摂政基経 2.武士たち

 現在の日本で言えば、法人税を引き上げたり、サラリーマンへの課税を強めたりと、現在の税負担を一手に引き受けている現役世代に対するさらなる負担の増加は、失業の増大と生活の困窮化によりかえって税収の減少を招いて失敗に終わるが、税負担を逃れている年金生活の高齢者や在日特権所持者、宗教法人への資産に対する課税を強めれば税収を増やすことができる。

 この時代も同じ理屈だった。税負担を逃れることができた特権階級への課税を強化しなければならないのにそれはできず、増税となるとターゲットとして狙われるのはとりやすいところとなる。

 ところが、そのとりやすいところというのはあまり生産性の高くない田畑なのだ。貴族の立場で考えれば理解できなくもない。自分の名義を貸すのは、農民を守るためではなくその土地からの収穫を目論んでのことである。税よりは安い率で年貢を納めさせることで結果として農民を守ることとなるが、第一義的には何と言っても土地からの収穫だった。

 そうなると、生産性の高くない土地に名義を貸すことはあまり得策ではない。税と違って年貢の税率は恣意的に決まるが、農民が生活できなくなるほどの年貢を取り立てるわけにはいかないから、結果として大した年貢も上がってこなくなる。その上、名義を貸すと言うことはその土地に対する責任を背負うということでもあるのだ。田畑の水争いにも顔を出さなければならないし、種籾も無くなってしまった農民には種籾を貸さなければならない。田畑が荒れたら復旧させるための費用を出さなければならないし、生活に困っている農民が出たら後ろから支えなければならない。となると、上納させる年貢以上の出費が考えられる土地の名義を貸すのはビジネスとして得策ではない。

 この結果、どの貴族の庇護も受けられない土地は、イコール、生産性の低い土地となる。しかも、その生産性の低さと反比例するかのように高い税率が課せられてしまうのだ。当初はそれでも耐えているが、気がつけば、もはや納めること不可能な税率とされてしまう。こうなったときの選択肢は、抵抗と逃亡の二つしかなかった。

 抵抗とは税を納めないこと。武力に頼ることもあるし、有力貴族の庇護もある。こちらは農村単位でまとまっての行動であり、個人個人での行動とはならない。

 一方の逃亡というのは読んで字の如くで、家も田畑もそのままにして、着の身着のままで農村を離れること。これは村の他の者に与える影響が多大である。

 通常、租税の不足分は村の他の者が立て替えることとなっているので、こうなると、逃げた側はいいが、逃げられた側はたまったものではない。

 誰もが負担から逃れようとし、誰もが負担の押しつけあいをするようになった。

 そして、誰もがこう考えた。「自分は不公平なまでに高い負担を押しつけられている」と。


 清和天皇の命じた増税がどこに消えたか。これもまた、現代日本と大きな違いはない。

 福祉である。

 最低限の生活を保障するための福祉に投じる予算が増大したのだ。

 たとえば、貞観九(八六七)年七月二二日には美作国の大庭郡と真嶋郡の二郡に対して一年間の免税を命じた。山間部にあるこの両郡は収穫に以前から乏しかったが、乏しかったがゆえに私有地とすることのうまみを感じる貴族は少なく、どの貴族の名義も借りることができなかったことから増税の煽りをまともに食らっていた。その窮状に対する清和天皇からの恩恵として一年間の免税が許可された。ただし、これは清和天皇のアピールとして大々的に利用されたが、待っていたのは、全国各地からの同様の悲鳴だった。清和天皇はこれを問題だと考えたが何もできなかった。

 貞観九(八六七)年八月三日には、京都市内に住む孤児を収容するための施設を二カ所建造し、その管理を実施するよう指令が出た。

 京都に流れ込んできた困窮者は大きく二パターンに分けられる。独り身と家族連れである。独り身の場合は、元々耕す田畑を持っていない失業者であるのに対し、家族連れの場合は、自分の所有する田畑では家族を養えないから京都に流れてきた失業者であるという違いがある。深刻さの度合いでいけば、養うべき家族がいる分、家族連れのほうがより深刻であった。

 それでも子供を食べさせることができるならばまだいい。問題は親が亡くなってしまったときである。

 親の死体に泣きすがる飢えた子供は京都市内のいたるところで見られたし、そのそばで飢え死にする子も数多く見られた。だが、もっと多く見られたのは、生きるために何でもするようになった子供たちである。

 生きるためなら何でもするというとき、幼児性愛者の欲望の対象とされるならまだマシで、ほとんどの子供は窃盗や強盗へと身をやつしてしまった。コメ一升、魚一匹を奪うために市に押しかけ、あるいは、既に持っている家に襲いかかって奪い取る。少年犯罪に頭を悩ませるのはいつの時代も変わらないが、この時代は一つだけ現在と違う。少年法がないから、未成年者だからと言って罪が軽くなることはない。

 ただし、犯罪をいかに厳罰に処罰しようと、犯罪でしか生きていけない子というのは確実に存在する。その子たちを犯罪に頼らなくても生きていけるようにするのは絶対に必要だった。


 貞観九(八六七)年八月六日、大宰府より緊急連絡が届いた。阿蘇山の噴火である。

 ただ、その日付が古いとしか言いようがない。噴火が最初に観測されたのが五月一一日の夜。闇夜が突然明るくなり、翌一二日には火山性の地震が発生し、大規模な山崩れが発生した。

 この連絡が京都に届くまでおよそ三ヶ月を要している。いくら連絡手段が現在とは比べ物にならない乏しさのこの時代とは言え、瀬戸内海を利用すれば一〇日もあれば届く。それなのに、およそ三ヶ月もかかってやっと報告というのだから、これは遅いとしか言いようがない。

 確かに他の自然災害の記録を見ても、朝廷に連絡が届くのに三ヶ月ほど要していることはまれに見られる。だから、これはこの当時の普通なのだと考えられるのだが、その一方で、吉事については早々と情報が寄せられる。凶事はわざと遅らせ吉事は早々と伝えるということなのだが、なぜこうなのかを考えたとき、古代ローマ社会における属州総督を思いついた。

 属州総督は現在の日本の感覚でいくと県知事に該当する職務だが、与えられている権利と権力は現在の県知事と比べものにならず、三権のトップに加え、属州内の軍事力と徴税権を持つという事実上の独裁者であった。属州に住む住民はその総督の統治が苦痛であると感じたら総督罷免を求めて訴え出ることが許されていたから、独裁者としての権利と謙抑が与えられていようと傍若無人に振る舞えるわけでは無かったが、それでも現在の県知事とは比べることのできない権利と権力である。

 これは、あれだけの街道網を整備した古代ローマでさえ、首都ローマからの連絡を待つことを優先させてしまっては時間がかかりすぎるゆえに、現地の統治者に絶大な権利と権力を与えて、統治をスムーズに行わせていたからであった。

 この時代の国司も、与えられている権利と権力という点ではローマの属州総督と同じだった。その理由も古代ローマと同様で、地方に命令が届くまでの時間を考えてのものであったろう。おまけにこの時代の日本の街道網は貧弱とするしかないもので、狭い国土でありながら、京都を発した命令が届くのに、遠いところでは一ヶ月以上かかるのが当たり前であった。

 こうなると、逐一京都から命令を発するのを待たせるよりも、その土地で判断し行動させなければ何もできなくなる。ゆえに、その国の国司には国内の司法・立法・行政の三権に加え、警察力、軍事力、徴税権が与えられていた。後の武士団を率いることになった者の中に名門貴族の比を引く者が数多く現れるのも、国司として地方に派遣された者がそのままその土地に残ったのがきっかけであることが多い。


 この権利と権力が与えられていたのが同じであるとなると、結果もだいたい似たようなものとなる。属州総督がそうであったように、一度国司を経験すれば一生贅沢に暮らせるだけの財産を築けるとまで言われたのである。そのためか、国司になりたがる貴族は数多く、自己推薦の書状は留まることなく届けられ続けていた。

 ただし、属州総督と国司とでは一点だけ大きな違いがある。ローマの属州総督は、現代日本の大臣に該当する法務官や、現代日本の首相に該当する執政官を勤めあげた者が就任するという、貴族の中でもごく限られたトップエリートのための職務であったのに対し、国司は、高くても四位の貴族が就任するという、これから大臣になろうかというような地位の低い貴族の就く職務であるということ。

 既に高位である貴族であれば、その失政がキャリアに与える影響は、ゼロではないにせよ比較的少ない。地方で失政をしたところで、訴えられなければ、ただ単に、中央では実績を残したが地方官としては実績を残せなかったというだけに終わる。これは、個人の能力に関連するようなものではなく得手不得手の問題にすぎなかった。

 一方、低位の貴族に対する権利と権力の付与は、その貴族のキャリアに関わる。その成功が次へのステップへの判断材料となるし、ここで失敗したら貴族としてのキャリアが終わってしまうのだ。いかに、中央で実力を示す才能を持っていると主張しようと、地方での失敗は中央での挑戦の権利すら奪ってしまう。

 こうなると、失政に繋がるような情報がおとなしく京都に届くわけがない。ましてや、この時代は天災が統治者の力量を測る要素とされていた時代である。素晴らしい統治者のもとでは何の天災も起こらず平和で安定した暮らしが築けるのに対し、そうではない統治者に対しては、いかに統治者自身が懸命に働こうと、地震や噴火といった天災が降りかかるとされていたのである。

 自分の統治する地域での天災の発生は認められることではなく、できる限り隠そうとすることであった。それがたとえ、その土地に莫大な被害をもたらし、数多くの被害者の出る災害であろうと、国司たちはその災害を隠そうとしたし、届け出たとしてもその被害規模は少なくした。最低でも、朝廷からの援助は不要とするぐらいの規模であると過小報告するのが日常となったのである。

 無論、朝廷がそれを快く感じていたわけではない。報告を正しく行うよう命令していたし、国司からの報告以外に各地の情報を手に入れるべく、その当時としてはできうる限りの手段を以て情報収集にあたってもいた。


 貞観九(八六七)年の夏は比較的平和のうちに過ぎていた。取り立てて大きなニュースもなく、記録に残っているのも馬が献上されたぐらいなものである。

 しかし、一〇月一〇日、大ニュースが飛び込んできた。

 右大臣藤原良相、死去。五五歳での死である。

 清和天皇は亡き良相に対して正一位の位を贈った。

 日本三代実録に限ったことではないが、著名人の死については、その死亡日時だけではなくその生涯をまとめて記録している。より高位に登った者であればあるほどその文章量は多くなるので、右大臣になっただけあって、日本三代実録の中での良相の死に関する記事は長い。

 まず、清和天皇の命により追悼として正一位にまで昇進させたという記事があり、そのあとで生い立ちが書かれている。死後に太政大臣となった藤原冬嗣の五男で、姉が太皇太后、兄が太政大臣であると記されている。良房の弟であると記されていても長良の弟であることは記されていないが、これもまた、生涯を影であることに徹した長良の宿命であろう。

 それから、良相が人生でどのような役職を歴任してきたかが記されている。良相が生涯に就任してきた役職の流れを見ると、典型的な藤原氏のトップエリートの流れそのままに感じる。幼いときから天皇に仕え、従五位下に昇って貴族入りし、役職を次々とこなして右大臣にまで昇る。ただし、その中に律令派に与したことは全く記されておらず、兄との対立については影も見えない。

 そのあとで良相の人となりが記されているが、かつて不良であったことや、人身売買や密貿易など良相のブラックな部分については全く記されておらず、貧しい人を助けたことや、教育を援助したこと、信心深く寺院を保護したことなど、褒められるようなことだけが書いてある。

 良相の人生を語る上で欠かせない一点である良相の武将としての遍歴は全く記されていない。役職の一環として武人の職務を勤め上げたことは記されているが、承和の変をはじめとする良相の武人としての活躍は完全に抜け落ちている。

 そして一〇月に入ると病気になり、一〇月一〇日に亡くなったことが記されたあとで、良相には男女あわせて九人の子がいて、長男の常行が大納言にまで昇ったことが記されている。良相の死因は病死と記されてはいるのだが、どのような病気であったのかの記録は残っていない。

 公的史料に記された貴族の死に関する記事としては例外的な長さであり、その内容も美辞麗句に満ちたものであって、生前の良相のブラックな部分はひた隠しにしている。まるでそれは触れてはならないタブーであるかのように無視されているのだ。


 それは、良相の死の直後から奇妙な自然現象が相次いだことが理由に考えられる。不可思議な自然現象を前に、人々は良相の死を改めて振り返り、これは亡き良相が何かしたのではないかと噂したのだ。

 まず、良相の亡くなった六日後である貞観九(八六七)年一〇月一六日には太政官から虹が立ち上った。人々は良相が天に昇ったために虹を呼び寄せたのではないかと噂した。

 一〇月一七日には昼間に流れ星が見えた。東南へと流れていった流れ星を見て、人々は良相が東南へと旅だったのだと噂した。

 一〇月一九日、石見国から鹿足郡にある倉庫が鳴りだしたという連絡も来て、これも良相の何かではないかと噂した者が多く現れた。連絡の届いた日時を考えると良相の亡くなる前の出来事ではないかと考える者はいなかった。

 こうした噂が登場する条件は二つが重なるときである。噂の登場人物が不遇の晩年を迎えたこと、そして、現状が良くないと考え変化を求める民衆の期待が高まっていることである。

 この期待を亡き有力人物に託すのは珍しくないことであり、有名な菅原道真の怨霊も、所詮は変化を求める民衆の期待の具現化に過ぎない。

 良相はこうした期待を集めるのに適した人物になった。普通の人間であれば、死を迎えた後で生前の悪行に目を向けられることはなく、善行だけが注目される。死後も悪評から逃れられないとすればそれだけの大罪を犯した者だけ。生前の良相はかなりブラックな部分のある人物であったし、その行いも誉められたものではなかったが、死はその評価を完全にリセットした。待っていたのは、教育と、信仰と、弱者救済に勢力を尽くした善人としての評価だけである。

 良相をまるで神であるかのように考える者まで現れ、清和天皇もその民衆の期待に応えるように、貞観九(八六七)年一〇月二〇日、紫震殿に六〇名の僧侶を集めて大般若経を三日間に渡って転読させた。


 しかし、なぜ、良相が信仰されるような事態となったのであろうか。

 その答えは、この年の一一月の史料を見れば理解できる。

 貞観九(八六七)年一一月一〇日、清和天皇は摂津国、和泉国、山陽道の諸国、南海道の諸国に対し、海賊追捕の命令を出した。

 史料によれば、このとき、伊予国宮崎村を本拠地とする海賊が瀬戸内海を横行し、海上のみならず、海沿いの集落を襲いかかっていたと記されている。

 人々が求めていたのはこれだったのだ。

 良相が善人であったことよりも、良相の持つ武力、良相の力による平和を求めていたのだ。だが、良相はもういない。それは一人の人間がいなくなったのではなく、国が武力を率いて強盗団を叩きのめすことのできる時代が失われたことを意味するのだ。

 待っているのは、自分の身は自分で守らなければならないとする時代である。それは断じて平和ではない。安全も安定もなく、明日の保証もない。いつ奪われるか、いつ犯されるか、いつ殺されるかわからない不安と緊張が日常となってしまった現実を前にしては、「せめて良相が生きていてくれたら」に変わり、「良相が天から自分たちを守ってくれる」に変わるのにはさほど時間がかからなかった。

 この良相信仰は、日本三代実録編纂の頃まで続く。

 日本三大実録は、基経の死後、宇多天皇が自らの権威を示すために作らせた歴史書である。宇多天皇の権威の確立のためにはそれまで権力を握っていた基経の否定が必要であり、基経の権威の源泉である良房の権威を歴史上で否定するためには、良房の対立する存在である良相を賛美するのが有効な手段であり、それには、良相信仰を利用するのがもっとも手軽であった。


 良相の死は、理論上、権力の空白を生むはずである。何しろ右大臣の地位が空席になったのだから、大規模な人事刷新があるのが普通である。

 ところが、良相の死で右大臣職が空席となっても何も起こらなかった。

 応天門炎上事件を最後に事実上の政界引退にあったことで、右大臣の不在は現時点の政局の日常になってしまっていた。名目上は右大臣が存在していたのだから人事刷新の起こりようがなかったのである。実際、太政大臣藤原良房、左大臣源信、右大臣藤原良相の体勢が確立されて以後大納言以下の人事異動はあっても大臣クラスは完全に固定されたままであった。

 その固定された大臣職に空席ができたことは、大納言以下の貴族達を色めき立たせることとなった。単純に言えば、誰が右大臣になるか、である。

 このとき、右大臣に就くと考えられた者が三名いた。

 まず考えられたのが、大納言の藤原氏宗。三人の大臣が事実上引退状態にある中、人臣のトップとして実務にあたっていたのが氏宗である。実務能力に関して言えば問題ないと言え、後任の右大臣にはこの時点で最有力候補だった。ただし、この人は左近衛大将を辞任しようとした過去があり、この一事は清和天皇を考えさせるのに充分だった。大納言と違い、大臣となると相応の責任もついて回る。その責任を藤原氏宗は果たすことができるのか疑問であった。

 疑問を感じさせない人材ということで、中納言の源融も候補者に挙げられていた。左大臣源信の実の弟であり、一見すると政権の安定を考えれば藤原氏宗よりも源融のほうがこのときは一歩上に見える。ところが、この人は有能であること間違いないのだが、源信と違って出しゃばることが多く、敵を多く作るタイプである。この人を大臣とした場合、かなりの可能性で敵を作ることが考えられた。

 もう一人の候補者は同じく中納言である藤原基経。何と言っても良房の正当な後継者であり、政権の継承を考えるならば最良の人材である。能力についても問題ない。ただし、基経の実績と経験は他の候補者二人と比べて浅く、二人を追い抜いて大臣となるのは考えづらい。

 清和天皇は結局、右大臣を空席のままとすることで結論づけた。


 貞観九(八六七)年一一月二三日、巨大な彗星が観測された。暦の計算方法が変わって日食や月食が計算されるようになってはいたが、この時代の天文学の水準では彗星の計算まではできない。

 ただでさえ奇妙な自然現象の連発に驚いていたところに加えて登場した巨大な彗星。日食や月食のメカニズムは専門家だけでなく一般庶民にもある程度までなら広がっていたが、彗星のメカニズムについてはわかっておらず、天文学の専門家である暦博士でさえ平然としていられない天体現象と考えたのがこの時代の科学水準である。

 この彗星に伴う動揺を受け、一一月二九日、清和天皇は一つの勅令を出した。

 彗星の出現にいたるまでの諸々の自然現象に加え、強盗団の蔓延と疫病の流行は大問題である。ゆえに、日本国内全ての者は、この日より三日間の禁欲生活をし、仏教の経典を読み上げて祈るように、という命令である。

 通常であれば僧侶を集めての大般若経の転読とするところを、僧侶であるか否かに関係なく、身分や性別も関係なく、国中の全ての者が神仏に祈れというのである。

 この時代の考え方によれば、自然現象は執政者に対する天の意志である。それが良くない内容であればあるほど天はその執政者を不合格と判断したということであり、良くない自然現象が起こっているならば、時の執政者は直ちに責任をとることが求められる。

 この考えでいけば、今回の彗星にいたるまでの自然現象も、清和天皇に対する天からの意志でなければならず、清和天皇は相応の責任を取らなければならない。

 ところが、清和天皇は一言もそのようなことを口にしないし、考えもしない。自分は執政者として正しいことをしているし、天から受けているのも叱責ではなく祝福だと確信していたし、明言もしていた。

 ただし、それが本心からそうであったのかどうかは怪しい。むしろ、そう考えることしか自分の誇りを維持できなかったのではないかとさえ考えられる。

 なぜなら、このときの清和天皇に対する庶民の支持は、決して高いものではなかったからである。

 応天門の変で律令派が一掃され良房派の天下になったのは誰の目にも理解できた。問題はその後である。


 派閥争い決着がついたのだから、その後は国内政治に力を入れて日々の暮らしを良くしてくれなければならないはずであったのに、それがいつまでたっても実現しない。

 清和天皇は、都合の悪いことは全て、摂政でもある太政大臣藤原良房の名で行っていたが、この頃にはもう、良房も事実上の引退状態にあり宮中に全く姿を見せないことは誰の耳にも知れ渡っていた。

 姿を見せないのは太政大臣だけではない。左大臣の源信も姿を見せないし、右大臣の藤原良相にいたっては死を迎えた。となると、大納言の藤原氏宗ということになるのだが、氏宗が何らかの政治的意志を発動させたという話は庶民の間に全く聞こえてこなかったし、庶民の目にも見えなかった。

 つまり、応天門の変より以後の政局は、全て、まだ一七歳である清和天皇が指揮していると考えるようになったのである。実際、清和天皇は即位からこれまで、これが幼い少年のすることかと考えたくなるほど、よく言えば精力的に、悪く言えば独善的に動き回っており、清和天皇にとってはどんな貴族も都合の良い手足でしなかった。

 良房が清和天皇を皇太子に任命したのも、文徳天皇の没後ただちに清和天皇を皇位に就けたのも、見る目としては正しかったと言うしかない。実際、律令に情熱を燃やし、窮事に陥ると神仏頼みをするしかなかった文徳天皇と比べ、天皇としての力量は清和天皇の方が上回っていると言うしかない。

 ただし、結果は伴わなかった。庶民の生活は苦しいままであるし、治安だって回復していない。失業者は多いし、京都の街中には数多くのホームレスがいる。

 派閥争いの終結でこうした日々の暮らしが好転することを期待していたのに、そんな兆候は全くない。これが派閥争いの結果である以上、派閥争いの敗北者である律令派に希望の光が灯るのも時間の問題であった。

 要は二大政党制の論理である。

 現状に賛成すれば現在の政権政党を支持するし、反対するならば政権を握れる野党を支持する。それは何も、その政党の政策を支持するからではなく、現状を認めるか否かの違いでしかない。つまり、政策など関係ない。

 二大政党の欠点として、その二つの政党のどちらにも意見の同意ができないとする時の選択肢がないことを挙げる者がいるが、それは意見の同意を考える方が間違っている。肝心なのは、現在の政権を支持するかしないかであって、どのような政策でこの社会を運営するかではない。二大政党のどちらにも同意できないというのは民主主義においては少数意見。耳を傾けてもそこに意味はない。

 この時代も同じことで、律令を支持するとか、律令を批判するとかは問題ではない。重要なのは現状を支持するかしないかである。律令派にシンパシーを感じるとしたら、別に律令を信奉しているからではなく、単に現在の政権を批判しているに過ぎない。


 多神教の世界では、死者が簡単に神や仏になる。このあたりは一神教ではわからない理屈だが、多神教のとき、著名人であれば著名な神になるし、無名な一般庶民であればその家族だけが信仰する神になる。日本は歴史上一度として一神教になったことがないから、信仰の対象が一人や二人増えたところでどうと言うことはないし、たくさん存在する神や仏の中から自分の好みの対象だけを祈ることだって許される。成績が良くなることを願うならこの神様、恋愛についてならこの神様、健康についてはこの神様というような選り好みだって何の問題もない。

 現在の苦境からの脱出を求める対象を求めるとき、現在に対立する存在であり、既に亡くなっている人であるがゆえに神と扱われていれば、簡単に信仰の対象となる。それは、単純な現世利益を求めてのことであり、神学とか哲学とかいう奥深いものではない。ゆえに健全である。

 このとき信仰されるようになったのは良相だけではなく、生前から常人離れしている才能の持ち主とされていた小野篁も信仰の対象となっていた。篁の伝説のほとんどは死後に登場したもので、いかに篁が素晴らしい人物であったのかという言い伝えは雪だるま式に膨れ上がっていた。言わば、現状と対立する存在であるがゆえの、律令派の死後の名誉回復が行われたのである。

 しかし、律令派の最重要人物である伴善男はそこに含まれない。追放されたのみでまだ死を迎えていないからというのは理由のごく一部分でしかない。

 もっとも大きな理由は、善男に対する庶民の怒りの根強さである。追放されてもなお存在を否定され続け、善男がいかに劣悪で極悪非道な存在であるかが、応天門の変から一年を経た今も語り継がれていた。

 貞観九(八六七)年一二月一八日、伴善男が柏原山陵に建立していた道場に対し、移転命令が出された。善男の手がけた痕跡を徹底的に消すよう庶民が求め、朝廷はその求めに応じたのである。


 年の明けた貞観一〇(八六八)年一月一日、新年恒例の朝賀が悪天候を理由に中止された。朝賀自体は中止されることの多い年中行事であるため、中止となっても誰も何も言わない。

 一月七日、恒例の昇格発表。九名の役人が新たに貴族に加えられ、三一名の貴族が昇格を果たした。

 このときの昇格は例年にはない特徴があった。

 学者の積極登用である。

 文章博士を除く学者は、いかにその業績が優れていようと地位としては役人にとどまり、貴族に上がることはない。それは律令に定められており、役職と地位が密接につながっている以上、学者としての職務を放棄して別の役職に就かなければ貴族になれないのである。

 ところが、清和天皇はこのとき、典薬頭(現在で言う医学部の学部長)の藤原秀雄、助教(現在で言う文学部の副学部長)の菅野佐世、天文博士の中臣春継を貴族にさせたのである。中でも典薬頭の藤原秀雄の貴族就任は注目を集めた。

 この時代、医者の地位が現在では考えられないほど低かったのは既に記したとおりである。これは世間の評判に基づくものであり、医者がこの社会に必要不可欠な職業で忌避される職業ではないと国がどう啓蒙しようと、すでに固まっている感情を変えることはできなかった。

 これを問題と考えた基経が選んだのが藤原の名の利用である。

 とはいえ、藤原秀雄は藤原氏ではあるが、藤原北家ではない。藤原家の中でも負け組とされる南家のさらに支流である。藤原を名乗ることは何ら問題ないのだが、その権勢で貴族になれるわけはない。

 早々と貴族としての諦めを感じ取っていた秀雄が選んだのは医学の世界だった。貴族の中には、自らに与えられた特権を還元することに熱心になる善人も珍しくないが、秀雄が選んだのは医学による特権の還元であった。事実上機能しなくなっていた無償医療を立て直し、貧しくても医療が受けられるようになるように戻そうと懸命になっていたのが秀雄である。その秀雄を基経は抜擢した。

 今をきらめく藤原氏の一員が医学を志し、典薬頭という医学会のトップに就いた。典薬頭に対応する地位がいかに低かろうと、藤原の権勢を以てすれば貴族にするなど難しい話ではなかった。

 医者であるが貴族でもある。しかも、貴族としての義務感に満ち、その還元を忘れていない。こうした、目立たぬが実直に活動している者を評価するのは、人々の支持を集めるのに非常に効果がある。たとえそれが蔑まれている医師という職業にある者であろうと関係ない。


 貞観一〇(八六八)年一月一六日、新年恒例の新しい役職の発表。

 これと言って目を引くような人事は行われていない。

 前年末になくなった良相の穴を埋める人事は行われず、右大臣職は空席のままである。強いて挙げれば、本来ならば地方官になるわけのない高位の役職の者が地方官兼任となったぐらいである。参議で従三位の源多(みなもとのまさる)が近江国司に、良相の子で参議と右近衛大将を兼ねる従三位の藤原常行が讃岐国司に任命された。

 ここでの二人の従三位の地方官任命の真意は不明である。普通ならば五位、高くても四位の貴族が就くのが当たり前の地方官なのに、従三位で参議まで務めている者が地方官を務めるなど普通では考えられない。前例を捜せば、遣唐使に選ばれた者が、一緒に唐に渡る留学生や留学僧たちの渡航費用を工面させるために、参議でありながら国司を兼任させたことがあるが、このときは遣唐使など影も形もない。

 また、二人とも参議兼任である。常行に至っては右近衛大将でもある。こうなると、地方官ではあっても地方に赴任できるわけはなく、誰か代理を送ることが求められる。となると、二人は地方官としての実務から逃れながら、国司としての収入を得ることができるようになる。

 国司になれば一生生活できるだけの財産を稼げると言われる。だが、それも、地方に実際に赴任して激務をこなした結果としてなら目を閉じることができても、赴任せずに代理だけ派遣し、自分は中央で安穏とした暮らしをしている者が一生生活できるだけの財産を得ることができるなど許されるであろうか。しかも、すでに従三位にまで昇っている、つまり、地位に応じた収入だけで生活できる者が。

 父の権勢を失った常行と、同じ源氏でも源信や源融ら隆盛を極める嵯峨源氏とは一線を画す仁明源氏の源多は、この時点の朝廷内の権力争いにおいて敗者である。だが、律令派として明確に別派閥となっているわけではない。

 このあたりは、清和天皇の思惑か、あるいは基経の陰謀なのか、それはわからない。


 放火されて焼け落ちていた応天門の再建が始まったのが貞観一〇(八六八)年二月一三日。応天門炎上事件は大事件ではあっても、応天門の再建自体は小規模な工事で済むということなのか、工事の責任者の名前は残っていない。

 ただし、応天門炎上事件に何かしらの呪いを感じる者が多かったと見え、また、今や崇拝される存在となった良相の没落の原因となった事件ということもあり、清和天皇は応天門の再建に伴う大般若経の転読を、再建開始の翌日である二月一四日から三日間に渡って行うよう命じている。

 また、応天門の再建で祟りが起こらないようにということか、二月一七日には律令派と目される貴族たちに新たな役職を付与している。

 もっとも、清和天皇自身は冷めた少年である。

 重要なのは応天門の再建ではなく、基経ら良房派の貴族を牽制することである。そのためにもっとも簡単なのは律令派の復権であった。

 この時期の基経が人事にどれだけの力を発揮できていたかどうかは怪しい。しかし、太政大臣の正当な後継者という地位を持つだけでなく、良房派で政権を独占できるようになった以上、自らの派閥を危うくするような人事に全く無関心とすることは許されない。ゆえに、清和天皇が律令派を起用するのには、基経ら良房派の貴族を黙らせるために二重三重の手を打たねばならない。

 まず、通例である一月一七日ではなく一ヶ月ずらして二月一七日とする。一月一七日の任命がないわけではなく通年より少なかったのだが、年の途中で人事登用をするためにあらかじめポストを空席にしておくことはよくあることであり、しかも今は右大臣の地位が空席になっている。右大臣の席を埋めるような人事が簡単に済むはずはない以上、一月一七日時点の清和天皇の行動は何ら不合理なことではない。

 次に応天門の再建だが、応天門に限らず、国の施設が焼け落ちたままにしておくことは当然ながら許されない。ましてや、応天門は貴族と庶民の世界を分ける門であるだけでなく、庶民にとっての憩いの場である。これはただちに再建しなければならない。これも清和天皇の行動は不合理なことではない。

 だが、応天門の再建は、応天門炎上事件によって権勢を失われることとなった律令派の怨念を民衆の中に渦巻かせてしまうこととなる。良房や基経がいかに迷信と断言し啓蒙しようと、民衆の間に一度生まれた疑念はそう簡単には消えない。ましてや、今は良相や篁が信奉されている時代である。いかにスタートが現政権への批判であろうと、こうなると、世情安定のためには、怨霊を否定するのではなく、怨霊を受け入れた上で怨霊を鎮めるような行動が必要となる。

 そこで、怨霊を鎮めるための大般若経の転読を用意し、それでも効き目がないということで、律令派への恩賞としての役職付与を出す。こうなると、律令派の復権も止めようがない。


 だが、清和天皇には一つ計算違いがあった。

 文徳天皇の重臣で律令派と良房派の間を取り持っていた藤原良縄(よしただ)が倒れたのである。

 良房が事実上引退し、源信も姿を見せないという状況で、良縄は両派に睨みを利かせることができる重鎮と見られていた。役職こそ参議だが、このとき五五歳になっていた良縄の存在感は大きく、基経も色々と良縄を頼っている。良縄を通せば、律令派の残党とも話しが取り持てるのだ。

 律令派の復権は画策している清和天皇も、律令派の政権や政策そのものを画策しているわけではない。重要なのは良房派を牽制することであり、律令派に求めていたのも良房派に対しあれこれと文句を言わせるところまでであって、それより上の権力を持たせるところではない。

 そのためにも、両派の橋渡しのできる藤原良縄は重要なファクターだった。

 しかし、貞観一〇(八六八)年二月一八日、藤原良縄が亡くなる。これは、律令派の緩やかな復権を画策していた清和天皇にとって想像だにしなかった大打撃となった。

 それがどれだけの大打撃なのかは、良縄の死に関して記されている日本三代実録の記事の量でわかる。

 なんと、右大臣にまで上り詰めた良相とほぼ同じだけの量が記されているのだ。最高位が参議止まりであった者としては異例の記事量である。

 そして、この良縄の不在は、良房派と律令派の繋がりを断ち切る遠因にもなるのだ。

 良縄に替わって藤原良世が律令派との中間役に回ることが多く見られるようになるが、良世は長良ではない。長良のような立場の者であるというだけで、人と人とをつなげるという点では長良には敵わないし、それに、長良と違って明確な反律令を明言している。

 良世は有能な人であるし、良縄のいないこの時点では中継役として最高の人材であるが、やはり長良には敵わないと誰もが感じていた。


 律令派の寄って立つところは「理想」である。

 現状を否とし、現状ではない理想が実在するはずだと考えた結果たどり着いたのが律令なだけであって、律令が先にあって、律令を信奉するようになったわけではない。さらに言えば、現状が間違っていることや、現状を正しくできるのだと考えることも重要ではない。何よりも大切なのは、現状を危惧する自分は、現状に安穏としている一般人とは違う特別な存在なのだとする優越感である。

 この論理でいるのだから、律令派が単なる牽制役に留まるわけはなかった。

 おまけに、行き着くところは自分一人の優越感であり、同じ律令派であろうと他人の優越感など何の考慮にも値しない。つまり、律令派全体としてならば良房派に対抗する存在なのだが、律令派個々人の結束は極めて弱いのだ。

 善男がいた頃は権力に繋がる勢力であり、律令派としての役割を果たすことでそれなりの地位を手にできていたが、今はそれがない。地位も期待できないが、だからといって自己優越感は隠せないというとき、集団はいとも簡単に分裂し、互いが互いに争うようになる。そういえば、学生運動華やかなりし頃、同じ革命を訴える集団でありながら相互の反発は根強く、社会権力への批判と敵対心はやめないが、だからといって団結することはなく社会を打倒する前に相互を打倒していたが、やっていることはいつの時代も変わらない。

 そしてもう一つ、能力もないのに権力を持つと、声が大きくなるのも今と変わらない。現在でも支持率が一パーセントにも満たない弱小政党なのに声だけが大きいおかげで主張を広範囲に広めている政党があるが、この時代でも同じで、律令派の支持率は恐ろしく低いのに、権力が徐々に回復するにつれ、律令派の面々は主張も強く展開するようになったのである。と言えば聞こえはいいが、批判の連発を始めたのだ。それも、何ら建設的な意味を持たないくだらない批判が。

 貞観一〇(八六八)年二月二五日、歴代皇族の陵墓への参詣はどのようにするべきかで論争が起こった。礼儀を尽くせばそれでいいじゃないかというのは一般人の考えであって、天皇の参詣となると簡単にはいかない。

 そこまでは理解できる。

 しかし、その陵墓参詣の方法を巡って論戦を展開するとなると平然とは終わらない。何しろ、自分の意見を展開して相手を言い負かすことが目的なのだから、簡単に終わるわけがない。

 行博士の大春日雄継(おおかずがのおつぐ)が四書五経の一冊である礼記を持ち出してあるべき参詣の方法を主張すれば、文章博士の巨勢文雄が中国の歴史書である漢書の記事を持ち出して外国の通例を日本でも展開しようとする。互いにその主張を譲ることなく議論は平行線をたどった。

 律令派に権力を持たせようとしたのは間違いでなかったかと考え出した清和天皇であるが、こうなると両者のどちらを参考にするべきかわからなくなる。結局、日本国内の先例に基づいての参詣とすることでお茶を濁すに留まったが、事態はそれでは終わらない。

 この論戦への抗議として、行博士の大春日雄継が抗議の辞表を提出したのである。清和天皇はこれを握りつぶしたが、律令派の暗雲部分は軽いものではないと悟った。


 この律令派の台頭を基経はどう考えていたのか。

 結論から言うと、実にありがたいと考えた。

 政治をスムーズに実施するのに何がありがたいといって、敵の存在が明瞭になり、その正体がどのような者なのかが判明して広まることほどありがたいものはない。

 応天門炎上事件で律令派を追放した直後の良房派はある種の危機を迎えていた。暮らしが向上しない現実があり、ポスト不足の現実があり、亡き良相や篁が信仰されることで偶像化された律令派に人々の支持が流れている現実があった。

 軍勢を率いて国を守った良相。

 類希なる知性を発揮した篁。

 これは民衆の考える偶像としての律令派であり、現実の律令派ではない。このままであれば手強い存在となるはずであった。

 ところが、現実の律令派は、どうでもいいことで論戦を繰り返し、終わったことにああだこうだとこだわる、偶像でも何でもない凡人であることが判明し、この状態で基経の前に立ちはだかることになったのだ。

 律令派の面々の頭が良いか悪いかと言われれば、悪いというしかない。

 試験の成績は高そうだがそれと知性とは何の関係もない。しかし、自分自身はその成績ゆえに頭が良いと勘違いをしていて主張を引っ込めることのない集団である。目障りではあるが恐ろしさはない敵の出現は、自分の権威と権力を存分に発揮できる環境ができあがったことを意味する。結果は今と変わらないにしても、取って代わる権力組織がこの体たらくという現実を目の前に示せば、何もせずに支持率は上がる。


 もっとも、基経が何もせずに安泰でいられたわけではなく、たくさんの問題点を抱えている。こちらは律令派と違って実際に政権を担っているのだから、理想より現実が優先する。

 貧困は広がっているし、治安、とくに首都京都の治安が喜ばしいものではないし、海賊は静まらないし、海外からの侵略の恐れも残っているが、諸々の問題の中で最大の問題は基経の元に法定の軍事力がないということであった。

 国の規定する軍事力があれば海賊対策や治安問題、そして、それより重要な侵略の危機をくい止める効果を発揮するのだが、それが存在しない以上、諸問題は小手先でどうにかするしかない。

 その上、国の定めるオフィシャルな軍事力が劣化するのみであり続けた。軍事力のトップでなければならない左近衛大将の地位にある藤原氏宗が、左近衛大将を辞めたいと、また、言い出したのである。それでいて、兼任している大納言職については辞任のジの字も口にしていない。要は、政務の権力は行使したいが、軍事の義務は果たしたくないということである。こういうところが氏宗の評価を下げる理由になるのだが、ここまでくるとこの人はそういう人なのだと割り切るしかない。氏宗は、大納言としてならばとりあえず合格としてもいい結果を出しているからである。

 とは言え、いかに文人として能力を発揮していようと、武人としての行動も求められているのである。氏宗がいかにそんな意志を持っていないと言おうと、また、その才能がないと認めようと、指揮できる人間が誰もいない以上、大納言である氏宗の権威を利用するしかオフィシャルな軍事力を維持できなかったのだ。

 結局、氏宗の辞表は今回も握りつぶされた。

 それ以外に選択肢がなかったからだが所詮は問題の先延ばしであると誰もが気づいていた。


 貞観一〇(八六八)年六月一日、ついに飢饉の知らせが飛び込んできた。訴え出たのは淡路国で、飢饉が嶋中に広がっていて餓死する者も出たという連絡である。

 まずは収穫まで持ちこたえさせるために、稲一万束の貸し出しが決まった。

 先に、都市が飢えて地方がそれほどでもないと記したが、全ての地方がそれほどでもないわけではない。

 特に、そもそも耕作面積が狭いために収穫量も少なく、他の産業や交易で生活しなければならない地域では、少しの天候不順でもすぐに食糧不足となる。この時代は第一次産業の比率が極めて高い。農業や漁業で生活する者が国民の圧倒的大多数であると言っても良い。

 しかし、淡路島はそうではない。

 この島の主産業は交易なのだ。

 「アワジ」、つまり、「阿波(アワ・現在の徳島県)」に向かう「路(ジ・みち)」という名からも明らかな通り、淡路島は本州と四国を結ぶ交通の要衝であり、また、瀬戸内海を行く船の中継基地でもあるのだ。

 ところが、その交易がまともにできなくなった。

 原因は海賊である。

 瀬戸内海を荒らし回る海賊が、この時代の最大の大動脈である瀬戸内海を行き来する船を襲う光景が日常化した。だったら陸路で行けばいいではないかとなるが、クルマのないこの時代、陸路とはイコール人馬の力である。船と比べて運べる物量が違いすぎるし、時間もかかってしょうがない。どんなに危険だろうと船にせざるを得ないのは、海賊にさえ襲われなければ、速く、大量に物資を運べるからである。

 ところが、海賊に襲われる可能性が高まり、ついには海賊に襲われない方が珍しいとまでなると、船の利用そのものが減る。交易により外から物資を手に入れるのではなく、船を利用せずに自給自足で生活必需品を揃えようとするようになるのだ。

 こうなると、交易で生活している者はたまったものではない。船が行き来することで生活しているのにそれが無くなるのだから、生活が出来なくなってしまう。

 淡路島からの飢饉の知らせは、海賊の被害がもはや尋常ならざる事態に陥っていることを示す知らせでもあった。


 淡路島の飢饉は交易の障害によるもの。あくまでも人災であり天災ではない。

 天災を天からの裁きとする考えで行けば、淡路島の飢饉は天からの裁きと見なすことはできないという言い逃れはできる。

 しかし、この年の七月の現象は天からの裁き以外の何物でもない、どうあがいても言い逃れのできない天災だった。

 群発地震が発生したのだ。

 貞観一〇(八六八)年七月八日、数多くの家屋が倒壊する地震が発生。

 地震は収まることなく、翌七月九日、一二日、一三日と連続し、一五日には播磨国から地震の被害により郡の官舎や寺院が倒壊したとの連絡が入る。

 地震は一六日にも発生し、一八日には雷雨が近畿一帯に降りしきり、地震で緩んでいる地盤にダメージを与え、各地で土砂崩れを招いた。

 七月二〇日、二一日と地震は連続して発生し、さすがに民衆の間にも動揺が広がったため、清和天皇は地震対策に御利益があると考えられる神々を昇格させた。神に位を与えるというのが理解できないのは現在の感覚だから。当時の感覚では、神社で奉られている神であろうと天皇の支配の元にある存在に過ぎなかった。にしても、与える位が高くても従三位。あとは従四位下や正五位下といった位なのに、これで地震が静まると考えたとしたら、言っては何だが呑気なものである。

 当然と言うべきか、低い位を与えただけで地震が静まるという呑気な考えは早々に裏切られた。地震は八月になっても頻発したのである。

 貞観一〇(八六八)年八月一〇日を皮切りに、一二日、一四日、一五日、一六日と地震が連続して発生し、清和天皇は六〇名の僧侶を紫震殿に集めて、三日間の大般若経の転読を命じた。

 ところが、その翌日、皇太子用の居室である東宮で火災が発生し、建物が全焼、その周囲の建物にも被害は広がった。まだ子供のいない清和天皇には当然のことながら皇太子などいない。ゆえに、被害は建物だけですんだが、よりによって宮中のまっただ中で起こった火災は、二年前の応天門炎上事件を思い出させるのに充分だった。


 地震に加え、九月になると台風が襲うようになる。暴風雨が連日吹き荒れ、地震による地盤の緩みと重なって、再び土砂崩れを頻発させることとなった。

 貞観一〇(八六八)年九月七日、清和天皇は伊勢神宮の二〇年に一度の式年遷宮に合わせて、藤原千乗と刑部真鯨を伊勢神宮に派遣した。暴風雨が止むようにとの祈願を乗せてである。

 天皇が頭を下げることは基本的にない。努力した者に感謝の言葉をかけることはあっても、天皇が頭を下げるというのは、この国の歴史において、二つの例外を除いて絶対に許されていないのである。この規則はマッカーサーですら例外ではなく、並んで写真を撮るまでなら譲歩はするが、天皇が頭を下げるというのは絶対にあり得ない。

 その二つの例外というのが伊勢神宮と靖国神社である。伊勢神宮には皇室の祖先神が奉られ、靖国神社には国のために戦って亡くなった者が奉られている。この二カ所だけは天皇でも頭を下げる。

 靖国神社の誕生は明治二(一八六九)年だから、当然ながらそれより一〇〇〇年前であるこの時代には存在しない。つまり、天皇が頭を下げる存在はただ一つ、伊勢神宮のみということとなる。

 その唯一の例外である伊勢神宮に頼るというのは清和天皇の出来る最大限の譲歩だった。

 清和天皇は父文徳天皇と違い、神仏に祈るという行為を元々好まない。儀式としてならばするが、自発的に祈るという意志を欠いている。祈るぐらいならば具体的な対策をして問題を解決しようという精神の持ち主と言っても良い。

 ところが、その清和天皇が伊勢神宮に頭を下げるのである。たとえ代理の派遣であるとは言え、また、式年遷宮に合わせたタイミングであるとは言え、これは思い切った決断であった。

 伊勢神宮への使者の派遣に合わせ、貞観一〇(八六八)年九月九日には、清和天皇自らが貴族を集め酒宴を開いた。酒宴と言っても皇室の正式な行事である以上飲んで騒ぐというわけではなく、女官たちの音楽の奏でに耳を傾けながら皆で詩を作り合うという、遣唐使派遣のときに催されたのと同じような荘厳な儀式である。


 貞観一〇(八六八)年九月一一日には、伊勢神宮への使者派遣の第二段として、久須継王と大中臣豊雄を伊勢神宮に派遣した。皇族と、この時代の神職を一手に引き受けつつあった大中臣氏の派遣は、よりいっそう厳粛な効果を持たせるのに役に立った。

 しかし、その神への祈りが結果を伴わなかった。

 九月一四日、清和天皇の兄である惟條親王が亡くなったのである。このとき二三歳。惟條親王の死因については記されていない。

 清和天皇は兄の死を偲び、三日間の喪に服した。

 天皇の服喪は政務の停止を意味する。

 天皇の代理を務める権限を持つ摂政藤原良房も姿を見せていないことでは変わりなく、左大臣の源信も相変わらず姿を隠している。この状況下では大納言以下の貴族がどんなに奮闘しようとできることが限られている。

 この隙をついたのか、このときの律令派に、派閥全体のリーダーとなりうる人材が台頭してきた。

 文章博士の橘博覧である。

 貞観一〇(八六八)年一〇月一一日、橘博覧はこの日、名を橘広相(たちばなのひろみ)と改めた。改名が頻繁にみられるこの時代だから、文章博士という要職にある者が名を変えたとしてもおかしな話ではない。

 しかし、その名前には広相の策謀があった。由来は仏教用語だというが、誰もそれを信じなかった。

 「~相」と書いて「~み」と読ませるのはありふれているわけではない。この名を聞いて真っ先に想像されるのは今や信仰の対象となった藤原“良相”である。良相は亡くなったがゆえにイメージが先行して信仰の対象となった。特に、律令派を任ずる者にとっては、篁や善男といった律令派のブレインを遙かに上回るシンボルとなっていた。

 そのシンボルの名を連想させる名に改名するというのは、自分が律令派のトップとしてこれから君臨すると、暗に宣言することを意味していた。

 そして実際、広相は基経の対立する存在としてこれから存在し続けることとなるのである。


 台風シーズンも終わり暴風雨は止んできた。

 地震については止んでいないが、連発すると地震が日常の光景となる。発生するなど誰も想像していないところで発生するから地震は恐ろしいのであり、発生すると心がけていれば、地震が発生したところで被害は小さくできる。

 それは、このあたりの記録に記された地震の状況にも記されている。

 群発地震が発生したばかりの頃は建物の損壊の記録が続出しているが、一一月になると、地震が起こったという記録だけが登場し、どんな被害があったのかなど全く記されなくなる。記されていないのは、記録者の怠慢ではなく、単に被害がなかったからであろう。

 記されなくなったのは地震の記録だけではない。ニュースそのものが記録されなくなるのである。

 ただし、一二月までは。

 貞観一〇(八六八)年一二月七日、清和天皇が皇族や貴族を招いた一つの催しをした。酒や食事が振る舞われ、参加者にはプレゼントも振る舞われたのである。さらに、朱雀門の前には京都市内の貧しい人々が集められ、清和天皇の名でプレゼントが渡された。通常こうした催しが行われるのは紫宸殿だが、今回はそれよりも奥にある常寧殿である。ここは代々天皇の后の住む場所とされた建物であり、この時点では清和天皇の皇女である藤原高子が居住している。

 ここに皇族や貴族が集められたのには理由がある。高子が動けなくなっていたのだ。と言っても何かしらのケガや病気になったわけではない。清和天皇の子を宿した高子が臨月を迎えていたのである。

 この、我が子が間もなく誕生することに喜ぶ清和天皇の大盤振る舞いは一二月九日にも続いた。皇太后の周囲に侍る貴族達が揃って昇格したのである。

 ところが、なかなか高子が子を産まない。

 出産日を調節できる現在と違い、この時代は自然分娩しかない。予定日はとっくに迎えているのに、なかなか生まれてくれないのだ。

 生まれたのは、貞観一〇(八六八)年一二月一六日になってから。この日の夜、後に陽成天皇となる貞明親王(さだあきらのみこ)が生まれた。


 貞明親王の誕生に喜んだのは清和天皇だけではない。

 応天門の変から二年ぶりに公的史料に良房が名を見せるのである。

 貞観一〇(八六八)年一二月三〇日、太政大臣の名で皇太后藤原明子への出産祝いが届けられた。父から娘への御祝いだから普通の光景なのだが、久しぶりに見せた太政大臣の公的な行動に世間は少しどよめいた。

 ただし、行動はしても姿を見せないことに違いはない。

 相変わらず姿を隠し続けており、極論すれば良房がどこにいるのかを知っている者さえほとんど居ないという有様である。

 現在の研究では、この頃の良房は平安京の北東の外れにある染殿第に住んでいたと言われている。染殿第は、文徳天皇亡き後、皇太后となった良房の娘である藤原明子が居を構えていた邸宅で、位置で言うと現在の京都御苑の敷地内、京都迎賓館の位置になる。染殿第だけでなく、平安京の北東部一帯は政界をリタイアして隠居生活を送ることにした人のセカンドライフを過ごすための邸宅が並ぶ地域であり、一つ一つの家が大きい代わりに人口密度は高くない。

 貞観四(八六二)年一二月に咳逆病に倒れて以後、良房はこの閑静な住宅街の中にある染殿第に住むことが多くなった。

 染殿第の名目上の持ち主は藤原明子である。染殿第は天皇の生母にして先帝の皇后であった皇太后の住まいとして朝廷より特別に与えられた邸宅であり、良房の住まいとして設けられた建物ではない。だが、父親が娘の住まいのところに暮らすことは特におかしな話ではない。

 それに、良房は摂政にして太政大臣という要職にあるが、それだけの権威と権力を持った人間でありながら、権威と権力に基づく邸宅を構えてはいない。東三条殿を建設したという記録はあるし、基経が東三条殿に住んでいたという記録もあるのだが、どうやらこの人は豪奢な暮らしにはあまり興味がなかったようなのである。

 染殿第に住んだのも、人目を避ける適当な建物だったからというだけのことで、特に深い意味はないと思われる。


 この年は閏月が最後にあるので、一二月が終わっても翌年とはならない。

 その、この年の一三ヶ月目である貞観一〇(八六八)年閏一二月一日、外従五位下善道根莚の家屋で木連理があるのが報告された。木連理というのは、成長途中でいったん二叉に分かれ、上の方で一つに繋がっているという樹木のことである。これは吉兆の印とされていたので、善道根莚は貞明親王誕生のタイミングに合わせて報告したのであろう。文徳天皇よりは覚めているとは言え、我が子の誕生にめでたい報告があって喜ばない親はいない。にしても、このおかげか、善道根莚はこのあと国司になれるのだが、たまたま珍妙な樹木が庭に生えていただけで出世に繋がるのだから、世の中何が起こるかわからない。

 しかし、この吉事を一度に吹き飛ばすニュースが閏一二月二八日に伝えられた。

 左大臣源信死去。原因は事故死であった。

 応天門の変を期に引き籠もるようになった源信であるが、現在で言うと鬱になっていたと思われる。

 無理もないだろう。放火犯に仕立て上げられ自宅が軍勢に包囲されたのである。それまでにも何度も何度も善男に個人攻撃され続け、それがついに爆発して命の危機に陥った。基経の活躍により源信は助けられたが、これだけのことをされて平然としていられるわけはない。

 それから二年半。源信は左大臣でありながら全く内裏に姿を見せず家に閉じこもっていた。ただ、それは仕方のないこととされて譴責を受けるわけではなく、放っておかれていた。左大臣で正二位になっていたこともあって位と役職に応じた給与を得ていたのだから庶民の感覚からすれば税金の無駄遣いということになるが、これはやむを得ぬ病欠ということでお咎めなしとなっていた。

 家人からすれば、やる気を失い、ただ一日呆然と過ごしているだけの源信が不可解に感じたのだろう、あの手この手で源信の気分転換を図ろうとしていた。

 この日もそのうちの一環で、摂津国河辺郡に狩猟に出かけていた。嵯峨天皇や藤原冬嗣は狩猟の趣味があったが、源信にそうした趣味はない。ただ、身体を動かすような気分転換をすれば何か変わるだろうと考えて外に連れ出し、その道中に落馬して沼にはまり、救い出された時には意識不明となっていて、数日後に亡くなった。

 これとほぼ同日、伊豆国から一つの連絡が届いた。

 追放されていた伴善男が亡くなったという知らせである。

 こちらは何月何日に亡くなったのはわからない。

 応天門炎上事件の前から反目し合い、片や追放され、片や心を失った二人が、ほぼ同時に亡くなった。

 これで一つの時代の流れが終わったと感じた者は多かった。


 この頃、明法道で法学を学ぶ惟宗直本が本を出した。「令集解(りょうのしゅうげ)」である。かつて清原夏野がまとめて刊行した「令義解(りょうのぎげ)」と違って法的な効力は持っていないが、この当時の律令のうちの「令」の部分の解説書として、現在も重要な役割を担っている。

 令義解が律令の正式な解説書として行政の運用や裁判の判断基準に利用されたのに対して、令集解は法を学ぶ学生向けの解説書になっている。

 令集解が取り上げるのは律令の「令」の部分のみで「律」の部分、つまり、現在の刑法にあたる部分は取り上げていない。律令の「律」部分の解説書である「律集解」も執筆したと記録に残っているから、おそらく二部構成で作られた本だったのであろうと考えられている。

 律集解は現存していないのでどのような中身であったのかわからないが、令集解は全三五巻中三二巻が現存している。なお、欠損する三巻分については後世の補完が行われているが、惟宗直本の著作ではないため注意が必要である。

 惟宗直本の書いた部分は以下のような後世となっている。

 まず、まず令本文を罫線一行分に大きな文字で掲げる。

 次に、罫線一行分に二行分の小さな文字で法の解説を記していく。

 法の解説についてもっとも重要視されていたのは令義解の見解で、次に他の法解釈が続き、裁判の判例が引用されて追加されている。その引用の出典元についてであるが、存在したことは確認できるものの現在では日本国内はおろか中国にも存在しない法律書からの引用であることもあり、それがいっそう令集解の価値を高めている。何しろ、令集解がなかったら、隋や唐の時代の法律の再現もできないのだ。

 この令集解の執筆により、惟宗直本は明法博士を差し置いて、日本国内最高の法律家と認識されるようになる。

 ただ、この年の惟宗直本が何歳かわからないのである。

 令集解が作られたのは貞観一〇(八六八)年であることは判明しているし、作者も惟宗直本であることは間違いないのだが、惟宗直本が正式な記録に登場するのはこれから八年後、その地位も正七位上弾正少忠という極めて低いものである。この時代ナンバー1の法律家とみなされながら、明法博士に就くのはこれから四〇年を経た後のことである。

 これから逆算すると、このときの惟宗直本は二〇代、下手すると一〇代であったかも知れない。菅原道真といい、源能有といい、この時代は若き天才が続出している。


 貞観一一(八六九)年一月一日の朝賀は、前年末の左大臣源信の死に伴う服喪期間ということで中止された。いつもの年であれば直前にならないと開催か中止か判明しないが、左大臣源信死去に伴う服喪のため、この年は早々に中止が発表されていたため、貴族たちが内裏に集まることはなかった。

 ただし、中止になったのは朝賀だけで、喪が明けると日常が回復する。

 一月七日の昇格は例年の通りである。

 特に着目すべき出世はない。強いて挙げれば、無位無冠の源氏たちが貴族に任じられたことと、平城天皇の孫である在原業平がやっと正五位下に上がったことぐらい。

 源氏たちの貴族就任は特におかしなことと見られなかった。

 皇族から分かれた源氏は色々と特権を持っている。無位無冠でも貴族になれるというのもその特権の一つだが、このことを誰かが問いただすことはなかった。皇族としての帝王教育を受けた者は、大学を出たばかりの者と違って、貴族として求められる素養を持っているのは当然のことと思われていたし、その期待にも揃って応えてきたからである。

 ただし、皇族につながることがそのまま貴族としてバラ色の未来が待っているわけではない。血筋が良くても貴族としての能力が劣っていると考えられたら、出世は簡単にはいかない。在原業平のように天皇の孫という絶大な血筋を持った者であっても、能力が劣っていると考えられれば出世は止められるし、今回の昇格も、皇后藤原高子のかつての恋人であるがゆえの情実人事と言われたのである。

 後世、武士団のトップに源氏や平家が就くことが多いのも、こうした、血筋は良くても貴族としての能力が低いと考えられた、あるいは、自ら中央での出世を諦めた者が地方に流れたからに他ならない。


 右大臣藤原良相が亡くなり、左大臣源信も亡くなった。太政大臣の良房はまだ存命だが、太政大臣は常設の官職ではない。

 常設の官職のトップは左大臣であり、その次が右大臣であるというのはこの時代の人たちの一般常識であり、左右の大臣のうち一人が欠けるということはあっても、左右の二人とも欠けるというのはまずあり得ないことだった。

 よって、早急に左右の大臣を埋めなければならないのだが、これが非常に困るのである。

 誰かを大臣にするということは、新たに大臣になった人がそれまで勤めていた官職を誰かで埋めなければならないということでもある。こうなると、ただ単に穴を埋めるだけではなく、人事の大幅移動をさせなければならない。

 しかも、タイミング的に毎年恒例の新たな官職の発表が間近に迫っていた。

 貞観一一(八六九)年一月一三日、清和天皇はこのタイミングで一つの決断をした。

 左右の大臣を空席にするという決断である。応天門の変からこれまで、大臣が事実上不在のまま政務をこなしていたことを考えれば、これからも大臣なしで政務にあたれると判断したのだろう。そして、人事異動は例年並みの数字である三一名に留めた。

 だが、名目上だけならば居るのと、名目上も居ないというのはやはり違う。

 それまでは、たとえ姿を見せなくても大臣は居たのだ。だから大臣になれないとしてもそれはやむを得ぬこととして受け入れてきたのだ。だが、これからは大臣が居ないのだ。これは特に、もうすぐ大臣だと考えている者にとっては、目の前に迫ったゴールテープを遠ざけられた感覚であったろう。


 このゴールテープを遠ざけられた思い、これは、三一名のうちの一人の人事発表でより強固になった。

 基経がこのとき、左近衛大将と陸奥出羽按察使を兼任するとなったのである。

 左近衛大将といえば国の軍事のトップの官職であり、通常であれば左大臣なり右大臣なりが兼任する職務である。藤原氏宗が大納言と兼任して就いていたのも、大臣不在というやむを得ない事情に基づくイレギュラーな対応であり、大臣に次ぐ位置にいるのが大納言である氏宗だというだけで兼任させられてきたのである。

 そして、氏宗がこの職務を放棄したがっていたのもすでに記したとおりである。政務ならともかく、軍事力を駆使する才能などないと考え、義務を放棄する考えの持ち主だからであろう。

 その左近衛大将に、大納言ですらない基経が就いたのである。氏宗は放棄したいと考え、多の貴族も次々と拒否する中、ただ一人左近衛大将に立候補したのが中納言である基経。しかも、陸奥出羽按察使との兼職についても手を挙げている。

 誰もが思った。「何故?」と。

 陸奥出羽按察使については理解できないこともないが、左近衛大将への立候補について他の貴族達は全く理解できなかった。

 しかし、後付で考えれば三つの面でそれが理解できる。

 一つ目は、左近衛大将という地位が大臣の兼職となるほどの高い地位の役職だということである。よって、これから大臣になろうかという者にとってはこの職に就けるチャンスがあるということだけでも大臣への道が開けることを意味する。氏宗が頑迷に左近衛大将の役職を拒否していたのはその責務の重さから来るものであるのに加え、既に大納言である氏宗は大臣の地位まで目と鼻の先である以上、左近衛大将にこだわらなくても大臣になれるという思いはあったから。必要なのは大臣になることであって、大臣になることが決まってしまえば左近衛大将に魅力はないと考えたのだろう。

 理解するための二つ目は、軍事を握るということは、いざというとき、自ら軍を率いることができるということ。

 藤原氏宗という男は、武力を率いるということに対する意識がおそろしく薄かったのではないかと思われる。

 それに引き替え、基経は武力を率いる才能を持っていなくても、武力の重要性も、武力を率いることの持つ価値も知っていた。

 応天門の変のとき良相が軍勢を率いて源信の屋敷を包囲した。このときは基経が素早く動いたことで包囲を解散させることができたが、それがなかったら、源信は良相の軍勢によって拿捕されていたであろうし、伊豆に追放されたのも善男ではなく源信であったろう。そして、良房は太政大臣としての権威を失ったであろうし、基経は良房の後継者であるがゆえに閑職に回されていたはずである。


 応天門炎上事件は、国の建造物が放火されただけの事件ではない。軍を操れる良相がいるがゆえに行動を起こせた、律令派によるクーデター未遂事件なのである。

 もし、基経が軍を操れるならば、操れないにしても他者に軍事力を握らせなければ、それだけでもクーデターを未然に防ぐことができる。基経はすでに権力を握っている側の人間であり、かなりの確率で未来の出世が保障されている。つまり、わざわざクーデターに訴える必要がない。

 クーデターを求めるとすれば、権力を握れていない律令派のほうである。ということは、律令派に軍事を渡さないことを最優先に考えなければならない。

 その最も簡単な方法が、基経自身が左近衛大将になってしまうことである。中納言で左近衛大将になるのは異例だが、大納言の氏宗が権力放棄を訴えている状況下で手を挙げれば、中納言でも左近衛大将になることは不可能とはならなかった。

 三つ目は、左近衛大将の持つ人事権である。

 武官の人事権を一手に握るということは、自分の影響力を多分に行使できるということでもある。何しろ、大学を出ても官職にありつけないでいる若者が数多くいたのだ。そうした若者に官職を提供できるということは、自派の形成も可能ということでもあった。

 無論、大学を出た若者らの考えていた任官とは文官であって武官ではない。この時代の感覚で行けば、文官は武官よりも上、中央は地方よりも上である。若者が狙っているのは出世することであり、出世のための最短距離である中央の文官以外に興味を示さなかったと言っても良い。この反動とでも言うべきか、地方に出るとか武官になるとかを命ぜられるぐらいなら今の無職を続けると選んだ者も数多く現れたし、武官にしようと言ってきた基経に反発心を抱いた若者もいた。

 しかし、背に腹は替えられないと、慣れぬ武具を身につけ、武官として任官することを選んだ者も多く現れた。また、どうしても武官をやりたくないと訴え出た者については、陸奥出羽按察使としての権力を生かして、地方官として東北地方へ派遣した。地方官としてならば文官としての勤務であるから武官ではない。

 文官ではないこと、または中央ではないこと、このどちらかを受け入れるのであれば若者に官職を与えることができた。ただ、それを受け入れてしまうことは、出世レースでハンデを背負うことになるのである。最も出世するのは中央の文官だと考えられていたのだから。

 そこで、基経は彼らを優遇した。武官としてのスタートではあっても、また、地方でのスタートではあっても、中央の文官に進む道を用意したのである。

 これは単に人材を配置するだけではない。

 基経には基経派と呼べる者が居なかった。良房派に列する貴族ならば一応基経の味方として考えることができていたが、彼らは良房の味方であって基経の味方ではない。

 ここで若者を任官することは、基経個人に繋がる家臣を手に入れることを意味したのである。


 しかし、明らかにやる気のない者を武官にするのである。これで国の軍事力は問題ないのだろうか。

 この問いに対する答えは、「問題あり」である。

 文官になることを目指し、文官になるための教育だけを受けてきた者に武官はつとまらない。意志もなければ能力もなく、空席だけはあるので就くけれども、武官になる理由が文官に移るためである。これでは、やる気はともかく、武人としての才能があり、このまま武官であればかなりの高い地位に就けるであろう若者であろうと武官に留め置くことなどできない。

 でも、それでは困るのだ。

 武官の最大の存在価値は武力でもって暮らしを守ること。国外は敵国、国内は強盗集団、こうした暮らしを破壊する者と立ち向かうために武人は存在するのだし、それを果たしているからこそ給与がもらえるのである。

 その重職にやる気のない者を就かせる、しかも、武官を無事に卒業してより出世することを条件として就かせるのだから、基経の判断は一見すると無責任とも言える。

 しかし、忘れてはならないのは、基経は良房と同様、武士の存在を認識していたことである。

 この時代の武士は、社会全体ではなく、自分と家族、広く見ても同じ集落の者を守ることだけを考えている。だが、「守る」という一点では下手な武人よりもよほど頼れる存在だった。

 何しろ、守る対象がより明確である。

 武人に与えられる「この国を守れ」というのは崇高な使命にも感じるが、いかんせん抽象的すぎる。人間社会の現実として、とてもじゃないが守るに値しない者だっている。懸命に働いて納めた税に寄生したり、戦争反対を強く訴えるあまり武力の存在を全否定したり、犯罪に明け暮れたあげく捕まったのに、今度は牢の中で暮らし、税で食わせてもらっているような奴だって守らなければならないのだ。

 その上、守ることに強い使命を感じて懸命になったところで、いざ守って貰った側からは感謝の言葉一つかけられるでなく、文人よりも下に見られるに留まる。

 しかし、武士の使命、すなわち、「妻を守れ」「子を守れ」「家族を守れ」「仲間を守れ」という使命は実に単純明快である。誰を守るのかはっきりしているし、懸命になって守る価値も、守った結果得られる感謝の言葉もある。

 基経は、武士を武力として計算した。

 それまでの武士は、単に腕っ節の強い農民というだけの存在であり、役人でもなく、ましてや貴族であることなどありえなかった。だが、この頃から、役人や、さらには貴族でありながら武力を身にまとい、武士として行動する者が現れるようになるのである。

 それは、一人で守るのではなく、集団で守るという武士の有り様の発展にもつながっていた。


 武力を伴うことは、その質によって規模が四段階に分かれる。

 最も小規模なのは個人。一人で何もかもやってしまうという、極めて小規模な武力である。ルールに基づいてリングの上での一対一の争いなら問題ないが、生きるために戦うとなると、一人というのはあまりにも弱すぎる。一対複数の戦いを卑怯と評するのは勝手だが、勝手にルールを作って、勝手にルールに従っても、戦いに負けてしまっては元も子もない。複数で攻めてくる敵と戦うには、こちらも複数である方がいい。数の多さはより戦いを優位にする要素としてとても重要なのである。

 武力を持つ者が複数人いて、その敵も同じであるというとき、武力を持つ者同士が手を組むというのはよくある。中学などの不良にしろ、チンピラにしろ、暴力に訴える者が複数いて、かつ、共通の敵がいるというところでは、不良集団やギャング集団が生まれるというのも、武力を持った集団の発生としてはそれが自然だからに過ぎない。武士と不良とを一緒にするとは何事かという叱責もあるだろうが、既存の権力とは異なる集団という点では共通している。

 既存の権力に縛られずに武力を操る者が複数人登場すると、目的が同じなので集団となる。これが下から二番目の規模。

 何であれ、集団には内部の上下関係が存在する。最もキャリアが長いとか、最も歳上であるとかで決まることもあるが、それよりも強力な上下関係の決定要素は、集団の中で強いか弱いか。ただし、特に明確なものではないので、上下関係はかなり流動的である。例えば、最もケンカに強いから集団のボスとして君臨するようなケースでは、一度の負けがボスとしての地位を失わせる。どんなにケンカしても敵わないと思っているし、実際に食らう暴力が恐怖だから従っているという集団では、そのボスが多少でも弱みを見せた瞬間、あるいは、揃って反旗を翻した瞬間、集団内の上下関係はリセットされ、ボスは駆逐される。強盗集団とか、犯罪集団とかの首謀者はこうしたタイプの者が多い。

 下から三番目の規模の集団となると、単にケンカが強いとか年齢が上だとかだけではなく、人を操る才能が鍵となる。「この人は信頼できる」「この人にならついていける」という思いを抱かせることができる者がボスになり、単にケンカが強いだけの者や歳上であるというだけの者は集団の駒にすぎなくなる。

 そして、この集団になるとある程度長続きする。

 ただし、その集団はボス一人の力量によるものであり、ボスの不在は集団を崩壊に導く。かといって、ボスの不在を埋める人材など早々簡単に現れるものではない。人を操る能力の持ち主がもう一人現れるということは、集団を分断してしまうからである。

 ヤクザとかゲリラとかテロリストとかが派閥争いを繰り広げ、仲間同士で殺し合いを繰り広げることが多いのも、その主義主張の違いというより、ボスが複数名登場したことでの集団の分裂の結果である。

 最も大きな規模の集団となると、誰も文句の言えない権威が必要となる。人を操る才能の持ち主が複数いたら集団は分裂してしまう宿命を持っている以上、分裂しないためにはその才能の持ち主のさらに上をいく存在が必要であり、その存在は取って代わることのできない権威が必要となる。


 この時代の武士に当てはめてみると、家族を守る個人がいて、それが複数人で協力しあって集落を守る集団が現れるようになり、集団の他のメンバーを力で従えるボスが登場し、信頼により人を従えるリーダーが登場してより大きな村を守る集団となり、権威のある者が君臨してさらに広範囲を守る集団である「武士団」となる。

 貴族というのはその「武士団」を従える権威に充分な要素であった。

 なぜなら、普通の人であれば嫉妬という感情が存在するから。自分と同じ、あるいは自分より劣る能力や才能の者が自分より上に立つのを良しとする者は少ない。ほとんどは、「何であいつが俺より上なんだ」と考えるし、考えるだけでなく公然と反発する。今の内閣の支持率が低いのも、自分よりバカのくせに権力を握っているからにすぎない。

 ところが、それに貴族という権威が加わるとどうなるか。腕っ節がどんなに強くても、また、人を操る才能を持っていても、一般庶民が貴族という地位を簡単に身につけることなどできない。貴族は、理論上こそ役人としての努力の結果であり、役人になるのに身分は関係なく一般庶民でもなれることになっているが、事実上は貴族に生まれた者がその血筋ゆえに手にする地位となってしまっている。血筋は生まれついてのものだから、これは後天的にどうこうなるものではない。しかも、貴族はかなりの確率で皇族と血がつながっている。こうなると一般庶民にはどうにもならない。

 その、一般庶民にはどうにもならない権威を持った者を中心とすることで、武装した集団は権威ある集団へと発展する。それも、トップが血筋を継承させることで、権威ある血筋を持った権威ある集団が形成される。

 この武力を持った勢力を手に入れることは貴族にとって大きなメリットだった。

 中央での出世を諦め地方に逃れた貴族は割と多くいた。地方で大農園を経営し、出世ではなく、実利を求めたのである。

 中央に出仕しないから役職はないか、あっても閑職である。ただし、位は持っているから位相応の権威は存在する。権威は持つが官職は持たず、地方で大農園を経営して豊かな暮らしを送るようになった者がこの時代登場してきた。

 大農園を自分一人で耕すわけではないから誰かを雇わなければならない。そのため、その大農園には雇われた農民がいて、その農民の暮らしも大農園の中に存在する。

 その大農園でコミュニティが形成され、外との接触を必要としない小さな社会ができあがる。何しろ、自給自足できるのだ。

 そして、そのコミュニティを守る武力を持った集団が形成され、貴族は自らがその武力のトップとして君臨する。貴族は、武力を持つことによって、そのコミュニティの中で生活する者を守る。その代わり年貢を納めてもらうから莫大な財が手に入る。とは言え、清和天皇の増税に比べれば年貢など大した負担ではないから、年貢を納める側も、守って貰うための必要経費と考えてためらわずに納める。

 源氏にしろ平家にしろ、後の武士の時代の頭領が皇室に繋がる血筋を持つ者であることが多いのも、源氏や平家というだけでは中央での出世も難しいと考え、出世を諦めて地方での豊かな暮らしを求めた者が数多く現れたからである。そして、その皇室につながる権威でもって周囲を従え、土地と、その土地に住む者を守るようになったのである。


 前年末に貞明親王が誕生してから二ヶ月半。基経は誰もが考えられなかった行動を起こした。

 貞観一一(八六九)年二月一日、生後二ヶ月半の貞明親王を立太子(皇太子に任命すること)させたのである。しかも、清和天皇は賛成した。

 皇太子というのは天皇の後継者というだけでない。皇太子には皇太子としての責務があり、皇太子のための専用の設備である「東宮(とうぐう)」が設けられている。東宮は単に天皇の代わりをするための設備ではなく、皇太子としての職務を果たす設備である。このときまでは東宮が空室になっているが、これは東宮としての職務をこなせる者がいないのに加え、東宮が火災で焼け落ちたことによるものであり、やむを得ないこととは認められていても、あるべき姿とは考えられていなかった。

 あるべき姿にするには、東宮の建物を復旧させることと誰かを立太子させることの両方が必要だが、前者はともかく、後者は難しい。立太子させられる該当者は一人しかいない。生後二ヶ月半の貞明親王である。

 元服を迎えていないのに皇太子になった例ならば他ならぬ清和天皇という例があるが、それでも、少なくとも皇太子たるに相応しい帝王教育を受けていたから元服前でも東宮の職務をこなせたのだ。

 一方、貞明親王は生後二ヶ月半である。これで東宮としての職務を果たせるわけなどない。にも関わらず、基経は貞明親王を皇太子に推し、清和天皇は承諾した。

 では、生後二ヶ月半の子を皇太子にするメリットとは何か? メリットを挙げるとすれば、皇位継承権を確定できるということである。これは決して見逃すことのできない要素であろう。

 皇統の維持は単に天皇の地位をつなぐというだけではなく、政権を連続させることである。父から子へと皇統を継続させることで政策は連続することが保証され、長期的な政策を実行することができる。皇統が途切れ別の皇族に天皇の地位が移ることは、現在の感覚でいくと政権交替と同じ事である。それがどれだけデメリットの多いことか、民主党政権を経験した日本であれば理解できるであろう。

 無論、二ヶ月半の幼子を皇太子にすることに対する反発は強かった。特に、文章博士の橘広相は基経を公式に批判し、ただちに立太子を取りやめるよう進言した。ただし、立太子を取りやめたあとの政権継続については何も提言していない。何のことはない。かつての藤原緒嗣や伴善男といった口やかましい律令派が復活したのだ。

 もっとも、彼らのような律令派を打倒した良房の教育を受けた基経である。律令派の批判など気にすることなく立太子の準備を進めていった。

 貞観一一(八六九)年二月九日、火災から再建された東宮に五〇名の僧侶が集められ、落成を祝う読経が成された。これで建物としての東宮が復活したこととなる。

 そして、その二日後である二月一一日、貞明親王が東宮に移り、これで立太子の一連の流れが完了した。


 貞観一一(八六九)年二月一六日、後の基経の右腕となる若者が要職に躍り出た。

 従四位上源能有が大蔵卿に就任したのである。大蔵卿は今で言う財務大臣で、国家財政に関する一切の責任を背負う要職であった。

 前年の破綻が判明した国家財政の立て直しが能有に与えられた使命であるが、それだけの大権を引き受けるのであるのだから普通であれば経験も実績も申し分ないベテランの貴族が就くべきところである。実際、大蔵卿は三位から四位の貴族の職務であり、これまでの前任者は何れも財務のスペシャリストであった。

 能有は、地位はたしかに従四位上なのだから大蔵卿としてもおかしくはないのだが、その位は実力によるものではなく、清和天皇の実の兄であることから特別扱いされた結果であった。そのため、前年の在原業平同様の情実人事とまで言われた。

 しかし、基経はそう考えていなかった。前年、加賀国司に就任した能有はその善政で国内の高い評判を集めたのみならず、生活水準の向上と加賀国の財政の立て直しを実現させたのである。

 基経は国家財政立て直しのために、この、わずか二四歳の若者を抜擢した。基経はこの若者を以前から高く評価しており、後に自分の娘を嫁入りさせたほどである。

 ただし、能有には一つ条件が課されていた。

 税に関しては一切手をつけないことである。

 増税を食い止めることが財政再建の有効な手だてなのに、税制に関しては触れない。触れないのには理由があり、財務省は財政を担当する官庁だが、租税に関しては民部省に存在するからである。

 その上、今回の税制は清和天皇の肝いりの税制である。いかに兄であろうと、これは手出しできなかった。その上、民部省のトップである南淵年名は清和天皇への忠誠心熱い男である。この年六一歳という高齢であることもあり、清和天皇に忠誠を誓うことで、自らのみならず、南淵家の命運がかかっていると確信していたのである。こうなると、能有がいかに天皇の兄であろうと、南淵年名は清和天皇の意志を優先させることとなる。


 貞観一一(八六九)年四月一三日、大納言藤原氏宗の手で「貞観格」が上奏された。

 「格」とは律令を補完する法令集で、律令の施行細則である「式」と対を成す。

 前回作成された「弘仁格式」は、対応律令発布の大宝元(七〇一)年から弘仁一〇(八一九)年までのおよそ一二〇年分の命令をまとめた格式であるが、編纂対象期間があまりにも長期に渡るために、初回の撰進から最終改訂版まで二〇年を経ている。

 弘仁格は一度そこで完結となったが、弘仁格の対象期間である弘仁一〇(八一九)年からすでに五〇年を経ている。その間に出された命令は莫大なものであり、律令を補完すべき格式でも補完しきれないという本末転倒な事態に陥っていた。

 そのため、再び格式を作り直すこととなったのである。

 律令に関する代物なので想像つくと思われるが、その編纂には律令派の貴族が絡んでいる。何しろ、編纂を命ぜられたのは右大臣藤原良相なのだから。

 ところが、良相の死後、この業務が律令派の独占事業から除外される。大納言藤原氏宗が編纂の総責任者となり、参議兼民部卿の南淵年名、参議の大江音人、元文章博士の菅原是善(菅原道真の父)、さらに、毛野永世、紀安雄といった、律令派・良房派双方が人材を出し合って面々が編纂にたずさわることとなった。その誰もがこの時代の頭脳のトップ集団であることは共通している。

 応天門の変で一族もろとも追放とされたはずの紀氏から格式の編纂者に加わった者がいるのを不可思議に思われるかも知れないが、これは、良房が一族単位で追放させたわけではないからである。良房が追放させたのは律令派のうち応天門炎上事件を画策してクーデターを企画した者達だけであったからである。

 ちなみに、このとき撰進されたのは「格」だけで、「式」に関してはまだ編纂中だった。

 それまでに出された命令の原文をそのまま載せればよい格と比べ、律令の解説をする式は作成に時間がかかる。

 それは誰もがわかっていることだったので、このときの格のみの撰進については誰も文句を述べていない。


 貞観一一(八六九)年五月二六日、陸奥国で大地震が発生した。それはまるで二〇一一年三月一一日かのような大規模なものであった。

 地震は津波を招き、津波はおびただしい数の被災者を生み出した。それまででは考えられない奥地や高台まで津波が押し寄せ、家であろうと、田畑であろうと、大地にあるものは全て奪い去ってしまった。

 津波の被害を受けていないところでも、地割れが生じ、建物が崩壊し、道路は分断され、まるで東日本大震災と同じであるかのように生活は破壊された。

 この凶報が京都に届いたのはいつなのかは不明であるが、おそらく、六月初旬には届いていたはずである。この天変地異はただでさえ動揺の広まっていた京都市民の間でさらなる凶事と捉えられたことは間違いなく、民衆の動揺を抑えるため、貞観一一(八六九)年六月一四日、清和天皇は基経に命じて御霊会を開催させる。

 このときはまだイレギュラーなイベントであったが、この年から御霊会が毎年開かれるようになり、特別なイベントから、貞観一八(八七六)年には定例のイベントへ組み込まれることとなった。これが今も続く祇園祭の起源である。

 このイベントは成功であった。民衆は恐怖を忘れ、普段の苦労も忘れ、祭に酔いしれた。

 しかし、このお祭り騒ぎの裏で、九州からついに恐れていたニュースが届いてしまった。

 新羅からの侵略。


 新羅が日本に攻め込んできたのである。以前より日本と新羅との間では緊張状態が高まっていたが、その緊張がついに爆発したのだ。

 太宰府からの報告によると、五月二二日、新羅は海軍を率いて博多に来襲、豊前国から税を積んで太宰府に運んできた船に襲いかかってきた。

 これを見た者は当初、誰もがいつもの海賊だと思っていた。実際、毎年この時期に、九州各地からいったん太宰府に納めるための税を積んだ船が博多港に集まることは以前から知られており、この船が海賊にとっては絶好のターゲットであるとも知れ渡っていたのだから、海賊が集まることは、待ちかねたことではないにせよ、珍しいわけではない。

 だが、それまでならば珍しくない光景であったのに、その後がいつもと違った。いつもならば奪った後足早に逃げ去るところだが、今回は奪った後も博多港に居座ったのだ。上陸はしないものの、博多港を封鎖したのである。

 それまでの新羅は海賊、つまり、国境の外からやってきて、殺して奪い去っていく武装強盗集団にすぎなかった。ゆえに、正式に抗議できるし、規模も小さいから捕まえることもできる。しかし、今回は軍隊。まず、捕まえること自体が困難であるし、新羅からすればこれは戦争なのだから、抗議したところで受け入れられない。

 この侵略に対し、武士たちは船に乗って抵抗したようである。だが、明確な勝利とはならなかった。新羅の船を捕まえることに失敗し、逃走を許したのである。

 この侵略の報告を受けて京都には動揺が広がり、清和天皇は冷静さを失った。貞観一一(八六九)年六月一七日、伊勢神宮への奉幣を行ったのである。神仏を頼らない、頼るとすれば民衆が求めたときのみというのがそれまでの清和天皇であったのに、このときの清和天皇は自ら進んで行動している。


 貞観一一(八六九)年七月一日、三年間の沈黙を破ってついに良房が行動を起こした。新羅からの侵略に対し国内の世論統一を試みたのである。

 ただし、内裏には姿を見せず、上奏文への署名のみである。その上奏文自体も良房の書いたものではないが、それでも、太政大臣の署名の威力は大きく、その他の貴族もこぞって上奏文に署名した。

 上奏文の署名の先頭は太政大臣藤原良房。次に大納言藤原氏宗が来て、中納言源融が続き、中納言藤原基経は四番目となる。これはそのままこのときの貴族の序列を意味していた。

 この上奏文の中身であるが、中国の古典と比較しての民衆の疲弊と動揺を示しており、具体的な記述はない。世論の統一のためには、具体的であるより抽象的であるほうが良いのだろう。

 同時に、新羅軍襲来に抵抗し、新羅の兵を倒した「百姓」五名ないし六名に報償を与えると決まった。史料には「百姓」と載っているが、これは必ずしも農民を指す言葉ではなく、一般庶民全体を指す言葉として用いられていた。この時代、武士が独立した職業と見なされておらず、実際に抵抗した武士の本業はあくまでも別にあった。


 日本の立場からすればとんでもない事態である。

 外からの侵略のみならず、内にも侵略の手が及んでいる。

 しかも、その内なる侵略を食い止める軍事力は期待できなかった。常備軍そのものの減少に加え、軍勢を指揮する者もなく、軍事力を維持できるだけの予算もない。

 左近衛大将である基経は、この国の軍事のトップとして行動しなければならないはずであったのに、それができなかった。人手も、予算も、指揮する能力もなかったからである。

 ただし、基経が以前より進めていた武士の活用は成功を収めていた。この国を守るという「力の組織」ではなく、自分たちの暮らしを守るという単純明快な武力が海賊の前に立ちはだかったのだ。

 貞観一一(八六九)年七月五日、讃岐国より、海賊四名を拿捕したという連絡が届いた。内訳は男が二人で女が二人である。他の者は逮捕できなかったらしい。

 逮捕された四人のこの後については、男二人が裁判に掛けられ、女二人は無罪放免になったと記されている。おそらく、海賊に拉致されたまま海賊とともに行動するようになっていたのであろう、このときは逮捕というより救出というほうが近かった。

 このときの讃岐国司は良相の息子の藤原常行である。実際に讃岐国に赴任したわけではないが、讃岐国は常行の指揮系統の元に武力を発動し、海賊対策に当たった。死後神格化された良相の威光は、武力の素質も意欲も皆無というべき常行であっても有利に働いたということである。

 常行にとっては複雑な感情であったろう。父の威光により武力を扱えた。しかし、それは讃岐の国衙に務める常備軍ではなく、讃岐の海岸部の農村を守る武士の力であり、その武士の力を援助しているのが他ならぬ基経なのである。

 一方的にライバル視している人間の推し進めた政策に乗っかって結果を出した。

 国司としての手柄の思いも薄くなるだろう。


 貞観一一(八六九)年七月は、外からの侵略、内なる海賊に加え、連続する天災が日本を襲った。弱り目に祟り目とはまさにこのことである。

 まず襲ったのが地震である。七月七日に大きな揺れが発生した。京都市中の被害はさほど大きくはなかったが、翌七月八日、地震をきっかけとする大規模な土砂崩れが大和国で発生。道路は分断され、橋は崩落し、和歌の堤防が決壊して水害を招いた。

 そのあとにやってきたのは台風である。七月一三日に京都を襲った雷雨は京都市内のいたるところに被害をもたらし、翌日に台風の被害はピークを迎えた。

 この台風の被害は京都市内だけで起こったものではなかった。京都で台風被害のピークを迎えている真っ最中であった七月一四日、肥後国では京都をはるかに超える被害を生み出していた。樹木は引き倒され、官舎や民家は崩壊し、大量の雨水と土砂が河川に流れ込んだことで洪水がいたるところで発生し、おびただしい数の被害者が生まれ、あまたの人と動物の命が失われた。

 被害は肥後国の一四郡のうち、海岸沿いの六郡に及び、被害の受けた地域では水田が完全に水没して、さながら海のようになった。水害が農産物に与えたダメージも深刻で、比較的早く被害から回復できたところでも五割から六割の収穫に留まることとなった。

 その間も国内の海賊は収まることなく、新羅からの侵略も続いていた。ただし、上陸は許さずにいた。新羅からの侵略となると真っ先に被害を受ける対馬や壱岐の状況がどうであったのか史料は伝えてくれないが、平穏無事とはなっていなかったであろう。


 貞観一一(八六九)年八月一四日、以前より編纂の始まっていた「続日本後紀」の編纂が完了し、太政大臣藤原良房の名で撰上された。

 編纂開始は文徳天皇の治世下である斉衡二(八五五)年だから、完成まで一五年の歳月を要したこととなる。仁明天皇の治世である天長一〇(八三三)年から嘉祥三(八五〇)年までの一八年間を扱っている史書で、それまでの史書と比べて恐ろしいほど扱っている期間が短い。

 これは続日本後紀の誕生の理由を考えれば納得がいく。

 まず、国の正式な歴史書が作られるのは二つの条件のどちらかに該当したときである。その二つの条件というのは、一つは時代が変わったこと、もう一つは自らの権威の正当性を訴える必要性が生じたこと。

 文徳天皇は律令派に心酔した天皇であり、自らの即位は律令派の復権を意味する瞬間であって、時代が変わったのだと考えていた。だから、歴史書を記す資格はあると確信していたのである。

 だが、国の正式な歴史書というのは、すでに書き上げられたところと重複することはできない。書くとすれば、すでに書き終わっている時代の続きから書くしかないのである。ところが、仁明天皇の前である淳和天皇の代までの歴史は「日本後紀」として成立し公開されていた。

 こうなると、文徳天皇の命令で書かせることができるのは仁明天皇の代だけになってしまう。

 文徳天皇はこの事業を伴善男に任せた。良房をはじめとする他の者も編纂者として命ぜられてはいたのだが、それは名目にすぎず、事実上は伴善男一人が歴史書編集を一手に握っていた。それは全て、文徳天皇という律令派の天皇の治世の正当性のためである。いろいろと評判のある伴善男であるが、歴史書編集という点については評価できる成果を残している。

 しかし、編纂を命じた文徳天皇はクモ膜下出血でなくなり、編纂責任者の伴善男は応天門の変で追放され、続日本後紀の編纂事業は宙に浮いてしまった。

 それでも残された者たちの手で続日本後紀は作られた。そして、文徳天皇が最も敵意を抱いていた、そして、伴善男が生涯敵対した太政大臣藤原良房の名で公開されることとなった。文徳天皇が命じた編纂者のうち、この時点でただ一人生き残っていたからである。


 貞観一一(八六九)年九月七日、一八年の歴史をまとめるのに一五年を要した続日本後紀とはけた違いのスピードで、四九年間の法令をまとめた貞観格がまとまり、直ちに公布された。

 四九年間に出された諸々の命令を無編集でそのまま出すのだから時間がかからないと言えばそれまでだが、それにしてもわずか半年での公布は異例のスピードであると言うしかない。

 スピードを上げるためなのか、貞観格はいろいろと削っている。

 まず、すでに存在した弘仁格にも載っている条文については削除している。弘仁格はすでに広範囲で使われているので重複掲載は不要と判断したのであろう。

 また、すでに廃止された法令に関しても貞観格では削除されている。普通、格というのは、廃止された法令であっても、廃止済であるたことを明記した上でその条文自体は載せるものであるが、貞観格では省かれている。

 その結果なにが起こったか。

 格というのはそれだけを読めば律令の補完ができるものであるはずなのに、貞観格についてだけはそうはいかない。弘仁格と貞観格の両方を開かなければ格として役に立たないのだ。

 貞観格の編集責任者である藤原氏宗は、わずか半年で貞観格を完成させたことを誇りととらえ、自らはその実績に値する栄誉を受ける価値、すなわち大臣になるのに相応しい価値があると自画自賛したが、法律の現場にいる者からは大不評だった。当然だろう。弘仁格では時代に合わなくなったから貞観格に期待を寄せていたのに、いざ公開された貞観格を読んだら「この法については弘仁格を参照」となっている。

 法律の現場にいる者にとっては期待を裏切られたという思いになった貞観格に対する評価は当然ながら低い。どれぐらい低いかと言うと、原本が現存していないぐらい評価が低い。さすがに弘仁格と重複しない部分については載っていたからその部分の価値はあるのだが、弘仁格とセットでなければ使えない貞観格は使い勝手が悪く、使い勝手を良くするために、法律家たちは、弘仁格と貞観格を足し合わせた自作の資料集を作ることが多かった。そして、そちらの私的な資料集ならば現存しているから、貞観格の中身がどのようなものであったのかを伺い知ることは可能である。

 ちなみに、この藤原氏宗は、二年後にも同じ失敗をやらかしている。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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