平家物語の時代 8.源氏の興隆、平家の衰退

 西八条第の放火のあった治承五(一一八一)年閏二月六日、平清盛の遺言に従って平家の政務のトップを継承した平宗盛が、現状を考えると後白河法皇に全面的に従うのが得策であるとして後白河法皇への恭順を表明した。確かに現状を考えると国政の混乱を回避するのは後白河法皇による院政に立ち返るのがもっとも簡単に国政を安定させる方法である。

 しかし、その翌日の閏二月七日に後白河法皇のもとで開催された公卿議定において源頼朝討伐の中断を決定したとなると話は変わる。平宗盛は自分ではなく弟の平重衡が全軍を率いるという妥協案を示した上で、改めて源頼朝追討のための院庁下文を発給することを要求したことで、後白河法皇院政のもとで政局混迷の回避を図っていたのがただちに瓦解することとなった。

 後白河法皇院政の本格再始動も院司内部が平家と反平家との混在で混迷している状況であり、藤原摂関家の分裂もあって藤原氏がかつてのような結束を保持できなくなっていることもあって、平清盛が亡くなった後も平家派の貴族たちの意見は院の趨勢を決めるだけの発言権を保持していた。治承五(一一八一)年閏二月九日、藤原氏であるが平家派の貴族である藤原隆季が、権中納言中山忠親を巻き込んで平宗盛の意向に沿った院庁下文の草案を作成することに成功した。後白河法皇はこの草案に反発を示すが院司の情勢は既に平家のもとにあり、草案に基づいて源頼朝追討の院庁下文を発給することになる。ただし、この時点ではまだ正式な発給とはなっていない。

 ところが平宗盛は既に決定であるとして、翌閏二月一〇日に、平宗盛の家人である藤原景高らに一〇〇〇騎ほどの軍勢を率いさせて出発させたのである。後白河法皇は後追いで正式な発給をしたのち東海道の各国司に対して源頼朝を討伐するよう使者を派遣するが、派遣開始が閏二月一五日であり、しかもその任を受けたのが平重衡と平維盛。さらに言えば平重衡は単独ではなく先遣隊を越える人数を率いているからこれは事実上の第三陣の出発である。

 これらの命令を受け取ることとなる東海道各国の国司の立場で考えると、まず平清盛が亡くなったという未確認情報が届き、源頼朝討伐の白紙撤回が届き、平清盛が亡くなったことの正式な情報が届き、源頼朝を討伐するという藤原景高率いる先遣隊が到着し、先遣隊が正式な軍勢であることを示す平重衡率いる軍勢が到着することとなる。つまり、困惑している状態で次々に平家の軍勢がやって来ることとなる。これを意図的にしたとすればたいしたものだ。困惑の末に東海道各国を一ヶ国ずつ制圧できる可能性が高いのだから。

 実際にはどうだったのか?

 総大将平重衡、副将平維盛の率いる軍勢は美濃国までは行けた。そこから尾張国に入ればそこから先が東海道だが、尾張国に入ることができずにいたのである。


 律令制が導入された頃、日本の中心は大和国、すなわち現在の奈良県であった。全ての道路は大和国とつながっており、大和国で発せられた命令は大和国から全ての国に向かって発せられた。

 美濃国は現在の岐阜県であり、尾張国は現在の愛知県である。現在の愛知県と岐阜県を考えていただくと、この両県は県境こそ存在するが一つの都市圏を構成していると実感できるはずである。その実感は治承五(一一八一)年にはもう存在していた。

 ところが、美濃国は東山道で、尾張国は東海道である。五畿七道では別なのだ。一見すると不合理に感じるこの区分けも、首都が大和国にあり、大和国から琵琶湖方面に向かって進んで現在の滋賀県を経て岐阜県へ向かうルートと、大和国から伊賀国を経て伊勢国に至り尾張国へ向かうルートが別個に存在していたこと、そして、尾張国府から北上して美濃国に向かうのは律令制定時においては禁止されていたことを考えると、区分けとして、同意はできなくても理解はできる。

 その区分けは平安京に遷都しても変わらなかった。出発地が大和国から山城国に移り、首都から尾張国に向かう最短ルートが従来の東山道を利用して美濃国まで行き、美濃国から南下して尾張国に向かうルートになったこと、美濃国と尾張国の間のルートが合法とまでは言わなくとも黙認されるようになったことという違いは生じたが、美濃国は東山道であり、尾張国は東海道であるという地方行政システムはそのまま続いていた。

 地方行政システムとしての五畿七道が続いているということは、東海道のみに対して命令を下すときに東山道に所属する国に対して命令が行き届かないことを意味する。朝廷や院が地方に対して命令を下すとき、複数の令制国に対してそれぞれ命令をするか、あるいは街道単位に命令することとなる。そして、治承五(一一八一)年閏二月のように東海道に対して命令を出す場合、東海道の諸国に向かう前に東山道の国々を通ることになっても、東山道の国々、具体的には近江国にも美濃国に対しては命令が適用されないこととなる。

 この時点から見て五〇〇年近く前に制定された地方行政システムをそのまま利用した命令を出したために、治承五(一一八一)年閏二月に出発した源頼朝討伐の軍勢は美濃国で足止めされることとなったのである。

 どういうことか?

 理由は二つある。一つは美濃国と尾張国の境界を為している墨俣川、現在の呼び名でいう長良川が増水しており渡河できずにいたこと。

 そしてもう一つ、この理由のほうが大きいが、美濃国が法的に空白地帯なのだ。

 美濃国で平家に対して立ち上がっている武士たちは、東海道の諸国に向けて発令された院庁下文に従う義務はない。治承四(一一八〇)年一一月七日、東海道、東山道、北陸道に対し、源頼朝と武田信義の両名を追討せよとの宣旨が出ているが、彼らは源頼朝にも武田信義にも従っておらず独自の勢力を築いている。一方、治承五(一一八一)年一月一九日には畿内五ヶ国と、近江、伊賀、伊勢、丹波の計九ヶ国に対する軍事指揮権が平宗盛に降っている。こうなると、美濃国はどちらも対象外になり、平家の軍勢に従う義務が無くなるのだ。


 京都を出発した軍勢は美濃国に留まり尾張国に行くことができなかったが、京都を出発した源頼朝宛の月に三度の手紙はいつも通りに届いている。

 鎌倉の源頼朝が平清盛の死を知ったのは治承五(一一八一)年閏二月一九日のことである。平清盛が亡くなったことを知った源頼朝がどのような感想を述べたか、あるいはどのような表情をしたかの記録は無い。記録から意図的に消したというよりも、それより大きな問題に直面したために平清盛の死にまで感想を向けることができなかったとすべきであろう。

 平清盛の死を伝える書状の末尾に、書状の送り主である三善康信から鎌倉へ参上したいとの記載があったのだ。

 京都における三善康信は太政官で働く役人であり三善氏は代々算道を受け持ってきていた。三善康信も家業をそのまま受け継いだだけのごく普通の役人と見られており、特に着目はされなかったのである。算道は狭義では現在でいう数学であるが広義では自然科学全般であり、現在の感覚で行くと文部科学省の研究開発局に務める国家公務員というところである。まさかこの人がかなり前から源頼朝とつながっている事実上のスパイであり、伊豆に流罪になっている源頼朝宛に定期的に手紙を書いて送っていたとは朝廷の誰もが夢にも思っていなかったであろう。三善康信の母親が源頼朝の乳母の妹であることを知っている人はいたかも知れないが、それでも傍目には親族や知人に頻繁に手紙を送る筆まめな人という認識であったろう。何しろ、あくまでも私的な手紙のやりとりなのだ。

 しかし、どうやらこの頃に三善康信の正体が周囲に漏れはじめてきたようなのである。三善康信は鎌倉へ行きたいと願ったのではない。鎌倉に行く以外に命は守れないと判断したのだ。

 源頼朝は文覚を通じた寺院間のネットワークを利用した情報収集ルートも構築しているので、三善康信が京都から離れることとなっても京都からの情報収集手段が完全に失われることはない。しかし、定期的な情報連絡が効かなくなったら間違いなく痛手だ。

 結論から記すとこの後も三善康信は京都に留まることとなる。ただ、どうやらこの頃に一時的に出家して身を隠したようなのである。善信という法名を名乗るようになったらしく、この次に京都から送られてくる三善康信の書状は、一人の僧侶である善信から近親者に送り届けた書状であるとの体裁をとっている。朝廷の中枢に食い込んでいるからこそ手に入る情報が手に入らなくなったのは源頼朝にとって痛手であるが、それでも三善康信がいなければ手に入らない京都の最新情報を伝えてくれるだけでも充分にありがたいこととするしかない。

 出家してでも京都に留まるとしたありがたさは、その次の定期連絡のときに発揮されることとなった。


 三善康信のその次の書状が届いたのは治承五(一一八一)年三月七日のことで、源頼朝追討の院宣が出されていることを伝えたのがその内容である。

 ここで着目すべきが院宣の内容と到着した日付、そして、書状とともにやってきた人物である。

 まず、院宣の内容についてであるが、後白河法皇が東海道諸国に向けて出した院宣にあるのは源頼朝追討であり武田信義は含まれていない。その上で、三善康信は書状の中でこのように述べている。閏二月七日に源頼朝を討伐すべきという院宣があり東海道各国に対して発令された際、武田信義に対して、平家の軍勢に加わった上で源頼朝を討伐するように命じる動きもあったというのである。

 次に到着した日付である。源頼朝は京都と月に三度、一〇日に一度の割合で書状のやりとりをしているが、このときばかりは閏二月一九日の次が三月七日であり通常より間が空いている。これは三善康信が出家したからというのだけが理由ではない。

 そして三番目。なんと、書状と一緒に武田信義も鎌倉にやって来たのだ。

 院宣の内容だけが先行して広まった場合を想定してみる。

 武田信義に対して源頼朝を討伐するよう院宣が出たという話だけが先行してやってくる。そのとき、鎌倉と、甲斐源氏との間がこれまでのような平穏無事な関係でいられるであろうか?

 それが根も葉もない噂であると脳内で理解していても甲斐源氏が源頼朝に対して刃向かったとあれば、鎌倉も、甲斐源氏も、双方ともに疑念を生む。互いに争うまでは行かなくともこれまでのような協力関係を築き続けることのできる可能性は少ない。

 しかし、三善康信から書状が来た。それも武田信義も書状とともにやってきたとなれば、そもそもそのような疑念すら感じる必要は無くなる。

 三善康信からの書状は東海道を通って単独でやって来る。現在のように郵便局にいったん集められて宛先毎に区分けされて運ばれて届けられるのではなく、特別な事情でもない限り他の書状と一緒にされることなくやって来る。書状の通るルートの途中には駿河国もある。三善康信は、書状を届ける途中で駿河国を通過するときに武田信義のもとを経由させることで、武田信義が源頼朝を討伐すべく起ち上がるという噂を、噂が起こる前に知らせることに成功したのだ。何しろ閏二月七日はまだ後白河院において院庁下文を出すかどうか議論している最中である。にもかかわらず情報発信を選んだだけでなく、源頼朝だけがターゲットであることから起こると想定されるデマを想定し、デマの当事者となると想定される人のもとに情報を届けてデマが発生する前にデマをデマと断定する行動を見せたのだ。

 しかも書状とともに武田信義が鎌倉に到着したときは源頼朝と一対一ではない。三浦義澄、下河辺行平、佐々木定綱、佐々木盛綱、梶原景時がいたことが判明しており、武田信義は彼らの前に来る前に腰に差していた刀を外して下河辺行平に渡し、自分は丸腰であることをアピールしてから源頼朝と面会している。

 その上で武田信義は、自分のもとに院から源頼朝を追討せよなどという命令など来ていないこと、仮に来たとしてもその命令には従わず今まで通り源頼朝とともに行動すること、それは自分一人ではなく甲斐源氏全体が未来永劫遵守することを誓った。源頼朝だけに誓ったのではなく神仏にも誓い起請文まで記して献上したのである。

 三善康信はファインプレーだった。三善康信からの書状が届いたあとになって、武田信義が源頼朝を討伐するために起ち上がったという噂が広まってきたのである。噂に挙がっている本人が源頼朝の目の前にいるのに、しかも刀を外して丸腰でいるのに、おまけに神仏への起請文まで書き記しているのに。普通であれば噂というものは正確な情報より早く伝播するものであるが、三善康信は情報を噂よりも早く伝播させただけでなく、噂を全否定する光景を作りだして噂を広める側のほうが愚かであるとする情景を作りだしたのだ。


 甲斐源氏は鎌倉と運命共同体となる道を選んだと言える。

 しかし、全ての源氏が鎌倉と運命共同体になることを選んだわけではない。

 源頼朝とは別に行動している源氏もおり、その中の少なくない数が治承五(一一八一)年三月時点では尾張国に集結していた。

 近江国で敗れ、美濃国でも苦杯を飲まされ続けてきた彼らは、尾張国に集結することで一大勢力となることに成功していた。

 その勢力の中心となっていたのが源行家と義円の二人である。

 源行家は以仁王の令旨を全国に届けたその人である。以仁王の令旨を配り終えたあと志田義広とともに源頼朝のもとに足を運び、現在進行形で勢力拡張に成功している源頼朝に対して、源頼朝の手にしている地位と権勢を叔父である自分たちに譲り渡すよう求めて失敗し、東海地方に自らの次の運命を求めたことでそれなりの勢力を築くことに成功していた。少なくとも治承五(一一八一)年一月時点で三河国での源行家は無視できぬ勢力になっていたことは確認できている。

 義円は、もとは円成という法名の園城寺の僧侶である。このように書くと灰燼に帰した園城寺の生き残りの僧兵かと思うかも知れないが、この人の素性は特別である。源義朝の第八子で源義経の実兄なのだ。末弟の源義経と違い、実兄の全成(ぜんじょう)と同様に僧体のままであったが、それでも自分は源義朝の実子であり、平家打倒と源氏再興という意欲を隠すことは無かった。

 日本各地で反平家の掛け声に応じて起ち上がった者のほとんどが平家の支配を撥ね除けることに成功しているか、あるいは平家がそもそも討伐に乗り出してきていない、すなわち反平家方の勝利に終わっている。しかし、ほとんどの地域で成功しているのであって全ての地域で製鋼しているわけではない。京都に近い近江国と、穀倉地帯である濃尾平野の二箇所だけは平家方が優勢であり、反平家で起ち上がった側が苦戦していた。ここで濃尾平野の奪回を図ることができれば反平家方としても優勢に働くと同時に、反平家の内部における源行家と義円の勢力も築ける。上手くいけば源頼朝から清和源氏のトップの座を奪うことも可能だ。

 ただ、浅慮に過ぎる。

 平家は源頼朝を討伐すべく総力を挙げて進軍してきているところだ。行軍の末に疲労蓄積となるであろう関東地方で迎え撃つならまだしも、行軍開始からさほど日数も経過していない濃尾平野で対戦するのは無理があった。

 さらに無理を重ねたのは、尾張国と美濃国の間を流れる墨俣川、今でいう長良川だ。治承五(一一八一)年三月時点では増水しており簡単に渡ることができない。

 平家物語だと治承五(一一八一)年三月一六日、九条兼実の日記には三月一〇日のこととして記されている墨俣川の戦いはここに始まったのである。


 以下は平家物語における墨俣川の戦いの描写である。

 墨俣川、現在の長良川を挟んで、平家の軍勢と源氏の軍勢が睨み合っている状態である。兵力は平家が源氏の五倍に達している。

 睨み合いの状態のまま膠着していたところで、先に動き出したのは源氏方であった。夜襲を仕掛けようとし、現在の時制でいうと夜中の四時頃に攻撃を開始したのである。富士川の戦いを再現しようと夜襲を掛けて平家方を脅し平家方が逃げ帰ることを企んだとある。

 ところがこの夜襲は平家方に読まれていた。平家にとって忘れることのできない屈辱である富士川の戦いを繰り返すなどというのは、平家を怖じ気づけさせるどころか奮闘させるに充分であった。特に平家軍の副将は平維盛である。あの悪夢を払拭するチャンスを常に求めて続けてきたところで到来した機会を逃すはずがなかった。

 ただでさえ兵力が少ないところに加え渡河をしたのだから源氏方はさらに不利になる。いかに三月とは言え川の水はまだ冷たく渡りきった頃には身体が冷え切っている。しかも川を無理して渡ってきたものだから服は水を吸って重くなる。兵力が少ないところで身体がまともに動かず重くなっているのだから平家方にとっては弓矢のターゲットが勝手にやってきたようなものだ。富士川の戦いの再現どころか、源氏の軍勢が次々と平家の弓矢の前に倒れ、その中には敵陣深く入り込んで討ち取られた義円もいた。吉田経房の日記によると源氏方大将四名を含む三九〇名がここで討ち取られたという。

 もう一人の主導者である源行家は部下を見捨てて真っ先に逃走し、まずは熱田神宮に避難したものの平家の軍勢は源行家を討伐すべく追っ手を派遣しており、源行家は尾張国を捨てて三河国にまで落ち延びるに至った。

 平家の軍勢は勢いに乗って尾張国を制圧し、三河国にまで攻め込み三河国の矢作川で二度に亘って源行家率いる軍勢と戦い、源行家に対して壊滅的な打撃を与えることに成功した。そのまま勢いに乗って源行家を討ち取り、三河国を越えて一気に遠江国にまで進軍しようとしたが、ここで平知盛が病気になってしまったために全軍を引き返すこととなったというのが平家物語の伝えるところである。

 大筋の流れは平家物語の記す通りであろう。しかし、平知盛は墨俣川の戦いに参戦しておらず、軍勢を指揮しているのは平重衡と平維盛である。特に平維盛は富士川の戦いのリベンジに燃えている。にもかかわらず、平家の軍勢は尾張国を制圧したところで京都に引き返したのは記録に残っている。

 いったい何が起こったのか?

 簡単だ。三河国より東に進軍するだけの兵力も兵糧も無かったのだ。尾張国を制圧することで濃尾平野を制圧したこととなり、穀倉地帯を平家の支配下に置くことができて平安京の食糧事情について計算可能となる。ただし、あくまでも計算可能であって即時に兵糧と兵力の不足が解決するわけではない。富士川の戦いは無理して行軍した結果、不戦敗になった。同じ轍を踏まぬためには、無理をせず、一ヶ国ずつ取り戻す慎重さも必要であった。

 一方、源行家は完全に立場を無くし、源頼朝の庇護を求めて鎌倉へ落ち延びていった。


 治承五(一一八一)年三月一九日、鎌倉に尾張国より源行家率いる源氏の軍勢が平家の前に敗れ去ったとの情報が届いた。尾張国は事実上平家のものとなり、これまで濃尾平野にまで伸張していった源氏勢力は三河国まで後退したこととなる。源行家が鎌倉に到着したのはこのような情勢下である。

 源頼朝にとって、源氏勢力圏の西限が三河国まで後退したのは痛くはないと言えば嘘になるが、現時点の勢力の安定を優先させる必要のあった源頼朝の立場に立つと、勢力圏の拡大は優先度の高い話ではない。濃尾平野を失ったのは痛事だが、最終目標を考えるとそれほど大きなマイナスではない。源頼朝の最終目標は平家を打倒することでは無い。平家打倒は最終目標への通過点であり、最終目標は平家によって破壊されたこの国を立て直すことである。

 ただでさえ治承四(一一八〇)年の収穫は乏しかった。これから先、かなり高い確率で食糧難が起こる。ここでもし源氏が濃尾平野を勢力下に置いていたとすれば濃尾平野の収穫が京都に届かず京都で飢饉が発生する。そのとき、京都市民の怒りは統治者たる平家ではなく、穀倉地帯である濃尾平野を手にした源氏に向けられることとなる。濃尾平野での収穫を京都に届けないから京都で飢餓が発生するのだという怒りの声が向けられ、濃尾平野の収穫を京都に届けたとしても源氏のせいで充分な量が届けられないから飢餓が発生するのだという怒りの声が向けられる。しかし、濃尾平野が平家の手に取り戻されてしまったということは、平家のほうに濃尾平野の収穫を利用した平安京の飢饉対策の全責任が向くこととなる。仮に源氏に怒りが向けられたとしても、前年の富士川の戦いまでに至る平維盛の略奪、そして、前年末から平家の軍勢が美濃国と尾張国で暴れたことに原因を押しつけることができる。それでもなお源氏のせいだとの責任の声が挙がったら、鎌倉まで逃げ込んできた源行家を人身御供に突き出せば済む話だ。

 源頼朝は、前年の富士川の戦いの直後こそただちに京都まで攻め上って短期決戦に持ち込むことを考えたが、この頃には既に長期戦になることを計算していた。鎌倉に本拠地を構えて軍勢を派遣するのが今後の源氏の戦い方になり、軍勢派遣時には関東地方から物資を前線まで送り届けることができるよう補給路を確保する必要がある。収穫の悪化は現地調達を許さない規模になっているし、収穫の悪化がなく現地調達可能であったとしても、現地調達というのは調達する側の視点であり、される側からすれば略奪だ。正当な対価が支払われるならまだ納得もできようが、多くはそんなことない。軍勢が通り過ぎるというのは、何もせずに通り過ぎるだけならば仕方ないが迷惑である、何かしらを持って行くなら憤怒である、しかし、通り過ぎる場所を豊かにしてくれるなら歓迎である。この時代でいうと、具体的には通り過ぎることのお詫びに食糧を配布するならば、通り過ぎる地点の住民がそのまま味方になる。

 源頼朝は、少しずつ、しかし確実に味方を増やしながら平家を打倒する道を選んだのだ。そのためか、この頃の源頼朝は鎌倉に留まったまま支配下に置いた地域の内政に徹している。


 時間は遡るが、治承五(一一八一)年三月一二日に、明瞭に源頼朝の支配下に組み込まれてはいないでいる常陸国への対策として、源頼朝が鹿島神宮に対して、最低でも塩浜、大窪、瀬谷の三ヶ所の荘園を寄進したことを吾妻鏡は伝えている。目的は鹿島神宮の御利益を賜ることではなく、寄進した荘園を管理するという目的で鹿島政幹(かしままさもと)を鹿島神宮に派遣することである。鹿島という苗字を名乗っているが、この武士も例に漏れず関東地方の平氏であり、常陸国鹿島郡の郡司に就いたことから苗字として鹿島と名乗るようにした人物である。

 翌三月一三日に遠江国の安田義定から、遠江国の浅羽宗信と相良頼景の両名が平家側に内通しており、ともに軍勢を率いて源氏の元を去って平家側で蜂起する可能性ありとの情報が鎌倉に届いた。これに受けた源頼朝は、安田義定に対して遠江国における事実上の統治権を容認すると同時に浅羽宗信と相良頼景の両名に対する弁明の機会を与えることを公表し、それまでの間の行動自粛を命じた。情報の重要性と双方向性を理解している源頼朝のことである。情報が公表されたと言うことは、安田義定に対してだけではなく浅羽宗信と相良頼景の両名に対してもほぼ同タイミングで情報が届くことを意味する。仮に安田義定が源頼朝の威光を利用して浅羽宗信の持つ所領や相良頼景の持つ所領に手を伸ばしたとしても、浅羽宗信にも相良頼景にも源頼朝からの指令が届いている。少なくとも弁明の機会を得るまでの間の停戦は保証されることとなる。仮に安田義定の言う通りに平家と内通していたとしても、平家側で起ち上がらない限り攻め込まれる可能性は無いということになる。

 鎌倉から見て遠方になる遠江国に対しては動かぬよう命じた源頼朝も、比較的近い下総国に関しては行動を見せている。治承五(一一八一)年三月二七日、片岡常春が所有していた荘園である下総国三崎荘を没収すると公表したのである。ただし、予告無しに没収したのではない。片岡常春が陸奥国に逃走した佐竹秀義と内通しているとの情報があったため、源頼朝は情報の真偽を確かめるために使者を送り込んだ。この使者を、片岡常春は自分の領内に乱入したという理由で捕らえて殴りつけ、切りつけ、縛り上げて晒し者にしたのである。ここまで重なるとどんな統治者であろうと放っておくことはできない。なお、片岡常春の所領が没収された記録はあるが、片岡常春本人に対して刑罰が加えられた形跡は無い。その証拠に、その後も片岡常春は源頼朝の御家人の一人として名が記され続けている。


 仲間の中に裏切り者がいるかも知れないという疑心暗鬼を払拭するためか、治承五(一一八一)年四月七日に源頼朝は御家人の中から一一名を選んで寝所近辺祇候衆に任命した。

 北条時政の子、江間義時。

 梶原景時の子、梶原景季。

 小山田有重の子、榛谷重朝。

 下河辺行平。

 千葉常胤の子、千葉胤正。

 小山政光の子、小山朝光。

 和田義盛の弟、和田義茂。

 宇佐美実政。

 三浦義澄の弟、佐原義連。

 葛西清重。

 八田知家の子、八田知重。

 以上の一一名である。

 彼らには一つの共通点があった。

 若さだ。

 口さがない者の中には、源頼朝が自分の同性愛の相手を集めてハーレムを作ったのだと言う者もいるが、鎌倉時代の研究者である細川重男氏はその説を明白に否定している。

 若さし着目したときに注視すべきは、下河辺行平、宇佐美実政、葛西清重の三名を除く八名が武士団のトップではないという点である。

 御家人の中には打算の結果として源頼朝に仕えることを選んだ者もいる。そうした者の中には情勢を察して源頼朝を裏切り平家の側に立つ者が出てきたとしてもおかしくなく、こうした離脱を完全に防ぐことは難しい。

 しかし、若さが生み出す野心を刺激すれば、源頼朝がこれから創り上げようとしている新しい時代に向けて、ともに動き出す協力者へと昇華させることもできる。平家を選ぶことは守旧であり、平家に立ち向かう自分たちは新しき改革者であると意識づけることができれば組織体としての未来は明るいものがある。

 しかも、前述のように一一名中八名が個々の武士団の棟梁ではない。下河辺行平のように自分の武士団を構えている者は例外で、江間義時は父である北条時政の、梶原景季は父である梶原景時の、榛谷重朝は父である小山田有重の武士団の一員を構成する武士であってトップではない。

 それでいて八名とも、武士団の後継者としてトップに何かあったら武士団を統率する立場である。

 武士団のトップの多くは在地であり、鎌倉に自身が赴いていることは少ない。その代わりに自分がもっとも信頼置ける者であると同時に、状況次第では武士団を乗っ取られる可能性のある者、すなわち、多くは息子である自身の後継者を鎌倉に滞在させている。その鎌倉に滞在させている自身の後継者が源頼朝の忠実な家臣であるとなったら、武士団のトップは下手に源頼朝のもとを離れることが許されなくなる。何かあったら鎌倉にいる息子の命が危険な目に遭うかも知れないのだ。それが本心でないにしても源頼朝に仕える御家人であり続ければ何の問題も無い日々を過ごせる。とは言え、人間には寿命がある。平和な日々のもと健康的な生活をしていようと永遠の命など無い。そのとき、自分の後を継いで武士団を指揮することになるのは源頼朝の忠実な家臣になった自分の息子だ。


 対する平家側は濃尾平野まで抑えることに成功したこともあって、東部戦線は現状維持を当面の目標とし、西部戦線の構築を試みはじめた。これ以上東に進軍することを許す兵糧などない以上、東に向かうのは次の収穫まで待たねばならない。

 しかし、西は危急であった。

 四国でも九州でも反平家の軍勢が挙兵して暴れているのだ。源頼朝のように組織だった軍勢として暴れているのではなく、山賊と呼ぶしかない、あるいは海賊と呼ぶしかない集団が暴れているのだ。

 源頼朝も、武田信義も、以仁王の令旨に従って挙兵した。基本的に京都より東で挙兵した武士は以仁王の令旨に従って、すなわち法的根拠に基づいて挙兵したのであり、平家からすれば反乱軍であっても当事者は反乱軍であるという意識を持っていない。平家を倒すことが挙兵の主目的で国家そのものには逆らっていないし、朝廷の権威も認めている。源頼朝にしろ、武田信義にしろ、一般庶民は仲間であり守るべき存在であって、敵でも無いし、ましてや襲ってもいい存在でも無い。確かにこの時代は現在よりはるかに人権意識の低い時代であるし、当事者も戦闘の中で被害を受ける無関係の一般庶民もいるのは理解しているが、それでも無関係の一般庶民を苦しめても良いなどとは全く考えていない。

 一方、九州で挙兵した菊池隆直も、四国で挙兵した河野通清(かわのみちきよ)も、以仁王の令旨に従って挙兵したわけでは無い。現在の生活苦が根底にあり平家打倒を題目として掲げていると言っても、行動の根幹は強盗と断じるしかない。端的に言えば一般庶民などどうでもいいと思っている。必要とするものは現地調達が当たり前と思っているし、その人たちの暮らしも命も何とも思っていない。性欲のはけ口にすることだってある。一般庶民の立場で捉えると、源頼朝の軍勢も、武田信義の軍勢も、歓迎の対象であって逃げる対象では無い。しかし、九州や四国では逃げる対象になるのだ。逃げなければ殺され、生きて帰ることができたとすれば、家は荒らされ、めぼしいものは全て奪いつくされている、あるいは家が燃やされて灰になっている。そして、家族の命は失われているか、拉致されて奴隷扱いされる日々。京都より東では平家を倒してくれる側のほうが解放者であったのに、京都より西だと平家の側のほうが解放者になるという、相対的な問題が起こっていたのだ。第二次大戦時の東欧で共産主義をナチスが追い出したときにナチスが解放者になってしまっていたのと同じ光景だ。

 治承五(一一八一)年三月二六日、平知盛が参議兼丹波権守に就任し、左兵衛督に復帰した。これにより平知盛が率いる、あるいは平知盛が指揮する軍勢は朝廷の派遣する正式な軍勢として認知されることとなる。平知盛に課されたのは源頼朝を討伐することでは無い。源頼朝の支配下にある地域は少なくとも治安についてはどうにかなっていると認めざるを得ない。しかし、九州や四国での反平家勢力の支配下にある地域は治安が絶望的だ。その治安を取り戻すのが平知盛に課された使命である。


 平知盛がこのとき京都にいたのは、美濃国に遠征し、尾張国まで取り戻したところで病に倒れ京都に引き返したからである。その平知盛を参議に就けただけでなく左兵衛督に復帰させたことは、平知盛の意見がそのまま朝廷の決議として発令される可能性が高いことを意味する。

 何度か記しているが、参議末席は会議において最初に発言する権利を有する。公卿の誰もが議案に対して意見を持った状態で臨んでいるならまだしも、特に意見を有さない状態で会議に臨んでいる場合、参議末席の意見が採用されることが多い。しかも平知盛は、平重盛も、平清盛も亡くなった現在、平家の軍事面でのトップに立っている人物だ。この人物が、武官としての地位としてトップではないとは言え左兵衛督の役職を帯びた状態で議政官の一員として君臨していることは、議政官の軍事的指令は平知盛の手のひらの上に乗ることになる。さらに言えば参議就任と同タイミングで丹波権守にも就任しているので、仮に議政官としての決議が出ていない状態でも、京都北部の丹波国において国司権限で独自に軍事展開をすることが許される。

 平知盛の意見が最初に示されたのは治承五(一一八一)年四月一〇日のことである。この日、原田種直が太宰権少弐に補されたのだ。原田種直は平重盛の養女を妻として迎えており九州における平家の代理人的立場にあった。主として日宋貿易の実務面での代行者であったが、この人物をここで太宰府における実務面の最高責任者に任命したのだ。原田種直は確かに武士ではあるが、原田種直に求められたのは武装して前線に立って戦うことではなく、行政官としてこれから戦うための準備を、太宰府を軸にして整えていくことである。実際に戦陣に臨むのはこれから京都から派遣する。原田種直はそれまでの間に現地で戦闘準備を整えておくことが求められたのだ。

 その四日後の四月一四日に、肥後国の菊池隆直に対する正式な討伐宣言が発せられた。前年一一月一七日に一度は赦免となっていたため、実際の被害状況はともかく、菊池隆直は理論上、その反抗が許容されていたこととなる。しかし、この日以降、菊池隆直は朝廷に刃向かう存在とされ討伐対象となったのである。ただし、この時点で九州に差し向ける軍勢の指揮を誰に執らせるのか、また、軍勢をどのように用意するのかはまだ決定していない。そもそも指揮官も、兵も、兵糧もない。太宰権少弐原田種直にそのまま軍勢を結成させて討伐させるという案も出たがその案も消えている。

 平知盛を議政官に送り込んだことは朝廷に緊張感を植え付けるに充分であったが、朝廷に突きつけられている現実は緊張感でどうこうなるものではなかった。


 さらに平家に痛手となったのが平家内部での内部分裂である。より正確に言えば以前から存在していた内部の対立に後白河法皇が入り込んだ。

 原田種直が太宰権少弐に補されたのと同日の治承五(一一八一)年四月一〇日、後白河法皇の命により安徳天皇が閑院へと遷御したのである。閑院を里内裏とすること自体は珍しくないが、安徳天皇が閑院へと遷御する前にどこを里内裏としていたのかを考えると話はややこしくなる。

 八条に造営された平頼盛の邸宅だ。

 平頼盛は平家の中で微妙な立ち位置にあった。何しろ治承三年の政変で右衛門督を解官となり、治承三(一一七九)年一一月二〇日には長兄の平清盛を討伐すべく武装蜂起したという噂が流れたかと思えば、同二二日には平頼盛の所領が全て没収されたとの噂も広まったのである。およそ一ヶ月半を経た治承四(一一八〇)年一月に早くも許され官界に復帰し、同年四月二一日には従二位、六月四日には正二位にまで位階を伸ばしているのだ。それより上の位階となると、正一位は死後の追贈の位階なので従一位だけ。そして、治承五(一一八一)年四月時点で従一位の位階を得ているのは、摂政内大臣近衛基通、左大臣藤原経宗、右大臣九条兼実の三人しかいない。

 ならば平頼盛は大臣に次ぐ役職にあったのかというと、そうではない。大納言が二名とも、権大納言は四名とも、権中納言八名中四名が正二位だ。そして、平頼盛は四名いる正二位権中納言の中で四番目という位置づけであった。

 通常、誰かの邸宅を里内裏にしていた、あるいは誰かの邸宅を里内裏とする場合、その邸宅の持ち主に対する何かしらの報奨がある。わかりやすいのは位階の昇叙であるが、役職の昇格のこともある。しかし、平頼盛は正二位権中納言であり、位階も、役職も、これ以上上げることはできない。

 このようなとき、持ち主本人ではなく息子を昇叙させることがある。これならば平頼盛の長男である平保盛は正四位下であるから昇叙可能だ。

 ところが平保盛の昇叙も平家内部で考えるとバランスが取れなくなる。平教盛の嫡男である平通盛よりも、平経盛の嫡男である平経正よりも、平保盛の位階が上回ってしまうのだ。ただでさえ、このとき、平教盛は正三位参議、平経盛は正三位だが議政官入りしておらず参議入り待ちという状況である。

 平忠盛の長男が平清盛である。次男の平家盛は久安五(一一四九)年に亡くなっており、三男が平経盛、四男が平教盛、五男が平頼盛である。ところが、議政官の中では五男の平頼盛が抜きんでており、四男の平教盛がようやく参議になれたところで、三男の平経盛がまだ参議になれていないという逆転現象になっているのだ。

 親世代が既に逆転現象を起こしているところに加え、子世代まで逆転現象を起こすとなったら、いかに頭の中では理解していても本心から納得できることではなくなる。

 このときは平頼盛の三男である平光盛を報奨対象とすることでその場を鎮めたが、後白河法皇の打ち込んだ楔は今後の平家に大きなヒビとなった。


 治承五(一一八一)年四月時点で、亡き平清盛と、鎌倉の源頼朝と、どちらが寛容であるかと当時の人に質問すれば、ほとんどの人が源頼朝のほうが寛容であると答える。それは平家方の人であろうと例外ではない。理由は明白で、源頼朝は寛容であることを広くアピールしていたからだ。本心から寛容な人というよりは寛容である人を演じ続けていたとしたほうが近く、平家側で起ち上がったはずの畠山重忠や、石橋山の戦いで大庭景親の副将であった梶原景時といった面々に対する処遇がその例だ。

 ただし、誰であれ赦して御家人に加えているわけではない。

 治承五(一一八一)年四月一九日、平井久重が晒し首となった。石橋山の戦いで北条時政の嫡男である北条宗時を討ち取った武人だ。そもそも平井久重の身柄が源頼朝のもとにあったのは源頼朝に投降したからではなく捕縛されたからである。自分が北条宗時を討ち取ったことを認めただけでなく、捕縛されても源頼朝への臣従を拒否し続けていた。ここで赦しを求めるのではなく、あくまでも源頼朝への敵愾心を見せ続けるのもそれはそれで一貫している。だからと言って、平井久重を放逐できるような余裕はない。斬首は残酷な判決であろうが、この時代の概念で捉えればまっとうな措置とするしかない。

 ただし、斬首となったのは明らかに敵であり続けている人である。かつては敵であったが今では源頼朝の御家人であるという人に対してはそこまでの判決をしていない。吾妻鏡によると平井久重を斬首した翌日である四月二〇日に、小山田重成が源頼朝の逆鱗に触れたため謹慎したとある。前年の本領安堵のときに本来は自分の所領ではない所領を自分の所領であると届け出たことが判明したことが激怒を買った理由である。ちなみに、小山田重成の妻は北条政子の妹であり、小山田重成は源頼朝の義弟ということになる。

 北条政子の妹なら最初から源氏方だったのではないかと思うかも知れないが、小山田重成の伯父は畠山重能であり、畠山重忠とは従兄弟同士の関係になる。源頼朝のもとに投降したのも畠山重忠と同行した結果であり、源頼朝が義兄であることだけは特別であるかも知れないが、それ以外は戦いのあとで源頼朝のもとに投降したかつての敵であることに違いはない。

 勝手に所領を取り上げるのとは違うが、遠江国の安田義定から訴えが出ていた浅羽宗信に対する措置を定めたのが四月三〇日のことである。平家に内通しているとして訴えがあったことが公表されたのは三月一三日のことであり、それからおよそ一ヶ月半を経てようやく裁定が出たのは遅いと感じるかも知れないが、公表が遠江国に届いてから、浅羽宗信自身が鎌倉に赴いて、証拠と示して弁明をする。その相手は源頼朝だ。多忙の渦中に司法に割く時間を考えても妥当とすべきところであろう。

 先にも述べたがこの頃の源頼朝は内政に専念している。とは言え、源頼朝がいかに政治家としても超一流であっても、多忙を超越できるような超人ではない。内政のうち軍政については侍所の設置でひとまずの解決を見たが、和田義盛に職務が集中しており組織体制の構築に手間取っている。内政のうちの民政についてはそれどころではなく、源頼朝の、良く言えば臨機応変、悪く言えば一定しない対処に委ねられるという、非常に弱いものがあったのがこの時点での鎌倉の現実である。そのうちの侍所の組織強化として和田義盛の右腕となるべく梶原景時を侍所の所司、すなわち次官に任命しているが、その成果はまだ発揮されないままでいる。


 このまま鎌倉と京都との間での緊張状態が続いていればひょっとしたら飢饉はどうにかなったかも知れない。少なくとも濃尾平野も北陸道も平家が抑えているのだから平安京における最低限の食糧確保は期待できたのだから。

 しかし、鎌倉でも、京都でもないところで緊張が破綻した。それも二箇所で。

 一箇所は三河国、もう一箇所は信濃国だ。

 まずは三河国での出来事であるが、治承五(一一八一)年五月一九日、鎌倉に逃げ戻っていたはずの源行家がいつの間にか三河国にまで出向いていたというのである。その知らせが鎌倉に届いたのは伊勢神宮からの連絡があったからで、三河国の源行家から伊勢神宮へ、これから平家追討のための極秘裏に上洛するので、上洛前に戦勝を祈願する願文を伊勢神宮に届けたというのである。

 墨俣川の戦いで敗れて鎌倉に逃れてきた源行家が相模国松田郷、現在の神奈川県松田町に居住していたことはわかっている。松田町は小田原市の北にある町であり、同じ相模国であっても鎌倉からは少し離れている。だからなのか、それとも源頼朝は叔父のことを全く気に掛けていなかったからなのか、三河国に源行家がいることを知ったのは伊勢神宮からの書状が届いてからである。

 ただし、このあとは源行家も源頼朝の情報網に引っかかることとなる。当然だ。京都からの月に三度の情報連携はなおも続いていたし、そのルートは東海道だ。情報のやりとりの途中ではどうあっても三河国を通る。

 源頼朝は源行家が三河国で上洛の準備を進めていることについてはとやかく言わなかった。この人の能力を見限っていたとすべきであろう。源義朝の実子であることは認めても、源頼朝のように政治家としての能力が高いわけでもなく、また、軍勢を指揮する能力はお世辞にも誉められたものではない。源行家にしてみれば、政治家としての能力についてはともかく、軍勢指揮については軍勢指揮が下手くそな源頼朝に言われたくないという心境であろうが、自分に能力が無くても評論ならばできる人というのはごく普通にいる。その中には全くの能無しであるがために批評するかできない人と、自分はその能力が無いがその能力を必要とする別の職務を請け負っているために評論するのも仕事の一つであるという人とがいる。前者は野党、後者はオーケストラの指揮者を想像してもらえればいい。源行家は前者、源頼朝は後者だ。後者はいないと困るが、前者はいると困る。

 なお、このときに三河国に源行家がいたことが、後に一つの戦闘を消すと同時に、多大な戦乱を生む遠因となる。


 もう一つの信濃国についてであるが、こちらは具体的な日付については史料によってバラバラであるため判明していないものの、おそらく、右大臣九条兼実の記した治承五(一一八一)年六月というのが正しいところであろうと推測される。吾妻鏡だと翌年の一〇月、平家物語だと同じ年だが九月の出来事であるとしており、そのどちらも遅すぎる。出来事の発生タイミングそのものが遅すぎるし、出来事の影響が及んだのがいつであるかを考えても遅すぎる。九条兼実の日記にある六月であるなら時間軸が合うのだ。

 既に記してきたように、城資永は信濃国への侵攻を企み、兵力を集めていたところで亡くなった。治承五(一一八一)年二月二五日のことである。その後、弟の城助茂が城氏を継承し、兄の計画した信濃国侵攻の準備を進めていた。なお、このあたりで城助茂は名を城長茂と改めたようで、この後の記録では城長茂と記されている。平家物語では平家から出動要請があってはじめて出動したとなっており、その際に名を城助茂から城長茂に変えたとある。

 城長茂の率いる軍勢はおよそ一万人。既に兵糧は残り少なくなっており、生き残るためには国境を越えて信濃国に進んで食糧を奪い取るしかなかったこともあって、競うように城長茂のもとに軍勢が集い、一万人の軍勢は国境を越え、馬を進めた。

 越後国から信濃国に城氏の軍勢が向かってきていることを木曾義仲はかなり早い段階で察知したようであるが、越後国からの軍勢を迎え撃つための人員を集めることに手間取って、信濃国の長野盆地の奥深くまで侵攻を許してしまう。木曾義仲は信濃国だけでなく上野国の武士を集めることに成功したものの、長野盆地の南にある上田盆地にまで兵を進めるのが精一杯で、集めた兵力も城長茂の三分の一ほどであったという。人数の誇張はいつものことであるが、人数比において木曾義仲が決定的に厳しい状態であったことは言えるであろう。

 それでも木曾義仲には勝算があった。

 信濃国に侵攻し長野盆地をほぼ制圧した城長茂の軍勢は、南方の上田盆地から木曾義仲率いる軍勢が北上してきていることを察知し、横田河原、現在の長野市篠ノ井に陣を構え、周囲の民家に火を放った。城長茂の軍勢にとって信濃国の民家は略奪の対象か戦闘の障害物でしかないという認識であり、そこに住む人の命についても気に留める代物ではなかった。

 治承五(一一八一)年六月一三日、木曾義仲率いる軍勢が千曲川を挟んで東岸にある長野市松代まで到着。木曾義仲は楯親忠に命じて敵情視察に当たらせ作戦を練っている。楯親忠は木曾義仲の旧来の家臣ではないが今回の侵略に抵抗するために木曾方の軍勢に加わっており、後に木曾義仲四天王の一人に数えられることとなる人物である。なお、木曾義仲はその間に近くの八幡社に参詣して戦勝祈願をしており、木曾義仲の右筆である覚明(かくみょう)が木曾義仲の名で奉納した願文は現在でも富山県小矢部市護国八幡宮に保管されている。

富山県小矢部市護国八幡宮にて保管されている木曾義仲願文

 翌六月一四日の朝、上野国から木曾方に参戦していた西広助と、城軍の戦陣を務める笠原頼直の対戦で切って落とされた。前年九月七日に東海道のバイパス開拓を試みて木曾義仲の軍勢と衝突し、越後国に逃れていた笠原頼直である。笠原頼直にとってこの戦いはリベンジのチャンスでもあった。

 この衝突をきっかけに両軍は全面激突となったが木曾義仲は全軍を前線に繰り出したわけではなかった。井上光盛に部隊の一部の指揮を任せ迂回させていたのである。しかも、迂回させる軍勢は平家の印である赤い旗を掲げさせていた。その上で、迂回させるとき、わざと兵と兵との間を広くとっていた。周囲の地形は、平原でも、民家の多い住宅地でも、田畑の広がる田園でもなく、木々の茂っている林である。城軍は木々の中に赤い旗が広がっているのを見て平家の仲間がやってきたのだと考え、合流して木曾方めがけて一気に軍を進めようとした。

 ところが、林の中に翻ってきた赤い旗が降ろされ、大量の白い旗が林の中で翻ったのである。気づけば城軍は周囲を源氏の白い旗に囲まれていたのだ。旗の多さは必ずしも軍勢の多さを示すわけではないが、周囲を敵の旗に囲まれて動揺を見せない軍隊はない。しかも林の中では何が起こっているのかも、林の中にどれだけの兵がいるのかもわからないとなれば恐懼に陥る。

 恐懼は動揺を生み、動揺を隠せぬ様子であることを見抜いた木曾義仲は残った兵力を全て率いて正面突破に打って出た。この作戦に直面した城軍は、ある者は川に追い落とされ、ある者は崖から追い落とされた。城長茂は手傷を負い、鎧も兜も脱ぎ捨てて逃走。一万人はいたはずの越後国からの軍勢のうち、越後国に逃げることができたのは三〇〇名ほどであった。

 信濃国遠征失敗は越後国において絶大な権勢を握っていた城一族の命運を破滅に追い込んだ。越後国に逃げ帰ってみたら、かつては城一族に従っていた面々がすっかり敵になっていたのだ。城氏は越後の支配者たることを維持するどころか、陸奥国の会津へ逃走することとなったのである。


 木曾義仲はここで赤と白の旗を利用した戦術を用いた。

 現在でも紅白という色分けは珍しくない。小学校の運動会でもごく普通に見られる光景だし、スポーツ界での練習でもごく普通だ。また、大晦日では歌手がこうなる。

 紅白による区分の期限が源平合戦にあることを知っている人も多いであろう。源平合戦時に平家が赤色をシンボルカラーとし、源氏は白色をシンボルカラーとしたことから、全体を二分するときに赤と白とで分けることになったというものだ。

 ところが、そのスタートは不明瞭なのである。

 確認できるところでもっとも古いのは保元物語における平清盛と源義朝であり、ともに後白河天皇方として参戦した両者の郎党が白旗と赤旗を立てていたという記述がある。ただし、保元物語は保元の乱を伝える歴史物語であるが同時代史料ではない。どんなに古くても承久の乱の頃にようやく誕生した歴史物語であり、誕生当時は既に源氏が白で平家が赤であるという固定観念が成立していたことを考えなければならない。それに、保元の乱は源氏と平家の戦いではなく、源平の双方が後白河天皇と崇徳上皇の側に立った戦いである。源氏と平氏の戦いというのであれば敵味方の識別を色で行うのは理に適っているが、源平の双方ともが敵にも味方にもいるという戦いでは、氏族と直結している色を識別に用いるのは不合理極まりない。

 平家物語において、平家が赤であり、源氏が白であることを明確に記しているのは、この、木曾義仲と城長茂との戦いの場面が最初である。それよりも前の戦いにおいては、源氏の白も平家の赤も登場しない。色についての記載があったとしてもそれは鎧や兜に用いられているデザインとしての色の使用であり、平家であろうと源氏であろうと関係なく、両者とも鎧や兜の色として使用している。

 源氏が白色の旗を使用した例を遡ると後冷泉天皇が源頼義に下賜した旗にまで遡ることができる。日本最古の日の丸として現在も山梨県の雲峰寺に保管されている旗がそれで、白地に赤丸のデザインが採用されたことが確認できる日本最古の事例だ。源頼義の子孫を自負する源氏の面々が源頼義に下賜された旗を使い続けるのはおかしな話ではない。なお、平家物語の記録によると白地の旗ではあるが日の丸であるとは明記されておらず、平家物語絵巻を見ても、源氏方としては白一色か、白地に黒のデザインの旗が多く、白地に赤い丸が描かれた現在の日の丸につながるデザインの旗はあまり多く使われていない。

 平家物語のバージョンによっては、石橋山の戦いにおいて源頼朝が白旗に後白河法皇より下された平家打倒を命じる院宣の書状を結びつけて戦ったとするものもあるが、そもそも石橋山の戦いの前の段階で後白河法皇が源頼朝に院宣を下したという記録は無く、平家物語の同箇所も、源頼朝の側に仕えるようになった文覚の超人的な働きを示すエピソードとして挿入されたものと考えるべきであろう。何しろ伊豆から福原まで三日で移動し、後白河法皇の院宣を受け取ってまた三日で福原から伊豆へと帰ってきたのだ。マラソン選手が一ヶ月間の練習で走る距離を六日間で移動したのである。石橋山の戦いで源頼朝が白旗を使用していた可能性はあるが、それを氏族のシンボルカラーとしていたかどうかは怪しい。

 それでいて、石橋山の戦いから一年も経たずに、平家が赤を、源氏が白を、それぞれイメージカラーとして採用するようになっている。これはどういうことか?

 結果的にそうなってしまったのである。

 まず、平家の赤であるが、平家は源氏を討伐するという名目で軍勢を起こした。平家が軍勢の主軸を担っているものの、法的には朝廷の派遣する反乱討伐軍である。現在、日の丸と言えば白地に赤丸であるが、かつては赤地に金丸であった。今でも「錦(にしき)の御旗(みはた)」という言葉があるが、この錦の御旗が赤地に金丸である。錦の御旗という言葉そのものの初出は後鳥羽上皇の時代であるが、錦の御旗のデザインは続日本紀に記された文武天皇の朝賀時の記録にあるのが最古であり、律令制においては、朝廷が軍勢を派遣するとき、その軍隊に赤地に金丸の旗を掲げさせるのが慣わしであった。平家はその慣わしを踏襲したのである。平家は赤を選んだのではなく、朝廷の権威は自らのもとにあることを示すことを選んだ結果、平家の軍勢のシンボルカラーが赤色になったのだ。

 一方、源氏の白であるが、こちらは八幡神に由来すると考えられる。

 現在でも神社に行けば参道に大量の幟(のぼり)が立てられているのを目にするが、あの形がこの時代の旗の形だ。神社になぜ幟(のぼり)が立てられているのかというと、神を迎え入れるための目印となる招代(おきしろ)としての役割があるからである。平安時代はまだ幟(のぼり)と呼ばれておらず「流れ旗」と呼ばれており、その延長で、源平合戦における旗は流れ旗と呼ばれるか、あるいは単に旗と記すだけでそれが流れ旗を意味する単語となっていた。ちなみに、幟(のぼり)という単語は戦国時代には使われていた記録があるもののそれより前に遡ることはできない。

 清和源氏は八幡神を信仰しており、現在でこそ八幡神社の幟(のぼり)は白以外も存在するが、この時代の八幡神の招代(おきしろ)は白色だ。白色に黒で文字や紋を描いているのが通例で、源氏は八幡神の招代(おきしろ)を自軍の軍勢に掲げることにした結果、源氏は白がシンボルカラーとなった。

 ちなみに、この時代の旗の形現在と大きく違う。先に記した幟(のぼり)を思い浮かべていただければピンと来ると思われるが、縦長である。ただし、幟(のぼり)よりもはるかに縦長で、横幅はおよそ七二センチメートルなのに対し、縦の長さは横幅の五倍はあり、およそ三メートル六〇センチというのが一般的なサイズだ。そして、現在の日の丸は旗のほぼ中央に真円が描かれているのに対し、この時代は日の丸の真円を含むデザインの図形部分は旗の上部に描かれ、下部七割ほどは無地か何かしらの文字が記されているのが普通である。


 盤石に見えていた源頼朝の御家人たちの結束であるが、治承五(一一八一)年六月一九日、そのほころびの萌芽というべき事件が発生した。ただし、六月一九日の出来事については吾妻鏡のみの記述であり、かつ、その内容は吾妻鏡の作者にとって都合良く改編されている可能性が高いことを前もって記しておく。

 吾妻鏡の記述によると、源頼朝が納涼のために三浦半島にまで出向いたという。一度は奪われていた三浦半島も今は三浦一族の元に戻っており、この日は三浦義澄らが源頼朝を迎え入れるという光景であった。

 三浦一族は、馬上の源頼朝を郎党五〇名ほどで揃って下馬をして砂上に平伏して出迎えた。この時代における最大級の礼儀の姿勢である。しかし、下馬せず、平伏しなかった武士が一人だけいた。上総介広常だ。そもそも上総介広常は三浦一族ではないが、御家人たちに置ける重臣として源頼朝とともに三浦半島にやってきていた。上総介広常は源頼朝に対し、馬に乗ったままで頭を下げたのである。三浦義澄の弟である佐原義連が上総介広常の馬の前に出てそれは無礼ではないかと言ったが、上総介広常は祖父の代からこれまでそのような礼をとったことはないとして三浦一族と同様の礼を示すのは拒否した。

 このあと、全員で亡き三浦義明の屋敷へ行った。そこには上総介広常も含まれている。

 三浦義澄は亡き父の屋敷で皆を歓待するため酒や料理を用意していた。

 酒宴が進むに従って誰もが酔いだし、酔った勢いで岡崎義実が源頼朝の着ている水干(すいかん)をねだった。この時代の服は高い。山賊に襲われて身ぐるみ剥がされたなどという話があったのも衣服が高価で簡単に手に入らなかったものであったからで、源頼朝から何かから拝領するとしたら、所領、名馬に次ぐ価値を有していたのが衣服であった。その中でも源頼朝の着ている衣服とあれば衣服の中でも最上級だ。衣服としての品質も最上級だが、源頼朝の着ていた服であるという履歴が服に価値を持たせる。

 源頼朝はこれまでの岡崎義実の功績を考えると衣服を与えるのは妥当であると考え、その場で水干(すいかん)を脱いで岡崎義実に渡した。

 この光景を見ていた上総介広常は「そのような綺麗な高貴な人の衣服は自分こそが受け取るのに相応しい。岡崎義実のような年寄りには相応しくない」と言った。

 これに怒ったのが岡崎義実である。「上総介広常は部下がたくさんいるから手柄もたくさんあるように見えるが、こっちは伊豆で挙兵したときからずっと戦ってきたのだ。一緒にするな」と言い返した。

 ここから先が現在と違うとすべきか、罵りあいから殴り合いへと発展した。岡崎義実は間違いなく七〇歳を超えている。上総介広常はもう少し歳下であろうが、それでも保元の乱に部下を従えて参戦した過去を持っていることから、上総介広常もこのときかなりの年齢である。忘れてはならないのは、平均寿命が八〇歳を超える現在と違って、この時代は五〇歳で高齢者扱いされる時代だ。

 この二人の高齢者の殴り合いを制したのが佐原義連だった。「兄がせっかくみなさんをお迎えしているのになぜ喧嘩をするのか」と止めたのはまだいいが、ここから先の佐原義連の言葉はなかなかに辛辣である。岡崎義実を上総介広常が言ったのと同レベルで老害扱いし、上総介広常に対しては現代語だと放送禁止用語になりかねない言葉を形容詞と用いて罵り、文句があるなら後日にしろと言ったのである。

 以上が吾妻鏡の伝える出来事である。どこまでが真実であるかわからない。そもそもこんな出来事など存在せず、吾妻鏡を作成したときに生み出された捏造の可能性もある。

 確実に言えるのは、上総介広常が御家人たちの中から段々と浮いてきていたことである。


 治承五(一一八一)年七月一日、京都に戦慄が走った。越後国の城一族が敗れたという知らせが届いたのだ。それも小競り合いで負けたのではなく、城一族の総力を結集させた軍隊が信濃国の無名の武将の前に完膚なきまでに敗れ去り、城長茂は何とか越後国にまで逃げ延びたものの、越後国にも居場所がなくなって陸奥国の会津まで逃亡し、さらには会津で奥州藤原氏の軍勢に敗れ、出陣時には一万を越えていた軍勢が今はわずかに四〇騎から五〇騎ほどの軍勢となって佐渡に逃亡したというのがその知らせの内容だ。この頃の京都には先日から戦慄が走っていた。その戦慄が何であるかは藤原定家が書き残した日記に残されている。治承五(一一八一)年六月二五日のこととして、現在で言うカシオペア座の方角に突如、巨大な星が現れたというのだ。同じ記録は同時期の宋代の書物にも残されており、現在では突然現れた星が超新星爆発によるものであることが証明されている。しかし、当時の人たちには超新星爆発という天文学知識は存在しない。存在しないが、誰もが普遍と考えてきた夜空ですら変わることがあるのだという事実は理解できる。それは戦慄以外の何物でも無かった。戦慄が走っているタイミングで届いた越後国からの知らせはこれから先の時代が今までと違う時代になること、それも、良くない意味で違う時代になることを伝えた。

 源頼朝のように自律的に正確な情報を掴もうとしない限り、情報というものは尾鰭がついて回る宿命を持つ。このときも会津にまで逃れたことはその通りであるがそのあとで佐渡に逃れたという記録はない。というのも、城長茂と平家はこの後もコンタクトをとり続けているのである。しかも平家がコンタクトを取った先は城一族の本拠地である白河荘だ。つまり、城長茂が会津まで逃亡したあとで本拠地に戻ることができたのである。白河荘は現在の新潟市北区から新潟県阿賀野市に掛けてのエリアであり、会津から佐渡に行こうとすれば途中までは白河荘に至るルートと同じになるので、佐渡に逃亡しようとしていると捉えられてもおかしくはなかったと言える。

 平家のもとには、源頼朝ほどではないにしても正確な情報が届いている。しかし、その情報は一般公開されるような情報ではないため、京都市中には正確な情報が届かないまま玉石混交の情報となって届いてきており、どうやら城長茂が敗れたのは事実であると判明すると、城長茂が佐渡に逃れたことは確定事項となった。そして今度は、城長茂を打ち破った無名の武将はいったい誰なのだという情報が錯綜するようになっていた。

 もっとも広まっていたのは源頼朝に仕える武士の誰かであるという情報であり、次いで甲斐源氏の誰かという情報である。そのあとで、源義賢の次男である源義仲が城長茂を討ち取った武将であると判明すると、源頼朝とは従兄弟同士にあたることから、やはり源頼朝の配下の武将の一人であるという話に収斂されていった。この時点で木曾義仲が源頼朝と一線を画している別個の勢力であるという認識はされていなかった。

 北陸道からの情報は日を追う毎に悲壮感を増していった。

 まず、能登国の目代が逃亡した。

 次いで、越中国で反平家の挙兵の動きがあった。

 さらに加賀国でも反平家の挙兵が見られた。

 そして、越後国から一つの情報が届いた。城長茂を討ち破った木曾義仲がそのまま越後国に進出し、越後国府を制圧したというのである。この時点で越後国全体を木曾義仲が制圧したわけではないが、やはり国府陥落というのは大きなショックをもたらすニュースである。

 ここで越後国府について記さねばならないことがある。

 それは、越後国府の位置。

 政令指定都市新潟を思い浮かべたとき、越後国の中心地もやはり現在の新潟市、あるいはその近くであったろうと思い浮かべるかも知れないが、現在の新潟市が越後国の経済拠点となるのは江戸時代に入ってからであり、それまで越後国の中心は直江津にあった。信濃国から越後国に向かうと直江津に出る。木曾義仲が城長茂を追いかけて越後国に行けばそのまま越後国府を襲撃することになる。そして、国府制圧後の木曾義仲は城長茂を追いかけておらず越後国府の制圧をもって城長茂討伐遠征の終わりとしている。ただし、行軍の終わりを意味したわけではない。

 なぜ城長茂を追いかけなかったのかについて、そもそも兵力が足らなかったから追いかけることができなかったとする説もあるが、私はそこに異を唱えたい、兵力が足りていたとして木曾義仲はそもそも城長茂を追いかける必要が無かったのだ。直江津は、越後国府のある土地であると同時に、北陸道と、東山道から北陸道に向かう北陸道連絡路の合流地点である。東に向かえば城長茂を打倒できるであろう。だが、西へ向かえば京都につながっている。越後国府が木曾義仲の手に落ち、越中国、加賀国、能登国と、北陸道の諸国で反平家の動きが挙兵となっている。これを木曾義仲の視点で捉えると、越前国の目と鼻の先までの北陸道が木曾義仲の手に落ちるのも時間の問題であるとの結論に至る。越前国まで出たらすぐ南にあるのは近江国。琵琶湖を縦断すれば目と鼻に先に京都がある。

 ゴールが見えてきたのだ。

 源頼朝と別行動をしているとは言え木曾義仲の行動目的も平家打倒であり、越後国の武人一人を相手にするのと、京都にまで軍を進めて平家そのものを討伐するのと、果たしてどちらが目的達成の近道であるか。答えは記すまでもない。

 このあたりが源頼朝との考え方の違いである。

 源頼朝だって上洛しようと思えばできなくはない。ただ、京都に攻め込んで何をするのかという問題がある。

 木曾義仲のその後の行動を知っている人は、木曾義仲の残忍さ、あるいは野蛮さを感じるであろう。しかし、それは木曾義仲個人の問題なだけでもなく、木曾義仲に仕える兵たちの問題なだけでもない、より大きな大問題が存在している。

 兵糧がないのだ。

 食い物がないところで京都にゴールを定めて行軍しようものなら、途中で多くの兵が脱落する。脱落しないで済んだ兵は例外なく空腹にあえいでいる。そんな彼らのただ一つの希望は京都に着けば苦しみから解放されるという希望だ。そんな希望を心の拠り所にしたらゴール地点で何が起こるか。

 源頼朝の御家人とてその危険性は充分にあったのだ。ただ、危険性があることと、危険性を実現させることとは全くの別問題である。京都にゴールを定めて行軍させるということをしなければ、それだけで危険性の爆発は可能性がゼロになる。多くの御家人は平家打倒を掲げて京都に行くことを願っているが、現時点の食糧事情で京都に行こうものなら待っているのは飢餓に苦しむ日々だ。食糧の現地調達など夢の話であり、それどころか乏しい食糧を行軍路に配って回らねばならない。しかも、源頼朝にとって、また、御家人たちにとって、平家打倒はスタートであってゴールではない。平家を打倒したあとで何をするかを考えたとき、現時点の源頼朝にできるのは平家だけを敵とし、平家以外の全ての人を味方に留めおくことである。それは間違いなく長期戦になる。

 それが具体的に何月何日のことであるかわからない。しかし、源頼朝は七月中に後白河法皇に密書を送っている。後白河法皇のもとに到着したのが七月であり、書状を書き記したのは六月中であった可能性もある。

 書状で源頼朝は、自分たちは後白河院に対する謀叛などしておらず、後白河院の敵を倒すために挙兵したのだと述べている。

 この書状に対する後白河法皇の返答はない。しかし、ここではじめて朝廷のもとに源頼朝の直接の声が届いたこととなる。

 源頼朝は反乱軍ではない。国の敵を倒すために起ち上がった軍隊であるという源頼朝の宣言が届いたのだ。


 後白河法皇への書状は非公式なものであり、治承五(一一八一)年七月中の源頼朝の公的な記録として残さているのは、まずは鶴岡八幡宮の造営である。鶴岡八幡宮は鳥居が立ったもののまだ完成してはおらず、その中でも社殿の建立がまだであった。七月三日に源頼朝が鶴岡八幡宮の社殿の造営ができる人材を探しても鎌倉はおろか相模国にも見つからなかったため、武蔵国浅草の大工の棟梁を鎌倉に招くよう僧の昌寛に依頼したというのが治承五(一一八一)年七月における源頼朝の記録の初出だ。

 それは同時に文献資料に残る浅草の地名の初出でもある。

 もっとも、浅草の歴史はもっと古い。浅草寺自身の記録によれば推古天皇の時代に隅田川で観音像を拾い上げたことからその地に寺院を建立したのがはじまりであるといい、発掘調査からも、当時の浅草は隅田川の河口に近いだけでなく周囲よりも高台にあるため災害から逃れることができ、かつ、漁業にも便利な土地であるために多くの民家などが建ち並んでいたことが判明している。ちなみに、浅草寺のきっかけとなった観音像は現在の埼玉県飯能市にあった堂に安置されていた観音像が大雨で川に流されたものであり、浅草寺にしてみれば隅田川で拾い上げられた神秘な観音像でも、流された側にとってはこちらのものという意識が働く。そのため観音像を返せという飯能と返さないという浅草とで揉めたという言い伝えもある。

 七月三日に招かれた浅草寺の大工の棟梁が多くの仲間たちとともに鎌倉に到着したのは七月八日であるが、忘れてはならないのは、これは鎌倉と浅草の往復であるということだ。使者が浅草に到着したのがいつで、朝倉から鎌倉に向けて出発したのもいつなのかも記録にない。かなり急いだであろうと推測できるだけである。何しろ工事完了予定は翌月一五日であり、到着したその日から早速工事が始まったという記録もあるのだ。

 次いで記録に残っているのは御家人の増員である。平井久重は斬首となったが、それは、平井久重が最後まで源頼朝に臣従せずに悪態をつき続け敵愾心を隠さなかったからである。源頼朝は自らのへの臣従を誓った者であれば、かつては平家方として起ち上がった者であっても御家人として迎え入れている。では、身柄は源頼朝のもとに、あるいは源頼朝の御家人のもとにあり、今はもう敵愾心を見せてはいないものの源頼朝への臣従を誓っていない者となるとどうなるか?

 その答えが示されたのは七月五日のことである。この日、長尾定景が新たに御家人に加わったのだ。長尾定景は石橋山の戦いで佐奈田義忠を討ち取った平家方の武士であり、前年一〇月二六日に三浦義澄のもとに身柄が預けられたのち、身柄を岡崎義実の元へと移されていた。このように書くと三浦義澄のもとから、三浦義澄の叔父である岡崎義実のもとへと移されただけに感じるであろうが、岡崎義実が佐奈田義忠の実父であるとなると話は簡単ではなくなる。息子を殺した憎たらしい敵以外の何者でもない。しかし、岡崎義実から長尾定景の助命嘆願が源頼朝のもとに届けられるとなると話は変わる。他の誰よりも長尾定景のことが憎くて仕方ないであろう人物から助命嘆願が来たとあっては、他の誰も文句は言えなくなる。

 長尾定景はこののち、三浦党の一員を構成する武士として源氏に仕える身となっている。


 さて、意外に思うかも知れないが、この頃の源義経は鎌倉方の武将の一人としてカウントされていない。とは言え源頼朝の周囲の一人としては存在していて、養和元(一一八一)年七月一四日、鶴岡八幡宝殿上棟の際に源義経に対して大工の馬を引くよう命じられたことの記録が残っている。六月一九日に源頼朝とともに三浦半島へ同行した武士の中にもしかしたら源義経ではないかと推測できる人物がいるが、源義経の名が明瞭に示される記録となると七月一四日まで待たねばならない。

 源義経のエピソードが乏しいのは平家物語や吾妻鏡、あるいはこの時代の貴族の日記を資料としているからで、他の書物、たとえば義経記なら詳しいのではないかと思う人も居るかもしれないが、義経記ですらこの頃の源義経についての記載は乏しい。乏しいと言うより、無い。義経記は、第四巻第一話が源義経と源頼朝との再会のシーンで終わり、第四巻第二話は壇ノ浦からの凱旋から始まっている。源義経のもっとも華々しい出番が物の見事に抜け落ちているのが義経記という作品だ。というより、既に知られている源義経についてのエピソードは他の作品に任せ、未だ知られていない源義経についてのエピソードをまとめた作品が義経記であると考えた方がいい。

 さて、ここまで書いて違和感を覚えた方はいないであろうか?

 元号がいつ代わったのか、と。

 正解は七月一四日である。凶作が続いているために改元すると発表になった。当然ながら京都で決まったことをその日のうちに鎌倉で届けるなどできないわけで、源頼朝はこのあとも治承の元号を使い続けている。

 それだけならば京都と鎌倉のタイムラグでありおかしなことはないが、源頼朝はその後も養和の元号を使わずに治承五年、さらには治承六年と旧来の元号を使い続けるのである。これは源頼朝だけではなく鎌倉方の全員がそうで、相手からいくら養和元年の日付の書状を送られようと、鎌倉からは治承の元号の書状が発給されたのだ。

 理由は簡単で、鎌倉は平家政権を認めていないのだ。

 平家の圧力によって決められた元号を使うつもりなどなく、これまで通りの治承が元号であるとするのが鎌倉方の主張だったのである。ちなみに、平家も後に同じことをやる。

 ただし、養和の元号を用いなかったのは当時の鎌倉方だけで、後の鎌倉方は養和の元号も認めて使用している。七月一四日以降は吾妻鏡ですら治承五年ではなく養和元年としているほどだ。

 本作も、以降は治承五年ではなく養和元年として記していく。


 養和元年(一一八一)七月二〇日、鶴岡八幡宮社殿の上棟式が催され、源頼朝は仮設の観覧席に座って大工に与える馬を御家人たちが先導していく姿を眺めていた。

 浅草からやってきてくれた大工たちは頑張ってくれた。八月一五日完了が命じられていたのに、七月二〇日にはもう上棟式を開催できるところまで来たのである。無論、上棟式、すなわち骨組みが完成した状態で開催される式典なのでまだまだ工事は続く。しかし、この難工事を予定通り、いや、予定以上のペースでこなしてくれていることは源頼朝も満悦であり、当時としては破格の報奨を用意した。

 馬だ。

 武士であれば誰もが羨む名馬であるだけでなく、馬を引いてくるのが源義経であり、その後ろに畠山重忠、佐貫広綱、土肥実平、工藤景光、新田忠常、佐野忠家、宇佐美実政といった面々がそれぞれ馬を引いてやってきている。こうした御家人たちが大工に馬を手渡したのだ。想像していただきたい。新国立競技場の工事の途中にときの内閣の大臣一人一人が建設現場で働く人たちに頭を下げて首相からの贈答品を手渡している様子を、しかも、そのうちの先頭を歩いているのは首相の弟である様子を。これで感激しない者がいるであろうか。

 武士でない人にとっての名馬は貰っても猫に小判となりかねないが、その名馬を欲しがる武士は数多くいる。受け取った名馬は、名馬を欲しがる武士に、源頼朝の見ている前で源頼朝が問題ないと認める対価で譲り渡すことも可能だ。書状一枚で鎌倉まで呼ばれたときは源頼朝のことをとんでもない人だと思ったであろうが、仕事を終えて鎌倉から浅草に帰ってみればいきなりの大金持ちになって帰ってきたのである。おとぎ話で言うところの鬼ヶ島から帰ってきたときの桃太郎の光景だ。あるいは浅草から家族を招くこともあるだろう。鶴岡八幡宮の社殿を建てた大工とあれば浅草に戻らずに鎌倉に住み続けたとしても仕事が引く手あまただ。鎌倉は現在進行形で成長している都市であり、都市鎌倉の建築需要は休むことを知らないでいる。浅草に戻るより鎌倉に留まる方がより多くの仕事とより高い給与に巡り会え、鶴岡八幡宮を手がけたという経験がきっかけとなって手に職つけた豊かな暮らしを手にできるとあれば浅草に留まるより鎌倉に転居したほうが賢明だ。大工としての仕事はまだまだあるからから鬼ヶ島ならぬ鎌倉から帰ることはできないが、完成させた後の家族の喜ぶ姿を考えたら鶴岡八幡宮の社殿を完成させることへの意欲は消えることなく続くし、ますます湧いてくる。

 最初の挙兵時に自分とともに戦ってくれる全ての仲間に「これは秘密にしておいてほしいのだが、ともに闘ってくれる仲間の中で、そなただけが頼りなのだ」と言ったことといい、武将としては三流でも政治家としては超一流であるとする源頼朝の評価には、こうした人心掌握術に由来するところも多い。


 ただ、いくら人心掌握術に長けた人であるとしても、源頼朝を敵と認定している人を変心させるほどではない。

 その出来事が示されたのが、まさに鶴岡八幡宮の社殿の上棟式が無事に終わった直後のことである。上棟式が終わったのは申刻、現在の時制にすると夕方の四時頃である。鶴岡八幡宮を退出した源頼朝は、自分とともに鶴岡八幡宮を退出する人の中に見慣れぬ人が混ざっており、かつ、その人が源頼朝に近寄ろうとしているのに気づいた。いかに武士としてはひ弱で武将としては三流でも、源頼朝は武士としての修練は積んでいる。それに、源頼朝の周囲を囲む御家人はその誰もが戦場を生き抜いてきた武士だ。不審者が紛れ込んでいるのも気づいた。

 源頼朝が立ちどまると同時に御家人の一人である下河辺行平が飛び出し、不審者を取り押さえた。取り押さえてみると、見かけこそはごく普通の直垂(ひたたれ)姿であるが、その下に鎧の銅の部分を着込んでいた。さらに髻(もとどり)には一枚の札が付してあり、その札には、「安房国住人長狭六郎郎等左中太常澄」と記してあった。

 屋敷に連行してこの男が何者であるかを尋問したが、この男から返ってくるのは、言い訳などするつもりは無いからさっさと斬り殺してくれという言葉のみである。下河辺行平から、斬首するのは当然だが何の目的でここまで来たのかを知らせることのないまま死んでしまうのは無意味ではないのかという言葉が出て、男はようやく供述を始めた。

 髻(もとどり)に付してあった札は、この男の素性を記した者であった。

 左中太常澄がこの者の名であり、左中太常澄はかつて安房国の長狭六郎こと長狭常伴(ながさのつねとも)に仕えていた。しかし、源頼朝が安房国に上陸した直後に討ち取られ、自分たち長狭常伴(ながさのつねとも)の部下たちは主(あるじ)無き身となって各地を流転せざるを得なくなり、その悔しさをどうしても捨てることができず、恨みを晴らすべく源頼朝の暗殺を狙っていたのだという。髻(もとどり)に札を付しておいたのも、源頼朝暗殺が命と引き替えとなったときに自分の素性を明らかにさせるためであった。

 源頼朝は左中太常澄の斬首を命じたが、本日は鶴岡八幡宮の上棟式なので不吉なことは良くないとし、刑罰は明日にするとして左中太常澄の身柄を侍所所司である梶原景時に引き渡した。また、左中太常澄を捕らえた下河辺行平は、報奨として下総国下河辺庄から毎年下総国府に上納していた貢馬の免除を認めた。貢馬(くめ)とは文字通り馬を献上することで、下総国下河辺庄は育成した馬を税として毎年国府に納めていたのであるが、今後はその税が免除となったのである。

 養和元年(一一八一)七月二一日、侍所別当和田義盛と侍所所司梶原景時は、左中太常澄を斬首とするために片瀬川に向かった。ところがここで源頼朝から横槍が入った。下の名前は吾妻鏡に記されていないので不明だが、遠藤という苗字の武士が追いついて、梶原景時は鶴岡八幡宮造営の事務方でもあるのでただちに鶴岡八幡宮に戻り、代わりに天野光家を派遣するので和田義盛とともに処罰せよという源頼朝の命令を伝えたのである。いかに武士とは言え、死罪という、宗教施設の造営時に穢(けがれ)となることに携わらせるわけにはいかなかったのだ。

 この一部始終を耳にした左中太常澄は、そんなわかりきったことを今になって気づいて慌てて決めるとは軽々しいと最後まで源頼朝を見下す姿勢を崩さなかった。

 それが左中太常澄の最後の言葉となった。

 左中太常澄、片瀬川にて斬首。関東地方における平家の残党勢力がこれでまた一つ消えた。


 養和元(一一八一)年八月一日、九条兼実の日記によると源頼朝から後白河法皇宛に二回目の書状が送られた。前回は密書であったのに対し今回は公開文だ。源頼朝はここで改めて、自分たちは反乱軍ではなく後白河法皇の敵である平家の打倒が目的であるとした。ここまでは前回と同じであるが、ここから先が違う。平家討伐を目的とはしているが朝廷が平家滅亡を禁じるというならば従うとし、源平両者が並立して東を源氏、西を平氏が支配することで、全国各地で発生している反乱を共に鎮圧し、その上で朝廷が各国に国司を補任するのであれば源氏は東において国司に従う用意があるとしたのである。

 既に飢饉は取り返しのつかない段階にまで来ていた。ここで戦闘を再開しようものなら国民生活はいよいよ完全に破壊される。前年の不作を考えると、せめてこの年の収穫がどうにかなるまでは互いに動かないままでいないと餓死者続出という惨状を招いてしまう上に、少なくとも四国と九州では反平家で立ち上がった在地の武士が山賊と化し海賊と化して民衆を苦しめている光景が展開されている。ゆえに、名目はともかく、飢餓を食い止め、国民生活の平穏回復のために、ここは互いに軍勢を動かすのを止めておくべきというのが源頼朝の主張であった。

 前述の通り、この書状は密書ではなく公開文である。最初に受け取ったのは後白河法皇であるが、ほとんど間を置かずに平宗盛も源頼朝の公開文の内容を知ることとなった。源頼朝からの公開文を京都内外のほとんどの人が目にしたことを理解した上で、平宗盛は到底受け入れることができない内容であるとして源頼朝からの停戦の申し入れを拒否し、改めて源氏討伐を宣言したのである。

 平宗盛には平清盛のような政治的センスも平重盛のような文武両道の優秀さも無い。しかし、政治については全くの素人というわけではなく、自分が平家の最高責任者であるという自負も責任感もある。平家を率いる身になった以上、平清盛の遺言を結実させる義務があると考えた平宗盛は、国民生活を考えたならば愚策を続行したこととなるが、平家のことだけを考えるならば理解できる行動をしたのである。そうしなければ平家は空中分解してしまうのだ。

 平家は鎌倉方と違って朝廷に自らの権力を送り込んでいる。議政官の決議を通せば正当な法令となって天皇の名で全国に公布することができる。これが源氏と大きく違う点である。

 まず、養和元(一一八一)年八月一三日に北陸道での反乱鎮圧のための北陸道追討使派遣の宣旨が発せられ、本拠地に戻っていた城長茂に対してさらなる軍勢発動指令が出された。源頼朝の法的根拠が以仁王の令旨、すなわち親王が個人的に出した文書であるのに対し、平宗盛が出すことに成功したのは宣旨、すなわち議政官の決議を経て天皇の名で出される正式は国家の命令である。なお、ここで北陸道追討の宣旨となっているが、正確には北陸道方面に展開している源頼朝と源信義の軍勢の討伐であり、この時点でもまだ木曾義仲が源頼朝の支配下にある一武将であると考えられていた。

 次いで、八月一四日に平氏の家人である平貞能を肥後国で発生した反乱の鎮圧のために九州へ向けて派遣することが決まった。

 そして、八月一五日、奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡を陸奥守に任命した上で、朝廷軍の一員として源頼朝を討伐するように命じた。同日、平通盛が越前守を辞任したため、平親房を後任の越前守に任命した。さらに、北陸道追討使に任命された平通盛と平経正が北陸道の反乱軍討伐のために出発した。既に越後守に城長茂が就任していたことに加え、陸奥国は奥州藤原氏の人間が国司となったこと、すなわち朝廷で任命した京都在住の国司が代理人を目代として令制国に送り込むならともかく、現地の豪族を国司に任命したことに対して憤慨する人は多く、九条兼実もその日記に「天下の恥」と書き殴っている。

 八月一六日、既に発令されている北陸道反乱軍追討の宣旨を掲げて、平清綱の率いる軍勢が東国に向けて出発した。

 スタートである八月一日から数えると半月以上の時間を要しているが、宣旨の出た八月一三日から数えると、かなりのスピード感を持っての各種の指令の発令である。通常であればならこのスピード感は感嘆の念を以て迎え入れられ、敵とされた側は驚愕したであろう。

 相手が源頼朝でなければ、の話だが、

 八月一三日に宣旨が出た。八月一六日に東国に向けての軍勢が出発した。

 その上で源頼朝がこれらの一部始終の情報を掴んだ日付を書き記す。

 なんと、八月二六日である。しかも書状の送り主は京都の三善康信だ。

 これだけのスピードを持った情報収集システムがある源頼朝を相手にするのだ。暗殺はともかく、軍勢派遣による正面衝突は、無防備なところへの奇襲攻撃ではなく、既に待ち伏せしているところへの突入になってしまう。


 養和元(一一八一)年八月一六日、平家の命を受けて東国に向けて出発した軍勢を率いているのは平清綱である。この人は前年一二月に近江国で挙兵した源氏を討伐するために軍勢を指揮しており、そのときは伊勢国へ向かっていた。

 その平清綱がもう一度東国に向けて出発したのは、前回の遠征時に平知盛が体調を崩して京都に帰還したからである。いかに平知盛が総指揮を執る体制であるとは言え、一人の武将の体調不良が全軍撤退につながるのかという疑念を抱く人もいるかもしれないが、平知盛が総指揮を握っているからこそ軍勢が維持できており、平知盛がいなくなったら全軍撤退以外の選択肢など存在しなくなるのがこのときの平家の軍勢である。平知盛がいるからこそ軍勢は補給を受けることができ、軍勢に加わっている兵を食べていかせることができている。源頼朝を討伐するために軍勢を富士川まで向けた平維盛は、まともな補給路を確保できずに現地調達で済ませようとしたために通り過ぎた東海道諸国をことごとく源氏側につかせてしまった。この二の舞は絶対に避けなければならない。

 養和元(一一八一)年八月一三日からの矢継ぎ早の指令と行動は、その時点での平家の勢力を見せる意味もあったろう。実際、批判を浴びはしたものの、これでようやく全国各地で勃発している反乱が解決すると京都の誰もが確信したのである。そして誰もが痛感した。何だかんだ言って平家は天下を握っている氏族なのだと。ただでさえ凶作から来る飢饉の恐れから改元までしたほどだ。多くの人は変革ではなく安定を願っている。それが平家政権の存続という形での安定であっても、それはそれでやむなしと多くの人が考えたのだ。

 平家の武将の中でもっとも頼りになる平知盛が首都に居続けたままでいるが、全体の戦況を考えたときに総指揮を執る人間が根拠地たる京都に残るのはおかしな話ではない。京都に平知盛が居続ければ、京都と前線とのネットワークがそのまま食糧補給路になる。さらに、京都の治安維持を考えたときも平知盛が京都にいるといないとでは大違いだ。間もなく迎える収穫の時期を前に飛び込んでくる情報は凶作ばかり。通例ならば秋を迎えれば市場(しじょう)に出回る食糧は増えるが、今年は秋になっても市場(いちば)は閑散としたものになるのが確定したのである。首都の治安というのは時代の執政者の統治能力を示す指標の一つであり、食糧がまともに手に入らないというのはこれ以上無く治安を悪化させる要因になる。充分な食糧を市場(しじょう)に流通させるのが治安悪化を事前に食い止める最善の選択であるが、現実問題として食糧が存在しない上に前線に食糧を送らねばならないことが判明している以上、物資供給ではなく、武力に頼る強引な治安維持も選択肢としてありえる。

 ただ、平知盛を京都に常駐させることの効果があったのかどうか疑わしくなる事例がある。東国に向けて出発した平清綱の消息がこの後で消えるのだ。単に消えただけでなく、しばらく経過した後に源頼朝のもとに仕える御家人として登場するのである。この平清綱は一見すると平家に見えるが実際には平家ではない。姓こそ平であるが本を正せば美濃国の在地領主であり、滝口の武士として上京した結果の延長上として平家の軍勢の一翼を担うまでになっていたという人物だ。こうした人物を平家は活かしきれず、源頼朝は活かすことができたという証左と言えよう。


 消息を消した平清綱と違い、北陸に軍勢を進めた平通盛と平経正については消息が判明している。

 平通盛は京都まで逃げ延びるのに成功した。

 平経正は逃げることもできず若狭国に閉じ込められることとなった。

 いったい何が起こったのか?

 そもそもは平家が北陸遠征を甘く見ていたことに尽きる。あるいは平家が用意できる軍勢の限度が北陸制圧には遠く及ばぬ規模であったとするしかない。

 それでも平家には勝算があった。北陸各国の武士たちが平家のもとに集って源氏方とともに戦うという計算である。何ともムシの良い話とするしかないが、実際に近江国を取り戻し、美濃国も制圧した平家は、反乱鎮圧の流れが日本全体に流れていると感じたのだ。源頼朝は地方の反乱軍でしかなく、以仁王の令旨に始まる今回の反乱という今回の事件も、今や官軍たる平家の軍勢が反乱を鎮圧する局面に入ってきているというのが平家側の認識だったのだ。そして、時流の流れに逆らって反乱軍に協力する武士は減ると考え、時流に乗って平家に加わる、すなわち、反乱鎮圧後の自己の成功を計算して平家方の一員として、いや、官軍の一員として反乱軍と戦う武士が絶対多数を占めると考えたのである。

 その目論見は越前国の水津までに進出するところまでは成功した。いや、越前国水津までしかたどり着けなかったとするべきか。

 越前国の水津は現在の福井県敦賀市の杉津だ。越前国の南西部にあり越前国府よりも近江国や若狭国のほうが近い。つまり、源氏の勢力は越前国のほとんどを制圧し、平家の勢力は南西部を残すのみとなっていたのだ。平家の軍勢は九月一日には越前国府に入ったという記録があるのに九月四日には水津にまで押し返されている。これの意味するところは一つしかない。敗走だ。

 それでも水津に踏みとどまって勢力を盛り返すという選択肢も選べたが、越前国全体で見ると加賀国から武士が次々と乱入しては各地で暴れ廻り焼き払い続けるという光景が繰り返されており、これが平家の軍勢に大規模なダメージを与えていたのである。乱入しては焼き払うというテロリズムは、戦術としては下品だが戦略としては理解できる。何度も繰り返されるテロリズムは、テロリストに対する憎しみを抱くと同時に、住民に多大な犠牲を払わせる原因となった存在、ここでいうと平家軍に対する憎しみも生み出す。

 当初の想定はそれまで源氏側であった在地の武士が平家側に鞍替えして源氏方に向かい合うというものであったのに、気が付けば平家側であった武士が源氏側に鞍替えするまでになっていた。九月六日には燧ケ城(ひうちがじょう)に籠もり平家方として奮闘していた稲津実澄と平泉寺長吏斎明の両名が揃って源氏方に寝返り、平家に対して刃を向けたことで形成は決まった。平家軍は越前国府を正式に放棄し、平通盛は敦賀城へ退却。平経正も若狭国に逃亡するに至ったのである。


 養和元(一一八一)年九月四日に、九州に向かった平貞能から、九州に向かうどころか軍勢は備中国にまでしか到達できず、兵糧の欠乏は限界に達しているとの窮状を訴えたことで、平家の一気呵成の戦略は早くもほころびが見えていた。

 さらに九月一〇日には敦賀まで退いた平通盛から、現在は籠城中であり、かなり苦戦していることを訴える書状が届き援軍を要請してきた。

 翌日、平家は平教経を総大将とし、平行盛を副将軍として北陸へ向かう軍勢を結集することを決定した。ところが、その間にも北陸から平家軍の苦戦の情報が届き続けていた。九月一二日には、未確認情報であるとしながらも平通盛が敦賀を脱出して山中に逃げ込んだという知らせが届いたのである。

 一方で、平家は北陸に援軍を派遣するとしたはずなのに九月一三日になってもまだ援軍の出発がないことを九条兼実はその日記に書き記している。

 こうした計画と実態とのズレに対して責任を取ったのは平知盛であった。参議を辞任したのだ。参議末席として議政官を支配できていた平知盛であるが、自らの計画した反乱軍討伐の軍事計画がことごとく裏目に出てしまっていることについて、全くの無責任でいることはできなかった。

 さらに九月二五日には権中納言平時忠が兼職していた検非違使別当の地位から降り、同じく権中納言の藤原実家が検非違使別当に就任した。それまでは平家の武力を検非違使のメンバーとして計算できていたが、平知盛の参議辞任によって検非違使の体制維持にも影響が出るようになってしまい、平時忠が検非違使組織を維持することができなくなってしまったのだ。

 平清盛の死後、平家のトップには平宗盛が就いている。ただし、平家のトップであることを示す地位や称号は存在しない。そもそも平宗盛の公的な肩書きは前権大納言であり、表向きは議政官に対して何ら影響を発揮できないはずである。その平宗盛が平家のトップであることの根拠は亡き平清盛の遺言を遂行するという一事であり、それこそが平宗盛の行動理由である。ただし、この人は平清盛や、兄の平重盛と違って軍をまともに指揮した経験が無い。その穴を埋めていたのが平知盛であった。平知盛は平清盛の死後、平家の軍事指揮を一手に担う立場になっていた。いや、平清盛の死後ではなく平重盛の死後とすべきか。

 平知盛が軍政についての全責任をとることを朝廷の全ての人が認めており、そして、朝廷の誰もが平知盛の軍政が失敗であったことを認めなければならなくなっていた。その結果、平知盛は参議を辞職し議政官から離れた。

 ただし、平家はこの時点で権中納言平時忠、権中納言平頼盛、参議平教盛の三名を議政官に送り込んでいるため、平家の意思を議政官に通すことは法の上でも問題ない。

 平知盛が議政官から離れても平家の意思は議政官で活かされ続け、九月二八日に熊野で反乱が起こったという知らせを受けたときはただちに紀伊国の知行国主である平頼盛を熊野追討使に選んでいる。

 そんな中、四国から平家にとって一つの喜ばしいニュースが届いた。養和元(一一八一)年九月二七日に、平氏方である阿波国の田口成良が隣国の伊予国に侵攻し、河野通信(かわのみちのぶ)を追いやったという知らせが届いたのである。これで四国が平家方の元に戻ったと多くの者が考えたが、平知盛は違った。追いやったのであって捕縛したのではない。ましてや伊予国の河野氏と言えば瀬戸内海を航行する水軍も持っている武士である。海に出てしまったら河野通信(かわのみちのぶ)率いる軍勢がそのまま海賊となり、源氏方を名乗って瀬戸内海を航行する船に襲撃しかねない。その船が平家方であるかどうかなど関係ない。襲ったあとで明白な源氏方であったときはそのような証拠を隠蔽するし、明白な源氏方でないときは自分たちの行動が反平家であるとして正当化される。どちらに転んでも河野通信(かわのみちのぶ)側にとって都合の良い結果だ。

 平知盛はただちに四国への軍勢派遣を求めたが、それは無駄であった。指揮する武将ならばいても派遣する軍勢がないのだ。

 養和元(一一八一)年一〇月、遠征軍が再編成された。

 北陸道は平知度、平清房、平重衡、平資盛の四名が指揮する。

 東海道および東山道は平維盛が再登場し、実弟の平清隆も同行する。

 反乱が発生した熊野は平頼盛の二人の子が指揮を執る。

 そして、平宗盛、平教盛、平経盛、平頼盛、平知盛の五名は京都に残り全体の指揮を執ると同時に京都の警護と治安維持を担当する。

 なかなかに理のかなった布陣である。実現できるならば、だが。

 これも実際には延期に次ぐ延期で、最終的には遠征計画そのものが自然消滅してしまった。実現したのは平維盛の東国遠征だけである。


 なお、遠征軍を企画しながら実際には軍勢を派遣しなかったのは鎌倉でも同じであった。

 八月二六日に東国への軍勢派遣があったという知らせを受けてからも源頼朝は定期的に情報を受け取っていた。それらの情報に記されていたのは、北陸での平家の苦戦と、軍勢派遣を計画しては自然消滅している朝廷の遠征計画の繰り返しであった。

 ただし、養和元(一一八一)年一一月は違った。平維盛が近江国まで軍勢を進めたという知らせを受け取ったのである。一一月五日、源頼朝は、源義経、足利義兼、土肥実平、土屋宗遠、和田義盛らを遠江国に派遣させようとした。遠江国で平家軍を迎え撃つためである。

 しかし、この遠征に反対したのがいる。佐々木秀義だ。平家軍は近江国にいるが、そのまま東海道を進むにせよ、美濃国から東山道に向かうにせよ、尾張国に源行家が軍を率いて待ち構えていることを伝えた上で、源行家に対応させるべしとしたのである。源行家が三河国にいたことは五月の時点で判明しているので、正確な記録は残っていないが、そのあとで源行家は尾張国に向かったようである。

 源行家が討ち破るならばそれはそれで問題なし、討ち破ることができなかったとしても前年の富士川の戦いのように平維盛の率いる軍勢はかなり疲弊した軍勢となっているからやはり問題なし。秋を迎え今年の収穫が本来ならばあったはずであるが、不作のためまともな収穫がなく近江国は兵糧供出どころか兵糧支援を願い出る立場であり、前回は黙って略奪を受け入れていたが、今回はさすがに略奪を受け入れるなどできない。これ以上奪われることも殺されることもできないとして近江国で抵抗を示しているという通知は既に受け取っていた。

 源頼朝は軍勢派遣を断念した。東国は豊作であったわけではない。相対的には西国ほど酷くはなかったが、食糧に余裕があるわけではなく、ましてや遠征軍を派遣する余力など無い。

 もしかしたらこれが源義経の初陣になったかも知れないのだが、初陣予定は白紙に戻ったのである。

 その六日後の養和元(一一八一)年一一月一一日、源頼政の次男である源頼兼が鎌倉に到着した。源頼政の近親である埴生盛兼が九月二一日に自害したこと、そして、少納言藤原宗綱が捕縛されたことを報告したのである。京都における源氏の関係者と見られている人間に対する総括が始まってきた。急がなければ他の者も命を失う。しかし、急いでしまったらもっと多くの人の命が失われる。

 源頼朝は苦悩したが、被害者の数が少なくなるはずの前者を自らの選択肢とした。

 ここで一つ考えなければならない視点がある。

 源頼朝の実弟である源希義だ。

 寺院に入れさせられた弟たちはそれぞれ源氏側として挙兵しており、その後の記録も残っている。唯一、源範頼についての記録は乏しいが、源頼朝が源範頼と情報のやりとりをしていたことは容易に推測できる。たが、土佐国に流罪となった源希義については、記録も乏しければ消息も掴めていなかったようなのだ。

 源希義についての記録は乏しい。土佐国に流罪となったのち「土佐冠者」と名乗ったらしいとの記録があるだけで、反平家で起ち上がったとする説もあれば、最後まで起ち上がらなかったとする説もある。それどころか没年も不明なのだ。平家物語は治承四(一一八〇)年一二月一日が命日であるとしているものの、吾妻鏡によると源希義が亡くなったのはその二年後のこととしており、吾妻鏡に従えば養和元(一一八一)年一一月時点ではまだ生存していたこととなる。

 ただ、情報の重要性を認識し、あれだけ懸命に情報収集にあたっていた源頼朝が、実弟の消息も掴めないということがあろうかという疑念が湧く。

 吾妻鏡による最期の様子は記録に残っている。土佐国に流罪になっている源希義を討伐せよとの命令が出たため、源希義は地域の有力者である夜須行宗のもとへ逃れようとしたものの、その途中で平重盛の家人であった蓮池家綱と平田俊遠の率いる軍勢の襲撃を受けて討ち取られ、遺体が野晒しにされたというものである。

 もしかしたら、このときの源頼朝は、実弟がもう惨殺された後であったことを知っていたのかもしれない。吾妻鏡にあるようにまだ生存していたわけではなく、平家物語にあるような前年一二月という日付が正しいかどうかは別として、養和元(一一八一)年一一月時点ではもう故人になっていたのではなかろうか。それも、数多くの源氏関係者が次々と殺されていることの一環として、すなわち、弟が、何名殺害されたという数字を構成する統計上の数字になってしまったということを理解した上で。その証拠になるかはわからないが、反平家で担ぎ上げるのにこれ以上ない絶好のシンボルとなりうる源希義を、四国で挙兵した面々は誰一人として担ぎ上げてはいない。担ぎ上げなかったのではなく、既に死を迎えていたことが知れ渡っていたために担ぎ上げることができなかったと考えれば辻褄が合う。


 養和元(一一八一)年一一月二一日、平家の北陸遠征の失敗を告げる出来事が起こった。越前国水津で敗れ敦賀に籠城していた平通盛が這々(ほうほう)の体(てい)で京都に戻ってきたのである。さらに平経正は若狭国にとどまって動けなくなっている。

 平家の勢いの弱まりを見た後白河法皇は、ここでさらに平家に楔を打ち込んだ。

 養和元(一一八一)年一一月二五日に平徳子に対して女院宣下をしたのである。以後、平徳子は「建礼門院」となる。これにより建礼門院平徳子は平家から一歩離れた存在となり、安徳天皇の実母であることの方が優先されることとなった。九条兼実の日記によると、この日は建礼門院の院号が定められただけで平徳子への院号宣下は翌年のことであると記されているが、公卿補任には平時忠が平徳子への女院宣下に伴ってこの日に中宮大夫を辞任したこと、また、権中納言中山忠親が建礼門院別当になったことが記されているので、この日が九条兼実の日記にあるように院号選定のみであったとしても、女院宣下を前提とした宮廷行事は着々と進行していたことは間違いない。

 さらに後白河法皇は議政官人事にも介入してきた。

 平知盛が参議を辞任したことで参議に空席ができているため、一二月四日に平宗盛は叔父の平経盛を後任の参議に推挙したのだが、後白河法皇は同タイミングで吉田経房を参議に推挙したのである。一人の空席に対して二人の推挙だとどちらか一名しか空席に着くことができないが、それも考えてある。参議の平教盛と藤原長方の両名を権中納言に推挙したのだ。権中納言がこれで一〇名となるが中納言は空席のため、中納言職が一〇名となる。これは承安元(一一七一)年四月二一日に先例があり、権中納言が多すぎるという批判が仮に生じたとしても先例にあることと返すことが可能となる。

 同日に複数名が参議に就任した場合、参議末席は就任時点の位階の低い方となる。既に正三位である平経盛と、まだ正四位下である吉田経房とでは、吉田経房のほうが参議末席になる。しかも吉田経房のこれまでの実績はどうしてこの人が参議にすらなれていなかったのかと訝しむものがあるほどだ。まあ、平治の乱の前は上西門院統子内親王のもとに仕えており、一二歳の源頼朝が皇后宮少進として上西門院統子内親王のもとに仕えていたことから、平治の乱の前の源頼朝と接点を持っていたこと、また、伊豆守を務めていたときに、伊豆国の在庁官人で源頼朝の岳父である北条時政と上司と部下の関係であったこと、安房国を知行国としていて石橋山の戦いのあとで海上に逃れた源頼朝の安房国上陸と安房国の平家勢力の制圧を黙認したことを踏まえると、平家政権からすればこれでもかというマイナスポイントを持っていた人であるから参議入りできなかったのは理解できるが、それでも後白河法皇には平家にとってのマイナスポイントなどどうでもいい話だ。ちなみに、このマイナスポイントは吉田経房のこのあとの人生に大きなアドバンテージへと変化する。

 さらに、公的地位が前権大納言である平宗盛が議政官に戻るのを防ぐため、同じく前権大納言であった源資賢を権大納言に還任させることで権大納言の定数を埋めることにも成功した。これで権大納言は五名となり、既に大納言が二人いることから、強引に六人目の権大納言に就くか、権大納言以上の役職の誰かが政界引退するかあるいは亡くならない限り、平宗盛の議政官復帰の方法は失われることとなった。

 さて、私は参議末席に就いた貴族の名を吉田経房と記したが、吉田経房の本名は藤原経房である。吉田経房が参議末席に就いたことは議政官における藤原氏の復興を意味したが、もう一つ大きな意味を有していた。議政官に占める平家の割合の少なさだ。治承三年の政変後に誕生した政権は、過半数を占めたわけではないものの平家が武力で議政官を支配し、法に基づいて平家の意に沿った政治を展開するという政権であった。それが、ひとつ、また一つと瓦解していき、気が付けば議政官は平家の支配下から独立した存在に戻っていたのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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