末法之世 7.末法の年

 永承六(一〇五一)年、藤原頼通が還暦を迎えた。寛弘六(一〇〇九)年に一八歳の若さで議政官入りしてから四二年という長きに渡って国のトップグループの一員であり続けたのだから、人生としては順風満帆だったかも知れない。

 だが、この時点の議政官の面々を見ると、順風満帆とは言えなくなる。

 後継者である源師房はたしかにここにいる。だが、その次がいない。

 さらに言うと、自分の娘と後冷泉天皇との間の皇子もいない。

 未来が形作られないまま還暦を迎えたことは平然としていられることではなかった。とは言え、焦ったところでどうにかなるものではない。

 焦ったところではどうにもならないとわかっているのに、藤原頼通は焦りを隠せなかった。永承六(一〇五一)年二月一三日、藤原寛子を皇后とするといきなり発表したのである。

 中宮はいるが皇后はいない。ゆえに、空席である皇后に就く女性がいること自体は何らおかしなことでは無い。とは言え、この時点でまだ一五歳の少女を皇后にするというのは強引すぎる話であった。

 誰もが藤原頼通の焦りを悟り、これまでの日常を続けるためにはかなりの無茶を継続させなければならないことを自覚した。

 それでも、日常が続くならと我慢していたところに東北地方からとんでもない知らせが飛び込んできた。


 陸奥国司藤原登任の率いる三〇〇〇名の軍勢と秋田城介平繁成の率いる二〇〇〇名の軍勢が合わさり五〇〇〇名の軍勢となった。

 向かうは鬼切部(おにきりべ)(現在の宮城県大崎市鬼首)である。

 安倍氏は奥六郡では郡司である。ゆえに軍勢を奥六郡の中で軍勢を指揮すること自体は黙認されている。だが、奥六郡の境である衣川を超えると軍勢を指揮すること自体が許されなくなる。

 安倍氏が率いる軍勢が衣川を超えたという知らせを受け、陸奥国司藤原登任は秋田城介にう急いで援軍を養成し、平繁成は援軍要請に応えて自ら軍勢を率いて陸奥国へと向かった。

 合流に成功した五〇〇〇名の軍勢は北へ向かい、鬼切部で安倍氏率いる軍勢と直面した。

 鬼切部は平原である。

 蝦夷の軍勢は馬に乗って南へと向かい、迎え撃つ陸奥・出羽連合軍は歩兵が中心である。

 この両者が平原でぶつかった。しかも、馬の動きを制限するような川もなければ山も無い場所でぶつかった。

 古今東西様々な合戦が存在してきたが、騎兵中心の軍勢と歩兵中心の軍勢とがぶつかった場合、歩兵中心の軍勢が勝つのは、相手が騎兵中心であることを熟知した上で騎兵の動きを制限するための障害物、川や湖、山、丘といった天然の遮蔽物に限らず、堀、塀、柵といった人口の遮蔽物、さらには兵士自身が遮蔽物になったときに限られる。そうした事前準備をせずに騎兵と激突したら、歩兵中心の軍勢が勝つことは無い。

 それは、このときの鬼切部も例外では無かった。

 朝廷が受け取った第一報は、陸奥・出羽連合軍の敗北。五〇〇〇名の兵士の多くは殺害され、生き残った者は秋田城と陸奥国府になんとか逃れた。鬼切部は朝廷軍の兵士達の血で赤く染まったのである。

 ここに前九年の役が始まった。


 東北地方が政情不安であることは知っていた京都の民衆も、平繁成を派遣したことで全て解決すると思っていたのである。

 そこに飛び込んできた惨敗の知らせは、京都の市民を混乱に導いた。記憶として語り継がれている平将門と藤原純友の反乱が、一〇〇年という時代を超えて蘇ったと感じたのである。

 混乱の次に京都の市民を襲ったのは怒りである。自分たちは苦しい暮らしをしながらも負担を引き受けているのに、朝廷はその負担に応えていないという怒りはいつ爆発してもおかしくなかった。

 朝廷ができたのは陸奥国司藤原登任の罷免と、源頼義の陸奥国司任命である。ただの陸奥国司ではない。鎮守府将軍を兼任する陸奥国司である。

 源頼義は、ついこの間まで陸奥国司であった源頼清の兄である。出世街道としては弟に先を越されていたが、武人としての勇名は弟を上回っていた。朝廷としても、これ以上無い最高のカードを切ったこととなる。

 一方、藤原登任は罷免されたが、秋田城介の平繁成は罷免されなかった。罷免はされなかったが京都に帰還することを許されずそのまま秋田城に残ることを命じられた。秋田に残って安倍氏の軍勢に対して西から圧力を掛け続けることを命じられたのである。

 秋田に残った平繁成は、新たに陸奥国司に命じられた源頼義と連絡を取り合った。この時代、秋田から京都に至るには、陸路ではなく海路をとることが普通だった。日本海沿岸を航行して敦賀に至り、歩いて琵琶湖に至り、琵琶湖を渡って大津に至り、大津から京都へ至る。それでも電話やネットでリアルタイムの情報連携が可能な現在と違い、どんなにスムーズにいっても一〇日以上は要する。

 平繁成は、秋田に残る自分たちだけでは安倍氏と対抗できないことを伝えると同時に、安倍氏は朝廷の軍勢を破ることができたがそれ以上はできないことを朝廷に伝え、朝廷はその情報を元に源頼義に軍勢結集を命じた。

 平繁成は同時に、安倍氏に対抗しうる勢力に着目した。

 安倍氏が奥六郡に勢力を築き、朝廷の軍勢に勝ったと言っても、東北地方全域に覇権を握るほどの勢力であったわけではない。それどころか、朝廷の軍勢に勝ってしまったがためにかえって混迷を招いてしまっていたのである。

 安倍頼良は、蝦夷の権利を広げるために軍勢を南に進めたが、自分たちの思いを陸奥国司に伝えることが主目的であって日本からの訣別を宣言したわけではなかった。

 しかし、戦闘となり、勝ってしまったことで、蝦夷たちは本気で日本からの訣別を考えるようになってしまったのだ。

 日本から訣別したらどんな暮らしになるかを想像していなかったとするしかない。日本が国外勢力から守っていること、日本からの支援で生活が成り立っていることを自覚することなく、勢いに乗って日本からの訣別を考えるようになってしまった。

 安倍頼良は、本当に日本から訣別したらどうなるか理解していた。瞬く間に侵略され、土地は荒らされ、命は奪われる。生き残った者は侵略者の奴隷になる。これは何としても防がなければならないと思っていた。

 そこに飛び込んできた、源頼義の陸奥国司就任の知らせ。安倍頼良の脳裏に浮かんだのは絶望であった。

 この絶望をさらに深く刻ませることとなったのが、出羽に勢力を築いていた清原氏の存在である。清少納言を輩出したことでも知られる清原氏は、藤原氏全盛の時代にあって京都ではその他大勢の貴族として埋没するようになっていたが、地方では勢力を築くことに成功していた。特に、出羽国に根拠を築いた清原氏は、蝦夷として生まれながら日本人になることを選んだ俘囚の保護者として存在価値を強めていた。

 支配下にある領地としては安倍氏に劣り、単独で戦うとすれば安倍氏の軍勢の前に敗れるが、朝廷側に加われば安倍氏に対抗できるだけの戦力はあった。

 源頼義率いる軍勢が東北に向かいつつある頃、京都では、まるで戦闘など無いかのようなこれまでの日常が続いていた。

 歌合も開催されたし、競馬も開催された。

 冷泉院の改築が完了したため、後冷泉天皇が冷泉院を里内裏とした。

 生まれてすぐに我が子を亡くした藤原歓子に准三宮という高い地位を与えた。

 これらのどこにも東北地方で勃発した前九年の役の痕跡も、翌年に控えた末法初年への恐れも見られない。

 京都はあくまでも何事も無いかのような日常を過ごしていた。いや、無理して何事も無いかのように振る舞っていた。

 だが、京都の誰もが、そして日本中の誰もが、東北地方で起こった戦乱に注目し、翌年に控えた末法に恐れを抱いていた。

 この恐れに輪を掛けたのが、再度発生した伝染病である。

 記録には伝染病の大流行により多くの人が命を落としたとしか残っていない。症状も残っていなければ病名も残っていない。そのため、どのような病気が流行したのかわからない。わかっているのは、末法への恐れにをさらに増したと言うことだけである。

 一人、また一人と、ついこの間まで健康であった人が命を落とす。

 東北地方では戦乱が起こっている。

 末法へと向かっている最中にあって目の前に繰り広げられている現実に、多くの人は絶望した。

 誰もこの絶望を無くすことはできなかった。


 そして迎えた末法初年である永承七(一〇五二)年。

 京都では前年から続いていた伝染病の流行を抑えるべく、僧侶たちが大極殿に集められ大規模な読経が繰り広げられていた。

 これがこの時代の朝廷のとれる最高の対策であった。

 伝染病を抑え、末法を食い止めるためには祈り続けるしか無かった。

 社会は冷え込み、経済は冷え込み、活発なのは犯罪者だけという有り様であった。

 この時代に選挙があったら政権与党は絶望的な敗北を喫していたであろう。

 日本中に暗雲が立ちこめている最中の永承七(一〇五二)年三月二八日、藤原頼通の名でそれは突然発表された。

 宇治にある藤原頼通所有の別荘を、どの宗派にも属さない寺院とし、平等院と名付けた上で一般開放するとしたのである。

 一流貴族しか足を踏み入れることのできないと考えられていた別荘地の中での最高級の一等地が、老若男女の分け隔て無く、身分の差の分け隔てもなく、誰もが足を踏み入れてもいい場所へとなったのだ。

 その上、平等院は壮麗であった。

 あまりにも壮麗であった。

 宇治に足を運んだ者はその壮麗さに言葉を失った。後に鳳凰堂と呼ばれることとなる阿弥陀堂はこの時点でまだ建設中のため公開できなかったが、工事の様子を見るだけでもその壮麗さはすぐに理解できた。

 多くの人が、命を落としてあの世に旅立ったとしたら、このような壮麗な場所にたどり着くのだろうと実感した。

 末法を恐れる人に対し、末法は迷信だと訴えても効果は無かった。実際に不景気になり、飢饉の危機も実感し、戦乱が起こり、伝染病が流行している。未来に絶望しか感じなくなっているのに、これで死への恐怖を感じるなと言うほうが無謀であった。

 だが、誰一人として死後のイメージを伝えることができた者はいなかった。概念としてはあったし、死後を描いた絵画もあったが、悪事を為した者の受ける苦しみとしての地獄であって、そうでない者がたどり着くとされる来世は漠然としたものであった。

 それが、いきなり目の前に示された。

 一瞬で、文字通り一瞬で、末法への恐れが消え去った。

 末法への恐れを抱いていたのは、未来への不安と死に対する恐怖であった。

 それが、死後の世界の壮麗さが示されたことで、恐怖でなくなった。

 いったい、ここ数年の恐怖は何であったのかという思いが、まずは京都中に、次いで日本中に広まった。

 末法とされる年を迎えたが、あの世は恐怖では無いと示されると、どうでも良くなってしまったのだ。

 末法を前面に押し出した宗教勢力は、末法を恐怖の材料として利用できなくなった。

 さらに、永承七(一〇五二)年五月六日、ある一つの宣告が下った。

 後冷泉天皇の祖母である上東門院こと藤原彰子の病気快癒祈願として、大規模な恩赦が行なわれることとなった。

 この恩赦の対象には、東北地方で反乱を起こした安倍氏も含まれていた。

 前年に勢いに任せて朝廷軍を打ち破ったは良かったが、その後を考えると朝廷軍の前に敗れ去るのはわかっている。それがいつになるかという話でしかなかったのである。安倍頼良は何とかして落としどころを探る必要があった。

 安倍頼良の元に届く情報は何一つ希望を抱けるものが無かった。朝廷軍を破ったところで蝦夷の暮らしが劇的に改善されるわけではない。それどころか、朝廷からの支援が無くなってしまったせいで蝦夷の生活が見るも無惨に悪化してしまったのである。

 その上、源頼義が新しい陸奥国司となった上に鎮守府将軍に任命された。

 西では秋田城介平繁成が健在である上に、出羽の清原氏が朝廷側に立つと宣言した。これで奥六郡の安倍氏は包囲されたこととなる。

 そこに飛び込んできた恩赦の知らせは安倍頼良に絶好の口実を与えることとなった。


 陸奥国司として多賀城にある陸奥国府に着任した源頼義は、これから戦闘を迎えようかというタイミングで思いも寄らない連絡を受け取った。

 安倍頼良、無条件降伏。

 降伏を装った戦略の一つではないかと疑った源頼義は、降伏が本物であることを知った。

 さらに、同じヨリヨシという読みであることを遠慮して、今後は安倍頼時と名を変えるという宣告まで聞いた。

 父の源頼信は、平忠常の反乱を戦わずして鎮圧させた。

 息子の源頼義も父が成し遂げた武人としての最高の栄誉、戦わずして勝つ、を成し遂げた。

 この知らせは当時としては異例のスピードで京都に届き、戦乱終了を聞きつけた京都市民は狂喜乱舞した。

 本来ならここで前九年の役は終了したはずなのである。しかし、それはあまりにも短絡的な見方であった。

 安倍頼時はこのままだと破滅だと悟って無条件降伏したのであるが、安倍頼時と共に戦いに参加した蝦夷たちはそう考えなかった。戦いに勝って、日本からの訣別を果たせる、日本からの訣別で今よりも良い暮らしが待っていると考えていたところで、総大将が勝手に、何の予告もなくいきなり無条件降伏したのである。戦闘に勝ったはずなのに戦争の敗者とさせられたことが納得いかなかったのである。

 源頼義は、蝦夷たちのこの思いを把握していた。父は平忠常の乱を平定した後に京都に凱旋したが、自分はあくまでも陸奥国に派遣された国司であり、かつ、鎮守府将軍を兼任している身であるとして、陸奥国府に留まったのである。

 朝廷は、蝦夷の不満を力づくで押さえつけることには成功しても、勢いをつけてきた宗教勢力を押さえつけることはできずにいた。

 伊勢神宮の神官や周辺住民が京都にやってきて、祭主である大中臣永輔を訴えるのは年中行事のようになっていた。

 寺院と寺院との抗争の結果、寺院が焼かれることも珍しくなくなってきていた。

 ついこの間までであればこうした宗教組織の諍いは、世界の終わる末法の光景として捉えられていた。

 ところが、どの宗派にも属さない平等院という寺院が誕生し、末法の後に来るはずの、そして、命ある者全てが迎える運命にある死への恐怖をぬぐい去ったことは、宗教組織として大打撃であった。

 多くの人にとって、どこか特定の寺院の、あるいは宗派の熱心な信者であるということは滅多にない。ただし、宗教、あるいは自らの知識の及ぶ範囲を超えた存在に対する畏敬の念を持たない人もまた滅多にいない。

 このような人が求めている救いというのは、どの寺院によるものだとか、どの宗派によるものだとは問わない。つまり、どこでもいい。現在だって、初詣に寺院に行き、大晦日に寺院に行っている。こういう感覚を持った人に対し、寺社がいかに優れているか、あるいは自分の宗派がいかに優れているかを説いても無駄である。壮麗な建物のありがたさの前に、言葉のありがたさは意味を持たない。

 その上、その壮麗な建物のあるのは宇治という別荘地である。京都から気軽に行ける近さではあるにも関わらず、それまでは気後れして足を運ぶなどできなかった。だが、関白左大臣藤原頼通が許可してからは、休日の娯楽という感じで気軽に足を運べるようになった。

 これを、既存の宗教勢力が面白く思うわけは無い。

 普通に考えれば、ここでおとなしくして、平等院に負けぬよう多くの人を招き入れるところであるが、この時代の寺社は違った。平等院の誕生で少なくなったパイを巡る争いをより活発にさせたのである。この結果、民衆はますます、争いをくり返す寺社を嫌悪するようになり、民衆からの嫌悪を悟った寺社は現時点の勢力を維持するためにますます争いをくり返すようになった。


 永承八(一〇五三)年一月一一日、天喜へと改元すると発表された。

 なぜこのタイミングでの改元なのか誰もが疑問に思った。

 改元の理由として挙がった天変と怪異は誰もが納得していた。そもそも末法という最低最悪の大問題が前年にあったのだから、そのタイミングを狙っての改元ならばまだ話はわかった。

 だが、末法初年は前年。末法は始まってから一〇〇〇年は続くとされているから、末法の最中の改元であると言えばその通りであるが、末法二年目に、前年はさほど問題となっていなかった天変と怪異をわざわざ取り上げることに何の意味があるのだろうか。

 ここで着目すべきは後冷泉天皇である。

 後冷泉天皇のことを、後世の歴史家は、と言っても栄花物語の頃であるから現在よりは後冷泉天皇の時代に近いが、全てを関白藤原頼通に委ねていた天皇であったと評している。

 だが、後冷泉天皇の残してきた政務を見ると、後冷泉天皇はかなりの意欲を持って藤原摂関政治に対抗しようとしていたことが読み取れる。それは、権力闘争という側面もあるが、経済問題のほうが強い。すなわち、拡がる一方である格差問題を解決することを考え、そのための第一歩として荘園整理に全力で取り組んだのだ。

 ただし、それが結果を生むことは無かった。格差が縮まらなかった一方で失業が拡がり、社会は不景気に包まれた。寺社勢力の争いも止むこと無く、東北地方では反乱も起こった。そして、日本中に広まった末法思想。これが自分の治世開始からこれまでの日本である。

 特に、最難関と誰もが考えていた末法の問題を、末法そのものを否定するのではなく、平等院という死後の極楽をイメージさせる存在を目の前に示すことで、末法によって訪れるであろう死に対する恐怖を和らげ、末法への恐れのほうを無くした藤原頼通の行動に後冷泉天皇はただただ自らの無力を感じさせられるだけであった。

 このタイミングでの改元は、後冷泉天皇の自己アピール、ないしは、自らの存在が埋没しないための抵抗であるとすると辻褄が合うのである。

 末法を迎えたが、改元によって新しい時代が始まったと示せば、それは未来に対する希望へとつながるのだ。

 普通に考えれば、そうなるはずであった。

 ところが、改元をはるかに上回る存在が、天喜元(一〇五三)年三月四日に姿を現したのである。

 この日、平等院阿弥陀堂の工事が完成し一般公開された。現在でも一〇円銅貨に描かれていることでも有名な、俗に平等院鳳凰堂と呼ばれる建物である。

 平等院鳳凰堂は、およそ一年にわたって工事中のままで有り続けたことがかえってアピールになっていた。

 工事中であっても、平等院鳳凰堂が豪華絢爛な建物であることは見えていた。工事中であるため遠くから眺めるしかなかったが、それでも美しくて壮大な建物であることは誰の目にも明かであった。いつになったら公開されるのかという問い合わせもたびたび寄せられ、答えは「一年後」、「半年後」、「三ヶ月後」とだんだんと短くなっていた。平等院に何度も足を運んだ人は、足を運ぶたびに平等院鳳凰堂が完成に近づいているのを目の当たりにしてきた。

 楽しみが募っている日々が続き、工事を見学に来る人が日に日に増えていき、そして迎えた一般公開。

 既に前日から多くの京都市民が宇治に詰めかけており、京都から宇治に向かう行列は途切れることが無かった。日曜日や祝日という概念が無いこの時代、全員が同じ日に休むという概念は無い。だが、この日は違った。誰もが仕事を休み、宇治に駆けつけることのできる者はこぞって宇治へと向かった。

 宇治に辿り着き、平等院に辿り着き、鳳凰堂を目の当たりにした者は、実感した。

 これが死後の世界なのだ、と。

 死は恐れるものではなく、迎え入れるものである。

 末法によって世界が終わりを迎えたとしても、旅立つ先がこのような壮麗な場所であるなら恐れることは無い。

 そして、この壮麗な場所にいるのはここにいる全員なのだ。世界が終わったとしても、家族も、恋人も、友人も、皆がこのような壮麗な場所に旅立つのなら、恐れでは無くなる。そのタイミングが早いか遅いかだけの話になる。

 ついこの間まで日本社会は末法への恐怖で固まってしまっていたのに、この日を最後に末法への恐怖がほぼ消えるのである。

 この末法に対する考えが息を吹き返すのは鎌倉仏教を待たねばならない。


 源頼義が赴任したことで、東北地方は一見すると安定した。

 正確にいえば力でねじ伏せているのであるが、それでも、平和は平和である。戦争にならないという結果を考えるなら、民意の向上や生活の豊かさによる平和も、力で反対勢力をねじ伏せていることによる平和も、価値は等しい。

 もっとも、実際に鬼切部の戦いに参加した、そして勝者となった蝦夷たちにとってみれば複雑な思いを抱かせるものでもあった。

 自分たちは戦いの勝者なのである。そして、陸奥国司を京都に追い出すことにも成功したのである。それなのに、総大将安倍頼時は、新任の陸奥国司の前に無条件降伏した。勝者である自分たちが、自分たちの預かり知らぬところで勝手に敗者にさせられ、戦闘の敗者が戦争の勝利者となって戦闘の勝者である自分たちの上に君臨しているのである。これを面白く思うはずがなかった。

 無論、情勢を理解している者はいた。一度の戦闘に勝ったことと、戦争そのものに勝ったことは同じではない。新しい陸奥国司はこの時代最高の軍事力を持つと考えられていた清和源氏の源頼義である。前任の陸奥国司である藤原登任には戦闘を挑み、藤原登任を敗者として京都に召喚されることには成功したが、その前の陸奥国司である源頼信が相手であったときは、そもそも戦闘に打って出ることはなかった。藤原登任と源頼信とでは武力の差が違いすぎるのである。

 そして、新任の国司は源頼信の兄の源頼義であり、源頼義の操れる武力は、源頼信ですら足元にも及ばない巨大さである。

 その上、安倍氏の根拠地である奥六郡の西には出羽清原氏が、そして秋田城介平繁成が君臨している。根拠地が包囲されているとなると、戦いに打って出たら待っているのは敗北。ここで無条件降伏して源頼義のもとに降るのは、自らの生き残りを考えたときの最善の選択肢だと理解する者は多かったのである。

 安倍氏のもとの蝦夷は、意見が二分された。生き残るために源頼義のもとに降り続けるか、それとも、鬼切部の戦いを繰り返して日本と訣別するか。

 この時点では源頼義のもとに降り続けるという意見が優勢を占めていた。

 だが、誰もが納得する決断とはならなかった。

 蝦夷の中でも血気盛んな若者たちが、自分たちは朝廷軍に勝てると思い込むようになってしまったのだ。


 その頃、京都では、藤原氏の主立った者が揃って宮中から姿を消すという出来事があった。

 もっとも、姿を消したことについて何かを言う人はいなかった。

 天喜元(一〇五三)年六月一一日、源倫子が亡くなった。藤原道長の妻で、左大臣藤原頼通、右大臣藤原教通の実母である。

 還暦を迎えた藤原頼通の生母であることから想像も容易なように、九〇歳という当時には例外的な超高齢での死去であった。

 准三后の栄誉を与えられてから三七年、夫藤原道長を亡くしてから二五年、七五歳で死を覚悟して出家してから一五年という長きに渡って、隠者のような暮らしをしていた源倫子は、文字通り忘れ去られた存在であった。

 左大臣藤原頼通が、あるいは右大臣藤原教通が、私的に母のもとを訪ねることはあっても、左大臣として、あるいは右大臣として公的に訪問することは無かった。また、夫藤原道長の地位の高さから夫婦揃って准三后という民間人としての最高の栄誉を手にしたが、それ以外に特別な栄誉を得てはいなかった。後一条天皇と後朱雀天皇の祖母で、後冷泉天皇の曾祖母なのであるから、特別な屋敷を、資産を、待遇を要求したとしてもおかしくないのに、そうしたものは何も無い。

 夫を亡くしてからは一人の未亡人として、出家してからは一人の僧侶として日常を過ごし、天皇の祖母や曾祖母であることは知識としては知っていても、僧侶としての彼女を見た人は誰もが、老いた女性の僧侶であるという以外の感想を抱かなかった。

 死に際しても、特別を求めなかった。喪に服すにしても長期間の服喪は求めなかった。礼儀として服喪期間には入ったが、天皇の祖母にして大臣の実母でありながら一五日という異例の短さであった。

 ちなみに、源倫子が埋葬されたのは仁和寺の源氏の氏墓である。結婚した女性が実家の墓に埋葬されるのは江戸時代中期までは当たり前のことであり、それは天皇の祖母であろうと、藤原氏に嫁いだ女性であろうと関係なかった。


 天喜元(一〇五三)年九月二〇日、ちょっとしたニュースが日本中を駆け巡った。聖徳太子の残した碑文が河内国で発掘されたのである。この結果、聖徳太子の一大ブームが沸き起こった。

 聖徳太子は、現在でこそ存在そのものが疑われる存在になっているが、平安時代においては実在の人物であり、歴史上の偉人として筆頭格の存在とされた人物であった。その聖徳太子の残したとされる文書が見つかったということで聖徳太子がいきなりブームになったのである。

 この手の代物に良くある話であるが、この碑文が聖徳太子の残した本物である可能性は極めて低い。聖徳太子がこのようにはるか昔に書いておいてくれれば自分にとって都合がいいという内容の碑文を作って、埋めて、発掘するという手順をとったとしか考えられないほどである。

 碑文が見つかったのは叡福寺であり、叡福寺は昔から聖徳太子にゆかりのある寺院とされていた。ただし、問題が一つ。叡福寺に伝わる言い伝えは推古天皇の時代にまで遡り、聖徳太子自身が自分の墓所をここに定めたことになっているが、叡福寺の存在が確認できるのがどうさかのぼっても平安時代初頭、嵯峨天皇の頃なのである。

 叡福寺は、聖徳太子にまでさかのぼる由緒ある寺院であることを前面に掲げているが、それに対する疑念が浮かんでもいた。寺院そのものの勢力が強ければ由来が多少怪しかろうと何の問題も無いが、叡福寺は他の寺院と比べて勢力が強いわけでは無く、荘園争いでも弱いものがある。だからこそ歴史を頼ろうとしているのだが、肝心の歴史的根拠が怪しい。

 このタイミングで聖徳太子の碑文が見つかった、そして、拓本を解読した研究者によると聖徳太子自身がこの寺院に自らを葬ることを指示する内容が彫られていたという。叡福寺にとって都合の良い碑文が絶妙なタイミングで発掘されたことは、現在の視点から見るといかにもな怪しさであるが、当時の人にとっては伝説の聖徳太子の残した碑文であるというだけで充分であった。


 源頼義の手による東北地方の統治は、一見するとうまくいっているように言えた。

 ただし、それは蝦夷の反発を力で押さえつけた占領軍としての統治であった。

 平和を最優先課題とするにはそれが最善の策であったと言える。そして、生産の向上という点でも問題なかった。新しい荘園を開拓することで奥六郡の増えた人口に職を与え生活を与えることにも成功したし、蝦夷ではなく日本人となることを選んだ者には移住の自由も与えられた。

 民族アイデンティティの根源は四つある。言葉、名前、宗教、そして食べ物。

 蝦夷と、日本人と、言葉の壁は無いに等しかった。あったとしても方言程度で、言葉を民族アイデンティティの礎にするには無茶があった。ほとんどの蝦夷は、同じ蝦夷であるはずの北海道の者とは言葉が通じなかったが、理論上は異民族であるはずの日本人とは、意識することなく言葉が通じるのである。

 名前はとっくに日本人化していた。もしかしたら蝦夷としての名前を持っていたのかもしれないが、日常生活で使用する名前は日本人と見分けのつかない名前であった。天皇から下賜された姓を用い、名のつけ方も当時の典型的な名の付け方であった。

 宗教は仏教に染まっていた。仏教伝来以前の宗教としての神道は、この時代、仏教と融合していた。それは東北地方でも例外ではなく、宗教といえば仏教であり、それ以前の宗教の痕跡を求めたとしても、結局は仏教の一部として組み込まれていた。その上、仏教は国際宗教である。蝦夷のままであったとしても、出家したら、あるいは出家しないにしても仏教の信徒となれば、民族など関係なくなる。それどころか、日本列島の外の仏教とともつながりを築ける。話し言葉は通じなくとも、仏典の書き言葉は東アジアの共通語である中国語。筆談でどうとでもなる。

 食事も、コメが普及してきていた。コメはもともと熱帯性植物であり寒冷地に向かない作物であったが、品種改良の末、寒冷地でも収穫できる品種が登場していた。日本にコメが伝来してから、この時点で既に五〇〇〇年が経過している。当初は食料の一種でしかなかったコメであったが、この時代になると圧倒的存在の食料となっていた。それは同時に、伝統的な食事を破壊するに充分な勢いであった。その上、コメは現在の貨幣に相当する。コメの収穫が増えることは、現在の外貨収入増加に相当する。つまり、領域外の物品の購入も可能となり、豊かな暮らしを過ごせることを意味する。

 その四つの全てが、蝦夷の日本化である。戦いに勝った相手であるはずの日本に、蝦夷の社会がだんだんと変貌している。しかも、それは強制ではない。自らの意思で日本化を選んでいるのである。言葉も、名前も、宗教も、そして食べ物も、日本がそうしろと強制してきたわけではない。求めてきたのは戦争をしないことだけであり、それ以外は蝦夷が蝦夷であることを認めてきたのである。

 社会がおかしくなっていると、それも悪い方向におかしくなっていると考えるのは、いつの時代でも見られることである。そして、解決策として二種類が挙がることも、古今東西変わることはない。

 その変わることのない解決策とは、想像上の過去と、想像上の未来の二つである。現在が間違っているから正そうとするのは同じであるが、「かつての我々の祖先は優れていたのに、現在は堕落してしまっている。過去に戻るべきだ」とするのと、「社会がだんだんと悪化している。このような方策をとれば社会は改善するはずだ」とする違いがある。どちらも歴史に対して無知であるという点で違いはない。革新を自認する者は、そうでない者と比べ、そのほとんどにおいて知性において絶望的に劣っている。

 その上、このように考える者の多くは、生活に余裕がある。その日の生活に窮する者でも社会がおかしくなっていると感じる。だが、彼らは実社会で生活しているだけに相応の知性を有している。少なくとも、革新が間違っていることぐらい実感できる知性を持っている。だが、生活に余裕があるために社会に身を置くことなく空想の世界に生きる者は、平然と変革を訴える。


 先に、奥六郡は三〇〇〇騎の兵を養える土地であると記した。これは、三〇〇〇名全員がそうではないにせよ、かなりの数の職業軍人がいることを意味する。そして、その多くは、蝦夷の集落の中での有力者の子弟であった。つまり、額に汗して働かなくとも生活できる余裕があった。と同時に、大した知性の持ち主でもなかった。

 この時代、地方役人としての知識層の需要はかなり高かった。これは陸奥国に限ったことではない。知識層であれば日本人であろうと、俘囚であろうと、蝦夷であろうと関係なかったのである。役人として採用された者は、完全なる清廉潔白とまでは言わないが、仕事は公正に評価され、給与も、出世も公正さが保証されていた。蝦夷でありながら役人であることも可能であるだけでなく、貴族の一員に加わる者もいた。

 このような時代に、上流階級の一員であるために教育を受ける機会があったにもかかわらず、また、役人としてスカウトされてもおかしくない暇があるにもかかわらず、役人にならず、それでいて定職に就かず軍人であると気取っているのは、その程度の知力しかなかったとしかするしかない。

 ただし、革新を自負する者によるあることであるが、自分で自分の知力を把握することはできないでいる。それどころか、自分のことを知的エリートであるとすら思い込んでいる。

 蝦夷が蝦夷であること、社会がおかしくなっていること、日本に対して戦争で勝ったのに、自分たちは敗者として占領下にあること、これらの思いに、武力を持っている者が不足している知力を伴って行動するとどうなるか?

 テロが生まれる。

 奥州安倍氏のトップである安倍時頼は、日本に対して刃を向け、戦闘には勝ったものの、そのまま日本と本格的な戦争に突入してしまったらどうなるかぐらいはわかっていた。罪を許すという布告を名目にしての無条件降伏が最善であるというのも、現実的な判断であった。

 ところが、その現実的な判断が不満であった蝦夷たちにとって最高のリーダーが、他ならぬ安倍氏の中にいたのである。

 安倍時頼の次男の、安倍貞任がその人である。天喜二(一〇五四)年時点で三五歳前後と推計されている。身長は六尺というからメートル法に直すと一メートル八〇センチほどとなる。成人男性の平均身長が一六〇センチほどの時代にあってこの長身は例外的に高い。もう一つ例外的なのが、ウエストサイズ。何と七尺四寸、つまり二メートル二四センチ。大相撲を見渡してもここまでの大きさの者はいない。体重はおそらく二〇〇キロを軽く超え、三〇〇キロ近くには達していたと推測されている。

 外見は威圧感を与えたが、性格は温厚で人と打ち解けやすかった。奥六郡の庶民たちからの人気も高く、困っている人がいると放っておけないたちでもあった。感覚で行くと水戸黄門のような庶民目線でのスターという感じであったのである。

 通常、安倍時頼ぐらいの地域の権力者であれば、自分の子を役人に就かせるぐらいはできるものである。役人にさせることができなくても、位階を手にできる立場にするぐらいならば可能だ。その上、この時代は各地域から集められた巨漢の男達が朝廷に集められ、相撲(すまい)の節会(せちえ)で相撲をとるのが年中行事になっていた。相撲の節会の力士に選ばれれば親の権力に頼らなくても自動的に位階が手に入る。

 だが、この安倍貞任は位階を持ってない。

 父だけでなく、妻の父も位階を持っていたのだから、位階のある地位にさせようと思えばさせることもできたであろうし、本人も努力すれば位階を手に入れるぐらいはできていたであろう。にも関わらず位階を手にしなかったということは、位階に見向きもしなかったからだといえる。

 実はこの安倍貞任には一つの言い伝えがある。

 何歳頃のことかはわからないが、軍勢を率いて北海道に進み出て、樺太に渡り、沿海州にまで辿り着いたという記録が存在するのである。実に怪しいものであるが、安倍貞任はそのように喧伝していたし、当時の人はその喧伝を受け入れていた。

 安倍貞任は、自分を蝦夷であると強く自覚し、日本と手を結ぶのではなく、沿海州から樺太、北海道、そして東北地方までを一つの文化圏とする一つの勢力の構築を考えていたのではないか、と。

 夢物語と思うかも知れないが、これらの文化圏は全て同じ文化圏の地域であると言えなくもない地域圏である。仮に蝦夷文化圏と名付けるが、この蝦夷文化圏は日本の支配から脱して独自の国家、ないしは国家に似た勢力を築ける文化圏であると、安倍貞任は考えたのでは無いであろうか?

 どう考えても無謀な計画であるが、現実に足場を置かず、革新を考え、未来の創造を夢見る者にとっては何とも幻想的な計画である。

 この無謀な計画の、あるいは幻想的な計画の萌芽は、天喜二(一〇五四)年末には既に現れている。陸奥国司源頼義はこの無謀な計画に対して、鼻で笑うことはせず、できうる限りの最善の手段をとっていた。とは言え、計画であるだけで実行に移しているわけではない。現在であれば銃刀法違反の嫌疑で警察捜査も可能だが、この時代の法に従うと、物騒な計画であるのは事実であるにせよ、何ら法に触れてはいないのである。

 歴史にイフは厳禁と言うが、イフが認められていたなら断言できることがある。テロへの準備も有罪とする法が存在していれば、この後に起こる不幸もなかったということを。

 末法への恐怖の中で即位し、格差の拡大を解決するために、荘園の廃止を目標としてまずは荘園の整理に着手した後冷泉天皇にとって、荘園整理は何としても譲れない政策であり、それこそがアイデンティティであった。

 荘園整理の結果、景気が悪化して失業者が増えたことについて、後冷泉天皇は認めようとはしなかった。景気の悪化と失業者の増加の原因は荘園整理にあるのではなく、荘園整理があるからこの程度で済んでいる、あるいは、荘園整理の不徹底が原因であると考え、天喜三(一〇五五)年三月一三日、荘園整理令第二段にとりかかった。

 既存の荘園整理の再確認として、寛徳二(一〇四五)年以後に新しく成立した荘園を、例外なく荘園から除外するとしたのである。荘園を名乗り、租税に対する不輸不入の件を主張しても、荘園が寛徳二(一〇四五)年より前から存在していたという証拠を示さなければ、そのコミュニティは荘園ではなく、いかなる理由があろうとも納税から免れることはできないというのがこのときの荘園整理であった。これを天喜の荘園整理令と言う。

 前回の荘園整理令は喧々諤々の論争の末に寛徳二(一〇四五)年という縛りを設定してどうにか成立させたという経緯がある。それが、今回はあまりにもすんなりと成立した。

 律令制を否定した藤原摂関政治であっても律令が死んでいるわけではない。政治は全て法律に基づいて動き、法律というものは天皇の名で布告されるというのが律令の規定である。天皇が「このような法律を発令する」と宣言してしまえばそれは法律として有効になる。

 もっとも、いかに天皇に強大な権力が存在していても、議政官に通されてきた法案に対して、議政官で議論をし、決議がとられ、その結果が天皇に届けられ、天皇の名で法律として発令するという流れが慣例として存在する。このあたりは現在の立憲君主制と等しい。

 そしてこのときも、後冷泉天皇の意向を組んだにしても、役人たちから上奏されてきた法案を議政官で審議し、可決されたので後冷泉天皇が発令したというスタイルをとっている。

 天喜三(一〇五五)年時点の議政官の面々は一人残らず、後冷泉天皇が荘園整理に心血を注いでいることを知っている。そして、前回の喧々諤々を知っている。その彼らが今回はスムーズに可決した。

 後冷泉天皇の気迫に圧倒されたからでも、荘園整理の必要性に目覚めたからでもない。荘園整理が無意味であると気づいたからなのだ。

 現実を無視した経済政策を強引に展開するとどうなるかは寛徳二(一〇四五)年の荘園整理令で嫌と言うほど実感した。それは、一〇年という歳月で忘れることができるような、末法に対する恐れがもたらした混乱で忘れることができるような、さらには東北地方で起こった戦乱で忘れることができるようなものではなかった。

 荘園整理に喝采した庶民も、今はもう、荘園整理に疑念を持つ存在へとなっている。即位から一〇年を迎えた後冷泉天皇にはもう、かつてのような若きプリンスという面影はなく、執念で荘園整理に猛進する天皇というイメージしかついてこなくなっていた。

 ここで荘園整理を命じても、無くなるのは荘園ではなく荘園整理令のほうなのである。

 それがわかっているからこそ、議政官の面々はあまりにもスムーズに荘園整理令を可決し、後冷泉天皇は議政官の可決を承認して、天喜の荘園整理令が実現したのである。


 後冷泉天皇が焦っていることは誰の目にも明らかであった。

 天喜三(一〇五五)年六月七日に、それまで里内裏としていた冷泉院を解体し、一条院に移築するとしたのである。立地条件だけとってみても、冷泉院の方が一条院よりはるかに優れている。それなのになぜ冷泉院を捨てて、冷泉院と比べると不便な一条院に遷るのか誰にも理解できなかった。

 遷ろうとする理由はわからないが、焦っていることはわかった。これまで里内裏として使われた建物は多々あるが、使用された頻度で行くと一条院が群を抜いている。一方、冷泉院を里内裏としたのは後冷泉天皇が最初である。

 その上、冷泉院自体が永承六(一〇五一)年に再建されたばかりの真新しい建物である。焼け落ちた内裏の再建工事が終わるまでという条件がつくにせよ、冷泉院以上に内裏に相応しい建物は無いというのが共通認識として広まっていた。

 立地条件でも、敷地面積でも、一条院は冷泉院に劣る。いや、一条院は充分な敷地面積を持っている上に、内裏のすぐそばというかなりハイレベルな立地条件なのであるが、冷泉院があまりにも完璧すぎる敷地面積と立地条件なので見劣りしてしまう。

 その上、一条院は長久四(一〇四三)年一二月一日に焼け落ちてから見向きもされていなかった。それが、このタイミングになっていきなり、冷泉院の敷地面積の四分の一しかない、別納と呼ばれる拡張エリアを含めても冷泉院の半分の敷地面積しかない一条院への移築である。冷泉院の建物を解体して一条院に遷るという発表は誰もが耳を疑った。

 噂によると、冷泉院には物の怪(モノノケ)が現れるのだという。それを恐れた後冷泉天皇が、里内裏の先例を踏まえて一条院に遷ることにしたのだという話が広まった。

 本当かどうかはわからない。わかっているのはただ一つしか無い。

 それは、後冷泉天皇の焦り。

 妖怪の類が出現したから解体して一条院に遷るという話は興味半分であっても、後冷泉天皇が焦っていることは興味半分では済まされない現実であった。

 焦りの理由は三つあった。

 一つは、自分の後継者がいないこと。弟が皇太子であり、自分に何かあったら弟が皇太子として即位する。若きプリンスと目されていた頃は、まだ男児がいないことも特に問題になることはなかった。しかし、即位から一〇年が経ち、年齢も三一歳となっている。この年齢にあっても男児がいないことは皇統の連続という点で大問題であった。

 二つ目は、荘園整理が思い描いていた結果を残していないことである。後冷泉天皇の考えでは、貧富の差の拡大の解決として豊かな者の資産を抑え込んで貧しい者に分配するというものであった。藤原氏や有力寺社の持つ資産を取り上げれば格差問題は解消すると確信して、最終的には荘園の全廃を目指し、その第一段階として荘園の縮小を図った。ところが、荘園縮小が始まった瞬間に不景気になり、失業者が増えて収拾がつかなくなった。景気が回復して失業者が減ったのは、荘園整理を徹底させたからではなく、荘園整理が有名無実化したからである。

 焦りの三番目は治安の悪化である。東北地方で勃発した蝦夷の反乱は後冷泉天皇にとって驚天動地であったが、それ以外に目を向けても治安悪化は隠しようのない現実として存在していた。

 この時代、寺院にしろ、内裏をはじめとする国の施設にしろ、やたらと火災が多い。

 火災が多いのは火の不始末が原因ではない。放火犯が増えたのだ。

 日本という国は地震が多い。地震が多いから、石で建物を作ろうものなら揺れで簡単に崩れてしまう。縄文時代から現在に至るまで建材の多くが木材であるのも、地震対策のためである。

 ただし、木材であるということは火災に遭いやすいことを意味する。だから火の取り扱いについてはかなり慎重にならざるをえないし、家の中の作りも火災の起きにくい作りへと発展してきた。

 ところが、放火となるとどうにもならなくなる。建物に火を放ち、逃げ惑っている隙に一切合切奪い取っていく火事場泥棒が頻発した。それも、一般庶民の家だけでなく、貴族の邸宅、有力寺社、さらには内裏ですら奪うための場所へと変貌した。

 その上、争いの一環として火をつける者まで現れた。寺院同士の対立で、敵対する寺院に火をつける。貴族と貴族の争いで、相手の貴族の家に火をつける。武士と武士との争いになると火を伴っての夜襲など日常の光景だ。平安時代は現在と比べ物にならない治安の悪い時代であったが、それを踏まえても、この頃の治安の悪さは突出している。繰り返し書いてきたことであるが、政治家の評価基準は一つしかない。庶民の生活が前よりも良くなったか否かである。庶民の暮らしが前よりも良くなった政治家だけが政治家として合格であり、そうでない政治家は不合格である。そして、治安の良し悪しは庶民の暮らしの中でもかなりの割合を占める。モノの豊かさがあっても、モノが奪われるだけでなく命の危険もあるとしたら、それは庶民の生活が良くなったとは言えない。

 いかに焦っていると言っても、解体してから移築するまでには時間がかかる。そこで、一条院の工事が完了するまでは藤原頼通の私邸の一つで、皇后藤原寛子の里邸であった四条殿を里内裏とすることとなった。一条院が完成し、後冷泉天皇が遷るのは天喜四(一〇五六)年二月二二日のことである。


 一条院は確かに不便であるが、それも冷泉院の立地条件と比べるからであって、内裏のすぐそばという点では一条院も素晴らしい環境なのである。

 その上、一条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇と、ここ四代の天皇のうち三条天皇を除く三代の天皇が里内裏として利用してきたという実績がある。後冷泉天皇もこの先例に乗ろうとしたのであろう。

 いや、先例に乗ろうとしたのは後冷泉天皇だけではなかった。藤原頼通も、そして、議政官の面々も、先例に乗ろうとしたのだ。

 天喜四(一〇五六)年閏三月二七日、清涼殿で和歌管弦の御遊が開催されたのを皮切りに、一条院ではかつての宮中文化を取り戻そうとする動きが活発になった。ここでいうかつての宮中文化とは、この時代の人たちの考える空想上の宮中文化であり、現代人が平安時代の文化と考える、枕草子や源氏物語といった女流文学は「下品」であり、「幼稚」であり、そういった作品に熱狂するのは犯罪に走る気持ち悪い者と見なされていたので除外される。そのため、壮麗であることは認めても、面白くも無ければ、楽しめもしない、古臭いものとなった。

 それは、宮中に限らず、平安京全体を包み込む祝賀ムードであろうとした。あろうとしたが、庶民の求めるものではなく、退屈なものであった。

 この祝賀ムードは、四月三〇日に、皇后藤原寛子の名で、一条院内裏で開催された皇后春秋歌合で頂点を極める。もともと和歌に造詣の深い藤原頼通である。この歌合で生まれた和歌の出来自体は素晴らしかった。

 ただ、なんとか無理して祝賀ムードを作り出しているようにも感じていた。末法への恐れがほとんど無くなったといっても、現実は相変わらず続いている。これまでは未来に不安を感じていてもそれは末法への恐れのせいだとできたが、末法への恐れのせいにできなくなった後も漠然と残り続けた現実への不満と未来への不安は、作り出した祝賀ムードを心から楽しめるものにはできなくさせていた。

 それでもなんとか踊ろうとしていた祝賀ムードを一瞬でぶち壊すニュースが東北地方からやってきた。


 永承六(一〇五一)年の鬼切部の戦いをもって前九年の役のはじまりとするのが一般的であるが、天喜四(一〇五六)年時点の人はそのように考えていなかった。陸奥国司源頼義の派遣と安倍頼時の無条件降伏で東北地方の戦いそのものが終わっており、源頼義は国司として戦後の東北地方の再建にあたっているのだと当時の人は考えていたのである。

 もっとも、源頼義はそのように考えてはいなかった。テロの起こる可能性があること、それが安倍頼時の子の安倍貞任をリーダーとする集団の手によるものであることを想定してはいたのである。いつ暴れ出すかわからない集団を相手にしているからこそ、常に最新の注意を払っていたのだ。

 一方、暴れ出そうとしている側にとっても、理由なしに暴れることはできない。戦闘の敗者でありながら戦争の勝者となっている日本への不満がいくらあろうと、源頼義を相手にしたら勝てる可能性は極めて低いという現実の前には身を律するしかなかったのである。ただし、二つの条件が重なれば例外になりえた。一つは、源頼義の軍勢を各個撃破できる状況があること、もう一つは、集団が同じレベルの怒りを共有できることである。同じ怒りを抱いた集団は、現実を無視して暴れまわりやすくなる。各個撃破という戦闘の勝利を得やすい状況を伴えば、同じ暴れるにしても、より暴れやすくなる。

 怒りを共有するのに必要なのは、プライドである。プライドが傷つけられたと感じられれば、それも、共有できるプライドが傷つけられたと感じられれば、怒りは沸き起こる。

 出来事はこうである。

 源頼義の部下の一人に藤原光貞という者がいた。陸奥介として今でいう副知事の職にあった藤原説貞の子である。安倍貞任は、この藤原光貞の妹にプロポーズしたら断られた。

 これだけである。

 プロポーズを断られること自体は、不憫ではあるがよくあることでもある。男としての魅力に欠けていたのか、好みのタイプではなかったのか、どの時代においても、どの世界においても、性別を問わずよくあることである。

 おまけに、この時点で安倍貞任は結婚していた。たしかにこの時代は一夫多妻である人も多く、安倍頼時も確認できるだけで四人の女性が妻として確認できているが、本来は一夫一妻であり、結婚している男がやってきていきなり妹を妻にくれと申し出てきて平然としていられるのは家族の情を考えても簡単に承諾できる話では無くなる。

 その上、陸奥介の娘との縁談なのだから話はよりいっそう簡単にはいかなくなる。安倍頼時の子に娘を嫁がせるとなると自由意志にはいかなくなる。ましてや、源頼義からテロの恐れありとされている要注意人物なのだ。

 ここまで揃うと、プロポーズが断られたとしても、それは仕方ないことと済ませることのできる範囲であるとするしかない。

 だが、「自分が蝦夷だから断られた」と喧伝するとどうか?

 一瞬にして差別の被害者となれる。

 自分のことを蝦夷ではなく日本人であると考える人であっても、自分は日本人として認められていないのだと考えたら、民族差別への怒りを見せる人になる。

 このプロポーズの話がいつ頃のことだったのかはわからないが、プロポーズ失敗に対する怒りの行動はわかっている。

 天喜四(一〇五六)年閏八月、陸奥介藤原説貞の子である藤原光貞と藤原元貞の兄弟が、胆沢城から陸奥国府に戻る途中、阿久利川(あくとがわ)付近で襲撃されたのである。これを阿久利川事件と言う。

 そして、陸奥介の子らに被害が生じたために源頼義がただちに捜査に乗り出したことから、戦いは本格的なものへと成長していく。

 第一次世界大戦のきっかけになったのが一発の銃声であったように、大規模な戦争が起こるきっかけは、原因ではなく、いつ爆発してもおかしくない状況での誘発であることが多い。

 阿久利川事件は、安倍貞任にとってのきっかけになる事件であると同時に、陸奥国司源頼義にとってもきっかけになる事件でもあった。

 いつ爆発してもおかしくなかった蝦夷にとって、阿久利川事件は決断をさせるきっかけになった。ここで日本に対して決定的な勝利を収め、日本からの訣別を実現させ、北海道、樺太、さらには沿海州へと至る一台王国を築くという野心を実現に移すときと考えたのだ。

 一方、テロにいかに対するかで戸惑っていた源頼義にとっても、軍勢を差し向けるきっかけになった。テロの計画をしているというだけでは処罰できない。だが、実際に事件を起こしたとなると処罰できる理由ができる。ここで軍勢を差し向けて蝦夷の不満分子をこの世から抹殺すれば全ては解決するのだと考えたのである。

 事件の知らせを聞いた源頼義はまず、安倍頼時に出頭を命じた。

 このままでは、一度は鎮まった戦争が復活してしまい、自らの、さらには東北地方全体の蝦夷の破滅を招くと考えた安倍頼時は、父親として息子の不始末の責任をとると考えたようである。だが、それは遅すぎた。爆発した後で導火線の火を消しても意味は無いのだ。

 安倍頼時は、自分に残されているのは息子らと運命をともにすることだけだと悟り、一度は服属した源頼義の元から去って息子のもとへと向かった。奥六郡の最南端にある衣川関を封鎖。ここで正式に、日本の支配からの訣別するための戦争を始めると宣言した。日本に対する反感を募らせ安倍貞任のもとに集っていた者も、その全員が安倍頼時の支配下に組み込まれることとなった。

 この報告を受け、源頼義は陸奥国司の名で、京都の朝廷に対して安倍頼時謀反の知らせを伝えた。安倍貞任は無位無冠の一庶民であるが、安倍頼時は奥六郡の郡司として国家体制に組み込まれていた貴族の一人であり、また、陸奥国司の部下の一人でもある。貴族の反乱となると朝廷も相応の対応をしなければならなくなる。

 国を挙げて祝賀ムードを創り出していたところに飛び込んできたニュースとはこれである。一度は終わった東北地方の反乱が実は収束しておらず、それどころか前よりも悪化していると判断した朝廷は、この年限りで陸奥国司の任期の終わる源頼義に安倍頼時追討を命じた。国司の任期が終われば京都に戻らなければならないが、追討の宣旨が出たなら京都帰還の必要は無くなる。それどころか、朝廷の命令として軍勢を集めることも、兵糧を集めることも許されるようになる。

 実際に戦ったからこそ、安倍頼時はこのままで行けば戦争に負けることを確信していた。息子たちの挙げるような夢物語に関心を示さないどころか、日本のもとに服属する以外に日々の生活を続ける選択肢はないと考えていた。

 そのためにはできる限りのことをしていた。

 息子が陸奥介の娘と結婚しようとして失敗したとき、無謀な夢を見る革新者たちの口実になると気付いてもいたが、反対しなかったのは成功した場合のリターンが大きいからである。

 源頼義のもとに降伏してから、安倍頼時は源頼義と人脈を築こうとしていた。その結果、源頼義の重要な家臣である藤原経清と平永衡の二人を婿とすることに成功した。二人とも俘囚であるという共通点があり、源頼義のもとに仕える前は東北地方の有力な武士団のトップであったという共通点があった。その上、藤原経清は俘囚であると同時に藤原氏の家系図にも組み込まれている人物である。藤原北家の本流として議政官の一員に名を連ねるほどではないにせよ、藤原氏の家系図に名を連ねる人物を婿とすることは藤原摂関家との関係を築けることを意味する。

 この状態で安倍頼時は奥六郡の最高実力者として反乱軍のトップとなったのである。

 その上、安倍頼時はなかなかの策士でもあった。藤原経清と平永衡の二人が源頼義ではなく反乱軍側に加わってくれればどうにかなると考えただけではない。娘婿である二人を切り離すよう画策したのである。

 妻の父である人、妻の兄弟である人に対してこれから攻め込むのだ。しかも、今でこそ日本人として朝廷軍の一員であるが、同胞という意識で言えば反乱軍側のほうがより同胞になるのだ。

 二人がこのような微妙な立ち位置であることは源頼義も知っていた。かといって、後衛の守備を任せるわけにもいかなかった。

 源頼義が呼びかけたことで、関東地方の名だたる武士たちが馬を操り奥州へと向かっていた。そのときの様子を当時の記録は「雲のように集まり雨のようにやってきた」としている。軍勢を集めて統率することはかなりのマネジメント能力を要するが、源頼義にはそれだけの能力があった。ただし、一点だけ難点があった。大軍を集めることはできたが、大軍を維持できるだけの兵糧がなかったのである。ゆえに、短期決戦で反乱を鎮圧させる必要があった。

 関東地方からやってきた武士たちも、奥州で集められた武士たちも、自分たちが充分な兵糧を持っているわけではないことを知っている。それでも、源頼義の立てた短期決戦であれば問題ないとはわかっている。裏を返せば、短期決戦に失敗したら、兵糧不足で軍勢が維持できないのは目に見えている。

 そこで重要なのが、藤原経清と平永衡の二人である。この二人の所領が補給基地として期待できたのだ。本来ならばこの二人は各人の所領に戻って欲しかったのだが、所領に残った状態で裏切られたら、大軍であるがゆえに兵糧不足で壊滅してしまうのだ。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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