承久之乱 2.和田合戦

 後世から見ると、幕府とは一つの政治機構であり、筆者がこれまで何度か記してきたような現在の政党に比する組織であるが、この時代の人達にとってはそうではない。

 そもそもこの時代に幕府という概念などない。

 今に生きる我々が鎌倉幕府と呼ぶ組織が登場したときも政治組織として誕生したわけではない。あくまでも上級貴族であれば誰もが保有する家政機関の応用で誕生した組織であり、この時代の人達は鎌倉幕府という組織が京都から遠い地に存在することを認識してはいても「幕府」という特別な名で呼ぶことはなかった。場所が相模国鎌倉であるという一点では特異であるものの、源頼朝という上級貴族の家政機関を、源頼朝の死後に同じく上級貴族となった源頼家が継承し、さらに源実朝が継承したという認識であった。源実朝は藤原摂関家の人間ではないため位階はまだ低いが、このまま行けば父や兄と同様に上級貴族の一員になることは確実視されており、後の世の人が鎌倉幕府と呼ぶことになる家政組織を一六歳にして統率していると見做されていたのである。

 その意味で源実朝は、九条道家と比類して見られることが多くなってきていた。父である九条良経の死によって九条家の当主となった上に祖父も亡くなった一五歳の九条道家と、父の急死に加えて兄の突然の病気のために鎌倉幕府のトップになった一六歳の源実朝とは何かと比べられる運命にあった。その上で、源実朝は九条道家と比べると少し影が薄いと見られるようにもなっていた。

 トップに立ってからの歳月は源実朝のほうが長いが、鎌倉幕府はゼロからの組織構築の過程であったのに対し、九条家には藤原摂関家としてのノウハウを積み重ねてきた過去がある。また、鎌倉から離れないでいる源実朝と違って九条道家は京都にいる。つまり、政務に対するインパクトとなると九条道家のほうがインパクト面で優位に立つ。実際、議政官における若き中納言九条道家の存在は徐々に大きくなっていた。父も祖父もいなくなったがゆえに意気消沈するのではなく、父も祖父もいなくなったからこそ自分が支えなければならないという使命感で九条家の存続を一手に引き受ける姿勢が高く評価されたのである。

 これに対し源実朝は、ここ数年のゴタゴタの影響もあって少し見劣りするように捉えられていた。特に京都の新たなスターとなってきていた平賀朝雅を死に至らしめてしまったこと、また、京都守護としての経験もあり源平合戦後の京都で存在感を見せつけた北条時政を追放したことは、源実朝個人にはいかに責任がないこととされようと、鎌倉幕府という組織に対する不信感を伴った上で、源実朝に対するマイナスイメージを植え付けるに十分であった。

 平賀朝雅の死はイメージ構築に対するマイナスであったが、北条時政がいなくなったことはイメージ構築だけでなく鎌倉幕府内部の政務処理においてもマイナスであった。源頼朝が健在であった頃は源頼朝の権威があまりにも強固であるため、属人性を考慮する必要もなかった。源頼朝が亡くなり源頼家が新たなトップに立ってはじめて属人性が露顕化したが、それでも問題なかった。しかし、一人、また一人と鎌倉幕府の主要人物が退場していったことで組織が停滞し、ついには北条時政もいなくなったことで諸々の政務が停止する光景すら珍しくなくなったのだ。中原広元や三善康信といった文人官僚が鎌倉にいるし、彼ら一人一人の事務処理能力は、京都の朝廷や院、貴族の家政機関に勤める文人官僚と比べても遜色ないものがあったが、組織を統轄するという点になると見逃せない問題が露顕したのだ。

 北条時政は武人として一流とは言い切れなかったが及第点ではあった。そして、文人官僚としての能力は申し分なかった。それに、何と言っても源実朝の実の祖父であるという点は北条時政の発言や行動を強く裏付けた。その北条時政がいなくなり、誰も北条時政の穴を埋めることができなくなっていた。

 ただ一人を除いて。

 その人物の名は、北条義時。

 時間が少し遡ることになるが、現時点で確認できる鎌倉幕府の発給書類のうち、北条義時単独の署名のある書類の最古は、元久三(一二〇六)年三月二九日に発給された「関東御教書」である。

 御教書(みぎょうしょ)とは三位以上の貴族に仕える者が主人の意思を奉じて発給する文書であり、この時点ではまだ三位以上の位階に到達していない源実朝の家臣達は御教書を発給する権利を有さない。しかし、北条義時は源実朝だけでなく源頼朝にも仕えていた過去があり、源頼朝の最高位階は正二位であるから、源頼朝に仕えていた先例を踏まえると北条義時は御行書を発給する権利を有している。

 それだけなら北条義時以外の者でも御教書を発給できるではないかとなるが、実際には北条義時ただ一人とまではいかなくとも、鎌倉幕府の御家人の中で御教書を発給する権利を有している数少ない者のうちの一人となる。

 どういうことかというと、北条義時は正五位下という低い位階ではあるものの、また、緊急事態に備えた結果であるにしても、相模守を務める国司でもある。つまり、鎌倉幕府の御家人であると同時に朝廷に仕える貴族でもあるのだ。

 何度か記しているが、政所というものは本来、三位以上の位階を持つ貴族でないと設置できない家政機関である。そして、この時点の源実朝の位階は従四位下であるため政所を置く資格を有していないこととなる。つまり、源実朝の位階が三位以上となって政所を置く資格を有するまでの間は、鎌倉幕府に仕える御家人でありながら貴族の一員とカウントされ、かつ、正二位まで務めた貴族に仕えてきた記録も存在する北条義時の署名があるからこそ、御教書が政所の発給文書に相当する文書であるという扱いとなったのである。

 北条義時はここにきて、父の穴を埋めるキーパーソンの座に名乗り出たのだ。

 源実朝の叔父であり、源実朝の実母の最大級の協力者であり、源頼朝挙兵時からの鎌倉方の一員であり、相模守も務める貴族の一員でもあるという一連の背景を積み重ねれば、北条時政の後釜としてどうにかなる。ただ、吾妻鏡を追いかける限りでは源平合戦からの北条義時についての足跡もそれなりに見えてくるのだが、それでも鎌倉幕府第二代執権の経歴としてはかなり弱いとするしかない。吾妻鏡以外の史料となると、そもそも北条義時についての記録自体が存在しない。ある日突然、源実朝の叔父が登場したといった感じだ。吾妻鏡以外の公式記録に限って言えば、元久元(一二〇四)年三月六日に従五位下相模守としていきなり北条義時こと平義時が登場する。北条時政の娘が源頼朝の妻であることは周知の事実であるから、北条時政の後継者として、北条時政の息子であり、かつ、鎌倉の征夷大将軍の叔父でもある四〇代の人物がいきなり登場したといったところか。

 それでいて、これまでの鎌倉幕府の御家人達の行動を追いかけると、多くの御家人が北条義時を選んでいることがわかるし、この後の歴史をおいかけても北条義時は常にマジョリティであることが読み取れる。鎌倉幕府の御家人達の足跡を追いかけると、北条義時と行動を共にすれば鎌倉幕府の内紛での勝者になれると確信しているかのようだ。仲間殺しや内紛は社会運動の通常パターンだと言ってしまえばそれまでだが、それでも最終的な勝者となったのには理由が存在する。

 そこで北条義時の人生を追いかけてみると、この人には独断専行が存在せず、行動する際には必ず周囲と協力して来たことが読み取れる。

 北条家によって編纂された後世の歴史書であるためにバイアスが掛かっている点を差し引いても、吾妻鏡に記されている北条義時の政務についての記載は北条時政と大きく異なる。北条時政の場合は北条時政の独断専行の痕跡が見えるのに対し、北条義時の政務は協議の末の行動である痕跡しかなく、北条義時の独断の痕跡が全く見えないのだ。北条義時が中心となってはいても、その周囲には必ず中原広元、三善康信、二階堂行光といった御家人たちが存在し、数々の決定がそうした御家人達との協議の結果であることが書き記されているのである。

 そのことがよくわかるのが北条義時の手による御教書の数である。北条時政の御教書は最低でも二六通が現存するのに対し、北条義時の御教書は贋作の可能性がある文書を含めても五通しかない。源実朝が昇叙して政所を設置するまでの間、御教書を発給する権利を有していたのは、北条時政が二年間、北条義時が四年間である。つまり、北条時政の倍の期間がありながら、北条義時は御教書の発給回数があまりにも少ないのである。

 歴史上、北条義時に対する悪評は多々存在したが、独裁という悪評は無い。そのような評価があったならば見当違いな悪評とするしかない。

 北条義時は独裁を望んでいたのに独裁を諦めたのではない。北条義時には最初から独裁という考えがなかったのだ。

 そもそも北条義時の権力の源泉は徹頭徹尾血縁によるものである。姉が源頼朝と結婚したおかげで源頼朝の身内になることに成功し、そのまま流されるように鎌倉方の一員として源平合戦を乗り切って鎌倉幕府の御家人となった。

 さらに言えば、源頼朝挙兵前の北条家の勢力は御世辞にも強力と言えるものではなく、北条義時が行使できる権力は北条家に由来するものではなく将軍家との血縁関係によるものしか無いのだ。北条時政は伊豆国の在庁官人の一人として朝廷組織に組み込まれていた人物であり、大番役として京都に赴いて勤務した経験があるため、北条家そのものの勢力は強くなくとも北条時政個人ならば伊豆国限定でそれなりに名のある人物とも言えたが、その息子となると本拠地である伊豆国においても無名とするしかなかったのである。しかもこの人は、途中まで北条家の後継者と見倣されてもいなかった。北条家から分かれて新たに誕生した江間家の人物であるとされ、途中までは北条義時ではなく江間義時と呼ばれていたほどだ。

 元々の勢力の弱い北条義時にとって、自分が何かしらの影響力を行使しようとすれば、姉を通じた血縁を利用して将軍家との近さをアピールしただけでは不足しており、他の御家人の協力を得なければ北条義時は自らの立場を失う。

 その意味で、鎌倉幕府においてより強い権勢を持っていたのは、北条義時ではなく北条政子であったと言える。将軍源実朝の実母であるだけでなく、彼女は実父の北条時政も追放し、実の息子にして先代将軍であった源頼家も追放した過去がある。しかも、この追放は鎌倉幕府という組織全体にポジティブな結果を残したのだ。一人の娘として、あるいは一人の母親として彼女を見たとき、その覚悟の前に誰が文句を言えようか。北条政子は父の追放も息子の追放も鎌倉幕府のためを思って遂行したのだ。

 それでいて、北条政子は気遣いを欠かさなかった。伊豆に幽閉した源頼家のもとに北条政子から書状が送られていたことは知られており、公(おおやけ)にはなっていないものの母として息子を気遣っていたことは多くの人の知ることとなっている。

 鎌倉幕府のために厳しい態度を示しながらも、プライベートでは母としての優しさを見せている北条政子のことを多くの御家人は敬意を持って接しており、その敬意は北条義時にも波及していた。しかも、北条義時は出しゃばるような性格ではない。あるいは、目立つことが自分にとってダメージになることを理解している。目立つことなく黙々と職務を遂行し、プライベートでは姉を支え、叔父として将軍と接する姿勢を取り続けることで、北条義時は自分の敵を作らせないことに成功したのである。


 中学あたりの歴史の教科書だと、鎌倉幕府のトップは誰であるかという表で、源実朝までは将軍がトップ、源実朝の死後は執権がトップであるとして列挙している教科書がある。そして、北条義時は鎌倉幕府第二代執権と記されている。

 と同時に、源実朝の将軍在籍期間と、北条義時の執権在職期間とは重なっていることは全く無視している。ついでに言うと初代執権としてカウントされている北条時政の執権在職期間が源実朝だけでなく源頼家の将軍在籍期間と重なっていることも無視している。これは多くの教科書で変わらない。

 つまり、そうした教科書の表に従えば、鎌倉幕府の草創期には同時期に二人のトップが鎌倉幕府に存在していたこととなるのだが、このことについて教科書などではあまり深く記さないでいる。記したとしても、源実朝は政務に関心を持たず和歌を詠む日々に明け暮れていたとか、この頃の鎌倉幕府の実際の政務は北条義時らの御家人達、あるいは実母の北条政子が司っていたという書き方になっている。

 しかし、こうした教科書の解釈は正しいと言い切れない。確かに源実朝は建永二(一二〇七)年時点でまだ一六歳である。若くして元服を迎えさせられたために表向きは大人という扱いになっているが、実際にはまだ少年だ。その少年を、源頼家だけでなく源頼朝と比較して捉えるのだから、どうしても見劣りしてしまう。ゆえに、鎌倉幕府の実務は北条家の執権が握っており、将軍は飾り物であったとする解釈の登場する余地もあるといえばある。

 実は、北条家に実権があるかどうかはともかく、この頃の源実朝は同時代の人達からも鎌倉幕府の理論上のトップではあっても実権まで有するトップであるとは見られていなかった。

 これは、比較対象が源頼朝であるという点に加え、同年代ということでどうしても九条道家と比べられてしまう宿命も無視できない。ただ、前者はともかく、後者はフェアではない。九条道家の属する九条家にはこれまで藤原摂関家の培ってきた摂政関白を育成するための帝王教育があるのに対し、鎌倉幕府内部にはまだ将軍育成のための教育など存在せず、若き源実朝をあるべき将軍へと成長させる教育は全くの手探りだったのだ。

 ゆえに、この時点の源実朝に対する評価はマイナスイメージを伴ったものであるという前提を考えねばならず、後世に生きる我々は、当時の評判ではなく、確認できる功績によって判断しなければならない。

 源実朝が和歌に耽溺したのはその通りである。新古今和歌集に感銘を受けたのもその通りである。しかし、この時代の和歌は貴族として必須の素養であり、梶原景時や、その息子の梶原景季のように、当時の貴族と互角に渡り合えるだけの和歌に対する造詣を持った武士も珍しくなかった。そして、源実朝の時代は他ならぬ治天の君たる後鳥羽上皇自身が和歌に耽溺している人物である以上、源実朝が和歌に深くのめり込むことはメリットこそあれデメリットの全く無いことであった。和歌への造詣を深めることを非難するのは、この時代の貴族に求められる素養を有さない者の悔し紛れの言葉でもあったのだ。

 さらに、この時代の鎌倉時代の文書を追いかけると、もっとも古くて元久二 (一二〇五)年の年末から源実朝の名前の署名のある文書が登場してくる。北条義時は御教書を発給する資格を有する一方、源実朝はまだ三位以上の位階を持つ貴族でないため政所を置くことができず、政所に由来する事務文書の発給はできない。しかし、鎌倉幕府内部に留まる文書ということであれば将軍源実朝の署名のある文書を発給できる。そのスタートは元久二 (一二〇五)年まで遡ることができ、建永元(一二〇六)年の年末には珍しくなくなっていた、すなわち、将軍としての職務を問題なく遂行するようになっていたと判断できるのである。


 和歌と源実朝との関係で特筆すべきエピソードが建永元(一二〇六)年一一月から一二月のこととして吾妻鏡の記録に残っている。

 東重胤という御家人が休暇を取って所領のある下総国に戻ったはいいが、それから数ヶ月に亘って音信不通になってしまったのだ。源実朝は東重胤に対して和歌を二首送った。鎌倉に戻ることを促す和歌である。これについても東重胤からの返信はなく、これに怒った源実朝は鎌倉に戻った東重胤との面会を拒否すると明言した。これが一一月一八日のことである。

 この知らせで慌てて鎌倉に戻った東重胤は源実朝との面会を求めるが、当然ながら源実朝からの返答は面会拒否というもの。これに困った東重胤は様々な手を尽くすがどうにもならず、一ヶ月以上を経た一二月二三日に北条義時に頼み込んで源実朝との謁見を用意してもらうも、北条義時からの頼みでも当初はうまくいかず、源実朝が和歌を送ってきたならば東重胤の側も和歌を送り返すべきであるとし、その場で詠んだ和歌を北条義時に託して源実朝に届け、源実朝は東重胤の詠んだ和歌の素晴らしさに感銘を受けて面会拒否を解除し、東重胤と面会して下野国の情勢を聞いたという。

 このあたりの記載はどこまで正しいかわからない。東重胤のエピソードは吾妻鏡に準拠しており、何と言っても吾妻鏡は北条家にとって都合良く編纂された歴史書である。

 東重胤の父親の東胤頼は歌人としての才覚も高く、東重胤が父から手ほどきを受けていたことは推測されるが、東重胤個人の記録を追いかけると建久六(一九九五)年から登場し、正治元(一一九九)年の梶原景時弾劾署名にその名が残されていること、この後のこととなるが滝口武者として京都に上洛していることから、単なる和歌の才覚だけではなく武人としての資質も高かった人物であると読み取れる。

 奇妙なのは北条義時がここに絡んでいるという一点である。

 東重胤が和歌の才覚のある人物であったことはその通りであろう。

 源実朝の和歌については言うまでもない。

 ただ、この二人の間を取り持つ人物が北条義時である必要性がどこにも無い。

 そこでこのような推測が立てられる。

 そもそもこのエピソード自体が、源実朝を和歌に耽溺する人物として描き、北条義時は御家人達と将軍との仲を取り持つ慈悲深き人物であったとして価値を高めるため、エピソードを捏造したのではないか、と。

 他の記録を追いかけてみても、吾妻鏡における源実朝の行動のうち、このときの行動だけ異質なのである。源実朝の若さからの暴走であった可能性は否定しないが、吾妻鏡だけを追いかけると、源実朝はこのときだけまるで別人になってしまったかのようだ。これは不自然に過ぎる。


 何度も記しているが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるものの、北条家にとって都合良く編纂されている歴史書でもあるために、信憑性という点で疑念を抱くべき記事が多々散見される。

 とは言え、全く信用ならない歴史書であるかと言われると、それも違う。同時代の貴族の日記をはじめとする他の資料と照らし合わせても完全に合致する、あるいは、京都と鎌倉とのタイムラグを考慮すれば納得のいくズレのある記録が見られることもあり、それらを踏まえると申し分ない歴史資料として通用することも珍しくない。

 その顕著な例が建永二(一二〇七)年の夏の記事である。

 同年六月の吾妻鏡は、六月だというのに三月か四月のような寒さであるという記録から始まるが、そのあとが不吉である。

 多くの者が病気がちになったというのだ。

 同種の記録は京都の貴族の日記からも読み取れる。藤原定家の日記によると建永二(一二〇七)年に四月三〇日に京都で大火があったことが記されているが、この大火はそれから始まる地獄のスタートでもあった。

 夏になると天然痘の流行が観測されるようになったのだ。

 さらに不穏な記録が六月二二日から六月二四日にかけて登場する。源実朝の義父にあたる大納言坊門信清からの使者が鎌倉に到着したのだが、その内容は不穏なものであった。

 紀伊国の民衆が高野山に入り込み、狩猟をし、さらには高野山金剛峯寺の年貢を奪っていったというのだ。しかも、この騒動を首謀したのが和泉国と紀伊国の守護を務める三浦義連の代官だというのだから穏やかではない。金剛峯寺は直ちに園城寺を通じ、さらに坊門信清を通じて、鎌倉幕府に対してこの騒動を止めるよう訴え出たのである。

 鎌倉幕府としてもこの訴えを受け入れないという選択肢はなかった。何しろ、三浦義連が亡くなったのちに、同職の後任を新たに任命していなかったのだ。つまり、守護が空席となっているところに守護の代官が勝手に民衆を率いて高野山に攻め込んでいったという図式になるのだが、これは単に代官を責めれば済む話でも、後任の守護を任命して派遣すれば済む話でもない。どうして攻め込んでいかなければならなかったのかを考えなければならないのだ。

 守護の代官を務めるパターンは二種類あり、一つは守護に任命された御家人の家臣のうちの誰かを任命して現地に派遣するというもの、もう一つは在地の者を任命するというものであり、三浦義連の代官を務めた者の名前を吾妻鏡は記していないことからも、今回の場合は後者であることが推測できる。

 すなわち、三浦義連とその上に君臨する鎌倉幕府を選ぶか、それとも地元の民衆の訴えを選ぶかという選択肢が示された場合、後者を選ぶ者が守護の代官であったのだ。

 なぜ後者を選ぶのか?

 それだけ生活が苦しいことを身近に感じているからだ。

 鎌倉幕府から派遣されているなら地元の声より鎌倉の意見を選ぶが、地元から選ばれたならば、耳を傾ける相手は鎌倉幕府ではなく地元の声になる。

 高野山に勝手に入り込んで狩猟をすることも、さらには高野山金剛峯寺の年貢を奪うことも、どちらも犯罪であることぐらい理解している。それでも犯罪に走らなければならなかったのは、それだけ生活が苦しいからだ。夏なのに気温が上がらないとなると、この年の収穫が期待できないことを意味する。それでも一年だけならどうにかなるかもしれないが、ここ千年間の年間気温の推移を調べる限り、低温は建永二(一二〇七)年だけではなく、前年も、前々年も起こっていることが読み取れ、収穫が満足いくものでは無かったことも読み取れる。つまり、六月ともなると、前年の年貢の支払いを終えた後の残りが乏しくなっていることが読み取れる。それだけでも一大事なのに天然痘の流行が重なったのだから、一家の働き手を失う者も現れるし、働き手を失わなかったにしてもこの年の収穫に大ダメージを受けること間違いないという家庭も現れる。こうなったときに実感するのは未来への絶望だ。それが犯罪だとわかっていても、生きるためには犯罪に手を染めなければならなくなる。生きるために犯罪に走ることを考えた者の意見を汲み取り、三浦義連の代官は自分が主導することで責任を自分が背負い、その代わりに和泉国と紀伊国の庶民が生きていけるようにしたのだ。

 高野山からの請願に対する鎌倉幕府からの回答は、和泉国と紀伊国の守護の地位を空席とし、その代わりに後鳥羽院の庇護を求めるというものであった。和泉国も、紀伊国も、ここ二百年ほどの一大レジャーとなっている熊野詣の経路にあたる国である。そして、後鳥羽上皇も熊野詣を嗜んでいる。その延長で、後鳥羽上皇に庇護を求めることで、鎌倉幕府はこの両国の統治から手を引くことを選んだのである。これにより、実情はどうあれ、名目上は鎌倉幕府の組織図に組み込まれている和泉国と紀伊国の守護の代官はその職を失うのだから、高野山としては請願に対する回答が示されたと納得するしかない。失われた年貢については諦めなければならないし、周囲の民衆の生活苦という問題が解決したわけではないので、一見すると鎌倉幕府はかなり無責任な回答を示したこととなるが、守護の本来あるべき役割である令制国単位での武力を用いた治安維持という点では、それまで守護たる三浦義連のもとに仕えていた武士達がそのまま現地に留まり続けるので、主君が守護から後鳥羽院に変わったものの、その役割を放棄してはいないとも言える。

 鎌倉幕府が提示したこの措置は後鳥羽院からしても悪いものではない。そもそも、令制国ごとに守護を、荘園毎に地頭を置き、その土地の治安維持を保証する代わりにその土地からの年貢徴収の権利を有するという仕組みであるものの、その仕組みで大ダメージを受けることとなったのは治安を乱す盗賊ではなく荘園領主のほうであった。源頼朝は律令に定められた税にプラスして鎌倉幕府への年貢を徴収するという構図を作りあげることで、荘園住民には減税をもたらしながら、鎌倉幕府の財源を確保するというミラクルを成し遂げていたのだが、それは荘園領主に対して年貢徴収を断念しろと言っているに等しい。この不満は極めて強く反発する向きも強かったが、鎌倉幕府相手に武力で抵抗するなどできない。できるのは、どうにかしてこれまで通りの年貢徴収を認めてもらうように鎌倉幕府に懇願することだ。そして、この懇願が受け入れられるケースは稀であり、稀であるがゆえに鎌倉幕府が行使できる特権でもあった。

 こうした恩恵は小出しにするよりも一度に大量に付与すると大きな効果をもたらす。しかも鎌倉幕府からの提示は個々の荘園領主ではなく後鳥羽上皇のもとへの権力委譲であるため、和泉国と紀伊国の二ヶ国限定ではあるものの、後鳥羽院に仕える身になるだけで鎌倉幕府に奪われた年貢徴収権を取り戻すことが可能となる。しかも、荘園の治安維持についてはこれまで通り鎌倉幕府の武士達が取り仕切っている。ただし、事実上はともかく理論上は院に仕える武士となるため、治安を乱す者があれば後鳥羽院の命令で鎌倉幕府の武士が動くこととなる。

 これは多くの貴族や寺社にとって、後鳥羽院のもとに仕える最高の理由となる。地頭が荘園に居座っているために、源頼朝以前とまでは行かないにしても、それまでのゼロ回答から、多少ではあるものの荘園からの収入を得られるようになったのである。

 当該地域の荘園住人としては増税になるので負担が増えるものの、鎌倉幕府からは後鳥羽院の熊野詣が移管の理由に挙げられているので黙るしかない。しかも、和泉国と紀伊国はこの時代の一大レジャーである熊野詣のルート上にある令制国だ。飛行機で目的地まで直行するなど存在しないこの時代、現在でいうところのインバウンド需要は目的地だけでなく経由地の全てが恩恵を預かることとなる。増税があっても特別収入が増えるならばトータルの収支はプラスになる。

 それに、建永二(一二〇七)年の夏は普通の夏では無かった。気温が低く例年通りの収穫が見込まれないことに加え、天然痘の流行も見られるとあっては、ここで守護を不在とし後鳥羽上皇のもとに移管することでインバウンド需要を増やすことを目論むのは統治者として許容できる内容であろうし、受け取ることとなる後鳥羽院としてもその理由は納得できる話である。

 ただ、この納得も限度がある。

 何であれ、これが最悪と考えられるのならば耐えられる。

 この年の夏は限度を超えてしまった。単なる冷夏ならまだしも、天災と人災が重なってしまったのである。建永二(一二〇七)年七月五日に安芸国の厳島神社が焼失したのをはじめ、七月九日には畿内で大風雨が暴れ回り、七月一九日には鎌倉でも暴風雨が吹き荒れ、死者を数えるまでになってしまった。ただでさえ天然痘に悩み苦しむ人が増えているところに加えてのこの仕打ちは、未来に対する絶望を抱かせるに十分であった。

 何かが起こっていると感じたとしてもおかしくはない。それも、人間がどうにかできるような何かではなく、人智を超えた何かが起こっていると感じてもおかしくない。しかも厄介なことに、それらは青天の霹靂ではなく、ここ数年の不安定の蓄積の末に発生している何かなのだ。暴風雨の被害を受けた田畑は数知れず、被害を受けなかったとしても冷夏のせいで満足な収穫を残さない。おまけに不作は前年から続いているのだから余剰などどこにもない。

 そのような世情のとき、現在では不可能でも、当時ならば可能な施策が一つだけ存在する。

 改元がそれだ。

 前年に改元したばかりではないかというのは改元を回避する理由にならない。この国に元号が導入されてから建永まで一一二の元号があるが、うち三九の元号が三年間以下しか続かず、二年未満で改元した元号も一三を数える。この時代の人達にとっての改元とは、現代人の感覚で言うと内閣総辞職と新内閣発足ぐらいの、大ニュースではあるものの珍しくもないニュースという感覚だ。

 平成から令和への改元は、改元があるという話が前年には既に決まっているだけでなく、新元号が改元の一ヶ月前に発表されるという異例づくしの改元であり、この時代の人達の改元に対する認識を知る際の参考にはならない。通常の改元は、噂程度は広まるものの、何の前触れもなく発表されるものである。

 その噂は一〇月二五日に成就した。

 建永二(一二〇七)年一〇月二五日、承元へ改元。


 無論、改元したところで天候が回復することもなく、天然痘が鎮静化することも無い。

 それどころか、改元後には鎌倉で天然痘が猛威を振るうようになるのである。

 吾妻鏡はこのあたりのことをぼやかして描いているが、承元への改元の少し前から源実朝が病気を理由に鶴岡八幡宮での催事を欠席していること、承元元(一二〇七)年の一二月には源実朝の病状回復を祈るための転読が行われたこと、年が開けた承元二(一二〇八)年の正月の儀式も源実朝の病気を理由に延期となり、延期の末の開催も北条政子が息子の代わりに参加したことを記している。

 それは何かをひた隠しにしているかのようであり、この時期に発給された幕府の文書を紐解いても、まだ従四位上であるために三位以上の位階を得ていないと開設できない政所の名を利用していることがわかる。北条義時の名による御教書ではなく、政所としての文書発給をしているのだ。政所の名による文書発給であるならば、最悪、鎌倉将軍が不在でも文書は発給できる。あくまでも三位以上の位階を持つ貴族が病気等の理由で文書に名を記せないという体裁にすればどうにかなるのだ。

 ただし、ここにはウラがある。

 政所発給の文書として確認できるのは後の日付の文書なのだ。建保四 (一二一六) 年八月一七日発給の文書の中に「去る承元元年十二月日当家政所下文」という記述があることから承元元(一二〇七)年一二月に政所発給の文書が存在していたことされるのだが、その実物は存在しないのである。

 文書の発給は一枚の紙を書き記せば終わりというわけではない。同じ内容の文書を二通用意し、一枚を渡して一枚を保管するようになっている。このようにして偽書を防ぐのが通例なのだが、保管する文書が残っていないのである。かといって、全くの偽書であるとは言い切れない。どういうことかと言うこと、承元二(一二〇八)年一月一六日に三善康信の邸宅が火災に遭ってしまったのだ。名越にあった三善康信は単なる邸宅ではない。三善康信の邸宅の中に三善康信個人の集めてきた文書や書き記してきた日記、問注所として下してきた裁判記録、さらには幕府公式の文書の控えも保管していたのである。

 その邸宅が焼けてしまったために、鎌倉幕府の公式な文書の多くが灰になってしまったのである。

 裏を返せば、その時点までに発給された鎌倉幕府からの文書のうち、政所としての文書発給について朝廷から咎められた場合、火災を理由に政所としての文書発給が偽書であると言い逃れできることとなる。無論、咎められなければ、本来なら許されざる政所としての文書が正式な文書として通用することとなる。

 鎌倉幕府に何かしらの異常事態が起こっていることをひた隠しにしていることを朝廷も後鳥羽院も察知していたようであるが、その詳細を掴めずにいた。

 事情は理解できていた。今の鎌倉幕府のトップに立てる人物は源実朝しかいないのだ。その源実朝が病気を理由に公式の場から姿を消している。これは何かしらの異常事態か起こっているとするしかない。

 鎌倉幕府が源実朝の病状を正式に公表したのは承元二(一二〇八)年二月三日のことである。

 源実朝、天然痘罹患。


 奈良時代の天平年間に日本中に広まった天然痘は、当時の日本列島の人口の三分の一を死に至らしめたという大災害であった。

 それから何度も天然痘は日本中で流行し、天然痘に罹患したことで命を落とす者、また、命を落とさなかったものの生涯消えることの無い痕跡に苦しむ者が現れた。それは日本に限ったことではなく世界中で見られたことであり、一九八〇年に世界保健機関(WHO)が根絶宣言をするまで人類は天然痘に苦しめられてきた歴史を持っている。

 現在でこそ根絶できた天然痘であるが、今から八〇〇年前は当たり前の病気であり、死を覚悟しなければならない病気でもあった一方、一度罹患すると、余程のことがない限り二度目の罹患は無いことから、天然痘の流行はだいたい三〇年ぐらいの間隔を置くことが通例化していた。一度流行して多くの人が免疫を身につけると天然痘の流行が止み、免疫を持つ人が亡くなる一方で新たに免疫を持たない子が生まれ、成人し、社会の中心を占めるようになった頃に再び天然痘が流行する。その繰り返しだ。そして、天然痘に罹患し、苦しみ、ある者は命を落とし、ある者は命こそ助かったものの自らの顔と身体にその痕跡を残すようになる。そうした人が数多く現れてしまうのを定期的に繰り返すというのが、ワクチンをはじめとする現代医学によって天然痘を押さえ込むことに成功するまでの人類の歴史である。

 話を承元二(一二〇八)年に戻すと、源実朝が表舞台から姿を消した理由が天然痘であった。命こそ助かったものの頻繁に高熱を繰り返し、源実朝の顔にはその痕跡が残ってしまった。しかも、天然痘は空気感染する感染症だ。この時代には細菌やウィルスといった概念など無いが、罹患した人に接して問題ないのは既に罹患したことのある人だけであり、未感染者は近づくだけで感染するという知識ならばあった。源実朝は表舞台から姿を消したのではなく、隔離されたのである。あるいは自ら隔離されることを選んだのである。

 そこには自らの顔に現れてしまった痕跡への苦悩もあったろう。何しろまだ一七歳の少年だ。いかに平均寿命の短いこの時代であろうと一七歳の少年の考える未来は五〇年から六〇年はあろう。それだけの長期間を顔に痕跡を残したまま過ごさねばならないのであるから、苦悩が消えるなど考えられない話だ。

 それに、天然痘の苦しみは自分だけではない。多くの人が感染に苦しみ、中には命を落とす人もいる。本人は無事でも家族は命を落としてしまったという人もいる。そうした人を生み出すきっかけとなるのが他ならぬ自分であるというのもまた苦悩以外の何者でもない。自分の命は助かっても自分のせいで誰かが命を落とすことになるなど、誰かが不幸を背負い込むことになるなど、とてもではないが耐えられるものではない。

 源実朝が表に姿を見せない理由を鎌倉幕府が公表したことで、誰もが全ての理由を理解し、納得した。鎌倉幕府は、承元二(一二〇八)年二月末までに源実朝の病状が回復したと公式に発表した。正確にいうと、二月二九日に源実朝の病状が回復したことを記念するための沐浴の儀式を開催した。天然痘の症状だけを考えると罹患してから回復するまでの期間として不都合な数字ではないが、それで何もかも元通りになったと考えていられるほど源実朝は能天気な人ではない。源実朝はそれからも姿を隠し続け、三月三日に鶴岡八幡宮で開催された奉納式は高熱を理由に欠席し、やむなくという形であるが、母の北条政子と妻の坊門姫が代理として出席している。


 源実朝が表舞台から姿を消したとして、鎌倉幕府は正しく運営できるのか?

 結論から言うと、可能である。

 鎌倉幕府はもともと、源頼朝に仕える者を束ねる組織として誕生した。それも、武士のトップではなく、上級貴族に仕える面々を束ねる組織として誕生した。武士を束ねる組織となると先例は存在しないが、上級貴族に仕える面々を束ねる組織ならば先例は存在する。武家政権ならば平家政権があるではないかと思うかも知れないが、平家政権にしても、武士を束ねた組織というわけではなく平清盛をはじめとする平家の公達が上流貴族として名を連ねるという、藤原氏を模した上級貴族達の集団であり、平家の武士達は上級貴族である平家の公達に仕える面々としてカウントされている。平清盛以外にも上級貴族としてカウントされる者が多かった平家政権と、源頼朝と源頼家の二人しか上級貴族としてカウントできない鎌倉幕府とでは大きな違いがあるが、それでも構造としては、まずは貴族が存在し、武士は貴族に仕える者とされている。

 そうした先例の中には、組織のトップにある貴族が亡くなってしまったために後継者をトップとしたがその後継者の位階が低いので先代の組織の継承に支障が出たという先例もあるし、組織のトップである貴族が病床にあったという先例もある。鎌倉幕府が特異であったのは京都ではなく鎌倉に根拠地を置いた点ぐらいであり、位階の低い源実朝が病床に臥していたとしても、他の貴族が積み上げてきた先例を利用すれば組織運営は可能だ。

 この後の吾妻鏡の記録を追いかけても、源実朝が表に出てきて何かをしたという記録がしばらく出てこない。それでいて、鎌倉幕府は組織として正常に機能している。

 また、天然痘の流行によるものかどうかを明記してはいないものの、多くの人が病気に苦しんだこと、そして、命を落とす人も多かったことを吾妻鏡は記している。前述の通り、天然痘というのは一度罹患したら、滅多なことでは二度目の感染を引き起こさない病気であることを踏まえると、天然痘が治癒した源実朝は感染症キャリアになってしまう。源実朝が出歩くだけで周囲の人を感染させかねないのだ。このようなケースのときは、いかに重要人物であろうと外出させずに閉じ込めておくというのが、この時代の人が取りうる、現在でも通じる対処法のうちの一つだ。

 また、源実朝の病状は完全に回復したわけではないことも読み取れる。吾妻鏡の承元二(一二〇八)年閏四月一一日の記録に源実朝が急病に陥ったこと、閏四月二四日になって病状が回復したことを記している。その間の様子は全く書き記していない。一〇日以上病状に苦しんでいるのに鎌倉幕府として何かしらの問題があったとは記していないのである。あたかも、源実朝の身に何かあろうと、鎌倉幕府は組織として健在であると内外に示すかのようである。

 よく読むとそうではないが。


 承元二(一二〇八)年閏四月一五日、京都で大火が発生した。近衛家実の日記によると、七条北東洞院辺で発生した火災はそのまま西へ北へと燃え広がり、北は四条大路、西は朱雀大路まで被災地域が広がっていたことがわかる。かつて平安京の貴族の邸宅と言えば四条大路より北であり、四条大路より南は庶民街が広がっているものとされていたが、院政期に貴族の邸宅が四条大路より南にも築かれることが珍しくなくなり、この頃になると平安京南部にも貴族の邸宅街が見られるようになったのであるが、そうした邸宅街が炎に飲み込まれ、被災者となった人には宣陽門院覲子内親王、前太政大臣藤原頼実、大納言徳大寺公継といった面々も名を連ねていた。

 これで二年連続の京都の大火である。前年は四月、承元二(一二〇八)年は閏四月と時期もほぼ一緒だ。片平博文氏が平成一九(二〇〇七)年に発表した論文「一二~一三世紀における京都の大火災」によると、この両年とも梅雨入り前の雨が降らない時期に迎えた大火であり、近年の天気図での同時期の京都とその周辺の天気図を見ると高気圧に覆われた日々が続いた後に梅雨入りとなっていること、そして、南東から北西に向かって風が吹く日々が続いていることがわかる。つまり、火災が発生しやすい気象に加え、延焼しやすい気象であることも読み取れる。ついでに言うと、その後の梅雨の大気の不安定さは単に雨の日が続くだけでなく、当時の貴族の日記を見ると、雹や雷雨に見舞われていることも読み取れる。

 天候の問題に加えて火災であるから、後者はともかく前者となると人間の力でどうこうなる話ではない。しかし、この知らせがどのタイミングで鎌倉に届いたのかを捉えると、少し穿った見識となる。

 閏四月二五日なのだ。

 京都から鎌倉まで、かつては片道半月を要していたが、源頼朝以降、半分未満の日数で情報のやりとりができるようになっていた。七日間ではなく一〇日間というのは、かつてに比べれば短いが、源頼朝以降という視点では長い。

 起こってしまった災害の知らせを鎌倉に伝える、また、気候の問題もあるために情報を伝える人馬の通行に支障が生じたことも考えられよう。

 だが、その翌日に鎌倉に伝わった知らせを考えると、何やら意図的なものを感じる。

 承元二(一二〇八)年閏四月二六日、すなわち京都大火の知らせが鎌倉に届いた翌日、西国守護の沙汰、すなわち鎌倉幕府としての九州地方一一ヶ国の対処方法についての問い合わせが京都守護の中原季時から届いたのである。この問い合わせについて中原広元、三善康信、二階堂行光、平盛時らが協議したことを吾妻鏡は記しているが、協議に参加した面々はともかく、タイミングを考えると源実朝の病状はかなり厳しいものがあったのではないかと考えられるのだ。


 源実朝が病気で倒れるところまでは、問題ないとまでは言わないにしても許容できる範囲である。しかし、源実朝がいなくなってしまったら鎌倉幕府はどうなってしまうのか?

 鎌倉幕府の権力の根幹は征夷大将軍であり、征夷大将軍に就任できるのは血統である。すなわち、熱田神宮の宮司の娘を母とする源頼朝が武の象徴たる征夷大将軍に就任することで壇ノ浦の戦いで失われてしまった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)とし、皇位継承に必要な三種の神器の一つを担い、換えの利かない正当性の土台とすることにある。

 もともと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮に奉納されており、三種の神器の一つとなっていたのは熱田神宮の作り出した形代(かたしろ)である。壇ノ浦の戦いで失われてしまったので作り直してほしいと熱田神宮に頼んだとしても、熱田神宮からは自分達の宮司の娘の血を引いている源頼朝とその子孫こそが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であると宣告されたなら、朝廷ですらどうにもならなくなる。

 しかも、征夷大将軍である。位階が低くても就任できる役職であるとは言え、朝廷のシビリアンコントロールを超えた独自の軍事行動が可能な人物である。常設武官の最高位である左近衛大将よりも低い扱いを受けたとしても、左近衛大将の指揮することが可能な軍事力などたかが知れている一方、征夷大将軍が動員できる軍事力はこの時代の国内最大勢力となっている。しかもそれは、征夷大将軍だから動員できる軍事力なのではなく、源実朝だから、厳密に言えば源頼朝の後継者であるからこそ動員可能な軍事力なのだ。一人一人の武人は源実朝に仕えている身であり、北条義時のように位階を得て朝廷官職に組み込まれているということになっている武人がいるとは言え、本質的には源実朝に仕える武人である。朝廷が源実朝に武力発動を命じたら源実朝の命令に従って軍を動かすが、朝廷が源実朝を無視して鎌倉幕府の個々の御家人に対して独自の武力発動を命じたとして、その後家人が源実朝を無視して朝廷の命令に従うだろうかとなると疑問符が付く。

 重要なのは源実朝の持つ正統性(レジティマシー)であり、いかに源実朝が若かろうと、ましてや戦場経験が皆無であろうと関係ない。源実朝が征夷大将軍として君臨しているからこそ、この時代の日本国内最大の武装勢力である鎌倉幕府は存続しているのである。

 しかし、ここで源実朝がいなくなったらどうなるか?

 組織存続の大前提が無くなるのだ。

 源実朝に男児がいればその男児が源実朝の後を継ぐことで組織を継続できるが、そのような男児などいない。考えたくはないその瞬間を迎えてしまったとき、鎌倉幕府という組織そのものが崩壊する。源平合戦時に源頼朝を選んだために鎌倉幕府の一員という社会の勝者になれ、鎌倉幕府の一員として従前では考えられなかった権利と資産を手にできた者も多い。そのような状況下で鎌倉幕府が無くなってしまったらどうなるか?

 源実朝の身に何か起こった瞬間に何もかもが破綻すると知って狼狽しない人がいたとすれば、そのほうがおかしい。

 組織の永続性(ゴーイングコンサーン)を考えるとき、現時点でトップの地位にある人の身に何かあったときの対処は絶対に欠かすことができない。そして、この時点の鎌倉幕府は永続性(ゴーイングコンサーン)に失敗している。源実朝の身に何かあったときの対処法を何ら考慮していない。

 吾妻鏡の承元二(一二〇八)年五月二九日の記事を読むと、事態の重要さも理解できるが、同時にどことなく安堵感に包まれたものも感じ取ることができる。京都からの使者に源実朝が面会したのだ。それまでずっと、病床にあった、あるいは、病床から復帰したもののまだ外出できない状況であるため、天然痘を広めないために面会を断るとしていた源実朝が、後鳥羽上皇からの使者に対してようやく姿を見せたのだ。なお、吾妻鏡によるとこのときにはじめて源実朝が古今和歌集の写本を手にしたとある。新古今和歌集ではなく古今和歌集であるというのは書き間違いではない。先に記したが源実朝は三年前に新古今和歌集の写本を入手しており、この瞬間を契機として源実朝は和歌に耽溺するようになっていった。それから三年を経ての古今和歌集の入手は、当時の貴族であれば誰もが基礎教養として暗唱できるほどに読み込んでいた書籍に、しかし、鎌倉にいる源実朝にとっては名前だけならば知っていても実物を目にすることのなかった書籍に、ようやく出会えたことを意味する。

 源実朝自身だけでなく、鎌倉幕府の誰もが、源実朝のことを貴族だと考えている。本来であれば京都の貴族の邸宅に住まいを構えて朝廷に出仕すべき身分の人が、鎌倉に居住して、それよりはるかに低い身分の人たちと接しているという構図で鎌倉幕府が成り立っていると、頭の中では考えている。しかし、頭の中では雲の上の人と理解していても、感情としては武士たちのボスとして身近にいてくれてもらいたい人と感じている。

 源頼朝も本質的には貴族であったが、この人は日本史上でも指折りの卓越した政治家である。自分の貴族趣味を隠さなかった代わりに、武士たちのトップであることを演じ続けてきたのだ。一人の武士としては貧弱でも、また、軍団を率いる指揮官としては愚将でも、政治家としての能力をいかんなく発揮して武士を束ねるボスとして完璧であり続けることに成功していたのだ。その甲斐もあって、平治の乱で一三歳にして貴族社会から追い出された源頼朝は、雌伏の時期を積み重ね、武士たちを束ねて平家政権に反旗を翻し、源平合戦の勝者となったことで貴族社会に復帰したことを、そして、源頼朝が官職と位階を手にしたことを、鎌倉方の武士達は心から祝福したし、貴族に復帰したことで隠すことのなかった貴族趣味に身を投じる源頼朝のことを誰も何も言わなかった。

 源実朝はその源頼朝の後継者である。それも、源平合戦の最中に生まれて武士たることも求められる人生設計が組まれた兄の源頼家と違い、父が貴族に復帰したのちに生まれ、武士ではなく貴族としての人生を歩むように求められたのが源実朝である。この時代の貴族とは政治家であり、貴族である人生を歩む宿命を背負った源実朝は、政治家としての人生を余儀なくされたと考えて良い。源実朝が貴族としての素養を学び、身につけ、貴族として振る舞うことも問題ない。それが鎌倉幕府の武士達の要望を全て実現させることになるか否かは別の話であるが、背後に一人の人物が見えてくるとなると別の話でもなくなる。

 そう、後鳥羽上皇という人物が。


 伊豆で流人生活を送っていた源頼朝が京都の情報を定期的に得続けていたことは何度も記してきた通りである。ただし、源頼朝が獲得していた情報はあくまでも私信であり公的なものではない。

 この情報連携システムは鎌倉幕府が成立した後も継続していた、いや、さらに発展していた。片道半月、往復一ヶ月というのが流人時代の源頼朝の頃の情報伝達速度であり、源頼朝は半月前の京都で入手できた情報に接するのが精一杯であったのだが、鎌倉幕府成立後、情報伝達速度は格段に向上し、片道七日、往復半月にまで短縮されている。それでいて、情報伝達ルートはより多く構築されたため、情報の速さだけでなく正確性についてもかなり向上している。

 この情報のやり取りについて調べてみると、奇妙な点が見えてくる。

 それがいつのことかはわからないが、気づいたら後鳥羽上皇がこの情報伝達システムに組み込まれるようになっていたのだ。あるいは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の情報伝達システムを利用して逆に鎌倉の情報を入手したとも言える。情報伝達というのは一方通行ではない。例外はあるものの基本的には双方向だ。京都の情報が鎌倉まで伝わるのに七日で完了するならば、鎌倉の情報が京都まで伝わるのも七日で可能という話になる。

 それも、情報のやり取りに用いるのは書状である。現在、特定の人に向けて送られたeメールは何らかのハッキングをしない限り、受け取った本人しか中身を読むことができない。これは技術的なものである。一方、この時代の書状も現在のeメールと同様に宛名の人しか読んではならないことになっているが、技術的なものではなく約束事である。書状を畳んで封をしたなら、その封を剥がしてしまえば誰でも読めるとはいえ、それは犯罪。封を堂々と剥がしていいのは宛名の本人だけである。ただし、送られてきたeメールを転送することがあるように、封を剥がした書状を他の人にも読ませることもまた可能なのだ。

 考えてみていただきたい。後鳥羽上皇と源実朝との間の書状のやり取りを。

 元からして趣味人である後鳥羽上皇が自身の趣味に関する書状を源実朝に送り、源実朝は後鳥羽上皇の期待に応える。遠く離れているために互いに面識はないものの、互いに互いを必要とする関係が構築されているときに、趣味を通じた私信であっても関係を持つことはメリットが大きい。

 公人が公人に送る書状である。いかに私信であろうと、その書状はかなりの可能性で宛先だけでなく、すなわち源実朝だけでなく、鎌倉幕府の面々も目にする書状になる。書状の内容がいかに趣味の範囲の書状であろうと、政治的な思惑は必ず伴う。源実朝が後鳥羽上皇の趣味に同調し、鎌倉の地で模倣することは、後鳥羽上皇にとっても、源実朝にとっても、そして鎌倉幕府全体にとってもメリットの大きなことであった。源実朝は後鳥羽上皇の院政を支持し、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を暗に示すことができる。源平合戦で寺社勢力が弱まっていたのが徐々に復活してきたこともあり、後鳥羽上皇の元に鎌倉幕府というこの時代最大の軍事組織が控えていると示すことは、寺社勢力に対する何より大きな圧力となるのだ。

 先に、吾妻鏡の承元二(一二〇八)年五月二九日の記録として源実朝のもとに古今和歌集が贈られたことを記したが、実はこの日の記録はもう一つある。記録の量だけでいえばこちらの方が多いほどだ。

 この日の記録として、後鳥羽上皇のもとで大規模な競馬(くらべうま)や流鏑馬が開催されたことが残されているのである。なお、実際に開催したのは五月九日のことであり五月二九日のこととして記録に残っているのは、この時代としては異例の遅さで鎌倉に情報が届いたからであろう。もっとも、時間をかけているだけに競馬(くらべうま)や流鏑馬の勝敗の記録が細かく残っている。

 後鳥羽上皇はこの時代の皇族としては珍しく武芸への造詣も深い人であった。そして、それらの武芸の多くはこの時代の武士達にとっては鍛錬の一つであり、そうした鍛錬を趣味として嗜むことは歓迎こそすれ、嫌悪感を抱かせるものではない。鎌倉幕府の御家人達にとっては、自分たちの武芸鍛錬にも理解を示してくれる上皇様として敬愛の視線を向ける対象となった可能性が高く、その上皇様と繋がりを持つ将軍源実朝についても敬意を深めることになったはずである。

 しかし、ここには二点、注意すべきところがある。

 一点目は吾妻鏡には記されていないが、院政の歴史において重要なランドマークが失われたこと。

 二点目は参加した武士達が誰なのかという点である。

 一点目のランドマークについては後述するとして、二点目より先に記すと、参加したのは西面武士なのだ。

 後鳥羽上皇の創設した西面武士は、白河法皇以来の北面武士のように正式な朝廷官職と結びついているわけではなく、あくまでも後鳥羽上皇個人の身辺警護のための武士集団である。たとえば検非違使として鎌倉幕府の御家人を朝廷が雇う場合は鎌倉幕府の許可が必要である。何しろ征夷大将軍とは軍事行動中の指揮官という位置づけであり、征夷大将軍に仕える武士に朝廷の官職を付与して朝廷の政務の一端を担わせるというのは、軍事行動中の司令官のもとから武人を引き抜くこととなるのである。通常の指揮官であれば朝廷の命令を受け入れるしかないが、征夷大将軍はシビリアンコントロールの枠外にあり、軍事行動中の征夷大将軍は朝廷の命令に従う義務などない。そのため、北面武士や検非違使として鎌倉幕府の御家人を採用する場合は鎌倉幕府の許可が必要となるし、北条義時のように位階授与や国司任官となった場合は、それが事後承諾であろうと、鎌倉幕府の許可を必要としている。

 しかし、西面武士は違う。後鳥羽上皇個人の身辺警護であり、あくまでも私的な頼み事なのだ。鎌倉幕府の御家人であることと西面武士であることが両立可能なのである。

 さらに、西面武士には鎌倉幕府の御家人ではない武士も含まれている。競馬(くらべうま)や流鏑馬の参加者として吾妻鏡に残されている面々の名を見ても素性不明な者が多い。鎌倉幕府の御家人達のうち京都駐在の者もいたであろうが、鎌倉幕府とは距離を置いた武士もいたのだ。

 鎌倉幕府の成立は日本中の全ての武士が鎌倉幕府に仕えるようになったことを意味しない。多くの武士が源頼朝に臣従し、源頼家に、源実朝に臣従するようになったが、鎌倉幕府と距離を置いた武士も多くいたのだ。源平合戦で源平のどちらにも与しなかった武士もいたし、平家の一員として戦い、討ち取られはせず許されたものの、勢力を大きく失った武士の子孫もいる。源平合戦からの年月が経てば経つほど、本人は、あるいは子孫は、社会における立場が悪化し続ける一方だ。都に上って検非違使になる、あるいは北面武士になることを試みても、鎌倉幕府の視線から逃れることはできない。できたとしても鎌倉幕府の御家人である武士との間には大きな格差が生じる。だが、西面武士になれば失った立場が一変する。鎌倉幕府の御家人であろうがなかろうが関係なく扱われる。西面武士は北面武士よりも朝廷官職における立場は弱いし、ましてや検非違使のように正式な朝廷の官職を得るわけではない。だが、権勢ならば十分に獲得できる。

 開催場所も新日吉社であるので、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の御家人達に選手として出場するよう要請したのではなく、彼らは西面武士として新日吉社の神事に参加し、後鳥羽上皇は皇族として参列したに過ぎない。しかし、このインパクトは無視できるものではない。

 後鳥羽上皇が鎌倉幕府に頼らない独自の軍事力を作りあげつつあるのだ。


 後述するとした院政の歴史における重要なランドマークの消失についてであるが、その記録は吾妻鏡に記されていない。吾妻鏡の編纂者は記すまでもないことと扱ったのかもしれないが、院政の歴史を考えると重要なことであった。

 それは何か?

 承元二(一二〇八)年五月一五日に法勝寺の九重塔が落雷で焼失したのである。

 白河法皇が鴨川東岸の白河の地に法勝寺を建立し、この時代の京都における最高峰建築物である九重塔を法勝寺の境内に設けたことは、京都に住む全ての人に白河法皇の有する権力を意識させるに十分であった。

 九重塔の誕生まで、京都最大の権力、イコール日本最大の権力が存在するのは内裏であり大内裏であり、平安京に住む多くの人にとっては住まいの北を仰ぎ見ることを意味していた。そもそも北部が貴族街で南部が庶民街という計画で作られたのが平安京という都市であるため、平安京に住む庶民は北を仰ぎ見るのは当然のことという認識があった。

 その認識を破壊したのが白河法皇である。平安京の区画外ではあるため桓武天皇の基本設計から逸脱せず、それでいて平安京から目と鼻の先にある場所に、平安京に住む人なら意識せざるを得ないランドマークとなる巨大な高層建築物を建立したことで、従来の権力とは異なる存在が誕生したことを意識させるのに成功したのだ。

 一度誕生した意識は、鳥羽院政、後白河院政を経て、後鳥羽院政に続く。上皇や法皇は内裏に入ることが許されず、内裏から離れた場所に住まいを置くものの、院からは内裏に対する目が常に向かい続けているとほとんどの人は理解している。その理解を生み出す最大のシンボルとなっていたのが法勝寺の九重塔であり、平安京で生活しているならば否応なく目に飛び込んでくる法勝寺の九重塔を目にするたびに、平安京に住む人は、この国には院という朝廷とは違った別の権力があるのだと実感する日々を過ごすこととなる。

 ただし、過去三例の院政はそれぞれが独立した権力であり、後鳥羽院政もまた独立した権力である。たとえば、源頼朝が亡くなって源頼家が、そして源実朝が地位を継承しても鎌倉幕府という組織にいる者は同じ者であり、鎌倉幕府という組織そのものも続いている。しかし、院政はそのような繋がりなどない。院が薨去した瞬間に院司は全員が院における職を失い、新たな院に雇われることとなったとしてもゼロから雇われ直すという形式である。実際には前職と同じ職にそのまま就くことも珍しくなく、その待遇も同じか、あるいは前任者より上回っていたが、理論上は、院が変われば全てリセットされる。鳥羽院政も、後白河院政も、そして後鳥羽院政も、組織としてはゼロからの構築である。

 その一方で、これまでの院が構築してきた権力構造を利用することもある。そのうちの一つが法勝寺の九重塔であった。元暦二(一一八五)年七月九日に発生したマグニチュード七・四の巨大地震によって法勝寺は大打撃を受け、多くの建物が倒壊したが、大ダメージを受けながら倒壊はしなかった九重塔の存在は、院政という権力がこの国に存在することを意識させ続けるに十分であった。

 その九重塔が、落雷で焼失した。

 九重塔が視界から消えたことは、平安京内外に住む人に後鳥羽院政の存在に対する暗い影を感じさせることになってしまったのである。


 天然痘を乗り越え、病床から復帰し、後鳥羽上皇の趣味に同調することで朝廷権力を自身の背景に加えることに成功した源実朝は、政治家としての活動を徐々に強めていくこととなる。

 鎌倉幕府というのは朝廷組織のどこにも存在しない、いわば民間組織、現代風の感覚で捉えると、冒頭でも述べたように、また、平安時代叢書を通じて何度も述べてきたように、政党である。ただし、この組織は絶大な軍事力を保有している。しかも、朝廷から距離を置いた独自の軍事行動をとることが合法である。政党が軍事力を保有するというのは民主主義国に住む人だと感覚として掴めないかもしれないが、中国の人民解放軍は国家ではなく中国共産党の軍隊であるし、そこまでいかなくとも、第二次大戦までナチスが保有していた突撃隊や親衛隊といった軍事組織だって存在していた。日本国内に目を向けても政党が暴力性を持つことは多々存在していたし、今でも非合法ながら政党の暴力組織は存在しているとも言える。

 話をこの時代に戻すと、鎌倉幕府の有する軍事力は非合法どころか合法である。厳密に言うと、鎌倉幕府の軍事力が合法であるというより、征夷大将軍源実朝の有する軍事力が合法である。征夷大将軍はシビリアンコントロールの枠外の軍事行動を許されている職務であり、征夷大将軍が独自に編成した軍事組織の行動について朝廷は口出しが許されないというのがこの時代の法制上の位置づけだ。

 これは鎌倉幕府に限ったことではないが、人が力の権力に求めるのは、自らの身の安全である。犯罪を未然に防ぎ、犯罪が起こったら身を守ってくれると同時に犯罪者を処罰してくれることを望んでいる。幕府についてはこれまでにも何度か、三権分立のうち司法府と行政府が強く結びついている権力であると書き記した。立法府と行政府が強く結びついて現在の議院内閣制が成立しているのと同様に、司法府と行政府を結合させた権力が幕府であると考えると、色々とわかりやすい。

 そして、この時代に警察と検察の分離はない。さらに言えば、裁判も警察や検察と結びついており、それらの全てを幕府は包含している。ここまで重なると、鎌倉幕府に守ってもらえるという安心感を与えることが鎌倉幕府の存在価値となり、その安心感を得られないとなると鎌倉幕府の存在意義にかかわる話となる。

 庶民には到底太刀打ちできないような犯罪があったときに、庶民に代わって庶民感情を満足させてくれること、時代劇のように悪事をなす悪人を懲らしめる勧善懲悪が実現されることを、鎌倉幕府は求められている。そのことを源実朝は、そして、鎌倉幕府の面々は理解しているし、その機会を逃そうとはしない。わかりやすい悪を見つけて、悪を喧伝し、悪を懲らしめる機会を用意し、懲らしめる瞬間を多くの人の目に見せつけ、その様子を広く宣伝する。

 吾妻鏡の承元二(一二〇八)年七月一五日の記事はわかりやすい例だ。

 この日、威光寺の僧侶である円海が鎌倉までやってきて被害を訴え出たのである。狛江入道増西という僧侶の率いる五〇名ほどの集団が前月二六日に威光寺の領地にやってきて、収穫前の稲を刈りとってしまうという騒動があったというのだ。威光寺という名の寺院は現存していないが、川崎市多摩区にある妙楽寺が長尾山威光寺跡であるとされているので、川崎市多摩区の寺院と東京都狛江市の僧侶らとが争ったということとなる。

 円海の訴えが真実であるならば、威光寺は一方的な被害者ということとなる。しかし、円海がこのタイミングで鎌倉までやってきたのは威光寺の主張を訴えるためだけではない。まさに増西が鎌倉にいることを把握しているからこそ、円海もまた鎌倉までやってきて鎌倉幕府に訴え出たのである。

 訴えがあり、当事者が双方とも鎌倉にいることから、円海と増西の両名が源実朝の前まで呼び出された。裁判には、刑事訴訟と民事訴訟とがある。そして、犯罪があったときに犯罪者を法に則って処罰する刑事訴訟と並行して、犯罪被害者が加害者を訴え出る民事訴訟が起こされることも珍しくない。場合によっては、刑事で不起訴でも民事訴訟を起こすということもある。このときの訴えは、構図としては民事訴訟であるが、源実朝は刑事訴訟も踏まえた審理をすることにした。

 何度も記しているが、幕府というのは司法府と行政府とが結合した組織であり、将軍には行政だけでなく司法も求められる。源実朝は双方の主張を聞き、内容を調べた上で、円海の主張には間違いがないこと、すなわち収穫前の稲が刈り取られるという犯罪があったことを認めて増西を有罪とし、図書允清原清定の監視下のもと永福寺に預けられることとなった。

 この裁判は公開されており、鎌倉幕府はたとえ相手が誰であろうと、それこそこの時代であれば法の枠外とされることすらあった僧侶が相手であろうと、公平公正な裁判をして処罰するという姿勢を見せたのである。

 増西は狛江入道とも呼ばれている人物であることから、現在で言う東京都狛江市の僧侶だったことは窺える。ただし、どの寺院に所属していた僧侶なのかは明確にされていない。あるいは、そもそもどの寺院にも属していなかった可能性もある。それでいて五〇名ほどの乱暴者を集めることができたというのだから、増西は僧侶の集団を率いていたというより現在で言うところの反社集団を率いていたとも言えよう。もっとも、この時代は僧兵と化した僧侶達が暴れ回っていた時代でもあるので、僧侶の集団であることと反社集団であることとが重なることは珍しくないし、法の枠外とされることがあるだけに普通の反社集団よりタチが悪い。

 その反社集団と威光寺との間でどのようなイザコザがあったかわからないが、反社集団が言いがかりをつけ嫌がらせをするのは世の常であり、収穫前の作物を刈り取るというのは最上級の嫌がらせでもある。

 その嫌がらせを正式に認定して反社集団を処罰するとなれば、鎌倉幕府として最上級のアピールとなる。


 後鳥羽上皇と源実朝とは面識が無い。

 後述することになるが、源実朝はその一生を鎌倉とその周囲で終えたため、生涯に亘って後鳥羽上皇と顔を合わせることが無かった。

 しかし、間接的な面識ならば、承元二(一二〇八)年一〇月から一二月にかけて成立した。

 北条政子が熊野詣に出向いたのである。

 吾妻鏡の記載によると、北条政子が鎌倉を出発したのは一〇月一〇日のことであり、京都に到着したのは一〇月二七日であることも吾妻鏡に記録されている。なお、北条政子が一人で熊野詣に出向いたわけではなく、北条時房が同行している。

 吾妻鏡は北条政子が御宿願のために熊野詣に出向いたことを記しているが、その宿願の内容については吾妻鏡に記されていない。ただし、同時代史料でもある愚管抄に宿願の内容が記録されている。源実朝に男児が生まれることを願ったのだ。

 まだまだ源実朝は年若い。現在の学齢で言うと高校一年生だ。しかし、この時代はその年齢で子がいることが珍しくもなく、結婚してからの時間経過を考えても、そろそろ源実朝に子どもができてもおかしくない。それなのに、源実朝の妻には妊娠の兆候が見られないのだ。

 北条政子にしてみれば、宿願成就のために熊野詣に出向いてでも源実朝の後継者である男児が生まれてくれなければ困るというのはわかる。源頼家の子で源実朝から見れば甥である善哉を猶子としたが、後に公暁と呼ばれることとなるこの男児は基本的に寺社の中に閉じ込められており、鎌倉幕府の者の中にこの男児を源実朝の後継者と見做している者は少ない。ただ、それだけが理由というなら焦り過ぎではないかとも感じる。

 北条政子は征夷大将軍の後継者を求めていたが、源実朝は数えで一七歳、満年齢で一六歳の少年である。まだまだ未来は長く、それがいつのことになるかはわからないが、源実朝のもとに男児が生まれる未来がやって来る。このときの北条政子の行動は、愚管抄にあるように我が子に孫が生まれることを願う母の焦りだけが理由とは思えない。

 源実朝のもとに男児が生まれることを願う母親が熊野詣に出かけるという、誰もが理解できると思われる表向きの理由の裏で、もう一つの理由が考えられるのだ。

 北条政子が京都に行くことそのものである。鎌倉から熊野詣に出かける場合、最短距離で考えれば尾張国から伊勢国を経て紀伊国に向かうのが一般的なルートであるが、このときの北条政子は一〇月二七日に京都に到着している。つまり、熊野詣のためだけに鎌倉を出発するのではなく、熊野詣を名目として鎌倉から京都に向かい、京都から熊野詣に出向いている。熊野詣は京都に向かう名目であり、本当に熊野詣に出向いたのはアリバイ作りが目的であったとすべきなのだ。


 北条政子が京都に出向いたことで得られるメリットは三つある。

 一つは後鳥羽上皇と面会すること。本来であれば無位無官の北条政子が後鳥羽上皇に会うなど許されないのだが、夫も長男も正二位まで登り詰めており、次男もそう遠くない未来に父や兄と同じ地位、さらには、父や兄より上の地位に昇る可能性が高いとなると、京都としても北条政子のことを無碍に扱うことはできなくなる。

 また、後鳥羽上皇と源実朝の間の私的な書状のやりとりとのことは周知の事実であり、私的な書状のやりとりをしている人物が直接会いに来ること自体は不可解ではない。その上で、当事者が天然痘に罹患してしまったために今もなお外出できないので、母が息子に代わって会いに来たという体裁であれば納得できる理由となる。

 ここで後鳥羽上皇との私的な接点をより強固にすることは、源実朝個人だけでなく鎌倉幕府にとって大きな意味を持つ。

 メリットの二つ目であるが、京都在中の鎌倉武士達と顔を合わせることがある。彼らのもとに北条政子が会いに来てくれるというのは、京都在中の御家人達の忠誠心を鎌倉幕府につなぎ止め続けやすくなる。ただでさえ後鳥羽上皇が西面武士の武力を強固にしつつあり、鎌倉幕府の御家人達は後鳥羽上皇に引き抜かれてもおかしくない状況であったのである。ここで北条政子が京都まで出向いて御家人達に面会することで、亡き源頼朝のことを思い出させ、鎌倉幕府への忠誠心を湧き上がらせることができる。

 そして最後のメリットが、京都の貴族たちとの接点の構築である。

 北条政子は鎌倉幕府の重要人物であることは間違いないのだが、この人に貴族的素養は全く無い。人生で貴族的教養を積む期間が無かっただけでなく、貴族的素養を必要とする場面がこれまでなかったのだ。

 北条政子の上洛はこれが人生初ではない。しかし、前回は北条政子の横に源頼朝や北条時政がいた。源頼朝は超一流の政治家であり、また、貴族的素養という点でも京都の貴族達と互角に渡り合えてきた人物である。北条時政は源頼朝のような超一流の政治家というわけではないが、京都の貴族達と渡り合ってきた過去がある。そうした人達が隣にいる状況下であれば、貴族としての教育を全く受けてこなかった北条政子であってもどうにかなる。

 ところが今回は、北条時房が帯同してはいるものの、基本的には北条政子の単独行動である。普通に考えれば北条政子は京都の貴族達と渡り合うのはかなり困難である。京都の貴族というのはなかなかに意地が悪く、あの手この手でマウントをとって他者を見下そうとする。北条政子は平氏の血を引いてはおり、末席ではあるが貴族社会の一員に列せられる生まれであるが、その程度の生まれの者は、伊豆国であれば稀少と扱われても、京都ではかなり格下に扱われる。その扱いを覆す要素となるのは、貴族であれば身につけておくべき素養を身につけているか否かであるが、前述の通り北条政子に貴族的素養は全く無い。

 本来であれば北条政子はかなり厳しい態度を取られるはずである。あるいは、そもそも貴族達と会ってくれることもないはずである。

 しかし、北条政子はそうではなかった。この人にマウントは通用しないのだ。貴族的素養の欠落を突く嫌味など、北条政子には通用しないし、通用してしまったら今度は北条政子の怒りを買うこととなる。

 忘れてはならないのは、鎌倉幕府がほぼ全ての令制国に守護を、全国各地の荘園に地頭を配置し、年貢納入先を荘園所有者である貴族ではなく所領保有者である武士にさせたことである。源頼朝が実施した、鎌倉幕府にとっては増税、荘園住民にとっては減税という政策は、荘園所有者である貴族に大打撃を与えていた。その大打撃を乗り越える方法とは、貴族達が手を取り合って鎌倉幕府に対抗するのではなく、他の貴族を出し抜いて鎌倉幕府に接触し、全面的に、あるいは一部にせよ年貢の納入先を元に戻してもらう特例を得ることである。

 そして、鎌倉幕府における北条政子の存在の大きさは知らぬ人のいない話である。

 貴族の側にしてみれば、会いたくないと思っても、北条政子の胸先三寸で失ってしまった荘園からの収益の復活が可能となると、どんなに悔しさを滲ませようと貴族のほうから北条政子のもとに出向いて面会を申し込むしかなくなる。プライドにこだわっていたら貴族としての生活ができなくなるのだ。


 北条政子は鎌倉幕府のキーパーソンである。無位無官の一庶民であるという建前はあっても、鎌倉幕府の創設者の妻にして、現在の鎌倉幕府のトップである人物の実の母であるというのは、どうあろうと無視できる要素ではない。

 ただし、それと北条家全体が鎌倉幕府におけるキーパーソンであることとは必ずしも一致しない。

 現在から見れば鎌倉幕府の歴史の四分の三は北条家の歴史なのだが、承元二(一二〇八)年時点での北条家は、鎌倉幕府の重要人物たる北条政子をはじめ、北条義時や北条時房、失脚した北条時政といった人物を擁する有力集団であるものの、鎌倉幕府を取り仕切るほどの集団とは見做されていなかった。

 北条家に匹敵する存在であったのが三浦家である。三浦家は苗字が三浦である者だけで構成されているわけではない。岡崎、杉本、土屋、佐原、そして和田といった苗字の面々も三浦家を構成している面々である。

 その中でも三浦義村と、侍所別当の和田義盛の両名は鎌倉幕府の重要人物の一角を構成しており、特に和田義盛は侍所別当として幕府の人事権に強い影響力を与える人物であった。

 ここで勘違いしやすいのが、北条義時は承元二(一二〇八)年時点ではまだ政所別当の役職を務めていないことである。後世の執権職の誕生から遡る形で北条義時を鎌倉幕府第二代執権とし、執権就任を北条時政失脚と同タイミングとする意見もあるが、実際にはまだ北条義時が鎌倉幕府第二代執権であるとは言いがたい。鎌倉幕府の執権は政所別当と侍所別当の二つの職務を兼任することによって発生する鎌倉幕府内部の権力であり、この時点の北条義時は、そのどちらの職務も手にできていないのだ。

 無論、相模守の役職と従五位上の位階を得て朝廷組織図上の貴族に列せられている北条義時が無力な存在であるとは言えない。何しろ北条義時は、この時点の鎌倉幕府における御教書発給の権利を有する数少ない人物だ。だが、実際に北条義時が御教書を発給した枚数を考えでも、この時点の北条義時は、組織図上、鎌倉幕府の重要ポストに就いているとは言いがたいのである。姉が源頼朝の妻であり源実朝の実母であることが北条義時の権力の背景であり、北条義時個人の権勢が鎌倉幕府を支配しているとは言いがたい状況であったのである。

 また、何度も記しているようにこの時点の源実朝は政所を設置する権利を有していない。そう遠くない未来に政所を設置できる要件である従三位以上の位階を獲得することが有力視されていることと、亡き父や亡き兄が政所設置要件の位階を満たしていたことから、そうした上級貴族の家系の者が父や兄を継ぐまでの間、本来であれば四位以下の貴族のための家政組織である公文所を、事実上の政所として機能させることはできた。ただ、どんなに事実上の政所であるとは言え、公文所と政所では行使できる法的権限に大きな違いがある。

 京都基準で考えると数多くの貴族の一人であるが、鎌倉においては数少ない貴族の一人である北条義時と、貴族としてカウントされてはいないが侍所別当として幕府内の人事権を掌握している和田義盛、そして、その背後でもある北条家と三浦家、この両者のパワーバランスは拮抗しているがゆえに安定しているが、いつ壊れてもおかしく安定とも言えたのである。


 承元二(一二〇八)年一二月二〇日、熊野詣より北条政子が戻ってきた。

 と同時に、源実朝に一つの知らせが届いた。

 一二月九日に正四位下に昇叙したのである。

 これで政所設置要件である従三位まであと二つ、といきたいところであるが、実際にはあと一つである。

 どういうことかというと、正四位上という位階はほとんど使われなくなっていたのだ。貴族として位階を一つ一つ積み上げている者が正四位下まで昇り詰めた場合、かなりの可能性で正四位上を通り越して次は従三位に昇叙することとなる。

 つまり、朝廷は源実朝をそう遠くない未来に従三位以上に昇叙させることにすると表明したのであるが、これを鎌倉幕府の組織図で考えると簡単な話ではなくなる。

 何度も繰り返すこととなるが、政所が復活するのである。

 源実朝が征夷大将軍に就任してからこれまで、鎌倉幕府の文書発給は公文所が担当していた。事実上の政所の職掌をこなしていたとは言え、公文所の発給する文書と政所の発給する文書とでは効力が大きく違う。特に所領をめぐる法的な争いとして鎌倉幕府の御家人と朝廷貴族との争いが起こった場合のように鎌倉幕府の枠外における効力を考えると、公文所の発給した文書では通用しなくとも、政所の発給する文書では通用することも珍しくなくなる。

 どういうことか?

 公文所の発給する文書は一貴族の発給する文書であるのに対し、政所の発給する文書は議政官の一員である貴族、ないしは議政官の一員になる資格を有する貴族の発給する文書となる。現在の日本で考えると、公文所の文書は一人の国会議員が発給する文書であるのに対し、政所の文書は政令に相当する権限を持った文書となる。後世の視点で鎌倉幕府を捉えると武家集団であるが、この時代の感覚ではあくまでも有力貴族の周囲に集った者の集団であり、主軸は鎌倉武士ではなく、あくまでも貴族たる源実朝なのである。その源実朝の名で発給される文書が、そう遠くない未来に、現在で言うところの政令に相当する権威を持つ文書となるのだ。

 後に侍所別当と政所別当を兼務する執権職が誕生するのはその通りなのだが、執権北条義時を考えたとき、北条義時がどのタイミングで政所別当になったのかを明瞭化させなければならなくなる。そうしなければ北条家の権威につながる歴史的整合性がとれなくなる。

 侍所別当の和田義盛はまだいい。どのタイミングで侍所別当でなくなったのかはっきりしている。

 問題は政所別当の中原広元だ。この人がどのタイミングで政所別当を、あるいは公文所別当を辞したのか明瞭化させないと、北条義時が政所別当となったことが説明できなくなる。一方で、中原広元は和田義盛のような最期を迎えてはおらず、そもそも北条義時よりも長生きしている。建永元(一二〇六)年に公文所別当を辞したらしいという記録があるが、後任の公文所別当も不明である。

 そしてもう一歩踏み込んで調べると、もう一つの奇妙な点が見えてくる。

 鎌倉幕府の政所を調べてみると、最高責任者である別当が複数名いるケースが出てくるのだ。トップに立つ人物は一人であり、この時代に別当をトップに掲げる組織の全てが別当をただ一人としていることから、鎌倉幕府においても政所別当が一人だけという認識が立ちはだかり、別当が複数名いるという概念は浮かびづらい。実際、同じく鎌倉幕府の組織である侍所については和田義盛ただ一人が別当である。

 だが、別当が複数名いるとなれば、困惑が解消する。

 そもそも、政所にしろ、公文所にしろ、律令に規定された公的機関ではなく私的機関である。ゆえに、組織のトップである別当が複数名いようと、法的に問題はない。そして、複数名いるために史料の不整合への譲歩も可能となる。

 納得ではない、譲歩である。

 どういうことか?

 北条義時が政所別当に就任したという記録が複数回存在するのだ。

 確認できるだけでも、源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任して間もない頃や、元久二(一二〇五)年の北条時政追放後に北条義時が政所別当に就任したという記録がある。北条義時が発給した御教書も、北条義時が貴族の一員であるために発給することの許される書状ではなく、政所別当として発給したと捉えることもできる。しかし、中原広元が公文所別当を辞したらしい建永元(一二〇六)年以降ならばともかく、それより前の日付で北条義時が政所別当、あるいは公文所別当であることはありえない。しかし、政所や公文所の別当が一人ではないとなると、北条義時が行使していた可能性のある政所別当の権限について、完全に納得はできないにしても、譲歩はできるのだ。

 後述するが源実朝が従三位に昇叙して正式に政所を設置する資格を経たときには既に政所別当としての北条義時が確認できていると同時に、他の者が政所別当に就いたとの記録も存在している。つまり、気づいたときには政所別当の一人、正確に言えば公文所別当の一人に北条義時が就任しており、別当を複数名とすることで政所の政務をよりスムーズにさせた痕跡が見られるのだ。

 そして、政所別当を複数名にするというアイデアがどのように誕生したのかを探していくと、源頼家の時代に計画された合議制の瓦解に行き着く。


 間もなく年が暮れようかという承元二(一二〇八)年一二月二六日、京都の中原親能が在京のまま六六歳で没したという連絡が来た。

 中原親能が亡くなったのは一二月一八日のこと、すなわち、源実朝が従四位下に昇叙したという知らせを受け取った頃にはもう、中原親能はこの世の人ではなくなっていたのである。

 いわゆる一三人の合議制が成立したのが建久一〇(一一九九)年四月一二日のこと。それから一〇年を経ずに、梶原景時と比企能員の二名が討ち取られ、三浦義澄、安達盛長、中原親能の三名が亡くなり、足立遠元と北条時政の二名が隠遁生活に入っている。足立遠元については史料にその名が残されなくなり、気づいたら消えていたという形なので北条時政とは事情が違うが、合議制に加わらなくなっているという点で違いは無い。

 一三名でスタートさせた体制でありながら一〇年を経る前に過半数である七名が消えて残り六名になっていた。ちなみに中原親能は京都に滞在することが多かったことから合議制に加わること自体が少なく、中原広元も鎌倉と京都を行き来することが多いので鎌倉にいないことがたびたび存在する。ついでに言うと、中原広元は公文所別当を辞して隠遁生活に入ろうとしていたので、一三人の合議制で残った面々の中に中原広元をカウントするには多少なりとも躊躇するところがある。

 すると、鎌倉在駐で合議制の一員としてカウントできるのは北条義時、三善康信、八田知家、和田義盛、二階堂行政の五名ということになる。一三人の合議制としてスタートしたはずなのに欠員を埋めなかったために一〇年も経たずに五名へと減ったのだ。これから先、梶原景時や比企能員のように討ち取られることも起こるかもしれないし、そのような物騒な事態とならなくとも加齢による離脱や死去もあり得る話であるのだから、何もせず放置しておけばゼロ名へと行き着いてしまう。欠員が出ても誰かで欠員を埋めることが困難であるというのは、非公式な協議体が持つ宿命である。

 しかし、公式な協議体としたらどうなるか?

 政所別当を複数名にするというのは、合議体を合議体として存続させる一つのアイデアである。

 先にも記したが、北条義時に対する悪評は多々あるものの、北条義時を独裁者だとする悪評は存在しない。そのような悪評を北条義時にぶつける人がいるとすれば、それは的外れな評価とするしかない。そもそも北条義時に限らずこのときの鎌倉幕府は誰か一個人が独裁を敷くなど許されない状況であり、北条義時が自らの意志に従って何かしらの権力を行使するとすれば、それは北条義時の独断ではなく、北条義時の意見が合議の結果として採用されたという構図を用意しなければならなかったのがこの頃の鎌倉幕府である。それなのに合議体を構築できないというのは致命的だ。

 その致命的な事態を回避する方法の一つのアイデアが、政所別当を複数名にし、鎌倉幕府の政務の一貫として政所が職務を遂行する際、政所別当の独断ではなく、複数名からなる政所別当達の合議の結果とするというアイデアだ。これならば、微妙なバランスを必要とするようになってしまっている鎌倉幕府であっても、政所の職務を一個人の独善に委ねることなく行使できる。


 年が明けた承元三(一二〇九)年一月、この時代の年齢の数え方は、誕生日で年齢を一つ刻む満年齢ではなく、元日と同時に年齢を一つ重ねる数え年であるため、源実朝は一八歳を迎えたこととなる。ちなみに、数え年は誕生した瞬間に一歳から数え始めるので、満年齢と比べると、誕生日前であれば満年齢より二つ、年齢の数字が増えることとなる。たとえば、このときの源実朝は一八歳であるが、現在の満年齢では一六歳である。

 貴族の位階や役職は、平時であればその年の一月に上がる。厳密に言うと、一月初頭に位階が上がり、一月中旬に新たな役職が与えられる。もっとも、議政官に入るような上級貴族となると、位階は十分に上がっており、役職については空席ができるのを待っているというのが一般的であるため、平時の通例に該当することは少ない。公卿補任に名を刻むような貴族となると、平時の通例に該当するのは新しく従三位の位階を得た貴族ということになる。

 承元三(一二〇九)年一月の場合、新しく従三位の位階を得て公卿補任に名を刻んだ貴族は三名である。

 平家の公達の一人でありながら平家都落ちに帯同しなかった父の平頼盛とともに源頼朝に投降し、源平合戦後も貴族の一員としてカウントされてきた平保盛、五三歳。

 藤原南家の貴族で、政界の中枢を担い続けてきた藤原北家と違い、文章得業生から朝廷のキャリアをスタートさせ実務官僚を経て貴族となった藤原範朝、三一歳。

 典型的な藤原北家の貴族で、前述の藤原範朝と違い一貫して貴族としてのキャリアを歩み続けてきた藤原定親、二六歳。

 以上の三名であり、ここに源実朝の名前はない。数えで一八歳という年齢を考えても、正四位下の位階を得てからまだ一ヶ月も経っていないという時間経過を考えても、ここに源実朝の名前があったらならそのほうがおかしな話になる。

 普通ならば。

 源実朝が受けた栄誉は普通ではなかった。

 また、タイミングも合っていた。

 全ては近衛道経こと右大臣藤原道経が承元三(一二〇九)年三月二六日に右大臣を辞したことにはじまる。近衛道経は何も高齢になって政界を引退したのではない。この人の生まれは寿永三(一一八四)年であるから、満年齢で二五歳、数えでも二七歳。とてもではないが引退など考えられない年齢である。

 ただ、この人は大臣としての職務を果たす資質を有しているから出世したわけではない。近衛家の重要人物であるために若くして出世した人なのだ。そして、同時代の人に大臣としての資質に欠けていると見做されていたのだ。

 近衛道経に対する評伝は少ない。公式記録を追いかけても、近衛家の人間として順当な出世を果たし、二五歳で内大臣、二六歳で右大臣と、若き大臣として出世街道を歩んでいたが、この人の若さはあまり着目されなかった。この頃は近衛道経より一つ歳下の内大臣九条良輔と、近衛道経より一〇歳若い一七歳の権大納言九条道家が宮中にいたのだ。

 内部で対立していても外に向かっては一枚岩になるという藤原氏の特性は過去の話となり、同じ藤原摂関家であっても近衛家と九条家の対立、そして、この二つの家と併存していたはずなのに徐々に埋没していく松殿家という構図は隠せないものとなっていた。

 この構図が成立しているのに加え、近衛家と対立する九条家の輩出した一七歳の若き俊英である九条道家の存在があまりにも大きかった。

 近衛家当主である近衛家実は関白である。普通ならば関白と右大臣の地位を近衛家が占めている、それも、関白近衛家実が三一歳、右大臣近衛道経が二七歳と若き貴族が朝廷の中枢に君臨しているのだから、時代は近衛家のもとにあると考えるところであろう。ちなみに、太政大臣は皇太子元服加冠のために藤原頼実が五年ぶりに復帰し、左大臣は本来なら松殿の苗字を名乗ってもおかしくないものの、傍流扱いを受けて松殿の苗字を名乗らずにいた藤原隆忠である。太政大臣は五五歳、左大臣は四七歳であるから、年齢相応の役職と感じる一方で、若さを打ち出している近衛家と同じ土俵に立つことはできない。

 ところが、九条家には近衛家より若い一七歳の権大納言九条道家がいるのだ。おまけに、内大臣九条良輔も二六歳という若さなのだ。ちなみに、九条良輔は九条兼実の四男であり、九条道家の叔父にあたる。

 近衛家がどんなに若さを前面に打ち出そうとしても、九条家はさらなる若さで近衛家の前に立ちはだかる。政治の世界における若さというのはその人の実際の能力を少しは隠してくれるヴェールになるのだが、相手がさらなる若さをぶつけるとなると純粋に政治家としての能力での勝負となる。そして、右大臣藤原道経は一歳下の内大臣九条良輔ではなく、一〇歳下の権大納言九条道家と比べられる。藤原道経の政治家としての能力が平均程度の資質を有していようと、未だ二〇歳にもなっていないにもかかわらず既に名声と評判を獲得している九条道家と比べられたら誰もが勝負を断念せざるを得なくなる。

 この状態で近衛家が選択できる手段は、藤原道経を右大臣から辞職させることである。ただし、政界から引退するわけではなく正二位の位階は保持し続けることが条件である。現代日本の感覚でいくと、大臣を辞めたが衆議院議員は辞めず、今後も総選挙に立候補し続け当選し続けるというところか。近衛家としては現時点での敗北を認めるが、次の世代での挽回は諦めないという姿勢を保つことで、勝負そのものは投げ出さないと示したと言えよう。

 話は長くなったが、藤原道経が右大臣を辞したことで右大臣職が空席となったのが承元三(一二〇九)年三月二六日のことである。そして、四月になると人事の大幅刷新が行われたのだ。

 四月一〇日にはまず、空席となった右大臣に内大臣九条良輔が昇格し、新たな内大臣には大納言徳大寺公継が昇格。大納言の空席は権大納言三条公房が昇格することで埋まり、権大納言の空席は中納言二条定輔が昇格。これにより、大納言二名、権大納言五名の体制は維持された。中納言の空席は権中納言藤原公国が昇格し、権中納言の空席は参議源定通が昇格と、空席を一つずつ埋める人事が展開された。

 さらに、四月一四日には各貴族の兼職をはじめとするその他の人事刷新に加え、空席を埋めるための位階の昇叙も行われ、その最後の一名に正四位下源実朝の従三位昇格があったのだ。正四位下に昇叙してからわずか四ヶ月での従三位は異例とするしかないが、人事としてはおかしな話ではなかったのである。


 吾妻鏡によると源実朝が従三位に昇叙したとの報告が届いたのは承元三(一二〇九)年四月二二日のことである。四月一四日の昇叙の知らせと同時に鎌倉まで連絡が送られたと考えると順当であるが、このあたりは史料の不整合が見える。

 吾妻鏡によると、源実朝が従三位に昇叙したのは四月一〇日だという。

 一方、公卿補任には四月一四日の昇叙と記録されている。

 単なる書き間違いであるならばまだいいが、この二つの日付には大きな違いがある。

 端的に言うと、四月一〇日の昇叙は上級貴族、四月一四日の昇叙はその他大勢の貴族である。

 貴族としての格を考えると、源実朝は後者である。ただ、従三位に昇叙するということは後者から前者に移るタイミングでもあるので、前者であってもおかしくはない。おかしくはないのだが、これは吾妻鏡を書き記した人の願望が混ざった記載ミスとも言える。あるいは、この後の源実朝に振る舞いから考えての判断であるとも言える。何度も記すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるものの、北条家にとって都合よく編纂された歴史書であり、また、後世になってまとめられた歴史書でもあるため、同時代史料としての価値は高いとは言えない。ゆえに、出来事に対する客観的把握のためには他の歴史資料との突合が必要となる一方、客観的事実との差異が見られる場合は吾妻鏡編纂時の北条家の視点が明瞭化されるという特性を持っている。源実朝の従三位昇叙の日付についての不整合はそのあたりの一例でもある。

 源実朝が従三位に昇叙したことで、それまでは公文所であった鎌倉幕府の政務機関が、このときから正式に政所となった。正確に言えば、源頼家から源実朝に征夷大将軍の官職が移ったと同時に政所から公文所に格下げになったのを、源実朝の従三位昇叙に合わせて政所として復活させたこととなる。

 政所は三位以上の貴族でなければ設置できない家政機関であり、四位以下の貴族は家政期間を公文所としなければならない。貴族の持つ荘園や所領、知行国の運営といった経営を取りまとめる機関という点で公文所と政所とに違いはないが、三位以上の貴族となると基本的には議政官の一員として国政に関与する身となり、私的な資産の経営であっても国家的な色彩を帯びる宿命を有する。また、三位以上の貴族はその多くが世襲であり、三位以上の位階を有するがゆえに設置することが許される政所も、理論上は個人の保有する資産の運営であっても、実質的には家の保有する資産の経営となる。源実朝は非参議、すなわち、位階を有してはいるものの議政官の一員ではない公卿であるが、実父の源頼朝が正二位権大納言を最終官職とする議政官の一員であったため、源実朝の設置する政所も家の保有する資産の経営と見做される。

 政務そのものだけを見れば政所も公文所も違いはないのだが、発給する文書の権威となると、公文所と政所とでは大違いである。公文所の文書は一人の貴族が私的に発給する文書であるのに対し、政所発給の文書は貴族に付随する朝廷権力の裏付けを有する文書となる。そのため、土地争いで他の者とぶつかり、権利を裏付ける文書を相互に裁判に提出した場合、一方が公文所発給の文書で、もう一方が政所発給の文書であったならば、政所発給の文書を持つ側の方が裁判で優位となる。公文所発給の文書でも無価値というわけではないが、公文所発給の文書はいかに体裁が完璧でもあくまでも私的文書に過ぎないのに対し、政所発給の文書は国の正式文書としての性格を帯びることとなる。

 源実朝が従三位に昇格したことで、源実朝の名で発給される鎌倉幕府の政所からの文書は、鎌倉幕府の私的な文書ではなく日本国の正式な文書としての性格を帯びることとなった。それがいかに鎌倉幕府の御家人達に対して所領の保有権を保障することを伝える文書であろうと、この日からは国家としての正式な文書となったのである。あるいは、源頼朝や源頼家の頃のように正式な文書と扱われるように戻ったとも言えよう。


 源実朝が従三位となった後に発給された政所文書は、下山忍氏の調査によると二十四通現存している。そのうち、現存する最古の文書は承元三(一二〇九)年七月二八日に発給された文書である。この文書の持つ性格自体は従来の公文所の発給する文書と大差ないが、この文書は画期的な側面がある。

 文書に政所別当の署名があること自体は問題ない。しかし、複数名の署名があり、その全員が政所別当として署名しているとなると状況は普通ではなくなる。

 先に政所別当を複数名とするアイデアについて記したが、そのアイデアを実現させた初出がこのときの文書なのである。

 そして、複数名からなる署名の先頭に、北条義時の署名が存在していた。

 署名の先頭に名を記すこと、そして、その資格を有する者のことを、執権という。この文書の場合は複数名からなる別当のうち先頭に名を記すことから執権別当ということとなる。

 そう、のちに鎌倉幕府の最高執政者の称号と見做されるようになる「執権」はこのときに誕生したのだ。北条義時自身は意識していなかったであろう権利が、のちに権力となって鎌倉幕府の命運そのものを握ることとなるのである。繰り返して記すが、北条義時に対する悪評は多々あれど、その中に北条義時の独裁を非難する悪評はない。北条義時という人は死ぬまで、自らを独裁者とさせぬべく、合議制を推進し、何かをするにしても独断ではなく、少なくとも多数の同意を得たという確証を得た後に行動する人であり続けた。その北条義時が選んだ独裁防止手段としての政所別当複数名というシステムが、皮肉にも鎌倉幕府における独裁者を生み出し続けるシステムとなったのだ。

 無論、このときの文書に北条義時をして独裁者たらしめる要素はどこにもない。あくまでも複数名からなる政所別当の中で最初に署名をした人というだけである。当時の人も、北条義時を有力者のうちの一人として見ることがあっても、北条義時を絶対的独裁者として扱うことはなかった。将軍源実朝の実母の弟であるため無視できぬ存在であること、また、鎌倉幕府の御家人達の中で数少ない、位階を有するために貴族の一人としてカウントされる人物であることは認めるが、それで北条義時を特別扱いすることにはつながらなかった。位階を持つ貴族でもある御家人は、確かに少ないが、珍しいとは言えないのである。

 ただし、厄介な問題が一つある。

 政所と並ぶ鎌倉幕府の重要機関である侍所別当の和田義盛だ。

 政所が鎌倉幕府の政務や財務を扱うのに対し、侍所は、戦時においては軍勢指揮を、平時においては人事を司る組織である。その別当である和田義盛は鎌倉幕府の有力御家人の一人であり、今や五名へと減ってしまった一三人の合議制のうちの一人であったのだから、和田義盛は鎌倉幕府の最重要人物の一人とも言えよう。

 ところが、この人の公的官職は六位相当の左衛門尉であったのだ。位階からわかるとおり、この人は貴族の一員としてカウントされていなかったのである。

 源平合戦において源頼朝が挙兵して間もなくの頃、和田義盛は自ら侍所別当に就任したいと源頼朝に申し出て、源頼朝もその申し出を受け入れたために、和田義盛は侍所別当となった。これだけを聞くと、組織が発足して間もない頃のどさくさで侍所別当になったと扱われそうだが、そして、どさくさでの侍所別当就任ではないと言い切れないのもその通りであるが、この人が侍所別当として無能であったわけではない。それどころか、この人が侍所別当、そして、梶原景時が侍所の二番手である侍所所司を務めるという体制があったことで、草創期の鎌倉方は源平合戦における勝者となれたのである。

 また、侍所別当としての和田義盛の能力は源平合戦終結後も止まらなかった。それどころか、平時になった後の方が和田義盛は侍所別当としての職掌を申し分なく発揮するのである。最終的には征夷大将軍の名で発せられるとは言え、基本的には、鎌倉幕府の人事を司っていたのが和田義盛である。六位相当ではあるが、左衛門尉の官職を得ていることは朝廷の武官の一員としてカウントされているということでもあり、和田義盛個人に与えられている権限は絶大とまでは言えないにせよ、全く権限を有していないというわけではない。それに、全く問題なかったとまでは言えないにせよ、この人の人事遂行能力は申し分なかったのだ。現在の感覚でいくと、ベンチャー企業の創業当初からその企業の人事を一手に担ってきた人が、東証プライム上場後も常務取締役として人事を担い続けているといったところか。その人の部下の中には大学院で学位を得た修士や博士もいるが、本人の学歴は学部卒の学士である。しかし、実績も実力も申し分なしなので、誰も何も文句を言わないという、ベンチャー企業から大企業に発展したところでよく見られる光景が、この時の鎌倉幕府でも見られたのである。

 吾妻鏡に正式な日付は残っていないのでそれがいつのことであるかわからないが、梶原景時は一時的に和田義盛から侍所別当の地位を奪って自らのものにしていたことがあるという。だが、その一時的な例外も梶原景時の死によって元に戻った。鎌倉に侍所が誕生してから承元三(一二〇九)年までの間、侍所別当とはすなわち和田義盛のことであったとも言えるのだ。

 吾妻鏡によると、その和田義盛が、承元三(一二〇九)年になると公的権威を求めるようになったとある。

 少し遡ることとなるが、五月一二日に和田義盛は上総国司への就任を望んだとある。

 着目すべきは、和田義盛が求めたのが上総介ではなく上総国司であるという点である。上総介は文字通りの国司としての意味と同時に、この時代には空席となっていた称号の意味もあったのだ。

 上総国は常陸国や上野国と同じく親王任国であり、令制国の名目上のトップは親王であるため守(かみ)はおらず、他の国では二番手となる介(すけ)が上総国では実質的なトップとなる。そして、律令のどこにも記されていない上総権介が令制国統治の二番手となる。現在でいうと、通常は知事である守(かみ)と副知事である介(すけ)がいるのに対し、上総国では介(すけ)が知事で権介が副知事といったところか。

 また、上総国は令制国のランクとしては最上級である大国に位置付けられただけでなく前述の通り守(かみ)のいない国であるため、他の大国では二番手となる介(すけ)に就くには正六位下で十分であったのに対し、上総国では貴族の一員としてカウントされる従五位下になっていないと介(すけ)に就くことはできなかった。

 理論上は六位相当の官職である左衛門尉でもあるので、現状の位階のまま上総介にスライドすることも不可能ではないが、現実問題、和田義盛が上総国司に就くためには貴族の一員としてカウントされる位階を得た上で、位階相当の官職を得るという手順を踏まなければならないのである。

 ちなみに、源頼朝挙兵直後に鎌倉方の一員として活躍するも途中で誅殺された上総介広常こと平広常の一族は、本当に全員が上総国司であったわけではなく、この時代から一八〇年ほど前の平忠常の乱以降、一族の多くの者が上総介に就いていたために上総介が苗字となったという経緯がある。なお、上総介広常自身は上総国司に就いてはいないが、上総権介の官職は得ていた記録がある。

 和田義盛と上総介広常とは面識がある。何しろ、ともに源頼朝挙兵時から鎌倉方の一員として立ち上がった仲間である。ただし、上総介広常は上総国で最大の武士団のトップであったのに対し、和田義盛は三浦一族の一員でしかない。有力者の一員であることは間違いないのだが、権勢となると上総介広常とは一段階見劣りする。

 さて、和田義盛は三浦一族の一員でしかないと記したが、三浦一族における和田義盛の立ち位置はかなり微妙である。

 まず、愚管抄は和田義盛のことを「三浦ノ長者」と記している。後世の史料ならばともかく愚管抄は同時代の人物である慈円の記した歴史書であり、同時代史料としての価値でいうと吾妻鏡以上の価値を持つこともある。ただし、京都とその周辺にいることが通常の慈円は鎌倉と物理的距離がある人物でもある。つまり、愚管抄とは、鎌倉の当事者ではなく鎌倉から離れた京都の視点で鎌倉での出来事をどのように捉えていたかという視点で記された歴史書であることを考えねばならない。

 慈円が和田義盛を三浦一族のトップと考えたのは二つの点から間違いとは言い切れない。一つは、鎌倉幕府の組織図において和田義盛が三浦一族の中で群を抜いた地位にあったこと、もう一つは、和田義盛の父である杉本義宗が三浦義明の長男であること、この二点である。必ずしも長子相続と定まっていないこの時代であるが、三浦一族のトップであった三浦義明の長男の長男とあれば、第三者からすれば三浦一族のトップの地位にあると見做されていてもおかしくない。ただし、和田義盛の父である杉本義宗は平治元(一一五九)年に三八歳の若さで命を落としており、長男が亡くなった時点で存命であった三浦義明は三浦一族のトップの地位を次男の三浦義澄に継承させ、三浦義澄の死後は三浦義村が父の地位を継いだ。

 こうなると、一三人の合議制の一人でもあり、また、侍所別当でもある和田義盛と、三浦一族の内部でトップの地位を世襲で受け継いだ三浦義村との関係は微妙なものとなる。三浦義村は鎌倉幕府における重要人物の一人であるが、幕府内の役職という点でも、朝廷官職という点でも、三浦義村は和田義盛ほどの地位を得てはいない。年齢で言っても、三浦義村は和田義盛より二〇歳は歳下だ。これを和田義盛の立場で捉えると、自分より格下であるはずの三浦義村が自分の所属する三浦一族のトップの地位を手にしているという図式になる。三浦一族の面々だけでなく、三浦一族に仕える郎党も、侍所別当である和田義盛ではなく、三浦義村を自分たちのトップであると考えている。

 この現実の前に和田義盛は、鎌倉幕府において侍所別当として職務を専念することで権勢を積み上げてきていたが、どうしても自らの置かれている境遇に満足しているとは言いきれなかった。三浦義村との関係を考えても、同じ別当である政所別当や公文所別当は貴族の一員としてカウントされているのに対し、侍所別当である和田義盛は左衛門尉の役職しか無かったというのがどうしても拭い去ることのできぬ点であり続けていた。貴族の一員とカウントされるようになれば一気に三浦一族のトップの地位が手に入るのだ。同じ別当として鎌倉幕府の組織図上は同格であるはずの北条義時は、将軍の叔父であるという点を差し引いても現役の相模守であり貴族の一員としてカウントされている。かつて政所別当を務めていた中原広元の場合は、因幡守をはじめ、左衛門大尉、明法博士、兵庫頭、掃部頭、大膳大夫といった官職を歴任した経験がある。一三人の合議制の生き残りという視点でも、八田知家は建仁三(一二〇三)年に筑後守に、二階堂行政は元久元(一二〇四)年に山城守に就任している。三善康信は国司就任の記録は無いが、源頼朝のスパイであった応保二(一一六二)年の段階で従五位下の位階を得ている。これらの経歴に対し、和田義盛は六位相当の左衛門尉である。承元三(一二〇九)年にこの地位に就いたわけではなく、建久元(一一九〇)年一二月に左衛門尉に就いてからずっと同じ朝廷官職であり続けていたのである。

 また、「侍受領」、すなわち左衛門尉を長年務めた武士がどこかの国の国司になるというキャリアは、平家政権の頃から武士の成功として最上級の昇進コースであった。さすがに大国である上総国司は贅沢に思える話であっても、位階を得て貴族の一員となりどこかの国の国司となること自体は珍しいとは言えなかった。左衛門尉を長年勤めただけでなく、このとき既に六三歳を迎えている和田義盛は、キャリアだけで言えば国司になってもおかしくなかったのである。

 ここで和田義盛が正式に上総介に就任できれば、和田義盛はかつての上総介広常の有していた権勢に匹敵する権威を手にできるだけでなく、三浦一族全体を指揮下に置くことも、北条義時と肩を並べることもできる。京都の貴族としてキャリアを積んでいた中原広元は別格として、源平合戦のスタート時は、和田義盛も、北条義時も、ともに東国の無位無官の武士であったのに、それからおよそ三〇年間の歳月を経た結果を比較すると、あまりにも大きな格差があることを実感する。その格差を埋めるために、上総国司に就くというのは一発逆転のアイデアであった。

 結論から言うと、和田義盛のこのアイデアは拒否された。

 承元三(一二〇九)年五月一二日、和田義盛は源実朝に直々に上総国就任の要望を出したが、この要望は北条政子の手によって握り潰された。源実朝にしてみれば和田義盛が朝廷官職を得ること自体が望ましくない話なのである。そもそも北条義時が相模守であるのは兄の急病によって生じた権力の空白に対処するために朝廷が下賜した臨時措置であり、あくまでも将軍の叔父であるという血縁を踏まえての特例措置なのである。和田義盛が鎌倉幕府に於いてどれだけ貢献してきたかを考えると北条義時と和田義盛を並べて扱うことは当然と言えるが、和田義盛と北条義時とを並列にするのであれば、和田義盛に朝廷官職を与えるのではなく、北条義時から朝廷官職を剥奪するほうが納得いく話となるのである。

 その根拠となるのが、亡き源頼朝が迎えた運命と下した決断である。特に源義経が朝廷官職を得たために発生してしまった戦乱は繰り返してはならない。であるならば、鎌倉幕府の御家人の全ての者が朝廷官職を得ないこと、得たとしてもその官職は低いものに留めることが重要となる。亡き源頼朝の意志に従うなら、和田義盛に源頼朝の意思を守らせるほうが正しいこととなる。ここでナイスアイデアであったのが、源実朝ではなく北条政子の意思としたことである。北条政子が亡き夫の願いを求めたので、その求めに源実朝が応じたという体裁にすれば、和田義盛の請願を握り潰すことはやむをえぬ措置と扱われる。鎌倉幕府の御家人達は基本的に源頼朝を軸として集った東国武士達であり、源実朝に仕えるのも源実朝が源頼朝の後継者であるからだ。ここで亡き源頼朝の正妻が生前の夫の意思を伝えたことで請願が握り潰されたとなったならば、和田義盛は黙って従うしかなくなるのだ。

 しかし、和田義盛は諦めていなかった。五月二三日に今度は中原広元に嘆願書を提出したのである。中原広元は鎌倉幕府に仕える御家人であると同時に、文人官僚であり、貴族でもある。朝廷に対する独自のパイプを有しており、朝廷官職を要望しながら源実朝に拒絶された和田義盛が、次なる方法として中原広元を選んだのはアイデアとして悪くない。しかし、中原広元は武士ではないが、まるで鎌倉幕府の古参の武士であるかのように、鎌倉幕府の一員として源頼朝の意思に従うことに躊躇しなかったのだ。また、和田義盛が国司となった場合に起こると予想される鎌倉幕府の内部のパワーバランスの崩れにも気が付いていた。ここで和田義盛が国司となり貴族の一員となったならば、侍所の権力が政所の権力と拮抗してしまうのだ。侍所と政所は並列の組織であるが、実態としては政所のほうが財政を握っている分だけより強い権限を有している。侍所と政所とで意見の相違が見られた場合、採用されるのは政所の意見のほうなのだ。現代の感覚で捉えると、衆議院と参議院との関係に近いと言える。衆議院も参議院も国権の最高期間である立法府であるが、同格ではなく、衆議院に優越性が与えられている。これと似たような権力の微妙な違いが、このときの政所と侍所の関係として存続していたのである。

 和田義盛が国司となった場合、政所と侍所のバランスが拮抗してしまって鎌倉幕府の政務が滞ることになってしまうのだ。

 二度の請願がともに白紙となったことで、和田義盛は国司就任を断念したようである。ただし、ここは和田義盛の偉いところとも言えるのであるが、それで侍所別当としての職務を疎かにはしなかったのだ。

 承元三(一二〇九)年五月二八日に発生した御家人同士の乱闘と、その結果としての殺害事件について、真っ先に出向いて事態に対応したのは侍所であり、侍所別当の和田義盛であった。それはいつもの和田義盛の職務遂行の様子と何ら違うことのない、頼れる侍所別当としての和田義盛であり続けていた。また、源実朝の和田義盛の対する態度も和田義盛の国司任官要望の前後で変わることは無かった。将軍としての決裁をするにあたり、和田義盛が侍所別当としての職務を遂行し幕府に貢献していること、それが治安維持に有効に働いていることを認め、その職務遂行に横槍を入れることは無かった。


 源平合戦において東国の武士達はどうして源頼朝の元に集ったのか?

 一言でまとめると、最適解である。数多くの選択肢の中から選び出した最善の選択肢が源頼朝であったのだ。

 源平合戦前は平家政権が盤石であったが、盤石具合が東国の武士達の有していた所領の保有権にまで及ぶとなると看過できぬ事態となる。とは言え、平家は正統な権力者であり、各地の統治のために平家の人物、あるいは、平家に仕える人物を全国各地に送り込むのは、感情的にはともかく法に基づけば何ら違法ではない。平家の送り込んだ人物が東国の武士達の持つ所領に手を出そうとしたという理由で地元の武士団が抵抗したとき、処罰されるのは地元の武士団のほうになる。

 しかし、源頼朝が反平家で立ち上がったとなると状況が一変する。源頼朝に従うことで自分達が保有していた所領に対する権利が保障されるだけでなく、源頼朝の敵の所領の再分配に立ち会うことができる。平家の送り込んできた人物に抵抗したとしても違法ではなくなる可能性が出てくるのだ。

 これは源頼朝が源平合戦の勝者となったあとも変わっていない。いや、源平合戦の勝者となったことで、平家に抵抗することが完全に合法になったのだ。その上で、これまでの所領の保有権を保証し、功績に応じた新たな所領を分配する。そのために鎌倉幕府の御家人達は征夷大将軍に仕え、征夷大将軍は御家人達に報いる。こうした御恩と奉公というシステムがあることでこの時代の武士の多くは鎌倉幕府のもとに身を寄せたのであるが、源頼朝の死後はどうであったか?

 まず源頼家であるが、吾妻鏡によると、源頼家は御恩と奉公に応えなかったかのような記述があるものの、現存する他の史料に従えば、それは源頼家に対する風評被害とするしかない。史料に従えば、将軍として申し分ない程度に取り組んでいたと評価できる。

 では、源実朝は?

 源実朝が将軍に就任したとき、理論上は元服を迎えた身であるが、事実上は年少者である。また、位階も低いため、家政機関は政所ではなく公文所となる。その延長上として、源実朝が将軍となってからの御恩と奉公は、名目上は源実朝の名での書状発給であるが、実質的には鎌倉幕府の有力者達からの合議を踏まえた上で、公文所から書状を発給する、あるいは御教書を発給するという形式での御恩と奉公となっている。

 これに御家人達が満足いくのかというと、一応は納得していた。ただし、源実朝が直接発給したわけではない文書が根拠であるという点は、やむをえぬこととして受け入れてはいたものの、源実朝が青年となったならば改善されるべきこととも考えていた。源頼朝がそうであったように、青年となった源実朝も御家人達と直接、御恩と奉公で接するようになってくれることを期待していたのである。

 承元三(一二〇九)年四月に従三位となって政所を設置する権利を獲得して以降の源実朝は、ある意味では期待に応え、ある意味では期待を裏切った。

 将軍として正しい決断をしたのだ。

 和田義盛の国司就任嘆願を握り潰したのもそうだが、所領争いにおける裁決でも、鎌倉幕府の御家人を優遇するのではなく、法に基づく処断をしたのである。これが仮に源頼朝であれば、明らかな法令違反でもない限り御家人の意向を汲んだ処断をしたであろうし、法的にグレーゾーンであるというなら、黒でなければ白であると考えて御家人に有利な決断をしたであろう。一方、源実朝は白で無ければ黒であると考えて、法的にクリアされていることを前提とした処断をしたのだ。

 さらに源実朝は法的に正しい処断を密室で裁決したのではない。

 相反する主張を持つ両者を自分の前に呼び出し、誰もが見ている前で主張させた上で法に基づく処断をしたのである。こうなると、自分にとって不利な処断であったとしても受け入れざるを得なくなる。御家人への利益誘導が無かったことに対する不満があったとしても、法に基づく処断であることが衆人環視のもとで示されたとあっては誰も文句を言えなくなる。


 このあたりは吾妻鏡を編纂した人の取捨選択の結果であろうが、従三位に昇叙した後の源実朝の記録については、吾妻鏡と、その他の記録とで大きな違いがある。

 大きな違いが発生しているのは、何度も記しているように吾妻鏡が北条家にとって都合良く編纂された史書であるからで、源実朝の業績のうち、将軍としての業績が優れているために北条家にとって都合悪い記録は敢えて記さないことがよくあるのだ。ちなみにこの不利益は、源実朝だけでなく源頼家についても当てはまる。

 そしてここが吾妻鏡編纂者の嫌らしいところではあるのだが、他の記録から間違いと指摘される記事がある一方、事実であると確認できる記録も混ざっているのである。しかも、その間違いについては意図的なミスであると言い切れないミスなのである。

 他方、歴史的事実であり、かつ、北条家にとって都合良い記録については吾妻鏡の記録に残っている。

 わかりやすい例が承元三(一二〇九)年八月一三日の記録である。源実朝が京都へ書状を送ったのであるが、書状の宛先が藤原定家であったのだ。もっとも、ここまでであればどうということはない。藤原定家は後鳥羽上皇の意を汲んで活躍する貴族の一人であり、藤原定家が後鳥羽上皇と源実朝との関係構築の中継をしているのであれば、藤原定家を通じた政治上のつながりの構築としておかしなことではない。

 だが、このときの源実朝が求めたのは、和歌の添削である。政治家としての、あるいは一人の人間としての藤原定家に対する良い評判というものはほとんどない。しかし、歌人としてならば当代随一の人である。何しろ、自身も和歌への造詣の深い後鳥羽上皇が直接、新古今和歌集の編者の一人として選んだのが藤原定家である。源実朝の詠んだ和歌を藤原定家に送り、藤原定家から和歌の評価が返ってくることを待ち侘びるというのだから、吾妻鏡編纂者にとっては政治をそっちのけで和歌に耽溺する将軍という情景を描かせる絶好の機会となったであろう。

 源実朝の送り届けた和歌に対する結果は、ちょうど一ヶ月後の九月一三日に鎌倉へと戻ってきた。また、藤原定家からの返書とともに詠歌の口伝、すなわち、和歌の入門書が送られてきた。

 以上が吾妻鏡の記載である。源実朝が和歌を藤原定家に送ったこと、藤原定家が源実朝の詠んだ和歌に対するチェックがあったことは記しているが、どのようなチェックがあったのかは記されていないし、源実朝の詠んだ和歌そのものも記録に残っていない。

 さらに一〇月には園城寺の明王院僧正公胤を鎌倉に招いている。この人物もまた歌人として有名であり、二階堂行光の住まいを旅の宿とさせ、佐々木広綱に警護を命じている。ここまでの記録を追いかけると、源実朝は政治を捨てて和歌の世界に耽溺するようになったのかとさえ感じてしまう。実際、吾妻鏡の承元三(一二〇九)年八月から一〇月までの記事を読むと、源実朝に政治家としての職務の様子が全く見えないのである。

 しかし、これらは全て源実朝の策謀であったとしたらどうなるか?

 実に恐ろしい点で結ばれるのである。


 まず、先に記したように藤原定家は当代随一の歌人であると同時に、後鳥羽上皇の側近の一人である。源実朝からの書状に始まる和歌を通じたやりとりだけを捉えれば、傍目には和歌に強い関心を持つ若者が和歌の達人に和歌を習うようになったとしか見えなくなる。

 しかし、そこに後鳥羽上皇が介在するとしたらどうなるか?

 後鳥羽上皇は西面武士を組織している。西面武士は鎌倉幕府の御家人でありながら後鳥羽上皇の周囲を固める武士となることもできるという、従来の北面武士より融通の効きやすい軍事組織である。鎌倉幕府に従っていた武士が鎌倉幕府のもとを離脱して後鳥羽上皇に降ることもありうるし、源平合戦以後は鎌倉幕府の御家人となる以外に武士としての行動ができないと考えていた者に鎌倉幕府以外の選択肢を用意することにもつながる。鎌倉幕府としては手放しで喜べるものではない。とは言え、両者の間で生じるのが対立ではなく友好関係であるならば、鎌倉幕府と西面武士とが協力しあえる関係も構築できる。それに、鎌倉幕府の御家人でありながら西面武士にもなれるということは、西面武士である者が鎌倉幕府の御家人になれるということでもある。鎌倉幕府の支配から外れた新たな軍事組織の誕生の危惧も確かにあるが、同時に、鎌倉幕府の勢力伸長にもつながるのだ。

 ここで重要なのは、後鳥羽上皇と源実朝との協力関係が維持できることである。間に和歌を介在させ、和歌の第一人者である藤原定家を介在させることによって、後鳥羽上皇と源実朝との間の協力関係はより強固なものとなる。後鳥羽上皇と源実朝は生涯に亘って一度も顔を合わせることはなかったものの、個人的な関係構築としては理想的な関係を作り上げることに成功したのである。後世から眺めると、後鳥羽上皇と源実朝という個人と個人の関係ではなく、後鳥羽院と鎌倉幕府という組織と組織の関係構築であるべきであったが、それは未来を知る者の思い抱く空想でしかない。後鳥羽上皇と源実朝の両名の年齢を考えても、この時点で考えるならば最上級の関係構築であったと評価できるのだ。

 しかも、従三位となった後の源実朝からスタートさせている。それまでにもつながりはあったが、従三位に昇って公卿の一人としてカウントされることとなった源実朝が、全ての人の目にも止まる形で後鳥羽上皇に接近することで、新たな軍事組織になりつつある西面武士を鎌倉幕府に取り込むための入り口を作り出したのであるから、後鳥羽上皇にしてみれば先手を打たれたといった感覚であったろう。しかも、名目上は和歌のやり取りであるから後鳥羽上皇にとっても何ら問題ない話とするしかないし、名目ではなく実利として、すなわち軍事問題としてどうなのかと考えたとしても、西面武士と鎌倉幕府との接近はやはり悪くない話になる以上、拒否するという選択肢はない。

 さらに、園城寺の公胤を鎌倉に招いたことは宗教政策としてだけでなく延暦寺対策として重要な意味を持つ。園城寺は比叡山延暦寺と同じく天台宗の寺院であるが、延暦寺と激しい対立を続けてきた寺院でもある。三井寺としても知られる園城寺は延暦寺に対する最大の抵抗勢力であったのだが、源平合戦勃発当初の治承四(一一八〇)年一二月に平重衡と平忠度によって焼き討ちを受けて大ダメージを負い、延暦寺に抵抗する勢力となれるほどの勢いは失われていた。

 ただし、平家の蛮行の被害者ということもあって鎌倉方の支援を受けた復興が進んでおり、承元三(一二〇九)年時点では、かつての勢いとまではいかないにしても、有力寺社の一つにカウントできるぐらいの勢いは取り戻していた。

 源実朝はその園城寺から僧侶を招いたのであるが、このことを延暦寺の立場から捉えると、かつての最大の抵抗勢力が鎌倉幕府と手を組むというのだから、何としても避けたい話となる。何しろ鎌倉幕府相手では延暦寺がいつも行使している武装デモが全く通用しないのだ。ここで園城寺と鎌倉幕府が手を組むとあれば、ただでさえ行動を制限されてきている延暦寺にとってさらなる脅威となってしまう。ゆえに、本来であれば延暦寺として何らかの形で抵抗を見せても良かったはずである。しかし、このときの延暦寺は公胤が鎌倉に赴くことについて何ら抵抗を見せていない。園城寺の僧侶として鎌倉に向かうのではなく、和歌に強い関心を示す一八歳の若者が、和歌の名人である人物を自宅に招いただけであるというのが承元三(一二〇九)年九月時点での捉え方であったのだ。

 その捉え方は承元三(一二〇九)年一〇月に完全に打ち砕かれた。

 承元三(一二〇九)年一〇月一〇日、鎌倉の永福寺に二階堂行光が建立した御堂の開眼供養が開催され、公胤が供養の指導僧を務めた。仏門に帰依する者が寺院の施設を建立して奉納し、高位の僧侶を招いて開眼供養を開催すること自体はごく普通のことである。しかし、鎌倉という場所で園城寺の僧侶が携わっての供養開催である。これは延暦寺として看過できないこととするしかなかった。

 これがもし、京都とその周辺であったならば直ちに比叡山から僧兵たちがやってきて暴れ回るところであったろうが、場所は鎌倉であり、延暦寺からはどんなに急いでも七日以上かかる。しかも、ここでいう急ぎとは馬に乗っての移動であり、人間の足で移動するとなると半月は考えなければならない。源頼朝による整備のおかげで情報だけなら京都と鎌倉との間は半月で往復できるようになったが、人間の移動となると半月でできるのは片道の移動である。鎌倉幕府の仏教行事に園城寺の僧侶が参加しただけでなく、行事の最重要賓客として扱われたという知らせを延暦寺が受け取ったときにはもう、鎌倉で開催された仏教行事の全てが終わっている。しかも、この行事の開催に納得できないとして僧兵を派遣して武装デモに打って出ようとしても人員を鎌倉にまで移動させるだけで一苦労だ。おまけに、鎌倉にいるのはこの時代の最大の軍事勢力である鎌倉幕府である。二重三重の意味で武装デモがどうこうできるシチュエーションではない。

 さらにここに、一〇月一三日に開催した法事の内容が延暦寺に伝わる。

 源頼朝の月命日であるこの日、出家して僧となっている北条政子が、亡き夫の墓のある法華堂に公胤を招いて法事を開催したのである。これに誰が文句を言えようか。夫を亡くして出家した女性が、高位の僧侶を招いて亡き夫の墓前で法事を開催するのである。これに文句を言おうものなら、勢力争い云々以前に人としての倫理観が問われる話になる。これもまた、延暦寺は黙認するしかなかった。

 そしてこの二回の法事はともに鎌倉中をお祭り気分にさせる一大イベントになったのだ。偉いお坊さんが鎌倉まで来てくれてありがたい読経をしてくれるとあって、鎌倉中の老若男女が詰め掛ける大盛況を生み出したのである。その僧侶が園城寺の僧侶であると知らない者は何も気にすることなくイベントを満喫でき、その僧侶が園城寺の僧侶であると知る者は比叡山延暦寺に一泡吹かせてやったことを喜びつつイベントを満喫できたのだ。

 京都内外に住む者は、ここ一五〇年に亘って、比叡山延暦寺の僧兵達が何度も繰り返してきた強訴という名の武装デモに苦しんできた。平家が勢力を築くきっかけとなったのも武装デモを強引に鎮圧させたからである。その平家が滅亡し鎌倉幕府が日本国最大の軍事勢力となった後も延暦寺の武装デモは燻り続け、時期を見ては爆発することが珍しくなくなっていたのがこの時代である。

 ここで比叡山延暦寺を完全に敵に回す行動に出ることは、武装デモに悩まされてきた人達の支持を得ることにつながる。それを鎌倉在住の一八歳の若者がやってのけたのだ。しかも、延暦寺に抵抗する隙を与えること無しに。これは溜飲の下がる思いであったろう。

 と同時に、政治家としての源実朝はなかなか侮れない人物であると悟ったはずである。

 ちなみに、公胤は後に、源頼家の子である公暁の師となるが、この時点では公胤と公暁との間に師弟関係はない。


 京都では、一七歳の権大納言九条道家が侮れない若者であると認識する者ならば多く、九条道家に比べると見劣りすると捉えられていたのがこれまでの源実朝である。特に、どうしても源頼朝と比べられてしまうことの多い源実朝は、その幼さが頼りなさのイメージに直結していた。

 これまでは。

 従三位に上り詰めたことで源実朝は九条道家と同様に侮れない若者であるという評判を生まれ、この国は、京都に一七歳の九条道家が、鎌倉に一八歳の源実朝がおり、その上に三〇歳の若き治天の君である後鳥羽上皇が君臨するという若き政治体制が確立したのだと見るようになった人が増えたのだ。

 九条道家の侮れなさは、九条道家の個人としての資質もあるが、九条家のバックボーンも存在する。藤原道長をはじめとする藤原摂関家の残してきた記録があり、藤原冬嗣以降の藤原氏の者が受けてきた教育システムも存在する。生来の資質に恵まれなかったとしても、背景があれば若さを補える。それが九条道家の評判を呼び寄せている。一七歳という若さでも、九条道家には藤原摂関家のトップに立つことが宿命づけられてきた者だからこそ得ることのできる背景が、九条道家の侮れなさという評判を呼び寄せるのに役立っている。

 一方、鎌倉幕府には九条家のようなバックボーンが存在しない。政治家としての資質に多少の難ありであろうと、九条家の人間であれば九条家のバックボーンは利用できるのに対し、源実朝が利用できるのは鎌倉幕府の人員だけである。おまけに、源実朝が比べられる人物は九条道家だけではなく源頼朝も存在する。いや、源頼朝との対比がまずは存在し、その後で、源実朝と一つ歳下である九条道家との対比が存在するといったところか。おまけに源実朝はこれまでの人生で一度も京都に姿を見せていない。つまり、京都の人達にとっては源実朝という人物が遠い相模国鎌倉の地にいることは知っているが、具体的なイメージを伴わない人物と見られていた。

 そのイメージが一変した。

 源実朝という若き政治家が世に登場した。これは大きなインパクトであったが、鎌倉幕府という組織に対するインパクトも現れた。これまでは源頼朝が極めて優秀な政治家であることを認めてはいたが、鎌倉幕府は源頼朝の元に集った東国武士の集団であり、軍事的インパクトはあっても政治的インパクトは無いと考えられていたのである。

 しかし、ここで一八歳の源実朝が政治家として存在した。

 鎌倉の地で若き俊英が無から登場したのではない。

 鎌倉幕府が若き俊英を作り出す組織になったのだ。

 ここでヒントとなるのが承元三(一二〇九)年一〇月一五日に開催された源実朝と公胤の対談、そして、一〇月一七日の公胤の帰還である。

 ともに中原広元が絡んでいるのだ。前者については中原広元がメインとなって介在し、後者については数多くの御家人達の中の中心に中原広元がいる。鎌倉幕府には中原広元をはじめとする文人官僚達がいて、彼らは京都で地位を掴めなかった代わりに鎌倉を選び、生まれの地位の低さから認められてこなかった者が、鎌倉では認められて重宝されている。その面々がブレインとして控えているのが源実朝なのだ。


 吾妻鏡を読んでいるだけでは源実朝が政治家としての名声を獲得していることを読み取れない。それどころか和歌に耽溺する軟弱な将軍というイメージを意図的に構築しているとさえ感じられる。

 承元三(一二〇九)年一一月四日、源実朝が臨席しての弓道大会が開催されたとある。それだけであれば鎌倉の武士達においておかしくない話なのであるが、関東武士は馬と弓矢の訓練を忘れてはならないと北条義時が進言したために開催されたというのが吾妻鏡の記載だ。

 さらに七日にはこの弓道大会の結果を踏まえての大宴会があったとある。それも御所に御家人達が集まって飲めや歌えやの大騒ぎであるから、源実朝も当然ながら臨席している。この場で北条義時と中原広元が、武芸を高め、朝廷を守ることこそが鎌倉幕府の安泰につながると演説をしたというのが吾妻鏡の記載だ。

 ここまでの記述であれば武芸を疎かにして軟弱な趣味に耽溺している源実朝と、鎌倉武士としての本分を忘れずにいる北条義時という構図になるであろう。しかし、ここで忘れてはならない点が二点ある。一つは吾妻鏡では源実朝自身の武に対する記載が意図的に省かれていること、もう一つは、源実朝は武士である前に貴族であり、将軍は貴族としての職務の一つであるということである。源実朝という人物は、武士であるか否かと問われれば武士であると答えるべき人物であるが、武士であるか貴族であるかと問われれば、貴族であると答える、あるいは、武士でもあり貴族でもあると答えるべき人物なのだ。極論すれば、源実朝が武芸に対する理解を示すのは必須であっても、武芸への興味を示すことは必須ではない。知っていて損をするわけではないが、最優先で身につけるべきことではない。それよりも、政治家として鎌倉幕府をいかに統治するかが源実朝に課せられている最大の使命であり、役割であって、源実朝が身につけるべきはそうした政治学の知識である。武士であるならば武芸に時間を費やすことはプライベートではなくオフィシャルになるが、政治家たる貴族であるならば武芸に時間を費やすることはオフィシャルではなくプライベートになるのだ。

 実は、源実朝自身の武芸鍛錬有無についての記録は確認できない。しかし、源実朝は間違いなく武芸鍛錬に対する理解を示していたことが他の記録から確認できるのである。

 その記録を残しているのは、方丈記の作者としても名を残している鴨長明。これより二年後のことになるが、鴨長明は鎌倉を訪問し源実朝と面会している。鴨長明は現在でこそ方丈記の作者として名を残しているが、この時代の鴨長明は有名な歌人という扱いである。鎌倉までやってきたのも同じ源実朝と和歌を通じたつながりであり、和歌に耽溺する源実朝が著名な歌人である鴨長明を呼び寄せたという図式だ。ところが、そのときの面会の記録は、和歌についての語らいではなく、源頼朝の思い出、そして、源頼朝が示していた武士達の武芸鍛錬の様子であったのだ。鴨長明は源頼朝と面識があり、また、源平合戦を同時代のこととして体験している。一方、源実朝はいかに源頼朝の実子であるとはいえ、源平合戦の頃はまだ生まれていない。つまり、武芸鍛錬の結果が如実に示される戦場の様子となると、幕府のトップである源実朝よりも、実際に戦場を目の当たりにしてきた鴨長明のほうが詳しくなるところなのであるが、源実朝と鴨長明との面会の場で起こったのは、予想とは逆に、源実朝の語りが鴨長明の体験を凌駕していたことなのだ。

 鴨長明は武士ではなく、一人の民間人として源平合戦の戦場を体験した。一方の源実朝は源平合戦そのものを体験してはいなくても、武芸そのものは理解していたのである。だからこそ、武芸の重要性と、その成果を発揮すべき局面を理解し、その上で政治家として判断でき行動できているのだ。

 北条義時の演説の一〇日後、源実朝は北条義時に対して政治家として行動した。スタートは北条義時から源実朝への要望である。北条義時がこの日、北条義時に古くから支えてきた武士達を鎌倉幕府内において御家人に準じた扱いとすることを求めたことから始まった。北条義時に仕えてきたということは、源頼朝が伊豆の流人であった頃から北条家に仕えてきたことを意味する。源平合戦勃発時から源頼朝に仕えていた御家人は数多くいるが、伊豆で流人生活を送っていた頃から仕えてきた御家人となるとその数は少なくなる。その数少ない御家人のうちの一人が北条義時であり、その北条義時に仕えてきた古参の武士となると、かなりの確率で源頼朝に仕えてきた古参の武士ということになる。ただし、源頼朝に直接仕えたのではなく、間に北条家というワンクッションを挟んでいる。

 温情を考えれば北条義時からの申し出も理解できなくはないが、このときの源実朝からの返答は、否。そのようなことを認めては北条義時一人が他の御家人達と比較して扱いがあまりにも大きくなってしまうだけでなく、将軍以外の者に仕えることで運命が変わってしまうという先例を生み出してしまう。それでも御家人に準じる地位を得た初代はまだいいが、代を重ねるに従って大きな問題へと発展することとなるというのが源実朝からの答えである。まるでこの後の鎌倉幕府の迎える運命をこの時点で知っているかのような返答であるが、このような指摘は多少なりとも政治を学んだならば誰もが思いつくことだ。組織の誕生から衰退に至るまでの経緯において、衰退のきっかけとなる要望に対し、温情で応えるのではなく歴史で拒絶することができるというのは、理論上こそ誰でもできるものだが、実際には簡単にできるものではない。目の前にいるのは父の忠臣でもあり、母の弟であり、鎌倉幕府の有力者の一人なのである。その人物からの要望を政治家として排除したのだ。

 ここまでであれば歴史に基づく判断を下した冷酷な統治者となるが、源実朝は冷酷と温情の双方を理解し、その使い分けも理解していたと言える。

 どういうことか?

 北条義時からの申し出を拒否してから二日後の承元三(一二〇九)年一一月二〇日、源実朝のもとに届いた諸国からの要請に対し、源実朝は実力主義を以て回答とすることにしたのである。

 具体的には、各国の治安情勢悪化を嘆く書状が源実朝のもとに届いており、源実朝はその原因を、諸国の守護や地頭の職務怠慢、ないしは、能力不足と考えたのである。初代はいい。その実力に応じた守護や地頭の任命なのであるから、任命に応える結果を出す可能性が高いし、実際に結果を出した者は鎌倉幕府の内部において地位を高め、働きに応じて新たな所領を手にできる。御恩と奉公の図式が成立する。

 問題はここから先。代が変わると守護や地頭として手にしている権利が世襲となってくる。そして、多くの場合において、世襲で守護や地頭となった者は手にした権利に見合った働きをしなくなる。そのわかりやすい結果が治安の悪化だ。

 源実朝は結果を出していない守護や地頭を排除するだけでなく、実力ある者を取り立てる仕組みを、それこそ、先に北条義時が要望した御家人に仕える武士の抜擢も含む仕組みを構築することとし、和田義盛、中原仲業、清原清定の三名に守護と地頭の調査と人員採用を命じたのである。

 ここまでであれば源実朝の政治家としての能力の高さを示すエピソードとなるが、この後で源実朝は失敗している。前段の守護と地頭の見直しを命じられてから七日後、和田義盛が源実朝に対して再び上総介就任を望んだことに対し、源実朝は判断を待つように応えている。承元三(一二〇九)年末までの時点で評価するならば及第点であるが、後の歴史から考えるとこの判断は源実朝のミスとするしかなかった。


 どうして承元三(一二〇九)年末までの時点での評価となるのか?

 これは承元三(一二〇九)年一二月一一日の出来事を考える必要がある。

 この日、美作朝親と橘公成との間で一悶着起こったのである。美作朝親と橘公成の両名の住まいは近い、いや、近いなんてものではない。何しろ両者の住まいの門が向かい合わせなのだ。

 こんな間近に住まいを構える鎌倉武士同士の衝突だ。単なる殴り合いで済む話ではない。互いに武装して向かい合うという事態に発展したのだ。

 美作朝親は源を姓とする武士であることまではわかっているが、このときが史料の初出であり、詳細な系図は不明である。村上源氏の流れを汲む可能性が高いが、清和源氏の血筋であるともされている。

 橘公成は史料によっては橘公業と記されることもある武士であり、名だけを見ると貴族の一員に感じるが、この人の史料初出は源平合戦勃発間もない治承四(一一八〇)年まで遡ることができ、その史料の内容も、平知盛の家人であった橘公成の父とともに源頼朝のもとに投降し、以後は鎌倉方の一員として活躍するようになったというものである。

 ともに武士である二人が衝突する、それも鎌倉市中で衝突するということで大問題となるはずであるが、ここにさらに問題が重なった。本来であれば問題解決にあたるべき侍所別当和田義盛が橘公成の側に立つと明言したのである。いや、和田義盛としての意見ではなく、三浦一族が揃って橘公成の側に立つと宣言し、和田義盛は三浦一族の一員として橘公成の側に立つこととしたのだ。

 一方、美作朝親の側のほうも多勢に無勢というわけではない。確認できるだけでも、甲斐源氏の主軸であった武田一族と、同じく甲斐源氏の一員である小笠原一族が美作朝親の側に立つこととなった。

 この騒ぎを聞きつけた源実朝はただちに和田義盛に対して騒ぎを鎮めるように命じようとしたが、上述の通り和田義盛は既に三浦一族の一員として橘公成の側に立っている以上、呼び戻せなくなっている。

 そこで源実朝は、北条時房を派遣することとした。

 結論から記すと、一触即発の状態であったのが、北条時房の仲介によって無事に戦闘回避に成功した。

 それにしても、どうしてこの両者は対立し、一触即発の事態に陥ったのか?

 吾妻鏡の伝えるところによると色恋沙汰であるという。

 実際にいつのことかはわからないが、美作朝親の奥さんが行方不明となってから数日を経た後、彼女が橘公成の邸宅内で橘公成と肉体関係となっていることが判明した。美作朝親は妻の浮気を咎め、浮気相手に妻を引き渡すように求めたのであるが、橘公成はその女性が美作朝親の妻であるとは知らなかったわけで、浮気だと言われるところまでは納得できても、返せと言われて素直に応じるのは難しかった。そもそも、先に家出があり、橘公成は家出をして寝起きする場所を失った女性を匿ったことからスタートしての肉体関係であって、拉致したわけではないのである。ただし、美作朝親にしてみれば橘公成の返答のほうが納得できない話であり、先に浮気関係があって、その後で家出と同棲になったと考えるのが自然だ。

 どのような事情で対決姿勢を見せるようになったのかを調べた源実朝は、橘公成に対して彼女を美作朝親のもとに返すように命じ、両名に対して矛を収めるようにさせたというのが吾妻鏡での記載である。

 ただ、吾妻鏡のこのあたりの記載は不自然に感じる。

 たしかに鎌倉武士の気質は短期で物騒である。厳密に言うと南北朝時代の作品であるためこの時代の作品ではないが、かの有名なマンガ作品にある「侍の本懐とはナメられたら殺す」はこの時代の鎌倉武士にも通用する考えなのだ。不快な思いをさせられたとき、司法に訴えるより先に武力に訴えるのが当たり前の鎌倉武士であるから、このときも美作朝親と橘公成の間の対立は、現代人からすると武装して向かい合うより法の裁きに従うべきではないかと考える内容であろうと、簡単に武装して向かい合う。

 ただ、それにしても大袈裟に感じるのだ。

 そこで、この両者の対立ではなく、この両者のサポートに入った面々に目を向けてみると、実に単純な図式が見えてくる。

 村上源氏か清和源氏か不明であるものの、源氏の一員としてカウントされる美作朝親のもとには甲斐源氏の末裔達が集っている。

 一方、橘公成のもとに集っているのは三浦一族である。三浦一族は桓武平氏の末裔である。

 一見すると源氏と平氏の関係のように見えるが、源頼朝の挙兵時に鎌倉方の一員として参加したのは三浦一族のほうであり、源氏の一員としてカウントされる美作朝親や甲斐源氏達は、打倒平家として立ち上がったものの途中までは源頼朝と距離を置いていた面々である。今でこそともに鎌倉幕府の御家人達の一員となっているが、スタート時から鎌倉方であった面々と、途中から鎌倉幕府に加わった面々との対立があったと考えることもできるのだ。

 吾妻鏡はこのときの騒動を、北条時房の仲介によって一時的に騒動は鎮静化し、源実朝の命令によって騒動は立ち消えとなったものの、美作朝親はなお戦闘準備を隠さないでいると結んでいる。

 ただし、公的には一二月一七日に美作朝親と橘公成の両名が矛を収めたこととなっている。


 承元三(一二〇九)年一二月一五日。前述の守護と地頭の見直しについての第一段として、関東近隣の守護の見直し結果が発表となった。

 ただ、その結果は源実朝の期待を裏切るものだった。

 全て現状維持であったのだ。

 特に、下総国守護千葉成胤、相模国守護三浦義村、下野国守護小山朝政の三名が揃って、自らが守護であり続けることの根拠となる文書を持ってきたことは、源実朝の想像を超えていた。

 下総国守護千葉成胤が下総国の国守護である根拠が、祖父の千葉常胤に源頼朝が下総国守護の権利を与えたことに基づくとした。さらに千葉常胤が下総国守護となった理由も、祖先である千葉元永が千葉荘の保有権を有していたことに由来するとした。

 相模国守護三浦義村も千葉成胤と同様に、自分が相模国の国守護である根拠が、父である三浦義澄が源頼朝から相模国守護の権利を受けたことに由来するとした。それも、源平合戦初期に戦死した祖父の三浦義明が天治年間から、西暦に直すと一一二四年から一一二五年の段階で既に相模国の国衙で鎌倉幕府の守護と同等の働きをしており、源頼朝がその功績を評価して、三浦義澄を相模国守護に任命したという証拠を示した。

 歴史という点で最も威力を発揮したのが下野国守護小山朝政である。何とこの人は自らが下野国守護である根拠を、平将門の乱における俵藤太藤原秀郷の功績に由来するとしたのだ。厳密に言うと源頼朝がその時代からおよそ一七〇年前の藤原秀郷の功績を評価し、下野国守護とするとしたのである。

 歴史というのは強力な武器になる。証拠のある歴史はさらに強力な武器になる。組織の祖先の残した記録は、これ以上ない強力な武器になる。

 吾妻鏡に具体名が残されているのはこの三名のみであるが、その他の国の守護についてもこの三名と同様に源頼朝の記した書状を持参していた。こうなると、いかに治安問題の懸念があろうと源実朝の一存で守護や地頭の交替はできなくなる。中原広元と協議した上で、源実朝は自らの目論んだ守護と地頭の入れ替えについて断念せざるを得ないこと、ただし、守護と地頭のチェックについては怠らないことを示すのみとした。

 それにしても、政所別当から離れたはずの中原広元がこうした場面には頻繁に登場するのを誰も何も文句を言っていない。このときの守護と地頭のチェックについて主軸を担ったのは中原広元であり、翌年のこととなるが、中原広元が鎌倉幕府の使者として京都に派遣されることとなることについても誰も何も指摘していない。


 承元四(一二一〇)年二月二一日に中原広元が京都に派遣された表向きの理由は、明王院僧正公胤が指導僧をつとめる後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事に参加するためである。

 公胤と言えば、比叡山延暦寺対策のために源実朝が招いた園城寺の僧侶である。

 その僧侶が京都で開催される法事に参加する。それだけでもただの法事ではないことがわかるが、その法事に鎌倉幕府から中原広元が派遣されるというのは、理論上こそ一人の貴族が京都まで出向いて法事に参加するということであっても、実際には誰もそのような理論を信じない。いかに政所別当の地位から降りていると言っても朝廷官職から完全に離れたわけではなく、依然として位階も手にし続けている。つまり、鎌倉幕府の息の掛かった貴族を京都に派遣することを意味する。

 この一五〇年間、京都内外の人達は比叡山延暦寺の僧兵達が繰り広げる武装デモに悩まされ続けてきた。実際には延暦寺以外にも様々な寺院や神社が武装デモを繰り広げてきたが、強訴と言って思い浮かべる代表は延暦寺であり、延暦寺は信仰の対象であるよりも先に憎しみの対象であった。強訴として朝廷に要求を突きつけるだけではない。何しろ日常生活が破壊されるのだ。

 僧兵達にしてみれば強訴と呼ばれる筋合いもなく正当な権利であると考えていたが、被害に遭っている人にとっては迷惑千万な悪行であった。その悪行に対して武力で抵抗できる伊勢平氏や清和源氏を抱えることで歴代の院政は、積極的支持ではなく消極的支持ではあるものの、権力者としてのコンセンサスを得る契機とし、権力を維持できる手段としてきた。その流れの延長線上に後鳥羽院政があり、後鳥羽院政の協力者である源実朝が、遠く相模国鎌倉の地から京都内外の人達を守っているというイメージを創り出すことができたのである。

 源実朝はその後も京都と鎌倉との人員の行き来を活発化させている。源実朝自身は鎌倉に留まり続けたが、高倉天皇の第二皇女である坊門院範子内親王の死の知らせを受けて弔問の使者を派遣し、京都からの要請に応じて滝口武士の補充のために鎌倉武士を派遣するなど、人の流れを活発化させた。実際にこのときは、小山、千葉、三浦、秩父、伊東、宇佐美、後藤、葛西をはじめとする計一三の家から滝口武士が派遣されている。

 また、京都だけでなく奥州平泉についても源実朝は視線を向けている。奥州遠征後のかつての奥州藤原氏の領地をそのまま継承した鎌倉幕府は、平泉を軸とする東北地方の経営に対する責任も有していた。それまでおよそ一世紀に亘って支配してきた奥州藤原氏の権力が喪失したことは、何もしないでいると東北地方が無秩序な状態に陥ることを意味する。奥州遠征は単に奥州藤原氏を滅亡させることだけがゴールではない。奥州藤原氏の権力を鎌倉幕府がそのまま継承することで東北地方の秩序を維持し、発展させる義務を果たしてはじめてゴールとなる。これは古代ローマのユリウス・カエサルが採用した方法と同じであるが、新たに制した土地を統治するためには、反抗しないという前提で既存の権力構造を残しておいた方がいい。既存の権力構造を残し、反抗する部分だけを交換すると、反抗を未然に防ぐことができる上に、制する前と変わらぬ、あるいは制する前よりも優れた庶民生活の向上を果たすことができる。鎌倉方の奥州遠征についていうと、倒すのはあくまでも奥州藤原氏とその同調者のみであり、遠征終了後は倒した者の代わりに鎌倉方の面々を配置しただけとすることで、その他の権力構造は残している。

 源実朝が着目したのは、配置した鎌倉方の面々の状況だ。奥州藤原氏滅亡後、衰退してきている平泉の寺院群から源実朝のもとに寺院の衰退を訴える書状が源実朝に届いたため、承元四(一二一〇)年五月二五日に源実朝は中原広元を通じて統治の適正化を命じている。

 それにしても、いつの間に中原広元は京都から舞い戻ってきたのか、この人の健脚ぶりは気になるところである。中原広元は久安四(一一四八)年生まれであるから還暦をとっくに超えている。現在ならばともかく、この時代では平均寿命をとっくに通り越した高齢者だ。


 政治家としての源実朝の活動は前年から既に見えていたが、承元四(一二一〇)年に入るとより活発化することとなる。

 まず、時間は少し遡ることとなるが、中原広元を京都に派遣してからおよそ一ヶ月を経た三月一四日に武蔵国の検地台帳を作るよう命じた。検地自体は建久七(一一九六)年より断続的に実施していたが、その結果をまとめてはいなかったのである。検地結果をまとめる台帳の作成をこの日、まずは武蔵国から始めることとしたのだ。どんな施策であろうと、まずは現状把握から始まる。検地は土地政策における現状把握手段であり、実際に土地の利用状況、田畑の面積、そして所有権と保有権を調べることを源頼朝はスタートさせていたのであるが、調べるだけでまとめてはいなかった。まとめる前に亡くなってしまったからで、政策は宙に浮いた状態になっていたのである。源実朝は中途半端に留まっていた検地結果を改めてまとめることとしたのである。武士にとっての土地の重要性は記すまでもない。そのために所領争いは武士同士の対決における最多紛糾事由である。その紛糾を未然に防ぐためもあって、鎌倉武士達は源実朝に従ったのである。

 ただし、皮肉なこととでもあるが、六月三日のこととして、土地の重要性とは関係ないところで武士と武士との諍いがあったことが吾妻鏡に記されている。

 吾妻鏡によると、相模国丸子川、現在の神奈川県小田原市のあたりで、土肥家と小早川家の一族と、松田家と河村家の一族との、二対二の喧嘩があったという。二対二といっても二名対二名という戦いではなく、家単位の軍勢が二つずつまとまり、それぞれの軍勢が争うのである。実際にはまだ軍勢出動とはなっていないが、いつ軍勢同士の衝突があってもおかしくないというのだから穏やかではない。

 争いのきっかけは、納涼のために川沿いで涼んでいたところ、互いの先祖の手柄の優劣をめぐる口論となり、口論が発展して暴力になり、傷つけられた者が出て、互いに勢いを増していって、軍勢となり、衝突寸前となった。

 この知らせを聞きつけた源実朝は、侍所別当の和田義盛に加え、三浦義村も現地に派遣して強引に対立を強制終了させた。

 なお、この喧噪に関して北条義時は、今後このように武士同士の対立の末に軍勢を集めた者については、所領を没収するだけでなく、鎌倉幕府の御家人とは認めず幕府から追放すべしと述べ、この主張を記した書状を土肥家と松田家へ書状を送り届けている。ただ、ここで奇妙なことが起きている。

 源実朝が従三位に昇叙したことで政所を設置する権利を獲得したと同時に、北条義時は御教書を発行する権利を失っている。前述の通り、北条時政の御教書は最低でも二六通が現存するのに対し、北条義時の御教書は贋作の可能性がある文書を含めても五通しか存在していない。一方、御教書ではなく、政所発給の文書として北条義時の署名が記された鎌倉幕府の書状となると、一六通現存する。そして、そのうちの一〇通は源実朝が亡くなった後の書状である。ところが、残る六通は承元四(一二一〇)年の一年間に集中しているのだ。なお、現存する六通のうち六月三日の出来事に対する書状そのものは含まれていない。つまり、吾妻鏡には北条義時の名の書状が出されたという記録があるものの、その書状そのものは現存していない。

 そこで現存する北条義時の署名入りの書状を調べると、源実朝の名で発給する政所の書状に、他の者と同調して署名したに過ぎないこと、すなわち、北条義時の独断ではなく、衆議の上での決断と署名であったことがわかる。

 吾妻鏡では北条義時が厳しい処断を下して書状を書き記したかのように描いているこのときの情景も、実際には衆議を重ねた末に下された源実朝の政治家としての判断、それもかなり厳しい判断があり、北条義時は政所の一員として将軍の発給する書状に自らの署名を加えただけだったのではないかと類推されるのである。まるで源実朝は政治家として何もしていなかったと描くために、源実朝ではなく北条義時が処断したかを後世に伝えるかのように。


 先に述べたように、侍所別当和田義盛は上総介就任を望みながら放置されていた。

 源実朝が和田義盛の上総介就任について朝廷や後鳥羽院に打診したという記録はない。しかし、もしかしたら朝廷のもとに、和田義盛が上総介就任を望んでいること自体は情報として届いていた可能性ならば存在する。

 承元四(一二一〇)年六月一七日に、空席となっていた上総介の地位を後鳥羽上皇が埋めたのである。後鳥羽上皇が任命した上総介は藤原秀康、北面武士の一人としてこれまで後鳥羽上皇の周囲に仕えていた武士である。

 武士であっても前述のように北面武士であり、鎌倉幕府の御家人ではない。もっとも北面武士に限らず、鎌倉幕府の一員ではない武士は珍しくない。鎌倉幕府の勢力が圧倒的であるとはいえ、また、この時代の武士の多くが鎌倉幕府の支配下に組み込まれるようになっているとはいえ、武士が一人残らず源実朝に臣従するようになったわけではない。鎌倉幕府はあくまでも源実朝に仕える人を束ねている組織であって、武士であるが源実朝に臣従しているわけではないという武士はそれなりの人数がいたのである。

 先に述べたが、平家政権の頃には左衛門尉を長年務めたあとでどこかの国の国司になるという武士にとっての最高級のキャリア、「侍受領」が存在していた。和田義盛はこれを望んでいたのだが、後鳥羽上皇は自身の周囲に仕えてきた武士に対する恩賞として侍受領を与えたのだ。それも、侍受領でもおかしくない血筋の武士に与えたのである。

 藤原秀康という武士であるが、実は上総国司が最初の国司就任ではない。下野国、河内国、備前国、能登国といった国々の国司を経験しており、上総介就任は五ヶ国目であるから、侍受領としてはかなりの成功事例である。また、藤原秀康は平将門の乱で戦功を挙げた俵藤太こと藤原秀郷の子孫であり、武士としての血統でいうと源氏をも上回っているだけでなく、藤原秀郷が藤原北家でもあるため藤原秀康も藤原北家の系図に名の乗る人物であり、国司の歴任状況からもわかるとおり、武士であると同時に貴族の一員に列せられている人物である。

 こうなると、桓武平氏の血を引いているとは言え貴族の一員とカウントされることのなかった人生を歩んできた和田義盛には勝ち目がない。和田義盛としては、本心としては黙っていられる話ではなかったが、藤原秀康の上総国司就任は後鳥羽上皇直々の任命である上に、既に貴族の一員として各国の国司を歴任してきたキャリアを有する人物が上総国司としてやって来るのであるから黙っているしかない。選挙で首長が選ばれる現在と違い、国司や守護といった令制国単位の総責任者というものは中央から人員が派遣されるものという概念が通例であったのがこの時代であり、和田義盛の方が現地に詳しいというのは国司に抜擢される理由にはならない。後鳥羽上皇が派遣する人物がこれまで複数国の国司を歴任してきた実績を有し、その人物が過去の経歴を携えて関東にやって来て上総国司として申し分ない働きをするならば、自分はまだその人物の力量に至っていないと考えて自分で自分を納得させることも不可能ではないのだ。

 ところが、七月二〇日にとんでもない情報が飛び込んでくる。

 この新任国司の統治が悪政極まりないという苦情が飛び込んできたのだ。

 先例を無視しての勝手な振る舞いなだけでも大問題なのに、上総国衙の役人達の嘆きを無視して暴れ回るだけでなく、現地の農民を藤原秀康に仕える武士が斬り殺したとあっては取り返しの付かない問題だ。

 この問題を受けた鎌倉幕府では、北条義時、中原広元、三善康信といった面々が集まって事後対応を協議することとなったが、何と言っても後鳥羽上皇の派遣した国司である。鎌倉幕府ができたのは後鳥羽上皇に対して苦情の書状を送ることだけであった。

 このことに対し、和田義盛がどのような思いであったのかを伝える史料は無い。

 一方、藤原秀康は今後も登場する。より厳密にいうと、これより一三年後に鎌倉幕府の強大な敵として登場することとなる。


 はっきり言って、後鳥羽上皇が藤原秀康を上総国に派遣したことは大失敗であった。いかに各国の国司を歴任し、また、北面武士として鎌倉幕府とは独立した独自の武力を有している人材を派遣したとしても、現地でやっていることは看過できることではないとなると、後鳥羽上皇の失策とするしかない。

 どうにかして納得できる理由を探すとすれば、観測気球といったところか。鎌倉幕府の勢力が極めて強い地域に独自の武力を持った人物を国司として送り出すことで、鎌倉幕府に対する楔(くさび)を打ち込めるのではないかと観測するのである。これならば、藤原秀康を上総国に派遣したこともどうにか理解できる。

 理解はできるが、軽率にすぎる。

 そもそも観測気球というものは、飛ばした側だけでなく、飛んできた気球を見上げる側にとってもリアクションのきっかけとなる代物だ。後鳥羽上皇が院の権力で国司を任命して実際に現地に派遣したことは、そして、この新任国司が現地で何をしたかを見つめ直すことは、鎌倉幕府の側にも行動を起こすきっかけとなる。

 何度も述べているが、そもそも鎌倉幕府という単語はこの時代に存在しない。幕府という単語も漢語に詳しい人であれば戦地における陣を意味する単語であることは理解しても、それが現代人の考えるところの政治機関と同義とは考えない。

 しかし、鎌倉幕府という概念ならばある。相模国鎌倉に根拠地を構える武士集団であり、そのトップには従三位の位階を持つ貴族が征夷大将軍として君臨していることは、この時代の人であれば誰もが知っている。

 同時代の歴史資料では、鎌倉幕府のことを「関東」と記すことが多い。元々「関東」とは現在の関東地方だけでなく、東海や北陸、東北地方にいたる東日本全域を指す名称であったが、この時代になると現在の我々が考える関東地方とほとんど同じエリアを指す名称となり、同時に、鎌倉幕府の権力そのものを指す名称となった。「永田町」といえば政治、「霞ヶ関」といえば官僚、「兜町」といえば金融街を指すのと似た感覚といえよう。

 そのことは鎌倉幕府の方も理解しており、関東とは我々のことであり、関東地方とは我々の根拠地であると認識もしていた。

 後鳥羽上皇が国司を関東地方に送り込んだ。ここまではこの国の法制上何ら問題ないことである。しかし、その国司が国司としての政務を果たさないとなると、鎌倉幕府としては院に対する敬意を喪失させるに十分な大問題となる。かといって、現実問題、この国司を無視して独自の国司を鎌倉幕府が任命することなどできない。従三位の貴族である源実朝が鎌倉幕府の御家人の誰かを鎌倉地方の国司として朝廷や院に推薦することまではできても、その人物を国司に任命することまではできないのである。

 ただ、鎌倉幕府には一つの特権が存在する。各地の守護と地頭を任命し実際に派遣できるという特権である。名目上はあくまでも鎌倉幕府の送り込んだ人材であり、朝廷官職に基づく人材ではない。鎌倉幕府の中には五位以上の位階を有してどこかの令制国の国司になる資格を有している者もおり、かつての北条時政のように、一人の人物が国司を務める令制国と守護を務める令制国が別々であるということもおかしくないのである。国司や郡司は律令に基づく国家官職であるのに対し、守護も地頭も鎌倉幕府という組織の中での独自の役職である。現在の感覚でいうと、国司は都道府県知事、郡司は市区町村長に相当するのに対し、守護や地頭は政党の各地の支部の支部長といったところだ。ただし、現在の政党と違って鎌倉幕府は軍事力を有している。各県の県警が形骸化して機能していないというべき時代において、地域における最大規模の警察権力でもある上、合法的な司法権も握っている。現在の政党であれば、政党のその地域の支部の支部長であることなど、その政党とは無関係の人物にとってはどうでもいいことであるが、この時代の人にとっては守護が誰で地頭が誰であるかは極めて重要なことである。

 一度は中断していた守護と地頭の見直しについて、源実朝は再度手をつけることとしたのである。藤原秀康のように武力を持つ国司であろうと、鎌倉幕府の守護や地頭に勝てる武力まで手にしているわけではない。力でねじ伏せるなど物騒ではないか感じるかもしれないが、暴れ回る国司を押さえつける鎌倉武士という構図を作り上げることに成功すれば、統治における大きなメリットを享受することとなる。


 承元四(一二一〇)年後半の吾妻鏡の記載は、源実朝があまり政務に携わっていないかのような記し方をしている。しかし、記録をよく読むと、源実朝は合格点をつけて良いレベルの政務をしている。忘れてはならないのは、このときの源実朝はまだ二〇歳にもなっていない少年だということだ。

 たとえば承元四(一二一〇)年一〇月一五日には、中原広元に命じて聖徳太子の十七条憲法や物部守屋の旧跡、押収された田畑の数やその田畑の所在地といった情報を、天王寺や法隆寺といった寺院から取り寄せている。吾妻鏡にはただ当時の歴史資料を取り寄せたとしか記しておらず源実朝の真意など全く記していないが、どのような思いでこれらの歴史資料を取り寄せたのかは源実朝の立場に立つと理解できる。

 これ以上ない先例なのだ。

 現在と違い、この時代は聖徳太子の業績が全て事実と考えられていた。厩戸皇子という呼び名など一部の歴史学者しか知らず、聖徳太子という名が人口に膾炙されていた時代である。その時代に聖徳太子の記録を取り寄せるということは、単なる歴史趣味ではなく、統治における正統性(レジティマシー)を獲得する契機となる。

 記紀に従えば、聖徳太子という人物はそれまで朝廷において圧倒的な軍事力を有していた物部氏を滅ぼし新たな政治を構築した人物である。

 そして、聖徳太子の時代と承元四(一二一〇)年とを比較すると、鎌倉幕府はむしろ物部氏の側に位置することとなる。源実朝の時代の鎌倉幕府は朝廷権力に滅ぼされた物部氏の途中経過であるとも言えるのだ。

 源実朝と後鳥羽上皇との関係が悪いわけではない。ただ、その関係が永続するとは限らない。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を何かと厄介に感じていることは周知の事実であるし、後鳥羽上皇と源実朝との関係が良好であるといっても、後鳥羽院と鎌倉幕府との関係まで良好であるとは言い切れない。ましてや北面武士の一人を鎌倉に国司として派遣しただけでなく、これまでとは違う新たな武装勢力である西面武士を結成させている。西面武士の武力は鎌倉幕府と比べてまだまだ小さいが、聖徳太子が物部氏を滅ぼしたときに聖徳太子が操ることのできた武力もまた、当時の物部氏の武力と比べれば小さいのだ。後鳥羽院との関係を考えたとき、武力の大小は必ずしも戦闘の勝敗を確約するものではないという先例から得られる教訓はいくら学んでも足りない。

 さらに源実朝は一一月二三日に奥州十二年合戦絵巻を京都から取り寄せている。いわゆる前九年の役の絵巻だ。清和源氏が武士として権勢を築くきっかけとなった一八〇年前の戦いの絵巻を取り寄せたことを、吾妻鏡は実にあっさりと書き記している。しかし、京都の立場から捉えると、鎌倉の、特に源実朝の動きが不気味なものとなる。後鳥羽上皇が武士でもある北面武士を国司として関東に派遣してからというもの、鎌倉の源実朝が見せている動きが明らかに歴史に紐づく行動に収斂されるのだ。それも、武力行使に関する歴史を取り寄せているのだから不気味とするしかない。

 朝廷や後鳥羽院の側から源実朝の動きを見つめたときの鎌倉幕府の姿勢とは、関東に対する干渉を許さない、武力を発動させるのであれば鎌倉もその用意がある、京都が武力行使に関する論拠を歴史に求めるなら鎌倉も歴史に基づいて行動する、そう捉えられてもおかしくない姿勢である。


 それにしても後鳥羽上皇はどうして観測気球を打ち上げたのか。そして鎌倉幕府はどうして観測気球に対して迅速に対処したのか?

 院政というものは、退位した天皇が上皇や法皇として圧倒的権力を有して朝廷に対する支配をするという構図である。上皇も、法皇も、朝廷に対して示すことができるのは院宣という名の要望であって、実質的にはともかく理論上は何ら法的拘束力を有していない。

 そして、院政を執り行うことができるのは院のみである。ただし、院であれば自動的に院政を執り行えるようになるわけではない。天皇を退位して上皇や法皇になることが重要なのではなく、新たな天皇の父や祖父や曽祖父といった天皇の近親者として強い影響力を与えることができてはじめて院政を執り行うことができる。

 過去三例の院政を見ると、白河法皇も、鳥羽法皇も、後白河法皇も天寿を全うしているが、それは偶然の結果であって、院政を始めたならば終身に亘って院政を執り行うことができるなどという決まりはないし、過去三例の法皇の何れも、時代のただ一人の上皇や法皇であったわけではない。新たな上皇や法皇が誕生しても、新たな院政を開始させることを阻止し続けることに成功していたのである。実際、源平合戦時に一時的に高倉上皇による高倉院政が成立していた時期があった。そのときは高倉上皇が亡くなったことで後白河院政が復活したが、これは再現性のあるものではない。

 以上を踏まえ後鳥羽上皇の立場に立つと問題が出てくる。

 後鳥羽上皇の息子である土御門天皇である。

 土御門天皇は承元四(一二一〇)年時点で、満年齢で一五歳、数えで記すと一六歳である。元服は済ませており、元久三(一二〇六)年に近衛家実は摂政から関白に変わっている。

 そして、院政の構図は関白に比するものである。

 摂政は、天皇が病気や幼少のために天皇としての政務を執ることができない場合の天皇の代行が可能となる職務である。あくまでも理論上ではあるが、天皇が何らかの意思決定をしても、摂政が天皇の意思に反する決定をした場合、摂政の意思が天皇の意思となって国の法律となる。

 一方、関白はあくまでも天皇の相談役であり、関白が何を言おうと天皇の意思決定が求められる。天皇臨席が求められる儀式でやむをえず天皇不在とならねばならないときに、天皇の代役を務めることまでは許されるが、それ以上の権利も権限も持たないのが関白だ。

 そして、上皇にしても法皇にしても公的には何ら権利も権力も有さない。しかし、天皇の父や祖父や曾祖父であるという権威が存在することで、上皇や法皇の言葉は強力な参考意見となって国政に反映されることとなる。これが院政の構造であり、ゆえに院政の仕組みは関白に類している。

 以上を後鳥羽上皇と土御門天皇との関係として捉えると、それまで行使できていた後鳥羽上皇の権威を土御門天皇が拒否することは可能なのだ。もっと言えば、いかに実父であろうと土御門天皇が後鳥羽上皇を無視した独自の政務を執ることも不可能ではないのだ。

 ただ、土御門天皇は大きな欠点があった。

 断じて無能ではない。それどころか、天皇としての資質だけを見れば父の後鳥羽上皇が帝位にあった頃よりも優れていると言える。

 統治者としての思いやりもある。土御門天皇と顔を合わせることのできる人や声を届けることのできる人の思いだけでなく、統治者として日本全体を見渡した上での判断もできる。

 ただ、他者に対して厳しい態度を取ることがないのだ。選挙のある現在では、他者を激しく糾弾した上で自らを強く主張することも当選のための方法の一つであるが、それが政治家としての有能さを示すとは限らないことを多くの人は知っている。それどころか、余計な敵を増やすために政治家としてただただ喧しい存在に終始することとなり、何ら結果を示すことなく次の選挙で地位を失うことも珍しくない。一方、明確な敵を作ることなく他者との融和を図る政治家は、熱狂的な支持を得ることこそないものの、政治家として十分な結果を残すことが多い。もっと言えば、それこそが政治家に求められる資質とすべきことである。

 後鳥羽上皇は明確な敵を作り出して敵を攻撃することで支持を集める政治家であるのに対し、土御門天皇は明確な敵を作ることなく、融和と温和で接している政治家なのだ。しかも、百戦錬磨の政治家というわけではなく、現在の学齢で言うと中学三年生である若き天皇の姿なのだ。

 その若き天皇が、父である後鳥羽上皇の意思、すなわち、明瞭な敵を作り出して敵を攻撃する姿勢に抵抗し、他者との融和を図るようになることは十分に考えられる話であったし。攻撃的な姿勢を崩さないでいる後鳥羽上皇を丸め込むことも、これから起こってもおかしくない話であった。

 意見が対立するとか、自分の意思に逆らうとかならまだいい。だが、自分を丸め込むというのは驚異でしかない。しかも、後鳥羽上皇に存在するのは天皇の実父であるという権威だけなのだ。その権威が息子の帝位の前に霞むようなことがあったら、後鳥羽院の存在意義そのものに悪影響を及ぼしかねないのである。

 普通なら、息子が父を凌駕するのを間のあたりにして第一線から退くことを余儀なくされる展開であるが、後鳥羽上皇にはこの時代ならではの解決方法が存在した。

 土御門天皇を退位させ、新たな者を帝位に就けるのだ。

 現在でも、第一線を退いた者がなお有力者として権威を持ち、新たな権力者の背後で強力な存在であり続けることを院政と比喩することがあるが、本家本元の院政は現在の比喩を軽く凌駕する行動を見せることも珍しくない。

 過去三例の院政で何度も見られてきた院主導による退位と新帝即位は承元四(一二一〇)年一一月にも起こった。

 承元四(一二一〇)年一一月二五日、土御門天皇、退位。

 同日、後鳥羽上皇の子で、退位した土御門天皇から見れば異母弟にあたる守成親王が新たな天皇となる。順徳天皇の治世の開始である。

 なお、退位した土御門天皇に太上天皇の称号が与えられ、正式に上皇となったのは一二月五日のことである。ゆえに、退位してから一〇日ほどは、天皇を退位したものの上皇とはなっていないという空白期間が存在するが、これは珍しいことではない。

 そして、二人の上皇が誕生し、院政を敷く資格を有する皇族が複数名誕生することとなったが、実際に院政を敷く皇族が一人だけであるという図式もまた珍しいことではない。

 ちなみに、勤労感謝の日でもある一一月二三日を過ぎてからの新帝即位のため大嘗祭までおよそ一年の期間があるが、一一月二三日という日付を動かすことはできないため、大嘗祭までおよそ一年間の期間があることは特におかしなことではない。理論上は。

 実際にはこれが大きな意味を持っている。

 どういうことか?

 実は後鳥羽上皇が計画的にこの日付を選んだようなのである。

 建暦元年九月二五日に、後鳥羽上皇は大嘗会、すなわち大嘗祭をテーマにした公事竪義を開催している。通常、議政官は左大臣が議長を務め、太政大臣や、関白専任となった者は、会議の結果について評論することはできても会議そのものに参加することは許されていない。しかし、後鳥羽上皇が開催を命じた公事竪義については関白近衛家実も参加を命じている。

 なお、後鳥羽上皇はこの会議の開催を命じ、臨席してもいたが、御簾の向こうに身を置いて言葉を出さずにいる。そこまではいい。

 問題は、言葉を出さなかったものの行動は示していたことである。藤原定家の日記によると、大嘗祭についての討論をさせるという名目で貴族達が正しい知識を有し、正しい知識を身につけたか否かを確かめたのである。何しろ少しでも間違いがあったならば後鳥羽上皇が板敷を叩いて指摘が飛んでくるというのだから、貴族達も気が気では無かったろう。

 それでも後鳥羽上皇はあるべき大嘗祭を、そして、あるべき平安京の姿を取り戻そうと画策したようで、そのためには大嘗祭を今年ではなく来年に延ばして時間を稼ぐ必要があると考え、その結果として順徳天皇への譲位を今年の新嘗祭の終わった後である一一月二五日にしたと考えられるのである。

 ちなみに、ここで後鳥羽上皇がこだわったのは大嘗祭の開催式次のことはでない。大嘗祭を開催するときの平安京の情景である。


 さて、後鳥羽天皇、土御門天皇と、三種の神器が揃わない状態での即位が続いていた。平家滅亡時、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が壇ノ浦に沈んだために朝廷に存在しないのである。

 そもそも後鳥羽天皇の即時の時点では三種の神器が三つとも存在していないばかりか、平家のもとに安徳天皇、京都には後鳥羽天皇と二人の天皇が並立し、しかも三種の神器は安徳天皇のもとにあったため、皇位継承の正当性すら問題視されるという状況であった。当時の後白河法皇は勘文(かんもん)に対する太上法皇詔書として、後鳥羽天皇の即位の場に、あたかも三種の神器が存在するかのように振る舞うことを求めて後鳥羽天皇を即位させたが、これはかなり無茶な解釈であった。ちなみに勘文とは朝廷からの諮問に対し学者や役人が上申した文書のことである。

 壇ノ浦の戦いで平家が敗れたとき、三種の神器は三つとも海に投げ込まれた。源義経は三種の神器のうちの八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を取り返すことに成功したが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だけは取り戻すことができなかった。結局、三種の神器のうちの一つは後鳥羽天皇の治世中、さらには土御門天皇の治世中も、モノとして揃うことはなかったが、実はそれでも問題なかった。

 どういうことか?

 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)として征夷大将軍が規定されたのである。

 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の歴史は神代にまで遡る。出雲国で素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、八岐大蛇(やまたのおろち)の尾から現れた剣が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)だ。それから景行天皇の時代までは宮中に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が存在し続けたが、大和武尊(やまとたける)の東征時に剣は大和武尊(やまとたける)に託され、大和武尊(やまとたける)の死後、大和武尊(やまとたける)の妻である宮簀媛(みやずひめ)によって天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は尾張国に留め置かれ、それが後に熱田神宮となったというのが神話時代の話である。なお、熱田神宮では天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ではなく草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)としているが、本作では天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の表記で統一する。

 どこまで本当かはわからないが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の実物は熱田神宮にあり、三種の神器の一つとしての天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮の作成した複製品である形代(かたしろ)であるというのは事実である。ちなみに、複製品といっても単なるコピーではなく、神道上はどちらも本物であると扱われる。つまり、壇ノ浦に本物の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が沈んだままである一方で、熱田神宮に奉納されている本物の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は現存し続けている。

 ならば、熱田神宮に命じて天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)を再び作らせるという手段も選べるのではないかとなるが、実はそこまで甘くはない。何しろ熱田神宮からは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)がもう存在するという回答が出ている。

 それが源頼朝であり、源頼朝の子孫だというのだ。

 源頼朝は父系こそ清和源氏であるが、母系は熱田神宮につながる。源頼朝の生母は熱田神宮の宮司の娘であり、源頼朝が熱田神宮とつながっているからことも踏まえて考えた結果、平家は平治の乱の敗者となった源頼朝に死を命じることができず流罪とするしかなかったほどだ。熱田神宮の権威は平家にとって脅威であったが、熱田神宮を中心とする濃尾平野はこの時代の日本国における最大の穀倉地帯であり、熱田神宮が平家に反旗を翻すことは、平安京に対する食料供給が止まってしまうことを意味する。実際、源平合戦勃発ののちに流通が止まり、養和の大飢饉が発生している。

 話を源頼朝とその子孫に戻すと、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は三種の神器のうちの武の象徴であり、武の象徴である天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮の血を継承する源頼朝に受け継がれ、源頼朝が就任した征夷大将軍の地位が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)であるという回答が熱田神宮から出ている以上、皇位継承には三種の神器が欠かせないとするならば、三種の神器の一つである征夷大将軍の地位も欠けることは許されないこととなる。しかも、征夷大将軍に就くことができるのは源頼朝とその子孫だけだというのだから、事態は余計にややこしくなる。

 源実朝まではいい。源頼朝の実の息子だから熱田神宮に連なる血統の人物であり、征夷大将軍としての役割も申し分なく果たしている。後鳥羽上皇との関係も決して悪いとは言えない。だが、それは永続的なものでは無い。

 少なくとも承元四(一二一〇)年一一月時点で源実朝のもとに男児が生まれたという知らせは届いていない以上、源実朝の身に何かが起こったら、その瞬間に三種の神器の一つが欠けることとなる。また、源実朝の血を引く後継者が誕生したとして、その人物が朝廷や院と良好な関係を構築する保証はどこにもない。それどころか朝廷や院に対して叛旗を翻す可能性もゼロではない。この時代の人たちにとって平家政権や木曾義仲は歴史ではなく実体験した過去である。また、実際に朝廷に向かって反旗を翻した平将門のことも忘れてはならない。平将門は新皇宣言から一年も経たずに討ち取られたが、鎌倉方の勢力は三〇年にわたって存続し続けており、鎌倉幕府成立からも一八年を数えている。これだけの年数があれば一時的な勢力とは言い切れない。

 征夷大将軍を三種の神器の一つとするというのは、鎌倉幕府にとっても、熱田神宮にとっても最高のカードであるが、朝廷や院にとっては最悪のダメージポイントなのだ。

 後鳥羽上皇はそのことを理解していないわけではない。後鳥羽帝にとって三種の神器がない状態で即位したという過去は決して拭い去ることのできない人生の汚点であったのだ。土御門帝も後鳥羽天皇と同様に三種の神器が揃わない状態で即位した天皇であったが、後鳥羽上皇ほどにこだわってはいない。こだわっていないというより、後鳥羽上皇が時代の流れの前に妥協を余儀なくされた結果とも言える。

 だからこそ、新たに天皇となる順徳天皇の即位をいかにして三種の神器の揃った状態で執り行うかは、後鳥羽上皇の執念の産物となったのだ。時代に妥協しないために。

 まず、三種の神器そのものは神代に遡ることができるが、即位と三種の神器との関係を調べると、養老律令の神祇令ではじめて法として規定されていること、そして、神祇令に基づいて三種の神器が揃った状態での即位は持統天皇が最初であることがわかる。つまり、たかだか五三〇年ほどの歴史しかない。持統天皇以降の天皇は三種の神器が揃っていることを即位の条件としてきたが、持統天皇より前の天皇は三種の神器が揃っているかどうかなど気にしていなかったとも言える。もちろん、自らの帝位継承において神代まで遡ることができる三種の神器を無視するなどあり得なかったろう。また、法に明記される前から暗黙の了解として三種の神器を即位時の必須としていた可能性もある。ただ、法は法、暗黙の了解は暗黙の了解、そこには大きな違いがある。

 次に、熱田神宮に奉納されている天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の由来がある。景行天皇の時代になってようやく熱田神宮と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)との関係が出てきており、それ以前の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は朝廷に保管されていたことが見て取れる。そこでさらに歴史を遡ると何が出てくるか?

 崇神天皇の時代に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)が作られ、朝廷に保管されていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は形代(かたしろ)であり、実物は伊勢神宮に奉納されていることの記録が出てくる。景行天皇の時代に大和武尊(やまとたける)に託された天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は実物ではなく形代(かたしろ)であり、熱田神宮に奉納されている天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)も実物ではなく形代(かたしろ)、大和武尊(やまとたける)の死後に熱田神宮から奉納された天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)は、実物からの形代(かたしろ)ではなく、形代(かたしろ)からの形代(かたしろ)、すなわち、コピーのさらなるコピーであったとの記録も出てくる。無論、熱田神宮はそれを認めていない。熱田神宮に奉納されている天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は形代(かたしろ)ではなく実物であると主張している。ゆえに、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)を作り出すことができるのも熱田神宮でだけであるというのが熱田神宮側の主張であるが、崇神天皇の時代にまで遡らせれば、伊勢神宮に奉納されている天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)から形代(かたしろ)を作り出せるとしたのだ。

 もともと建久元(一一九〇)年一月の後鳥羽天皇の元服時、三種の神器が揃っていない状態ではあるものの、本来であれば天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のあるべき場所に昼御座の剣を置き、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の代用とした。昼御座とは天皇が日中にいる平敷の御座であり清涼殿の中に存在する。昼御座の剣とは昼御座に安置された剣である。

 また、天皇の朝儀や行幸では以前から「剣が先、璽が後」、すなわち、三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を先、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を後とするという渡御の順番が存在していたが、実はこの順番が時代の経過を経て途中から入れ替わっていた。本来は先に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)があり、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が後であったのだ。ちなみに三種の神器の残る一つである八咫鏡(やたのかがみ)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の生き写しとされて三種の神器の残る二つより格上とされ、そもそも動かすこと自体が認められないという扱いになっている。

 この順番を、本来あるべき順番である「璽が先、剣が後」とすべきとしたのが九条兼実である。九条兼実も天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が壇ノ浦に沈んだことは知っている。また、建久元(一一九〇)年時点ではまだ源頼朝が征夷大将軍についていない、すなわち、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)が存在しない状況であることも知っている。九条兼実が提唱したのは、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の代わりに昼御座の剣を用いた上で、「璽が先、剣が後」という本来の順番に戻すことであった。

 九条兼実のこのアイデアは建久九(一一九八)年の土御門天皇践祚のときも、承元四(一二一〇)年の順徳天皇践祚のときも採用された。この二回は、理論上の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)である征夷大将軍が朝廷の命令による作戦遂行中であるために京都から遠く離れた相模国鎌倉に滞在しており、京都での践祚の儀式に帯同することができずにいるために昼御座の剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の代わりに用いるという体裁であった。

 しかし、承元四(一二一〇)年一二月五日に後鳥羽上皇は現在でも影響を与える決定を下した。寿永二(一一八三)年に伊勢神宮祭主が後白河法皇に一つの剣を贈ったことの記録を持ち出し、蓮華王院宝蔵となっている伊勢大神宮神剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であり、熱田神宮に奉納されている形代(かたしろ)と同格であるとした。その上で、平家が持ち出した天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は形代(かたしろ)の形代(かたしろ)、すなわち、コピーのコピーであり、寿永二(一一八三)年の剣は本物からのコピーであるので従来の形代(かたしろ)より格上であるとしたのである。

 この瞬間、壇ノ浦の戦いから四半世紀に亘って燻り続けていた三種の神器の不完全さは終わりを迎え、征夷大将軍に付随するとされてきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての性質は、公的には否定されたのである。

 もっとも熱田神宮はその公式見解を認めずにいたし、他ならぬ後鳥羽上皇自身がこの後も壇ノ浦に沈んでいる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の捜索を命じ続けてきたことから、かなり苦しい見解であったことが見て取れる。

 しかしそれでも、このときの後鳥羽上皇の選択によって新たな三種の神器が揃うこととなり、これらの三種の神器は令和元(二〇一九)年の剣璽等承継の儀でもそのまま使用されることとなる。


 こうした後鳥羽上皇の動きを鎌倉はどのように捉えていたのか?

 吾妻鏡に従うと、何の前触れもなくいきなり、承元四(一二一〇)年一二月五日の記録として、先月二五日に譲位があったこと、その譲位は後朱雀院のときと同じく兄から弟への譲位であったことを記しているのみであり、それ以上は何も記していない。京都での出来事、それも皇位継承という大ニュースから一〇日を要しているのは、源頼朝以後の情報伝達整備を考えると遅く感じるが、季節と天候の問題を考えるとやむをえないとも言える。実際、このニュースの届いた後のことになるが、鎌倉で大雪が降ったことの記録も残っている。雪で交通に支障が生じたならば、七日の日程が一〇日に延びてもおかしくない。

 ただ、後鳥羽上皇が譲位をすること、そして、源頼朝が手にし、かつ、世襲とすることで権威を構築してきた根拠である、征夷大将軍とは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるとするつながりが断たれたことを、当の鎌倉幕府自身が掴んでいなかったとは考えづらい。しかも、順徳天皇の即位礼は承元四(一二一〇)年一二月二八日に順当に開催されている。そこに鎌倉幕府は何ら絡んでいない。

 そこでヒントとなるのが翌承元五(一二一一)年一月の記録である。

 公卿補任には一月五日に源実朝が従三位から正三位に昇叙したことの記録がある。吾妻鏡によると鎌倉に届いたのは一月一六日のこと。少し時間を要しているが年末年始の慌ただしさと大雪とを踏まえると一一日を要したのも妥当と言える。

 同じく一月一八日には正三位源実朝が美作権守に任命され、その知らせは一月二八日に鎌倉に到着している。

 藤原氏ではない二〇歳の貴族としてはかなりのスピード出世であるが、父が正二位権大納言まで務めた源頼朝であることを考えると、貴族としての出世も妥当なところと言えよう。

 ただし、承元五(一二一一)年元日の貴族の構成を考えると、別の側面が見えてくる。

 以下が承元五(一二一一)年元日時点の議政官、ならびに、三位以上の位階を持つ貴族の一覧である。

 一目見て多いと感じるはずである。

 まず、議政官の面々、すなわち左大臣から参議までの人数はもともと二十名でも多いとされてきたのに、承元五(一二一一)年元日時点で実に左大臣から参議末席まで二十九名という数字を記録しているのは異常とするしかない。

 それよりもっと異常事態であるのが、散位、すなわち、従三位以上の位階を得ていながら何の官職も帯びていない貴族が四十三名を数えていることである。そのうち、かつて何かしらの職務に就いていたが承元五(一二一一)年元日時点で何の職務にも就いていない者が九名というのもなかなかに多い数字ではあるが、我が子に職位を譲ることを条件として政界を引退したために職位を手放すことは珍しくないので、九名という数字は多いものの、複数名の元職の貴族がいること自体は通常である。問題は非参議の三十四名の貴族だ。本来であれば、従三位以上になれば議政官の一員として国政の中枢を担う立場になるはずなのに、従三位の位階を得ながらも参議の地位から遠く離れている貴族が三十四名もいるというのは、議政官二十九名という数字をもはるかに凌駕する異常事態だ。

 公卿補任をはじめとする史料にも生年や年齢に関する記録がないために年齢不詳の者もいるので断言はできないが、三十四名の非参議の貴族の中で年齢が判明している貴族となると、最年長は六七歳の藤原信定や大中臣能雅になる。その年齢になってもまだ参議の地位が回ってこないのだ。もっとも、大中臣能雅氏については後述するように特別な事情がある氏族であるから並列で扱うことはできず、藤原信定の場合は従三位の位階を得たのは六年前の元久二(一二〇五)年のことであるからキャリアのラストとして位階を得たという側面もあるが、それにしても、キャリアを積み重ねて位階を高める末に待っているのは参議にもなれない人生であるというのは残酷な結末とするしかない。

 それでも、位階を手にして公卿補任に名を残すことができたというのは、生涯をかけたピラミッドクライミングの回答としてはまだ妥協できる話であった。院に協力し、朝廷に仕え、国を支え続けたことの結果として位階を手にする。これは、個人に対する評価として、最上級とは言えないにしろ、なかなかに高い評価である。

 と同時に、このあたりに後鳥羽上皇の統治者としての限界も感じる。

 誰かを評価するのに位階と役職のどちらか、あるいはその両方を与えるというのは、聖徳太子の冠位十二階に起源を持つ位階制度においてよく見られる話である。ただし、あまりにも多くの人に位階を与えると、位階のインフレが起こる。本来であれば位階と官職は連動しており、その人の能力に応じた官職を務めてもらうために位階を付与するというのが本来の在り方であった。それが時代とともに、位階だけが先行して上昇し、いつまで経っても官職に巡り合えないというケースが当たり前になり、本来ならば正三位や従三位が就くことを想定している官職であるのに、他の官職に就く見込みがないからと従二位や正二位の貴族が降りてきて官職に就くことが増え、特例ということで定員を超える人数の官職の者が増え、正三位や従三位の貴族は位階相当より下の官職で我慢するか、どの官職にも就けないままの日々を過ごすかのどちらかを余儀なくされた。

 こうした問題を解決する方法の一つが位階を絞ることであった。世の中には、無位無官でも構わないからある人のために粉骨砕身するという人がいる。そうした人に対し、最後の最後になって位階を授け、これまでの奮闘に感謝するというのならばよく見られた光景であった。鎌倉方の面々を見ても、あるいは壇ノ浦に沈んだ面々を見ても、形に残る栄誉を求めることなく全てを捧げた者が数多く見られる。そうした無謬性の忠誠心は非合理的な感覚であるが、合理的と言えないからこそ存在することができる臣従の形でもある。

 それをカリスマ性と捉えることもできよう。

 後鳥羽上皇にはそれがない。朝廷にもそれがない。

 後鳥羽上皇の周囲に仕える人は数多くいるし、朝廷に仕える人も数多くいる。しかし、そのカリスマ性に魅せられて何の見返りもなく仕えるようになる人はいないのだ。全て打算の臣従であり、後鳥羽院にしても、朝廷にしても、それをわかっているからこそ、位階を授け、官職を授けることを見返りとした臣従を用意してきたのである。

 その結果が、議政官二十九名、非参議三十四名という莫大な規模の公卿である。

 後鳥羽上皇にはカリスマ性が無かった。だからこそ、位階でどうにかするしか自派を構築できなかったのだ。

 さて、改めて承元五(一二一一)年元日時点の公卿補任を眺めると、源実朝の位置付けの意外なまでの低さも感じる。

 源実朝が職務としている征夷大将軍が三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるというのは征夷大将軍を特別な職務とする要素の一つであるが、公卿補任を見る限り、そこまで重要な要素なのであろうかとも感じる。

 新帝即位に三種の神器が揃っていることを法で定めているのは養老律令の神祇令であるが、実際の条文を見てみると「十三踐祚條凡踐祚之日中臣奏天神之壽詞忌部上神璽之鏡釼」とある。現代文に訳すと「第十三条、践祚。新たに天皇の地位を受け継ぐ日には、中臣氏が天神(あまつかみ)の祝いの気持ちを述べた言葉を奏上し、忌部氏が三種の神器を奉る」とある。字義通りに訳すと三種の神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のみを奉って、残る八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)については明記していないように見え、実際に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の扱いについては様々な議論もあったようであるが、養老律令そのものは現存しておらず延喜式より復元するしかないこと、日本書紀での当該箇所の記載では「神璽之鏡釼」ではなく「神璽剣鏡」とあることから、「璽」こと八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はやはり必須であり、新帝即位時はやはり三種の神器が揃っていなければならないということになっている。

 さて、法に基づく三種の神器の扱いであるが、征夷大将軍を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)とすることなど些事とするしかない特権が存在する。すなわち、中臣氏と忌部氏の二つの氏族である。うち、中臣氏については中臣鎌足が後に藤原鎌足となった一方、藤原鎌足以外の中臣氏はそのまま中臣氏となり大中臣氏となって存続し続けていた。実際、前述のように大中臣能雅が正三位の位階を得ている。

 一方、忌部氏については全く姿が見えない。延暦二二(八〇三)年に忌部氏は斎部氏に改姓したが、斎部氏となった後も全く歴史に記録が残らない。ただ、新帝即位の都度、律令に従って三種の神器を捧げる役割を担ってきたことは間違いないのだ。

 ここで源頼朝とその子孫が征夷大将軍として天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるという特権を手に入れたとして、それがどれほどの意味を持つのか?

 絶対に無視されることのない存在になることは間違いないが、中臣氏はともかく忌部氏の迎えた運命を捉えると、征夷大将軍を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)とすることのメリットはさほどないとも言えてしまう。

 かといって、せっかく手にした特権を手放すのは問題がある。何と言っても源実朝のもとにはこの時代の日本で最大の武力が存在するのである。

 後鳥羽上皇はおそらく、見返りを提示した上で特権放棄を迫ったのだろう。

 その回答のうちの一つが、源実朝の位階を上げた上での国司任官である。

 承元五(一二一一)年元日時点で非参議の貴族が三十四名、うち、従三位は二十名。二十名のうちの源実朝は序列九番目である。ちなみに序列はどのように決まるかというと、一日でも早く従三位になった者が上の序列となり、同日の従三位昇叙であれば従三位に昇叙する前の位階や役職が上であれば序列が上となる。

 承元五(一二一一)年一月五日に従三位から正三位に昇叙した非参議の貴族は二名。一名は従三位序列一位の平光盛、源平合戦期に平家都落ちに帯同せず鎌倉に降った平頼盛の三男である。そしてもう一人が序列第九位の源実朝である。序列一位の平光盛の昇叙は当然と見られたが、序列第九位の源実朝の昇叙は極めて異例な話だ。それこそ、かなりの見返りがなければありえない話である。

 とは言うものの、三種の神器の一つという、他には存在しない特権と引き替えではあまりにも軽いのではないかと思う人も多いであろう。

 実はその点についても答えは出ている。

 承元五(一二一一)年一月五日は見返りの第一段であり、まだまだ序章に過ぎなかったのだ。


 吾妻鏡には、後鳥羽上皇から特権の放棄を命じられたことの記録など存在しない。

 しかし、承元五(一二一一)年一月時点で鎌倉幕府は、征夷大将軍に付随していた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての特権が間もなく失われることを知っていたと思われる。

 と同時に、後鳥羽院から特権放棄の見返りを得ることに成功したことも知っていたと思われる。

 吾妻鏡の承元五(一二一一)年一月の記事を読むと、源実朝が将軍に就任したと同時に執り行われなくなった鎌倉幕府の正月の行事を復活させたことが読み取れる。

 具体的には、一月一日から三日にかけての年始の儀、一月九日の弓始の儀、一月一〇日の吉書始の儀、一月一五日の御行始の儀が復活したのである。

 源実朝の自己意識は、武士ではなく貴族であった。自分が征夷大将軍であることはさすがに理解していたが、それは自分に流れる熱田神宮の血、すなわち、皇位継承に欠かせぬ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての役割を示す称号であり、武士としての自分に対する評価ではなかった。

 それが、征夷大将軍という官職はそのままであるものの、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての役割は失われた。それはすなわち、鎌倉幕府の存在そのものが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)を支える組織から、武人のトップを支える組織へと変化した瞬間でもあった。

 無論、源実朝の自己認識は貴族であって武人ではない。しかし、源実朝の周囲にいる全ての人が武人のトップである源実朝を求めているのである。それも、優れた武人を求めているのではなく、源頼朝の実の息子である源実朝を求めているのである。これまでは日本国の存続のために欠かせぬ特別な存在という自負があったが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)という特権を失った以上、今後は武人である自分が求められることとなる。

 源実朝の本心は鎌倉幕府の御家人達が求める姿とは違う。

 しかし、鎌倉幕府の御家人達が求める姿を演じることはできる。

 源実朝は鎌倉幕府のために、理想の将軍を、理想のトップを演じることを選んだのである。

 天然痘に罹患してから控えることの多かった鶴岡八幡宮への参詣も、源頼朝の例に倣うように三年ぶりに復活させたのはその嚆矢である。


 現在に生きる我々の改元とは、新たな天皇となったと同時に元号が変わることを意味し、それ以外に元号が変わることはないという一世一元の制が共通認識となっているが、日本国にその認識が登場したのは明治維新以降のことであり、それまでは、新帝即位と改元とは必ずしも一致しない一方、災厄や陰陽道などの理由で改元することも珍しくなかった。現在の感覚で行くと、現在の改元というより新内閣発足に似ている。

 とは言え、新たな天皇が即位したなら元号も新たにするという認識はあり、順徳天皇の即位後も土御門天皇の頃の元号である承元を使い続けているのは、珍しくないとはいえ一般的な話ではなく、そう遠くない未来に改元があることは予期されていた。

 ただし、令和改元時のように事前に改元する日付が公表されることも、新しい元号が何であるかが事前に公表されることもなく、全ては突然である。強いて挙げれば、陰陽道に従った吉日に改元されることが多いことから、「この日に改元があるのでは?」と予測するぐらいであり、新たな元号がどのような元号になるかの予測に至っては事実上不可能である。改元日はともかく、新たな元号の予測が噂として話題に上がった瞬間に、元号を決める側がその元号を新たな元号の候補から外すからである。

 順徳天皇の即位に伴う改元があったのは承元五(一二一一)年三月九日のこと、新たな元号は建暦。そのどちらも特に驚きはなかった。吾妻鏡によると、鎌倉に改元の知らせが届いたのが改元から一〇日後の三月一九日のこと。改元のタイミングについても、新しい元号についても、特に言及していない。以降の記事についての日付を新元号である建暦で記すのみである。

 その後の源実朝の足跡を追いかけても、改元にとらわれることなく政治家としての政務に取り組む様子しか見えない。何度か記しているように、現在の議院内閣制が三権分立の立法と行政が密接につながる政治権力であるのに対し、鎌倉幕府は司法と行政とがつながる政治権力である。源実朝は鎌倉幕府の権力の及ぶ範囲に於いて、行政権と同時に司法権も行使する義務があった。

 改元の後でただちに出てくる記録も司法権の行使である。

 建暦元年四月二日に陸奥国の所領の保有権争いについて源実朝は裁断している。それも奥州藤原氏の時代にまで遡る保有権を証拠とする争いである。これまで源頼朝に由来する所領の保有権の争いについては裁断してきたが、このときはそれより前、何なら源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏に由来する保有権についての司法判断であるが、源実朝は奥州藤原氏の藤原秀衡に由来する保有権を認める裁決を下したのである。

 ただしこれには裏がある。藤原秀衡に由来する保有権を源頼朝が認めたという証拠が提示されたために、源実朝も源頼朝の裁決を再確認したのである。何であれ先例優先なのがこの時代だ。源頼朝が下した先例があるなら源実朝も同じ決断を下すことが許されることとなり、今後の裁決の重要な先例となるのである。


 なお、この裁決からおよそ一ヶ月後の建暦元(一二一一)年五月一〇に、源実朝は、現代人からすると穏当あるいは当然と感じる、しかし、この時代では考えられない指令を出している。奥州藤原氏を滅ぼした際に藤原泰衡の邸宅などから略奪した品々を元の持ち主に返却するよう、侍所別当の和田義盛を通じて御家人達に命じたのである。

 源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたが、奥州藤原氏の構築していた東北地方の統治体制を破壊することはなかった。概念上でしかないものの、朝廷組織図の上では奥州藤原氏全体が源頼朝の支配下に組み込まれていた。その源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、奥州藤原氏の代わりに源頼朝に仕える御家人が君臨するという体制を構築したことで、このような殲滅戦であるにもかかわらず源頼朝の東北地方運営はそこまで瓦解するようなものではなかっただけでなく、生活水準だけで言えば奥州藤原氏の頃よりも上回ってはいた。ただ、どうしても侵略者と被支配者という関係性は残るし、戦いで敗れた側にとってはスムーズに受け入れられる過去でもない。鎌倉に対する目に見えぬ反発は残り続けていたし、前述の保有権争いも、突き詰めれば奥州藤原氏を滅ぼしたことに由来する。

 ここで、鎌倉方の武士達が繰り広げた略奪に目を向けた上で、略奪に対する償いを鎌倉から示すことは、鎌倉幕府の東北地方経営を大きく改善させる効果がある、はずであった。

 結論から記すと、源実朝の指令はうまくいかなかった。源実朝の指令が空想的であったと言えばそれまでであるが、それよりも重要なこととして時間経過と鎌倉武士達の野蛮さがある。戦いの後で略奪した品々も、二二年も経過すれば所在がわからなくなる。邸宅に持ち帰って大切に保管していたならいいが、日常生活でぞんざいに扱った末に壊れて捨てられたものもあれば、高値で売り捌いたために今はどこにあるのかわからないものもある。また、相手は大切に思っていても略奪者が価値を感じないものは略奪時に破壊される。破壊の楽しみに加えて敗者に対する更なる苦痛を加えられるのだから、侵略者にとっては破壊そのものが愉悦をさらに増す行為だ。

 吾妻鏡によると、略奪してきた品々のほとんどは行方がわからなくなっており、和田義盛のもとに届けられたのはごく僅かであったという。吾妻鏡はこの時の記事の終わりを、葛西清重が差し出した縫い目のない小袖に、源実朝が特に興味を持ったという一文で終えている。その出来栄えの見事さもあるであろう。だが、このような衣服まで略奪してきたのかという自分たちの過去の所業に対する嘆息も存在したはずだ。

 過去の過ちというものは、自分が当事者ではなければ、また、当事者の近親者であったとしても自分の生まれる前の話であれば、感じなくても許される。ただしそれは一般的庶民の話であり、人の上に立つ人間というものは、自分が当事者でなかろうと、あるいは、自分の生まれる前の話であろうと、直面し、責任を背負う義務がある。


 建暦元(一二一一)年六月になると不穏な記事が増えてくる。

 六月二日に源実朝が急病で倒れたのだ。

 もともと源実朝は天然痘に罹患した過去がある。これは天然痘に限った話ではないが、感染症というものは、感染してその病気に対する免疫がついたとしても、その他の病気に対する免疫までつくわけではない。それどころか、病気の内容によっては長年に亘り、あるいは一生に亘って、体力が低下したままの暮らしを余儀なくされることとなる。

 源実朝は責任感の強い人であったのは間違いない。しかし、その責任感を全うできるだけの体力を取り戻せていたのかと考えると、疑問に感じるところもある。たしかに源実朝という人はどちらかといえばインドアな人である。若い頃から野山を駆け巡って体力をつけていれば、あるいは、何かしらのスポーツに興じていれば、大人になってからも幼少期の体験が体力増強につながったのではないかという考えも完全に否定はできないが、相手は天然痘だ。どんなに体力頑強な人が相手でも、容赦なく命を奪うか、命は奪わないにせよ残りの人生を奪うかのどちらかだ。

 天然痘に死ぬまで悩み続ける宿命を有する源実朝にとって、インドア趣味というのは体力消費が乏しいぶん、むしろ好都合であると言える。それに、インドア趣味というのは感染症リスクを抑える効果もある。このときに源実朝が倒れたのも、普段から体力をつけるようなアウトドア趣味を怠っていたからではなく、インドア趣味に身を置いていたから助かったとも言えるのだ。

 実際、北条時房などは源実朝の命の危機を感じたというが、その後の吾妻鏡の記録を追いかけると、源実朝は特に何もなかったかのように政務に復帰している。

 いや、何もなかったかのように振る舞わなければならない責任感で無理を重ねたとすべきか。

 何が起こったのか?

 強盗殺害事件である。

 六月七日、越後国三味荘の荘園領主から訴訟のために鎌倉まで派遣されてきた役人が、宿泊先の民家で殺害されたのだ。

 この時代にビジネスとしての旅館などない。旅行客は誰かの家に泊めてもらうか、寺院などに泊めてもらうか、野宿するかである。なお、このあたりは現在よりも鷹揚であったとすべきか、知り合いでもない赤の他人であっても困っているならば自宅に泊めることはあったし、泊めてもらう側もそのことを理解しており、自分を泊めてくれる家の人にそれなりの対価を用意するものであった。

 この二つが重なると何が起こるか?

 旅行客が泊まっている家をターゲットとする強盗である。

 何しろ顔見知りではない人物が大量の私財を持って宿泊しているのだ。現在のホテルであったら警備員が対処すべきであろうが、民家であるから警備はそこまで厳重ではない。巧妙なケースとなると、強盗のターゲットを宿泊客に限定させることでその家の人は強盗事件など無かったかのように感じさせることもできるし、裏で手を組んで、「夜明け前に立ち去った」とでも言い繕って強盗事件そのものをなかったことにもできる。私財が無くなっていようと、宿泊客が消えていようと、強盗事件ではなくただ単に宿泊客の出発が早かっただけとなれば、何ら怪しまれることはなくなる。殺害された宿泊客の遺体処理さえどうにかすれば、この時代の警察捜査能力であれば完全犯罪が成立する。

 このときも、ケースとしては民家に押し入った強盗が宿泊客を殺害したという構図である。

 しかし、その宿泊客は訴訟のために鎌倉まで来た人物であり、荘園領主からも鎌倉まで役人が派遣されることの連絡が来ている。それに、どこに宿泊しているのかも公表されているのだ。強盗殺害事件をもみ消すなどできない話であるどころか、侍所長官の和田義盛の初動が早かったこともあって、事件はすぐに動き始めた。

 ただし、和田義盛はここで誤認逮捕をしている。

 今回の事件を強盗殺害事件に見せかけた訴訟揉み消しであるとして、訴訟相手である荘園地頭の代官を逮捕したのだ。代官にしてみれば身に覚えのない話であり、ツテを辿って北条政子に頼み込み、北条政子を通じて和田義盛の捜査の打ち切りと逮捕された代官の釈放を求めたのである。

 これで大騒ぎになった。のちに誤認逮捕であることが確認できたが、このときは和田義盛の捜査のほうが正当で、事件揉み消しを図る地頭代官のほうが北条政子を通じた圧力での捜査揉み消しとされたのである。

 事態が急展開を見せたのは六月二一日のことである。この日に真犯人が見つかり逮捕されたのだ。なお、犯人の名は残されておらず、野三刑部丞こと小野成綱の家来であったこと、小野成綱が亡くなったと同時に無職となり各地を流浪する暮らしとなったことを記しているのみである。

 吾妻鏡の記事は和田義盛が誤認逮捕した荘園代官を釈放したところでこのときの出来事を締めているが、怪しいというだけで逮捕され、北条政子を通じた嘆願も無視されたことについては何とも言えない複雑な感情にある。それがこの時代の警察捜査だといえばそれまでであるが。

 歴史にIFは禁物であるとは繰り返し使われる言葉であるが、このときの和田義盛の行動次第では、二年後に悲劇は起こらなかったかもしれない。


 建暦元(一二一一)年六月二六日、東海道に新しい宿駅を設置する件について、過去に何度も決裁されているにもかかわらず未だに実行されていないことについて、源実朝から東海道の守護地頭に対し命令遂行の指令が出た。

 さらに七月四日には、源実朝が貞観政要を用いて政治学を学んだことの記録が出てくる。貞観政要は唐代に編纂された政治学書で、この時代の日本で手に入る最良の、いや、現在に至るまで世界のトップクラスに位置する政治学書である。正三位という公卿の一員に列せられる貴族の一員である以上、源実朝は政治家の一人として行動する義務があるし、政治家として身につけていなければならない素養も和多く存在する。ゆえに貞観政要を読んでいてもおかしくはない。ちなみに貞観政要を愛読していたのは源実朝一人ではなく、北条、足利、そして徳川といった歴代幕府の首脳はほぼ間違いなく貞観政要を読んでいる。

 さて、ここで源実朝の政治家としての業績と、政治家としての学習を記したのには理由がある。

 本作に限らず平安時代叢書全体で鎌倉幕府を現在の政党に類する存在と扱ってきたが、あえて取り扱ってこなかった二つの学説と向かい合わなければならなくなっているからである。

 それは、源実朝のもとから天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)という特権が失われた後、一人の政治家として源実朝を、そして、政治集団として鎌倉幕府を考えたときに触れなければならない学説だからであり、さらには中世日本の政治構造はどのようなものであったかを考察する学説だからである。

 一つは、中世日本を天皇が中心に君臨する単一国家とし、貴族、宗教、そして鎌倉幕府をはじめとする武家が並立して相互に補完しつつ、朝廷はそれらの権門の上に立っていたとする「権門体制論」。

 もう一つは、鎌倉が朝廷から独立しており、朝廷の権威を認めつつも独自の権力構造を東日本に構築していたとする「東国国家論」。

 その他に、権門体制論を批判しつつも東西の流通や興隆に目を向け、東西の権力継承の積極的な係わりに着目する「二つの王権論」があるが、一般的には「権門体制論」と「東国国家論」との間での論争となっている。

 そして平安時代叢書では一貫して、基本的には権門体制論に基づいているものの、場面によって東国国家論に与するという姿勢で鎌倉幕府を捉えている。すなわち、鎌倉幕府はあくまでも朝廷の上級貴族である人物、建暦元(一二一一)年の場合は源実朝のもとに集った面々からなる組織であり、その中には五位以上の位階を得て貴族の一員に列せられている者もいるものの、指揮命令系統は源実朝に紐付いており、シビリアンコントロールから除外された勢力が源実朝を中心にまとまっている組織でもあるとするのが平安時代叢書の主張だ。

 シビリアンコントロールの有無は別として、鎌倉幕府のように上級貴族のもとに下級貴族が仕えるという構図そのものは珍しいことではなく、藤原氏をはじめとする有力貴族ならば間違いなく保持しているし、有力寺社にも似たようなことが言える。そして何より、この時代には院政が存在している。院もまた一つの権門であり、皇室との深いつながりを持つために院に仕える院司は朝廷権力と密接につながっている。

 ここで話を源実朝に戻すと、源実朝は自分のことを独自の政治権力であるとは、ましてや朝廷から独立した勢力であるとは考えていなかった。父の事績を追いかけ、父と兄の後を継いだことは知識として知っているが、基本的には自分のことを貴族の一員だと考えている。シビリアンコントロールの枠外にある征夷大将軍でもあり、名目上ではあるものの征夷大将軍としての作戦遂行中であるために朝廷も介入できない独自の権力を有していると同時に、源実朝は征夷大将軍の他にも朝廷権力に基づく位階と役職を有しており、政治家としての職務も遂行する義務と権利も持っているので、前述のように東海道の新たな宿駅を設置すること、設置遅延を是正することは、源実朝の政治家としての行動として正しい。

 たとえば、建暦元(一二一一)年七月一一日に源実朝が惟宗孝尚を逮捕監禁するよう命じ、北条時房のもとでの監禁生活となったのも、源実朝が行使しうる権力の行使である。逮捕監禁の理由は下野国中泉荘園に持っているとした隠田、現在でいうところの脱税であるから、逮捕するのは間違いではない。ただ、牢に入れられるわけではなく北条時房のもとでの軟禁生活である。

 ただ、ここで気になるところがある。

 七月一一日の一連の流れで侍所と問注所が出てこないのだ。

 これまでであれば、このような警察権の行使となったときは侍所と問注所が出てきた。

 侍所や問注所そのものに朝廷が委ねた司法権が存在するわけではない。あくまでも司法権は源実朝にあり、侍所は源実朝の司法権配下の警察権行使についての実働部隊として犯罪者の取り締まりに当たり、問注所は源実朝の司法権を行使するという構図だ。上級貴族であれば家政機関として構えておくことはおかしなことではなく、源実朝も征夷大将軍としてではなく上級貴族としてこれらの組織を構えている。ただし、京都在住の貴族にとっての侍所は自分の邸宅内や、その貴族に仕える面々を統括する部門であり、問注所に至ってはそもそも家政機関である政所の一部署として内部の揉めごとを解決するために設置されることがあるというレベルのものである。つまり、鎌倉幕府の侍所や問注所は、珍しい組織ではないのだが、規模が段違いに大きい。同じ位階の貴族を見ても、さらには藤原氏を見ても、同時代の源実朝のもとに存在する侍所や問注所に匹敵する規模の組織を構えていた者などいない。ちなみに政所についてならば、鎌倉と同規模の組織を構えているケースが散見される。

 この突出した規模の侍所や問注所は、ひとえに源実朝が征夷大将軍であることに由来する。鎌倉幕府の侍所や門柱所は、征夷大将軍としてシビリアンコントロールの枠外に置かれた軍事作戦を遂行中である貴族という前提で設置されている組織であり、本来であれば一人の貴族の勢力の範囲内に限定されるべき組織が、緊急事態の例外措置であるために拡張され、多大な権力を行使できるようになっているという構図だ。

 これは異常事態なのだ。

 その異常事態を正しくする第一歩として、侍所や問注所ではなく、朝廷に直接つながる形で犯罪を処罰した。これならば不合理ではない。何しろ、惟宗孝尚の脱税疑惑は鎌倉幕府独自の調査、あるいは幕府内部の問題として露顕したのではなく、京都から送られてきた脱税疑惑に関する通知が発端なのだ。

 司法権に警察と検察が内包されているこの時代、源実朝は京都の朝廷からの司令に従って、源実朝が持つ司法権を行使したわけである。鎌倉に勢力を持つ集団が権力の及ぶ範囲で独自の司法権を行使したという構図ではなく、朝廷から司法権を委ねられている権力として司法権を行使したという構図である。ちなみに、このときの軟禁は一二月一日に解除されている。許されたからではなく、鎌倉幕府の調査によって隠し田の事実が見つからなかったからである。

 さて、今回の一連の流れから除外されていた侍所や問注所の当事者はどう思うか、特に、一二月になって軟禁解除となった経緯も踏まえ、一連の流れを侍所別当の和田義盛はどう思ったかを考えると、この後に起こる事件の伏線も見えてきてしまう。和田義盛は冤罪逮捕をしたばかりか、冤罪逮捕に関しても問題なしとして無罪放免となって日も浅いのだ。


 鎌倉時代の特色の一つとして歴史の教科書に取り上げられることの多い鎌倉新仏教。大学入試で日本史を選択したならば、あるいは高校入試で社会科を学んだならば、以下に記す六宗派とその開祖を暗記したはずである。

 浄土宗、法然。

 臨済宗、栄西。

 浄土真宗、親鸞。

 曹洞宗、道元。

 日蓮宗(法華宗)、日蓮。

 時宗、一遍。

 この六つの宗派と六名の開祖はいずれも、本来の仏教は全ての人を救うための教えであるはずなのに既存の日本の仏教では救えていない人が多いと考え、仏教の本来あるべき姿である救済の道を取り戻すべく、従来の仏教を否定して新たな宗派を起こしたという共通点から何かとひとまとめで扱われることが多い。

 しかし、この六つの宗派、そして、この六名の開祖が同時代に受けてきた境遇は大きく異なる。

 もっとも大きな違いが、六名の僧侶の生きて生きた時代。

 前述の六宗派の記載順であるが、実は開祖の生年順である。

 建暦元(一二一一)年時点で言うと、法然と栄西は既に新たな宗派を起こして活躍しているが、親鸞は法然の弟子の一人であってまだ浄土真宗を起こしてはおらず、道元はこの時点でまだ一一歳の少年で仏門には入っておらず、日蓮と一編はまだ生まれていない。

 つまり、鎌倉新仏教の開祖のうち建暦元(一二一一)年時点で活躍していた開祖となると法然と栄西の両名ということになるのだが、この両名の立場はあまりにも違っていた。

 まず、過去に述べたように法然は承元元(一二〇七)年に後鳥羽上皇によって念仏停止の命令が下ったと同時に還俗させられ、名を藤井元彦として土佐国へと流罪となっていた。ただし、配流の途中に九条兼実の庇護によって讃岐国への流罪となったのち、摂津国に戻って数年を過ごし、建暦元(一二一一)年一一月に流罪が許されようやく京都へ戻ってくることができた。なお、法然と同時に流罪となった親鸞も同タイミングで流罪が許され京都に戻っている。ちなみに、この時点の親鸞は法然の弟子のうちの一人であり、浄土真宗の開祖とはまだなっていない。

 一方の栄西であるが、この人は迫害と全く無縁である。二度に亘って南宋に渡航して禅を学び、禅を日本に持ち込んで、日本で新たな仏教宗派である臨済宗をスタートさせていた。

 この栄西であるが、二つの点から法然と全く異なる生涯を歩んでいた。一つは既存の宗派との対立を最小限に食い止めようとし、栄西自身が真言宗の印信を得るなど融和路線に動いていたこと、二つ目はそれでも既存宗派との対立を察知していち早く京都を去り、長期に亘って鎌倉に身を置くことを選んだことである。

 鎌倉に住む者にしてみれば、当時の最先端の仏教を南宋で学んで来た人が、南宋で流行している最新宗派を鎌倉で布教しているわけで、栄西の説く禅の教えは新時代の都市である鎌倉に相応しい最新の教えであると認識されていた。

 後に同じ禅である曹洞宗が登場するがこの時代はまだ曹洞宗が存在せず、禅と言えば臨済宗である。栄西の説く臨済宗は法然の説く浄土宗と同じく、誰であろうと仏門による救いを得られるとする教えではあるものの、南無阿弥陀仏を唱えるだけで救われるとする浄土宗と違い、座禅を組んで師との問答を重ねることで悟りを得るということで、門戸は広いものの悟りに至るにはかなり難しいという点が鎌倉武士達に受け入れられる要因になっていた。

 建久九(一一九八)年に鎌倉へと向かった栄西は鎌倉幕府の庇護を得ることに成功し、正治二(一二〇〇)年には源頼朝一周忌の導師を務めるまでに至った。さらに、宗教界における鎌倉幕府の代理を務めるまでに信任を得て、建仁二(一二〇二)年には源頼家からの支援のもと京都に建仁寺を建立することに成功した。ちなみに建仁寺は禅だけではなく天台宗と真言宗も学ぶことのできる寺院であり、栄西の他宗派に対する配慮も見られる寺院であった。

 他宗派からの迫害を懸念して鎌倉にいることの多かった栄西も、これによって他宗派との融和を得ることに成功し、建永元(一二〇六)年には重源の後継者として東大寺勧進職に就任し、承元三(一二〇九)年には鴨川東岸の法勝寺九重塔再建を命じられるまでに至っていた。これだけ積み重ねれば僧侶としてかなりの成功者と言えよう。

 ただし、いかに鎌倉に滞在することが多く、また、著名人として名を馳せるようになっていようと、鎌倉の都市内では鶴岡八幡宮の権勢のほうが強力であり、建暦元 (一二一一)年九月一五日に源頼家の次男である善哉が出家した際は栄西ではなく鶴岡八幡宮が選ばれ、鶴岡八幡宮で出家した後、善哉は、いや、出家した後の法名でいう頼暁は、鶴岡八幡宮の手配した五名の武士を伴って上洛している。ちなみに、頼暁は後に公暁と名乗ることになる少年僧侶である。

 僧侶としての成功者である栄西であるが、同時に、現在で言う数多くのビジネス書を発行する作家のような存在でもあった。確認できる範囲では、密教について問答形式での入門書である「無名集」を安元三(一一七七)年に刊行したのが現存する栄西の最古の著作である。ただし、この段階ではまたセンセーションを巻き起こしてはいない。栄西の名を一躍広めたのは、何と言っても建久九(一一九八)年刊行の「興禅護国論」である。「興禅護国論」は日本初の禅の解説書であると同時に他宗派からの攻撃に対する抗弁の書であり、発表と同時に一大センセーショナルを巻き起こし、それより前に記した建久六(一一九五)の「出家大綱」や、その後の元久元(一二〇四)年「日本仏法中興願文」といった書物とともに当時の日本国内の知識層に幅広く受け入れられることとなった。栄西の著作を読むことがこの時代の知識層の流行となり、栄西の本を読んだかどうかは、今から一〇年ほど前にビジネスパーソンの間でピケティを読んだかどうかが問われたのと似た環境を生みだしたのである。

 これらの書物は栄西の唱える禅の思想、悟りに至るまでの思考、そして栄西の唱える哲学を解説した書物として現在でも極めて重要な役割を担う書物であるが、栄西の著した書籍ということで忘れてはならない一冊、それも日本文化をも激変させた栄西の生涯最高のヒット作も忘れてはならない。

 建暦元(一二一一)年に誕生した「喫茶養生記」である。

 奥付という概念のないこの時代、何年の刊行なのかは推測できても、何月何日の刊行なのかは、新古今和歌集のように公表されたか、あるいは著者自身が日記等で正確な日付を記録してくれているかでないとわからない。それに、この時代の書物は基本的に全て写本だ。著者は一冊を記し、読みたい人が借りて、手元に置いておきたい人は借りた本を全て書き写してから持ち主に返すというシステムであり、あるいは、権力を持っていてかつ図々しい人だと原本を手元に置いて写本を返却、さらには借りたままで返さないというシステムであり、後世に生きる我々は、日記等で書籍を借りたという記録があればその時点で間違いなくその書籍がこの世に登場していたことがわかるので、あとはより古い記録が出てくるたびに刊行日を遡らせる。その繰り返しである。

 現時点で判明しているのは、喫茶養生記の最古の記録が建暦元(一二一一)年閏一月、いや、その時点ではまだ改元前であるから承元五(一二一一)年閏一月にはもう喫茶養生記が存在していたということである。

 日本に茶が伝わったのはもっと前の時代であるが、日本中で茶が飲まれるようになったきっかけは、栄西がこの年に記したこの一冊である。この本は茶の栽培方法から茶の飲み方、そして、茶の効用などを記した書物であり、著者名を隠して書名だけを読めば栄西の著作であると感じられない、しかし、中を見れば間違いなくベストセラー作家の文体である一冊である。

 なお、栄西の喫茶養生記に対する評判を吾妻鏡は記していない。その代わり、建暦元(一二一一)年一〇月のこととして、源実朝臨席のもと、栄西が南宋から輸入した一切経五〇〇〇巻を奉納したことを記しているのみである。

 ちなみに、吾妻鏡に茶が登場するのはこれより三年後のことであり、当時の最先端の飲料である茶は鎌倉でも流行の兆しを見せるようになっていたことがわかる。


 さて、栄西が著した喫茶養生記は現在まで伝わる名著であるが、鎌倉ではほぼ同タイミングで現在まで伝わる名著の著者が姿を見せている。

 その人物が鎌倉に来た理由は源頼朝の月命日の法要に参加するためであるが、同時に、源実朝の和歌の師匠となるべく、飛鳥井雅経から推薦させて鎌倉に送られてきたという側面もあった。この時点では出家していたため蓮胤(れんいん)という法名を名乗っていたが、今に生きる我々はこの人物のことを出家後の名で呼ぶことはほとんどなく、多くは出家前の名で呼ぶ。

 鴨長明がその人である。

 鴨長明の記した方丈記は、枕草子や徒然草とならぶ日本古典随筆の名作の一つであるが、同時に源平合戦の最中やその前後に起こった災害を書き記した最上級のルポタージュでもある。

 ただ、この時点の鴨長明はまだ方丈記を書き記していないか、あるいは、書いていたとしても現在にあるほどの評判を獲得していない。少なくとも現時点で確認できている方丈記に対する最古の記録は建暦二(一二一二)年であり、建暦元(一二一一)年一〇月時点の鴨長明は和歌の名手であるものの随筆家としての評判は得ていない。

 源実朝の和歌の師匠となるべく鎌倉に派遣されたのは飛鳥井雅経が鴨長明の才能を見抜いたからであるが、源実朝は鴨長明を師匠とすることなく、鴨長明はこの時期の鎌倉に滞在していた旅行客という扱いになっている。ここでもし、源実朝が鴨長明を和歌の師匠として受け入れていたならばこの後の歴史は大きく変わっていたであろうが、同時に、現在の歴史家を悩ませることになった可能性も高い。建暦元(一二一一)年ではまだ方丈記が記されていなかったとするならば、方丈記という記録が現在まで残るようなことはなかった、すなわち、方丈記に記された六つの災害、安元三(一一七七)年四月の太郎焼亡、治承四(一一八〇)年四月の竜巻、治承四(一一八〇)年六月の福原遷都、養和元(一一八一)年から養和二(一一八二)年の飢饉、元暦二(一一八五)年七月の震災についての現場体験者からのルポタージュが現在まで残らなかった可能性が高いのである。

 鴨長明の人生を一言でまとめると、不遇である。

 下鴨神社こと賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)である鴨長継の次男として生まれ、二条帝中宮の姝子内親王こと高松院の愛護を受けて従五位下にまで昇叙したものの、鴨長明のキャリアはここで終わってしまったのである。父を亡くした後、父の後を継いだのは鴨長明ではなく鴨祐季であったが、鴨祐季は延暦寺と争ったため失脚したので、鴨長明のもとに賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位が転がり込んでくるかと思われた。しかし、その地位は鴨祐季の息子の鴨祐兼に奪われたのである。ちなみに、鴨長明の父である鴨長継と、鴨長継の後を継いだ鴨祐季との関係は再従兄弟(はとこ)同士の関係であり、祖父の代は兄弟で賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位を争い、その子の代は従兄弟同士で賀茂御祖神社の禰宜(ねぎ)の地位争い、その次の代でも争いが続いた結果、鴨長明は下鴨神社こと賀茂御祖神社での地位を失ったのである。

 その後、和歌と琵琶を学ぶことで歌人として名を馳せるようになり、建仁元(一二〇一)年八月には和歌所寄人の一人に任命されたものの、やはり公的な地位を掴めないままであり、元久元(一二〇四)年に下鴨神社の摂社の一つである河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)に欠員が生じたことから、下鴨神社ではなくその下に位置する河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)に就くことを目論むが、下鴨神社の禰宜(ねぎ)であり続けていた鴨祐兼が自分の後継者とすることを目標として空席に息子の鴨祐頼を推したことで、鴨長明は神職の道が完全に塞がれた。

 このことで鴨長明は神職で身を立てる道を諦め、出家して仏門に入り、京都周辺の各地で僧侶として生活していたのであるが、その鴨長明を飛鳥井雅経は見捨てなかった。自分の代わりに源実朝の和歌の師匠を務めることのできる人物として鴨長明を抜擢し、鎌倉へと派遣することとしたのである。

 ここで鎌倉幕府の内部で地位を掴むことができたならば鴨長明の人生も最後に一発逆転となっていたであろうが、源の姉友は鴨長明を和歌の師とすることを選ばなかった。選ばなかった理由は変わらないが、結果として、それが随筆家にして希代のルポライターとしての鴨長明を誕生させたとも言える。


 平安京は本来、北端中央に大内裏、その中心に内裏があるという都市計画のもとで建設された都市である。しかし、建暦元(一二一一)年時点の大内裏はかつて内裏があった場所という位置づけであり、内裏は閑院が里内裏として用いられていた。

 平安京遷都から一六六年後の天徳四(九六〇)年、村上天皇の時代に内裏が火災に遭ってから、内裏や大内裏は何度も火災に遭い、その都度内裏は平安京内の別の場所を仮の内裏である里内裏としてきた。そして、何度も内裏や大内裏の復興をし、あるいは復興しようとしてきた。最も新しい例では保元の乱の後に信西による大内裏復興計画が進み、実際に途中まで復興してきていたという例がある。

 しかし、平治の乱によって工事が中断したばかりか、よりによって大内裏が戦場となり、さらに安元三(一一七七)年四月二八日、後に「太郎焼亡」と呼ばれることとなる大火災によって大内裏の多くが灰と化した。以後は閑院を内裏とすることが通例となり、福原遷都の一時的な例外を除いて閑院が内裏であり続ける時代となっていた。

 ただし、後鳥羽上皇がこれを是としていたわけではない。後鳥羽上皇は大内裏の復活を狙っていたようなのである。ただし、保元の乱の後の信西のように具体的に予算を組んで復旧工事を進めるのではなく、復旧せよと命じるだけで具体的な指示は出しておらず、予算も組んでいない。そのため、後鳥羽上皇の思いと現実とが一致することはなく、時間が経っても全く復旧しないばかりか、経年劣化が進む一方だったのだが、これに後鳥羽上皇が激怒した。

 建暦元(一二一一)年一一月四日の吾妻鏡の記事によると、後鳥羽上皇の怒りを受けて権中納言坊門忠信から鎌倉に書状が送られてきたとある。内裏の全面復旧どころか朱雀門の復旧工事がようやく着手したばかりだというのが使者の伝えた内裏復旧の状況であり、後鳥羽上皇からはせめて屋根を仮葺きするように命じたというのが書状の内容だ。何しろ瓦すら間に合わないというのだ。

 源実朝は人生で一度も京都に行ったことがない。そして、この人は生涯で一度も京都に行くことのない人となる。ゆえに、京都に大内裏があり内裏があるはずという知識と、そのどちらも災害と戦乱の影響で本来あるべき姿ではないという知識ならばあるが、現実は目の当たりにしていない。そこで、書状を読み上げた三善康信に対して京都の内裏の様子について訊ねたのである。

 三善康信は京都に生まれ京都に育った典型的な下級貴族であるから当然とも言えるが、大内裏や内裏の現状を知っているし、何なら災害の瞬間を体験している。

 三善康信はここで、そもそも内裏再建そのものが不要であると主張した。とは言え、表向きは不吉な事例の列挙である。保元の乱の後で再建に取り組んだ信西が平治の乱で惨殺され、太郎焼亡で大極殿と朱雀門が燃え、建久九(一一九八)年に門だけは再建されたものの造営を担当した一条能保と一条高能の親子がその直後に亡くなり、元久三(一二〇六)年に九条良経が門の揮毫を書き記したら亡くなってしまった。今回、造営上棟が済んで坊門信清の病気が治り内大臣にまで登り詰めたものの、禊に行った帰りに建礼門に入ろうとしたら建礼門が倒れた。これらが吾妻鏡に記されている三善康信の述べた不吉な事例の列挙である。


 三善康信は不吉な例を列挙することで後鳥羽上皇の求めた大内裏復興を暗に否定した。

 大内裏復興という野望は、推し進める後鳥羽上皇の意見も、暗に否定する三善康信も、どちらも理解できる話である。

 後鳥羽上皇は古き良き時代を、そして、あるべき平安京の姿を取り戻そうとしていたが、そうした心情の問題を別にして経済だけで考えると、後鳥羽上皇の進めている政策は大規模公共事業である。日本中が源平合戦の混迷と破壊に遭い、それから復興してきたのはその通りであるが、戦後復興というにはもう、かなりの時間が経ってしまっている。

 戦争というものは景気を悪化させる。自分と関係ないところで戦争が起こっていて、かつ、自分は平和な暮らしをしているというのであれば景気が良くなる可能性はあるが、そのような例外でもない限り、戦争は景気を悪化させる。

 平和は景気を良くする。生活を豊かにする。戦争への憎しみとか平和を求める心情とかを無視して損得勘定だけで考えれば、平和は儲かる。何が儲かるといって、戦争をしないことほど儲かるものはない。

 ただ、これが歴史の皮肉なのだが、経済が一気に発展し飛躍するのは、戦争をはじめとする極めて大きな悲劇があった後の平和のときなのだ。もう戦争に悩まされなくて済むという安心感を伴う復興は経済を一気に飛躍させ、あとは緩やかな成長となる。シルバーデモクラシーによる合成の誤謬が起こると衰退を招くが、普通は平和が続けば経済は成長する。

 しかし、ここに問題が二つある。

 一つは予算問題。

 もう一つは失業問題。

 平和が戻ったとき、災害に見舞われ職を失う人は数多く存在するのが通例だ。そうした人達に職を、あるいはもっと短絡的にいうと食を与える手段として、国家予算を投じての復興というのは極めて大きなリターンのある事業である。目に見えて社会が元に戻り、かつ、失業が減るのだ。

 ただ、そのための予算をどうやって用意するのかという大問題が存在する。復興に必要な予算が潤沢であるということは極めて稀である。保元の乱の後で信西が大内裏の復興に着手できたのも、かなり綿密に計算した上で予算を捻出したからである。ソロバンほどのスピードは出ないものの、多元方程式を解くことも可能な計算ツールである算木を信西が用いていたことは記録に詳しく残っている。

 後鳥羽上皇の前に広がっていたのは保元の乱とは比べものにならない大規模な戦乱である源平合戦を終えたあとの日本列島であり、特に木曾義仲の劫掠被害を受けた京都であった。これはあくまでも理論上であるが、源平合戦終結後ただちに平安京の大規模復旧工事に取り組んでいたら成功した可能性もある。そのときの京都内外に流れていた失業者は数多くおり、彼らに職業を与える目的で平安京の復興を目的とする公共事業を展開すれば成功していた可能性もある。

 ただし、予算があったならば。

 その予算はどこにもなかった。

 予算がないために平安京の復興どころか日々の生活をいかに再建するかに汲々とする状態であった。そのときの日本で潤沢な資産を持っていたのは奥州藤原氏と鎌倉方だけであったが、その双方とも資産に余裕があるように見えても平安京の大内裏を復旧させるほどの余裕ではなく、その双方が資金を出してようやく、大内裏ではなく里内裏の復旧ができたという程度である。しかもそれで、失業の減少という点では効果を発揮したのだ。

 さらにその後で奈良の復興が始まった。奈良の大仏の復興というのは誰の目にもわかりやすい平和の到来と復興のシンボルであっただけでなく、予算獲得という点でもどうにかなった。寄進、すなわち寄附でまかなえたのである。失業している人は労働力で、労働力を提供できない人は些細ながらも差しだした寄附によって大仏が蘇り、さらに大仏殿も蘇った。朝廷も東大寺の再建に乗って大仏や大仏殿の再建を国家的祝事とした。これは景気回復の何よりのアピールになったと同時に、再建に至るまでの工事がもたらす失業対策効果も大きかった。

 源平合戦後の復旧が進んだのは東大寺だけではない。園城寺も進んだし、興福寺も進んだ。平安京内部を見ても里内裏の復旧も進んだ。

 後鳥羽上皇が目論んだ大内裏復興は、東大寺復興を遙かに上回る大規模なものだ。当然ながらそれだけ予算を必要とするが、それ以前に、必要となる人員もかなりのものとなる。これがもし戦乱終結直後であれば失業者が大量にいたから人手不足に陥ることもなかったであろうが、建暦元(一二一一)年一一月ともなれば源平合戦終結から四半世紀は経過している。これだけの年数が経ったならば平和の到来による失業の吸収も可能だ。この状態で無理に人員を集めるとすれば、かなりの報酬で人手を用意するか、権力にモノを言わせて徴集するしかない。律令制が機能していた時代であれば調や雑徭で強引に人手を集めることもできたかも知れないが、上に政策あれば下に対策ありとは世の常である。やりたくない労苦を命じられそうになったならば、黙って受け入れるのではなくどうにかして逃れようとするのが通例だ。

 後鳥羽上皇は暗に権力を匂わせての徴集を求めたようであるが、不出来を叱責したところで人手は湧いてこないし、そもそも徴集を求めたところで、スタートが予算ゼロというのではどうにかできる代物では無い。三善康信が大内裏復興を暗に否定したのは、公共事業のもたらす経済効果ならば否定できないものの、後鳥羽上皇の求める公共事業の在り方はタイミングも遅ければ予算も少なすぎるという、経済効果よりも経済縮小を招いてしまうような在り方でもあったからだ。

 鎌倉幕府がここで後鳥羽上皇の意見に賛同して人手や予算を大内裏復興のために投入したらどうなるか?

 三善康信はむしろマイナスになると考えたのである。


 さて、建暦元(一二一一)年七月に京都から脱税疑惑を指摘され、北条時房のもとでの監禁生活となった惟宗孝尚が、一二月一日に軟禁解除となって釈放されたのは既に記したとおりである。釈放理由は、赦免ではなく、脱税たる隠田が見つからなかったからという無罪判定である。

 そして、源実朝は一連の流れに侍所も問注所も動かさなかった、特に侍所別当である和田義盛を動かさなかったことも既に記した通りである。吾妻鏡によると中原仲業に隠田の事実があるかを調査させ、京都からの疑惑が事実無根であることが示されたために釈放となったとある。源実朝はその上で、惟宗孝尚の釈放後に今後の捜査方針と司法方針について中原広元を通じて鎌倉幕府全体に布告している。

 和田義盛の焦りは建暦元(一二一一)年一二月二〇日に一つの諦めを生んだ。和田義盛はかつて上総国司への就任を求める嘆願書を提出したが、今回はその嘆願書の返却を求めたのである。和田義盛の四男の和田義直が中原広元のもとに嘆願書返却をかけかい、中原広元は和田義盛からの訴えを源実朝に伝えたことで、和田義盛の嘆願は取り消されたが、源実朝は良い気分ではなかったとされる。

 翌建暦二(一二一二)年一月、新年を迎えた鎌倉幕府は新年の行事を開催し、源実朝はその全てに顔を出している。

 鎌倉幕府の新年は、御家人が将軍に御馳走を振る舞うことで始まる。将軍が相手にするのは一日に一家であり、その順番は将軍にとって重要であればあるほど一月一日に近いものとなる。建暦二(一二一二)年一月の例で言うと、一日が北条義時、二日が中原広元、三日が小山朝政であるが、同じ家の者であればその場に臨席する。北条義時のときは北条時房が、小山朝政のときは結城朝光が臨席している。

 注意していただきたいのは、ここに和田義盛だけでなく三浦家そのものがいないことである。一月四日以後のことなのかと考えてその後の記録を見ても和田義盛だけでなく三浦家が全く出てこない。吾妻鏡が意図的に記録から消した可能性は否定しないが、吾妻鏡に記された動静に従うと、新年を迎えた源実朝が三浦家、そして和田義盛のいる場に姿を見せたのは一月一九日になってからであり、それも鎌倉幕府全体で鶴岡八幡宮に参詣した際に鎌倉幕府の主な御家人が集結している状況下で三浦家の面々もいたというものである。

 では、三浦義村や和田義盛をはじめとする三浦家はそれまで何もしていなかったのかというと、そんなことはない。特に、二月の吾妻鏡の記事を見ると、鎌倉幕府は三浦家に強大な勢力と向かい合うことを求めていたようなのである。

 その勢力とは、比叡山延暦寺。


 貴族の時代である平安時代から武士の時代である鎌倉時代に移り変わったのは一瞬の出来事ではない。平安時代の草創期に登場した武士が少しずつ勢力を持つようになり、朝廷や貴族達が武士を利用しなければならない状況へとなっていき、気がつけば武士の力が無視できるものではなくなっていたというのが大まかな流れである。

 特に白河法皇の時代には武士の力がどうしても必要な社会情勢を生むようになっていた。

 何が起こったのか?

 寺社の武装デモである。

 歴史用語では強訴というが、現代人の感覚でいうと国会や首相官邸、あるいは駅前でデモを繰り広げている集団が、刃物をはじめとする武器を持って暴れ回るようになったと考えていただきたい。これでは物騒極まりない話であり、デモ集団を強引に押さえつけるために、武力に対して武力をぶつけるために、白河法皇以降の院政期の皇族や貴族は武士を利用するようにしたのである。さらに、これらの武装デモ集団は、朝廷や院、すなわち政府に対してデモを繰り広げるだけでなく、他の寺社との争いも繰り広げていた。現在で言うと、新左翼が政権を敵として暴れ回るだけでなく、他の新左翼に対して襲撃を仕掛け、さらには命を奪うこともあるのと同じである。新左翼とは無関係の一般人からすればなぜそのようなことをするのか全く理解できないが、新左翼の中にいる人たちに言わせると、自分たちだけが正しく、他の新左翼は間違っているから成敗しているとのことである。この構図を平安時代に戻すと、同じ宗派である比叡山延暦寺と園城寺、すなわち山門寺門の争いがあり、また、奈良の地の寺院、特に興福寺が関係してくる南都北嶺の争いがある。同じ僧侶同士争うことなく仲良くすればいいではないかと考えるのは無関係の第三者の感想であり、当事者にとっては自分たちだけが正統で、他は異端であるがゆえに滅ぼされなければならないという考えらしい。

 そうした武装でも勢力の中で最強であったのが比叡山延暦寺である。日本の歴史を振り返ると、延暦寺の問題を解決するには織田信長を待たねばならねばならない。つまり、この時代は延暦寺の問題を解決する方法を持っておらず、せいぜいその都度対処するしかなかったのだ。

 これは延暦寺に限ったことではないが、何か問題があるからデモに訴えて問題を改善させようとするのではない。重要なのはデモそのものであり、もっと言えば暴れ回ることそのものが重要なのである。訴えとは、問題解決のための案の提示ではない。日頃の不満をぶつけるための口実である。このような集団に対して話し合いは通用しない。求めているのは暴れ回ることそのものである上に、冷静さを失っている。そのような集団に正論を用いての話し合いは通じない。

 正論を用いての話し合いは通じないが、正拳を用いての殴り合いは通じる。暴れ回ることを目的とする集団を抑え込むもっとも確実な方法は、暴れ回ろうとしている集団を力づくで押さえつけて身動きさせなくすることである。それでは問題の後回しにするだけではないかと思うかもしれないが、相手は人間、永遠の命を持つわけではない。問題を後回しにし続けて暴れ回りたい欲望を一度も満たせぬまま寿命のほうが先にやってきたならば、それで問題は完全に解決する。忘れてはならないのは、暴れ回ろうとしている当事者の周囲には、暴れ回ることで大迷惑を被る多くの人がいることである。武装デモに直面したときに真っ先に守るべきはデモと無関係の一般庶民の身の安全であり、現在進行形で暴れ回っている集団の一人一人のことは後回しでもいい。

 こうした寺社のデモを押さえつけるために採用された武士が徐々に力をつけてきて、次第に国の中枢に身を置くようになっていった。しかも、平清盛にしても、源頼朝にしても、貴族社会の一員とカウントされる家に生まれ育った身であり、周囲に武士が多いという点で特異ではあるものの、基本的には貴族として生涯を過ごしていた。つまり、武士と貴族との間は、貴族を上、武士を下とする上下関係が存在するものの、どこにその両者のボーダーラインがあるかは不明瞭なのである。武士としての功績を積んで貴族になるというケースもあるが、それも世代を重ねれば貴族の家に生まれたから貴族になるという生涯を過ごしてきた人である。ただ、周囲に武士が多く、自身も武士達を統率できる権利と権力を有している。そのため、朝廷から治安維持を求められたときに、私的な武力を発動させて治安維持にあたっている。

 鎌倉幕府は、より厳密に言えば鎌倉幕府の組織図に組み込まれている守護と地頭は、令制国単位の治安維持を司る守護と、荘園単位の治安維持を司る地頭という組み合わせにより、完璧ではないにせよ以前と比べれば治安維持においてかなり改善する動きを見せていた。また、京都においても鎌倉幕府の派遣する京都守護のもと、京都に鎌倉幕府の御家人が複数名駐在し、既存の朝廷権力、歴代の院が構えていた北面武士、後鳥羽院が創設した西面武士と協力する形で京都の治安維持にあたっていた。このように、京都に出向いて治安維持にあたることを京都大番役という。

 この京都大番役に問題が生じてきていた。

 全ては建暦二(一二一二)年一月二五日に法然が享年八〇で入滅したことに始まる。既存宗教に対する浄土宗の影響はあまりにも大きく、開祖法然をはじめとする浄土宗の主要人物は、良くて追放、そうでなければ斬首という承元の法難を招いたが、それで浄土宗が日本中から喪失するということはなかった。法然自身が強制的に還俗させられ流罪になっていたが、流罪先の讃岐国で浄土宗の布教に励み、赦されて摂津国に戻り、さらに京都に戻って布教を再開している。

 ただ、前述のように法然はもう八〇歳になっていた。数え年であるから満年齢にすると七八歳であるが、それでもかなりの高齢だ。当時でも高齢なだけでなく現在の感覚でも十分に高齢だ。どんな圧力に打ち勝つことはできても、年齢に打ち勝つことはできなかった。

 法然が亡くなったというのは浄土宗にとって大ピンチ、浄土宗に対する圧力を隠さないでいる既存宗教にとっては大チャンスである。中でも比叡山延暦寺にとっては最高のチャンスである。宗教勢力としての圧力の中には純粋に布教を推し進めることでの信者獲得もあるが、平安時代の寺社は僧兵を抱えており、信仰ではなく武力での圧力も珍しくなかったのだ。

 その問題を食い止めるのに最も確実で最も簡単な手段とは、京都で用意できる武力を動員して延暦寺の動きを封じることである。武力に対して武力で向かい合うのは野蛮に感じることもあるだろうが、歴史はそれが確実な方法であるという例に満ちている。

 ただし、武力で向かい合うことができることが条件である。

 吾妻鏡の建暦二(一二一二)年二月の記事を読むと、どうやらこの頃に鎌倉幕府の御家人達が京都大番役をサボるようになってきたようなのである。二月一九日に源実朝は、京都大番役を一ヶ月間務めなかった者は三ヶ月の京都大番役を務めるよう指令を出し、その指揮担当を、和田義盛、三浦義村、そして平盛時の三名に命じた。なお、平盛時とは源頼朝の右筆を務めていた人物であり、名前からすると平家の一員に見えてしまうが、少なくとも源平合戦の最中の元暦元(一一八四)年には既に源頼朝の個人的な秘書として歴史資料にその名が登場していること、同年一〇月の問注所の設置時には三善康信の補佐役として名を連ねていることから、鎌倉幕府における数少ない古参文人官僚のうちの一人であることがわかる。

 さらに二月二三日の吾妻鏡の記事を読むと、延暦寺の騒動に対して園城寺を守るよう、中原季時と佐々木広綱に指令を出したことが読み取れる。この両名は京都在任の者であり、特に中原季時は京都守護である。この時点の鎌倉幕府にとっての京都対策という点で即時に動かせる者となるとこの両名ということとなるが、それはあくまでも一時的なものとするしかない。すなわち、鎌倉から軍勢を送り込むのではなく、現地で用意できる軍勢ということとなる。この両名で対処できないとなれば、前段に記した京都大番役を通じた鎌倉幕府の軍勢派遣ということとなる。間に三浦家が、特に侍所別当の和田義盛が入っている以上、軍勢派遣は鎌倉幕府の通常人事でどうにかなる話だ。

 これは同時に、比叡山延暦寺に対する何よりの圧力になる。今は京都守護である中原季時と、京都在駐の佐々木広綱の両名が対処するが、この両者の手に負えない事態となったら鎌倉から容赦なく軍勢を派遣するというのだから、圧力を向けられた側にとってはたまったものではない。


 三浦泰村や和田義盛といった三浦家の人物を京都大番役の管理監督に採用した経緯を見てくると、初期鎌倉幕府の本質が見えてくる。初期鎌倉幕府の本質を突き詰めると、これまでの国司の変遷と地方武士の誕生、そして、平家政権と鎌倉幕府の差異が読み取れる。そもそも国司についてたどると、地方の武士の勢力拡大の話につながる。

 三浦家は地方武士の一例とも言える。

 「受領は倒るる所に土を掴め」とは平安時代の国司の専横を示す有名なフレーズである。しかし、国司という役職自体はもっと前から存在している。それなのに奈良時代にはまだこのようなフレーズが登場せず、平安時代になってから国司の専横が話題となり、平安時代になってからこのようなフレーズが登場したのはどうしてか?

 結論から記すと、平安時代の始まりからかなりの時間を経過してようやく、国司が専横できるような時代を迎えたからである。それまでは専横などしない清廉潔白な国司ばかりであったというわけではない。清廉潔白云々の問題ではなく、専横が可能か不可能かという問題が存在していたのだ。

 国司とは朝廷が任命する令制国のトップであり、任命されたならば任地に赴いて令制国を統治しなければならない。ここで朝廷が求める統治とは令制国の治安維持と税の徴収であり、治安維持に成功したならば徴収した税のうちの一定割合を国司のものとすることが可能であった。清廉潔白な国司は自分の手元に残す税のごく一部しか自らの資産とせず、そうでない国司は法で認められている範囲、さらには法の範囲を逸脱するレベルで税から自らの資産を着服できるようになっていた。理論上は。

 問題は、国司に任命され、国司として任地に赴いた末に待ち受けている現地の人々というのが、おとなしく統治に従い、おとなしく税を納める者ばかりではなかったことである。ときには山賊となって暴れ、ときには海賊となって襲撃し、平凡な暮らしをしている者も国司の支配に逆らう意思を隠さないことなど珍しくもなかったのだ。奈良時代までの記録を読むと、国司の専横どころか、襲撃されて都に逃げ帰る国司も出てくる。これではいったいどっちが専横なのかと指摘したくなるところだ。

 そうした弱い国司を押さえつけるために朝廷が選んだのは、説得ではなく武力であった。話し合いの通用しない者であっても殴り合いならば通用する。これまで国司に対する反発を隠さなかった者であっても、国司に武力があり、国司に抵抗したなら国司の率いる軍勢に殺された上で全財産没収となると理解したならば、殴り合いではなく服従を選ぶ。これで統治は成功する。重要なのは任期中にゴタゴタを起こさないことであって、ゴタゴタの芽を摘むことではない。

 武力を持つ国司は地方に派遣されて職務を遂行した後に、京都に戻って出世街道にチャレンジするか、京都に戻らずに現地に留まって豊かな暮らしを手にするかを選んだ。また、国司達の中には、息子の何名かを連れて京都に戻り、残る息子達を現地に残すことで、家全体として、中央での出世と地方で手にする富の両方を手にすることを選ぶ者も出てきた。この状態で世代を経ると、同じ氏族でも京都で貴族としての成功を選ぶ者と地方の富を選ぶ者とに分かれることとなる。そのうちの後者が、祖先をたどると上級貴族に行き着く地方在住の武士だ。鎌倉幕府に仕える御家人がそれぞれ苗字を名乗っていても、本来の姓は源であったり平であったり、さらには藤原であったりするのはこのような理屈であり、三浦家はそうした典型だ。

 さらに地方に留まって武力に磨きをかけると、富だけでなく中央で権勢を掴むことも見えてきた。同じ氏族でも、京都に戻って貴族としての出世を選んだ一族と地方に留まって富を選んだ一族とでは別々になってきていたが、前者は中央政界での出世競争に明け暮れながらも富の獲得はさほど進まないどころか時代とともに相続分割によって世代を経るごとに貧しくなっていったのに対し、後者は武芸にさらに磨きをかけることで中央政界での出世競争に突入できる可能性も見えてきていた。

 その当時、京都の朝廷が問題視していたのが、比叡山延暦寺をはじめとする宗教勢力の有する武力である。彼らの武装デモは厄介きわまりない話であったが対処するには困難な話でもあった。その困難に対処するための存在として目をつけたのが武士である。武士は、防人や六衛府のように律令に定められた国の正式な武力ではなく、あくまで民間の非公式な武力集団である。防人は健児を経て時代とともに消滅し、左右の近衛府、衛門府、兵衛府も徐々に名目だけの武官となっていったが、入れ替わるように検非違使が登場して朝廷は最低限の武力を常時抱えてはいた。抱えてはいたが、彼らの武力は強盗の逮捕ならどうにかなっても宗教勢力の武装デモとなると太刀打ちできる話ではなく、宗教勢力の武装デモに対処するために、朝廷の正式な武官ではないものの無視できる武力でもなくなっていた武士を採用するようになってきていた。

 すでに宇多天皇の時代に滝口武者として非公式な形で朝廷が武士を抱えるようになっていたが、平将門と藤原純友の乱で武士が無視できない勢力であると認識されると朝廷だけでなく貴族も武士を抱えるようになり、院政がスタートすると院が北面武士としてほぼ公式な形で武士を雇用するようになった。さらには武士が検非違使をはじめとする朝廷の正式な官職を得ることも、五位以上の位階を得て自らの所領のある国とは別の令制国の国司に就くことも不可能ではなくなってきていた。

 地方在住の武士にとっては武芸によって中央からスカウトされることはその時代で最高の栄誉であった上に実利も伴う。多くの武士は祖先をたどると中央政界の貴族に行き着くが、時代を経て、世代を経ることで中央とのつながりが薄くなっている。その薄いつながりを一瞬にして取り戻して、位階を手にし、官職を手にすることは、地方に戻ったときの自らの正統性をより強固なものとさせる要素となる。忘れてはならないのは、地方在住の武士は多いものの、彼らは協力し合う関係ではなく、本質的には対立する関係にあるというところである。そのときの妥協で手を結ぶこともあるし、祖先をたどると同じ血族ということで手を結ぶこともある。また、婚姻関係によって手を結ぶこともあるが、それでも本質的には所領を巡って争うライバルである。そうしたライバル達と争うときに有効となるのは中央とのつながりである。中央のつながりではなく武力そのものを選んだなら、中央からより強力な武力がやってくる。平将門が、藤原純友が、平忠常が討ち取られたように、また、前九年の役や後三年の役のように、中央の抱える強大な武力が刃を向けてくる。中央から武力が派遣されてこないレベルでの武力衝突で試行錯誤するよりは、中央から派遣されてくる武力と自らの勢力との合一性を確立する方が容易であるし、得られるメリットも大きい。

 そうした中央の抱える強大な武力こそ、清和源氏と伊勢平氏であった。源氏も平氏もそのスタートは地方に赴任した国司の子孫である。しかし、地方に留まって勢力を手にし、武士としての価値を高めるようになったことで、時代とともに国内外の問題に対処するための武力として計算されるようになった。本来であれば、大和時代から朝廷の武門を担ってきた大伴氏や物部氏、坂上田村麻呂を輩出した坂上氏や、文屋綿麻呂を輩出した文屋氏、そして、平安時代に絶大な権勢を手にした藤原氏がいてもおかしな話ではないところであるが、平将門の乱における藤原秀郷や、刀伊の入寇における藤原隆家といった例外を除けば、武士が求められる場面で結果を出し、重宝されるようになったのは清和源氏と伊勢平氏であった。清和源氏にしても、伊勢平氏にしても、その血筋を遡ると国司をはじめとする地方官であり、地方官として赴任した者の子孫が武力を身につけて勢力を築き上げた集団が清和源氏や伊勢平氏である。しかも、この両者とも祖先を辿れば皇室につながるために、自らの正統性を訴えるときは藤原氏より皇室との深い繋がりを訴えることも可能な家柄だ。こうした家柄と実績を積み重ねた結果、武力が求められる場面となると朝廷が抱える律令に基づいた武官ではなく、非公式で私的な武装集団である清和源氏や伊勢平氏が求められるようになり、中央政界を見渡しても源を姓とする貴族や平を姓とする貴族は珍しくないにもかかわらず、源平と記すだけで武士であると認識されるようになっていった。

 保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくなっていった。先に伊勢平氏の平清盛が、次いで清和源氏の源頼朝が権力を手にするようになったのである。

 ただし、平清盛の権力と、源頼朝の権力とは、その内部構造に大きな違いがある。平清盛は伊勢平氏の面々を上級貴族として朝廷に送り込んだのに対し、源頼朝は自分だけが上級貴族であり、源頼朝に協力する貴族ならば複数名いるものの彼らはあくまでも協力者であって源頼朝の勢力の一部ではないという権力構造である。さらにその権力構造を突き詰めると、平清盛は京都の貴族として新たな勢力を作り上げるのに自らの親族を利用した集団としたのに対し、源頼朝は京都と距離と置いた勢力として在地の武士達をまとめ上げたという違いがある。平清盛はたしかに武士として権力者となったが、平家政権は武家政権ではない。貴族として多くの平家を朝廷に送り込んだのであり、武士ではあるものの本質的には貴族が打ち立てた政権である。一方、鎌倉幕府は文句なしの武家政権である。ただし、建暦二(一二一二)年二月時点の鎌倉幕府はまだ天下を握ったわけではない。あくまでも関東地方を中心とする東国に拠点を持つ武士達の集合体であり、そのトップとして源頼朝の子である源実朝が、貴族の一員ではあるものの京都に赴かず鎌倉に滞在したまま一つの勢力を作り上げているという構図である。源実朝は東国の武士達が集まる際に用いられる神輿であって、源実朝自身に指導者としての強烈なカリスマ性があるわけではない。だが、源頼朝の実の子であり、征夷大将軍であり、鎌倉武士達に恩恵をもたらしていることは誰もが認めるところであり、源実朝の命令に忠実に従うことは東国武士達にとって納得できる話であった。

 話が長くなったが、東国に拠点を持つ武士というのは、祖先を辿ると中央の有力貴族に結びつくと同時に、武力での淘汰を乗り越え、さらに時流を掴むのに成功した面々である。国家そのものが軍事力を持つ国軍など名目上でしか存在せず、国家として動員できる軍事力を個人に依存し、しかも、途中までは源平二流が併存していたのが源氏のみとなった上に、その源氏の軍事力も突き詰めると東国武士の集まった組織であるというのがこの時代の国内軍事事情だ。国家としての組織的な軍隊など存在せず、あるのは源実朝がトップに君臨する上で数多くの武士団が源実朝に従っているという構図の集団のみであり、その集団で人事権を有する和田義盛と、その集団の中で最大勢力というべき三浦家の当主である三浦義村の命令が発せられる。源実朝としては考えうる上から二番目のカードを切ったと言えるし、京都大番役を命じられる武士にとっても従わざるをえない状況が作られたと言えるし、京都とその周辺においても建暦二(一二一二)年二月時点でこれ以上は考えられない軍事的圧力を見せつけられたこととなる。実際、藤原定家の日記によると、このときの鎌倉幕府の圧力によって比叡山延暦寺の武装デモが一瞬にして静かになったとある。

 ちなみに、一番目のカードは実際に軍勢を動かすこと。和田義盛にしても、三浦義村にしても、動くように命じただけであって、自分自身が動いたわけではない。


 源実朝という人は生涯に亘って京都に赴くことのなかった人である。もっと言えば、鎌倉とその周辺だけが源実朝の行動範囲である。それでいて日本全国に視点を向けていた人であるが、足元に視点を向けていなかったわけでもない。これはどの時代のどの統治者にも言えることであるが、住まいを構えている地域の生活水準の向上、治安の安定、そして、人口増加というのは、その統治者の力量を図る重要な指標である。

 源実朝が住まいを構える相模国鎌倉は目に見えて人口が増えてきていた。また、生活インフラも整ってきていた。ただし、万全とは言えなかった。増えゆく一方である都市鎌倉の人口が生み出す需要に応えきれていなかったのである。

 特に問題であったのは相模川だ。

 相模川は富士山に源流をもつ河川であり、現在の富士吉田市から都留市、大月市を経て甲斐国から相模国に入り、相模国に入ってから当初は東南に、途中からはほぼまっすぐ南に流れて相模湾に注ぎ込むという経路をとっている。相模国は相模川によって東西に分断されているといっても過言ではないが、文字通り分断されているわけではなく、地域住民にとっても、東海道を旅する者にとっても、渡ることのできない河川というわけではない。ただ、渡るに困難な河川ではあった。

 鎌倉は相模国の東にある都市である。つまり、鎌倉から京都に向かうなら必ず相模川を渡らねばならず、鎌倉武士の中で相模川を渡ったことのない者を探すほうが困難なほどである。そうでなくとも相模川の東から西、西から東に向かう人の流れは多く、相模川には多くの橋が架かっている。

 問題は、相模川に架かっている橋の耐用年数が厳しくなってきていることだ。

 壊れかかってきているなら、修繕するか、新しい橋を架けるかすれば良いところであるが、相模川の橋の修繕に関するインフラ整備は建久九(一一九八)年を最後に止まってしまい、それから一四年間に亘って放置されてきたのである。

 なぜか?

 源頼朝が亡くなったのが相模川に架かる橋の落成記念式典の帰路の落馬であるからだ。稲毛重成が亡き妻を偲ぶために橋を架け、完成した。源頼朝は、稲毛重成が架けさせた橋の完成式典に出向いた帰りに命を落としたのであるから、鎌倉幕府の中では相模川の橋そのものに不吉というイメージがつきまとってもおかしくない。おまけに、橋を架けさせた稲毛重成が元久二(一二〇五)年の畠山重忠の乱の渦中で誅殺されたとあっては、相模川に架かる橋の建造や橋の修繕自体が縁起でもないと見送られ続けてきたのである。

 しかし、縁起でもないと言って橋をそのままにしていてはさすがに生活に支障が出てくる。建暦二(一二一二)年二月二八日、三浦義村から橋の修繕を復活させるべきとの申し出があり、この申し出を北条義時、中原広元、三善康信らが討議し、その討議の結果を踏まえるという図式で源実朝の名で橋の修繕工事復活が正式に宣言された。源頼朝の死去も、稲毛重成が誅殺されたことも、橋とは無関係であるという宣告が降りたのである。


 さて、先に源平こそが武士であり、その他の氏族は、それこそ隆盛極める藤原氏ですら、武士としてはカウントされることが乏しかったと記したが、藤原を姓とする武士がゼロであったわけではない。特に平将門を打ち破った藤原秀郷の子孫を称し、摂関家ですら近衛や九条といった苗字で呼ばれることが珍しくなくなった時代にあって、姓をそのまま苗字とする藤原氏の武士も存在していた。

 そのうちの一人が藤原秀能である。彼も藤原秀郷の子孫を称する藤原氏の武士であり、藤原北家の一員である。もともとは土御門通親に仕える武士であったが、和歌への才を見せたこともあって北面武士の一人として後鳥羽上皇に抜擢されて、院に、そして朝廷に地位を築き上げるまでになっていた。

 着目すべきは、武士としてのキャリアを積み上げながらも鎌倉幕府とは距離を置いていたことである。鎌倉幕府はこの時代最大の軍事組織であるが正式な国軍というわけではなく、鎌倉幕府の御家人ではない武士も存在していた。ただし、彼らの立場は極めて弱い。源実朝は征夷大将軍として軍事作戦中であるという指揮権が与えられており、鎌倉幕府の御家人達は朝廷から距離を置くことが求められている一方で、鎌倉幕府の権勢を背景として朝廷の干渉を拒絶しての行動が認められている。後鳥羽上皇が独自の軍事力を手にするために既存の北面武士ではなく新設の西面武士を創設したのも、鎌倉武士を北面武士として採用するのは征夷大将軍の指揮権に干渉することになるのに対し、西面武士であれば鎌倉幕府の御家人でも兼任可能だからである。すなわち、北面武士であったというキャリアは、鎌倉幕府と距離を置いた、それでいて武士としてはそれなりの成功を手にできていたことを意味する。しかし、かつては院や藤原氏のもとに源氏や平氏が武士として仕えていたのに、藤原秀能の武士としてのキャリアのスタートが土御門通親こと源通親に仕えるところからだったというのも何とも皮肉な話である。土御門通親は清和源氏ではなく村上源氏なので、藤原秀能は武士としての源氏に仕えていたわけではないと言ってしまえばそれまでだが。

 その藤原秀能であるが、建暦二(一二一二)年五月に後鳥羽上皇から九州に派遣されたという記録がある。壇ノ浦の戦いで海に沈んだ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の捜索のためである。なお、この記録は尊卑分脈に残されているのみであり、他の記録、特に吾妻鏡には残されていない。残されていないのは当然で、鎌倉幕府としては征夷大将軍こそが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であったという建前が存在していたし、順徳天皇の即位時は蓮華王院宝蔵の伊勢大神宮神剣こそ新たな天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるとして三種の神器が復活したという公的見解を示すことで、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が失われたことそのものを無かったことにしたからである。

 とはいえ、後鳥羽上皇はこのような公的見解をいつまでも続けておくつもりもなかった。壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を見つけることには執着したのである。もしかしたら、壇ノ浦から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が見つかったなら伊勢大神宮神剣のことなど無かったことにして、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が見つかったと大いに宣伝するつもりであったのだろう。さすがに事情が事情なので認めざるを得ないが、四半世紀以上前に海に沈んだ剣が、しかも、現在のように潜水艦どころか酸素ボンベも無い時代に海に潜って見つかるであろうかという疑問は誰もが抱いたようで、後鳥羽上皇の気まぐれとして捉えたようである。


 鎌倉幕府の本質は東国武士の集合体である。流罪となって京都から流されてきた源頼朝が、東国の武士達が集まった勢力のトップに君臨しているというのが鎌倉幕府の図式であり、誰の言葉であったか、これからJクラブ入りを目指そうとしているアマチュアクラブに日本代表の選手が一人やってきて一気にJ3、J2と駆け上がり、J1に名乗りを上げて優勝争いするようになったのが鎌倉幕府である。しかも、現実のサッカークラブと同様に、叩き上げの選手もいれば他クラブから移籍してきた選手もいる。かつてアマチュアクラブであった頃は無名であった選手が、J3、J2とステップアップしてJ1のクラブのレギュラーとしてベストイレブン争いをするまでに名を馳せるようにもなったと考えるとわかりやすいであろう。比喩にある日本代表の選手たる源頼朝は引退し、トップの地位は、源頼朝の死後は源頼家、源実朝と受け継がれてきた。また、鎌倉幕府を構成する面々にどのような人物がいるかは広く知られるようになってきていた。北条にしても、三浦にしても、かつてはアマチュアクラブの選手であったのに、今やJ1の強豪クラブのレギュラーとして名を轟かせるようになっている。

 比喩で言うJ1に位置するようになって世代交代が進んできているものの、それぞれのクラブにある特色はいつまでも変わらないように、鎌倉幕府も本質的には東国武士である。つまり、血の気が多い。まあ、血の気が多いのは東国武士に限らず平安時代の貴族も似たようなものであるが。

 吾妻鏡の建暦二(一二一二)年五月から六月の記事を読むと、鎌倉幕府に存在する東国武士の特色が残存していることを思い知ることができる。

 まず、五月七日のこととして、北条義時の次男で北条泰時の弟である北条朝時が女性問題を起こした。源実朝に仕える女性の一人に惚れ込んでラブレターを送るも無視され続け、この日の夜に彼女のもとに忍び込んで誘い出したとある。このあたりは吾妻鏡のぼやかした記載なところもあり、このあとの北条義時の行動を見ても、北条朝時がやらかしたのは性犯罪としか言えない内容であろう。北条義時は自分の次男を鎌倉から追放して駿河国富士郡への謹慎を命じただけでなく、家族関係の断絶を意味する義絶を言い渡している。

 次いで六月七日の出来事として、丑刻というから現在の深夜二時頃、御所で宿直中の武士達の間で騒乱が発生した。そしてこれは平安貴族よりも物騒な事情なのであるが、殴り合いではなく武器を手にしての殺し合いになったのだ。最低でも被害者二名、実行犯も二名を数える。佐々木義清が場を納め、真夜中に起こされた和田義盛が自分の子や配下の武士達を引き連れて御所に足を運び容疑者を確保した。

 翌朝、深夜に発生した事件に対する取り調べが行われたところ、何ともあきれた理由が判明した。宿直時の寝る場所で揉めたのだ。容疑者として捕らえられたのは伊逹為家と萩生右馬允の二名、伊逹為家が萩生右馬允の配下の者を殺し、萩生右馬允が伊逹為家の配下の者を殺したという状況である。

 忠臣蔵は江戸城での出来事であるが、御所での刃傷事件という一点に限れば、やっていることは忠臣蔵の松の廊下事件と同じである。違うのは一方的な刃傷事件ではなく双方ともに武器を手にしての殺人事件であるという点で、忠臣蔵では犯人となった浅野内匠頭は切腹となった上に赤穂藩は御家断絶という処分となったが、このときは萩生右馬允を日向国への、伊逹爲家を佐渡島への流罪とすることとなった。これでも重い処分であるというのが吾妻鏡での言い分であるが、忠臣蔵とまでは言わなくとも、果たして本当にこれが重い処分なのだろうかとは感じる。

 もっとも、後の江戸幕府はともかく、この時点の鎌倉幕府は日本国内に存在する数多くの権力組織のうちの一つであり、いかに源実朝の私邸の中での事件であっても、法に従えば私的な制裁ではなく公的な法に基づく処分でなければならない。源実朝は征夷大将軍であり、源実朝は朝廷のシビリアンコントロールの影響を受けないでいい軍事作戦の途中の指揮官、源実朝のもとに集う武士達もその指揮官に従う兵士であるというのが公的な構図であるため、作戦遂行中の規律維持のために、指揮官の名で法に基づく処分を下すとなると、流罪は順当であるとも言えるが。

 なお、源実朝はこの件に関連して一つの指令を出している。それは、殺人事件があった現場を建て直せというもので、北条義時や中原広元はそのような考慮など不要としたが、源実朝は彼らの意見を拒否して、千葉成胤に再建を命じている。なお、千葉成胤は殺人事件の当事者の一人である萩生右馬允の上司にあたる人物、厳密に言うと千葉成胤は千葉常胤の孫で千葉一族の棟梁であり、萩生右馬允は千葉一族に仕える武士であるため、上司にも責任を取らせたという構図である。


 先に、後鳥羽上皇が大内裏の復旧を目論んでいることは記した。と同時に、予算の問題でうまくいっていないことも記した。院にしても、朝廷にしても、潤沢な予算というわけではなかったのである。保元の乱の後で信西が大内裏の再建に着手できたのは綿密な計算をした結果であり、赤字国債という概念のないこの時代、信西のような計算も無しに、限られた予算で大規模な工事をすることはできない。

 それでいて、大規模な工事に対する需要は存在している。大内裏の復旧はともかく、治水対策となると切実な訴えだ。実際に税を負担している庶民からすれば、大内裏の復旧など後回しにしてでも、自分たちが直面している洪水の危機をどうにかしてくれという考えになる。

 そうした要望は治天の君たる後鳥羽上皇の元へと届いていく。届いていくが、後鳥羽上皇はその願いに応えない、いや、応えたくても応えられない。予算がないのだ。

 建暦二(一二一二)年七月、後鳥羽上皇はかなり無茶な指令を出した。鴨川の堤防が要修理であることを認めつつ、近江国と丹波国のうち、寺社の荘園と藤原摂関家の荘園を除く全ての土地に対して堤防修理費用を負担するよう求めたのである。現在の感覚からすると理解し難い命令であるが、公共事業の費用負担を地方自治体単位に求めることは江戸時代までごく普通に見られてきたことであり、平安京との距離の近さに関係なく任意の国に租税負担を命じることは先例に従った施作でもある。なお、このように一時的な税負担があるときは他の租税を減らすことで納税者の税負担が重くならないようにするのが普通であり、理論上は同程度の税負担であるということにしている。もっとも、他の租税を減らすといってもそこまで減らされないことも珍しくなく、一度限りの税負担であると我慢していたら気づいたときには恒久的な税負担となり、税負担の重さに耐えかねて荘園としてもらうべく働きかけるか、あるいは、税から逃れるために土地を捨てる人も出てくるのはもはや恒例とすらなっている。いや、恒例となっていたと過去形で記すべきか。

 記載が過去形であるのは、鎌倉幕府が登場したからである。鎌倉幕府の正体を突き詰めると東国武士の集合体であるが、鎌倉幕府とは、全ての令制国に守護を、全ての荘園に地頭を配置する権利を得ているだけでなく、法で定められている税率に加え鎌倉幕府が手にすることが許された独自の徴税権のみを有効な税であるとしたために、荘園や農地に住むにとっては減税としながら増税を実現させ、その差額を全て荘園領主に押し付けることに成功したという、特異な組織でもある。

 ここで後鳥羽上皇が独自の徴税を命じたとして、鎌倉幕府が従う可能性は低い。鎌倉幕府とは、朝廷に仕える貴族の一人である源実朝のもとに集った私的な組織であると同時に、征夷大将軍のもとで独自の軍事行動を遂行しているという扱いの公的な組織でもある。つまり、後鳥羽上皇が独自の徴税を目論んだとしても、税を取り立てる場面で鎌倉幕府の地頭や守護が立ちはだかることが考えられるのだ。しかも、法的根拠は鎌倉幕府の側にも存在する。より詳細に記すと、法的根拠はまず朝廷に存在し、鎌倉幕府は朝廷の法的根拠を補完する。たとえば、建暦二(一二一二)年六月一五日に常陸国吉田荘で発生した税未納問題について、鎌倉幕府は現地の地頭ではなく荘園所有者の派遣した現場責任者の問題であるとし、鎌倉幕府独自の対処ではなく朝廷に対して意見を具申したことが述べられている。あくまでも具申であって最終決定権は朝廷にあるとしたのだ。

 これは朝廷や院にとって不都合極まりない事態であるとも言える。鎌倉幕府はあくまでも意見を述べているだけであり、責任は朝廷や後鳥羽院に委ねている。それでいて、各国には守護が、各荘園には地頭が鎌倉幕府から派遣されているのだ。税に対する最終決定を朝廷や院が下すにしても、鎌倉幕府の無言の圧力が待ち構えているのである。

 さらに鎌倉幕府には、無言ではなく有言の圧力も存在していた。この時代は大内裏が修復中であり、内裏は閑院が里内裏として用いられていたのであるが、閑院内裏もまた修繕中であったのだ。そして、その修繕費用の一部を鎌倉幕府が負担していたのである。鎌倉幕府からの資金援助が打ち切られた瞬間に閑院内裏は朽ち果てたままの里内裏になってしまうのだ。

 吾妻鏡の建暦二(一二一二)年七月七日の記事によると、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に悟られぬように徴税するよう命じたとあるが、それを察知した大内惟義から鎌倉に第一報が届けられ、鎌倉ではただちに対策が協議されることとなった。七月九日、鎌倉幕府は結論を下した。後鳥羽上皇の独自の徴税は認める代わりに該当地域に対しては他の租税を停止もしくは減免すること。これが条件である。なお、閑院内裏の修繕についてはあえて何の回答も記しておらず、これまで通りの資金援助を続けている。後鳥羽上皇にとっては、そして朝廷にとっては、少なくとも租税に関しては鎌倉幕府の目を逃れることなど不可能だと思い知らされる話になった。

 ちなみに、資金援助とは言っても現金を送り届けるわけでも,ましてや現在の銀行のように金銭を振り込むのでもなく、現在でも通用する資産としては砂金、あとは木材をはじめとする建造用の資材や建築人員の派遣、そして、この時代の最重要貨幣と言えるコメを送り届けている。


 租税についてさらに加えて記すと、鎌倉幕府が租税管理のために守護と地頭を派遣していると同時に、鎌倉幕府が守護と地頭そのものを管理監督しているという構図も成り立っている。

 守護にしても、地頭にしても、治安維持のために鎌倉幕府から派遣された御家人であり、徴税は治安維持に関連する職務の一つである。治安維持の中には犯罪者の手から住民の命を守ることだけでなく、朝廷や院から下される不都合な納税指令に反発する動きを消すこともある。たとえば増税反対を前面に掲げるにせよ、そのテーマを題目とする集団暴動が起ころうものなら、あるいは、反鎌倉幕府の動きが見られようものなら、簡単に治安は悪化する。たとえそれが善意によるものであろうと、結果が悲劇を伴うならば、それは悪事である。

 鎌倉幕府が見張っていたのは、朝廷や院が過分な税負担を強要しないかという点に加え、各地の守護や地頭が鎌倉幕府の認める範囲を超える負担を課していないかという点も存在するのだ。物納だけが問題なのではない。労働力の強制的な徴用もまた監視対象である。

 ただし、どこまでを範囲とするかは時代によって変わる。

 現在でも鉄道や高速道路を無料で利用するなどできないように、この時代も公共交通を利用するのには無料というわけにはいかない。この時代に公共交通があったのかと思うかもしれないが、現在と比べれば規模は少ないものの、あった。

 船である。

 船に乗って海に出て次の港へと移動するだけでなく、橋の架かっていない河川を渡るのにも船に乗ることはごく普通にあった。これらの船を用意するのも、港湾設備を整備するのも、さらには荷物の積み下ろしも無料でできる代物ではなく、どこかで誰かが用意しなければならない。あるいは、税で負担しなければならない。人やモノを船に乗せて運ぶときに費用負担を求めるのはわかりやすいケースであるが、船を停泊する港湾設備の維持費の負担となるとピンと来ない人も多い。無事に終わって当たり前、問題が起こったら管理不行き届きとなるようなことに、率先して費用負担を引き受けたがる人は少ない。頭の中ではどんなに必要であると考えていても、その負担をどうして課せあれなければならないのかという疑念は存在する。

 何であれ、利益が出るなら民間で勝手に用意する。問題は、それで利益が出るわけではないが、それを整備しなければ船の運行に支障が出るという箇所の整備である。この時代の船舶航行に関していうと、船舶は民間所有でも、船舶用の港湾整備は公費負担であり、それらの設備の維持管理もまた守護や地頭の職務の一つであったのだ。

 ところがここで問題がある。どんなに必要なことだとわかっていても船を利用するわけではない人にとっては無関係な出費なのだ。そこでこの時代の人たちは、守護や地頭に自腹を切らせるのではなく、津料や河手、すなわち港湾利用税として受益者負担とさせていたのである。

 ただ、これは船を利用しない人たちからすれば無関心である一方、船を利用する人たちからすると不満しかない。そのため鎌倉幕府は津料や河手の廃止を検討した。その代わりに租税の一部を港湾整備に回すことを検討したのである。だが、ここで現地の守護や地頭から猛反発が起こった。受益者負担だけで済んでいる現状の方がまだマシというのが現地からの報告であり、廃止しようものなら港湾設備は荒れるがままになって船舶航行が崩壊するのだ。建暦二(一二一二)年九月二一日、鎌倉幕府は正式に津料と河手の廃止を白紙撤回し、これまで通りの受益者負担とすることを決めた。


 建暦二(一二一二)年の吾妻鏡の記事を読むと、特に年の後半に、鎌倉に向けて雑多な訴えが起こされていることが読みとれる。

 先に記した津料や河手の廃止の場合も、その理由を遡ると受益者負担の重さに対する悲鳴を鎌倉幕府に対して訴えた結果である。いざ検討してみたら現地の守護や地頭から反対意見が来たので廃止が白紙撤回されたが、その他の記録を読んでみると、鎌倉幕府は想像以上に細かな訴えにまで耳を傾けて判断を下していたのだと感心する。このあたりは、立法府と行政府が重なっている現在の議院内閣制と違い、司法府と行政府が重なっている幕府という存在の持つ宿命でもあろう。

 また、鎌倉幕府は、他の貴族と違って問柱所という組織内裁判所を保有している機関である。この機関に鎌倉幕府の司法判断の大部分を委ね、源実朝の時間の大部分が司法に裂かれるという事態を防ぐことに成功してもいるが、それでも源実朝には征夷大将軍としての判断が求められるケースが多くなっている。北条義時や中原広元、三善康信といった面々のサポートがあるものの、源実朝はかなりの重責に追われる日々を過ごしている。このときの源実朝は数えで二一歳、現在の満年齢では若干二十歳の若者である。若いからこそ体力にモノを言わせての無茶もできるが、それとて限度はある。

 これまでの吾妻鏡の記録を読むと何度も源実朝が病に倒れたことの記録が出てくる。そして、天然痘に苦しんだときを除き、病から立ち直ると、それまで病に苦しんでいたことが嘘であるかのように溌剌とした活躍が見えてくる。このあたりは藤原道長もそうだが、権力者に必要なのは病に打ち勝つ健康ではなく、病があっても受け入れ、病からの治癒のために適度に休みを入れること、休みの間にも組織を動かす仕組みを作ることなのだと痛感する。

 建暦二(一二一二)年一〇月二二日の記事を読むと、鎌倉幕府から守護と地頭とは別に奉行人を派遣して庶民の訴えを聞き取り、鎌倉ではなく現地で判断可能な訴えに対して処理させることにしたとある。これで源実朝に課せられていた負担も少しは減ることになったであろう。実現したならば。

 まったく、鎌倉幕府は人が多くいるようで人手が足りなすぎる組織である。武人ならば不足はないが、文人官僚が少なすぎる。鎌倉武士は人口に膾炙されるほどの無教養な人間ではないが、この時代の文人官僚に求められる資質を有している者の人数を数えると、鎌倉の地に留まっての幕府運営ならばできても、また、守護や地頭として地方に武士を派遣することはできても、幕府の一員として文人官僚を派遣するとなると、どうしても頭数が揃わないという結論になる。

 奉行人の派遣を決めてからおよそ一ヶ月後の一一月二七日、奉行人の役割を引き受けることのできる人物の少なさから、奉行人の派遣そのものを白紙撤回し、訴えはこれまで通り鎌倉まで届けるようにさせたのである。

 せめてもの救いは、建暦二(一二一二)年一二月一一日に源実朝が従二位に昇叙したことか。


 源実朝が従二位に昇叙したことについて朝廷の提示した理由は征夷大将軍としてのこれまでの実績を評価してものであるが、これは真実の全てでは無い。もう一つ忘れてはならない理由がある。

 征夷大将軍源実朝に付随していた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての権威を後鳥羽上皇は否定した。ただ、その見返りは絶対に必要であった。皇位継承に関係する話であるのだから後鳥羽上皇の公式見解はギリギリの話であった。それこそ源実朝の言動一つで後鳥羽上皇の見解も、さらには皇位継承の正統性も喪失してしまうのだ。源実朝はどうにかして黙らせなければならない。

 建暦二(一二一二)年一二月時点で、三位以上の位階を有しながら議政官の役職に就いた経験を持たない貴族は二〇名を超えるが、従二位でありながら議政官の官職歴を持たない貴族は源実朝の他には二人しかいない。従二位は本来であれば左右の大臣や内大臣、あるいは大納言に就いているべき位階であり、これだけの高さの位階を持ちながら議政官の一員とカウントされないというのは本来ならば以上事態である。この以上事態を解消すべく、そう遠くない未来に、源実朝に対して最低でも参議、順当にいけば中納言の官職が付与されるのは確実視された。

 ただし、朝廷内の序列はあくまでも、まずは官職があって、次に位階がある。同じ官職で同じ位階な者が複数名いたら、より先にその位階に就いた者が上になる。仮に同タイミングで同じ官職に就き、同タイミングで同じ位階を得た者がいたならば、その官職に登る前の官職と、その位階に登る前の位階で序列が決まる。ここまでマニュアル化されていると、完全に同タイミングでの官職や同タイミングでの位階の者がいなくなるので、完全に序列化される。

 さて、年が明けた建暦三(一二一三)年一月時点で従二位でありながら参議にも就いたことのない貴族は三名いた。うち一人が源実朝である。

 残る二人であるが、九条良経の次男である九条教家、そして、近衛基通の四男である近衛基教の二名である。苗字から想像できる通り、両名とも藤原摂関家、それも、将来の摂政や関白が期待できる家の生まれであり、また、親が誰であるかを考えただけでもある程度の年齢の想像がつく。

 実は、三名の従二位のうち、数えで二二歳の源実朝が最年長なのだ。九条教家は二十歳、近衛基教に至っては十八歳である。つまり、源実朝は藤原摂関家の近衛家と九条家の次期当主候補とされる若者とほぼ同列に扱われることになったのである。

 それだけでもこの時代の人達は、後鳥羽上皇が、そして、朝廷が源実朝をどのように対処しようとしているのか理解できる話であったが、建暦三(一二一三)年二月二七日に朝廷はさらなる栄誉を源実朝にもたらした。この日、九条教家と近衛基教の二人を追い抜いて正二位に昇叙したのである。名目としては閑院内裏の修繕に尽力したことである。実際、鎌倉幕府の資金援助がなければ閑院内裏の修理は完了しなかったし、鎌倉幕府以外にも閑院内裏の修繕に協力した者は数多くいるが、鎌倉幕府の貢献度は群を抜いており、源実朝を従二位から正二位へと昇叙させるのに、それも九条家と近衛家の若者を差し置いて昇叙させるに十分な理由である。


 本来であれば源実朝の正二位昇叙は大々的な祝事として鎌倉幕府全体で騒ぎになるニュースであったのだが、鎌倉幕府はそこまでの騒ぎとはなっていない。無視したわけではないが、それどころではなかったというのが実情といったところか。

 まさにこの頃、源実朝の人生最大の、そして鎌倉幕府存亡の危機となる大事件の第一弾が収束した頃だったのだ。

 何があったのか?

 後に和田合戦と呼ばれることとなる鎌倉幕府内部のクーデタの前兆が起こったのだ。

 こののち和田合戦の前哨戦と扱われることとなる、いわゆる泉親衡の乱の始まりである。

 泉親衡は鎌倉幕府の御家人であり、祖先をたどると源満仲まで遡ることのできる清和源氏である。泉という苗字も信濃国小県郡小泉荘、現在の長野県上田市を根拠地としていることからの苗字であり、甲斐源氏ほどの勢力を築き上げることはなかったものの無視できない勢力であった信濃源氏の一員である。ちなみに、泉親衡の本名は源親衡であり、正式な姓が平である者が多い鎌倉幕府の御家人の中では珍しい存在である。

 ここまではわかっている。

 ただ、この泉親衡という人物の素性がここまでしかわからない。謀反発覚時点の年齢も、それまでどのような生涯を過ごしてきたのかも全く不明である。泉親衡の父である泉公衡が源平合戦において源氏方の一員として戦ったのちに鎌倉幕府の御家人になったことは判明しているので、そのままの流れで息子である泉親衡も鎌倉幕府の御家人になっていたことは推測できる。建久元(一一九〇)年と建久六(一一九五)年の二度の源頼朝上洛時の双方ともに、源頼朝に随行した御家人の一人として泉八郎という名があるので、この人物が泉親衡の父の泉公衡、あるいは泉一族の誰かであろうというのが、泉親衡に関する数少ない記録である。

 泉親衡の記録は泉親衡の乱の記録のスタートともに登場する。

 建暦三(一二一三)年二月一五日、千葉成胤のもとに連絡が届いたことで事件が明るみになった。泉親衡が源頼家の遺児である千寿丸を新たな征夷大将軍として擁立すべく動き出しているというのである。泉親衡の乱のはじまりである。

 泉親衡の郎党である青栗七郎の弟で、阿静坊安念という名の僧侶が千葉成胤のもとを訪ね、謀反への協力を求めてきたことで事件が明るみとなった。千葉成胤は謀反に参加せず安念を捕縛して北条義時の元へ連行した。北条義時は源実朝に報告し、源実朝は中原広元らと評議の上、安念の尋問を二階堂行村が執り行うことに決めた。なお、安念の身柄を二階堂行村のもとに引き渡すのは北条義時の部下である金窪行親に担当させている。この金窪行親という人物、後に和田合戦に至る流れの中で再度登場することとなる。

 翌二月一六日、安念の自白によって泉親衡は二年前の建暦元(一二一一)年から源頼家の遺児である千寿丸を大将軍として北条義時を打倒しようと画策していたことが明らかとなった。泉親衡に与(くみ)した武士は主だった者だけでも一三〇名あまり、ここにさらに仲間を加えると二〇〇名もの武士が名を連ねていることが判明し、ここで名の挙がった者は捕縛されることとなった。

 以下が吾妻鏡に名の記されている者と、身柄を預かることとなった御家人である。

 一村近村、信濃国の御家人。北条泰時が預かる。

 籠山高成、信濃国の御家人。高山重親が預かる。

 宿屋重房。山上時元が預かる。

 上田兼綱およびその子ら三名。豊田幹重が預かる。

 薗田成朝。宇都宮時綱が預かる。

 狩野行時。結城朝光が預かる。

 和田義直。伊東祐長が預かる。

 和田義重。伊東祐廣が預かる。

 渋川兼守。安達景盛が預かる。

 和田胤長。金窪行親と安東忠家が預かる。金窪行親と同様、安東忠家も北条義時の部下である。

 磯野安茂。小山朝政が預かる。

 この外にも名が上がったものの捕縛できなかった容疑者として、信濃国の保科次郎、粟澤太郎父子、青栗四郎、越後国の木曾瀧口父子、下総国の八田三郎、和田、奥田太郎、奥田四郎、伊勢國の金太郎、上総介八郎の甥の臼井十郎、狩野又太郎といった面々の名を吾妻鏡では記している。

 なお、この時点ではまだ謀反の疑いであって確定したわけではない。また、この時代の取り調べは拷問も当たり前であり、拷問とは真実を白状するのではなく拷問を命じている人間にとって都合良い回答を導き出す手段になりやすい。裏を返せば、拷問によって真相はかえって隠されやすくなる。拷問の結果の証言に基づいて直ちに行動できるとすれば、それはかなり前から計画を立てていて、計画実行のスタートに拷問で得た証言を持ってきている場合である。

 このときの鎌倉幕府は直ちに行動しているとは言いがたい。たしかに名が挙がった面々を捕縛し、また、捕縛できなかった者の捜索をしているものの、二月一六日の一斉捕縛の後の対処を検討はしていたものの結論は出せずにいた。鎌倉幕府の側に事前に何かしらの計画性が存在していたなら、捕縛しておいてからこのあとの処分をどうしようか検討するなどありえない。鎌倉幕府としても即座に行動しうるとは言いがたく、情勢としてはまだ謀反計画を立てた側にも謀反計画そのものが言いがかりであると盛り返す余地は存在していたのである。

 ところがここで、鎌倉幕府の側にも、陰謀計画を立てた側にも、取り返しのつかない失態が生じてしまう。事件発覚から三日後の建暦三(一二一三)年二月一八日に囚人として預けられていた薗田成朝が逃亡したのである。しかも、薗田成朝の逃亡が発覚したのが二月二〇日になってからだというのだから、監視する側である鎌倉幕府としては、暢気とかのレベルではなく不祥事である。一方、陰謀計画の側からしても逃亡そのものが未確定であった陰謀計画を確定させる失態となる。

 吾妻鏡によると、薗田成朝は二月一八日の夜に宇都宮時綱の家からの脱走に成功し、普段から世話になっている僧侶の敬音のもとを訪ねたとある。敬音のもとを訪れた薗田成朝はことのあらましを話し、あらましを聞いた敬音は薗田成朝に対して、今回の事件に関わった全ての人は逃亡すべきではないこと、既に人生は詰んでしまっているので出家した方が良いことを諭したが、薗田成朝は敬音に対し、古来より有名な武将は不利なときにいったん身を引くものであると主張した上で、自分には国司任官という夢があると語った。そして、国司になる前に出家してしまっては大願を果たせないではないかと言って出家を断り、敬音のもとを去っていった。ここでいったん薗田成朝の消息は消えることとなる。

 二月二〇日に薗田成朝の逃亡が判明した後、源実朝は敬音を呼び出した。呼び出された敬音は自分のもとを訪ねてきた薗田成朝が何を語ったかを全て述べ、敬音からの供述を全て聞いた源実朝は、恩赦も選択肢に含めた上で薗田成朝を捜索するように命じた。なお、吾妻鏡のどこにも、薗田成朝の身柄を預かりながら逃走を許してしまった宇都宮時綱に対する処罰は記されていない。宇都宮時綱の名は宝治元(一二四七)年まで頻出しているので特に処罰は無かったようである。


 大願を果たすためと称して逃走する者がいる一方、源実朝の和歌趣味に頼ることで命乞いをする者も出た。

 吾妻鏡によると、建暦三(一二一三)年二月二五日に、渋河兼守はいったん斬首となることが決まったとある。翌日の明け方に処刑するように安達景盛に命じられたとあり、渋河兼守は自分に対する斬首の命令を知って悲しみを抑えことができず一〇首の和歌を荏柄天神社の捧げるよう頼み込んだ。

 その和歌は渋河兼守の求めたとおりに荏柄天神社に奉納されたが、その日はちょうど工藤祐高が荏柄天神社で夜籠もりをする日であった。荏柄天神社に一〇首の和歌が奉納されたばかりであるのを知った工藤祐高は奉納された和歌を持ち帰り大倉御所へと届けた。

 伝承によると荏柄天神社の建立は長治元(一一〇四)年。菅原道真を勧請して創立された神社であり、その名は相模国鎌倉郡に存在した荏草郷の地名であるエガヤが転じてエガラとなり、漢字を改めて付したものとされている。

 荏柄天神社は、源頼朝の邸宅にして鎌倉幕府の御所である大倉御所からおよそ二〇〇メートルという近さということもあって源頼朝や源頼家が参詣したことの記録が吾妻鏡に何度か登場しており、鶴岡八幡宮が鎌倉幕府の公的な宗教施設であるのに対し、荏柄天神社は征夷大将軍が私的に参詣する宗教施設という位置づけであった。ただし、征夷大将軍でなければ参詣できないというわけではなく誰もが参詣可能であり、このときの工藤祐高のように夜籠もりすることも特に珍しくはなかった。

 このタイミングで和歌を贈って命乞いをするのは周囲からみっともないと見られるが、それでもなお命が助かるならチャンスを狙ってみようと考えたとしてもおかしくない。源実朝の和歌の趣味は周知の事実である。

 御所に届けられた和歌を目にした源実朝は和歌の出来映えに感激し、いったんは斬首を命じた渋河兼守の刑罰を減じることにした。源実朝にしても、この時点で謀反の証言はあっても謀反の証拠はどこにもなく、このまま捕縛した状態で日数を経過させるのはあまり優れた方法ではない。命乞いのための和歌に対し、源実朝が和歌に感銘を受けて死罪から流罪へと罪を減じたとするのであれば、とりあえずの解決にはなるのだ。現在の裁判なら証拠不十分のときは無罪放免であるが、この時代の裁判では、証拠不十分とは無罪ではなく罪を減らすのが一般的である。

 さらに二月二七日には捕縛された者に対する処罰を一律で流罪とすると発表になり、これにより謀反計画の容疑者として捕らえられた者の中に死を命じられた者はいないということになった。ただし、全員が流罪となったわけではなく二月二七日時点ではまだ判決が定まっておらず、なお捕縛中である者もいる。それでも、多くの者はこの段階で流罪評決となった。和歌を奉じたことで命が助かったために、吾妻鏡に従えば、この時代の人たちは「兼守愁虚名奉篇什。已預天神之利生。亦蒙將軍之恩化。凡感鬼神。只在和哥者歟(渋河兼守は無実の罪を嘆いて詩を集めて奉納し天神様の御利益を得て、将軍様の恩を受けたのだ。鬼神を感動させるのには、和歌に限る)」と感嘆したとある。


 捕縛された者は流罪となったが、首謀者と見做されている泉親衡は消息不明となっている。

 泉親衡の消息が判明したのは建暦三(一二一三)年三月二日のこと。鎌倉の中心部から北東にある筋替橋(すじがえばし)のあたりに身を潜めているとの噂があり、鎌倉幕府は工藤十郎を派遣して現地の捜索を命じた。

 その噂は本当であった。

 ただ、想像もできない結果になった。

 泉親衡は抵抗しただけでなく、幕府から差し向けられた手勢を打ち負かして逃走したのである。吾妻鏡によるとここで数名の死者が出たとある。

 ここまでであれば、不幸なことであるものの、犯罪捜査の場面でよくあることであるともいえるが、ここから先はなんとも理解しがたい結果になっている。

 泉親衡の記録がここで終わり、泉親衡の乱もここで終わるのだ。

 吾妻鏡をどんなに探しても、吾妻鏡以外の史料をどんなに探しても、少なくとも令和七年現在で泉親衡の今後の消息を伝える記録は全く見つかっていない。強いて挙げるとすれば、埼玉県川越市にある瑶光山最明寺に泉親衡が千寿丸とともに落ち延び、最明寺で出家し、文永二(一二六五)年に八八歳で生涯を終えたという記録があるのだが、残念ながらこの記録の信憑性は乏しい。特に問題なのが千寿丸に対する扱いで、最明寺に伝わる記録によると泉親衡とともに行動していたとあるが、他の記録によると泉親衡とは関係なく別の形で姿を見せているからである。

 一方、多勢に無勢で鎌倉幕府の差し向けた追っ手を倒して逃走に成功したという逸話によって、泉親衡は怪力の持ち主として様々な脚色をされた伝説の人物へとなった。泉親衡の故郷である信濃国の民話では龍の化身と扱われ、長野県上田地方に伝わる民話である小泉小太郎伝説の主人公小太郎と同一視されることもあるほか、江戸時代には泉親衡を主人公とする読本が生まれているほどである。

 また、泉親衡の由来の史跡とされる土地も日本各地に点在しており、特に鎌倉近郊には、泉親衡の住まいの跡とされる遺跡も、さらには泉親衡に由来する地名も現存している。その地名のうちの一つが横浜市泉区であり、厳密に言うと横浜市泉区と泉親衡との関係は直接の関係ではないものの無関係でもない。どういうことかというと、泉区という区名は区名公募の段階で寄せられた区名の中から選ばれた区名であるのだが、泉区の由来となっている和泉町の地名の由来をたどると泉親衡に行き着くので、接点がゼロというわけではないのである。

 ただ、どんなに現在まで残る説話になり現在の地名の由来になるほどの人物であるとの評判が確立されようとも、そのことと、建暦三(一二一三)年時点の泉親衡が一三〇名ほどの名だたる武士をはじめとする二〇〇名以上もの仲間を集めることに成功したことの整合性がとれないのだ。泉親衡は建暦三(一二一三)年二月にいきなり史料に登場し、三月には早々に行方をくらませている。父が鎌倉幕府の御家人であったことは確認できているので泉親衡自身も鎌倉幕府の御家人の一人であったのは間違いなく、鎌倉幕府の他の御家人達とも顔や名前は通じていたであろう。そこまではいいのだが、何を以て泉親衡をリーダーとする謀反計画を立てる要素とできたのかがわからないのだ。泉親衡自身が清和源氏であり、また、源頼家の遺児を担ぎ上げての謀反計画なのだから、泉親衡に流れる貴種としての血統はあると言えばある。とは言うものの、泉親衡ではリーダーとして心許ないのだ。名目上のトップは源頼家の遺児であり泉親衡はその遺児を支える親類縁者という体裁であったとも考えられなくもないが、それはかなり無理がある。

 何より大切なこととして、逃走した泉親衡を鎌倉幕府が真剣に捜索した気配がないのである。

 そこで、泉親衡の乱そのものが何者かによって仕組まれた陰謀なのではないかとする説が存在する。

 泉親衡の乱の勃発から終焉までの間に登場した人物を振り返ってみていただきたい。

 本来であれば登場していなければならない人物、そして、登場していなければならない一族が登場していないのだ。

 侍所別当の和田義盛が行動しておらず、そして、和田義盛も所属している三浦一族の姿が全く見えてこないのである。

 実に奇妙なことに、泉親衡の乱の流れの中に三浦義村や和田義盛といった名前は全く出てこない。特に、本来なら捜査や捕縛の先人に立つべき侍所別当和田義盛の名がどれだけ探しても出てこないのである。これはもう異常事態とするしかない。主な容疑者の中に和田の苗字を持つ者が複数名いるにせよ、それこそ、和田義盛の四男の和田義直と、五男の和田義重、そして、和田義盛の弟の息子である和田胤長の三名の名が出ているという点を差し引いても、和田義盛の不在は不可思議なのだ。

 おまけに、泉親衡の乱の知らせを受けてからの鎌倉幕府の面々の行動を見ると、和田義盛がいないこと、そして、三浦一族の姿が全く見えないことについて、誰も何ら疑問を抱かずに行動している。吾妻鏡が北条家にとって都合良く脚色された歴史書であるにしても、このような扱いは異常とするしかない。

 そこでこのように考える研究者も多い。

 曰く、泉親衡の乱そのものが和田義盛や三浦一族を排除するために繰り広げられた茶番である。

 曰く、泉親衡の乱の背後には和田義盛や三浦一族が存在しており、泉親衡は和田義盛や三浦義村の傀儡であった。

 その他にも木曽義仲の残党や比企一族の残党が繰り広げた陰謀であるとの説もあるが、有力なのは、被害者なのか加害者なのかの違いはあるにせよ、少なくとも和田義盛が何らかの形で泉親衡の乱に関係しているとする説である。


 そこで改めて泉親衡の乱を振り返ると、ここに世代間対立の芽が見て取れる。

 和田義盛は源頼朝の挙兵のときから鎌倉方の一員として戦った実績を有している。すなわち、建暦三(一二一三)年から振り返ると三三年も前の話であり、三分の一世紀も経過すれば、源平合戦勃発時は若手ないしは中堅世代の武士とカウントできていた世代の者も老練なベテランに変わっている。そもそも三分の一世紀という年月は世代の入れ替わりには十分な時間であり、源頼朝の挙兵の時点で源頼朝と同世代であった者は、泉親衡の乱の時点では還暦を超えている。実際、和田義盛は久安三(一一四七)年生まれであり、満年齢で六六歳、数え年では六七歳だ。

 和田義盛だけでなく、源頼家のときに誕生した一三人の合議制は、源頼朝に仕え続けてきた鎌倉幕府の宿老の集合であり、北条義時以外は源頼家の一つ前の世代の面々である。これに対し源頼家は自分と同世代の者を重用して対抗しようとしたが失敗した。

 だが、年月が経てば否応なく世代の入れ替わりは起こる。鎌倉幕府の宿老達は、失脚したり、引退したり、死を迎えたりして幕府の中心から離れ、次の世代が空席を埋めるようになる。ただ、世代交代は一度に進むのではなく、生き残った者がより多くの権力を握りつつ、生き残った者と協調できる次世代が空席を埋めていくモノだ。

 こうした暫時的な世代交代は、人員交代があるものの内容が全く変わらないという宿命を持つ。特に潜在化している社会問題に対処することを考えたとき、問題であると多くの人が気づきながらも、問題を解決すると損害を被る人が大反発を示し、問題解決によって利益を得る人も具体的な利益をイメージできないために積極的に賛成できず、問題解決に着手できないまま時間が経過するという古今東西よくある結果を迎えやすくなる。

 この結果を回避する方法はただ一つ、大反発があることを覚悟の上で強引に問題解決を図ることである。現在に生きる我々は選挙によって政権を一瞬にして一変する手段を有しているが、この時代にそのような概念はない。政権を一瞬にして一変する方法はただ一つ、武力による強引な交代である。

 建暦三(一二一三)年時点の鎌倉幕府で問題となっていたのは、何と言っても北条家の勢力拡大である。後述するが、和田合戦で反逆軍に参加した者は相模国の武士が多い。そしてこれは泉親衡の乱においても適用できる。祖先から受け継いできた自分たちの権利や権益が少しずつ北条義時をはじめとする北条家の勢力に侵食されてきているのは大問題であった。また、北条義時の人生を振り返ってもこの人に独裁的性行は観られないものの、鎌倉幕府における有力者の序列となると、気がつけば源実朝の次にランクするほどの人物になっている。

 また、経済情勢を考えてもこの頃は御世辞にも好景気であるとは言えなかった。これは政権の責任ではないともいえるが、生活が苦しくなっている理由を時代の執政者の責任であるとして糾弾する動きは古今東西どこでも現れたことであり、その矛先は北条家に、特に北条義時に向いていたのだ。現時点で起こっている問題を一人に押しつけ、その一人を打倒すれば問題は全て解決すると考えるのは短絡的で幼稚な考えであるが、血気盛んな面々をまとめるスローガンとしては手っ取り早い。

 泉親衡の乱の参加者は総じて若い。また、有能な者として鎌倉幕府で働いていた者がどれだけいたかとなると疑問符がつく。つまり、鎌倉幕府内部で権勢を掴めずにいる比較的能力の低い者が集まり、一発逆転を狙って暴動を起こそうと目論んだとしてもおかしくない。自分たちが時流を掴めないでいる理由を、能力ではなく若さが原因であると考え、世代交代を目論んで一気に権力奪取を図る動きを計画した結果だとするならば理解できる話でもあるのだ。その意味で、泉親衡の乱の背後に和田義盛がいてもおかしくはないし、和田義盛がいなくてもおかしくはない。

 どういうことかというと、こうした陰謀を企むときに、一つ前の世代でそれなりの有力者ではあるものの時流を掴めていない者をリーダーとするとまとまりやすくなるのである。この時点の鎌倉幕府で考えると和田義盛をリーダーとして担ぎ上げることは不思議ではない。一方で、和田義盛らを含む前の世代の者を計画から排除したとしてもそれはそれで世代間対立を前面に訴えることとなるので、計画参加者が一つにまとまることも可能となる。泉親衡の乱の場合でいうと、計画参加者が和田義盛をリーダーとして担ぎ上げたとしてもおかしくないし、和田義盛を陰謀に加えないとしてもおかしくないのである。


 源実朝が従二位から正二位に昇叙したのは建暦三(一二一三)年二月二七日のこと。そして、その知らせが鎌倉に届いたのは三月六日になってからである。

 大騒動が一段落した直後に届いた吉事ということで鎌倉幕府としては、それまでの混雷を一掃すべく祝賀ムードに突入してもおかしな話では無いのだが、そのような様子は全く無い。

 源実朝が正二位に昇叙したのは閑院内裏の修繕に鎌倉幕府が尽力したからであり、京都から届いた知らせは閑院内裏の修繕が完了したことに伴うちょっとしたお祭りムードの内容の延長としての正二位昇叙の知らせであったが、鎌倉幕府としては単に情報を受け取っただけであった。

 かなりドライな対応だと感じるかもしれないが、それは三月八日の吾妻鏡の記録を見ればわかる。

 この頃の鎌倉内外では、鎌倉市中を舞台とする合戦が起こるであろうという風聞が飛び交っていたのである。新たな征夷大将軍を擁立しようという泉親衡の乱は、容疑者の捕縛となったものの主犯格である泉親衡は今なお逃走中である。また、そもそも泉親衡は何かしらの陰謀を企む際のリーダーたるに相応しい人物とも見なされていない。この頃の鎌倉内外で噂されていたのは、陰謀の中心となる黒幕がいて、その黒幕が間もなく軍勢を動き出して合戦となる、あるいはその黒幕を討伐すべく鎌倉幕府の軍勢が動き出して合戦となるのではないかという風聞である。

 この風聞が飛び交ったことで鎌倉近辺だけでなく比較的遠くからも多くの御家人が軍勢を組織して鎌倉に集まってきていたのである。合戦になるかもしれないから軍勢を組織して鎌倉へと向かうのであるが、まさにその軍勢が集っているという現象が合戦を始める情景にも見えてしまうという悪循環だ。しかも、そうた面々の中には、泉親衡の乱において全く姿を見せなかった侍所別当の和田義盛がいた。上総国の伊北荘に滞在していた和田義盛は泉親衡の乱の始まりから終わりまで全く姿を見せずにいたのであるが、三月八日になってようやく姿を見せたのである。

 しかも和田義盛が鎌倉にやってきて最初にしたのは、息子である和田義直と和田義重の赦免である。それも、将軍源実朝に直接願い出ての赦免であり、このときは二人の息子の釈放を勝ち取ることができたのであるが、その翌日、和田義盛は再び、それも九十八名もの郎等を引き連れて御所にやってきたのである。この日は和田義盛の甥である和田胤長の釈放を求めたのだ。

 前日は源実朝と直接面会しての赦免であったが、この日は中原広元が取り次いでの赦免要求とその回答であり、この日の鎌倉幕府からの回答は、要求拒否。泉親衡の乱の名からわかるとおり、今回の事件の首謀者は泉親衡である。しかし、首謀者泉親衡は鎌倉に姿を見せることないままであり、鎌倉において謀反の中心を担っていたのは和田胤長であったとして、釈放ではなく拘束場所の変更が命じられたのである。和田胤長はこれまで北条義時の部下である金窪行親と安東忠家の両名に監視されていたが、和田胤長はこのとき、北条義時の命令で後ろ手に縛りあげ、縄の一方を首にかける罪人縛りで和田一族の前に引きたてられた上で二階堂行村のもとへと身柄を移されたのである。なお、和田胤長は三月一七日に陸奥国岩瀬郡、現在の福島県須賀川市へと流罪になっている。

 和田義盛はこの対処に納得できず、御所にやってきたときの九十八名もの郎党からなる軍勢を解散せず、自宅に残置させた。もっとも、和田義盛にも言い分があり、この軍勢は三月一九日に迎える庚申待に備えての軍勢でもあるのだ。

 現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そして、「甲子」とか「丁酉」、そして「庚申」などの漢字が書いてある。

 この漢字は何か?

 これは日付を十干十二支、いわゆる干支で現した表現であり、現在では記されていないカレンダーも珍しくないが、この時代の人たちが用いていたカレンダーには必ず記載されており、現代人が曜日を使うような感覚で六〇種類の干支を用いていたのである。

 庚申(こうしん)はそうした干支の一つであるが、この日は残る五九種類の干支の日と少し異なる。一年で六回ほどやってくる庚申(かのえさる)の日は眠ってしまうと寿命が縮むという言い伝えがあり、眠らずに徹夜するという風習が存在したのである。これを「庚申待(こうしんまち)」という。この日は誰かの家に集まったり、あるいは集落の集会所となっている建物に集まったりして、徹夜で酒盛りをしながら夜明かしすることもあり、自宅がそうした庚申待の会場となる場合は前もって色々と準備をすることも珍しくなかった。

 建暦三(一二一三)年三月一九日は干支で記すと庚申であり、庚申待の日でもあるのだ。そして、このときの庚申待の会場となっていたのが和田義盛の邸宅なのである。つまり、軍勢を待機させているのは、和田義盛だけでなく、和田義盛の邸宅で開催される庚申待にやってくる人たちの警護のためでもあり、実際に横山時兼は早いうちに和田義盛の邸宅に到着している。横山時兼は石橋山の戦いの頃から源頼朝に仕える古参の御家人であり、また、和田義盛の妻の甥であると同時に、和田義盛の息子と義理の従兄弟同士の関係でもあるため、和田義盛とは公私ともに旧知の仲である。ただ、鎌倉内外で合戦の噂が広まっている最中ということもあり、源実朝は和田義盛の邸宅での庚申待をただちに禁止するよう命じている。庚申待そのものを自宅ですることは特に何も言わないが、他者を招くのは禁じたのである。既に和田義盛の邸宅に到着していた横山時兼が源実朝の命令を受けてどのように対処したかは記録に残っていないが、今後の記録から推測可能となる。

 後述することとなるが、このときの庚申待はかなりの高確率で計画立案のための舞台となったはずである。

 おそらく和田義盛は泉親衡の乱の報せを受け取ったときに、自分が関係者になっているとは夢にも思っていなかったであろう。自分の息子や甥が加担していると知ったときも青天の霹靂であったろう。だからこそ、自分は泉親衡の乱とは無関係であると源実朝に訴えたのであろうし、源実朝も和田義盛が泉親衡の乱と関わっていないことの証拠を掴んでいたのであろう。だからこそ源実朝は和田義盛のこの訴えを受け入れて和田義盛の息子達を解放したのであろう。

 ただし、それで今後の計画が止まることは意味しなかった。


 鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つまり、鎌倉に家族は残されており、これがさらなる悲劇を招いている。

 建暦三(一二一三)年三月二一日、和田胤長の六歳の娘が病気に倒れてしまっただけでなく、遠く離れてしまった父を追い求めながら亡くなってしまった。このとき、和田義盛の孫である和田朝盛の外見が和田胤長に似ていると言われていたことから、病に伏せる幼女のもとに近寄って「父が帰ってきたよ」と言ったところ、一瞬だけ彼女は頭を上げたもののすぐに目を閉じ、そのまま二度と目を開けることはなかったという。

 亡き幼子が荼毘に付された後、和田胤長の妻で亡き幼子の母である女性はすぐに出家した。二七歳での出家である。

 三月二五日には和田胤長の屋敷をどのような扱いにするかが論争となった。流罪とは単に流罪となった者が遠くに追放されるだけではなく、流罪先に持って行くことのできない資産、具体的には不動産については没収されるのが通例である。流罪が許されて戻ってきたときに元の資産を取り戻すことはよく見られることであるが、流罪となっている間は不動産に対する権利を喪失しており、流罪中に我が住まいがどのようになっていようと流罪中の者は何ら異議申し立てをする権利を有さない。

 和田胤長の屋敷は大きくはないものの荏柄天神社の前にあり、かつ、御所の東隣でもあるというかなりの好立地である。敷地面積は狭いものの、将軍のもとに仕える者、御所に足を運ぶことが多い者はこぞってこの屋敷を手に入れようとしていた。そして、この屋敷を手に入れたのは和田胤長の伯父である和田義盛であった。和田義盛は二つの理由から屋敷を手に入れた。一つは、源頼朝の頃から何度か領地没収はあったものの、一族全体の領地没収はともかく、一族の誰かの土地が没収となった場合は同じ一族の者が相続してきたこと。もう一つは、侍所別当としての職務を遂行するに便利な地であること、この二点である。この二つの理由が挙げられたならば、和田義盛以外の者が和田胤長の屋敷を手に入れる方法は存在しなくなる。

 しかし、いったん和田義盛の手に渡った和田胤長の屋敷の所有権は建暦三(一二一三)年四月二日に北条義時のもとに移されたのである。

 吾妻鏡によると、北条義時はかなり強引な方法で屋敷を手に入れたとある。和田胤長を後ろ手に縛って二階堂行村のもとへと身柄を預けたのは北条義時の部下の金窪行親と安東忠家の両名であるが、北条義時は和田胤長の屋敷の所有権をいったん手にした後に金窪行親と安東忠家の両名に屋敷を与え、既に住んでいる者を追い出したのである。

 北条義時の仕打ちは和田義盛を激怒させるに十分であった。この日を最後に和田義盛は、本人だけでなく和田一族全体が御所への出仕をボイコットすることとしたのである。

 ところが、世間の噂は和田義盛に味方しない。和田義盛は泉親衡の乱と深く関わっていたという噂も広まっていたのだ。なお、同じような噂が広まっているとき、和田義盛以外の真犯人として、三浦義村や、比企一族の残党、木曽義仲の残党といった噂も挙がっている。

 何度も記しているが、吾妻鏡というのは北条家の編纂した鎌倉幕府の正史である。そのため、北条家にとって都合の悪いことはほとんどと言って良いほど割愛され、あるいは脚色されている。泉親衡の乱から和田合戦勃発の流れでいうと、奇妙なこととすべきか、北条義時の動きが乏しい。その乏しい北条義時の動きというのは、建暦三(一二一三)年三月九日に和田胤長を後ろ手に縛って引き渡したことと、四月二日に和田胤長の邸宅を北条義時が手にしたとき、そして、四月四日に奥州平泉の毛越寺の塔の破損について直ちに修復に取りかかるように政所で決定したことの三回しかない。なお、吾妻鏡は毛越寺の塔の修復について、北条政子が夢の中で鎧甲に身を固めた僧兵が毛越寺の荒れ果てている様子を嘆き直ちに修理してくれと願い出たのを見たとある。その上で、奥州藤原氏の藤原秀衡の命日に夢に出たことを北条政子が語ったという逸話を残している。このあたりは間もなく起こる和田合戦を暗示した創作かもしれない。何しろ、藤原秀衡の命日は一〇月二九日であり、四月とは何の関係もないのだから。


 和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。

 ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名が泉親衡の乱で犯罪者として処罰され、和田一族のトップである和田義盛は泉親衡の乱の始まりから終わりまで姿を見せなかった。

 和田義盛は建暦三(一二一三)年時点で、満年齢で六六歳、数えで六七歳であり、これからの隠居生活を考えたとしてもおかしくない年齢である。現代に生きる我々からしても定年退職後の年金生活だ。しかし、和田義盛の孫の和田朝盛からすると、これから祖父の権勢を背景に鎌倉幕府の有力御家人として生きていこうとしていたのに、一瞬にして未来への絶望を感じるようになってしまったのである。

 和田朝盛の具体的な生年月日は記録に残されていないが、源実朝は和田朝盛のことを同年代の若者として、また、これから源実朝が征夷大将軍としての職務を遂行するにあたって頼れる右腕の一人となると考えていたようである。そのことは和田朝盛も自覚していたようで、自分は将軍源実朝側近の一人であることを誇りとしていた。

 注意すべきは、先にも述べたように侍所別当である和田義盛個人の勢力は鎌倉幕府として無視できるものではないものの、武士団として捉えたとき、和田一族は三浦一族の一部であり、和田義盛ですら三浦一族の武士団を構成する一人の武士という扱いであり、三浦一族のトップは和田義盛より二〇歳は歳下の三浦義村の手にあるということである。この実情に苦悩した和田朝盛は、祖父の権威や権勢を利用して、三浦一族のトップに立つことを目論んでいたのだ。

 それなのに、未来が完全に消え失せた。

 建暦三(一二一三)年四月一五日、和田朝盛、出家。源実朝のもとに向かって仏門に入ることを告げ、自宅へ戻らず京都へ向けて出発した。

 翌日、孫の出奔を知って激怒した和田義盛は、たとえ僧体になっていようと連れ戻すよう四男の和田義直に命じ、和田義直は直ちに馬を走らせた。

 四月一七日、和田義盛のもとに、源実朝から孫が出家するために出奔したことを見舞うための使者として行部丞忠季が送られてきている。この時点で既に和田義盛の孫が出家するために鎌倉を捨てて京都に向かったことは周知の事実となっており、和田義盛が息子の一人を派遣して孫を鎌倉に連れ戻そうとしていることもまた周知の事実となっていたが、この時点では孫を連れ戻すことなどできないだろうというのが多くの人の感想であった。

 ところが、四月一八日に連れ戻しに成功したのである。京都に向かおうとしていた和田朝盛は駿河国手越宿、現在の静岡市駿河区のあたりで叔父に追いつかれ、そのまま鎌倉へと強引に連れ戻され、源実朝の前に引き出された。このときの和田朝盛は既に僧体であった。

 この一連の騒ぎは鎌倉における噂を一つにまとめる効果があった。

 泉親衡の乱の黒幕は和田義盛であり、さらにその背後には三浦一族が存在している。泉親衡を利用した謀反に失敗したため、和田義盛が自ら指揮し、和田一族だけでなく和田一族を含む三浦一族が結集して合戦を起こし、源実朝に代わる新たな将軍を擁立して鎌倉幕府を制圧しようとしているという噂である。


 ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選挙と違い、勝つか負けるかの違いは生きるか死ぬかの違いとイコールである。生きるためには勝つしかないのだ。

 泉親衡の乱は青天の霹靂であったが、和田義盛にしてみれば疑惑が払拭された過去の話であるのに対し、北条義時にしてみれば払拭されることのない疑念が生まれた瞬間となる。この疑念を完全に解消する方法とは、自分を打倒しようとする勢力の完全消滅以外にない。

 しかも、北条義時の敵対勢力の背後に和田義盛がいる可能性がある。三浦一族内部における和田義盛の立ち位置は北条義時も理解していたが、和田義盛が三浦一族全体を率いて北条義時に向かい合う可能性は決して低いとは言えなかった。三浦義村と和田義盛の対立があったとしても、三浦義村が和田義盛の側に立って北条義時打倒に動いたならば、三浦一族の軍勢全体が北条義時の敵として存在することとなる。

 また、和田義盛が北条義時に対する個人的怨恨を持っていないとなると、それは考えられない話になる。北条という新興勢力に対する恨みに加え、上総国司就任を渇望してきた和田義盛に対し、その障壁となっていたのが北条義時である。それに、和田義盛が上総国司に就任したらどうなるかを考えると、和田義盛個人のキャリアの構築という視点だけでなく、三浦一族内部に占める和田一族の立ち位置で考えても、さらには鎌倉幕府における三浦一族の立ち位置を考えても、極めて大きなアドバンテージとなる。それを北条義時は阻害した。

 泉親衡の乱が世代間の争いだというのであれば鎌倉幕府として対処できる。しかし、泉親衡の乱の背後に三浦一族がいるとなると、あるいは和田義盛がいるとなると、そう簡単に対処できる話ではなくなる。しかも目標が幕府の制圧ではなく北条義時討伐となったならば、北条義時の立場に立つと絶対に黙っていらない話となる。当然のことながら、北条家の編纂した鎌倉幕府の正史である吾妻鏡に北条義時の策謀など一切描かれていない。しかし、北条家への忖度など必要ない他の史料となると、堂々と北条義時の策謀を描いている。

 また、和田義盛の個人的な恨みを抱いている人物、あるいは野望を頓挫させた人物として挙げるべきは北条義時だけではない。中原広元もまた、和田義盛の立場からすると許しがたい人物であったといえる。中原広元は和田義盛の上総国司就任を妨害した人物のうちの一人であったこともあるが、中原広元が将軍に対する取り次ぎ役であることもまた、和田義盛をはじめとする多くの武士にとって許しがたい状況を生み出していた。

 たとえば正治元(一一九九)年の梶原景時弾劾のとき、和田義盛をはじめとする御家人達は連名で梶原景時弾劾の書状を記したが、その書状を受け取った中原広元はその書状を将軍源頼家に提出することなく自分のもとにとどめていた。源頼家のもとに提出されたのは和田義盛から中原広元への催促があった後のことである。

 さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の違いは、和田胤長が泉親衡の乱における事実上のトップと扱われたことだけでなく、和田義盛の二人の息子の場合は和田義盛が源実朝に直接助命嘆願したのに対し、和田義盛の甥の場合は中原広元に仲介を頼んだ結果であるという点もある。

 中原広元は鎌倉幕府において特異な存在である。鎌倉武士達の多くは有能な武人であるが、京都の貴族や文人官僚とまともに渡り合えるだけの文人としての能力を有する者は御世辞にも多くなかった。だが、中原広元は鎌倉武士達とは逆に、京都の貴族や文人官僚達を手玉に取れるほどの卓越した才能を持った人物である。ゆえに鎌倉幕府において重宝されたのであるが、人間味は乏しく杓子定規であるため融通が利かないところがある一方で、そのために文人官僚としては頼りになる存在でもあった。ただ、融通が利かないために反発を買うことも多かった。北条義時を打倒しようと考える者がいた場合、その者はかなりの可能性で中原広元に対しても反発を示す。北条義時に対する誹謗中傷の言葉は多々あるものの、北条義時を独裁者として誹謗中傷する者はいない。少なくとも北条義時の独断専行は存在せず、最低でも中原広元には話を通してから行動している。裏を返せば北条義時を打倒しようとする者にとっては中原広元も打倒しなければ結果を得られないこととなる。

 この動きは中原広元も理解するところである。これから戦乱を起こそうと考える面々がいて、その面々のターゲットとして北条義時と並んで自分が存在しているとあっては穏やかでいられる話ではない。ゆえに、挙兵するのではないかと考えている和田義盛に対して監視の目を光らせる。中原広元は武人ではないが源平合戦をくぐり抜けてきた身であり、同時に、京都の貴族社会を生き抜いてきた文人官僚でもある。戦場を駆け巡る能力は無くとも、陰謀渦巻く界隈を生き抜いてきた実績と経験ならば十分に存在する。

 建暦三(一二一三)年三月一九日に和田義盛の邸宅で開催することとなっていた庚申待について、和田義盛が自宅で執り行うことについては問題ないが、他者を招くことを禁止するように促したのは、実は中原広元である。それでも横山時兼は和田義盛の邸宅に入っているが、邸宅に入ったときにはまだ禁止命令が出ていなかったことに加え、和田義盛と横山時兼の姻戚関係を考えたならば横山時兼が庚申待を和田義盛の邸宅で過ごすことは特に問題ないはずである。通常ならば。

 中原広元は通常ではない。

 中原広元は見破ったのである。そして、北条義時と意見の一致を見たのである。

 それは持ち主無き邸宅となった和田胤長の住まいをどのようにするかという点で、和田義盛が強固に自分の所有権を主張したことから明らかとなった。和田義盛は一族の邸宅であるために自分が相続することを主張したことに加え侍所別当としての職務遂行の利便を訴えたが、まさにこの職務遂行の利便という点が問題であったのだ。

 こちらの図を見ていただきたい。

 幕府の御所の南西に和田義盛の邸宅が、西に三浦義村の邸宅がある。ここで北東に存在する和田胤長の邸宅も和田義盛が手に入れたならば、三浦義村が和田義盛らの行動に同調するという前提ではあるが、御所を和田義盛らが通常時から包囲することとなるのだ。

 この問題を悟った北条義時は、金窪行親と安東忠家の両名を派遣して、強引に和田胤長の邸宅を入手した。この行動が賞賛されるかどうかはともかく、和田義盛らが御所を包囲する構図を解消する効果ならばあった。

 包囲する構図を解消することは北条義時らにとってはメリットでも和田義盛らにとってはデメリットである。和田義盛にしてみれば、かなりの確率で自分が苦境に陥っていることを悟ったはずである。そのため、後述することとなる和田合戦のスタートと二日目との不整合の理由が説明できる。

 建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の事実を調べるためである。この時点ではまだ物騒な雰囲気を漂わせてはいるものの、決定的な動きとはなっていない。

 ところが、御所に戻ってきた宮内兵衛尉公氏の報告を受けている途中で北条義時が御所に姿を見せ、和田義盛に謀反の動きありと正式に宣言したのである。ただし、この段階ではまだ武装を求めてはおらず、反乱勃発前に沈静化させる可能性を否定しないでいる。

 同日夜、行部丞忠季が使者として和田義盛のもとへ向かった。前回は孫が出家して出奔したことを見舞うための使者であったが、今回は反乱を食い止めるための使者である。吾妻鏡によると、このときの和田義盛の回答は以下の通りである。

「於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潜以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及」

 すなわち、源実朝に対しては全く恨みなど無い。ただ、北条義時の所業が傍若無人なので、事情を確かめるため出向こうと、近日、若い武士たちが集まってひそかに相談しているようだ。和田義盛はたびたび諌めたが、いっさい耳を傾けることもせず既に一致団結してしまっている。こうなった以上、自分にはもう止めようがないというのが和田義盛からの回答である。ここではじめて、和田義盛は北条義時への敵対心を公表し、北条義時打倒に向けて和田一族を挙げて行動するつもりであることを伝えたのだ。

 和田義盛が主導する三浦一族が、源実朝に代わる新たな将軍を擁立して鎌倉幕府を制圧しようとしているのではなく、北条義時を討伐するために武装蜂起するというのがこれから起こると予想される合戦の実情であると判明したのだ。

 建暦三(一二一三)年四月二八日の夜、北条義時が御所で中原広元と協議した。和田義盛の武装蜂起は時間の問題であり、このまま武装蜂起とならずに計画頓挫となる可能性は低いという点で意見の一致を見たのである。鎌倉幕府の文人官僚達はここで、中原広元からの使者という名目で鶴岡八幡宮や勝長寿院に派遣された。

 翌四月二九日、北条義時が前年五月に義絶した次男の北条朝時を呼び戻した。親子関係の断絶も意味する義絶の処分はこの時代の武士が家庭内で下すことのできる最大級の処分であるが、その処分を解いてでも鎌倉に呼び戻さざるを得ない事態とアピールすることは周囲に有効に働いた。なお、この時点で北条朝時は数えで二一歳、満年齢では二十歳である。自分の息子とは言え実績の無い若者を、それも犯罪をやらかして追放された次男を呼び戻さざるを得ないほど緊迫した情勢であるというのは、北条義時の打ち出すことのできる大きなプロモーションである。そしてこれは父の北条義時ですら見過ごしてしまう資質であるが、実はこの若者、一人の武士としても、軍勢を指揮する指揮官としてもなかなかに優秀であり、実兄の北条泰時を支える頼れる副官となり続けることとなる。

 緊迫した状態の続いたまま月が変わり、建暦三(一二一三)年五月二日、徐々に緊迫感が増してきてはいたが、中原広元も、北条義時も、表面的には平静を装っていた。この日の午後までは。


 和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五月三日であることを考えると、元々は五月三日に横山時兼の率いる軍勢がやってくるのを待ってから挙兵する計画であったのが、挙兵計画が漏れてしまったので予定を前倒しにした。こう考えると納得できるのだ。

 和田合戦はクーデタである。それも失敗したクーデタである。クーデタという代物は何の前触れもなく行動を開始するから意表を突く形で成功につながるのであって、討伐目的で軍事行動を起こした側を、討伐される予定の側が武装して待ち構えているという構図ではクーデタそのものが成立しない。もっと言えばそもそもクーデタを起こすなどあり得ない。相手の警護が手薄になっているから攻撃可能と判断できるのであり、堅牢な警護となっていたらそもそもクーデタ計画そのものを白紙にしなければならない。話し合いが通用しない相手でも殴り合いは理解できるのである。

 かといって、軍勢を用意し続けてクーデタ対策のための警護を続けることはできない。そもそも警護できる人員を用意しなければならないし、その人員のための食料や宿舎も用意しなければならない。人員も物資も余っているというならそれでもいいかもしれないが、軍というのは基本的に何ら生産を生まない消費だけの組織である。長期間に亘って莫大な軍勢を展開するというのは警護を命じる側にとって多大な負担を要求することとなる。しかも、軍勢を展開し続けている間はクーデタを起こそうとする側が黙り込むことを意味するから、いつまで経ってもクーデタが起こらないまま時間だけが経過することとなる。一見するとクーデタを未然に防ぐのだから問題ないではないかと思えるが、基本的な問題は何ら解決していない。クーデタを察知したならば、クーデタの起こる直前まで軍勢を展開せず、クーデタが起きたならばただちに軍勢を展開して対処するという流れにしなければ抜本解決とはならないのである。

 和田義盛らが動き始めたのが計画前日の夕方であったというのは、警護が堅牢になる前で、かつ、まともな夜間照明などないこの時代において許される昼明かりの中の行動の限界であったからである。御所の北東にある和田胤長の邸宅を失ったとは言え、和田義盛らが南西から御所に向かえばクーデタ成功の可能性が高まる。障壁となるのは途中にある北条義時の邸宅の警護の武士と、御所の真正面にある中原広元の邸宅の警護の武士となるが、予定より早くクーデタを起こしたならばクーデタの軍勢と真正面から向かい合う軍勢とはならずに済む。

 ただし、事前に露見したために計画は見直しせざるを得なくなっている。御所の東西南北の四つの門のうち、東門については和田胤長の邸宅の保有権を失っているために制圧が困難になった。そのため、クーデタを起こして御所を制圧しようとなったならば、四つの門のうち東門以外の三つの門を制圧し、東門については南門もしくは北門を制圧した後に勢いで制圧するという流れを選ばざるを得ない。五月三日に横山時兼の率いる軍勢がやってきたならば南門制圧を経て東門の制圧までも一気に可能となるが、計画前倒しとなっただけでなく、急遽変更となったため横山時兼のもとにはまだ計画前倒しの情報が届いていない。横山時兼としてみれば事前からの情報の通りに五月三日に到着するよう準備をしている上に鎌倉から少し距離があるので、鎌倉から横山時兼のもとにどんなに急いで情報が来たとしても、そして、ただちに軍勢を結集して鎌倉に向けて出発したとしても、蜂起のタイミングにはまだ間に合わない。そのことは蜂起する側もわかっているから、今いる面々だけでどうにかするしかないと行動する。

 この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していたという。三浦義村の邸宅と御所の位置関係を考えても、道のりでの最短距離である北門と、直線距離での最短距離である西門の制圧を三浦兄弟に委ねるのは戦略として間違ってはいない。ただし、三浦兄弟が従うのならば、という条件がつくが。

 そしてここで、泉親衡の乱の最中も、さらにはその後も全く記録に名が登場しなかった三浦義村が弟とともに動き始めた。三浦義村と三浦胤義の兄弟が北条義時のもとに向かい、和田義盛と行動を共にすることはないと宣言しただけでなく、三浦一族の軍勢は北条義時とともに行動することを宣言したのである。

 この瞬間、武装蜂起は和田一族を含む三浦一族全体ではなく、三浦一族の一部である和田一族だけの武装蜂起であることが判明した。和田一族は三浦一族の一部であり、三浦義村は三浦一族のトップとして和田一族を切り捨てることを選んだのである。この段階で三浦義村兄弟の離脱を和田義盛は知らない。

 和田義盛が御所の南門に向かって押し寄せたのも、西門と北門を三浦兄弟が制圧する前提が存在していたからである。吾妻鏡での無駄な脚色を除外し、他の記録や日記に記されている三浦兄弟の動きを見ると、五月二日の午前中までは和田義盛らと行動を共にする前提で自宅に待機していたことが読み取れる。そして、三浦義村らがどのような行動をしたかを振り返ると、早くても五月二日の正午頃、おそらくは五月二日の午後に和田義盛から三浦義村らにスケジュール前倒しの連絡が届き、夕刻に挙兵することとなったタイミングで三浦兄弟はクーデタへの協調を拒否し幕府側に立ったと考えられる。

 三浦義村らが北条義時のもとに向かったとき、北条義時はまだ軍勢を整えられずにいただけでなく、御所の警備にも問題があることを悟ったと同時に、北門と西門はまだ制圧されていないこと、特に、北門が制圧されていないことは、北門の先にある法華堂に避難できる時間的余裕が獲得できることも意味した。

 また、事態は急を要するとし、源実朝の実母の北条政子や源実朝の正妻である坊門姫をはじめとする大倉御所の女性達は鶴岡八幡宮へ避難することとなった。鶴岡八幡宮に参詣したことのある人はわかると思うが、鶴岡八幡宮は高所にある神社であり、仮にこれから市街戦となった場合、もっとも攻めづらく守りやすい位置にある。鎌倉市中で彼女達の身の安全を考えたとき、鶴岡八幡宮は最適解と言える。

 この避難は正解であった。

 まさにこの日の夕方、都市鎌倉誕生後初の、そして鎌倉幕府草創期最大の危機である和田合戦が勃発したのである。

 和田義盛らが北条義時の邸宅の襲撃を計画し、三浦兄弟に西門と北門の制圧を委ねたのは、御所にいる源実朝の身柄を自らの支配下に置く目的が存在していたからである。源実朝を保護し、源実朝の周囲にいる者、特に北条義時を排除するという構図を構築するためである。しかし、いざ御所に押し入ってみると、三浦兄弟は裏切っていて、源実朝は中原広元らとともに法華堂へ避難した後、北条政子らは鶴岡八幡宮へと避難した後であった。


 建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。

 最初に和田義盛邸の近くに住む八田知重が軍勢の結集に気づき、将軍御所の南隣にある中原広元の邸宅に急使を派遣。宴の最中だった中原広元は知らせを受けて御所に急いで向かった。

 ほぼ同タイミングで三浦義村と弟の三浦胤義が揃って北条義時の邸宅に駆け込んで和田義盛の挙兵を報せた。このとき三浦兄弟は、先立って和田義盛と協力して行動し御所の北門を警固するという内容の起請文を書き記したこと、今回はその起請文を裏切って北条義時のもとに出向いたことを告げている。この連絡を受けて北条義時も御所に直ちに向かった。

 吾妻鏡は蜂起時の軍勢として以下の面々を挙げている。

 和田義盛。

 和田義盛の長男の和田常盛と、その息子で出家を目論みながら連れ戻された和田朝盛。

 朝比奈義秀こと和田義盛の三男の和田義秀。

 泉親衡の乱の容疑者とされて拿捕されながら一度は許された和田義盛の四男の和田義直、五男の和田義重。

 和田義盛の六男の和田義信、七男の和田秀盛。

 以上が蜂起時に名を連ねている和田一族の面々である。次男の和田義氏と八男の杉浦義国についてはこの段階で名を記されていない。

 その他に、土屋義清、古郡保忠、渋谷高重、中山重政とその息子の中山行重、土肥惟平、岡崎実忠、梶原朝景とその息子の梶原景衡、梶原景盛と梶原景氏の兄弟、大庭景兼、深沢景家、大方政直とその息子の大方遠政、塩谷惟守といった面々であり、合計一五〇騎ほどになるという。いずれも和田義盛の親戚や、和田義盛をはじめとする和田一族の友人であり、吾妻鏡によると春頃から武装蜂起の計画に参加していたとされる。

 本来ならここに三浦義村と三浦胤義の兄弟も加わるところであったが、この兄弟は前述の通り、早々に北条義時のもとに出向き、三浦義村ら三浦家の者は和田義盛らには加担しないこと、北条義時らとともに行動することを宣言している。

 このあとの和田義盛らの軍勢の動きを見ると、三浦兄弟も加わった上での作戦遂行であったことがわかると同時に、挙兵直後のタイミングでは和田義盛が三浦兄弟の不在を知らなかったこともわかる。

 和田義盛はまず、一五〇騎の軍勢を三つに分けて大倉御所の南門に一隊、北条義時の屋敷の西門に一隊、北門に一隊で囲んだ。つまり、全体の三分の二の軍勢を御所ではなく北条義時討伐に向けて差し向けたわけであるが、これでは御所への攻撃が手薄になってしまう。しかし、和田義盛は御所の北門の攻撃を三浦兄弟が担当することとさせていたのである。ここで計画がうまくいけば、まずは三浦義村が制圧し、三浦義村がダメでも北条義時の邸宅を制圧することで御所の西部が事実上和田義盛らの制圧下となり、御所は和田義盛らの軍勢で包囲されることとなる。

 しかし、前述のように御所の北門を攻撃する予定の三浦兄弟が離反したことで御所の包囲は失敗し、源実朝は北条義時や中原広元らに守られながら源頼朝の墓所である法華堂へと避難している。

 さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう時間も確保できた。このため、蜂起時に北条義時は北条義時邸にいなかっただけでなく、屋敷を守る軍勢の配備まで終えることができていた。この守備隊は板塀の一部を引きはがして隙間を作った上で、その隙間を矢狭間にして屋敷内から弓矢で攻撃をはじめた。ただし、隙間を作ったということは攻め込む側にとっても攻撃する隙間でもあるため、ここで少なくない数の守備隊の兵士が死傷することとなった。なお、あくまでも攻撃対象は北条義時であり、御所南門の向かいにある中原広元の邸宅は和田一族の軍勢の攻撃対象とはなっていない。

 これ以後、吾妻鏡は和田義盛の軍勢を凶徒、すなわち反逆軍と書き記している。

 反逆軍は御所南西の横大路まで至ったところで幕府を護衛するための御家人達と衝突。波多野忠綱がまずは先陣に立って反逆軍に向かい合ったが、ここで幕府護衛の軍勢として三浦義村率いる一団が登場し、反逆軍に向かい合う姿勢を見せたことで正式に三浦一族は反逆に荷担しないことが公表されることとなった。

 ただし、勢いは反逆軍にある。酉刻、現在の時制にすると夕方六時頃に反逆軍は御所の四方を囲むことに成功し、軍旗をはためかせながら御所に向かって矢を射かけるに至った。ここで北条義時が直前に呼び戻した北条朝時が奮起する。幕府護衛の一員として足利義氏らとともに反逆軍に抵抗し、反逆軍の勢いを弱めるのに成功したのである。とはいえ、それでも反逆軍の攻撃を完全に食い止めるには至らず、反逆軍の面々の中では朝比奈義秀こと和田義盛の三男の和田義秀の奮闘がすさまじく、南門を突破して南庭に乱入し、幕府護衛の御家人らへの攻撃を続けただけでなく御所に火を放った。これにより御所内の建物がことごとく焼失するに至った。ちなみに、朝比奈義秀の母親は巴御前であるとする説がある。木曽義仲が命運を悟って最後の戦いに臨む前に巴御前を戦場から離脱させたことは平家物語でも描かれているが、彼女のその後は不明となっている。しかし、源平盛衰記では木曽義仲が亡くなって落ち延びた後の巴御前が鎌倉に呼び出され、その後、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとしている。ただ、これが事実だとすると、朝比奈義秀の年齢は他の記録よりも最低でも一〇歳は若くなければならなくなるので、これは源平盛衰記のみの脚色であるとも言えよう。

 もはや伝説ともなっている巴御前の息子とする説すら出るほどに朝比奈義秀の猛攻はすさまじく、五十嵐豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮乗、高井重茂といった御家人達が殺害された。そのうちの高井重茂は苗字こそ和田ではないものの和田義盛の弟の息子、すなわち和田義盛の甥であり、朝比奈義秀とは旧知の仲である。和田一族ではあるが反逆軍に加わらず幕府防衛の側に立った高井重茂は朝比奈義秀の武力を十分に理解しており、まともにぶつかって対応できるのは自分しかいないと理解していた。ただし、それは朝比奈義秀に勝てることを意味するのではない。朝比奈義秀を落馬させることに成功しただけで、高井重茂は朝比奈義秀に殺害されてしまった。それでも、これによって和田一族全体が反逆軍と見做されることも、連帯責任として和田一族全体が殲滅対象となることも避けることができたのである。

 落馬した隙を狙って朝比奈義秀を倒すべく北条朝時が襲いかかるも、北条朝時は朝比奈義秀に立ち向かえず、幸いにして命は奪われずに済んだものの負傷してしまい北条朝時は戦線を離脱した。

 足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうになり、足利義氏は急いで馬に鞭をくれて鎧の一部が引きちぎられながらも西御門川の西へ逃れた。朝比奈義秀はなおも足利義氏を狙うも疲労困憊でもあり、西御門川の東側で留まった。ここで両者は睨み合いとなったのち、朝比奈義秀がまず動き出して橋を渡って足利義氏を追いかけようとし、足利義氏を助けようとした鷹司冠者がその間に入ったもののただちに朝比奈義秀に殺害され、足利義氏はその間に逃走に成功した。正確に言えば逃走ではないのだが、このタイミングでは逃走とみられてもおかしくなかった。

 足利義氏が逃走したと見られた後、朝比奈義秀のターゲットとなったのは武田信光であるが、両者睨み合いの末、間もなく戦闘が始まろうかというタイミングで武田信光の息子の武田信忠が割って入り、朝比奈義秀は父を守ろうとする息子の心意気を感じて、戦闘を避けてこのまま走り去っていった。

 足利義氏は逃走したのではない。そもそも朝比奈義秀は反逆軍の一人であり、重要な戦力であることは否定しないが反逆軍の主力ではない。反逆軍の主力は和田義盛の率いる軍勢である。日が沈んだ後も攻撃を止めることのない反逆軍の主力を防いでいたのが、後に鎌倉幕府第三代執権となる北条泰時である。これから八年後の承久の乱で鎌倉幕府の軍勢総指揮を執ることになる北条泰時であるが、この時点では戦闘経験の浅い若者でしかなく、北条義時の長男であること以外に特色など無いと見られていた。

 その北条泰時が反逆軍の主力と真正面から向かい合って対等に渡り合っているのである。ただ、対等に渡り合っていても相手を上回る結果を残しているわけではなく、善戦してはいても戦勝には遠かった。なお、吾妻鏡では記録に残されていないが、愚管抄によると北条泰時のサポートとして三浦義村が入っており、北条泰時の指揮する軍勢の多くも三浦義村指揮下の武士であったという。

 足利義氏はこの情勢を知り、八田知尚、波多野経朝、瀬田実季といった面々とともに反逆軍と向かい合うこととしたのである。要は包囲殲滅戦法だ。戦争の勝利のためならば朝比奈義秀との戦闘から逃走したという評判が生まれても問題ないと考える合理的精神の持ち主だったのだろう。

 和田義盛ら反逆軍は、北条泰時率いる幕府軍と直接ぶつかることを避け、距離を置いて弓矢での攻撃を選んでいた。降り注ぐ矢の勢いは幕府軍に大ダメージを与え続け、日が沈み、夜を迎えたこともあって暗闇からいきなり矢が次々と飛んでくる光景は幕府軍の武士達に恐怖を与え続けていた。ただ、高低差のある戦いではなく平地での戦いであるため、こちらが弓矢での攻撃を受けるということは、こちらからも弓矢での攻撃ができるということである。北条泰時率いる幕府軍からの弓矢の攻撃は、徐々にではあるが確実に反逆軍にダメージを与え続けていた。

 日がだんだんと昇ってきたタイミングで、反逆軍は受けているダメージが想像以上にあることと、足利義氏らの軍勢による包囲が進んでいることを悟り、いったん馬に鞭打って由比ヶ浜へと退却を決めた。北条泰時は後を追うにはダメージが大きいとして部下を率いて中の下馬橋に向かい防禦を固めることとした。

 夜明けを迎えると鎌倉には雨が降り出し、戦乱の恐れから鎌倉を逃れた人達は和田義盛らの軍勢が由比ヶ浜に逃れたと知って鎌倉へと戻り始めていた。雨笠をかぶった面々が目の当たりにしたのは鎌倉のいたるところが戦場となり、戦乱の痕跡が残されていたことである。そんな中にあって中原広元は幕府の文書類を守るために、一時避難していた法華堂から政所へと戻っていった。


 建暦三(一二一三)年五月三日の寅刻、現在の時制にして午前四時頃、和田義盛らとともに反逆軍に加わる予定であった横山時兼が、娘婿の波多野盛通や甥の横山五郎らを引き連れて腰越まで到着したところ、既に戦いが始まっていたことを知って愕然とした。しかも、この時点で反逆軍の食糧はもう尽きてきたという。横山時兼らがこのタイミングで腰越に到着したのはもともと五月三日に挙兵予定であったためであり、既に戦闘が始まっていたのは予定が前倒しになったからである。横山時兼らの到着は和田義盛にとっては貴重な援軍であったが、戦場に到着した横山時兼にとっては予定を台無しにする惨事が展開された後であった。三月一九日の庚申待で和田義盛の邸宅で行われていたのは挙兵のタイミングの打ち合わせであったのだ。それなのに、タイミングも失っている上に、三浦一族全体の参戦ではなく三浦一族の一部である和田一族の参戦に留まり、さらには三浦義村指揮下の軍勢がこぞって幕府側についているのを知って横山時兼は二重に愕然とした。

 辰刻、現在の時制でいう午前八時頃、曽我、中村、二宮、河村といった相模国西部から伊豆国の御家人達の軍勢が武蔵大路から稲村ヶ崎に現れたものの、彼らはどちらが幕府軍でどちらが反逆軍かわからず、源実朝の御教書を求めた。この求めに応じて中原広元が征夷大将軍源実朝の名の御教書を作成させ、使者を送り、浜辺の軍勢に示させたことで御家人たちは帰趨を明らかにし、こぞって幕府軍につく。

 ほぼ同時刻、千葉成胤が一族を引き連れて幕府軍に馳せ参じたことで幕府軍の軍勢はさらに勢いを増した。

 しかし、反逆軍は自分たちと向かい合う軍勢が徐々に構築されていることを知って再び鎌倉市街に突入することを選択し、巳刻、現在でいう午前一〇時頃、反逆軍は再び鎌倉に突入。しかし、若宮大路では北条泰時と北条時房が、大町大路では足利義氏が、名越では源頼茂が、大倉郷では佐々木義淸と結城朝光が陣を張っているために反逆軍は容易に突破できず、由比浦から若宮大路にかけての一帯で合戦となった。

 吾妻鏡では五月三日の戦いで活躍した御家人達の様子を書き記す。鎌倉市中の至る所で戦闘が繰り広げられ、多くの御家人が命を落とし、また、北条泰時をはじめ命の危機に直面した武士も数多く出た。

 情勢は反逆軍不利に進み、酉刻、現在でいう夕方六時頃、和田義盛の四男の和田義直が伊具盛重に討たれたことがきっかけとなって反逆軍は瓦解していった。

 息子の死を知った和田義盛は戦意を喪失し、うなだれてふらつきだしたことで大江能範の部下に討ち取られた。これと前後して、五男の和田義重、六男の和田義信、七男の和田秀盛ら首謀者七名も討ち取られ、朝比奈義秀らは、海岸へ出て船で安房国へと逃亡した。船で逃走した者はおよそ五〇〇騎、乗り込んだ船は六艘である。和田常盛、山内次郎、岡崎実忠、横山時兼、古郡保忠、和田朝盛の六名は戦場から逃亡した。

 戦乱終結を受け、北条義時と中原広元の両名が書状を記し、源実朝の花押を載せた書状を京都へ送りだした。和田義盛らが反乱を起こしたものの制圧したこと、しかし、逃げ延びた者が多くいることを告げ、早々に反逆軍の生き残りや協力者を処分しなければならないことを告げている。

 ただし、戦乱の途中から既に京都に向けて情報が送られていたようであり、藤原定家はその日記に和田義盛らの反乱についての詳細を記録している。なお、藤原定家によると、吾妻鏡ではあまり記されていない五月三日の三浦一族の様子について、三浦一族が反逆軍の前に立ちはだかったことで反逆軍の動きがかなり制限され、三浦一族の活躍によって幕府軍の勝利となったと記している。その一方で、吾妻鏡で高らかに歌いあげている北条泰時の活躍はほとんどと言って良いほど日記には記していない。

 これにより、二日間に亘って繰り広げられた和田合戦は終わりを迎え、少なくとも都市鎌倉での戦闘は終結を迎えた。


 建暦三(一二一三)年五月四日、和田常盛と横山時兼は甲斐国大菩薩峠で自ら命を絶ったとの知らせが届いたと同時に、この二人の首も鎌倉に届けられた。この二人を含め、片瀬川の浜で二百三十四の晒し首が並べられた。

 同日辰刻、現在の午前八時頃、征夷大将軍源実朝が源頼朝の墓所である法華堂から、北条政子の住まいである東の御所へ移った後、西御門に移ってこの二日間で負傷した武士達を呼び集めて実態調査に入った。この日確認できた限りでは百八十八名を数えた。その中には兄の北条泰時の肩を借りてようやく歩くことができるほどの重傷を負った北条朝時がいた。

 なお、このあとで和田合戦での戦乱の功績を巡る口論があり、吾妻鏡ではここでようやく三浦義村が自らの軍功を誇る姿を見せている。合戦の描写で三浦一族の様子が記されていなかった一方で、合戦後の描写で三浦一族の活躍が三浦義村の口頭での主張という形式であっても、また、それが口論の内容であるにせよ、三浦義村の語る内容が京都の貴族の日記に残っている内容とほぼ合致していることとを踏まえると、吾妻鏡の編纂者が悪意を以て編纂していようと三浦義村の主張は事実を述べたとも言えよう。ちなみに、ここで三浦義村の口論相手となった波多野忠綱は、歴史資料に残っている言葉であるものの、さすがにここに書き記すに憚られる言葉を三浦義村に投げかけて周囲をドン引きさせている。

 翌五月五日、和田義盛や横山時兼をはじめとする反逆軍の参加者の領地や、美作国や淡路国などの守護職、横山荘をはじめとする主だった者の領地をまず取り上げて、手柄を立てた褒美に充てることにし、その役割を北条義時と中原広元の両名が中心となって実施することとなった。

 また、和田義盛の死によって空席となった侍所別当については北条義時が就任することとなり、この瞬間、鎌倉幕府の執権職が事実上成立した。ただし、執権という役職が誕生したわけではない。政所別当と侍所別当の二つの職務を兼任した御家人が誕生したという図式である。

 侍所別当としての北条義時の初仕事は、合戦記録をまとめることである。

 吾妻鏡によると建暦三(一二一三)年五月六日の日付でこのたびの合戦の記録がまとめられている。

 反逆軍参加者の死者および行方不明者は以下の通り。

 吾妻鏡に注記があるように、上記の表は今回の戦いで反逆の一員として戦った主な御家人の名であり、その御家人に仕える従者や、御家人としてカウントされていない武士は除外されている。また、表に挙がっている人物と吾妻鏡の末尾に記された一族単位の人数とに差異があるが、末尾の数値は吾妻鏡に記載されているままの数値である。なお、山内の人々として戦死したと挙げられている者のうち、岡崎実忠とその息子の岡崎義国と岡崎実村の三名はいったん捕縛された後に打ち首になった者である。

 その後、幕府軍の一員として戦って戦死した者を吾妻鏡は列挙している。こちらもまた主な御家人の名を記すのみであり、御家人に仕える従者や、御家人ではないと扱われている武士は除外されている。人数の差異も吾妻鏡の数値そのままである。

 その他に幕府軍の負傷者は千名以上を数えた。


 建暦三(一二一三)年五月七日、今回の和田合戦での報償の打ち合わせが始まった。反逆軍の面々の保有していた所領を幕府軍の一員として戦い、戦功を残した者に配ることは決まっているが、誰がどこを手にするか、また、誰が行賞の対象者となるかについてゴタゴタが起こった。特に、三浦義村と口論となったあげく三浦義村を口汚く罵倒した波多野忠綱については、戦功を残したらしいのだがはっきりとした証拠がないことに加え、三浦義村に対する罵倒の言葉の汚さ、さらにその言葉を吐いたのが源実朝の目の前であったことが災いして、波多野忠綱個人に対する報償は認められず、次男の波多野経朝への報償ならば認められることとなった。

 以下が和田合戦において反逆軍の一員であったがために没収された所領と、その所領を受け着いた者である。

 これらの所領は反逆軍に参加した者、また、同調した者の所領である。

 また、反逆軍に参加して命を落とした者や捕虜となった者の名も新たな侍所別当である北条義時の手によって一覧化されている。

 しかし、反逆軍の全員が幕府の手に落ちたわけではない。戦場からの離脱に成功した者もいるし、そもそも戦闘に参加しなかった者もいる。鎌倉から遠いところにいた者の場合は、和田義盛と同調するという意思を内外に示していたとしても鎌倉まで赴く時間など存在しない。

 建暦三(一二一三)年五月八日、山内首藤経俊が、和田義盛に同調することを明言していた山内政宣を捕縛している。これにより、現在の埼玉県八潮市に存在していた山内政宣の所領は没収となっている。なお、これで山内首藤経俊に特別な褒賞が与えられたという記録はない。

 一方、報償を得ながら辞退した者もいる。

 他ならぬ北条泰時がその人物である。

 父も関与しての報償分配に対し、そもそも和田義盛は北条義時打倒を訴えて挙兵したのであり、北条泰時も幕府軍の一員として戦ったという側面もあるが、同時に父を守るために戦ったのであって、それは特別な報償の対象とならないとしたのである。また、幕府を守るために戦って和田義盛らの軍勢に殺害された者もおり、彼らは報償どころか家族を養うこともできなくなったことを考えるべきとし、北条泰時は自らに配布された報償の所領を返上した後、合戦の戦死者遺族の救済に充てるよう父に求め、北条義時も息子の意に応えた。

 山内首藤経俊にしてみれば、捕縛はしたものの合戦には参加していない自分が、実際に軍勢を率いて戦った者を差し置いて報償を願うなど許されないと実感されられる状況である。それにしても山内首藤経俊という人は何かと貧乏クジを引かされる運命にあるようである。あるいは自らわざわざ貧乏クジを選ぶ人生を歩んでいるというべきか。


 さて、何度も繰り返しているが、この時代の情報伝達網は鎌倉と京都の間が片道七日往復半月である。つまり、建暦三(一二一三)年五月二日にはじまり三日に終わりを迎えた合戦の情報が京都に届くのは、早くても五月九日ということとなる。実際、藤原定家の日記には五月九日のこととして鎌倉の合戦の情景が描かれている。

 また、京都に対しては合戦が起こったという第一報、合戦終結を告げる第二報が既に送られているが、その後の対処についての第三報がまだ送られていない。

 建暦三(一二一三)年五月九日、北条義時と中原広元の両名が連名で合戦後の後始末を告げる書状を送付している。

 その書状の内容をまとめると、鎌倉に来るな、である。

 鎌倉で合戦が繰り広げられたという情報が飛んでただちに鎌倉に向かう者が現れたが、前述の通り、京都から鎌倉まで急いでも七日はかかる。その上、彼らは合戦勃発を告げる第一報を知って直ちに動き始めたため、鎌倉に到着した頃には戦乱が終結したあとの後始末のタイミングということになる。これだけを考えればまだ笑い話で済む。

 しかし、土地を離れて鎌倉に向かうことは大問題となる。反逆軍の一員が潜んでいる可能性が高いのだ。鎌倉幕府の御家人が鎌倉を守るために京都をはじめとする任地を直ちに出発した場合、今度はその任地で戦乱が起こる可能性がある。

 また、特に京都が顕著であるが、御家人がこぞって任地から離れようものなら鎌倉以外の土地における鎌倉幕府のプレゼンスが落ちてしまう。守護にしろ、地頭にしろ、鎌倉幕府の御家人が目を光らせることで治安維持を図り、治安維持の実績を以て鎌倉幕府の権威を構築しているのである。その権威が一瞬でも失われようものなら鎌倉幕府の存在価値に関わる大問題にも発展してしまう。

 書状では、特に院の御所の警護に務めるよう記している。後鳥羽院は、既存の北面武士だけでなく、新たな武士集団である西面武士を組織している。ここで何かあったとき、具体的には反逆軍の残党が暴れ出したとき、後鳥羽上皇は鎌倉幕府ではなく西面武士を出動させることが可能だ。これは鎌倉幕府の存在価値を喪失させる大問題である。反逆軍は鎌倉幕府の内部問題なのだ。鎌倉幕府内部で処理できればどうにかなるが、鎌倉幕府内部で処理しきれず西面武士が反逆軍と向かい合うような事態が起こってしまったら、鎌倉幕府の存在意義そのものに絡む話となるのである。

 鎌倉幕府はここで、反逆軍の残党が九州に逃げたという話があるので、京都在中の御家人を京都に留めておくよう佐々木広綱に命じている。

 なお、これは反逆軍の残党というわけではないが、和田胤長が流罪先の陸奥国岩瀬郡、現在の福島県須賀川市あたりで処刑されている。


 さて、ここでもう一度、泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを、別の角度から振り返ってみると別の側面が見えてくる。

 まず、反逆軍として和田義盛とともに戦った武士達は、そのほとんどが相模国を根拠地とした武士であることがわかる。例外として挙げる武士となると和田義盛およびその息子と姻戚関係にあった横山家の面々ぐらいで、その他の武士はその多くが相模国の武士である。さらに言えば、名の挙がる全員が源頼朝の時代から鎌倉方の一員であった武士達である。

 一方、鎌倉幕府側で戦った武士達を調べると、三浦義村などのように相模国の武士もいるが、相模国以外の土地を本拠地とする武士達が多いことがわかる。そして、もっと注目すべき点として、鎌倉幕府に直接仕えている御家人だけでなく、北条家に仕えている武士の名が列挙されている。吾妻鏡は北条家の記した鎌倉幕府の正史であるため、北条家にとって都合良く脚色されることもあり、また、吾妻鏡に記載するか否かの判定条件を北条家との関わりが深いか否かで決めることもある。正体不明の武士の名が吾妻鏡に列挙されているのも、彼らが鎌倉幕府の御家人ではなく北条家に仕える武士であったからである。

 そこで泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを振り返ると、相模国の勢力争いではないかという説が登場する。源頼朝が挙兵するまで伊豆国の武士であった北条家は相模国における新興勢力であるが、その新興勢力の北条家のトップである北条義時が鎌倉幕府において権力を握っただけでなく朝廷からも相模守として認められた存在である。源平合戦から鎌倉幕府草創の流れにおいて源頼朝とのつながりを前面に掲げて権勢を掴み、現在進行形で相模国に勢力を築き上げている北条家は、従前からの相模国の武士団にとって承服しがたい存在であったろう。

 先にも述べたが、泉親衡の乱とはいうものの、勃発前まで無名の存在であったとするしかない泉親衡が、はたして反乱を起こせるほどの人員を集められるであろうかという疑念は当時から存在しており、黒幕は他にいるという説はこの時代から存在していた。たとえば藤原定家は自分の日記に、泉親衡の乱の首謀者は和田義盛であると記している。それも、藤原定家が耳にした情報として、和田義盛が反乱を企てたものの事前に露見して失敗して息子達や甥も逮捕され、和田義盛は源実朝に対して自分は無関係であると許しを請うたという噂話やラクガキが広まっていたとある。ただし、その記載をしているのは五月九日の日記であるから、時系列としては和田合戦勃発の第一報が京都に届き、戦乱の推移や結果がまだ届いていない頃の日記ということとなることは差し引く必要があることも忘れてはならない。


 北条義時と中原広元の両名から京都在中の御家人に対して書状が発せられたのが建暦三(一二一三)年五月九日。この書状は後鳥羽上皇の目にも止まり、後鳥羽上皇から源実朝に対する返信の書状を持たせた使者が鎌倉に到着したのが五月二二日のことである。

 それはなんともタイミングの悪い話であった。

 使者到着の前日である五月二一日の正午頃、鎌倉で巨大な地震が発生したのだ。大地が鳴動し、家が破壊され、山は崩れ、大地は割れたというのだから、その地震の規模は相当なものであったろう。ただし、地震の後でやってくることの多い火災と、鎌倉が海に面した都市であるがゆえに危惧しなければならない津波については、その双方とも記録に残されていない。鎌倉幕府の正史である吾妻鏡だけでなく、この時代の貴族の日記にも、地震については記してはあっても火災や津波については記録に残していないので、双方とも起こらなかったと推測される。

 それでも和田合戦の記憶も生々しく残っているだけでなく、反逆軍の残党の懸念も捨て去ることのできぬ状況下で発生した巨大地震である。都市鎌倉に住む全ての人、そして、関東地方や東海地方に住む御家人達にとってこの地震は、将来を悲観させる天譴ともいうべき自然災害に感じたであろう。

 そして、このような流言飛語が飛び交った。

 これから二十五日以内に合戦がある予兆である、と。

 源実朝はこのときのことを「太上天皇の御書を預りし時の歌」として和歌に詠み、後に金槐和歌集にも載せている。

 山はさけ 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも

 (山が裂け、海が干あがってしまう世であっても、後鳥羽院に背く心は私にはありません)

 との意である。

 鎌倉は巨大地震による動揺が起きていたが、京都では情報不足による混乱が起こっていた。リアルタイムでの情報連携が可能な現在でも情報不足は簡単に憶測や混乱生み出す。ましてや鎌倉から京都までの情報伝達に片道七日を要するこの時代、京都にいる人のもとに鎌倉で不穏な動きが起こっているという知らせのみが届き、その詳細がまだ京都に届かないという状況下では、京都で混乱が起こらないとしたらその方がおかしい。

 五月二二日に京都から鎌倉へと到着した使者が伝えたところによると、京都内外では様々な流言飛語が飛び交い、京都から鎌倉に向かおうとする京都駐在の武士達を京中警固のために後鳥羽院が留まらせているという。反逆軍の残党や協力者は鎌倉だけでなく京都にも存在しているであろうし、さらには西日本にも存在しているであろう。そうした面々が京都までやってきて暴れようものなら、起こりうる被害とは木曽義仲の前例を繰り返すレベルのものとなる。そして、そうなった場合の責任は源実朝に行き着くこととなる。

 源実朝は自分が後鳥羽上皇に忠実に仕える者であり、また、朝廷に刃向かうなど全く考えていないと明言することで当面の危機を食い止める必要が存在した。

 また、後に和田合戦と呼ばれる戦乱が鎌倉市中で起こったことは認めたが、その合戦はもう終わり、今は戦乱後の事後処理中であると宣言する必要もあった。これにより、公的には和田合戦が五月三日で終わったとされた。


 建暦三(一二一三)年六月二五日、備後国、現在の広島県から広沢実高が鎌倉へ戻ってきた。和田合戦から遠く離れた地で、その余波が広沢実高の身に押し寄せたからである。

 源頼朝は京都と鎌倉との間の情報網を整備し、従来は片道に半月を要していた情報のやりとりを半分の七日で済ませることに成功した。

 ただし、この情報網が日本列島の全てで構築されていたとは言いがたい。交通網は飛鳥時代の街道整備が基準であり、この街道をベースとして奈良時代から平安時代に掛けてアップデートされてきたという図式である。源頼朝はその図式のうち、鎌倉と京都との間の交通を整備したのだ。そして、鎌倉と京都との間を結ぶ経路の大部分を占める東海道は利用者が増えたためにさらに整備が進むこととなり、交通事情のさらなる改善が情報伝達の迅速化を増していった。

 問題は、そこまで利用者が増えたわけではない道である。飛鳥時代に整備された駅路は中央が地方を統治するために敷かれており、当初は大和国、平安京遷都後は山城国から各地方に向けて放射線状に道路が伸びている一方、地方と地方とを結ぶ経路が整備されたとは言いがたい。それでも需要があれば道路整備も進んでくるが、需要がなければそのまま放置される。

 鎌倉幕府は相模国鎌倉郡に根拠地を置いており、鎌倉幕府の御家人の多くは関東地方や、伊豆国、甲斐国、信濃国の御家人であるので、鎌倉幕府内部の情報連携という意味では相模国から各地に御家人の本拠地に向けての情報のやりとりができる環境を整備すればそれで事足りる。

 問題はその他の土地。

 鎌倉幕府は各地に守護や地頭を置いたが、守護にしても、地頭にしても、頻繁に鎌倉との情報のやりとりをするわけではなく、かなりの裁量を与えられた上で任地に赴任している。というより、頻繁な情報のやりとりができる環境にないので、それなりに大きな裁量が事前に与えられていないと守護や地頭としての役職を果たすことができない。

 これらが重なるとどうなるか?

 鎌倉幕府と頻繁に情報のやりとりをするわけではない土地は、鎌倉からの情報がそこまで素早くやってくるわけではなくなる。特に京都より西の地域は、鎌倉から直接情報が届くのではなく京都経由で情報が届くこととなるのだが、鎌倉から京都までどんなに素早く情報を送れたとしても、京都からはこれまでと変わらない情報伝達スピードとなる。

 和田合戦においては鎌倉から三度の情報が発せられている。五月二日の戦闘開始、五月三日の戦闘終了、その後の戦後処理の三度である。

 この情報を京都より西で接したならばどうなるか?

 特に鎌倉幕府から派遣された者が第一報に接したならば、鎌倉では既に問題が収束しているのに、鎌倉からの距離の遠さが理由で新たな問題を発生させてしまう。特に、本人は和田合戦の反逆軍に参加していないのに和田一族やその近親者と扱われると、無関係なのに余計な詮索が動いてしまう。広沢実高はそうした和田義盛と親しい人物の一人であった。しかも広沢実高は、瀬戸内海の海賊を討伐すべく準備を整えていたために、まさに結集させている軍勢が和田合戦の反逆軍の軍勢とみられてしまったのである。これでは海賊討伐どころの話ではない。いったん鎌倉まで戻って改めて源実朝の指令を発給してもらうことで、海賊討伐作戦を再開する目処を立てなければならなかったのである。


 大倉御所は治承四(一一八〇)年に源頼朝が鎌倉入りして以降、源頼朝の住まいであると同時に鎌倉方の根拠地となっており、鎌倉幕府草創後は鎌倉幕府の所在地となった。ただし、鎌倉幕府の全てが大倉御所に集結しているわけではなく、たとえば侍所は大倉御所の中に存在しているものの、政所と問注所は大倉御所の敷地外であり、政所は北条義時の邸宅と大倉御所の中間、問注所に至ってはは大倉御所から少し距離を置いて存在している。大倉御所は、内裏は無論、里内裏ほどの敷地面積も持っていないのだ。

 その大倉御所が和田合戦で焼け落ちたために再建することとなったが、和田合戦で侍所別当和田義盛が命を落としたこともあり、侍所別当の職務は政所別当北条義時が兼務することとなったため、臨時ではあるが侍所は政所に移されている。そのため、鎌倉幕府として必要な建物のうち、源実朝の住まいなど一部の建物を除いては、急いで復旧させる必要性は必ずしも存在しない。

 建暦三(一二一三)年六月二六日、北条義時、北条時房、中原広元が集まって御所修復工事の日程についての話し合いが執り行われた。陰陽師を呼んで吉日を選ぶという、京都の貴族であれば執り行うような手順での復旧工事が予定された。なお、復旧工事が完了するまでは中原広元の邸宅が臨時の御所となっている。

 吾妻鏡にしろ、京都の貴族達の日記にしろ、愚管抄にしろ、源実朝の行動については記録として書き記すことはあっても、源実朝自身の思いを書き記すことはない。いや、これは源実朝に限ったことではないが、歴史上の人物の思いはその人自身が何らかの形で思いを外に発露しない限り記録に残ることはない。

 裏を返せば、その人自身が残した文書や発言が現在まで残っていれば、その人がどのような思いを抱いていたのかある程度推測できる。それは、自己を表すことなく客観的な描写に徹底したという評価を得ているカエサルのガリア戦記ですら例外ではない。

 では、源実朝はどうか?

 この人が口にした言葉が直接歴史書に残されることは無い。

 しかし、この人の編み出した言葉はいまも残っている。

 そして、その言葉から源実朝の思いを推し測ることができる。

 和歌がそれだ。

 和田合戦の後に源実朝が詠んだ和歌が金槐和歌集に採録されていることは既に記したとおりであるが、どうやら源実朝は和田合戦に関連して詠んだ和歌を、それも複数の和歌を後鳥羽上皇のもとへ届けたようなのである。また、和歌を届ける際には起請文も添えたようなのだ。

 実は、金槐和歌集に「太上天皇の御書を預りし時の歌」として採録した和歌は一首だけではない。金槐和歌集は全部で六六三首が採録されており、先に挙げた和歌の他に二首、計三首は後鳥羽上皇のために捧げた和歌であると推測されているのである。

 源実朝の心情を和歌から読み解くと、源実朝自身の精神的疲弊と、その疲弊を乗り越えなければ鎌倉幕府の存続問題まで発展することの危機感が読み取れる。建暦三(一二一三)年時点の源実朝は数え年で二二歳、満年齢では二十歳から二一歳であり、現在の感覚でいくと成人式を迎えたばかりの若者である。その若者が、自らの疲弊と向かい合いながらも自分達の存続のために現実に向かい合う責任感と直面し続けているのである。

 そんな源実朝にとっての数少ない救いとなっていたのが和歌であり、源実朝が和歌に浸ることについては誰も何も言わず、北条義時や北条泰時、東重胤らが御所に集って和歌の会を開催するなど、御家人達も和歌に親しむようになった。


 和田合戦の後始末は戦乱から二ヶ月を経ても完了していない。

 完了していないのは当然で、反逆軍に加勢した者の中には戦場で討ち取られた者だけでなく、戦場からの脱出に成功した者、そして、そもそも戦場に到着しなかった者もいる。

 さらに、グレーゾーンの者も多くいる。

 和田合戦はクーデタであるため、クーデタ鎮圧後の鎌倉幕府としては微妙な対処としなければならない。

 たとえば、和田一族ないしはその親族である、あるいは、和田一族とプライベートから親しいというのは、必ずしも有罪とはならない。鎌倉にいて鎌倉幕府の軍勢の一員として北条泰時や三浦義村らとともに反逆軍と戦ったというのならば何の問題も無いばかりか称賛の対象にすらなる。しかし、鎌倉から離れた場所にいた人の場合は反逆軍に加担していないという確実な証拠がない限り、反逆軍の一員ではないという証拠がどこにもないという状況となる。

 さらにここに、鎌倉から距離があるために情報が不足していることの起因する情勢不穏が存在する。和田合戦のスタートが不意を突いての挙兵であるため、和田合戦に反逆軍として参加できたのは五月二日から五月三日に掛けて鎌倉にいることができた者に限られ、鎌倉から距離がある場所にいた者で、かつ、和田一族の一員や親しいと扱われた人は怪しまれる。広沢実高のように、鎌倉幕府からの海賊討伐命令が出たために軍勢を結集させていたのに反逆軍の一員と見なされてしまったため、改めて鎌倉に赴いて反逆軍と無縁であるという証明を得た者がいたほどである。

 鎌倉幕府としてとりうる選択肢はただ一つ、一人一人それぞれ個別の対処しか無い。グレーゾーンと扱われている全ての人を十把一絡げにして扱うのは、単純明快なように思えて、実際にはグレーゾーンとそうでない人との間の境界線上の扱いが難しくなる。そのような難しさは取り返しのつかない災厄を生むことがある。本来ならば無罪としなければならないのに有罪と扱われる、あるいはその逆に、有罪とすべきところを無罪放免となってしまう。そのどちらも問題が存在する。だったら、一人一人それぞれに状況を判別し、一人一人それぞれに判断を下すほうがまだマシである。

 建暦三(一二一三)年七月以降の吾妻鏡の記録には、和田合戦において反逆軍の一員として見なされた者、さらには反逆軍の一員で戦場からの逃亡に成功した者についての扱いが次々と出てくる。

 ちなみに、源実朝から示される基本姿勢は、無罪放免、もしくは厳重注意の上での職場復帰という、クーデタに対しての処罰としてはかなり軽いものである。優秀な武人であれば鎌倉幕府の一員であり続けるべきであるとする源実朝の意思がそこにはあった。


 鎌倉でクーデタが起こったという知らせは鎌倉でも唐突なニュースであったが、京都ではさらに衝撃的なニュースであった。

 なぜか?

 これはクーデタというものの宿命であるが、一時的に軍事力が空白になる。鎌倉幕府が京都に軍事力を置いていた理由は鎌倉が京都に睨みを利かせる目的もあったが、睨まれる側である朝廷や院にとっても、鎌倉幕府の軍事力が京都に、より正確に言えばギリギリで平安京の区画外である鴨川東岸の六波羅の地に鎌倉幕府の軍事力があることは求めていた。朝廷にしても、院にしても、軍事力が目と鼻の先にあることは驚異であるものの、白河院政の時代から続いていた寺社の武装デモに対処できる軍事力が京都近隣に存在するほうが、すなわち、寺社に対して鎌倉幕府の圧力を見せ続けることのほうが重要であったのだ。

 その軍事力が一瞬にしていなくなった。ゆえに、衝撃的なニュースとなったのだ。

 実際には鎌倉幕府の軍事力がまだ存続していたのであるが、これまで鎌倉幕府の軍事力と対峙していた寺社勢力にとっては、自分達の敵が一瞬にして消えたかのように見えたのだ。ただし、和田合戦もそうであったように、個人ならばともかく集団での暴発というのは、何の前触れもなくいきなり起こるわけではなく、事前にある程度の計画をしている。計画をして、タイミングを見計らって行動を移すのが通常だ。

 先に寺社勢力の武装デモに対処する軍事力と記したが、武装デモは朝廷や院だけが対象となるのではなく他の寺社も対象となる。このあたりは二〇世紀の左翼の内ゲバと同様で、外部から見れば仲間内でのことなのに仲良くできないものかと思うが、当事者からすればどうしても受け入れられない差異となる。この差異が内ゲバを生み出し、武装した僧兵同士の乱暴狼藉が始まる。その乱暴狼藉は寺社の内部だけで完結するわけはなく、周囲に多大な迷惑を掛けることとなる。その多大な迷惑を強引に沈静化させる役割を鎌倉幕府の武士達が担っていたのだが、その武士達が和田合戦の余波で動けなくなったかのように見えた。

 こうなると埋もれていた内ゲバの炎は容易に蘇る。

 あとはきっかけがあれば怒りを生み出し、怒りが生まれれば集団暴徒が誕生する。目的は暴れることそのものであり、何かしらの問題を解決することではない。

 建暦三(一二一三)年七月二五日、清水寺と清閑寺との間で裁判が起こった。清閑寺の領地に清水寺の僧侶が堂を建立したことを訴えたのである。ここまでであれば現在でも土地の所有者が民事訴訟を起こす内容であるから納得できる。

 しかし、裁判と同時に、清水寺と清閑寺との対立から延暦寺と興福寺の対立へと発展したのだ。清閑寺は比叡山延暦寺の末寺であり、この時代の清水寺は興福寺の末寺となっていた。つまり、末寺同士の争いがトップ同士の争いとなり、双方とも僧兵を繰り出す事態へと発展したのだ。

 延暦寺の僧兵が清水寺に攻め込もうという動きになったため、清水寺は寺院の周囲にバリケードを構築して対抗することとした。修学旅行等で清水寺を訪れたことのある人ならばわかると思うが、清水寺は山の中腹にある寺院であり、参詣者はかなりの坂道を登らなければ参詣できない。これを清水寺へと攻め込もうとする側から捉えると、清水寺は西側にのみ参道があって東側にある山岳地帯から攻め込むのは困難であるため現実的ではない以上、坂の下から坂を上って攻め込むしかないと考えるし、これを守備側から捉えれば坂道の途中にバリケードを築けば自分達を守りやすくなると考える。

 バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければならない。そのため、延暦寺の僧兵達は長楽寺に集まって攻撃準備を整えることとなった。

 これまで幾度となく繰り返されてきた延暦寺と興福寺の争いが再び起ころうとしているのである。朝廷としてもこれを見逃しておくわけはなく、八月三日に、清水寺に対してはバリケードを取り除くこと、長楽寺に対してはただちに武装解除を命じた。

 清水寺は、検非違使として派遣された平有範、大内惟信、後藤基清らの有言無言の圧力によってバリケードの破壊と武装解除を命じることに成功した。しかし、長楽寺については失敗した。検非違使だけではなく後鳥羽院の院司らも派遣したのであるが、院司らからの説得に対し、長楽寺に詰めかけていた延暦寺の僧兵らは、順徳天皇からの仰せを伝えようとしているのを遮って、命など惜しくないと述べただけでなく、朝廷からの指示にも従わないとしたのだ。そしてこれは現在でも見られることであるが、これから暴動を起こそうとして殺気立っている面々に対して説得しようとしても、まともに受け入れられないどころかブーイングが飛んでくるし、民度が低い相手だとゴミなどが飛んでくる。このときの長楽寺も同じで、ゴミではなく石礫(いしつぶて)が飛び交うまでになってしまったのだ。

 もはや暴徒の暴発は時間の問題だと考えた後鳥羽上皇は、北面武士や西面武士を動員しただけでなく、京都駐在の御家人にも呼びかけて、長楽寺を包囲して僧兵達を逮捕するように命じた。長楽寺は清水寺と同様に西に参道があって東に山が広がるという山の中腹にある寺院であるが、寺院の位置は清水寺よりかなり低い。また、清水寺の東にはかなり高い山岳地帯が広がっているのに対し、長楽寺の東の山岳地帯は清水寺より低い。しかも、京都駐在の鎌倉武士の中には源平合戦をも経験した歴戦の猛者もいるし、その者を師として訓練を受けてきた武士もいる。そのうちの一人である大内頼茂は、長楽寺に立て籠もった僧兵達が攻めてくるだろうとは考えなかった方角である東に陣を敷き、旗を掲げることに成功した。

 いかに武装デモで暴れ回っている僧兵であろうと、源平合戦を経験した武士達からすればどうということのない集団である。長楽寺に詰めかけた僧兵達は自分達の立場が厳しくなっていることを悟り、どうにかして逃走しようとしたものの多くの僧兵が捕虜となって後鳥羽上皇のもとに連行されることとなった。捕虜となった僧兵は二〇名を数え、さらに殺害された僧兵も数多く出た。

 延暦寺への対処はこれで終わることなく、八月六日には比叡山の僧兵達に比叡山を下りること、多くの僧兵を輩出していた根本中堂と常行三昧堂の扉を封鎖すること、さらには常明灯を消すよう命じたという。ただし、延暦寺に残る記録によると、常明灯こと「不滅の法灯」は、延暦七(七八八)年から一度も消えることなく、元亀二(一五七一)年の織田信長による比叡山焼き討ちのときに消えてしまう危機があったことが記されているのみなので、このときは消されなかった可能性が高い。

 この一連の流れは全て事後報告として鎌倉に届いたが、事後報告となったことについて鎌倉から特にアクションは起きていない。京都から鎌倉への情報連携は整備してもなお片道七日を要するのが一般的であるこの時代、問題の早期解決は事後報告となってもやむを得ない話である。


 建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意できなかったため、源実朝は輿を使って大倉御所に移ることとなったという。

 これは吾妻鏡の恒例であるが、こうした儀式に誰が参加し、行列はどのような構成であったかを事細かに記録している。

 以下が、吾妻鏡に記された行列である。

 これだけの行列が中原広元の邸宅から大倉御所のもとに移るための行列として組織されたのであるが、中原広元の邸宅は大倉御所の目の前にある邸宅である。果たしてここまでの行列を組織する必要はあるのかと思うが、鎌倉幕府の面々からしてみれば、これほどの壮麗な行列を組織するほどの一大イベントなのだとアピールすることは悪い話ではない。

 そもそも、これぐらいの規模の行列を組むのは、京都の上級貴族であれば珍しくもない。誰もがやっているとまでは言わないが、源実朝の位階である正二位の位階を持つ貴族であれば当然の光景である。ただし、その行列に誰が参加するのかという点で、源実朝の組んだ行列の構成は異例である。京都ならば、行列に武士が加わることはあってもそれはあくまでも行列を守るための護衛であり、行列そのもののメインではない。だが、鎌倉ではまさに武士である御家人達が行列のメインとなっている。

 そう、この行列は、自分達のトップが京都の貴族に匹敵する位階を持つ貴族であることを再認識させるだけでなく、御家人達が行列に加わることによって自分達自身が壮麗な儀式の一翼を担っていると意識させる効果があったのだ。自分達のトップはこれほどの行列を組める上級貴族であり、自分達はここまで壮麗な儀式をするほどの集団なのだという意識は、ケチな人だと断じて思いつかない効果を生み出す。費用対効果を考えるならばケチよりも遙かに優れている。

 行列の壮麗さだけが御家人達の意欲を高めるのではない。大倉御所に到着した後、陰陽師安陪親職と彼に仕える二人の少女が先導し、源実朝は御所の寝殿へと入っていった。

 その次に北条政子が、源親広と狩野行光が随行して入っていった。

 その後、陰陽師安陪親職が褒美を与えられて退席し、あとは宴席である。儀式の壮麗さも御家人達の心を揺り動かしたが、宴席の場もまた御家人達の心を揺り動かした。


 ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み出すきっかけにもなった。

 和田合戦に参加した者、また、その前哨戦たる泉親衡の乱に参加した者はどういった面々であるかを考えると、鎌倉幕府打倒という動きはともかく、鎌倉幕府の上層部を打倒すべしという動きならば現れる可能性はあるし、打倒とまではいかなくとも自分の名前を売って源実朝の周囲に仕える一人になろうとする者は当然のように現れる。

 そのうちの人物の一人の暴走が、建暦三(一二一三)年九月に一つの悲劇を生み出した。

 九月一九日、下野国の日光山二荒山神社の筆頭法眼である弁覚が鎌倉幕府に訴えを起こした。亡き畠山重忠の末子である大夫阿闍梨重慶こと畠山重慶が、日光山の麓に隠れ住んで多くの人を集め祈祷を熱心に繰り返しているというのである。畠山重慶の周囲に集まっている人を弁覚は牢人、すなわち、住まいを持たぬ人達としているが、これだけを見ると、畠山重慶は何かしらの理由で住まいをなくした人達を救済しているか、あるいは、世間との関わりを絶たせる怪しげな新興宗教を起こしたかのように見えなくもない。前者であれば宗教人らしい善行と言えるし、後者であれば物騒極まりない。そして、聞くところによると後者らしい。おまけに畠山重慶は討ち取られた畠山重忠の子。人を集めて何かをしていること自体が注視しなければならない対象だ。弁覚は畠山重慶が謀反計画を立てているとまで記したが、本当にそうなのかは実際に調べてみなければわからない。

 弁覚からの訴えを聞いた源実朝は、訴えを聞き入れているときに近くにいた長沼宗政に対して、下野国に向かって畠山重慶を捕まえてくるよう命令した。

 長沼宗政としては、これまでの境遇を脱して源実朝の周囲に仕える人材になる絶好のチャンスだ。長沼宗政はかなり早い時期から鎌倉方の一員として源頼朝のもとに仕えており、治承四(一一八〇)年には既に鎌倉方の一員としてカウントされていること、また、一ノ谷の戦いから壇ノ浦の戦いに至る一連の流れの中では源範頼率いる軍勢の一員として姿を見せ、奥州藤原氏討伐の奥州合戦でも功績を残し、比企能員の変、畠山重忠の乱でもその名を残していることから、御家人の中でも古参と言えよう。ただ、この人物には兄と弟がいて、兄の小山朝政も、弟の結城朝光も、源実朝の周囲の御家人として名を馳せるようになっていたのに、長沼宗政はそのような扱いを受けていなかった。

 そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。

 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである。大倉御所への出仕に付き沿っていた家子一名と雑色八名を連れて、残りの者は自分を追いかけてくるようにとだけ告げたため、鎌倉ではちょっとした騒動になった。

 ここまでであれば何の問題も無かったが、九月二六日、最悪な結果を伴って長沼宗政が鎌倉に戻ってきたのである。

 畠山重慶の首を持ってきたのだ。

 源実朝は畠山重慶を捕らえてくるように命じたのであって死を命じたのではない。それなのに、長沼宗政は畠山重慶を殺害して首を持ってきた。

 これに源実朝が激怒した。鎌倉に連行し、取り調べをした上で有罪なのか無罪なのかを判断すべきところなのに、問答無用で殺害するとは何たることかというのが源実朝の主張だ。ただし、長沼宗政に直接怒りを見せたのではなく、近江前司仲兼こと源仲兼を通じて言葉を伝えている。

 源仲兼は源を姓としているが清和源氏ではなく村上源氏の末裔であり、兄が後白河院に仕えていたこともあって近江国をはじめとするいくつかの国の国司を務めるなど貴族としてのキャリアを積んでいた人物である。源仲兼自身も後鳥羽院に仕えていたが、建暦三(一二一三)年時点では鎌倉で源実朝に仕える身になっていた。一見するとどうしてこの人物が鎌倉にいるのだろうかというキャリアの人物に見えるが、このときの源実朝は議政官の一員にこそ就いていないものの正二位というかなり上位の位階を持った上級貴族である。これだけの位階を持つ貴族となると国司を歴任したキャリアを持つ貴族が周囲にいてもおかしくなく、源実朝が自らの意思を御家人に伝えるときにワンクッション持たせるとしたら、近江前司仲兼を仲介するのはあり得る話である。

 報償を得られると考えていたのに叱責を受けた長沼宗政は、これまでの兄や弟との境遇の違いがもたらす鬱憤もあって、ついに爆発した。源仲兼に源実朝批判とするしかない怒りの言葉をぶつけたのだ。

 畠山重慶の陰謀は間違いない。生け捕りにして鎌倉まで連れてくることはたやすいが、生かして鎌倉まで連れてきたら、源実朝の周囲の女官や北条政子が命を助け出すように言い出し、源実朝は命を助けるであろうというのが長沼宗政の主張である。その上で、このようなことではいったい誰が忠義を尽くすというのかと怒りを見せた。亡き源頼朝であれば褒賞を与えたであろうに、叱責するとは何たることか。源実朝は武芸を軽視して和歌や蹴鞠に没頭し、取り上げた所領は手柄を残した武士ではなく周囲に侍らせている女性に配っているというのが吾妻鏡の記すところの長沼宗政の言葉である。なお長沼宗政の怒りの言葉はこれが全てではなく、吾妻鏡によるともっとえげつない言葉を口にしたとある。あまりの酷さに記録として残すのも躊躇ったようである。

 源仲兼は長沼宗政の怒りを聞いただけで何も言わず、長沼宗政も言うべきことを言った後に大倉御所を去った。

 なお、長沼宗政は弟の小山朝政の取りなしにより、閏九月一六日に大倉御所への出仕が許されている。


 和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。

 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければならなかった大事件である。

 基本的に源実朝は後鳥羽上皇と良好な関係を築こうとしていたし、後鳥羽上皇も源実朝を利用していた。両者の間は、後鳥羽上皇が権威を、源実朝が武力と財力を提供することでの良好な関係の構築に成功していたと言える。

 そう、源実朝には武力だけでなく財力も存在したのだ。

 日本中の令制国に置かれた守護、日本中の荘園に置かれた地頭は、各地から納入される年貢を、これまでの知行国主や荘園領主ではなく、朝廷と鎌倉幕府に変更させた。名目こそ源義経探索のために置かれた役職であるが、源頼朝がそれだけで済ませるはずがない。守護にも、地頭にも、源義経探索など些事とするしかない巨大な政治的、社会的、経済的メリットがあるのだ。その嚆矢が、法で定められた税額よりは高いものの今までよりは安い税率とするという、庶民に減税を施しながら増税を成功させる離れ業である。庶民の暮らしは楽になり、鎌倉幕府には莫大な資産が入ってくるのだから、守護と地頭の制度はやめるわけがなく、源実朝も父の政策を継承して、鎌倉幕府のもとに日本中から資産を納めさせることに成功している。

 ただ、源頼朝が選んだ方法は知行国主や荘園領主からすると自分達の資産を奪う極悪非道な所行なのだ。守護にしても、地頭にしても、治安維持という側面があるので全くの無価値であるとは言わない。ただ、これまで得ていた収益の大部分を失ったというのはあまりにも痛すぎるのだ。

 そしてこれは、貴族や寺社だけでなく、院も同じであった。鎌倉幕府が豊かになればなるほど、京都の貴族や各地の大規模寺社、そして、院の財政は苦しくなっていく。朝廷に対し法に基づいた納税はしているので朝廷のもとには法に基づいた税収が存在するにはするが、律令というのは現実より理想を優先させており、現実を伴っていない。何しろ、理想の中での国家財政とは低負担高福祉である。しかし、そんなものは理想でしかなく、負担を減らせば福祉が減り、福祉を増やせば負担も増える。律令制は低負担高福祉を謳いながら高福祉を実現できなかったために高負担へと移行していき、高負担に耐えきれなくなった人が増えたために荘園という低負担の仕組みができあがり、税負担から逃れる人が減ったことで荘園領主や知行国主は豊かになる一方、国家財政は乏しくなり、国家的事業も困難になっていったのが平安時代である。

 この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという経済情勢が成立していた。

 国家財政が乏しくなっていたときに国家的事業を遂行するため、歴代の藤原摂関家をはじめとする上級貴族は自身の資産を投入してきたが、今やそれも期待できない。資産投入が期待できるのは、閑院内裏の再建工事の費用負担からもわかるように、今や鎌倉幕府しかないのである。ただし、あくまでも自発的な資産提供であって強要はできない、はずであった。

 その鎌倉幕府で失態が起こった。それも鎌倉幕府の最大の存在意義である治安維持にかかわる失態が起こった。これは国家予算の乏しさに嘆いている側にとって絶好のチャンスである。

 後鳥羽上皇は鎌倉に知られぬよう、まずは鎌倉から遠いところで課税できないものかと考え、第一弾として九州で臨時の課税を課すことにした。ここで成功すれば、有耶無耶のうちに朝廷や院、さらには荘園領主といった面々が少しずつ徴税権を取り戻せるようになる。徴税権奪取に成功すれば範囲を九州以外にも広げ、既成事実化することで、源頼朝によって失った徴税権を取り戻すことも夢ではなくなる。

 鎌倉幕府にも負い目があるこのタイミングでの徴税権奪取は、理論上は最良のタイミングであったろう。しかし、鎌倉幕府はそれを許すような組織では無かった。

 建暦三(一二一三)年一〇月三日、源実朝から権大納言西園寺公経へと書状が送られた。内容は単純で、九州に課した独自の徴税に鎌倉幕府は一切応じないという意思の表明である。源実朝自身は後鳥羽上皇にも朝廷にも逆らう意思を示さないが、徴税だけは別である。これだけはいかなる理由があろうと同意できない話であり、中原広元の起草した書状に源実朝が花押を入れ、鎌倉幕府として独自の徴税を拒否すると示した上で西園寺公経への書状が送られたのである。

 ここで西園寺公経が書状の送り先に選ばれたのは、源頼朝の妹と一条能保との間に生まれた女性が西園寺公経の妻であるためで、西園寺公経は源実朝から見て義理の従兄にあたることから、理論上はあくまでも親戚に書状を送ったという体裁である。しかし、その内容は鎌倉幕府からのかなり強力な意思が内包された徴税拒否の文章である。

 この書状が送られたことで、後鳥羽上皇は自らが目論んだ九州での徴税を取りやめなければならなくなったと同時に、後鳥羽上皇は、そして、朝廷の面々は、鎌倉幕府という組織が想像以上に情報網を張り巡らせている組織であると痛感することとなった。


 鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は健在であることを思い知ることとなったのである。

 清水寺を舞台として延暦寺と興福寺が争いとなったのは既に記したとおりであり、延暦寺は大打撃を受けたはずであるが、それで問題が最終解決を迎えたわけではない。後の歴史を知る我々は、比叡山延暦寺の問題は織田信長の登場で解決したことを知っているが、当然のことながら、この時代から三五〇年も後の時代のことを見通せる人などいるわけがない。この時代の人達における比叡山延暦寺とは永遠に解決することのない問題と認識されており、被害をゼロにすることなどありえず、だた被害の多寡だけが問われる問題であった。

 建暦三(一二一三)年七月末から八月初頭にかけての争いは、一度は沈静化したものの奥底ではくすぶり続けており、時期を見計らったというより、一〇月末に無計画な暴発として争いに発生したというべきであろう。

 具体的な日付は記されていないが、鎌倉に情報として届いたのは一〇月二九日のことである。清水寺の僧侶の数名が、清水寺の保有する所領を勝手に比叡山延暦寺の末寺に寄付したことに興福寺の僧兵が激怒し、延暦寺に向けて襲撃を掛けると、それも放火するとして動き始めたのである。

 鎌倉幕府に届いた第一報は、朝廷の武力を発動して興福寺の僧兵を食い止めようと検討するというものであり、書状が京都から発せられた時点では具体的に動き始めていない。

 それからおよそ一ヶ月を経た一一月三〇日、鎌倉幕府に第二報が届いた。朝廷から軍勢を派遣して暴動発生を未然に防ぎ、奈良の興福寺を出発して北に向かっていた興福寺の僧兵達は、一一月二〇日に宇治で行動を諦めて南へと引き返した、これで騒動としては終わりである。

 一見すると鎌倉幕府が関与せず朝廷独自の武力、その武力は具体的に示されてはいないが、おそらくは検非違使、北面武士、西面武士といった武力を発動させることで沈静化させたのであろうことはわかる。

 そして、一一月三〇日の書状には末尾にちょっとした一言が書いてある。

 関東から派遣した大友左衛門尉能直はまだ京都にいる、と。

 何のことはない。興福寺が暴れそうだという情報に接して鎌倉から大友能直を派遣し、検非違使である左衛門尉に任官させることで朝廷指揮下の武人であるという体裁にして、名目上は朝廷の、実際には鎌倉幕府の武力で鎮圧したのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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