほど甘くはない。全体的に貧しくなってもなお格差も残る社会も存在する。格差がある代わりに豊かな社会、格差があるくせに貧しい社会、格差がなく貧しい社会の三種類のみがあり、誰もが理想として思い描く、格差がなくて誰もが豊かな社会というのはおとぎ話の世界である。
 格差問題について政治に求められるのは、格差問題の解決でなく、格差がどうしても存在することは認めた上で、格差の壁は設けず、貧しさから脱出するチャンスを残し続けることに尽きる。常日頃から、政治家としての評価は庶民生活が以前と比べていかに良くなったかだけで決まると記しているのも、貧しさから脱出できると自覚でき、そして、自分が今まさに豊かになっていると実感できる社会の構築こそが政治家という職業の使命だからである。
 この意味で、白河法皇の確立した院政は失敗であった。白河法皇個人の失敗であり、院政というシステムそのものの失敗であった。
 院政は藤原摂関政治の末期に見られた格差社会、それも固定化した格差社会に対する試行錯誤として登場した政治システムである。ただし、目指してはいたものの実現することはないと思われていた。それが、藤原師通の突然の死という誰もが予期していなかったことが突然に起こったがために急遽実現することとなったのである。つまり、院政とは計算され尽くして誕生した政治システムではない。
 無論、計算され尽くした政治システムであれば問題がないのかと言うとそんなことはない。フランス革命にしろ、ロシア革命にしろ、革命によって現状を打破し、計算を重ねた政治システムを構築したのは事実であるが、失敗に終わったことは歴史が証明している。その一方で、計算の片鱗もない偶然に基づくシステムが、政治に求められるただ一つのこと、すなわち、庶民の暮らしの向上を果たしたというケースも人類の歴史においては珍しい話ではない。
 二一世紀の現在から院政を評価すると、格差を無くそうと努力したことは読み取れるものの、その方法は過去も見られて来た、そして、現在でも見られるあまりにも短絡的な格差社会の解消法としてのアイデアであるとするしかない。院政はたしかに大学やビジネススクールでのマクロ経済学のケーススタディとしてそのまま利用できる歴史上の出来事ではある。ただし、それは失敗例としてであるが。



 承徳三(一〇九九)年六月二八日、何の前触れもなく、関白藤原師通が三八歳という若さで亡くなったことで権力の空白が生まれた。
 藤原師実のカムバックは検討対象にすらならなかった。
 後継者である藤原忠実を継承者とする方向で話し合いは進んだが、二二歳という若さはあまりにも頼りない。それに、良かれ悪しかれ有能という評判はあった父の師通と違い、息子はそれらの評判を全く得ていない。善人か悪人かと言われれば善人に区分されるが、悪事を成さないがゆえの善人というわけではなく、悪事を成せないがゆえの善人である。単なる蛮行だけなら誰でもできるが、悪事というのは立案から始まり、計画があり、実践があり、その全てを遂行する覚悟があってはじめて成り立つ。そして、そのどの段階でも相応の知性を必要とする。ある程度は頭が良くないと悪事はできないし、蛮行ではない悪事をできる人ならば、その知性を用いることで悪事ではないことを成すも可能だ。歴代の執政者の中には、愚鈍と評されてきた者と悪人と評されてきた者とがいる。このうち、後世の歴史家によって評価が覆される可能性の高いのは悪人のほう。悪事を悪事として、それを覚悟の上で成したとしても、結果的に国民を豊かにしたことであったならば、後世の歴史家はその人の悪事を容認し、当時は悪事とされていたことが実は悪事ではなかったと証明する。
 藤原忠実にはそれがなかった。愚鈍と言い切ってしまうしかなかったのだ。
 もっとも、同時代人から愚鈍であると評価されてきた執政者が、後世、実は功績を残したと評価されることもある。古代ローマで言うと、第四代皇帝クラウディウスは当時の人から愚鈍と貶されてきたが、歴史家の手によってその功績が讃えられている。ただし、藤原忠実はクラウディウスではない。この時点における藤原忠実の功績を讃える研究者は、いない。

 元服を終えている堀河天皇に摂政は不要、そして、関白はというと適切な人材がいない。あえて関白を置くとすれば藤原氏内部に激しい争いを巻き起こすこと必定で、藤原氏内部の争いを起こさない関白となると、能力はお世辞にも足りているとは言えない藤原忠実ただ一人。多くの人が否定し、打倒を願いながら、結局は立ち戻ることになった摂関政治は、全く予期せぬ形で終わりを迎えることとなったのだ。
 かと言って、摂関政治以前の政治体制に戻ることは不可能であった。
 律令制の欠陥を補完するために誕生したのが摂関政治である。摂関政治を否定してきた者の多くは律令制への回帰を目論んでいたが、これには二種類あり、本心から律令制への回帰を願っていた者と、摂関政治を否定しながら摂関政治と入れ替わる対抗軸を打ち出せないでいるために、摂関政治が否定した律令制を題目として掲げている者とに分けられる。そこに、律令制の欠陥という視点はない。欠陥があるという意識もない。
 本心から律令制への回帰を願う者も、対抗軸を打ち出せないために律令制への回帰を願う者も、双方ともに摂関政治の否定と同時に律令制への回帰を訴えてはいたが、それが一つの巨大な世論を形成し、多数の支持を得ることにはつながらなかった。摂関政治というものは、批判も多かったが結果も生み出してもいた。摂関政治に対する不満はあっても、それより前の時代に比べればマシで、その時代に戻るなど考えられない話であったのだ。
 律令制とは、突き詰めれば社会主義である。民主党政権の悪夢の三年四カ月に戻りたいという人も、戦前戦中の地獄の日々に戻りたいという人も、ゼロとは言えないが極めて少ない。この二つの時代は間違いなく社会主義の時代である、より正確に言えば社会主義へと落ちぶれてしまった時代である。社会主義者にとって民主党政権や軍国主義日本は理想の社会なのかもしれないが、社会主義者ではない一般庶民は、つまり、社会主義者よりはるかに優れた知性と教養と一般常識を持つ者にとっては断じて受け入れることのできない、愚者の手による暗黒時代である。何の価値もなかった社会主義時代という意味で、律令制と軍国主義と民主党政権は一つにまとめられる。
 話を平安時代に絞ると、国民生活の向上という点で、律令制と摂関政治との差異は絶望的に明白であった。どれだけ調べても律令制の方が上回っているという証拠は出なかったし、律令制の頃のほうが優れているという記録も証言も見つからなかった。この時代の人は二〇〇年前に終焉を迎えた律令制を実体験などしていないが、その時代の生きづらさは充分に語り継がれている。律令制への回帰を訴える者は律令制が不徹底であったから国民生活の向上も果たせなかったとしたが、それを受け入れる者はさすがに少なかった。
 摂関政治を現在の自民党政権に比肩すべき存在と考えると現在の日本人にもわかりやすいであろう。自民党政権は批判されることが多い。自民党政権は打倒されるべきと考える人も多い。実際に打倒を目指して活動する者も多いし、一時的に実現したこともある。とは言え、それは一時的であって永続的ではない。政権から放逐されることはあっても結局は自民党が政権に戻っているのである。
 ところが、承徳三(一〇九九)年に話を戻すとそのような悠長なことなど言えなくなる。一時的な摂関政治の終わりは後三条天皇の即位や白河天皇の退位のときに迎えたが、程なく摂関政治に戻っている。ところが、藤原師通の突然の死は、その「程なく」が期待できないものでになってしまった上での摂関政治の終わりであった。「やがていつかは」という期待は抱けたにしても、そう長いこと待っていられるものではない。摂関政治が突然の終わりを迎えたことに戸惑いを隠せない者は多く、とにかく今のこの状態をどうにかしてくれと考える者も続出。
 この結果、一人の人物が突如注目を集めることとなった。
 白河法皇だ。
 良かれ悪しかれ、白河法皇はこの時点の政局において最も安定した存在である。この白河法皇が、正確に言えば、白河法皇個人ではなく、関白に比すべき存在としての上皇が注目を集めたのだ。

 では、当事者はどうであったのか?
 白河法皇は意欲に満ちていた。ただし、朝廷側が白河法皇の意欲を汲み取ってはいなかった。朝廷でこのとき模索されていたのは堀河天皇の親政であったのだ。
 摂関政治を否定して律令制への回帰を訴える者の中は、急進的な者と穏健的な者とに分かれていた。急進的な者は文字通り摂関政治を全否定し律令制への回帰を目指していたが、穏健的な者はそこまでは至っていない。この穏健的な者にとって堀河天皇親政は受け入れることのできる政治システムであった。
 穏健的な律令派としてよい彼らの目指したのは確かに律令制であったが、摂関制と共存した律令制としての村上天皇の前例もあった。そこでは、村上天皇という特別な存在がいて、藤原氏は有力貴族ではあるが村上天皇の前では一家臣にすぎなくなっていた。この村上天皇の時代は、システムとしては間違いなく摂関政治であったが、摂関政治の否定としての律令制を考えたとき、充分に受け入れることのできる前例であったのだ。
 堀河天皇が元服を迎えている以上、摂政は不要である。そして、関白に就く資格を有するとされている藤原忠実は能力不足と見られている。そのため、現時点は関白のいない政務となる。関白はいないが、堀河天皇の周囲を支える仕組みはこれまでの摂関政治の枠組みに基づいている。圧倒的大多数の藤原氏と、ごく一部の源氏からなる議政官が政務を司るという仕組みそのものに変化はない。つまり、摂関政治の継続を願う者にとっては摂関政治のピークである藤原道長の政治システムと類似しており、摂関政治否定を前提として律令制への回帰を願う者にとっては村上天皇の天暦の治の復活と言える状況であった。
 ここで堀河天皇に権力が集中し、堀河天皇親政が実現していたとすれば仕組みとしてスッキリとした形になっていたであろう。だが、現実はそうならなかった。
 白河法皇が院政を画策したのだ。
 それまで関白藤原師通が担っていた職務を、関白亡き今、担えるのは自分しかいないとしたのである。これまでであれば白河法皇の思惑も、無視されるとまでは言えないが、最重要事項として扱われることはなかったであろう。だが、この時点での白河法皇の周囲には無視できない存在があったのだ。
 それは、これまでであれば権力とは無縁であったとするしかない中下級貴族達。これまで何度も繰り返されてきた藤原摂関政治に不満を持つ中下級貴族達の集合体が、白河法皇を取り囲むように成立したのである。上流貴族は堀河天皇親政を目指し、中下級貴族が白河法皇の元に集う。その上、両者ともに律令への回帰を目指す者と摂関政治の継続を目指す者とが混在しているという異様な構図が出来上がったのだ。

 承徳三(一〇九九)年八月二八日、康和に改元すると発表された。と同時に、藤原忠実に内覧の宣旨が下った。あくまでも内覧であり、正式な関白ではない。しかし、近い未来に藤原忠実が関白になることはこれで決まった。
 妥協に妥協を重ねた結果である。
 藤原忠実に関白としての資質があれば、年齢がどうあろうとただちに関白になったとしてもおかしくない。一方、藤原忠実の資質の無さから早々に判断して、関白無しの堀河天皇親政とを構築するのも疑念がある。堀河天皇がいかに天皇としての資質に優れていようと、かつての村上天皇のような天皇親政を実現できるまでの超人的な資質を持っているとは思えない。さらに言えば、天皇としてこなさねばならない日々の政務も年々増えており、摂政や関白がいないと天皇としての日常も過ごせないまでになっている。藤原忠実の資質に疑念を持っていようと、堀河天皇に全てを背負わせるわけには行かなくなっていたのである。
 現代日本において、職務状況が過酷になっているブラック企業と呼ばれる職場は多種多様に及んでいるが、共通しているポイントもある。いや、その共通しているポイントは、現代日本の労働環境に限ったことではなく、古今東西いたるところで見られてきたことである。
 それは、一人あたりの仕事の多さ。
 成さねばならない仕事が多い上に、担当する人が少ない。その結果、一人あたりの仕事量が多くなり、時間が徹底的に奪われてどうにもならなくなる。しかも、仕事量は増えこそすれ減ることはない。これ以上こなせないと訴えたときに何とかしようという動きを見せることもあるが、その結果で仕事が減るとか人手が増えるとかは滅多になく、ほとんどの場合はむしろ仕事が増えるのみであり、仕事を減らすことに成功したケースはほとんど無い。
 そのほとんど無いことを歴史学では「改革」と呼ぶ。改革と自称する手立てを講じることはあるが、その手立てが結果を出すケースは極めて乏しい。手立ての前と比べて人手が増えて一人当たりの仕事量が減ってはじめて改革と呼ぶに相応しい結果となり、それが政治であった場合には、その上で庶民の暮らしぶりが良くなってはじめて評価対象と呼べるに値することとなるのであるが、そのケースはとても乏しい。改革者を自称する者は多いが、改革者と呼ぶに値する者は少ない。
 話を平安時代に戻すと、改革は果たせなかった。ただし、手直しだったらできた。いかに藤原忠実の資質に問題を感じていようと、絶望的なまでの無能さというわけではない。そして、天皇としての職務を関白が代行する場合であっても、その全てに超人的な有能さを求められるとは限らない。つまり、職務を切り離すことを考えたとき、誰でもできる仕事を優先的に切り離して代行できる人に担当させるという、改革を自称しながら改革とはならないものの、そこまで酷くはないものではあるという、人間社会では良くあることを実践したのである。
 ある者は藤原摂関政治に戻すことを意図し、ある者は堀河天皇親政を願い、ある者は白河法皇の院政を願う。その全員にとって、康和元(一〇九九)年末時点の政治状況は、納得行くものではないにせよ、妥協できるものではあった。
 そして、この時点における将来展望として最も考えられていたのが、祖父藤原師実のもとで藤原忠実が経験を積んで関白に相応しい資質を身につけ、関白となって藤原摂関政治を再興することであった。
 その想定は、年が明けた康和二(一一〇〇)年、失望となって崩れる。
 藤原師通の時代が終わっても山門寺門の争いは続いていた。そして、この二者の争いは簡単に収めることのできるものではなかった。どんなに厄介であろうと、取り潰すわけには行かなかったのだ。
 なぜか?
 京都から少し歩くと琵琶湖に出る。琵琶湖を船で渡り、北へ少し歩くと日本海へ出る。京都という都市で生きるために必要な物資の多くが日本海沿岸で生み出され、琵琶湖を通じた経路を通って運ばれていた。大阪湾から淀川を北上したり、奈良方面から北上したりして運ばれてくる物資はそう多くなく、京都周辺での生産は京都の都市住民の胃袋を満たせるほどではなかったのである。

 山門こと比叡山延暦寺と、寺門こと園城寺は、この京都市民の胃袋を支える物流の拠点を押さえていた。琵琶湖を経て京都に行こうとするには、この時代で言うと、比叡山延暦寺の目の届くところを通るか、あるいは園城寺の目の届くところ、現在で言うとその双方とも滋賀県大津市に組み込まれているから、双方を総称する意味で大津を通らなければならない。目の通るところを通るのであれば、通行税を払わねばならないにせよ、安全に京都まで運べる。これは物流の安全だけでなく京都を外部の軍勢から守る役割をも果たしており、東から京都に攻め込もうとする者は、京都に構えているであろう軍勢よりも先に、比叡山延暦寺や園城寺の僧兵たちと戦わねばならないのである。これが簡単に取り潰すなどできない理由であった。取り潰したら京都の安全に関わるのだから。
 厄介であるがゆえに潰すわけには行かないが、潰すわけには行かないからと言って相手の言うことを全て受け入れるようでは厄介な存在に屈したこととなる。そこで各時代の執政者たちが選んだのが、山門寺門の争いを双方の潰し合いにすることである。二者が敵対し続けていれば厄介な争いが僧兵たちの間だけでまとまり、市民のもとに波及してはこない。つまり、相手の矛先を京都ではなく相手の寺院に向けさせることで京都の安全を作り出していたのである。
 ところが、堀河天皇も、藤原忠実も、これに失敗した。比叡山延暦寺と園城寺の対立が消えることはなかったが、矛先が京都に向かってしまったのである。二つの武装集団が、互いに争いを続けながら、京都に入り込んでもなお暴れるという最悪な結果を招いてしまったのだ。
 二つの武装集団を抑えることのできる軍事力はこの時代の京都にはなかった。武士たちを動員しようにも、この時点の朝廷の声に応じて集うような武士はいなかった。

 康和二(一一〇〇)年六月一九日、堀河天皇が高陽院を出て内裏に遷御した。実に一九年ぶりの内裏遷御である。一九年もの長きに渡って内裏が放置されてきた、そして、内裏を離れた政務でも支障を生じていなかったのであるが、ここで急に内裏が脚光を浴びたのである。これは何も、内裏の政務遂行設備の高さが見直されたからではない。二つの意味で内裏がもっとも安全だったからである。


 一つは警備設備そのもの。里内裏がどんなに内裏の代わりとして優れている建物であろうと、基本は私的な住宅である。退位後の上皇の住まいとなることを意図した建物で、一般の貴族のための邸宅より優れた警備設備を備えていようと、あくまでもプライベートな空間のための建物であってオフィシャルを前提とした建物ではない。ゆえに、警備能力という点で内裏に劣る。仮に内裏より優れた警備能力の建物があるとすれば、それは、その建物の持ち主がクーデターでも起こそうと画策しているのかという話になる。その点、さすがに内裏となれば、警備のための設備も、警備のシステムも、充分に整っている。里内裏となってきたこれまでの建物と比べてあまりにも広大であり、警備一人あたりの担当区域も広くなってしまうという点は問題であったが、そのデメリットを補う警備しやすさが内裏には存在したのだ。
 そしてもう一つの点であるが、平安京がだんだんと東へ移動してきていることが安全に関する重要なポイントとして挙げられる。内裏は本来、平安京の中央北部に存在すべき建物であった。内裏から南へ朱雀大路が走り、その東西に線対称となるように建物が配置されるというのが平安京の当初のプランだったのである。ところが、時代とともに平安京西部の右京が廃墟と化して行った一方、東部の左京には人口が集中し、収容しきれなくなり、宅地が平安京の敷地を超えて平安京の東を流れる鴨川沿いに、さらには鴨川の東にまで広がるようになって行った。この結果、本来ならば平安京の中心を構成すべき朱雀大路が、この時代になると都市としての京都の西端をイメージさせる通りへと変貌するようになったのである。実際には朱雀大路よりも西の地域にもある程度の住宅地は広がっているのだが、イメージとして、朱雀大路より西は平安京と捉えられなくなったのである。つまり、京都西端の道路を北上したところにある内裏というのは、京都の中で、京都の東に位置する比叡山延暦寺や園城寺からもっとも遠い場所になったことを意味するようにもなったのだ。


 堀河天皇が安全な場所に移動して二カ月、やっと一つの命令を出すことに成功した。園城寺からの越訴の停止である。内裏遷御が六月一九日、命令発布が八月二三日というから、命令を出すまで二カ月待ったこととなる。
 現在の日本の司法制度では、三度まで司法の判断を求めることが可能である。たとえば、最初に地方裁判所で争ってその判決に納得いかなければ高等裁判所、そこでも納得できなければ最高裁判所まで持ち込むことが可能である。律令制における訴訟も、現在と同様に三度まで判断を求めることが可能であった。まずは郡司、郡司の判断に納得いかなければ国司、そこでも納得いかなければ平安京まで来て朝廷に訴えを起こすという仕組みである。ちなみに、平安京内の係争においては、現在の東京都庁に相当する京職が最初の判断となり、次いで現在の法務省に相当する刑部省を経るという違いはあるが、最後が朝廷であるという点と、三回まで司法の判断を求めることが可能であるという点で平安京の外と同じである。
 ただし、この流れは形骸化していた。有力な存在になると、途中をすっ飛ばしていきなり朝廷に訴え出るまでになったのである。寺社が神輿や神木をかついで京都にやって来て訴えを起こすというのは、騒ぎこそ現在のデモと同じであるが、手続きとしてはあくまでも訴訟である。ただし、正当な手順を踏んでの訴訟ではない。
 堀河天皇が園城寺に命じたのは、正当な手順を踏んでの訴訟である。順番に従えば、まずは近江国滋賀郡の郡司に訴え出て、納得できなければ近江国司に訴え出て判断を仰ぐ必要がある。それでも納得できなければそこではじめて上洛して朝廷に訴えることが許される。園城寺は郡司の判断も国司の判断も受けることなくいきなり朝廷に訴えていたので、それが問題だと扱ったのである。いくら迷惑なデモ集団であるといっても、訴訟の権利まで侵害してはいない。ゆえに、園城寺にとって、不満はあっても文句を言うわけにはいかない判断となる。
 だが、朝廷の本音は違っていた。このころの朝廷は明らかに比叡山延暦寺の強い影響下にあったとするしかないのである。園城寺に対して、あくまでも法に則っての判断とした上で制限をかけることは納得できることである。だが、後述することとなる九月に朝廷の下した一つの判断は、どのような理屈を以てしても納得させるのが難しいものであった。

 この間、朝廷は藤原忠実に対して一つの賭けをしている。
 藤原忠実は内大臣であったのだが、康和二(一一〇〇)年七月一七日、藤原忠実を右大臣兼左近衛大将に昇格させたのである。
 このときの議政官の構成を見ると、太政大臣は空席ゆえに人臣の最上位は左大臣となる。その左大臣は永保三(一〇八三)年に就任してからこれまで源俊房が健在で、この時点で六六歳。ここまでは普通であるが、この日、その次に来るのが二三歳の若き右大臣となったのだ。関白の兼職としての箔をつけると同時に、大臣たるに必要な経験を積ませるためであったとするしかない。実際、左大臣源俊房は不測の事態に対する能力はともかく、通例の事態に対応する能力ならば極めて高かったのである。源俊房の通例の政務をすぐ近くで学ぶことで、やがていつかはの話になるが、藤原忠実が権力を掴むときに備えたならば最善の選択肢であったと言えよう。
 その賭けは成功に終わったのか? それとも失敗に終わったのか?
 後者であるとするしかない。
 そもそも、藤原忠実の妻である源任子は左大臣源俊房の娘である。記録によれば、寛治三(一〇八九)年に藤原忠実のもとに嫁ぎ、寛保元(一〇九四)年に女児を、寛保二(一〇九五)年には男児を、永長元(一〇九六)年にも女児を産んでいる。ところが、源任子の産んだ三人の子は三人とも夭折してしまっているのだ。藤原摂関家の継承者である藤原忠実と、かつて藤原道長が藤原摂関家の次期後継者にと考えた源師房の孫娘との婚姻は、この時代に考えられる最高の婚姻関係であったろう。しかし、三人の子の夭折によって夫婦関係は完全に破綻してしまったと考えられるのである。そして、承徳元(一〇九七)年を最後に、源俊房の娘についての記録は姿を消す。どの史料を探しても源任子の名が見つからないのである。
 源師房の娘を妻としていた一方、藤原忠実にはもう一人の妻がいた。承徳元(一〇九七)年に突然と姿を見せるようになった源師子である。源師子は亡き右大臣源顕房の娘であり、源任子とは従姉妹の関係となる。彼女もまた源師房の孫娘であり、最高の婚姻関係であると言えばその通りなのであるが、源師子にはややこしい事情があった。

 白河天皇と中宮賢子との夫婦愛は有名であったが、中宮賢子亡きあとの白河天皇の女性関係は様々な噂を生み出すものがあった。そのどれもが本当なのか、あるいはウソなのか、虚実相乱れている。ただ、白河天皇の子であると、さらには僧籍にあるゆえに女人と離れていなければならないはずの白河法皇の子であると噂される者は数多くおり、そうした子を産んだと自称する女性も多くいたのは事実である。その多くの女性の一人が源師子であった。
 源師子が白河上皇のもとに仕えていたのは記録にも残っており、また、誰が父親かはわからないが、本人の言葉を信じれば白河上皇の子を産んだことも記録に残っている。この源師子に藤原忠実は一目惚れをし、結婚を申し出るまでになった。当初こそ藤原忠実のその申し出を悪い冗談だと思っていた周囲も、本気であることに加え、妻との間は完全に冷え切っているだけでなく、生まれた子が全員夭折してしまっていることは問題だと思っていた。現代の倫理では許されないことかもしれないが、当時の倫理では後継者となる子を無事に産み育てることのできないというのが離婚の理由として通用しており、藤原忠実にはもう妻がいるではないかという言葉は思いとどまらせる理由となりえなかった。
 オフィシャルな点だけでなくプライベートな点にも目を向けると、藤原忠実に対する同情の余地も得られる。藤原忠実が源任子と結婚したのは寛治三(一〇八九)年のこと。このときの藤原忠実は一〇歳だ。恋愛も知らずに一〇歳で結婚させられ、何のことかわからないまま子作りをさせられ、子が生まれたと思ったらすぐに命を落とした。それも毎年のように。
 事情のわからぬまま悲劇を繰り返して迎えていたというタイミングで、藤原忠実は運命の女性と出会ってしまったのである。
 この女性と結婚できないのであれば自殺すると、結婚を許されないのであれば無理やり拉致すると宣言して暴れ回る藤原摂関家の次期後継者。どうにもならないと考えた当時の人たちの考えたのが、源師子と藤原忠実との結婚である。それが承徳元(一〇九七)年のこと。そして、源俊房の娘である源任子は歴史の中へと消え、記録が消えていった。
 それから三年を経て、左大臣源俊房と、右大臣藤原忠実の関係が円満であると考えたとすれば、それは余程の脳天気な考えとするしかない。


 ときの関白藤原師通が三八歳という若さで亡くなったことは既に記した通りである。
 その存命中、藤原師通と比叡山延暦寺は騒動を起こしている。
 支持率の極めて低かった藤原師通にとっては珍しく、その騒動は高い支持を獲得することに成功した騒動であった。
 話は五年前にさかのぼる。
 堀河天皇の命令の出る五年前の嘉保二(一〇九五)年一〇月二四日、美濃国司源義綱の罷免を訴えた比叡山延暦寺に対し、当時三四歳であった関白藤原師通は、源義綱を武装させて撃退している。現在の感覚で行くとデモを武力で鎮圧したとうことになるのであるが、そのとき、鎮圧にあたっていた武士の中に源頼治という者がいた。その者の放った矢が延暦寺の僧兵に当たって命を落としたのである。さらに、このデモにおいて比叡山延暦寺は日吉神社の神輿をかついできていたのであるが、矢はその神輿にも当たったのだ。
 仲間が命を落としただけでなく、神輿に向かって矢を射るという、この時代の考えでいけば暴挙とするしかないことをさせたのが関白藤原師通であった。結果、比叡山延暦寺は訴えを取り下げたものの、延々と呪詛しはじめることとなった。比叡山延暦寺の横暴に不満を抱いていた当時の庶民は、普段は関白藤原師通を非難していても、このときばかりは関白支持を鮮明にしたのである。比叡山延暦寺が呪詛を唱えているというのも、成敗させられた極悪人の喚きと捉えていたのであった。
 それだけであれば単なる不気味な話というだけで終わったであろう。しかし、呪詛の対象となっていた藤原師通が三八歳という若さで亡くなったのが問題であった。暴挙から四年もかかったというのは暴挙に対する天罰としては時間が開きすぎていないかという指摘は通用しない。比叡山延暦寺の慈悲の御心によって四年もの長きに渡って命を保つことができたというのが比叡山延暦寺の主張であり、四年もの時間があったのに暴挙を顧みることのなかった藤原師通に対して、これ以上の慈悲の御心は示せなかったという解釈がなされたのである。
 その解釈を朝廷は受け入れてしまった。
 康和二(一一〇〇)年九月、五年前の殺人と日吉神社の神輿に対する不敬を理由に、源頼治は有罪となり、佐渡国へと配流されることとなったのである。なお、配流先は佐渡ではなく土佐であるとの説も存在する。どう言うことかというと、二つの記録があるのだ。佐渡に流されたという記録と、罪を許されて土佐から帰洛したとする記録の二つの記録が。当初は佐渡への追放であったのが、のちに土佐へと移動させられ、その地で罪が解かれたとするならば納得いく話ではある。

 関白はいない。関白筆頭候補でありながら関白になれずにいる若者がいるだけである。右大臣であり人臣最高位ではないとは言え、関白の権利の一つである内覧、すなわち、誰よりも先に国家最高レベルの情報に接することが許されているという、ただ一人しか手にできない特権は得ている。
 内覧の権利、つまり、情報を誰よりも先に知ることが許される権利というのは、情報化社会が叫ばれる現在になって重要視されるようになったメリットではない。情報をいかに早く手に入れるのかに四苦八苦するのは執政者の常であり、まともな執政者であれば情報をいち早く手に入れるためのシステムを作り上げるものである。そして、情報というものは一方通行ではない。情報を手に入れる仕組みを逆にすれば、自らを情報発信者と成すこともできるのだ。たとえば、藤原道長はときおり体調を壊して寝込んでしまい出仕できなくなったことがあったが、そのときでも自分の元に情報を集めさせると同時に、自分を情報発信者とさせることで、出仕していないことで起こるであろう政務の停滞を起さなくさせている。「源氏物語の時代」や「欠けたる望月」で藤原道長のリモートコントロールについて記した通り、リモートコントロールになってしまったために何かしらの問題が起こったということはない。
 ところが、藤原忠実は情報を誰よりも先に手に入れることのできるという特権を得たにもかかわらず、さらに言えば、藤原道長の時代から続いている情報発信の特権を得ているにもかかわらず、活かしきれていない。おそらくこの人は、情報の重要さを認識していなかったのであろう。何をするにも後手に回っており、事前に対策を練ってからあたるのではなく、問題が発生してから動きはじめる。より正確に言えば、発生してからどうしようとうろたえるのみで、結局は何もしないままに終わる。この人は情報の重要性に気がついていないとしか言えないのである。
 その証拠に、情報の重要性に気がついていたのであれば絶対に対策をとっていたであろう、それも日本中を見渡しても藤原忠実の他に対策をとることのできない人物など存在しないとわかりきっていることに対する対策が、ゼロ。文字通り全く無かったのだ。
 何の対策が無かったのか?
 祖父藤原師実についての対策である。
 祖父藤原師実が何かを企んでいたわけではない。健康を害したのだ。

 父の藤原師通が三八歳という若さで亡くなったことで、藤原忠実に対する周囲の視線は、将来の摂政関白を約束された若者でなく、次期関白が決定した若者へと変わった。ただし、そのうち関白になるということが決まっただけであり、実際に関白になったわけではない。そもそも関白たるにふさわしい器ではないと扱われている。ゆえに、関白の持つ権利の一つである内覧は獲得し、人臣第二位である右大臣にまで登りつめているが、そこで止まっている。
 ただ、藤原師通の前の関白でもある祖父の藤原師実は健在であったのだ。祖父の後ろ盾の元で経験を積み重ね、関白としての職を学び、関白をこなせる人材へと成長することは意図されていた。意図されていたが、実現にはほど遠かった。関白たるに必要な能力が身についていなかった、あるいは、天賦の才能が無かったのである。
 摂政と関白とは同列に扱われることが多いが、摂政は関白の上位互換である。こなせばならない職務の質も量も摂政の方が上であるし、付随する責任もまた摂政のほうがはるかに重い。摂政の職をこなせる人材であれば絶対に関白の職をこなせるが、関白の職をこなせるからと言って摂政の職をこなせるとは限らないのである。
 帝王教育という点で、この時点の藤原忠実は最高の環境にあったと言えるのである。まず、関白経験者が健在である。そして、関白経験者が自身の後ろ盾になっている。堀河天皇は元服をとっくに迎えているから摂政は不要。その上、天皇親政の話が出るほどであるから関白を置くにしてもそれまでの関白よりもより少ない職務量とより低い責任で済む。
 現在でも、就任間もない者について、教育であることを念頭に置いて、前任者によるサポートと、通例より少ない職務量からスタートさせ、徐々に本来の職務量になるようにさせると同時に前任者のサポートを減らしていくという仕組みをとることがあるが、この時の藤原忠実はまさにその仕組みにあったのだ。
 にもかかわらず、藤原忠実はそれらを活かせなかった。より少ない仕事量とより低い責任で済んでいたのに、その仕事量をこなせなかったのである。それでも藤原忠実には祖父という後ろ盾があったがためにどうにかなっていた。
 その祖父の後ろ盾が期待できなくなった。あとに残されているのは仕事量をこなせなくなっている藤原忠実である。

 康和三(一一〇一)年一月二九日、藤原師実、出家。すでに未来は誰もが予期できるものへと変貌していた。
 その誰もが予期できる未来が訪れたのは康和三(一一〇一)年二月一三日。この日、藤原師実が六〇歳の生涯を終えた。
 この瞬間、未来の関白を約束されていることとなっていた右大臣藤原忠実の権力基盤の弱さが露わとなった。
 藤原摂関政治は藤原独裁と言い換えることもできるが、ファシズムや共産主義に見られるような文字通りの独裁ではない。事実上はそうでなくとも理論上は藤原以外の選択肢も残っている状態での独裁である。これまで何度も藤原摂関政治と自民党政治とを比較してきたのも、その両者に類似性が見られるからである。
 藤原道長によって最高潮を迎えることとなった藤原摂関政治のシステムのどこを見ても、藤原氏であることを権力者であるとする要件は記載されていない。たまたま権力者が藤原氏であるというだけである。藤原氏が権力を支配できるようになったのは、皇室との外戚関係により摂政や関白に就くことができたからではなく、現在の議会に相当する議政官の過半数を獲得していたからである。そして、議政官の議長を務めるのが左大臣であり、左大臣不在時に議長を務めるのが右大臣である。太政大臣が議政官の議決に対する拒否権を持っていることも、摂政が議政官の決議をひっくり返す決断をしても法制上は問題なかったが、それはまず見られない。この時代の政治のほとんどは議政官の議決を法令化することで実施に移している。
 藤原忠実は右大臣という人臣第二位の地位にあったが、その上には左大臣源俊房がいた。そして、かつてと違い、議政官の圧倒的過半数を藤原氏が占めるという時代ではなくなっていた。藤原道長は言論の力で議政官を操ることに成功し、藤原頼通は議長として議政官を取り仕切ると同時に議政官の圧倒的過半数という数の力で、議政官を掌握し、自らの意思を政策とすることに成功していた。藤原忠実にはそれらのどれもがない。言論の力も、議長としての取り仕切る資格も、そして、議政官の圧倒的過半数を占めるという数の力も無い状態での時期関白が約束された右大臣というのがこのときの藤原忠実であった。
 元関白である祖父の藤原師実が健在であった頃にはまだ、祖父の教育のもとで成長した藤原忠実を中心とする未来が描かれていたが、藤原師実の死によって、描かれていたそうした未来が虚構のものであると気づかれてしまったのだ。

 父の後三条天皇のように藤原摂関政治に対する明白な反発心を抱いていたわけではないが、自らの権力構築には何ら躊躇することのなかったのが白河法皇である。結果として藤原摂関政治を弱めるという点で違いはないが、藤原摂関政治を潰すことを念頭に掲げて行動した後三条天皇と違い、白河法皇は自身の権力構築の邪魔となる存在を弱めることを平然とこなしていただけである。
 二一世紀の現在、奈良の観光スポットの検索順位の最上位は東大寺、二位が奈良公園で、三位にやっと興福寺が来る。しかし、今から一〇〇〇年前の奈良は何と言っても興福寺が頂点で、そのほかに東大寺や元興寺があるという認識であった。
 奈良は、かつて首都であったことは知識として知られていたが、遷都からおよそ八〇年を経た貞観六(八六四)年一一月七日に平城京の都市機能が公式に停止され、平城京跡地は田畑となっていた。ただし、平城京であった土地に残された寺院の周囲に門前町として住宅地が広がっており、かつて首都であったことも手伝って「南都」と呼ばれることも珍しくなかったのが奈良である。この南都の中心を興福寺が担っていた。
 興福寺と言えば藤原氏の氏寺であり、興福寺のトップである別当には藤原北家の人物が出家して就任するのが通例になっていた。実際、康和三(一一〇一)年時点の興福寺の別当である法印覚信は藤原師実の子で、藤原忠実から見れば叔父にあたる人物である。
 問題は、興福寺のナンバー2である権別当である。白河法皇はこの地位に、自分の腹心である東寺の範俊を就任させることに成功したのだ。興福寺側にも藤原北家にも言いたいことは多々あったかもしれないが、他ならぬ白河法皇の強い推薦に加え、僧侶としての実績も申し分ない人物の就任はどこにも非難できるポイントがなかった。そして、実際に優秀であった。興福寺に赴いた範俊はただちに興福寺の僧侶たちの上に立つまでになったのである。
 それは、範俊が興福寺の僧侶たちを心酔させることのできるカリスマ性を持っていたからではない。いや、カリスマ性が全くゼロであったとは言わないが、それよりも重要なポイントとして、興福寺の敵を作り出すことに成功したのである。共通の敵の存在は、集団を容易にまとめ上げることが可能だ。
 範俊の作り出した興福寺の敵、それは、金峯山寺であった。興福寺は奈良の地で圧倒的な勢力を築いており、奈良が含まれる大和国の荘園のほとんどを有することで興福寺が事実上の大和国の国司となったほどである。しかし、その大和国で興福寺に公然と逆らう存在があった。それが金峯山寺である。文化遺産に指定されたことでもニュースとなった熊野詣も金峯山寺をルーツとしており、白河法皇、正確に言えば出家前であるから白河上皇が、熊野詣をブームとすることで熊野から高野山を経て京都へとなだれ込んで行くデモ集団の存在そのものの消滅を企んだことは前作「次に来るもの」で記した通りである。そして、その試みはある程度うまくいっていた。ある程度と記したのには理由があり、観光地化することでのデモの沈静化を良しとしない一派が存在していたのだ。その一派が根拠地としたのが金峯山寺であった。

 この時代の主要な交通網とみなされていなかった、現在でも徒歩の移動であれば登山のフル装備で二泊三日から三泊四日の道程を求める小辺路(こへち)を利用することも躊躇わない金峯山寺の僧侶たちを快く思っていなかったのが白河法皇である。それに、興福寺にとっても金峯山寺は自分たちに逆らう厄介な存在であった。僧侶としての格はどちらが上なのかを争うというレベルの話ではなく、大和国内の荘園の所有権をめぐる武器を持っての殴り合いというレベルの話であり、間違えても友好的な関係などとは言えない。
 敵を作るのは、以前からくすぶっていた感情を明確化させるのがもっとも手っ取り早い。荘園をめぐる争いを繰り広げていた相手となると元からして良い感情など持っていないが、明確な敵愾心を形づけ、攻撃的にさせればそれで完成だ。自分のやっていることが正義であり的が悪であると断言できる環境を用意すればさらに強固なものとなる。
 敵愾心の爆発は康和三(一一〇一)年四月に発生した。興福寺から金峯山寺への襲撃が起こったのである。もっとも、以前から襲撃を予想していたのか、金峯山寺側も抵抗する姿勢を見せる。金峯山寺の属する吉野地方が後の南北朝時代に南朝の拠点となりえたのも、金峯山寺の擁する僧兵の勢力が北朝に抵抗できるだけの軍事力を擁していたからであり、その軍事力の萌芽はこの時代にすでに存在していた。一方は南都の雄、もう一方は後世の南朝の基盤となる軍事力、この二者の衝突が繰り広げられることとなったのである。
 奈良から届くこの情報に対し、朝廷はあまりにも無力であった。この騒動に対し、唯一はっきりとした宣言をしたのは白河法皇だけである。事態は金峯山寺側だけに責任があり、今ここで金峯山寺が興福寺に対して全面降伏するか、無駄な抵抗をした後で金峯山寺が興福寺に対して全面降伏するかのどちらかであるとしたのだ。一見すると威勢の良い言葉であるが、無責任な言葉でもある。自分の腹心を送り込んで暴れさせるだけ暴れさせておいて、暴動が悪化しようと実際に対応する必要はないとわかっているからこそとれる無責任な対応である。
 ただ、無責任であるがゆえの明瞭な宣言が、かえって、優柔不断とならざるをえない朝廷との対比として成立したのだ。頼りない朝廷と違い、はっきりとした姿勢を見せる白河法皇という対比として。


 この無責任であるがゆえの明瞭な宣言は、康和三(一一〇一)年七月に起こった事件においても顕著であった。七月五日、国司として対馬に派遣されていた源義親が九州で暴れ回っているとの連絡が届いたのである。訴えを朝廷に届けたのは大宰大弐の大江匡房であった。
 後三条天皇のブレインで、荘園整理の最重要担当者であった大江匡房であるが、後三条天皇の時代の大江匡房は右少弁という、実務についての権限はあるが議政官の一員という国政の中枢から遠い場所にいる人物でもあった。その大江匡房を出世させたのが白河天皇である。功績を残したから出世させるのではなく、荘園整理を空文化させる目的があって出世させたのである。
 白河天皇の治世下での大江匡房は微妙なポジションであった。出世はしたが実務からは遠ざけられ、一方で議政官の一員となったわけではないから国政に強く関与することもできずにいるというポジションであったのだ。大江匡房が議政官の一員になったのは堀河天皇が即位してからで、このときはじめて参議となっている。この時点で既に位階は正三位まで上り詰めていたのであるから位階に見合った役職という点ではかなりの後回しである。その後、従二位権中納言となったが、ここで白河上皇から横槍が入った。権中納言兼任のまま太宰権帥(だざいごんのそち)に任命され太宰府へと向かうこととなったのだ。
 白河上皇は大江匡房を疎んじていたわけではない。荘園整理の是非については妥協できなかったが、その能力の高さは買っていたのである。また、大江匡房の能力を買っていたのは、その当時の関白である藤原師通も含まれていた。藤原師通に突きつけられていた問題の解決として、大江匡房は適任であったのである。
 どういう問題か? 遼との密貿易である。しかも、その密貿易を率先して行なっていたのが太宰権帥の藤原伊房であったのだから、密貿易の罪で罷免された太宰権帥の後任は、周囲を黙らせる威圧感のある人物でなければならなかったのだ。この点において大江匡房は適任であった。
 また、これは高麗建国前から、もっと言えば日本という国家が誕生したときには既に存在していた問題でもあるのだが、朝鮮半島から海賊がやってきて日本海沿岸、さらには瀬戸内海まで船を進めて襲撃を繰り返すこともあったし、海賊とまではいかなくとも日本に密入国してくる者がかなりいたのである。しかも、朝鮮半島との窓口になる対馬国司が絡んでいることも多々あったのだ。
 大江匡房もこれについては理解していた。誰かが九州に赴いて遼との密貿易を取り締まり、また、以前から続いている高麗からの密入国と、高麗人による海賊討伐に当たらねばならないのも理解していた。ただ、それが自分である必要はないとも感じていたのだ。少なくとも文官ではなく、武士でもある貴族、具体的には源義家を派遣すべきという意見であったのである。

 とは言え、源義家は承徳二(一〇九八)年に昇殿を許されたばかりの正四位下。位階を強引に引き上げても、二位や三位の貴族があまたうごめいている中での抜擢は許されるものではなかった。いかに源義家の武力が信頼置けるものであろうと、いや、武力に信頼置けるものであるからこそ、源義家という選択肢は認められるものではなかったのだ。
 それでも大江匡房は一つの主張を通すことには成功した。自身が太宰権帥になると同時に、源義家の次男である源義親を対馬国司とさせることには成功したのである。若くして長男を亡くした源義家にとって、次男の源義親は後継者である、はずだった。
 朝鮮半島からの海賊の侵略を食い止めるために武力を必要とし、その武力を期待できる存在が源義家であったが、源義家の抜擢は許されなかった上に、既に還暦を過ぎている源義家にさらなる武力の発揮を期待するのは難しかった。そこで、後継者である源義親の対馬国司抜擢となった。位階は従五位下であるからギリギリではあるが貴族である。多くの貴族がどこの国司にもなれずに無職に追い込まれていることを考えると源義親の抜擢は異例であったが、武力を求められているという状況は源義親の抜擢をやむを得ぬものとさせていた。実際、源義親の対馬国司就任は大江匡房の太宰権帥就任の付帯条件として穏当とされていたのである。
 ただし、大江匡房と源義親が協力体制を築けていたのかというと、大いに疑問を感じる。密貿易や海賊襲来といった話は過去のものとなり、平穏無事な日常を過ごせるようになってもいたのは事実である。問題は、その功績が太宰府に派遣されていた大江匡房の功績となっていたこと。藤原純友の乱で灰燼に帰した太宰府であったが、それでも北九州の重要拠点ではあった。九州各国の国司に対する指揮命令権も太宰府には存在した。しかし、海賊来襲に対する最前線は何と言っても対馬であり、壱岐であり、博多であって、海から二〇キロ離れた太宰府は後ろの安全な場所という認識であった。最前線で命をかけて戦っている者と、安全な場所で理想論を述べていればそれで給与が貰える者とがいて、しかも、後者が上司なのである。命がけで成果を残したとしても、安全な場所で掲げられた理想とかけ離れていたらマイナス評価。理想と合致してやっと現状維持なのである。ここで言う理想とは、海賊が完全に沈静化したので二度と海賊の侵略を喰らわなくていいという、理想、もっと厳しい言い方をすれば妄想である。海賊を食い止め続けるための武力については、その必要性すら全く評していない。
 たしかに源義親は素行の良い人物ではなかった。評伝を見ても、お世辞にも礼儀正しく立派な人であったとは言えない。暴れ回ったという記録もある。しかし、九州の人たちは、安全な太宰府にこもっている大江匡房ではなく、対馬で前線に立つ源義親を選んだのである。上から目線で机上の空論を語り、安全はもう成し遂げられたと語る太宰権帥ではなく、現在進行形で自分たちの安全を守ってくれている国司のほうが高い支持を集めたというところか。

 中央では治安回復の功績により大江匡房の評判が上がっているが、九州では今まさに戦っている源義親のほうが高い支持を得ている。そして、二者の対立は、大江匡房が京都の命令というさらなる権威を伴った判断を下すのが通例になった。
 この対立は、太宰府の中や国衙の中にとどまる話ではなく、九州各地の庶民の間にも広まっていた。それも、源義親支持という形で大きく広まっていたのだ。その広がりが爆発したのが康和二(一一〇〇)年であった。この年、九州各地で納税拒否という形で爆発したのである。
 納税拒否は本来ならば国司にその責任が問われることとなるが、西海道一一カ国の場合は太宰府が途中に入る。九州での納税拒否は太宰府の責任となり、太宰府が対馬から薩摩までの九州各地に対して納税するよう命令する形となる。
 この仕組みが確立されている状況で太宰府と西海道一一カ国との対立が起こり、その末に、納税命令は無視される。公的な納税不可理由は海賊来航に備えての負担優先であるし、それに嘘偽りはないが、本音は大江匡房への反発にある。海賊が沈静化したのは目に見えた武力のおかげであり、武力を弱めればまたすぐに海賊が襲いかかってくる日常に戻ってしまうのだと大江匡房は理解していない。これは到底納得できる話ではなかったのだ。
 大江匡房は九州の納税拒否に対し、対馬国司源義親の横領を告発する。納税されたのだが、対馬国司源義親によって官物が横領されたため納税できなくなったのだと報告したのである。報告は日を重ねるにつれて悪化する。横領が襲撃になり、さらには徒党を組んで暴れ回っているという話になり、源義親の軍事蜂起という話になり、死者が出ているという話になる。それが康和三(一一〇一)年七月五日の大江匡房からの報告であった。現在のウェブ社会とまでは言わなくとも、メディアがまともに機能する時代であれば通用しないであろうが、この時代は太宰権帥の報告で通用した。
 大江匡房からの報告を受けた朝廷は右往左往するばかりであった。さすがに朝廷には九州の実情が、それが正式な報告ではないにしても、情報としては届いている。大江匡房の連絡も正当とは言い切れない内容だと推測は可能であり、実際、議政官の面々からは討伐とする意見と調査員の派遣という意見の双方が出たほどである。
 一方、九州の実情は平安京の庶民の間にまで広まっていたとは言い切れない。大江匡房からの第一報がそのまま九州からの情報第一号であり、平安京の庶民の間では対馬国司の不祥事をどうにかしろという世論が湧き上がったのである。

 無責任ゆえにはっきりとした態度がとれるのが白河法皇である。白河法皇はこのとき、対馬国司源義親を討伐する軍勢の派遣を主張したのだ。この単純明快な回答に平安京の庶民の多くが賛同したが、朝廷はさすがに躊躇した。そもそもそんな軍勢がいないという点もあるが、それ以前に、大江匡房が後ろの安全な場所にこもって最前線に向かって上から目線で指図しているという図式であるという情報が届いてはいたのである。
 たしかに、その情報は未確認情報であり、断言はできない。断言できない情報で右往左往するわけにはいかないが、正式な情報として届いているのが大江匡房からの知らせだけということになると、未確認情報を確認するという手順が必要になる。朝廷で調査員の派遣という意見が出たのはこういう理由である。
 朝廷内では侃々諤々(盛んな議論)ならぬ喧々囂々(無秩序な騒ぎ立て)の議論となり、最終的には調査員の派遣という結論に至った。任命されたのは藤原資通。彼は源義家の腹心であり、源義家とともに後三年の役を戦ったという実績も持っている。ゆえに、単なる官僚の派遣ではなく、いざとなれば武力を行使できると匂わせた上での調査員の派遣である。
 京都から福岡まで、新幹線に乗れば、あるいは飛行機に乗れば、日帰りで往復するなど簡単に済む現在と違い、この時代、京都と太宰府の往復は、瀬戸内海の航海で風に恵まれたとしても一カ月、常識で考えれば二カ月は要する。ゆえに、出発した藤原資通からの連絡が一カ月や二カ月は来ないことは誰も何とも思わなかった。それが三カ月、四カ月と増えて行くと何か起こったのではないかと怪しく感じるものであるが、この時点ではまだその怪しさの萌芽も見えていない。


 康和三(一一〇一)年という年は、議政官を構成する貴族の内訳で特色の見られた年でもあった。それまで圧倒的大多数を占めていた藤原北家が、ちょうど半分へと減ったのだ。現在の感覚で行くと、議席数の減少で一つの政党だけでの単独政権が成立しなくなり、連立政権によって過半数を獲得するという体制が成立したというところか。
 もっとも、それでも藤原北家は議政官において与党であるし、藤原北家を無視した政治は展開できないという現実はあった。
 問題は、ここ近年の藤原北家が庶民の支持を得てきたか、庶民の期待に応えられるだけの成果を残してきたかという点である。その答えは、否、であった。
 特に、比叡山延暦寺と園城寺との対立、また、南都北嶺の対立といった宗教を軸とするデモ集団が暴れ回る状況を抑えることができずにいたことは支持を失わせるに充分であった。
 ここに九州で暴れ回っている対馬国司を朝廷が抑え付けられずにいるという話が加わる。この時点ではまだ大江匡房からの報告しか届いておらず、本当に暴れ回っているのかどうかという真偽はわからない。さらに言えば、朝廷への報告としては届いていても、庶民が耳にできる噂話としては平安京にまで届いてきてはいない。この時代、マスメディアなど無い。
 この頃、庶民の支持を一手に集めるようになっていたのが白河法皇であった。この時点ではまだ明瞭な形で院政が成立したとは言い切れていない。しかし、白河法皇は政権から一歩引いた身であるがゆえに責任を持つ必要はなく、それでいて理想を自由に語れる立場にあったのだ。現在の感覚で行くと、政権交代を体験する前の野党というところか。現在の我々は民主党政権への政権交代が取り返しのつかない大惨事であったことを知っているが、政権交代を迎える前、大惨事を迎えるであろうことを知っていたのは一定以上の知性を持つ人たちだけであった。この時代でも状況は同じである。白河法皇が勢いを伸ばし、藤原北家の勢力が衰えてきているということは、新しい権力が間も無く生まれることを期待させることであった。そして、その期待に応えられるかどうかと疑念を持つ者は少なかった。

 僧侶たちのデモ騒動を、当の僧侶たちはどう思っていたのか?
 結論から記すと特に何とも思っていなかった。
 自分たちの権利が侵害されている、つまり、あくまでも被害者として、自分たちが本来ならば手にしているはずの権利を取り戻すために行動していると考えていたのである。
 無論、この状況がおかしいと考えている者もいた。後に鎌倉仏教と総称されることとなる新しい仏教の萌芽もこの時代には既に見られていた。ただ、それはあまりにも小さく、社会的なムーヴメントとはなっていなかった。
 本来であれば庶民の暮らしを守るのが執政者に課せられた役割の一つであるのだが、迷惑なデモ騒動に対する庶民の反発を知ってはいても、その思いに朝廷が応えることはできなかった。迷惑千万ではあっても違法ではなかったのだ。
 この、違法ではない迷惑千万な存在に向かい合ったのが白河法皇である。あくまでも白河法皇の住まいの北側を守るために指摘に雇われた警備員という立場であったが、白河法皇は武力を個人的に雇い入れたのだ。守る対象も、名目上は白河法皇であるが、実質上は平安京とその周辺全域になり、この武力は法に違反しているわけではない寺院のデモ騒動を食い止めることも厭わなかった。彼らの行動はあくまでも白河法皇の身辺警護であり、白河法皇の身から遠く離れることになったとしても問題扱いされなかった。何より、彼らは庶民の支持を集めることに成功していた。
 「北面の武士」と総称される彼らがいつ頃誕生したのかを示す明確な記録はない。そのスタートも、かつて検非違使だった者を白河法皇個人の護衛のためにスカウトしたということになっており、名目上は武士を集めたという意味合いを持っていない。にもかかわらず、彼らは「北面の武士」と総称される。
 創設時のメンバーとして確認できる面々のうち最低六名は元検非違使が含まれている。そのうち五名は元検非違使であると同時に元国司でもあるという、貴族としてもかなりのレベルにあった面々である。もっとも、かなりのレベルではあっても、藤原北家でなければ主要なポジションに就けない時代が長く続いていたこともあって、中央政界での出世を諦めた者は数多くいた。白河法皇がスカウトしたのはそうした面々である。
 いかに元検非違使であると言っても、北面の武士と呼ばれるまでの武力の持ち主であるとは限らない。しかし、彼らは元検非違使であると同時に元国司という人脈を利用できた。そう、白河法皇のスカウトした面々の補佐役となる武士たちである。白河法皇は武士と個人的な接点を持たず、接点を持つのはあくまでも、白河法皇の個人的なボディーガードを名目にした検非違使経験者である貴族たち。その検非違使経験者である貴族たちが、検非違使であった頃、あるいは国司であった頃に接点を持った各地の武士団に声をかけて、自分の仕事を手伝わせるために京都に呼び寄せた結果できあがったのが北面の武士という集団なのである。

 それにしても、白河法皇はどうしてこのような回りくどい方法を選んだのか?
 忘れてはならないのは、北面の武士を結集させた表向きの理由と本来の理由である。北面の武士はあくまでも白河法皇個人を守るために白河法皇が元検非違使である貴族たちを呼び寄せたのであり、比叡山延暦寺や園城寺、興福寺といった諸々の寺院勢力のデモ集団をターゲットにしたわけではない。ゆえに、ターゲットにされた側にとっては文句を言うことなどできない。そう、あくまでも、名目上は。
 ところが、その名目を覆すレベルで各地の武士団が白河法皇個人のもとに集結してきており、どう考えても白河法皇個人どころか平安京全体を支配下に置きかねない武力集団になってきたとなると、ターゲットとされた側も黙ってはいられなくなる。
 暴れ回る存在に対し別の力で対向するというのは定石であるが、まさにその勢力がぶつかる場所で日常を過ごすとなると、平安京に住む庶民はどう感じるであろうか?
 白河法皇はこの点に配慮して一つの指令を出している。
 北面の武士に対し、デモ集団に対する武力行使を禁止するという指令である。特に弓矢の使用禁止である。デモ集団と対峙したとしても北面の武士から攻撃を仕掛けてはならず威嚇するだけに留めておき、攻撃を仕掛けてくる者がいたならばその個人だけを逮捕せよというのが白河法皇の出した指令であった。
 これは現在でもデモ隊鎮圧に向かう機動隊に対して向けられる指令と同じである。何しろデモ隊は自分のしていることが犯罪だと理解していない。自分の行動が正義であると信じ切っている者に対して、それが犯罪であると諭しても聞く耳を持たないし、それ以前にそのような知性を持ち合わせていない。それに、間もなく暴動に発展しそうであろうというときでも、暴動が起こる前にデモ隊の行動を食い止めるのは法的にグレーゾーンである。治安のためには正しいが、法で考えると正しくない。犯罪に発展する可能性が高い集団に対してまだ犯罪をしていない段階で逮捕するのは容易ではないのだ。
 ゆえに、取り締まりをするとすれば犯罪が始まってからとなる。いかに正義であるという感情を持っていても、殴りかかったり、あるいは武器を振り回したりすれば、それは犯罪として逮捕されてもおかしくない話となる。逮捕されて有罪となり、それがいかに正義のための行動であると主張したとしても、法は、正義であるか否かではなく、実際にあったとされる行為に基づいて刑罰を決める。こうなってようやく、公式記録には合法な逮捕で合法な処罰となる。もっともデモ集団側には不当な逮捕で不当な監禁となるが。
 このときの白河法皇の指令のような行動は、法の上では正しくとも、感情としては正しいとは言えないものとなる。まさに暴れ出そうとしている存在が目の前にいるのに暴れ出す直前まで黙って見ていろというのだ。平安京の庶民たちは北面の武士に期待を寄せてはいた。

 それにしても、いざ北面の武士がその姿を見せ、さあ、これで自分たちの安全は守られると期待していたところで待っていたのがこの現実である。
 期待が高まっていただけに、失望は大きかった。
 白河法皇は庶民のこの感情を理解しなかったのか? そんなことはない。そんなことはないが、庶民の感情をそのまま実現させたときに待っているであろう未来は、平安京を舞台とする大規模な合戦だ。デモ集団と北面の武士たちとが殺し合い、その流れで家が焼かれ、多くの民衆が巻き添えをくらい、京都が死体の転がる焼け野原になるというものである。デモ集団の完全な駆逐を願い、鮮やかな勝利を信じる感情も存在するが、それは楽観的すぎる感情である。まともに戦えば、よくて五分五分、冷静に戦力差を比較すれば、いかに北面の武士たちが精鋭ぞろいであると言っても、寺院の繰り出すデモ集団の前には敗れ去る未来が見える。ゆえに、向こうが動き出すまでこちらから手を出すなというのは、法に基づく判断として正しいし、冷静な判断としても正しい。感情としては正しいとは言えないというだけで。
 庶民は北面の武士の軍事力を信じていたし、鮮やかな勝利と、デモ集団の壊滅という最高の成果を信じていたが、その想いは白河法皇の手によって封じられてしまった。ただし、デモ集団を一時的に封じ込める役割は果たしたのである。庶民の失望はあっても、デモ集団はその意図するところを理解していた。これから平安京に乗り込んで、あるいは平安京の近くまで行ってデモを見せつけようとしても、そこには北面の武士たちが構えている。彼らとて、北面の武士のほうから攻め込んでこないことは理解している。しかし、いくら向こうから攻め込んで来ないとは言っても、一歩でも北面の武士側に対して攻撃を、あるいは、攻撃とられるような行動を見せようものなら、待っているのは法に基づく逮捕だ。逮捕のためにぶつかり合い、真正面からの殺し合いとまで発展した場合、白河法皇はよくて五分五分だと考えたが、これはデモ集団側も同じである。完敗を喫しないであろうことは計算できても、失われる命が多すぎる。おまけに、北面の武士は法に基づく行動を見せるのであるから、いかに神罰や仏罰を唱えようと、寺院側のほうが処罰の対象となる。
 もっとも、デモという集団狂気に身を投じている人間相手に冷静な判断を求めるのは難しい。中には冷静な判断をできる者もいるが、できない者もいる。と言うより、できない者のほうが多い。冷静な判断ができず、デモによって自分たちの意思を示せば相手は完全に屈服すると信じきっているところに、法によって処罰されるだとか、北面の武士には侮れない軍事力があるだとかという説得は通用しない。冷静になれた者はデモを取りやめようと訴え、冷静を失っている者はデモを続けようと訴える。
 その結果が康和三(一一〇一)年一二月三日に最悪の結末を招いた。延暦寺の僧徒らが互いに殺しあう事態になったのだ。学生運動にしろ、あるいは革命にしろ、急進的で、そして、あまり知的レベルのよろしくない集団でよく見られる仲間殺しが、このときの延暦寺でも発生したのである。

 白河法皇の支持率は、この時点では決して高いものとは言えなくなってしまった。特に、その弱腰の姿勢は当時の庶民にとって歯痒さとやるせなさを感じさせるものになってしまった。
 と同時に、白河法皇を超える存在が相対的に力を減じてきてもいた。いかに白河法皇の支持率が低くとも、代わりの存在がいない以上、白河法皇が最高権力者とならざるを得ないのである。特に藤原北家の勢力の衰退は目を覆うばかりであった。かつては議政官の圧倒的多数を占め、大臣職は四つとも、その他の議政官の職務も藤原北家以外は各役職に一人いるかいないかというところであったのだが、康和三(一一〇一)年末時点では、源氏の公卿の数が藤原氏に並ぶまでになったのだ。
 上皇や法皇が絶対的権力者として君臨する時代になったと、現在の我々が院政と呼ぶような時代になったと、康和三(一一〇一)年時点の人が明確に把握するようになったわけではない。なったわけではないが、藤原時代の衰退、さらに言えば、藤原氏の時代の終わりが近づいていると感じるようにはなっていた。特に、藤原氏のトップであるはずの藤原忠実の存在感の無さは、藤原氏の終焉を予期させるに充分であった。世の中には存在感が薄くとも必要不可欠な仕事をこなしている人もいるが、藤原忠実にはそれもなかった。必要不可欠の反意語とすべきか「不要可欠」な存在にまで落ちぶれてしまっていたのである。右大臣であり内覧であるという点で藤原氏のトップであると同時に無二の存在になってはいたが、右大臣にしろ、内覧にしろ、統治機構における必要不可欠なポストではない。何となれば、不在でも政務は回る。
 ここに、藤原忠実自身の意欲の乏しさが加わる。命令を出しながら誰も命令に従わないというならば、それはそれで問題であるが、命令を出すだけまだマシだといえる。何しろ、このときの藤原忠実は命令すら出していないのだ。命令があれば動けるという仕組みを用意されてはいたのに、その命令を出すことがなかったのである。藤原忠実は言うだろう。あくまでも議政官の議決で国政を動かすべきであると。だが、全ての国政において、左大臣から参議に至る全ての議政官に招集をかけ、議論をし、その決議をもって議案と成すというのは時間がかかって仕方ない。だからこそ、議政官に諮ることなく独断で命令を下すだけの権限が摂関家にはあるのだ。この権限は確かに律令のどこにも書いていない。関白は天皇の相談役であって関白の判断が最終決定とはなるわけではないし、藤氏長者にいたっては一民間人の家庭内における称号である。しかし、関白ともなれば議政官に諮っていられる時間のないときに天皇に直接働きかけることで即断することもできるし、藤氏長者となれば一民間人としての個人的なつながりで人を動かすこともできる。藤原忠実は内覧であって関白ではないが、次期関白が決定している身となれば関白に相当する権力の行使も不可能ではなかったし、藤氏長者として私的な権力の行使も可能であったのだ。それをせずに放置し続けていることは、法の上では正しくとも、庶民感情としては受け入れがたいものがある。
 白河法皇も藤原忠実も法の上では何ら間違ったことはしていない。そして、庶民感情を充足させていないことでも共通している。その結果、両者ともが高い支持を得ることができなくなっている。二大政党制において、政権与党となりうる二つの政党がともに絶望的な支持率しか獲得できていない状況と言えば理解いただけるであろうか。そして、低い支持率同士の争いで、白河法皇が少しだけリードしているというのがこの時点での状況であった。

 白河法皇はこの差を最大限に生かそうとする。康和四(一一〇二)年一月一五日、高階宗章を蔵人として強く推薦し、その推薦が受け入れられた高階宗章は蔵人に就任した。ここまでであれば藤原氏でも源氏でもない者の蔵人就任ということで、白河法皇の強い推薦という一点を除いて特筆すべき内容ではなくなるが、この新しい蔵人が一二歳となると話は変わる。それまでにも若き蔵人が誕生したことはあるが、それらはいずれも藤原氏、あるいは源氏の子弟の蔵人就任であり、そのどちらでもない氏族の者が若くして蔵人に就任するというのは前代未聞の出来事であった。ただ、前代未聞ではあるが、藤原氏や源氏が特別扱いされていることの方が間違っており、他の氏族であろうと「優秀な者ならば」若くして登用されることは何らおかしくないという表向きの説明をされると何ら文句を言えなくなる。
 これで、生まれの氏族を理由に出世を諦めていた者に希望が生まれた。さすがに一二歳の蔵人というのは若すぎるが、同い年でありながら、単に藤原氏であると言うだけで抜擢されるのを羨望の目で見つめるだけしかできなかったのが通例であったのに、その通例は無くなったのだ。それまで当たり前と考えてきた理不尽が当たり前ではないと気づいたとき、それまで理不尽で恵まれてきた思いをしてきた者に心を許すことは難しい。表面上は友好関係のように見えても、心のどこかで屈折した思いを抱き続けることとなる。これを白河法皇は利用できるようになった。生まれの氏族が理由で出世できずにいた者は藤原摂関家に近寄ることで出世を果たそうとしていたが、藤原摂関家に近づかなくとも出世を果たせる道ができたとあっては、それも藤原摂関家に近づくよりもより高い結果を得られる道ができたとあっては、藤原摂関家をわざわざ選ぶ必要が無くなったのである。これにより白河法皇は人材を獲得し、藤原摂関家は人材を減らすこととなった。
 さらに、白河法皇は自らの血筋を最大限に利用した。平安時代に誕生日という概念はないが、自分が何歳かという概念ならばある。そして、康和四(一一〇二)年という年は白河法皇が五〇歳になる年であった。そこで、この年の三月一八日に、白河法皇の五〇歳を祝う行事を鳥羽殿において開催するとしたのである。しかも主催は堀河天皇だ。あくまでも父の五〇歳を祝う祝典を息子が開催するという建前である。だが、いかに実父とは言え、現役の天皇が一主催者としてイベントを開催するというのは異例中の異例であった。その上、このイベントでは堀河天皇自らが、白河法皇の五〇歳を祝す笛を吹奏したのである。
 この時代、笛や琴を奏でる趣味を持つ者は多かった。貴族だけでなく皇族でも演奏を趣味とする者は多かったし、その腕前を披露することも珍しくなかった。ただし、それはあくまでもプライベートの場においての話であり、オフィシャルな場でそれは該当しない。オフィシャルな場における皇族や貴族は、音楽を聴くことはあっても、自らの腕前を披露するというのは考えられない話だったのである。強いて挙げれば、自分より格上の存在を前にして奏でる。これならば演奏もおかしな話ではなかった。となると、日本国最高の存在である天皇がオフィシャルな場で誰かのために演奏するというのは、前代未聞を通り越し、白河法皇は天皇以上の存在であると宣言するに等しい行為だったのである。白河法皇はあくまでも息子が父のために吹奏したという立場を貫いたが、その建前を信じる者はいなかった。

 一方で、白河法皇は寺院のデモの対処を右大臣に一任させている。これもまた法の上ではおかしな話ではない。北面の武士が結成されたと言っても、北面の武士は白河法皇を個人的に守るためのボディーガードであり、日本国内の治安安定の責務は議政官にあるというのは間違った話ではない。間違った話ではないが、右大臣藤原忠実のこれまでを考えた上での判断だとしたら、これはかなりのレベルでの嫌がらせにすらなる。実際、康和四(一一〇二)年五月八日に発生した比叡山延暦寺のデモについて藤原忠実は何もできず、二カ月もの長きに渡る争いとなったのである。
 デモではなく争いと書いたのは間違いではない。康和四(一一〇二)年五月八日に発生したデモは、比叡山延暦寺に属する仁源を法成寺長吏とするよう求めた運動であった。


 藤原道長の建立した法成寺は平安京のすぐ隣にある、立地条件だけみてもこれ以上ない存在の寺院である。何しろ、道路一本挟めばそこは藤原道長の邸宅であった土御門殿、京都二条の貴族の邸宅街の東端である。おまけに、藤原道長の命令によって、寺院であると同時に平安京内外の庶民の憩いの場となるように設計され、公開されている。つまり、貴族の邸宅のすぐ近くでありながら、庶民の声を集めることも可能な寺院なのだ。その寺院のトップに自分たちの派閥に属する僧侶を就任させるよう求めるのは、許されるかどうかは別として、要求としてわからないではない。
 このわからないではない要求を、比叡山延暦寺と対抗する円城寺が黙ってみているわけはなく、仁源の法成寺長吏就任反対を掲げたデモ隊を組織するに至った。デモ隊のターゲットは右大臣藤原忠実。白河法皇からは寺院からの要求を右大臣が窓口となって受けるように命じられているのであるから、正確に言えば、法の上でそうなっていることを再確認する声明が出ているのであるから、ターゲットとなるのはおかしな話ではない。
 全く異なる意見を持つ二つのデモ隊が真正面から向かい合ったらどうなるか?
 和気藹々とした光景になるわけなどない。
 結果は、殴り合い。それも、二カ月もの長きに渡るものであった。
 幸いなことと言うべきか、ここで北面の武士が出てくるような場面を迎えることはなかった。しかし、目の前で暴れ回っているデモ隊に対して何もできずにいる朝廷、そして、その責任者であるはずの藤原忠実に対する失望はより強まった。

 藤原忠実に対する失望だけでなく、時代は、藤原氏全体の低下も感じ取っていた。
 その低下を最も如実に感じ取ることができたのが康和四(一一〇二)年六月二三日のことである。この日、除目、すなわち貴族の人事異動があった。それだけであれば年に一度や二度、よほどのことがあったとしても数年に一度は絶対にある話であるが、この日の除目の結果は通例と違っていた。なんと、議政官の過半数を村上源氏が占めるようになったのである。これで藤原独裁の基板の一つである議政官決議の独占は終了した。
 いかに藤原氏の勢力が落ちていようと、これまでは議政官の過半数、現在の感覚で行くと国会の過半数を政権与党が担っていた。横暴であるという批判を受けようと、数の暴力であるという批判を受けようと、藤原氏が一枚岩になればどんな法案であろうと議政官を通すことができたし、それを知っているからこそ、多くの人が藤原氏の威光を利用としようとしてきたのである。荘園の持ち主を藤原氏であるということにする者もいたし、藤原氏に陳情して自らの意見を国政に反映させようとする者もいた。要は政治献金とロビー活動だ。それらが全て、このときに終わった。
 藤原独裁が終わったことは新しい現実と直面することを意味してもいた。特に過半数を握ることとなった村上源氏に藤原氏の代わりは務まるだろうかという点が疑問視されるようになり、その点が難しいというのが新たな現実としてクローズアップされるようになった。何度も繰り返すが、藤原氏というのは現在の自民党のような集団なのだ。自民党はその歴史において政権を失うことが何度かあったが、その全てが失敗に終わっている。失敗に終わった理由は新たな政権の担い手となった者の知性の不足がもっとも大きな理由であるが、自民党に取って代わるだけの組織を作り上げることに失敗していたことも忘れてはならない。これは一千年前の村上源氏も同じであり、日本全国津々浦々まで及んでいた藤原氏の巨大なネットワークの代替を村上源氏が作り上げることなどできなかったのだ。
 それはそうだ。藤原良房に始まる藤原独裁の歴史は二〇〇年に及んでいる。それまで多くの藤原氏が日本の国政の、あるいは地方の政務の中心を占め、数多くの人材を生み出し、そうした人材は京都だけでなく日本全国、さらには国境の外にまで足を運び、定住し、結果として京都を中心とする巨大なネットワークを作り上げてきたのである。さらに、清和源氏や平氏といった武士たちもこのネットワークに組み込まれており、国政に文武双方で影響を与えることのできる巨大組織となっている。
 かといって藤原独裁は一党独裁のファシズムではない。事実上はともかく名目上の藤原氏は、国政に存在する数多くの勢力の一つであり、その勢力がたまたま国政の過半数を握っているというだけなのだ。そう、名目上は。そして、このときの藤原独裁の終焉も、名目上は数多く存在する諸党派の争いの結果に過ぎず、何の問題もないこととされていたのだ。そう、名目上は。
 だが、実際問題、二〇〇年に渡って国政を一手に握ってきた勢力に取って代わるだけの勢力を一瞬で生み出すことができるなどあり得ようか? 村上源氏はたしかにこの時代における国政の第二勢力であった。それが第一勢力となったのは、村上源氏が勢力を作り上げたからではなく、藤原氏が勢力を減らしてきたからである。絶対的なものではなく相対的なものなのだ。
 藤原独裁の終焉を新しい時代の開幕と考える人はいた。全ての社会問題は藤原独裁が根幹であり、藤原独裁を終えればそれで社会問題は自動的に解決すると考える人たちである。実現してしまった後の現実は、どんなに激しい反藤原感情の人でも落胆せざるを得ない内容であるとは知らないまま……


 藤原独裁の終焉を迎えたとき、政権中枢は、左大臣源俊房、右大臣藤原忠実、内大臣源雅実という構成であった。右大臣藤原忠実だけが藤原氏で、残る二名は村上源氏である。ただし、藤原忠実は内覧でもあり、現時点ではまだ就任していないが、事実上ただ一人の摂関候補である。
 右大臣藤原忠実は、白河法皇から直々に寺社のデモの対策を命じられている。デモをするなとは言わないが、デモをするなら朝廷全体ではなく、右大臣藤原忠実に訴えるようにという命令である。ただし、藤原忠実がその命令にかけた期待に応えることができるかとなると甚だ問題であるが。
 この、寺社の繰り出すデモの問題が看過ならないレベルに達していることを誰もが実感したのが康和四(一一〇二)年八月五日のことである。この日、興福寺の僧徒たちが武装蜂起したのだ。寺社のデモはいつ武装蜂起してもおかしくないところに達していたのである。それに気付かぬまま、あるいは気づいていながら先送りし、その対策を右大臣藤原忠実に押し付けた結果がこの有様であった。無論、右大臣藤原忠実は何もできずにいる。何かできるようならそもそもデモが武装蜂起に至ることなどないのだが、それに気づいたときにはもう遅かった。
 せめてもの救いは、京都から少しは距離が離れている奈良の地で起こった武装蜂起だという点。それでも奈良から京都への距離と時間は対岸の火事で済ませられるものではない。その気になれば一日で奈良から京都にまで到着できてしまうのだ。奈良の地で暴れ回っている武装勢力が、暴れ回る地を奈良から京都に変えるというのはそう簡単にできる話ではないが、それでも、いつ奈良の地から武装勢力が押し寄せてくるかわからないという恐怖は平安京を包みこませるに充分であった。
 白河法皇はまず、宇治橋の破壊を命じた。平安京の南の宇治の地に流れる宇治川、その川に架かる橋である宇治橋を使い物にならなくすれば、武装勢力が奈良から京都への最短距離を選ぶことはできなくなる。ただし、一時凌ぎでしかない。
 おまけに、白河法皇が宇治橋の破壊を命じたのは八月一二日のこと。武装蜂起の知らせは当日中に届いていたのだから、七日も経ってやっと対策を立てたという遅さである。さらに問題となるのは、このときの白河法皇の命令が平安京における最初の対策ということである。つまり、朝廷は武装蜂起に対して何もしないまま放置していたのだ。
 これで平安京の庶民が朝廷に対する信頼を深めたとすればその方がおかしい。しかも、この時はさらなる事情が重なった。藤原独裁が終わったという事情と、対策の最高責任者が藤氏長者である右大臣藤原忠実という点である。藤原独裁を批判してきた人たちは藤原忠実の無策を批判し、藤原独裁を擁護、あるいは黙認してきた人たちは新しく朝廷の最大勢力となった村上源氏に対する批判をするようになった。現在でも、政権交代後に問題が起こったとき、新政権の支持者は旧政権の責任と扱い、旧政権の支持者は新政権の責任を追及するが、その構図はこの時代も変わらない。そして、批判をしても問題解決にはつながらないという点も現在と変わらない。

 いつ興福寺の武装勢力が平安京にまで押し寄せてくるかと恐怖していたとき、最初に平安京に姿を見せた武装勢力は興福寺ではなかった。押し寄せたのは東大寺の僧徒である。考えてみれば不思議はない。奈良の地で最大勢力となっている興福寺にとって、奈良の勢力第二位である東大寺は目障りな存在でしかない。しかも、デモは武装蜂起へと発展している。デモというものは、目的は何かしらの願いを実現させることであるが、正体は自分が堂々と暴れ回ることを正当化することに尽きる。重要なのは暴れ回ることであり、題目として掲げる正義は二番手以下の役割しか有さない。
 自分たちは正しいことをしていると考えている武装勢力にとって、目と鼻の先に存在する対抗勢力以上に攻撃をぶつけやすい対象はない。名目は正義の実現であっても、実体は自己陶酔が生み出すただの破壊である。興福寺の自己陶酔は、目と鼻の先にある東大寺に武力で押し寄せることで実現した。名目などどうでもいい。暴れることだけが目的である。
 東大寺にとっては迷惑千万な話である。かといって、この時の東大寺に暴れ回る興福寺の武装勢力を抑える軍事力は無かった。少し前であれば清和源氏に武器を持たせるという方法がとれたが、このときの朝廷にはその方法を選ぶなどできなかった。ただでさえ源義親が九州で暴れているという知らせを受けており、その調査のための人員を派遣している状況である。ここで清和源氏を動かすとなると、九州で暴れている源義親の父親である源義家を動かすということとなるのだが、それは九州の調査を白紙に戻すことを意味する。
 それに、清和源氏を朝廷は冷遇するようになっていた。ここで手のひらを返して武器を持って武装勢力に立ち向かえと命令しても、それまで冷遇しておいて何を言うかという話である。清和源氏がそこまで考えていなかったとしても、清和源氏の抱いている不満は大きく、武装勢力の鎮圧どころか武装勢力への加担すら懸念される話であった。
 では、清和源氏以外の武士団はどうか?
 まず、北面の武士は期待できない。北面の武士は白河法皇個人のボディーガードであり、朝廷権力で動かすことのできる集団ではないのだ。さらに言えば、源義家に対するほどではないにせよ、北面の武士の面々も冷遇から無縁であったわけではない。元検非違使であった者の下に無位無官の武士が集うというのが白河法皇の組織した北面の武士の構成であり、全員がそうであるとは言えないにせよ、その多くが朝廷に対する失望と、その失望を読み取った白河法皇からの期待に応えた結果が北面の武士なのである。
 源氏と並び評されることとなる平氏はどうか?
 これはいちばん無理な話である。平氏、中でも伊勢平氏はこれから五〇年も経たずに武士の時代における主軸を担うこととなる家系であるし、この時代においても既に著名な武士団として知られるようになってはいた。知られるようになってはいたが、それは白河法皇の忠実な腹心としての武士団としてであり、北面の武士の武力の中心をなす武力としてである。朝廷で位階を持つ貴族社会の一員であることは間違いないのだが、この時点から数年後ならばともかく、康和四(一一〇二)年時点ではまだ、朝廷が平氏に動員を命じることは不可能に近かったのだ。

 このように記すと、朝廷には全く軍事力がなかったかのように、あるいは警察権力がなかったかのように見えてしまうが、無論、そのようなことはない。左右の近衛大将をトップとする武官のヒエラルキーが朝廷機構の中に存在していたし、現在の警察権力に相当するだけでなく、現在では三権の一つである司法権をも有している、つまり、逮捕した者がそのまま裁判をして判決を下すことのできる検非違使という組織もある。
 ところが、武官はとっくに有名無実化していた。それでも武士を貴族の一員として扱い、近衛府の、特にそのトップである左近衛大将の指揮命令下に置くことはできていたが、武士団に対する命令権の発動はほぼ不可能であった。使命感に訴え出て役職を果たすよう求めても、武士団からの返事は見返りを求めるというもの。役職であったり荘園であったりといった実利ある褒賞がなければ、武士団は赤の他人のために動くなどしない。その一方でコメ一粒すら手に入ることもないのに武士団が動くこともあるが、それは武士団と貴族の個人的なつながりによるものであって、統治機構に組み込まれての命令によるものではない。
 では、検非違使はどうか? 検非違使は、区分で言うとたしかに武官ではある。ただし、武士団の一員である者が検非違使に就くこともあるといっても、基本は貴族本人やその子弟が任命されるという職種である。そして、検非違使に任命される貴族というのは、検非違使の職に就きたい者ではなく貴族の出世の階段を一歩また一歩と登ることを求める者である。つまり、検非違使とは自分のキャリアの一時期を過ごす職務であるというだけで、人生を捧げる職務ではなかったのだ。任官中に何の問題も起こらなければそれで良し、何かあったとしても揉み消せればそれで良しという態度に終始するのが当たり前なのだ。
 武士に対する褒賞を用意することで北面の武士を結成することに成功した白河法皇と違い、朝廷は武士に対する明確な褒賞を用意できなかった。理論上は用意しようとすれば可能であったが、武士に褒賞を与えることは、武士よりも格上と考えている貴族の猛反発を買う話であるのだ。今は武士の能力を必要としているのだという説得をしても、武士団が現在進行形でしていることを持ち出されると黙り込むしかない。
 九州では清和源氏の源義親が暴れている、らしい。こちらは噂の話。
 一方、北面の武士の一員である平正盛は、荘園の領有権をめぐって大中臣親定と争っていた。こちらは噂のレベルでは済まず、実際に被害を生みだしている話であり、康和四(一一〇二)年一〇月一五日の記録として、平正盛と大中臣親定の荘園をめぐる争論の記録がある。
 武士団が今まさにやっていることを出されると、武士を利用する武装蜂起の鎮圧は反発が出る。かといって、武装勢力をそのまま放置していいとは誰も思っていない。
 朝廷がやったことと言えば、康和四(一一〇二)年一〇月一九日、平安京の治安対策として検非違使の夜間勤務を命じたことぐらいである。


 九州で暴れているという源義親の調査のために藤原資通を派遣させたことは既に述べた。問題はそれから音信不通になってしまったことである。正式な連絡が無くなったのではなく、噂話というレベルですら平安京にまで届かなくなってしまったのである。
 情報催促の末にようやく届いた九州からの第一報はショッキングなものであった。調査員として派遣したはずの藤原資通が源義親と行動を共にするようになったというのである。その中には、朝廷に仕える官吏を殺害したというものまで含まれていた。これが本当なら明白な叛旗である。
 朝廷はただちに源義親と藤原資通の両名を追放刑に処すと発表した。流刑先は隠岐国。流刑としてはかなり重いものであるが、かつての小野篁の例にもあるように、赦免されて中央官界への復帰を期待できる流刑先でもあった。
 康和四(一一〇二)年一二月二八日、まずは前対馬守源義親を隠岐国に配流するとの発表があった。この時点で藤原資通に対する処罰は発表されていない。そして、官吏殺害という大罪を以て朝廷に逆らったはずの源義親はこの処罰を受け入れている。中央官界復帰を期待できるという温情に期待したのか、あるいは、そもそも朝廷に逆らう意思自体を持っていなかったのか。
 これまでの動きを源義親は掴んでいたのか? 結論から言うと掴めていなかったのではないかと思われる。なぜかというと、隠岐への流刑を受け入れ、対馬から太宰府にいったん戻った後、九州を出て山陽道を進み出雲国までは向かったが、足取りはそこでストップしてしまったのだ。流刑を受け入れていることを示すために、罪人とされた者は流刑地までの各国の国司のもとに顔を出す必要がある。源義親もそれを守っている。ところが、あとは隠岐まで船に乗って日本海を渡るだけとなったところで出雲国衙に籠もることとなったのである。記録によると、このときに出雲国衙に勤務する地方役人を殺害して官物を奪ったとある。また、このときに殺害されたのは地方役人ではなく国司であるとも、国司代理として出雲国に派遣されていた目代であったとも言うが、目代はともかく、国司本人の殺害はあり得ない。なぜかというと、承徳元(一〇九七)年から康和五(一一〇三)年の七年間に渡って出雲国司をつとめた藤原忠清が康和六(一一〇四)年に淡路国司に異動となったことに加え、その後任である藤原家保が康和六(一一〇四)年から天仁元(一一〇八)年まで出雲国司を勤めたという記録が存在するのである。そして、このどこにも国司殺害という記録はない。


いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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