共喰 トモグイ

 昭和46年8月4日、千葉県にある印旛沼のほとりの杉林。

 人目はなく、乗用車のヘッドライトだけが明かりとなっている。

 穴を掘る三人の男と一人の女。

 「た、助けて……」

 全身アザだらけとなりながら、早岐やす子は何とか乗用車から逃げ出した。

 「早岐が逃げた!」

 「追いかけろ!」

 早岐が逃げたことを知った男達は穴掘りを中断して追いかけた。

 「いやー!」

 「待て! 裏切り者!」

 早岐やす子は誰からも助けられることなく男達に追いつかれ、毛布をかぶせられて殴る蹴るの暴行を受け、ビニール紐で首を絞められて殺された。

 主犯は寺岡恒一、吉野雅邦、瀬木政児の三人。共犯は運転手でもあった小嶋和子。

 四人は中断した穴掘りを再開し、早岐やす子の遺体を裸にして放り投げ、埋めた。

 8月10日、早岐やす子の恋人、向山茂徳のアパートに大槻節子が訪ねてきた。飲みに行こうとする誘いである。恋人と一週間ほど連絡が付かなくなっていたが、この時点の向山はまだ恋人の死を知らない。

 店で盛り上がった後、二人は府中市の岩田平治のアパートに一緒に向かった。

 岩田は向山と高校の同級生である。ただし、岩田は一浪した後大学に入ったのに対し、向山は二浪目を迎えていた。

 岩田のアパートに岩田の姿はなく、中にいたのは寺岡恒一、吉野雅邦、瀬木政児の三人だった。

 三人は向山茂徳を見るなりいきなり殴りかかった。

 「なぜ逃げた!」

 「やめろ!」

 「お前も早岐と一緒か!」

 抵抗むなしく血まみれになって気を失った向山茂徳は、早岐やす子を運んだのと同じ車に乗せられ、早岐やす子の最期と同じ印旛沼に連れていかれた。早岐やす子と違っていたのは、運ばれる途中で意識を取り戻して抵抗したため、印旛沼に着いたときには絞殺死体となっていたこと、そして、埋められた穴である。

 早岐やす子と違う穴に埋められたのは、「一緒の穴に埋めると永田が怒る」という理由である。

 これから九ヶ月にわたって日本を震撼させることとなる連合赤軍事件はこうして始まった。


 約一ヶ月前の7月15日、共産主義者同盟赤軍派中央軍と、日本共産党革命左派神奈川県委員会人民革命軍が合併した。

 いわゆる「連合赤軍」である。

 ただし、赤軍派と共産党に所属する者全てが連合赤軍に参加したわけではない。ただでさえ少なくなっていた構成員が、連合赤軍結成の瞬間さらに少なくなっていたのである。正式な人数は何人であるかはわからないが、おそらくどんなに多く見ても四〇人には届いていなかっただろうと言われている。

 正式な人数が把握できないのは当然で、彼ら自身、組織の正式な人数を把握できていなかった。把握しようとしなかったからではなく、把握するだけの知性がなかったから。

 現在でもよく見られる光景であるが、組織の構成員数について、組織自身の公表する数値が実際の数値より多いことがある。

 例えば、末端に対し、一人につき五人の仲間を連れてこいと呼びかけたとする。このとき、三人しか連れて来れなかった末端は正直に「三人しか連れて来れませんでした」と報告するだろうか? 特に、その命令が無茶で、かつ、命令を断ることのできない状況に置かれたとしたら。

 答えは明らかにNo。

 その代わり、結果をごまかして「五人連れてきました」と報告する。ここで二人のズレが起こる。それをした末端が一人だけなら誤差で済むが、全員がそれをやったらどうなるか。

 集計すると現実より多い数値となってしまう。

 おそらく、組織のトップは「一人が五人の仲間を連れてくれば組織の仲間は一気に六倍となる」と考えたのであろう。そしてその考えを末端に伝えた。しかし、それは現実には無茶な要求であった。でもそれを無茶だと言うとどうなるか? 早岐やす子と向山茂徳の二人が身をもって教えてくれた。

 先に私は三人しか連れて来れなかったという例を記したが、現実にはどうであったか。一人でも仲間を連れてくることができれば御の字、ほとんどの者は一人も連れてくることができずに終わったか、この期に組織を抜け出したかのどちらかであった。

 そして、その後者の選択をした二人は殺された。

 考えたとおりの結果とならなかったことを認めるかどうかは知性に正比例する。

 考えに基づいて行動しても考えた通りの結果が得られないとき、間違っているのは考えのほうである。

 だが、世の中には、「自分の考えは正しいのだから、考えたとおりの結果にならなかったのは、考えたとおりの行動をしなかったからだ」と結論づけるのがいる。日本語ではそれをバカという。

 彼らは現実が思い通りにならなかったとき、自分の考えの誤りを認めないかわりに激しい怒りを示す。そして、その攻撃性は知性に反比例する。より攻撃的になればなるほど、その者の知的レベルは低下する。

 死者を出すほどにまでなった攻撃性はどれほどの知性か、敢えて記すまでもない。組織の空気が不自由となり、現実が示す正しい数字を上に届けることができなくなってしまったような組織は、本人たちがどんなに否定しようと知性の劣る集団であると言わざるを得ない。


 この当時の連合赤軍についてもっとも確実な資料は、彼ら自身の遺した資料ではなく、警察の資料である。

 では、警察はなぜ彼らを調べたのか?

 結論から言うと、彼らが犯罪者だからである。

 単に知性の乏しい組織というのならばこの世にはたくさん存在する。国会にさえ存在する。

 だが、彼らはただ劣っているだけの組織ではなかった。極悪非道の犯罪者集団なのだ。

 世の中の犯罪者集団というならヤクザがある。しかし、ヤクザはまだ自分たちのしていることが犯罪だという意識もあるだけ、ヤクザの方が彼らより遙かにましである。

 逆に、彼ら自身は自分たちのやっていることが犯罪だという意識が無かった。彼らにあるのは、自分たちのしていることが正しい行為であり、それによって多少の犠牲が出ても正義の実現のためにはやむを得ないことであるという意識であった。

 その、正義の実現に向けての正しい行為とは以下のようなものである。

 昭和44年9月3日、アメリカ大使館に対し火炎ビンと手製の爆弾を投げ込み逮捕される(共産党)。

 同日、ソビエト大使館にも同様の襲撃を行なう(共産党)。

 翌9月4日、羽田空港に火炎ビンを投げ込む(共産党)。

 同年9月21日、三カ所の交番に火炎ビンを投げ込む(赤軍派)。

 同年9月30日、神田から本郷にかけての一帯で火炎ビンを用いた同時多発ゲリラを実行(赤軍派)。

 同年10月21日、米軍横田基地に対し火炎ビンを投げ込む(共産党)。

 同日、新宿駅で鉄パイプ爆弾を破裂させる(赤軍派)。

(新宿の争乱)


 同年10月31日、岐阜県でダイナマイトを窃盗(共産党)。

 同年11月5日、首相官邸と警察庁への襲撃を計画。事前に犯行が露見したため未遂に終わり57名の逮捕者を出す(赤軍派)。

 同日、米軍厚木基地爆破未遂(共産党)。

 翌11月6日、米軍立川基地爆破未遂(共産党)。

 同年11月17日、横浜の米国館爆破未遂(共産党)。

 同年12月18日、警察官から拳銃を奪うために東京都練馬区上赤塚交番を襲撃。逃走する際に警察からの反撃に遭い、死者を出している(共産党)。

(上赤塚交番襲撃直後のニュース映像より)

 昭和45年3月31日、前年の逮捕を逃れた者9名が日本航空機をハイジャックし北朝鮮へ脱走(赤軍派)。

 同年4月26日、貫井北町交番缶詰爆弾爆破事件(共産党)。

 同年8月7日、本多警視総監公邸爆破未遂事件(共産党)。

 同年8月7日、千葉成田署爆破事件(共産党)。

 同年8月22日、警視庁職員寮「大橋荘」消火器爆弾爆破事件 (共産党)。

 同年9月18日 、高円寺駅前交番爆破事件(共産党)。

 同年10月16日、警視庁職員寮「松原荘」爆破事件(共産党)。

 同年10月18日、警視庁職員寮「青戸荘」爆破事件(共産党)。

 同年10月18日、西新橋1丁目日本石油本館内郵便局で小包2個が爆発。1個は後藤田正晴警察庁長官宛てに、もう1個は新東京国際空港公団今井栄文総裁宛てになっていた(共産党)。

 同年10月24日、中野警察署自転車置き場爆破事件(共産党)。

 同日、本富士署弥生町交番爆破事件(共産党)。

 同日、代々木署清水橋交番爆破未遂事件(共産党)。

 同日、板橋署仲宿交番爆破未遂事件(共産党)。

 同日、荻窪署四面道交番爆破未遂事件(共産党)。

 同日、養育院前交番爆破未遂事件(共産党)。

 同年12月18日、警視庁警務部長土田国保宅での小包爆破事件。届けられた小包を夫人の民子さんが開けたとたん、手足がバラバラに飛び散って即死。そばにいた四男も重傷を負った(共産党)。

 同年12月24日、新宿伊勢丹デパート前の四谷署追分交番でクリスマスツリーに見せかけた爆弾が爆破。交番勤務の警察官2名が重傷を負い、通行人10名も巻き添えをくって負傷した(共産党)。

 昭和46年2月17日、栃木県真岡市の猟銃店を襲撃し、猟銃10丁、空気銃1丁、実弾2300発を強奪(共産党)。

 同年2月22日、千葉県市原市辰巳台郵便局襲撃。現金71万8678円強奪(赤軍派)。

 同年2月27日、千葉県茂原市高帥郵便局襲撃。現金9万4900円強奪(赤軍派)。

(茂原の事件を伝える新聞。ここでは10万円と記されているが、実際には9万4900円)


 同年3月4日、千葉県船橋市夏目郵便局襲撃。現金1万5350円強奪(赤軍派)。

 同年3月5日、神奈川県相模原市横浜銀行相模台支店襲撃。現金150万9000円強奪(赤軍派)。

 同年3月22日、宮城県泉市振興相互銀行黒松支店襲撃。現金115万9200円強奪(赤軍派)。

 同年4月上旬(日付不明)、奪った猟銃2丁と実弾200発を30万円で赤軍派に売却(共産党)。

 同年4月下旬(日付不明)、山梨県丹波山村小袖に結集し、次の交番襲撃を計画(共産党)。なお、このときに向山茂徳が逃走している。

 同年5月15日、神奈川県横浜市吉田小学校襲撃。教職員給与の現金321万6539円強奪(赤軍派)。

 同年6月24日、神奈川県横浜市横浜銀行妙蓮寺支店襲撃。現金326万0000円強奪(赤軍派)。

 同年7月下旬、名古屋で交番襲撃未遂(共産党)。このとき早岐やす子が逃走している。

 同年7月22日、鳥取県米子市松江相互銀行米子支店襲撃。現金605万1600円強奪。ただし、この日は直後に警察に逮捕された。(赤軍派)

 同年8月4日、早岐やす子殺害(共産党)。

 同年8月4日、向山茂徳殺害(共産党)。

 これを犯罪者集団と呼ばずに何と呼ぼうか。

 しかも、「大衆のため」を謳っておきながら一般市民の中から死傷者も生じさせ、それに対する謝罪の言葉もないばかりか「世界革命のためにはやむを得ない犠牲」の一言で片付けている。

 これをバカと呼ばずになんと呼ぼうか。


 仲間が次々と減っていることは彼らでも理解できていた。そして、警察の手が目の前に迫っていることも理解していた。そのために彼らが選んだ行動。それは、逃げ、である。

 捕まりたくないから逃げ回る。それだけである。

 その逃げ込み先に選んだのが人目のつかない山奥。

 彼らはそこを「革命の拠点」と呼んだが、要するに捕まりたくないから逃げ込んだ場所である。

 その逃げ込み先にも警察の手は伸びていた。一人、また一人と警察の手に落ち、仲間は次々と減っていった。

 彼らはさらに奥へ奥へと逃げ出した。

 登山者向けに用意された山小屋などの施設を勝手に占拠し、空いている別荘にも勝手に住み着き、時には自分たちで小屋を建てて、それらを「基地」と呼びだした。

 いかなる用語を使おうと、悪いことをしたあと先生に怒られるのがいやで逃げ回っている子供と変わりない。

 30名前後で推移していた連合赤軍の面々であるが、山本夫妻に子ができた例だけが人員補充で、その逆に脱出は相次いでいた。

 既に学生運動は下火になっていた上に、指導者層が逮捕されたり国外に逃れたりと組織の弱体化は誰の目にも明らかなものとなっていた。

 それに輪を掛けたのが、このときには既に明らかとなっていた共産主義の現実である。共産主義を選んだ国々がどのような生活にあえいでいるか。どのような不自由な暮らしが待ち構えているか。どれだけの死者が「共産主義の敵」として命を失っているか。これは否定しようのない現実として目の前に現れた。

 それまでにもそうした現実は現れていた。しかし、彼らはその全てを「共産主義の敵」のせいとしてきたり、全ての責任をスターリンに押しつけたりとした逃げで何とか目を背けてきていた。

 だが、時代はもはや、そうした逃げの全てが目に見える証拠によって反論されるという時代となっていた。自分の信じている主義主張が間違いであることは証明できるが、間違いでないということが何一つ証明できないという悪循環。

 その上、学生運動そのものが時代遅れであり、そんなものをやっている者は誰の目にも「負け組」にしか見えなくなっていた。事実、学生運動に身を投じた者の就職がどれほど惨めなものとなったか彼らは嫌というほど見てきた。数歳上の同志は社会人としてどうなのかと聞かれて、まともな仕事をしている者を挙げることができなかった。学歴は高いはずなのに。

 運動を続ければ続けるほど脱落者は増えてきた。

 残れば残るほど貧乏クジになる。

 ここでわざわざ残る者の知性などたかが知れている。

 言い換えれば、構成員の中でもよりマシに近い知性の者から順番に脱走したということである。

 しかし、脱走もうまくいくとは限らなかった。早岐やす子、向山茂徳の二人のように命を落とさなければならなくなる例が現れたから。


 10月、彼らは丹沢山系に逃げていた。ただし、この段階では「連合赤軍」の名称も名ばかりで、赤軍派と共産党が一つとなっておらず、バラバラに行動していた。そのため、相互の連絡もままならず、同じ丹沢山系であっても全く違う二つの集団がそれぞれ互いに関係なく基地生活をしていた。

 丹沢山系は登山の名所であり、登山客がたくさん訪れる。

 そのため登山客に向けての設備も充実している。

 彼らはあくまでも「世界革命」を目指していたが、そこでしていたのは、そうした登山客のための設備から食料や日用品を奪うことと、それらを利用しての山小屋での集団アウトドアライフである。ただし、武器を持っているだけに始末が悪い。

 昭和46年10月24日、共産党は丹沢からの転進を計画した。メンバーの脱走が相次いだからである。

 単に脱走したならまだいい。

 問題は脱走した者が警察に逃げ込み丹沢の基地のありかを告白することである。

 脱走したら組織の者に何をされるのか彼らは知っている。それを食い止めるために警察に保護を求めるのはおかしな話ではないし、実際にそうした者もいる。

 共産党の永田は丹沢に代わる候補地の捜索を行わせた。それも、逃げ出さないように互いに互いを監視させながら四組に分けてである。

 その結果見つかった候補地は榛名山中。

 共産党のメンバーは丹沢を捨て、榛名へと逃亡先を移し始めた。

 一方、赤軍派は共産党と分かれ、サブリーダーの板東がメンバーを率いて移動。11月12日、山梨県の新倉に到着しひとまずの基地作りを始める。

 この状態で11月を終える。


 この時点の連合赤軍のメンバーは以下の面々である。

 青砥幹夫(赤軍派)22歳

 伊藤和子(共産党)22歳

 岩田平治(共産党)21歳

 植垣康博(赤軍派)24歳

 大槻節子(共産党)23歳

 奥沢修一(共産党)22歳

 尾崎充男(共産党)21歳

 加藤能敬(共産党)22歳、加藤三兄弟の長兄

 加藤倫教(共産党)19歳、加藤三兄弟の次兄

 加藤元久(共産党)16歳、加藤三兄弟の末弟

 金子みちよ(共産党)24歳

 小嶋和子(共産党)22歳

 坂口弘(共産党)25歳、銃砲店襲撃の犯人。

 進藤隆三郎(赤軍派)21歳

 杉崎ミサ子(共産党)24歳

 瀬木政児(共産党)24歳

 寺岡恒一(共産党)25歳、銃砲店襲撃の犯人。

 寺林真喜江(共産党)23歳

 遠山美枝子(赤軍派)25歳

 永田洋子(共産党)27歳、共産党のリーダー

 中村愛子(共産党)22歳

 行方正時(赤軍派)25歳

 坂東国男(赤軍派)25歳

 前沢虎義(共産党)24歳

 森恒夫(赤軍派)27歳、赤軍派のリーダー

 山崎順(赤軍派)21歳

 山田孝(赤軍派)27歳

 山本順一(共産党)28歳、山本保子の夫

 山本保子(共産党)28歳、山本順一の妻

 吉野雅邦(共産党)23歳、銃砲店襲撃の犯人。

 以上29名。

 氏名の後ろに旧所属をつけているのは、この時点ではまだ旧所属をベースとした行動をしており、一つの組織となっていなかったからである。

 合同すると宣言してからも旧所属のままの行動が続いた原因の最たるものは双方のリーダーである森と永田の主導権争いにある。

 森にしろ永田にしろ、組織結成時からのリーダーではない。

 昭和44年11月5日、赤軍派53人が逮捕され、翌昭和45年3月15日には最高幹部の塩見孝也が逮捕された。更に3月31日には「よど号ハイジャック事件」を起こし、赤軍派の残った幹部クラス、田宮高麿、小西隆裕、田中義三、安部公博、吉田金太郎、岡本武、若林盛亮、赤木志郎、柴田康弘が北朝鮮に逃亡した。

 また、翌昭和46年2月26日には奥平剛士が中東へ、28日にはその妻の重信房子がパレスティナへ逃亡した。

 この一年半で幹部クラスの大部分が逮捕もしくは逃亡という結果を目の当たりにし、残った者の中から仕方なしにといった感じでリーダーを務めることとなったのが森である。

 それまでの森に対する評価は決して高いものでなかった。むしろ、森は赤軍派の中で最もリーダーから遠い存在として認識されていた。能力も行動力も統率力も大したことなく、北朝鮮に逃亡した幹部の取り巻きをして組織内に一定程度の権力を積み上げてきていたが、その幹部の逃亡で森の立場が怪しくなってきていたのである。通常なら失脚するところである。

 しかし、山田などヒエラルキーの高い者が組織から疎遠になるという状況の下では、森が最古参で、森が最も活動(=犯罪)をしているという状況となる。

 森にしても、それまでの二線級から一気にトップに躍り出る、降って沸いて出たような千載一遇のチャンス。失脚すら脳裏をかすめていたのに、それとは逆に自分にリーダーの可能性があると知った森は喜び勇んで名乗りをあげた。

 赤軍派には、結局、森以外の選択肢など無かったのである。森しか手を挙げなかったし、森以上に実績を上げた者は組織から遠ざかっているのだから。

 森は赤軍派の将来を、そして共産主義革命の未来を熱く語った。それを聞いた赤軍派の中には森の熱い思いに感銘を受ける者もいた。しかし、彼らの中で一人として、それが実現可能なことでないことにも、真新しいことではない何度も繰り返された言葉であることにも、何ら具体例を伴わない理屈でしかないことにも、気づく者はいなかった。 

 リーダーには未来へのビジョンなど必ずしも必要ではない。必要なのは現状を見つめ、現状の問題を解決していく、臨機応変さの求められる現状対応能力である。

 こうしたリーダーは一見すると組織の日常に何の変化も起こさない。ゆえに愚鈍とされる。何しろこれまでやってきたことを儀礼的に繰り返すだけであり、以前と比べリーダーは代わっているがあとは何も変わらないという状況を作るだけであるのだから。

 しかし、意図してこうしている者は何か起こったときになると状況に合わせて対処できる。すぐであるにせよ、時間をかけてであるにせよ、組織は良い方向に発展する。

 歴史は時に、そうした愚鈍とされてきたリーダーが運命を左右する決断と結果をもたらしたことを証明する。リーダーに対する同時代人の評価などあてにならない。

 逆に、未来へのビジョンだけを語って何もしないリーダーというのがいるが、これはリーダーの地位という権力を求めているだけの、リーダーの器ではない者のすることである。

 こうした者がリーダーを務めるとどうなるか。

 無茶をし出す。

 ビジョンを語ってその通りにすれば組織はもっと良くなると信じているから精力的に動き出す。

 ビジョンを語るということは、それまでの組織はそのビジョンにあわない行動をしていたということである。だから、ビジョンを示して組織の改革に乗り出す。

 しかし、それが現実に呼応するものであるかどうかは別である。ビジョンとそれまでとで差異があるのは、それまでのほうが現実と向き合った結果であること、つまり、ビジョンが現実にそぐわないものであることのほうが多い。

 そこでビジョンに合わせて改革するとどうなるか。

 組織と現実とが反発するようになる。

 現実が見えてないから自分の考えが実現できないことに気づかない。

 かなりの犠牲を生じさせれば一瞬は実現するが、それは長続きするものではない。それどころかかえって無茶をさせる前より悪化する。頑張れとでも言って励まそうと、怠けるなとでも言って怒ろうと、すでに限界まで追いつめられている以上、これ以上の成果はおろか成果の現状維持すら不可能である。

 業績を上げようと考えて社員の休みや給与を悪化させ、その結果、経営を悪化させる経営者がいるが、それもこうしたリーダーの例である。 

 森はそうしたリーダーの典型だった。

 幹部クラスは逮捕や逃亡であって死んだわけではない。そして、彼らはいつか帰ると宣告している。だが、組織の衰退は誰の目にも明らかで、日に日に人員が減っている。

 森は考えた。幹部が帰ってくるまで組織を残し、発展させなければならないと。そして、そのためにはカネだと。革命だ何だと叫び暴れていても、働いていないのだから生活は厳しい。とにかく生活していけるだけのカネを用意し、組織の構成員の暮らしを何とかすること。そうすれば組織は維持できる。

 そこで、森恒夫が考え出したのが『M作戦』である。作戦名は立派だが、その内容は銀行強盗。森の「革命のためには強盗も許される」という論理の結果起こした犯罪は先に記したとおりである。

 世間は赤軍派の起こす連続銀行強盗に恐怖した。しかし、理由はどうあれ、赤軍派はカネを手にした。それは彼らの着る物や食べ物の質の向上となって現れた。

 しかし、行動するための何か、単純に言えば武力は欠けていた。

 赤軍派はそれを熱望していた。

 一方の共産党も状況は赤軍派と大差なかった。それまでは川島豪というリーダーの元に結集していたが、川島をはじめとする幹部クラス25名が逮捕され、30人以上が組織を抜け出すという事態に陥っていたのである。

 ここで頭角を表したのが永田洋子であった。永田は森と違い、かなり初期の頃からリーダーになりたいという願望を強く持ち続け、ことあるごとに権力にすり寄っていた。

 イメージとしては、卒業式で日の丸君が代反対を叫ぶ女性教師を思い浮かべていただきたい。すなわち、どんな集団にも一人や二人はいる、自分は偉いと思いこみ、その場をやたら仕切りたがり、年中ヒステリーを起こし、大して能力もないので対案も出せず、それでいて単に従うのもしゃくだからと訳のわからない文句を喚くしかできない共産ババア。

 男遍歴は多く、割とモテていたというが、いずれも長続きはしていない。セックスの相手としては我慢できても、人生の相手とするには苦痛この上ない存在なのだろう。それでもこのときは坂口と事実婚の関係にあり、坂口に対しては妻として振る舞っていた。

 永田洋子が権力を握ったとき、共産党は赤軍派と異なり、カネへの苦労はなかった。ただし、生活には苦労していた。彼らはカネを必要悪とは考えず、単なる「悪」としか考えなかった。

 カネをこのように考える者にとって、必要な物とは作り出して手にするものである。それを言葉通りに実践するなら別に問題はないが、彼らの考えでは、奪うこともまた作り出すことなのである。こうなるとターゲットとされた側はたまった物ではない。

 共産党の言い分は「世界革命のために協力せよ」だが、一般市民にとってそれが何の意味を持つのか。

 店先に並べた商品を勝手に奪い去っていく強盗集団であるだけでなく、文句を言うと容赦なく殴りかかり命まで奪っていく。

 それを共産党は「革命のためのやむを得ぬ犠牲」と宣言するだけで一言の謝罪もない。

 これでは市民の怒りを買わない方がどうかしている。

 共産党はどうかしていた。

 「協力者」が減っていることを不思議がり、「協力」の成果が乏しくなっている。

 そこで共産党が選んだのがより一層の暴力、すなわち武力である。恫喝では必要な物資を手にできなくなったが、武器ならばまだまだ手に入る。

 では、その武器とは?

 一般人が目にするもっとも身近な火器、警官の拳銃に共産党は目をつけた。

 昭和45年12月18日、共産党が上赤塚交番を襲撃したのはそうした理由である。

 この際、共産党の柴野晴彦が正当防衛により射殺されている。しかも、射殺に対する罪は不問。逆に、共産党が襲撃に対する罪を問われることとなった。

 射殺した側が罪に問われなかったことは共産党の怒りを増長させたが、それだけなら、彼らの言うところの腐った権力の腐敗の表れに過ぎない。しかし、それだけでは終わらなかった。

 世論が警察の行動を支持し、共産党に対しては罵倒しか挙げなかったのである。すなわち、「死んで当然」「警察官はよくやった」という声しか挙がらなかったことは、共産党が一般市民を「腐った大衆」と見定める決定的な出来事となった。

 ここまでくれば、あと一歩で、「腐った政府を打倒し、優れた自分たちが愚かな大衆を導かねばならない」とする考えに至る。

 腐った日本を正し、愚かな大衆を導く。こう考えると何と楽なことであろうか。現実を観ることなく、ただ自分の考える空想に浸っていればいいのだから。

 全ての人が平等であることを説く共産主義者によく見られる選民意識、それは、彼らにとっての平等が、自分がエリートであるがゆえに与えられる特権を得た上での、自分以外の全ての人の平等ということに他ならないからである。

 「大衆は無知だから、協力は更なる武器によってでしか得られない」と考えた彼らが目をつけたのが猟銃である。警察官の拳銃のように服の中におさめられるものではないが、強力な火器であることは間違いない。

 昭和46年2月17日、栃木県真岡市の塚田銃砲店を襲撃し、猟銃10丁と砲弾を強奪。

 共産党はついに火器を手にした。

 しかし、ここに来て共産党もやっと気づいた。やっぱりカネは必要なのではないかと。

 彼らにはそれが合法とか違法とかという意識はなかった。打倒すべき政府の作った法など関係ないといったところか。しかし、猟銃一丁を手にするのにどれだけの時間と労力を要したのか、日用品を手にするのにどれだけの手間暇と恫喝をかけたか、それは彼らの知性でも理解できた。しかし、カネさえあればいままでよりも簡単に手に入る。

 では、どうすればカネが手に入る?

 共産党が目をつけたもの、それは自分たちが手にした武器である。現在の国際関係でも、武器は原油に並ぶ外貨獲得手段であるが、そうした大所に立たなくとも、武器を欲しがっている存在というのは常に存在している。

 そうした存在に武器を売ればカネが手に入る。

 さて、ここに二つの集団があり、一方には武器があってカネがなく、もう一方にはカネがあって武器がない。そして二つの集団の目的は一つ。共産主義革命。

 二つが接近するのにはさほど時間がかからなかった。

 昭和46年4月に、猟銃二丁が共産党から赤軍派に売却されたのがそのきっかけとなる。

 ただし、つながって一つになるには時間がかかった。


 赤軍派と共産党との連絡は、主として赤軍派の植垣康博が務めている。

 連絡の取り合いは互いの立場を尊重し、と言えば聞こえは良いが、自分のメンツを穢されないような立場だけは維持できるように行われた。

 その結果、12月初頭に武装訓練を合同で行なうことが決まった。武器一式は共産党が提供し、場所は赤軍派が提供するという、相互に譲り合った結果である。 

 植垣はまず、12月1日、赤軍派の遠山、行方、青砥の三名を迎えに新倉へ行った。

 続く12月2日、共産党の永田、坂口、寺岡、吉野、前田、石田、金子の七名がいったん榛名を下山し、迎えにきた植垣と合流。このとき、植垣は共産党のメンバーに水筒を持ってきたかを尋ねるが、七名とも持ってきていないことを知り、植垣はトランシーバーで水を持ってくるように依頼する。

 水一つ持たずに山をうろうつくなど自殺行為だが、それを平気でしている共産党のメンバーにこのとき植垣は失望した。

 「こいつらと一緒で大丈夫か?」

 一方の共産党、特に永田はこのときの植垣の態度に、

 「生意気な奴だ。赤軍派などあてにできるのか?」

 と怒りを抱く。

 それでも感情を表に出さず、赤軍派のアジトとしている新倉に一日掛けて移動することとなった。

 食料はおろか水も持ってこなかったため飲まず食わずである。

 翌3日、赤軍派の進藤と山崎が水を持って彼らを出迎えた。

 進藤は開口一番、共産党のメンバーが水を持ってこなかったことを批判。進藤は共産党と初対面であっただけにいきなりの悪印象となった。進藤の批判に山崎も加勢し場は一触即発の事態となる。

 昼過ぎ、赤軍派の青砥が食料を運んでくる。青砥もまた初対面であったが、逢うなり水すら持ってこなかったことを批判。さらに、赤軍派のリーダー森も批判に加勢し、共産党のリーダー永田が自己批判するまでこの雰囲気は続いた。

 しかし、永田も負けてはいなかった。赤軍派の遠山美枝子に目をつけたのである。彼女はなかなかの美人であり、赤軍派だけでなく共産党からも色目を使われた。

 永田にはそれが気にくわなかった。自分以外の女性が人気を集めることに対する永田の嫉妬である。そう考えると、どんな行為であろうと憎たらしくなってくる。髪をブラシでとかし、唇の荒れを抑えるリップクリームを塗ったこと、髪を長く伸ばし、鏡を見ていたこと、そして化粧をしていたことが「反革命的だ」となり、遠山を攻撃しだしたのである。

 森が何とか仲裁したが永田の怒りは治まらなかった。


 12月4日、銃の使用訓練が始まる予定であったが延期された。

 ここでの銃はあくまでも共産党の武器であると主張する永田と、連合赤軍全体のものだと主張する森との対立がこのとき生まれた。

 二人の話し合いは次第に口論となり、収拾がつかなくなり始めた。立場が悪くなると、森は水を持ってこなかったことを、永田は遠山の態度を批判する。

 さらに、遠山が指輪をしていることさえ永田は問題視するようになる。遠山は逮捕された赤軍派幹部の一人である高原浩之の妻である。籍は入れておらず名字は変わっていなかったが、夫を想う妻の思いが指輪に込められていた。

 永田はそれを批判した。

 「革命戦士が恋愛沙汰とは何事か!」

 と。しかし、自分は坂口という夫と一緒に行動しているのである。

 さらに、ここで赤軍派の植垣が永田に加勢し、同じ赤軍派の遠山への攻撃に加わった。共産党に対し失望してはいても、これまでの自分の立場を逆転できる絶好のチャンスであることは事実である。

 植垣にとっては、遠山に対しての攻撃と言うより、これまでさんざんこき使われてきた高原の妻への攻撃であった。今までは幹部ということで黙っていたし、幹部の妻だからと遠慮してきたが、もうこれからはそんなの無視できる。

 連絡係である自分ならば共産党との関係も築ける。それまでの鬱屈とした想いが植垣を反乱に走らせた。

 仲間と思っていた植垣の裏切りに遠山は声を失った。このときは森が遠山を永田から引き離すことで場をおさめたが、火種は残った。

 もっとも、赤軍派の中で永田の味方となったのは植垣一人である。山崎順や行方正時といった赤軍派は積極的に遠山の味方をし、彼らの励ましもあって遠山は翌日の訓練にも参加した。


 12月5日、実弾訓練実施。

(射撃訓練の様子。画・植垣)


 素人集団でもあり、狙いはうまく定まらない。

 特に、遠山の出来が最悪だった。

 生まれて初めて実弾を撃った遠山が反動で後ろに倒れ、腰を強打した。

 小屋に戻ろうとしたが腰を痛めたことでうまく動けず、行方が「大丈夫ですか? 送っていきますよ」と声をかけた。

 これに対し永田が怒りを爆発させる。文句はやはり同じ言葉である。

 「それでも革命戦士か!」

 怒号が一帯に広まった。

 一方、怒号を突きつけられた行方や、それを聞きつけた進藤も黙っていなかった。

 昨日からの永田の態度にしびれを切らしていたが、ここにいたって爆発。

 殴りかからんばかりの雰囲気となり、共産党の面々は何とか永田をこの場から引きずり出すように待避させ、訓練を再開させた。

 ところが、永田の待避場所が悪かった。実際にそこしか待避する場所がなかったのだからやむを得ないところもあるが、待避場所は腰を痛めた遠山の戻った小屋である。

 遠山は何とか這いずりながらも小屋に戻ったが、ここで痛めたのは腰だけではなかった。生理が止まらなくなったのである。永田をここまで連れてきた共産党の金子みちよに「生理用品持っていませんか」と尋ねたが、これを永田が聞きさらに激怒。

 「生理用品を使おうなど、革命兵士になろうという自覚に欠ける!」

 こう言い放った。

 怒号が聞こえたため、訓練を中止して小屋に戻ると永田が遠山の首根っこを捕まえ怒鳴りつけている。

 慌てて遠山と永田を引き離すが、ここで無茶をさせたため遠山の腰はさらに悪化することとなった。


 永田の遠山に対する態度は日に日に硬化し、翌12月6日には森と永田との直接会談が開かれる。

 「遠山の問題が決着しないうちは、赤軍派と組めない。」

 「ではどうすればいいんだ?」

 「赤軍派の中の遅れた分子を徹底的にしごきあげろ。」

 「だからそれはどうしろということなんだ?」

 森との直接対話でも遠山問題を解決することを主張してやまず、しかも、どうなれば遠山問題が解決したとなるのかを明言せずにいたため、会談はいたずらに長引いた。

 戦争を起こした東条英機もそうだが、能力なきリーダーは抽象的な言葉をよく使う。どうすればよいのかと問いつめられたときに、具体的な解決策を語るか、抽象的な言葉を語るかでリーダーとしての資質が決まるとしてもよい。無論、優れているのは前者である。

 逆に、後者は、何を意味するのかわからない難しそうな単語の羅列でその場をやり過ごし、それでも問いつめられたら精神論に、それもとりあえずは批判されそうにない内容を挙げるだけである。「やる気を見せろ」や「がんばれ」とリーダーが主張し始めたら、その組織はリーダー交代を考えるか、行動のやり直し、場合によっては組織の解散も考えた方がよい。

 抽象や精神論に逃げるのは、それならば知性が乏しくても、現実が絶望的でも語れるからである。逆に、具体的な方策を語るには、それなりの知性と現実を要する。言葉にすれば簡単だが、具体的な言葉を語るということは、脳内で現実を把握し、状況をシミュレートし、その結果を踏まえ、現実的にありうる手段を選ぶという手順を踏まなければならない。これは知的に現状を捉えて物事を考える訓練を積んだか、生来そうした知的能力を持っているかのどちらかである。

 永田にはそれがない。生来持っていない上に、訓練も積んでいない。いや、無いのは永田だけではなく、連合赤軍の全員に存在しない。あるのは、現実から目を遠ざけ、抽象的な言葉の世界に生きる自己陶酔だけである。

 抽象的な言葉は難しく聞こえる上に、それを操っている自分は頭がいいと勘違いさせてくれる。そして、それは格好いいことと思わせてくれる。

 その結果は彼らの元の組織名にも現れている。彼らに限らず、学生運動というものは例外無く、自分たちの名称に一見すると難しそうな単語の羅列を用いている。結果、正式名称がやたら長くなる。

 また、彼らの書く文章や話す言葉は、第三者にとっては何だかわからない代物である。

 何かにつけて「闘争」、「革命」、「弁証法」、「唯物史観」、「プロレタリア」などと言った単語をつけるため、例えば、

 「警察に捕まって取り調べを受けたが、いろいろと考えた末に黙り続けることにした」

と言うべきところが、

 「国家反動勢力の弾圧に対し、唯物論的弁証法の思弁に基づく論考を重ねた末プロレタリア革命戦士としての闘争を貫徹することとした」

となるのである。

 つまり、簡単にできる言葉をわざと難しい言葉にし、ひらがなで済む言葉にも必要以上に漢字や和製洋語を使っている。まるで、簡単な言葉を使うこと、ひらがなで書くような言葉を使うのはバカのすることとでも思っているかのように。

 ところがそれは逆なのである。知的レベルが劣れば劣るほど難しい言葉を使いたがり、レベルが上がるといかに自分の思いが伝わるかを優先させるために使う言葉も文字も簡単になる。暴走族の名前を見ればそれは証明できる。

 さて、永田であるが、現実に起こっている問題の解決には精神論でどうにかしろと語るのみで、具体的にどうすればよいかというアイデアは全く出さなかった。出す知性がないからである。

 その代わり、具体的なアイデアを出した他人は容赦なく批判する。自分の思い浮かばなかったことを語ったこと、つまり、自分より優れた知性を持つ者に対する反発である。 

 文句ばかり言って具体的なアイデアを何も生まない、共産ババアのマイナス要素が露骨に現れた。

 12月7日、訓練最終日。

 この日、森がついに永田に折れた。現在の赤軍派に必要なのは武器である。その武器を持っているのは共産党であって赤軍派ではない。

 森は全員の集まった前で自らの生い立ちを感極まって泣きながら話し、さらに、遠山、進藤、行方の三名を

 「革命の意義を理解せずに遅れている。」

 と批判した。

 これを見た永田は赤軍派に猟銃一丁を渡した。

(批判の様子。画・植垣)


 12月8日、永田と坂口を除く共産党のメンバーが榛名へと戻る。永田と坂口は、赤軍派の森と山田との会談を行なった。

 榛名では小屋の建設が始まっていた。どのような小屋であったのかはわかっていない。

 彼ら自身の供述や彼らの記した絵によればなかなか立派なものであったということになっているが、その可能性は低い。誰一人建築経験を持たずにいたことから、ただ切った木を積み上げただけの、火災にも地震にも弱い小屋であったという意見のほうが圧倒的である。

 なお、この小屋の建設で彼らは周囲の木を切り倒して運んでいる。

 その様子は地元の林業関係者に見つかったが、そのときは特に問題視されなかった。男女入り交じった若者の集団であり、その格好も明らかに林業関係者に見えるものではなかったが、林業関係者は彼らを同業者だと思ったらしく特に通報していない。

 しかし、このときに切り倒したのは国有林の木である。単に山に籠もって集団生活しているだけならば過去の犯罪に参加した者以外は逮捕とはならないが、国有林の伐採は立派な犯罪である。これは後の彼らに致命傷を生じさせた。

 12月9日、森は再び行方、遠山、進藤の三名を批判した。その批判の様子を永田は一部始終眺めていた。

 行方に対しては、

 「おしゃべりばかりで会議では黙り込んでいる。自主的な判断に欠け、革命戦士として遅れている。」

 とした。しかし、ここで言うおしゃべりとは、永田が遠山に文句を言ったことに対し抗弁したときのことだけである。その上、会議など存在せず、仮に存在したとしても行方は参加することすら許されていなかった。

 進藤に対しては、

 「恋人が赤軍派を離れて逃亡したことを組織の責任にしている。革命戦士らしからぬ個人主義的な行動だ。」

 とした。しかし、これもまた言いがかりである。恋人が逃亡したのは事実だが、それを組織のせいにしたことなど全くない。むしろ、自分の恋人が組織を抜け出して逃亡したことを全員に謝罪し、進藤には罪がないことを全員が認めていたのである。

 遠山に対しての批判は最も厳しいものであったが、その内容はこれまで永田が言ってきた文句を、語気を強め繰り返し言ったに過ぎない。すなわち「髪をブラシでとかした」「リップクリームを使った」「髪が長い」「鏡を見た」「化粧をした」「銃の反動で転んだ」「生理用品を求めた」である。そして、締めの言葉は一つ、「革命戦士としての意識に欠ける」である。

 ここで批判された三人は、水汲み、炊事、洗濯などの雑用をさせられるようになり、永田もそれで満足したようには見えたが、永田の憎悪はなおも続いていた。


 12月10日、永田と坂口が新倉を引き上げる。

 12月12日、永田と坂口が榛名に戻る。

 12月15日、榛名の小屋が完成する。

 12月16日、森、坂東、山田が新倉を出発。森は新倉の管理を植垣と青砥に依頼する。

 世の中には自分に少しでも権限が与えられると、自分は偉くなったと勘違いして舞い上がってしまうのがいるが、植垣はそういう人間であった。

 森らを見送ったあとアジトに戻ると、行方がストーブのすぐそばで座って暖をとっていた。

 時期は12月、しかも冷え込む山間部でのこと。外で立っていれば寒さに震えるに決まっている。だから暖をとること自体はおかしなことではない。

 それを植垣は問題視した。

 「幹部がいないと思ってなめるな!」

 植垣は行方に再び銃を持たせ、小屋の外に放り出した。

 さらに、遠山にも森が言ったのと同じ文句を言って激しく攻め立てた。

 他の赤軍派のメンバーは植垣の行動を止めなかった。

 12月20日、森と坂東が榛名に到着。

 指導部会議が開かれ、森が共産党の小嶋和子らを批判した。

 森にしてみれば赤軍派が一方的に責められていたことに対する仕返しであるとも言えるが、その批判の内容は永田と大差ない。日常の何気ない行動をとりあげ、反革命的だと突き上げるのである。

 永田はその様子を黙ってみていた。

 自分以外の女が文句を言われることは別に何とも思わないといったところか。

 12月21日、逮捕されていた加藤能敬が不起訴となり、榛名へとやってくる。ここには加藤の二人の弟がいた。弟たちに久しぶりに会えること、また、警察に対し組織の秘密を何一つ話さなかったことで褒められると思っていたこと、そうした希望を持っての榛名入りであったが、警察の取調で刑事との雑談に応じたことを激しく攻められ、榛名に来たことは誤りではないかと悟るようになった。

 さらに同日、尾崎充男が赤軍派のメンバーに銃の隠し場所を教えたことを批判されるのを目の当たりにし、誤りとの思いは確信に変わった。


 12月22日、森と永田が全員に演説する。

 「これまでの各自の活動を総点検し、根底的な総括をする必要がある。」

 このとき、後に有名になる「総括」の語が始めて使われる。

 「総括」という日本語、普通に考えれば「まとめ」である。

 しかし、ここで使われた「総括」は少し意味が違う。

 「これまでの自分の行為や思考に少しでも至らないところがあればそれを批判する」がその意味であり、しかもそれは他者に対して「総括しろ」と暴力とともに命じるものである。

 さらに、その総括には「総括する」という言葉はあっても「総括した」という言葉がなかった。総括が始まったら最後、永遠に総括が続くのである。総括の終わり、それは総括されている者が死を迎えたときだけである。

 その最初のターゲットは加藤能敬であった。前日に責められた逮捕前後の行動が再び問い詰められたのである。

 合併をスムーズに運ばせるためには力関係が明らかとなっている方がよい。

 一方が絶大な権限を持った合併ならスムーズにいくが、双方拮抗する合併は弊害がただちに現れる。平等を題目に掲げれば掲げるほど、対立はより深く、関係は緊迫したものとなる。

 それは連合赤軍も例外ではなかった。

 一見すると連合赤軍29名中20名が共産党という構成なのだから共産党のほうが力強いと思われるかも知れないがことはそう簡単にはいかない。

 確かに赤軍派から連合赤軍に参加したのは9名だけである。しかし、赤軍派自体は共産党よりも人数が多く、これまでに残した実績も共産党を上回っている。逮捕され塀の中に行った者が多く、彼らが戻ってくれば共産党を上回る大所帯となる以上、現時点の人数が多いからと言って赤軍派を凌駕するわけにはいかなかった。

 さらに、連合赤軍の運営費の大部分は赤軍派が負担している。カネを出す者が権力を握ること、古今東西変わることのない原則。それはカネを否定する組織であろうと違わない。

 この二つの組織が題目として掲げているのは全人類の平等を説く共産主義。それも、特権を認めず、個人も認めず、ただ革命に邁進しようという集団である。その集団の起こしているのが、集団内における特権を巡る個人の争い。筆者はもう一つのブログで「偉大なる皮肉」というシリーズを書いているが、それでもここまでの皮肉は思い浮かばない。

 この主導権争いによる混乱は永遠に続く物と思われていた。しかし、これは意外な形である程度の解決を見せた。


 12月23日、赤軍派の山田孝が榛名に到着。

 その日の夜、指導部会議が開かれる。赤軍派からは、森、山田、坂東の三人が、共産党からは永田、坂口、寺岡、吉野の四人が参加した。

 この山田が榛名に来たことがいがみ合う二つの組織をつなげるきっかけとなった。

 山田には物事を調整する能力があった。双方の話を聞き、譲るべきところを譲らせ、妥協点を見いだすということである。ただ、それは双方とも理性を保っていないとできないことであり、このときの連合赤軍には非常に難しい要求であった。

 山田の調整の結果、旧所属をベースとした行動というのは一応このときで終わる。一応と書いたのには理由があり、一つになることを宣言したものの、双方のいがみあいはこの後も続くからである。

 そしてこれもまた一応ということになるが、ここで連合赤軍の行動方針が定まった。このときの会議に参加した七人の決定が連合赤軍の最終決定であり、この決定に他の全員が従うというものである。

 ただし、七人の中にも序列があり、森と永田がトップで、他の五人は格下であった。これは名分化された序列ではないが、永田という共産ババアがやかましく騒ぎまくり、森が永田に張り合うようにわめきまくり、後の五人が黙りこむという図式は相当に早い段階で成立していた。

 ここに、連合赤軍は永田洋子と森恒夫の二人が独裁者として君臨するという図式が出来上がった。

 こうした意思決定は珍しい光景ではなく、政治用語では「民主集中制」と呼ぶ。昔からよく行われていたが、二〇世紀になっても行なったのは共産主義しかない。

 簡単に言えば、民主主義を名乗った非民主主義である。限られた者のみが権力を握り、その他の者は権利もないまま従う義務を追う。しかし、あくまでも組織上は民主主義。

 先ほど「政治用語」で民主集中制と記したが、それはあくまで彼らの自称である政治用語であり、政治学用語では「寡頭制」や「独裁制」と呼び、民主主義の対立概念として定義される。もっとも、共産主義は民主主義の対立概念だからちょうどいいのだろう。

 何はともあれ、集団としての組織が構築された。あとは決まりである。

 権力を握るべく行動をしていることになっている彼らにとって、権力者気分にさせてくれるこの作業ほど楽しいものはなかっただろう。

 ただし、楽しいのはその決まりを作っている間だけで、守ることが楽しいだろうとは到底思えない、そんな内容である。


 第一章 三大規律

 党員は綱領と規約を承認し、「党派斗争」を行う能力をもつ。

 党員は自力で組織を建設する能力をもつ。

 党員は技術を扱う能力をもち、政治警察に対し攻撃的に組織を防衛する。


 第二章 六大原則

 党は自立した革命家の集団××(二文字不明)である。

 指導、被指導は自立した革命家相互の分業関係である。

 家族、財政は党に一元化される。×××(三文字不明)よって行われる。

 自由な討論の保障と行動は完全に指導によること。

 党の財政を作る能力を持つこと。

 党決定、規約に違反した場合、最高、死に到る処罰を受ける。


 第十四章 彼女(※彼女=連合赤軍の中で使われた武器の隠語)

 彼女の開発・製造・運搬・保管は自力更生を原則とする。

 一切の彼女は部長の所属とし、通常各課に貸与されているものとする。

 保管は居住と分離して行い、いついかなる時にも商×(一文字不明)体制へ直に移行できる様にする。

 防衛的彼女は家具の一部として改良し居住地に保管しておく。

 彼女開発に関する基礎学習、訓練実験を課の責任で行い、蓄積する。

 材料、製品、兵站等を開発し蓄積する。

 その成果は質、量、所在などは部長に報告し、徴発に応じる。


  第十七章 処罰

 処罰の系列は、指揮系列と同じである。各隊内で小ブル、ルンプロ思想と斗争せよ。

 処罰の実施は、出来る限り隊内で解決し、上級機関の承認を得て行う。不服のあるばあい、上級機関に提訴することができる。

 処罰は、ある種の政治責任であり、処罰されたら革命から逃亡するという思想と日々、闘え。

 逆に処罰は、反革命に転じた場合を除いて絶えず党に復帰するべく、党を支持する層として、党の成熟度に応じた政治指導を行え。

 処罰は、三段階ある。

 イ、自己点検・自己総括

 ロ、権利停止

 ハ、除名

 (除名においては、死、党外放逐がある。他は、格下げ処分を行う。イ、ロにおいては軍内教育、除隊処分、他機関での教育を行う)

 処罰は、事件の起こり次第、速やかに規律に照らして行う。上級の政治指導や路線に責任を転稼し曖昧にすることは厳禁。それ自身も処罰の対象。

 再び正規の隊員として採用する場合は、隊内で資格審査をし、上級機関に承認をうること。


 いかがな感想であろうか。

 筆者がこれを読んで感じたことは一つ。連合赤軍のバカさである。

 まず、文章がバカである。

 何を言いたいのかわからないし、わかる価値もない。

 詐欺を目的とする集団では、契約文書にわざとわかりづらい文章を書いて事後に問題が発生した場合に供えるという手段をとることがあるが、まともな会社でそんなことをしたら一発で取引停止である。でも、それはわかりやすく書けるのをわざと複雑にしているのであって、連合赤軍の法に比べればまだマシである。

 連合赤軍の規則は、わざとわかりづらく書いているのではなく、わかりやすく書く能力を持たないからわかりづらい。何を言っているのかわからない用語を使い、しかもその用語の定義をしない。その上、どうとでも解釈できる曖昧な内容。これは、彼らの知的レベルの低さを物語る何よりの証拠である。

 次に、厳しすぎる。

 作った人間はこれならば完璧と自画自賛したかもしれないが、普通に生活を送る者が守れる内容ではない。作った人間だけが守れる可能性ならばあるが、それは処罰をする側なので規則は緩やかだから守れるという可能性である。

 処罰を受けねばならない側が守れるだろうかという視点を欠いている。これでは法として未熟である。彼らの人間に対する洞察力のなさ、つまりバカさが如実に示されている。

(指導部会議。極寒の山中にあって、ここに参加できる者だけがコタツを使用できた。画・植垣)


 連合赤軍に限らず、学生運動をしていた者に共通して冠せられる接頭語がある。

 「学歴ある人がなぜ」というものである。

 しかし、少し考えれば答えは出る。

 「バカなのに学歴ある人」だからである。 

 彼らに共通しているのは、その育ちの良さである。比較的裕福な家庭環境に育ったために充分な教育を受けることができ、その結果、受験に対抗しうるだけの教育を受けることとなった。そのため、彼らの学歴は押し並べて高い。

 しかし、肝心の知力、特に、現実認識能力が著しく劣っているのである。生まれつきか環境のせいかはわからないが、ペーパーテストでは計れないこの要素が劣っているということは、知力そのものが劣っていることと等しいと言わざるを得ない。

 人より劣る知力ではあったが、受験の点数稼ぎにだけは対抗しうるよう訓練された結果、それなりに名の通った高校や大学に入ることはできた。しかし、そこから先、受験勉強が全く役に立たない環境となったとき、彼らは現実を思い知った。

 今まで自分は知的エリートだと思っていたのに、そうではないことを思い知らされたのである。

 しかも、生まれながらの裕福さゆえに社会訓練を受けていない、つまり、社会で生きていくという能力が決定的に欠けている。それでも社会で生きていけないことはないが、序列をつけるとするとかなりの底辺になる。

 つまり、社会における価値がない。

 雇いたいと思わせる能力もないし、起業する実力もない。元々がたいした知性ではないから言論や文章では太刀打ちできないし、大学に残って研究者の道を歩こうにも研究するだけの知力がない。

 それでいてプライドだけは高い。

 時間とともに自分に見合った社会的地位は否応なくやってくる。彼らがいかに現実認識能力を欠いてはいても、その現実は否応なく実体験しなければならないのだから。

 そのとき、彼らはその現実を受け入れることができるのか?

 その答えはNo。

 現実を受け入れられない代わりに彼らがとる手段。それは、批判である。現在の社民党や共産党の行動を思い浮かべていただきたい。それがどんなに素晴らしいものであろうと、どんなに結果を残しているものであろうと、彼らは批判する。

 よりよいアイデアを生み出すために批判するのではなく、アイデアも何もないから批判する。つまり、批判が手段ではなく目的になっている。批判することで自身のプライドを維持する、という目的である。だが、所詮、その対案無き批判は知的弱者の無駄な抵抗にすぎない。

 ではなぜ無駄な抵抗となるのか。

 民主主義というのは、要は多数決である。

 そして、一般市民は常に多数派である。

 彼らが「大衆」と呼ぶ一般市民が自分の意見を持っていないわけではない。ただ、現実認識能力を持ち合わせているから、彼らが批判することであっても、結果を出していることであれば賛成する。つまり、彼らより現実認識能力が優れている。

 その多数派と意見が食い違っているとき、最も簡単な逃げ道は、「自分の考えのほうが正しくて大衆のほうが間違っている」と考えることである。とくに、彼らは自分が優れた存在であると認識している。その認識の元では、自分以外の存在、すなわち、彼らが「大衆」と見下す一般市民は彼らより劣った者でなければならない。

 そして彼らは考える。「優れた自分が劣った大衆を指導していかねばらない」と。

 これは思い上がり以外の何物でもない。

 見ず知らずの世間をよくわかっていない人間にいきなり、

 「お前たちは劣っているから俺たちが指導してやる。お前たちは黙って俺たちの言うことを聞いていればいいのだ」

 と言われて誰が従うか。

 結果、彼らは民主主義においては受け入れられないものとなる。

 彼らが現実を批判すればするほど、現実を知る一般市民は彼らから離れていき、民主主義において彼らはますます少数派になっていく。

 民主主義である間、彼らは自らの考える社会的地位を得ることができない。

 ここまで来たら次の一歩までは簡単である。

 「自分たちは正しいのだから、自分たちがこんな状態にある社会が間違っている」という次の一歩、「革命」である。

 革命を叫ぶ者は数多くいる。大衆のためを考えた上で革命を訴える者もいる。しかし、人類史上ただ一人として、革命を訴えながら自分自身はその革命権力にタッチしないことを宣言した革命家はいない。

 現実が誤ったものであると見なし、現実を変えるために行動を起こす。そして、権力を握る。

 名目は「一般大衆のため」であるが、実際には「自分が考える自分に相応しい地位」を、すなわち、「社会が考えるその者には相応しくない地位」を手に入れることを目的として行動する。

 これが実現すれば、自身のプライドを保つことができる。

 彼らがマルクス主義に傾倒したのはマルクスの考えに同調したからではない。そもそも、まともに考える能力があるなら同調するわけがない。

 マルクスは現実を否定してくれる心地よい読み物であり、また、何も考えずにその通りにすれば権力者になれると思わせてくれる都合の良いマニュアルであったからにすぎない。

 しかも、今と違って、当時はそれを読むことがエリートの証のようなところがあった。つまり、マルクスを読んだ自分は頭がいいと勘違いさせてくれるところがあった。

 マルクスの書いたことを無思慮に従っていれば、自身が最下層に置かれる現実を否定していられる。そして、その小さな空間に閉じこもり、自分たち以外の「大衆」を卑下し、自分は偉くて、自分の考えの異なる「大衆」は劣っている、そう考えていられる。

 この構図は何も珍しいものではない。

 オウムに限らず、特定の宗教の信者はその宗教を信じない者を卑下し、攻撃する。

 人種差別に疑問を感じない者は自分と肌の色が違う者を卑下し、攻撃する。

 捕鯨に反対する者はクジラを食べる者を卑下し、攻撃する。

 自分の所属する集団は優れており、その外側は劣っていると考え卑下し、そして、その劣った者を自分たち優れた者が正してやろうと実力行使に出る。

 世の中の至る所で見られる構図である。

 ここに共通する構図、それは、知性が劣れば劣るほど、卑下の度合いが激しくなり、攻撃性が強まると言うことである。

 人間は神ではないから卑下がゼロということはあり得ない。しかし、人並みの知性があればその卑下を隠せる。その隠す行為すらできないと言うことは、知性が目を覆いたくなるほどに劣っていると言わざるを得ない。

 彼らは高学歴。それは事実である。

 しかし、結論はこうである。

 恵まれた環境に育ったおかげで学歴だけは高くなったバカ。


 12月24日、指導部会議で永田は共産党の遅れを話す。

 理由は、昭和44年4月28日沖縄デー闘争に参加できなかったことである。東京駅前で千人ほどの集団が暴れ回った事件に参加しなかったことを悔いているのであるが、裏返せば、それ以降のそうした活動には欠かさず参加しており、参加できなかった事件を遡るのに昭和44年にまでかかったということである。

 ここでこの事件を永田が取り上げた理由は簡単で、いまなお共産党で存在感を保っている川島豪との決別を謳い、権力を自分に集中させることが目的である。

 どうでもいい過去の事件をほじくり返し、その責任を川島豪に押しつける。

 この試みは成功し、森が川島豪との決別を宣言する。

 12月25日、それまで批判を受けていた加藤能敬が作業から排除される。

 と同時に、恋人の小嶋も作業から遠ざけられるようになった。

 排除されたという似た境遇となり、しかも恋人同士が二人きり。この状況で何事も起こらない方がおかしい。

 とはいえ、服を脱ぐたぐいの肉体関係までには至らず、キスに留まる。

 ところが、ただキスをしたというだけのそのことを永田に目撃されてしまう。

 この件で緊急会議が開かれた。

 永田はヒステリーに任せて怒鳴り散らすのみで要領を得ない。その代わりに森が口を開いた。

 森はこの二人のキスを目撃したわけでもない。

 それでも問題点をでっち上げるぐらいは簡単だった。

 「総括を求められている加藤がそのことを隠しているのは大問題だ。真実を聞き出すために処罰を下さなければならない。」

 この森の提案が永田にも受け入れられた。

 この日の夜、山本順一が妻の保子と生後18日の子を連れて榛名へやって来る。

 その彼らが見たものは、連合赤軍による加藤能敬への集団リンチである。

 唖然とした。

 仲間達が一人の仲間を取り囲んで殴る蹴るの暴行を繰り返している。しかも、逃亡したわけでもない、仲間の一人として活動している者に対してである。

 さらに、この暴行の矛先は山本順一にまで向けられた。妻のリュックサックの中に子のオシメを入れるのを手伝っていたが、それを永田に見られた。

 「夫婦気取りで革命ができるかい!」

 共産ババアのヒステリーが炸裂した。自分も坂口という夫と一緒にいるにも関わらず、である。

 暴行からは免れることができたが、子供を奪われ、山本夫妻は皆から罵倒されるのを耐え続けなければならなくなった。

 これに逆らうと加藤能敬と同じ結果となる。

 いくらなんでも生後間もない子をも殺すことまではしないだろうし、隙をついて取り戻すこともできるだろう。

 その思いが夫婦を黙らせることとなった。

 雪山の夜に生後一ヶ月にもならない子の鳴き声がこだました。


 日付は12月27日に変わったが、暴行はなおも変わらず続いていた。

 「何か隠していることがあるだろ! それを言え!」

 森は殴りながら加藤能敬にそれを話すように迫る。しかし、加藤能敬は何も答えない。答えるものがないし、仮にあったとしても、答えようにも殴られ続けている状況では答えられようがない。

 周囲からは

 「総括しろ!」

 の声が上がる。

 永田は坂口と坂東に小嶋を殴るように指示。さらに、加藤能敬の二人の弟が参加していないのを永田は見つけ、二人に参加するように迫った。

 弟二人を見た加藤能敬はやっと口を開くことができた。口の中が血で真っ赤になり、ヨダレと一緒に血がこぼれ落ちながら、

 「兄さんのためにも、自分のためにも殴りな。」

 そう話した。

 下の弟は全身を震わせながら兄を殴り、上の弟は泣きながら兄を殴り続けた。

 暴行は朝まで続き、陽が昇った頃に暴行はやんだが、加藤能敬は座ったまま縛りつけられた体勢となった。

 その日の昼頃、大槻節子ら三人が榛名に到着。

 彼らが小屋の戸を開けて目の当たりにしたのは、全身アザだらけとなり、血を流したまま縛りつけられている加藤能敬の姿であり、その横で容赦ない暴行を加えられている小嶋の姿である。

 彼らはそれらを見て驚いたが、そのことを問うことはできなかった。

 大槻らの到着を受けて開かれた指導者会議で、森が共産党の面々に川島との訣別を再び迫る。永田が全面賛成し、セレモニーは終了した。

 共産党からの川島追放がここに決まった。


 12月28日、森は小嶋を縛るように指示する。

 すでに暴行を繰り返し受けていた小嶋は抵抗も見せずに加藤能敬の隣で縛られた。

(縛られた小嶋。このときはまだ立ったままであるが、のちに逆エビに縛られる。画・植垣)


 この夜の全体会議で、全員がこれまでの自分の問題点を挙げていった。

 ここで総括のターゲットにされたのが尾崎である。

 「日和見主義は敗北主義であり投降主義に転じる。」

 というのが批判の内容である。

 尾崎が批判されたのは、尾崎ただ一人が加藤能敬らへの暴行に反対したからである。

 常識で考えれば正しいこの行為も、連合赤軍にとっては犯罪となる。

 12月29日、尾崎は坂口と格闘させられる。シチュエーションとしては坂口が警官で、尾崎はその警官の銃を奪いに来た革命戦士である。

 格闘の理由は「敗北主義を克服させるため」であり、周囲は尾崎への声援を送っていた。縛られていた加藤能敬は「頑張れ!」と叫び、小嶋に至っては「警官を殺すのよ!」とまで叫んだ。

 格闘は一時間ほど続き、両名ともアザだらけとなり血が流れ出した。

 格闘は坂口の勝利に終わり尾崎は地面に突き臥せられた。

 このとき、尾崎が大槻に「ちり紙とってくれ」と言った。

 これを聞きつけた永田は、この発言が尾崎の「甘えの現れ」の何よりの証拠とされ、縛りあげられた。

 さらに、さっきまで尾崎へ声援をしていた者達のうち縛られている者以外から殴る蹴るの暴行を受けることとなった。

 尾崎への暴行は延々続き、雪が降ってもなお屋外に留め置かれることとなった。

 縄はほどかれたが立たされたままで座ることは許されず、森に対し疲労から「休ませてください」と懇願したが、森はその言葉を聞き入れることなく、逆に吉野を見張りにつけて徹夜での総括を命じた。

 その夜、杉崎ミサ子が寺岡との離婚を、金子みちよが吉野との離婚を表明。理由はともに「自立した革命戦士になるため」。

 しかし、永田はそれを認めなかった。

 12月30日、夜、中村愛子が入山。

 中村は尾崎の姿を見て身体が震えたが、永田は平然とした様子で「尾崎は総括中だ」と言ったに留まった。

 その後、山本夫妻の子の面倒を見るように言われる。


 12月31日、東京に資金集めに行っていた山田が到着。

 雪の降る中、屋外に立たされている尾崎を見て、山田は言葉を失う。

 寒さは激しさを増し、飲まず食わずで雪の中に置かれている尾崎は食べ物を求めた。

 「すいとん、すいとん。」

 その声は小さいものであったが森はその言葉を聞き逃さず、腹を思いきり殴りつけ、さらに他の者による暴行が続いた。

 その後、尾崎は室内に入れられたが、柱に縛られることとなった。

 昼過ぎ、坂東と山本順一は、赤軍派の遠山、行方、進藤の三人を連れて榛名に戻った。

 加藤は座ったまま、小嶋は寝かされて逆エビ状に、尾崎は立ったまま柱にそれぞれ縛られていた。

 それをにやにや笑いながら眺めている永田と森。

 彼ら三人は確信した。

 この姿は数日後の自分たちだと。

 永田に目をつけられた以上、こうなるのは時間の問題。

 だが、逃げることはできない。

 夕方、尾崎死亡。山中での初の死者である。

 これを見ても森は動揺することなく、

 「尾崎はわれわれが殺したのではない。敗北主義を総括しきれなかったために自ら死を選んだのである」

 と説明した。

 永田も尾崎の死には何の感情も示さず、

 「加藤(能敬)、小嶋の2人を必ず総括させよう!」

 と呼びかけた。

 メンバー全員、

 「異議なし!」

 と答えた。

 世間では紅白歌合戦が驚異的な視聴率を稼いでいる大晦日の夜、榛名では次のターゲットは誰になるのかと、互いに互いを疑いあう地獄が続いていた。


 1月1日。

 世間では新しい一年。

 連合赤軍では昨日と変わらぬ地獄が続いていた。

 縛られたまま身動きもできないこともあり、糞尿は垂れ流しであった。

 その匂いが部屋の中に充満していた。

 未だ初日の出の昇らぬ時間、森は到着したばかりの三人のうち進藤をターゲットに選んだ。

 新藤は森と違ってなかなかの美男子であり、女性にもモテていた。そのため、赤軍派の対外的な場面によくかり出されることがあった。いかにも気の弱い小男にしか見えない森ではうまくいかないことでも、進藤が前面に立つと違うのである。アパートを借りるのでも、女性を仲間に勧誘するのでも、進藤がやるとうまくいく可能性が上がった。

 それが森にはおもしろくなかった。

 そこに巡ってきた復讐のチャンス。森はこの機会を逃さなかった。

 進藤は自分がターゲットに選ばれた本当の理由をすぐに察知した。そして、森の性格からして自分を許すなどしないだろうと確信した。

 進藤は覚悟を決めた上で森に反論した。

 これが森の態度を硬化させ、総括要求。

 逃亡を考えているとされただけではなく、赤軍派への加入も赤軍派の金が目当てだと決めつけられた。

 森のこの意見に皆が従い、進藤への暴行が始まった。

 行方と遠山にとっては始めて見る光景であるが、だからといって殴らないことは許されなかった。行方は弱々しくではあるが進藤を殴りつけ、遠山は初めのうちこそ拒んだものの暴行に参加させられた。

 進藤は肋骨を6本骨折し、肝臓も破裂していた。

 進藤は手当てされることもなく、柱に縛られた。

 それから間をおかずに死亡。見張っていた石田がその最期を見届けた。

 進藤の叫んだ「もうダメだ!」の声は周囲に響いた。

 進藤の死を森は「敗北死」の一言で片付けた。


(死の直前の進藤の様子。画・植垣)


 その直後、逆エビに縛られていた小嶋の容体が急変した。

 山田らが人工呼吸を行なったものの死亡が確認された。

 森は小嶋の死にも関心を示さず、

 「敗北して死んだから醜い顔をしている。死者に対する礼など必要ない。」

 と言い捨てた。

 小嶋は連合赤軍では数少ない運転免許所有者であったため、運転手役を務めることが多かった。実際、印旛沼での二人の殺害時の運転手を務めている。

 連合赤軍で運転免許を持っている者が少ない理由は二つ。一つは一八歳の時点ですでにこの世界に足を入れる者が多かったため、免許を取りに行こうとするとそこで警察に捕まってしまうということ。そしてもう一つ、この一つの理由のほうが大きいが、筆記試験に受かるだけの知性がないのである。何度挑戦しても落ちるのを自分のせいにはせず、警察の陰謀や国家の腐敗に結びつける彼らの思考はここにも現れていた。


 1月2日、午後、植垣と山崎順が榛名に到着。(※)

 連合赤軍がここで全員揃った。

 ただし、三人が死体となっている。

 この日の夜に全体会議が開かれ、ここで永田は

 「小嶋は縛られてからも総括しようとしなかった! 目隠しされてからは騒ぎ出した。それは闇を恐れたからだ。尾崎の死を知って死を恐れたからだ! 革命にしがみつこうとすれば総括できる。死の恐怖も克服できたはずだ! 小嶋はそれを避けたから敗北死をしたのよ!」

 と言い放った。

 植垣はこのときの永田の言葉に、なぜここに尾崎や小嶋がいないのかを理解した。しかし、最後まで「敗北死」という意味は理解できなかった。

 続いて、森の口から遠山批判が始まった。

 遠山は

 「死にたくない。とにかく生きたい。」

 とだけ応えた。

 「遠山を総括させよう!」

 「どうやってだ?」

 「小嶋の死体を埋めさせる。それでどうだ。」

 この永田の提案を遠山は受け入れた。

 行方は遠山を手伝うために「俺もやる」と立ち上がった。 

 遠山はしばらくしてから立ち上がり、小嶋の死体に近寄った。

 誰もが小嶋の死体を抱え上げると思っていたが、遠山はそうではなく小嶋の死体に馬乗りになり、

 「私を苦しめて! 私は総括しきって革命戦士になるのよ!」

 と言って小嶋の死体に向かい殴りだした。

 寺岡はこの様子を眺め、

 「よく見ろ! これが敗北者の顔だ! 小嶋は死んでも反革命の顔をしている! こいつをみんなで殴れ!」

 と言った。

(全体会議。奥の中央に座っているのが永田。その隣に森が座っている。画・植垣)


※植垣は自分で実際に見た光景を描いたと言っている。
 しかし、植垣の到着が証言通りこの日であるとすると、それより前の日の絵については他のメンバーより聞いた想像図であるか、でなければ、別人を描いた図でなければならず、そこに矛盾が生じる。
 本作品では植垣の二つの主張を双方正しいという前提で話を進めるが、事実が判明し次第修正する。


 1月3日、行方と遠山の二人で小嶋の遺体を運び、二人で穴を掘って埋めた。

 この二人を見届けたのが寺岡である。

 寺岡にとっては遺体ではなく死体だった。

 「こいつが党の発展を妨げてきたんだ。」

 そう叫んで二人に遺体を殴るように命令。二人はそれに従った。

 しかし、これが逆に寺岡の立場を怪しくする。

 前日の寺岡の言葉にはこれといった反応も示さなかった森であったが、この日は、

 「敗北死と反革命死は違う」

 と寺岡を批判した。

 森の言葉に連合赤軍のメンバーは納得した様子を示したが、その違いのわかるものなど誰もいなかった。

 戻ってきた遠山に対し、森はさらなる総括を求めた。

 「今までは我々が殴って総括を援助してきた。しかし、遠山が自分で自分を総括すると言うなら自分で自分を殴っても構わない。」

 これは許可ではなく命令であった。

 遠山は小屋の中央に立たされ、自分で自分の顔を殴らされた。

 力が弱いと感じられたり、殴る動きが鈍くなったと感じられたりすると、周りのメンバーから容赦ない罵声が飛んだ。

 この自分で自分を殴る暴力は三〇分以上続けさせられ、遠山の顔は腫れ上がった。

 殴りを止めることが許可されたのは遠山が縛られてからである。

 永田はその膨れあがった顔を鏡に映して遠山に見せ、

 「きれいになったじゃない」

 と言って笑った。

 この夜に開かれた指導部会議で、「中央委員会(通称CC(Central Committee)」が結成された。もっとも、正式な名称と表面上での序列を決定させただけで、CCの結成が連合赤軍に何らかの変化をもたらしたわけではない。

 ここで定められた表面上の序列は、森がトップに立ち、次いで永田。以下は、坂口、寺岡、坂東、山田、吉野という順番であるが、事実上は永田がトップで森が並列に立ち、以下の五人の順序は無いも同然だった。

 このCCの最初の議決は行方を縛りつけることであった。


 1月4日、未明、行方が縛られる。

 次いで、早朝、縛られたまま十日以上経過していた加藤能敬に対し、森が暴行を再開した。

 「逃げようとしていただろ!」

 そう叫びながら殴る蹴るの暴行を続ける森。

 逃げたいという感情ならば浮かんでいるだろうことは想像できるが、縛られたまま二四時間監視され続けているのにどうやれば行動に移せるのか、森の頭にはそれすら浮かばなかった。

 飲まず食わずのまま十日以上が経ち、体力的にも限界まで達していた加藤能敬にとって、この暴行は最期の一撃になった。

 加藤能敬、死亡。

 他の三人の時には何の感情も示さなかった永田であったが、二人の弟を目の前にし、

 「今は泣きたいだけ泣いていい。兄さんの死を乗り越えて、兄さんの分まで頑張って革命戦士になっていこう」

 と声をかけた。

 しかし、三男の元久はこの言葉に反発。

 「こんなことやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」

 と叫んで泣きながら飛び出していった。

 二男の倫教は永田の肩に顔をうずめて泣いた。

 CCは死亡した四人を別の場所に埋め直すことを決定。

 また、前田、石田、寺村、植垣、青砥の五人をCCに加えるべきとの意見が出る。


 1月5日、山田、寺岡ら六人が、これまでの死者四人の遺体を埋める場所の調査に出発した。

 遺棄場所を決定した後、夜になってから遺体を掘り出し、遺体を車に積んで先に調査に向かった六人が埋め直しに向かった。

 戻ってきたときには日付も変わり陽も昇っていた。


 1月6日、森、行方を殴るように指示。

 CCに加え、植垣、山崎、寺岡も暴行に参加した。寺岡に至っては薪で殴りつけた。

 この間、縛られていた遠山は革命戦士になることを誓う言葉をつぶやいていた。

 自分殴りの結果顔が潰れて口が上手く開けなかったこともあるが、そう言わなければ殺されてしまうという思いと、それが本心ではないとの錯綜した思いがそうさせた。

 夕方、矛先は遠山に向かった。

 男女関係を追及された遠山は「森を好きだった」と言った。

 そうすれば森が容赦してくれるのではとの思いからであったが、自分の立場をまずくする思いも寄らないその言葉に森が激怒する。

 その結果、全員で遠山への暴力が始まった。

 寺岡は「男と寝た時のように股を開け」と遠山に指示した。その言葉にメンバーから笑い声さえ起こった。

 永田は「そういうのは矮小だ」と叫んだ。

 遠山は逆エビに縛られた。

 この日、石田、前田、寺村がCCに加えられる。


 1月7日、夕方、遠山の死亡が確認された。

 加藤能敬の死のときは弟を思って声を掛けた永田も、遠山の死には何の感情も抱かず、無言で立ち去った。

 この永田の態度に坂口は薄情だと言った。

 この言葉に永田は敏感に反応。

 坂口は自分がCCであることも、永田の夫であることも忘れ永田に謝罪し、総括を免れた。


 1月8日、縛られてから五日目、目の前で遠山の死を見た行方が精神に異常を来たし、エンドレスで童謡を歌い始めた。

 小屋の中では糞尿の匂いが立ち上り、基地としての機能を低下させていた。

 CCは榛名を捨て、新たな基地を探すことを決議。


 1月9日、行方(なめかた)、死亡。

 山田ら四人が遠山と行方の遺体を埋めるために出発した。

 行方正時は典型的な学生運動家であった。すなわち、裕福な家庭に育った世間知らずで充分な教育を受けたために学歴は手にしたものの、受験が終わったと同時に自分を見失って学生運動に身を投じるようになった者であった。滋賀県出身ということもあって京滋の各大学で学生運動の仲間を増やすことを役割としていたが、失敗に終わっている。

 その後は活動家として、赤軍派の起こした犯罪に参加し、逮捕されて三ヶ月間の獄中生活も経験している。


 1月11日、植垣らが迦葉山(かしょうざん)に基地設営が可能か調査するために出発。


 1月12日、板東、寺岡らが日光に基地設営が可能か調査するために出発。

 なお、このとき、森は新たなターゲットを見つけた。寺岡である。

 「政治的傾向が官僚主義的でスターリン主義でもある。」

 これが理由である。

 こうした次々とターゲットを見つけ出す森の態度はCC内にも亀裂を生んでいった。


 1月13日、森と山田の話し合いにおいて、ついに山田が森に反旗を翻した。

 「山本は家族を連れてきている。俺もそうだが革命のために離婚した同志も一人や二人じゃない。それなのに貴様は家族を置いたまま自分一人で山へ来た。これはどういうことだ。」

 山田は新たな基地調査のためにいったん山を降りることが決まっていただけに、森の処罰を気にせずに済んだということもある。また、これまでの死者と違い、CCの一員であるということもある。

 後ろが保証されている者が自分をどう思っているのかを知った森は、山田に反論するもののその言葉は弱々しく、顔は青ざめ、今にも泣き出しそうであった。

 「だってしょうがないじゃないか……。足手まといになると思ったし、だから置いて……」

 それは明らかに涙声で、最後のほうは聞き取れなくなっていた。

 山田は森よりも活動歴が長い。そして、森がリーダーになる前は山田のほうがより幹部に近い地位を占めていた。

 しかし、山田は自分が権力を握ることを考えていなかった。それどころか、共産主義に対し疑問を抱くまで至っていた。一時期は赤軍派を離れることも考えており、森がリーダーについた頃は組織と距離を置き、結婚し子供ももうけていたほどである。

 しかし、結局は赤軍派に戻っている。実社会に戻ったときの自分の地位は、組織の中で自分が得ていた地位と比べるとあまりにも惨めなものだった。それを忘れられなかった山田は妻も子を捨て、赤軍派に戻った。

 そのときにはもう森と山田の立場が逆転していたが、赤軍派は山田にそれまでと変わらぬ地位を用意していた。それは、この時点までは森や永田も手出しをできない地位であった。

 この日の夜、山田、榛名を離れる。

 「山に戻ってきたときまで森が生きていたら、次に殺されるのは俺だ。」

 山田は覚悟していた。自分の死を、である。

 しかし、ここで逃げることはしなかった。すでに何人死んでいるのかという思い。そして、自分はそれを止められる立場にあったのではないかという思い。それをせずに自分一人が生き延びることはどうしても許せなかった。

 一方、森は、このとき山田から受けた苦痛を、自らに与えられた助言ではなく、屈辱としか受け取らなかった。

 いつもなら夜になれば静まりかえる小屋も、この日は森の不気味な独り言がとぎれることなく続いていた。


 翌日、森は家族と電話をするために山を下り麓に向かった。

 久しぶりの家族との連絡は心の安定を取り戻したが、基地に戻った後、再び精神の動揺が森を襲った。矛先は車を運転していた山本順一に向かった。

 森の主張としては車の運転にミスがあったため遅くなったというものであったが、山田の反論を目の当たりにした山本順一は森の言葉に臆することなく反論した。

 山本への怒りも失敗した森は、青砥と金子の改造弾造りに目をつけた。

 作業中に鼻歌を唄っているというのである。

 「それが総括を求められている者の態度か!」

 これが森の怒りの言葉だった。

 ところが、このときの怒りも失敗した。彼らもまた前日の山田を見ているのである。

 森の腹の虫は収まらなかった。とにかく新たな餌食を森は必要としていた。

 そしてこの夜、CCは寺岡の問題を議題にあげた。共産党時代の活動歴を永田に聞いた森は寺岡を分派主義と断定した。

 CCとしてなら自分の思いを通せることを森は再認識した。


 1月15日、山田、榛名に戻る。


 1月17日、寺岡と坂東が榛名に戻る。日光の基地建設は不可能と報告。

 山田の帰還は何もなかったのに、寺岡の帰還は騒然としたものとなった。

 森の主導する裁判が始められていたのである。

 これまでの「総括」ではなく「裁判」となったのは寺岡もCCの一員だからである。

 犯罪理由としては杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことと、永田や森を見下すような陰口(「森や永田がこけたら、俺がリーダーだ」)を叩いていたことである。

 この状況で自分はもう助からないと悟った寺岡は、誰もが思っていながら口にできなかったことを叫ぶ。

 「俺は初めから風船ババアが大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」

 風船ババアとは永田に対する陰口である。

 永田はこの言葉に激怒し、騒ぎだす。しかし、何と言っているのか聞き取れる者はいなかった。

 裁判官でもあり検事でもある森は、弁護士なきこの裁判で

 「お前の行為はこれまでと異なり、反革命と言わざるを得ない。死刑だ!」

 と宣告した。

 寺岡を除く全員が「異議なし!」と答え、裁判は終了した。

 死刑の手順は以下の通りである。

 まず、坂東が寺岡の左肩をナイフで突き刺した。

 次いで、森が「お前はスターリンと同じだ。死ね!」と叫びながら、アイスピックで寺岡の胸を突き刺した。

 心臓のあたりを射したはずであるがそれでも寺岡は死なず、森は周囲を見渡した。誰が自分の後に続くかを見るためにである。

 誰もが躊躇していたが、植垣らが後に続き、心臓や首めがけて突き刺した。

 そして、ヒモで首を絞めて殺害した。


 1月18日、彼らを狼狽させる出来事が発覚した。

 岩田平治が逃亡したのである。

 山を下りること自体は連合赤軍の行動の一つであったが、そのまま山に戻らなかったのは岩田が初めてである。単に逃げただけではまだいいが、榛名のアジトが見つかってしまうことは大問題であった。

 二つの候補地のうち日光はだめだと言うことが明らかである以上、迦葉山に遷るしか手段はないと結論づけられた。

 この狼狽の最中にも、森は寺岡を処分した後のターゲットを探していた。

 そして、山崎に目をつける。理由は寺岡の死刑執行に参加しなかったこと。


 1月19日、再度開かれた裁判で、今度は山崎が死刑となった。

 山崎は自分がターゲットになったと知ってもまだ助かる可能性はあると思っていた。現に山田は森に逆らったのに生きている。

 何とか命乞いするか、あるいは革命戦士らしくすれば助かるかも知れない。

 そう考えた山崎は、「死刑にされて当然です」と泣きながら叫んだ。

 森はこの言葉に死刑をいったん中断させた。ただし、縛り付けは実行された。

 その日の夜、寺岡の遺体が埋められた。


 1月20日、山崎の命は一日延びただけだった。再び山崎に死刑が宣告され、寺岡殺害と同じ手順、つまり、ナイフで突き刺し、アイスピックで突き刺し、タオルで首を絞めての殺害である。

 寺岡に対する山崎の例を見ていたメンバーは、先を争うようにナイフを持ち、アイスピックを握りしめ、タオルを奪い合うように手にした。

 山崎殺害の後、今度は永田がターゲットを見つけ出した。

 同姓のメンバーに対する嫉妬から、金子と大槻を批判しだしたのである。

 「女を武器にして森に取り入ろうとしている。」

 「主婦のように自分の権威を守っている。」

 という理由である。

 これを聞いた金子の夫である吉野は、

 「僕の方から離婚する。もう金子さんに足を引っ張られたりはしない。」

 と発言し、永田の怒りが自分に及ばないように走った。


 一日おいた1月22日、九人が迦葉山にアジトを建設するために榛名を出発。

 この出発の際、離婚したはずの吉野の世話を焼く金子を見て、森は金子の様子に疑念を抱く。

 「あれでは女房の態度ではないか。」

 森はそう言ったが、金子はこのとき吉野の子を妊娠しており、このとき八ヶ月のお腹であった。これで女房の態度を示すことがおかしいと感じる方がおかしい。


 1月23日、坂口は山崎の遺体を埋めに行き、そのままアジト建設の応援のために迦葉山へ向かう。


 1月25日、夜。森は金子と大槻を追及し出した。もはや理由にもならない理由であったが、森の言葉は最終宣告も同じである。金子は反論したが聞き入れられず、未明、二人は緊縛される。

 永田の嫉妬はそれだけではやまず、大槻はその髪の毛を永田によって無惨に切り落とされて虎刈りにされ、金子にはお腹の子供めがけての容赦ない暴行が加えられた。


 1月26日、坂口、吉野、坂東が山本順一を囲んで総括を要求。

 山本順一は抵抗を見せず、三人にされるがままに暴行され、暴行が終わると逆エビに縛られた。


 1月27日、森はついに胎児の私物化すら許さないとの考えに至った。

 「金子が子どもを私物化することを許してはならず、子どもを取り出すことも考えておかねばならない。」

 妊婦の腹を引き裂いて胎児を取り出そうというのである。

 この言葉を止める者すらいなくなっていた。


 1月28日、金子への暴行が始まる。

 暴行を受けている最中、金子は「私は山へ来るべきではなかった」と洩らす。

 この言葉を聞きつけると更なる暴行が加えられることとなった。

 午後7時頃、暴行は止み、連合赤軍は青砥を残して迦葉山に移動した。

 縛られた者は縛られたまま車に乗せられての移動。


 1月29日、迦葉山の新アジトが一応完成。

 縛られている三人は床下の柱につながれた。

 山本保子は「総括してよ、総括してよ」と山本順一の胸に顔を埋めて泣き続けていたが、縄をほどくことはできなかった。

 山本順一はCCのほうがおかしいと反発し、舌を噛み切って自殺を図る。

 自殺は失敗し、猿ぐつわをされる。


 1月30日、午前1時、山本順一、死亡。

 妻は夫の死にも泣くことを許されなかった。

 同日、植垣と大槻が新倉でとキスしたことがあることを問題視し、総括を要求する。この場では植垣ではなく大槻が問題視され、植垣を含む全員で大槻に対する総括が提起された。

 床下に行くと大槻はすでに亡くなっていた。


 一日おいた2月1日、坂口や坂東らが山本順一と大槻の遺体を埋めに出かけ、そこで警官を目撃する。また、森、永田、坂口が指名手配され、顔写真入りの手配ポスターが配布されているのを見て埋葬を延期、さらに、丹沢に築いていたアジトの跡地を警察が発見したというニュースが流れているのを耳にした彼らは慌てて逃げ出した。

 同日夜、CCが山田に対し、総括を要求した。

 森の思いは山田と一対一では満たされないものの、CCとしてなら満たされることを、森はこのとき実感していた。

 森の思い、それは山田への攻撃である。

 CCの一員であるはずの山田には、死刑はあっても総括はなかったはずである。しかし、CCは山田に対し、

 「CCを辞めて一兵士となり、マイナスからやり直せ。」

 と通告した。

 CCのこの要求を受け、山田はCCを辞任することを宣言。

 これが逆にCCの態度を頑なにさせる。

 「CCを辞めようなど考えるのは反革命思想に犯されているからだ。」

 辞めろと言うから辞めると言ったのに、辞めると言ったら怒鳴られる。これではいったいどうすればよいのか。


 翌2月2日、山田は雪の上に正座させられることとなった。

 正座はしばらくして解除されたが、結局CCを辞めることとなり、一兵士として食事抜きでマキ拾いをするように命令された。


 2月3日、空腹からマキ拾い作業に戸惑う山田は革命活動のサボタージュをしていると宣告され、皆に殴られて逆エビに縛られることとなった。


 2月4日、朝。金子の死亡が確認される。

 最後のほうは男女の区別もつかないほど顔が赤黒く腫れ上がり、歯は欠け、内臓が破裂し、お腹の子は先に亡くなっていた。

 そんな金子の最期の姿も連合赤軍の中では見慣れた光景になっていた。


 連合赤軍の財政はこのとき既に限界に達していた。

 山でのアウトドアライフで金が要るのかと思うかも知れないが、それが必要となるのである。

 まず、食料がある。山だからと言って山の幸に恵まれているなどと考えるのは甘い考えであり、まして季節は真冬。動物は冬眠し、植物は実を落としている。川で魚を釣ろうにも氷が張っていてできず、氷を砕いてその下から飲み水を汲むのが精一杯。

 連合赤軍は当初、山での自給自足生活を考えていたが、実際に山に入ってから、山には食料がないことを思い知ることとなった。現実を否定してきた彼らであったが、現実は彼らを否定しなかった。

 結局、山を下りて食料品を買い出しに行かなければならない。

 自分たちの略奪が原因となって、山の麓の食料品店では警備が厳しくなっていた。ここで警察沙汰になるのは防がねばならない。

 そうなると、正当な客として食料を買い込まなければならない。

 ところが、彼らは見るからに怪しい格好である。

 服がボロボロな上にろくに洗濯していない。しかも血がこびりついている。

 風呂にも入っておらず、また、全身から糞尿の匂いさえ漂っているから臭い。

 そうなると、いくら正当な客だと言っても警察に突き狙われること間違いない。ここはホームレスが数多く見られる大都会ではないのである。

 だとすれば、観光客、たとえば冬山登山を楽しむために榛名に来た学生といった格好でなければならない。そこで、服装代や身だしなみを整えるための費用が必要となる。

 さらに、そうした食料を運ぶための車の代金がいる。いくら仲間を十人以上殺したと言っても、まだ二十人近くはメンバーとして残っている。それだけの腹を満たす食料品となると相当な量である。結果、人間の手で運ぶなどできない話となる。それで車となるが、そのガソリン代が馬鹿にならない。

 金を必要としない共産主義を作ろうとしている彼らにとっては皮肉なことに、カネが彼らを追い詰めることとなったのである。

 だが、彼らにカネを手にするルートがあるのか?

 それが存在するのである。

 忘れてはならないのは、連合赤軍という存在は、それまでの組織のうち幹部層が逮捕された後で残った者達が結成した組織だということである。

 実世界での裁判は、連合赤軍での裁判と違ってそう簡単に死刑になることはない。山に籠もる前の彼らの犯した罪に照らし合わせれば、せいぜい数ヶ月か、長くても数年で塀の外に出てくることができる。

 その出てきた者からの支援が期待できるのである。

 ただし、あくまでも期待であって、実際にカネが確実に手に入るわけではない。

 逮捕された者は、組織の中ではエリートでも、実社会では底辺。すなわち、収入が期待できない仕事をしているか、仕事もせずに再び犯罪に身を置くかのどちらかである。

 その状態でカネをくれと頼むのに、下っ端を遣わせて成功するわけがない。

 組織のトップが直接出向いて礼節を尽くして、その上で援助を申し出るしか方法がないのである。

 連合赤軍にとってのそれは森と永田の二人が並んでいくことであった。

 これはどちらか片方だけではダメである。

 連合赤軍を名乗ってはいても、それは残った者が勝手にやっている行動であって、塀を出たばかりの者にとっては関係ない。

 この状態では、共産党の活動家の元に森が赴いても、赤軍派の元に永田が赴いても無意味となる。

 リーダー二人が並んで行動することではじめて連合赤軍という組織が認知され、援助を受けられる可能性が出てくるのである。

 というのが建前。

 では、本音は?

 どちらか片方が行くのでは残ったもう片方が連合赤軍の全権力を握ることが目に見えている。これは森にも永田にも都合の悪いことであった。

 戻ってきたとき、今度は自分が殺される側になる。どうやって殺すのかは彼ら自身イヤというほど見ている。

 結局、互いが互いを牽制する形で、二人で行動をする。それ以外に選択肢はなかった。

 金子の死亡が確認された日の夜、活動資金を得るために森と永田が上京。アジトでは坂口が責任者となった。

 同時に、坂東らが金子の遺体を埋めに行った。


 2月5日、榛名のアジトを解体するため、坂口、坂東、吉野、植垣、青砥が迦葉山に出発。

 リーダー二人がいなくなり、あとを継いだ坂口もいなくなる。

 これが連合赤軍のメンバーに絶好の機会を得ることとなった。もちろん脱走の、である。

 先陣を切って、山本保子が隙を見て脱走した。夫が見殺しにされた場所にこれ以上いたくなかったという思いがずっとくすぶっていたのだろう。

 この段階では子供を置き去りにしての脱走だが、子供を殺すことはしないだろうとの打算が働いた。同時に、このまま残っていたら自分は殺されるとの思いも抱いていた。

 ベストは子供を連れて逃げ出すことだが、中村が面倒を見ることが多いらしいことは知っているものの、子供がどこにいるかはっきりとはわからなくなっている現状では、子供を連れだすなど無理。しかし、殺されることはないだろうとの思いはあった。実際、ちょっとした私語でさえ総括の対象とされているのに、子の泣き声は不問に付されている。

 自分はとりあえず逃げ、時期を待って子供を救い出す。山本保子はこれを選んだ。

 山本保子の脱走を受け、置き去りにされた子供の処遇が問題になった。

 脱走者が出たことを受け、迦葉山では緊張が走った。

 誰も脱走に文句を言わなかった。

 誰もが岩田、山本保子に続く三人目になろうとしていた。

 それでも何とか榛名に移動した坂口らに連絡をつけようとする意見が出て、その連絡係として中村愛子が任命された。山本の子を連れて行けばいざというときの人質にもなる。その上、実の母以上に接しているために子供がなついており、泣きわめくこともない可能性が高い。

 山本夫妻の子を連れて迦葉山を離れた中村は機会を逃さなかった。山本夫妻の子とともに脱走。これで一日に二名プラス子供一人が離脱した。


 2月7日、榛名撤退。

 小屋は焼き払われ、湖畔から伊香保温泉までバスで移動、そこから渋川までバスに乗って下山した。ここまでは単に冬山登山の学生サークルといった様子であり、糞尿まみれの悪臭を漂わせていたが、客は客であり、運転手も黙っていた。

 ところが、料金支払いで一万円札を出したことから運転手の我慢は限界に達した。汚らしい格好でバスに乗り込み、悪臭を漂わせ、他の乗客の迷惑になっている。その上、小銭一つ用意していない。総括とは違う大人の怒号に彼らは怖じ気づいた。

 とりあえずバスを降り、沼田行きのバスを停留所で待とうとした。

 ここは山間部ではなく市街地である。明らかに人目につく格好であり、彼らは目立っていた。周囲の視線が彼らに集中し、一挙手一投足が監視されているようなものであった。

 この時、前沢がいきなり走り出した。逃亡である。

 前沢を追いかけようとしたが、ただでさえ目立っている自分たちが何かしたらもっと大変なことになる。

 残された者は前沢を見送るだけだった。

 同日、中村愛子と山本夫妻の子はタクシーに乗っていたところ運転手に自殺願望者と思われ、警察署に保護された。

 当初は単なる生活に困った母子としか見ていなかった警察であったが、中村の供述に次第に緊迫が増し、連合赤軍の状況がはじめて警察に伝わることとなった。

 しかし、中村の供述には曖昧な点が多く、アジトの在処が榛名にあることはわかっても具体的にはどこなのかがわからずにいた。


 2月8日、中村の供述通りに榛名での捜索を続けていた警察は新たな証言を得る。榛名湖畔で県立公園の管理人をしている者から、湖畔の森の中に時期的にあり得ない数の足跡があることや持ち主不明のライトバンが乗り捨てられていることが伝えられたのである。

 警察の捜索は足跡周辺に渡ったが、このときはまだ仲間殺しが行われていることを知らない。そのため、埋められた遺体に警察が気づくことはなかった。また、迦葉山へのアジトについても中村が詳しくは話さなかったため、警察がそちらに向かうことはまだ無かった。

 足跡やタイヤ跡をたどっていくと建物の焼け跡が見つかった。しかし、この時点ではまだ焼けた山小屋の跡なだけであって、周囲には誰も残っておらず、また、ここがテロリストのアジトであるという証拠も何一つ見つからなかった。

 

 2月12日、未明、山田の死亡が確認された。

 これと時期を前後して、連合赤軍側に警察の動きが見破られた。警察が榛名のアジトを発見したこと、周囲の捜索を進めていることが連合赤軍も知ることとなり、彼らは慌てだした。

 榛名と迦葉山は二〇キロしか離れていない。警察が捜索範囲を広げればこちらも発見されるのは時間の問題と考えた彼らは、迦葉山のアジトも捨てることに決めた。

 第三のアジトを捜索することにしたが時間がない。とりあえず適当な洞穴があったのでそこをアジトとすることにした。


 一方、東京に向かった森と永田は成果を全く上げられずにいた。

 協力を頼むどころか、こちらに協力してくれないかと頼まれる始末。しかも、そこで頼まれた協力とは、ご飯一杯、みそ汁一杯といったその日の食事であって、革命活動の協力ではなかった。

 同じ年齢の同級生なのに、学生運動に目をくれることなく普通に大学を卒業した者は、立派な会社に勤めて、立派な住居を構え、不自由のないいい暮らしをしていた。逆に、学生運動に加わった者は、生活も貧しく、住まいも貧相で、何よりまともな仕事などできておらず、残飯を漁り公園で野宿する暮らしとなっていた。

 成功した同級生を頼ろうにもプライドが邪魔をする。それでもプライドをまげて学生運動とは無縁だった同級生を頼ろうとしたが、こちらの格好を見て同級生とは気づかず、不審者として通報される始末。

 このとき、自分たちは社会の負け組なのだと思い知らされた。

 2月13日、バレンタインデーの前日と言うことも手伝ってか、東京でのこの絶望が永田を女に戻した。

 「坂口と離婚して、森と結婚する。」

 そう言った。

 森は何も言い返さなかった。しかし、受け入れることはなかった。


 2月15日、警察は証拠不充分ながら、中村の供述通り、榛名の山小屋は連合赤軍のアジトであったと結論づけた。

 これを受け、マスコミ各社が「榛名ベース発見」を報道。

 さらに、迦葉山のアジトも発見され、マスコミの関心が連合赤軍に集中した。

 迦葉山には誰もいなかった。しかし、小屋はそのまま残されており、ここがアジトであることの証拠が大量に残されていた。

 連合赤軍の行動規約が発見されたのもここである。ただし、意図的かどうかは不明だが文字の一部が焼け落ちていたため、全文の発見とはなっていない。

 2月16日、第三のアジトとした洞窟も放棄。茨城県へと移動することとし、先遣隊として、坂口、植垣、青砥、奥沢、杉崎の五人が東へ向かうこととなった。

 同日、山梨・群馬・長野・埼玉・新潟・神奈川の六県警と、警視庁による山狩りが始まった。

 この山狩りに五人がかかった。

 五人の乗ったライトバンが妙義湖畔でヌカルミにはまり立ち往生したのである。トラックに引っ張り上げてもらっていたが、そこに警察車輌が近寄る。警官らは職務質問をするが、それを見て坂口、植垣、青砥の三人は逃走、残る二人は車の中に閉じこもった。

 奥沢と杉崎は警察官の話に一切耳を傾けず、ラジオを大音量で鳴らし、インターナショナル(共産主義者がよく歌っていた歌)を歌い、さらには車内でズボンを下ろして脱糞するなど警官も顔をしかめる抵抗を示した。

 仕方なしに付近の集落まで車を運び、地元の住民に二人の顔を見せた。

 すると、国有林の木を切り倒した面々の中にこの二人がいたことを指摘する者がいた。地元の林業関係者である。ただし、その人は木を切り倒している彼らを同業者だと思ったらしく、連合赤軍だと知ったのは最近の新聞報道によってである。

 彼らは不当逮捕だと訴えたが、国有林を切り倒したことは否定できず、その容疑で奥沢と杉崎は逮捕された。


 坂口、植垣、青砥の三人はなんとか洞窟まで逃れた。

 そこで警察が身近にいることを伝え、洞窟のメンバーは逆に西へ逃げることとした。

 逃走の実情は東京にいる森と永田にも伝えられた。

 森の下した結論は、軽井沢で落ち合うこと。

 軽井沢ならば洞窟からも近く移動距離が短くて済む。

 避暑地として発展しているため物品も手に入りやすい。

 交通も整備されているから落ち合いやすい。

 それでいて今は冬だから人口が少なくなっているので人目につきにくい。

 群馬県と長野県の県境のため、長野・群馬両県警が県境で行動を制限される可能性があり捜査を混乱させられる。

 それらが理由である。

 この森の考えなど、警察はとっくに読めていた。

 日本のどこにいるのか、あるいは日本国内にいるのか、それすら全くわからない状況であったのが、日本国内の、それも関東地方に潜んでいることが判明したのである。

 その上、アジトが見つかり、逮捕者も出ている。

 とくに、リーダーの森と永田が他のメンバーたちと別行動であることは何よりの朗報、連合赤軍にとっては痛手であった。

 今はバラバラで行動しているが、時期を見て一つとなるであろうと推測し、リーダーもメンバーもどこかで集まるために移動するだろうと推測した。

 その結論は、群馬県の妙義山方面から長野県へ向かうとの推測。彼らは車のエンストを起こした妙義湖畔を通ると読み、群馬県警を待機させた。

 山間部は激しい雪だった。

 警察の読み通り、森と永田は夜中に妙義山に到着した。

 泊まる場所もなく、二人は雪の中で一夜を過ごす。


 2月17日、朝。

 陽が昇ったと同時に二人が見たのは、周囲を取り囲む群馬県警の機動隊である。

 森は当初、「自分たちは東京から撮影に来た俳優で、この格好は役作りのため」と主張したが受け入れられなかった。

 永田はナイフを取り出して「お前ら近寄ると殺すぞ」と抵抗を見せるが、機動隊の威嚇射撃に驚き、腰を抜かして失禁。

 妙義湖近くで森と永田が逮捕される。

 この二人がなぜここまで残酷な殺害に手を染めたのかをはっきりと理由づけた人はいない。しかし、この二人のこれまでの行動を考えるとある程度推測立てられることがある。

 それは、臆病、である。

 臆病は理屈でどうこうなるものではない。持って生まれた性格であり、変えられるものではない。

 ただし、それを隠すことはできる。自分が臆病になるようなケースを未然に防ぐことである。

 当たり前の知性を持つ者は相手を攻撃に走らせるようなことなどしないことで臆病を隠すが、そうではない臆病者は力ずくで攻撃を防ごうとする。

 それは、命令を下せる立場になったときに現れる。命令を下せる相手に対して必要以上に攻撃的に接して相手を力でねじ伏せれば、こちらへの攻撃は避けられると本能で考え、やたら攻撃的になる。その攻撃の材料は何でも良い。

 森にしろ永田にしろ、幼い頃のことを知る者は「真面目で良い子」であったという。だが、真面目な良い子に限って信じられないような犯罪をしでかすもの。

 なぜなら、ここで言われるような真面目というのは、細かな規則を厳密に守る生真面目な性格ではなく、少しの規則違反をする度胸もない臆病さからくるものなのだから。

 その臆病を隠すに隠せなくなったとき、二人の臆病は本性を現した。

 森は大声を上げて泣きだし、永田は腰を抜かして失禁した。

 「たのむ、たのむから一つだけ教えてくれ。」

 腰を抜かした永田を起こした警官に、永田は尋ねた。

 「なんだ?」

 「東京は、東京はどうなっているか!」

 「はあ?」

 「革命はどうなっている!」

 「いったい何を言っているんだ?」

 その後、永田は今この瞬間、東京を中心に革命が起こっていると話した。

 そして、その革命勢力が日本を制圧したのち、ここで革命戦士として訓練を積んだ自分たち、特にリーダーである自分が、革命政権の指導者として迎え入れられると話した。

 「こいつは何を言っているんだ?」

 連合赤軍のリーダー逮捕はマスコミに楽観論を抱かせた。あとは手下だけなのだから、事件はすぐに解決するだろうという予測である。

 しかし、そうはならなかった。


 森と永田の逮捕のあと、アジトで切り裂かれた衣類が見つかった。

 衣類には大量の糞尿がこびりついていた。

 これを見た群馬県警の中山和夫警備二課長は、少なくとも一名の連合赤軍のメンバーが死んだことを察知した。

 死ぬときには肛門や尿道の締まりが無くなるため糞尿がこぼれ落ちる。

 それを避けるように遺体から着衣を剥ぎ取ると、あとには糞尿まみれの衣服が残る。

 連合赤軍の内部で死者が出て、その始末を彼らがしたために身に匂いがついた。

 それならば森や永田から漂う悪臭の説明がつく。

 このことを二人に追求するが、二人とも黙して語らずにいた。

 ただし、永田は弁護士に対しては口を開いており、

 「山で大変なことがあった」

 「これは絶対に秘密にしなければならない」

 「このことを森にも伝えておいて欲しい」

 と語った。

 一方、森は完全なる沈黙を守り通していた。

 この時点で残っているのは九名。逮捕者四名、脱走者四名、そして死者一二名を出した結果、人員は三分の一に減っていた。

 二人の逮捕は残った連合赤軍にも伝わった。連合赤軍は残る九名を、物資調達の四名とアジト設営の五名に分けて行動することとした。

 物資調達の四名は軽井沢駅方面へ、アジト設営の五名は別荘地方面へ向かった。


 2月19日、午前8時。植垣、青砥、寺林、伊藤の四人が軽井沢駅に到着。

 この時間ではまだ開いている店が少ない。しかし、店が開くまで時間を潰すのはリスクがある。そのために彼らが目をつけたのがキオスクであった。

 夏は避暑地として人だかりにあふれる軽井沢も、この季節のこの時間、しかも、見るからに異様な風体の者がいれば嫌でも目につく。その上、連合赤軍がこのあたりにいるらしいとのことで警戒網が張られている。その情報はキオスクの従業員にも伝わっていた。

 植垣があくまでも一人の客としてキオスクで買おうとしたとき、その汚物の匂いの混ざった体臭に不信感を抱いた店員が警官に通報。すでに軽井沢にも警戒態勢が取られていたこともあり、警官隊はすぐにやってきた。

 かれらはあくまでも一般客を装っていたが、一人の警官から

 「どこに行くのか?」

 と聞かれた際、

 「長野市の内幸町の友人宅に行くところだ。」

 と植垣が答えたことが命取りとなった。

 長野市に内幸町という地名はないのである。

 そのことを問いつめられた彼らは答えに窮しただけでなく、警官隊相手に暴れ回りだした。しかし、多勢に無勢な上、積んでいる訓練の度合いが違う。

 一人、また一人と逮捕され、改札を強行突破して停車していた長野行きの列車に飛び乗る者も出たが、最後の一人も車内で警官に拘束される。

 荷物が検査されると、手製の爆弾や猟銃の弾丸が見つかったため、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕となった。


 同日午後2時40分、長野県警の警官隊が軽井沢の別荘地に到着した。

 四名が駅で逮捕されたことから、残るメンバーはここにいる可能性が高いと踏んでのことである。

 警官隊は無人であるはずの別荘地を一つ一つ捜索した。その数、実に九三カ所。その一つである「レイクニュータウン」に来たときに残る連合赤軍を発見した。

 このときに残っていたのは、坂口、坂東、吉野、加藤兄弟の五人である。

 分散して捜査していたため、このときの長野県警は機動隊員一五人である。機動隊員が雨戸を開けるといきなり内部から発砲があった。この発砲で大野耕司巡査長が顔と左手に散弾を浴び、全治三週間の重傷を負った。

 中にいた五人は裏口から山中に逃げ込み、機動隊員らも後を追ったが、彼らは機動隊員に銃を乱射しながら逃走したため見失ってしまった。

 この時点でここにいる連合赤軍が何名であるのか警察側は把握できていなかった。

 実際、逃走したのは数人の者というだけであり、何名なのか、男女比はどうなのか、そうした情報は全くなかった。

 逮捕したメンバーはどんな取調にも応じなかった。唯一話した中村の情報では古くて役に立たなかった。


 逃走した五人はレイクニュータウンから五〇〇メートルほど離れた、河合楽器の保養施設「あさま山荘」に逃げ込み、保養所の管理人の妻である牟田泰子さんを人質にとった。管理人の牟田郁男さんはたまたま外出していたため無事だった。

 彼らが「あさま山荘」に逃げ込んだことは、レイクニュータウンから続く雪上の足跡を追っていくことですぐに判明した。

 彼らも自分たちを警官が追ってきていることはわかっていた。そのため、彼らは早々に銃口を室外に向け、先陣を切って「あさま山荘」にやってきた永瀬洋一巡査に散弾を浴びせた。永瀬巡査は全治一週間のケガを腰に負った。

 この時点で警察が掴んだのは、坂口弘、吉野雅邦の二人を含む最低五人が「あさま山荘」に立て籠もっているという情報のみである。

 その他の連合赤軍のメンバーについてはその可能性があるというだけで、合計何名なのか、誰がいるのか判明していなかった。

 警官隊はただちに「あさま山荘」を包囲。次いで拡声器による説得が行なわれたが、中からは何の反応もなくただ銃声が聞こえるのみだった。

 あさま山荘の標高は1169メートル。しかも季節は真冬。夜には零下15度にまで冷え込む気候であり、警察側は連合赤軍との戦いであると同時に寒さとの戦いであった。

 当初は地元の食堂に食事を依頼していたが、現場に届けるまでに食料が凍り付く有様であり、その後は現場で調理をするまでになった。なお、このとき、お湯を入れるだけで食べられる日清食品のカップヌードルが重宝されることとなる。

 長野県警は数名の連合赤軍数名に対し、632人を動員した。

 これには時の警察庁長官、後藤田正晴の意向が働いていた。

 まず、人質は必ず救出すること。また、人質の身代わりはどのような事情であっても認めず、連合赤軍からそれを要求してきたとしてもそれに応じないこと。彼らの行動からして、人質の身代わりとなった場合の命の保証ができないことが理由であった。

 さらに、犯人は生かして逮捕すること。これは、ここで犯人が死ぬようなことになると警察の圧力に立ち向かった英雄として彼等の間で崇拝されてしまう可能性があるからであった。

 マスコミには全面協力すること。彼等の身に危険が及ぶようなときには何があろうと守ること。よく報道に命をかけるというジャーナリストがいるが、それは許してはならなかった。

 強硬派として知られる後藤田であったが、このときは何よりもまず人命を守ることを最優先させたのである。その人命を守る意識は人質だけではなく、犯人にも適用された。

 これは極めて厳しい要求であり、現場にかかる負担も多大なものがあった。

 もっとも、後藤田が安全な場所で悠然としていたわけではない。後藤田は関係各所に足を運び事件解決に向けての予算確保にも動いていた。その額、一億円。国立大学の学費が一年間で一万二千円という時代である。後藤田はそうして確保した予算で警察官の防寒用具一式を揃え、現地に届けさせた。

 2月20日、「あさま山荘」三階のバルコニーに畳が並べられ、バリケードが築かれた。

 人質の夫である「あさま山荘」の管理人牟田郁男さんが拡声器で呼びかけるが、中からは何の反応も返ってこない。

 夜、照明のために警察は警視庁所有の投光車を運び込んだ。投光車は「あさま山荘」を夜の間も照らすこととなった

 連合赤軍のメンバーはブラインドを閉めきることで抵抗したが、三階からは明かりが漏れていた。


 2月21日、坂口と吉野の母親がヘリコプターで現地に到着。マイクで説得を試みるが「あさま山荘」内からの反応はなし。

 ただし、この日、人質となっていた牟田泰子さんのロープが外され、二四時間監視つきの状態ではあるがある程度の自由が与えられている。

 連合赤軍のメンバーは、自分たちの本名がわからないように、「あさま山荘」内部では常に偽名を使っていた。

 その偽名は以下の通りである。

 坂口弘=アサマ

 坂東国男=タテヤマ

 吉野雅邦=フジサン

 加藤倫教=アカギ

 加藤元久=キリシマ

 全員山の名前であるが、それには特に意味がない。

 これ以外にもメンバーがいると思わせるように他の山をでっち上げて架空の者を呼びかけるなどしたが、ここにいる連合赤軍は五人だけだということは、牟田泰子さんには比較的早い段階で察知できていた。

 ただし、「あさま山荘」の外では、籠もっている連合赤軍が何人なのかわからないままであった。

 この時点では人数を掛けている警察のほうが不利にあった。

 連日の張り込みで疲労が広まりだしてきていたことが理由である。

 しかし、警察の対応は素早かった。心理学者を現場に派遣し警察官達のカウンセリングに当たらせ、その結果、

 ・充分な休息を与えるために警察官の張り込みは交代制とすること。

 ・情報不足から心的疲労が起こることも多い。そのときに知りうる情報は全員に伝えること。

 ・逆に言えば、犯人の情報収集を遮断させ、休息を与えないようにすれば追い詰められるのは犯人のほうになる。

 との決定が成された。

 現場の警官には交代で休息が与えられ、マスコミからの全報道だけでなく、マスコミに発表していない情報でも警察官に渡すのに適切であると判断された情報が渡された。

 逆に、あさま山荘は電気が遮断され、二四時間明かりが照らされ、壁の外からテープに録音された騒音が鳴らされることとなった。

 2月22日、再度坂口と吉野の母親の説得が行われる。

 このときの説得の言葉は残っている。

 まずは吉野の母。

 「マー(雅邦)ちゃん、もし中にいたら聞いてちょうだい。私たちはね、警察に呼ばれて来たのじゃないのよ。警察のためではないの。誤解しないで。親として見ておれないのよ。私は親だからどうしても生きてもらいたいの。今のままじゃあなたたちが浮かばれないと思うの。あなたたちにもプライドはあると思うのよ。格好悪いかもしれないけど、できにくいと思うけど、頼むから出てきて欲しいのよ、マーちゃん。私はあなたたちの一途な気持ちが誤解されるのが悔しいのよ。このままじゃ凶悪犯人と同じじゃないの。世の中や社会を思って、自分を犠牲にして一生懸命やってきたのじゃないの。世の中を良くするためにやってきたのじゃないですか。このままでは、あなたたちが浮かばれない気がするの。せめて最後は凶悪犯と違うところを見せて欲しいの。このままじゃ誤解されっぱなしよ。母親は子どもが生きてさえいればどこにいてもいいの。でもね、私はあきらめたわ。どうか最後は立派に死んでちょうだい。雅邦、私がこんなところで大きな声を出すのがあなたのプライドを傷つけるかもしれない。かんべんしてちょうだい。でも、もう気が狂いそうなの。」

 次いで、坂口の母。

 「申し上げます。これ以上無理をなさらないで。みんな心配しています。命を大切にしてください。いさぎよく武器を捨てて奥さんを返してください。代わりが欲しければ私が行きます。まわりはみんな囲まれているのよ。親はただ子供の命さえ助かればいいんですから。」

 中からの回答はなく、しばらくの沈黙の後、二発の威嚇射撃が外へ向かって放たれた。

 現在でもそうであるが、こういう犯罪を起こしている人間を支援するのがいる。

 まず、正午過ぎの12時7分、報道を知って駆けつけてきた新潟市のスナック経営者・田中保彦氏が、人質身代わりと人質への果物差し入れを志願して「あさま山荘」に近づいた。

 「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。あなた方の気持ちはわかります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場にいました。私も警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たのです。」

 田中氏は彼らにそう語った。


 しかし、接触は失敗に終わり、機動隊の元に戻ろうとした。

 そのタイミングで「あさま山荘」から田中氏の後頭部への射撃が行われた。

 田中氏が本当に左翼であったかどうかはわからないが、医者でもなく、留置場にもいなかったこと、そして強度の薬物中毒者であったことが判明している。

 仲間殺しが判明していないこの時点では、連合赤軍に味方する日本人もいたのは事実であり、連合赤軍は自分たちの味方をしようとした数少ない人の一人を撃ったことになる。

 田中氏は結局、このときの狙撃が元で八日後に亡くなっている。

 さらに、浅田光輝(立教大教授)、丸山照雄(住職)、水戸巌(原子力研究所助教授)、木村荘(弁護士)の四人が警察に申し入れをしてきた。彼らは「救援連絡センター・モッブル社」を名乗り、連合赤軍支援を表明したのである。

 彼らは周囲にビラを配った。そこには「連合赤軍銃撃戦断固支持」の文言と警察批判、連合赤軍賛美がちりばめられていた。

 警察は彼らが危険を冒さない限りは放っておいた。ただし、危険が及ぶようなことがあると保護にあたった。それを彼らは警察の不当な弾圧とした。それでいて、連合赤軍の銃口が彼らにも向けられ、銃弾が浴びせられるようになると、それを警察の怠慢と批判した。

 こうした支援者の態度に一般の日本国民は冷淡であった。


 全く以て奇妙な籠城劇である。

 犯人側から何一つ要求が出てこない。しかし、人質をとって立て籠もっている以上、何かはしたいのだろうということはわかる。問題は、彼らが人質をとって何をしたいのかが全くわからないということである。要求を聞こうと接触を試みると発砲してくるのみで、これではコミュニケーションが全くとれない。

 これまでのどの犯罪とも違う今回の事件に、警察側は試行錯誤を繰り返すものの何もかもが手探りで、スムーズな事件解決とは行かなかった。

 しかし、これは人質をとっての籠城という事件と考えるからおかしくなったのである。連合赤軍にとってのこれは、人質をとっての籠城ではなく戦争なのである。その敵は日本という国であり、政府を倒して自分たちが権力を握ることが目的なのである。

 たかが数人で何ができるのかと考えるのが普通だが、そのたかが数人は本気だった。彼らの目に映る警察とは、自分たちと対等に向かい合う存在ではなく、自分たちの権力奪取の邪魔をする群れに過ぎなかった。だから、まともに相手をするつもりなど無かったのである。

 警察は連合赤軍を犯罪者として扱う。

 連合赤軍は自分たちを国家権力として認識している。

 この相互無理解が事件を長期化させた原因の一端でもある。

 現場には野次馬が増え違法駐車だけで三〇〇〇台を数えるようになった。

 群馬県や長野県のデパートでは天体望遠鏡が売れ出し、そのレンズは天体ではなくあさま山荘に向けられた。

 野次馬目当ての屋台が建ち並ぶようになり、現場にはちょっとした経済効果をもたらすこととなった。


 2月23日、午後2時半。長野県警警備車が前進。偵察班は三方から進み、包囲網を狭めた。

 警備車は玄関先へ近づいて説得を試みたが反応はなかった。

 さらに警察は包囲を強め、ライフル銃部隊を配置した他、四台の大型警備車、二台の高圧放水車が配備された。

 この日、板東が中にいることが確認された。


 2月24日、早朝、牟田郁男さんの呼びかけが行われるが反応無し。

 午前9時、板東の母が滋賀から到着した。

 「国ちゃん、母ちゃん心配してやってきたで。」

 「みんな、みんな、いい子ばかりや。人を痛めたら自分も痛めつけられんならん。」

 「あんたらはええ子ばっかりや。立派なところもあるし、けっして悪いことばかりしていたのではありません。みんなよくわかってるんやから。みんないい人ばかりです。悪くなったのも傍(ハタ)が悪かったんです。政治が好きなら世間を騒がせるようなことはやめて、政治家になればいいんや。あんた達が考えていたように、世の中も変わってきています。中国とアメリカのニクソンさんが握手してたんやから、あんたらの主張するようになった。あんたたちの役目は終わったんやから、早く家に帰ろう。あんたたちを温かく迎えるように警察の方々と約束できています。お母ちゃんと一緒に自動車で家に帰りましょう。ネコ、イヌ、タヌキ、クマのように、よく耐えて苦労したね。その勇気があれば世の中を渡っていける。鉄砲を撃つのは野蛮です。警察の人も、撃つのは野蛮な人です。両方が怒って喧嘩したら、喧嘩両成敗や。両方ともアホやなあと思います。アホなこと言うとると思ったら、見下してちょうだい。泣いたり、笑ったり、おかしいわ。」

 この板東の母の説得にも返答はなかった。


 午後4時25分、警察が行動を開始した。

 まずは高圧放水を開始。さらに、騒音テープを始終鳴らす「音攻め」を開始。

 「あさま山荘」の内部にはかなりの水が入ったと見られ、これに対する反撃が10発以上行われた。

 また、さらに屋根への投石が行われ、空いた穴から発煙筒が投げ込まれた。


 2月25日、連合赤軍の行動次第で、27日以降の突入をする方針を決定。

 そのための準備として、土嚢積みが始まる。

 「あさま山荘」内部では、この日を最後に食料がなくなった。


 2月26日、目立った動きはなし。

 食料のなくなった「あさま山荘」内では、コーラだけが配給されていた。それは人質も連合赤軍も同じであった。


 2月27日、存在は不明であったが、中にいる可能性があると、寺岡の父親が現場を訪れる。

 寺岡の父による説得と、吉野の母による説得が行われる。

 同時に、「あさま山荘」を取り囲む土嚢が三重の防波堤となった。

 「あさま山荘」の南側には三台の警備車が横付けされた。

 近隣の病院には輸血用の血液も運び込まれ、突入の準備が整った。

 突入は翌日と決定した。


 そして運命の2月28日を迎える。


 午前5時ちょうど、騒音テープと屋根への投石による攻撃が始まった。

 午前5時50分、牟田郁男さんと警察隊による最後の呼びかけが行われる。「あさま山荘」からの反応はなし。

 午前6時40分、「あさま山荘」周辺に融氷剤が撒かれ、機動隊が動きやすいように整備される。

 午前8時頃、突入準備が整う。

 午前10時00分、警視庁第二機動隊、同第九機動隊、同特科車両隊、同第七機動隊レンジャー部隊を中心とした部隊が制圧作戦を開始。

 午前10時7分、「あさま山荘」からこの日一度目の発砲。

 午前10時15分、再び「あさま山荘」内から発砲。

 午前10時35分、放水開始。

 午前10時53分、クレーン車から吊るしたビル解体用の巨大鉄球が「あさま山荘」の三階を直撃。直径五〇センチほどの穴ができ、その穴に向けて、放水が続く。

 午前11時15分、「あさま山荘」一階階下に機動隊一二人が潜入成功。

 午前11時29分、機動隊の「決死隊」が突入。

 あさま山荘の二階までが警察の手に落ちた。しかし、連合赤軍は誰一人見つからず、また、人質も見つからなかった。

 全員三階にいることが判明した。

 警察は三階まで進もうとするが、連合赤軍は三階と屋根裏から応戦。銃撃のほか手榴弾も投下。

 これにより、警視庁特科車両隊の高見繁光警視と、警視庁第二機動隊隊長の内田尚孝警視の二人が死亡。

 さらに放水用の水が枯渇し、それまで続けていた警察側の攻撃が遮断される。

 警察側の攻略は三階を残したまま一時中断した。

 警官二名が死亡したというラジオニュースは「あさま山荘」内にも届いており、これを聞いた坂口は喜びを爆発させた。

 そして、攻略が一時中断したのを見て、

 「やった! 警官を殲滅したぞ!」

 と叫んだ。

 しかし、それは殲滅などではなかった。むしろ、最後の抵抗でしかなかった。

 午後12時47分、「あさま山荘」の様子を中継していた信越放送(SBC)のカメラマンが右足を撃たれる。

 この様子は日本中で中継されていた。NHKだけでなく民放も特別番組として事件の様子を中継。民放でありながらCMをカットして放送する局も出るなど、日本中の視線が「あさま山荘」に集中した。

 各局の視聴率の合計は九八・二%に達した。

 さらに、現場には一二〇〇人近い報道陣が詰め掛けていた。

 職場や学校を休む者が続出。また、会社や学校ではこの様子をテレビやラジオで流し続けるところも出た。

 水は麓の池まで行かないとない。

 この苦境に対し、地元の消防隊が応援を買って出た。避暑地として脚光を浴びて来だしたこともあり、この当時の軽井沢は各種インフラが整備されている途中であった。その中には消防設備の拡充も含まれており、当時としては最新鋭の消防車が配備されていた。

 この消防車を全て動員し、池からあさま山荘まで水をくみ上げることとしたのである。

 昼間にもかかわらず気温はマイナス5度、しかもあさま山荘から池までは切り立った断崖絶壁である。ホースをつなぐだけでもかなり危険な作業であったが、この危険な作業は19歳の若き消防士の手によって成し遂げられた。同じ若者でも連合赤軍の者と大違いであると、世間はこの消防士に絶賛の声を浴びせた。

 水が復活したことで警察は再突入を決断した。

 志願者を募って突入を図る。この応募に四人が応じた。全員が連合赤軍と同世代の若者である。


 午後4時46分、四人の警官が突入。

 犯人側の銃撃が続くが、復活した放水が警察を援助し、突入を継続させる。

 突入した警官達は布団に隠れていた人を見つけ、一気に飛び込んだ。

 犯人と思われたその人影は手が細く、その力は弱々しかった。

 その人は人質となっていた牟田泰子さんであった。想像されていたより健康であった。

 午後5時30分、警察が攻撃を再開した。

 放水だけでなく発煙筒の投げ込みによって、メンバーは「あさま山荘」内の一室、「いちょうの間」に追い詰められた。

 メンバーは布団の中から発砲して抵抗するが、一人また一人と逮捕され、抵抗は終わりを迎えた。

 午後6時15分、全員逮捕。犯人側はまだ200発以上の銃弾を残していた。

 連合赤軍の五人は一人ずつ連行された。

 「この野郎、部長を返せ!」

 「人殺し! お前らが死ねば良かったんだ!」

 「今ここで腹切って死ね!」

 彼らに対しては周囲から容赦ない怒号や罵声が繰り返され、殴りかかる者も出てきた。

 このときはじめて、彼らは世間が自分たちをどう見ているのかを知った。

 連合赤軍の中からは声を上げて泣き出す者も出た。


 これとほぼ同時刻、滋賀県大津市にある板東の実家では、板東の父が息子の不始末に対する責任をとると、裏庭の物置に出向き、首を吊って亡くなった。


 この事件を近いうちに起こるであろう革命の序曲と見る者がいた。

 そこまで考えなくても、怒れる若者の正義感にあふれる行動と見る者もいた。

 彼らの山での暮らしを特集する記事にも好意的なものがあり、「山の自然に囲まれた別荘風の暮らし」とまで書かれた。

 しかし、それは一週間しか持たなかった。


 3月7日、その他の連合赤軍はどこにいるのかと問いつめられた奥沢修一は、身体を震わせながら自供した。

 「これは大久保清事件より恐ろしいことです。」

 奥沢の供述にはあやふやな部分があり、また、落ち着きも失っていた。しかし、少なくとも誰かが死んだことは突き止めていた警察はその供述に基づいて群馬県下仁田の山中で捜索にあたった。

 奥沢の供述に基づいて掘り返すと、山田孝の遺体が発見された。

 死因は凍死。

 遺体は手足が縛られており、衣服はナイフで切り刻まれ、胃の中は空っぽで何も入っていなかった。

 これはただ事ではないと察知した警察は、他の逮捕者の追求を始める。

 このことを先に逮捕されていた森と永田に話すと、二人とも半狂乱になって暴れ出した。

 彼らに代わり、山での出来事を語り出したのは加藤三兄弟の末弟、加藤元久である。

 このとき、世間は連合赤軍が行った仲間殺しをはじめて知った。

 供述は正しかった。

 一人、また一人と遺体が発見された。

 榛名山に集結していたメンバーのうち一二人が死亡、それも全員が仲間から殺されたという事態に、ときの警察庁長官後藤田正晴は言葉を失った。

 現場に向かった金子みちよの母は、髪を切り落とされ、顔が赤黒く晴れ上がり、殴られたあげくに歯が欠け、肋骨が折れ、内臓が破裂し、もはや男女の区別さえつかなくなっていた娘の変わり果てた姿に、

 「恐ろしい! ああ! どうしてこんなことになっちゃたの! 恐ろしーいっ!」

 と慟哭し泣き崩れた。


 世間からは「正義感あふれる怒れる若者」という見方が消滅し、褒め称えていた者は手のひらを返し、「極悪非道の犯罪者集団」として糾弾するようになった。それまで関係を否定も肯定もしていなかった日本共産党は、この時になってはじめて、連合赤軍と日本共産党は自分たちと無関係であると声明を出す。無論、自分たちの発言などなかったこととなった。

 「別荘風の暮らし」などはもはや消え失せ、「血の粛清が繰り返された生き地獄」が彼らの山での暮らしとなった。

 そして、逃亡中の連合赤軍の面々の顔と名前が公開され、指名手配された。

 3月10日から14日にかけて、逃亡していた連合赤軍のメンバーが相次いで自首した。

 このとき、山本保子ははじめて自分の子の無事を確認した。

 それを知って、大声で泣き出した。


 彼らの行動に別の角度からアプローチをかけた学者がいる。

 栄養学者の故川島四郎桜美林大学教授である。

 川島教授はメンバーの食糧事情に注目した。

 その結果判明したのは、カルシウム量の異様に少ない食事内容であった。通常は麦の雑炊、それもつくり方がうまくいかないと見えてボソボソとして食べるのに苦労する雑炊。あとはブタの脂身にインスタントラーメン。野菜はなく、数日に一度、山菜があるかどうか。ごくまれにインスタントコーヒーやパンが口にできるが、いずれにせよ、充分な食糧事情とは言えない。特に、カルシウム分の少なさは絶望的だった。

 拘留中は栄養素の過不足のない食事を与えられているが、それだけではだめで、山にいた期間不足していたカルシウムを補えるよう、カルシウム分を増やした食事を与えてやって欲しいと要請した。

 日本の栄養学の権威の言葉ということもあり、警察側もそれを受け入れた。

 カルシウム不足は精神を不安にさせ、些細なことでも怒りやすくなるというのは実験によって明らかになっている。逆に、カルシウム量を増やせば精神安定に役だつ。

 そうすれば、供述も得やすくなるのではないかとも思いもあった。

 ところがこれが逆効果になった。

 精神は確かに安定した。

 しかし、それは不安定だった頃の自分の行動を振り返ることにもなったのである。

 昭和48年1月1日、森が東京拘置所内で自殺した。

 「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない。」

 この言葉を残し、森は首を吊った。

 森の死を知った永田は、

 「森さんは卑怯だ。自分だけ死んで!」

 と叫んだ。

 連合赤軍の規則ではなく、日本の法律に従っての裁判が始まった。

 昭和47年10月13日、中村愛子、懲役7年。

 昭和47年10月31日、奥沢修一、懲役6年。

 昭和47年12月6日、前沢虎義、懲役17年。

 昭和48年1月1日、森恒夫、自殺。

 昭和49年4月3日、寺林真喜江、懲役9年。

 誰もがこの裁判を当然のこととして受け止めて見ていたわけではない。常識ある日本人にとっては犯罪者集団でも、テロリストにとっては仲間である。

 昭和50年8月4日、日本赤軍が連合赤軍の奪還を目指し、マレーシアのクアラルンプールにあるアメリカ大使館を占拠。54人の人質をとり、連合赤軍のメンバーの釈放を要求。日本政府は超法規的処置として釈放を決め、板東国男が中東に逃亡する。

 一方、坂口弘はそれを拒否。あくまでも自分の起こしたことへの責任をとるとした。

 表向きの理由は、それに頼らず合法的に外に出ることである。無罪は難しいにしても懲役刑を終えれば堂々と外に出られるが、海外への逃亡となるといつまでも逮捕状が出ている身となってしまう。

 しかし、それは本音ではない。

 では、その本音とは?

 仮に外に出ても、坂口には今以上の暮らしなどあり得なかった。

 自分の顔も名前も知れ渡っている以上まともな仕事にありつけるわけがない。雇ってくれるところもないし、自分一人で生きているだけの能力など皆無。この状態で塀の外に出ても、結局は公園に新聞紙を敷いてのその日暮らししか残されていない。板東と一緒にテロリストに戻るとの考えも浮かんだがそれとて大差はない。泥水をすすり、草を噛み、仲間が一人一人と死んでいき、生き残った者は仲間によるリンチで死んでいく、そんな日々。

 それに引き替え、塀の中は満ち足りている暮らし。残業すらない、サラリーマンには夢のような見かけばかりの労働でもしていればいい。三食保証されているし、風呂もあるし、布団にくるまって眠れる。そして何より、仲間を殺すことも仲間に殺されることも気にしないでいい。今までに比べれば天国のような暮らしである。

 さて、この坂口弘である。森と永田という二人が君臨している連合赤軍にあってはナンバー3にあたるが、妻である永田に一度逆らったことがあるだけで、あとは二人の忠実な部下を貫いていた。実際、坂口か何かをして連合赤軍の行動が定まったというようなことはない。

 それでいて、連合赤軍の逮捕状第一弾は森と永田とこの坂口である。共産党時代からありとあらゆる事件に顔を出していながら、幹部逮捕の時には逃れている。そして、最後の最後まで「あさま山荘」にこもって抵抗し続けている。つまり、警察側からは厄介な相手と見られていた人間でだけでなく、実際に最後まで警察が最も手を焼いた人間である。

 森と永田の二人が逮捕されてからはリーダーとして連合赤軍をまとめており、ひょっとしたらリーダーシップを持っていたのかも知れないと考える者もいるが、連合赤軍における坂口の価値は、優秀な一兵士であり、優秀な手足であって、頭脳ではない。

 連合赤軍の山での様子が伝わっているのは、この坂口が記録を残したからである。拘置所や刑務所の中で山の様子を綴り、本にして世に送り出している。

 この本を読んで感じるのは、坂口という人間の弱さである。

 先に私は森や永田の性格を臆病と評したが、これは坂口にも当てはまる。ただし、知的レベルは森や永田よりはマシだったと見え、仲間に対する攻撃性はさほど見られない。それどころか、最後の犠牲者となった山田の死には涙さえ見せ、死の直後には縄をほどいている。もっともこの報告を受けた森は「次の総括は坂口だ」との連絡を送っており、森と永田の逮捕がなければ坂口の総括が行われるところであった。

 しかし、だからといって罪が軽くなるわけではない。


 昭和54年3月29日、吉野雅邦、無期懲役。判決を不服とし上告。

 昭和54年3月29日、加藤倫教、懲役13年。

 昭和57年6月18日、永田洋子、死刑。判決を不服とし上告。

 昭和57年6月18日、坂口弘、死刑。判決を不服とし上告。

 昭和57年6月18日、植垣康博、懲役20年。判決を不服とし上告。

 昭和58年2月2日、吉野雅邦、二審でも無期判決。

 昭和61年9月26日、植垣康博、一審と同じく懲役20年。

 昭和61年9月26日、永田洋子の控訴を棄却。

 昭和61年9月26日、坂口弘の控訴を棄却。

 昭和62年1月、加藤倫教、仮釈放。

 平成5年2月19日、永田洋子、死刑確定。

 平成5年2月19日、坂口弘、死刑確定。

 平成5年2月19日、植垣康博、懲役20年確定。ただし、すでに獄中で15年を過ごしていたため、実際の刑期は5年となる。

 平成10年10月、植垣康博、出所。現在は静岡市安東でスナックを経営している。

 平成12年6月、坂口弘、再審請求。

 平成13年6月、永田洋子、再審請求。

 平成18年11月28日、永田洋子、再審請求棄却。

 平成18年11月28日、坂口弘、再審請求棄却。

 刑を終えて外に出た者、中東に逃亡した者、死刑執行を待つ身の者といるが、連合赤軍でただ一人、今もなお全ての時が止まっている者がいる。

 永田洋子。

 当初は小さな頭痛であったがそれは日に日に激しくなり、その痛さで夜中に飛び起きては獣のようなうめき声をあげるようになった。

 当初は痛くなったりならなかったりとした周期があったが、その周期はなくなり、痛みだけ続くようになった。

 取り調べもまともにできず、歩くことも、座っていることもできず、声を挙げてのたうち回る日々。

 さらに頭痛だけでなく吐き気も襲うようになる。それは、日に洗面器二杯も吐くほどに。

 診察結果は脳腫瘍。それも、当時の技術では早期発見が困難で、見つかったときにはもう手術をしてもどうにもならないもの。

 病状は悪化の一途をたどり、現在は公判停止となって、八王子医療刑務所に収容されている。

*   *   *

 「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、共産主義という妖怪が。」

 マルクスとエンゲルスが共著「共産党宣言」に記したその妖怪は日本にも現れた。

 人肉を主食として。

*   *   *

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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