ダートマス大学のシドニー・フィンケルシュタイン教授は、著書「名経営者がなぜ失敗するのか」の中で、失敗する経営者のパターンとして七種類を挙げている。
一、自分と会社が市場や環境を「支配している」と思い込む
二、自分と会社の境を見失い、公私混同する
三、自分を全知全能だと勘違いする
四、自分を一〇〇パーセント支持する人間以外を排斥する
五、会社の理想像にとらわれ、会社の「完璧なスポークスマン」になろうとする
六、ビジネス上の大きな「障害」を過小評価して見くびる
七、かつての成功体験にしがみつく
政治家と経営者は必ずしも完全に同一ではないが、同一視できるのではないかと言えるほどあまりにも多くの共通点がある。自分の働いている先の責任者がこれらの七パターンのどれか、あるいは、それらの複数、あるいはその全てに該当しているという人もいるであろうし、教師がこのような人であったという学生生活を過ごした人や現在進行形で過ごしている人もいるであろう。
そのような人とは無縁だと考えていたとしても、首相がこういう人である、知事がこういう人である、市町村長がこういう人である、あるいはそうであったという人はこの国に住む全ての人が該当するであろう。
話を平安時代に向けるとどうなるか?
藤原頼通はかつての成功体験にしがみついた。
藤原信長は自分を完璧なスポークスマンであろうとした。
後三条天皇は障害を過小評価して見くびった。
白河天皇は支配していると思い込んだ。
藤原師実は公私混同した。
藤原師通は自分を全知全能だと勘違いした。
そして、この全員が、自分を支持する人間以外を排除した。
誰もが藤原道長の時代をピークに時代が落ちてきていると考えていた。そして、様々な人がそれぞれの方法で時代の転落を食い止めようとし、全員が失敗した。
政治とは国民生活の向上である。それが果たせなかった場合は、清廉潔白であろうと、正義感あふれる人であろうと、政治家としての失敗であり、政治組織としての失敗である。
摂関政治を倒すべきと考えたのは正義の実現のためであり、格差の解消のためであり、国民生活の向上のためである。それはそれで正しい。ただし、正義が実現し、格差が解消され、国民生活が向上したであろうかという疑問に対する答えは……
康平七(一〇六四)年四月。京都は間もなく迎える祭に向けての準備が進んでいた。平安時代の貴族にとって、「祭」と言えばそれは賀茂祭を意味する。現在は葵祭と呼ばれているこの祭の正式名称は現在でも賀茂祭で、葵祭と呼ばれるようになったのは江戸時代からのこと。平安時代の人たちは、この祭のことを「賀茂祭」と、あるいはただ単に「祭」と呼んでいた。
賀茂祭は毎年恒例のことであるが、康平七(一〇六四)年のそれは、前九年の役が終わりを迎え、平和を取り戻したと実感した中で挙行されるとあって、貴族だけでなく平安京とその周囲に住む一般庶民も例年にない特別な思いでいた。
賀茂祭は、現在でこそ毎年五月一五日と決まっているが、当時は四月の中の酉の日と決まっていた。そのため、四月であることは決まっているのだが、何日が賀茂祭の日なのかは年によって違っていた。十干十二支で数える日付と、年月日で数える日付との組み合わせの結果である。
ちなみに、日付を十干十二支で数えるとはどういうことかというと、年も月も日も関係なく、十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と、十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)だけで日付を特定するのである。二〇一六年一二月三一日と二〇一七年一月一日とでは年も月も違うが、十干十二支で現すと、二〇一六年一二月三一日が丁亥で、二〇一七年一月一日が戊子となり、年が変わろうと月が変わろうと連続することとなる。十干は無視して十二支だけに視点を向けると、一つの月は三〇日前後だから、例えば四月の酉の日は、少なくとも二回、多いと三回巡ってくることとなる。
中の酉の日とは、そのうちの二回目の酉の日である。
康平七(一〇六四)年四月のそれは四月一九日であった。
その待ち焦がれていた四月一九日の早朝、京都市民が目の当たりにしたのは暴風雨であった。それもただの暴風雨ではない。雨だけでなく雹が混じりあたかも雪であるかのように地表を覆い尽くしたのである。死者の数については記録に残っていないが、多くの牛馬の死体が散乱したとあるからただごとではない。当然ながら賀茂祭は中止である。
前九年の役とは言うが、実際には一二年に渡った戦争である。ただし、東北地方での局地的な戦争であったことから、それ以外の地域、特に平安京とその周辺に住む人たちにとっては、戦争であることは知識として知ってはいても、現実の殺戮の様子を目の当たりにすることはない。その代わりに存在したのが、戦争のための事実上の増税である。
前九年の役の初頭に朝廷軍が敗北を喫した理由が兵糧にあることから、朝廷軍に物資を届けるために、庶民生活の保護のための予算が削られ、東北地方へと運ばれた。これは庶民生活を苦しくするものであったが、戦いに勝つため負担であるとして耐えていた。
そして手にした戦争の勝利。これは、もう耐えなくていい暮らしになれることを約束するもののはずであった。
それなのに、戦勝で得られるはずの期待が全く得られなかった。
人々は思い出した。
戦いに勝ったのに、勝者として得られるはずの未来を手にできずにいることを。
戦争は、無理を道理にさせてしまう。平和な時代であれば「そんな負担など引き受けられない」と突き放すような負担でも、戦争となったら「平和を手にするまでの辛抱だ」「戦いに勝つまでは仕方ない」という心境になり、無理な負担を引き受けてしまう。本人がたとえ引き受けるという本心を見せなくとも、周囲が「こいつは戦争に協力しないとんでもないやつだ」という同調圧力が働いて、戦争へと協力させてしまう。
本音を言えば戦争に協力などしたくない。しかし、ここで戦争に協力せずに戦争反対を訴えて負担を拒否したら死んでしまう人がいるかもしれない。あるいは自分が、家族が、友人が、知人が、そして恋人が殺され、犯され、奪われてしまうかもしれない。そう考えると、戦争に協力するために負担を引き受けるのも仕方ないと考える。
それに、戦争終結というゴールも存在している。苦痛は存在するが、永遠の苦痛ではなく、一時的な苦痛なのだ。いまさえ耐えることができればどうにかなると割り切ることだってできる。
ところが、戦争が終わったのに、負担はまだ続いていた。こうなると、現在進行形でなぜ負担し続けなければならないのかという疑念だけで無く、戦争中の負担もどうして引き受けなければならなかったのかという疑念まで浮かぶ。
朝廷の立場に立つと、理解できる点がある。
そもそも戦争は名目に過ぎず、主題目は破綻寸前の国家財政。
この時代は赤字国債という概念など存在せず、税収だけが国家予算である。その税収が激減してきているのである。理由は明白で、荘園の増大。つまり、税を払わない人が増えているために国庫も厳しくなっていたのである。
国家財政の厳しさを訴えると、多くの人は大変なことだとは考える。ただし、大変なことだとは考えるが、それと自分の負担を増やすこととは何のつながりも持たない。特に、荘園という免税地域に生きる人間、そして、荘園領主として荘園からの収入を得られる者は、国家財政が厳しいからと言ったところで負担を引き受けようなどとは考えない。
ところが、戦争となると、あるいは大規模自然災害となると、負担を引き受ける、いや、負担を引き受けざるをえなくなる。正体は同調圧力であるが、税収を増やすという目的のためには手段などどうでもいい。
ましてや、本来なら税を払わなければならない人たちだったのである。今まで不法に脱税していたところを、戦争中は法に従って納税していたというだけのことであり、これから先も法に従って納税し続けることを考えてもおかしくない。
戦争が終わったのだから免税の権利が復活されるはずだという考えと、戦争が始まろうが終わろうが納税の義務は存在し続けるという考えとが対立したのである。
国家財政に対する考え方は二つしかない。まず税収があり、次に支出があるとする考え方、もう一つは先に支出があり、次に税収があるとする考え方の二つである。前者に立つと、自分の負担できる税はこれだけであるから、税による支出はここまでで留まるのは致し方ないという考えにたどり着くし、後者に立つと、これだけの支出が必要なのだから、自分はこれだけの税負担をするのはやむをえないという考えにたどり着く。
ところが、世の中そのような考え方の人ばかりではない。最も多いのは、「自分は税負担を引き受けるつもりはないが、国はこれだけの税を使え」とする考え方である。それを実現させてしまった結果が二一世紀日本の莫大な財政赤字であるが、平安時代に財政赤字という考えはない。支出は現在の税収でどうにかしなければならず、その税収は常に不足しているというのが日常となっていたのである。
国の支出の最たるものは社会保障である。どのような時代であろうと生活困窮者は存在するし、生活困窮者をいかに救済するかというのはその時代の執政者に求められる重要な要素である。それは何も、金銭や食料を配ることを意味するわけではない。失業対策として職業を増やすこと、平安時代で言うと田畑を用意して耕作できるようにすることも重要な要素である。
失業対策としても効果を発揮するはずであったのが本来の班田収授であった。それも平等を徹底させた上での失業対策であり、班田収授に従えば失業自体が消えて無くなるはずであった。日本国民であれば誰もが田畑を貸し出される。田畑からの税は国に納めるがその税率は低い。さらに平等を徹底させるために田畑は一定期間で取り替える。これにより失業者はいなくなり、誰もが職業と生活の手段を確保できる。その上、国は安定した税収を確保できるはず、であった。
しかし、一八〇年続いた班田収授は完全に失敗であった。失業が無くなるところか失業者が増え、生産性は悪化し、税収は減り、全国的な飢饉が一八〇年間で六回も発生するという惨状を招き、社会はどうにもならなくなった。班田収授を前提とする社会主義は何の役にも立たない失敗に終わり、その対抗策として荘園制という資本主義を生み出した。これは成功した。全国的な飢饉が激減し、農業生産性が向上し、人口が増えた。ただし、治安は良くならなかった。
平安時代の治安の悪さは、二一世紀現在の日本と同じ民族とは思えないほど劣悪なものであった。
その原因は三つある。
一つは貧困。
二つ目は警察権力の弱さ。
そして三つ目が刑法の弱さである。
三番目の刑法の弱さであるが、この時代の「律」、現在で言うところの刑法の条文に何かしらの問題があったわけではない。ただ、律の運用に問題があったのだ。
律によれば殺人等の重大な犯罪に対する最大の刑罰は死刑である。だが、大同五(八一〇)年九月に執行された藤原仲成の死刑を最後に二五〇年に渡って死刑のない時代が続いていたのである。死刑に相当する犯罪をなしても刑一等を減じて流刑とするのが一般的であった。平将門、藤原純友、平忠常、そして前九年の役といった戦乱の首謀者が、戦場で命を落としたり、京都へ連行される途中で命を落としたりすることはあったが、それは刑罰の執行ではなかったのだ。
刑一等を減じて流刑になった者も、京都から遠く離れた場所に追放されたのは事実であるが、追放された場所で牢に閉じ込められ監視生活を受けていたわけではない。ひどいケースになると、その土地の国司から消息が不明になったという連絡が京都に届き、気づいたら京都に舞い戻っていたなんていうのもある。
さらに厄介なケースになると、追放された場所で強盗団を組織して暴れまわるなんてケースもあった。犯罪をしでかした者を追放したから犯行現場から遠く離れた場所に追いやったのに、反省するどころか場所を変えて同じことをしでかしているのである。これでは刑罰として意味をなさない。
追放刑でなく、刑務所に入れるのではダメだったのか?
刑務所、この時代で言うと「獄」はたしかにあった。だが、獄に入れられる者はさほどの重罪ではない犯罪者であった。律に定められた刑罰としては、死刑が最高刑で、次に流刑、その次に懲役刑という序列であった。
獄、すなわち平安時代の懲役刑を受ける場所としての刑務所の環境は劣悪そのもので、三年生きていられたら奇跡としてもよいものであった。衛生状態は最低で、食べ物もろくになく、自由も無い。牢の中の囚人は毎日誰かしらが死んでいる。一方、それより重い刑罰である流刑は、衛生状態が最低というわけではなく、食べ物もあるし、自由もある。
この二つの選択肢が犯罪者に与えられる社会で、犯罪者に身を落としてしまったとき、どちらを選ぶだろうか? 軽い犯罪に止めて命を落とすか、重い犯罪まで落ちぶれて命を長らえさせるかという選択肢で、命を落とす方を選ぶ人は多数派では無い。一度犯罪者に落ちぶれてしまったら、徹底的に落ちぶれてしまった方がまだマシだというのが、この時代の刑法のあり方だったのだ。
警察権力の弱さを突き詰めると、この時代の警察権力の仕組みそのものにたどり着く。律令に従えば、刑部省が刑事裁判、刑罰の執行、獄の運営をし、弾正台が警察権力を行使するとなっていたが、検非違使の誕生によりそのどちらも名目だけの存在となった。
検非違使に与えられた刑事権力は絶大なものとなった。警察権、検察権、さらには司法まで検非違使は握っていたのである。逮捕した者がそのまま裁判を実施し、刑罰を科すのであるから、その刑事権力は現在とは比べ物にならない。
しかし、検非違使という職務は一生をかける職務とみなされなかった。役人や貴族のキャリアアップの一段階に過ぎず、大過なく検非違使としての任期を全うすればそれが評価となってより上の職務へと進めるとあっては、この「大過なく」の部分で引っかかる。犯罪があったので全力を挙げて犯罪者を逮捕したという実績より、犯罪そのものが無く平穏無事であったということの方が評価されるようになってしまったのだ。
こうなると、ステップアップのための通過点であるために検非違使の職務には就くが、検非違使の職務に人生をかけるわけなど無くなる。検非違使に就きたいという気持ちがある者はいたが、それは、犯罪を減らして平和な日常を作り上げたいという気持ちからではなく、自らの地位と出世のための踏み台でしかなかった。検非違使の職務に欠員が出るようなことはなかった。何しろ欠員が出たという情報を聞きつけると、勝手に自己推薦状を持った者が殺到するのだ。だが、検非違使に欠員がいないことと治安の維持と向上とは何のつながりも持たなかった。
検非違使という職務に対する報酬は少なく、検非違使としての職務遂行に必要な予算もまともに支給されなかった。真剣に治安の維持と向上を考えるのであれば検非違使の下で働く者の給与も予算として計上してもおかしく無いが、それは全く期待できなかった。検非違使に就いた者が、自分に仕える武士をそのまま検非違使としての警察権力の一部に組み込むことはあったし、武士そのものが検非違使となることもあった。そして、このような場合は警察権力がまともに機能することもあった。だが、そこで実際に治安維持にあたる者は、人と人とのつながりによるものであり、報酬を伴ったものではなかったのである。検非違使個人がその職務を評価されて出世したら、検非違使の下で働いていた者も警察権力から離れることとなったのである。
治安の悪さの最大の要因である貧困、これは相対的なものである。「キミより貧しい人がいる」などという説得は何の役にも立たないし、「昔は今より生活が厳しかった」などと言うのは神経を逆なでする発言である。自分よりも恵まれている人がいて、自分が不当に貧しい暮らしを強いられていると考えてなお、自らの貧しさを仕方ないこととして受け入れる人は少ない。そして、自分の生まれ育った時代の宿命をそのまま受け入れる人も少ない。特に、恵まれていた過去の世代が存在していた場合は。
人は、犯罪になどに走ることなく貧しさから脱する方法があるならば、そちらを選ぶ。倫理は無視して損得勘定だけで考えても、犯罪というのはリスクとリターンの釣り合う行動ではない。良くて、ハイリスクミドルリターン、そうでなければハイリスクローリターンである。一方、貧しさから脱するために努力して成功を手に入れる、例えば新しい事業を始めるとか、役人となり貴族になることを目指すというのは、ローリスクとまでは言わないにせよせいぜいミドルリスクである上にリターンも大きい。貧しさから脱するのに犯罪という手段を選ぶのは、賢い選択とは言えないのである。
ところが、賢い選択に対する挑戦権が絞られ、賢い選択に挑戦しても成功するとは限らなくなったとなると只事ではなくなる。リスクが高まりリターンが減るのだ。
仮に、新しい事業に挑戦するとしよう。この時代に株式会社という言葉はないが、株式会社と言える概念なら存在する。有力者の出資を募り、事業を始め、利益が出たら出資者に一定額を上納する。現在で言うと株主配当金ということになるが、この当時だと年貢となる。そして、この仕組みを荘園という。荘園の一員である者は、荘園領主に年貢を納める必要があると同時に、荘園領主からの庇護も期待できる。特に、このような新しい事業の初期投資を荘園領主に仰ぐことは珍しくもない。
荘園を、第一次産業を軸とする自給自足の小規模コミュニティと捉えていては話が進まない。荘園には第二次産業もあったし、第三次産業もあった。完全自給自足もできなくはないが、荘園というものは、他の荘園や荘園ではない地域に住む人との商取引があることを前提とする法人であった。
例えば陶器を作る仕事を始めるとなると、初期投資を出資者、すなわち荘園領主から募って窯を作り、工房を作る必要があると同時に、陶器を売る相手が必要となる。荘園の中で陶器を作っていることと、荘園内における陶器の需要とが完全に釣り合うなど考えられない。多くの場合、余るのだ。生活の全てを陶器作りに捧げれば、素晴らしい質の陶器、目を見張る量の陶器を生み出せる。しかし、荘園における陶器の需要はそこまで多くはない。そこで、選択肢が突きつけられる。陶器の生産量を減らす代わりに副業を営むか、あるいは、荘園の外に陶器を売るかのどちらか。
ここで、陶器を作るという仕事だけでは食べていけないと考え、食べていける他の手段を探すこと選んだ場合どうなるかを考えてみよう。
アビジット・V・バナジー、エスター・デュフロ両氏の共著である「貧乏人の経済学~もう一度貧困問題を根っこから考える」(みすず書房)には、貧困地域にある人々の暮らしとして特徴的なものがあると記している。それは、一人がこなす仕事の多さ。豊かな地域では分業が発達して一人一人がそれぞれの役割に特化することでより優れた製品やサービスを生み出せているが、貧しい地域では分業が発達せず、一人がこなす仕事の種類が多くなり、結果として製品やサービスの質は悪く、量も少なくなっている。
このような傾向は、自給自足を基軸とする経済でよく見られる。自給自足というのは、聞こえはいいが、正確に言えば経済の無駄遣いである。産業にとっての最適を捨て、現時点の需要を満たすことだけに汲々としているだけでは、産業の生産性を上げることは無くなる。現代の感覚でいうとGDPが上がらない低成長社会、あるいは衰退社会。
では、自給自足を捨て、産業の生産性をあげる成長社会を選ぶとどうなるか?
たとえば、荘園に身を置く人が、陶器作りに専念するのではなく、数多くの仕事の一つとして陶器作りに励むとしたら、待っているのはここでいう貧困地域と同じ結末である。生み出す陶器の質も量も乏しくなるのだ。それでも荘園内の需要に合わせるとそうなってしまう。
一方、陶器作りに専念し、その代わりに市場を荘園の外にまで広げたらどうなるか?
陶器作りに要する時間がそのまま陶器の質と量に反映することとなる。
もし、荘園の外で陶器作りに専念している人がいて、その人が荘園に陶器を売りにきたらどうなるであろうか?
陶器「も」作っている人の陶器と、陶器「だけを」作っている人の陶器が同じ品質で同じ量の供給があるとは考えられない。多くの場合、後者が前者を凌駕する。陶器というものは需要が無いといいうわけではないが、一日に何度も買うようなものではない。割れたら買う、あるいは、一応のために予備として持ってはいるという程度のもの、つまり、無いと困るが、あるからといって見境なく買うという人は、ゼロとは言えないが、期待できる多さではないというものである。こうしたものを買うとき、仮に同じ値段であるとして、より頑丈で割れにくく軽くて扱いやすい陶器と、すぐに壊れて重く持ちづらい陶器とどちらを選ぶだろうか?
多くの場合、選ばれるのは前者の陶器である。そして、前者の陶器を生み出す者は陶器作りに専念している者である。陶器作りを副業としている者は、自作の陶器の売り上げがゼロになるとまでは言えないにせよ、市場に生き残れるほどの陶器生産者ではなくなる。待っているのは陶器作りからの撤退だ。
陶器作りを専業の仕事として選んだ者は、副業として選んだ者よりも陶器づくりの世界で生きやすくはなる。ただし、競争に身を投じることとなる。より質の高い陶器をいかに作り上げるか、より多くの陶器をいかに生み出せるかに心血を注がなければ、競争に生き残ることができなくなる。その代わり、競争に勝てば成功が得られる。自分の住む荘園だけでなく近隣の荘園も、さらには片道でも数日を要する遠さにある荘園も、そして、荘園以外の場所も、自らの市場とすることができる。
これは何も陶器に限った話ではない。衣料全般がそうだし、塩もそうである。何かしらの専業となることで広大な市場を手にする勝者が生まれ、勝者の裕福な暮らしは羨望の的となる。ただし、誰もが勝者になれるとは限らない。既に勝者がいる市場に新しく挑むというのは、夢物語としては面白いが、現実のものとするのは難しい。
荘園を法人と、特に株式会社であると捉えると納得できる一つの記録がある。
荘園領主の異動に伴って、荘園の住民も異動したという記録である。
荘園領主が今まで持っていた荘園を手放す代わりに新しい荘園を手に入れた場合、それまで手にしていた荘園に住む住民も新しい荘園に移住することはよくあった。
荘園を田畑と考え、荘園領主を田畑の所有者と考えると、何でこれまで耕していた田畑を手放してまで荘園領主と一緒に新しい土地へと移るのかという疑問が出てくる。それほどまでに今までの荘園領主への強固な忠誠心を抱いていたのか、と。
しかし、荘園を法人と考えると納得がいく。
今でも、会社の移転で社員が異動するなど珍しくもない。会社が本社機能を別のビルに移すとか、東京から大阪に本社を移すとかがあると、社員は新しいビルに移るし、東京から大阪に引っ越すこともある。単身赴任を選ぶこともあるだろうが家族揃って引っ越すこともある。引っ越して、新しい職場で、これまでと同じこと、あるいはこれまで以上の仕事をすることはよくある話である。
荘園領主は株式会社の社長であり大株主に等しい。経営者として会社の利益を最大限にするための方法として、耕作という技術を持ったエンジニアを、より優れた収穫を残せる農地という新しい職場へ異動させることは当然の話である。
また、荘園に住む住民にとっても、住まいを移さなければならないが今までよりも上の待遇が待っているとなると、移転を決める決断をしやすくなる。荘園領主のあとを追い掛けて住まいを移すのは、荘園領主に対する忠誠心のカケラを持っていない人でも、損得勘定で世の中を考える人であるなら簡単に決断できることであった。
市場が成熟しているとき、それまでになかった製品やサービス、ドラッカーの言うところのイノベーションが生まれない限り、市場の新たな勝者は生まれない。そして、イノベーションは容易に模倣される。それも、その時点で市場の優位にある者の手によって模倣される。著作権や特許権のある現在ですら、イノベーションがもたらすのは先行者利益のみであり、知的財産ではない。誰かがより軽くて丈夫な陶器を生み出すことに成功したら、同じ方法で陶器を生み出す者が現れる。そしてそれは、現時点で陶器市場の勝者であることがほとんどである。
長く続いた平和のおかげで起業する下地は広がってはいたのである。だが、市場の成熟が起業の失敗の可能性を生み出してしまっていたのだ。どのような産業に身を投じようと、その産業で圧倒的優位に立つ者が存在しており、打ち負かすことは難しくなっている。経済の伸張の副産物としてもよい格差の拡大は十把一絡げに捉えることのできるものではない。しかし、どのような産業であろうと、格差の敗者から勝者へと転換することが難しくなっていたという点では十把一絡げも可能である。
これは何も平安時代だけの問題では無い。グローバル社会という話を耳にしたことのある人はたくさんいるであろうし、まさに自らが携わっているビジネスが直面しているという人もいるであろう。
話を戻して、役人になる道を目指すとどうなるか?
律令に基づいた役人就任規則はまだ存在しており、大学、この時代で言うと大學寮はまだ存在しており、大学を卒業し、試験を受ければ役人になれるという道は、一応は存在していたのである。しかし、そこから先の道は狭くなっていた。
まず、出世できない。
なぜか?
人が多いからである。
その顕著な例が、何度も記してきた位階のインフレ。位階というのはその人の能力に基づいて与えられる役人としてのランク付けである。絶対評価であるから、正六位下がその人の能力だと判断されたら正六位下になる。これはおかしくない。だが、同じランクの者の数が多過ぎるとなると話は変わる。正六位下ともなればもう少しで貴族になれるし、貴族になれれば国司になって、一生分の財産を築けることも夢ではなくなるが、それは理論上の話でしかない。既に貴族である者があまりにも多過ぎる上に、もうすぐ貴族になれるという者も掃いて捨てるほどいる。「君の役人としてのランクはこうだ」と示され、ランクに基づく給与が払われるようになったとしても、ランクに基づく職がないのだ。厳密に言えば、職はあるのだがとてつもない倍率になってしまっていて、本来ならば正六位下で就任できる役職でありながら、文句なしの貴族である五位、さらには四位の貴族が格下の職務覚悟で就任するという状況が続いてしまっているのである。
位階を手にしても職を得られず貧しい暮らしが続く。位階はあるからある程度の給与は貰えるが、貴族ではない役人が位階だけで手にできる給与などたかが知れている。平安時代の貴族の豪奢な暮らしは記録に残っているが、同時代の貴族ではない普通の役人の暮らしを見ると、豪奢どころか、慎ましやかさしか感じることはできない。
朝廷に仕えて出世することを諦めた役人の多くは地方に流れた。地方は常に人手不足だったからである。その上、中央で位階を手にしたというのは地方においてかなり優位に働く。
地方で武士となって暴れまわっている者の中でも、少なくない者が位階を持っていた。また、本人は位階を持っていなくても父や祖父が位階を持っていた者だということも珍しくはなかった。そして、その位階は貴族としてカウントされる五位以上であることもごく普通のことであった。
こうした者は新任の国司にとって厄介な存在であったが、同時に便利なコマにもなりえた。税を取り立てる側の視点では抵抗勢力となるが、任国で荘園を築き上げようとする国司にとっては荘園の守護者になり得たのである。
地方の武士にとっても、真正面に向かいあって税を取り立てる国司は厄介な存在であったが、任国に荘園を築こうとする国司は充分に利用価値のある存在であった。国司の多くは地方の武士たちよりもはるかに格上の位階であり、藤原摂関家とつながりを持っている者も珍しくはない。上位官職のほぼ全てが藤原摂関家の独占となっているこの時代、藤原氏の独占を不正義と訴えても何も得られるものはなかったが、藤原摂関家と近づけばそのおこぼれにありつける可能性が出てくる。うまく立ち回れば、このまま地方でくすぶり続ける生活からステップアップして中央で名を馳せる生活を手に入れることも可能なのだ。
双方とも利用価値があると考えた結果、新任国司が地域の武士団とつながりを持つことは珍しくなくなった。ただ、それが良くない方向へと向かうことも珍しくなくなった。
現在の都道府県に相当する令制国というのは行政単位に過ぎない。ここまでが下野国であり、ここから先は常陸国であるというのは、線引きされているだけのことであり、生活上の境界線となっているわけではない。現在でも埼玉県に住みながら買い物は東京都で済ましているが、自宅である埼玉県と買い物先である東京都とが徒歩数分でしかないという者など珍しくもないように、この時代も、生活の中に令制国と令制国との国境がある者などごく普通にいた。
一方、荘園というのは生活上の境界線を意識する存在である。正確に言えば、荘園の範囲はここからここまでであるという意識が存在し、かつ、その範囲が生活上の境界線と合致する。
そして、荘園の境界と令制国の境界とは必ずしも一致しない。
つまり、国境をまたいだ荘園というのは珍しくもないのだ。
国司として領国内に荘園を築こうと、あるいは、すでにある荘園を拡充させようとする場合、その領域は荘園住民の生活圏と一致する。しかし、令制国の国境と一致するわけではない。令制国の国境内に留まるのであれば何の問題もないが、国境を超えた荘園となるとただちに問題が発生する。領国内では国司の築き上げる荘園でも、国境の外では領国内の武装勢力による侵入となるのだ。その親玉が国司であるか否かなど全く考慮されることなく、領国内に攻め込んでくる強盗集団という扱いになるのである。
康平七(一〇六四)年九月一六日、下野国司であった源頼資が、その在任中に上総国司の橘惟行と争い、橘惟行の館を焼き、住民を殺害したとして佐渡へと配流とすることが決まった。下野国は現在の栃木県、上総国は現在の千葉県中南部だから、直接国境を接しているわけではない。だが、関東地方に住んでいる人なら実感することとして、関東地方の県境などあってなきがごとしというのがある。関東地方全体が一つの文化圏であり、生活圏であり、経済圏である。それは平安時代においても同じであり、下野国と上総国とに渡る荘園の形成を目指す動きがあってもそれはおかしなことではなかったのだ。
ただし、形成を目指す動きが珍しくないと言っても、放火や殺人が許されるわけではない。ゆえに、このときの処分は、時代の法に照らせば妥当とするしかない。
だが、いくら法による処罰があったとしても、家を焼かれ命を奪われるなどという状態が通常であってはならない。
では、どうやってこの状態を通常ではない状態に持っていくのか?
荘園というものは、律令に規定されているものではないが、法の拡大解釈に従えば必ずしも違法な行為というわけでもない。
律令に従えば全ての土地が国のものであり、土地は天皇の臣下である日本国民に貸し出すものであるべきというのが建前である。ただし、律令制による土地の私有禁止が収穫量の激減と多くの逃亡者、そして絶望的な飢饉を生じさせたことから、はじめは三世一身法で一時的な土地の私有を、次いで墾田永年私財法により永久的な土地の私有を許すようになった。荘園の所有権とは、律令に定められてはいない特例法である墾田永年私財法に基づく土地の私有の発展形であり、荘園の持つ免税の特権も、公務員である役人の給与が支払えない代わりに、所有する土地からの収穫については免税とする、すなわち、その免税分を給与とするという決まりである。役人ではなく貴族ではないかという区別はここには存在しない。位階で五位以上を獲得したため役人ではなく貴族になっているのだと主張しようと、公的地位はあくまで公務員であり役人である。そして、貴族持つ荘園が免税となっているのも役人としての給与の代わりというのが名目である。
荘園領主となって荘園をいかに多く獲得するか、あるいは、荘園そのものをいかに拡大させるかというのは、私有の土地をいかに増やすかというのと同時に、役人としての地位である位階や役職をいかに獲得するかという争いにもなる。より強力な武力を持ち武力で強引に荘園を拡張させるというのもそれはそれで一つの手であるが、武力ではなく権威による荘園獲得も無視できる要素ではないのだ。
逆説的な話になるが、権威による荘園獲得のためには、荘園の増殖を抑えることがかなり有効に働いた。どういうことかと言うと、役人としての地位を上げるのにかなり有効な方法なのが国司としての働きである。役人としての位階を上げ、国司となって任国に赴任し、任期満了までに任国をいかに統治したかというのは、その人の役人としての、あるいは貴族としての評価に直結するのである。
国司としての統治の評価は、領民からの評判もあるが、朝廷が最優先で判断するのは定められた税を朝廷に届けたか否かである。それぞれの国には毎年納めることが定められている税が決まっており、その通りの税をいかに徴収するかというのが国司としての腕の見せ所であった。
つまり、税を払わないでいい荘園を手に入れるために、あるいは、現時点で持つ荘園を維持し拡張するために、任国で税をいかに集めるかという話になるのである。任国に自分の持つ荘園などなく、任期満了を迎えればあとは野となれ山となれで、任国内の荘園からも遠慮なく税を取り立てるという考えは、極めて危険である。荘園の住民の怒りを買うからというのもあるが、そうした荘園の持ち主の多くは、自分よりもはるかに地位の高い上流貴族や、自分には手出しできない寺社であったりするのだ。このような存在を敵に回そうものなら、国司としての評価どころか身の破滅が待ち構えている。
国司たちが実践したのが、荘園ではない土地はどこなのかを明確にさせることであった。「ここからここまでは荘園ではない土地であり、所有者は国で、国司が管理する土地である」と明確にし、その土地に対して税を課すと同時に、任期中はその土地を荘園に組み込ませないようにさせたのである。こうした土地を国衙領、あるいは公領と言う。
特に寺社の所有する荘園で見られることであったが、公領の中に寺社の持つ荘園が点在していることがあった。この場合、国司は寺院に掛け合って土地の交換を求めることもあった。どういうことかと言うと、「この集落の収穫は以下の通りですが、その全てが収穫は公領ではなく荘園からの収穫なので納税対象ではありません」と主張されてしまうとどうにもならなかったのだ。
サラリーマンの日常に置き換えて説明すると、法人税の納税対象が正社員による経常利益だけに課せられていて、派遣社員による経常利益は派遣元企業の法人税納税対象となっているようなものなのである。
X社では、X社の正社員であるAさんの売り上げは法人税の納税対象となるけど、Y社からの派遣社員であるBさんの売り上げは納税対象とならないという状況が起こっているようなもので、X社ではその年、AさんとBさんの二人がともに一〇〇〇万円ずつ、合計二〇〇〇万円の売り上げを残し、経常利益がともに一〇〇万円ずつ合計二〇〇万円だとする場合、X社では納税対象となるAさんの経常利益の一〇〇万円だけにかかることとなり、実効税率四〇パーセントとすると四〇万円の法人税となる一方、Bさんの残した経常利益はBさんの派遣元企業であるY社の法人税の計算対象となるようなものなのだ。
これだけでもおかしな話なのであるが、さらにおかしな問題となるのが、会社の経常利益の全てをBさんの名にしてしまうということ。するとどうなるか? 同じ二〇〇万円の経常利益でも法人税の課税額がゼロになってしまうのだ。一見するとBさんを派遣したY社にとってたまったものではないと思うかもしれないが、Y社は法人税を納めないでいいという特権を得ており、そこから社員を派遣して、派遣先の企業が経常利益をBさんの名で、つまり、Y社で計上したとしても痛くもかゆくもない。それどころか、派遣先の企業であるX社から、法人税を払わないで済む代わりにある程度の金銭を受け取れるのだから、Y社にとっては商売として美味しい話になるのだ。
荘園と公領が入り混じっているところでも同じ問題が起こったのである。「この集落の収穫は全て荘園である土地からの収穫であり課税対象ではありません。公領からの収穫は全くありませんでした」という言い逃れができてしまうのだ。その上、「すでに申し上げた通り、今年は公領からの収穫が全くなかったため、多くの人が生活に困ることとなりました。この状況に向かい合い、宗教家として救済にあたるべく、荘園からの収穫は全て救済のために使用することといたします。まさか、国司ともあろう人が、餓死してでもいいから荘園の収穫をよこせだなどとは言いませんよね」などと言われたら、これはもうどうにもならない。どう考えても嘘八百な言い逃れであったとしても、何も言えなくなってしまうのだ。
そこで、公領内に点在する荘園と、荘園との境界に近い公領の一部を交換するよう要請するのである。集落全体が公領になるのだから問答無用で課税対象となる。一方、荘園領主としても荘園の全体量は変わらないのだから、これは妙案と思うかもしれないが、それを易々と受け入れられことは少なかった。
先ほどのサラリーマンの例でいくと、BさんをX社の正社員とさせて課税対象とさせる代わりに、公的事業の一部をY社に譲り渡すようなものである。
この場合、X社にメリットはない。ただただ法人税の税額が増えるだけである。
一方、Y社はBさんをX社に派遣することによって得られる利益が減るが、譲り受けた公的事業からの売り上げで減った利益を取り戻せる可能性がある。これならば、Y社にとって妥協できなくもない話ではある。しかし、その売り上げがBさんをX社に派遣していたことによって得られる売り上げよりも少ない金額にとどまるとすれば、受け入れられるような話ではなくなる。
話を平安時代に戻すと、公領に取り囲まれた荘園を手放す代わりに、別の公領を荘園として手にするというのは納得できる話ではある。しかし、その公領のもたらす収穫が、手放すことになる荘園の収穫を下回っては納得できる話ではなくなる。
そもそも、なんで公領に取り囲まれたところの荘園を持っているのか、そして、現時点で持つ荘園の拡張対象としてそれまで公領であった場所を選んでいなかったのかを考えると、公領に囲まれた荘園を手放して新しい公領を荘園として手に入れることのメリットなど考えられないからという結論に至る。それまで公領に手を出さなかったのは充分な収穫が得られなかったからであるし、荘園を手放さなかったのは無視できない収穫があったからである。年間一〇〇〇万円の売り上げをもたらす事業を、年間五〇〇万円の売り上げの事業と引き換えに手放す者などいない。仮に、五〇〇万円の売り上げの事業二つとの引き換えであったとしても、一つの事業と二つの事業とでは、必要となる経費も倍になり、もたらされる利益は期待できるものではなくなる。少なくとも、一人あたりの利益という点では半分になってしまう。
これは交換条件として成立しない。
市場の論理に任せないと生産性が上がらない。しかし、市場の論理だけでは格差が広がり固定化する。国の税収は合法的に減り、貧しい者を庇護するための税が削られる。誰もがこれを問題だと考えているが、それと自分の負担を増やすこととは何のつながりも無い話である。
康平八(一〇六五)年一月一日。それは当たりさわりのないごく普通の一年の始まりのはずであった。
ただし、いつまでもこの普通が続くと考えた人は少なかった。
何か問題があったのか?
あった。
以下の表を見ていただきたい。康平八(一〇六五)年一月一日時点の議政官の構成者と役職、そして年齢である。
いかがであろうか?
七〇歳以上の高齢者が五人いるという点に、それも、かなり高い地位を七〇歳以上の高齢者が占めている点に注目した方が多いであろうが、忘れないでいただきたいのはこれが平安時代の記録であるという点である。平安時代は五〇代で高齢者とみなされる時代であり、この時代の七〇歳となると、二一世紀日本の一〇〇歳に相当する高齢者である。
藤原実資が九〇歳で右大臣をつとめたという先例があるとは言え、七〇歳を過ぎての大臣はやはり異例であり、八〇歳になっても議政官の一員であるというのは通常の事態ではないと見なされていた。
そうでなくとも、医学水準が現在と比べものにならない時代である。その時代の高齢者に健康な日常を期待できるであろうか?
それでももう少しはどうにかやり過ごせるであろうと考えていたこの時代の人たちに冷や水を浴びせたのが、年明け間もない康平八(一〇六五)年一月五日のニュースである。
この日、右大臣藤原頼宗が病気のため政界を引退し出家すると発表されたのだ。すでに七三歳という高齢の身であり、病気による政界引退でなくてもとっくに隠居の身になっていてもおかしくない年齢であった。
病気による政界引退、そして高齢。さらに現在とは比べ物にならない劣悪な医療水準。この組み合わせで健康を回復して政界復帰を期待するのは無茶な話である。
結果は最悪であった。康平八(一〇六五)年二月三日、右大臣藤原頼宗死去。七三歳での死である。
さらに、右大臣藤原頼宗の死のニュースからいまだ冷めやまぬ二月九日、今度は権大納言藤原能信が亡くなったとの知らせが届いた。七一歳での死。
人事を変えることなく、高齢化というリスクを無視し続け、先送りにした結果が、一つ、また一つと欠けることとなる議政官であった。
先送りというものは必ずしも悪いものではない。アダム・グラント氏がその著書「ORIGINAL」で明らかにしたところでは、物事に対して率先して取り組むよりも、先送りにするほうが二八パーセントの創造性向上が確認できたという。そして、「先送りは生産性の敵かもしれないが、創造性の源にはなる」とも述べている。
先送りが創造性を生み出す理由について、同氏は、より時間をかけることによって問題の解決に必要な資源や情報の蓄積が可能になるからと述べている。
そして最も重要なこと、それは、先送りにしているまさにそのことが、試行錯誤を繰り返していることになることである。イノベーションの七要件の最初に出てくるのは、新発明でも、新発見でもなく、「予期せぬ成功や失敗」、つまり、「起こったことのうち、事前に想定はしていなかったこと」。そして、事前に想定していなかったケースをより多く生み出すのは、数多く実践することに尽きる。「こうなるはずだ」という理論に意味はない。意味があるのは「こうしたらこうなった」という行為と結果である。
藤原頼通がアダム・グラント氏の研究成果を知っていて意図的に先送りしていたわけではない。ただし、先送りするしか手はないと考えていたのは間違いない。
藤原頼通は既に七四歳となっている。三〇歳で左大臣になってから六九歳で辞すまで左大臣であり続け、一度は関白専任となったのち、太政大臣も辞して今は再び関白専任になっている。高齢という現実が突きつけられていることはイヤというほどわかっていたし、その現実に対してどうにかしなければならないという思いも抱いていた。そして、試行錯誤を繰り返してもいた。
だが、どうにもならなかった。
摂関政治の基礎は、藤原氏の女性が皇室に嫁ぎ、藤原氏の血を引く天皇が誕生することで、藤原氏が天皇の親族として権力を振るう仕組みにある。後冷泉天皇の母は藤原道長の娘である藤原嬉子で、後冷泉天皇の皇后は藤原頼通の娘である藤原寛子である。ここまでは摂関政治の体系として通常形である。
通常形でなかったのは、後冷泉天皇に子がいないという点であった。厳密に言うと永承四(一〇四九)年に藤原教通の娘である藤原歓子が後冷泉天皇の皇子を産んだが、皇子は産まれてすぐに亡くなっている。
藤原頼通が、あるいは、当時の藤原摂関家が先送りを選んだのは、何としても藤原氏の血筋を引く次期天皇が誕生するのを待ち続けなければならなかったからであった。
子のいない後冷泉天皇の皇位継承者は弟の尊仁親王となる。この尊仁親王が問題であった。尊仁親王個人の資質に問題があったのではない。尊仁親王に流れる藤原氏の血が薄いことが問題であった。
尊仁親王は後冷泉天皇の弟であるが、母親が違う。尊仁親王の母親は禎子内親王であり藤原氏の女性ではないのだ。禎子内親王の実母は藤原道長の娘であるが、藤原氏の孫であることは知識として知っているというレベルに留まっており、自分は皇族であるという意識を終始隠さなかった。
後冷泉天皇の弟であるために皇位継承権筆頭と考えられ、実際に皇太弟の地位にもあったが、尊仁親王は兄の後冷泉天皇と違って藤原氏との距離を堂々と置くことが許されていた。藤原氏との距離については後冷泉天皇だって置くこともできたし、実際に即位当初は藤原摂関家を無視する統治を展開しようとしていたのだが、後冷泉天皇に藤原摂関家を無視する統治が可能になるバックボーンはなかった。いかに有能な統治者であろうと、全てを自分で決定し行動することは無茶な話である。そのためには自分の意見に基づいて行動する人、さらには自分が下すまでもない小さな意思決定を代替する人の存在が必要であり、そうした人を活かす能力のことをマネジメント能力というのであるが、逆説的ながら、マネジメント能力を駆使するためにはマネジメントによって動かすことのできる人材をいかに用意するかという問題に突き当たる。後冷泉天皇がいかにマネジメント能力を発揮させようと、後冷泉天皇のマネジメント能力が発揮できる人材は摂関政治というシステムに則った人材しかおらず、後冷泉天皇の意思決定を代替できる人は藤原摂関家の人間しかいなかった。言い換えれば、藤原摂関政治というシステムは天皇のマネジメント能力を藤原摂関家で抑えこむというシステムでもあったのである。
だが、尊仁親王は藤原摂関家に頼らないシステム構築に成功していた。藤原摂関政治の強固さを前に表舞台に立つことのできないでいた人材を集め、藤原摂関政治に対する反発心を共通軸とする一派を作り上げることに成功していたのである。
後冷泉天皇に何かあった場合、次の皇位は尊仁親王のものとなる。それは同時に、藤原摂関政治を一瞬にして終わらせることを意味するのだった。
尊仁親王はたしかに後朱雀天皇の子である。
だが、母は三条天皇の娘である。
第六二代村上天皇のあと、皇位は、村上天皇の子の冷泉天皇、冷泉天皇の弟の円融天皇、冷泉天皇の子の花山天皇、円融天皇の子の一条天皇、花山天皇の弟の三条天皇、一条天皇の子の後一条天皇、後一条天皇の弟の後朱雀天皇、後朱雀天皇の子の後冷泉天皇と移ってきた。
整理すると、冷泉天皇系の花山天皇と三条天皇、円融天皇系の一条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇となる。
今、冷泉天皇系と円融天皇系と書いたが、これは単に皇統の移り変わりを意味するのではない。政権交代を意味するのである。藤原摂関政治を与党とし、それに対する反発を野党とした場合、花山天皇も、三条天皇も、藤原摂関政治に反発する野党的性格を帯びた天皇であり、その統治も当初は藤原摂関政治を否定するところから始まっていた。ただし、現実問題として藤原摂関政治を否定したら政治が回らなくなった。
民主党政権への政権交代を経験した日本国民ならばわかるであろうが、民主党政権の数多くある失敗のうち、政治家主導による政治という失敗はこの国に混乱を招くに充分であった。あるいは舛添都知事であった頃の東京都もまた、民主党政権と同じ失敗をしでかしていた。
それは何か?
政治家主導である。
役人の手から政治を取り戻し、政治家が政治を主導するといえば聞こえはいいが、政治家のもとに役人がいて統治をするという仕組みを否定することは、統治能力の停滞と、政治家の過剰勤務をもたらす。それでも、過剰勤務が成果を残すならばまだいいが、何の成果も残さない。ただただ、何であれ遅くなるだけである。
官僚主義というのは、批判のネタにはなるが、官僚主義を批判した結果として官僚なしの政治を展開したところで、官僚より優れた人材を用意できなければ意味が無い。ましてや、政治家が自分のことを官僚より優秀だと勘違いして官僚の仕事を自分で代行するようになったら最悪である。官僚主義と批判しようと、役人というのは公務におけるプロなのである。プロから、「こんなもの俺でもできる」と仕事を取り上げ、所詮はアマチュアである政治家がやると、よほどの幸運が重ならない限り失敗する。絶望的なレベルで失敗する。
おまけに、その失敗を認めない。
現存する権力に対する反発を行動の源泉とする者は、既存権力の腐敗を憂うと同時に、自らの優秀さを信じて疑っていない。劣った権力者が腐敗しているから優れた自分に変わるべきだと考える人にとって、能力の乏しさは断じて認められるものではないし、そのように指摘されることは、第三者から見れば正直な発言であっても、彼らに言わせれば的外れな暴言になる。
政権交代を真剣に考えるならば、政治家主導などは考えない。既存の役人を活かすか、あるいは、役人を自前で用意する。少なくとも二大政党制を機能させている国は、このどちらかを必ず用意している。用意せずに政権交代を起こした国は、日本国も含め、例外なく失敗している。
花山天皇も、三条天皇も、政治家主導による摂関政治批判を展開し、政治家主導であるために早々に失敗した。それは、藤原摂関政治に対する反発というだけで行動し、そのために必要な組織作りに失敗していたからである。あるいは、組織作りの必要性を認識していなかったと言い換えてもいい。このような反体制であれば、体制側はどうにかなる。それが数年を要することにはなるが、近い未来に勝手に瓦解するからである。
ところが、尊仁親王はそうではなかった。組織作りに成功していたのだ。
藤原摂関政治の元で冷遇されていた者、さらには、藤原摂関家内部の権力争いで敗れた者を味方として引き寄せることで、いつでも藤原摂関政治と取り替えることのできる組織を構築できるようになっていたのである。
選挙という政権交代のシステムが出来上がっている現在は、裏を返すと、選挙に勝ち続ける、すなわち有権者の求める政策を展開することで政権交代を阻止するという手段がある。だが、平安時代のそれは皇位に由来する。皇位の継承に成功すれば政権は維持でき、失敗すれば政権交代となる。極論すれば、日本国民の九九パーセントの支持を得ていようと、皇位の継承に失敗した瞬間に政権が変わってしまうのだ。それでも、花山天皇や三条天皇の場合はそもそも政権交代に耐えうるだけの統治システムを構築できずにいたから、新政権の方が勝手にオウンゴールをしてくれて政権を元に戻すことができた。しかし、尊仁親王は違う。明らかに現状と入れ替えることのできる統治システムを用意している。
政権交代が必ずしも国民生活の幸福をもたらすわけではないことを、現代の日本人は思い出したくもないほど知っている。いや、現代の日本人に限らず、古今東西多くの人たちが、政権交代に対する疑念を抱き続けていた。政権交代して国民生活が良くなるのだろか、と。疑念を感じることなく政権交代を歓迎する場面があるとすれば、それは、絶望的な貧困と不自由、そして大量虐殺を伴う時代の終わりを意味する政権交代だけである。
政治家の評価はただ一つ、国民生活の向上によってのみ決まる。政治家自身の権益を考えた結果であろうと国民生活が向上したならばそれは優れた政治家であるし、清廉潔白を絵にしたような政治家であろうと国民生活の劣化があるならその政治家は劣った政治家と断じるしかない。
藤原摂関政治の継承を第一に考えた結果の政権交代拒否は確かに利己的な判断であろう。しかし、この時代の日本人の国民生活の向上という点に目を向けると、それは必ずしも利己的な判断とは言えなくなる。
そもそも藤原摂関政治というものが、それまでの律令政治に対するアンチテーゼとして誕生した政治システムであり、国民生活の向上という視点では、明らかに律令政治よりも上回る成果を残したものである。平等を前提とする律令制のもとでは、人口が増えるどころかむしろ減っていた。収穫も減って、飢饉が増え、失業者が目に見えて増えていた。GDPで表すならばマイナス成長であったのが律令政治である。対する藤原摂関政治は、平等の理念が薄い。しかし、豊かさなら存在した。人口が増え、収穫が増え、飢饉が減り、失業者が減った。GDPはプラス成長へと転じたのである。この時代の人に、自分が豊かであるか否かを質問したら、豊かではないと答えるケースが多いであろう。しかし、以前と比べてどうですかと質問すれば、悪くなっていると回答する者はいない。
正義か不正義かといえば、律令制の方が正義だ。正義というものは「皆が等しく」という建前にいとも簡単にひれ伏し、「俺が苦労しているのに、あいつは苦労しないでいい思いをしている」と考えるときに相手を糾弾する手段として有効に働く。無論、ここでいう正義とは、絶対的なものではなく、自らの立ち位置のことである。自らの立ち位置が変わることなく、自分と異なる「悪」とされる側が「正義」である自分の側に対して無条件降伏をすることが正義の実現となる。その結果、それまで悪であった存在が正義である自分の下に置かれて奴隷扱いされる世界となっても、正義の実現であるからおかしなこととは考えない。
藤原摂関政治を否定する政権交代が起こったとき、日本中で発生するのは、この、立場の大逆転である。それでも、国民生活が今までより良くなるならまだ納得できるが、どう考えても今よりよくなるとは考えられない。明らかに今までより悪化するのだ。
今まで良い思いをしてきた存在となると、貴族や役人もそうだが、荘園も忘れてはならない要素となる。ここで正義が実現したら、荘園というものが無くなる。良い思いをしてきた荘園が消えるのだから痛快なことと考えるかもしれないが、ここで重要なのは、荘園の生産能力の高さである。生産性の高さゆえに庇護を受けることとなり、荘園領主への年貢と引き換えに税負担を免除されてきた荘園を無くすと、招く結果は生産性の低下である。負担を増やされてもなお現状通りの生産を維持できるとは夢にも考えてはならない。負担を増やされたとき、今まで通りの生産を記録した上で手元に残る収入を減らしても構わないと考える人はいない。自分は負担を引き受けずに他人には負担を増やすよう命じる人がいるだけである。これは何も平安時代に遡らなくても、二〇世紀の共産主義や軍国主義という社会主義革命を見れば、あるいは二一世紀のジンバブエを見ればわかることである。正義を実現させた結果の悲劇というのは恐ろしいと形容するしかない。
二人の高齢者の死によって空席ができた議政官では、藤原頼通の二人の後継者の昇格が起こった。
一人は、現時点で藤原頼通の後継者と目されている、藤原頼通の六男である藤原師実。もう一人は、かつて藤原頼通の後継者と目されていた源師房である。康平八(一〇六五)年六月三日、正二位内大臣藤原師実が右大臣になる。同時に従一位に昇格した。なお、左近衛大将は兼任のままである。同日、権大納言源師房が内大臣に転任。同じく右近衛大将は兼任のままである。
これで当時の人は次の時代の摂関政治の体制がどうなるかを理解した。このとき藤原師実二四歳、源師房五六歳。藤原頼通の次は右大臣藤原師実が来るが、まだ二四歳と若い。しかし、その藤原師実の後ろには、いつの間にか後継者としての名を失っていたが、藤原頼通の政権を支え続けるという実は残し続けていた源師房が君臨している。藤原摂関政治の存続のためには藤原氏でない者を後継者としても厭わないという割り切りを見せていた藤原道長の意思は残り続けていたのである。
ただし、尊仁親王のもとに反藤原摂関政治の面々が集結し、政権交代を伺っているという状況は変わらなかったし、後冷泉天皇に後継者たる皇子がいないという現実も変わっていなかった。
それでも、後冷泉天皇はまだ四〇歳である。藤原頼通の後継者とされた藤原師実は藤原頼通が五〇歳のときに生まれた子であり、その子が今や二四歳の若者に成長しているという事実が頼通を諦めさせずにいた。
藤原頼通が自分の娘でもある藤原寛子に託していた期待はかなり大きかったと見え、藤原寛子はかなり華やかな暮らしをしていたことが記録に残っている。この時期の皇后藤原寛子の御殿の華やかさについては、藤原寛子に使えた女御の私家集である「四条宮下野集」にも詳しい。
しかし、皇后の暮らしをいくら華やかにしても、皇后が子を生まないという現実を覆すことはできずにいた。
この焦りが珍妙な行動を生む。康平八(一〇六五)年八月二日、何の前触れもなく治暦へと改元すると発表された。公式には旱魃と地震による改元とされたが、この時代の人はそれを信じなかった。確かに地震があったにはあったが、せいぜい震度三程度の気にするほどでもない揺れ。旱魃に至っては、「そう言えば雨が少ないな」ぐらいで作物に影響を与えるようなものではなかったのである。
藤原頼通の焦り、そして、後冷泉天皇の焦りを横目に、政権交代をむしろ待ち望んでいる藤原摂関家の者がいた。ただし、この時点では故人となっている。
それは誰かと言うと、この年の二月九日に七一歳で亡くなった権大納言藤原能信。藤原道長の子で、藤原頼通の弟であることから、普通に考えれば藤原摂関家政治の一翼を担う人材であると考えられるであろうし、実際にそのような処遇を得ていたのだが、藤原能信にとって、自己の境遇は到底納得できるものではなかった。
兄頼通と差がつけられていたというのは半分しか正解ではない。これがもし、自身の政治家としての能力による差であれば納得はできたであろう。だが、藤原能信が差をつけられていた理由は、政治家としての能力ではなく、単に母親が違うという一点であったのである。藤原道長は、源倫子から生まれた子は優遇したが、源明子から生まれた子は冷遇したのだ。
もっとも、政治家としての能力の差についてはともかく、人間としての差となると、さすがに藤原頼通と比べるのはおこがましいという気にもなる。
まず、一五歳のとき、のちの後朱雀天皇となる淳良親王の誕生の儀の最中に、左近衛少将藤原伊成と殴り合いの喧嘩をしでかす。一九歳のとき、石清水八幡宮での祭典において、見物に来た他の貴族たちと大乱闘を演じている。二〇歳のときには強姦を企てた者に加勢をして従者を派遣させ殺人事件を招いている。二二歳のときには強姦を企てた結果逮捕された者を助け出そうと従者を派遣し、暴行略奪の限りを尽くしている。
記録に残るエピソードだけ拾い集めてもこの有り様。この人はとにかく素行が悪かったのだ。
藤原能信は、母の違いで子を差別しないよう父に訴えたと言うが、ここまで悪行が重なると、母の違いがどうとかというレベルではなく、人間としてどうだろうかと考えさせられ、藤原道長が藤原能信を冷遇させたのは正しいとしか考えられなくなる。
ところが、この藤原能信は年齢を重ねるとともにおとなしくなっていくのだ。そして、一世一代の大博打に打って出たのだ。
何かと言うと、寛徳二(一〇四五)年に尊仁親王の後見人に立候補したのである。この時点ではたしかに後冷泉天皇に子がいなかったが、この時点の後冷泉天皇はまだ二〇歳であり、皇位を継ぐ皇子の誕生は充分に予期されることであった。たしかに、皇位継承権筆頭は後冷泉天皇の弟である尊仁親王であるが、実際に尊仁親王に皇位が巡ってくるとはほとんどの人が考えていなかったのである。
尊仁親王の側の人間にとって、尊仁親王の後見人に藤原摂関家の人間が、それも、藤原道長の子というこれ以上ない血筋の者がくるのは歓迎されることであった。素行の悪さは、通常ならば、年齢を重ねておとなしくなってきているとは言え不安要素ではある。だが、味方であるならば素行の悪さがむしろ用心棒的存在に変わる。
また、尊仁親王の妃として入内することとなっていた藤原茂子を、入内前に藤原能信の養女とさせたことも尊仁親王にとって重要であった。今後、皇位継承権争いが起こるとして、尊仁親王に敵対する人が妃の地位の低さを攻撃することがあるかも知れなかったし、実際に藤原茂子の入内に際して父の感触の低さを揶揄する声が聞こえてもいたが、藤原道長の実子の藤原能信の娘となると、地位の低さについて攻撃することができなくなる。というより、これ以上の地位の高さの女性を探す方が困難なほどである。
そして、この尊仁親王と藤原茂子との間に生まれた皇子こそ、のちに白河天皇となるのである。
七一歳で世を去った藤原能信は、婿である尊仁親王の即位を目にすることはなかったが、藤原能信の後継者である藤原能長を尊仁親王のもとにつけるのに成功していた。この藤原能長は、藤原能信の養子である。では、誰の子として生まれたのかというと、亡き右大臣藤原頼宗の子としてである。
藤原頼宗は藤原能信の実兄であり、母親が源明子であるという理由で出世において冷遇されてきたという点では弟と同じである。ただし、藤原頼宗は最終的に右大臣にまで登っているということからもわかる通り、弟のような素行の悪さとは無縁であった。と同時に、尊仁親王の後見人に立候補するようなリスクを背負うこともなかった。要は無難な性格であったのである。エピソードとして、かなりの近眼で、内裏を歩くときに頻繁に転んで笑われていたというのがあるぐらいである。
亡き右大臣の実子にして、二〇年に渡って後見人を務めてきた藤原能信の養子が、尊仁親王の後見人になった。これは、政権交代を見据えた尊仁親王の勢力がなかなかな規模を築いていることを意味していた。
藤原氏というのは、外に向かっては一枚岩になるが、内に視点を向けると内輪揉めを繰り広げている集団である。要は、自民党のようなものなのだ。尊仁親王が即位した場合、政権交代が起こって藤原氏が野党になる政治が展開されることは充分に予期されるが、だからと言って、藤原氏が全ての権力を失うとも思えない。藤原氏はそれなりの権力を維持できるはずである。ただし、藤原氏内部の権力争いの末、それまでの主流派である藤原頼通の血縁から、亡き藤原能信の血縁へと移ることとなる。
傍目には、政権交代のインパクトを和らげる藤原氏の政権への取り込みに見えるであろう。しかし、内部に目を向けるとインパクトを和らげるどころの話では済まない大転換が待ち構えていることがわかる。
治暦元(一〇六五)年一二月九日、皇太弟尊仁親王の第一皇子である貞仁王が元服した。このとき一三歳である。貞仁王のそばには後見人である藤原頼宗が控えている。
ここで注目すべきは、「貞仁親王」ではないということ。皇族でありながら親王ではなく「王」に留まるというのは、皇位継承権を持たないことを意味する。皇室にある人を親王ではなく王と扱うことは、天皇になる資格を持たないと扱うことを意味する。次期皇位継承権筆頭者の子を親王にさせず王に留めているというのは、この時点でもまだ、藤原氏が後冷泉天皇の子に皇位を継承することを諦めていないことを意味する。
それでも、貞仁王の元服という儀式は、皇位継承権第二位の人物の政界デビューをアピールするのには充分であった。それは同時に、政権交代と、政権交代に伴う藤原氏内部の争いは目前に迫っていると知らしめることでもあった。
年が明けた治暦二(一〇六六)年。関白藤原頼通、七五歳。
次の時代は藤原摂関政治ではない時代になることが既に既定路線となっていた。感覚としては、今ここで選挙をしたら野党が圧勝するであろうと推測されている状態の政権である。
花山天皇、三条天皇という二回の政権交代は、官僚制度の未熟もあって早々に頓挫して元に戻ったし、当初は積極的な改革を展開した後冷泉天皇も今はごく普通の藤原摂関政治における天皇の在り方になっている。改革を訴えても実際が伴わないために、改革前の方がマシだと誰もが実感できていたのだ。
だが、尊仁親王は違う。摂関政治との歩み寄りを残しつつ、つまり、摂関政治の一翼を担っている人物を取り込みながら、摂関政治とは一線を画す改革を展開すると展開している。この人は花山天皇や三条天皇と比べて現実的であったのだ。
現実的な面は、花山天皇や三条天皇、そして、即位当初の後冷泉天皇に見られた藤原摂関政治に対する明らかな敵意を示していないことからも読み取れる。現状を改革しようとするとき、現時点で権力を握っている人たちに敵意を示し、権力を握ったら以前の権力者を一掃しようとするのは珍しい話ではない。ただし、実際に一掃しようとすると、待っているのは改革の破綻である。なんだかんだ言おうと、権力者が権力を握り、官僚制のピラミッドを構築することで国家を運営してきているのである。それを不正義と断じて一掃したら、待っているのは混迷の末の貧困だ。政策によって経済を好転させることは難しいが、経済を悪化させることなら誰でもできる。
藤原摂関政治の統治システムを残しつつ改革を展開すると表明している尊仁親王の元には、次代の日本国を担う若者たちが集結するようになっていた。
尊仁親王の周囲に集まった若者たちには一つの特徴があった。
藤原摂関政治のもとでは絶対に出世できなかったであろうという若者たちである。
藤原道長や藤原頼通が彼らのことを全く考えてこなかったわけではない。それどころか、能力ある若者だと判断したら相応の地位を用意して遇していた。ただし、「相応の地位」であって、「相応以上の地位」ではない。人間、自分のスキルに相応する役職や仕事が都合良くやって来るとは限らない。多くは、スキルに見合わない役職や仕事である。ましてや位階のインフレにより役職不足に陥っていたこの時代、スキルに見合わなくとも役職を用意することそのものが「相応の地位の提供」になっていたのである。
だが、理屈ではそれを理解できても、現時点でその職務にある者がその職務を果たすに充分なスキルを持ちつつ、職務に就ける順番が来るのをずっと待っていたのだと説明付けられたとしても、現時点で自分の能力に見合った職務に就けていないという感情を押し殺すことはできない。
改革の旗印に集う者の少なくない者が、こうした自身への冷遇に対する不満を抱き、不満を一瞬にして解消する手段としての改革を願っている者である。ただし、ここで注意しなければならない点がある。それは、自身は冷遇と考えても、客観的には分相応、あるいは、むしろ恵まれていると見られる待遇だということなど珍しくないという点である。自分自身が考えているようなスキルなど身についておらず、自分自身が考えているほどエリートでもないのに、自分は優秀だと勘違いしている者が、現実逃避の手段として改革に身を投じることなど珍しくない。花山天皇や三条天皇が失敗したのも、改革者としての能力の低さと同時に、改革に賛同する側近が揃って無能であったという点にある。
この面でも尊仁親王は問題なかった。
尊仁親王の側近として真っ先に挙げられるのは、後見人であり、かつ、藤原摂関政治の一翼を担ってもいる藤原頼宗であるが、知的参謀として頭角を表してきた若者も忘れてはならなかった。その若者の名を大江匡房(おおえのまさふさ)と言う。治暦二(一〇六六)年時点で二六歳。
藤原摂関家に生まれたら二六歳で議政官の一員に加わるなど珍しくもなかったろうが、藤原摂関家以外の生まれの者の二六歳となると、余程のことでもない限り貴族入りはしていない。その「余程のこと」を成し遂げたのが大江匡房である。
大学を卒業して試験に受かれば役人になれるし、方略試に合格すればいきなり貴族入りできる。方略試に不合格であっても、そもそも方略試に受験する資格である文章得業生になれたというだけで、役人としてかなり高い地位に就けるというのはシステムとして残っている。
大江匡房は、一六歳で文章得業生になり、一八歳で方略試に合格したという、これまでの最年少記録をことごとく塗り替える秀才であった。
このような早熟の天才は扱いづらいところがあるのが普通だが、大江匡房は周囲の人にも恵まれていた。一八歳で方略試に合格し貴族入りしたのだから特別扱いされて当然だと考えていたのに、いざ貴族入りすると自分に相応の役が巡ってこないと憤慨していた大江匡房に対し、人格者としても知られていた権大納言藤原経任がその知力を認め、尊仁親王のもとへと向かわせたのである。
また、合格した年齢こそ大江匡房より歳上であったが、大江匡房と同様に方略試の合格者でもあった藤原実政も大江匡房を認める一人であった。もともと尊仁親王の教育係であったのだが、康和七(一〇六四)年に甲斐国司に任命されて甲斐国に赴任することになった際、自らの後を受ける教育係に相応しいのはこの男しかいないと大江匡房を推薦している。
藤原摂関政治の一翼を担う者も、知力で政界に身を置く者も、大江匡房の才能を買っているのである。その大江匡房が尊仁親王の側近の一人であるというのは、近い未来やってくるであろう尊仁親王の時代への安心感の一つにもなっていた。
当時の人たちが藤原摂関政治の終わりを意識していたかどうかは怪しい。
藤原摂関政治というものが生まれる前から存在し続けていて、存続の危機を迎えながらも乗り越えてきたことを体験していると、藤原摂関政治に終わりがあるのだろうかと考えることは難しいだろう。
ただし、藤原摂関政治に対する熱心な支持を与えるかどうかは別の話である。打倒すべき悪の存在であるという認識であったとしても良い。ただし、悪に立ち向かう自分にカタルシスを感じていられることと、本当に倒れてしまうこととは別の話であるが。
藤原摂関政治を打倒すべき悪と考える場合、政権にとって都合の悪いことは喜ばしいニュースになる。それは、国民生活を破綻させるものであっても例外ではない。おまけに、このようなカタルシスを感じていられる暇のある人間というのは、一般庶民が生活苦にあっても食べていける富裕層である上に、自分が恵まれているとは考えていない。眼の前で繰り広げられている一般庶民の生活の悪化は、政権を攻撃する材料であって、救い出すものではなかったのだ。
現代に住む我々は、彗星などどうということのない天体現象の一つとしか考えない。彗星がニュースになったとしても「観測に向いているスポットはどこか」とか「天体望遠鏡の売れ行きが良くなっている」とかの話題を届けるニュースになるのがせいぜいである。
だが、かつては違った。彗星とは凶兆の証であり、天が下した執政者失格のサインの一つなのである。厳密に言えば、天災そのものが天の下した執政者失格のサインであり、彗星はそうした天災の一つと考えられてきた。
当時の人たちが考えていたのは、尊仁親王即位による政権交代ではなく、藤原頼通の死による政権交代である。後冷泉天皇はまだ四一歳。いかに平均寿命が現在より短い時代であると言っても、四一歳は死を意識する年齢ではない。しかし、関白藤原頼通は既に七五歳となっている。七五歳は死を予期する年齢だ。藤原頼通の死による政権交代はこの時代の人たちにとって、そう遠くない未来に確実に起こる政権交代であったのである。
すでに政権交代が現実のものとなってきているこの時代、治暦二(一〇六六)年三月六日に観測された彗星は、間も無く打倒されるであろう藤原頼通政権に突きつけられた天からの執政者失格のサインと多くの人が捉えた。
この時代の記録はこのあとで、数多くの超自然的現象があったと記している。彗星はなおも夜空に姿を見せ続け、三月二八日には奈良にある春日大社から謎の鳴動が聴こえたとの報告が届いた。四月八日には地震が起こり、さらには空に怪しげな雲が姿を見せたとまで続いている。
いずれも人間の科学の力でどうこうなるものではないが、全て科学で説明できる話である。謎の鳴動も、調べてみれば大雨が降ったあとの地滑りが春日大社まで聞こえただけの話であるし、地震についてはこの国に住む者であれば一年間に数度は経験することで特に珍しい話ではない。怪しげな雲に至ってはただの雷雲である。いずれも人間がどうにかできるレベルではない自然現象であり、畏怖することはおかしな話ではないが、それを踏まえても天が突きつけた執政者失格のサインとしては弱い。毎年のように発生していることを、政権交代が目前に迫っているという視点で改めて見つめ直して新たなる難癖として捻出したというしかない。
自らの政権が間も無く終わりを迎えること、それも、後継者へのバトンタッチではなく、それまで受け継がれてきた藤原摂関政治の安定を、これ以上は考えられない最高の状態で引き継いでおきながら次世代に渡せない状態での終わりを迎えることを、藤原頼通はどのような思いで眺めていたのであろうか?
一言で言うと、諦念である。最後の最後まで無駄な抵抗をし続けながらも引き継ぎを果たせず、これまでの藤原摂関政治を否定する勢力に権力を渡さなければならない。これはもう、ただ諦めて時期を迎えるしかない。後冷泉天皇がまだ四一歳であると言っても、後冷泉天皇に皇子がいないという現実は変わらない。後冷泉天皇の元に皇子が生まれて成長するのを見届けるのを、既に七五歳になっている藤原頼通ができるか否か、答えは後者である。
この頃の藤原頼通の政策を眺めると、穏やかとしか言えない。流刑に処されていた犯罪者を赦し、寺社勢力に惜しみなく協力することで生活苦者の救済にもあたっている。犯罪者への恩赦はこの時代の感覚でいくと執政者の善行の一つであるから現在の感覚でが賛否を決めつけかねるが、生活苦者の救済は、この時代であろうと、現在であろうと、文句無しに善行と評して良い政策である。
ただし、これらの政策は、当時の人が問題にしていた格差問題対策とはつながらない。格差問題と考える多くの人は、自分より恵まれた境遇にある人に自分の境遇を引き上げることを格差の解消であると考え、自分より恵まれていない人が自分と同レベルに上がることを格差の解消とは考えない。
だが、全体でみると、それこそが格差の解消への重要なステップなのである。
刑法犯がどのように生まれるかを考えたとき、犯行に走らなければ生きていけないという人と、犯行に走らなくても生きていけるが格差社会で負け組に位置付けられているという人と、どちらを最優先で考えなければならないか。執政者たる者の答えは一つである。だが、その答えと、自らが格差社会の負け組であると考えている人の格差解消策とが一致するとは限らない。
藤原摂関政治は、庶民の支持を支持基盤として生まれ、庶民の支持を権力の拠り所としてきた。庶民の支持を権力基盤とする政権は、普通選挙という明確な庶民の意思表示のある現在に限った話ではなく、普通選挙がなかろうと庶民の支持を維持し続ける必要がある。そうでなければ権力の維持そのものができなくなる。権力の維持のために庶民の支持を得ることと、執政者としてなすべきこととが乖離する場合、優秀な執政者は庶民の反感を買わぬように為すべきことを為し、普通の執政者はどちらか一方を選ぶ。藤原頼通が選んだのは、庶民の支持を捨てて為すべきことを為すという選択肢であった。その選択肢は、権力の維持を捨てたからこそ選べる選択肢でもあった。
藤原頼通は藤原摂関政治の終焉を覚悟していた。既に七五歳という年齢を迎えている藤原頼通ならば、自らの引退後に、あるいは自らの死後にどのような結末を迎えようと構わないという境地になってもおかしくない。
しかし、残された者がそれを納得するかどうかは別の話である。藤原頼通が藤原摂関政治の終焉を覚悟し、庶民の支持を放棄したとしても、藤原摂関家の面々は朝廷に居続けるし、藤原摂関家が権力に深く食い込んでいることを前提とした政治システムが出来上がっている以上、藤原摂関政治の終焉を前提とした行動は無責任とも言える。
だが、もう一歩先に視線を向けると、単純に無責任とは言えなくなる。
まず、後冷泉天皇の時代はもうしばらく続くと考えられていた。先に迎えると考えられてきたのは、後冷泉天皇の時代の終わりではなく藤原頼通の死である。藤原頼通が亡くなったあとも、後冷泉天皇が帝位にあり続ける限り、藤原摂関政治は続くのである。
たしかに、後冷泉天皇が亡くなったり、あるいは退位したりといった理由で尊仁親王の時代を迎えることは充分に想像できた。それでも、完全な悲観とはならない。これまで藤原摂関政治の否定は、花山天皇、三条天皇と存在した。それも、青天の霹靂ではなく事前から予期されていた政権交代であり、政権交代直後は実際に藤原摂関家の元から政治権力が離れたのである。ところが、花山天皇も三条天皇も政権としては失敗した。失敗して権力はこれまで通り藤原摂関家へと戻ってきたのである。
皇太子尊仁親王の政権が誕生し、尊仁親王がこれまでの主張通りの政策を展開したら、失敗する。数年で尊仁親王の政権は崩壊する。そうなれば、結局は藤原摂関政治へと戻る。しかも、それまで庶民の支持を得続けるために後回しにしてきた政策は、庶民の支持を諦めた藤原頼通の手によって展開されている。こうなると、不人気な政策を展開する必要のない藤原摂関政治が生まれる。ついでに言えば、議政官を構成する藤原摂関家の顔ぶれも若返っているから、気分一新という点でも期待できる。
皇太子尊仁親王の政権が樹立したら、藤原摂関家は政権を失う。これはもう既定路線である。既定路線であるが永遠の路線変更ではないと考えたことで、藤原摂関家はこの頃から次世代の者が表に立ち始めるようになった。
特に顕著なのが右大臣藤原師実である。治暦二(一〇六六)年時点で二五歳。関白藤原頼通、左大臣藤原教通に次ぐ人臣第三位の権力を手にしており誰の目にも次世代の藤原摂関家のトップはこの若き右大臣であると映っていたし、藤原師実自身もそう考えていた。
藤原氏としての行動のうち、庶民の支持を受けること間違いなしという施策は右大臣藤原師実の名で、反発間違いなしという施策は藤原頼通の名で展開されるようになった。たとえば、この時代の京都市民にとっての一大レジャー施設ともなっていた平等院の改築工事は藤原頼通の命令によって行なわれていたのだが、治暦二(一〇六六)年一〇月一三日の落成供養の主催者は右大臣藤原師実であった。
この例にもあるように、藤原頼通が描いていたシナリオはこうである。
現在は、後冷泉天皇と藤原頼通による政権である。
間も無く迎えるのは後冷泉天皇と藤原師実の政権である。
その後にやってくるのが尊仁親王の政権。ここで政権交代が起こるが、数年で挫折し、政権は藤原摂関家に戻る。
そして、帝位に就いている尊仁親王はそのままであるが、実権は藤原師実をはじめとする藤原摂関家が担う政権が成立する。
最終的に、藤原摂関政治という安定に戻る。
もっとも、世の中というのはシナリオ通りに進まないものであるが。
治暦三(一〇六七)年。関白藤原頼通七六歳、左大臣藤原教通七二歳。この二人の高齢者のすぐ下に二六歳の若き右大臣藤原師実が君臨するという体制が出来上がり、あとはいつ、この二人の高齢者が政界の第一線から引退するかという点だけが着目を浴びていた。
やらなければならないことは山積みであった。
政治というのは、庶民生活を前より良くすることである。前年からの寺社を通じた貧困者救済策はそれなりの成果をあげていたが、反発も強かった。俺たちが懸命に働いて払った税をどうしてそんなところに使うのか、そんな奴らのためにどうして使うのかという意識は消えなかった。
藤原頼通は、犯罪に走る貧困者を救済することが治安を安定させ経済を上向かせるのだと確信していたが、この人はもともと言葉によるアピールが上手ではない。末法思想の荒れ狂う中で極楽浄土の姿とはこうであると示した平等院という成功例はあるから、アピールそのものが下手なのではない。言葉によるアピールが下手なのである。
その上、ここでアピールすべきは生活水準の目に見えた向上があること、そして、犯罪が目に見えて減っていることである。このアピールは難しい。何しろ実感と真逆なのだ。
藤原頼通による貧困者救済策は批判を浴びていた。批判する者の目には、目に見えた暮らしぶりの向上など目に入らず、犯罪がやたら目に入る。この時代の記録を読むと、犯罪者の出没についての記録が多数出てくる。だから記録だけを読むと治安はむしろ悪くなったと感じる。
ここで話を二一世紀の現在に移すと、少年犯罪が激減し、未成年者のマナーは格段に向上している。と同時に、高齢者のマナーの悪さや高齢者による犯罪が問題になっている。しかし、そのように実感する人は少ない。少年犯罪は増加の一方をたどっており、未成年者はマナーが悪いと感じている一方、高齢者は常に犯罪の被害者であり、高齢者はマナーを心得ていると感じている。そして、その証拠として、新聞やテレビで連日のように若者の犯罪や物知らずによるマナー違反が報じられていることを挙げている。だが、これが問題の原点なのだ。少年犯罪や未成年者のマナーの悪さが当たり前であった時代はわざわざ報じられることのなかったほどの犯罪が、少年犯罪そのものが減り、マナー違反も減ったために報じられる価値を持つようになってしまったという逆転現象である。そして、高齢者のマナー違反や高齢者の犯罪は報道するほどの価値もない素材となっている。その上、報じられるニュースを見聞きするのは肝心の高齢者なのだ。自らが犯罪者の一部とみなされ、自らのマナーの悪さを糾弾されるのを喜んで見聞きする人はいない。自分は被害者で善良であり、マナーも心得た存在であると確信している人にとって、犯罪とは、そしてマナー違反とは、自分と異なる存在が加害者となるものであって、自分が責められる側とは捉えることなど断じてできないものなのである。このような感覚に基づく逆転現象を、言葉だけで解決できる人は少ない。ゼロとは言わないが、凝り固まった観念を言葉の力だけで解きほぐすのは至難の技である。特に、自らこそが被害者であると訴えている者に、「あなたはむしろ加害者の側です」と納得させるのは、よほど強力な洗脳でもしない限り不可能である。
また、貧しい若者が多いことは多くの高齢者が知っている。しかし、それと高齢者の負担を増やすこととは別問題である。負担とは、自分ではない誰かが引き受けるものであり、自分はむしろ負担を減らされるべき社会的弱者であると、多くの高齢者が考えている。高齢者の負担になるという理由で消費税の増税には猛反発が起こり、高齢者の負担が増えるからと物価の上昇は徹底的に拒否される。自分達のその行動のせいで多くの若者が苦しめられていることを全く考えていないし、証拠をつけてそのように主張しても断じてその主張を受け入れない。高齢者が受け入れる主張は、「高齢者は貧しくて庇護されるべき存在である」「若者は犯罪に走っている」「貧しい若者が多いが高齢者にその責任は一切ない」という、高齢者にとってこうあるべきと考える主張であり、事実はこうであるという証拠を見せても受け入れるべき主張にはならない。
話を平安時代に戻しても、多くの人は自分が被害者であり、庇護される側であると考える一方、自らのせいでより劣悪な被害者が生じていること、より強力な庇護を必要とする人がいることは受け入れがたい事実であった。現在と違うのは、高齢者と若者という世代の分裂ではなく、一般庶民とそれより厳しい境遇にある者という生活水準の分断であること。もっとも、現在だって自分より恵まれない境遇にある者の努力を娯楽として見ることはあっても、自分と同レベルに上がること、さらには自分を追い抜くことなど断じて認められないと考えることでは同じであるが。
平安時代の貧しさの原因の少なくない理由は現在の貧困と共通している。すなわち、デフレであり、正当な賃金の支払われない過酷な労働状況である。仕事がないわけではないが、残っている仕事となると労多くして益少ないものばかりである。しかも、そうした仕事の社会的地位は低く見られており、生活のためにそのような仕事に就いたら、待っているのはその仕事を必要とする利用者側からの無茶な要求だ。ついでに言えばまともに支払いもしない。
そして、この、無茶な要求を突きつけてまともに支払いもしない側こそが、自らを恵まれざるものと考え、格差社会の解消を訴えているのである。
先に格差社会の解消方法というのは自らを自らより恵まれた地位にある者に引き上げることだと書いた。そして、自分より恵まれない境遇にある人が自分と同レベルに上がるのは看過できないことだとも書いた。看過できないのは彼らが自分達より劣っているから恵まれない境遇なのが当たり前であると考えるからで、彼らが自分と同レベルに上がるのは耐えられない屈辱であったのだ。彼らが犯罪に走ることが多いのは彼らが劣っているためであり、朝廷に求めているのは犯罪者の処罰であって犯罪に走る者の境遇の改善ではなかったのだ。百歩譲って境遇の改善を認めたとしても、自分と同レベルにまで引き上げられるのは耐えきれない屈辱であったのだ。
遅かれ早かれ藤原頼通の政権は終わりを迎え、それから数年から十数年、あるいは数十年後には尊仁親王の政権という藤原摂関政治の終焉を迎える。ただし、尊仁親王の政権はすぐに破綻し、すぐに藤原摂関政治に戻るというのが既定路線であった。
この既定路線が想定通りにいかないことが判明した。
何が起こったのか?
後冷泉天皇が倒れたのだ。
病気で倒れたというのであれば、体調回復を願えばいい。天皇としての職務が遂行できないというなら関白である藤原頼通が摂政になればいい。
しかし、後冷泉天皇の体調は見るからに悪いままであった。
治暦三(一〇六七)年一〇月五日、後冷泉天皇、平等院に行幸。牛車に乗り、駕籠に乗り、船に乗っての宇治への行幸であった。京都と宇治との往復で後冷泉天皇が全く歩いていないことに着目するかもしれないが、それはこの時代の礼節に則ったものでおかしな話ではない。
それより着目すべきは後冷泉天皇が平等院にまで行幸したことの方である。そもそも平安京の外へ行幸するなど異例中の異例である。何しろ京都市中にある生母の実家、要は藤原氏の邸宅だが、そこに行くのでさえ行幸として事前から準備が重ねられ、綿密に練られたスケジュールでの移動となるのに、平安京の外どころか泊まりがけになる行幸となるのだからこれは異例中の異例とするしかない。そして、その一点をもって、関白藤原頼通の権勢の強さが充分アピールできる。
だが、ここで留意すべきは藤原頼通の権勢の強さでなく、後冷泉天皇が宇治にまで行幸したことの方である。なぜ宇治へと向かったのか。
観光ではない。
このとき、後冷泉天皇は自らの命の終わりを覚悟していた、そして、藤原頼通もその覚悟を受け入れていたと考えるしかないのである。
体調不良で倒れたのではなく、命に関わる大病で倒れたのだ。そして、体調回復は果たせぬ夢と考えた後冷泉天皇がこの世に現れた極楽浄土としての平等院に赴いた。
後冷泉天皇が倒れるに至った病気について、史料は詳しく記録していない。ただし、この後の経過については史料を残してくれている。
治暦三(一〇六七)年一〇月五日、後冷泉天皇、宇治平等院へ行幸。
治暦三(一〇六七)年一〇月七日、後冷泉天皇、平安京へ還御。
二泊三日の行幸は、一日目に平等院に赴いて阿弥陀堂で祈祷を受けた後、二日目は雨天の中外に出て風景を鑑賞した後、詩の鑑賞に立ち会って。三日目に京都へ戻るという慌ただしいものであった。それも、一個人として旅行を楽しむのではなく、天皇としての政務の一つとしての行幸である。行幸に関わった人たちに褒賞を与えているし、平等院の僧侶たちは祈祷の御礼として僧侶としての位の昇進を受けている。
京都に戻った後も後冷泉天皇は、一〇月二二日に宮中で内大臣源師房主催の主催したイベントに参加した。
これが後冷泉天皇の最後の記録となる。
治暦三(一〇六七)年一二月五日、藤原頼通が関白を辞任。
治暦三(一〇六七)年一二月一二日、後冷泉天皇が倒れたことが正式に公表される。
藤原頼通の突然の関白辞任に驚きを隠せなかった人は多かったが、それでも、年齢を考えればおかしなことではないと誰もが考えた。
だが、その七日後に公表された後冷泉天皇の体調については誰もが青天の霹靂であった。
藤原頼通が倒れても後冷泉天皇は健在であり、一時期は左大臣藤原教通が政権を担って、少し経てば右大臣藤原師実が政権を握る。しかも、内大臣源師房が足元を支える安定した政権になると考えていた。その状態で尊仁親王へと帝位が遷ると考えていたのである。それまでの藤原摂関政治を否定する言動を隠さない尊仁親王が帝位に就いたとしても、磐石な藤原摂関政治が待ち構えていると考えていたのだ。
ところがここに来て、藤原頼通が関白を辞め、後冷泉天皇が病に倒れたという知らせが飛び込んできたのである。
政権交代はやってきた。それも、徐々に、ではなく、一瞬にして、である。
あとは、正式な政権交代はいつのことになるのかということだけが問題になった。
尊仁親王への政権交代を願う人は、後冷泉天皇がただちに譲位することを主張した。
これに対し、病に倒れたとは言え、まだ亡くなっていない以上、後冷泉天皇は譲位せずこのまま帝位にあり続けるべきという主張が出た。
病に倒れた状態で天皇としての職務は遂行できず、摂政たる藤原頼通は関白を辞している以上、摂政も置けない。ゆえに、皇太子尊仁親王が帝位に就いて親政をなすべきという意見が登場した一方で、摂政たる資格は藤原頼通の弟である左大臣藤原教通が継承しているから帝位はそのままで良いという意見も登場した。
両者とも、文句のつけどころのない正論で本音を隠して応戦している。ゆえに文句は言えないが、本音が明らさまになっている以上、素直に受け入れることもできない。
この対立の中で妥協点を見出そうとする両派は、政治の空白が続く中で年を越すわけにはいかないとのいう意見で一致を見た。結果は、関白を辞任した藤原頼通の再登場である。
藤原頼通が関白を辞めたのは、自らの政権が終わりを迎えたからではなく、藤原摂関政治が一旦は終わりを迎えたと考えたからであった。ここで自分が関白として政界に残り続けてしまったら、権力にしがみつく老害として藤原摂関政治が記憶され、尊仁親王のあとの藤原摂関政治の再開が困難になると考えたからである。それよりもここは、一刻も早く尊仁親王の政権を登場させ、花山天皇がそうであったように、三条天皇がそうであったように、藤原摂関政治に対する庶民の声を、反発から、再開を望む声へと変えさせる必要であった。
しかし、それは残された藤原摂関家の者にとってはあまりにも残酷で身勝手な話である。庶民の反発をまともにくらい続けなければならない上に、天皇からも敵と弾劾され続けなければならないのだ。たしかに、花山天皇のときも、三条天皇のときも、藤原摂関家の面々は、庶民の反発にも、天皇から敵と弾劾されることにも耐え続け、藤原摂関政治を復活させてきた。それも、より強固なものとして復活させてきた。ただ、祖先が耐えてきたという前例と、自分も耐えなければならないという現実は同じではない。
尊仁親王はこのとき三五歳。申し分ない年齢である上に、皇太子として二三年のキャリアを積み、さらに、およそ四半世紀に渡って自らを中心とする組織作りに成功していたのだ。それも、藤原摂関家の面々をも中に取り込む組織作りに成功していたのだ。つまり、主張は強固なものであったが、藤原摂関政治の復活を望む声があったとしても尊仁親王の組織そのものが藤原摂関政治の復活にも応えうる組織になっていたのだ。
尊仁親王が帝位に就いたなら政治家生命の終わりを迎えると考える者の多くは、最後の望みを捨てきれずにいた。それは、後冷泉天皇の復帰と、後冷泉天皇の元に皇子が生まれることである。そうすればこれまで通りの藤原摂関政治は続き、自らの政治家生命も継続する。藤原頼通の関白復帰は、その最後の望みが実現するための必要なプロセスであった。
後冷泉天皇の復帰を願う声は叶わなかった。
治暦四(一〇六八)年二月一日、後冷泉天皇が意識不明の重体となったことが公表された。
同年三月二三日、一度は関白に復帰した藤原頼通が、再び関白を辞任したことが正式に公表された。ただし、寺院に強い影響力を与えることのできる一民間人として、後冷泉天皇の病状回復を祈る加持祈祷への援助はするとも公表された。実際、仁和寺や法成寺では、藤原頼通の名での大規模な加持祈祷が開催されている。
しかし、こうした加持祈祷は何の効果も為さなかった。
朝廷は尊仁親王の時代を作りはじめた。
治暦四(一〇六八)年四月一六日、左大臣藤原教通が関白に就任。同日、それまで女御であった藤原歓子が、関白の娘であることから皇后へ昇格することとなった。ただし、後冷泉天皇の宣命はない。
また、藤原歓子の皇后昇格に伴い、皇太后禎子内親王が太皇太后に、中宮章子内親王が皇太后に、皇后藤原寛子が中宮になった。なお、史料によっては四月一六日ではなく四月一七日のことであるとするものもある。
そして、四月一九日の寅刻。後冷泉天皇薨去。同日、尊仁親王が践祚し、天皇としての職務をスタートさせた。後三条天皇の治世の始まりである。
後三条天皇は天皇に就任したその日の戌刻、現在の時制で言うと夜八時頃、左大臣藤原教通をはじめとする主だった貴族を集め、自らの治世の開始を宣言した。と同時に、一六歳を迎えていた皇子の貞仁王を貞仁親王とすると表明した。この時点ではまだ正式な皇太子となったわけではないが、皇位継承権筆頭権者としてのごく普通の処遇である。
その後、この場で左大臣藤原教通を関白に任命した。摂政と関白の二つの職務は、天皇個人が任命する職務であり、薨去による践祚であろうと、譲位による践祚であろうと、天皇が変わったら新たに選びなおす必要がある。これをしないと、摂政も関白も置かないという親政を宣言することとなる。このニュースを聞いた当時の人たちは、急進的な改革を主張し続けてきた尊仁親王の、いや、歴史における即位後の呼び名で記すと後三条天皇の治世が、想定していたよりも穏やかなものとして始まると考えた。
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