藤原信長のストライキによる内大臣不在は続いていた。
内大臣がいなくても政務がどうにかなっていたということである。
白河天皇は、やがていつかは自分が帝位に就くことを確信してきた人生を過ごしていた。ただ、二〇歳という若さで即位するとは夢にも思わずにいた。父が四〇歳を迎える前に退位して二〇歳の自分に帝位を譲るとは全く想像してこなかったし、即位後、継母である禎子内親王が歯向かう存在となるとも想像していなかった。それが、若くして即位しただけでなく、気がつくと、藤原頼通が亡くなり、関白藤原教通も亡くなり、上東門院藤原彰子も亡くなった摂関家が味方という状況になっていた。その上、白河天皇自身が、皇太子実仁親王が即位するまでの中継ぎの天皇とさえ見られていた。統治者としての能力の差異によるものではなく、実母が藤原摂関家であるか否かの違いによるものである。後三条天皇という藤原氏を母としない天皇の政権が誕生し、現在はいったん藤原氏を実母とする白河天皇の時代になっているが、皇太子実仁親王が元服したらただちに白河天皇は退位して実仁親王の政権を誕生させるというのが既定路線になっていた。
この既定路線に対し、内大臣がいなくてもどうにかなるという現時点の政権のあり方は、一つのメリットと二つのデメリットを内包しているものであった。
メリットの一つは何と言ってもそれまで存在していた藤原摂関政治を利用できるという点である。産業生産性で言えば後三条天皇の推し進めた荘園整理よりも、藤原摂関政治における荘園性拡大路線の方が上だった。格差問題が広がっていたのは事実であるが、格差を無くすために豊かな者を貧しくさせると、その時点で貧いいものはもっと貧しくなる。格差を無くすためなら自分が貧しくなっても構わないと考える人はそう多くはない。そのような人が多い社会というのは、ソビエトにしろ、文化大革命にしろ、ポルポトにしろ、戦争の方がまだマシとするしかない人類史における負の遺産でしかない。白河天皇は明らかに、父の政策は誤りであったと認め、その上で父の政策を一見すると継承するとしながらも、実際上は否定する政策をとっていた。藤原摂関政治への回帰がそれである。
問題は二つのデメリットである。一つは、内大臣藤原信長が白河天皇の政権に協力しなかったという点で、白河天皇の退位後に藤原信長が藤原摂関家の主軸を担えてしまう可能性を持っていることである。二〇〇年以上続いてきた藤原摂関政治は滅亡したわけではない。藤原摂関政治を前提とした社会は残存しており、他ならぬ白河天皇自身がその残存を利用した政務をしている。ゆえに、白河天皇退位後も藤原摂関家を残存させ、そのトップには白河天皇政権下で冷遇されてきた藤原信長が就くと宣言することで、藤原摂関政治の継続を望む勢力の支持を得ることができるのである。
もう一つのデメリットは、藤原摂関政治を否定する勢力。藤原道長によって完成させたとされている藤原摂関政治の仕組みは、内大臣の不在でも政務が遂行できるという点で実際は不完全なものであると証明され、今後も継続させる必要はないという判断材料となるのである。皇太子実仁親王の政権は後三条天皇の政権の復活でなければならないという考えの人たちは、白河天皇退位後に内大臣藤原信長が中央政権に戻ることは容認しても、それがかつての藤原道長のような権威の所有者となることは容認できるものではなかった。
この時代に政党というものは無いが、派閥なら明確に三つが存在していた。一つ目は白河天皇と関白藤原師実と中心とする現行政権。二つ目は藤原摂関政治の継承を目指すがその中心は藤原信長であるべきとする勢力。そして三つ目は禎子内親王を中心とする藤原摂関政治全否定の集団である。この二つ目の勢力と三つ目の集団が手を組み、一つ目の派閥に対立するというのがこの時代の日本国の政治のあり方になっていた。
それにしても、藤原摂関政治の長年の敵対派閥であった律令派という存在が、この時代になると物の見事に姿を消している。強いて挙げれば禎子内親王を中心とする勢力の中に藤原摂関政治以前の政治体制である律令制への回帰を願う者がいたであろうことが推測される程度で、打倒藤原摂関政治を訴えきた勢力にとって、藤原摂関政治を否定してきた後三条天皇の政策という、律令への回帰を目指さなくても藤原摂関政治の否定は可能であると証明できたことは大きかったのだ。言うなればトドメの一撃となったということか。
白河天皇はこうした派閥争いに真正面から向かい合うことはなかった。と言って、敵対する派閥など自分には何の関係もないという超然とした態度で終始したわけではない。問題であると認めながら無視をすることにしたのだ。
内裏を出て高陽院を里内裏にしたことは無視の一つであったが、承保三(一〇七六)年になるとこの動きはさらに加速する。後三条天皇は内裏を再建させたが、白河天皇は里内裏を前提とした建物を建設させたのだ。それも、場所は六条である。
平安京は朱雀大路によって東西に分かれ、東を左京と、西を右京と言う。そして、最北端に北辺があり、そこから一条、二条、と数え、平安京の最南端は九条となる。北から順番に北に行けば行くほど貴族向けの高級住宅地となり、南に行くほど庶民向けの住まいとなる。藤原道長は平安京の外の宅地造成をしてそこを十条と名付けたが、事実上は平安京の一部でも、法の上では平安京の外である。現在の感覚で行くと、東京二三区と同様に市外局番は〇三であるが、二三区ではない東京都の多摩地域の市部というところか。
このような平安京の宅地事情を踏まえると、六条は貴族の住まいではなく庶民の住まいである。その上、このときに白河天皇が建設させた里内裏は朱雀大路から東に遠く離れた四坊にあった。平安京の住所表記で示すと、左京六条四坊である。朱雀大路を基準に東西に数えるのが坊で、朱雀大路に面した区画が一坊、朱雀大路から離れるにつれ、二坊、三坊となり、四坊となると朱雀大路よりも平安京の区画街の方が近いというレベルになる。つまり、白河天皇が建設させた六畳の里内裏は、敷地の広さで言えば里内裏にふさわしいとは言え、庶民街の一角に里内裏を作ったのだ。
これに対する不満の声は聞こえたが、これがかえって庶民の支持を集めることとなった。どんな種類の政権でも共通して言えることがある。それは、庶民の支持を集めることに成功しなければ政権の維持はできないということ。庶民に嫌われていることを認めたがらず、武力で無理やり庶民の不満を押さえつける政権もあるが、そうした政権に待っているのは、破滅である。延命すればするほど、悪として断罪され滅ぼされる運命が待っている。逆に、その時点における権力層を敵に回しても庶民の支持を得ることのできる政権が打ち立てられたならば、その政権は維持が可能だ。さらに言えば、既存の権力層を断罪すべき庶民の敵と認じ、庶民の側に立って庶民とともに既存の権力層に立ち向かう正義のヒーローを演じれば政権の意地はより一層容易になる。
白河天皇がしたのはこれである。既存の権力層は大内裏にいるとし、庶民の味方である新しい政権は庶民の住むエリアにあるとしたことで、白河天皇の政権を既存の権力に立ち向かう庶民の味方の政権と位置付けたのだ。
さらに、地理的なメリットもあった。六条という場所は、平安京の南に広がる十条を都市部に含めると考えると南北で見てほぼ中央になる。また、朱雀大路の西にある右京はもはや都市機能を有さなくなる一方、住まいは平安京の区画を超えて、平安京の東に流れる鴨川の岸辺に、さらには鴨川の東にまで広がるようになっていたことを踏まえると、四坊という場所は東西で見てもほぼ中央になる。
これは平安京に限ったことではないが、藤原京を除く古代の計画都市は、重要な施設を北端に置いている。そして、北に広がるのは、山地。平安京だけでなく平城京も恭仁京も長岡京も同じ構造で、さらに言えば平安京のモデルである長安もそう。これは都市の防衛を最優先にした結果であり、防衛以外の面を考えると不便とするしかないのである。
防衛を無視して都市の便利を考えると、都市の中央に重要な施設や多くの人の利用する施設があるほうが優れている。都市の生産性を考えても、働く場所と住む場所との移動に不便をきたすのは得策ではない。本来なら現代日本の長距離通勤も本来の感覚で行けば異常なのであるが、移動手段が公共交通機関である場合、座っている、あるいは立っているだけで勝手に移動してくれて、その移動時間を生産時間や教育時間に当てることも不可能ではない上に、移動途中の商業施設を利用することでの経済効果もあるので、異常さを相殺できていると言う側面もある。ただ、それは公共交通機関の発達している現代日本だから言える話であり、この時代の都市内移動手段は歩きか牛車。牛車は貴族しか認められていない移動手段であったことを踏まえると事実上徒歩だけが移動手段であることを考えると、北端の内裏と、六条にできた新しい里内裏とでは、新しい里内裏のほうが優れている。
おまけに、平安京最大の商業施設になっている東市は左京七条二坊に存在する。六条四坊の新しい里内裏から歩いてすぐ、現在の東京で考えると新宿駅と東京都庁ぐらいの距離しかない。これぐらいなら新しい里内裏で働いたあとで自宅に戻る前に市に寄って買い物をするのも特に面倒なことではなくなる。ただでさえ庶民の本拠地と考えられている市は、六畳の里内裏の誕生でさらに庶民の本拠地としての性格を強めて行くのである。朝廷で働くのは貴族だけではなく役人も働いている。下級役人は現在の感覚で行くと確かに公務員であるが、立場の意識で言えば庶民の一員だ。
荘園整理を取りやめたとは言え生産性が回復したわけでは無い。輸出が増えて宋銭の流入もあったが、現金が増えたところでコメが増えたわけでは無い。おまけに当時の人は感覚的にしかわからなかったが現在の発掘調査では明らかになっている気候問題が加わる。つまり、市場(しじょう)に出回る製品の量が増えたわけではないから経済問題そのものは解決していないのである。にも関わらず、暮らしぶりの不満を訴える声は減っているのだ。暮らしが豊かであるとは言わないにせよ、暮らしの不満を時の統治者に向けるという古今東西どこにでも見られるごく普通の光景が、白河天皇の時代には、ゼロとは言わないが後三条天皇の頃と比べて減ったのだ。
この時代の庶民の思いをまとめると、庶民の味方である白河天皇と、その白河天皇を支える従来の藤原摂関政治があり、その敵として、藤原摂関政治を壊そうとする禎子内親王 一派と、藤原摂関政治の乗っ取りを企む内大臣一派という構図になっていたと言える。
承保四(一〇七七)年になってすぐに、危惧されていた事態が起こった。
右大臣源師房倒れる。
源師房は、村上天皇の孫として生まれ、時代の流れが少し変わっていたら天皇として即位したであろう人物である。その人物が源氏となり、天皇に仕える家臣となり、藤原摂関政治の一翼を担う人物になったのは、二歳という若さで父である具平親王が亡くなったからで、幼き皇族は藤原頼通の元で育てられた。当時はまだ実子のいなかった藤原頼通にとって事実上の子供であり、藤原頼通に子がいないことを懸念していた藤原道長は、この若き皇族の才能を見抜いて、藤原氏ではないが藤原摂関政治の後継者として考えるようになっていた。
臣籍降下して源氏になり、源師房と名を変えてからは、自らは源氏でありながら藤原摂関政治の忠実な牽引者として政界に君臨するようになった。娘が藤原師実のもとに嫁いだこともあって藤原摂関家と密接な関係を築いたことから、源師房を始祖とする村上源氏は他の源氏と一つ抜きんでた存在へと成長することとなった。これより前の時代は源氏と言えば嵯峨源氏であり、後の時代は源氏といえばイコール清和源氏となるが、源師房の全盛期から源平騒乱までは、源氏と言えば源師房を始祖とする村上源氏である。
承保四(一〇七七)年一月一日時点で源師房が右大臣であることに加え、長男の源俊房と次男の源顕房が揃って正二位権大納言をつとめており、四男の源師忠も従二位参議で右近衛中将を兼ねるなど、自身を含めて四人が議政官に名を連ねているという、藤原北家に次ぐ勢力を築くことにも成功していた。しかも、その全員が藤原摂関家を保管する勢力になっている。現代の感覚で行くと、議会の単独過半数を占める与党としての藤原摂関家があり、議席数で行くと第二党である政党が連立与党であるという構図である。なお、源師房の三男は僧籍に入っており、政界に姿を見せてはいない。本人の意思によるものとする考えがある一方で、源師房の工作によるものとする考えもある。源師房の三男である僧侶の仁覚は後に天台座主となるのだから。
この源師房と息子たちのことを、禎子内親王は藤原氏でないという一点で親近感を抱いていたようである。もっとも、源師房という人物は敵を作らぬ性格に加え礼儀作法が服を着て歩いているような人である上に、親しみを持って近寄る人を邪険にする人もそうはいない。ただし、藤原摂関政治による庶民生活の向上と、後三条天皇の親政による荘園整理での庶民生活の悪化については把握しており、藤原摂関政治に対する憎しみについては耳を傾けても、藤原摂関政治の否定については受け入れなかった。
議政官で第二の勢力となっていた村上源氏は、ひとえに、右大臣源師房の存在によるものであった。と同時に、内大臣ボイコットという政治状況でも微動だにしなかったのは右大臣源師房の存在が大きかったからであった。
その源師房が倒れた。
源師房の体調悪化は承保四(一〇七七)年二月に入るといよいよ看過できない事態となり、二月一四日に源師房からの右大臣の辞表が届けられた。内大臣藤原信長のボイコットはなおも続いており、これで、事実上大臣は左大臣藤原師実一人きりとなった。
そして、二月一七日、源師房死去。
白河天皇はこれまでの源師房の功績を称え、名誉職ではあるが、亡き源師房を太政大臣に任命した。これで文字通り右大臣が空席となった、と同時に内大臣藤原信長の太政大臣就任の可能性が消滅した。
さて、右大臣源師房は武人としての最高権力である左近衛大将を兼任していた。右近衛大将は政務をボイコットしている内大臣藤原信長の兼職である。
この左近衛大将の地位が宙に浮いた。
順番を考えると右近衛大将である内大臣藤原信長を左近衛大将に昇格させるところである。実際、内大臣が左近衛大将を兼任すること自体は珍しくない。とは言え、出仕していない者に対して何らかの役職を新たに与えるわけにはいかない。つまり、右大臣が空席になったと同時に左近衛大将も空席になってしまったのだ。特に、左近衛大将は次席である右近衛大将である者が政務ボイコット中とあって、武人に向けた政務が完全に停まってしまった。
内大臣兼右近衛大将藤原信長にとっては、この政治情勢でのボイコットは自分の存在価値を高めることになるはずであった。しかし、白河天皇も、左大臣藤原師実も、この政治情勢において内大臣藤原信長に妥協する意思はなかった。誰もが想像だにしなかった決断をしたのである。
藤原師実の後継者は息子の藤原師通になるはずと誰もが知っている。ただし、この時点で一六歳。普通に考えれば何らかの公職を与えるには若すぎる。そのことは誰もがわかっていた。ただ一点を除いては。
本来、貴族というのは、大学を出て役人となった者の中から出世競争に勝ち抜いた者のことである。しかし、律令制の機能していた頃から既に上流貴族は大学を出る必要も無く貴族になれるようになっていた。ただし、藤原氏は、藤原氏専用の学校である勧学院で政治学を学んでから政界入りすることとなっており、その知性と実務能力は大学を卒業して役人になった者に比肩するのが通例であった。そのため、大学を出ていなくても問題ないとされていたのである。ところが、藤氏長者の子となると勧学院にも通わなくなる。藤原師通もその例に含まれていた。
学問と全くの無縁の人生を過ごして無能のまま政界入りすることが珍しくなく、藤原師通も珍しくない例に加わるとなれば藤原摂関政治に反発を抱く者にといって絶好の攻撃材料を与えることになっていたであろう。それを父の藤原師実や祖父の藤原頼通が危惧したのか、あるいは本人の選択によるものなのか、藤原師通は専属の家庭教師のもとで帝王教育を受けたのである。その専属の家庭教師こそ大江匡房であった。若くして皇太子時代の後三条天皇がのブレインをつとめたほどの人物を専属の家庭教師にしたのである。
その結果、藤原師通は歴代の藤原氏でも一・二を争う秀才に育った。他ならぬ師匠の大江匡房が一六歳にして文章得業生になったという先例がある上に、亡き後三条天皇のブレインであった人物の弟子である。藤原摂関家の後継者であるという点を除けば禎子内親王も絶賛せざるを得ない教育を受け結果を残した人物であることから、藤原摂関政治の継承を考える者にとっては藤原摂関政治の後継者の抜擢、実力を重視する者にとっては能力を買っての抜擢、後三条天皇を敬愛して藤原摂関政治に反発する者であっても後三条天皇の知的参謀の愛弟子の抜擢と、藤原摂関政治内部の派閥争い以外に反発を招きようのない抜擢であった。
承保四(一〇七七)年三月二七日、一六歳の藤原師通が参議に就任。
さらに四月九日、参議藤原師通が左近衛大将に任命された。参議で左近衛大将を兼任するというのはこれが初例であるが、この初例に対する驚きはあったものの、内大臣藤原信長をはじめとする一部を除いて反発は生じなかった。もっとも、内大臣藤原信長の右近衛大将としての上官が、文官としての地位はかなり下の参議、年齢もわずかに一六歳である藤原師通というのは、反発を生じさせた一部に含まれる者の反発の大きさをただならぬものにさせたが。
承保四(一〇七七)年の梅雨が終わりを迎えた頃、京都を不穏な空気が襲った。
天然痘の流行である。この時代は現在と違って、天然痘自体は頻繁に発生する病気であり、罹患したとしても珍しくないとされており、治療法とまではいかなくても対処法はあったし、一度罹患すれば二度目の罹患はないということで悠長に構えていられる病気扱いされてもいた。
とは言うものの、病気に罹る者、そして、家族にとってはそんな悠長なことを言っていられる病気ではない。一度罹患すれば二度目は無いと言っても、この伝染病は命に関わる病気なのだ。
天然痘の流行を、「ああ、またか」という軽い気持ちでいた京都市民に冷や水を浴びせるニュースが飛び込んできたのが承保四(一〇七七)年八月六日。白河天皇の第一皇子である敦文親王が、天然痘に罹患し、四歳で夭折してしまったというのだ。
敦文親王が亡くなったという知らせのあと、京都中で展開された光景は壮絶なものであった。天然痘など一度罹患しても命を落とさなければ二度目は無いと悠長に構えていた京都市民であったが、その一度目を経験したことのない京都市民の多くが天然痘に罹患し、病に苦しみ、命を落としていった。天然痘ウィルスは身分の差も、年齢差も、性別も関係なく襲いかかる。襲いかかることのないのはかつて天然痘罹患したことのある者だけという光景である。当時の記録にも皇室から一般庶民に至るまで多くの者が罹患し、貴族だけに絞ったとしてもどれだけの人が命を落としたか数え切れないほどだとしている。
病原菌という概念のないこの時代、病気の原因として考えられていたのは二つ。一つは、現在の執政者に対して天が突きつけた執政者失格のサイン、もう一つは、呪詛。このときの天然痘の流行については、敵を多く作ることで支持を集めてきた白河天皇のこれまでの政策に対し、敵とされてきた者の呪いが降りかかって社会を包み込んだとする噂が誕生した。
これに対する白河天皇の正式な回答は、無い。ただし、噂を気にしたのではないかと考えられる行動を二つだけ見せている。
承保四(一〇七七)年一〇月九日、白河天皇は里内裏を高陽院へ移したのである。それまでの庶民の暮らしに密接した里内裏を捨て、これまで何度も里内裏を務めてきた高陽院へ移ったということは、白河天皇にとって一つの譲歩であったとも言えるのである。もっとも、六条の里内裏は、その立地条件こそ優れたものがあったが、狭い。かつての藤原道長の邸宅である土御門殿と同じ広さであるとはいえ、藤原道長の邸宅は私人としての住居である上、里内裏とするのも一時的な緊急避難先だからできたことであって、同じ広さでは半永久的に内裏という公的機関を全て受け入れるのは無理があったとするしかないのである。それに比べれば高陽院は、倍の敷地面積を持っている。六条に内裏を移して対決姿勢を鮮明にさせることと、日々の政務の効率化とを比較して考えると、半分の敷地面積しかない六条は高陽院に劣るとするしかない。また、伝染病のメカニズムなど知られていないこの時代でも、人口密度の高さと伝染病への罹患しやすさとが関係性を持っていることぐらいわかる。六条という庶民外の只中に居を構えるのをやめ、今で言うビジネス街の中に位置する高陽院に内裏を移すことは、息子を失わせた伝染病から、我が身だけでなく、朝廷において共に働く者を守るという側面も持っていた。
そして、もう一つの行動がこの年の一一月一七日に出た布告である。伝染病の流行を沈静化させるためとして、承暦に改元すると発表したのである。
承暦元(一〇七七)年一二月一三日、参議藤原師通が権中納言に出世した。左近衛大将は兼任したままである。参議の空席が一つできたことに伴い、従三位で、左近衛中将という武官のナンバー3の地位にあった源雅実が参議に就任した。と、ここまで書くとこのように考える人もいるのではないだろうか? 武官のトップである左近衛大将は一六歳で、ナンバー2である右近衛大将は内大臣藤原信長が兼任。そして、藤原信長は出仕を相変わらずボイコットし続けていることから、一六歳のトップを支える事実上の事務方のトップはナンバー3の源雅実がつとめていたのではないか、と。このときに参議になったのも、事務方のトップとしての功績を認めてのものなのではないか、と。このように思うかもしれないが、その考えは間違えている。なぜかというと、このときの源雅実は一九歳なのである。権大納言源顕房の長男で、亡き源師房の孫である。
とは言え、情実人事による抜擢なのかというと、これもまた違う。源雅実の前職は、左近衛中将兼蔵人頭。天皇の秘書役である蔵人頭の位置付けは時代とともに変遷を見せ、この時代になると文官の事務方である弁官から一名、武官から左近衛中将か右近衛中将のどちらか一名という二名体制であることが一般的になった。また、蔵人頭を経験することが参議就任の登竜門であることから多くの貴族が蔵人頭就任を虎視眈々と狙っていた。この地位にあった源雅実が武官としての左近衛中将兼任のまま参議になるというのは、一九歳という若さは異例であっても、蔵人頭からの参議就任というルートからは外れていないのである。
彼ら若き貴族は一つの特徴がある。それは、これまでのヒエラルキーが通用しないという点。これまでであれば年長者の言葉に耳を傾け、自分の意見と違っていても年長者の意見を採用することが当たり前のように見られていたし、役職や位階が上の者は逆らってはならない存在と見られていた。しかし、藤原師通も、源雅実も、こうした考えが通用しない。自分の意見を正しいと考え、年長者であろと、上官であろうと、堂々と批判するし、平然と逆らう。これは白河天皇を相手にする場面であっても例外でなく、誤りを誤りをはっきり言い放って平然としている。
これは彼ら若き貴族が特別であったからではない。時代がそうさせたと同時に、白河天皇がそうさせたのである。考えて見ていただきたい。年長者だからと、あるいは上官だからと言って踏ん反り返っている者を見て愉快に感じるだろうかと。そうでなくても白河天皇は庶民の支持を得るために敵を作り出して敵に対して攻撃している。そして、偉いとされている者が正論で言い負かされて「ぐぬぬ…」となる勧善懲悪の光景は娯楽作品の鉄板でもある。庶民感情をそのまま代弁するかのような若き貴族が偉い者に対して突っかかっていくというのは、その偉い者の中に白河天皇が含まれてでも、取り締まるどころか、むしろ率先して推奨すべき風潮である。実際、この若き貴族たちの人気は高いものがあった。
新元号承暦は天然痘流行の沈静化を狙っての戒厳であったが、若さを前面に打ち出す時代の幕開けであるとも考えられるようになり、それが支持と人気を生み出す源泉にもなっていた。
この人気を白河天皇はさらに強めると同時に、仏教勢力への牽制も同時にとる策に出た。
承暦元(一〇七七)年一二月一八日、白河天皇が鴨川を東に超えて落成供養の執り行われる法勝寺へと行幸したのであるが、ただの行幸ではない。一緒に行きたい者は誰でも、それこそ年齢だの性別だの、もちろん身分だのは一切関係なく、平安京を出発して、鴨川の東にある白河の地に建立された新しい寺院である法勝寺の落成供養に参加して良いとしたのである。
寺社への参詣は宗教的側面もあるし、落成供養は宗教行事以外の何物でもないといえばその通りなのだが、もう一つ欠かすことのできない側面として、レジャーがある。寺院や神社に参詣すること自体が休日の過ごし方であり、鳥居をくぐり、あるいは仏像に手を合わせるという宗教的行為の前後に、寺院や神社の前に広がる店をめぐるという楽しみ、その往復の道中の楽しみが加わって、レジャーを形成していたのである。
このレジャーに白河天皇が乗った。かつて、末法思想にあふれている時代の只中に藤原頼通が宇治の平等院を一般開放したときの様子にも似た光景が、宇治よりもはるかに行きやすい白河の地への行幸として復活したのである。京都と宇治の日帰り往復は可能と言えば可能だが、朝早く京都を出発し、宇治で参詣して京都に戻ると日が沈んでいるぐらいの時間になる。宇治という場所は、宇治の地で何泊かするのが前提であるレジャースポットであったのだ。しかし、鴨川を渡るだけでたどり着ける白河の地、現在の京都市動物園のあるあたりとなると、日帰りでも何らおかしなことはないレジャースポットとなる。何しろ、現在の京都市では烏丸から地下鉄でわずか三駅での距離なのだ。
法勝寺の建立された白河の地はもともと藤原氏の別荘地の一つであり、そのスタートは藤原良房まで遡ることができる。藤原良房を起源とする点から想像できる通り、藤原氏でなければ立ち入ることのできない隔離された場所ではなく一般公開された公園的エリアであった。特に桜の名所として有名で古くから京都市民のレジャースポットの一つとなっていたほどである。ただし、風光明媚であるというだけで藤原良房が別荘地として公園を構えるはずがない。政略的目的も当然ながら存在する。では、その政略的目的とは何か?
東海道を利用して東から平安京に来る場合、白河を通るのである。つまり、平安京の東の防衛も兼ねていたのだ。別荘地としたことは、藤原氏の権勢を示すとか、市民への娯楽を提供するとかの理由よりも何よりも、平安京を護るという目的が存在したのである。
この白河の地の所有者は藤氏長者とは限らなかった。実際、藤原頼通は父の藤原道長の死後に相続したが、その所有権を姉である上東門院藤原彰子へ譲っている。藤原彰子は藤原氏であると同時に皇室に嫁いだ身であり、藤原彰子の死によって白河の地の相続権が微妙なこととなった。その微妙となった相続権を明確化させたのが藤原師実である。藤原彰子の曾孫である白河天皇に藤原氏を代表して献上するとしたのである。
白河天皇は白河の地に寺院を建立したのであるが、法勝寺と名付けられるこの新しい寺院のトップが、藤原師実の実兄で、このときは僧籍になっていた覚円を任命したのである。土地を寄進してくれた人の実兄を、自分が建立を命じた寺院のトップである別当に任命するというのは理解できることである。ただし、覚円は単に、弟が関白左大臣であるというだけの僧侶ではない。
天台宗の主導権争いである山門寺門の抗争において、覚円は寺門派の有力者となっていたのである。何しろ寺門派の本拠地である三井寺こと園城寺に身を寄せていただけでなく、僧侶としての出世街道を歩み、承暦元(一〇七七)年には天台座主に就任もしたのだ。ところが、就任直後から山門派である比叡山延暦寺から猛反発がありわずか三日で辞任させられている。
白河天皇が行幸したとき、天台宗のトップである天台座主は空席となっていた。
行幸を終えたとき、三日間であるとは言え天台座主であった覚円が法勝寺の別当となり、法勝寺建立の陣頭指揮をとった僧侶である覚尋がその業績を評価されて新たな天台座主に任命された。覚尋もまた藤原北家出身であり、曽祖父は藤原道長の実兄で、摂政と関白を務めた藤原道隆である。出家したとは言え藤原氏の一員であるという束縛から抜け出すのは容易ではなく、藤氏長者としての藤原師実の目が届く存在でもあった。その上、覚尋は比叡山延暦寺の僧侶であるから天台座主への就任について山門派は文句を言えないし、寺門派としても自分たちの送り出したトップが他ならぬ天皇の命によって建立された新しい寺院のトップになったのだからやはり文句を言えない。
さて、内大臣兼右近衛大将藤原信長の政務ボイコットは承暦元(一〇七七)年が終わろうとする頃もまだ続いていた。
この影響もあるのか、それとも、なおも影響力を保持し続けている禎子内親王への配慮としてか、一二月二五日、白河天皇は何の前触れもなく高陽院を出て内裏へと戻っている。
これはこれで合理的な選択であると言える。六条は狭いからと高陽院に移ったが、高陽院がいくら広いといっても内裏として利用することを前提として建設されたためののではないため、内裏として使用すると無茶が生じる。政務を遂行するには内裏がもっともスムーズに行くというのは否定できないことでもあるのだ。おまけに、これまで天皇が代理を出て平安京内の建物を里内裏として使用してきたのは、内裏が火災にあったためのやむを得ぬ緊急措置であり、後三条天皇によって内裏再建工事が完了して以後、内裏は内裏として使用できるようになっているのである。内裏が内裏として使用されないのは単に白河天皇が内裏にいないからという一点だけが理由であり、政治的駆け引きを理由に内裏を出たことは、政務を滞らせることにもなっていたのだ。
結論から記すと、内裏に戻ったことで政務はスムーズに動くようになった。ただし、大きなミスでもあった。敵に対して攻撃することで庶民の支持を集めていた白河天皇にとって、敵への妥協を見せることは、敵に屈したと見られるようになってしまったのである。
政治というのは、庶民生活がいかにして前より良くなったかという一点だけが評価点である。白河天皇は、亡き後三条天皇の進めた荘園整理によって国民生活が悪化するようになってきたことは理解していた。そして、荘園整理を事実上無効化させて国民生活を元に戻そうとしていた。ところが、結果が出ていなかった。敵を作り出して敵を攻撃するということで支持率を得ることには成功していたが、それと国民生活の向上とが繋がっていなかったのである。内裏の機能不全はその一因であると考えたことは正しい。そして、これが貴族たちの間にも共通認識であったことは正しい。
ただし、支持率を考えると得策ではなかった。白河天皇を内裏に復帰させるまでに敵が見せた行動とは、政務ボイコットという圧力である。しかも、出仕するようにという命令にいっさい従わず、白河天皇の方が折れて内裏に戻ったのである。つまり、白河天皇は敵の圧力に屈するような執政者だと、さらに言えば、弱い執政者だと見られるようになってしまったのだ。
白河天皇の経済政策は、名目上は後三条天皇の政策を継承したことになっているが、実際には藤原摂関政治の復活であり、荘園制の黙認である。
問題は、それが藤原摂関政治の頃の産業生産性を伴わなかったことである。
藤原摂関政治は過去である。それも記憶に残っている過去である。この時代に生きるほとんどの人たちの記憶の中で、現在の暮らしよりは良い水準の暮らしであったのだ。その当時は社会に不満を持って改革を考えていたとしても、いざ改革を推し進めてみるとと比べて生活の質が悪化してしまった。こうなると、以前の生活に戻るように改革を無かったようにして欲しいとの要望が挙がるものだし、白河天皇も父の改革を無かったかのように扱うようにしたのだが、それと結果とが繋がるものではなかった。それも二つの理由で。
一つは環境問題。前述の通り、平均気温がだんだんと下がってきたことで、食物の生育が悪くなり収穫量が減った。かといって労働量は変わらないのである。藤原道長の時代であれば一〇〇人で田畑を耕せば一九八人分の食料を収穫できたが、今や一八〇人分の食料しか収穫できなくなっている。何しろ相手は自然だ。特に、稲という熱帯性植物を相手にしている農業で気温低下は致命的だ。北海道で稲が収穫され、東北地方にコメの名産地が当たり前に存在する現在では考えられないことであるが、これは品種改良の結果であり、この時代の稲の品種では、寒さに強いというのは期待できない。
気温低下だけでも生産性悪化を招くに充分だが、ここに後三条天皇の展開した荘園整理が加わる。唯物史観に従えば人類の発展はモノのみによって展開されることになっているし、失敗に終わった荘園整理を捨てなければならないところであるが、実際の歴史は唯物史観で説明できるほど甘いものではない。荘園整理によって生活が苦しくなったとしてもそれを認めない人はいるし、生活が苦しくなったことを認めてもそれを荘園整理の責任ではなく荘園整理の不徹底によるものだと考える人もいる。さらに言えば、正義を考えて行動する人の前に貧困は通用しないのだ。貧しくなったとしても自分の信念を絶対に曲げず、餓死者が出てもなお過ちを認めないのもまた人間という者の本性である。白河天皇がいくら荘園整理を有名無実化したと言っても、今なお亡き後三条天皇を熱狂的に支持する人たちもいるし、その人達の手に権力が渡ればすぐにまた荘園整理が復活することが目に見えているのである。
現時点で荘園として認められている場所は少なくともこれからも荘園であり続けていることは期待できるが、新しく荘園となった場所、そして、新しく荘園に組み込まれた土地は今後も荘園であり続けられることは期待できない。つまり、現時点で荘園であるところしか荘園として期待できないのである。荘園としての特権が失われるとわかっていて、新しく荘園を切り開こうとする者がどれだけいるであろうか? 荘園開拓への労力をつぎ込む者がどれだけいるであろうか? 荘園整理はイノベーションを壊したのである。努力をしても結果は返ってこないのに、全く同意できない正義を押しつけられて積極的に動く人はいない。
環境問題と、荘園整理によるイノベーションの停止によって生産性が落ちていることは、失業問題と労働問題にも繋がる。
寒冷化のせいで、投入しなければならない労働量は変わらないのに収穫できる食料が減るという状況は、現在のサラリーマンでも実感できるのではないだろうか? 以前と同じように働いても給料が増えないのと同じである。以前と同じだけ働いても売上が減っているのだから貰える給料も減る。かつてと同じ給与にするためには労働時間を増やすか、全体の労働量が変わらないなら人手を減らして分配率を増やし、一人あたりの収入が今までと同じになるようにするしかない。その代わり、一人あたりの労働量が増える。労働時間であったり労働量であったりが増える。これはサラリーマンならイヤと言うほど実感していることである。
話を平安時代に戻すと、荘園整理は、荘園で生まれ育った者が、荘園でそのまま生き続けることのできる保証がなくなった時代になったことを意味していた。荘園整理が始まれば、田畑を増やしても増やした分が荘園に組み込まれることが許されなくなる。その一方で、この時代は幼児死亡率の高さで均等がとれてしまっているとは言え、女性が生涯に産む子供の数は五人から六人では少ない方にカウントされるほど。そうして生まれた子が全員成人したら田畑が無くなる。これまでは荘園の持つ田畑を増やせば成人したあとの田畑、すなわち就職先を確保できたが、これからは荘園の田畑を増やすという選択肢が選べない以上、今ある田畑からどうにかして手にしなければならない。無論、そう都合良く田畑が手に入るわけなどなく、これまで一世帯でちょうど良い広さの田畑を持っていた場合、継げるのはやはり一世帯。複数人の子供が成人を迎えたとしたら、一世帯分の収穫で複数世帯生きていかなければならないことを意味する。平等に相続させるためには田畑を分けなければならないが、それをしたら、二人に分けたら〇・五世帯分の収穫で、四人に分けたら〇・二五世帯分の収穫で生きていけなければならないことを意味する。普通に考えればそのようなことをするわけもないのだが、それをした人はいたようで、頭の悪いことを意味する単語に「たわけ」という語の語源も相続のために田畑を分けることに由来するとの説もある。
荘園整理で荘園が増えないのに「たわけ」が行なわれなくなると、成人しても田畑を得られなくなる者が現れる。「たわけ」が行なわれると飢饉が待っている。生きていくために失業を選ばされる者が現れ、失業しなくて済んだ者は、厳しくなっていく気候の中、今まで以上に働いてようやく今と同じ収穫を得られるという過重労働地獄が待っている。失業を運命づけられた者は失業せずに済んだ者より激しい地獄が待っている。不安定な仕事を転々としてようやく生きていけるという絶望的貧困という地獄である。現在でも正社員と派遣との格差が見られるが、この時代は荘園の田畑を持つ者と持たぬ者との格差であった。どちらも安定と不安定という目に見える格差と同時に、田畑を持たぬ者になりたくない、田畑を持たぬ者と一緒にされたくないという見えないことになっている差別も存在する。
荘園に留まることが苦しい暮らしになるとしても、荘園を離れると待っているのは今よりさらに苦しく安定を欠いた暮らしである。その上、差別される対象になる。おまけに、荘園整理の影響で荘園が増えなくなっている。こうなると、現時点での荘園にしがみつくに決まっている。労働時間が長くなり給与が減ることになろうと、荘園を出て行ったら荘園の正式な一員に戻ることは出来ないのだ。荘園に入れることが許されたとしてもそれは荘園の田畑を耕す人手が足りないときの臨時職であり、手に入る収入は少なく、来年以後の保証もないのだから。
経済問題をごまかすために敵を作り出して世論の注目をそちらに向けることは珍しくもなんともない。国外の敵を作り出して生活苦の不満を国外への憎しみに向けるなんて言うのは常套手段であるし、国内に敵を作り出して敵へ攻撃することで溜飲を下げさせて不満をそらすのも常套手段である。
内大臣藤原信長を敵として扱うことは白河天皇の政権への支持を集めると同時に、経済問題の行き詰まりをごまかす効果を持っていたが、実際問題、藤原信長が内裏におらず、大臣が左大臣藤原師実一人であるというのは問題であった。かと言って、出仕していない内大臣藤原信長を右大臣にすることも、藤原信長を追い越して大納言や権大納言の誰かを右大臣にすることもできなかった。
この状況を打破すべく、藤原師実は残酷な決断をする。我が子の藤原師通を離婚させ、藤原信長の養女である藤原信子と結婚させることとしたのである。これは猛反発を生んだ。本人もそうだし、周囲も反発した。特に、藤原師通の妻であった藤原全子とその父の権大納言藤原俊家の反発は大きかった。
政務の安定化のために藤原信長をひっぱり出さなければならないと主張する藤原師実に対し、妻を無理やり離婚させるとは何事かと、藤原師通も、藤原俊家も、夫として、あるいは父として当然の反応を見せたのである。藤原全子はこの時点ではまだ子を産んでいないから、子供を産まないことを離婚理由の一つとできたこの時代ではそれを理由に離婚を迫ることも不可能ではなかったが、常識で考えて、結婚してまだ二年、年齢もまだ一八歳の少女に子供が出来ないことを理由に離婚を命令するのは異常事態の何物でもないし、世論がそれを知ったら支持を一瞬にして失わせることとなる。
それが赤の他人の言葉であれば軽蔑だけを向ければ済む話であるが、他ならぬ実の父からの命令とあっては軽蔑に失望が加わる。これに、政界の中枢という状況が加わると、天下国家を論じた親子喧嘩に発展する。藤原師通は、出仕しない内大臣などクビにして誰かを右大臣にさせれば問題ないとまで主張するようになったのだ。それも主張を一般公開して。
その上、娘の結婚に対する藤原信長からのアクションはない。娘が次代の藤氏長者を確約されている藤原師通のもとに嫁いだとしても、出仕するとは宣言しなかったのである。事態は藤原信長の方に有利に働くようになっていた。
白河天皇に向けられていた熱狂的な支持は明らかに減ってきていた。
かといって、支持の受け皿となる存在もなかった。
この時代に選挙があったなら、白河天皇の側に立つ貴族の政党が議会の多数派を占めることに変わりは無かったであろうが、その政権の支持率は高いものとならなかったであろう。
このような政治情勢のとき、執政者がとることの出来る策は三つある。
一つは新たな敵を作り出すこと。国民の関心を新しい敵に向けさせ、経済問題の行き詰まりの原因も敵の責任に背負わせるのである。国外に敵を作り、いつ戦争になってもおかしくない国内世論を作り出すなんてというのは、あまり知性のよろしくない古今東西の執政者が繰り返してきたことである。特に問題なのは、戦争になってもおかしくないという状況を越えてしまう可能性があるということ。戦争というのは、敗れるのも、泥沼にはまるのも地獄であるが、もう一つ、鮮やかに勝ってしまうこともまた地獄である。問題をそらすために作り出した敵がいなくなることで、多くの人は問題の解決を期待する。だが、その期待は簡単に裏切られる。問題解決ができないことをごまかしていたことが通用しなくなり、目の前には容赦なく問題が突きつけられる。解決しない問題が。そうなったとき、新しい敵を作り出すことは珍しくない。戦争があまりにも多い国というのはそういう国である。
執政者のとることのできる策の二つ目は、わかりやすい刷新である。それまで強い権力を握っていた者を追放し、若く新鮮な者を新しく権力を持った地位に引き上げるのである。選挙のある政治体制では有権者自身がその選択をすることがあるが、選挙のない政治体制では執政者が側近の一人ないしは複数人を入れ替えることで刷新となる。もっとも、入れ替えさせらたことで権力を失う者にとっては冗談では済まされないことであり、激しい抵抗を見せることは珍しくもない。それが一つ目の策である敵と変わらぬ存在となり、国外の敵ではなく国内の敵として攻撃の対象となることもある。さらに悪化すると、内乱の首謀者となることもある。また、長く権力者の地位にあったということは政界の実力者でもあるということ。すなわち、有能な者が自らの引き際と考えて平和的に第一線から去ったとしても、後任の者が前任者に匹敵する優秀さを持っているとは限らないのである。
白河天皇はこの双方とも利用できなかった。白河天皇自身が刷新の象徴であると同時に、藤原師通と源雅実という二人の若き貴族をデビューさせている。その上で、内大臣藤原信長を敵として扱っている。つまり、既に第一と第二の策をとっている。ここでもう一度第一と第二の策をとるのは、これまでの白河天皇の政策を全否定することにも繋がるのだ。
ゆえに第三の策しか選べなくなる。
イベントだ。
イベントというのはバカにできるものではない。
税の無駄遣いではないかという批判もあるし、あとに何も残らないという批判もある。
税の投入で失業が減るという反論をしてもそれは一時的ではないかという批判が返ってくる。イベントのために建物を建てればあとに残るではないかという反論に対しても廃墟を生むだけだという批判が返ってくる。
ただ、この批判を受け入れてしまうと、肝心の経済がかえって悪影響を受けるのだ。人類はその歴史で何度となく緊縮策をとってきた。要は税の無駄遣いを減らせと注文をつけてきた。財政が厳しいのだから支出を減らそうとする意図はわかるし、無い袖は振れないというのもわかるのだが、税の無駄遣いを控えさせると国の経済はさらに硬直化し景気は悪化する。景気の悪化は経済成長率の悪化を招き、経済正常の鈍化や悪化は税収にそのまま反映される。税の無駄遣いを減らすと、浮いた分の支出を簡単に吹き飛ばす歳入の減少となって国庫に跳ね返ってくるのである。それをするぐらいなら増税をしてでも支出を増やすことを考えなければならない。そうすれば歳入も増える。
イベントというのは、強引に景気を良くする効果がある。市場に出回る資金、平安時代で言うとそれはコメや布地ということになるのだが、コメや布地を国全体のイベントであれば国全体の景気を向上させる効果がある。たとえそれが何のあとも残らぬ狂騒であろうと、一時凌ぎの失業対策であろうと、やらないよりは遙かにマシなのである。
この時代のイベントとなると、定例イベントとしては、単に「祭」とだけ呼ばれた賀茂祭と、貴族の祭と認識されていた賀茂祭に対して庶民の祭と把握されていた祇園祭とがある。
非定例イベントとしては、建物の造営や行幸がある。国家予算を投じて前者は建物を、後者は経験を残す。市場(しじょう)に流通する資金の不足は不景気の原因であるが、資金不足の原因は支出の少なさに行き着く。カネを銀行や自宅の金庫に、この時代はコメや布地を蔵に、ため込んで吐き出さないでいる人が多いことが問題であり、吐き出そうとする思いを抱かせないことが問題なのであるから、吐き出そうという思いを抱かせるきっかけ、すなわち、需要の創出が鍵となる。
一生に一度体験できるかどうかというイベントならば、カネがもったいないからと言って財布のひもを引き締めることは少なくなる。頻度を高めて一年に一回あるかどうかという体験のイベントにしても財布のひもを引き締めづらくなる。ところが、イベントとしての回数が増えるとイベントによって体験できることの価値が薄くなり、財布のひもがきつくなる。
この頃の白河天皇を見てみると、何かとイベントを開催している。
そして、イベントを重複させていない。
つまり、イベントの開催頻度は高いのだが、イベントへの飽きというものは起こさせていない。
興福寺の再建工事が完了したら、関白左大臣藤原師実を奈良まで派遣した。興福寺自体は藤原氏の氏寺であるため藤氏長者である藤原師実が奈良にまで行くのはおかしなことではない。ただし、規模が違う。興福寺の関係者だけではなく、京都から奈良まで多くの人が移動し、式典に参加したのである。興福寺で開催された祭典そのものも盛大であったが、京都と奈良との往復もまた、一生に一度体験できるか否かの壮麗な規模であった。
興福寺の再建法要が庶民向けのイベントであるならば、大納言源顯房に命じて清涼殿で開催された歌合は貴族向けのイベントであった。とは言え、和歌というものは貴族の専売特許の楽しみではなく、身分の差も性別のさも乗り越える文化である。万葉集に庶民の読んだ多くの歌が残されているように、そして現在でも歌会始は誰もが応募できるシステムになっているように、和歌を前面に出すイベントというものは、自分で自分を貴族と自負する者のみならず、自分をエリートと気取る者、さらに、自分が庶民であることは受け入れているがスノッブ(知識や教養をひけらかす上流階級)気取りである者にとっても、歌合は自分の上品さを充分に充足させるイベントであった。
落成供養のように庶民でも楽しめると言っても奈良まで歩いて行かなければならないのは遠くて困るが、和歌に興じてスノッブを気取るつもりにもなれないという者には、競馬が用意された。
競馬と言っても馬のレースの勝敗を予想し、的中させたら金銭が返ってくるという競馬ではない。騎手が馬に乗ってレースをするという点と、一日一〇レースという点は現在と一緒だが、それ以外は現在の競馬と大違いである。当時の競馬、当時は「競馬」と書いて「くらべうま」と読むこの競技は、二頭の馬の競走である。それも調教していない馬に乗っての競争である。そのため、騎手はいかに早くゴールするかよりも、いかにして馬に振り落とされずにゴールするかの技量が求められる。そして、現在の競馬では、他の馬や騎手への妨害は即失格だが、平安時代の競馬はそれこそが競技である。相手の馬の邪魔をし、さらには相手の馬を操る騎手を落馬させればその時点で勝利。
スポーツ観戦自体がこの時代に無かったわけではないが、開催頻度が現在と比べものにならない少なさである上、この時代にプロスポーツという概念も存在しない。庶民がスポーツを観戦するという機会はそう多くはなく、競馬は数少ない例外であった。おまけに主催が白河天皇ということもあってその豪勢さは歌合や興福寺落成供養の比ではなく、観客数も経済効果も莫大なものとなった。
このイベント続きの中、前年から懸念されていた計画が実行された。
権中納言藤原師通と、内大臣藤原信長の娘藤原信子の結婚である。
つまり、藤原師通は妻の藤原全子と離婚させられたのだ。それも、長男が生まれてすぐ、妻と子と別れさせられたのである。藤原師通は父の子の決断に反発したが、白河天皇も父の決断に賛意を示したとあっては貴族として受け入れざるを得なくなる。
それにしても、白河天皇はなぜ賛意を示したのか?
単純に考えれば内大臣藤原信長への妥協である。
一方で、いかに天皇と言えど、そして、関白左大臣藤原師実と権中納言藤原師通が登場人物であると言えど、極論すれば個人的な家庭の事情である。つまり、白河天皇がどうこう言える話ではなく、反対したら個人的な家庭の事情に天皇が口出しすることを意味する。強引に解釈すれば遠い親族ではあるから親族としての口出しも不可能ではないが、それを口実とすると関係性の薄い親族の余計な口出しになってしまう。つまり、白河天皇には賛意を示す以外の選択肢はなかったのだ。
それに、ここまで待っての賛意にしたのはメリットがあった。
藤原信長を出仕させるために、息子を無理矢理離婚させようとしていうことに対し、庶民から強い反発が出ていることを白河天皇は理解していた。とは言え、藤原師実は息子を離婚させようとしており、その信念は変わっていない。ならば、最低最悪のタイミングを狙うと効果を生む。
それが藤原全子の出産直後である。孫が生まれた直後に、乳児を抱いた嫁を追い出して新しい嫁を迎え入れるというのは、これ以上の反発など考えられないシチュエーションである。
この状況で嫁入りすることとなった藤原信子の心労もかなりのものがあったであろうが、ここまでされてなお出仕せずにいる内大臣藤原信長に対するプレッシャーも充分に働いた、はずであった。
にもかかわらず、内大臣藤原信長のボイコットはまだ続いたのである。
承暦三(一〇七九)年一月時点の議政官の構成は以下の通りである。
今回は氏族名を付記してみたが、これを見ると気づかされる点が二点ある。
一つは、それまでであれば微少勢力として存在していた藤原北家以外の藤原氏が完全に姿を消していること。かつてであれば一人ぐらいは藤原南家の人間が議政官に姿を見せていたものであるが、承暦三(一〇七九)年となると、藤原氏はその全てが藤原北家の人間に占められるようになっていた。
もう一つは、藤原北家内部の分裂である。藤氏長者の地位を継承する者の家系を藤原北家御堂流と称すようになると同時に、その他の家系が藤原北家という緩やかな血族から細分化する強固な血族へと変化してきたのである。その結果、村上源氏が議政官で同数第一位の勢力にまで発展した。
これを見ると、藤原師実が藤原信長の娘を自分の息子に嫁がせたのも、藤原信長の出仕を促すためと同時に、藤原北家御堂流による権力固めの側面もあったことが読み取れる。
ただし、藤原師実のこの考えが藤原氏の未来に良い結果をもたらすものとはならなかった。
承暦三(一〇七九)年二月二日の正午頃、平安京で大火が発生した。春日小路から北の貴族の邸宅街を覆った火災は、平安京の区画外に広がる庶民外にまで波及し、およそ三六町が消失する大災害となった。
この火災の記憶も覚めやらぬ二月二一日に伊勢国から緊急連絡が飛び込んできた。二月一八日に伊勢神宮内宮の外院七〇あまりの建物が焼け落ちたというのである。
冬になって乾燥して火災が頻発したという説明では完結しない。
平安京という都市はもともと火災が多い。もともとは道幅を確保していた都市設計であったのだが、時代とともに道幅が狭くなり、一つの建物で火災が起こったら簡単に近隣の建物に火が移ってしまう。それでも平安京の区画内はまだマシであったが、平安京の区画の外に出てしまうと秩序内建物群が広がることとなる。
藤原道長は平安京の東、鴨川のすぐそばまで広がっていた庶民街を平安京の南に移し、平安京の南北が北から一条、二条、三条と来て最南端が九条であるという理由で、平安京の南の新しい庶民街を十条と名付けたが、平安京の北については手を着けていなかった。正確に言えば、藤原道長の時代は平安京の東に広がる庶民街を考慮すれば良く、平安京の北については考慮する必要がなかったのである。それが、時代の変化によって平安京の北にも庶民街が広がるようになり、朝廷としても対策をとらなければならなくなるレベルになっていたのである。平安京は北に行くほど高級住宅地で南は庶民街というのが固定概念であったから、南ではなく北に住みたいというのはおかしな考えではない。特にスノッブを気取る人の間では多少無理してでも北に住むのがステータスになっており、あるいは、自分は南に住んでいるような人間ではないという矜持が譲れない一線になっており、平安京の北、特に、鴨川が高野川と合流する前の地点、現在でも残る下鴨神社のあたりは平安京に含まれていないこともあり、平安京の都市計画を逸脱した住宅も見られた。
ちなみに、現在は鴨川と賀茂川を明確に使い分けており、正式名称は鴨川で、鴨川が高野川と合流するまでの通称が同音異字の賀茂川であるとしているが、平安時代は統一されておらず、同じ人が同じ場所について記した資料なのに、ある日は鴨川と記し、別の日は賀茂川と書いている。大宰府と太宰府との関係のように、表記を統一するという概念は無かったのだろう。平家物語にもある白河天皇の有名なセリフに、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」とあるが、高野川と合流する前の賀茂川限定のことではなく、高野川と合流したあとの鴨川も含めてのことである。
セリフそのものは後年のものであるが、白河天皇はこの頃にはもう鴨川周辺の天災を重大な社会問題として認識していた。
白河天皇のセリフの三つ目に出てくる山法師もこの頃には既に社会問題と化している。
承暦三(一〇七九)年六月二日、延暦寺の僧侶およそ一一〇〇名が八坂神社にやってきて、八坂神社のトップである別当を延暦寺に関連する者に譲るよう求めたのである。八坂神社は平安京の北、賀茂川の西部に広大な荘園を持っており、平安京の北部に広がってきている住宅地も八坂神社の荘園の一部を構成していた。つまり、農村の生み出す第一次産業や第二次産業の生産物だけでなく、都市としての平安京の持つ第三次産業の生産物も八坂神社の収入として計算できるようになっていたのである。
この八坂神社は興福寺の支配下にあったが、八坂神社に比叡山延暦寺が侵略してきたのである。これを武力による簒奪とするならまだ物騒の一言で片付けることが出来るが、平安時代の荘園は現在の株式会社に相当する。荘園の所有権は一個人や一つの寺社で独占するのではなく、現在の株式同様、複数者が様々な割合で荘園に対する所有権を持っている。その所有権を少しずつ比叡山延暦寺が得るようになってきたため、現在の株式総会にも似た発言権を求めるようになったのである。つまり、物騒と批判することは簡単だが、取り締まろうにも取り締まれないのが実情であった。
そこまでであれば現在の株式会社と同じであるが、持ち株比率に基づく人事を求めるやり方となると異様としか言いようのない風景になる。
まず、二〇〇名の僧兵が武装している。次に、六〇〇人ほどが大般若経を、三〇〇人ほどが仁王経を一巻ずつ携えているのである。さすがに二〇〇人ほどの武装した者がいるのは冗談で済む話ではないが、その周囲を、武装はしてはいないが仏典を一巻ずつ持って立ちはだかっているという、異様な光景のデモが繰り広げられることとなった。
このデモの首謀者の名は判明している。貞尋(じょうじん)という僧侶で、貞尋(じょうじん)は懐空(かいくう)という僧侶の弟子であった。この懐空(かいくう)は八坂神社の別当であり、その地位を弟子に譲ろうとしたのだが、この後任人事に納得しない者が貞尋(じょうじん)の僧坊を破壊したというのがきっかけとなり、別当の地位が空席となっていたのである。その地位を比叡山延暦寺に関わる者になるよう正しい手順で決めるように求めたのだ。
その結果、一一〇〇名の僧侶と延暦寺周辺の信者を動員しての大規模デモ行進となった。比叡山から京都まで一六キロしか離れていない。日帰りで気軽に歩いて行ける距離だ。かつ、このデモ行進も目的は八坂神社ではなく北野天満宮への参詣であり、これもまた文句を言えるものではない。ただ、人事に対する訴えが認められるのであれば「参詣」はとりやめるともしていた。
比叡山延暦寺のこの訴えを甘く考えていた京都市民は、二〇〇名の僧兵と九〇〇名の信者からなる集団に恐れ戦いた。
白河天皇は比叡山延暦寺のデモに何ら対処できず、要求を全て受け入れることで武力衝突を回避した。これ自体は、この時点の白河天皇に出来るただ一つの選択であったというのは理解できることであるが、支持を得られる選択ではなかった。
京都市民の多くが物騒な時代を迎えたことを自覚し、物騒な時代に対処できないことの苛立ちを見せるようになった。自分たちを統治する白河天皇を、軟弱な存在と考えるようになったのだ。古今東西、軟弱な姿勢を見せる者に対して絶大な支持が寄せられることはない。その判断が理解されることがあっても、新しく支持者を獲得することは絶対にあり得ない。
この時代の人は求めだした。自分たちの身を守ってくれる存在を。
ところが、承暦三(一〇七九)年六月二三日に飛び込んできた知らせは、この時代の人たちの求めを完全に裏切るものであった。右兵衛尉の源重宗と散位源国房とがそれぞれ軍勢を率いて美濃国で合戦したのである。
さらに八月一〇日には相模国で権大夫の中村為季が、押領使の笠間景平と合戦をし、笠間景平を殺害。さらに笠間景平の一族郎党およそ数千名に対して中村為季は攻撃をし、軍勢として機能させないレベルまでのダメージを与えたのである。実際に殺害されことが判明しているのは笠間景平のみであるが、死者はもっと多かったであろう。また、後に鎌倉幕府の御家人として有力勢力となる三浦氏は、この時点で中村氏に最低でも二名の女性が嫁いでいたことから、中村為季の親族として攻撃に加わっていたことが推測されている。
この連絡を受けた朝廷が打ち出した方策が、源義家の派遣である。とりあえず、同じ源氏ということで源義家をまずは美濃国へ派遣したのだ。
この時点の源義家を一言で言うと、忘れられた貴族である。延久二(一〇七〇)年を最後に、九年間に渡って何の官職にも就いていなかった。少なくとも何かしらの役職に就いていたという記録はない。国司を勤めていたぐらいであるから貴族の一員であったことは間違いないのだが、この九年間、どこで何をしていたのかわからないのである。延久二(一〇七〇)年の記録は下野国司就任であるから、任期満了まで国司であったとしたらとりあえず四年間は国司であったとは言える。ただし、九年の空白を埋めるには足らない。
この空白を埋めるのが承保四(一〇七七)年の、源義家の実弟源義綱の下野国司就任である。前述の通り、この時点での源義家の最後の記録は延久二(一〇七〇)年の下野国司就任。それから時を経て、弟の源義綱が下野国司に就任した。承保二(一〇七五)年には父の源頼義が亡くなっていることから、関東地方における源氏の武力は弟が統括し、自身は京都に身を寄せ、皇室に、あるいは摂関家に接近していたと思われる。
承暦三(一〇七九)年六月二三日に、美濃国で合戦が起こったという連絡があってからおよそ五〇日しか間のない承暦三(一〇七九)年八月一七日に、源義家に対して源重宗追討の命令が出た。ニュースが届いてから五〇日というのはあまりにも遅すぎるように思えるが、この時代ではこれが普通である。その上、源義家一人が美濃に行くわけではなく追討用の軍勢を集めなければならない。常備軍がある社会ならばともかく、この時代に常備軍などない。そのため武士を集めなければならないのであるが、武士を専業としている者はそう多くはない。ほとんどの武士は貴族や役人の兼職であり、あるいは農業をはじめとする生産業は本職で武士はむしろ副業である。農繁期に武士として人を農地から連れ出すのは容易ではない。
それを容易とする方法は、源氏の個人的なコネクションということになるのだが、京都に身を寄せているとそれは不可能になる。全くの無力とは言わないが、関東地方では絶大な権力を持つ清和源氏も、京都においては数多くの有力貴族の一つでしかない。
源義家が関東地方に留まっていたとすれば美濃国に東から攻め入るところであるが、このときの源義家は西から攻め入っている。その上、源義家個人で集めることのできる武士を率いて美濃に軍勢を差し向けているが、結論から記すと源重宗追討に失敗している。つまり、軍勢を集めることに失敗している。関東地方は清和源氏の勢力が拡大しており、後年の源平合戦の頃の話になるが、劣勢であった源氏は関東地方で軍勢を組織して勢力を挽回して平家打倒に成功した。その時代よりも源氏の浸透は薄いとは言え、清和源氏のトップが軍勢を集めようとしているのに集めることができないということはありえない。関東地方に留まっていたなら朝廷からの命令一つで自身の軍勢を率いて進軍できたところであるのに、関東地方に留まっていないからこそ軍勢を集めることができなかったとするしかないのである。
また、関東地方から西に向かうとしたら、相模国での中村為季と笠間景平との合戦について無視することは出来ない。何と言っても源氏の本拠地となってきている鎌倉を抱えている相模国である。これを放置して軍勢を西に差し向けたら、人として許されないだけでなく、人情を無視する冷徹な考えの持ち主であろうとそのような決断はしない。
源義家に命じられたのは源重宗の追討である。
喧嘩両成敗の原則に従えば源重宗と源国房の両名とも追討の対象となるべきところであるが、このときは源重宗だけが追討の対象となった。どういうことかというと、合戦当時の源重宗は右兵衛尉という公的地位を持っていたのに対し、源国房は無官であったのだ。つまり、合戦という不法行為を処罰するだけではなく、右兵衛尉である源重宗に対してならば出頭しない場合は右兵衛尉の官職を剥奪するともしたのである。
この官職剥奪の実力行使を命じられたのが源義家であり、追討というのも官職剥奪の実践である。
このとき、源義家が追討に失敗したというのは前述の通りであるが、失敗したという記録だけが残っており、どのように失敗したのかの記録は残っていない。ただし、想像はつく。というのも、承暦三(一〇七九)年九月に、源重宗と源国房の両名が関白藤原師実のもとに出頭したのである。
となると、軍勢を集めることに失敗したこともあったが、源義家はそもそも武力行使に打って出なかったのではないか。つまり、源義家が五〇日ほどで、京都とその周辺でどうにか集めることのできた軍勢でまずは美濃に向かい、同時に関東地方の清和源氏に、嵯峨未来の情勢を踏まえつつ、軍勢派遣を命じたのではないかと考えられるのである。
源義家の名前は健在であった。九年間忘れられていたとは思えないほどに源義家の名は強力であったのだ。源重宗は、源国房相手であれば合戦に打って出ることも厭わなかったが、源義家相手には戦う気になれなかった。そして、状況は時間が経てば立つほど悪化していく。源義家相手に合戦で勝てるとは思えない。勝てない戦いでも構わないと考えるのは勇気ではなく無謀である。いかに源重宗に個人的な恩義を感じていたとしても、負けるとわかっている源重宗と一緒に行動するのは得策ではない。
その結果、起こったのが軍勢からの離脱。一人、また一人と源重宗の軍勢は欠けていく一方で、源義家の軍勢は日に日に増強されている。これでなお戦いを挑むのは常軌を逸しているし、他ならぬ源義家も戦いを望んではいなかった。
源義家の出したアイデアが朝廷に対する降伏であった。そもそも、朝廷は出頭を命じたのであり、死ねと命じたわけではない。朝廷に直接出向いたら厳密な法の適用が考えられるが、関白藤原師実のもとに出向いて降伏すれば命は助かると告げたのだ。この時代、死刑はない。厳密に言えば死刑は法で定められてはいたが執行されてはいなかった。朝廷が法を厳密に適用すると死刑に該当する犯罪なのであるが、その可能性は低い。関白藤原師実のもとに出頭すれば実際に死刑となる可能性はもっと下がる。藤原良房以後の藤原北家は一度も死刑を執行させていない。死刑になる犯罪であっても死刑とはさせなかった。それどころか、命は助けただけではなく、一時的に官職を剥奪したが、元の官職に戻すケースもたくさん見られた。
一方で、戦闘で亡くなる人はいた。平将門も、藤原純友も、戦闘で命を落としている。
戦闘に訴え出た者をそのまま許すことは絶対になかった。源重宗が仮に合戦で源義家に勝ったとしても、朝廷は源義家ではない別の者を美濃国に派遣する。何度打ち倒しても終わりはない。その軍勢の全てに勝てるであろうか?
結局、源重宗には降伏するしか方法はなかったのだ。それで有罪として処罰されたとしても、死ぬよりはマシだ。
承暦三(一〇七九)年九月一九日、源重宗、関白藤原師実のもとに出頭し、降伏。
翌九月二〇日、源重宗は右兵衛尉をクビになったと同時に、左獄(現在で言う刑務所)に収監。同日、追討の対象となっていなかった源国房も有罪となり、紫宸殿の西にあった弓庭(弓道の練習場)に幽閉された。
そして、源義家は追討に失敗したということで何の褒賞も与えられなかった。
さて、戦闘に訴え出なかったとは言え実際に美濃に派遣され、朝廷の求めたとおりに戦乱を終結させた源義家であるが、戦闘を終結させたことに対する評価どころか、追討に失敗したとして責任を追及されたのである。
それに対し源義家は不平を述べていない。
そして、責任を追及するとしたはずの朝廷は何も動きを見せていない。
相変わらず源義家は何の官職も得ていない。そして、本拠地である関東に戻らず、京都に留まっていたと推測される。
なぜそう推測できるかというと、これから頻繁に源義家が朝廷の命令を受けて行動しているのである。それも、朝廷からの正式な命令での行動もあれば、白河天皇や関白藤原師実の個人的な命令での行動もある。
官職を持たないがゆえに、かえって自由に行動できる存在になれたということでもある。官職を求める貴族であり続けるのも一つの考えだが、貴族として当然求める官職への道を諦め、貴族であると同時に武士でもある存在として、朝廷や摂関家に接近し、白河天皇の政治を構成する一要素になるという決断をしたということでもある。それは個人の栄達を犠牲にしても自らの道を作り上げ、次代の安定した勢力を築き上げるという選択をしたということである。
上流の役職は藤原北家に独占されており、国司の空きも期待できるものではない。これで官職にこだわるというのは効率的ではない。官職を手にして、特に濃くをはじめとする官職を手にすることで得られるのは、第一にまず資産であり、次に自身の勢力である。資産と勢力を築き上げるという最終目的を達成するために官職を求めることがかえってマイナスになるならば、官職を捨てる代わりに白河天皇と摂関家に接近するというのは不合理な選択ではない。
承暦三(一〇七九)年九月、亡き藤原頼通の邸宅である高陽院を里内裏とすると発表された。当時の人の感想は「また移動するの?」である。また、内裏に特に災害が起こったという記録もなく、内裏を出て行かなければならないようなやむを得ぬ事情もない。強いて挙げれば、七月九日に藤原賢子が善仁親王を生んだことを踏まえたのかという推測が出る程度である。藤原賢子の生んだ第一皇子である敦文親王が幼くして命を落としたことを踏まえると、父として我が子の安全を考えたとも言える。とは言え、敦文親王が亡くなったのは内裏ではなく六条院。内裏に伝染病に罹りやすい何かがあると考え、内裏を出て高陽院に避難したというのはさすがに該当しない。
ここは純粋に政治だけを考えるべきであろう。
政務をスムーズに動かすという点では内裏が最高の設備と環境である。ただし、平安京が計画通りに留まっていればの話であるが。
本来の平安京は中央に朱雀大路が走り、朱雀大路を北に歩くと大内裏に行き着く。東端は鴨川、西端は桂川であり、内裏からは東端も西端も同じ距離である。
ところが、平安京の西半分は放棄された一方、都市機能自体が鴨川沿いに留まらず、鴨川を渡った東にも広がってきていた。つまり、東西で見ると真ん中に位置するはずの内裏が、京都の西に偏る場所になってしまったのだ。
白河天皇が内裏に戻ったのは設備で言えば最高であったからだが、立地条件で言うと最高とは言えなくなってしまった。内裏の中だけでの政務に徹するなら内裏でも問題は無かったし、実際に藤原道長の時代までは内裏での政務が当たり前で、内裏が火災に遭ったなどの理由で里内裏を設置するとしても基本的には内裏に近いところを里内裏としていた。そうすればこれまで通り内裏に留まったままの政務を、内裏の立地条件を生かした環境でこなせる。
白河天皇の時代になると、内裏の立地条件が必ずしも優れているとは言えなくなった。都市そのものが東へと拡大し続けているために西に寄りすぎることとなってしまったのだ。
白河天皇の治世においてどこを内裏としていたかの記録をとると、よくもまあここまで移動したものだと感嘆させられる。しかし、平安京が鴨川までで留まっていた時代と、鴨川の東にまで広がる時代との違いを考えると、それも現在進行形で広がっている時代であることを考えると、白河天皇の行動の理由も理解できるのである。
かつての政務のスムーズさをいかにこなすかという問題は政治関わる誰もが考えることである。しかし、そのための場所選びは執政者だけが行使できる権利であり、同時に、執政者が決断しなければならない義務である。白河天皇の頻繁な移動は、頻繁に義務を果たしていたからだとも言える。
ただ、笑うに笑えない未来を白河天皇は半年も経たずに迎える。
承暦四(一〇八〇)年二月六日、高陽院で火災が発生し、白河天皇は内裏に戻ったのである。
承暦四(一〇八〇)年の記録はとにかく災害が多い。
高陽院に火災が発生したのは既に記載したとおりであるが、二月一四日の夜には皇太子実仁親王の住まいとなっていた三条第が焼け落ちた。
当時の記録にも、「二月から三月にかけて京都の東部で火災が多発し、多くの人が亡くなり、多くの家が失われた」と書いてある。過去に内裏がどれだけ火災に遭ってきたのかを振り返ると、高陽院を出て内裏に戻ったというのは、白河天皇にとって最高の選択肢とは言えない。
一時凌ぎとして内裏に戻った白河天皇が、新しい里内裏として選んだのは堀河院である。堀河院は、東西の位置関係では高陽院とさほど変わらないが、南北で言うと高陽院より南に位置する。と、これだけ書くと数多くある邸宅の一つを里内裏としたのかと感じるであろうが、実際には単なる邸宅ではない。この堀河院は、関白藤原師実の住まいなのである。
この時点での白河天皇の政治的立ち位置を整理すると、関白左大臣藤原師実は間違いなく味方であると判断できたが、その後継者である藤原師通は自身の離婚と結婚を強引に推し進められたこともあって、関係はギクシャクしたものがある。
一方、内大臣兼右近衛大将の藤原信長は相変わらずボイコットし続けている。最初は明確な敵であったが、ここまで来ると敵とか味方とか以前に、ただただ迷惑な存在となっている。この人が内大臣であり続けているためにその下の人事が詰まってしまっている。
このような政治的立ち位置で内裏から避難した先が関白の邸宅というのは、このあとで白河天皇が見せる行動にとって意味のある決断となった。
その決断を強くさせたのが、火災のニュースが沈静化したとほぼ同時に京都を襲うようになった洪水である。火災を起こさせないような雨模様が連日連夜続くようになっていたが、それは火災を起こさせない代わりに承暦四(一〇八〇)年六月一八日に京都を襲った大雨は、翌日、鴨川の堤防を破壊して京都の大部分に洪水を招いた。
平家物語の第一巻にも「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなはぬもの」とあるが、このときの白河天皇は洪水に立ち向かおうとした。そして、洪水に立ち向かえる存在を白河天皇は控えさせていた。
この時点で無官となっている源義家である。白河天皇は源義家に救援支援を命じ、源義家は京都で集めることの出来る手勢を率いて被災地に向かった。
若い頃の藤原良房や藤原良相のように、朝廷からの命令がなくとも、自分の判断で、あるいは有力者の命令一つで災害に直面したら直ちに動ける存在というのは、消防や救急の設備が整っていない時代でもっとも早く行動できる人命救急の存在でもあった。
この、有力者の命令一つで自由に行動できるという点が、白河天皇にとっても、関白藤原師実にとってもありがたい存在とさせるものであったが、これを源義家の立場で考えるとどうであろうか? 命懸けの人命救助に対して何も無いのである。官職を与えられないことに対する結果である。これは使用者側にとってはありがたいものであるが、被使用者側にとっては厳しいものがある。そのようなとき、「これで頑張れば次がある」と考えて命令をこなすことを考えるのも一つの手だが、次が本当にあったケースは少ない。
源義家はこのとき、次があるとまだ考えていた。
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