苦悶の捕虜

 ある国とある国の戦争で一つの物語が生まれた。
 戦争は年寄りも若者も巻きこむ、終わりない泥沼となっていた。
 A国の捕虜収容所、B国の兵士は強制労働と拷問で次々と死んでいった。
 これはB国でも同じことであり、こうした敵愾心がさらなる憎悪と生み、さらなる戦争を生んだ。
 若者は遊ぶ代わりに戦い、老人は休む代わりに働いた。
 恋も、安息も、人間らしさもそこにはなかった。


 「貴様がB国のスパイだということはわかっている」
 「知らん!」
 もう彼は彼女の拷問を三ヶ月以上も受けていた。
 右足はもはや動かなくなり、背中は血にまみれていた。
 生きていることが奇跡とも言える。
 平和なときであれば性的倒錯で済んだが、今の世の中では捕虜への拷問にすぎない。
 ただ片方が男で片方が女だというだけである。
 拷問をしている彼女は、別に彼が何か秘密を握っているとかで拷問を加えているわけではない。
 彼にしてみれば秘密もなければ、拷問を受けるいわれもない。
 そもそも拷問を加える理由もないのだ。
 それでも彼女は拷問を加え続けている。
 それが命令だからだ。
 命令だから従い、命令だから拷問を加えている。
 そして最後の命令がきた。
 「……の死刑執行を○月○日に執り行うこと」
 彼に残された時間は三日、残り七二時間。

 「来るべきときが来ましたか」
 「あと七二時間。三日後の正午が運命だ」
 「今日は拷問はないんですか」
 「今更加える気にもなれんし、加えたところで得になることはない。何かしたい事があったらいまのうちだな」
 「ゆっくり休みたい。丸一日寝て過ごしたい」
 「安息は保証できないぞ」
 彼は妙に落ち着いている。なぜなら死について鈍感になっているからだ。
 過去何人も殺したし、仲間も何人も殺された。
 自分も度重なる拷問の末、死を何度も考えた。
 しかしこのときは軽く過ごしたが、夜になり、眠りのときになると限り無く涙が出てきた。
 「俺の今までの人生……。殺して、殺されるだけ……」
 やり残したものの多さ、自分以外のものに奪われたものが多すぎる人生。
 余りにもむなしすぎる。


 残り二四時間。
 「こういうとき、キリスト教徒やユダヤ教徒は聖書を読むと言うが、欲しければ用意してやるぞ」
 「読みたい本もないし、信者でもない」
 「手紙でも書かないのか」
 「誰に書けと? 家族もいないし、知っているのはみんな戦場だ」
 「恋人に書くとか」
 「今までの人生で、女性というものに知り合ったのはあんただけだ」
 「俺を女として扱ったのもお前が初めてだ」
 「俺はいいさ。もうすぐ死ぬから、妻や子どもがいるより一人のほうが気楽でいい。でもあんたはこれからも生きていくんだし、一人じゃ寂しいだろうから誰か恋人でも作るがいいさ」
 「地面から生えてくるわけでもなかろうに」
 「それより、何でもしてくれるって言ったな」
 「できることに限るがな」
 「まともな飯を食いたい。いつも水かどうかわからないお粥じゃな」
 「仕方無いか。今日ぐらいはまともなの食わしてやるよ」


 残り一八時間。
 「約束通り、まともなのをもってきてやったぞ」
 「珍しいな、あんたがもってきてくれるなんてのは」
 この収容所の食事は、壁にあけられた腕が入るのがやっとの小さな穴から通されるわずかなお粥だけである。
 拷問で歯を失う者も多い捕虜にとって見れば、固いものでないだけでも救いなのかも知れない。
 「こうして会うのも、これで最後かも知れないからな」
 彼はやっとまともな食料にありついたが、食べようとはしなかった。
 彼女は食事を目の前にしてただ漠然と眺めているだけの彼の仕種を不思議がった。
 「どうして食べないんだ」
 「あんたは食べたのか」
 「何をだ」
 「晩飯を」
 「そりゃな」
 「何を食べた。どういった食べ物で、いつ食べた」
 「それは……」
 「食べていないんだろう。悲しげな目をしている」
 「私のことを気にかける暇があったら、さっさと食べてしまえ」
 「俺は食べても食べなくてもいい、もともと君に食べさせようと思って注文したんだ。初めて会ったときの君はもっとグラマーだったのに、今ではこんなに細くなってしまっている。ダイエットなんていい響きじゃない、栄養失調だ」
 「食べたくはない。死への最後のはなむけだ。食べろ」
 「優しいんだね、無理して強がっているだけで」
 「さっさと食べろ」
 食事が喉を通るはずはなかった。
 それを無理やり流しこんだ。
 うまいとか言える贅沢はない。ただ腹が満たされたというだけだ。
 それでも一口一口、味を思い出すかのようにゆっくりと食べた。


 「あと一六時間だ、一人にしておいたほうがいいか」
 「最後に、わがままを言っていいか」
 「もう、今となってはできることも限られるぞ」
 独房につけられたほんのわずかな明かり取りからは、明るく輝く三日月が見える。
 もうあたりは暗く静まり返っていた。
 彼にできることは、そして彼女が彼にしてあげられるのはこの収容所の中でできることだけである。
 「一瞬でいいから、俺の恋人になってくれ」
 「え……」
 「恋人の……、いや、俺のことを一瞬でも考えてくれたことのある人がいないまま死ぬのは嫌だ。うわべだけでも、同情でもいいから、俺のことを考えてほしい」
 「……」
 「孤独なんて嫌だ、家族も、友人も、恋人もいない人生なんてつまらない。一秒だけでも恋人がいたという事実があれば、死後のむなしさも残らない」
 「いきなり、恋人になってなれっこないじゃない」
 「君が恋人と思わなくってもいい。俺が一方的に思い上がればそれでいいんだ」
 「こんな女でいいのか」
 「君にしか頼めないことじゃないか」
 「好きになってくれるのか」
 「会ったときからずっと思い続けていたんだ。それなのにずいぶんとひどいことをして苦しめる。とんでもない人だ」
 「ごめん……、でも……」
 「戦争が終わって、社会に戻っても俺は普通に暮らせはしないだろうし、責任を求めても戦争だから責任を問えない。どっちにしたって死ぬしかないんだ。もう、思い残すことはない。今こうして語りかけているだけでも、恋人と思いこむことはできるから」
 彼女はうつむいたままだった。彼は不自由な体を動かして彼女にもたれかかる。
 「最後のわがまま、ごめん……」
 「……」
 「何も言ってくれないんだ」
 「急に女に戻れないよ」
 「ごめん……」
 残り八時間までの六時間、それはあまりにも短い時間であったが、生まれて初めて自分が自分であった時間だった。


 残り八時間。
 あと八時間で彼はこの世の人間ではなくなる。
 星の輝かしさも彼女には怒りを覚えるものだった。
 時の発つことの苦しさを感じているから。
 「相手してくれてありがとう」
 「恋人……なんだから当然だ」
 「認めてくれるんだ」
 「好きでもない人に抱かれるはずなかろう」
 二人はじっと見つめあっていた。
 「私のこと好きか?」
 「もちろん」
 「私を恋人と思ってくれるか?」
 「当然だよ」
 「残酷な答えだ……」
 「どうして」
 「いっそのこと、『大嫌いだ』ぐらい言ってくれたほうが、後に残されるほうにとっても気が楽というもの」
 「大嫌いだ」
 「私もあんたなんか大嫌い」
 それは二人の精一杯の愛情表現だった。



 時計の針は夜中の四時を少し回ったところを指している。
 残り六時間、朝日のなかで彼は最後のときを向かえようとしている。
 彼の右足を奪った彼女は今、一枚の紙を目の前にして頭を抱えこんでいる。
 『捕虜番号……
   ……、よって本日死刑を決行する。
                    代表署名        』
 後はここにサインをすれば死刑が執行される。
 逆に言えばここにサインをしなければ死刑は執行されない。
 自分の右腕から生み出される自分の名を示す文字が、こんなに重苦しいものであったということを初めて知った。
 「どうして……、書けない。サインができない」
 残り四時間。彼女の語りかけもこれで最後だ。
 「あなたにとってこの独房も今日で終わりなんだよね。ここにきてからいろいろあったけど、思い出があるでしょ」
 「一つしかないよ、思い出だなんて」
 「さっきのこと、あれは割り切ってくれないと」
 「じゃあ、思い出をゼロにするのか」
 彼の独房、兼拷問室は、たった一度の思い出の場所でもある。
 「今でも私のこと、愛してる?」
 「愛してる」
 「ずいぶんと軽く答えるじゃない」
 「答えが一つしかないのに悩むこともない。今更ジタバタしたって死刑がなくなるわけでもないし、逆にこういう場合、落ち着いて、自分に素直になれるんだ」
 「死刑、なくなるかも」
 「慰め?」
 「私をつれて逃げる勇気ある」
 「……」
 「だめか」
 「方法が、あるのか」
 「ない」
 「だろうな。何度ここから逃げ出そうとしたことか。でも、どうやってもだめだった。ここを出ると君に会えなくなるし、外は戦場だ。外で死ぬか、中で死ぬか、どうせ死ぬなら好きな人の側で死にたい」
 「死んだあと、私はどうなる」
 「自由だ。戦争が終わって、平和に暮らして、家族をつくって、普通に暮らすもいいし、どうしようと、君の勝手だ」
 「いや……。絶対に」
 「君は自由になれるんだ」
 「好きなの、私も……。だから、一緒に逃げて。ここにいたら死んじゃうでしょ。外はまだ生き残る可能性があるじゃない。ゼロよりはマシだよ。外に出たら、私が働いて、あなたの分も食べさせてあげるから。責任は取るから」
 残り三時間三〇分、二人の心は一つに重なる。
 残り三時間二〇分、独房に人の姿がなくなる。



 残り三時間。
 「脱走だ」
 二人を捕まえるために収容所の中だけではなく、外も騒然となった。
 サイレンが鳴り響く。
 A国の兵士だけではなく、死刑が決まっている他の捕虜も駆り出される。
 見つけたものには死刑が取り消されるため、戦友を裏切ってでも自分のために必死になる。
 残り一時間三〇分。彼女が見つかった。
 「殺して、私も……」
 その言葉を最後に、彼女は処刑台へ括りつけられた。
 「恋愛感情が芽生えるのもわからなくもないが、ここは戦場だという事を忘れるな。この女は憎きB国の兵士と関係を持ち、あまつさえ脱走を試みた。そのため、みせしめとして処刑する」
 残り一〇分。
 彼女は処刑台に括りつけられたまま一言も喋らずただ沈黙を保っていた。
 「死ぬ前に何か言うことはないか」
 こう聞かれて初めて口を開いた。
 「彼に会いたい」
 「やつならば既に死んだ。見つかる前に銃で打たれていて、見つかったときには既に息も絶えていたそうだ」
 「……」
 「血で、『彼女だけは助けてくれ』と。それが最後のメッセージだ」
 「そう……」
 「奴の死体は間もなく運ばれてくる。目の前に穴があるだろう。死体はあそこに埋める予定だ」
 「せめてもの情けだ。一緒の墓にいれてくれ」
 「軍規により、墓を立てることは許されない。しかし、一緒に埋めてやることは保証しよう」
 「ありがとう」
 そして彼女の目の前に横たわった彼が見えたとき、彼女の顔には、全てを捨てた、そして、全てを得た人の、聖者のような表情が見えた。



 リミットジャスト。
 四発の銃声がとどろいた。
 死体が下ろされる。
 「よし、死体を埋めろ」
 彼がすでに横たわっている穴に彼女も捨てられるように投げ捨てられようとしていた。
 「待ちなさい。せめてもの情けです。結婚式は無理でも、指輪の交換ぐらいはさせてやりましょう」
 針金で作った適当な輪っかが指輪になった。
 二人の左手の薬指に一旦はめられた指輪は取り替えられ、これ以上ない簡単な結婚式が行われた。
 そして深い穴の底に、重なるようにして埋められた。

- 苦悶の捕虜 完 -

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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