平家起つ 5.平家の経済政策 応保元(一一六一)年九月一三日、大規模な人事異動が発表された。 まず、藤原公能の死去により空席となっていた右大臣に、内大臣藤原基房が昇格。これにより、藤原基房が一上(いちのかみ)としての職務を遂行できるようになった。 空席となった内大臣に大納言筆頭であった藤原宗能が昇格。年齢から一上としての職務の遂行が懸念されていた藤原宗能であるが、左大臣が一九歳、右大臣が一八歳という異例な体制、特に経験不足への危惧に対する答えとして、経験実績ともに申し分ない内大臣が控えるというのは望ましい形式である。また、七八歳と言う高齢を考えたときも、大納言筆頭であるより内大臣であるほうが少ない負担ですむ。 藤原宗能が抜けた大納言職には、三八歳の権大納言藤原忠雅と四四歳の権大納言源雅通の二人が揃って昇格した。 二人が抜けた権大納言職には、藤原忠通の六男で、後に九条兼実と呼ばれることとなる権中納言藤原兼実が昇格。また、中納言藤原公通が権中納言を飛ばして昇格した。藤原公通は四五歳であるが、藤原兼実はこのときまだ一四歳である。一四歳の権大納言は若すぎると感じるであろうが、左大臣藤原基実と右大臣藤原基房の二人に次ぐ藤原摂関家の後継者としてはごく普通としてよい待遇である。 中納言の空席を埋めたのが権中納言藤原実長、そして、藤原実長の抜けた権中納言の空席を埋めたのが、参議平清盛。平清盛は検非違使別当と右衛門督の兼任を継続している。正確に言えば参議から権中納言に昇格する際に改めて任命し直されているのだが、これは儀礼的なものであり、継続するか任命し直すかは特に意味は持たない。 平清盛を参議より上の役職とすることは避けられぬことであり、昇格した後も検非違使別当を兼ねることもまた不可避であった。問題は、誰を平清盛のあとの参議とするかということ、具体的には、平清盛の後継者であり、平家の序列で二番目に位置する二四歳の平重盛を参議にするかどうかという問題に絞られていた。平重盛は従四位上内蔵頭であり、位階を一つあげれば参議として議政官入りすることは可能だ。しかし、三位以上の位階でありながら参議につけずにいる者は応保元(一一六一)年九月時点で六名いた。正三位が一名で従三位が五名である。特に正三位でありながら参議にもなることなく、既に六三歳を迎えていた藤原親隆の処遇が問題であったのがこのときである。 結論から記すと、九月一三日に参議に昇格したのは、平重盛でも藤原親隆でもなく、三五歳の従三位左京大夫の藤原隆季である。現在で言うと東京都副知事が国会議員になるようなもので、順当とするしかない。 そう、九月一三日時点では。2021.06.01 10:40
平家起つ 4.平治の乱の戦後処理と二条天皇親政 藤原経宗と藤原惟方の二人の貴族は逮捕されたが、裁判はまだ始まっていない。 その一方で別の判決が下った。 信西の息子達に対する追放命令が白紙撤回されたのである。 信西の息子達を追放刑に処したのは藤原信頼であるが、その命令は藤原信頼の死後も有効であり続けていた。信西の息子達は追放解除となったのではなく、追放命令そのものが間違っていたと宣告され、ただちに帰京するよう命じられた。 藤原信頼の下した追放命令が平治元(一一五九)年一二月二七日にも解除されなかったのは藤原経宗と藤原惟方の二人が藤原信頼の死後も命令を遂行していたからであるとし、藤原経宗と藤原惟方の二人が逮捕された以上、藤原信頼の命令は無効となるというロジックである。 後白河上皇の藤原経宗と藤原惟方の二人に対する憎しみがいかに強かったとは言え、内裏に悲鳴が響き渡るほどの拷問は関係者に対する密かな反発を生む。拷問を見せつけて恐怖を植え付けることで、後白河上皇や平家の面々に対し恐怖から服従する人を増やすことはあっても、敬意を持って服従する人を増やすことはあり得ない。そのための対策の一つが、拷問にあった二人がいかに悪人であったかを宣伝することである。拷問ではなく正義の鉄槌ということにし、二人が逮捕され拷問を受けたことは正しかったのだとする考えを広めることである。その中の一つが、信西が惨殺されたことを思い出させることと、信西の息子達がまだ追放の身に遭っていることを知らしめることである。 逮捕された二人はどのような思いで信西の息子達の追放命令撤回を聞いたであろうか。 あるいは、それどころでは無かったのかもしれない。信西が何をされたか、藤原信頼がどうなったか、そして、清和源氏の面々がどのような最期を迎えたかを二人とも知っているのだから。2021.06.01 10:30
平家起つ 3.平治の乱 藤原信頼は三条烏丸殿の外から後白河上皇に向けて宣告した。平治物語では、これまで朝廷に仕えてきたのに信西の讒言で誅せられようとしているので東国へ逃れることにすると馬上から宣告したという。しかし、三条烏丸殿の外におよそ五〇〇騎の軍勢がいてこちらを向いているのである。これは逃れようとする者のとる行動ではない。おまけに、三条烏丸殿の人達は門の外から早く火を掛けるよう促す声まで聞こえてきているのだから、これで冷静でいられる人がいたらそのほうがおかしい。 後白河上皇のもとに権中納言源師仲が駆け寄り、ここは危険なので御車に乗って避難するべきと主張し、後白河上皇と上西門院統子内親王が源師仲の言葉に促されて御車に乗りこんだ。御車に乗った後白河上皇と上西門院統子内親王は、藤原信頼と源義朝をはじめとする軍勢に守られながら内裏へと向かい、内裏の中でももっとも安全とされた一本御書所に留まるよう促された。 内裏には既に、前関白藤原忠通と、関白右大臣藤原基実の二人が到着していたのをはじめ、太政大臣藤原宗輔、左大臣藤原伊通といった主な貴族が集結していた。藤原信頼の今回の動きを前もって知っていた者も、今回になってはじめて知った者もいたが、今回の蛮行に対して不満を述べる者はいても、今回の蛮行を命懸けで食い止めようとする者はいなかった。そこにいたのは、二条天皇と後白河上皇の身の安全の確保と、いかにして自分の身を守るかを考える者だけであった。 そうした彼らを安堵させたのは、二条天皇が既に避難を終えていること、後白河上皇も間もなく一本御書所に到着することの二つの情報であった。 一本御書所は既に二条天皇が避難をしていた場所であり、たしかに内裏の中でもっとも安全な場所であった。建物そのものも安全であったが、一本御書所の外を式部大夫源重成と周防判官源季実が武装して警護しているのであるから、さらに安全度は高まる。 しかし、二条天皇は最初から、後白河上皇はここにいたってはじめて、自分が囚われの身になったことを知った。藤原信頼を側近としていた後白河上皇であるが、藤原信頼の行動は後白河上皇の想像の範囲を超えていたのだ。安全な建物に避難して警護されているのではなく、監禁され見張られるのは異常事態である。後白河上皇は実感した。二条天皇の親政とか後白河上皇の院政構築とかの話をしていられる状況ではないのだと。 それでも三条烏丸殿から御車に乗って内裏に避難できただけマシだと言える。と言うのも、三条烏丸殿では地獄の光景が繰り広げられていたのだから。 炎に包まれた三条烏丸殿から逃れようとしても、信西を逮捕するためとして武士達が立ちふさがって外に出ることができないでいる。信西の長男で三条烏丸殿にいた藤原俊憲が三条烏丸殿にいる人達の身代わりになるとして武士達の前に歩み寄ったものの、捕縛されただけで安全確保のための身代わりとはならなかった。藤原俊憲は、父信西はここにはいないと言ったが、その言葉も武士たちには届かなかった。 炎から無理して出ようとすると信西の身内の者である可能性があるとして弓矢のターゲットとされた。弓矢をかいくぐって武士達のもとに来ることのできた者だけが捕縛され、そうでなければ炎か弓矢のどちらかで損害を被った。炎から逃れようと多くの者が井戸に身を投じたが、井戸は既に人で埋まっており、早いうちに井戸に逃れた人は上からやって来る人達の重量をはねのけることができずに溺死し、あとから井戸に逃れてきた人は井戸水に触れることができずに焼死した。 左兵衛尉大江家仲と右衛門尉平康忠の二人は命を賭けてこの建物の人達を守るとして防戦に挑むも、多勢に無勢では勝ち目などなく討ち取られ、信西をかくまうことは犯罪であるという名目で二人の首は切り落とされ、長刀の先に掲げられた。 信西は三条烏丸殿にはおらず、姉小路西洞院のある信西の自宅にいるという知らせは、被害を増やすだけで三条烏丸殿の悲劇を減らす効果を持たなかった。三条烏丸殿にいる者は信西の協力者であるために有罪であり脱出を許される理由にはならないのである。姉小路西洞院でも三条烏丸殿で繰り広げられた悲劇が繰り返され、姉小路西洞院でもやはり信西の関係者であるという理由で、運が良ければ捕縛、そうでなければ炎と弓矢からなる殺戮という光景が繰り返された。 ところが、肝心の信西の姿がどこにも見つからなかった。そして、捕縛された藤原俊憲以外に信西の家族が見つかることもなかった。生き残った者を尋問すると、信西は騒ぎを聞きつけてすぐに邸宅を脱出したこと、また、藤原俊憲を除く信西の子供達もそれぞれ脱出したこと、そのうち藤原成憲は平清盛の娘と婚約している縁を頼って六波羅に避難したらしいこと、その他の者は行方不明となっていることが判明した。 この知らせを受け、ただちに信西を捜索するための部隊が出動した。2021.06.01 10:20
平家起つ 2.平治の乱前夜 保元三(一一五八)年二月三日、鳥羽法皇の第二皇女である統子内親王が後白河天皇の准母として皇后に立后された。准母とは、天皇の実の母ではない女性が天皇の母に擬されること、また、そうした女性への称号である。実母である待賢門院藤原璋子を一三年前に亡くしている後白河天皇が誰かを准母に指名することは不合理なことでは無かったが、准母として選ばれた統子内親王の素性を考えると異例であった。統子内親王は後白河天皇の一歳上の実姉なのである。 すでに述べてきたように、この時点で近衛天皇中宮の藤原呈子が皇后であり、近衛天皇皇后藤原多子の姉である藤原忻子が後白河天皇の中宮に、近衛天皇妃の藤原多子が皇太后である。ここに統子内親王が入り込むため、皇后藤原呈子が皇太后に、皇太后藤原多子が太皇太后へとスライドしたのがこのときの人事であった。 この時代の人は女性の間で起こったこのときのスライドに大いに注目していたが、同日に起こった別の人事についてはほとんど無関心であった。 この日、源義朝の三男で、この時点で一二歳の源頼朝が皇后宮少進に任命され、皇后統子内親王のもとで働くようになったのである。一二歳の少年が皇族の女性の周囲を警護する役目に選ばれたというのは、貴族の一員でもある武士の子の官界デビューとしては特筆すべきことではない。実際、長兄の源義平については不明であるが、次兄の源朝長もまた皇后統子内親王のもとで働く一人となっている。特筆すべき点があるとすれば、源頼朝は二人の兄と違って尾張国の熱田神宮の宮司の娘である由良御前が実母であり、由良御前自身も新たに皇后となった統子内親王のもとに仕える女性の一人になっていたこと、すなわち、母の勤める職場で働くようになったという点があるが、それとて、珍しくないとは言えないが、前代未聞というほどのことでもない。 しかし、皇后統子内親王のもとに身を置いていたことは源頼朝の生涯を大きく左右することとなる。 保元三(一一五八)年二月の人事でもう一人着目すべき人物が一人いる。藤原信頼がその人である。平治物語では悪評を一身に浴びている人物であり、平治物語などでは、文でも武でも無能なのに出世したのは後白河天皇との男色関係があったからだとまで評されているが、この言葉を文字通りに受け取るわけにはいかない。周囲を感嘆させるほどの優秀さとは言わないが、キャリアを追いかける限りではこの時代の有力者の子弟としてごく普通の段階を登っていて、順当なステップアップをしていたと評するしかないのが藤原信頼である。 藤原信頼の祖先を辿ると藤原道長の兄である藤原道隆に行き着く。ゆえに、藤原北家の一員ではあるが本流から外れた貴族とみなされていた。ただし、本流から外されてはいても順調な出世は遂げており、藤原信頼の父も、藤原信頼の祖父も、重要な役職に就くことはなかったものの公卿補任にその名を残すところまでは出世を遂げている。 藤原信頼の父である藤原忠隆は、公卿補任に名を残すぐらいの位階を手にした身であると同時に、かなり早い段階から鳥羽法皇の院近臣でもあった。院の中でここまでの血筋となると一目置かれるようになるし、築き上げることのできた資産もかなりのものとなるが、藤原信頼にはもう一つ特筆すべき存在があった。それは、異母兄の藤原基成である。およそ一〇年に亘って陸奥守兼鎮守府将軍を務め、かつ、その藤原基成の娘が後に奥州藤原氏の三代目当主となる藤原秀衡の妻となるなど、藤原信頼は奥州藤原氏とのつながりも持っていたのである。奥州藤原氏はこの時代で群を抜く富裕者だ。 こうなると、藤原信頼は血筋と財力の双方で鳥羽法皇の強い推薦を獲得することに成功できる。鳥羽法皇の知行国の国司を若くして歴任し、保元の乱の前年である久寿二(一一五五)年には位階を従四位下まで進めた上に、既に述べたように、武蔵守に任ぜられることによって奥州藤原氏とのつながりをより強固なものとすることにも成功していたのだ。 とは言え、藤原北家の一員であっても、摂政や関白に就くことは夢物語の世界であるという血筋でもある。父が選んだ院近臣という世界は、院政においては一発逆転を狙える社会的地位を獲得することを意味していたが、それとて摂政や関白を狙える地位への出世を期待できるほどではない。その代わりに利用したのが、生まれたときにはもう手にできていた資産である。 金持ちの家に生まれた者が、ケチにケチを重ねて周囲から憎まれたり、それとは逆に、資産を手にする手段を学ばずに無駄遣いを重ねて破産したりするというのは古今東西さまざまな場所で目にする光景であるが、藤原信頼はその例に該当しなかった。資産を単に増やしただけでなく、資産を使って自らの権勢を強めることに成功したのである。カネの使い方がうまいというのはこういう人を言うのであろう。 まず、奥州藤原氏に対してであるが、奥州藤原氏にしてみれば、院近臣の息子にして陸奥守兼鎮守府将軍の異母弟であり、奥州藤原氏の次期当主の母方の叔父でもある武蔵国司は、警戒よりも親近感を抱かせる存在である。この親近感を抱かせる武蔵国司が奥州藤原氏に要請したのは、奥州産の武器と馬の売買であった。奥州産の武器や奥州産の馬はこの時代の武士におけるステータスシンボルであり、奥州産の武具や馬をどれだけ抱えているかが武士としての力量を示す指標にもなっていたのがこの時代である。当然ながら高く付くが、藤原信頼はその高額な武具や馬をかなりの金額で買ったのである。これにより、奥州藤原氏からは、親戚というだけでなく安心できる取り引き相手であるとの評価を獲得することに成功した。 藤原信頼は奥州藤原氏から手に入れた武具や馬を惜しげもなく清和源氏に譲った。関東地方に勢力を築き上げつつあった清和源氏にとって藤原信頼からの武具や馬の提供は歓迎すべきことであり、また、従来からの藤原摂関家と清和源氏との関係を踏まえても、見返りに藤原信頼のために協力することを躊躇させなくする効果も持っていた。藤原道長以降、清和源氏は藤原摂関家の通力者と接近することで武士でもある貴族としての勢力を作り上げてきていた。また、その勢力も年々増してきており、裕福さという点でも清和源氏は年々伸長してきてはいた。ただ、過去と比較すれば裕福になってきているという話であり、同時代の他の貴族と比べるとどうしても見劣りする。要は、貧しい。その貧しい清和源氏にとって藤原信頼から優秀かつ高価な武具や馬が提供されたことは、藤原信頼に恩義を感じさせるに充分なことであった。2021.06.01 10:10
平家起つ 1.信西政権 「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」 現在でも、平清盛率いる平家が、武士としての権勢を拡大し、その勢いがいかに強大なものであったのかを記すときに使われる言葉である。 ただ、この言葉は二重三重の思い込みが重なっている言葉である。 まず、この言葉を話したのは平清盛ではない。この言葉を語ったとされているのは平清盛の義理の弟である平時忠であり、語ったのは承安四(一一七四)年一月一一日に権中納言平時忠が従二位に昇叙したときのこととされている。 次に、平時忠は武士ではない、平家の一員ではあるが、平時忠が平家の一員となったのは姉が平清盛と結婚したからであり、それまでは、桓武平氏ではあっても伊勢平氏ではなく、末端の貴族であった。 三番目に、この言葉は平家物語から来ているのではない。江戸時代後期の歴史家である頼山陽が記した「日本外史」が出典である。頼山陽は日本外史の平家の評伝の箇所で平時忠が「非平族者非人也」と語ったと記している。平家物語でも確かに似たような文章はあるが、平家物語の巻第一の禿髪(かぶろ)の章では、平家物語の写本の一つである南都本によると「此一門ニアラザラン者ハ皆人非人也」となっていて、現在でも使われている言葉と異なる。 四番目に、「人非人」とは「人間ではない」という意味ではなく、ましてや差別用語でもなく、この時代では「参議以上の役職を得られぬ貴族、あるいは三位以上の位階を得ることができないでいる貴族」という意味である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての文献を調べると、人非人を罵倒語として使っているケースは見つからない。それどころか自らの身分の低さを伝えるときの自称として用いているケースすら存在する。 そして最後、これがもっとも重要なのだが、平時忠はそもそも、そんなことを言っていない。厳密に言うと、平時忠がそのようなことを口にしたという証拠がどこにもない。同時代史料をどんなに探しても平時忠のこの言葉がどこにも出てこないのである。確かに平時忠は放言癖のある人であり、人生で何度か、その失言で左遷の憂き目に遭っている。だからと言って、物語としては面白くとも、権大納言という政治の重職にある平時忠がこのような尊大な台詞を口にしただろうかとなると疑問符が付く。 そもそも平時忠が平家の隆盛を誇るように話したとされている初出は平家物語である。平家物語は平家の隆盛から滅亡までの流れを詳細かつわかりやすく描いている作品であるものの、どんなに短く捉えても平家滅亡から五〇年近くを経過してから誕生した文学作品である。その主題は権勢を思うがままに振るっていた平家が闘いに敗れて滅亡していく様子を描くことであり、権勢を振るっていた頃の描写は平家の態度が尊大であればあるほど効果的になるものの、史実との乖離もまた生まれる。 ここでもう一段階進めて考える必要がある。 平時忠がそのように言ったとしてもおかしくないと考えてしまう、あるいは、平時忠でなければ平家の誰かがそのように言ったとしてもおかしくないと考えてしまう何かが、この時代にはあったのではないかと。2021.06.01 10:00