源頼朝との間に相互不可侵が成立したことで、木曾義仲は行動の自由を獲得できた。
多くの武士が木曾義仲のもとに集って挙兵したのは、平家への怒りに満ちた正義の感情からでも、誰からも邪魔されない暮らしを手に入れようとしたからでもない。名目は平家打倒ではあっても、その本音はこれまでより高い地位を手にし、より多くの資産を手にし、今まで以上に好き勝手暴れまわることを望んで、武器を手にして木曾義仲のもとに駆けつけたのだ。木曾義仲自身も含め、木曾方は現状維持で妥協するつもりなどない。
ここに志田義広が加わった。志田義広は源頼朝から源氏嫡流の地位を奪い取ろうと画策している人間である。平家討伐を名目として京都にまで軍勢を勧めることはほぼ全ての者が望んでいる話だが、そこに自分こそ源氏の嫡流であると自負している志田義広が加わると行動の裏付けができあがる。源氏嫡流として平家を打倒するために京都に向かうという筋書きだ。
木曾義仲は、自分たちを源頼朝とは別個の勢力として認めてもらうことを条件に相互不可侵を持ちかけて成功した。そして、勢力は信濃国から越前国にまで及んでいる。越前国、現在の福井県まで来たら京都は目と鼻の先だ。もっとも、信濃国から越前国に至るまでの北陸の全てを木曾義仲が制圧しているわけではなく、平家に従わない在地の武士団が数多くいるというだけで彼らは別に木曾義仲に臣従したわけではない。木曾義仲の誘いが自分にとって旨味のあるものであるならば乗るが、そうでないなら従わないという態度でいる。
彼らにとっての木曾義仲とは、平家に逆らうための名目であって尊敬する君主ではない。それでいて、彼らが平家に逆らっているがために北陸道が閉鎖され、京都に物資が入ってこなくなっている。
これを平家の立場から眺めると、一人の主君のもとに集って統率できているわけではないためにかえって厄介となる。平清盛は平治の乱のあと、源頼朝が源氏のトップに立つならばその軍勢は弱いものとなって平家の脅威となることはないと考えていた。それが今や、源頼朝を中心とする軍勢が強大なものとなっているだけでなく、源頼朝の支配の及ばない軍勢が存在して物流路を閉鎖する事態へと発展した。計算違いというレベルではなく、武家集団としての平家の存亡に関わる話になったのである。
京都の物流路を取り戻そうとするときに真っ先に考えるのは北陸道だ。東山道や東海道も考える必要もあるが、入ってくる物資の量を考えると真っ先に北陸道を考えなければならない。北陸道の復活だけで生活苦をゼロとさせることにはならないが、少なくとも最悪の飢饉から脱却する光明は見える。軍勢派遣の効率を考えると東海道や東山道より北陸道のほうが優先される。
ただ、それは長期戦になる。
京都の平家が北陸道を取り戻すとすれば木曾義仲を討伐するという名目で軍勢を北陸に向けて出発させなければならないが、それは一度や二度の出陣で解決するものではなく、それこそ木曾義仲本人を壊滅させたあとも長期間に亘って反平家の武士たちを制圧させ続けるものになる。つまり、出発時点で長期戦になることが見えている。それだけの武力と兵糧をいったいどのようにすれば確保できるのか。
とは言え、後白河院も、貴族も、京都の庶民も平家の軍勢が北陸に向かうことを求めている、いや、向かわないなどという選択肢を許さないでいる。
寿永二(一一八三)年四月五日、平頼盛が権大納言へ昇格した。平宗盛が内大臣を辞したところで逃れられないというところか。
さらに寿永二(一一八三)年四月九日に北陸征討が伊勢神宮以下一六社に祈願されるとなるといよいよもって平家の北陸遠征は逃れられないものとなる。軍に対するシビリアンコントロールと言えば聞こえは良いが、軍が無理と言っているものをシビリアンがやれと命令するのだ。軍、ここでいう平家にとってはたまったものではない話であるが、こうなった理由を突き詰めると平家に行き着くとあってはどうにもならない。
寿永二(一一八三)年四月一七日、北陸道追討使が京都を出発した。ところが、この頃になってもまだ京都では源頼朝を討伐する軍勢を派遣するという認識であった。九条兼実の日記にも、源頼朝らが東国だけではなく北陸も制圧したので平宗盛に追討を命じたと記されている。
平家物語によると以下のような軍勢であったという。
軍勢全体を指揮するのは右近衛中将である平維盛と前越前守の平通盛の両名である。平維盛は朝廷の武官としての出陣であり、平通盛は前職であるとは言え現地の国司であったことからの出陣であった。その周囲を平経正、平忠度、平知度、平清房の四名が副将として固めてこの六名で司令部を結集する。実際の軍勢指揮を執るのは侍大将である平盛俊、藤原忠綱、藤原景高、高橋長綱、河内秀国、武蔵有国、平盛嗣、伊藤忠光、藤原景清といった面々である。なお、河内秀国、武蔵有国についてはその系図が不明であり、どのような経緯でこの軍勢に侍大将として参加したか不明である。
何らかの官職を持つ武士だけで三四〇名を数え、軍勢全体となると一〇万人を超える規模となっていたというのが平家物語の記載だ。実際にはもう少し少なく、右大臣九条兼実はその日記で四万人であったと述べており、実態としては平家物語の記述よりはるかに少ない数字であったであろうが、それでもこのときの京都で用意できた最大限の軍勢であったことに違いは無い。何しろこの時代の平安京の人口は多く見積もっても一五万人、それも養和の飢饉で数多くの人が餓死したあとの京都とその周辺から一〇万人の軍勢を集めるのは至難の業である。九条兼実の日記にある四万人でもかなりの多さで、おそらく、京都およびその近郊だけではなく、治承五(一一八一)年一月一六日に五畿ならびにその周辺四ヶ国に拡大された畿内総管職としての平宗盛の職掌発揮の結果とするしかない。
平家物語の記す一〇万人にせよ、九条兼実の日記にある四万人であろうと、類を見ない巨大軍勢である。しかも飢饉の最中だ。人数はもちろん、兵糧を用意するだけでも一大事だったろうと考えるのは普通だが、実はカラクリがある。兵糧や馬、武具などを現地調達することが認められたのである。
二年前の富士川の戦いに挑んだときの平維盛の軍勢は略奪を働いたが、そのときは略奪を違法とし悪事とする認識がまだあった。ところがこのときの軍勢では略奪が合法になったのだ。軍勢の通り道になってしまった庶民はたまったものではない。いや、たまったものではないのは庶民だけでなく、その土地の有力者も同じであった。蔵に溜め込んでおいた食糧だけでなく、租税や官物ですら奪われ、抵抗すれば殺され、邸宅は容赦なく破壊されることになったのだ。飢饉なのに食糧を隠し持っていたという非難を受ける有力者もいたが、飢饉で苦しむ人のために食糧を無料で配布していた有力者もいた。それが、この日を最後に配布できなくなった。当然だ。平家の軍勢に略奪されたのだから。
平維盛は自らが率いている軍勢が大軍であることを理解していた。その上で、略奪し尽くしたところで兵糧をまかないきれるとは思っていなかった。総大将が平通盛と二人であることの意味がここで発揮される。京都を出た軍勢は二分され、一方は琵琶湖の東岸を、もう一方は琵琶湖の西岸を、それぞれ略奪しながら行軍し、若狭国を経て寿永二年(一一八三)四月二六日に越前国に到着した。
木曾義仲が平家軍出陣の第一報を耳にしたのは越後国府においてである。木曾義仲はただちに仁科守弘を越前国へ派遣すると同時に、木曾義仲のもとに通じていた加賀国と越前国の武士たちに、越前国南部、現在のJR北陸本線今庄駅の近くにあった燧ヶ城(ひうちがじょう)に防衛ラインを築かせた。平泉寺の長吏である斎明が大将として総指揮をとり、稲津実澄、斎藤実直、林光明、富樫家経など合計六〇〇〇騎以上の軍勢が平家に対抗すべく源氏方として揃ったというのが平家物語の記載だ。ちなみに、既に記したことであるが、稲津実澄と平泉寺長吏斎明の両者は養和元(一一八一)年九月六日まで平家方として燧ヶ城(ひうちがじょう)に籠もって奮闘した後に源氏方に寝返ったという経緯がある。
数字を盛るのが通例の平家物語に従うと一〇万人以上の軍勢を六〇〇〇騎で迎え撃つこととなる。実際にはもっと少ない人数であったろうが、それでも燧ヶ城(ひうちがじょう)の源氏方は多勢に無勢だ。そこで燧ヶ城(ひうちがじょう)の面々は一計を講じた。燧ヶ城(ひうちがじょう)の前を流れる能美川と新道川の二本の川の合流する箇所で大木を切り倒して逆茂木を敷き詰め、柵(しがらみ)を高く積み上げたのである。柵(しがらみ)というのは水流をせき止めるために川の中に杭を打ち並べて木の枝や竹を横に結びつけたもので、燧ヶ城(ひうちがじょう)の前を流れる川の前に逆茂木とともに設営することで、燧ヶ城(ひうちがじょう)の前に即席の池ができあがっていたのである。
燧ヶ城(ひうちがじょう)の周辺の地形を見るとわかるが、このあたりは東西を山に囲まれた南北に細い隘路であり、その隘路部分がそのまま水没しているのだから簡単に移動できるものではない。かといって、濡れても構わないという覚悟で湖の中を突っ切っていったところで、水中に待っているのは木の根っこを平家側に向けている逆茂木だ。勢いに乗って突き進もうものなら木の根に突き刺されて終わりだ。しかもこの即席の池が濁っていてどこをどう進めばいいかわからない。かといって、山中を突き抜けるのも難しい。西の燧ヶ城(ひうちがじょう)だけでなく東方の山にも源氏の軍勢が陣を敷いて待ち構えているのは目に見えている。斜め上から弓矢の攻撃が容赦なく続く中を突破するのは困難だ。
このまま持久戦となっていれば、大軍であるがために平家の側が不利になっていたであろう。しかし、平家が大軍であることに怖じ気づいた者が燧ヶ城(ひうちがじょう)にいた。それもよりによってその者は総大将の長吏斎明成儀師であった。遠く離れた木曽義仲を頼りにするよりも、平泉寺の安全保障と引き替えに今ここで平家に降伏した方が、自分にも、平泉寺にもメリットとなると考えたのだ。
目の前に広がっているのは即席の池である。しかも柵(しがらみ)を作って川をせき止めて作った池であるため、柵(しがらみ)を壊せば池の水を全部吐き出すことができる。水が無くなれば水たまりがあるだけの道路だ。燧ヶ城(ひうちがじょう)がいかに山の上に築かれた防御に適した城であろうと、多勢に無勢では陥落する。加賀国や越前国の武士たちは退却しはじめたが、林光明の嫡子である今城寺光平が討ち死にすることとなった。源氏方の軍勢はこの敗戦を機に越前国を放棄し、加賀国にまで引き下がった。
燧ヶ城(ひうちがじょう)での勝利はこれまでにないスピードで京都に早馬で伝えられ、六波羅では勝利に狂喜乱舞する光景が見られた。
越前国を放棄した木曾方の軍勢は、加賀国については保持しようとした。木曾義仲のもとに起ち上がった武士たちは、木曾義仲に従うために起ち上がったのではなく、平家に立ち向かうために起ち上がったのである。しかも平家はその行軍での物資補給を現地調達、すなわち略奪によって賄っている。ここで平家の軍勢に抵抗しないと、在地の武士にとっては自らの所領を平家に踏みにじられるのみならず、奪うことができるものは全て奪いつくされてしまったという未来が待っているのだ。
石黒光弘や高楯光延などの越中国の武士団も自領に平家の軍勢がやって来る前に平家を食い止めようと加賀国に応戦に駆けつけたが、彼らの希望を打ち砕くような先導者が平家の軍勢にはいた。燧ヶ城(ひうちがじょう)で裏切った斎明だ。平家は斎明を道案内とさせて行軍した。しかも平家は勝ちに乗じて勢いに乗っている。平家軍は物資の補給をしながら、平家軍に言わせれば越前国を平定し、源氏軍に言わせれば越前国を蹂躙し、寿永二(一一八三)年五月二日、斎明を先頭にして加賀国へ攻め入り、その翌日にはもう篠原から安宅に掛けての地域、現在で言う小松空港のあたりに設けていた防御線も突破し、林光明の居城も、富樫家経の居城も陥落させた。加賀国に平家の赤旗が翻ることとなったのである。
平家軍が越前国に到着したのは寿永二年(一一八三)四月二六日であった。それが五月三日には越前国だけでなく加賀国も制圧した。この時代の日本に週という概念はないが、それでもあえて記すとすれば、一週間で二ヶ国が平家のもとに降ったことになる。平家物語はこの理由を平家の軍勢の多さに求めている。平家物語に記したような一〇万人の題軍勢は非現実的ではあっても、およそ半年間の準備期間があった上に、兵糧などの物資は全て現地調達というとんでもない条件を加えれば平家の軍勢を強大なものとさせることは不可能ではない。
だが、ここで考える。
そもそも平家から離反するほどの勢力を持っていた北陸道の武士たちがそう簡単に敗れるものであろうか、と。しかも戦っているのは地元であり、このままでは自領が奪い取られ略奪されるとわかっている状況下での戦闘だ。通常、侵略するには守備側の三倍の戦力を必要とすると言われる。つまり、平家の軍勢が平家物語にあるような一〇万人という数字であるならばまだしも、もう少し現実的な数字であったならば対処できたのではないか。
その答えは、できない、である。
なぜか?
北陸道の武士団はそもそも小規模なのだ。関東地方の武士団は一〇〇騎を超えることも珍しくなかったのに対し、この時代の北陸道では五〇騎もいれば大規模な武士団と扱われていたのである。たとえば、加賀国河北郡の武士である井家範方は全軍討ち死にとなったが、そこでいう全軍とはわずかに一七騎。この数字は井家範方の親族だけでなくその郎従も含めた数字である。これは井家範方だけが例外的に少ないのではなく、北陸道ではその程度でも普通の人数であったのだ。ただし、兵力を「騎」で数えるときは馬に乗った武士だけをカウントし、徒歩で戦闘に参加する者をカウントしていない。応仁の乱の頃になると彼らは足軽として戦力の一翼を担う存在として認識され人数も数えられるようになるが、この時代は馬に乗らずに戦闘に参加する者、いわゆる「歩立(かちだち)」は戦力としてカウントされなかった。もっとも、歩立とて武器を持っている。戦闘となると弓矢を手にし、槍を手にし、刀を抜いて戦う。その比率はだいたい馬上の武士一人に対して少なくても五名、多いときは八名を数えるのが普通なので、井家範方の一七騎は兵力として数えると一〇〇名は超えると言える。もっとも、それでも少ない。
越中国や加賀国の武士団を結集させたとしても、多くて五〇騎ほどの軍勢が複数まとまっただけの集団である。歩立を加えても一万人を超えることは難しい。すなわち、平家の軍勢の一〇万人という数字が誇張であったとしても、北陸道の武士団の集まりからなる軍勢の三倍は計算できたのだ。しかも、源氏方の軍勢の中で最大勢力となっていたのが平泉寺長吏斎明の率いる軍勢である。源平盛衰記によれば一〇〇〇騎を数えたとあるが、実際には数百騎ほどである。ただし、どんなに少なく見積もっても一〇〇騎を超えていたことは確実であり、これだけの戦力があれば、五〇騎で大規模な武士団となる北陸道では一つだけ飛び抜けた巨大武士団勢力だ。
燧ヶ城(ひうちがじょう)で源氏の軍勢が惨敗を喫したのも、そのあとで越前国も加賀国も平家の軍勢のもとに降ったのも、ただでさえ少ない兵力の中で最大規模の戦力である平泉寺長吏斎明の率いる軍勢が寝返ったことに加え、その後は小規模武士団の点在というこれまでの北陸道の武士の様子に戻ってしまったからである。
越前国だけでなく加賀国も平家のもとに降ってしまったことを知らせる早馬が木曾義仲のもとに到着したとき、木曾義仲はまだ越後国府にいた。平家軍出陣の第一報を木曾義仲が耳にしたのも越後国府においてであるから、その間、木曾義仲はずっと越後国府にいたことになる。もっとも、越後国府で軍勢を整えていたことは充分に考えられるので越後国でのんびりしていたとは言い切れない。何しろ第二報を聞きつけた直後に、今井兼平に兵を託して越中国へ急いで向かわせたのである。平家物語の記述に従えばこのとき今井兼平に託した軍勢は六〇〇〇騎にも及ぶといい、さらに木曾義仲のもとには四万二〇〇〇騎もの軍勢が控えていたという。その四万二〇〇〇騎をどのように展開させたかはこの後に語ることとなる。
木曾義仲より兵を託された今井兼平は、ただちに親不知を越えて越中国に入り、黒部川、常願寺川、神通川を超えて越中国婦負郡御服山、現在の富山市に陣を築くことに成功した。敗戦を伝えるために林光明が木曾義仲に向けて早馬を出発させたのが寿永二年(一一八三)五月三日のことであり、今井兼平が御服山に陣を築いたのが五月八日であるから、木曾義仲がずっと越後国府に留まり続けていたといっても実際にはかなり念入りな準備を整えていたことがわかる。
一方、平家方の軍勢は加賀国から出発しようとしていた。次なる目標は二ヶ国。能登国と越中国である。
平家軍は全体を二手に分けて行軍することとした。平家物語によると、能登国には平忠度と平知度の二人が指揮をするおよそ三万の軍勢で侵攻し、残る七万の軍勢で越中国に侵攻することにしたという。平家物語の数字の誇張はいつものことだが、主力が越中国を攻め、残存戦力で能登国を攻めるというのは地図を眺めても納得のいく比率である。三万と七万という数字は誇張でも、三対七という数字は不可思議ではない。
何度も記してきたように平家は大軍である。しかも、行軍中の兵糧を略奪によって賄おうとしている軍勢であるため、急いで行軍することもできない。いかに三割を能登国制圧に割いて送り出したとしてもそれでも大軍である。兵糧がある土地を通り過ぎて兵糧を取りこぼしてしまうことは軍勢の存亡に関わるのだ。かといって、軍勢そのものの動きがあまりにも遅いと源氏軍が陣営を構築させてしまう。そのため、全軍の動きはゆっくりとさせつつも、軍勢の向かう先については先遣隊を適宜派遣させて敵の情報を得る必要があった。
平家軍にとっては幸いと言うべきか、平家軍には平泉寺長吏斎明という現地の土地に熟知した者がいる。平泉寺長吏斎明は平維盛に対し、越中国の中央にある越中平野に敵軍が陣を敷くと面倒なことになるから、まずは先遣隊を派遣して越中国府を制圧し、越中国を東に進んで越後国との国境付近を封鎖すべきとしたのである。越中国、現在の富山県と、越後国、現在の新潟県の間には、北陸道最大の難所である親不知子不知(おやしらずこしらず)が待ち構えている。親不知子不知は日本海沿岸の崖にそったおよそ一五キロメートルの一帯であり、現在の国道八号線や北陸自動車道ができる前は断崖の下の海岸線に沿って進まねばならず、波間を見計らって狭い砂浜を抜けなければ波に流されてしまう可能性があるという危険な土地であった。裏を返せば、親不知子不知の出口を封鎖すれば、越後国方面からやって来る源氏方の軍勢を押しとどめることが可能となる。これはスピードの勝負となる、はずであった。
平家軍は侍大将の一人である平盛俊に先遣隊を率いて先行させることにした。先遣隊に課せられた指令は、越中国に入り、越中国の国府を制圧した後に越後国との国境付近へと移動して親不知子不知を封鎖するというものである。ところが、加賀国と越中国との国境である砺波山(となみやま)を越え、小矢部川を渡って、庄川の岸辺に近づいたとき、越中平野最大の要衝である御服山に源氏の白旗が翻っているのが目に飛び込んできたのだ。越後国との国境を閉鎖するどころか、既に源氏方の軍勢が越中平野を制圧しているのである。
平盛俊はただちに後方に向かって早馬を送ると同時に、庄川中流の般若野に陣を敷くこととなった。これも寿永二(一一八三)年五月八日のことである。
平家の赤旗が般若野に翻っていることは今井兼平側の目にも止まった。今井兼平も木曾義仲のもとにただちに早馬を送ると同時に般若野の偵察を開始した。般若野に陣を敷いているのは平家の本隊ではなく先遣隊であり、兵力差は気にするほどでは無いと悟った今井兼平は、闇夜に乗じて般若野近くまで軍勢を移動させ、夜明けと同時に攻撃することを決意。寿永二年(一一八三)五月九日の日の出と同時に般若野の戦いが始まった。
早朝からの不意打ちに平盛俊の軍勢は慌てたが、ただちに反撃に転じて戦闘は長期戦になった。何しろ早朝から戦闘が始まり、収束したのは現在の時制でいうと午後二時頃である。一進一退の攻防が続いた末に平盛俊は徐々に不利になり小矢部側の対岸への一時退却を選ばざるを得なくなったものの、この時点で二〇〇〇名を越える死傷者を出していたというのだからこれは死闘というしかない。
結局夜になって平盛俊は残った兵を集めて倶利伽羅峠を越えて加賀国へと逃げることとなり般若野の戦いは源氏の勝利に終わったものの、源平双方とも失われた命は多大なものがあった。
燧ヶ城(ひうちがじょう)における平家方の勝利から続く平家軍の勢いはここで止まった。
般若野の戦いの勝利の知らせは木曾義仲の元だけに届いたのではない。加賀国で平家に抵抗していた武士も、能登国で平家の侵攻に備えていた武士も、そして、越中国で情勢を見守っていた武士も、揃って木曾義仲のもとに集ったのである。それまで無敵の快進撃を続けていた平家が必ずしも無敵ではないと示されたのだ。絶望に落ち込まれていた北陸道の武士たちにとってその知らせは希望であった。
とは言え、越後国から越中国に入り、越中国府に到着した木曾義仲のもとにいるのは、越後国から連れてきた兵も含めても、平家物語の伝えるところによるとおよそ五万騎の兵力である。平家物語の数字の盛りはいつものことだが、同じレベルの数字の盛りであるなら、新たに加わった軍勢を含めた五万騎という数字でも、能登国攻略に三万騎を割いてもなお七万騎を数えていたという平家軍の軍勢より少ないことになる。五万騎対七万騎なのだから、この戦力差で正面衝突となったら木曾方が負ける。
しかし、その戦力差を埋める地点が存在する。
加賀国と越中国の国境にある山岳地帯である砺波山(となみやま)だ。
砺波山に限らず山岳地帯を越える道には二種類ある。遠回りになっても山と山に囲まれた隘路を進む方法と、近道になるがいったん山を登ってから降りる峠道を進む方法だ。前者の場合、その多くが川沿いの道であり、上り下りの激しさがさほどでも無いことから交通路として発達してきたところが多い。本作でしきりに現在で言う国道何号線であるとか鉄道でのどの路線であるのかを書いているのも、国道や鉄道の多くが古代日本の幹線をそのまま継承しているからであり、ほぼ同じルートが平安時代末期の説明でも通用するからである。それだけ道路として頻繁に利用されていたからこそ道路沿いに街が数多くできあがり、街と街とを結ぶ国道や鉄道を敷くと自然と古代日本の幹線とだいたい一致するというほうが正しいか。山岳地帯に限ったとしても、山岳地を走る鉄道に乗って車窓を眺めた場合、山を登る線路の上を走るという車窓は珍しく、多くは川沿いに敷かれた線路の上を走る車窓であることがほとんどだ。高低差をさほど気にしなくても良い隘路を選んできた道を現在の国道や鉄道が継承している一例である。
しかし、軍勢を進める場合に隘路を選ぶことはあまりなく、高低差のある峠道を選ぶのが普通だ。隘路というのは戦時において極めて危険である。狭いところを軍勢が通るわけだから両脇に敵兵が隠れていたら、あるいは山上や山中に敵陣が存在していたら、弓矢を持った兵や槍を持った兵が現れ、馬に乗った武士が現れて襲われる。しかも、隘路は高低差が少ない代わりに長距離になる。
軍勢を進めるならば峠道を行くのが普通だ。峠道であるなら高低差があるために高所に自軍を配置することができる、すなわち、行軍中に戦闘に巻き込まれることになろうと高所であるために戦闘で優位になる。しかも短距離で済むのだから戦時においてはメリットになる。
加賀国と越中国との国境をなしている砺波山の峠道が倶利伽羅(くりから)峠である。昔から北陸道は倶利伽羅峠を移動することとなっており、平盛俊は倶利伽羅峠を通って加賀国から越中国に入り、倶利伽羅峠を通って越中国から加賀国へと逃げ延びた。
砺波山(となみやま)は富士山のように一つの巨大な山ではなく加賀国と越中国の国境一帯の山岳地帯の総称である。ちなみに、最高峰は海抜二七七メートルの国見山である。
この砺波山には、現在は倶利迦羅不動寺という名になっている長楽寺という寺院があり、現在の寺院名から推測できるようにこの寺院は倶利迦羅不動明王を御本尊としている。そのため、砺波山を中心とする一帯の地名は昔から倶利伽羅(くりから)と呼ばれていて、現在もその地名が残っている。倶利迦羅不動寺の住所は石川県河北郡津幡町倶利伽羅であるし、倶利迦羅不動寺の最寄り駅の名も倶利伽羅駅である。
地名の由来となっている倶利迦羅不動明王の「倶利迦羅(くりから)」とは不動明王の手にしている剣に巻き付いている黒い竜のことである。これを倶利迦羅竜という。もともとはサンスクリット語で黒い竜を意味するクリカで、倶利迦羅はサンスクリット語に対する中国語の当て字である。ちなみに、「くりから」には「倶利伽羅」と「倶利迦羅」という二種類の当て字があるが、三文字目がしんにょうである「倶利迦羅」は不動明王の手にする剣に巻き付いている竜のほうの「くりから」であり、三文字目が人偏である「倶利伽羅」は地名のほうの「くりから」である。
現在は倶利迦羅不動寺と呼ばれている長楽寺が建立されたのは、伝承によると養老二(七一八)年のことであり、それからずっと北陸道の難所の一つである砺波山の峠の頂上に位置する寺院であり続けていた。寺院が山頂にあることによって、一気に砺波山を越えるよりも、長楽寺で一泊する前提で、登りに一日、下りに一日という道程を計算することが可能となり、北陸道の道程の安全を図ることができていたのである。
この、道程計算がターゲットとなった。
平盛俊の帰還を経て、平維盛は一団となっての砺波山越えを狙ったのだ。まずは長楽寺へと全体で登り、長楽寺で一泊したのち、夜明けとともに越中平野に向かって進軍するのである。長楽寺への到達までは平家軍にとって予定通りであり、実際に長楽寺まで到達してみると源氏の白旗が砺波山の越中国側の麓である日宮林に翻っている。つまり、砺波山越えそのものは現時点で平家が山頂まで到達しており、このまま砺波山での戦闘となった場合でも、人数が多い上に山岳地で上から攻撃することになる平家側に有利になっているということである。なお、平盛俊は般若野から逃れてきた兵士たちとともに能登国の応援に向けて送り出されたため、倶利伽羅峠の再踏破は求められていない。
寿永二(一一八三)年五月一一日、平家軍、長楽寺に到着。それまでの行軍の疲れを癒やすため長楽寺を中心に野陣を張り、全軍に対して休息を命じた。この段階で平家軍は明日の攻撃を想定している。
砺波山(となみやま)は富士山のように一つの巨大な山ではなく加賀国と越中国の国境一帯の山岳地帯の総称である。ちなみに、最高峰は海抜二七七メートルの国見山である。
この砺波山には、現在は倶利迦羅不動寺という名になっている長楽寺という寺院があり、現在の寺院名から推測できるようにこの寺院は倶利迦羅不動明王を御本尊としている。そのため、砺波山を中心とする一帯の地名は昔から倶利伽羅(くりから)と呼ばれていて、現在もその地名が残っている。倶利迦羅不動寺の住所は石川県河北郡津幡町倶利伽羅であるし、倶利迦羅不動寺の最寄り駅の名も倶利伽羅駅である。
地名の由来となっている倶利迦羅不動明王の「倶利迦羅(くりから)」とは不動明王の手にしている剣に巻き付いている黒い竜のことである。これを倶利迦羅竜という。もともとはサンスクリット語で黒い竜を意味するクリカで、倶利迦羅はサンスクリット語に対する中国語の当て字である。ちなみに、「くりから」には「倶利伽羅」と「倶利迦羅」という二種類の当て字があるが、三文字目がしんにょうである「倶利迦羅」は不動明王の手にする剣に巻き付いている竜のほうの「くりから」であり、三文字目が人偏である「倶利伽羅」は地名のほうの「くりから」である。
現在は倶利迦羅不動寺と呼ばれている長楽寺が建立されたのは、伝承によると養老二(七一八)年のことであり、それからずっと北陸道の難所の一つである砺波山の峠の頂上に位置する寺院であり続けていた。寺院が山頂にあることによって、一気に砺波山を越えるよりも、長楽寺で一泊する前提で、登りに一日、下りに一日という道程を計算することが可能となり、北陸道の道程の安全を図ることができていたのである。
この、道程計算がターゲットとなった。
平盛俊の帰還を経て、平維盛は一団となっての砺波山越えを狙ったのだ。まずは長楽寺へと全体で登り、長楽寺で一泊したのち、夜明けとともに越中平野に向かって進軍するのである。長楽寺への到達までは平家軍にとって予定通りであり、実際に長楽寺まで到達してみると源氏の白旗が砺波山の越中国側の麓である日宮林に翻っている。つまり、砺波山越えそのものは現時点で平家が山頂まで到達しており、このまま砺波山での戦闘となった場合でも、人数が多い上に山岳地で上から攻撃することになる平家側に有利になっているということである。なお、平盛俊は般若野から逃れてきた兵士たちとともに能登国の応援に向けて送り出されたため、倶利伽羅峠の再踏破は求められていない。
寿永二(一一八三)年五月一一日、平家軍、長楽寺に到着。それまでの行軍の疲れを癒やすため長楽寺を中心に野陣を張り、全軍に対して休息を命じた。この段階で平家軍は明日の攻撃を想定している。
平家とて、何ら考え無しに砺波山を登ろうとしたわけではない。砺波山を登っている最中に源氏方の軍勢と出くわしたら源氏方のほうが高所になるため戦況は不利になることぐらい理解している。そのため、常に先遣隊を派遣して源氏の軍勢がいないことを確認させた上で、全軍で砺波山を登ったのである。そして実際に砺波山を登って長楽寺に到着すると砺波山の麓に源氏の白旗が翻っていた。この光景は、源氏方の移動速度を普通に考えるならば何らおかしくないことであった。
おかしかったのは木曾義仲の行軍速度である。
実は、木曾方の軍勢が砺波山の麓にまで到着したのはもっと早い時間であったのだ。具体的に何月何日のことかは不明であるが、今井兼平が平盛俊に勝ったのは寿永二(一一八三)年五月九日のことであるといっても、般若野の戦いの最中も木曾方は西へと移動していたし、砺波山の峠道そのものは北陸道の難所であっても、砺波山から親不知子不知までの北陸道は現在のような舗装道路ではないにしてもこの時代としてはかなり整備された道であり、行軍を苦にする道程ではない。一日あれば行軍できる距離とまでは言えないが、五月一一日の午後にはもう砺波山の麓に到着していたことは確実に言えるのである。そうでないとこのあとの木曾義仲が作戦を発動させることができた理由が説明できない。
木曾義仲が砺波山で誰をどのように配置したのかは諸説ある。
確実に言えるのは、平家が軍勢を二分して能登国へ侵攻していることを木曾義仲が知っていて、源行家に独立した軍勢を率いさせて氷見方面から能登国に向かわせていたことである。寿永二(一一八三)年三月時点では木曾義仲のもとにいるらしいという扱いであった源行家は、ここではっきりと、木曾方において一部隊を指揮する立場にあったことが判明する。ただし、矢田義清、楯親忠、海野幸広といった木曾義仲の家臣も源行家率いる軍勢に参加しており、木曾義仲がそこまで源行家を信頼していなかったことも読み取れる。
能登国を叔父に任せた木曾義仲は残る軍勢を六つに分けた。その全てが砺波山攻略部隊である。なお、以下の人数は源平盛衰記に基づく人数である。
根井行親を将とした二〇〇〇騎は南黒坂経由で南方から平家軍に迫る。
今井兼平の妹で木曾義仲の愛妾でもある巴御前を将にした一〇〇〇騎は、根井小弥太の軍勢より一本北にある道より平家軍に迫る。
般若野の戦いで平盛俊を討ち破った今井兼平は二〇〇〇騎をひきつれて、石黒太郎らの越中武士とともに、日宮林を中心に砺波山の正面を東から迫る。
余田次郎、小室太郎、諏訪三郎などの信濃武士を中心とする三〇〇〇騎は、現地の地勢に詳しい越中の宮崎太郎らを先導として、北黒坂を経て、北方から平家軍に迫る。
今井兼平の兄である樋口兼光と今井兼平の弟である落合兼行の二人は、林光明や富樫家経など加賀武士を含む三〇〇〇騎を率いて、遠く砺波山の北を迂回して西に出て、真後から迫る。
以上の五つの部隊は森の中に身を潜め物音を立てずに夜を迎えることが求められた。
そして、木曾義仲自身は残る三万騎を率いて砺波山の麓である埴生に陣を敷いた。平家軍が目にした源氏の白旗のある陣営とはこの陣営である。平家物語ではここで戦闘開始前に木曾義仲が八幡社に参詣したことを伝えており、現在でも富山県小矢部市の護国八幡宮には木曾義仲が奉納した願文が残っている。
平家の軍勢は木曾義仲の敷いているおよそ三万の軍勢に向かい合うように陣形を整えた。この時点で平家の軍勢は自分たちが包囲されていることに気づいていない。
平家軍が長楽寺を中心に野陣を敷いて全軍を休息させていた頃、平維盛ら平家軍の首脳陣に源氏方の動きが伝えられた。
源氏の陣営から軍勢が出発したというのである。それもどうやら鏑矢を持っているらしいというのだ。
鏑矢を放つというのは戦闘開始の合図だ。平家軍は慌てて部隊を再編成させたが、どうも様子が違う。砺波山の麓の陣営から出てきたのは一五騎ほどの小規模の軍勢なのである。
たしかに彼らの持っている矢は鏑矢だ。鏑矢を射るということはこれから戦いを開始すると宣言することなので、より多くの軍勢を出動させて一五騎を倒そうとするのはマナー違反となるのがこの時代の戦闘である。相手と同数の軍勢に鏑矢を持たせて出撃させるのがこの時代のマナーであり、そこで平家も一五騎だけを出撃させた。
平家物語によると両者は三町、現在で言うと三〇〇メートルほどの距離に近づいたという。
源氏側から鏑矢が放たれたのを確認して平家もまた鏑矢を放ち返した。通常であればこれで戦闘開始の合図となるのだが、源氏の一五騎は一度引き下がり、今度は三〇騎が出てきた。この三〇騎も鏑矢である。平家も三〇騎を出して鏑矢を放った。三〇騎の次は五〇騎、五〇騎の次は一〇〇騎と、数は増えるものの互いに三町ほど離れて矢を放ち合うだけの時間が続いた。戦闘開始を告げる鏑矢を放ち合う矢合わせにしては数が多いが、これは戦闘とは言えない。小競り合いですらない。
それでも鏑矢が放たれたのであるから、戦闘開始が宣言されたことになる。倶利伽羅峠の戦いの火蓋はこうして切られたのだ。
平家側は木曾義仲の真意が読めなかった。確かに戦闘を始めるときは鏑矢を放ち合う。ただ、これを何度も繰り返す意味がわからなかった。
意味を理解したときには遅かった。
木曾義仲は時間稼ぎをしたのである。本格的な戦闘は今日ではなく明日以降であると示したかったのだ。その意思を示すために日が沈むと源氏の軍勢は陣に籠もって出てこなくなった。四度目に出撃した一〇〇騎が最後だったのだ。
時間稼ぎの理由は簡単で、長楽寺に陣を敷く平家軍を取り囲むことにある。
日が完全に暮れてからが木曾義仲の勝負のときだった。この時代のカレンダーは太陰太陽暦であり、基本的には新月から始まって月の真ん中で満月になり、月が終わる頃に新月になる。完全に月の満ち欠けと連動しているわけではないので新月のタイミングと月の始まりとのタイミングがずれるのも珍しくなかったが、それでも十日前後の夜と言えば月明かりが期待できるものと決まっている。
寿永二(一一八三)年五月一一日の夜、長楽寺の横や裏に回った木曾方から、法螺貝、太鼓、そして鬨の声がこだました。
木曾義仲は音を耳にしてすぐに全軍に出動を命じた。源氏の軍勢が正面しかいないと思っていただけでなく今日の戦闘はもうないと思い込んでいた平家にとって、前からも横からも後ろからも聞こえる源氏の軍勢の声は恐怖となった。どうすればいいかわからず、それが自分のものでないとわかっていても近くにある武器を手にしようとして一つの弓を四人から五人が奪い合ったり、慌てて長刀(なぎなた)を手にしたら上下逆であったために自分で自分の足を切ってしまったり、慌てて馬に乗ろうとしても馬も驚いてしまっていて御せなくなったりと、平家の陣の中が混沌と化してしまったのだ。
そのうち、前からも後ろからも左からも源氏の声が聞こえてきているが、右からだけは源氏の声が聞こえていないことに気づいた者が現れた。そちらに逃げれば助かると多くの者が考えて我先に逃げ出し、逃げるなど見苦しいと訴え、引き返して戦えと怒り飛ばす大将の声はもう聞こえなかった。陣を飛び出し、源氏の声の聞こえていない方へと次々と逃げ出した。
逃走の先頭を走っていた者はなぜそちらから源氏が攻めてこなかったか理解した。源氏がそこから攻めてこないのではなく、そこが崖なのだ。現在でも砺波山には地獄谷と呼ばれるエリアがある。文字通り谷であるが、山頂付近で陣を敷いていた平家にとっては奈落の底だった。
地面が無いと気づいたときには落下していた。
落下の悲鳴は源氏の兵士たちの声でかき消された。
逃げようと仲間のあとをついて行った平家の兵士たちが、夜闇の中、先を行く仲間の姿が突然消えるのが頻繁に続いているのは、そこから先が下り坂だからだと勘違いした。
崖だと気づいて戻ろうとしても後ろから仲間たちが次々と押し寄せてきていた。
平家物語は伝える。親が落ち子が落ち、兄が落ち弟が落ち、主が落ち家子も郎党も落ち、馬には人、人には馬が重なり落ち、谷は平家の七万騎の軍勢で埋まってしまった。岩の間の渓流は血を流し、積み重なった死骸は丘となった。そして今でも、ここで言う今とは平家物語の著述時点であるが、その頃にもまだ矢の穴や刀の傷跡が残っているという、と。
平維盛と平通盛の両名は辛くも脱出したものの、この戦いで侍大将の藤原景高、藤原忠綱、河内秀国の三名が死亡。命を落とさずに済んだ者も多くは捕虜となり、その中には平泉寺長吏斎明もいた。憤怒を集めていた斎明はその場で斬首となった。生き残った平家の軍勢は二〇〇〇騎ほどであったという。ここに、倶利伽羅峠の戦いは平家の惨敗によって終わった。
木曾義仲は軍勢を再結集して能登国へと向かった。源行家率いる軍勢に合流するためである。
能登国に派遣した源行家は、越中国と能登国の国境にある志保山で、平家の平忠度と平知度の両名が率いる軍勢と戦っていた。特に平家の中で気を吐いていたのが般若野の戦いで敗れた平盛俊である。能登国に遣わされてすぐに源氏の軍勢と戦うことになったため、平盛俊とその部下たちはリベンジマッチとして他を圧倒する周年を見せていたのである。
士気もそうだが、志保山では兵の数でも平家は源氏を圧倒していた。平家物語の記述を信頼するなら平家が三万人に対して源氏は一万人だ。
このまま行けば平家が勝利するであろうと見られていた寿永二(一一八三)年五月一二日、木曾方が志保山に到着した。その上、平家軍のもとに倶利伽羅峠の戦いでの平家の敗北の知らせも飛び込んだ。
この志保山の戦いについての詳細な描写は平家物語には存在しない。吾妻鏡はそもそも寿永二(一一八三)年の記事が現存していない。誤って養和元(一一八一)年として記載されている吾妻鏡の記述ならばあるが、そこには単に五月一二日に砺波山で戦いがあったことを記しているだけである。
戦闘の詳細な描写はないが、結果ならばわかっている。源氏の勝利、平家の敗北である。平家がどれだけの損害を受けたかの記録も無いが、二つだけ判明していることがある。一つは、敗走する平家を源氏の軍勢が追いかけたこと。もう一つは、平知度がこの戦いで戦死したことである。平知度の死は、源平合戦における、平清盛に連なる平家一門での最初の死者である。
倶利伽羅峠の戦いは、平家の大軍に対しこれ以上無く明瞭な形で勝利を手にしたという点で、治承四(一一八〇)年の富士川の戦いに匹敵する大勝利である。勝利後の状況についても木曾義仲は源頼朝に匹敵する立場となっている。
ただ、ここから先が違った。
源頼朝は京都に向かおうとしたものの多くの仲間から反対され、鎌倉に引き返した。
木曾義仲は京都に向かおうとした。京都に向かうことを止める者もいなかった。
考えてみれば、勝利後の状況こそ似通っていても、置かれている立場が全然違うのだ。
源頼朝は清和源氏の嫡流であることを約束されてきた人であり、源頼朝とともに戦うのは源頼朝が清和源氏のトップを継承している血筋だからである。超一流の政治家であることもポイントとして重要であるが、文句なしの血筋である上に超一流の政治家であるからこそ意味があるので、源頼朝の血筋が仮に文句の出てくる可能性のある血筋であったならば、いかに超一流の政治家であっても源頼朝に付き従う者など出てこない。
一方、木曾義仲は戦いに勝利したことで北陸の武士たちの仲間とすることに成功した。北陸の武士たちは一個人としての木曾義仲を選んだのであり、木曾義仲が源氏であることはさほど重要ではない。それまでの平家政権に対する反発のシンボルを探しているときに降って湧いたように木曾義仲が登場したから木曾義仲を選んだのであり、北陸の武士たちにとっては、担ぎあげるシンボルが木曾義仲である必要も、源氏である必要もないのだ。裏を返せば、他にシンボルがあるならばそちらにいつでも乗り換えることができるのが寿永二(一一八三)年五月時点の北陸の武士たちである。
おまけに彼らは復讐心に満ちている。平家の軍勢は物資を、言い方を変えれば現地補給して、素直な言い方に戻れば物資を略奪しながら戦っていた。被害者の側に立って捉えると、目の前で略奪されながら抵抗すらできなかった者、自分の所領が荒らされた者、壊された者、殺された者、そうした被害者を数多く目の当たりにしてきており、そして自分自身もまたこうした被害者の一人である武士である。この復讐心を木曾義仲とともに行軍することで晴らすことを望んでいた。そのために平家の残党を追いかけて、追いかけた結果京都にたどり着いたとすればそれはそれで問題なしという姿勢であった。
源頼朝は、今は足場を固めるべきだと考えたが、木曾義仲は、今こそ勢いに乗って行動するべきと気と考えたのだ。
おまけに北陸道を西へ戻ることで平家の軍勢は京都に向かっているという情報も得ている。北陸道の難所である親不知子不知も、同じく難所である砺波山も越えているのだから、木曾方の軍勢は、北陸道を進めばいいだけになっているのだ。
一方の平家の軍勢はこのままいかにして京都に戻るかを考え、少しでも無事に戻れる可能性を増やそうと、倶利伽羅峠で敗れた平家の軍勢はまずは志保山に向かおうとした。だが、志保山でも平家が敗れたという情報が入ってくると志保山の敗残兵といかに合流するかが問題となり、北陸道の要衝の一つである加賀国宮腰、現在の金沢市金石町で平家軍の再結集を図ることにした。
平家の軍勢の再結集は、一応は果たせた。
ただ、その少なさは彼らを絶望の淵に追いやった。倶利伽羅峠から生き残ってきた者は誰が地獄谷に落ちて死んだのか知っている限りを志保山の敗残兵たちに語った。志保山の敗残兵たちは、名前が出てくるたびに、今はどうなっているだろうかと気に掛けていた仲間がもう亡くなっていたことを実感させられ、自分たちは敗残兵なのだという現実を徹底的に叩きつけられた。
おまけに彼らは五体満足ではなかった。矢傷や刀傷を負った者、骨折して歩くのも困難な者も数多く、どこもケガをしておらずまともに戦える者を数えた方が早いほどであった。
さらに彼らの状況を悪化させたのが、これは京都への帰路であるという点である。ここに来るまでに略奪し尽くしていた。今またもう一度略奪しようと富豪の家に襲い掛かっても、民家に襲い掛かっても、何も出てこない。隠し通すことに成功したからではなく自分たちが一度略奪し尽くしたあとだったからだ。その上、自分たちに向けられる容赦ない敵愾心がある。京都から加賀国に来たときは平家の圧倒的な軍勢であったが、今やどこに行っても木曾義仲に仕える武士、そう、源氏ではなく木曾義仲に仕える武士であると宣言する者が現れ、平家相手には容赦ない抵抗を見せ、略奪しに押し寄せたら返り討ちに遭って命を落とすのが常態化した。
加賀国宮腰に陣を敷いた平家の軍勢に対し、木曾義仲は平岡野、現在のJR金沢駅の近くに陣を敷いた。宮腰から平岡野までは現在ならバスで三〇分の距離だ。
この近さにもかかわらず、平家も、木曾義仲も、最低でも一〇日以上に渡って互いに睨み合って動かないでいた。正確に言えば動けないでいた。平家は平家で問題があったが、木曾方にもやはり問題があったのだ。こちらも同じだったのかと言いたくなるが、木曾方もお世辞にも食糧事情に恵まれているとは言えなかったのだ。手っ取り早く食糧を手に入れるとすれば略奪だが、木曾方の多くを占めているのは平家の軍勢による略奪の被害者である。木曾義仲に対する支持の多くも、自分たちから略奪していった憎き平家を叩き潰してくれるという期待感からであり、木曾義仲のほうも略奪に走ろうものなら簡単に軍勢は瓦解する。平岡野に陣を敷くというのは、南からも北からも北陸道を通じた物資補給が期待できるだけでなく、その物資補給を平家軍が奪い取るのを食い止める効果もあった。
寿永二(一一八三)年五月二五日、先に平家軍が動いた。進行方向は南西、目的地は篠原、現在の石川県加賀市篠原町である。小松空港の南西と言ったほうがわかりやすいかも知れない。篠原は、現在は干拓によって地図が大きく変わったが、この当時は、今江潟、木場潟、柴山潟と三つの潟が連なって堀の役割を担っている地形となっている天然の要害であった。
寿永二(一一八三)年六月一日、木曾義仲軍が篠原に到着。同日、木曾義仲軍が篠原へ総攻撃を掛けてきた。
普通ならば攻撃側は三つの潟に邪魔されて攻撃地点を見つけ出すのも困難なはずである。また、ここで篠原に籠もっている平家の軍勢はここで負けたら全てが破滅を迎えるという文字通りの背水の陣で戦いに挑んでいる。倶利伽羅峠や志保山で敗れた平家の武士にとっては恥を挽回する最後のチャンスでもある。
しかし、忘れてはならないのはこのときの木曾方の中に地元の武士がいることである。地形を知っている武士にとっては天然の堀であろうと進軍の邪魔にはならない。当然だ。どこを通れば三つの潟に足下を掬われることなく篠原までたどり着けるか知っているのだから。
この篠原の戦いは計略ではなく正面衝突の戦いであった。
両軍ともに数百騎で出撃したはずの軍勢が数騎に減るまで戦った。
仲間が全て倒れたあとも一人で敵陣に切り込み、矢を射尽くし、馬も倒れたため馬から下りて太刀を抜いて戦い、立ったまま全身に矢を受けて命を落とした者もいた。
特に壮絶だったのが、源頼朝に従うつもりはないと関東を去って京都に向かい平家とともに戦うことを選んだ武士たちである。彼らは源氏のもとに降伏するなどという選択肢などなかった。
源頼朝から自軍の一員に加わらないかと誘われながら、自分は平家の軍勢に加わるとして京都に向かった伊東祐清も、篠原の戦いで戦場に散った。
その中で一人の悲劇が生まれた。斎藤実盛である。
斎藤実盛はもともと源為義と源義朝に仕えて源氏の家人であった人だが、平治の乱で源義朝が敗れた後は平家に仕えるようになっていた。富士川の戦いのときも平維盛のもとに従軍しており、北陸遠征でも平維盛のもとに従軍している。富士川の戦いで平家の軍勢が総撤退することとなった直接の原因を羽ばたく水鳥の音の驚いたからとするのは、虚構の可能性が高いものの昔から言われていた逸話である。そして、水鳥にも驚くようになった直接のきっかけは斎藤実盛が東国の武士の強さを語ったからである。水鳥に驚いたのは虚構の可能性が高いが、斎藤実盛が東国の武士の強さを語ったのは史実である可能性が高い。そうでなければその後の必死さと責任への重圧が説明できない。味方を奮起させるどころか味方を恐怖に陥れてしまったのだから、斎藤実盛本人にしてみれば取り返しのつかない失態であったとするしかなく、汚名返上の機会をずっと求め続けていたのであろう。
源氏の家臣であったが、平治の乱での敗戦を機に源氏と袂を分かったあと、もう一度源氏の元に戻るという行動を斎藤実盛は選ばなかった。源頼朝は源氏と袂を分かった者ももう一度受け入れる姿勢を見せていたが、斎藤実盛は源頼朝の寛容を選ばなかった。斎藤実盛にしてみればここで源氏方に降伏しようものなら、富士川の戦いで平家の軍勢全員を裏切って味方を敗北に追いやった源氏方のスパイとして死ぬまで、いや、死後も一族末代に至るまで後ろ指を指されることとなる。
平家物語によると寿永二(一一八三)年時点で斎藤実盛は既に七〇歳を超していたという。保元物語だと保元の乱時点で三一歳という記録もあるので一二歳も若い五八歳となってしまうが、それでもこの時代で五八歳と言えば充分に高齢者だ。
斎藤実盛はこの北陸遠征を人生最後の戦場と覚悟していた。戦功を残して凱旋するにしても、戦場に散るにしても、富士川の戦いで自分がやらかした過去に対する責任も含め自らの人生の集大成になると覚悟していたのだ。
それまで斎藤実盛は一人の武士として戦場に臨んでいたが、このときは、地位は無理でも軍装だけでも侍大将のつける錦の鎧直垂を着けさせてくれと願い出て、北陸遠征前に平宗盛に願い出て許された。斎藤実盛は平宗盛に願い出た軍装に見合うだけの活躍を見せ、篠原の戦いまで戦功を残し続けてきた。富士川の戦いを知る者は、戦いの前に斎藤実盛の語った東国武士の強さがまさに斎藤実盛自身によって示されることとなったのである。
寿永二(一一八三)年六月一日、篠原の戦いでの平家軍総崩れの中にあって、孤軍奮闘する斎藤実盛の姿が木曾方の軍勢の目に留まった。侍大将の格好をして戦場に踏みとどまっているのは敵ながら天晴れとするところであり、木曾義仲が挙兵したときからずっと木曾義仲とともに行動していた手塚光盛は、相手の侍大将と対戦するには一対一であるべきとし、この時代の慣例に従って名乗りをあげてから斎藤実盛と戦いを挑んだ。名乗りを受けたなら名乗りが返されるというのがこの当時のマナーなのだが、斎藤実盛からは「あなたを見下げるつもりではないが、理由があり名乗ることができない」という言葉が返ってきただけである。それでも手塚光盛と斎藤実盛との一対一は成立し、斎藤実盛はここで討たれてしまい、首を取られることとなった。
一対一の戦いが終わったあとで手塚光盛は気づいた。侍大将ならば必ず郎党がついてくるはずであるが一人もいない。しかし、たったいま討ち取ったはずの武士は侍大将の出で立ちをしている。手塚光盛は平家軍の侍大将の首を取ったことを木曾義仲に報告し、木曾義仲のもとで首実検が執り行われた。その結果判明したのは、この武士が斎藤実盛であること。木曾義仲にとって斎藤実盛とは、父の源義賢が討ち取られたあとで自分を信濃国の中原兼遠のもとに避難させてくれた命の恩人である。しかし、自分が知っている斎藤実盛とは白髪交じりの武士であり、この首のように黒髪をたくわえた者ではない。そこで、樋口兼光の言葉に促されて首を調べてみると髪は黒く染められたものであり、洗い流してみると白髪に戻った。
樋口兼光は中原兼遠の子で、弟の今井兼平と妹の巴御前とともに木曾義仲の幼少期から常に木曾義仲の側にいた男である。平治の乱の前までは斎藤実盛と親交もあり、そのとき斎藤実盛が「六〇歳を過ぎて戦場に出るときは髪を黒く染めて、老人と見られぬように出陣したいと思っている。老人が若者たちと先陣を争うのも大人気ないが、老人と侮られるのも腹が立つものだろう」と言ったことがあるのを思い出していたのだ。
寿永二(一一八三)年六月四日、篠原の合戦で平家軍完敗との知らせが京に届いた。篠原の戦いで平家が敗れたらしいという伝聞は既に京都に届いていたが、この日は加賀国から送られてきた正確な通達であった。
加賀国からの報告が届いたときの様子は右大臣九条兼実の日記に書き記されている。
平家の軍勢は朝廷の出した正式な官軍であり、対峙する源氏の軍勢は反乱軍である。六月四日に届いたのは官軍が反乱軍に破れさったという、日本史上初の事態の知らせだ。官軍に兵を出した家は、苦境にあるとはいえ常勝不敗であると信じていた官軍が敗れたこと、そして、家族が亡くなったかもしれないという絶望に覆われた。特に暗雲が立ちこめていたのが六波羅の平家の邸宅である。
翌六月五日、前飛騨守中原有安より官軍敗北の詳細の情報が届いた。官軍四万騎のうちまともに武装できている武士は四騎ないしは五騎のみで、多くは戦場で亡くなり、生きている者も深手を負っているというのがその詳細だった。
九条兼実はこの戦いの敗北の理由を、総大将平維盛と、三人の侍大将との対立に求めている。三人の侍大将とは、平盛俊、藤原景家、伊藤忠経の三人だ。九条兼実は前記の三人が平維盛と対立し続けたせいで、敵軍のわずか五〇〇〇騎の兵力の前に官軍四万騎がほぼ全滅という結果を迎えたのだと記している。ちなみに、藤原景家は伊藤忠清の兄、伊藤忠経は伊藤忠清の息子であり、富士川の戦いでの不戦敗の責任を侍大将として背負わされることとなった伊藤忠清はこの北陸遠征に帯同していなかったものの、自分の兄や息子を通じて平家軍の中で自身の発言権を行使したことは充分に考えられる。なお、九条兼実が述べたこの三人の侍大将は三人とも命を落とさずに済んだものの、先に記したまともに武装できている武士には含まれていない。それどころか侍大将であるはずなのに従者が一人もおらず這々(ほうほう)の体(てい)での帰還であったとある。
後白河法皇は官軍敗北に伴う善後策を検討させるため貴族たちに招集を掛けたが、多くの貴族が病気を理由として欠席した。その中には右大臣九条兼実も含まれる。
後白河法皇の招集に応じた貴族の一人が参議吉田経房であり、吉田経房の日記にも寿永二(一一八三)年六月の様子が簡潔に記されている。感情を表しきれないから簡潔にならざるを得なかったのではなく、吉田経房という人がそもそも日記にそんな大量の文章を書かない人だからである。
六月四日、北陸のことで世間が様々な噂をしあいはっきりとしない。
六月五日、北陸の官軍は敗北したのが確定した。縦横の説(デマ)は記すに値しない。
六月六日、北陸の件で平宗盛のもとに情報が入り、国家の一大事として公表された。敗軍の将兵が京都に戻ってきた。
寿永二(一一八三)年六月六日に平家の軍勢が京都に帰還したことはその他の記録にも残されていて、そこにはおよそ二万の兵が戻ってきたとある。なお、歴戦の疲れと敗戦のショック、そして、実際に負った傷がもとでほとんどの兵士が満足に戦えない状況になっていることは朝廷も認めざるをえず、北陸遠征から戻ってきた兵士を首都防衛に回すことは不可能と宣言している。
桓武天皇の平安京遷都から三八九年目。これまで一度も無かったことがこれから起きてしまうのだということを、京都に住む全ての人が、いや、京都だけでなく京都近郊に住む人も誰もが実感していた。京都が反乱軍の手に陥落するのだ。もはや京都には首都を防衛する戦力など無い。四年前の一一月にはクーデタを起こして朝廷を乗っ取ることもできていた平家の軍事力も、今となっては疲れきった敗残兵が負傷の痛みに耐えながら虚空を見つめているだけになっている。
唯一の希望は、京都に入る前の地点で防衛してくれることであった。近江国で比叡山延暦寺が、伊勢国で伊勢神宮が防衛してくれることを願い、建礼門院平徳子は延暦寺での千僧読経や祈祷を依頼すると同時に僧兵の出動を要請した。
寿永二(一一八三)年六月上旬、木曾義仲が越前国府に入ってきた。具体的に何月何日に木曾義仲が越前国府にやってきたのかはわからない。木曾義仲が越前国府にいると判明したのは、越前国府から比叡山延暦寺に向けて書状が送られてきたからである。書状の日付は六月一〇日、書状が延暦寺に届いたのは六月一六日である。いかに現在ほど交通が発達していないとは言え、これはさすがに時間が掛かりすぎている。もっとも、それがこの時点における近江国の現状だと言えばそれまでであるが。
近江国は越前国の南隣である。ゆえに越前国から近江国へは簡単に移動できる。通常であればそれだけのことなのだが、寿永二(一一八三)年六月は全く事情が異なる。そもそも治承四(一一八〇)年九月に平維盛の指令で略奪を受け、同年一一月の挙兵以後は近江国のほぼ全域が戦場となり、養和の飢饉の影響をまともに受け、園城寺の焼失に直面し、そして寿永二(一一八三)年の平家軍の北陸遠征時でもまた略奪の損害を被っている。生きるために犯罪に手を染める者も続出して治安は悪化し、近江国に源氏の軍勢を食い止める力は残っていなかった。唯一の例外は比叡山延暦寺であるが、延暦寺に木曾義仲から書状が届いたことは既に記した通りである。また、延暦寺に書状が届いたことは広く知られることとなっていた。
それを最も理解していたのが平家であった。平家がいかに貴族勢力になったとは言え、平家はまだまだ武士である。武士であるからこそ軍事的に現在置かれている状況を理解できる。北陸からやって来る源氏の軍勢は難なく近江国を突破して京都に攻め込んでくる。ターゲットとして京都ではなく平家の本拠地である六波羅を挙げることで、平家打倒を前面に掲げた行軍の大義名分が存続し続ける。六波羅はたしかに平安京ではない。しかし、鴨川を渡った西はもう平安京であるという土地だ。六波羅に本拠地を構えることで平安京に睨みを利かせることを選択した平家の戦略が、ここに来てマイナスに働いてしまった。
このあたりの時間軸は平家物語と当時の貴族の日記との間で齟齬があるので、ここは日記の日付をベースとしつつ平家物語の記載も参照して記載すると、寿永二(一一八三)年六月一三日、すなわち、比叡山延暦寺に向けて木曾義仲が書状を出したがまだ延暦寺の元に届いていないとき、木曾義仲の先遣隊が既に近江国に入って来たという第一報が届いた。同時代史料にあるのは源氏軍の先遣隊が近江国に入ってきたという情報だけであるが、平家物語だと話に尾鰭がついて回り、木曾義仲の率いる軍勢が五万騎以上で攻め込んできていて、比叡山の東坂本は木曾方で充満し、木曾義仲の仲間が比叡山に登って比叡山の僧兵が木曾義仲に呼応して一気に京都へ攻め込もうとしているという情景に書き換えられている。なお、第一報を届けたのは源重貞という武士で、保元の乱で敗れて逃避行を続けていた源為朝を捕縛して朝廷につきだした武士である。その報奨として朝廷の官職を得たために源氏の一門でありながら平家にへつらうようになった武士であるというのが平家物語における源重貞への評価であるが、源重貞が源為朝を捕縛してその功績で官職を得たのはその通りでも、そもそもこの人は河内源氏ではない。一応は清和源氏の一員ではあるが、その時代の政権のもと、先祖代々京都において武士を務めてきた家系の者である。本人にしてみれば清和源氏であるという意識は希薄で朝廷に仕える武官の一員であるという意識のほうが強い人であった。
平家物語ではここで、比叡山延暦寺の僧兵勢力も加わった木曾方を迎え撃つために各地に討手を差し向けたとあるが、実際には動いていない。というより、この時点の平家に討手を差し向ける余力など無い。ただし、期待できる戦力ならばあった。
それでも平家にはたった一つだけ期待できる軍勢が残されていた。九州に派遣した平貞能は肥後国で菊池隆直を降伏させたという連絡が届いてからまだ二ヶ月も経っていない。平貞能の率いる軍勢が京都に凱旋してくれれば、そのまま近江国に軍勢を展開してもらって、越前国からやってくる源氏の軍勢と向かい合ってくれる可能性があるのだ。
平家の期待を一身に浴びた平貞能が京都に戻ってきているという情報が届いたとき、平家には一縷の望みが生まれた。しかし、六月一八日に実際に平貞能の率いる軍勢が京都に凱旋してきたとき、一縷の望みは絶望に変わった。平貞能の軍勢は一〇〇〇騎ほどしかいなかった。ゼロよりはマシとは言え、この軍勢の少なさでは無駄な抵抗に終わるのが目に見えていた。
平宗盛は六波羅に平家一門を集めて今後の対策を協議したが、議論百出となりまとまりがつかなくなっていた。平宗盛は京都を脱出して西国に逃れて再起を図ることを主張したが、平知盛はあくまで京都に留まることを主張した。平家は庶民の憤怒を一身に浴びていることを平宗盛は理解している。ここで平家がいなくなれば北陸からの源氏軍に行軍の意味は無くなり、行軍はそこで止まる。理論だけで言えば平宗盛のほうが正しい。しかし、これは無責任に過ぎる。行軍が止まる保証はどこにもなく、このまま行けば平家の軍勢すら存在しなくなった無防備な京都が誕生してしまう。いかに惨敗を喫したと言え、軍勢を京都から引き上げてしまうなどというのは首都京都を危険に晒すことになる話だ。
ついこの間までは、誰でもいいから平家を打倒してくれと願っていた京都市民も、反乱軍が平安京に入ってくるだろうという恐怖を実感すると、平家打倒より平家の武力しか頼れないという事情が持ち上がってくる。
これまで木曾義仲は以仁王の令旨に基づいて平家打倒のために行動しており、ここで仮に平家が全てを捨てて野に下ったとしたら木曾義仲は京都まで行軍する意味が無くなる。これは平宗盛も考えた対策方法である。しかし、それでは木曾義仲が困るのだ。
木曾義仲自身もそうだが、木曾義仲に付き従うことを選んだ武士たちは、平家打倒という名目のもと、これまでの人生を一変させることを望んでいたのだ。それまでの地方の小規模武士団ではなく、京都で勢力を持つ有力者にして富裕者でもあるという、人生の成功者になることを希望していたのである。それまでの平家に対する怒りがあるのはその通りであるし、平家を打倒するという思いに変化は無い。ただ、平家を打倒したあと自分たちがそれまでの平家の立場になるという野心を隠すことはなかったのだ。そこでいきなり「当初からの目的が達成されましたのでみなさん故郷へ帰りましょう」などと言われて従うわけなどない。
考えていただきたい。政権打倒を訴える革命家が、政権打倒を果たしたあとで権力とは全く無縁の一庶民に戻るなどあり得るだろうか、と。人類史上そんなものただの一度も存在していなこなかったし、今後も一度として発生しない。政権に対する憎しみを爆発させて政権を潰したあとで待っているのは、次なる政権に誰が就くのかという争いである。そして、実際に政権に就くのは憎しみを爆発させて政権を潰した当事者のトップだ。それは木曾方とで例外ではない。木曾義仲自身も野心を隠さなかったが、木曾義仲が野心を捨てて故郷の木曾に戻ろうとしようものなら間違いなく暴動が起こる。ただし、木曾義仲にトップに立つ資格があるのかを問うと、その答えは否である。
平家物語によると、木曾義仲が「天皇になろうか、法皇になろうか」などと語ったとされているが、そんなことはない。木曾義仲がまともな教育を受けていなかったことは事実でも、天皇とはどのような存在であり、法皇とはどのような存在であるか知っているし、自分がどのような地位になることができる立場であるかもわかっている。その上で、平家と安徳天皇との関係も知っている。ということは、平家と安徳天皇との関係に類する存在を擁することで木曾方は京都まで行く理由を獲得できることとなる。平家を打倒したあと、時代が藤原摂関政治の上に院政が乗るという仕組みの時代に戻るにしても、安徳天皇に比することの可能な存在を擁することで、平家が院政に絡んできたように木曾方の面々が絡むことも不可能ではなくなるのだ。
というタイミングでヒントとなる史料が登場する。
三〇歳で亡くなった以仁王には確認できるだけで七人の子がいる。皇子五名、皇女二名で、五人の皇子は全員が父の死と前後して出家している。そのうちの一人、以仁王の第一皇子も出家していたのだが、第一皇子ということで厳重な監視を受けていただけでなく、京都から離れたところでの暮らしを余儀なくされていた。問題は、その暮らしをしていた場所が越前国であったことである。以仁王の第一皇子は木曾義仲にとって絶好の存在だ。
具体的に何日のことはわからないが、寿永二(一一八三)年七月、以仁王の第一皇子が還俗した。以後、彼は北陸宮(ほくろくのみや)と呼ばれることとなる。木曾義仲は以仁王の令旨に基づく平家打倒の挙兵から、以仁王の第一皇子である北陸宮を皇位に就けることを目的とする軍事行動へと自らの行動原理とすることにしたのである。これであれば軍勢がそのまま京都に行くことも、軍勢が現在の平家の代わりに権力を握ることも不可能では無くなる。
木曾義仲は全くの無学であるが、木曾義仲自身は何度か書状を発している。木曾義仲が独学で書を学んだのではなく、木曾義仲の書を一手に引き受けた僧侶がいたのだ。その僧侶の名を覚明(かくみょう)という。覚明(かくみょう)は延暦寺にて修業を積んだ後、比叡山と奈良を行き来していたという経歴を持っている。興福寺にいたかどうかは不明だが、延暦寺の僧侶が比叡山と奈良との間を行き来することは特に珍しいことでは無い。ただし、奈良において地位を掴むとなると珍しい話となる。
覚明(かくみょう)は木曾義仲の書を一手に引き受けた文人であるが、この人の文人としての能力はそんな程度で収まる話ではない。以仁王の令旨を受け取ったとき、奈良において南都の総意としての返書を書き記したのはこの覚明(かくみょう)である。これだけでもその能力は充分に理解できるであろう。なお、このときの返書に、平清盛は平家のカス、平家は武家のゴミと書き記したのが平清盛に知られることとなり、平清盛の激怒を買って各地を流転する暮らしを続けた末に木曾義仲のもとに落ち着いたという過去を持っている。
読み書きできない木曾義仲は、自分に代わって書状のほぼ全てを読んで、そして書いてきた覚明(かくみょう)を信頼していた。武はともかく、文となると覚明(かくみょう)しかいないのが木曾方だ。
その覚明(かくみょう)が延暦寺との交渉の全権を受け持つことになった。
越前国府から比叡山延暦寺への書状を書き記したのが六月一〇日である。
覚明(かくみょう)の文面は平家がこれまで手に染めてきた悪事を列挙したもので、園城寺や奈良がどのような損害を被ったか、平家がいかにして兵糧を奪い、人を無理矢理徴兵し、荘園を奪い、飢饉を招いていったか、そして、後白河法皇に何をし、関白松殿基房がどのような運命を迎えることとなったのかを記している。その上で、北陸における木曾義仲の武功を列挙してこのまま延暦寺と戦闘となっても延暦寺に勝ち目はないと訴えうつつ、延暦寺が木曾義仲の行軍の邪魔をしないならば木曾方も延暦寺には何もしないことを確約し、我々はあくまでも平家討伐のために京都へ向かうのだと記している。そこに北陸宮の存在は記されていないが、平家と安徳天皇との関係を知らぬ者はいないことを記しつつ、木曾義仲のもとには帝位に就く資格を有する者がいることをほのめかしている。それが北陸宮であることは延暦寺にも想像できたであろう。以仁王の第一皇子が越前国にいて、かつ、出家していたはずなのに還俗したことの情報は延暦寺にも入ってきている。
さて、延暦寺に限ったことではないが、大寺院では寺院全体の命運に関わる決定をするときに上層部の僧侶たちだけで決めるのではなく、僉議(せんぎ)と呼ばれる一般の僧侶も交えた大衆討議に掛けるのが普通であった。僉議(せんぎ)はとにかく時間が掛かるが、僉議(せんぎ)の決定には強い拘束力があり、寺院のトップ、たとえば延暦寺における天台座主がいかなる意見を持とうと、僉議(せんぎ)の決定を覆すことはできないばかりか、誰であれ僉議(せんぎ)の決定に従う義務を持つ。その拘束力は寺院を一つに束ねる要素ともなっていた。
ただ、僉議(せんぎ)の決定に至るまでの過程には問題があった。討論に時間を要するのはもちろん問題の一つであるが、意見の優劣を、意見そのものの素晴らしさや意見に同調する人の多さではなく意見を持つ者の武力に寄るところもあったのだ。たとえ少数派でも絶大な武力があれば僉議(せんぎ)を制圧できたのだ。
木曾義仲から比叡山延暦寺に送られてきた書状の日付が寿永二(一一八三)年六月一〇日であり延暦寺が受け取ったのが六月一六日であることは既に述べた。そこから正式な回答が出るまでが長かった。僉議(せんぎ)が長引いたのである。僉議(せんぎ)が長引いている様子は外部にも漏れていて、参議吉田経房の日記には、延暦寺は源氏に味方したらしいという記載があり、数日後には延暦寺が源氏と平家の和睦の仲介をするつもりだという記載になり、さらに別の日には延暦寺が源氏の軍勢に対して徹底抗戦するつもりだという記載へと変わっている。そして、こう締め括っている。近頃は色々な風聞が飛び交っていて、どれが本当なのかさっぱりわからない。それをいちいち日記に書くだけ無駄だ、と。
源平盛衰記によると、覚明(かくみょう)は慈芸坊法橋寛覚と三上阿閣梨珍慶の二名の有力な僧侶を味方とすることに成功し、僉議(せんぎ)を木曾義仲にとって有利な決議に向かうようにさせたという。僉議(せんぎ)がいかに一般僧侶も参加できる大衆討議であると言っても、実際には内部の派閥での意見の集約になりやすい。特に、その派閥が武力を持っているならより意見を集約させやすい。覚明(かくみょう)の働きかけに応じた二名の僧侶はともに派閥に大きな影響を与えている有力な僧侶であり、現在の感覚で行くと地方議会の有力派閥のボスである議員に働きかけをしたようなものである。
その間に、木曾方は動きを見せた。
寿永二(一一八三)年六月二九日、木曾義仲の本隊が近江国に進出し、同日中に八幡、現在の滋賀県近江八幡市にまで到達した。いかに抵抗勢力が無いとは言え、また、いかに先遣隊を派遣済であるとは言え、一日にして琵琶湖東岸の三分の二を制圧したのである。
さらに琵琶湖西岸には矢田判官代義清こと源義清の率いる搦手(からめて)が進軍しており、延暦寺もその視界に入ってきていた。矢田義清は保元の乱で一軍を率い、後に足利氏の初代とみなされることとなる足利義康こと源義康の長男である。ただし、彼は庶子であったと考えられており、庶子であることが問題視されたのか、父の所領を相続することも、足利氏の一員としてカウントされることも、足利の苗字を名乗ることもなかった。矢田義清のキャリアも足利氏の所領たる下野国足利荘ではなく京都で積み上げてきたものであり、以仁王の挙兵時には源頼政と行動をともにし、源頼政が戦死した後は東国へ逃れ、木曾義仲のもとにたどり着いたという経緯を持っている。
ちなみに、搦手(からめて)とは本隊と作戦を合わせながら別個に軍事行動をとる別働隊を意味する軍事用語である。現在でも城門のうちメインのほうの門を大手門と呼ぶのに対し、裏や側面にあるメインではない門のことを搦手(からめて)門と呼ぶ。この用語の使い分けは平安時代には既に存在しており、当時の史料でも、本隊のことを大手(おおて)、別働隊を搦手(からめて)と記している。
矢田義清を搦手(からめて)として遣わせた成果は寿永二(一一八三)年七月二日、延暦寺としての一つの決断を示すに至った。比叡山延暦寺ならびに延暦寺に関連する全ての寺社の保有する資産や荘園について手出しをせず、戦乱の荒廃からの復旧に協力するなら、延暦寺は平家が傾くことにつとめるというものである。木曾方が近江国を通過するのを黙認すると同時に、この「平家が傾くことにつとめる」という努力目標の提示が延暦寺の示したギリギリの譲歩であり、情報が京都に伝わったとしても延暦寺がその権勢を保つことのできる最大級の表現であった。
比叡山延暦寺が木曾方の軍勢の近江国通過を黙認したという知らせはまだ公開されていない。天台座主の明雲(みょううん)は僉議(せんぎ)の結果を秘匿したので、あくまでも噂の話として伝わっているだけである。それも、当初は数多くの噂の一つとして伝わったにすぎない。ただ、その内容は正確であった。「平家が傾くことにつとめる」という言葉に代表される努力目標であって明瞭な意思を示したというわけではないという姿勢、しかも、戦乱の荒廃からの復旧に対する協力を交換条件としている。平家はここに付け入る隙はあるとみて、延暦寺を相手とするギリギリの交渉が始まった。
と同時に、朝廷のほうも平家をつなぎとめる対策に向けて動き出していた。
平家が京都を捨てて脱出するのではないかという噂は既に広まっており、朝廷としては何とかして平家を京都につなぎとめようと、寿永二(一一八三)年七月三日に平資盛に従三位に昇叙させた。平資盛は右近衛権中将も職務としているため、これにより平維盛、平資盛、平重衡の三人の三位中将が並立することとなった。朝廷としてはその責務に従って平家軍を出動させて首都の守りを果たせという意図がある。
一方の平家は、いかに朝廷から命令されようと、存在しない武力を発動させることはできない。最後の綱は延暦寺の僧兵だけなのだ。寿永二(一一八三)年七月五日に、平宗盛をはじめ、権大納言平頼盛、権中納言平教盛、中納言平知盛、参議平経盛、右衛門督平清宗、左近衛中将平重衡、左近衛権中将平維盛、右近衛中将平資盛、越前守平通盛という、まさにこの時点での平家一門のオールスターと言うべき一〇名が名を連ねて、比叡山延暦寺に協力を求める請願書を送ったのである。何しろ、比叡山延暦寺を平家の氏寺とし、日吉社を平家の氏社とするという内容であるから、平家として取り得る最大級の譲歩である。それにしても、無位無冠の反乱軍の工作と比べ、議政官に名を連ねる者も数多くいる平家の工作である。これは何たる対比であることか。しかも、無位無冠の反乱軍の工作は一人の僧侶の手によって成し遂げられたものであり、延暦寺に対しての武力攻撃すらちらつかせての工作であるのに対し、平家の工作は錚々たる面々が名を連ねて徹底的にへりくだるという、いったいどちらがこの時代の国政を担っている存在なのかと言いたくなる工作である。
しかも、この工作は寿永二(一一八三)年七月八日に完全に失敗に終わった。延暦寺が平家に対して支援要請の拒絶を伝えたのである。これで平家の希望は潰えた。
比叡山延暦寺との交渉は木曾義仲の完全勝利に終わったのである。いや、ここは木曾義仲ではなく、木曾義仲の右筆である覚明(かくみょう)の働きによるものと言えよう。ところが奇妙なことに、寿永二(一一八三)年七月二日を最後に覚明(かくみょう)についての記録が全く無くなる。しいて挙げれば平家物語において一一月のこととして木曾義仲が覚明(かくみょう)に相談しているシーンが登場しているが、そのシーンそのものが平家物語の生みだした虚構である。覚明(かくみょう)の存在が次に登場する場面を考えても、七月三日以降に覚明(かくみょう)が木曾義仲のもとにいたとは考えられないのだ。木曾方の中で文を一手に担う覚明(かくみょう)への反発があったのか、それとも覚明(かくみょう)が自らの功績を過剰に主張したか、このあとの木曾義仲の行動は、仮にここに覚明(かくみょう)がいたらもっとマシな内容になったであろうと誰もが思う内容へと堕していくこととなる。
覚明(かくみょう)の姿が記録から消えて木曾方から文が消えたとは言え、木曾方の武はまだ残っている。木曾義仲はお世辞にも政治家としての才覚が全く期待できず源頼朝の足下にも及ばない人であるが、武将として戦場を俯瞰し誰をどこに配備してどのように行動させるかという能力であれば源頼朝を凌駕する能力を持っている。
木曾義仲は全軍を一団とさせて近江国を行軍したわけではなく琵琶湖の東岸と西岸に分かれて行軍したというのは既に記した通りであるが、琵琶湖西岸に向かわせた矢田義清を途中から琵琶湖を大きく離れて丹波国の大江山付近まで進軍させたのである。現在の京都府福知山市だ。
また、木曾方の一部を源行家に託して、伊賀国から大和国に入って奈良方面へと向かわせ、二年前の南都焼討以来高まっている平家への不満を湧き上がらせた。
そして木曾義仲は、源頼朝とともに行動をするようになっている甲斐源氏にもコンタクトを取りだし、遠江国にいた安田義定に対して自軍に加わるよう要請した。このコンタクトは甲斐源氏だけでなく、美濃国や尾張国、三河国といった国々の源氏方の武士のもとにも及んでおり、京都上洛への野心を隠せぬ武士が近江国に殺到するようになった。
木曾義仲自身は京都の東の近江国に待機し、仲間に加わる者を受け入れ続けていた。
ここに、東は近江国の木曾義仲、南は大和国の源行家、北は丹波国の矢田義清という、木曾方による京都包囲網が成立したのである。
平家は北陸道から源氏の軍勢が京都へとやってきていていることを理解してはいたが、それがまさか京都を包囲するようにやってくるとは思っていなかったようで、ここで慌てて平忠度に命じて軍勢を派遣させている。平忠度に課せられたのは山陰道の確保であり、出動先も京都の北の丹波国である。
これは、このときの状況を考えると戦略としては間違っていない。
北陸道、東山道、東海道からの物資搬入が途絶えた京都ではあるが、山陰道、山陽道、南海道からの物資搬入路はついこの間までまだ生き残っていた。東からの物資搬入路の閉鎖は京都を飢饉に陥らせたほどの大損害であったが、西との物資搬入路が生き残っていたことで、物資搬入路の重心を西に置くようにしたことから飢饉から立ち直りつつもあったのがこのときの状況だ。その中でも山陰道は、山陽道や南海道と違って街道そのものの重要性に加え、他の大都市を通らずに京都にダイレクトにつながっている点から京都に運び込む前提の農地が多く広がっている地域であった。特に丹波国や丹後国の農地は消費地としての京都があることを前提とした農地経営をしており、山陰道を経由して京都に生活必需品を運び込むのが止まってしまうことは京都だけでなく山陰道各国の経済を破壊させることとなる話であった。そこで、平忠度に軍勢を率いさせて丹波国に向かわせ山陰道を保全させるのである。
これは何らおかしなことではない。ただ一点、ここで平家が平忠度に託して送り出すことのできた軍勢がわずか一〇〇騎であったということ以外は。
集めることのできた軍勢の乏しさもさることながら、平家はもう一つの問題に直面していた。あるいは、この問題が先に起こったから、平忠度に託すことのできる軍勢がわずか一〇〇騎という少なさであったとも言える。
財政問題だ。
平家は貿易によって生み出された莫大な資産を有していたはずなのに、その莫大な資産が失われていたのである。それは単に、寿永二(一一八三)年七月七日に平頼盛の所有している六波羅地亭、別名池殿の倉が焼亡するという事件が起こったからだけではない。
貿易が止まってしまったのだ。
貿易というのは相手国があってはじめて成立するものである。この時代の南宋は皇帝孝宗のもと南宋の最盛期を迎えており、南宋は政治においても経済においても最盛期にあった。また、北方の金帝国との関係においても平和状態が続いており軍事面の負担についても重さが段々と緩和されてきていた。つまり、日宋貿易という点で南宋は何の問題も無かった。
問題があったのは日本だ。平清盛が首都にまでさせた福原は、首都であった頃を最盛期とすると最盛期を過ぎた都市になっていたが、港湾都市としての能力だけで言えば、まだまだ日本有数の港湾都市であった。しかし、貿易船が福原にたどり着くまでが問題であった。南宋を出発した船が九州にまで到着したらそこは菊池隆直の手による反乱の渦中でとてもではないが寄港できない。それでも博多にまでたどり着けばどうにかなったが、そこから先、瀬戸内海を航行することができない。伊予国で反平家の反乱に起ち上がった河野通清(かわのみちきよ)とその息子の河野通信(かわのみちのぶ)の軍勢が、取り締まられれば取り締まられるほど闇に潜り海賊となって暴れ回るようになってしまっていたのだ。
そうして苦労して福原に到着できた船の前には残酷な現実が突きつけられた。売買できるモノが無いのだ。南宋の物品を買う人もおらず、南宋に売ることのできる商品を持つ者もおらず、そこに広がっているのは飢饉に苦しむ庶民と、飢饉の苦しさから犯罪に身を投じることを選んだ者ばかり。これでどうして貿易を続けようなどと考えるか。平家に訊ねれば以仁王の令旨から社会がおかしくなってしまったと答えるであろうが、平家以外の人に訊ねれば治承三年の政変からこんな社会になってしまったという答えが返ってくるのである。
さらに、平家の持つ所領からの収入も期待できなくなった。荘園からの年貢も貴重な収入であったが、荘園からの年貢が全く届かなくなってしまったのだ。荘園からの年貢は東から届かなくなっただけではない。西からも届かなくなってしまったのだ。これも理由は反乱による物資搬入経路の喪失であるが、実際のところは反乱を名目とする年貢の拒否である。ただでさえ不作にあったのに年貢を納めようものなら手元に残る食糧が乏しくなる。そこで、年貢を納めたい気持ちはあるが反乱のせいで京都まで送り届けることができない、という名目を立ててしまえば納税用の食糧を自分の食い扶持に回すことができる。これは平家だけではなく京都の全ての貴族たちのもとに年貢が届かなくなることを意味する。さすがに飢餓に苦しむということはないが、それでも年貢が届かなくなれば財政の危機だ。
普通の貴族であれば財政の危機を嘆くだけでいいが、平家はその財政で兵力を集めなければならない。平清盛が命令したように兵と兵糧を差し出させるのはもう不可能となっていた。命令に従って出せるような兵などおらず、差し出せるような兵糧などもない。北陸遠征時のように容赦ない略奪でどうにかしようというのはもっと無理だ。だいいち、略奪してきた土地を反乱軍たる源氏に奪われてきているのである。こんな状況下で兵力を集めるためには相応の報酬を用意しなければ話にならない。
そこで、現時点の平家でどうにかできる範囲で相応の報酬を用意した結果、少なすぎて話にならない軍勢ができあがってしまったわけだ。
寿永二(一一八三)年七月二〇日、平家がついに京都離脱の具体的な方策について協議しはじめた。このまま京都を舞台に反乱軍と戦闘をしようものなら、京都という都市が灰燼に帰すこととなる。だったら、反乱軍に京都を明け渡してしまう方がまだマシだった。
ただし、統治の正統性(レジティマシー)はあくまでも保持し続ける必要があった。そこで、安徳天皇と三種の神器、そして、後白河法皇は何としても平家のもとに留めておくことを決定した。二人のうちどちらか一名でも留めておくのに失敗したら、あるいは、二人を留めておくことに成功しても三種の神器を留めておくのに失敗したら、京都を占領した反乱軍が新たな天皇を即位させて統治の正統性(レジティマシー)を主張する可能性がある。これだけは絶対に避けなければならない。
ここで話し合われたのはあくまでも平家の中での対処であって、福原遷都と違って全ての貴族に対して向けられた話ではない。当然だ。福原遷都のときは京都を捨てて福原に新しい首都を作ろうとしたのに対し、今回は京都を一時的に離れるのが前提であって京都を捨てるわけではない。安徳天皇も三種の神器も、そして後白河法皇も統治の正統性のために平家のもとに留め置くが、その他の貴族は統治の正統性に必要不可欠な存在ではない。平家についてきたければ勝手についてくればいいというスタンスだ。
ただし、一人だけ例外がいる。摂政近衛基通だ。安徳天皇は数え年で六歳、満年齢だとまだ五歳にもなっていない。幼帝であるため摂政は絶対に必要となり、摂政に就くことのできる者のうち平家でどうにかできる者、言わば平家の言いなりになることが可能な人物は現役の摂政である近衛基通しかいない。復帰させた松殿基房や、右大臣九条兼実も摂政になる資格は有しているが、絶対に平家の言いなりにはならないと断言できる人物だ。極論すれば、摂政近衛基通以外の藤原氏は平家にとって不要なのである。
それではあまりにも人の心に欠けるではないかと思うだろうが、平家にとって大切なのは、今は京都を離れるにしても時間を掛けて劣勢を挽回して近い未来に反乱軍に打ち勝つことであり、その過程においては、はっきり言ってその他の貴族など足手まといにしかならないのである。たとえば藤原氏が源氏と手を組んで京都で新たな勢力を創り上げようとそれは構わない。しかし、統治の正統性(レジティマシー)はあくまでも平家の手元にある。なぜなら、天皇も、院政を司る法皇も、そして天皇の証である三種の神器も平家の手元にあるから。京都の勢力が新たな権力を作り上げようとそれは国家に逆らう反逆者であり、情勢を回復した平家の軍勢を主軸とする官軍の前に打倒される存在である、というのが平家の筋書きだった。
ところが、この協議の内容が早い段階で外部に流出した。しかも、流出した先が摂政近衛基通であった。平家のおかげで摂政になることができた近衛基通が、ここではじめて、いや、生まれてはじめて自ら行動を起こしたのである。近衛基通は平家が何を話し合っているかを後白河法皇に報告したのだ。
翌七月二一日、後白河法皇が一つの院宣を出した。平資盛と平貞能の両名に対し、軍勢を率いて宇治経由で近江国に向かうよう命令したのである。南から進軍してくる源行家への対策であることは言うまでもない。率いる軍勢も三〇〇〇騎と、平忠度に率いさせた軍勢の三〇倍の人数である。さすがに院となると平家をも上回る軍勢になるかと思うかも知れないが、後白河法皇は命令だけして軍勢の乏しさを補う援助は全くしていない。
寿永二(一一八三)年七月二二日、平家の命運が見えてくる出来事が立て続けに発生した。
まず、丹波国に派遣した平忠度が、何もできずに帰京した。山陰道の確保どころか丹波国から京都までの間の障壁を全て無くしてしまい、丹波国の軍勢にしてみればあとは京都への道が存在するだけという状況を作り上げてしまった。
同日、木曾義仲の率いる軍勢が東坂本に到着し、延暦寺の源氏方の僧侶たちと合流した。延暦寺から西坂本へ下山した僧綱からは、木曾義仲が東塔惣持院に城郭を構えたことが報告された。ちなみに、比叡山延暦寺の近江国側を東坂本、京都側を西坂本という。
同日、伊賀国から奈良を経由して京都へと向かっていた源行家が、南都焼討の復讐を煽ることに成功して大軍を率いて大和国から北上し宇治にまで到達した。後白河法皇の命令により宇治経由で近江国に向かっていたはずの平資盛と平貞能の両名は宇治の地で足止めを喰らってしまうこととなった。
同日、鹿ヶ谷の陰謀を密告してからは平氏に属していたはずの多田行綱が、木曾義仲に呼応する形で摂津国と河内国の両国で挙兵して反旗を翻した。
ただでさえ、東に木曾義仲、南に源行家、北に矢田義清が京都を囲むようにしているところに加え、多田行綱が京都の南西に陣取ることで、より強固な京都包囲網が完成してしまったのだ。しかも、この包囲網は多田行綱が加わる前よりも強烈なダメージを京都に与えるものとなっていた。多田行綱が淀川河口を制圧したことで京都と瀬戸内海との物流が完全にストップしてしまったのである。京都の貴族の収入が完全に喪失しただけでなく、ようやく兆しが見えてきた京都の飢饉からの脱却がまた逆戻りしてしまったのだ。
この状況を打破する必要は他ならぬ平家が痛感し、平家の送り込むことのできる最後の手札の投入を決意させた。平知盛に三〇〇〇騎を託し、平重衡らとともに近江国勢多に投入したのである。さらに、平頼盛にも山科方面への出兵を命じることで、平家の投入することのできる兵力はこれで文字通りゼロになった。あとに残っているのは平家ではあっても武門の鍛練を積んでいない貴族としての平家だけである。
それが意味を成したならばまだ救いはあったろう。だが、最後の最後まで温存しておいた切り札は全くの無駄に終わったのだ。
多田行綱に呼応して挙兵した摂津国の太田頼明により、摂津国河尻、現在の大阪府豊能町で京都へ運ばれるはずの都に上るコメなど略奪しただけでなく民家をも焼き尽くし、淀川を航行するために常置してあった平家の船も奪われたという情報が届くと、もはやこれまでと平家は京都を脱出することを決意した。
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