* * *
三年前のゴールデンウィーク。
「ちょっと来てくれないかな」
「どうしてですか?」
「いいからいいから」
その日の午前中に行なわれた練習試合を終えて寮へ帰ろうとした明は、その途中で了子に呼び止められ、一緒に駅のほうまで行くことになった。明はこのときの出会いを偶然と思っていたが、了子は後に、明が来るのをずっとそこで待っていたのだと明に語った。
それまでにも了子を見たことはあった。ただし、それは全校集会のときに演壇に立つ生徒会副会長としての了子であり、チアリーダー姿の了子であり、その当時寮の同室であった永野の机の上に飾られた写真の中の了子であった。
ちょっとした憧れはあったし、アルバムの中の母に似た面影を持った女性がずっと気になってもいた。
その了子が自分に声をかけてきたことに、明は少し戸惑った。
了子はこの日、応援団と行動を供にすることもなく、学校の側に来ても私服であった。
「デートをすっぽかしてきたのだな。いやあ、うまい具合に来てくれたもんだ。とある男に映画に誘われたのだが全然行く気がしなくてな。アルバイトがあると言ったら『映画観てから行けばいい』とか言われて困ってたところだ」
「永野先輩のことでしょ」
「まあな」
「たぶん、夜まで渋谷で待ってると思いますよ」
永野は自分と了子が付き合っていると明に言っていたし、今日も了子と渋谷でデートだと言って張り切って出かけたのであるが、そんな永野を明は全く信用していなかった。
「永野先輩のこと嫌いなんですか?」
「大迷惑だね」
「ひどい言い方ですね」
「キミのほうがひどいと思うよ」
「どうしてですか?」
「今こうして私とデートしてるの、永野じゃなくキミじゃないか」
「先輩が呼び止めたんじゃないですか」
「ちゃんと理由はある」
「どんな理由ですか」
「アルバイト、と言うか家の手伝いがあるのは本当なんだが、永野が全然信じなくて、そこで、キミをアリバイを作りに利用させてもらいたいというのが理由だ。まあ、証人というところだな」
「ずいぶんと自分勝手な言い分ですね」
「バイト代ぐらい出す。どうせ午後は暇なんだろ?」
「暇は暇ですけど、でも、どうしてわかるんですか」
「キミがいくらアメフト部の部員でも、あたしは二年以上アメフト部の応援をしているんだからキャリアが違う。アメフトの日程ぐらい頭に入ってるし、部員の行動パターンもとっくに読めてる」
話をしているうち、了子に対する想いは、ほのかな憧れから、当たり前の一人の女性へとだんだんと変わってきた。
憧れの目で遠くに見ていたのから、隣に実際にいる当たり前の人へと。さらに一歩進んで、なれなれしくずうずうしい人へと。
明と供に駅へと向かう了子には明が持っている大小二つのバッグが目に入っているが、了子は何の気にも留めていなかった。
そのときの明は今よりも一二センチ背が低く、了子のほうが明より高いほどであった。単純に身長と力とが比例するとは考えられないし、了子はか細い体つきの女性なのだから、明にしても、了子に荷物を持たせるわけにも行かないが、手荷物一つ持っていない、持っているとすれば定期券だけの了子に、今の自分の両腕の状況を察知してはほしかった。
明はいったん寮に帰って荷物を置いて、私服に着替えた。
駅前のロータリーで了子は待っていた。
「どこまで行くんですか?」
「六つ先」
了子は買っておいた切符を渡したが、それはどう見ても子供料金の切符だった。
「あのですね……」
「キミはまだお子ちゃまだよ」
「やっぱりひどい言い方」
言い方にも腹を立てたが、もっと腹が立ったのは、子供料金で改札を通ってもバレなかったことである。
ラッシュの過ぎ去ったこの時間帯の各駅停車は空いている。その代わり、各駅停車は一〇分から一五分間隔でしか走らないために一本やり過ごすと次まである程度待たねばならない。ホームに降り立ち、時刻表を目にした二人は、次の電車の来るまでに、特急一本、通勤快速一本が通過するのを待たねばならないことを知らされた。
電車の来るまでの時間に了子は明にいろいろなことを話した。クラスのこと。どこに住んでいて、どんなアルバイトなのかということ。明と同室の永野の実態や、生徒会室での知られざる秘密など、了子以外の口からは決して聞けはしないことを了子は何の臆面もなく話して、明もそれを興味深げに聞いていた。
『二番ホーム、電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ちください。』
アナウンスがあって、二人はベンチから立ち上がり黄色い線へと向かった。
電車がホームへと滑り込んでくる。それほど混んではいない。
電車に乗って空いている席を見つけて座ったが、しばらくして妊娠した女性が乗り込んできたので、了子は立ち上がって、彼女に自分の座っていた席を譲った。
明はその間何もできなかった。自分も席を立ち上がったが、彼女は了子の座っていた席に座り、明の座っていた場所には誰も座らなかった。車輌中見渡しても、立っているのは明と了子の二人だけ。
「座ればいいのに。午前中試合だったんだろ」
「そういうわけにはいきませんよ。座るんでしたら先輩のほうでしょう」
「なんでだ?」
「レディーファースト」
「なるほど。……。そこがキミと永野の違いだな」
了子に席を譲られた女性は二人に礼を言ってから次の駅で降りた。彼女だけでなく、この電車に乗っていたほとんどの人は次の駅で降り、向かいのホームに入ってきた急行へと乗り換えていった。
電車の中はガランとした。
二人は申し合わせたように並んで座った。
電車は鉄橋を渡り、東へと向かっている途中。
「これが多摩川だってこと知ったの、キミはいつ?」了子は後ろを振り返って、たくさんの人が釣りをしている川を指さした。
「願書出しに来たときですから、一月ですね」
「あたしはつい最近まで、全然意識してなかった。そりゃあ多摩川だってのは知ってるけどさ、テレビとかで出てくる多摩川と同じって感覚が無くって。これが多摩川だって意識しだしたのは、そうだね、朱雀台に通うようになってからかな。ほら、ずっとここいらに住んでいると、川と言えば多摩川のことになんのよ。土手でよく遊んだし。生まれてからずっとあたしにとっての川はイコール多摩川だったから、多摩川を特別に考えるなんてことなくて、この電車に乗ってこの鉄橋渡るときに、やっと『ああ、同じ多摩川なんだな』って考えるようになったわけ。キミにだってそういうのあるでしょ。当たり前すぎてわからないの」
「さあ……。そういうのあったかな……」それから明はしばらく考えた。
小学校も入りたて頃はクラスの友人とそれなりにどこかに行っていたが、次第に進学塾に通うようになり、気がつけば学校が終わるとその足で塾に行って家に帰るのは八時過ぎという日程を送るようになり、ふと振り返ってみると友達づきあいが疎遠になっていた。
思い出を振り返ろうとすると栃木での小学校入学前か、朱雀台に入ってから今まで。その間の小学校の六年間が全く思い出になっていない。
残された思い出を振り返ってみて、明はやっと幼稚園時代の思い出を口にした。
「日曜になると父さんが近所の公園に連れて行ってくれたんです。池もあって、ボートもあって、鳩や魚がたくさんいて。ブランコとかすべり台とかじゃなくって、ボートに乗って魚に餌をやるのが好きで」
明はそれをいい思い出として覚えているのではない。他の子どもはお母さんもいるのに、明にはお父さんしかいないということをその公園は教えていたのだから。
それから逃げるようにボートの上という閉ざされた空間に父と一緒にいるという安心感を得て、その上で“たくさんの”魚と戯れるのを幼稚園の頃の明は楽しんでいた。
自分が餌を与えれば魚が従う。それがボートの上に安らぎを求めた原因の全てではないが、餌を投げこめば魚が寄ってくるという快感はどうしても忘れえぬものだった。
父はそんな明の行動を『動物に対する思いやりの強さ』と考え、明が喜ぶよう、次の日曜日も、その次の日曜日も、明をボートに乗せていた。
近所の子ども達や幼稚園の友達と遊んだりしても、どこか自分が浮いているような感じがして、明はいつも自分が一人だと感じていた。幼稚園の中や小学校の中での友達はいたが、親友と呼べる存在は朱雀台に入ってから。明にとっては、神崎や杉本が初めての親友ではないだろうか。
「公園ってのは池とボートがないとだめだったんです。で、小学校の遠足に中禅寺湖に行ったときに『でっかい公園だな』って思って」
「彼女と一緒にボート乗るときなんかもそうなのか?」
「彼女なんていませんよ?」
「そっか。ま、中一で彼女がいるってのはマセてるほうだがな」
「ボートに一緒に乗ってくれたのは父さんぐらいです」
「いいな。そういうちゃんとしたお父さんで」
「よくないですよ。ロクに家に帰ってこないんですから」
「仕事が忙しいんだろ」
「そうは言ってますけど、家に帰るぐらいはできると思うんですよね」
「何やってる人なんだ?」
「弁護士です」
「!」
了子の表情は明らかにそれまでと違うものとなった。
自分の父親の職業を話すと、これまで何の関心も示さなかった人が急に関心を示すようになる。玉の輿を狙ってとまではいかないにしても、それに近いエリート意識が見え隠れする。それが明には苦痛だった。
「ごめんな。弁護士の子供って見られるのが嫌なんだろ」
了子は申しわけなさそうに言った。それまで自分の方を向いていたのに、窓の外に視線を移した明を見て、自分の態度が明を傷つけたのだと感じて。
「そんなところです」
明は了子のその言葉を聞いて江本を思い浮かべた。彼女は何もやっていないのに、彼女の父親のせいで、彼女は虐げられている。
自分は弁護士の子と扱われる。江本は父親のせいで虐げられる。
なぜ?
それから了子はあれこれと話しかけてきて、明も合いの手を打ってはいたが、明の心の中にはずっと江本が浮かび続けていた。
駅に着いて南口の改札を出て、了子は一階が喫茶店になっている家へ連れていった。
そこが了子の家で、二階のベランダには了子のものと思われる三年生用の体操服が干されていた。
喫茶店のシャッターは休日だと言うのに下りていて、了子は仕方無いという感じで裏に回り、この家の玄関から明を店の中に案内した。
明をカウンター席に座らせて、了子はカウンターの向こうに立った。サイフォンでコーヒーを煎れるのはさすがに手慣れている。
「開店、何時ですか?」
「一〇時開店だ」
「閉まってるじゃないですか」
「どうせ、まだ寝てんだろう」カップにコーヒーを煎れて、皿とともに明に差し出してから、了子は奥に父を起こしに行ったが、それは無意味に終わった。
両親の寝室のドアに病院に行ってくるとの手紙が貼ってあったからである。了子はその手紙を明に見せた。
「糖尿なんだ」
「だいじょうぶなんですか?」
「親父の身体はだいじょうぶだろうが、店は危ないな。客は来ないし、陰気臭いし、汚いし」
「掃除すればいいじゃないですか」
「そうなのよね……」
了子の怪しさを漂わせた笑顔が何を意味するものか、了子らしからぬ女口調が何を言おうとしているのか、そして、明に何気なく手渡された雑巾とバケツが何のためのものか、最後まで口にするまでもなく明にもわかった。
「あの、先輩のお母さんはどうしたんですか?」窓を拭いている了子に問いかけたが、明の視線は床に向いている。
「さあな。パチンコにでも行ったんじゃないのか」
明はそこに血筋を見た。よく見ると了子は掃除をしているふりだけで、実際は明だけが掃除をしている。床掃除だけのはずが、客の吸うタバコのヤニで茶色に汚れた壁も拭き、回る度にきしむ音がする椅子に油も差し、ガタがきているテーブルの脚の長さの調節もした。
「マメだな」ネジを回してテーブルを水平にしている明の耳に、明らかにテレビのそれとわかる音と同時に了子の声が飛びこんできた。
テーブルを水平に合わせ終わった明は了子のほうに顔を向けた。了子は明の予想通り、カウンターの椅子に座ってアイスコーヒーを飲みながら、テレビを観ていた。
「言っておきますけど、これでも信じられないほど汚い部類なんですよ」
「そうなのか?」
「暮らしてて、何とも思わないんですか?」
「上に比べりゃ、ここなんかきれいなほうだ」
「ホントですか?」
それを信じようとしない明の手を引いて階段を駆け上がり、了子の部屋のドアを明けるとその通りの光景が広がっていた。
「うわ……」
数少ない空間はベッドの上のみであり、了子は当然のようにベッドに座った。
「キミも座ったらどうだ」
「すぐに帰りますからいいです」
「せめて、晩飯ぐらいは食っていけ」
「食べたら食べたで、そのぶん働かされるわけでしょう」
「あたしを何だと思ってんだ?」
「え~っと……」明は何も言えなかった。
明はこのとき帰りたがっていた。母に似た面影を持つ了子に心を揺り動かされはしたが、基本的に、了子に対する気持ちは好意よりも迷惑に近かった。
了子の両親が、いや、父親でも母親でも、どちらか一方でもいいから帰ってきてくれるのを、明は内心願っていた。だが、帰ってくる気配は全く見られなかった。
「アメフトは明日オフだろ?」
「いやです」
「まだ何も言ってないだろ」
「おおかた、この部屋の掃除をしろってことでしょ」
「あらやだ。あたしたちって気が合うのかしら」
「トボけないでください。自分の部屋ぐらい自分で掃除すればいいじゃないですか」
「とにかく、明日は暇なんだろ」
「練習はないですけど、友達と遊びに行く用がありますから」
「そんなのキャンセルしちまえ」
「いやです。絶対に」
「そうか」
そう言うと、了子は立ち上がって窓の外に目を移した。
「また来たか……」
「?」
明は同じ方向を眺めた。
完全にストーカーだった。
「なんでこんなところにいるんですか?」
「渋谷に行かなかったからだ」
「そうではなくて……」
「あいつの誘いに乗るか、乗らないで見張られるかのどっちかだ。アイツに目をつけられてからずっとな」
明はこれまで永野の口から了子の事を聞いてはいた。でも、今日一日了子と接していて永野の口とはぜんぜん違う了子を目の当たりにした。
明は確信した。今の了子のほうが真の了子で、永野の語る了子は永野の空想が作り出した了子だと。
「やりたくもなかった生徒会の役員なんてやったし、休みもろくにないチアリーダーなんてやった。忙しくするためにな。何でもいいからオフィシャルな理由で休みをつぶさないとあいつに付きまとわられる。でも、あと数ヶ月でそのオフィシャルも終わりだ。うちら三年は引退だから。部活は夏休みには終わるし、生徒会も九月になったら」
「……」
「キミを巻き込んだのは申し訳ないと思ってる。ただ、助けてほしいんだ。アイツを食い止めてくれそうなの、キミしかいないから」
「弁護士の子だからですか?」
「そうじゃない。あいつの同室だからだ。だいたい、弁護士の子どもだって知ったのついさっきじゃないか」
「で、その、同室なだけの僕がどうやって助ければいいんですか?」
「それは……、そのうち考える」
「ずいぶんといい加減ですね」
「時間かけてじっくり考えればいいさ。ムシのいい願いだってのもわかるし、ものすごく迷惑掛けてることだもわかるけど、キミと一緒にいると楽しいしさ」
翌日、明は再び了子の家にやってきた。
何時頃から明を待っていたのかはわからないが、了子はかなり早くから一八〇円の切符を持って駅前のロータリーで明を待っていた。
明はそれが当たり前かのように前日と同様に電車に乗り、了子と一緒に喫茶店へ向かい、裏口から了子の部屋へ向かった。了子は両親に『喫茶店の掃除を手伝ってくれたお友達が来る』と説明はしたが、それが男だとは一言も言っていなかった。
せめてもの救いは、模試で永野が午前中から出かけていて、明が了子の元に行くことは悟られないだろうということぐらいである。
それにしても、明の記憶が確かならば、元々了子が受けると言った模試だから申し込んだはずである。なのに、なぜ了子が自分のすぐ隣にいるのだろうか?
「何で模試なんか受けんの? 高等部なんて自動で上がれるのに」
「でも、他の高校受けるって言ってましたけど」
「だれが?」
「永野先輩が。『柿崎も受けるし』って」
「あたしが?」
「はい」
「冗談でしょ」
中等部から高等部へはエスカレーターになっているとは言え、毎年三〇名ほどの生徒は上に上がらず他の高校に行く。
永野はおそらく、了子が他の高校に行くらしいという噂を聞いたのだろう。了子と一緒にいたいという、切なる、あるいはストーカー的想いで、今、模試を受けている。
喫茶店が開いていて了子の両親がいたことは昨日と違っていたが、その二つが重なっていたことが、結果として昨日と同じ状況を作りだした。
「多少は片付いただろ」
「そうですね」
「ワイドテレビが届くからね」
「狭くなりませんか?」
「そこなのよね……」
そう言う了子の視線は、はじめは明に、ついで本棚に向けられた。それだけでわかった。
「労働力ですか……」
「いや、労働力なんかじゃ……」そこまで言って了子は言葉を止めた。
「何ですか。言ってください」
「届いたみたいだな」窓の外を眺めた了子の目に、喫茶店の前の道を運送会社のトラックがゆっくりと走り去ったのが映った。トラックは一旦左へ通りすぎてからバックしだし、九〇度回って喫茶店の敷地に後ろから入って、裏口のすぐ前に停車した。
了子は続きを話さないまま、明を労働力にさせた。とは言うものの、荷物そのものを二階に運んだのも、梱包を解いたのも、キャスターのついたテレビ台の上に乗せたのも運送会社の人であり、明には力仕事らしい力仕事はなかった。
だが、明は必要だった。ビデオの配線も、アンテナの接続も了子にはできない作業だったから。
「AVケーブルはありませんか?」
「何だそれ?」
「赤と白と黄色の線です。テレビとビデオをつないだり、ゲームとつないだりするやつですよ」
「?」
今まで自分が使っていたものですら全く理解していない了子には、どんな説明しても無駄であった。それでも何とかうまく配線できたが、今度は機能の説明が了子に通じなかった。
「ですから、ステレオの電源も入れないとスピーカーの音は出ないんです」
「ビデオとつないだんだろう」
「スピーカーはステレオの本体から電源を取っていますから、本体の電源を入れなければスピーカーの電源もつきません。それに、ビデオからのケーブルは本体とつないでいますから……」
「? わからん!」
「この部屋は先輩の部屋なんですし、先輩が使えなかったらどうにもならないじゃないですか」
「わからんものはわからん」了子はテレビの前から移動して、ベッドに座り込んだ。
「あのですね……」明は立ち上がって了子のほうを見た。
了子はじっと明を見つめていて、何かを考えているようだった。
「そうだ!」
「いやです」
「まだ何も言ってない」
「どうせロクでもないことでしょう」
「キミが寮を出て、あたしとここで一緒に暮らせばいいんだ! これであたしも幸せ、キミも幸せ。永野もあきらめてくれる」
「いいわけないでしょう」
「どうしてだ?」
「そうやって、これからずっと、僕をいいように利用するつもりでしょう。それのどこが幸せですか?」
「あたしにとって、キミは利用だけの人じゃないよ。キミを利用してることは否定できないけど、君と一緒にいたいとも思ってる。もちろん、損得勘定抜きでね」
「永野先輩のことがあるからここに来たんです。それじゃなけりゃあなたのところになんか……」
そこまで聞くと、了子は何も言わずにベッドから立ち上がって、明の真正面に立った。
明の言葉は途中で止まった。
自分の目をじっと見つめ、息が感じられるほどに近づいてきた了子に一瞬たじろいだが、ひるまずに後ろに下がることはなかった。
「キミと一緒にいると楽しいし、永野のこと忘れられる」
「それでは答えになっていません。先輩の言い分ばかりじゃないですか」
「あくまで明は損得勘定にこだわるわけだな」
了子はこのとき初めて、代名詞を使わずに明の名を呼んだ。このときまで明も了子もお互いの問い掛けを統一させておらず、了子は明のことをキミとかアナタとか呼んだりして、タマキクンと呼んだことすらなかった。それをいきなりファーストネーム呼び捨てとしたのには理由があった。
「ん……」
「……」
一瞬だった。明と了子との間の初めてのキスを生むために要した時間は。
「これで気が済んだか?」
「……」
何も言えなかった。あまりに突然なのと、予想すらしていなかった人が相手なのとで。
一度だけではなく、二度、三度とくり返されて、回を重ねるに連れ力強く抱きしめられていった。
自分でも信じられなかった。了子とキスしていることではなく、自分も了子を強く抱きしめていることが。
唇を離し、抱きしめた腕を解き放ってから二人ともしばらく黙っていた。
やはり何も言えない。
明はそのまま立っていたが、了子は力なくベッドに座り込んだ。そっと唇に手を当て、頬を赤らめながら明から視線を外して、無意味な一点を見つめていた。
このときの了子は自分の心臓の鼓動を聞くのに精一杯だった。キスに対する幻想と、それが現実のものとなったことへの戸惑いとが、キスの相手の方に目を投げかけることすらためらわせていた。
「これで損得ゼロになったか?」やっと了子が口を開いたが、その口調はいつもの堂々としたものではなく、落ち着きのないものであった。
「今更そんな問題じゃないでしょ」明もやっと口を開いた。
キスの直前の時間からそんなに時間も経っていないし、黙って何も言えなかった時間もそんなに長くはない。でも、静まり返った部屋の風景が強いインパクトと一緒に脳裏に焼きついている。
「ファーストキスでもまだ損か?」
「それだけで、それだけのことでキスしたんですか。僕なんかと……」
「信じても信じなくても明の勝手だけど、今のキスがファーストキスだし、義理とか埋め合わせとかでキスできるほど、あたしはいい加減な人間じゃない」
「それじゃ何でキスしたんですか?」
「明としたかったから。それでいいじゃないか。キスで子どもはできないし、できたとしても妊娠するのは私だ。……。抱いてくれと言ったら、明はあたしを抱いてくれるか?」そう言いながら了子はそっと明の手を取り、明を引っ張った。
了子は自分を明とベッドの間に挟み、上に乗った明を強く抱きしめた。
「(恋愛……、この人と……)」明は了子と恋愛をし始めているという思いが浮かび上がってきた。
了子が、安らぎを与えてくれる女性へと変わりつつあった。
0コメント