承久之乱 4.源実朝受難

 源実朝が権大納言という高位の官職に就いたものの、京都に足を運べないために議政官の一員として会議に参加することはできずにいる。

 しかし、建保六(一二一八)年六月時点の貴族の序列でいくと、関白近衛家実、左大臣九条良輔、右大臣九条道家、内大臣三条公房に続く五番手グループを構成する一員となっている。本来であれば内大臣と権大納言との間に定員二名の大納言がいるところであるが、この年の一月に藤原兼宗と藤原兼基の二人の大納言が揃って大納言職を辞職してしまったために大納言職は空席となり、八名いる権大納言の誰かが大納言職の臨時代理を務める状況が続いている。ちなみに、この時点で太政大臣も適任者無しとして空席となっている。

 議政官は左大臣が議長となり、左大臣が不在であれば右大臣が議長を務める。そして、左大臣も右大臣も不在であるときは内大臣ではなく二名いる大納言のうちのどちらか、通常は位階が高い者、同じ位階であるならば大納言に就任した日付が早い者が、左右の大臣の代行を務める。

 ところが、建保六(一二一八)年一月に大納言が二人とも辞職してしまったために八名の権大納言のうち、もっとも序列の高い久我通光こと源通光が大納言代理を務めることになってしまったのである。これではさすがに職務が久我通光のもとに集中しすぎてしまう。そこで、八名いる権大納言で職掌を分散して一人あたりの職務を軽減化させるようにしていた。

 ここまではいい。

 問題は、八名いる権大納言のうち一名が、全く京都に姿を見せていないことである。すなわち、前述の通り鎌倉に留まっている源実朝は八名の権大納言うちの一人でありながら、権大納言としての職務を遂行するのに困難になっていたのである。

 とはいえ、源実朝が権大納言としての職務を全くしていないわけではない。おまけに源実朝は左近衛大将を兼任しているから、朝廷における武官のトップとしての職務遂行も求められている。

 先に、源実朝が左馬寮監に就任したことを伝える使者が三月一八日に到着したことを記したが、このあとの記録を紐解いていくと、朝廷からの使者が頻繁に鎌倉を訪れていることがわかるのである。彼らは鎌倉まで旅行に来たのではなく、権大納言兼左近衛大将源実朝の政務遂行のために朝廷から派遣されてきたのである。現在のビジネスでも出張はあるし現在の政治でも外遊はあるから、朝廷からの使者の派遣もそうした公的な移動と同レベルで考えることはできるが、それにしても、普段から武芸で身体を鍛えているならまだしも、武士でもなく身体を鍛えているわけでもない人間が頻繁に京都と鎌倉を往復することを考えると、体力面で心配になってくる。実際、源頼朝が整備したことで京都と鎌倉は片道七日往復半月というのが情報のやりとりの目安になっていたが、武人ではない人間の移動となると、急いだとしても片道一〇日が目安であったようで、京都を出発してから一〇日後に鎌倉に到着した人というのがかなり多く見られる。

 なお、この頃の朝廷の記録を見ると、源実朝が征夷大将軍であることは認識されてはいるものの、征夷大将軍であることはさほど重要視されていなかったようである。源実朝がどうして京都に来ないのかという懸念があったときにはじめて、征夷大将軍としての軍事行動を遂行している最中であるために現地を離れることができないという公的理由が思い出されるといった具合だ。


 源実朝が権大納言としてどのような職務を遂行していたのかという記録は多くない。しかし、左近衛大将としての職務遂行の記録ならばそれなりに存在する。

 源実朝は鎌倉幕府の御家人達のトップであるだけでなく、鎌倉内外に住む人達にとっても自分達のリーダーと見做される人物である。その人物が権大納言になったことはそこまで特別なニュースと扱われていない。国政において八名いる権大納言のうちの一人に自分達のリーダーが選ばれたことはニュースではあるのだが、そこまで特別なニュースと見做されてはいない。

 しかし、左近衛大将となると話は別だ。武官の最高位にして、大臣の兼職であることが通常の職務に自分達のリーダーが就いたのである。これは鎌倉中を熱狂させ、鎌倉幕府を熱狂させる大ニュースとなった。左近衛大将就任を祝うための拝賀式が鎌倉で開催されることとなり、その祝祭である拝賀式は鎌倉中を熱狂させ、鎌倉幕府の御家人達に鎌倉幕府の巨大さを自覚させる大規模なものとなった。

 まず、建保六(一二一八)年六月一四日に新しく蔵人に任命された大江時広が京都から到着した。源実朝の左近衛大将任命の祝祭の先払いのためである。先月二七日に蔵人に任命された後の初出仕の場で鎌倉行きを命じられ、二八日にはもう京都から出発するよう命じられている。なお、鎌倉行きがよほど不満だったのか、鎌倉での拝賀式が終わったならば即座に京都に戻るつもりであると公表している。

 六月一七日には、純粋に拝賀式に参加するために、一条実雅、一条能氏、源仲章といった貴族達が京都から鎌倉にやってきた。代理の者ではなく本人が京都から鎌倉へとやってきたことは、今回の祝祭がいかに特別であるかを鎌倉内外の人達にイメージづけるに十分であった。

 六月二〇日、後鳥羽上皇の近臣の一人で内蔵頭藤原忠綱が朝廷からの使者の第二陣として到着した。藤原忠綱は儀式に参加するだけでなく拝賀式に必要な衣装や調度品を用意するのが役割であり、藤原忠綱はかなりの大人数で京都から鎌倉までやってきている。ちなみに同じ藤原忠綱という名の貴族は、藤原頼通の五男である男児や、伊藤忠清の息子など他の時代にもいるが、たまたま同じ名前になっただけで直接の関係はない。

 同日、一条能保の次男で源実朝とは従兄弟同士の関係になる一条信能も鎌倉に到着した。

 六月二一日、藤原忠綱から儀式用の調度品や衣服が源実朝のもとに届けられた。ここではじめて、衣服や調度品の全てが後鳥羽上皇からの贈答品であることが公表された。源実朝は後鳥羽上皇からの配慮に感謝したとある。

 同日夜、平為盛と源頼茂の両名も鎌倉に到着した。源実朝の左近衛大将就任に伴う拝賀式への参列者として京都からやってきた貴族として名が残っている貴族は以上であるが、吾妻鏡には具体的な名は残されていないものの、その他の数多くの貴族が京都から鎌倉まで足を運んできたことが記されており、左近衛大将就任を祝福する拝賀式としては申し分ない規模である。また、戻ってきたことの具体的な明確な記載はないが、この頃には京都守護の中原季時も鎌倉に戻ってきているはずである。


 建保六(一二一八)年六月二七日、源実朝の左近衛大将就任を祝福する拝賀式が鶴岡八幡宮で開催された。

 拝賀式としてのメインは鶴岡八幡宮での参詣であるが、イベントとしてのメインは参詣を終えたあとの行列である。

 まず行列を作る前に文章博士源仲章が御簾を上げ、陰陽少允安陪親職と陰陽権助安陪忠尚の両名がお祓いをしたのち、伊予少将藤原実雅が牛車を用意して源実朝が牛車に乗り込む。

 この段階で行列はほぼ完成しており、あとは源実朝が乗る牛車が行列に加わることで行列が完成する。

 まず、先頭の八名は牛の世話役である居飼が横に四人二行に並ぶ。

 次に、八名の御厩舎人が同じく横に四人二行を作る。

 ここから先が、鎌倉幕府の御家人や京都からやってきた面々の行列である。

 まず、府生狛盛光、将曹菅野景盛、将監中原成能の三名が横に並ぶ。彼らはまだ殿上人ではなく天皇に拝謁する資格を有さない。もっとも、今回の行列はあくまでも京都での行列の擬制であり、通常であれば源実朝に普通に会える人が、今日のこのタイミングに限っては源実朝に会えないということになっている。

 この次に殿上人が続く。

 大江時広、一条頼氏、花山院能氏、一条能継、一条実雅、源師憲、源頼茂、平為盛、源仲章、一条信能という順番であり、この行列においては彼ら貴族が名目上の源実朝の先導を受け持つ。

 そのあとで源実朝の乗る牛車を護衛する武士が続く。牛車を護衛する武士自体は京都でも目にできる光景であるが、ここは鎌倉。源実朝の周囲を警護する武士とは鎌倉幕府の御家人である。

 まず、一六名の武士が二人一組になって八行となり、馬に乗って笠を持ち行列を築く。

 伊賀仲能と三条親実。

 美作朝親と毛利季光。

 中原季時と藤原経定。

 蔵人大夫国忠と足利義氏。

 右馬助範俊と北条時房。

 蔵人大夫有俊と右馬助宗保。

 源頼時と大江親広。

 北条義時と大内惟義。

 既に述べたように中原季時は本来であれば京都守護として京都に留まっているべき職務の人間であるが、このときは鎌倉にいて行列の一翼を担っている。

 さらにこのあとで、朝廷の警備兵の責任者を務めることのある下毛野敦秀が家臣とともに控える。

 このあとで源実朝の乗る牛車が来る。

 牛車の後ろには朝廷から派遣されてきた警備兵である、秦頼澄、秦清種、下野野敦家、播磨貞直、下野野敦継といった面々とその家臣が並ぶ。

 その後ろに源実朝の笠持ちが二名、雨用の皮張りが一名と筵持ちが一名並ぶ。

 その後ろに武装した八名の御家人が二名一組で並ぶ。

 大須賀道信と長江明義。

 伊豆頼定と三浦義村。

 北条泰時と筑後朝重。

 安達景盛と土岐光行。

 その後ろに検非違使である大江能範とその家来が並ぶ。

 源実朝の弓矢を持つ佐々木高重が並ぶ。

 このあと、朝廷から派遣された武官達が二名一組で続く。

 大泉氏平と関政綱。

 小野寺秀道と島津忠久。

 平胤義と足立元春。

 天野政景と伊賀光季。

 後藤基綱と加藤景長。

 伊東祐時と武藤頼茂。

 中条家長と佐貫広綱。

 大江範親と大井実平。

 塩谷朝業と若狹忠季。

 そして最後に東重胤が一人で並ぶ。

 なお、吾妻鏡は行列が組まれたことと儀式を執り行ったことを記載するのみであるが、他の記録にはここで一つの失態があったことが記されている。三浦義村が失態を演じ、儀式の行列を遅らせてしまったのである。

 こうして振り返ると、この行列に含まれていてもおかしくない人物が二名、その名を行列の構成者の中に含まれていないことがわかる。

 一人は北条政子。北条政子の場合はこの行列の見物人の一人であることが求められる。息子の出世を祝う行列を眺めることは許されても、行列そのものに母が加わるというのはあり得ない話であり、このあたりは凱旋式に戦闘に参加しなかった者が勝手に加わったらどうなるか容易に想像できるであろう。母として息子の晴れ舞台を見物するところが限界である。

 そしてもう一人が、鶴岡八幡宮別当の公暁。千日講に入っているためこうした儀式に参加できないのはやむを得ない話であるが、鶴岡八幡宮を舞台とする儀式で鶴岡八幡宮のトップが姿を見せないのは異例とするしかない。このあたりは後の伏線となるのであろう。


 この拝賀式は鶴岡八幡宮を内裏と見立てて、京都における貴族の儀式を鎌倉で執り行うというものである。

 本来は、京都在住の貴族であれば毎日内裏に参内するものであり、内裏で政務を執り行うものである。拝賀式も内裏で新たな役職に任じられたときに内裏で執り行う儀式であり、京都にいない貴族の拝賀式についてはそもそも想定されていないものであった。

 ただし、ここで源平合戦期の福原遷都という先例が登場する。

 福原遷都時は京都在住の皇族や貴族のほぼ全員が福原に移住しなければならなくなったのだが、福原は最後まで首都機能の完成した都市でないまま、遷都そのものが白紙撤回されて皇族や貴族が平安京へと戻ったという経緯がある。福原京は首都機能が完成していないために、通常であれば新たな首都となった福原京で執り行うべき儀式を、かつての首都ではあるものも、今となっては一地方都市となった、という扱いになっている平安京で執り行うこともあったのである。

 源実朝はその先例を自分自身に適用したのだ。

 鎌倉在住の源実朝は内裏への参内ができない。そこで鶴岡八幡宮を内裏に見立てて、福原遷都時の貴族のように首都から離れたところで儀式を執り行うという構図である。

 なお、拝賀式は新たな役職に任命されたことを祝福する儀式であるが、新たな役職に任命されたあとで執り行う儀式はもう一つ存在する。

 初出仕だ。

 毎日の出仕は日常の光景だが、最初の出仕は拝賀式ほどではないにせよ、それなりの行列を用意して参内するものである。ここでも源実朝は京都での儀式を鎌倉で執り行うべく、拝賀式をそのまま利用して、初出仕という体裁で鶴岡八幡宮への参詣をしている。

 ただし、拝賀式と初出仕は参加者の性格が異なる。拝賀式は新たな役職に任命されたことを祝福する儀式であるため、左近衛大将源実朝に直接仕えているわけではない貴族も多く参列している。一方、初出仕は源実朝に直接仕える貴族や護衛の武士だけが参加を許され、拝賀式に参列した貴族達は内裏で初出仕を迎え入れる側になるか、あるいは、初出仕を見届けることなく内裏で日々の政務にいそしむこととなる。実際、拝賀式に参列した貴族のうち、藤原忠綱は建保六(一二一八)年七月一日に、平為盛や一条能氏らの貴族は七月五日に鎌倉を発って京都へと戻っている。

 初出仕が執り行われたのは建保六(一二一八)年七月八日のことで、拝賀式からそれなりに時間が空いているが、こうした時間のかかり具合はこの時代珍しいことではない。福原遷都時の前例を無理に適用させてはいるものの、実質的に史上初の出来事を執り行っているわけであるから、むしろ時間の短さを賞賛すべきであろう。

 以下が初出仕のときの行列である。

 まず、先頭に先払いの儀仗兵たちがいる。

 ついで貴族でもある御家人達が源実朝の乗る牛車の先導をつとめる。拝賀式では先に殿上人達がいたが、初出仕では殿上人達が後ろになり、武装した御家人達が馬に乗って先導を務める。なお、ここは拝賀式と同様に基本的に二人一組であり、その順番も拝賀式での順番に似ている。

 伊賀仲能と三条親実。ここは拝賀式と同じである。

 毛利季光と美作朝親。ここは左右が入れ替わっている。

 足利義氏と右馬助範俊。拝賀式では、蔵人大夫国忠と足利義氏、右馬助範俊と北条時房という組み合わせであったのと、三番手に中原季時と相模権守藤原経定の組み合わせがあったが、ここで大きく変わっている。

 北条時房と蔵人大夫有俊。

 源頼時と大江親広。

 そして最後に大内惟義が一人のみ。拝賀式ではここに北条義時がいたのであるが、初出仕時の北条義時は鶴岡八幡宮で源実朝を迎え入れる側になっている。本来なら源実朝の行列の一人であるべきであるが、貴族でもある北条義時が内裏で政務を行っているという体裁で内裏に見立てた鶴岡八幡宮にいることで、他の貴族が政務を執り行っているときに初出仕したという構図を鎌倉で再現している。

 この後に殿上人である長井時広、源仲章、一条信能が続き、その後ろに源実朝の乗った牛車が続く。源実朝が政務を執り行う前提で、源実朝の同僚として政務に協力する者が源実朝の前を行くという構図である。

 源実朝の乗る牛車のあとは朝廷から派遣されてきた警備兵が続き、行列の最後は武装した御家人達が二名一組で並ぶ。

 長江明義と三浦義村。

 伊豆頼定と浅沼広綱。

 北条泰時と筑後朝重。

 安達景盛と土岐光行。

 この八名の並びは拝賀式と少し順番が違うが、これは既に高齢である長江明義への配慮の結果である。牛車のすぐ後ろに誰が来るか、特に左に誰が来るかはそのまま御家人の序列にもつながる話であり、これまで鎌倉幕府に長く仕え、陰に日向に奮闘してきた高齢者に、一族の誉れとなる栄誉を与えるべきという三浦義村の言葉を受け入れたためにこのような順番となった。


 初出仕の日、北条義時は行列に参加せず鶴岡八幡宮で源実朝を待ち受ける側になっていたのは先に記した通りである。

 ではこのとき、北条義時は鶴岡八幡宮で何をしていたのか?

 何もせずに時間を潰していたのではない。

 鶴岡八幡宮と幕府御所のある大倉の地を眺め、新たな公共事業を始めることを考えたのである。

 これが賛否両論を巻き起こした。

 吾妻鏡は同時代資料ではなく後に時代に書かれた歴史書であり、吾妻鏡の編纂者は当然ながら、半年後に何が起こるか知っている。その半年後の大事件の時に北条義時がどのような立ち位置にあったかも当然知っている。そのため、このときの北条義時の言葉は半年後の出来事を見越しての発言というより、先に半年後の出来事があって、それから北条義時の言葉を捏造したと考えるほうが正しいであろう。

 すなわち、夢に出てきた薬師十二神将のうち戌神が北条義時の枕元に立ち、今年の参拝は無事であったが来年は参拝には参加すべきではないというお告げがあったという北条義時の言葉を吾妻鏡の編纂者が捏造したといったところである。

 表向きはこの夢に見た言葉を踏まえての薬師像と御堂の建立である。

 しかし、実際には公共事業の一つである。

 鎌倉中を熱狂させた一大イベントが終わり、鎌倉市中に祭りの後の静けさというか、何とも言えない不況感が漂い出していたのである。この不況感を解消するために、北条義時は新たな御堂を大倉の地に建立することを考えたのだ。御堂による霊験を求める思いはゼロではなかったろう。しかし、重要なのは工事そのものである。工事をすることで失業を減らせば不況感は減るのだ。

 これが賛否両論を招いた。

 特に北条時房と北条泰時が猛反対した。

 拝賀式と初出仕の二度の行列のために京都からどれだけの人を招き入れたか、そのためにどれだけの負担をもたらしたか。しかもこの負担は鎌倉幕府の財政だけではなく、年鎌倉に在住する庶民一人一人の懐具合にも直結したのだ。確かにイベントによる需要喚起は成功した。需要に応える供給も生み出した。しかし、こうしたイベントによる一時的な需要喚起は反動がある。この反動が不況感の正体だ。

 北条時房も、北条泰時も、鎌倉にいる誰もが既に限界まで負担を引き受けている以上、ここで新たな工事を始めるのは負担を増すだけだと主張したのである。

 これに対する北条義時からの回答は単純明快である。

 全ての費用は北条義時が受けもつ。鎌倉幕府の財政にも手をつけないし、ましてや増税もしない。

 北条時房も、北条泰時も、北条義時のこの反論の前には黙り込むしかなく、北条義時は反対していた二人を無視して御堂建設に向けて匠(たくみ)、現在でいう大工を呼び寄せ、指図をした。この時代、指図というのは命令をすることではなく、設計図を提示することである。

 それにしても、北条義時という人は独裁と無縁であることを演じ続けてきた人であるが、あくまでもそれは演技だったのではないかと感じてしまうこのときのやり取りである。弟や息子に対する強権発動の範囲であるのでまだ妥協の余地はあるが、このときのエピソードの不自然さは、エピソードそのものが吾妻鏡編纂時に考え出された虚構であったと考えるべき内容になってしまっている。


 北条義時は政所別当と侍所別当を兼任している。

 政所はいい。政所別当は複数名おり、北条義時は複数名いる政所別当のうちの筆頭、すなわち執権であり、政所の最重要人物であることは認めねばならないものの、北条義時がいなくても政所は組織として機能する。

 しかし、侍所となるとそうはいかない。北条義時のもとに権力が集中しており、北条義時不在がそのまま侍所の機能不全に陥る可能性がある。侍所は、平時はともかく、戦時となったなら武士の配備について責任を負う組織となる。このような組織は複数の指揮命令系統が存在することは許されない以上、誰かのもとに権力を集中させなければならない。源平合戦期から別当をつとめていた和田義盛が源頼朝に仕える武士達を束ねる組織として侍所を構築し、組織を形成させていたことで問題発生を事前に食い止めていたのであるが、侍所別当が和田義盛の専任から政所別当北条義時の兼任に代わったことで、組織運営に支障が出る可能性が出たのである。

 北条義時に対する非難の言葉は多々あれ、独裁者という非難の言葉だけは該当しない。北条義時は、たとえそれが名目上の範囲であるにせよ、議論検討の末の判断であるというパフォーマンスを崩さない人である。

 ただし、自分のいないところで決まった話に黙って従うか否かは別問題だ。

 政所はいい。北条義時がいなくても他の政所別当達の議論の末の決断であるならば、北条義時とて従わざるを得なくなる。

 しかし、侍所となると話は別だ。幕府の人事や戦乱時の人員配置を司る職掌であり、また、都市鎌倉の治安維持も担当している。この職務において、侍所別当北条義時のいないところで勝手に決まった意見が侍所の判断であると公表されようものなら、北条義時個人の感情以前に、侍所の組織としての正当性が試される話になる。

 とはいえ、北条義時は一人しかおらず、その北条義時が政所別当を兼任している以上、北条義時のいない侍所のあり方はさすがに考えねばならない。北条義時不在時に侍所としての意見を表明できる仕組みを作り、事後承諾であるにせよ北条義時もその意見に賛意を示すというシステムを作り上げなければならないのである。

 建保六(一二一八)年七月二二日、侍所別当北条義時をサポートする職務である侍所所司、すなわち、次官が任命されることとなった。かつては和田義盛がトップである侍所別当、梶原景時が二番手である侍所所司という構図が存在しており、和田義盛と梶原景時の微妙なバランスのもとで侍所が成立していたが、その頃のバランスを、より安定した形で復活させることとしたのだ。

 梶原景時の頃と違うのは、侍所所司が五名という点である。北条泰時、二階堂行村、三浦義村、大江能範は、伊賀光宗の五名である。この五人が北条義時の直下に位置する侍所所司であるが、五名は対等ではない。まず北条泰時が他の四名より上に立ち、二階堂行村と三浦義村の両名が北条泰時を支えると同時に、御家人達の鎌倉幕府内における人事を司る。大江能範は将軍源実朝の側に侍ることで源実朝と大倉御所内の日々の雑事をサポートし、伊賀光宗は御所の外での御家人の統率を担当する。拝賀式と初出仕は極端な例であるが、いかに源実朝が鎌倉に留まる人生を過ごしているとはいえ、御所の中に閉じこもっているわけではなく、それなりに各所へ出掛けている。その際、源実朝と同行する御家人を選抜するのは伊賀光宗の役割だ。

 北条義時が侍所の政務にあたることができるならば、この五名の上に北条義時が別当として君臨する。しかし、北条義時が不在ならば、この五名の議論の末の決断が、侍所の意見となる。


 これまで源実朝が左近衛大将としての職務にあたっているところを描いていないではないかと思うかもしれないが、実際には職務にあたっている。ただ、武官のトップとしての職務と征夷大将軍としての職務は重なるところが多く、これまでの征夷大将軍としての職務がそのまま左近衛大将としての職務になったというところである。

 ただし、征夷大将軍と左近衛大将とでは権限が大きく違う。征夷大将軍はシビリアンコントロールを受けない代わりに征夷大将軍個人が集めた武人だけにしか命令権がない。しかし、左近衛大将となると、日本中の圧倒的大多数の武官に対する指揮命令権が発生する。左近衛大将の命令を拒否できる武官はただ一人、征夷大将軍だけである。源実朝が左近衛大将に就任したことで二つの権限が一人のもとに集中し、ここに絶大な権限を持つ武人でもある権大納言が誕生した。ここまでの武官の権限が一人に集中するなど前代未聞のことである。強いて挙げれば坂上田村麻呂、それも死後遺贈での名誉としての位階授受を踏まえた上での先例ということでようやく建保六(一二一八)年時点の源実朝に匹敵する先例となるが、これを先例とするには無茶がある。

 しかも、無理に先例として挙げることのできる坂上田村麻呂にしても、戦時であれば都を離れることはあっても平時であれば都にいる。平城京、長岡京、平安京と首都が移り変わっても都にいることに違いは無い。都にいて平時の政務に携わることができる。一方で、源実朝がいるのは都から遠く離れた相模国鎌倉だ。征夷大将軍という職務は実質的にはともかく理論上は軍事作戦遂行中の最高司令官であるから、左近衛大将を兼職としていても、源実朝が征夷大将軍であり続けるために京都から離れていることは法的問題を有さない。とはいえ、平清盛のいた摂津国福原ですら京都から距離があると痛感していたのに、平安京との距離は福原の比ではない鎌倉とあれば、日常政務における京都からの距離がもたらす問題が発生する。その問題を抱えた上で現状に対処するため、京都と鎌倉との間で書状を携えた使者のやり取りが活発化し、京都から左近衛大将源実朝に宛てての陳情や要望に応えて使者を京都に送り届ける光景が通例化するようになったし、その手間を減らす手段も鎌倉幕府としてかなり前から構えていた。

 実は、こうした陳情や要望の多くは左近衛大将ではなく征夷大将軍として対処可能な内容であることが多かった。すなわち、要望の大多数は犯罪対策や治安維持に関する内容であり、こうした要望については、鎌倉から六波羅に在駐する京都守護中原季時に対して命令を出し、中原季時は征夷大将軍源実朝の指令に従って、六波羅で用意できる鎌倉幕府の御家人達を集めて送り出すというシステムでどうにかなかった。

 平安京の敷地内に武装して入ることが許されるのは、律令で定められた朝廷の武官とその部下、そして、検非違使とその部下だけである。これまでは、京都守護からの指令があっても、六波羅に集められた鎌倉幕府の御家人達は、検非違使の誰かの指令、あるいは、朝廷の武官の官職を持つ誰かの指令に従うという図式でなければ、平安京の内部に武装して入ることは許されなかった。ところが源実朝が左近衛大将となったことで、源実朝が京都駐在の特定の御家人に命令を出す、すなわち、同一人物が同一人物に対して下す命令であっても、余計な手間がかからずに堂々と武装して平安京の内部を闊歩できるようになったのである。

 さらに、京都守護中原季時は左近衛大将である源実朝の部下でもあるから、中原季時は源実朝に問い合わせることなく、事後承諾を求める前提で独自の命令を発することが可能だ。ついこの前まで京都守護とは征夷大将軍の出先機関であったが、今や左近衛大将の出先機関である。京都で何かあれば六波羅の京都守護中原季時が動くという図式に変化はないが、中原季時の命令範囲は強大なものとなったのである。

 これにより、目に見えて平安京内の治安は改善された。

 犯罪対策や治安維持で有効なのは、犯罪に遭わないでいい社会を作り上げることである。犯罪に走った人の更正も大切であるが、犯罪に走ろうと考えている人に思いとどまらせることも重要である。それは犯罪だからやめろと忠告しても聞き入れない人はいるが、相手が武装をしていて、犯罪に走ろうものなら容赦なく命を奪うと宣言している相手からの忠告ならば犯罪を思いとどまらせる効果がある。話し合いの通用しない相手でも殴り合いは通用する。

 これは自分がやっていることが犯罪であると自覚していない相手に対しても有効である。建保六(一二一八)年九月二九日、比叡山の僧兵が暴れ回っているのを沈静化したという報告が鎌倉に届いた。

 僧兵達はおよそ二百年もの長きに亘って暴れるだけ暴れ続けてきた。名目はどうでもいい。重要なのは暴れることそのものである。

 このときの僧兵達が名目として掲げたのは、比叡山の末寺で働く船頭長の光安が、筥崎宮の現地預かり人である僧侶に殺害されたことへの反発である。犯人二名は逮捕され投獄されたものの、これで比叡安延暦寺の怒りが収束することはなく、筥崎宮そのものの取り潰しと、筥崎宮の所有する全領地の延暦寺への引き渡しを要求したのである。仲間が殺されたのだから怒りはわかるが、この要求はあまりにも過大である。

 要求を突きつけることまではまだいいが、本来ならば禁止されている武装をし、暴れ回り、後鳥羽上皇に要求を突きつけるとあっては大問題だ。しかも、彼らは自分のやっていることが犯罪だと認識していない。自分達を犯罪被害者であると認識しており、犯罪者に対する適切な処分と被害者に対する適切な賠償を求めているだけだと認識している。

 おまけに彼らは神輿を担いできている。

 僧兵問題の厄介なのはここだ。

 自分達は正義であると疑わず、自分達の元には神の意志があるとしている。抵抗することは無論、対処することそのものが神罰であるという彼らの主張は、現在ならばともかく、この時代は無視できない主張であった。

 後鳥羽上皇は直ちに北面武士と西面武士を集めて比叡山延暦寺の僧兵達を押さえ込もうとしたが、延暦寺の僧兵達は、日吉山王神社、祇園八坂神社、北野天満宮の神輿を担いで武装デモを展開している。延暦寺の本体だけでなく、延暦寺とつながりのある寺院や神社のうち京都に人員を派遣できる全ての寺院や神社に動員をかけたために、武装デモの規模は北面武士や西面武士にどうこうできる規模ではなくなっていた。

 ここで京都守護中原季時が動いた。六波羅で集めることのできる御家人を総動員し、左近衛大将源実朝の指令として、比叡山延暦寺の僧兵達の暴動を強引に鎮静化することとしたのである。

 源平合戦を戦い抜いた鎌倉幕府の御家人達の兼職も珍しくない西面武士はともかく、北面武士の多くは源平合戦と距離を置くことの多かったこの時代の認識の人である。

 神輿に対して何かしらの攻撃的姿勢を見せること自体が許されないことだという概念は消せずにいる人が多い中で、鎌倉武士の心情は良かれ悪しかれこの時代の最新のものだ。神輿を担いで神の威光を示していようと、敵であれば殲滅する。かの有名なマンガはこの時代よりもっと後の時代を描いたマンガであるが、「侍の本懐とは舐められたら殺す」はこの時代にも適用できるのだ。

 加藤光員、後藤基清、大友能直、佐々木広綱といった御家人達が家臣を率いて武装デモと向かい合っただけでなく加藤光員の息子の加藤光資は神輿を担いでいる男の腕を容赦なく切り落とした。神輿が血で汚れるなど本来ならばあってはならないと考えてきた人達には思いも寄らない話であったのだが、鎌倉武士にそのような概念など通用しない。神輿を担いでいようと敵は皆殺しというのが鎌倉武士だ。

 これに延暦寺の僧兵達は驚きを隠せず、血で汚れた神輿を捨てて比叡山へと逃亡することとなった。この一連の流れは恐ろしい光景であったが、溜飲が下がる光景でもあったのだ。


 建保六(一二一八)年一〇月八日から九日にかけて、朝廷は大規模な人事発表をした。

 メインとなったのは空席となっていた太政大臣位であり、太政大臣を復活させて内大臣三条公房こと藤原公房を昇格させることとなった。そして、後任の内大臣には権大納言源実朝の昇格で埋め、空席となっていた二名の大納言は久我通光こと源通光と西園寺公経こと藤原公経の二名の権大納言が昇格、権大納言の空席には土御門定通こと中納言源定通が昇格し、これまでの八名体制から六名体制へと移行。中納言の空席は姉小路公宣こと権中納言藤原公宣が昇格し、権中納言の空席には西園寺実氏こと参議藤原実氏が昇格する。

 それにしても、どうしてこのような大規模な人事の刷新があったのか?

 一〇月一〇日に中宮九条立子が出産したのである。

 一〇月八日時点で既に出産は秒読みとなっており、あとは無事に出産を終えるのを待つのみとなっていた。

 このタイミングでの人事刷新は通常であればあり得ない。それに、生まれてくる子が男児であるかどうかもわからない。しかし、後鳥羽上皇の強い意向により生まれてくる子が順徳天皇の後継となる男児であるという前提で人事を動かしたのだ。

 太政大臣は人臣の最高位であるが、空席であることが普通である職でもある。しかし、太政大臣が置かれなければならないシチュエーションは一つだけ存在する。

 それは、幼くして帝位に就いた天皇が元服するとき。

 皇族の元服は天皇による加冠が必須であるが、その天皇自身が元服を迎えるときはどうするのかという問題がある。

 その問題を解決するために考え出されたのが、天皇の元服時は太政大臣が加冠役を務めるという仕組みである。

 これはなかなかに巧妙な仕組みである。

 太政大臣は人臣最高位であること間違いないのだが、議政官の一員ではなくなるため議決に参加することができない。議政官から上がってきた採決結果に対する拒否権はあり、太政大臣が拒否権を発動したら議政官は再度議決するか、あるいは廃案としなければならない。ただし、拒否権発動は全て公表されることもあって、制度上の拒否権はあっても拒否権の実行はほとんどない。太政大臣に与えられている拒否権は伝家の宝刀である。ただし、抜かれることがない刀でもある。

 そして、この時代の官職に降格はほとんどない。少なくとも一度でも太政大臣に就いたならば、太政大臣であり続けるか、太政大臣を辞職するかのどちらかの選択肢しか残されていない。多くの場合は摂政や関白との兼任であるため太政大臣を辞職しても何の官職も持たない身となることはないが、稀に、太政大臣だけを職務とする人がいる。摂政や関白との兼任ができないまま太政大臣になった人である。このような人は、議政官の議決に対して拒否権を発動する権利を持った太政大臣であり続けるか、国政と何ら関わりを持たない元太政大臣となるかのどちらかしかない。

 これは平清盛や、古くは藤原兼通にも適用された例であるが、内大臣は議政官の一員であっても、左大臣や右大臣と比べてその職権は乏しい。つまり、さほど有能ではない人物、あるいは、朝廷にとって不都合な人物を朝廷の中枢から排除する方法として、まずは内大臣にし、その後で太政大臣へと出世させるという方策が選ばれることがある。出世を重ねた結果であるものの、実際には左遷だ。

 後鳥羽上皇は、次期天皇となる男児の出産に備えるという名目で人事の刷新をし、三条公房は出世という名の左遷を受けたのである。三条公房は御世辞にも周囲から快く受け入れられる人物とは言えなかった。傍若無人な振る舞いを繰り返し、言葉だけではない暴力も繰り返してきた人物である。現在であればパワーハラスメントとしてその振る舞いの惨さが新聞やテレビで叩かれ、ミームとなってネットを賑わせることになったであろうが、この時代はそのようなメディアなどないために、パワーハラスメントを繰り広げていようと責任を問われないままでいられた。血筋があるために朝廷の中枢にいることがやむを得ない人物について対処するためにこの時代にできたのは、内大臣を経て太政大臣にさせる方法だけだったのだ。

 後鳥羽上皇の執念は結実し、一〇月一〇日に中宮九条立子が生んだ子は男児であった。懐成親王、後の仲恭天皇である。


 三条公房を朝廷の中枢から排除するために、内大臣を経由して太政大臣とさせた。後任の内大臣は源実朝である。

 このように記すと、このように考える人もいるのではないであろうか。

 源実朝も排除される対象となるのではないか。

 後の歴史を知る人ならそうではないことはわかるのだが、その歴史的瞬間が訪れる前から源実朝は排除対象でないことは示されていた。

 比叡山延暦寺の大規模な武装デモがあったこと、左近衛大将としての源実朝の権限発動により強制的に沈静化させたことは既に記したとおりである。

 その後の比叡山延暦寺がどうなったかの知らせが届き、源実朝が左近衛大将であることのメリットが如実に示されたのである。

 僧兵による武装デモは、単に神輿を担いでデモに出かけるのではない。デモに出ている間、境内の様々な施設は封鎖されるのである。これは比叡山延暦寺に限ったことではないが、比叡山延暦寺のデモは比叡山だけでなく、周辺の関連する寺院や神社も全て封鎖されるのだ。このあたりはストライキ中に店舗や職場が封鎖される情景を思い浮かべていただければ、類似のものとしてご理解いただけるであろう。

 また、このときの強訴は計四台の神輿を出動させており、引き下がった後も神輿はなお担がれたままであった。記録に従えば、血で汚れた神輿も持ち帰ったこととなる。本来ならば不浄として扱われるところであるが、どのような理由を掲げたのか、血で汚れたはずの神輿が担がれた状態が続いている。おそらく血については拭い去ったか、あるいは部品交換や塗り直しでどうにかしたのであろう。

 今回のデモは神輿が担がれ続け、また、各種施設の封鎖が続いている限り、武装デモが続いているということになっているのだ。左近衛大将兼征夷大将軍源実朝の威光を背景とする鎌倉武士の活躍によって平安京内でのデモを強引に沈静化させたことで、比叡山延暦寺の内部だけなく、比叡山から離れたところにある延暦寺関連の宗教施設全体が混迷を極めることになったのだ。

 無理難題ではあるが既に要求を突きつけている以上、デモに同調する僧兵達は要求貫徹まで引き下がらないつもりでいる。

 かといって、デモに出向いた面々が鎌倉武士達にどのような仕打ちを受けたかを振り返ると、もう一度デモに出向くつもりにはなれない。より正確に言えば自分以外の誰かがデモに出て要求を満たしてもらいたいものの、自分が率先して武装してデモに参加するつもりにはなれない。

 そのため、比叡山延暦寺の僧兵達は、デモを宣告しておきながらデモに出かけず、延暦寺や関連寺社に籠もり、それでいて延暦寺や関連寺社の各種施設は封鎖され、神輿も出動した状態のままという中途半端な状態が続いている。

 デモを企画した側がこの問題を収束させる方法は二つあるが、そのうちの一つは実現不可能である。

 一つはデモの要求が全て受け入れられ完全勝利に終わったと判断すること。

 もう一つはデモが要求を取り下げること。

 前者は既に左近衛大将源実朝の手によって封じられた。

 ゆえに、デモをしている側のほうに要求を取り下げさせて通常に戻させるという選択肢しかない。

 ではどうやってデモを諦めさせるのか。

 建保六(一二一八)年一〇月一二日、延暦寺の幹部に相当する僧綱達が僧兵達に要求を撤回させることを確約し、延暦寺に向かって武装している僧兵達をなだめさせ、要求の白紙撤回を成功させた。

 ただし、これは理屈ではない。

 ここで要求を撤回しなかったら鎌倉武士が比叡山に襲撃を掛けるであろうと誰もが理解したのだ。その上で、鎌倉武士の襲撃を受けた比叡山延暦寺の迎える運命は、源平合戦期の東大寺や園城寺と同じとなるのもまた、誰もが理解するところであった。それに、比叡山延暦寺の者が犯罪被害に遭ったのは事実でも犯罪の実行犯は逮捕され収監されている。ここでさらに連帯責任を要求するだけでなく、その要求水準がとうてい許容できない代物であることもまた、僧綱達は理解している。

 ここで選べる策は、要求の白紙撤回しかなかったのだ。

 左近衛大将兼征夷大将軍源実朝が比叡山延暦寺の武装デモを完膚なきまでに叩きのめしたことは、僧兵の武装デモに苦しめられてきた平安京の庶民から拍手喝采を受けることとなった。


 上洛した際に北条政子が従三位の位階を得たことは既に記したとおりである。

 出家した北条政子に対して位階を与えることの是非についての議論に対しては、平清盛の妻で、壇ノ浦の戦いで安徳天皇を抱きかかえて入水した平時子の例を適用することで位階を与えることは問題なしとなった。

 と同時に、平時子の例を適用するなら従三位で良いのかという問題も出てきた。

 平時子が従二位となったのは、後に高倉天皇となる憲仁親王が立太子したことに伴うものであるが、平時子は高倉天皇の実母というわけではない。実母の姉である。後に娘を高倉天皇のもとに嫁がせ、高倉天皇との間に安徳天皇をもうけるが、位階という一点だけに注目すると、あくまでも立太子に伴う位階授与のうちの一環で従二位の位階を受けたのが平時子である。しばらくしてから平時子は天皇の祖母となったために絶大な権威を手にすることとなったが、平時子の位階と、平時子の絶大な権威とは無関係な話であったのだ。

 そして、朝廷は平時子の前例をどうにかしたいと考えていた。

 平時子が従二位の位階を得ていたことは壊すことのできない歴史の事実である。

 だが、天皇を抱きかかえて入水するという許されざる悪行に手を染めたのだ。しかも、三種の神器も一緒に入水させた。源平合戦の顛末に同情できるところもあるが、平時子の行動は理不尽とするしかなく、先例ではあってもむしろ壊すべき先例となる話であったのだ。

 ここで北条政子の位階を従二位に上げることは、北条政子にとってもメリットのある話であるが、もっと大きなメリットとして平時子を北条政子と同水準にまで下げるというのがある。平時子が天皇の祖母であるだけでなく従二位の位階も得ていたというのは平家の残党の誇りとするところの一つであった。

 平家の残党のうち原理主義に近い者は建保六(一二一八)年時点でもなお安徳天皇を正式な天皇と考えていたが、そこまでこだわってはいない者は後鳥羽帝以後の朝廷の位階や官職を受け入れている。位階や官職を考えたとき、鎌倉幕府よりも平家政権のほうが上だと考えていたからである。たとえば、平清盛が太政大臣であったことや、平重盛が正二位内大臣兼左近衛大将であったこと、平時子が出家した後に従二位の位階を得たことなどは、平家の残党の誇りとするところであった。それが、源実朝も平重盛と同じく正二位内大臣兼左近衛大将となったことで誇りの一つが崩された。

 これだけでも十分にショックな話であったのだが、北条政子が従二位になるとショックはより厳しいものとなる。誇りが完全に破壊されるのだ。

 北条政子は源実朝の実母であるが、皇室に娘を嫁がせているわけでなく、ましてや天皇の実の祖母というわけでもない。一応は平家の血筋ではあるが貴族社会の生まれというわけでもなく、貴族社会に生きる者として求められる素養も全く身につけていない。北条政子に与えられている敬意の源泉は、夫である源頼朝と、息子である源実朝とに付随しており、北条政子個人で獲得した敬意ではない。

 そんな女性が平時子と同じ地位に昇ったというのは平家の残党を絶望させるに十分であった。しかも、北条政子が上洛時にしたこと、より厳密に言うと何もしなかったことは京都内外の誰もが知っている。ゆえに、表向きは左近衛大将源実朝の実母という立場でしかない女性が平家の残党のプライドの一翼を担う平時子と同じ地位に昇ったことは、悔しさを隠せず、それでいて何ら対処できようのない出来事であったのだ。

 はっきり言うと、朝廷にしても、後鳥羽院にしても、北条政子が従三位であろうと、従二位であろうと、そこに大差は無い。従三位の位階を授与したことで殿上人の一人にカウントしうる身分を与えたときは特別待遇であったという認識はあったものの、従三位から従二位への昇叙となると、平家の残党を黙らせる以外に特別な認識はない。

 これは北条政子にとっても同じである。高い位階であることは悪くない話であるが、従三位以上であるか否かは重要であっても、従二位とまでは求めていない。平時子の先例を上書きしたいという朝廷の意向は理解できるから従二位への昇叙は快く受け入れたが、北条政子の心の内に浮かび上がった心情はそれ以上でもそれ以外でもなかった。

 この時点では誰も、このときの昇叙が鎌倉幕府を延命させる法的根拠になるとは考えていない。


 前年に鶴岡八幡宮の別当となった公暁についての動静はこの一年以上完全に消えていた。それも、鶴岡八幡宮であれだけの祭典を開催したにもかかわらず、鶴岡八幡宮別当の姿が見えないという異常事態が起こっていた。

 その公暁の動静がようやく判明したのが建保六(一二一八)年一二月五日のことである。その三日前、北条義時が建立を命じた大倉新御堂の薬師如来像の開眼供養が開催された。その開眼供養には北条時房、北条泰時、北条朝時といった北条家の面々だけでなく、二階堂行光、二階堂行村、加藤景廉らも参列している。そして、この時代の鎌倉で集めることのできる数多くの僧侶が参加し、特に経典や願文を渡す役は鶴岡八幡宮の僧侶である頓覚房良喜が担当した。

 だが、ここに鶴岡八幡宮別当の公暁はいない。

 公暁の動静が伝えられたのは、公暁が鶴岡八幡宮寺で籠もったまま出てこないこと、いくつもの願掛けをしていること、そして、僧侶でありながら髪を伸ばしっぱなしにしているという三点である。ただし、全てが伝聞であり実情とは言い切れない。

 確実な証拠として残っているのは、白河義典を使者として伊勢神宮へ奉幣のために派遣したことである。確実な記録として残っているのはこの一件のみであるが、その他にも数多くの神社に代参させているという伝聞は届いた。

 まったく、公暁が鎌倉で何をしているかの動静がここまで伝わっていないのは異常とするしかない。もしかしたら残っていたのかもしれないが、翌月に公暁が何をしたのかを考えると意図的に記録を破棄したのかもしれない。

 公暁の記録が残っていないのは事実であるが、公暁の関係者の記録として残っているのが一つだけ存在する。時間は遡るが、およそ三ヶ月前の建保六(一二一八)年九月一三日の夜、鶴岡八幡宮で一つの騒ぎが起こった。稚児と若い僧が美しい月を眺めようと歩き回っていたことを見つけた宿直当番の者がこの二人を咎めたところ、夜間にうろつくことを反省するどころか反発し、乱闘騒ぎへと発展してしまったのである。翌日に実況見分として金窪行親を鶴岡八幡宮に派遣したところ、前夜の乱闘事件に関わった稚児が三浦義村の息子の駒若丸であると判明した。

 駒若丸は幼少期に鶴岡八幡宮に預けられた後、公暁が鶴岡八幡宮の別当となるべく鎌倉に到着してすぐに公暁の門弟となった少年である。本来は僧侶となるべく修行をしている身であり出家していてもおかしくはなかったのであるが、彼はまだ出家しておらず稚児の格好であった。現在の学齢で行くと中学一年か中学二年といったところであり、この時代の寺院にはこれぐらいの年齢でまだ出家していない男児がいることは珍しくない。

 彼らは寺院の中で一つの役割を背負わされている。

 女人禁制である寺院において、あたかも女性であるかのような役割をさせられているのである。師である僧侶の忠実な弟子というより事実上の配偶者ともいうべき関係になっている少年も珍しくなく、この時代、一定以上の地位にある僧侶は幼い少年を自分の愛人として囲っていることのほうが普通で、そうでない僧侶は異常者扱いされているほどであった。

 そして、駒若丸は公暁の愛人でもある稚児であったとされているのだ。

 このときの乱闘騒ぎを契機として駒若丸は大倉御所への出入りを禁止されたが、千日講を続けている公暁に会うことのできる数少ない人物のうちの一人であることに違いはなく、そして、駒若丸だけは鶴岡八幡宮別当の公暁と、実父である三浦義村との間を自由に行き来できる人物であり続けている。

 先に記した公暁の容貌について記録に残ったのも、駒若丸が語ったからである。


 ではなぜ、このタイミングで公暁の動静が出たのか?

 この頃、一つの噂が広まっていたからである。

 源実朝がさらに出世するという噂である。

 この噂は、建保六(一二一八)年一一月一一日に左大臣九条良輔こと藤原良輔が三四歳という若さで命を落としたことに始まる。

 九条兼実以降、藤原摂関家のうちの九条家は、九条兼実の長子の九条良通が文治四(一一八八)年に二二歳という若さで亡くなった後、次子の九条良経が摂政太政大臣にまで上り詰めるも元久三(一二〇六)年に三八歳で亡くなり、九条良経の死後は九条良経の子の九条道家が若き俊英として朝廷内でその名を轟かせるようになっていた。ただし、いかに実父が摂政太政大臣であった人物であるとは言え、父を亡くしたときの九条道家は権中納言。藤原摂関家の人物でなければかなりの出世であるが、藤原摂関家の人物である以上、権中納言では役職が低すぎて話にならない。それに、父を亡くしたときの九条道家はまだ一四歳だ。中でいかに争っていても外に対しては一枚岩になる藤原氏の特性はとっくに過去のものとなっており、同じ藤原を姓としていても、近衛家と九条家とは全くの別の氏族と言っていいレベルにまで分断されている。九条家としては、いかに九条道家が若き俊英として名を馳せていようと、一四歳の権中納言を九条家のトップとして掲げ、九条家として朝廷内に権勢を掴み取るなどできようがない。

 そのため、元久三(一二〇六)年以降の朝廷内における九条家の代表格となっていたのが、九条道家の叔父の九条良輔である。九条良輔は間違いなく九条兼実の息子なのだが、正妻の子ではなく庶子であった。ただし、身元不詳の女性から産まれたわけではなく、九条良輔の母は高階盛章の娘である。八条院暲子内親王に仕えていた女性から生まれたこということもあり、幼くして八条院暲子内親王の猶子となり、九条家の一員でありながら八条院暲子内親王の朝廷内における代理人ともいうべき存在になっていた。なお、愚管抄の中で慈円は甥でもある九条良輔のことを、日本国の古今に比べる者のないほどの学者であるだけでなく、左大臣として朝廷の首席にあり、国の重宝であったとまで評している。ただし、九条良輔が九条兼実の子であることと、九条家の一員であることまでは認めていても、九条兼実の後継者の一人としては見做しておらず、八条院暲子内親王とのつながりのほうを強調している。慈円のこの姿勢を重要視する研究者の中には、藤原良輔のことを九条良輔ではなく八条良輔と記すべきとする人もいる。

 本作は人口に膾炙して藤原良輔のことを九条良輔と書き記すが、左大臣九条良輔が建保六(一二一八)年一一月に三四歳という若さで命を落としたのは、再び流行しだした天然痘によるものであった。細菌やウィルスという概念が存在しないこの時代でも、天然痘が空気感染する病気である一方、感染によって一生身体に残り続ける痕が残ったにしても、命を落とすことさえなければ身体に抗体ができあがることは知られており、天然痘の流行が観測されたとき、天然痘に罹患した人は他者から離れ、これまでの人生で一度も天然痘に罹患したことのない人は他者との接触を避け、他者との接触は天然痘罹患経験の有無で分断することが生活の知恵としてできあがっていた。これは貴族社会だからできる贅沢でもあったのだが、天然痘に罹患した九条良輔のもとには、かつて天然痘に罹患しながら命を落とさずに済んだ人が仕えるようになったのだ。

 そのために、他の天然痘患者には許されない贅沢、すなわち、臨終の言葉を伝えることが許された。自分はもう間違いなく死ぬであろう。見苦しい者でありながら、これほどの地位に就いたのであるから、憂喜集門という言葉は自分にも当てはまっている。「憂喜集門」とは、良いことも悪いことも幸運なことも不運なことも全て分かちがたく結びついているという意味であり、それが左大臣九条良輔の最期の言葉であった。


 左大臣が亡くなった。それも予期せぬ形での突然死である。

 これはそう遠くない未来に、一〇月初頭と同等の、場合によっては一〇月初頭を越える規模の大規模な人事改変があると予期させるに十分であった。

 かつては左右の大臣のどちらかが年単位で空席であり続けることもあったが、この頃になると左右の大臣のどちらかが空席なのは例外的に長くてもせいぜい数ヶ月、通常は一ヶ月と経たずに左右の大臣とも埋まるようになっていた。空席ができたら問答無用で空席を埋めなければならないほどに、位階はありながら何の役職にも就けずにいる者が多かったのだ。

 建保六(一二一八)年一一月一一日に左大臣九条良輔が亡くなってから一ヶ月も経たない一二月二日、噂に上がっていた大規模な人事の入れ替えが公表された。

 九条良輔の死によって空席となった左大臣には、二六歳の右大臣九条道家が昇格。後任の右大臣には二七歳の内大臣源実朝が昇格。新たな内大臣として摂政近衛家実の息子でこの時点で一五歳である権大納言近衛家通が父の権勢を背景に二人の大納言、四人の権大納言を追い抜いて抜擢され、ここに、三人の大臣の平均年齢が二三歳という、異例中の異例の若さの三人大臣体制が成立した。ちなみに、摂政近衛家実と太政大臣三条公房はともに四〇歳と、平均年齢二三歳の三人の大臣に比べれば歳上であるものの、こちらもやはり、これまでの摂政関白や太政大臣に比べれば若い二人である。

 源実朝が右大臣に昇格したという知らせが吾妻鏡で確認できるのは一二月二〇日のことである。ただし、この日に右大臣昇格の連絡が鎌倉に届いたというわけではない。いかに冬季ということで道路網に支障が出ていようと京都から鎌倉まで一八日間も時間を要するわけはない。吾妻鏡に記録に残ってはいないものの、これより前、それもかなり早い段階で京都から鎌倉まで知らせが届いていたはずである。

 何しろ、一二月二〇日のこととして吾妻鏡の記録に残っているのは、源実朝が右大臣としての政務をこの日に執り行ったことなのである。厳密に言うと右大臣としての初の政務であり、初政務を祝しての儀式的側面について記した記事であるので、一二月二〇日には右大臣になったという知らせがとっくに届いており、その上で、鎌倉に留まったまま右大臣としての政務をする方法を模索し、一二月二〇日にようやく、鎌倉幕府の御家人達、また、鎌倉にいる文人官僚達を招いて右大臣としての政務開始の儀式を執り行えるようになったというところであろう。

 また、右大臣としての政務開始と並行して、左近衛大将就任時と同等の規模で鶴岡八幡宮参詣の準備が始まった。鎌倉に住む人達にとっては一生に一度目にできるかどうかの一大イベントを立て続けに二度も目にできる滅多にない機会となるし、滅多にない機会であるというのは源実朝と同行して鶴岡八幡宮に参詣する御家人や文人官僚達も同じである。違うのは、左近衛大将就任を祝福する拝賀式が六月末であったのに対し、今回は年明けの一月に開催することぐらいである。

 一生に一度あるかないかの式典を人生で二度も体験できる。このことは、建保六(一二一八)年一二月の鎌倉に住む全ての人にとって特別な感情を抱かせることとなるはずであった。

 だが、その特別な感情は別の特別な感情で上書きされることとなる。

 一生に一度あるかないかどころか、日本の歴史を激変させる出来事の舞台となるのだ。


 年が明けた建保七(一二一九)年一月は不吉な出来事から始まった。

 まず、一月七日の夜に御所近辺の大江広元の屋敷の近くで火災が発生し、およそ四〇軒の家屋が焼失した。

 さらに、一月一五日の真夜中には、御所のある大倉の辺りで火災が発生し、足立遠元の娘で北条時房の妻である女性の住まいをはじめとする数十件の家屋が火災被害に遭った。

 その後、頻発した火災の火を消すように鎌倉は大雪に包まれた。源実朝の右大臣就任報告の拝賀式のために、京都から続々と貴族や使者が到着していたが、彼らは一様に雪に苦しめられながらの鎌倉到着であった。

 その中には源実朝の正妻の兄である権大納言坊門忠信こと藤原忠信もいた。坊門忠信にとっては久しぶりの妹との面会であり、また、義弟である源実朝との面会でもある。源実朝は右大臣、坊門忠信は権大納言、この二人は本来であれば同列に並ぶことは許されない関係であるが、公的な場所ではともかく、私的な場所ではそのような堅苦しさはない。雪に覆われた御所では義兄弟の和気藹々とした雰囲気に包まれ、右大臣就任という特別に彩りを与えていた。

 鎌倉は雪の日と晴れの日を繰り返したため降り積もったまま放置された雪は徐々に固く積み重なっていた。拝賀式を開催する鶴岡八幡宮は石造りの階段を上って参詣する神社であるため、階段で滑って転ぼうものなら命に関わる。また、境内の至る所に固くなった雪が残っており危険である。雪国出身者であればどうということのない雪であろうと、雪に慣れていない人達にとっては雪が降っているときだけでなく雪の降り終えた後も危険だ。そのため、拝賀式に先立って右馬権頭源頼茂が鶴岡八幡宮に籠もり、できうる限りの除雪を担当した。

 なお、吾妻鏡の建保七(一二一九)年一月二五日の記録によると、この頃に不吉な出来事が連発したという。

 源頼茂が夢の中で鳩を杖で叩くと鳩が死んでしまい、目覚めたら本当に鳩が死んでしまっていた。

 源実朝の出発前に大江広元が涙を流し、右大臣としての正装である衣冠束帯の下に腹巻、腹巻と言っても昭和時代に見られた腹部を温める衣服のことではなく簡易な鎧を着けて行くべきと進言した。

 宮内公氏が源実朝の髪を梳いている途中で源実朝が自ら髪の毛を一本抜いて、「記念だ」と言いつつ宮内公氏に渡した。

 庭の梅を見た源実朝が縁起のよくない和歌を詠んだ。

 こういった凶兆は、カエサルにも、リンカーンにも、伊藤博文にもあったことで、いずれも後付けであることは共通している。探せばおそらく安倍晋三にもあったと言い張るのがいるだろう。

 そのような後付けの凶兆など何の関係もなく、運命の一月二七日を迎える。


 建保七(一二一九)年一月二七日、雪が降る中で源実朝の拝賀式が始まった。大雪となったために、およそ二尺、メートル法にすると六〇センチもの雪が積もった中での拝賀式である。源頼茂が前もって雪を取り除いていてくれていたために歩きづらさは最悪を脱することができていたが、それでも万全というわけにはいかなかった。

 酉刻というから現在の時制に直すと午後六時頃、左近衛大将就任時の行列を再現したかのような壮麗な行列ができあがった。午後六時といっても旧暦一月であり、現在でいうとだいたい二月中旬である。冬至を過ぎてだんだん夜が短くなってきているとは言え、もう日が沈んでいる頃だ。

 大倉御所から鶴岡八幡宮までの間はおよそ一キロメートル。この間をおよそ一〇〇〇騎もの武士が配備され、それぞれが松明(たいまつ)を手にしているため、夜でありながらこの時代にしては例外的に明るくなっている。左近衛大将の拝賀式のときとは違う厳粛な雰囲気は鎌倉市中の庶民を行列見物にかり出した。

 このときの行列を吾妻鏡は詳細に書き記す。

 先頭に馬の世話人である居飼(いかい)が四名。

 次に源実朝の近辺に仕え雑事をこなす舎人(とねり)が四名。

 その後ろに近衛府の武官である菅野景盛と検非違使である狛盛光が続き、そのあとで近衛府の三番手である武官の中原成能が続く。

 ここまでが武人の行列で、このあとは右大臣源実朝に仕える一〇名の文人官僚が二人一組で続く。

 一条能氏と藤原頼経。

 藤原実雅と源頼茂。

 一条信能と一条頼氏。一条信能は特別に四人の子を随臣として同行させている。

 一条能継と源師憲。

 伊賀隆経と源仲章。

 その後ろに笠を持つ前駈が続いたのち、鎌倉幕府の御家人達から選抜された二〇名の前駈が二人一組で続く。

 藤原頼隆と平時盛。

 中原季時と内藤朝親。

 藤原経定と蔵人大夫以邦。

 二階堂行光と蔵人大夫邦忠。

 長井時広と前伯耆守親時。

 足利義氏と北条時房。

 佐々木重綱と左馬権助範俊。

 右馬権助宗保と蔵人大夫有俊。

 源頼時と大江親広。

 大内惟義と北条義時。ただし、吾妻鏡によると北条義時は途中で腹痛を訴え行列から離脱している。また、ここでも京都守護の中原季時が姿を見せており、拝賀式に合わせて京都から鎌倉に到着していたことが読み取れる。

 この二〇名の前駈の後に朝廷から派遣された泰兼峰と毛野敦秀が続いて、ようやくここで牛車に乗った源実朝が登場する。源実朝の乗る牛車には、四名の牛車への付き添いと、一名の牛扱いの牧童が付き沿っている。

 この後ろに武装した一〇名の御家人達が二人一組で続いている。

 小笠原長清と武田信光。

 伊豆頼定と隠岐基行。

 大須賀道信と北条泰時。

 安達景盛と三浦朝村。

 河越重時と荻野景員。

 この一〇名は各が一名の兜持ちと一名の弓弦の張替持ちが近侍している。ただし、安達景盛は弓弦の張替持ちを同行させていない。

 この後に源実朝個人に仕える雑色(ぞうしき)が二〇名続いた後、検非違使である加藤景廉が続く。加藤景廉は検非違使として認められている最大限の装備をしており、本人だけでなく、平塵蒔太刀の舎人が一名、郎等が四名、調度懸と小舎人童が各一名ずつ、検非違使に仕える者で牢獄の管理や犯人逮捕の実務を司る看督長が二名、検非違使に仕える下級役人である火長が二名、検非違使に仕える雑色(ぞうしき)が六名、そして、かつては検非違使に逮捕され有罪となった者のうち、刑期を終えて今度は検非違使に仕えるようになった放免(ほうめん)が五名続く。

 次に、左近衛大将でもある源実朝の弓と矢を佐々木義清が肩掛けして運ぶ。

 そのあとで、身分の低い役人が六名、二人一組で並ぶ。

 秦公氏と秦兼村。

 播磨貞文と中臣近任。

 下毛野敦光と下毛野敦氏。

 いずれも身分が低いと言っても大和朝廷の頃から朝廷に仕えてきた旧家であり、時代が時代なら名門であった面々である。

 そのあとで公卿が五名続く。このあたりは京都で右大臣が執り行う拝賀式と同じ光景であり、一応は二人一組ではあるのだが議政官の面々でもあるため、それぞれがかなりの数の随臣を従え牛車に乗っている。

 権大納言坊門忠信と権中納言兼左衛門督西園寺実氏。

 参議兼左近衛中将藤原国道と八條三位平光盛。

 そして五人目に藤原宗長。

 このあとで、残る鎌倉幕府の御家人達が二人一組で続いていく。

 加藤光員と二階堂行村。

 阿曽沼広綱と葛西清重。

 関政綱と布施康定。

 小野寺秀通と伊賀光季。

 天野政景と武藤頼茂。

 伊東祐時と足立元春。

 市河祐光と宇佐美祐長。

 後藤基綱と宗孝親。

 中条家長と佐貫広綱。

 伊達為家と大江範親。

 紀実平と源季氏。

 塩谷朝業と宮内公氏。

 若狭忠季と綱島俊久。

 東重胤と土屋宗長。

 境常秀と狩野光廣。

 これで行列が終わる。


 参詣の儀式が終わり、すっかり日も暮れて鶴岡八幡宮の階段を降りた源実朝のもとを一人の僧兵が近づいてきたと同時に、源実朝の近くにいた者は信じられない言葉を聞いた。

 僧兵の発する「ヲヤノ敵(かたき)ハカクウツゾ」という言葉だ。

 その僧兵は刀を振り下ろし、源実朝は一瞬にして首を切り落とされた。さらにその僧兵は北条義時にも攻撃を加えようとし、源実朝のそばにいた源仲章と源師憲にも襲いかかって命を奪った。

 誰もが突然のことで動転した。しかも、右大臣としての参詣であるために源実朝の周囲にいるのは武芸の稽古とは無縁の貴族ばかりであった。そのため、本来であればこのような事態にただちに駆け寄れって対処できる御家人達も、目の前で慌てふためく貴族達が邪魔をして立ちふさがってしまっているという構図となってしまい、犯行に手を染めた僧兵は源実朝の切り落とした首を持ったままの逃走に成功してしまった。

 それにしてもなぜ、源実朝の周囲は武芸の稽古とは無縁の貴族ばかりになってしまったのか?

 吾妻鏡では途中で北条義時一人だけが腹痛を訴え行列から離脱したとしているが、これは吾妻鏡を編纂したときに挿入された逸話であろうというのが研究者の指摘である。詳細は後述するが、愚管抄をはじめとする他の記録によると御家人全体が行列から離脱していたのだ。源実朝より中門に留まるよう指示を受けたため、御家人の大部分が行列から外されたというのが吾妻鏡以外での記載である。

 この時点ではまだ僧兵の正体が判明しておらず、鶴岡八幡宮はこの時代の他の寺院や神社と同様に内部に僧兵を構えている宗教施設であるため、殺害の実行犯は鶴岡八幡宮の僧兵の一人と見られていた。そのため、混乱の中からようやく犯人追撃のために御家人達が動けるようになったときに御家人達が向かったのは、鶴岡八幡宮内の僧兵の宿舎であった。

 僧兵達は鎌倉武士達の突然の攻撃に驚きを隠せず、抵抗したものの鎌倉武士の前には全てが無駄な抵抗であると悟り、僧兵達は降伏を選んだ。ただ、ここに殺害実行犯の姿はなく、鎌倉幕府の御家人達は徒労に終わったことに落胆した。

 実行犯の正体が判明したのはこのあとである。

 犯人は鶴岡八幡宮別当の公暁だというのだ。鶴岡八幡宮のトップがやらかした不祥事というだけで済む話ではなく、源実朝の甥であり、前将軍源頼家の実子である人物が源実朝を殺害した、しかも、源実朝の首を切り落とし、首を抱えて逃走したというのだから、これはただ事ではない。

 しかも公暁は、自分が大胆なことをしたという自覚があったものの悪事に手を染めたとは微塵も思っておらず、何なら自分は正しいことをしたという確信もあったため、源実朝の首を抱えたまま備中阿闍梨の雪ノ下の北谷の屋敷へ向かい、源実朝の首を抱えたままそこで夕食にありついたという。その上、公暁の乳母の子である弥源大兵衛尉を三浦義村の所へと向かわせた。将軍が死んだので次の将軍を自分にするようにという連絡を伝えるためである。なお、三浦義村の息子の駒若丸が公暁の門弟になっていることのツテで公暁は三浦義村に連絡を入れたという話もあるが、この時点での駒若丸の動静は記録に残っておらず、どうやらこの時点の駒若丸は公暁から少し距離を置いていたようである。

 たしかに行列を構成する面々をどれだけ探しても、鎌倉幕府の有力人物である三浦義村の名は見つからない。この点を大々的に注目する人もいるものの、この件についても研究者は冷淡である。前年の左近衛大将就任の拝賀式において失態を演じて行列を遅らせてしまったこともあり、このときは前回の責任を取る意味もあって三浦義村は参加せず、息子の三浦朝村を参加させていたのである。このような形での不在は珍しい話ではない。

 理由はどうあれ拝賀式から外れた三浦義村は自由に動ける身であるが、自由に動ける身であることと公暁に同調するとは一致しない。

 三浦義村はただちに公暁から連絡が来たことを北条義時に伝えると同時に、公暁がどこにいるのかの情報も北条義時のもとへと届け、北条義時は即座に集められるだけの者を集めて対策を協議し、公暁討伐を決定した。

 一方、公暁は三浦義村のもとから援軍が来ると思っていたのだがなかなか姿を見せず、しびれを切らして三浦義村の邸宅に向かうこととし、その途中で三浦義村の派遣した軍勢と出会った。

 公暁はこの軍勢を目の当たりにしたとき、三浦義村が自分を将軍に就けるのをサポートするために派遣した軍勢と認識したようであるが、三浦義村の命令で出動した軍勢を率いていた長尾定景は、躊躇することなく公暁に襲いかかった。公暁は以前から武勇に優れた人物であるという評判であったが、長尾定景率いる軍勢の目には多勢に無勢であり、公暁は抵抗むなしく、つい先ほどの源実朝と同じく首を刎ねられた。

 長尾定景は公暁の首をいったん三浦義村の邸宅に持ち帰り、公暁の首を受け取った三浦義村は公暁の首を北条義時の屋敷へと運び込んだ。

 ただ、ここで問題があった。北条義時の屋敷の誰一人として公暁の顔を知らないのだ。公暁を自称したことと、鶴岡八幡宮の多くの者が公暁だと扱っていることから公暁の首だとしたが、確実に公暁の首であるという証拠はどこにもない。

 この段階では、おそらくこの人物は公暁の首であろうという未確定情報である。特に北条泰時はより正確な判断を下すべきと主張したことで、本人確認は翌朝まで延期となった。

 並行して、夜のうちに公暁の仲間を集めて監視下に置くよう北条政子が命令を下した。


 源実朝暗殺事件の翌日の建保七(一二一九)年一月二八日の早朝、鎌倉幕府は加藤景廉を鎌倉から京都への使節として出発させた。源実朝が亡くなったことを朝廷へ報告するためであり、通常ならば七日間であるところ、このときは特別に五日間で京都に行くように厳命しての出発である。

 同日の辰刻、現在の午前八時頃、源実朝の正妻である御台所が髪を落として出家をし、大江親広、長井時広、中原季時、安達景盛、二階堂行村、加藤景廉をはじめとする一〇〇名以上の御家人も源実朝が殺害されたことに心を痛めて出家を選んだ。その中の一人である中原季時は出家にあわせて京都守護を辞職した。

 また、源実朝は首を切り落とされただけでなく首を公暁に持ち運ばれてしまったために、源実朝の五体は揃っていない。この時代の仏教の様式に従えば五体が揃っていなければ埋葬が許されないため、首から上のない源実朝の遺体は埋葬することができない。そのため、拝賀式の前に源実朝が宮内公氏に与えた髪の毛を頭の代わりとして入棺することとなった。

 なお、公暁が持ち去った源実朝の首がどうなったか二一世紀の現在でも判明していない。

 伝承によると、鎌倉市から離れた秦野市にある御首塚(みしるしづか)に源実朝の首が埋葬されているという。三浦義村の家臣である武(たけ)常晴(つねはる)が源実朝の首の埋葬を任され、御首塚(みしるしづか)の近くに建立した金剛寺に源実朝の首を埋葬したという。御首塚(みしるしづか)は大正八(一九一九)年に調査が始まるまで荒れ果てていたが、調査によってかなり大きな邸宅がこのあたりに存在していたこと、その邸宅の北部に御首塚(みしるしづか)があることが判明した。これは源頼朝の墓所が大倉幕府の北に存在することを踏まえた対処であるともされる。

 ただ、どう考えても不可思議である。

 将軍の首が切り落とされただけでなく、伝承が正しければ三浦義村は少なくとも源実朝の首のありかについて知っていたこととなる。三浦義村は公暁が来たこと、そして、公暁がどこにいるのかについては北条義時に報告したが、どうして源実朝の首のことを報告しなかったのか。源実朝の埋葬は首のないまま進んだのである。あとで首が見つかったというなら埋葬しなおせばいいのだ。それなのに、鎌倉幕府として源実朝の遺体を五体満足に戻して埋葬したという記録がない。源実朝を殺害した人物を捜索した記録はあっても、源実朝の首を探したという記録がないのだ。

 そこで源実朝暗殺事件について調べてみると、そもそも源実朝暗殺計画そのものが不可思議の連発なのである。

 どうして北条義時は拝賀式を途中で離脱したのか。

 どうして三浦義村は最初から拝賀式の行列に加わらなかったのか。

 そして、源実朝の首はどうして全く探されなかったのか。

 あまりにも怪しい要素が多いために、多くの人がこの件について研究を繰りひろげている。


 何度も繰り返すが、吾妻鏡は鎌倉幕府の正史であるとは言え、後の時代に、それも北条家によって都合良く編纂された歴史書である。

 一方、この時代を生きた人が書き記した歴史書も存在する。神武天皇から書き始めているために一つ一つの出来事に対する記載はどうしても少なくなる上、筆者自身は京都とその周辺で生きてきたため、この時代の鎌倉のリアルな様相を知ることはできなかったが、それでも源実朝暗殺事件そのものを京都で体験した人の記録になっている歴史書が存在する。

 慈円の残した愚管抄だ。

 愚管抄によると、拝賀式のあとで鶴岡八幡宮の階段を降りている途中で僧兵の出で立ちをした何者かが源実朝の行列に襲いかかり、倒れた源実朝の首を切り落としたのを契機として、何名かの僧兵が行列に対して一斉に襲いかかってきた。襲撃犯らは松明(たいまつ)を持って行列の先頭に立って源実朝を先導していた源仲章を北条義時だと考えて殺害し、ただちに去って行ったというのが愚管抄に記された事件の情景である。なお、愚管抄には因幡前司師憲こと源師憲殺害についての記録はない。源師憲の殺害について記しているのは、吾妻鏡でも愚管抄でもなく六代勝事記である。

 話を愚管抄に戻すと、慈円は愚管抄で吾妻鏡の記載を全否定することを書いている。

 北条義時は腹痛を訴えて行列を途中で去ったのではなく、源実朝の命令で行列から外されていたというのだ。それも、行列から外されていたのは北条義時だけではなく、多くの武士が源実朝の周囲から外されており、源実朝の周囲にいたのは高位の貴族達だけであったというのである。

 拝賀式のことだけを考えると、これは正しい。北条義時をはじめとして、鎌倉幕府の御家人達の中には五位以上の位階を得て貴族の一員と列せられている者もいる。しかし、彼らの身分は公達(きんだち)ではなく諸大夫(しょだいぶ)である。右大臣である源実朝の周囲を固めるのは公達(きんだち)でなければならないのだ。慈円によると、源実朝が自分の周囲から武士達を遠ざけたことが理由でこのときの犯罪を食い止めることができなかったとしているが、それは公達(きんだち)だけを周囲に配備していた結果なのである。

 そうだとしても源実朝の周囲を警護する者はいたのではないかと考えるかも知れないが、場所と犯人を考えていただきたい。事件現場は鶴岡八幡宮であり、犯行に及んだのは鶴岡八幡宮別当の公暁だ。不審者が鶴岡八幡宮に近づかないよう、また、鶴岡八幡宮の中においても源実朝のもとに不審者が近づかないように警護はしている。それに、この時代の寺院や神社というものは僧兵を抱えているものであり、このようなときに僧兵が警護の隊列に加わるのはおかしな話ではない。また、警護の関連で僧兵が持ち場を離れることもおかしな話ではない。被警護者の安全を守ることが最優先であり、持ち場を守ることよりも安全を高めることのほうが優先される。

 つまり、周囲にいるのは公達(きんだち)だけで、北条義時をはじめとする御家人達は、いかに貴族の一員であろうと、諸大夫(しょだいぶ)であるために源実朝の付近に近づけないものの、源実朝の行列の警護そのものは成立していたのである。計算外であったのは、警護の一翼を担っている僧兵の一人に扮した公暁がいたこと、そして、警護の一翼であるはずの者が源実朝に襲撃を加えたことである。

 慈円によると事件発生の瞬間から少しの間、鎌倉幕府の御家人達の多くは事件を知らなかったという。事件の一部始終を目撃したのは源実朝の周囲にいた公達(きんだち)の貴族達であり、事件についての目撃情報、そして、犯行時に公暁の口にしたセリフといった内容は、現場にいた貴族達の証言が一致している。

 そのあと、慈円は気になることを書いている。

 源実朝の首は雪の中から探し出され、公暁が住まいを構えていた鶴岡八幡宮内の若宮房という住まいは北条義時の軍勢に攻め込まれたというのだ。これにより、公暁とともに暗殺計画に加担していた者の全員が討ち取られたというのである。

 ただし、源実朝の首を切り落とした公暁が源実朝の首を持って三浦義村のもとに向かったこと、公暁を討ち取ったのは三浦義村指揮下の者であったことは吾妻鏡の記述と一致している。

 源実朝暗殺事件についての同時代史料でもある愚管抄は、慈円自身が体験したことではないが、鎌倉でこの事件に直面し、また、鎌倉でこの事件の詳細を耳にした貴族達からの聞き取りの結果である。情報の不鮮明さは否定しないが、この時代の京都で手に入れることのできたかなり高精度の情報であったろう。

 それでも、慈円にもどうしても理解できないことがあった。

 誰が一体何のためにこの大事件を起こしたのか?

 同時代の人でもわからないこの事件について、現在の研究者も様々な説を提唱しているものの決定的な説とは至っていないのが実情である。

 ここでは、こうした様々な説を検証してみる。


 まずは、北条義時黒幕説。

 愚管抄にその記載は無いが、吾妻鏡によると北条義時は拝賀式の直前で体調不良を訴えて離脱している。つまり、直前に危機を脱している。また、このあとの鎌倉幕府の展開を考えたときに、ここで源実朝がいなくなって利益を得るのは誰であるかを考えると、北条義時という答えが出てくる。事件を前もって知っているからこそ行列から離脱できて危機を脱したことに加え、公暁を殺害犯とすることで源氏将軍の血を事実上絶やすことに成功したのである。このあとの北条家が鎌倉幕府でどのような地位を確立したかを考えると、ここで北条義時が主導して源実朝を排除するだけでなく、源実朝の次に将軍となり得る源頼朝の子孫も排除することは、鎌倉幕府における北条家の勢力をよりいっそう強化するものとなるのだ。

 ただし、この説には難点がある。既に述べたように、この段階では源実朝の次の将軍として皇族の誰かに鎌倉に下向していただき将軍に就いてもらうという話が進んでおり、後鳥羽上皇も次期将軍の人選にあたっていたという。もっとも、皇族将軍が第四代将軍となるというのは未来の話のことであり、ただちに起こることを想定したものでもない。また、源実朝の退位も非現実的ではなく、源実朝退位後の将軍を想定しての者であっても、それもまた未来を想定してのことである。

 その上で記すと、源実朝が将軍位を退いた後の将軍が皇族の誰かとなった場合、新たな将軍は鎌倉幕府の代表というより後鳥羽上皇の傀儡となる。これは、既に右大臣となっている源実朝が鎌倉を離れて京都に向かった場合でも、源実朝が殺害された場合でも変わらない。

 承久の乱を知っているなら北条家が後鳥羽上皇と真正面から向かい合うことも想像できるが、建保七(一二一九)年一月時点の北条家は、とてもではないが後鳥羽上皇と向かい合うなど想定できない立場である。北条家のことを考えれば、源実朝が居続けてもらうことで後鳥羽院と関係性を持ち続け、その結果、鎌倉幕府はその権勢を維持し続けることができ、鎌倉幕府の権勢を維持し続けられるからこそ北条家も鎌倉幕府内の勢力を伸ばすことが可能となるのだ。ここで源実朝が亡くなることはメリットよりもデメリットのほうが大きい。

 それに、北条義時が黒幕であるとすると大問題がある。北条義時がどうやって公暁と連絡を取ったのかという点だ。北条政子は公暁から見て実の祖母であり、北条義時は大叔父である。家族としての接し方であるならば連絡は取れよう。また、北条家の権勢を考えれば使者の一人や二人を公暁のもとに送り出すことも可能だ。ところが、北条義時が何らかの形で公暁と連絡を取っていたことを示す記録が無い。単に吾妻鏡にそうした記録を採用しなかっただけとも言えるが、後述するように、千日講に入っている公暁と連絡を取るのは容易ではなかった。連絡が取れること自体が特記事項となるのが暗殺実行前の公暁という人であったのである。

 また、そもそも北条義時一人が行列から離脱したと記載しているのは吾妻鏡だけであり、愚管抄をはじめとする他の記録では北条義時を含むほとんどの武士が、源実朝の命令によって行列からの離脱を命じられている。北条義時黒幕説は、吾妻鏡の記載だけに基づけばどうにか成立する話であり、犯行によって誰が利益を得たのかを考えれば納得いく学説でもあるのだが、他の記録にも頼ると不完全部分の大きい説でもあるのだ。


 次に、三浦義村黒幕説。

 これは、公暁が源実朝を暗殺した後に北条義時を殺害しようとしたことから注目されている説である。

 三浦義村の行動はたしかに怪しい。そもそも拝賀式の行列に姿を見せてすらおらず、そのときは自宅にいたのだ。

 公暁が源実朝を殺害し、実際には源仲章であったが公暁の頭の中では北条義時も殺害したということになっている。ここでもし、源仲章ではなく本当に北条義時が殺害されていたならば、ここで一気に三浦一族の軍勢を蜂起させて北条義時亡き後の北条家を討伐し、公暁を第四代将軍として推戴することで鎌倉幕府内部の権勢を掴み取ることも可能であったというのが、三浦義村黒幕説の骨子である。

 源実朝を殺害したあとの公暁が追っ手を撒きながら三浦義村の邸宅へと向かっていったことを考えると、三浦義村の計画通りだったのではないかとさえ感じるのはおかしくない。

 また、重要なこととして、公暁の門弟である駒王丸が三浦義村の息子であったこと、そして、千日講の最中においても公暁と接することのできた数少ない人物のうちの一人が駒王丸であったことも忘れてはならない。公暁を巻き込んでの綿密な計画を立てるのは、北条義時にはできなくても三浦義村ならば可能だったのだ。

 その上で、公暁が北条義時の殺害に失敗したことで三浦義村は公暁を見捨てたとしたらどうか。また、源実朝殺害の実行犯として公暁を処分し、何食わぬ顔でシラを切り通したらどうか。

 以上を踏まえると三浦義村黒幕説も理解できなくはない。

 ただ、これらの視点もまた、黒幕として断定するには根拠が乏しいとするしかないのだ。

 実子の駒王丸が公暁の門弟の一人であることから、三浦義村が計画を事前に知っていた可能性はある。計画を知っていながら止めなかったのかと訝しげられそうであるが、冷静に判断していただきたい。鶴岡八幡宮のトップであり、また、源実朝の甥である僧侶が、叔父の右大臣昇格に伴う拝賀式で叔父を殺害するつもりだという話をして、いったい誰がその話を信用できようか。仮に計画を事前に知っていたとしても、実際に事件が起こったからこそ三浦義村の知った源実朝暗殺計画は事実であると判断できるのであり、事件が起こらなかったら三浦義村の理解不能な虚言として捉えられて終わるのである。

 三浦義村が拝賀式の行列に参加しなかったことは事実である。ただしそれは、事件を事前に知っているために危険を避けて行列に参加しなかったのではなく、この人は前年に失態を演じているために自分の息子を代理として参加させたのである。仮に事件を知っているために自宅に留まっていたとしても、何も起こらなければそれで問題なし、何か起こったならばすぐに動き出せるように待機していた、そう考えればまだ納得はできるものの、それより先に進んで、事件の黒幕であるから参加しなかったというのは考えづらいのである。


 三番目の説であるが、この説は信憑性こそ乏しいものの、これまでの源実朝の行動が完全に説明できてしまう新たな説である。

 それが、最長で足かけ一二年に亘る長期計画説。

 着目すべきは、源実朝の首が公暁によって持ち去られたまま源実朝が埋葬されたことである。首が見つかれば改めて埋葬すればいいのに再埋葬は執り行われていない。三浦義村が一時的に源実朝の首を取り戻したらしいという伝承はあり、慈円は愚管抄で鎌倉幕府が源実朝の首を雪の中から見つけ出したと記してもいる。しかし、誰かが源実朝の首を持参したという話も、源実朝の五体が揃ったので改めて埋葬しなおしたという話もない。三浦義村は公暁の首を持参しているのだから、源実朝の首を持参できなかったことの理由にはならない。

 ここで源実朝の人生を振り返ると、大きなポイントが二点ある。

 一つは承元元(一二〇七)年に天然痘に罹患して生死の境をさまよった過去があること。

 もう一つは、一度として京都に足を運ぶことが無いまま生涯を終えたことである。

 そしてこのタイミングで殺害され、首を持ち去られてしまった。

 首の無い遺体となってしまった源実朝は、首が無いまま埋葬された。源実朝の首を三浦義村の手で取り戻せていたという伝承、雪の中から源実朝の首を探し出したという愚管抄の記述、それでいて、現在に至るまで源実朝の首を埋葬されている塚が鎌倉から離れた地に存在していること。

 これらを考えると、そもそも殺害されたのは本当に源実朝だったのかという話に行き着く。この事件よりずっと前に源実朝は天然痘で亡くなっており、それからの源実朝は別人だったのではないかという説も出てくる。京都に行かなかったのも京都に行かないのではなく行くことが許されなかったからだとする説も出てくる。本当の源実朝が亡くなった後は源実朝の影武者が最長で足かけ一二年に亘って将軍を務めており、その人物をこのタイミングで殺害するだけでなく、首を切り落として首の無い遺体のまま埋葬することで、世間一般では源実朝が埋葬されたということにして、実際には正体不明の人物を埋葬したというのだ。

 源実朝とされた人物が出世することは問題ないが、鎌倉幕府の監視を離れることは許されなかった。そしてこのタイミングで右大臣となった。鎌倉に留まったまま右大臣に就いたことは異例では済まない異常事態であり、遅かれ早かれ源実朝とされた人物は京都に向かわねばならない。だがそれは、鎌倉幕府の目を離れることを意味する。鎌倉幕府の目から離れた瞬間に自らが影武者であることを公表するかもしれないし、天然痘に罹患してその痕跡を残しているはずの源実朝の顔に天然痘の痕跡がないことが見破られるかも知れない。仮にその影武者の顔に天然痘の痕跡がなかったならば、の話であるが。

 今までは源実朝の不在を源実朝の影武者でどうにかやりくりしていたが、もはやこれ以上はどうにもならなくなって、御家人達が共謀して源実朝とされた人物を殺害しただけでなく、ただちに埋葬した。ただちに埋葬したのは、そして、首を見つけ出しても再埋葬とならなかったのは、本来なら天然痘の痕跡が残っているはずの源実朝の遺体に天然痘の痕跡が無いことを悟らせないためではないかというのだ。

 ただ、この説はあまりにも突飛に過ぎるし、研究者も非現実的としている。


 研究者の中で有力となっているのは、原点である公暁単独犯行説である。

 深く考えるから黒幕を考えつくし、もっと深く考えるから源実朝影武者説が登場するのであり、そもそもの計画の杜撰さを考えると、最初から公暁が計画して犯行に及んだと考える方がまだわかるのだ。

 まず、公暁がどうして衆人環視のもとで犯行に手を染めたのかという点を考えねばならない。純粋に源実朝を殺害することだけを考えるのであれば、わざわざ衆人環視というシチュエーションで手を染めるのはリスクが高い。普通に考えれば邪魔される。いかに拝賀式が多くの貴族や御家人達に囲まれた行列であろうと、拝賀式の最中に源実朝が一人になる場面は存在する。たとえば、鶴岡八幡宮の本殿の奥深くで氏神に拝礼している場面というのは源実朝が一人で拝礼している場面でもあるだけでなく、本殿に入るにはいかなる武器の携帯も禁止される、それこそ護衛の者も立ち入ることは許されないほどであるから、文字通りの丸腰だ。

 一方、公卿は鶴岡八幡宮の別当であるから鶴岡八幡宮のどこにでも自由に姿を見せることができる。それは鶴岡八幡宮の本殿とて例外ではない。一人であるべき源実朝と対峙することもできるし、そのときに公暁が武器を手にしていたとしても、そもそも公暁は武器を持っているか否かをチェックする側の最高責任者なのであるからノーチェックで源実朝のもとに近寄れる。あとは計画を実行すればいい。

 それなのに、公暁はより困難な場面、すなわち、多くの人々の目に触れ、多くの人々の耳に聞こえる場面での犯行を選んだのである。

 これは理屈で考えるよりも、カエサルや伊藤博文、また、安倍元首相暗殺事件や岸田首相暗殺未遂事件、米国大統領選挙におけるトランプ候補暗殺未遂事件を思い浮かべてもらいたい。実際に発言するチャンスがあるか否かは別にして、衆人環視のもとで犯行に手を染めることに意味があると犯行者は考えるのだ。犯行に手を染めるだけでなく、自らの犯行の正統性を、あるいは自らの主張を訴える手段を広く訴えるチャンスと考えて犯行に手を染めるのである。

 愚管抄も、吾妻鏡も、公暁が源実朝を父の敵(かたき)と、あるいは親の敵(かたき)と叫んで犯行に手を染めていることを記している。また、そのときの公暁の言葉は多くの参列者の耳に届いている。叔父を殺害する、右大臣を殺害する、将軍を殺害するという許されざる犯行であるが、ここに親の敵討ちという側面が加わると、この時代の概念では一概に悪とは言えなくなる。曾我兄弟の敵討ちなどはその例だ。曾我兄弟が最後に迎えた運命は死であったが、公暁はここで、自分に世論の支持を身につけさせることで無罪放免を獲得するだけでなく、自分が第四代将軍として鎌倉幕府のトップに立てると考えたのかも知れない。

 さらに着目すべきは、被害者が源実朝ただ一人というわけではないという点である。実際には成功しなかったが、源実朝と一緒に北条義時の殺害にも成功すれば、父だけではなく兄の敵討ちにも成功したという風潮を作り出せる。ここで源実朝の代わりに自分が就くと同時に、北条義時の地位に三浦義村を就けるというアイデアを三浦義村に持ちかければ三浦一族の支援を得られるとでも考えたのであろう、公暁のことのきの行動は、源実朝ただ一人ではなく源実朝のすぐ近くにいる人物にも向けられている。源実朝と北条義時を同時に殺害するチャンスを狙うのであれば、公暁が犯行に手を染めたタイミングは理解可能なタイミングである。

 吾妻鏡は北条義時が急病で拝賀式から途中で離脱したとしている。それが北条義時黒幕説の一つの根拠になってもいるのであるが、実は、北条義時が拝賀式に参列していたとしても北条義時は難を逃れていた可能性が高い。どういうことかというと、犯行時刻と当日の天候を考えたとき、公暁らは北条義時に襲いかかることが難しかったからである。

 まず、犯行時刻は夜であるために遠くから人を判別するのは難しい。源実朝の所在は確認できても、源実朝の周囲を固める貴族や御家人達の中から北条義時を見つけ出すのは難しい。しかも雪の降りしきる中であり、記録によればおよそ二尺、メートル法にすると六〇センチもの雪が積もっていたことから、襲撃する側は身軽な行動などできない以上、襲撃前からターゲットに狙いを定めて一直線に向かっていかなければならない。

 吾妻鏡は何かにつけて行列の様子を細かく書き記しているが、そしてそれはこのときの拝賀式における行列も例外ではないが、なぜ行列を詳しく書き記しているかというと、行列に参加しているか否か、そして、行列に参加したならばどこに並んでいたかというのがそのまま御家人達の序列を示すのだ。

 そして、行列の中で鎌倉幕府の御家人達にとって最上位となっているのが源実朝の直前を歩く前駈であり、その中でも最後尾の左側、源実朝から見て左前を歩くのが御家人最上位である。実際、左近衛大将就任に伴う拝賀式では北条義時が御家人最上位として前駈最後尾の左側を歩いている。その先例を踏まえれば北条義時は源実朝の左前を歩いて行くこととなるのであるが、御家人の序列の根拠となっているのは鎌倉幕府内部の序列ではなく朝廷官職と位階なのである。最後尾の北条義時は右京権大夫、北条義時とペアを組んでいる大内惟義は前駿河守、京都においては珍しくもない官職であっても鎌倉の御家人にとっては例外的な高位だ。ただし、官職としては北条義時の方が上でも位階では大内惟義のほうが上である。大内惟義は正四位下であり、北条義時は従四位下である。このような逆転が起こっているとき、優先されるのは官職のほうであり、位階が下であっても北条義時のほうが序列は上となる。

 ところが、建保七(一二一九)年一月の除目で大内惟義は修理権大夫に就任した。これで官職としても大内惟義は北条義時と同格となり、既に正四位下の位階を得ている大内惟義は北条義時より格上となる。すなわち、源実朝の左前という御家人最上位は大内惟義ということとなり、北条義時は左前から右前へと序列を一つ落としたこととなる。

 ここまでは周知されていることである。つまり、源実朝と北条義時を同時に狙うのであれば行列の右側から一気に攻撃を仕掛けていくこととなる。このあたりは記録や伝承と一致する。すなわち、鶴岡八幡宮の大銀杏(おおいちょう)の陰に潜んで、拝賀式の拝礼を終えたあとの源実朝に向かって右側から襲いかかった。ところが、先に述べたように前駈の二〇名、実際には北条義時を除く一九名の御家人は源実朝から中門に留まるよう命令されたため、公暁らの襲撃のタイミングに不在であった。そして、源実朝の前を歩く前駈の御家人達がいないため、前駈の前を歩いていた一〇名の殿上人の中で最後尾に位置し、かつ、右側を歩いていた源仲章が北条義時と間違われて命を落とすこととなったのである。

 公暁の単独犯行説を主張する研究者が挙げる公暁の犯行動機としては、公暁自身が第四代将軍になることと、源頼家を殺害した真犯人への復讐を考えていたことの二つがあり、一方の動機のみであったのか、双方とも満たすことを目的としたのかについて説はさらに分かれる。それらを勘案してまとめると、公暁はまず、源実朝と、源実朝を支える北条義時を一度に討ち取り、三浦義村のもとに向かって三浦一族の軍勢を結集させて鎌倉幕府内部のクーデタを起こし、自分が鎌倉幕府第四代将軍になることを意図したということになる。

 公暁は源実朝の後継者の一人として計算され、鶴岡八幡宮別当の地位が用意された状態で鎌倉にやってきた。しかし、公暁を源実朝の後継者とする話はだんだんとしぼんできており、後述するようにこの頃の鎌倉幕府は京都から皇族の誰かを新たな将軍に招き入れようとしていたのである。公暁の立場で考えると、これではいったい自分は何のために鎌倉まで来たのかという話になる。

 公暁の頭の中では叔父の源実朝が父の源頼家を殺害したという筋書きになっており、その筋書きに従って凶行に及んだとするのは人口に膾炙されているところであるが、吾妻鏡にしろ、愚管抄にしろ、よく読むと公暁は親の敵討ちと宣言しているものの、そこでいう敵討ちが源実朝であるとは明言していない。暗殺事件において、公暁は源実朝を殺害して首を切り落とした後、源仲章らも殺害した後に逃走したことは記録に残っている。このとき、公暁は源仲章ではなく北条義時の殺害にも成功したと考えたのではなかろうか。北条義時が源頼家を殺害させたという話は元久元(一二〇四)年七月一八日に源頼家が伊豆国修善寺で何者かによって殺害された直後から北条義時が源頼家殺害の黒幕であるという噂が広く喧伝されており、公暁のメインターゲットは源実朝ではなく北条義時であったとするならば、まずは現役の将軍である源実朝を殺害し、次に父を死に追いやった北条義時に復讐をするという流れであったなら、話はスムーズに進むのである。


 源実朝が殺害されたとき、僧兵の風体をした者が複数名いたこと、そのうちの一人が公暁であり、公暁が源実朝を殺害して首を切り落とし、源仲章も殺害し、その後で逃走したことは判明している。

 また、三浦義村の差し向けた者によって、公暁だけでなく、公暁と行動をともにしていた風体の者が殺害されたことも判明している。

 何度も繰り返すが、公暁は鶴岡八幡宮の別当であった。いかに鶴岡八幡宮の中で孤立していようと、また、千日講に入っていて外との連絡を絶っていようと、組織図上、公暁の部下であった僧侶もいるし、千日講に入っている公暁の身の回りの世話をしていた者もいる。

 建保七(一二一九)年一月二九日から三〇日にかけて、鶴岡八幡宮に対する取り調べが行われた。

 そこで判明したのは、一人の僧侶としての公暁の現実であった。弁法橋定豪、安楽坊法橋重慶、頓覚坊良喜、花光坊専念、南禅坊良智といった鶴岡八幡宮の有力僧侶らは最初から公暁を相手にしていなかった。公暁とかかわりのある数少ない僧侶のうちの一人である和泉阿闍梨重賀は公暁の子分であったとの噂があったが、その噂は早々に否定された。公暁に同情したくなることを言ったのは勝円阿闍梨である。この人はかつて公暁に仏法を教えていた過去があったことは認めたものの、公暁の頭が悪すぎて何を教えても無駄だと悟って、それでも仕方なしに仏法は教えようとしたが、何の役にも立たなかったまま、この惨劇を迎えてしまったと嘆いたのだ。

 鶴岡八幡宮に対する取り調べを終えたのち、二月一日に北条義時が一つの布告を出した。鶴岡八幡宮はこれまで通り仏事や神事を執り行うこと。公暁と行動を共にし、源実朝暗殺計画に協力した僧侶は全て三浦義村によって討たれたため、これ以上は追及しないことを宣言したのである。

 ただし、鶴岡八幡宮に対する制裁を一つだけ加えている。

 厳密にいうと公暁が鶴岡八幡宮別当となったことで鶴岡八幡宮が得ていた特権を一つ剥奪している。

 それは武蔵国熊谷に持っていた鶴岡八幡宮の所領である。元々は熊谷直実の持っていた所領であったが、熊谷直実が的立役を辞退したことを咎めた源頼朝が所領を没収し、鶴岡八幡宮に所領を寄付していた。ただし、源頼朝からの寄付であろうと例外とはならず、鎌倉幕府から派遣された地頭が置かれ、地頭によって年貢の取り立ても執り行われていた。

 それが、公暁が鶴岡八幡宮別当に就任したことで一変した。地頭を置くことができなくなったのである。実際には公暁自身の言葉ではなかったものの、公暁が別当に就任してからの鶴岡八幡宮は、自分たちのトップが北条政子の孫であると宣言することで、どのような地頭が派遣されてきたとしても追い返すことができていたのである。

 この特権は建保七(一二一九)年二月二日に正式に剥奪され、鶴岡八幡宮の所領であろうと地頭が派遣され、今後は地頭による年貢徴収が他の所領と同様に執り行われることになると宣言されたのである。


 源実朝が殺害されてからの一連の流れにおいて中心を担っていたのは北条義時である。このときの北条義時は政所別当と侍所別当を兼ね、また、位階を有していることから御教書を発行できる権利も持っていた。そのため、建保七(一二一九)年二月時点で北条義時が各種命令を発行することについて法的な問題はない。

 とはいえ、源実朝が幼い頃とでは事情があまりにも違う。

 源頼家が病に倒れ源実朝が鎌倉幕府第三代将軍に就任したときは、源実朝がまだ位階の低い貴族であったものの近い未来に従三位以上の位階を得ることが確実視されており、北条義時が御教書を発行するのも源実朝が従三位に昇叙するまでの臨時措置とみなされていた。

 だが今回は、源実朝が亡くなった。しかも、その後継者がいない。これではどうやって鎌倉幕府を運営して行けばいいのかという話になる。

 事情が事情であるために少しの間は組織として存続できるであろう。だが、鎌倉幕府とはもともと上級貴族である源頼朝が三位以上の位階を持つ貴族のみに許されている権利を利用して成立させた組織であり、源頼家や源実朝は源頼朝の実子であり、また、源頼家にしても源実朝にしても自身が三位以上の位階にあるために鎌倉幕府を維持できていたのである。

 源頼朝の直系男児が一人残らずいなくなったわけではない。源実朝には一人の子もいなかったが、源頼家は四人の男児と一人の女児を残している。そのうちの長男の一幡は建仁三(一二〇三)年に比企能員の乱の渦中において六歳という若さで殺害されている。公暁は次男である。三男の栄実は和田義盛の乱の戦後処理の過程で建保二(一二一五)年に一四歳という若さで自害に追い込まれている。だが、四男の禅暁は存命であった。ただし、禅暁の生年は不明であり、建保七(一二一九)年時点の年齢も不明である。兄の年齢を考えると、父の死後に誕生したか、あるいは父が亡くなる直前に生まれたと考えるのが自然であろう。生まれたときにはもう次期将軍の候補から外されており、かなり早い段階で京都の仁和寺に預けられ出家しており、生母は三浦胤義と再婚したことが判明している。この禅暁を京都から呼び寄せて還俗させて第四代将軍とさせるアイデアは誰も考えなかったらしい。あるいは公暁と同じ轍を踏ませぬようあえて外したか、生母が三浦家に嫁いだことから北条政子をはじめとする北条家が睨みを利かせたか、禅暁が次に史料に登場するのはこのあと二回しかない。

 話を元に戻すと、鎌倉幕府を維持するためには、どうにかして三位以上の位階を持つ貴族を鎌倉幕府として用意しなければならなかった。あるいは、予定通り皇族の誰かを新たな将軍と任命し、鎌倉まで下向してもらうしかなかった。

 そんな都合の良い人物などいるはずがない、誰もがそう考えていたところで、都合の良い人物が見つかった。

 北条政子だ。

 彼女は従二位の位階を得ている貴族だ。三位以上の位階を持つ貴族のみに与えられている権利を利用した組織を維持するにあたって、恒久的ではないにせよ、北条政子を中心にすることで既存組織の維持が可能となる。出家している北条政子は征夷大将軍になることができないだけでなく、そもそも朝廷からの公的な役職を与えられることはない。無理に探せば奈良時代末期の弓削道鏡という先例が見つかるが、先例は先例でも繰り返してはならない先例であり北条政子に適用できる先例とはならない。

 また、いかに従二位の位階を持っていようと、北条政子を還俗させたところで北条政子を征夷大将軍とすることはできない。源頼朝以降の征夷大将軍とは、熱田神宮の宮司の娘からの母系の血統が求められている。源頼朝は熱田神宮の宮司の娘を母とする生まれであるが、北条政子は亡き源頼朝の妻であったことは事実でも、熱田神宮との血のつながりはない。三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であるからこそ征夷大将軍には権威が発生し、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)になる資格は熱田神宮との血のつながりが求められる。いかに源頼朝の配偶者であろうと、また、源頼家や源実朝の実母であろうと、北条政子は征夷大将軍になれない。

 源実朝の突然の死に慌てふためく鎌倉幕府にできることは、まずは一時的に北条政子を中心とする組織として鎌倉幕府を維持し、その間に新たな征夷大将軍を招き入れることであった。


 源実朝が暗殺された翌日の建保七(一二一九)年一月二八日に鎌倉を出発した加藤景廉が京都に到着したのは二月二日の午後である。通常、噂の伝播スピードは公式な情報伝達より早い。しかし、鎌倉から京都まで五日間で踏破するという異例極まりないスピードであったこともあり、源実朝暗殺の情報が京都に届いたのは加藤景廉の知らせが最初の知らせであった。

 源実朝殺害の知らせは一瞬にして京都内外を混乱に招いた。

 源平合戦は忘れることのできない悪夢であり、悪夢の末に手にした平和の具現化こそ鎌倉幕府であった。その鎌倉幕府のトップである将軍源実朝がいなくなった。しかも、源実朝の後継者がいない状態で源実朝がいなくなったのだ。これで誰が今後の未来に希望を持てようか。

 源実朝死去の知らせが京都に届いたとき後鳥羽上皇は水無瀬宮にいた。水無瀬宮の跡地を示す水無瀬宮址は現在の大阪府三島郡島本町にあり、近くを走る阪急京都線には水無瀬駅がある。関西地方に住んでいる方ならば大阪府の中でもっとも京都に近い地域の一つであると把握するであろうし、京都都市圏の一角であるというと納得してもらえる地域であると一方、水無瀬が京都の一部であると考える人は少ないであろう。あくまでも大阪府の一部であり、大阪府の中では京都に近い地域と捉えるはずである。

 この概念は今から八〇〇年前にも通用する概念である。現在の水無瀬は大阪府であり、この時代の水無瀬は摂津国である。そして、この時代の交通の利便性は現代の足下にも及ばない。この時代の感覚で言うと、いかに京都と近くても水無瀬は京都から離れた土地であるという認識が存在し、山城国ではないという一点で情報の遅延が生じる。

 実際、平安京から遠いだけでなく山城国でもないという理由で、京都に源実朝殺害の知らせが届いたときはまだ、後鳥羽上皇のもとに源実朝殺害の知らせが届かなかった。後鳥羽上皇が源実朝の死を知ったのは、鎌倉幕府からの正式な情報ではなく、大納言西園寺公経からの報告を受けてのことである。西園寺公経は鎌倉下向中である子の西園寺実氏からの急報を受けたため、一刻も早く後鳥羽上皇に教えねばならぬと考えて水無瀬殿に駆けつけ、後鳥羽上皇に源実朝の死を伝えた。これが後鳥羽上皇の元に届いた源実朝殺害に関する最初の連絡であった。

 後鳥羽上皇が水無瀬を発って京都に戻ったのは二月六日のことである。院御所となっていた高陽院殿に入り、陰陽師達を全員解任した上で、後鳥羽上皇自らが五壇法、仁王経法、七仏薬師法などを修して、国土安穏と玉体安寧を祈らせたという。なお、この段階ではまだ、源実朝の右大臣拝命による拝賀式に参加するために鎌倉に向かっていた貴族達の安否は不明であり、我が子から書状が届いた大納言西園寺公経は例外である。後鳥羽上皇は予期せぬ出来事に直面し、自分も含む多くの人が動揺すると見て、どうにかして動揺を沈静化することを試みた。先に挙げた祈祷はそうした沈静化のための行動の一例であり、現代人からすると、後鳥羽上皇は無意味なことをしていると感じるかも知れないが、この当時の人にとっては治天の君である後鳥羽上皇が国のために、そして国民のために祈りを捧げることで責任を取るとアピールすることは、動揺する世相の沈静化させる効果があった。

 なお陰陽師達を解任した理由であるが、源実朝の右大臣拝賀式が無事に完了するまで祈祷をさせていたからである。無事を祈っていたはずなのに無事に完了しなかったではないかと文句を言って解任させられたわけで、陰陽師達にしてみれば自分と無関係のところで起こった出来事で責任を取らされたのであるからたまったものではないが、それもまた陰陽師という職業に存在する現実であろう。


 京都に源実朝が亡くなったというニュースが届いたのが建保七(一二一九)年二月二日、この知らせを受けて後鳥羽上皇が水無瀬から京都に戻ってきたのが二月六日のことである。

 その間、鎌倉ではどのようなことが起こっていたかに着目すると、建保七(一二一九)年二月五日に、源実朝の右大臣就任拝賀式のために京都からやって来ていた上達部や殿上人ら等が京都へと戻っていったことの記録が見て取れる。

 これを単に貴族達が京都に戻っていっただけではないかと考えるのは浅慮に過ぎる。貴族達が京都に帰れるだけの安全がようやく確保できたということなのだ。これまで鎌倉に滞在していたのは源実朝殺害事件という大事件が起こっていたためであり、今に生きる我々はただちに物騒な鎌倉を離れて京都に戻るべきと考えるところであるが、この時代にその考えは許されなかった。

 京都もまた危険であるが、何より鎌倉から京都への道中が危険なのだ。

 公暁が源実朝を殺害し、公暁もまた捕えられ殺害されたが、この事件が鎌倉だけの出来事である可能性はどこにもなかった。鎌倉幕府に対する反逆と考えた場合、鎌倉で起こったような犯罪が道中でも起こるかもしれないし、京都に戻ってからも犯罪が起こるかもしれない。京都は検非違使が警察権を発動させて治安維持をどうにかさせてくれていることが期待できても、鎌倉から京都に向かう道中となると、その危険性は計り知れないものがあった。

 それに、源実朝、源仲章、源師憲の三名が鶴岡八幡宮で殺害され、その少し後に公暁らが殺害された後、少なくとも鎌倉市内に限れば事態は沈静化している。安全性だけを考えれば京都に向かうよりも鎌倉市中にとどまり続ける方がまだマシである。その後も鎌倉には続々と道中に関する情報は入ってきている。さすがに京都からの反応はまだだが、カレンダーを考えればやむを得ない。

 一方、京都の立場で捉えると、源実朝暗殺という誰もが想像しなかった大ニュースが届いたものの、京都から鎌倉に向かった貴族たちの安否がわからなくなっている。鎌倉に赴いていた息子からの手紙が届いた西園寺公経は例外であり、多くの者は安否不明状態にあったのだ。こうなるといかに鎌倉の方がまだ安全だと言っても、ずっと鎌倉に居続けることはかえって問題となる。

 新幹線や高速道路、飛行機などないこの時代、京都と鎌倉との間は基本的に陸路だ。源頼朝がいかに片道七日往復半月となるよう情報網の整備をしたといっても、それは鍛え抜かれた武士が馬を乗り継ぐことが前提の話である。貴族が陸路を移動するとなったら、それも、道中の安全性に懸念があるので慎重に移動しなければならないという制約があるならば、片道半月は要する。

 このようなときは、ある程度の期間に限ったとしても鎌倉に滞在し続け、京都へ戻るときは周囲を護衛で固めた上で、襲いかかられることのないように集団で移動するのが最も安全性が高い。無論、一日あたりの移動距離は短いものとなる。夜明け前から移動をはじめ日没後まで移動し続けるなどという贅沢はできない。朝日が昇って周囲が明るくなってから移動を始め、日没前には安全な場所に宿泊する準備を終えなければならないのである。なお、貴族達が宿泊している最中も護衛の武士たちは交替で徹夜の見張りだ。

 このような移動となったことの必要性は、奇しくも貴族達が京都へ戻って行った翌日に判明した。後鳥羽上皇が水無瀬から京都に戻ったのと同日の建保七(一二一九)年二月六日、鶴岡八幡宮別当の公暁が伊勢神宮に派遣した白河左衛門尉が、伊勢神宮に参詣して幣を捧げ終えて鎌倉に戻る途中、三河国矢作の宿場で公暁による源実朝暗殺と、その後の捕縛で公暁が命を落としたことを知り、自ら命を絶ったのである。彼の場合は純然たる神事に関する伊勢神宮への派遣であり、公暁による源実朝暗殺の片棒を担いでいるわけではない。しかし、公暁によって見出された者であることに違いはなく、公暁の破滅を悟って自暴自棄になる者が出たとしてもおかしくはなかったのだ。自暴自棄の矛先が自らの命に向かったから被害者は本人一人で済んだが、矛先が京都へ戻る途中の貴族達に向かったら、被害者は一人では済まなかったであろう。


 建保七(一二一九)年二月九日に加藤景廉が京都から鎌倉に戻ってきた。

 先に記したが、一月二八日の早朝に鎌倉を出発して二月二日に京都に到着したのが京都における源実朝暗殺の第一報であり、源実朝、源仲章、源師憲の三名が公暁によって殺害されたという知らせを受けて京都中が騒動となって、京都在駐の鎌倉幕府の御家人達だけでなく、北面武士や西面武士、また僧兵達も武装する騒ぎとなっていた。特に、それまで鎌倉幕府によって押さえつけられていた武士達が鎌倉幕府打倒の絶好のチャンスと考えて蜂起する動きを見せ、後鳥羽院から禁令が出たために強引に沈静化させられている。

 その後も鎌倉幕府からは情報が定期的に京都に届いてきていた。特に重要なのが、源仲章と源師憲の両名以外に京都から鎌倉に出向いた貴族達は無事であり、鎌倉幕府の御家人達に護衛されて京都へ向かっている途中であるという知らせである。

 これにより京都ではひとまずの安定を獲得できたが、それはあくまでも京都の安定であって日本国全体の安定ではない。

 後鳥羽上皇はこれまで鎌倉幕府との協調を考え、鎌倉幕府から打診されていた源実朝の後継者としての皇族の下向についても前向きに考えていた。

 その考えは源実朝の死によって一瞬にして消え去った。

 後鳥羽上皇としては源実朝とのつながりを前提として鎌倉幕府との協調を図ることを考えていた。武装集団としての鎌倉幕府は自身に関連する圧力組織として計算できた反面、後鳥羽上皇が制御できる存在とはなっていなかったが、後鳥羽上皇と源実朝とは協調できており、源実朝を通じることで後鳥羽院と鎌倉幕府の武力との連携が構築されていたのである。

 ここで源実朝がいなくなった。

 そのため、後鳥羽上皇には二つの選択肢が示されたこととなる。

 一つは以前からの誓願に応えるように皇族の誰かを新たな将軍として鎌倉に下向させることである。征夷大将軍は熱田神宮の宮司と連なる血筋の者が就くという前提があるが、その前提も皇族の前には霞(かす)む。皇族ではなく熱田神宮の宮司に連なる血筋の民間人でなければならないと誰かが言ってきたとしても、後鳥羽上皇は承元四(一二一〇)年一二月五日に伊勢大神宮神剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)であると宣告した過去があるのだから、その言葉は通用しない。

 もう一つは鎌倉幕府からの誓願を無視して鎌倉幕府という組織そのものを取りつぶすことである。本音を言えば後鳥羽上皇にとって鎌倉幕府とは目障りな存在である。莫大な軍事力を持っているため無視できず、この軍事力が朝廷や院に逆らって蜂起する可能性が否定できない。先例を辿ると治承三(一一七九)年に平家が朝廷を掌握して当時の後白河院を機能不全に陥らせた歴史に行き着く。ただでさえ源実朝を亡くしたことでこれから先どのような行動に打って出るかわからない鎌倉幕府が、自暴自棄の末に三〇年前の平家と同じ選択をする可能性は否定できないのだ。


 鎌倉幕府の内部でも鎌倉幕府をこれから先どのように存続させていくべきか検討が繰り返されていた。その中で意見の一致を見たのが、従来から誓願してきた皇室の男児の下向を求めることである。従二位の位階を持っているために一時的に鎌倉幕府の軸を担うことが許される北条政子が強く主張し、多くの御家人達も北条政子の意見に同意を示したため、皇室の男児を鎌倉に招くことを中心に話を進めることとなった。

 建保七(一二一九)年二月一三日、鎌倉幕府は二階堂行光を使者として京都に向けて派遣することとした。六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを新たな征夷大将軍として鎌倉に招き入れたいという誓願を朝廷に届けるためであり、二階堂行光の手元には、従二位北条政子をはじめ、鎌倉幕府のうち貴族としてカウントされている者の署名を集めた書状があった。

 六条宮雅成親王は後鳥羽上皇の皇子で、順徳天皇の三歳下の同母弟である。

 冷泉宮頼仁親王も後鳥羽上皇の皇子で、順徳天皇の四歳下の異母弟である。

 後鳥羽上皇の皇子となれば熱田神宮の宮司の血を引いているかどうかなど関係なく、文句なしに征夷大将軍となることができる。鎌倉幕府の本心としては、征夷大将軍とは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)でなければならないという建前を崩したくはなかったし、ここで妥協を見せることは鎌倉幕府の根幹を揺るがす話となるが、源実朝が殺害されてしまったという重大事態の前には根幹を揺るがそうと構わない。源頼朝の子孫が将軍として存在し続けていることを前提とした組織存続であったのに前提が失われた以上、妥協であろうと何であろうと鎌倉幕府存続のためにはあれこれと言っていられる余裕などないのだ。

 また、源実朝が殺害されたことを契機として出家した数多くの御家人達の中に、一二年の長きに亘って京都守護を務めていた中原季時がいたため、この時点では京都守護が不在となっていた。鎌倉幕府は、平時でも困難な職務をこの緊急事態にこなさねばならないこと、特に京都における武力発動の指揮を担う人物の派遣が何よりも優先されなければならないこと、この二点を念頭に置いて、まずは京都守護の武門担当として伊賀光季を京都に派遣することとした。伊賀光季は藤原秀郷の子孫の末裔であり、本名は藤原光季である。藤原北家の一員ではあるものの貴族の一員になる見込みはないという人物であったが、左衛門尉や検非違使を京都の地で歴任してきた経験がある。また、この人物の母は二階堂行政の娘であり、二階堂行政は鎌倉幕府の宿老の一人で一三人の合議制の一人にも選ばれた人物であるほか、生年不詳のため伊賀光季の姉もしくは妹であるとしかわからないものの、北条義時の継室である女性は伊賀光季と姉妹であったことは判明しており、伊賀光季は北条家の外戚の一人として北条義時が動かすことのできる鎌倉幕府の御家人の一人でもあったことは重要な意味を持っていた。

 ただし、伊賀光季は武人として計算できても、京都守護としての行政能力には不安が残る。そこで、大江広元の息子であり北条義時の娘婿でもある大江親広を、京都守護の武門以外を担当させるために京都に派遣することを決めた。

 これまで一人で京都守護を務めていた中原季時の後任を二名体制とすることで、緊急時の京都守護の体制を強固なものとすることに成功したと言える。実際、このあとの京都における鎌倉幕府の行動を見てみると、まずは及第点であったと言えるのだ。

 ただし、この二人の京都守護は、これから二年後に京都で意見の違いから大問題を起こすこととなる。


 京都守護の任命と並行して、鎌倉幕府として皇族を将軍として迎え入れることに異論はないという意思を示す必要もあった。皇族の男児を鎌倉に向かわせた後で別の源氏の男児が将軍位を狙うことが無いという意思を示すために、建保七(一二一九)年二月一九日に金窪行親をはじめとする御家人を駿河国へ派遣した。

 吾妻鏡によると、源実朝の死の知らせを受けて、阿野全成の四男の阿野時元が軍勢を組織して駿河国深山に砦を築きあげたという連絡が二月一五日に届いたとある。阿野時元の言い分としては宣旨を受けて東国の統治を任されることとなったというものであるが、当然ながらそのような宣旨はない。

 鎌倉に情報が届いてから四日後に鎌倉から軍勢を派遣したのであるが、鎌倉幕府としてではなく北条義時の個人的な軍事派遣である。厳密に言えば従二位の位階を持つ北条政子が甥のやらかしについて個人的に責任を取るとして、弟に頼み込んで軍事派遣を願ったという図式である。源実朝がいなくなっている現状で法的正当性を持たせるためにはこのような図式を用意しなければならなかったのだ。

 阿野全成は源頼朝の弟であるため、阿野全成の息子である阿野時元も源氏であり、一見すると征夷大将軍に就く資格があるように思えるし、実際に阿野時元もその理屈で源実朝も公暁もいなくなったあとの東国武士団のトップは自分だと考えた。また、阿野時元と同調して立ち上がった武士達も、突然湧いて出てきた人生一発逆転の大チャンスに乗ったつもりでいた。

 ただ、阿野時元は大切なことを忘れていた。源実朝とその子らが征夷大将軍となって権威を獲得したのは清和源氏だからではない。室町時代以後は清和源氏であることが征夷大将軍たる要件になるが、鎌倉時代の途中までは熱田神宮につながる血統を有していることが征夷大将軍たる要件であった。阿野時元の父の阿野全成は源頼朝の弟であるが、母親が違う。阿野時元の身体に清和源氏の血は流れていても熱田神宮の血は流れていないのだ。

 ここで鎌倉幕府として阿野時元を倒すことは、源頼朝の近親者として征夷大将軍になりうると思われる、しかし実際には征夷大将軍に就く資格のない人物を排除することで、これから鎌倉へ下向してくる皇族出身の新たな征夷大将軍への忠誠を示し、同時に鎌倉幕府にとって厄介な存在を排除できる行動であったのだ。

 二月二二日には阿野時元の兄である阿野頼高と阿野頼全の両名を駿河国阿野郡へと派遣された軍勢が討伐したという連絡が届き、翌二月二三日に阿野時元は自ら死を選んだという連絡が届いた。


 鎌倉幕府はどうにかして新たな将軍として皇族を鎌倉に招き入れようとしていたが、後鳥羽上皇からの返答は良好なものではなかった。

 後鳥羽上皇は自分の皇子である六条宮雅成親王と冷泉宮頼仁親王のどちらかを将軍として鎌倉に送り込むことを了承していたが、それは同時にリスクでもあった。

 人質とされるのだ。

 自分の子を将軍として鎌倉に送り込むことで後鳥羽上皇は鎌倉幕府の軍事力を手に入れられる。

 同時に、鎌倉に送り込むこととなる皇族は後鳥羽上皇の皇子であるために皇位継承権を有していることとなる。

 つまり、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力を手に入れられると同時に、鎌倉幕府としても皇位継承権に関与できるようになってしまうのだ。

 そもそも征夷大将軍の持つ権勢の根拠は、源頼朝が熱田神宮の宮司の血を引くために、壇ノ浦に沈んだ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)と扱われることである。源頼朝や源頼朝の子が征夷大将軍であり続けることが壇ノ浦の戦いのあとの皇位継承の条件となってしまっている以上、征夷大将軍は誰でもいいというわけにはいかない。たしかに後鳥羽上皇は鎌倉幕府の手にしていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)という特権を剥奪し、承元四(一二一〇)年一二月五日に蓮華王院宝蔵の伊勢大神宮神剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の新たな形代(かたしろ)とすると宣言したことで、源頼朝の子孫でなくとも征夷大将軍に就いても問題ないということにさせていたが、それでも、征夷大将軍の人選は慎重にならざるを得なかった。

 その慎重さを乗り越える人材を求めるなら皇族というのは正しい答えであり、皇族の中でも皇位継承権を有する皇族であれば征夷大将軍として申し分ない人材になる。

 申し分ない人材であるために、征夷大将軍が次代の天皇となる可能性も高いものとなる。

 後鳥羽上皇が危惧したのはこの点だ。

 ここで後鳥羽上皇が企んだのは、時間稼ぎによる鎌倉幕府の降伏である。愚管抄によると、この頃の後鳥羽上皇の思いとして「いかに将来にこの日本国を二つに分けるようなことを前もってできようか」という感情があったとしている。この国を二つに引き裂く事態を迎えるぐらいならば時間を稼いで鎌倉幕府を降伏させるのは選択肢として間違っていないと言えよう。

 しかし、後鳥羽上皇の思いがどうあろうと、鎌倉幕府としては誰かを将軍としなければ組織が維持できない以上、後鳥羽上皇の思いを成就させるのは認められない。そこでいう「誰か」が源実朝の実子であれば何の問題もなかったろうが、源実朝は男児をもうけぬまま命を落としてしまった。しかも、実行犯は源頼朝の孫である公暁であり、公暁はその犯行のために討ち取られた。そのため、鎌倉幕府としては「誰か」として次善の策たる後鳥羽上皇の皇子を渇望している。それも、皇位継承権を有する血筋の皇子だ。

 時間が経てば経つほど、鎌倉幕府は皇子にこだわる必要が減っていく。征夷大将軍に付随する天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての側面は、後鳥羽上皇によって否定されたものの、肝心の熱田神宮が認めていない。ここで後鳥羽上皇の判断を覆すことができれば鎌倉幕府として大きなメリットがある。

 そのメリットは時間経過とともに失われていく。後鳥羽上皇の求める最終的な着地点としては、皇位継承権と遠く、それでいて、征夷大将軍に付随する天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての側面も持たない「誰か」を将軍とすることである。


 情勢は後鳥羽上皇に有利になっている。

 後鳥羽上皇は鎌倉幕府の武力を利用してきたが、実際に武力を発動するのではなく暗に示してきただけである。それだけで後鳥羽院の勢力が築けていた。僧兵が暴れるときは鎌倉幕府の武力に頼ることがあったが、そのときでも北面武士や西面武士との協力体制としての活用であり、鎌倉幕府の武力のみに全面的に頼ることはなかった。

 後鳥羽上皇にとって最良なのは、鎌倉幕府の持つ武力と財力がそのまま後鳥羽院のもとに移行することである。それはさすがにムシの良すぎる話であるが、源実朝が亡くなったことで鎌倉幕府の存在が揺らいできていることもあり、不可能な話というわけではなくなってきていた。

 最終的には鎌倉幕府の持つ軍事力の全てを後鳥羽院のもとへと吸収させ、後鳥羽院が政治勢力としてだけでなく軍事勢力としても、そして、財力においても日本最大となることを目標とするが、途中段階として鎌倉幕府は存続させる必要は感じており、源実朝の存命中に検討していた皇族将軍ではなく、皇位継承権とも、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)とも遠い人物を将軍とさせることで鎌倉幕府の軍事力以外の部分を弱くし、組織としての鎌倉幕府を軍事力だけを残して瓦解させ、残った軍事力を後鳥羽院のもとへと吸収するという、段階を経ることでの道筋を考えていた。

 皇族将軍を後ろ倒しにしたのはその第一段階であるが、それで終わりというわけではない。後鳥羽上皇は第二段階として、鎌倉幕府を作り上げている貴族達、そして、鎌倉幕府に近い貴族達を、鎌倉幕府から遠ざけることを検討した。

 後鳥羽上皇がまず考えたのは一条信能であった。一条信能は一条能保の次男であり、この時点ではまだ公卿の一人とカウントされる位階を得ていなかったものの、一月二二日に蔵人頭に任命されて将来の議政官入りが確実視されていた。

 蔵人頭に任命されるほどであるから朝廷の中でも一目置かれる存在であったのだが、忘れてはならないのは、この人の父である一条能保は源義朝の娘を妻に迎えていることから一条能保は源頼朝と義理の兄弟であり、その両者の子である一条信能と源実朝とは従兄弟同士であるという点である。

 建保七(一二一九)年閏二月時点で一条信能は鎌倉にいた。右大臣拝賀のために鎌倉を訪問したのは、貴族であるからというだけでなく、従弟の右大臣就任を祝うためという意味合いを持つ。そのこともあって、他の貴族達が連れ立って京都へと戻っていったのに対し、一条信能は京都に戻らずにいたのである。蔵人頭という天皇の秘書役の貴族がなかなか京都に戻ってこないことは京都の人達を戸惑わせたが、従弟が目の前で暗殺されたのである。これで平然としていられるわけはないと、一条信能が鎌倉に残っていることは理解されていた。

 そして、後述することとなるが、このとき一条信能は一発逆転のアイデアを秘めていたのである。そのこともあって、一条信能は北条政子や北条義時といった鎌倉幕府の首脳達と頻繁に面会していた。

 そのことを知った後鳥羽上皇は、ただちに京都に戻るように命令を出した。

 吾妻鏡によると、京都にある一条信能の屋敷で、一条信能の身の回りの警護を担当する武士達と、大番役を務める武士達との間で乱闘があり、伊賀光季が慌てて乱闘を仲裁させ、大番役を務める武士達を検非違使に付き出したという事件があったという。そのような事件があったのに、当の本人である一条信能がいないのはどういうことだと後鳥羽上皇は怒りを見せたのだという。

 なお、後鳥羽上皇から帰京命令が出たことについて一条信能は北条政子に相談したが、北条政子からは帰京を勧めないという回答が来ている。


 建保七(一二一九)年は閏年である。

 閏年と言っても現在の太陽暦ように四年に一度、二月二九日が発生する年というわけではなく、この時代の暦のシステムでは、一九年に七回、一年を一三ヶ月とするシステムになっている。

 建保七(一二一九)年の場合は、二月のあとで一ヶ月を挿入し、閏二月とすることで閏年の対処としている。このこと自体は珍しいことではない。ゆえに、一月末に源実朝の暗殺からおよそ二ヶ月を経たのが建保七(一二一九)年三月であるというのもおかしなことではない。

 話を元に戻すと、源実朝の暗殺から二ヶ月を経て、建保七(一二一九)年三月を迎えている。二ヶ月もあればこの時代の交通網や情報網であれば鎌倉で何が起こったのかの情報は京都に届くし、京都からのレスポンスも鎌倉に届く。そのため、京都でも鎌倉でも混乱の後始末が片付き、混乱後の再建に向かって動き出すという頃合いになっているのが建保七(一二一九)年三月である。

 具体的な流れを追いかけていくと、まず、三月一日に鶴岡八幡宮別当として、永福寺別当三位僧都である慶幸を、公暁の死によって空席となった鶴岡八幡宮別当に異動させた。鶴岡八幡宮別当に対する自薦他薦は多々届いていたが、鎌倉近郊の永福寺から呼び寄せることで鎌倉内部の問題として片付けると宣言し、京都内外からの圧力を排除することに成功した。

 ただし、鎌倉で排除できた圧力はこの一点だけであった。

 たしかに北条政子は従二位の位階を持っている。ゆえに鎌倉幕府を構成する各種組織は、これまでの正二位右大臣源実朝につながる組織から、官職はないものの従二位の位階を持つ北条政子につながる組織に変更することで、暫定的ではあるが存続はできるようになっていた。とは言え、将軍空位である、すなわち組織の永続性に難ありという事態は好転することなく、時間が経てば経つほど後鳥羽上皇にとって優位な情勢に変化してきていた。

 まず、建保七(一二一九)年三月八日に内蔵頭藤原忠綱が後鳥羽上皇の代理として鎌倉に到着した。一応は亡き源実朝に対して弔意を示す意図があってのことであるが、後鳥羽上皇の本意はそこではない。最優先となっているのは鎌倉幕府の勢力低減である。特に、源頼朝が獲得してから、源頼家、源実朝と引き継がれてきていた守護と地頭の設置権利について、後鳥羽上皇は揺さぶりを掛けてきていた。たしかに鎌倉幕府の組織は従二位の位階を持つ北条政子を前面に立てることで暫定的に継承できたのであるが、暫定的であろうと継承できるか否か微妙な立ち位置となっていたのが守護と地頭である。この二点は鎌倉幕府に対してはなく源頼朝個人に対して付与された特権であり、源頼家も、源実朝も、源頼朝の後継者であるために存続して権利を行使できていた特権である。すなわち、政所のように位階に基づいて得ている特権でもなく、また、征夷大将軍として得ている特権でもない。この特権を北条政子は行使し続けることができるかとなると、それは微妙である。

 後鳥羽上皇はここで一つの駆け引きを持ち込んだ。藤原忠綱を通じて、摂津国の長江荘と倉橋荘の地頭職の解職を求めてきたのである。この二つの荘園は摂津国豊島部の神崎川と猪名川が合流する付近にあった荘園である。この二つの荘園は両方とも、川を下れば大阪湾に出て、さらには瀬戸内海へ向かうことができる一方、川を遡ると、水無瀬、鳥羽、さらには平安京へと至る水運の要衝に存在していた。後鳥羽上皇がこの二つの荘園に対する地頭職の解任を求めてきたのであり、荘園を手放すように求めたわけではない。元からして荘園の所有者は後鳥羽院の関係者であって鎌倉幕府ではない。しかし、この二つの荘園から鎌倉幕府の勢力を排除できるか否かは後鳥羽院の経済基盤に関わる話になる。

 ただし、この話には大きな問題がある。倉橋荘はいい。実際に神崎川と猪名川が合流する地点に存在していた「椋橋荘」の別漢字表記であり、現在の大阪府豊中市に存在していた荘園であることは確実である。問題は長江荘だ。後鳥羽上皇が二つの荘園の地頭解職を求めたことは吾妻鏡にあるほか、鎌倉時代中期に成立した戦記物語である承久記にも記されているが、その他に長江荘の痕跡を伝える資料はなく、また、地名に痕跡を残しているわけでもない。しかも、承久記は戦記物語の常とすべきか、色々と話を盛っている。長江荘が三百町ほどの規模を持つ荘園であるだけでなく、後鳥羽上皇が遊女の一人である女性に与えた荘園であったとし、さらには、北条義時自身が地頭であったとしている。これはさすがに話を盛りすぎだ。もっとも、知行国よろしく鎌倉幕府の正当な手続きによることなく北条義時が地頭を任命する権利を持っていた可能性ならばあるし、名目上の地頭として北条義時自身がこの二つの荘園の名目上の地頭として任命され、この二つの荘園からの収益を北条義時の個人資産として計上する仕組みになっていた可能性ならばあるが、それでもあまり現実的な話ではない。

 現実的に判断するとすれば、交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう後鳥羽上皇から鎌倉幕府に圧力をかけてきたという政治問題ではなく、守護職と地頭職の存続そのものにかかわる政治問題を後鳥羽上皇が突きつけたと考えるべきである。

 ここで鎌倉幕府が後鳥羽上皇の要請を拒否した場合、守護職と地頭職の存在そのものが源実朝の死と同時に鎌倉幕府から失われる可能性がある。それこそ、源実朝亡き後も日本全国の守護と地頭は存続できるのかという根本問題に関わる。法的な扱いが微妙である守護と地頭の設置権そのものにかかわる話になると、最悪の場合、鎌倉幕府の統治も、そして財政も、早々に破綻することが目に見えている。

 一方、ここで後鳥羽上皇の要請を受け入れると、源実朝の死後も守護職と地頭職の権利は鎌倉幕府に存在することを後鳥羽上皇が認めたということとなる。ただし、一つ、また一つと守護と地頭の権利が失われることにもつながる。

 鎌倉幕府は、守護と地頭を置く権利を少しずつ失うか、一度に全て失うかという選択肢を突きつけられることとなったのだ。

 ただ、選択肢は二つではなかった。

 鎌倉幕府には第三の選択肢を選ぶ方法が存在したのだ。

 源実朝の後継者となる正式な第四代将軍を鎌倉幕府で擁立することである。

 鎌倉幕府はこの第三の選択肢を採用することで、二つの荘園の地頭職を解任せよという後鳥羽上皇からの要求を拒否するだけでなく、守護と地頭の権利を今後も保持することを宣言することとしたのである。


 どうやら皇族将軍は難しい。

 後鳥羽上皇の皇子が鎌倉に将軍としてやってくるというところまでは話をこぎ着けることができたが、建保七(一二一九)年三月時点では、皇族将軍が鎌倉までやってくるのはいつのことになるか話が全く見えてこない。

 後鳥羽上皇の派遣した藤原忠綱は建保七(一二一九)年三月一一日に京都へ戻るために鎌倉を出発したが、そのとき、北条政子ら鎌倉幕府の首脳から、後鳥羽上皇からの二つの荘園の地頭職放棄について後ほど回答を送ることを伝えられている。

 翌建保七(一二一九)年三月一二日、北条義時、北条時房、北条泰時、大江広元ら鎌倉幕府の首脳陣が北条政子の屋敷に集まり、一刻も早く新たな将軍を迎え入れるべく京都に使者を送り二度目の陳状をすることとした。

 鎌倉幕府を安定させる最善策は、予定通り後鳥羽上皇の皇子に下向してもらうこと。次善策としては後鳥羽上皇の皇子でないにしても親王を新たな将軍として推戴することである。後鳥羽上皇は時間稼ぎの末に鎌倉幕府の要求断念を狙っている。そのため、時間をあまりかけるわけにはいかない。かといって、誰かを単身で京都に向かわせるのはあまりにも鎌倉幕府の慌てようを示すために得策ではない。

 そこで、後鳥羽上皇に対するカードを一枚持っていった上で後鳥羽上皇に圧力を掛けることとした、

 源実朝が亡くなったことで鎌倉幕府の軍事力が低下したと考えた者が、ここで一気に権勢を手に入れようとする動きだす気配は見られた。そのうちの一つに近江国での謀反計画があり、噂段階での捜査ではあるが謀反容疑で刑部僧正長賢の一族にある者を逮捕したのである。刑部僧正長賢は後鳥羽上皇の御持僧であるから、よりによって後鳥羽上皇の関係者が謀反容疑に加担したとあれば大スキャンダルだ。

 鎌倉幕府はこのカードを持って、北条時房を京都に派遣することとしたのである。目的は二点。一点目は後鳥羽上皇からの地頭職解任拒否と同時に守護と地頭の権利を今後とも保持することを宣言すること。もう一点は鎌倉幕府第四代将軍の招聘である。

 およそ一〇〇〇騎からなる陣容であるから源頼朝の上洛時に比べれば小規模であるとはいえ、なかなかに大規模な行列である。また、北条時房は、前年に北条政子が上洛した際に院御所で開催された鞠会で蹴鞠の技量を称賛されており、後鳥羽上皇から好印象を得ている。しかも、北条政子と北条義時の弟であると同時に政所別当でもある。つまり、後鳥羽上皇に幕府首脳部の主張を的確に伝える交渉役として最適である。ただし、北条時房の背後には一〇〇〇騎の軍勢が存在している。北条時房がやってくると聞いて待ち構えていたら北条時房の後ろに一〇〇〇騎もの軍勢があるのだから、後鳥羽上皇も、そして朝廷の面々も驚きを隠せなかったであろう。

 さらに別の強攻策を鎌倉幕府は展開した。それも、朝廷への直接の強攻策ではないためにかえって朝廷に十分な圧力となるものであった。

 鎌倉幕府は既に二階堂行光を京都に派遣していたため、北条時房は二人目の使節派遣ということとなる。もっとも二階堂行光は北条時房が京都に到着する前に鎌倉に向かって出発しており、京都における鎌倉幕府の代理人としての二階堂行光は十分な役割と果たせなかったと言えよう。いわば罷免である。

 なお、伊賀光季と中原季時の二名を並立させる京都守護二名体制は、京都守護としての役目を果たすことができていたものの、緊急事態である以上、ある程度は鎌倉からの直接指令が必要となる。平時の京都守護ならばこの二名でどうにかなっても、緊急事態の体制となるとさすがに厳しいものがある。いや、これは誰が京都守護になろうと変わることのない話であるが。

 さて、北条時房が鎌倉を出発したのは三月一五日、二階堂行光が京都から帰ってきたのは三月二八日のことである。ここまではいい。

 問題はこの後。

 実はこれから三ヶ月間の吾妻鏡の記録が現存していないのだ。幸いというべきか愚管抄にはその間の記述があるが、その間の記述は吾妻鏡ほど細かくはない。

 ただし、残された数少ない史料を分析するかぎり、吾妻鏡が欠落している四月から六月という三ヶ月間に、鎌倉幕府の根幹を揺るがす大変動が起こっていたのである。

 間違いなくこの大変動は北条政子を軸とした合議制での結論であろう。北条時房が京都に向かったのもその変動を実現させるためであり、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の行動を受けて自らのカードを完全に失ったと実感したはずである。

 そう、血縁を理由として鎌倉幕府第四代将軍となる資格を有する者が京都にいたのだ。


 忘れてはならないこととして、源頼朝が特別であるのは、清和源氏の頭領であると同時に、熱田神宮の宮司の娘である由良御前を母として生まれた身であり、源頼朝は母系で熱田神宮とつながるという点に着目しなければならない。源頼朝は源義朝の三男であり、源頼朝には二人の兄と六人の弟がいたが、この九人兄弟のうち母系で熱田神宮につながると断言できるのは三男の源頼朝と五男の源希義の二人。四男の源義門も熱田神宮につながる血筋であるとする説もあるが、その説を確定できる記録はない。一方、源範頼や源義経、阿野全成といった源頼朝の弟達は鎌倉幕府誕生前から草創期にかけての重要人物ではあっても、鎌倉のトップに立つ資格がない。母が熱田神宮と繋がっていないからである。清和源氏のトップに立つだけでは鎌倉のトップに立てないのだ。

 そこで源頼朝以外に熱田神宮とつながる血筋の者を振り返ると、まず、源義門の記録は平治の乱で終わっており、平治の乱の最中に命を落としたものとみられる。源頼朝が平治の乱のあとで平家に捕縛されたのが一三歳のときであり、源義門が源頼朝の弟であることを考えると、源義門が何歳のときに命を落としたのかは容易に想像がつく。当然のことながら、現存する歴史資料の中に、源義門の子であると主張した者がいたという記録など一例として確認されていない。

 源義朝の五男の源希義であるが、源希義は平治の乱のあとで土佐国に流され、源平合戦勃発後に平家によって討ち滅ぼされている。その時点で源希義には何人かの子供がいたという伝承が残っているものの、源希義の子を名乗る者は自称でしか存在せず、確実に源希義の子であると断定できる者はいない。

 つまり、源実朝も公暁もいなくなったということは、直系男子という考えを捨てない限り、源頼朝の後継者となる人物はいないこととなる。なお、厳密に言うと源頼家の息子の中に一人だけ建保七(一二一九)年三月時点で生き残っている男児もいるが、その男児のことをこの時点の鎌倉幕府は全く考慮していない。公暁も亡くなったことで源頼朝の直系男子はいなくなったという扱いになっている。

 一方、鎌倉幕府の権威の由来を尋ねると、父系でなく母系を権威の由来としているのが鎌倉幕府の征夷大将軍である。そして、源頼朝には母を同じくする女性が一人いる。

 その女性の子孫ならばどうなるか?

 源頼朝と母を同じくする女性の名を歴史研究者は坊門姫としている。この時代の女性としては当たり前のことであるが、本名を伝える記録はない。さらには本名だけでなく生年も不明で源頼朝の姉とする説と妹であるとする説の双方があるなど彼女は御世辞にも十分な記録を残している女性とは言い切れないのであるが、坊門姫が源頼朝と母を同じくする女性であること、熱田神宮の宮司の娘の血を引いていることは確実であり、当時の人もそのことを十分に認識していた。

 坊門姫の実父は源義朝である。源平合戦後ならばともかく、平治の乱から源平合戦勃発までの間、すなわち平清盛の時代において源義朝は国家反逆者として極悪人の烙印を押されており、その人物の娘なのだから普通であれば宮中に姿を見せるどころか隠遁生活を過ごしていなければおかしいところであるのに、坊門姫は藤原北家中御門流の貴族である一条能保のもとに嫁いでおり、一人の男児と三人の女児をもうけている。その三人の女児のうちの長女が後に九条良経のもとに嫁ぐことになる女児であり、次女が後に西園寺公経のもとに嫁ぐこととなる女児であり、三女が後に花山院忠経のもとに嫁ぐと同時に、後鳥羽天皇の乳母となることとなる女児である。父が極悪人とされていようと、母のバックボーンである熱田神宮の権威権勢はここまで強かったのだ。

 それから年月を経て、坊門姫の長女と九条良経との間に生まれた男児は朝廷の若き俊英と称される九条道家となり、坊門姫の次女と西園寺公経との間に生まれた女児はそののち西園寺掄子と呼ばれる女性へと成長し、九条道家のもとに嫁ぐこととなる。

 建保七(一二一九)年時点で左大臣となっていた九条道家には西園寺掄子との間に三人の男児がいた。この時点で二七歳の九条道家であるからその男児の年齢は何歳ぐらいであるか容易に想像できるであろう。

 鎌倉幕府はその男児の一人を征夷大将軍として鎌倉に招き入れることを考えたのである。

 藤原摂関家の男児を招くなど家格が尊ばれるこの時代では許されざることであるはずだが、そこは鎌倉幕府、なかなかに強(したた)かである。右大臣の死に伴ってできた空席に左大臣の息子を招くという図式を提示されると、いかに家格を尊ぶ人であろうと文句の付け所のない話になる。それに、元々皇族を招こうとしていたのだ。右大臣のもとに皇族を招き入れることができなかったから左大臣の息子を招き入れるというのは、藤原摂関家としても悪い話ではない。ここで上手くいけば鎌倉幕府の軍事力と財力をそのまま藤原摂関家、特に九条家と結びつけることができるのだ。

 また、熱田神宮の血筋についても申し分ない。九条道家の子は、父方の祖母も、母方の祖母も、熱田神宮の宮司につながる血筋であり、父方の祖父と母方の祖父は藤原北家である。ここまでの血筋があれば、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の形代(かたしろ)としての征夷大将軍として申し分ない存在となり、朝廷や院に対する圧力としても十分に機能する。

 さらに源実朝の後を継ぐという点においても、源頼朝と母系で血のつながりのある男児であるので問題ない話となる。姓こそ源ではないため清和源氏のトップに立てるわけではないが、清和源氏のトップにつながる血筋となれば武家集団としてのトップに相応しい血筋と認識できる。

 後に藤原頼経と名乗ることとなるその男児は、このとき二歳。寅歳寅日寅時に生まれたことから、この頃はまだ三寅(みとら)と呼ばれていた。北条政子を主軸とする鎌倉幕府の首脳陣は、三寅を鎌倉に招いて鎌倉幕府第四代将軍とすると同時に、この男児が成長するまでは北条政子の位階を利用して組織を存続させることとしたのである。

 一説によると、鎌倉幕府第四代将軍に三寅を強く推挙したのは大納言西園寺公経であるという。三寅にとって西園寺公経は母方の祖父だ。西園寺公経が権大納言から大納言への昇格を後鳥羽上皇に訴え出て拒否されたとき、西園寺公経は鎌倉に頼んで大納言へ昇格させてもらうと言い放ったために一時期謹慎処分を受けた過去がある。その西園寺公経が謹慎解除となった理由は鎌倉幕府の権勢を背後に示すことに成功したからである。西園寺公経にしてみれば何としてでも鎌倉幕府は存続してもらわねばならず、鎌倉幕府のトップは従来通りの征夷大将軍でなければならないという前提がある。その前提を踏まえ、自分の孫が新たな征夷大将軍となったならばどうなるか? 従来から鎌倉幕府との強いつながりを持つ西園寺公経が、従来をはるかに超える形で鎌倉幕府とのつながりを構築できることとなる。

 鎌倉幕府としても、現役の大納言である西園寺公経とのつながりが強まるのは歓迎こそすれ忌避する話ではない。源実朝という右大臣まで上り詰めた貴族が鎌倉からいなくなったことで、朝廷権力における鎌倉幕府のプレゼンスは減っている。その穴を、申し分ないとまでは賞賛できないものの無視できないレベルで埋めてくれる人物の登場だ。二歳の男児を第四代将軍とすることで熱田神宮とのつながりと征夷大将軍に付随する権威を継承できるだけでなく、中央政界に鎌倉幕府からの楔(くさび)を打ち込むことが可能となるのであるから、西園寺公経が持ちかけてくる話は悪いものではない。

 繰り返すが、鎌倉幕府の組織を構成する一つ一つの機関は、後世に生きる我々からすると鎌倉幕府の独自の組織図に基づいて鎌倉時代になって誕生した機関であるかのように見えるが、実際には平安時代にはもう存在していた機関を利用したに過ぎない。政所にせよ侍所にせよ三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関として平安時代にはもう存在しており、現在の裁判所に相当する問注所も、貴族が持つことのできる氏族内機関を拡張したものである。例外は守護と地頭で、この二つについては源頼朝が個人的に獲得した特権であり、その特権を源頼家や源実朝が継承したという図式になっている。その他の鎌倉幕府の組織内機関は三位以上の位階を持つ者がいなくなったならば規模を縮小させなければならないものの、遠い未来であろうと三位以上の位階を手に入れることが確実視される後継者がいるならば氏族内組織として存続が許される。しかし、三位以上の位階を持つ可能性のある者が文字通りいなくなった場合は、氏族内組織としての存続もできなくなる。

 源実朝が生きていた頃は問題なかった。政所や侍所といった三位以上の貴族であれば誰もが持つことのできた氏族内組織の存在根拠と、源頼朝が個人的に手にした特権である守護と地頭の存在根拠の双方を、源頼朝の後継者であり、また、正二位右大臣である源実朝に集約させることで、鎌倉幕府は組織内機関を存続させることができていたのである。

 それが源実朝の死と同時に存在根拠を失った。

 侍所や政所といった三位以上の位階を持つ貴族であれば誰もが設置できる氏族内機関は、従二位の位階を持つ北条政子に由来させることで存在根拠を維持できたが、守護と地頭については北条政子でもどうにもならない。

 そこで、左大臣九条道家の子である三寅を鎌倉に招き、母系の血筋を利用して源頼朝が獲得した特権を維持させることとし、行く末は三寅の位階昇叙に合わせて、氏族内機関の存在根拠を北条政子から三寅へと移行させ、鎌倉幕府第四代将軍に基づく組織として鎌倉幕府を建て直すこととしたのだ。

 この頃の吾妻鏡の記録は散逸しており、具体的な記録は残っていない。そのため、鎌倉幕府内部でどのような出来事が、また、都市鎌倉でどのような出来事が起こっていたのかを知る方法はきわめて乏しい。しかし、同時代の貴族の日記や、慈円の書き記した歴史書である愚管抄には、吾妻鏡ほどの詳しさはないもののそれなりの記録が残っている。それらを追いかけると、鎌倉幕府の、なかなか強(したた)かな姿勢が見て取れる。

 愚管抄によると皇族将軍を主張する鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇が難色を示し、妥協案として皇族ではなく摂政や関白の子であればただちに許可すると後鳥羽上皇から北条政子に返信があり、この返信を受けて左大臣九条道家の男児を鎌倉幕府が請願し、九条道家の子でこの時点でまだ二歳の三寅が選ばれたというストーリーになっているが、このあたりはどうもこの時点で広まっていた噂の記載のように見える。何しろ、鎌倉幕府は皇族将軍以上に都合の良い将軍を手に入れることに成功しているのである。仮に慈円が愚管抄に書き記した通りであるとしても、それは後鳥羽上皇を出し抜いたのではなく、既に決定事項となってしまっていることを、後鳥羽上皇の顔を立てた筋書きにするよう取り繕った結果とも言えるのだ。


 建保七(一二一九)年四月二日、京都の鴨川近辺で大規模な火災が発生し、藤原道長が建立させた法成寺とその周辺の建物の多くが焼失した。

 その一〇日後の四月一二日、火災に加え旱害も見られることから、建保から承久への改元が執り行われた。改元の理由の中に源実朝暗殺に伴う世情の混乱を憂う文言はないが、京都の朝廷や院と、東国の鎌倉幕府との関係がどうなるかを危惧している人が多い中で、朝廷の専決事項となっている改元をこのタイミングで実施したことは正しい判断であったといえよう。このときに選ばれた新元号である承久が後の歴史でどのような意味を持つ元号と認識されることを知らないでいられる間は。

 鎌倉幕府が三寅を第四代将軍として鎌倉に迎え入れると打診してきたのは建保から承久への改元のあたりと想定される。北条時房がどのような交渉をしたのかは残念ながら歴史資料に残っていないが、承久元(一二一九)年六月初頭には確定事項となり、六月二五日に北条時房がいったん六波羅へ立ち寄ったのちに京都を出発して鎌倉に向かい、七月一九日に北条時房が鎌倉に到着したことは他の記録から明らかとなっている。

 また、散逸している吾妻鏡も承久元(一二一九)年七月一九日より記録が復活し、その後の記録を追いかけることが可能となっている。

 相変わらずというか、吾妻鏡は三寅の鎌倉入りそのものではなく、三寅の鎌倉入りの行列の様子を事細かに書き記している。北条家にとって都合良く編纂された歴史書であることを考えると、三寅の鎌倉入りに北条家の者をはじめとする御家人達がどれほど参加していていたかを書き記すことのほうが重要なのであろう。それは同時に、後世に生きる我々にとっても、三寅の鎌倉入りによって鎌倉幕府が存続できるとなったことへの安堵感を実感できる効果がある。さすがに源実朝の左近衛大将就任時や、結果的に源実朝の最期となった右大臣就任時の拝賀式のときの行列と比べれば規模は劣るが、それは京都から鎌倉にやってきた貴族達の少なさに起因するものであり、鎌倉幕府の御家人達がどれだけ揃ったかという点ではこれまでの行列と変わらぬ規模なのだ。

 まず、二歳児を鎌倉まで連れてきたこともあって、何より育児が最優先される。実母と別れて暮らさなければならない三寅のため、三寅の育児のための女性が行列の先頭を飾っている。もっとも、さすがに藤原摂関家である九条家の男児とあって、三寅の育児のための女性は錚々(そうそう)たる面々である。また、坊門姫が嫁いだ一条能保の家の女性や、北条義時の正妻も行列の先頭となっている。

 そのあとで随兵が並ぶ。鎌倉幕府の御家人達から選ばれし面々であり、恒例というべきか二名一組にとなっている。

 三浦重連と三浦盛連。

 天野兵衛尉と宇都宮頼業。

 武田信政と小笠原時長。

 相模小太郎と下河辺行時。

 北条重時と結城朝光。

 この後ろに巻狩装束の面々がやはり二名一組で並ぶ。三寅の乗った輿の前後は彼らが囲むこととなる。

 三浦義村と後藤基綱。

 葛西清重と土屋宗光。

 千葉胤綱と八田朝重。

 北条朝時と小山朝政。

 北条泰時と足利義氏。

 このあとで三寅の乗った輿が続くのであるが、厳密に言うと、三寅の乗った輿の左を北条泰時が、右を足利義氏が固めており、その他の御家人達も左右の間が接近しておらず、三寅の乗った輿のスペースが空いている。

 三寅の乗った輿のあとにも巻狩装束の御家人達は続いており、その構成は以下の通りとなっている。

 佐貫次郎と波多野朝定。

 山内弥五郎と長江小四郎。

 木内胤家と渋谷光重。

 本間兵衛尉と飯富長能。

 土肥兵衛尉と高橋太九郎。

 このあとで、この時点で鎌倉にいた京都の貴族達が続く。

 まずは後鳥羽上皇の使者として京都から鎌倉にやってきた藤原実雅が行列に並び、甲斐宗保、三善光衡、藤原行光の三名が続く。

 その後ろに藤原左衛門尉光経、主殿左衛門尉行兼、四郎左衛門尉友景が続く。この三名は京都で検非違使を務めている貴族でもある。

 その後ろに医師である丹波頼経、陰陽師の安倍晴吉、護持僧の大進僧都寛喜が続く。

 以上の一〇名が京都からやってきた貴族達である。

 その後ろに随兵が二名一組で続く。

 島津忠久と中条家長。

 足立元春と天野政景。

 伊東祐時と遠山景朝。

 境秀胤と長江師景。

 加治義綱と橘公業。

 北条資時と兵衛大夫季忠。

 三浦泰村と河越重時。

 伊東祐時と小山宗政。

 そして最後に北条時房。

 さて、この行列に北条義時の妻はいるものの、北条義時本人はいない。ただし、そのことについて誰も何ら指摘しないでいる。理由は明白で、三寅を迎え入れたのは北条義時の屋敷なのだ。北条義時は三寅を迎え入れる側であり、三寅の行列に加わるのはありえない話なのである。北条義時が三寅を迎え入れたのも、北条義時がこの時点の鎌倉幕府の最大実力者であるという点は否定できないが、それよりも大切なこととして、この時点の鎌倉幕府で三寅の代理として御教書を発給できる人物となると、朝廷官職と位階を踏まえて考えれば北条義時しかいなかったからである。

 同日の酉刻、現在の時制にすると夕方六時頃、三寅の政務はじめが執り行われた。とはいえ、そもそも二歳児に政務が執り行われるわけはなく儀礼的なものである。なお、鎌倉幕府は三寅を鎌倉幕府第四代将軍として迎え入れたものの、この時点の三寅はまだ征夷大将軍となっていない。ただし、将来の従三位以上の位階が約束された生まれであることに加え、熱田神宮につながる血筋でもあることから征夷大将軍になるのは約束されたようなものであり、守護と地頭の特権については三寅が継承することが認められた。併せて、政所や侍所といった鎌倉幕府の組織内機構については一時的に北条政子に紐付くものとされ、鎌倉幕府の統治は名目上こそ三寅をトップにすることになったものの、二歳児に政務をさせるなど現実的な話ではないこともあり、実質上は北条政子が御簾(みす)越しに執り行い、公的書類については北条義時が自身の位階と官職を利用した御教書をいつでも発給できる体制を構築することとなった。

 吾妻鏡の巻首である「関東将軍次第」では、源頼朝、源頼家、源実朝の次に北条政子こと「平政子」を四番目として記しており、三寅こと藤原頼経はその次である。少なくとも吾妻鏡の編纂者は源実朝の死後ただちに三寅が鎌倉幕府のトップに立ったとは見做しておらず、間に北条政子を挟んで鎌倉幕府が組織として継続したと認識していたことが読み取れる。ただし、このことから研究者によっては北条政子を四代目鎌倉殿とする人もいるものの、この時代の記録の中に、北条政子を鎌倉殿とする史料は、あるいは現代でも北条政子の通称として使われることのある「尼将軍」と記した史料は存在しない。


 鎌倉では三寅を擬似的な鎌倉幕府第四代将軍とすることで組織存続の強引に継続させた頃、吾妻鏡では奇妙な記録が出てくる。

 承久元(一二一九)年七月一三日に京都で大事件が起こったとの連絡が届いたのだ。それも、鎌倉に到着したのは七月二五日になってからであるから、出来事から十二日を経てようやく連絡が届いたというのは、源頼朝による情報整備以降の出来事の中では特筆すべき遅さである。

 情報が鎌倉に到着するのに時間を要した理由は後述するとして、出来事の内容を記すと、何やらきな臭くなる。

 源頼政の孫で右馬権頭である源頼茂が殺害されたというのだ。

 右馬権頭とは文字だけを見れば宮中の馬の管理監督をする職務に見えるが、実際には宮中の武官の官職の一種であり、内裏の警備を担当する職務になっている。ただし、職務の任命こそ朝廷からの任命であるが、忘れてはならないのが、ついこの間まで源実朝が武官のトップである左近衛大将であったこと、そして、源実朝の推薦に基づく武官の任命は珍しくないどころか通例化しており、この任命は源実朝の死後もしばらくは有効であったことである。これがもし、源実朝の死因が謀反を起こした末の誅殺であったならば源実朝の関わった人事は全て白紙に戻されていたであろうが、源実朝は謀反など起こしておらず、源実朝の死は不幸な出来事であり、源実朝の展開した人事は存続すべきであるというコンセンサスは鎌倉でも京都でも成立していた。そのため、源頼茂は右馬権頭であり続けており、その職務遂行のために大内裏の中の昭陽舎に常駐していたことも誰も何も言わないでいた。

 その昭陽舎に向けて、後鳥羽上皇が西面武士を派遣したのである。

 西面武士と昭陽舎の武士達との争いは西面武士の勝利に終わった。

 源頼茂は殺害され、源頼茂の息子の源頼氏は捕虜となった。

 源頼茂とともに西面武士と戦った者のうち、右近将監藤原近仲、右兵衛尉源貯、前刑部丞平頼国いった面々は情勢不利を悟って仁寿殿へ入り自ら命を絶った。また、仁寿殿は放火され、仁寿殿の観音像や応神天皇の輿、さらには大嘗会や即位式の輿を担ぐ者の衣装や仏具などもこのときに燃えてしまっただけでなく、朔平門、神祇官、外記庁、陰陽寮、園韓神社なども被害にあってしまった。

 以上が京都での出来事である。

 そして、こうも付け加えている。

 三寅の鎌倉下向のために情報を伝えるのを遅くしなければならなかった、と。

 これを文字通り捉えるのは厳しい。何らかの理由で鎌倉までの連絡が遅れたのは事実であるが、表向きの理由ではない真の理由が存在すると考えるべきであろう。

 そもそも源頼茂が殺害された理由を吾妻鏡は「頼茂依背叡慮」、すなわち、後鳥羽院の意思に背いたからであるとしている。ただし、ここでいう後鳥羽院の意思とは何であるかを吾妻鏡は記していない。一方、他の記録には別の理由で殺害されたとしている。たとえば愚管抄では、源実朝が殺害されたという連絡を受けた源頼茂が、藤原忠綱と共謀して、左大臣九条道家の弟である権中納言九条基家を鎌倉幕府第四代将軍に就けようと画策したものの失敗し、三寅が第四代将軍として鎌倉に下向することに最後まで抵抗し続けたために西面武士によって討ち取られたとしている。また、保暦間記では、源頼茂自身が第四代将軍に就任することを画策したために、在京の御家人達が後鳥羽上皇に訴え出て、訴えに応じた後鳥羽上皇が源頼茂を召喚したものの源頼茂が後鳥羽上皇の召喚を拒否したために、後鳥羽上皇の命令を受けて出動した西面武士によって討ち取られたとしている。

 後鳥羽上皇が鎌倉幕府第四代将軍として自分の皇子を鎌倉まで下向させることを拒否していたことは既に記した通りである。そして、吾妻鏡の欠けている部分である承久元(一二一九)年四月から六月までの間に三寅の第四代将軍就任という話が成立した。つまり、三寅が第四代将軍に選ばれるまでの間に後鳥羽上皇がどのような意思や行動を示していたのかを記す記録はどうしても乏しくなる。そのため、源頼茂が西面武士によって討ち取られただけでなく、大内裏の多くの建物が焼失してしまったというこの事件は、この後の歴史を知る者にとって伝聞や伝承が付け加えられた代物へと変化してしまった。中には後鳥羽上皇が鎌倉幕府調伏のための加持祈祷をしているのを源頼茂が察知してしまい、源頼茂に加持祈祷を見られた後鳥羽上皇が証拠隠滅のために西面武士を派遣して源頼茂を討ち取らせただけでなく、周囲の建物も焼却させたという話まである。最勝四天王院が取り壊されたのちに再建することになったのも、後鳥羽上皇が最勝四天王院で加持祈祷をしていたからで、取り壊しそのものが証拠隠滅の一環だというのだ。ちなみに、最勝四天王院がその翌年に再建工事を完了させたことの記録は存在しているので、時系列は一致していなくもない。

 さらに着目すべきなのが、後鳥羽上皇が北面武士ではなく西面武士を出動させていることである。北面武士の出動があった可能性も否定できないが、少なくとも源頼茂を討ち取ったのが西面武士であることは確実視されている。つまり、純粋に後鳥羽上皇のみに仕える武士達を出動させたのではなく、鎌倉幕府の御家人も含めた武士集団を出動させている。北面武士は朝廷として院のために独自に雇用する武士からなる集団であり、北面武士は武士ではあっても鎌倉幕府の御家人ではない。言うなれば朝廷に仕える役人のうち院の警護を職務とする者が北面武士である。一方、西面武士は北面武士と同様に院のための武士であっても朝廷を介さず院が直接雇用しており、鎌倉幕府の御家人が西面武士として院と雇用契約を結ぶことは鎌倉幕府も認めている。そのため西面武士は、鎌倉幕府に仕えているわけではない武士と、鎌倉幕府の御家人である武士とが混在した組織となってている。後鳥羽上皇は西面武士の中に鎌倉幕府の御家人がいることを知っている上で、鎌倉幕府の御家人の一人である源頼茂を討伐するために、西面武士に対して出動を命じたこととなる。

 残された記録からは、源頼茂が鎌倉幕府の将軍の地位に対してどのような感情を抱いていたのか知りようがない。それでも推測すると、源頼茂は自身の血筋を、すなわち、源頼政の孫であり、本流ではないとはいえ清和源氏の一員であるという血筋を、源頼茂は誇りの寄って立つところとしていたであろう。清和源氏の本流である上に熱田神宮ともつながる血筋を持つ源実朝が鎌倉幕府の将軍であるならば、いかに自分が清和源氏であろうと、将軍を自分の君主として戴き、自分は一人の御家人として仕える身になることを厭わないものとするに十分な理由だ。しかし、もう源実朝はいない。さらには、清和源氏の本流である男児もいない。こうなると源頼茂にとって主君として戴くに値する人物に誰がいるだろうかという話になる。誰かが鎌倉幕府の将軍にならなければならないというのは理屈としてならば理解できるが、その誰かを主君として戴き、自分は一人の御家人として仕えることができようかという話になる。

 源頼茂は西面武士によって討ち取られた。つまり、後鳥羽上皇の命令によって武力発動があり、源頼茂が討ち取られた。これで源頼茂がどのような感情を持っていたのかという手がかりは完全に消えた。ただしそれは、鎌倉幕府の安泰を意味する話でもなければ、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との関係の維持につながる話でもなかった。

 言うなれば、不明瞭極まりない話なのだ。

 考えていただきたい。源頼茂を討ち取ったのは後鳥羽上皇の命令による武力発動である。しかも、鎌倉幕府の内部の出来事に対してであり、その出来事について鎌倉からの直接的な命令を何一つ得ることなく全て事後報告で済ませることで完了させたのだ。より詳細に一連の流れを見てみると、まずは直訴があり、次いで召喚命令があり、最終的には院宣という手順を踏んで京都在駐の鎌倉幕府の御家人達は動き出している。鎌倉の指令を得るためには片道七日日往復半月の時間を要することを考えると、より短期間で済む後鳥羽院からの院宣という選択をしたのは理解できる。表向きの理由として挙げた三寅の鎌倉下向は全くの嘘では無いであろう。

 ただ、それでも京都在駐の面々が鎌倉の指示を仰ぐこと無く独自の軍事行動をとった、しかもそのときに後鳥羽院の院宣を願い出たというのは、後鳥羽院にとって京都在駐の武士達、いや、武士だけではなく鎌倉幕府の面々のうち京都とその近くにいる者については、緊急事態が起こったならば鎌倉幕府から切り崩して後鳥羽院の指揮下に組み込めるのではないかと考えたのではなかろうか。元からして鎌倉幕府の軍事力をいかにして後鳥羽院の勢力に組み込めるか苦慮してきたのが後鳥羽上皇である。断言はできないものの、源頼茂を討ち取るに至るまでの経緯は、この後の後鳥羽上皇の判断を生み出すきっかけの一つとなったと言えよう。


 もっとも、京都在駐の御家人達の軍事行動によって何が起こったかを考えると、後鳥羽上皇はこの状況を手放しで喜べはしない。

 大内裏が焼け落ちたのだ。

 後鳥羽上皇は大内裏焼失にショックを受けて一ヶ月近く寝込んでしまったのである。後鳥羽上皇は源実朝の死の知らせを受けてからおよそ一ヶ月半後の建保七(一二一九)年閏二月一六日にも心労で倒れており、源実朝を失ったことそのものに加え、源実朝がいることで成り立っていた後鳥羽院と鎌倉幕府の協調体制の喪失についても考えを巡らせたはずである。

 源実朝亡き後、決断を遅くして鎌倉幕府を時間切れに追い込むべく自分の皇子を鎌倉に下向させることを拒否した後鳥羽上皇であるが、妥協案として提示された三寅の鎌倉行きは許容した。後鳥羽上皇からすればこれはかなりの妥協なのである。そうして鎌倉幕府に対して妥協を示したのに、鎌倉幕府が何をしたのかというと、源実朝の後継者争いの末に大内裏を焼失させたという大惨事だ。

 これで後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して好意的になるわけはない。自分で源頼茂を討伐すべく西面武士への派遣命令を出しておいて何を言うかという話にも感じるが、大内裏消失までは求めていない。

 愚管抄によると、承久元(一二一九)年八月には既に後鳥羽上皇が大内裏再建に向けて動き出していることがわかる。なお、愚管抄の著者である慈円自身はどうしてわざわざ大内裏を再建しようとしているのかわからないとしている。

 承久元(一二一九)年八月四日の臨時の除目で藤原秀康が北陸道および山陽道諸国の国務担当に任命された。藤原秀康は下北面、すなわち、特別な待遇を受けている北面武士である。このときの藤原秀康の位階は六位であり、本来であれば位階の低さから後鳥羽上皇との接見自体が許されない。しかし、天皇に対する蔵人のように、位階こそ六位のままであるが特例として上皇と顔を合わせることが許されるという権利を、院が北面武士に対して発給することがある。これを下北面といい、藤原秀康は後鳥羽上皇から下北面の権利を受けた特別な北面武士であった。

 実際、藤原秀康は文武両面で後鳥羽上皇を支える忠実な側近であり、後鳥羽上皇の命令のもと、藤原秀康は按察使藤原光親と分担してただちに任地に向かって出発したのも、これまでの後鳥羽上皇に支えてきた実績が評価されてのことである。

 なお、そのときの顛末について承久記は卿二位、すなわち刑部卿藤原範兼の娘で後鳥羽院乳母の女性の言葉として、大極殿の造営に際して、山陽道の安芸国と周防国、山陰道の但馬国と丹後国、北陸道の越後国と加賀国、計六ヵ国の税収を造営費用に充てることにしたが、このうち四ヵ国では藤原光親と藤原秀康が政務を執り行えたのに、越後国と加賀国の二ヵ国では鎌倉幕府の地頭が命令に従わないと語る場面が存在する。

 この記載は大内裏再建に熱意を示す後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立の側面があるが、さらにもう一つ、藤原秀康が按察使藤原光親と併存して職務にあたっていた、すなわち、後鳥羽上皇の大内裏再建に対する意欲の強さを見ることができる。藤原光親は按察使である。辞職したとはいえ以前は権中納言であり、その位階は正二位である。しかも按察使とは中納言以上が兼任する官職の一つであるから、同じ院近臣であっても藤原光親は藤原秀康よりはるかに上の地位の人物であるはずである。その二人が大内裏再建の前には並列なのだ。

 なお、八月半ばに後鳥羽上皇は再び病に倒れており、九月初頭に復帰するまで安静にしていたことが記録から読み取れる。


 源頼茂が西面武士に討ち取られた後も、鎌倉幕府が後鳥羽上皇とコンタクトを取ろうとしていた記録は存在する。

 ただし、コンタクトを取ろうとした記録だけが存在し、コンタクトを取れたという記録は存在しない。

 吾妻鏡によると、承久元(一二一九)年八月二六日に、鎌倉幕府は後藤基綱を上洛させ後鳥羽上皇と面会させようとした記録がある。名目上は後鳥羽上皇が体調を崩したという連絡があったことに対する見舞いである。

 見舞いができたかどうかについて吾妻鏡は何も記していない。

 ちなみに、愚管抄にいたっては三寅が第四代将軍として鎌倉に下向する直前で記載が終わっている。

 この時代の出来事を記した歴史書としては吾妻鏡と愚管抄だけではなく他にもある。

 たとえば、この時代を扱った歴史書の一つとしては六代勝事記が挙げられる。六代勝事記とは、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇、そして六代勝事記執筆時の天皇の六代の天皇の時代について書き記した編年体の歴史書である。ただ、一つ一つの出来事については詳しく書いてあっても、出来事と出来事との間はかなり間隔が空いてしまっている。このあたりが六代勝事記がこの時代の歴史書として優先的に取り上げられることのない事情であるともいえよう。

 しかし、無価値というわけではない。吾妻鏡よりも執筆時期が早く、吾妻鏡よりも同時代史料に近いことから、後世の脚色や取捨選択の加えられていることの多い吾妻鏡よりも出来事に対する事実性の高さ、そして、著者は明瞭となっていないが後述するように朝廷の中枢に身を寄せている人物の書き記した歴史書であることは確実であるという点で史料価値が高い。

 また、本来ならば順徳天皇の次は仲恭天皇であるはずだが、六代勝事記は順徳天皇の次を後堀河天皇としているというところからも、六代勝事記の著者のスタンス、それも執筆時の著者のスタンスが明らかになっている。

 この六代勝事記の作者であるが、かつては源光行が作者であると考えられていたが、現在では藤原隆忠を作者であるとする説が強くなっている。その両名とも朝廷の中枢の一角を担っている人物であることに違いはない。

 まず前者の源光行であるが、この人は二一歳となった寿永二(一一八三)年まで京都の官僚であったものの、父の源光季が源平合戦において平家方を選んでしまったために助命嘆願をせざるを得なくなり、鎌倉に赴いて源頼朝に面会を果たしたところ、源頼朝にその才能を見いだされ、その二年後には鎌倉幕府に仕える官僚の一人となっていたという人物である。史料によっては中原広元と同時に鎌倉幕府初代政所別当の一人となっていたとするものもあり、鎌倉幕府でかなり重用された人物の一人であったことは間違いない。しかし、源光行は後に鎌倉幕府を裏切ることとなる。六代勝事記の内容から六代勝事記が何年頃に誕生した歴史書であるかを考えると、源光行が作者であるとするのは納得のいく推測である。

 もう一人の作者と推測される後者の藤原隆忠は松殿基房の息子であり、その血筋は藤原摂関家の当主になっていてもおかしくないものがあり、また実際に従一位左大臣にまで官位を進めたものの、摂政にも関白にもたどり着けず、順当に行けば近衛家や九条家と並立できたはずの松殿家の構築もできずに官界キャリアを追えてしまった人物である。しかし、そのキャリアの後に待っていた人生大逆転を考えると、藤原隆忠の手による歴史書が六代勝事記であるとするのも納得できる話なのだ。

 どういうことかというと、前述の通り朝廷のかなり奥深いところまで知っている人物が書き記した歴史書が六代勝事記なのである。高倉天皇から後堀河天皇までの事績を追いかけた歴史書というスタイルであるが、記載のメインは源平合戦と承久の乱であり、源実朝の死とその後の記載は承久の乱の入り口というスタンスである。そして、六代勝事記における源実朝の記載は、源実朝の政治家としての実績を絶賛するものとなっており、源実朝の突然の死については悲しみとともに犯人に対する強い憎しみを残している。なお、源実朝と源仲章が殺害されたとき、同時に源師憲も殺害されたことを書き記している歴史書が六代勝事記である。


 六代勝事記にも記載されていない時期の記録を吾妻鏡から追いかけていくと、源実朝を支えてきた人達、制度、そして建物も、一つまた一つと失われていく様子が刻まれているのがわかる。

 まず、日付は少し遡るが、承久元(一二一九)年七月二八日に将軍の身の回りの固める役職である宿侍の担当を定めた。宿侍制度自体は以前から存在していたが、何しろ将軍となる予定の者は二歳の男児だ。しかも、鎌倉幕府存続のためにかなり無茶をして京都から呼び寄せた子であり、ここで三寅の身に何か起ころうものなら、いよいよ鎌倉幕府そのものの存続が危うくなる。前任者の死がどのような形で迎えたものであるかを考えると、警備はこれまで以上に厳重にする必要がある。そのため、従来は宿侍の常駐先を御所の西部の一画としていたが、より将軍の居場所に近い小侍に変更することとなった。また、従来は宿侍を侍所の管轄としていたが、将軍の近侍と将軍ならびに御所の警備、そして、そのための人員管理を担当する領域を侍所から切り離し、小侍所として侍所と併存する独立した組織を構築させることとなった。

 ここまでであれば幼い三寅の身の安全を高めるための対処となるが、小侍所の別当に北条重時が任命されたとなると話は変わる。北条重時は北条義時の三男であり、長兄の北条泰時と次兄の北条朝時は既に鎌倉幕府の中でそれなりの地位を手にしていた。ここで三男の北条重時が新しく設置された役職のトップである別当に就任した。この時点で北条重時はまだ二二歳だ。たしかに成年であるが、将軍近侍の新たな役職の重職に抜擢するのは若すぎる。この時点では北条義時の息子である以外に北条重時を抜擢する理由はなかったのであるが、ここで北条重時は抜擢に対する十分すぎる解答を示した。長兄の北条泰時とともに次世代の鎌倉幕府を作り上げる幕府重臣の一人となる素地を見せることとなったのである。

 新たに姿を見せる者があれば、姿を消す者もいる。

 それが、十三人の合議制の一人である二階堂行政の息子、二階堂行光である。

 二階堂家は藤原氏ではあっても藤原北家ではなく藤原南家であり、藤原南家は藤原北家全盛期を迎えたと同時に文人官僚として生きることを選んで生きることを選び、それからおよそ三〇〇年もの歳月を経過させていた。この長きに亘る歳月の中で藤原南家の面々は、自らの生き残りのために常に新たな時代の権力者を見出し続け、ときには迎合し、ときには対峙し、藤原氏でありながら藤原北家でないために政界の中枢を担うわけではないという位置を維持してきた。それは源平合戦も例外ではなく、源平合戦の混乱の中にあって朝廷ではなく新興勢力である鎌倉を選ぶ藤原南家の者も出てきた。それが二階堂家であり、二階堂行光の父の二階堂行政である。ちなみに、二階堂という苗字は鎌倉の栄福寺二階堂に由来している。

 二階堂行政が鎌倉を選んだのは源頼朝との姻戚関係である。二階堂行政の母の兄は源頼朝の母方の祖父である藤原季範であり、この藤原季範が熱田神宮の大宮司である。平安時代叢書で源頼朝の母を頻繁に「熱田神宮の宮司の娘」と書き記しているのも、藤原季範が熱田神宮を掌握し、尾張国に一大勢力を築いていたことに由来する。二階堂行政はその熱田神宮の大宮司である藤原季範の甥であり、熱田神宮つながりで源頼朝を選び、鎌倉を選んだという経緯がある。

 二階堂行光は父の選択に追従して自身も鎌倉を選んだのであるが、鎌倉に姿を見せた当時の二階堂行光はまだ二十歳にもなっていない若者であった。時代が時代ならば京都で官僚として活躍し、活躍次第では貴族の一員になっていてもおかしくなかったが、その若者は父と同じく鎌倉での文人官僚生活を過ごすことを決断し、当初は政所での勤務、後に北条政子の側近の一人として鎌倉で活躍するようになる。建保六(一二一八)年には鎌倉における実務官僚の序列でトップに立つようになっていたと考えられており、現存する史料においても政所内の実務官僚のトップである政所執事としてその名が登場するようになる。現在の省庁で言うと、政所別当が大臣とすれば、政所執事は事務次官といったところか。

 さらに源実朝の死後は鎌倉幕府を代表して京都に赴き朝廷との交渉にあたっており、当初目論んでいた皇族将軍の下向には失敗したが、三寅を招き入れて鎌倉幕府の存続を図る筋道を立てている。

 その二階堂行光であるが、京都から戻って半年も経過していない承久元(一二一九)年九月六日の時点で既に容態が危険になっているとの知らせがあり、それまで二階堂行光が務めていた政所執事の職務を伊賀光宗に交代すると発表になっていた。

 それから間もない九月八日の朝、二階堂行光こと藤原行光が五六歳の生涯を終えた。


 二階堂行光が命を落とした承久元(一二一九)年九月八日の昼過ぎ、伊豆国熱海の走湯神社より、火災の発生と建物喪失の連絡が届いた。およそ四十六時間を経てからの連絡であり、いかに鎌倉まで距離があるとはいえこの時間の掛かりようは意外とするしかない。しかし、その後で鎌倉で起こったことを考えると、このときの熱海での火災は不吉な前触れと言えるのである。

 承久元(一二一九)年九月二二日、午後から夜にかけて、鎌倉を大規模火災が襲った。源頼朝が鎌倉入りしてからの三四年間で最悪の火災であり、阿野四郎の材木座側の浜の家の北から始まった炎は南風に煽られ、北は永福寺総門、南は浜の倉庫前、東は名越山の山裾、西は若宮大路と、鎌倉の都市機能を壊滅させるに十分な被害をもたらしたのである。幸いにして北条政子の屋敷と三寅の住む御所は被害を免れたが、それもギリギリのところでの火災鎮静化であった。

 伊豆で神社が焼け落ちるほどの火災が起こり、それからおよそ半月を経て鎌倉で都市機能を壊滅させる大規模火災が発生した。なぜこのような火災が起こったのかを考えると、自然発火、ケアレスミス、さらには放火などの理由が挙げられる。しかし、もっと重要なのは、どうしてこれほどの大規模な火災になってしまったのかという点である。

 日本という国はどこにいても地震が付きまとう。ゆえに、石造建設を諦めて木造建設にしなければならない宿命を持つ国である。石造建築は綿密な計算に基づく地震対策を施さないと震度五強程度の地震で簡単に崩落するが、木造であれば震度七の地震にも耐えられるからだ。だが、木造建築は火災に弱い。そこで我が国の祖先達は木造建築を選ぶ代わりに火災対策をあれこれと考え実行してきた。とは言え、現在でもなお、火災対策が万全であるとは言えない。

 都市鎌倉は現在よりはるかに低いレベルの火災対策しか施されてこなかった都市である。急激な人口増加に加え、そもそも可住面積が狭いことから家と家の間の距離が狭く、道路幅も狭い。ただし、鎌倉を城塞都市と考えれば、家と家の間の距離の狭さも、道路幅の狭さも、攻め込まれてきたときの防御を考えると守りやすさを高める要素となるため、鎌倉幕府としても火災対策を高める代わりに防御力を弱めるくらいなら、防御力を維持する代わりに火災対策を後回しにするのも選択肢としてはおかしくはない。

 おかしくはないのだが、相手は自然だ。人為的な失火をどんなに減らしても自然発火から逃れることはできないし、延焼対策を執らないままでいると発生してしまった火災を食い止めることが困難になる。家と家との距離の狭さも、道路幅の狭さも、炎が近隣に飛び火しやすくなる要素なだけだ。

 ここに、承久元(一二一九)年夏以降の気象が加わる。現在まで残されている文献史料は毎日の記録ではないので断言はできないが、残されている記録に従えば連日の晴天に加え風も吹く日々であったという。夏の湿気が終わりを迎えて空気が徐々に乾燥し、晴天が続いて風も強いとなったら、ちょっとした火で火災は簡単に悪化する。

 都市鎌倉はゼロからの復興を余儀なくされたのだ。

 それはまさに、後鳥羽上皇が大内裏再建に執念を燃やすのと同タイミングのことであり、この日以後、京都と鎌倉の両都市で相互に呼応するかのように再建工事の音が鳴り響く日々を迎えることとなる。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000