平家物語の時代 7.平清盛死す

 年が明けた治承五(一一八一)年、鎌倉では平穏な日々として始まり、京都では不穏な情勢として始まった。

 源頼朝が新年を鶴岡八幡宮への参詣で迎えた頃、京都では前年の南都焼討の後始末に追われていた。と言っても被災者の救済でもなければ、焼け落ちた東大寺や興福寺の再建でもなかった。

 東大寺と興福寺の所有していた荘園を没収するとしたのである。平家に言わせれば反平家で起ち上がったこと、すなわち、国家反逆罪で起ち上がったことそのものが罪であり、荘園没収はその罪を償わせる結果であるとするのが公式見解である。

 さらに、平家方である武士でも源氏につながりがあるとなれば容赦なく処分の対象となった。前年に妻子を殺害されたばかりの武田有義が、父親が武田信義であるというただそれだけの理由で左兵衛尉を罷免されたのである。家族も失い、地位も失った武田有義は、それまで抱いていた平家への忠誠心も失い、失意のまま父の元へと向かうこととなる。

 もはや平家に新たに忠誠を誓う者などいない。

 しかし、権勢を握っているのは平家であり、平家に逆らうとどうなるかは、園城寺が、そして奈良が示している。その非道さゆえに平家は反発を招いているが、その非道さゆえに権勢を維持できている。一度は平家のもとから離れた近江国を平家が取り戻したことで、少なくとも北陸道と平安京とを結ぶルートは維持できた。非道さを首都への物資搬入路の確保に利用することは、いかに支持を減らしていたとは言え、執政者としての義務でもあるとも言えるのだ。

 ただし、ルートを取り戻すことができたのは北陸道だけであり、東山道も、東海道も、回復できずにいる。それどころか、東海道は海路も封じられてしまった。吾妻鏡には一月五日の京都で一つの噂が広まったことを記している。関東の武士団が京都まで太平洋沿岸を航行して攻め込んでくるという噂である。噂の根拠となったのは、この日、熊野の衆徒が志摩国の平家方の武士である伊豆江四郎(いずのえしろう)を襲撃し、伊豆江四郎(いずのえしろう)の二人の子が波多野忠綱と波多野義定に討ち取られるという事件が起こったとの知らせが届いたからだ。

 治承五(一一八一)年一月時点の東海道の各国について記すと、まず関東地方は源頼朝の手に落ち、駿河国と遠江国は甲斐源氏の勢力下になり、尾張国は隣国の美濃国とともに反平家で起ち上がって現在進行形で戦闘中である。残るは三河国であるが、確定できる史料は無いものの、このあとで起こったことを考えるとこの段階で既に源行家が、制圧とまでは言えないにせよ無視できぬ存在になっていた可能性が高い。つまり、陸路で源頼朝は美濃国まで移動できる環境が整っていたのである。

 しかし、近江国は平家が取り戻し、伊勢国は元から平家の制圧下にある国だ。源頼朝の立場で京都に攻め込むことを考えると、尾張国や美濃国までは行けてもそこから西へは進めなくなっているという情勢だ。

 ところが、志摩国が源氏のもとに陥落したとなると話は変わる。渥美半島から、あるいは知多半島から、伊勢湾を横断することで紀伊半島に上陸できるようになったということだ。源頼朝は石橋山の戦いで敗れた後、伊豆から安房へ全軍で航行をした。それと同じことを伊勢湾で行えば源頼朝の軍勢が志摩国から、伊勢国、伊賀国を経て五畿に突入できることとなる。

 実際にはそのような計画などなかったのだが、平家への支持が最低最悪にまで下がってきていることに加え、そして、日に日に平安京内で流通する食糧が減ってきているという実感から、平家打倒を明言して新たな権力を構築しつつある源頼朝への期待感が高まってきていたのである。京都の人たちの間に広まった関東の武士団が攻め込んでくるという噂は、関東の武士団に対する恐怖と同時に、平家を討伐してくれる解放者としてやってきてくれるのではないかという期待感も伴った噂であったのだ。

 この時点での京都における源頼朝は、公的には反乱者であり討伐対象である。しかし、平家に苦しめられている人にとっては自分たちを解放してくれる可能性の最も高い人という認識である。源頼朝という個人のことが詳しく知られているわけではなく、また、鎌倉の武士たちのことが詳しく知られているわけでもない。何となれば、源頼朝である必要は無く、平家を討伐してくれれば誰でもいいという認識である。源氏が良いのではない。平家が嫌なのだ。

 治承五(一一八一)年一月五日には源氏が太平洋を航海して攻め込んで来るという噂であったのが、一月八日になると噂はさらに拡大して、五畿、東海道、西海道、北陸道と広範囲に亘って謀反が起こるという噂へと発展した。噂の拡大の要因にはその日に平清盛の出した指令も加わっている。この日、畿内総管職の復活を指令し、平宗盛をその職に充てるように命じたのである。畿内総管職そのものは平清盛の独創ではなく奈良時代に実際に存在していた職務であり、五畿、すなわち、大和国、摂津国、和泉国、河内国、そして当時の記し方だと山背国、桓武天皇の遷都後の記し方だと山城国の計五つの国の国司と郡司の業務実績を監査すると同時に、五畿内の犯罪者を逮捕する権利が与えられている職務である。平清盛がこの職務の復活を指令したのは、逮捕のために五畿の国司および郡司に対して犯罪者の逮捕についての強力を命じる権限があったからだ。平清盛はこの職務の拡大解釈をし、畿内五ヶ国に対して兵糧と兵力の供出を命じたのである。給料を払うとか、正当な金銭を払って食糧を買うとかではなく、タダで差し出せと命じるのである。このような指令を耳にして感じるのは、いよいよもって平家が苦境に陥っているというものである。平家の苦境は構わないが、その苦境に巻き込まれるのは真っ平御免というのが当時の京都の庶民感情であり、それが噂を増幅させたのである。

 噂を鎮静化しようと、この時点での平家が唯一手に入った源氏方討伐の証跡である石川義基こと源義基の首が平清盛の元に届けられ、源義基の弟たちの身柄も拘束されたことが発表となった。ただ、源義基を知る人は少なかった。源義基のことを知っている人は、源義基個人を知っているのではなく、源義家の孫である人物がまだ生きているということに驚くという意味で知っていたのだ。何しろ源義朝は源義家の曾孫、源頼朝に至っては源義家の玄孫だ。玄孫が活躍するようになった時代に伝説の源義家の孫が生きていて、さらに弟まで健在だというのは驚きの目で見られた。知らない人にとっては無名の源氏であり、知っている人にとってはかなりの年齢である高齢者が殺害されたという感覚だ。源氏の討伐を成功したと誇るには無理があるとしか言いようがない。

 個々に反平家で起ち上がる勢力が存在し、近江国のように実際に討伐された例もあれば、源義基のように殺害された例もある。だが、民衆の感情としては、討伐されずに反乱が拡大し、京都にまで届いて京都から平家を追い出して欲しいという願望へと変化していった。平家を追い出してくれるなら源頼朝でなくてもいい。誰でもいいから京都に来てくれという思いに変化したのである。

 治承五(一一八一)年一月一一日に肥後国の菊池隆直の軍勢が数万人という巨大なものに膨れあがっているという知らせが届くと、ついこの間まで源頼朝に寄せられていた期待感は一気に九州へと方向転換した。福原遷都の失敗への憎しみから、瀬戸内海を航行して福原を破壊してから京都までたどり着いて平家を討伐するという話へと発展するに至ったのである。


 いかに源頼朝が情報収集に長けているとは言え、治承五(一一八一)年になった直後にはじまる京都でのこうした風聞を、鎌倉にいたままリアルタイムで手に入れることはできない。ただし、情報をリアルタイムで手に入れることはできなくとも、情報源の拡大は図っている。源頼朝のもとには連日のように、鎌倉の軍勢に加わろうとする者、源頼朝のもとへ投降する者、そして、拿捕されて連行されてくる者がやってきている。情報源としての重要性は、自ら加わろうとするよりも投降してきた者、投降してきた者よりも拿捕された者のほうが高い。敵である要素が高ければ高いほど、源氏の軍勢として貴重な情報源となる。

 それを源頼朝の御家人たちは毎日のように目にしている。

 御家人たちの視点で眺めると、前者はともかく後者については自分たちに弓矢を向けた者、それも比喩的な意味ではなく実際に戦場において弓矢を向けた者であり、源頼朝の軍勢の中には自分の家族を殺されたという者もいる。正直な感情を口にすることが許されるなら首を切り落としてやりたいという感情になるが、平家と違ってかつての敵であろうと受け入れるという姿勢を見せるのが源氏だと示している以上、正直な感想より建前を優先させるしかない。かといって、建前を優先させすぎると鬱屈した感情が爆発しかねない。大庭景親が打ち首となったのはそれが理由だ。

 たとえば一月六日に工藤景光より届いた報告がその例だ。相模国蓑毛付近で平井久重を捕らえたというのがその報告である。平井久重は石橋山の戦いで北条時政の嫡男である北条宗時を討ち取った武人であり、伊東祐親の郎従であったと推定されているが、本人は小平井の名主を自称し、平井久重と名乗っているのもその自称が由来である。なお、吾妻鏡では平井紀六久重と記しており、平井久重ではなく紀六久重と記している史料もある。平井久重は、拿捕されたときに北条宗時を討ち取ったのは自分であることも自供したことから身柄はいったん北条時政のもとに引き渡された後、侍所預かりの案件として和田義盛の預かるところとなった。

 もう一つの例が一月一一日の梶原景時だ。前年末にも一度源頼朝のもとに投降してきたが、この日、改めて源頼朝のもとに投降してきたのである。石橋山の戦いで平井久重とともに戦った、それも、一人の武人である平井久重と違い副官として石橋山の戦いで大庭景親の軍勢の中枢にいたのが梶原景時である。

 御家人として許せないという感情をぶつけるとすれば、平井久重よりも梶原景時のほうが強いであろう。源頼朝が大庭景親の軍勢の中に紛れ込ませた楔(くさび)であることを薄々感づいている人であっても、それは例外ではない。

 梶原景時は自分が御家人たちからどのような視線を向けられているのかを知っている。と同時に、平井久重が侍所預かりになったことも熟知している。梶原景時は二度目の投降で口にしたのは侍所の組織としての欠陥である。和田義盛への権力一極集中になっており、和田義盛個人に業務が集中しすぎているのだ。現時点ではまだ兆候が見られないものの、現状の鎌倉の侍所では和田義盛が侍所の権力を発揮して他の御家人に対して圧力を掛けることも理論上は可能になっており、治安維持という本来の意味での侍所の職務遂行に支障を与える事態にもなりかねない。

 梶原景時は訴えた。自分に侍所の組織体制の構築をさせて欲しいと。敵であった人人物が口にするにはさすがに厚かましい要求であるが、侍所の組織体制が脆弱であるのは認めなければならない話であった。また、このときの鎌倉には、武士は数多くいても政務に携わることのできる人員は少ない。梶原景時は武人としても計算できるだけでなく政務においても計算できる、鎌倉にとってのどから手が出るほど欲しい資質を持った人材だ。吾妻鏡はこのときに梶原景時を鎌倉の御家人に加えたとある。


 鎌倉に人が集まってきている頃、京都では一つの命が失われようとしていた。

 治承五(一一八一)年一月一二日、高倉上皇が危篤状態に陥ってしまったのである。既に前年七月には病状悪化が報告され、厳島御幸ができるまでに回復したものの、一〇月に入ると再び体調が悪化し、ついには太上天皇の返上を申し出るほどまでになっていた。高倉上皇の病状は年が変わっても好転するどころかむしろ悪化し、危篤へと至ってしまった。

 これで高倉上皇の病状回復を祈るならわかるが、京都では高倉上皇亡き後をめぐる策謀が繰り広げられていた。特に悪質だったのが、高倉上皇の中宮で、安徳天皇の生母でもある平徳子を後白河法皇の後宮に入れるよう申し出た者がいたことである。しかも、実父である平清盛も、母の二位尼平時子も、この申し入れを承諾したのだ。これにはさすがに平徳子も激怒し、髪を切って出家しようとする騒ぎになった。これから本格的に後白河法皇の院政が始まることを踏まえれば後白河法皇との連携を図る必要があり、そのためには平清盛の娘や孫娘の誰かを後白河法皇の後宮に入れるのが得策であり、中宮平徳子は後白河法皇の後宮に入れる最高の人材に見えたのであろうが、夫が亡くなるかもしれないというタイミングで夫の父の後宮に入れと命じるのであるから、人としての品格を問いたくなる話である。

 平清盛は結局、このとき一八歳である七女の御子姫君を後宮に入れることにした。なお、さすがに後白河法皇も平清盛の申し出には呆れたようで、このときは固辞している。後白河法皇にとっても息子が亡くなるかどうかの瀬戸際なのだ。

 亡くなるかどうかの瀬戸際は、治承五(一一八一)年一月一四日に最悪な形で終わりを迎えた。この日、高倉上皇が六波羅池殿で崩御したのである。二一歳の生涯の予期せぬ終わりであった。亡き高倉院の遺体はその日のうちに遺詔によって清閑寺法華堂に移され奉葬された。

 この高倉上皇の崩御を平清盛は利用した。高倉上皇崩御で京都市中が喪に服している最中の一月一六日に、亡き高倉上皇の遺言であるとして一つの指令を出したのである。一月八日に畿内総管職を復活させて平宗盛をその職務に充てるとしていたのを、畿内五ヶ国だけでなく、近江、伊賀、伊勢、丹波までその範囲を拡充させた上で兵士と兵糧を出すように命令したのである。もうこれ以上支持率など下がりようがないのだから好き勝手するということなのか、少なくとも後白河法皇の院政下における平家政権の軍事力強化の法的根拠は手に入ったこととなる。なお、この時点ではまだ平清盛の思いつきであり、正式な法的根拠とはなっていない。法的根拠となるのは一月一九日のこと。この日、宣旨が下ったのである。平清盛と同じく高倉上皇の遺言であるとして、平清盛と同じく畿内五ヶ国に加えて近江、伊賀、伊勢、丹波を加えた計九ヶ国を範囲とする軍事指揮権を平宗盛に与えるという畿内惣官の宣旨が下ったことで、平家の思いつきではなく朝廷の正式な政策として平家に軍事指揮権が与えられたのである。


 平家に対する軍勢指揮権の根拠は、畿内五ヶ国と、近江、伊賀、伊勢、丹波の計九ヶ国であり、その外への軍勢指揮となると何かしらの法的根拠が別途必要となる。もっとも、この時点では源頼朝と武田信義を討伐せよとの宣旨が出ているので、討伐に行く途中の抵抗に対処するという体裁をとれば軍勢を動かしても問題ない。

 既に近江国は平家の手によって取り戻されており、後白河法皇の宣旨が出る前日である治承五(一一八一)年一月一八日に、近江国を制圧した平通盛ら平氏軍が美濃国へ進出して、現地の反乱首謀者である土岐光長の拠点への攻撃を開始したことは違法ではない。

 平家の勢いはさらに増し、一月二〇日、平通盛が率いる平家軍が満倉城を落として美濃を制圧することに成功。尾張国の源氏の多くが戦死したほか、近江国から美濃国へと逃れていた源氏方の武士の多くもここで命を落とした。

 一方で、平家方の損害も大きく、美濃国全域の制圧と尾張国への侵攻を断念せざるをえなくなっていた。なお、土岐光長もこのとき戦死したとの知らせが平安京まで届いたが、土岐光長は敗走に成功しており、この後の消息が一事不明になるが後に所在が確認されることとなる。

 これが他の国での戦闘であればまだ全面制圧と隣国へのさらなる侵攻を断念するのも納得できたであろう。しかし、場所は美濃国、この時代でもっとも食糧生産が多く、また、人口においても日本有数の大国だ。その美濃国において、兵糧も兵も現地で手に入れることもできるにもかかわらず作戦遂行を断念するということは、他の国での戦闘となったらもっと厳しい状況になることを意味する。これでは平宗盛に畿内惣官の宣旨が下ったところで、そう簡単に従うなどできなくなる。宣旨に基づいて兵を出そうと努力したとしても、兵糧を出すよう命令をされたとしても、無いものは出せないし、あったとしてもとてもではないがタダでは出せない。貴重な働き手が戦死し、貴重な食糧を差し出したことが何の見返りもなくなるというのに、どうして命令に従うことができようか。

 この不満が真っ先に爆発したのは、平家のルーツとも言うべき伊勢国であった。治承五(一一八一)年一月二一日、熊野の衆徒がそれまでの志摩国だけでなく伊勢国の平家の武士とも交戦するようになったのだ。熊野ははっきりと自分たちは源氏方につくと明言し、平宗盛に出された畿内惣官の宣旨の内容を拒否すると宣言。この宣言に伊勢国の多くの人が乗り、兵の供出も食糧の供出も拒否するとしたのである。

 この宣言に平清盛は激怒し、より強い形での兵と兵糧の供出を命じる法を作成するよう命じるが、既に限界まで負担を求めさせている上に、戦地での略奪も横行する事態だ。これで妙案の思いつく人がいるならば見てみたい。


 治承五(一一八一)年一月二五日、高倉上皇が亡くなる前に平清盛が推し進めていた御子姫君の後白河法皇の後宮への入侍が執り行われた。平家物語によると、御子姫君の周囲を囲む女房が何れも身分の高い女性であり、さらにその周囲を数多くの公卿や殿上人が付き従うという、女御の入内であるかのような光景であったという。

 今をときめく平家の女性が院の後宮に入るというのだから、こうした光景はおかしなことではないであろう。しかし、高倉上皇が亡くなったのがいつなのかを考えると無神経にも程がある。

 それでも、この入侍が平清盛の命運を好転させるようになったならばまだ救いはあったろうが、肝心の後白河法皇が御子姫君ではなく御子姫君の側に仕える女房の一人に手を出したのであるから、御子姫君も、平清盛も、プライドをズタズタにされる思いであったろう。このあと御子姫君の記録は無くなる。『源平盛衰記」によれば、御子姫君は入侍からさほどの間を置かずに没したという。

 御子姫君の入侍によって好転するかのように見えた後白河法皇と平清盛との関係もこれで完全に壊れた。

 治承五(一一八一)年二月四日、二条天皇の中宮で鳥羽天皇の皇女であった高松院姝子内親王の所有していた荘園を、高倉上皇の遺言として中宮平徳子に伝領することが決まった。高倉上皇が亡くなってもまだ組織としての高倉院は存続しており、検非違使別当にして中宮大夫でもある平時忠は高倉院庁別当でもある。高倉上皇の遺言を実施すること自体は平宗盛に出された畿内惣官の宣旨に比べれば不可解な内容ではない。しかし、後白河法皇は平時忠が強引に伝領することを喜ばずにいた。

 平安時代末期から室町時代に掛けての時代を研究している佐伯智広氏は、このときの伝領が荘園だけでなく、里内裏として頻繁に利用される閑院や、法住寺の一画にある最勝光院についても対象であったとしている。後白河法皇と中宮平徳子との間で安徳天皇の次の皇位継承者を争うこととなった場合、後白河法皇と比べて中宮平徳子は、いかに現天皇の実母であろうと財政面で弱い。しかも安徳天皇はまだ数えで四歳、満年齢では三歳にもなっていない幼児だ。ただでさえ反平家の軍勢が暴れ回っていて政情不安な社会であり、安徳天皇に代わってある程度の年齢の人物を皇位に就けるという名目で次の帝位に後白河法皇の関係者、特に後白河法皇の息子を推す可能性が充分に考えられた。後白河法皇の息子は二条天皇、高倉天皇、以仁王のほかに最低でも八名おり、その八名ともが僧籍にあるが、還俗させれば皇位継承も可能だ。その八名のうちの誰かを安徳天皇の代わりに帝位に就けるよう後白河法皇が動き出そうものなら、安徳天皇も、中宮平徳子も、非常に立場の弱いものとさせられる。今は平家の後ろ盾があるからまだいいが、多くの人が願うような反平家運動が結実してしまったらどうなるか。中宮平徳子にとって頼りになるのは自身の資産だけなのだ。


 治承五(一一八一)年二月七日、京都の人口調査が行われたとある。現在の国勢調査のようなものと言えばその通りなのだが、五年の一度の正確な現状の把握を目的としている国勢調査と異なり、ただでさえ兵と兵糧を集めるのに苦心している状況下での人口調査は、京都で用意できる人員と兵糧の把握に他ならない。

 コンピュータを使える現在の国勢調査でもそうだが、人口調査というものは一日でどうこうなるものではない。しかし、兵と兵糧の確保は緊急の問題である。また、現在でも事前サンプリングとして、最終的には大々的に展開しようとしていることを一部地域で試験的に先行して実施することもある。平清盛は事前サンプリングをした。京都で人口調査を始めた翌日の二月八日に、京都の北の丹波国に諸荘園総下司職を設置してその職務に平盛俊を就けたのである。丹波国内の全ての荘園に対する徴税権と徴兵権をも持つ強大な職務だ。平盛俊は平清盛の側近である平盛国の息子であり、父と同様に平家の有力な家臣である人物だ。平清盛がやろうとしているのは、令制国内の全ての荘園とその荘園に住む人に対して、武器を持って軍隊に参加しろ、軍隊にありったけの兵糧を差し出せと命令させることである。こんな職務をやりたがる人などいない。平清盛の弟も、息子も、甥も、孫も、誰も立候補しない職務を任せるとすれば、それがどのような命令であれ平清盛の命令には全て従うという人物を就けるしかないということか。

 さらにその翌日である二月九日に、平清盛は一人の源氏の首を市中引き回しにした。前年に討たれたとされる源義基の首である。都大路を引き回され晒された上に、子の石川義兼と弟の紺戸義広の二人は生け捕りとなり、源義基の首とともに左獄に送られることとなったのだ。平家としては戦況が有利に動いており戦勝は目の前に広がっていると示すと同時に、平家に逆らうとどうなるかを示す効果ももたらすものとなるはずであったが、前者については乏しい勝利を無理してアピールしているとしか見られず、後者については確かに平家の恐ろしさを感じたであろうが、だからと言って平家に対する忠誠心を抱くようになるなどあり得ない。それどころか強い反発を抱く契機にもなる。特に、父を殺害されただけでなく、見世物であるかのように扱われたことへの怒りを隠せない石川義兼はこのあと反平家の武人として起ち上がることとなる。

 平家の勝利は乏しい勝利でないことをアピールするチャンスは二月一二日にやってきた。近江国で平家方の軍勢が勝利を手にしたのは誰もが知るところである。その勝利の立役者とも言うべき平知盛、平清経、平行盛らの率いる軍勢が近江国から京都に凱旋し、討ち取られた源氏たちの首も合わせて入洛してきたのだ。普通に考えればこれは明らかに平家の勝利をアピールする凱旋行軍になる予定であった。しかし、凱旋する平家の面々を目の当たりにした京都の民衆は唖然とした。総大将平知盛が病を押して行軍している。平知盛は凱旋したのではない。平家はもはやこれ以上戦えなくなってきているのだ。兵と兵糧の不足は誰もが知っていたが、それがここに来て指揮官の不足も見えてきたのだ。


 人間、順風であれば何をやっても上手くいく。逆風であれば何をやっても裏目に出る。それは平清盛とて例外ではない。日本経済を根底から覆す大改革者であり、自由貿易によって豊かな人を数多く生みだしてきていた平清盛も、今や、平清盛が推し進めてきた政策そのものの失敗に加え、天候不良に起因する不作、そして国家を手にしたはずの平家の武力でもどうにもならない反平家運動を目の前にして、苦しみながら対策をとろうとし、その対策が裏目に出るという、わかりやすい形での衰退者へと転落していったのだ。

 平家物語では、平治の乱の後なぜ源頼朝を処罰しなかったのかと悔やんだという。懇願があったからとは言え、処罰しないことを選んだのは平清盛自身だ。それに、平治の乱終結直後の情勢を考えれば源頼朝を生かしておくほうが平家にとってはるかにメリットがあったし、源頼朝を生かしておく方が良いと考える理由についても間違ってはいなかった。

 唯一の計算ミスは源頼朝の政治家としての能力を見誤っていたことだ。源頼朝が成長して清和源氏の軍勢を率いることになっても、その軍勢は弱いものに終わるとの見込みは成り立たなかった。確かに石橋山の戦いで源頼朝は苦戦したが、それ以後の戦いはそもそも源頼朝が不在でもどうにかなるだけの状況を作り上げて相手を降伏に追いやったのである。

 平清盛は自分自身の魅力によって平家に仕える武士を増やしてきたと思っていたが、平家に仕える武士が増えたのは平清盛自身の魅力ではなく亡き父である平忠盛の魅力と、平家への恐怖と、権勢を手にした平家に対する阿諛追従である。平家への恐怖も、平家への阿諛追従も喪失しては、平家とともに行動する意味など無くなる。

 一方、源頼朝には政治家としての高い能力があった。平清盛と源頼朝とどちらが陰湿かと考えると源頼朝のほうに軍配が上がるが、どちらが民衆の支持を集めているかを考えてもやはり源頼朝のほうに軍配が上がる。少なくとも民衆を考え、民衆の生活を考え、民衆の資産の保証を考えているのは源頼朝のほうだ。平清盛のほうが源頼朝よりもはるかに裕福で多大な資産を有していたが、所有する資産を生かすという点でも源頼朝に軍配が上がったのである。

 こうなると、平清盛に残されているのは現状を維持することだ。とにかくこれ以上平家の側にある人物を減らさずに、平家の側でない人を兵士として徴用して源頼朝をはじめとする源氏の軍勢を倒す。それが実現すれば、相対的であるにせよ平家は日本国内最大の武士集団であり続けることができる。比叡山延暦寺はまだ存在しているが、園城寺も興福寺の灰燼に帰した今とあっては、僧兵への恐れも抱かなくて良い。

 治承五(一一八一)年二月一七日、平清盛は警護上の問題に対処するためとして、安徳天皇を八条に新造した平頼盛の邸宅に遷御させた。そんな理由を信じる者はいない。重要なのは安徳天皇を平家の側に留め置くことで自らの権威の正統性を担保することである。

 さらに同日、平清盛の後押しで安徳天皇の准母となった近衛通子を准三宮とさせることで、藤原摂関家のうちの近衛家を平家につなぎ止めておくことにした。


 京都でゴタゴタが続いている頃、関東地方では源頼朝の主導する停戦が実現していた。

 高倉上皇が亡くなった知らせを受けた源頼朝は、亡き高倉上皇の崩御に際して喪に服すとして関東地方各地の武士に対して停戦を申し入れたのである。

 これは関東地方の平家の武士にとっても願ってもない申し入れであった。季節は冬であるため戦闘に打って出るのに適した季節ではないし、平家方に立っていることは自分が朝廷の側の人間であるという自負にもなる。朝廷方の人間である以上高倉院の崩御に際して喪に服すのは当然のことであり、源頼朝からの申し入れであることは気になるが、それさえ除けば受け入れるのはやぶさかではない。

 さらに、それより何より、今ここで源頼朝と戦っても負けるという現実がある一方、ここで源頼朝のもとに下ろうものなら自らのアイデンティティが崩壊するというジレンマもあった。二〇年以上に渡って平家の一員であることに自らの存在意義を感じ、平家の一員になったことで他者より優越感を得ていたのに、今ここで平家の一員であることを捨てるというのは、理屈では理解できても感情では理解できないことなのだ。

 源頼朝は休戦期間を利用して勢力のさらなる拡大を図った。

 時間は前後するが、治承五(一一八一)年二月一日に、これより一世紀半後に子孫が室町幕府を開くことになる足利氏の先祖である足利義兼が、北条時政の娘で北条政子の妹である北条時子と結婚した。同日、加々美長清が上絵権介広常の娘と結婚した。これにより御家人間の血縁関係の結束が構築されていき、鎌倉方の軍勢は一層の強化が図られた。

 さらに源頼朝は支配下にある地域の統治を強化した。治承五(一一八一)年二月一〇日、安房国の須崎神宮の所領と安房国の国衙に仕える役人との間で所領争いが発生したことから、源頼朝は須崎神宮の所領保有権を認め、国衙から課された須崎神宮の所領の住人と須崎神宮の神人に対する労働義務について、源頼朝の名で労働義務の白紙撤回を命じたのである。国衙がわかりやすい悪人になり、悪人を征伐する源頼朝という構図が成立したことは源頼朝にとって大きなアピール材料であった。

 このアピールに促されたのか、後押しされたのか、武蔵国にあってなお源頼朝に反抗する姿勢を見せていた大河戸広行、清久秀行、高柳行元、葛浜行平の四兄弟が、揃って源頼朝のもとに降った。四人の苗字が違うのは、同じ武蔵国内であるもののそれぞれ別個の所領を持ちそれぞれの所領の名を苗字としていたからである。

 四兄弟が源頼朝のもとに降ったのは四人の父である大河戸重行が亡くなったからかもしれない。吾妻鏡によると、平家に仕えていたことを理由に前年に伊豆の蛭ケ小島、前年の挙兵直前まで源頼朝の流罪先であった場所へ、今度は平家の一員であることを理由に流罪になっていたが、源頼朝の命令により釈放となり、鎌倉へ送られる途中で病気になって死んでしまったという。なお、このときの流罪宣告に関する記録は無く、いきなりここで蛭ヶ小島に流罪になっていたのが許されたという記録が登場している。


 治承五(一一八一)年二月下旬、関東地方で休戦が進んでいた頃、奥州藤原氏の勢力下での平和が保たれていた東北地方と、喪に服すとして休戦していた関東地方を除く全てで、戦乱の萌芽が見られた。

 まず動き出したのは越後国の城資永である。前年に越後守として越後国司に任じられていた城資永は、国司としての権限を最大限に発揮して越後国中から軍勢を結集させることに成功した。城資永(じょうすけなが)は平氏の平維茂の子孫であり、関東地方各地に平氏の子孫が勢力を築き上げてきたように、越後に土着して勢力を築き上げたのが城氏である。城資永の祖父の代から既に越後国司を上回る権勢を越後国に築いていたというのであるからその権勢のほどが理解できよう。

 ただし、越後国では絶対的な権勢を築いていても東北地方との関係となると立場が微妙になる。何しろ城資永の実母は清原武衡だ。後三年の役で敗れ首を切り落とされた清原武衡の孫である城資永と、後三年の役の勝者である奥州藤原氏との関係、また、後三年の役を指揮した源義家の子孫との関係を考えると、お世辞にも良好であるとは言えない。実際、城資永はその権勢を北へ東へと拡大させ越後国を越えて出羽国や陸奥国へと広げており、局地的な紛争も起こっていた。ただし、現実を把握する能力はあるので奥州藤原氏と戦ったら勝てるかどうかぐらいはわかる。全面戦争にならないまま自らの勢力範囲を広げて自分が豊かになる方法を、そして、家臣たちを食べていかせることができる方法を探すとなると、西や南ということになる。とはいえ、この時代は上越新幹線も関越自動車道もないので、越後国から三国峠を越えて関東地方に行くのは現実的ではない。すると、答えは信濃国ということになる。以前から計画していた信濃国への侵攻計画を立て、既に越後国だけでなく陸奥国から出羽国に掛けて武士を集め、その数既に一万人を数えるまでになっていた。

 この城資永を平家は期待していた。ここで信濃国を経由し、美濃国まで来てくれれば東山道での平家の軍勢は大幅に活気づくこととなる。そのまま勢いに乗って濃尾平野の源氏勢力を一掃できるだけの軍勢を作ることができるのだ。

 あとは春になって雪が解けて道が通行できるようになれば信濃国へ向かえるとなった矢先の治承五(一一八一)年二月二五日、それは何の前触れもなく起こった。

 城資永、急死。死因は明白ではないが、前日に倒れたとの記録と倒れたときの症状からクモ膜下出血であった可能性が高い。

 その後は弟の城助職、後に城長茂と名を変える三九歳の者が継ぐこととなった。

 平家が期待していた城資永の死は、平家にとって、どうにか建て直しできつつあった戦略を、また一からやり直すことを意味させるに充分だった。


 萌芽は京都でも見られた。平知盛が病に倒れ、平家全体の軍勢を指揮することができる人間がいなくなってしまったのである。いや、厳密に言えば平清盛がいるではないかとなるが、平家全体の軍勢の指揮をして何をするのかを考えると、平清盛に指揮させるなど不可能なのがわかる。

 可能な限りの軍勢を率いて東山道を進み、越後国から進軍してきた城資永の軍勢と合流し、源頼朝と武田信義を討伐しに行くのだ。たしかに平清盛は東に進んで富士山や鹿島社に参詣する計画を立ててはいたが、それは日本全国が平家のもとで平和となり、平清盛が余生を過ごす日々を迎えた未来の話であり、戦乱にあふれる中、軍勢を指揮して東に進むことを意味するのではない。だいいち、首都から離れようものなら平家は全権力を失う。首都を福原に移すことはできても、平家が首都から離れることは許されない。

 治承五(一一八一)年二月二六日、平維盛、平重衡に次ぐ源頼朝追討軍の第三陣をとして、平宗盛が自ら率いて軍勢を向けることを決めたのである。平宗盛に軍勢を指揮する能力があるか否かを問えば否とするしかないが、軍勢を指揮するのに求められる政治家としての能力を考えると、平重盛亡きあと、政治家としての平清盛の後継者となっている平宗盛を軍勢の指揮官として擁立するのは不可解ではない。求められるのは戦略だけではなく政略も求められるのだ。また、平宗盛の公的地位は正二位前権大納言であり治承五(一一八一)年二月時点では何ら公職に就いていないことから行動の自由がある。

 ただし、平宗盛率いる第三陣を結集させている最中に計画を白紙に戻す知らせが届いたのである。それも四つも。

 一つは既に述べた城資永の急死。弟の城助職が後を継いだことの連絡は来たが、同時に越後国から軍勢出発の目処が立たなくなったとの連絡も来た。これにより越後国の軍勢との融合計画は破綻した。

 二つ目は九州の菊池隆直の反抗の規模が拡大し、肥後国だけでなく隣国の豊後国にも飛び火しておよそ六〇〇騎もの軍勢となっていた。豊後国の反抗を指揮する緒方惟栄はかつて平重盛の忠実な家臣であったが、平家との関係を断絶して地域の武士団らと共に反平家で起ち上がり、豊後国の目代を追放するまでに至ったのである。吾妻鏡の伝えるところによると平家方の二〇〇〇騎もの軍勢と合戦となり双方ともに多大な死傷者を生み出すこととなったとある。

 三つ目は四国での反乱勃発である。伊予国の豪族である河野氏が挙兵したのである。平家物語によると前年末に河野通清(かわのみちきよ)をはじめとする四国の者がこぞって反平家で起ち上がったため、備後国の僧である西寂が軍勢を率いて河野通清(かわのみちきよ)の本拠地である伊予国に攻め込み河野通清(かわのみちきよ)を討ち取ったものの、今年に入って河野通清(かわのみちきよ)の息子である河野通信(かわのみちのぶ)が西寂のいる備後国に攻め込んで西寂を討ち取り伊予国へ凱旋したという。このあたりの日付や反乱の規模は史料によってバラツキがあり平家物語の記述をそのまま信用することはできないが、少なくとも治承五(一一八一)年二月末の時点で伊予国において反平家の動きが見られたことは間違いない。

 そして四つ目。これが最大のニュースだ。

 平清盛が倒れたのである。


 平清盛が倒れたことの記録が九条兼実の日記に最初に登場するのは治承五(一一八一)年二月二七日のことである。吾妻鏡によると二月二五日は既に体調悪化が見られたとあり、当初は極秘にしていた平清盛の体調悪化であるが、もはや隠し通せなくなったというところであろう。なお、平家物語では二月二八日になっての発病とあり、日付が確認できる中でもっとも遅い。

 では、平清盛はどのような症状を迎えたのか?

 平家物語の描写はおどろおどろしい。

 発病したその日から水さえ飲めず、平清盛の身体が熱くなって火を焚いているかのようになり、平清盛の周囲五メートルほどにいる人も平清盛の熱が生み出す暑さに耐えることはできず、平清盛はただ身体の熱さを訴えるだけであった。せめて身体を冷まそうと石の槽(ふね)に水を張って平清盛の身体を浸らせると、槽(ふね)の水はたちまちお湯になってしまい、ならば水を掛ければどうかと水を掛けたら水が蒸発して黒煙が部屋に充満したというのが平家物語に記されている平清盛の症状だ。

 はたして、このような症状を生む病気などあるのだろうか?

 北里大学の牧純教授によると、水を蒸発させるなどという誇張はともかく、症状そのものは熱帯熱マラリアに類似しているという。ヒントとなるのが二点あり、一点はほぼ同時期に平清盛と似た症状を訴える人が出ていること、特に平清盛の側近の一人である前権大納言藤原邦綱も同じ症状となっていること、そしてもう一点が、京都市内の発掘調査からこの時代の遺物の中に海外で作られた陶器が、それも、粗製濫造された簡素な陶器が多く出土していることである。この陶器は現在のコンテナと同様に中に交易品を入れて運ぶことが主目的であるが、現在のコンテナのように頑丈でもなければ密閉性においてもさほど優れているわけでなく、中に水が入り込むことも、水以外のもの、たとえば昆虫や小動物が入り込むことも珍しくない。そして、簡単に大量に作ることができる反面、壊れやすい。

 マラリアは蚊に刺されることで感染する病気である。日本にも昔からマラリアは存在していたが、それは三日熱マラリアであって熱帯熱マラリアではない。そして、当時の南宋では平清盛と同様の症状を発する病気が確認されていた。熱帯熱マラリアを媒介するコガタハマダラカの生息域は、現在でこそ東南アジアから南アジアにかけての一帯であるが、この当時は南宋も生息域であった。

 マラリアは蚊を媒介とするため、蚊の生息域が広まらない限りマラリアが急激に拡大感染することはない。平清盛の前は九州が日本の玄関であり、船に乗ってやってきた蚊によってマラリアに感染するのは、寄港地である沖縄か、目的地である九州の、それも交易船に近いエリアに限定されていた。しかし、平清盛は九州ではなく福原を玄関にした。福原が首都でなくなったあとも福原での交易は続いていたし、福原で荷揚げされた交易品は平安京まで運ばれてきた。

 そこに熱帯熱マラリアを媒介する蚊も混ざってきた。それまで存在していた三日熱マラリアと似た症状、しかし、はるかに重い症状が広まった。新型感染症が京都の、それも南宋からの交易品を手に入る狭いエリアで広まったのだ。

 熱帯熱マラリアに感染すると、身体の震えを伴う高熱を発し、高齢者や持病がある人は重症化しやすくなる。症状が重い場合は多臓器不全や脳症、重症貧血などの合併症により死に至ることもある。その一方で、罹患しても無症状である、あるいは比較的軽い症状で収まることもある。平清盛は仁安三(一一六八)年二月に命の危険を実感する大病を患い出家を選んだ過去もある。しかも、既に六四歳とこの時代にしては充分に高齢だ。重症化しやすくなる二条件を満たしている。


 治承五(一一八一)年閏二月一日、九条兼実は伝え聞いた話として、平清盛は九割の確率で亡くなるであろうという話を日記に留めている。

 同日、平宗盛を総大将とする軍勢の派遣中止が宣言された。この頃にはもう平清盛が高熱でうなされ続けており、死も覚悟しなければならない状態であることが庶民の噂話としても認知されるまでになっていた。

 そして、こういう話が広まった。

 前年末に奈良を焼き尽くした祟りが降って湧いたのだと。

 翌二日、平清盛の妻である二位尼こと平時子が病床の夫の元を訪ねた。平家物語によると、ここで平清盛は遺言を述べたという。保元の乱と平治の乱と朝敵に打ち勝ち、栄誉を得て、天皇の祖父となり、太政大臣にまで登り詰め、子孫の繁栄もしている。だが、伊豆の流人の源頼朝の首を見ていないことだけが遺恨だ。自分が死んだ後は仏堂を建てなくても塔を建てなくても仏事供養をしなくてもいい。源頼朝の首を刎ねて墓に供えよ。それが何よりの供養だ、と。

 この、源頼朝の首を墓に添えよと言ったというエピソードは平家物語にしかない。確実に言ったとされる遺言の内容としては、自分の死後は平宗盛に平家を託すこと、死後三日を過ぎてから葬儀をすること、遺骨は播磨の山田法華寺に納めて毎日ではなく七日ごとに通常の法事を営むこと、そして、一族の者はただ東国平定の努力をすることというものである。源頼朝の首を供えよというのは東国平定の遺言の延長であろう。

 それからも平清盛は苦しみ続けたが、その苦しみは閏二月四日に終わった。

 治承五(一一八一)年閏二月四日、平清盛死去。享年六四。

 それを当時の人がどう思ったかを示す逸話が二つある。

 平清盛の死から二日後の閏二月六日、平清盛の居所であった西八条第が何者かによって放火されたのである。しかも犯人は不明。ただし、放火があったことを記すのは平安時代の貴族の日記を抜粋した鎌倉時代後期の書物である百錬抄のみで、現存する実際の日記に放火があったことを記す記録は無い。また、平家物語の異本の中には放火を記していないバージョンもある。

 その二日後の閏二月八日、平清盛の葬礼を西八条第で、本当に放火があったとすれば放火の後も癒えぬままに執り行ったところ、最勝光院の中から今様乱舞の声が挙がったという。平清盛が死んだことを喜ぶ声であった。

 平家の面々は、自分たちが嫌われているのは頭では理解しているつもりであったが、こうも露骨なまでに嫌われようが示されるとは夢にも思えなかった。

 だが、それでも平家には勝算があった。とにかく平清盛の遺言通りに東国を平定すること、最終目的は源頼朝の討伐であるが、最低でも今後に起こる飢饉に備えて今年の収穫までに穀倉地帯である濃尾平野を押さえることである。食べていけなくなる恐怖を取り除くことができれば最低最悪を脱することはできるのだ。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000