応天門燃ゆ 6.太政大臣

 良房の権力の最たる物は何であるか? この問いに対するの答えは、そのまま藤原北家がなぜ二〇〇年もの長きにわたって権力を維持し続けてきたかという答えになる。

 良房の権力の由来は、娘を天皇の妻としたことでも、皇太子の祖父となったことでもない。生前左大臣までつとめた人物の後継者として登場し、その権力を継承することに成功したことである。自動的に権力を継承できたわけではなく、一蔵人としてスタートしてから一歩ずつ上り詰めていった結果の太政大臣就任ではあるが、それでも、藤原冬嗣の政治を継承しこれまで続けているという実績がある。

 これは政策が一貫するということでもある。権力を掴む過程で「律令制の否定」というわかりやすいスローガンを掲げて若者の支持を集めたが、その内容は冬嗣の政治の継承である。そして、この良房の政治は基経が貴族の階段を一歩一歩昇っていることもあって、良房死後の権力の継承にも成功しつつある。

 政権がころころ変わり政策が一貫しなくなると、まず、その国の経済が混乱し出す。経済的に苦しくなっているのを打開しようと政権を取り替えることはよく見られる光景だが、変わった瞬間に良くなったという事例はない。失敗続きの長期独裁政権を倒した結果として経済が好転したということならあるが、それでも経済は徐々に良くなったのであって、一瞬にして好転したことはない。

 一三世紀のイタリアの詩人ダンテは、経済苦境に陥ったために政権交替が頻発している祖国フィレンツェの様子を、痛みに耐えかねてベッドの上で身体の向きを頻繁に変える病人になぞらえた。フィレンツェに限らず、苦境を打開するのに目先の修正に手を出す者は多い。指導者を替えるとか、新しい人材を就けるとかといった、わかりやすい目先の修正をして、これで苦境から逃れられると考えるのは人間の本性でもある。日本人も二〇〇九年の夏まではそう思っていた。今となっては妄想であったことを気づくべきであったが、そのときの日本人は気づいていない者が多かった。

 病に苦しみ痛みに耐えかねる状況になっても、病を治すには身体を安静にし栄養を摂らなければ病は治らないのである。それを「医者の腕が悪いからだ」とか「薬が効かないからだ」とかで医者や治療法を頻繁に変え、安静を拒否し、摂るべき栄養も摂らずにのたうち回っていては、治るものも治らない。

 良房の長期政権は、身体を安静にし、栄養を摂らせる行為を続けることであった。そしてそれが、藤原北家の長期政権の功績である。

 では、藤原北家の長期政権とは何なのか。

 一言で言うと現実主義である。律令に記された理想、あるいは中国の古典に描かれた理想、さらには、古代の歴史書に記された理想を是とし、そうではない現在を否定する者が多かったこの時代にあって、良房はその理想のほうが間違っていると平然と言ってのけていた数少ない人間だった。もともとは理想主義であった冬嗣はまだ心のどこかに理想を善とする感情もあったし、律令の批判など考えも及ばなかったが、良房はそれもない。

 だからと言って、理想主義者を排除することはしていない。藤原家に楯突いて理想を唱える者もそのまま放っておいて、現実に向かい合っている。

 この態度は他に政策にも現れている。

 貿易は、国のメンツではなく利益で考える。メンツばかりでメリットもない遣唐使など考えもしないし、他国に使者を派遣するという考えもない。向こうから人が来るなら受け入れるが、こちらから公式に人を出すことはない。

 治安対策は犯罪者の処罰を最優先にする。犯罪者を生み出す貧困などの社会問題を片付けるのではなく、犯罪者そのものを捕らえ、処罰している。

 そして、失業者が増えれば仕事を増やし、福祉を減らしている。それでいて、飢餓に際しては食糧を配給している。国家財産に手をつけるには時間がかかると考えれば自腹を平気で切っている。

 災害が起こればすぐに動く。これも、国より早く自腹を切って行動している。スタンドプレーになることもあるが、そのほうがより多くの命を救える

 宗教であろうとタブーはない。宗教を深く信仰するわけでもなく、科学で説明つかないことやオカルティックなことは平然と無視している。良房にとっての宗教とは利用価値があるときならば利用するがそうでないときは何の関心も抱かない存在であり、宗教が政治を利用しようとする試みは徹底的に排除している。

 人材は能力で選んでいる。冬嗣は自派を優先させることが多かったが、良房となると、自分の敵であること明確な人材であっても相応の地位と職務を用意している。ただし、それは手足であって頭脳ではない。良房にとっては、良相も、善男も、そして、今の良房にとっての右腕的存在である源信ですら、良房の手足となるべき存在に過ぎない。

 太政大臣となった良房ができるのは、この、藤原北家の長期政権が続けてきた政策をそのまま継続することだけである。このことから、研究者の中には、良房の政治には何ら真新しい物が無く、それまでの政治を踏襲したに過ぎないと評価する者もいる。だが、政策の連続性を考えたとき、真新しい政策を打ち出すより、一貫して藤原北家の政策を推進するほうが良い結果を生む。

 たしかに、そこに即効性はない。だが、苦しみにのたうち回るのを食い止めるという、社会の発展への絶大な効果があった。

 とは言え、この社会がそれほど褒められたものなのだろうかとする考えもある。

 地震が連発し、天然痘も流行している。治安も悪いし、街は失業者で溢れている。これがこの時代の現実の暮らしであるのだから。

 地震や天然痘は自然の問題だからどうにもならないが、治安問題と失業問題は完全に政治問題である。そして、この時代の民衆はこの二つをともに解決してくれることを良房に期待したのである。

 しかし、良房はこの期待に新たに応えることはしなかった。太政大臣になる前からの態度を変えることはなく、その政策にブレもなかった。

 負担と福祉に対する考え方は二つしかない。低負担低福祉と、高負担高福祉の二つである。律令は低負担高福祉を謳うが、現実問題として低負担高福祉はあり得ない。だが、民衆が求めていたのは低負担高福祉である。低負担高福祉を求めた結果苦況に追い込まれ、借金漬けになってどうにもならなくなっている現在の日本の苦境も、そのきっかけは低負担高福祉を求める民衆の声を実現させた結果である。

 良房は民衆の要求のうち、半分しか叶えていない。すなわち、低負担である。

 良房の時代は、税が異様に低い。税だけでなく負担そのものが少ない。

 直接税は収穫のわずか三パーセント。

 徴兵制は過去のものとなり、労働義務も減っている。

 出挙は壊滅し出挙の高利子は消滅している。

 その結果、真面目に働いて収穫を残すことがそのまま豊かさにつながった。努力が報われる社会になったのである。リスクとして天候不順による不作や強盗団の来襲の危機があるが、このリスクについてならば良房は可能な限り援助している。不作に陥った田畑を蘇らすのも、強盗団から村を守るのも、良房は一瞬として手を抜くことはなかった。

 では、努力をしない者はどうか。

 良房は見捨てた。

 その結果が、京都に蔓延する失業者と貧困、そして、飢餓である。良房は彼らを見捨てたのだ。

 この見捨てるという態度は、良房が緒嗣と対立する若き貴族であった頃は一貴族の問題であったが、太政大臣となった今となっては国の方針である。

 この世の誰もが懸命に働く真面目な者なわけではない。社会からはみ出るのもいるし、ドロップアウトするのもいる。真面目に働くよりおこぼれを狙うのもいるし、真面目に働いた成果を横取りしようとするのもいる。こうした面々にとって良房は面白くない存在であったろう。律令に従えば自分はこのままでも生きていけるのに、良房は律令に従わずに自分を見捨てるのだから生きていけない。

 だが、良房は殺したわけではない。生きる手段はこれでもかと用意したのである。

 新たな田畑を開墾して農地を増やし、その村で農民として生活させる。新しい村をつくるの必要な準備資金も、村を維持するのに必要な援助もする。村で自給自足を過ごすために必要とあれば藤原の私財を投入するし、村を守るための武器も提供する。

 それとは逆に、自ら生活を作ることも身を守ることもせずに何ら生産も伴わない日々を過ごし、国に頼り切って生きようとする者を良房は軽蔑した。良房が国税を出してまで救うべきとしたのは、母子家庭や障碍者、それに身寄りのない子どもと高齢者だけであり、それ以外の者は最低限の救済しかしなかった。

 これはあまりにも冷たいではないかと考えたら、失業問題の何たるかがかわかっていない。

 失業は福祉では解決しない。失業を解決する方法はただ一つ、職に就くことである。だから、それをせずに食料や現金を与えても失業の解決にはならないし、治安だって回復しない。職に就き、働き、日々の暮らしを自分で作り上げていく。そして、政治はそれを助ける。これが良房の基本的な考えであり貴族デビューしたときからその考えで一貫していたのである。

 律令ではこの国に住む者なら誰もが充分な福祉を受けられるとあるが、良房の考えでは福祉を受けるに値する者のみが福祉を受ける対象であり、福祉に値しない者への福祉に費やす税があるなら真面目に働いている者に還元されるべきとしたのだ。

 この良房の進めた低負担低福祉であるが、これには一つのメリットと一つのデメリットがある。メリットは働いた成果がそのまま自分の元に還ってくるということ、デメリットは貧富の差が広がってしまうということである。税負担が少ないのだから一度獲得した財産を再投資すれば財産をさらに殖やせる一方、増やす元手のない者は豊かになるチャンスにも巡りあえない。現在は富の再配分という名目で裕福な者に高率の税を課し、その税を貧しい者に分配しようとしているが、そのせいで富裕な者が国外に富を持ったまま脱出してしまい、国内に残っているのは払う税より使わせる税のほうが多い者という状況ができあがってしまっている。

 だからといって、貧富の差が広がり固まるのを防ぐためにも、貧しい者が豊かになるチャンスを摘み取ってはならない。

 貧しい者に対して良房が用意したのは、今日を生きるための食料や金銭ではない。豊かになるチャンスを与えたのである。それを生かすかどうかは本人次第。努力する者には惜しみない援助を与えるが、努力しない者は見捨てる。それで一貫していたのだ。

 首都に失業者があふれ飢饉が迫っていることを挙げて良房を非難する者は多かった。そして、太政大臣となった以上、それまでの一貫した姿勢を捨て、こうした失業者を救うために動くと誰もが考えた。

 ところが良房は動かなかった。その代わり、天安元(八五七)年三月一六日、朝廷の動かせる全ての京都市内の軍勢に対し、京都とその近郊にいる強盗団の逮捕を命じた。

 さらに、この二日後の三月一八日には、平城京跡でも同様の取り締まりを命じた。

 この時期でこの命令はいったい何を意味するのか。

 これまで治安回復を一手に握っていたのは良相である。そして、治安対策にある程度成功してもいたのである。だが、想定したほどの結果を出してはいなかった。

 治安を悪化させる存在はいつの時代にもいるしどんな社会にもいる。この時代もそれは例外ではない。例外ではないどころか、各地から強盗が村を襲ったという知らせも届いてきていたし、村の人々が武装して強盗と格闘しているという知らせも届いてきていた。

 これまではそれに良相が向かい合っていたはずなのである。だが満足いく結果を出していなかった。

 強盗団に向かい合うべき軍勢が強盗団に敗れ去る事態まで起こってしまったのだ。そのため、治安対策が効果をあげずに都市の治安悪化という結果を招いていたのが、良房が太政大臣に就任した直後の状況であった。

 それまで、朝廷の武力は良相が一手に担っていた。いかに良房が右大臣であろうと良相の持つ武力には手出しできなかったのが実情である。だが、太政大臣となると話は変わってくる。良相の元にある武力を自由自在に駆使できる立場になる。

 良房はその武力を総動員したのである。

 ターゲットは京都と奈良の強盗集団。

 良相は面目丸つぶれになったが、右大臣兼右近衛大将という役職であろうと、太政大臣となってしまった兄には逆らうことなどできなかった。

 この強盗逮捕の内容はわからない。ただ、結果ならば判明している。

 天安元(八五七)年四月一九日、良房が従一位にまで出世した。これほどの位となると、相当な高位で亡くなった者に与えられる死後の名誉の位である。と同時に、それまで握っていた左近衛大将の役職を辞した。太政大臣となれば朝廷の全ての武力を自由自在に操れるというのを実感した以上、左近衛大将の役職は持っていても意味がなかった。

 その代わりに左近衛大将の地位に右近衛大将であった良相が就任し、同時に従二位にまで出世。空席となった右近衛大将は大納言の安倍安仁が就任した。その他にも従四位下の藤原良繩を左近衛中将に、正五位下の源興を右近衛中将に任命した。

 良相はこれで朝廷の武力のトップに立ったこととなる。しかし、実質上は良相からの武力剥奪だった。名誉職に祭り上げられ、実務は良房の息の掛かった者の手に委ねられた。良相い唯一寄って立つところであった武力を失い、従二位にして右大臣、そして左近衛大将と役職だけ見れば立派なものとなったが、その中身が骨抜きにされたのである。

 こうして朝廷の武力を再編した後の四月二三日、近江国に大石・龍花関を設置し、逢坂の関を復活させた。と同時に、関には軍勢を常駐させた。これにより、東国から京都へ続く街道が全て封鎖され、自由に京都に入ることができなくなった。

 これらは全て、良相のこれまでやってきた治安回復の行動を全否定することである。

 これが良房の答えだった。

 天安元(八五七)年五月一〇日、武力を奪われた良相は抗議文を上奏した。

 武力を以てこの国を守ってきた自分に対し、あまりにも冷たい仕打ちではないかという内容である。そして、太政大臣がいる以上これまでのように全軍の指揮権を握るのは無理だが、少なくとも太政大臣の支配権を離れた、自由に操れる軍勢を用意してもらいたいと上奏したのである。

 これに対し、良房は、これまでの功績を認めるがゆえに従二位に昇格させ左近衛大将に任命したのだと反論。既に充分な武力を与えていると反論した。

 ここに兄弟間の決裂は誰の目にも明らかとなった。左近衛大将という武力のトップの地位を与えてることと、実際の武力を与えていることとは全く違う。だが、律令の上ではこの二つが同じことを意味する。反律令を掲げながら律令を前面に掲げての反論には、律令派に属する良相も黙り込まざるを得なくなった。

 そこで、良相は次の手段に打って出た。五月二六日に再び抗議に出たのである。その理由であるが、右大臣で従二位、その上、左近衛大将というかなりの重職にあるのに、給与が大納言のときと同じだというのである。

 これに対する良房の反論は手厳しい。国家財政の苦しい現在、貴族の給与はもっとも後回しにすべき税の支出であり、右大臣は率先して給与の返上を申し上げるべきである、という中身である。

 どうやらこのときの良相には善男がバックについていたようである。良相の掲げる抗議の理由は一見するともっともらしいが、求めているのは自分の財産と権威を殖やすことに尽きる。おそらく良相の本音であろうが、良相がここまで無茶な理屈を掲げて要求を押し通そうとするであろうか。こうしたことは善男の得意分野であって良相らしくはない。


 天安元(八五七)年五月二九日、豪雨が京都を襲う。川が反乱し、堤防が決壊し、橋が壊れ、濁流が道を流れた。

 良房は太政大臣として京都市中の軍勢に指令を出した。被害を最小限に食い止め、避難民を救出し、都市の復興に直ちに取りかかるようにとの指令である。そして、そのための財源として国庫だけではなく藤原の私財を提供するともした。

 都の人は太政大臣というものの権力をこのとき始めて目の当たりにした。

 判断も速ければ行動も早い。そして、私財を被災者のために提供することに躊躇しない。同様の行動ならば良房がまだ大学頭であった頃という先例があるが、今回は規模が違う。大学頭であった頃の良房が使えたのは、兄と、妻と、大学生たちだけ。今はこの国の全てが良房のもとに集中し、全ての指令が良房から発する。そこに反対派はいない。

 これまでであったら、神仏頼りの文徳天皇の決裁を仰ぐためにあれやこれやと時間を費やし、なんであれ口を挟まずにはいられない律令派との討論を経ないと、良房の行動は正式な国の行動とはならなかった。

 それが今では文徳天皇の決済すら不要。手持ちの財力と、手持ちの軍事力と、手持ちの権力で絶対的な独裁者として君臨し、その行動が正式な国の行動となるのである。

 良房を太政大臣に任命したとき、文徳天皇はそれがどのような意味を持つのか理解していなかったのではないかと思われる。それは文徳天皇だけではなく、この時代の全ての人が想像すらしていなかったに違いない。そして気がつけば、誰一人とし逆らうことのできない絶対的な独裁者が誕生していた。

 良房はあくまでも、良相と源信との対立を解消するための方法として太政大臣という地位に目を付けた。太政大臣は新たな役職ではなく律令に定められた職である。ただ、常設ではなく、道鏡の失脚以後は故人に与えられる名誉職になっていた。だから、その職務にどれだけの意味があるのか、この時代の人は誰も理解していなかったのだ。ただ一人、良房を除いて。

 この独裁者の存在が対外危機を救うことにもなった。

 天安元(八五七)年六月二五日、対馬国の郡司らが島民を率いて反乱を起こし、対馬国司である立野正岑(たちのまさみね)とその部下たち、計一七名を殺害した、との報告が太宰府から届いた。

 この反乱を率いているのは上縣郡の郡司である卜部川知麻呂と下縣郡の郡司である直浦主の二名。この二名が三〇〇人の島民を率いて反乱を起こした。一見すると左翼が口にしそうな人民民主主義解放運動だが、反乱軍の行動、すなわち、村を襲って民間人を犯して殺し、少ない財産も奪い去っていくというのを見ると、その正体は日本国内で頻繁に発生していた強盗犯罪集団である。実際、このときの対馬島民は反乱軍を全く支持していない。まあ、このあたりも左翼の活動に似ていなくもないが。

 反乱軍に抵抗する者も命乞いする者も数多くいたが、その彼らが一様に知ったのは、反乱軍が全く言葉の通じない相手であるということ。そして、対馬の島民でもないということ。反乱軍と意志の疎通を図ることができたのは新羅の言葉を解する者だけであった。

 彼らは理解した。反乱軍と言ってもその実状は新羅の侵略なのだと。

 これまで何度も日本への侵略を繰り返してきた新羅であるが、このところは静かにしていた。ただし、それは、新羅国内の混迷があまりにもひどく混迷を極めていたからと、良相の敷いていた軍事態勢が新羅に対しては有効に働いていたからである。新羅にとって藤原良相は抵抗することもかなわない恐るべき武将と考えられる相手であった。

 その良相が軍事力を取り上げられたという知らせは、新羅にとっては何よりの朗報であった。そして、新たな権力者となった良相の兄がどのような人物かの情報は断片的にしか伝わっていなかった。

 この時点の新羅における良房の評価は、軍事を弟に任せたきりの貴族というもの。その良房が軍事力を持つようになったというのだから、良相相手では手も足も出なかった対日本の軍事攻勢も、良相ではない軍事に無知の者が相手ならどうにかなると新羅は考えたのだ。その上、新羅はそれまでの混迷を徐々に脱し、統一された軍勢を組織できるようになりつつあった。

 だが、新羅は一つ読み違いをしていた。良房は超一流とまでは言わないが、一流の政治家である。一流の政治家は軍を指揮させてもまずまずの結果を出すし、その行動も素早い。知らせを聞きつけた良房は直ちに反乱鎮圧の指令を出すと同時に、新羅に対して抗議を突きつけた。これに新羅は慌てふためいた。

 新羅の計画では、圧政に苦しむ対馬島民が反乱を起こし、新羅に救援を求めてきたので救いにいくというストーリーであった。国司殺害という大罪を犯したとき、生き残る方法は国を捨てるしかない。そして、目と鼻の先が新羅という対馬では、国を捨てる手段も一つしかない。新羅を頼ることである。それがいかに侵略であっても、対馬島民から救援要請があったと言われたら、新羅の軍事攻勢も全くの無茶な理屈ではなくなる。

 そこまでは立派な計画であった。

 郡司二人を焚きつけたか、脅したか、カネをちらつかせたか、反乱を起こすことは成功させた。それも国司殺害という大罪を伴ってである。

 だが、いざ立ち上がってみても反乱に協力する島民がいなかった。その代わりにいたのが海賊である。海賊を上陸させて反乱軍の兵士としたが、これでは完全に新羅の侵略である。

 これを食い止めるためにも、新羅に介入の論拠を与えることは許されなかった。

 太宰府直属の軍勢の派遣だけではなく、周囲の国々からも軍勢が派遣され、対馬で戦闘が展開された。

 新羅は反乱軍、新羅に言わせれば解放軍の援軍を派遣する予定であったが、その軍勢は対馬に上陸するどころか、対馬に向けて出航することもできなくなった。日本の軍船の前に沈黙させられたのである。

 反乱軍がどのような最期を迎えたかは具体的にはわからない。

 だが、地獄絵図の最期であったろうとは想像できる。

 対馬で暴れる反乱軍も、派遣された追討軍の前に敗走を重ね山中に逃げる有り様。仲間は一人また一人と討ち取られ、頼りにしていた新羅の援軍も現れず、彼らは何もない山中で飢餓に苦しむこととなった。

 そして、発見されたのは骨と皮だけとなった死体と、白骨死体だけであった。

 反乱が鎮静化した後、良房は、被害者と遺族に対し、一年間の免税を指示した。

 太政大臣藤原良房の誕生は、政治的には即断即決の政治体制が確立されたことを意味する。

 しかし、それで自然界が静かになるわけではなかった。

 天安元(八五七)年七月四日、カミナリのような地響きが四回から五回鳴り響いた。七月六日にも同じような地響きが今度は五回から六回鳴った。地響きの回数が不明瞭なのは史料が既にそうなっているからで、地響きを聴いた人の中でも、カウントに加えるべき音か否かで意見が割れたのだろう。

 そして、七月八日には、地震が発生した。被害のほどは記録に残っていないが、カミナリのような地鳴りがあったとの記録はある。

 この地震で地盤がゆるんでいるところに来て、七月一五日には雷雨が京都を襲った。これも被害のほどは伝わっていない。

 これだけの自然の猛威があったのに、良房は平然としていた。文徳天皇は相変わらず冷然院に籠もって神仏に祈りを捧げ、この天災が鎮静化するよう頼み込む日常であったのに比べれば、この良房の態度は見事なまでの対比である。

 何しろ、地震が起こり、豪雨に見舞われながら、それによる被害者が一人もいないのである。迷惑を被った者ならいるが、命を落とした者が一人としていないことは、良房の自信を深めるきっかけとなった。

 さらに、豪雨ではあるが、このところ全く雨が降らないでいて困惑していたのがこのときの農民である。命に関わず、作物にも影響が出なければ、豪雨であっても恵みの雨であった。

 豪雨は八月二八日にも起こるが、この雨もまた当時の農民は歓喜して迎え入れた。

 治安の悪化については、それなりの結果を出しつつあったというレベルである。目に見えて良くなっているわけではないが、以前と比べれば改善はされている。

 ただし、一人歩きが危険なのは相変わらずである。

 まず、この時代は死刑がなく、どんなに大きな犯罪をしても最高刑は追放刑である。牢に閉じこめられるのはそれなりに軽い犯罪の者だけであり、重罪犯は遠くに追放されたが、追放先での自由はあった。

 この自由の中には自由に出歩く自由もある。一応は勝手に追放先から離れてはいけないことになっているが、それが守られることは少なかった。守られるとすれば、船の定期便がない島へ追放されたときぐらいである。そうでなければ京都に戻ることさえ可能であった。

 結果、追放しても追放しても犯罪者はいつの間にか京都に戻ってきてしまい、再犯者となってしまう。 

 良房はこの悪循環を食い止めるのにかなり強引な手段をとった。名目上は温情措置だが、実際はより過酷な刑罰である。

 牢に入れ続けるのだ。

 この時代の牢獄は現在のように設備の整った環境ではない。何の病気に罹ることもなく三年間生きていられたらそれだけでも奇跡となる劣悪な環境であり、刑期満了を向ける前に病死することのほうが当たり前であった。

 そこに追放刑と同じ期間閉じこめることは事実上の終身刑であり、絶望の刑罰であった。殺人を犯したために裁判で死刑となるところを、慣例によって追放刑となったので喜んでいたら、太政大臣の特命によりさらに減刑されて入牢となったことのショックで亡くなった犯罪者もいた。

 犯罪者が牢に閉じこめられたことで再犯はなくなったが、犯罪そのものが消えたわけではない。犯罪者は常に新しく生まれる。

 天安元(八五七)年一〇月二三日、内裏内の倉に泥棒が忍び込んだため検非違使が出動。犯人はあっさりと捕まったが、調べてみると様子がおかしい。覆面を外すとそこに出てきたのは女性だった。

 これまでにも女性の犯罪者がいなかったわけではないが、女性が単独犯で内裏に忍び込んだというのは、しばらくの間、京都市中でちょっとした話題となった。

 天安元(八五七)年一二月一日、文徳天皇の第一皇子である惟喬親王が、一四歳で元服した。

 当初の予定では惟仁親王の皇太子在位は惟喬親王の元服までの暫定措置というものであったが、それはできなかった。

 良房の権力が大きくなりすぎてしまったのだ。

 理論上、天皇には太政大臣を罷免する権威も権力もある。ただし、それはあくまでも理屈の上であって現実ではない。惟喬親王を皇太子にするということは、良房から権力を奪うことを意味する。だが、それは無理な話であった。

 良房から権力を取り上げたら、いったい誰が権力を掴むのか。考えられるとすれば良房の太政大臣就任と同時に沈黙した律令派しかないが、律令派に政権担当能力がないことは、皮肉にも文徳天皇自身が証明してしまっている。

 律令派はこのとき、惟仁親王から惟喬親王に皇太子の位を渡すように提言している。名目としては、未だ元服を迎えていない少年を皇太子とするより、元服を迎えた者を皇太子とするほうが理に叶っているというものがあった。無論、これは惟喬親王を契機として、これまで良房の前に沈黙せざるを得なかった律令派の貴族たちが再び権勢を取り戻すことを狙ってのことである。

 これに真っ向から異を唱えたのが左大臣の源信であった。現在は惟仁親王を皇太子とすることで政局の安定が図られており、ここで皇太子を交替することは、承和の変のときのようにクーデターのきっかけを生んでしまう。

 文徳天皇自身も承和の変に絡んで皇太子となった経緯があるだけに、この源信の発言は恐れを持って迎えられた。

 文徳天皇はかなりのやる気を持って天皇となった人である。

 即位も若く、二三歳。律令派の若き皇族として名を馳せており、良房と対立する姿勢を崩さなかった。その姿勢は皇位に就いて以後も変わることなく、理想通りの律令派の政治を邁進する長期政権となる、はずであった。

 ところが、その理想は早々と敗れた。

 文徳天皇は理想を喋っていれば給与が貰える優雅な貴族ではない。現実の日々の政務がある天皇である。その現実の政務を執り行うに連れて気づいたのは、この世の現実というものが律令派の掲げるようなものではないこと。良房の言うこととすることは、何も律令派をバカにする態度ではなく、現実に即した対応だったのだということである。

 二三歳で皇位に就いた文徳天皇も即位から八年を迎え年齢も三〇歳となっていたが、現実を受け入れる能力についてはまだまだ大人になりきれていなかった。それまで信じきっていた理想が誤りであるという現実を知ったとき、現実の受け入れを拒否し、自分の世界に閉じ籠もるようになったのである。

 その結果が、天皇のいない内裏であり、天皇のいない朝賀である。新年一月一日に全ての貴族を前に行なうこの行事が行われないと言うのは、普通に考えればおかしなことである。だが、今となっては中止のほうが常態で、開催されるほうが異常事態となってしまった。

 だから、天安二(八五八)年一月一日の朝賀が中止となったという知らせを聞いても、誰も何も思わなかった。

 天安二(八五八)年一月七日、恒例の昇進の発表も、文徳天皇は不在だった。貴族にとっては一世一代の晴れ舞台であっても、文徳天皇は人を避けることを優先した。

 一月一六日、新たな役職の発表が成されたが、この場にもやはり文徳天皇はいない。新たな役職の発表は二月五日にも行われ、この二回で合計五〇名もの貴族が新たな役職を手に入れているという大規模な人事刷新が行われたが、この五〇名の中に文徳天皇が直接会って辞令を渡したというのはない。

 もっとも、文徳天皇直筆の辞令は出ているので、受け取った側は感激深くなることも多かった。

 役職の数は限られているのに貴族は増えているのだから、競争も激しくなる。何しろ、その役職の就任資格要件が従五位上という職なのに、役職に巡り会えていない従四位下が自己推薦してくるのだから、五位になったばかりの貴族がそう易々と職を手にできるわけではなかったのである。職を手に入れるということは貴族間の争いに勝ち抜いたということになり、文徳天皇からの辞令は、天皇直々の文書の慶びであると同時に、これまでの苦労が報われたことの慶びも含まれている。

 このとき、左近衛少将に任命された坂上当道と、右近衛少将に任命された藤原有貞の二人は、良房直属の武官ということとなる。無論、武士のように戦いを本業とするわけではないが、武人としての訓練ならば積んでいる。

 これまで良相が行なってきた軍事の分野を任せられる人間が良房派にもいるというアピールのために、彼ら二人は軍を率いたデモンストレーションを行うこととなった。とは言え、対馬問題の解決もあって戦争とは離れた上に、内乱もない。そのため、軍の矛先は京都市内の犯罪者に向けられた。

 文徳天皇は冷然院に閉じこもったまま、善男は歴史書の作成以外にやるべきこともなく、良相に至っては右大臣となったのにこれといった行動をせず、太政大臣の良房と左大臣の源信の二人が署名したあとで自分の名を書く以外に何もすることがなかった。

 これがこのときの律令派の現状である。ついこの間までは律令派に未来があると考えて、野心に満ちた若者がこぞって律令派に加わっていたのに、今は理想に燃える若者ならば加わっても、野心に満ちた若者は目を向けることもなかった。

 ただ、一つだけ律令派にも有利な点があった。

 若さである。

 良房の後継者として基経がデビューしたがその地位はまだまだ低く、今すぐ良房の後を継ぐのはできない。 

 何かあるとすれば良房のほうで、文徳天皇にしろ、善男にしろ、今すぐ何か起こるような年齢とは誰も思わなかった。だから、良房に何かあったときのことを考え、そのときに向けて体制を再構築すればよかったのである。

 しかし、律令派にその考えはなかった。理想を掲げて良房に反発する姿勢は相変わらずだし、冷然院に足を運んで文徳天皇に対し律令に基づく政治をするよう訴えるのもいつものことである。だが、律令に基づく政治の具体的な構図はやっぱりなかった。

 その代わりに彼らが繰り返したのは議論である。空論を掲げては具体的ではない話し合いをし、良房の政策はなぜ駄目なのかを批判し、それを訴えることに終始した。

 この、反対ばかりで具体的な政策を掲げない律令派の姿に、都の市民は嘲笑を浴びせた。

 一方の良房は、自分の政治を明確に形作っていた。誰もがそれほどまでの権力と考えなかった太政大臣という職務も、今では誰もが知る絶対権力者の称号になっている。

 太政大臣の前では、それまで人臣のトップであった左大臣の職務でさえ、太政大臣を支える副官でしかなくなる。左大臣でさえこうなのだから、右大臣の相対的な地位の低下はもっと深刻だった。

 しかも、右大臣の良相は軍事力を没収されているだけでなく、内裏においても必要不可欠な存在と認識されなくなっている。左大臣源信の署名のない文書は無いが、右大臣藤原良相の署名がない文書は当たり前のようにあったし、それが正式な文書として通用した。

 内裏における会議でも良相は重視されなかった。良相が遅刻しても内裏の者は誰も気にとめることなく会議を進行させ、遅刻した理由を良相が述べても誰も取り扱わなくなった。右大臣の良相はまるで存在しないかのような扱われ方になったのである。

 この良相の不遇、そして良房の権勢の万全さを京都の民衆が印象づけることとなったのが天安二(八五八)年四月末。この時期から集中豪雨が京都を襲うようになったのである。

 豪雨は月が変わっても止まず、五月二日には都市機能が完全にストップした。

 これまでであったら、良相が軍勢を率いて被災者の救援にあたるところであったが、このときの良相は全く動いていない。動いていないどころか被災者の一人にまでなってしまった。身近な者だけを率いて被災者の多い右京にやってきても、救援は良房の派遣した軍勢の手でとっくに始まっていたのである。

 何もできず雨に立ち尽くす姿にこれがほんとうにあの藤原良相なのか、あの右大臣なのかと市民は驚き、良房に命じられて被災者の救援にやってきた軍勢は、かつての指揮官の変わり果てた姿に愕然とした。

 良房は弟の姿の変わり果てようを聞きつけたが、それに対し何のアクションも起こしていない。それどころではなかったというのが真相である。

 五月一四日から五月一五日にかけても大雨は降り、加茂川と桂川がともに増水。良房は増水を警戒し、両河川付近にする市民に避難を呼びかけた。避難所が各地に設けられ多くの市民がそちらに避難したが良房が危惧したような水害が起こらなかったことから、三日も経たずに数多くの市民が元に戻った。これが悲劇の始まりだった。

 五月二一日から再度大雨となり、五月二二日、その雨の勢いはさらに増して、ついに加茂川と桂川がほぼ同時に決壊し大洪水を招いた。あふれ出した水は瞬く間に京都市中を襲い、文徳天皇の住む冷然院をはじめ、床下浸水にあった貴族の邸宅だけでもおよそ一〇〇戸。洪水に流され命を失う者も続出した。

 良房は六衛府に命じて水害救助と、被災者の支援をさせた。

 太政大臣である良房も自ら被災者の元に駆けつけ援助物資を手渡した。これまでの災害救助と同様、この財源は藤原氏個人の私財である。ただ、今回の災害の度合いは藤原の私財でどうこうなるものではなく、満足のいく支援とはならなかった。それでも誰も良房に文句を言う者は居なかった。良房は洪水の危険があるからと避難するように言っていたのである。その言葉を聞き入れずに避難先からさったと戻ってしまったのは自分たちであり、良房はそれを止めていたのだ。

 被害者は自己責任という概念を持っていた。それでも良房はその責任を口にすることはなかった。それどころか、五月二九日、良房は太政大臣権限で穀倉院の穀物、民部省廩院のコメ、さらには大膳職の塩まで開放し、水害被害の民衆に分け与えることを決めた。藤原の財だけでは不充分な援助も、国からの支援ならば可能だった。

 水害被害は京都だけではなかった。六月二日、大宰府から九州全域の水害について報告があった。五月一日から、対馬から薩摩までの九州全域に暴風雨が頻繁に吹き荒れ、多くの建物が壊れただけでなく、田畑への被害も甚大であること。さらに肥後国で大火が発生し、一一棟もの倉庫が炎上したことが伝えられた。

 また、六月七日には和泉国で地震が発生、合計九〇戸もの建物が損傷を受けた。ただし、この地震による死者はわずかに二人、重軽傷者も三名という少ない規模に抑えることができた。ただし、田畑への損害が大きく、この年の収穫に影響が出ることは明白であった。

 自然災害は、この時代の考えでは悪の統治者に対する天の裁きである。その理屈でいけば、これらの水害や地震は良房に対する天の裁きと言えなくもない。実際、善男はこれらの災害が太政大臣に対する天の裁きであると主張し、文徳天皇に対して良房の罷免を求めている。

 だが、この年の災害に関してならば、当時の人はそうは考えなかった。

 まず、災害が起こったときの対処が極めて早い。これが太政大臣という職務を置いたことの成果なのだと考えた民衆は多く、多くの民衆が良房への支持を表明している。

 また、災害が起こったのは事実でも、それに対する被害が少ない。地震や水害による死者はいるが、死者が出たことより、これまででは考えられない死者の少なさのほうが民衆の意識に強く残った。そして、これこそが、天の裁きどころか天の恵みのある証拠だと考える者も多かった。

 天安二(八五八)年八月二三日、全く想像だにしなかった知らせが冷然院から飛び込んできた。

 文徳天皇倒れる。

 冷然院に閉じ籠もっていることは健康的とは言えないが、父の仁明天皇と違い、病気という病気をしてこなかったのがこれまでの文徳天皇である。心は病んでいても身体は健康そのものではあったのだ。

 だからこそ、律令派は文徳天皇が長期政権になると考えていたし、良房だって文徳天皇が健康を害すなど全く考えてはいなかったのである。たしかに皇太子を誰にするかで未だ元服を迎えていない惟仁親王を推すときの理由の一つに、文徳天皇が何かあったときという一点を挙げた。だが、まだ三一歳の文徳天皇に何かあるというのは誰もが想定していないことであった。

 その文徳天皇が倒れただけでなく、その症状もかなり重いという知らせに内裏は騒然となった。

 翌八月二四日、文徳天王は意識不明にまで陥った。

 内裏では慌てて皇太子惟仁親王が呼び寄せられ、文徳天皇に替わる国事行為にあたることとなった。いかに良房が絶大な権力を持つ太政大臣と言えど、国事行為の中には天皇しかできないことも多い。中には天皇の代理である摂政にも認められる国事行為もあるが、この時代、摂政に就く資格を持つのは皇太子だけである。

 文徳天皇の倒れた今、この、わずか八歳の少年が、国事行為を担当することとなった。

 その間も文徳天皇の容態は回復せず、時とともに悪化する一方となった。京都中の医師が集められ、各地の寺院や神社に体調回復の祈祷をするよう命じ、さらには犯罪者に対する恩赦まで行なって、国中で文徳天皇の回復を勤めた。医師は当然であり、祈祷もまだ理解できることとして、なぜ恩赦が決行されたのかはわからない。恩赦は天皇の慈悲を天下に示す行為であり、神仏の加護が得られると考えられていたから、そのあたりの理由であろう。もっとも、殺人や国家反逆罪といった重罪犯は恩赦の対象とはなっておらず、良房の手によって流刑から懲役刑へと減刑された者も、すでに減刑されているという理由で恩赦の対象から除かれた。

 天安二(八五八)年八月二五日、皇族や貴族が集められ、文徳天皇の容態がかなり悪化していることが伝えられた。

 八月二六日、皇太子惟仁親王の名で、寺院や神社に対し文徳天皇の容態回復を祈るよう詔が出された。

 だが、それらの全ては無駄であった。

 天安二(八五八)年八月二七日、文徳天皇崩御。同日、皇太子惟仁親王が践祚する。清和天皇の治世はこの日始まった。

 文徳天皇は結局、即位から死去までの間、一度も内裏に足を運ばなかったこととなる。

 この文徳天皇の死因については諸説あり現在でもなお確定されてはいない。年齢も若ければ、健康状態も悪くはない文徳天皇が、何の前触れもなくいきなり体調を悪化させて倒れたのだから、これは普通ではないと考える者がいてもおかしくはない。後世ではあるが、文徳天皇は何者かによって毒殺されたのだという説まで登場している。そして、その犯人として良房の名を出す説まで存在している。

 だが、現在もっとも有力な説は、脳卒中、特にクモ膜下出血による死というものである。若くしての死、それも、予期せぬ死というのは痛ましいが、文徳天皇が倒れてから死に至るまでの経緯を見ると、脳内に突然の出血が起こり、意識が失われ、命が失われる過程と一致している。また、クモ膜下出血の患者は五〇代以上より四〇代以下のほうが多く、二〇代で発症してしまう例も頻繁にあることから、三〇代であった文徳天皇が発祥してしまったとしてもおかしくはない。

 この時代の人は誰一人として文徳天皇が毒殺されたとは考えなかった。そう考えること自体が畏れ多いことであるというのもあるが、毒殺してメリットを得る者が誰もいなかったという理由のほうが強い。

 犯罪捜査に出てくる単語にQUI・BONO(誰の利益に)というラテン語がある。これは、その犯罪によって利益を得る者は誰かという意味であり、その利益を得る者が犯罪の真犯人である可能性が高いという言葉である。これを文徳天皇に当てはめても意味はない。仮に文徳天皇の死が毒殺であったとしても、そこで利益を得る者はいないのだから。

 天安二(八五八)年九月六日、文徳天皇の遺体が田邑山陵に埋葬された。


 この時点での惟仁親王こと清和天皇はまだ践祚であって、正式な即位をしてはいない。ただし、皇太子ではなくなったため、皇太子の教育係をはじめとする皇太子直属の貴族はその役割を解任されている。もっとも、本人に過失があっての解任ではないため、その貴族のキャリアに傷が付くことはなく、任期を無事に満了したという扱いとなっている。

 前例のない八歳の天皇ということで、これから先の政局がどうなるのかと気にするふりをして、このときこそ律令派が権力を掴むチャンスだと考える貴族は多かった。何しろ清和天皇は八歳。現在の感覚で行くと小学三年生が天皇になったのだから、貴族として不安を感じないとすればそのほうがおかしい。

 しかし、文徳天皇から清和天皇に替わったという一点を除いては全く変更がないことに気づいた者、それ以外は何もかもが文徳天皇の頃と同じだということに気づいた者が抱いた感情はそうではなかった。

 この時代の多くの人は理解していた。

 太政大臣藤原良房の権力は絶大であり、良房が健在である間は誰が天皇になろうと政局に影響がないこと。これは、清和天皇が元服を迎えようが、壮年になろうが、変わることのない現実に思われた。

 この現実の前には、新天皇即位に伴う新人事の発表も、政局に大きな影響を与えるものではなくなる。

 また、その人事権は良房が太政大臣としての職権をフルに活用している。律令派については冷遇とまでは行かなくてもそれほど重要視してはいない。なぜなら、良房はあくまでもその人の能力を前提として職務を与えているからで、現実よりも理屈を重要視する律令派は、評価が低くならざるをえない。

 これは、律令派に言わせれば、太政大臣である藤原良房が孫でもある八歳の少年を天皇として政権を欲しいままに操っているということとなる。かつての蘇我氏がそうであったように、藤原氏が天皇家との血縁関係を作ることで権力を作ったと考えたのだ。

 そしてこれを権力の腐敗と考えた。自分たちが権力を穫れない理由を考えず、現政権に対する批判を繰り返す集団はいつの時代にもいる。

 天安二(八五八)年一一月七日、清和天皇が正式に即位。同時に、良房の娘である藤原明子が皇太后となった。

 正式な即位を祝うとして、来年一月に予定していた昇格をこのタイミングで行なった。ここで左大臣源信が従二位から正二位へと昇格。これまで良相との間では、職務としては源信のほうが上で良相が下であったのだが、位の上ではあくまでも互角であった。しかし、このとき二人の間に位でも差ができた。

 方や清和天皇の叔父として、そして良房派の重鎮として、内裏で幅を利かせる左大臣。方や、太政大臣の弟でありながら実権はなく、内裏で存在を無視されることもある右大臣。この二人のコントラストはあまりにも見事だった。

 この源信という男、野心は強いのだが、トップに立とうという意志は欠いていた。副官としてトップを支える能力にかけては抜群であり、良房も源信を信頼して自分の職務の一部を任せている。ただし、自分の全部を任せようとはしていないし、良房派の後継者としては全く考えていない。

 世の中にはこうした源信のようなタイプの人がいる。トップをサポートするサブリーダーとしては抜群の実績を残し、その評価も申し分ないものを得ているのに、トップに立つとそれまでの実績が喪失し、凡庸な、さらには無能な指導者となってしまう。リーダーシップが欠けているといっても良い。

 実績を残したのだから応分の評価を下すのは当然だが、その評価の一つとして出世を用意するのは必ずしも正しいことではない。こうした人物は間違いなく有能なのだが、人の上に立つという一点だけは欠けている。それを考慮せずに出世させてトップに就けるとどうなるか?

 集団も個人も不幸になる。

 できもしないリーダー業務に追われてそれまでの業務が全くできなくなるだけでなく、リーダーとしての力量の乏しい者に率いられることとなるため集団が機能しなくなる。近年の例で行くと、小泉首相の右腕としては抜群の実績を残したのに、首相としては期待に応えられなかった安部首相の例が分かりやすい。

 天安二(八五八)年一二月九日、十陵四墓が定められた。

 八歳の少年がこの制度を考えたとは考えづらい。ただし、父が内裏にも出ず神仏への祈りを捧げる毎日を過ごしていたこと、それが天皇として正しい姿ではないことは理解していた。

 清和天皇が幼い少年であると考えるのは普通であろう。だが、清和天皇はもう八歳になっている。これぐらい年齢にもなれば世の中の仕組みもわかってくるし、何が正しくて何が間違っているかぐらいわかる。

 詳細は良房が定めたのであろうけれども、清和天皇は、清和天皇の父方の祖先として祀るべき陵墓一〇ヶ所と、母方の祖先として祀るべき陵墓四ヶ所を定め、天皇として参詣するのはこの一四ヶ所のみとしたのである。ことあるごとに神仏頼みを繰り返してきた文徳天皇との差異を打ち出すかのようであった。

 このとき選ばれた陵墓は以下の通り。

 まず十陵であるが、天智天皇、天智天皇の息子であった志貴皇子、光仁天皇、桓武天皇の母の高野新笠、桓武天皇、桓武天皇の弟の早良親王、平城天皇、仁明天皇、文徳天皇、そして、文徳天皇の母である藤原順子。陵墓を作らぬことを遺言に残した淳和天皇が不在なのは当然だが、この中にはなぜか嵯峨天皇が含まれていない。

 次に四墓だが、藤原鎌足、藤原冬嗣、冬嗣の妻で良房の母である藤原美都子、そして、良房の妻の源潔姫。

 皇族はともかく、一見すると藤原冬嗣の関係者を特別な存在とと定めたように見えるが、話はそう簡単ではない。四墓に選ばれた四名は何れも良房の関係者であること間違いないのだが、同時に、この四名は和天皇の関係者でもあるのだから。潔姫は清和天皇の祖母、冬嗣と藤原美都子は祖父の両親だから曾祖父と曾祖母、そして、藤原鎌足は天智朝のスタートと考えられている天智天皇の最大の功労者である。

 現在の政権は大化の改新によって成立した政権であり、天武天皇に始まる中断期間が存在したが、その後に復活して現在にいたるのだという公式見解を打ち出したのである。これは、現在歴史書を記している善男に対する当てつけもあったし、国粋主義に走り出していた律令派への宣言でもあった。政治においても現実を眺めていた良房は、歴史においても現実を眺めたのである。

 清和天皇は文徳天皇と違い、内裏で生活している。これは天皇として正しい行為であり、在位中一度の内裏に足を運ばなかったは文徳天皇は異例中の異例であった。

 この例で行くと、清和天皇は文徳天皇と違い、新年一月一日の朝賀を古来からの規則の通りに執り行うであろうと考えた者が多くてもおかしな話ではない。

 ところが、天安三(八五九)年一月一日の朝賀も中止になるのである。

 理由は「諒闇(りょうあん)」。天皇がその父母の死に伴う喪に服する期間のことであり、その期間は最低限の国事行為しか行われなくなる。仁明天皇以後、その期間は一三日間と定められており、父である文徳天皇の死から四ヶ月を経ている以上諒闇はもう終わっていることとなる。だから、清和天皇は通例に従った国事行為を行わねばならないはずであった。

 それを清和天皇は拒否した。あくまでも諒闇を理由としてである。

 これを知った貴族たちは、また良房が何かしたのではないかと考えた。

 だが、これは良房が絡んではいなかった。あくまでも清和天皇が自分の意志で朝賀を取りやめたのである。それも諒闇という、法的には違っていても人情的には反論しようのない理由を掲げての取りやめ。

 清和天皇は間違いなく文徳天皇の子であった。と同時に良房の孫でもあった。ということは、文徳天皇の考えと良房の行動力を受け継いだということである。

 子どもは大人が考えているほど子どもではない。善悪の分別もつくし、世の中を冷静に見つめている。選挙権を持っていないから意思を表明できないし、体力もないので大人に従わなければ生きていけないから従うが、それと大人の意見を全て受け入れることとは全く違う。明確な意志を持つ子どもなど珍しくもないし、権力があれば大人を唖然とさせる行動を示すの子どもだって珍しくない。

 このときの清和天皇の行動は、良房からの、いわば祖父からの独立を考える意思表示であると同時に、清和天皇の政治的意志の発露でもあった。

 良房は孫の成長を見た。そして、清和天皇下での太政大臣として成すべきことは何かを悟った。文徳天皇下では天皇の代わりを勤めることが太政大臣の役割であったが、清和天皇下では天皇を支えることが太政大臣の役割である。

 通常ならば一月七日に行われる昇格であるが、この年は前年末の清和天皇即位時に前倒しで行われたため、このタイミングでは行われなかった。ただし、役職の付与ならば行われている。

 良房からの独立を考える清和天皇も、人事については口出ししていない。口出ししないと言うより、誰もが納得する人事案を良房が提示したといったところか。

 こうした役職の付与時に渡される辞令は天皇の直筆であることが求められる。たとえ本文は別の者が代筆したとしても、署名だけは清和天皇自らが書かねばならない。

 このとき辞令を受け取った貴族たちは、九歳の少年が書くような文字ではないと感じた。どこかの書家が記すような見事な筆使いに感嘆したのである。そのため、良房、あるいは良房派の誰かが代筆したのではないかと考えた。

 貴族たちは誰もが、清和天皇のことをまだ九歳の幼い少年と考え、天皇であるがゆえに敬意を持って接するが、大人として接するという考えは持っていなかった。

 だが、この辞令は間違いなく清和天皇直筆であった。

 一部の者は気づいていた。清和天皇が早熟の天才だということを。文字はそのごく一部が外に出ただけで、教養にしろ、発言にしろ、清和天皇のそれは九歳の少年のものではなかった。

 そしてそれは、天皇としての行動力にもつながっていた。

 天安三(八五九)年一月二二日、能登国から、渤海使の烏孝慎ら一〇四人が来着したことを報告してきた。大使の烏孝慎は過去に二度来日したことがあり、承和八(八四一)年には使節の一人として、嘉祥元(八四八)年には副使として来日している。そして今回は大使だから、渤海国内で対日交渉のプロフェッショナルとして順調な出世を遂げていた。日本国内にも烏孝慎と個人的な繋がりのある者は多く、若き外交官が今回は大使となったことに、親友の出世を喜ぶという思いを抱いた貴族は多かった。

 これを聞いた清和天皇は直ちに歓待するように命じる。良房すら事前に聞かされていなかったこの情報に対する即答は貴族たちを驚かせた。善男はこの命令に対し、渤海使の来朝は一二年に一度と定められているため歓待すべきではないと主張したが、清和天皇は聞き入れなかった。

 清和天皇が良房に命じたのはその後である。既に決定となった渤海使歓待のための者、渤海客使を推挙するよう命じた。

 一月二八日、良房が推薦した、広宗安人と安倍清行の二名を、今回の渤海使を迎えるための渤海客使に任命。二人ともまだ貴族ではない六位の役人であるが、能力は申し分なく、異論も出なかった。

 この一連の動きに対する善男の反応は、全てが茶番で、一部始終、良房が幼い天皇を好き勝手に利用しているというものであった。そして、この異常事態は直ちに改善されなければならないと宣言したのである。

 これは、勢力が弱まった律令派の再建、さらに善男個人の栄達の手段として、打倒良房派を唱える一派を生み出すきっかけとなった。

 その手始めとして、広宗安人に渤海客使の辞表を書かせた。表向きは自分の能力では渤海使を歓待するのに力不足だからというものであったが、実際には善男の指し示した計画である。

 まず、広宗安人の対外交渉力は評判の高いものであった。何と言っても中国語を自由自在に操るだけでなく、渤海語まで話せたのである。その上、役人としても評価が高く、その誠実な執務態度は彼に着実な出世をもたらすものであった。そして迎えた大役。この役割を無事に果たせば、既に六位である広宗安人には貴族入りが待っている。

 だが、広宗安人は律令派の一員でもあった。

 元はと言えば良房が始めたことであるが、無位無冠の一般庶民の子でも大学に入る機会があった。大学に入る機会があるということは役人になるチャンスがあるということでもあり、役人になるチャンスがあるということは貴族入りへの道も存在するということでもある。

 広宗安人はその典型だった。生まれもよくわからない、育ちもよくわからない者であるが、その学力を武器にして大学を出て、役人となり、貴族の一歩手前まで来た。

 ただ、そこで善男の掲げる律令の精神に染まってしまったのだ。現実の誤りは律令と離れたことが原因であり、律令の精神に戻れば万事解決するという考えに取り付かれてしまった。その広宗安人を善男は利用した。

 ここで渤海客使がいなくなるということは、善男の言うところの“良房の計画”が壊れることとなる。何しろ、渤海客使たるにふさわしい人物は、かなりの可能性で律令派なのである。任命しても、任命しても、辞表を出させ続ければ渤海使の供応そのものが破綻することとなる。

 ところが、良房はさらに上手であった。広宗安人の辞退を受けた良房であるが、次善の策はとっくに考えてあった。それに、渤海使の供応は清和天皇のプライドもかかっているし、国家の問題でもある。良房は失敗が許されなかった。

 天安三(八五九)年二月七日、広宗安人の辞退を受け、苅田安雄を渤海客使に任命、二月九日には、春日宅成を渤海との通訳に任命した。

 苅田安雄もまた広宗安人と同様に実力で底辺から這い上がっている役人である。ただ、広宗安人のように語学に堪能というわけではない。そこで良房が通訳に選んだのが春日宅成。この春日宅成は役人ではあるが、六位にまで昇った貴族目前の役人というわけではない。任命時の役職、何と大初位下、つまり、役人としては下から二番目、現在のサラリーマンの感覚では入社一年を過ぎ二年目に突入したばかりの若手社員である。良房はこの若者を大抜擢したのだ。

 語学力は問題ない。人と接する能力もある。ただ、国家の命運を担う職務にこうした若者を就けるというのは、良房も思いきった決断をしたものだと誰もが考えた。

 そして、この決断は善男を黙らせる効果もあった。

 何しろ無事に任務を終えたら想像を絶する出世が待っているのだ。必死になって大学に入り、必死になって役人になっても、出世できずに日々を過ごす先輩を嫌というほど見てきたし、自分もその中の一人になると考えていた。世の中が大きく変われば自分にもチャンスがあるのではと考えることはあったし、その機会を考えて律令派に興味を持ったこともある。

 特技があるとすれば渤海の言葉を学んで話せるようになったことぐらい。それも役人としての評価には何の関係もなく、周囲からは無駄なことに時間を費やす愚か者としか見られなかった。

 それが、この特技を太政大臣自らが認め、若い自分を国を左右する大役に任命し、清和天皇自らが辞令を書いて自分に渡したのだ。

 これでは、仮に春日宅成が律令派であったとしても問題にならない。自己を評価して貰った上での人生最大のチャンスを目の当たりにして、自分の主義主張を貫き通せと強制するのは無茶な話である。

 武力を奪われ名ばかりの右大臣となった良相が巻き返しを図ったのは天安三(八五九)年二月一一日。

 自身が身を置いている律令派の現状はお世辞にも良好とは言えない。善男が音頭をとって律令派の再構築を図っているが、再三者の目にはとっくに寿命を迎えた組織を懸命に延命しようとしているようにしか見えず、良相は律令派と訣別してはいないものの、今の律令派からは明らかに距離を置くようになっていた。

 とは言え、良房の元に行ったわけでもない。律令派に身を置いているから良相はここまで来ることができたのであって、今に来て律令派を捨てて良房派に鞍替えしたところで、現在以上の勢力を築くなどできない。

 良相が考えたのが自派の確立である。兄ではあっても良房は対立する相手であり、その兄に対抗するには良房個人だけではなく良房の作り上げた組織と対抗しなければならない。

 良相がこれまで作り上げてきた自派というのは、かつての不良仲間、そして、律令に萌える者である。そのどちらも今の良相にはない。不良仲間は武人となって良房の元に仕える身となっているし、律令に萌える者は善男のもとに集っている。律令派の時代になったかと考えて律令派に加わった者は、そうではなかったと考えた瞬間に律令派の元を立ち去っていった。

 良房の後継者を任じていた頃は藤原の全てが自分の全てのものとなると考えていた良相であったが、今や藤原の全てが基経のものとなることが明かとなってしまっている。

 しかし、それを良しとする者が多くはなかった。

 藤原氏の中にも序列はあり、トップは何と言っても良房。次に来るのが藤原北家出身の上流貴族で、良相や基経はここに含まれる。その下にその他の藤原氏の上流貴族が来て、中流貴族、下流貴族、役人となる。

 これに良相は目を付けた。

 藤原氏の困窮者居住施設である崇親院と、藤原氏専用の病院である延命院を建てたのである。この二つの利用者は藤原氏限定。その設備は豪華を極め、内裏にもここまでの設備はないといわれる規模であった。

 藤原氏の中にもヒエラルキーがあるとは言え、そのヒエラルキーの途中の者であっても、一人一人の職務を考えると、中央にしろ地方にしろ、様々な役所の要職に就いていることが多い。単に北家の上流貴族ではないというだけでヒエラルキーで低くなるが、勧学院という大学に匹敵する教育施設を出た者も多いことから、各職場では即戦力として期待されることが多かったのだ。

 良相はこれを束ねようとした。実現すれば一大勢力となるはずだから。

 そんな良相の行動を気にとめたのか、いつもならば藤原氏が出てくるところなのに、藤原氏が出てこないという事態が起こったのが天安三(八五九)年三月四日。河内国と和泉国の国境にある薪山の所属を巡る争いが起こり、その調査のために派遣されたのは紀今影と桜井貞雄麻呂の二人。二人とも役人であって貴族ではない。

 こういった領地争いはたいがいややこしくなるものだが、今回はそこに律令派が噛んでいた。もともと和泉国であった地域であったところに河内国が進出し、律令派の貴族の庇護もあって河内国の一部となりつつあった。ただし住民は和泉国である。普通、こうした争いは後から進出したほうが負けるのだが、今回は律令派が噛んでいるだけにスムーズに解決できなかったのである。

 紀今影はおそらく紀氏の出身であろうから、役人とは言え名門貴族の一員である。ゆえに、かなりの確率で貴族になれるのだがあと一歩が足りない。一方の桜井貞雄麻呂は素性不明。六位の役人なのだからあと一歩で貴族になれるのだが、その一歩が遠い。

 この二人を良房が推薦し清和天皇が任命したのは、そのあと一歩のためでもある。

 とはいえ、貴族を目前にしながらその一歩が足らずに貴族になれぬ者も多いのも現実。一生をかけて出世の階段を一歩一歩昇っても、貴族を目の前にしてそこで定年を迎えるのは珍しくもない。

 人生の最期が貴族であったか役人であったかは、個人の名誉にも関わるし、子の人生にも関わる。貴族ならばその生涯を国の公式記録に残されるし、貴族の子であれば大学に行かずに役人になれ、それもかなり高い地位の役人として役人生活をスタートできる。だが、役人ではそれがない。

 これは藤原氏とて例外ではなく、良房のように父親が大臣ともなっている家系に生まれれば二〇代での貴族も可能だが、そうではない家系の生まれだと、藤原を名乗りながらも貴族になれずに一生を終わることも多い。良相が救済しようとしたのもそうした者やその家族である。

 この、役人と貴族を分かつ分岐点である六位の地位にある複数名に貴族入りのチャンスが与えられる場合、そのうちの一人は藤原氏であることが多かった。藤原氏はその数も他の貴族と比べて圧倒的に多いので、藤原氏の誰かにチャンスが与えられることはおかしな話ではないのだが、そこはやはり勘ぐられるところでもある。何しろ、人事に大いに発言権のある太政大臣が藤原氏であり、人事の決定権を持つ清和天皇がその太政大臣の孫なのである。

 その上、右大臣が藤原氏優遇の設備を建てた。これは藤原以外の者に反発を呼ばずにはいられない。

 良相は言うだろう。これは善意なのだと。

 しかし、良房にとっては迷惑なことであった。自派にとって不利になるからではなく、人事において藤原氏を逆差別しなければならなくなったからである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

0コメント

  • 1000 / 1000