さて、時平はこのとき何をしていたのか。
時平はこうなることを知っていて、それでもなお高みの見物を決めていた。
時平は基経と同様学者派と対立している。そして、学者派の追放にかける思いは父より強かった。しかし、基経ほどの権力を持っていれば対立が成立するが、時平の権力では対立ではなく、一方的に危害を加えられる、イジメの被害者と同じ状況にある。それは陣定における時平の処遇からも見て取れる。
今は蔵人頭として天皇のそばにいるから危険から回避できているが、その立場でなくなったときは容赦ない侮蔑と悪口雑音がぶつけられるはず。
この状況で加害者である学者派にいかにして対抗するか。実力行使にしろ、口論にしろ、時平は多勢に無勢である。となると、無勢であろうと太刀打ちできる方策を考えねばならない。
すると、先例が見つかった。
陽成天皇の頃の、基経の政務ボイコットである。
あの混乱を再度起こせばよい。そして、学者派の無能を再度公のもとにさらし、あわよくば、そのときより大がかりにして、学者派の追放といきたい。
この考えに基経が乗った。基経にしても日々精神的に追いつめられ続けている状況である以上、追いつめる存在の追放は歓迎こそすれ非難するものではなかった。また、基経自身、心身ともの休養を欲していた。
タイミングを狙ってのボイコットを計画し、その下準備を時平は整えた。
学者派は、議論はすれど実務は全く行なっていない。その代わり、自分や父に対する攻撃だけは続けている。実務があればその失敗を攻撃し、責任をとらせるということで反撃は可能であるが、なければどうにもならない。
そこで、学者派に実務をさせることにした。それも、学者だから可能であると思わせ、かつ、責任からは逃れ得ない実務を。
と同時に、父には、宇多天皇即位の直後に政務ボイコットをするよう進言したのである。それも、学者派追放までボイコットを継続するようにと。
だが、それは危険な賭であった。
宇多天皇即位後の政務ボイコットはいい。これまでの宇多天皇の行動を見れば、基経がボイコットに出るのも当然と見てくれるであろう。
問題はそのあとである。とにかく、基経の怒りが宇多天皇ではなく学者派へと向かわねばならない。
そのためには、学者派が何かしらの失敗をしなければならない。なぜなら、その怒りは個人的な怒りではなく、太政大臣という責任ある立場からの怒りでなければならないからである。国の根幹に関わるような失敗の追求は太政大臣として当然の職務であり、その責任は臣下としての義務となるからである。
となると、学者派が出てくる局面を用意しなければならない。
では、それにはどうすればよいのか。
時平は、宇多天皇と基経との間に学者派が立つ場面を用意することにした。それは、天皇と太政大臣という二人の間を取り持つ役割を誰かが引き受けざるを得ない状況を作り出し、その誰かというのに学者派の誰かを就けるのである。
そして、それは成功した。それも、学者派のボスである橘広相に仕事をさせることに成功した。それだけではなく、橘広相が自分からやりたがるような局面を用意して。
相当な可能性で時平は橘広相の書いた書状を前もって見ていたはずである。そして、その文面を見た基経がどういった行動を起こすかも前もって知っていたはずである。
にもかかわらず時平は放っておいた。
望んでいた以上の結果が得られると確信したからである。
案の定、基経の怒りは宇多天皇ではなく橘広相に向かった。
これまで時平の受けてきた処遇が父としての怒りを呼び起こしたということもある。
だが、理由はそれだけではなく、基経はどうしても橘広相が許せなかったのだと思われる。理想を語っては責任から逃れ、働きもせず文句ばかり、それでいて国から給料を貰っている橘広相が。
基経はその逆である。理想よりも現実に立ち向かい、責任は一手に背負い、文句も言わずに働き続け、国から給与を貰うどころか国の赤字のために自分の財産を提供し続けている。
だが、それも限界があった。
基経の怒りは激しいものがあった。史書によれば基経は厩の馬を全て市中に放って怒りを表したというが、これは本当かどうかあやしい。ただし、基経が治安維持までボイコットしたのは事実であり、意図的に馬を放ったのではなく、暴れ馬を抑えるだけの市中の治安維持もなくなったことに尾鰭がついた噂であろう。
それでも、前回の時のように急激な経済危機は三つの理由から起こらなかった。一つは季節。収穫を終えたばかりということで作物の備蓄は機能していた。二つ目は収穫の多さ。天候不順から凶作となっていた前回と違い、今回は豊作であった。そして最後の理由、それは能有の存在である。
能有は基経の数少ない協力者であると同時に、宇多天皇の政務を支える貴族の一人である。三位に昇進しているため陣定に顔を出すことはできないが、同時に、ある程度の権限を持っている。
能有はその権限で時平への接近を図った。蔵人頭である時平は本来、天皇の秘書ではあっても政務に口出しできる立場にはないが、やはりというべきか陣定は役に立たず、宇多天皇は混乱の中どうすればいいかわからずに右往左往している。その中にあって時平は明確な意志を持っていて、その思いは能有と共有できた。
反律令である。
能有は時平の考えに全面協力することを申し出た。
今ここですべき事は、基経がボイコットしていると宣言していても、基経はやはり動いているのだと思わせることである。
そのためには時平が前面に立つほうが効果があった。
時平の掲げた政策は、積極財政ともとれるし、消極財政ともとれるものであった。
まず、民衆へのコメの無料配給と無償医療を停止した。そして、税率を一気に下げると同時に、貧困ゆえ免税となっている者にも税を課したのである。その代わり、都に逃れてきた者に農地と農機具を援助した。
現在の感覚で行くと、福祉の削減と失業対策である。福祉は削るが、仕事は与えるし税も安くする。だから、税はきちんと払え、ということである。
次に、これまでは貴族の独占であった高価な品々、食べ物や衣服、毛皮、陶器などの輸入品、そして図書を一般庶民でも買えるよう市場に開放した。
さらに、このころから存在が確認できるようになった武士(つはもの)(「つはもの」は当時の呼び名)を宮中で正式に採用し、都の警備にあたらせた。
そして最後は公共事業である。道路を造り、橋を架け、建物を建てた。
これらの政策は、時平自身が生み出したものと、基経が発案し時平を通じて行わせた政策、そして、能有の考えた政策とに三分できるが、どれが時平自身で、どれが基経発案で、どれが能有のアイデアなのかはわからない。表面上はあくまでも宇多天皇の政策となっていたからである。
だが、当時の人はわかったのである。いくら宇多天皇の名の政策であろうと、実際には背後に基経がいることを。
そして、これらの政策が、財政も、治安も、景気対策までも改善させたのである。
財政難については、前述の通り福祉の削減である。福祉はどんなに善意から来るものであっても、他の項目以上に膨らみ、国家財政を悪化させる。その福祉を削ったことで国家財政は一気に赤字から黒字に転換した。
都の治安を悪くさせる最大の存在は、農地を捨て都に逃れてきた元農民である。彼らが都にあっては犯罪者となり、治安を悪化させる要素となっていることが多々見られた。その彼らを再び農民にしたことで都の治安悪化の要素が減ったばかりか、失業率改善に加え収穫の増加をもたらすことになった。
中には農民に戻りたくないと考える者もいた。だが、都に残っても犯罪で生活するなどできなくなっていた。都に武士が現れるようになったため、犯罪者が彼らを恐れるようになり、行動を控えるようになった。
犯罪とまでは行かなくても、何とか生きていこうと都に逃れてきて、結局は都でもどうにもならず、他者の施しで生きる者は多かった。これまではその施しを国がしていたが、時平はそれをなくした。その代わり、工事に参加すれば給与を渡す保証をし、そのためには藤原家の財産の処分までした。その中には陽成院から借りた図書の写しや、服、家具、食器まであった。
そうして貰った給与を持って市場へ行くと、これまでは見たことも聞いたこともなかった高価な品、ついこの間まで藤原家で使われていた食器や、海外から輸入された毛皮などが売られていた。無論、手軽に買えるものではない。しかし、カネで買える。
これまでは貴族でなければこのような物がこの世にあるなどと知ることすらなかった。知ったとしても、自分の物にできるなど想像するだけ無駄であった。
それが今は、カネでどうにかできるのである。貴族と同じ食事だろうと、貴族と同じ服だろうと、働いて得たカネでどうにかなるのである。
これは未来に対する希望であった。一生懸命働けば貴族と同じ暮らしだってできる。その希望であった。
景気は数字ではなく感覚である。どんなに数字を列挙して今の景気は悪くないと言っても、景気が悪いと感じればそれは不景気であり、理屈でどうこうなるものではない。
そしてその感覚の生まれるのは、未来に対する希望であることが多い。昨日よりも今日、今日よりも明日の方が素晴らしい日になると感じれば、景気は良いと感じる。逆に、未来への希望がなければ、どんなに数字が良くても不景気になる。
公共事業を税金の無駄と断じるのは短絡的すぎる。福祉は今をどうにかするものだが未来への希望はない。逆に、公共事業は工事に関わる者には今の生活を与え、そうでない者でも未来を作る。そういう側面だってあることを忘れてはいけない。
宇多天皇にとっては複雑な感情であった。
本来、能有も時平も自分の手足となるべき存在であって、頭はあくまでも自分でなければならないはずである。それが、手足が頭になり、しかも結果を出している。
政治的意見は同じであるが自分の手足にすぎないはずの時平や能有が、権力の対立軸にあるはずの基経と手を結び、その合わさった力が国政を動かして結果を出している。
自分は何もしておらず、憎み見下していた存在が結果を出す。これほど悔しいことはない。
宇多天皇にも基経のボイコットでもとりうる策はあった。基経のやっていた実務を自分で引き受けることである。基経の政務ボイコットで迷惑を被るのは一般庶民。つまり、一般市民向けの政策に心を配り、結果を出しておけば、基経がいなくても国政に影響はないとアピールすることができるのである。
だが、宇多天皇の生涯を見て感じるのは、この人の政治的能力のなさである。政治的意見はあったと思われるが、その場の適切な対処ということがなされていない。
その代わりにやっていること、それが権力争いである。つまり、まともな執政者であれば権力争いよりもそのときの問題解決を優先させるべきであるが、宇多天皇はそれよりも権力争いを優先させている。
これは民衆を失望させた。
いかに宇多天皇の命で行われている政策であろうと、実際には基経が背後にいることを誰もが知っていた。つまり、宇多天皇は自分たちを見捨て、宮中に籠もって権力争いに終始していると見たのである。
権力争いなら基経だってそうではないかとなるが、民衆の感覚は違った。基経はこれまで自分たちの生活を支えてくれた恩人であり、その基経がボイコットに出ているのも権力争いの被害者になったからだと考えられたのである。しかも、自分自身はボイコットしているが、能有や、子の時平を通じて自分たちの暮らしを良くする政策を進めていると考えられた。
その逆に、学者派の、特に橘広相の評判は最悪であった。今回の危機を招いている元凶と見られ、橘広相の屋敷への落書きに始まり、屋敷への投石、牛車への物の投げ込み、さらには汚物まで撒かれる始末。ついには宮中に籠もって自宅にも戻らなくなってしまった。
もし、この時代に普通選挙があり、藤原党と学者党とで一議席を争う選挙があったら、藤原党の候補者は開票開始から五分で当選確実を手にしていたであろう。
「状況は時平に有利だな。」
陽成上皇は時平に打ち明けた。
「定省は何をして良いかわからず、橘広相は動くに動けず。一方で太政大臣は閉じこもりながら、伯父君(=源能有)や時平を通じて動き続けている。朕の頃は都に混乱を招いたが、今の都に混乱はない。それどころか民衆は宮中のこの騒ぎを楽しんでいるかのようではないか。」
陽成上皇は、即位した後の宇多天皇も「定省」と呼び捨てにしていた。それは、表面上はともかく、内心では宇多天皇の即位を拒否していることを示した。
「それは民衆の正しい行動にございます。確かに国政は混乱しておりますが、民衆の血は一滴たりとも流れておりません。だとすれば、暮らしが守られれば騒ぎを楽しむこともできましょう。」
「しかしな、時平。国政の混乱は長引いて良いようなものではない。何とかして安定させねばならんとは思わぬか。」
「橘広相が追放されれば解決します。」
「そう簡単に言うな。」
「いえ、簡単でございます。民衆の怒りが集中している人間を庇うことは得策ではございません。それに、誰かは責任をとらねばならないのです。今までありとあらゆる責任から逃れてきたのですから、今回のことぐらいは責任をとってもらわなければ割に合いません。」
「なかなか意地の悪い。」
混迷の続くさなか、陽成院は一つの声明を出した。今回の騒動に対する基経支持と、橘広相の責任追及である。ただし、宇多天皇の責任に対する声明はなかった。
宇多天皇はこのとき、時平が陽成院との関係を切っていないことを知った。
手足が頭に変わっているだけでも納得していなかったのに、ここにきて陽成院が自分に反旗を翻したことは怒りを呼ばずにいられなかった。
「おのれ! 裏切りおったな、時平め!」
その怒りは時平に集中した。
声明を読んだ宇多天皇は、その紙を丸めてたたきつけただけでなく、周囲にある物を手当たり次第に投げて怒りをぶつけた。
だが、それでも腹の虫が治まらず、時平に対し出仕するよう命令。
しかし、時平はその命令を拒否。それだけではなく、陽成院の提言が受け入れられるまで、父と一緒にボイコットに参加すると宣言した。
さらに、能有も基経のボイコットに同調すると表明。
能有のボイコット表明は、それまで態度を不鮮明にしていた貴族達を行動させるきっかけとなった。
宮中を見ると、ボイコットに入った者が数多くいるのに気づかされた。その全員が陽成院のサロンに顔を出している者だった。
陽成上皇の復讐が始まったと宇多天皇は考えた。
この状態のまま年を越す。
基経だけでなく能有も時平も失った宇多天皇は静かだった。本来なら祝宴の繰り広げられる新年だというのに、宇多天皇は宮中の奥に籠もったまま出てこなくなった。
宇多天皇は宇多天皇なりに状況解決を図っていたのである。だが、そのどれもがうまく行かなかった。
「阿衡」という語は本当に基経の言うとおりの意味なのか調べさせたが、何度調べても基経の言うとおりという答えしか出てこなかった。
怒りを解いて出仕することを願う手紙を持たせたが、学者派の、特に橘広相の追放がなければ復帰はしないと宣言され、宇多天皇はそれから先の言葉を詰まらせた。
このときの宇多天皇を救ったのは学者派と目されていた一人の貴族であった。
菅原道真(すがわらのみちざね)である。
このとき、道真は讃岐守として讃岐国(現在の香川県)に赴任していた。その讃岐から道真は基経に書状を送ったのである。
書状は、「阿衡」という語は元来優秀な家臣に与えられる称号であること、今の基経の主張が政治の混乱を招いていること、それによって起こるであろう地方の混乱は都では想像もできない惨状となるはずであることが記されていた。
問題はこの最後の訴えである。
基経の政務ボイコットが始まってから打ち出された政策は、都とその周辺にターゲットを絞ったものであり、それ以外の地方には影響を及ぼさなかった。デメリットだったのではない。ただ、都では感じられたメリットも地方では感じられないのである。
しかも、中央政府の混乱が地方に飛び火した結果、地方の民衆の暮らしは、今はまだいいが、そのうち悪化することが明らかとなった。そう道真は主張した。
その地方の混乱の根拠となったのは、中央の統制が効かなくなったことによる地方貴族の武士化である。時平もこの新たに誕生した武士という人々に注目していたが、時平の目に映る武士とはあくまでも武力を持った集団ということに過ぎないのに対し、道真が現実に直面している存在としての武士は、中央の権力が及ばない隙をつき自らの権力を形成する存在であった。
この新たな権力の台頭を抑える必要を道真は説き、そのためには中央政府の混乱を収束させることが欠かせないという主張をして、書状を結んだ。
このときの道真の貴族としての地位は従五位上。再難関の国家試験である「方略試」に合格したことで貴族の一員に列せられたという、典型的な学者派の貴族である。
現在は学問の神様として受験生の信仰を集めているが、方略試の試験結果は「及第中上」という結果であり、世間の注目を集めるような結果ではない。もっとも、方略試の合格者は二三三年間でわずか六五人という超難関試験であり、それの成績内容はともかく、合格したというそのことが道真のプライドを形成していた。
しかし、それ以前から道真はなかなかの有名人であった。
まずはその美貌。
若いときの道真は美少年として名を馳せ、文章生(もんじょうせい・現在の大学生のような身分。ただし、ごく一部の知的エリートしかその地位になれない)に一八歳で選ばれたときには都中の女性がその美少年の姿を一目見ようと文章寮(もんじょうりょう)(現在の大学のような機関)に押し寄せたという。
また、この当時の道真は在原業平と一緒に行動することが多く、当時、遊女(あそびめ)が数多くいることで有名であった京都大山崎を二人で何度も訪れていることが目撃されている。
その美貌は三十路を迎えても衰えず、数多くの女性と浮き名を流していた。資料によってばらつきがあるが最低でも一四人の子をもうけていることは確認できている。
次に、運動神経。
道真に限らずこの時代の貴族とスポーツとではイメージが結びつかないが、スポーツはわりと盛んであった。蹴鞠や相撲、弓道、乗馬といったところが行なわれており、それが女性からの評判を獲得するに多いに役だっていた。
道真はその中でも弓道を得意としており、一説によれば、百回射って全てを的の中央に命中させたと言う。この話は誇張を含んでいると思われるが、弓道の競技大会で優勝していることや、庭には弓矢のための施設を設置していたことは記録に残っているので、弓道に対する深い思い入れはあったと思われる。
ちなみに、この弓道趣味は晩年の道真の運命を支えることとなる。
最後に、その国際センス。現在の日本では英語を自由自在に操れると国際人であるという風潮があるが、当時は中国語の文章を自由自在に操れることが国際人であるとの認識であった。
道真はその達人だったのである。
その道真の能力が如何無く発揮されたのが元慶六(八八二)年の渤海使の来日であった。
その前の渤海使の来日の折にも道真は渤海使の相手をしているが、そのときはまだ末席であり、将来を期待できる成果は残したものの、全体から見ればさほど重要な役を果たしたとは言えなかった。
しかし、それから十二年の時が経ち、三八歳になって貫禄もついた道真は、このとき、日本側の最高責任者に任命された。
渤海は日本海の向こう、現在の沿海州から韓国北部に掛けて存在していた国である。この国の扱いは中国史では中国東北部に存在した中国の一部を成す地域国家、韓国史では韓国の北半分であったということで南の新羅と北の渤海という南北朝時代となっている。
渤海はこの当時の日本の最大の同盟国であり、使節の来航も定期的に行われていた。
その供応役は常にその時代最高の知識人が勤めることになっていた。
なぜか。
この時代のアジアにおける教養とはすなわち中国語であり、中国語の古典を読み、中国語の文章を書き、中国語の詩を詠むことが教養ある知識人としての証明のようなものであった。
実際、唐が関係しない外交であっても、その文書は常に中国語で記されているし、意志の疎通も中国語の筆談である。中世ヨーロッパにおけるラテン語や、近世でのフランス語のような地位に、この時代の中国語の文章は君臨していた。
となると、自分の国の文化を示すときの手段も中国語になる。「自分の国にはこんな立派な中国語の文章を書けるのがいるのだぞ」「うちの国なんかこんな素晴らしい詩を詠めるのがいるのだぞ」という感じで。
作者はどうしてもそのあたりの感覚が掴めずにいたが、上田雄氏の著書「渤海国」を読んで理解した。
つまり、これは、外交であると同時に、文書や詩という競技を競う国際試合なのである。サッカーやバレーの日本代表の試合のようにホームに相手を迎えての試合であり、道真はその日本代表のキャプテンを務める人材だった。そして、国中の期待を一身に背負うだけでなく、その期待に応えた結果の貴族入りだったというわけである。
道真の手紙を受けた基経はここで条件を出した。
橘広相を遠流に処すれば直ちに復帰するという条件である。
そして、基経はこの書状を時平に届けさせた。
これは基経からの妥協である。書状の内容はともかく、時平の出仕を回復させたことは、自分も早期に復帰する準備でいるというアピールであった。
しかし、その一点の条件が宇多天皇の譲れぬところであったのである。しかも、この書状の読み上げられた場には橘広相がいた。
名指しで非難され、追放を求められるという場面で、平然としていられるわけはない。
「大臣ともあろう方が何という言いぐさか!」
橘広相は、言葉こそ基経への苦言ではあったが、その視線は時平を睨みつけるものであった。
「いったい私が何をした!」
「何もしていないのが問題なのです。」
「何を言うか! 私がこれまでどれだけ苦労したかわからないのか!」
「わかりません。わかる価値もありません。」
「何だと!」
「あなた自身がこれまでの自分はいかに苦労をしたかを語ろうと、そんなのは何の関係もないことです。あなたがどれだけのことをしてきたのか、いや、するべきであったどれだけのことをしないできたのか、それが問題なのです。何かあるとすぐ律令への回帰を叫び、うまくいかないときは現実を否定し、後は他人のやることなすこと文句ばかり。陣定に籠もって議論して日々をやり過ごし、働きもせず朝より禄をもらうことのどこが苦労ですか。」
時平は基経と共有している思いを、隠すことなく口にした。
橘広相も黙ってはいなかった。
「恵まれた家系に生まれ育ったというだけで地位を掴み、何もかも一人で決めるのがそれほど偉いのか。」
「それが問題だというなら太政大臣を罷免なさればよろしいでしょう。太政大臣なる職務が神代の頃からあったわけではありません。今の太政大臣は帝に従わぬ者なのですから、律令に従って太政大臣を罷免なさい。」
これは意地の悪い返答であった。
律令に従えば時平の言うとおり罷免されるべきは基経なのである。だが、そんなことできるわけがないとここにいる誰もがわかっていた
基経の持つ権力は言うまでもないことであったが、理由はそれだけではない。
基経には都の庶民の支持があった。
それは、橘広相には嫌と言うほど理解できていることであった。
律令に従って基経を罷免したら、後に残るのは混乱程度では済まない。下手をすれば内乱である。
「どのようにお決めなさろうと、それは主上次第にございます。」
時平はこう言って場を退出した。
宇多天皇は覚悟を決めかねていた。
四月、宇多天皇は左大臣源融に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。とにかく、「阿衡」という単語の用法に問題点とならないような前例が見つかれば、それで基経の主張を覆すことができる。これは最後の賭であった。
さらには、古典文書の改竄も検討された。だが、これは始める前から失敗に終わった。陽成院という最大の図書館が藤原側に存在する以上、改竄はすぐに判明すると悟ったからである。
もはや「阿衡」という単語の問題ではなかったのだが、宇多天皇にしてみれば、問題の原点に立ち返り、問題提議が間違っているとするしか、基経の要求を覆す手段はなかったのである。
だが、一ヶ月かけた研究の甲斐も空しく、回答は基経の言うとおりであった。
橘広相はこれに反発し、そのような思いで書いたのではないと激しく主張する。
しかし、その反発を聞く者はもういなかった。
六月二日、宇多天皇はついに橘広相の追放を決定した。
その上で「阿衡」の文書を取り消した上で、再び「万機はすべて太政大臣に関白し、しかるのちに奏下すべし」の宣下を行ない、基経はその内容を受諾。
ここに、世に言う「阿衡事件」は終わりを迎え、「関白」という新たな地位が誕生した。
宇多天皇は無念の思いを日記に記したが、都の庶民はその決定に狂喜乱舞した。
道真はこのとき讃岐に居り、都とは手紙のやりとりしかしていない。しかし、都の最新の情報は常に把握できていた。交流のある仲間の貴族たちとの手紙のやりとりの質と量が膨大だったからである。現在の感覚で行くと、PCや携帯電話でeメールやサイトのチェックを欠かさず、常に最新情報を入手し続けるビジネスパーソンというところか。
基経や時平に限ったことではないが、この時代、貴族が都を離れることはほとんど無かった。国司に任命されても任地に赴くことはほとんどなく、自分の代理人(この当時の呼び名は「目代(もくだい)」)を送り込むのみというのが普通であった。これを遙任(ようにん)という。
しかし、道真は遙任を選ばず讃岐に足を運んだ。それだけでなく、任期満了まで讃岐にとどまり続けた。この時の道真のように、国司に選ばれたあと、実際に任地に赴く国司を受領(ずりょう)と言う。遙任と受領では通常、受領のほうが身分も官位も低く、中央から支給される給与も少ないことが普通である。しかし、道真は受領としては身分も官位も高く、収入も恵まれていた。
こうした貴族が受領となるのは珍しいことであった。
道真が都を離れるのはこれで二度目である。一度目は渤海の使節団を出迎えるために加賀(現在の石川県)に足を運んだとき。
このとき道真が目の当たりにしたのが地方の現実、言うなれば中央と地方の甚だしい格差であった。
貧しく、文化的とは言いづらい暮らしを送る人々。
その日の暮らしに精一杯で、都の華やかな暮らしとは無縁。
税を納めるにはどうすればよいかに四苦八苦する日常。
豊かな暮らしを求めて都へ逃れるため、捨てられた田畑。
この地方の現実を目の当たりにした道真が、地方の行政官となって現地に赴くことはおかしな事ではなかった。
道真は地方の状況を都に盛んに伝えていた。
しかし、それは道真の望んだこと、すなわち、中央と地方の格差を埋めることにはつながらなかった。
道真からの連絡は二通りの反応しか生まなかった。
一つは地方の珍しい習俗への興味。
そして、もう一つは無視である。その無視をしたのが基経であった。
実際、道真の提案は無茶な部分が多かった。
道真は、地方に、都に負けない都市をつくることを提案しているのである。国衙(こくが)(国司が勤務する役所。現在で言うと県庁)を中心にその地域の中心となる都市を作り、都の豊かな暮らしを地方でも実現できるようにしようというのである。
これは一見すると立派な考えであり、実際、賛同する者もいた。
だが、基経は二つの理由から反対した。
一つは予算の問題。
もう一つは人口の問題。
基経は道真の立てたこの計画を知ったとき、あきれて物も言えなかった。
「これが本朝随一の学者の知性か。」
計画は綿密なもので、期間も、予算も、必要となる人員数も記されていた。
しかし、その前提が間違っていた。
どこからその予算を出すのか。
どこからその人々を集めるのか。
それが現実性を欠いた物だったのである。
特に、もっとも農作業の忙しい最中であっても、人員は減らさず工事を続けるという点が問題であった。
収穫後、地力回復のため田畑を遊ばせている間の仕事の斡旋なら問題ない。だが、そうではなかった。
この当時に限ったことではないが、都市を作るというものは簡単にできるものではない。計画されない都市は時間がかかるし、計画された都市は人も予算もかかる。
公共事業を都周辺で行なったのは、都に集まった失業者に職を与えるという意図があったからである。つまり、それだけの労働力の確保が可能であり、藤原の財産の大部分をつぎ込んだにせよ、それだけの予算の確保もできたからこそ可能だったのである。
だが、道真の考える都市計画は、充分な労働力の確保が困難な地域での計画である上、明確な予算が示されていない。計画では国衙の予算に加え中央からの支出による都市作りとなっているが、国衙にはそれだけの予算もなく、中央はもっと予算がない以上、その支出は無理である。ましてや、失業者が多いわけではないばかりか、逆に人手が不足している状況で労働者を集めることなどできない。となると、どこから人手を集めなければならない。それも、現在田畑を耕している人を無理矢理連れてきてである。
そうなると、どういった結果が待っているか。
減収である。
田畑から人を奪っておいてなお、以前と変わらぬ収穫を残すことが可能だと考えるのであれば、その人の知性を疑わざるを得ない。基経があきれたのはそれが理由である。
田畑に投入した人の数がそのまま収穫に直結し収穫が収入となる状況だというのに、人手を奪ったらどうなるか。
収穫は減り、人の手が入らなくなった田畑は荒れる。
都市を作っている間は連れてきた人間を養うことはできたとしても、完成したあとは、一部のメンテナンス要員を除いて、建設に従事していた者は失業する。そして、無理矢理連れてこられる前の村に戻ると、田畑は荒れ果て、蘇らせるのに困難な状況となっている。
その結果、生きていくために都市に流れるようになる。古今東西、生活に困った者が都市に流れること代わりはない。そして、都市の中心に貧しい者の集まる街を形成し、治安の悪化を呼び、彼らへの対策のために都市の財政を悪化させる。その財政の穴を埋めるために税が増やされ、税に耐えられず住まいを捨て、都市の中心に流れる。その中で都市の快適な生活を味わえるのは、都市の中心より少し離れたところに住む恵まれた一部の者だけである。この無限ループは誰かが止めなければ止まらない。
道真の望んだ、地方でも都と変わらぬ文化的な都市なるものは実現可能かもしれない。しかし、都と変わらぬ暮らしは、恵まれた環境にある一部の者しか味わえない。それも、それまで何とか暮らしていた人たちの生活を奪った上で。
道真の提案は都では却下されたが、任国である讃岐では実行していた。
讃岐国の国衙は現在の坂出市府中町、現在で言うと、JR予讃線讃岐府中駅の北西にあった。
現在は碑を残すのみで姿をとどめていないが、国衙はおよそ六〇〇~七〇〇メートル四方の正方形で、その周囲に国衙に勤務する者の家々が建てられ、さらにその周囲に一般市民の家が並んでいたとされている。発掘による確認はまだ不完全ではあるが、このあたりの地名の由来をさかのぼると、道真が国司であった頃の建造物の名がそのまま地名となっているものが多いことに気づかされる。
現在にも名残をとどめる実績を残したのだから、讃岐国における道真の評判は高いものがあったのだろうと考える人も多いかもしれないが、実際はそうではなく、むしろ低いものであった。
かつての国司である紀夏井(きのなつい)の評判が極めて高く、道真を含む歴代の国司は常に紀夏井と比較されてきたからである。
紀夏井は善政を心がけており、紀夏井が国司であった頃の暮らしぶりはかなり良かった。収穫に恵まれた上に税率は低く、農家は税を納めてもなお余るため、穀物を蓄える倉庫を競うように増築したという。
任期満了を迎え都へ帰ろうとした紀夏井を引き留めるために農民が国衙に殺到し収拾がつかなくなったため、朝廷は紀夏井の任期を二年延長した。これは後にも先にも例のないことであった。
さらに、他の国司が自分の財産を殖やしてから都に帰ったのに対し、紀夏井が任地で手にした物のうち都に持ち帰ったのは、愛用していた筆と、事務上必要な記録を記した紙だけ。そのほかは、着るものも、食器も、全て六年前に赴任するときに都から持ち込んだものをそのまま持ち帰っただけであった。
清廉潔白をそのまま絵にしたような人物であり、結果も出し、人気もあった。
そうした国司のもとで暮らしていた人に向かって、新任の国司と紀夏井とを比べるなと言うほうが無理である。しかも、彼らの思い描く紀夏井は、欠点も存在する生身の人間としての紀夏井ではなく、全ての欠点が忘れ去られた完璧な存在としての紀夏井である。
道真は学者としてのエリートコースを歩んできた。それも、その美貌と知識は一度として挫折を経験させなかった。方略試の成績こそ高いものではなかったが、若くしてその試験に合格したということは道真のプライドを支えていた。
その道真が初めて他者との比較で負けを宣告されたのが、讃岐国司という職務である。
道真は何とかして紀夏井に、それも、市民の脳裏に残る紀夏井に勝とうとした。
それが、国衙周辺の開発だった。
規模こそ小さいが、都に負けない大都会を作り出す。そして、都市の豊かな暮らし人々に体験させ、都と変わらぬ暮らしを実現する。
その意気込みは讃岐国の民衆を、半分の喜びともう半分の苦しみに導いた。
この世にあることは知っているが見たことなど無いというのが、この時代の讃岐国の民衆にとっての都だった。
その都と変わらぬ物が、自分たちのすぐそばに現れたことは喜びだった。
しかし、それを作ること、そして、それを維持することは苦しみであった。
その民衆の苦しみのほうも道真は理解していた。しかし、都に変わらぬ都市が実現すれば解決すると思いこみ、今の苦しみはそれまでの一時の苦痛だと信じ切っていた。
そして、讃岐のように日本全国に都市を作ればよりよい国になると確信していた。
基経はこの道真の主張を無視した。
しかし、この道真の様子を知った人がいた。
宇多天皇である。
盛んに地方の様子を伝えるこの学者貴族の意見を宇多天皇が尊重したのではない。宇多天皇は橘広相に変わって学者派のリーダーとなり、基経の対抗馬となりうる人物として道真を見いだしたのである。
宇多天皇が道真に目を付けたことは比較的早い段階に知られていた。しかし、これに対する藤原父子の対策は何も伝わっていない。全く気にしていなかったのか、あるいは、何らかの対策を打ったものの記録に残らなかったのか、これはどうやら前者らしい。
都中の女性を虜にさせる美貌の持ち主であり、また、讃岐に赴任して真面目に国司としての職務を遂行していることは知っていた。そして、讃岐の民衆が道真をどう見ているのかも知っていた。
そこでの結論は、やはり道真も理屈優先の学者にすぎないというものであった。
学者派の典型と言うべきか、他人のした結果を見通す力はあるが、自分のしたことの結果を見つめる能力を欠いていた。
そして、こう結論づけた。
橘広相と同じ道を歩むと。
しかし、こうした藤原派の評価など宇多天皇にとって何ら意味を成すものではない。重要なのは、藤原派に対抗してもらうことである。
阿衡事件から半年は藤原派の天下と言って良かった。
基経が権力を握り、時平が蔵人頭として宇多天皇に仕えることで宇多天皇の行動をセーブする。
道真と連絡を取り合うものの宇多天皇は表向き藤原派に従う様子を見せていた。そして、二つの時のうちどちらか一方が来るのを待ったのである。一つは道真が都に帰ってくること、もう一つは基経が死ぬことを。
橘広相を失った学者派はこうした状況に逆らわずに時を過ごしていた。しかし、道真を心待ちにするという点では宇多天皇と同じであった。
数多くの手紙が都と讃岐を往復するようになった。
その中には宇多天皇から道真に送られた手紙も、そして、その返信もあった。
宇多天皇は道真に一刻も早く都へ帰るよう勧める。それに対する返信は、任期満了までは戻らないというものであった。ただ、それは道真の責任感から来るものであるとばかりは言えない。
自分の政策による讃岐の都市化の“成功”を見届けたいという思いは当然あったであろう。だが、それだけではないように思える。
この当時、国司を一期勤めると一財産できたのである。紀夏井のように財産を築くなど全くしなかったというのは例外中の例外で、たいていの国司は財産を築いて都に帰るのが普通であった。その中には明らかに違法な手段による富もあったが、余程のことがない限り裁かれるようなことはなかった。
菅原家は決して貧困ではない。藤原家に比べれば見劣りするものの、単なる学者家系ではなく、貴族としての財産にも恵まれた家系である。そのため、道真の財産が親より受け継いだものであるのか、それともこのときの国司としての職務によるものなのかはわからない。ただし、一つだけ言えるのは、道真の財産は他の学者派の貴族よりはるかに恵まれていたということである。
道真の帰還に失敗した宇多天皇であったが、これへの対策を考えだした。それも、堂々と時平を蔵人頭から排除することも同時にである。
翌年の一月一六日、宇多天皇は藤原時平を従三位に出世させ、同時に讃岐権守に任じた。
これが宇多天皇の作戦である。何しろ四位の職務である蔵人頭からの出世であり、しかも、三位の職務である讃岐権守がついているのだから、普通ならば手放しで喜ぶべき内容である。
だが、これは一〇〇パーセント罠なのである。
時平が讃岐に行くとなると道真はお役御免となり都に戻らねばならない。ここでついに宇多天皇は道真を利用できるようになる。
一方、基経はすでに年齢的なものがあり、そうそう無茶ができるような体力ではなくなっている。その職務を支えている者の一人が時平であるが、時平がいなくなると基経にその分の負担が降り懸かることとなり、下手をすれば命を縮めることとなる。
さらに地方に赴任した時平の財産調査という手もある。ここで法に触れる振る舞いに出て財産を殖やしたら、堂々と有罪にして追放できる。
そして、陽成院は時平がいてはじめて藤原派との関係を築けている。となると、時平がいなくなった陽成院は、藤原派との関係が途絶え孤立する。
これは罠であると悟った時平は、一歩上を行く返答を示す。讃岐権守には就くが、実務については、これまでの功績を配慮するとして自分の目代に道真を指名したのである。これは典型的な遙任のケースと全く同じであり、そのため、この時平の行動を問題として取り上げることはできなかった。
ただ、三位になった以上、蔵人頭の地位に居続けることはできなくなった。そのため、時平はここで宇多天皇との関係を失うこととなる。
しかし、これが逆に時平を自由にする。父基経の右腕となったのである。基経は明らかに年齢による衰えが見えており、特に体力にそれが現れるようになっていた。時平はそのサポートに入ったのである。
宇多天皇の策は失敗に終わり、ただ単に時平が出世したという事実だけが残った。
藤原氏が最高の臣下として権力を握るという政治形態が誕生したと誰もが感じ、新しい元号である「寛平」の時代は藤原の天下だろうと誰もが考えた。
翌、寛平二(八九〇)年一月七日。
宇多天皇の待ち望んでいた人物がついに姿を見せた。菅原道真が讃岐国より帰京したのである。
紀夏井のときと違い、讃岐の民衆から帰らないでくれという願いは全く来ていない。それどころか、民衆は目障りな国司が失せたことに喜んですらいた。
こうした民衆の態度は都にも伝わっていた。道真帰京はニュースではあったが、あの女たらしのプレイボーイが帰ってきたのかという程度の認識でしかなく、道真を大々的に歓迎するという雰囲気など全く無かった。
そうした都の人々の道真に対する視線が一瞬にして激変したのが、他でもない宇多天皇直々の道真を呼び寄せる知らせである。
この意味を都の人たちは直ちに察した。
藤原派に対抗する人材、すなわち、橘広相の後継者に道真を指名するというものである。
この事情はかなり前から時平にも掴めていて、陽成上皇との会話にも道真の名は頻繁に出てくるようになっていた。
「場合によっては橘広相より手強いかもしれません。」
「讃岐での様子は朕も聞いている。讃岐国衙は都に劣らぬ街となったが、そのための重税が民を苦しめた。おかげで、讃岐は荘園と逃亡者の多い国になってしまった。」
「しかし、橘広相のように対するのは無理があります。何しろ、渤海との折衝という国に対する貢献はあるのですから、無為無策を責め立てることはできません。先の阿衡のような失態をしでかさない限り、責任をとらせることは困難でしょう。」
陽成上皇はこのころから和歌や漢詩の世界に没頭するようになっていた。理由は三つ。
一つ目は皇位復帰に対する諦め。宇多天皇はまだ若く、命に関わるような事態はない可能性が高い上、まだ幼子ではあるが自分の後継者となるべき皇子がいる。つまり、皇位も、皇位継承も安泰である。そのため、自分が再び天皇となる可能性は低くなっていた。
二つ目は、上皇という地位の便利さ。日々の雑務に煩わされることなく、しかも、生活と権威が保障されている。権力を奪われたことの悔しさはあるが、時平という無二の親友が、全てではないにせよ自分の考えも受け入れた上で動いている。それも、かつて自分にひれ伏しながら今では自分を見下している宇多天皇を、これ以上ないほどに封じ込めている。これが愉快でないわけがない。
野望を閉ざしながら欲望を叶えた陽成上皇には、時間が有り余るほどあった。そういう人間は無為に時を過ごすか、趣味に没頭するものである。陽成上皇は後者であった。それが最後の理由である。
しかし、以前から陽成上皇が詩歌の世界に興味を示していたわけではない。当初示していた趣味は本そのものを集めることであった。だが、集めるような本がもう無くなっていたのである。最大の本の供給元であった唐の衰退は目を覆うばかりで、図書の輸入は途絶えていた。
その結果たどり着いたのが、自分で書を作るという趣味である。それが和歌や漢詩の世界への没頭になった。
この陽成上皇の新たな趣味が、陽成院に思わぬ訪問者を招くことになった。
道真である。
讃岐にいた四年間、道真は書に飢えていた。
いかに都に負けない街を作ろうと、都の文化がそのまま移せるわけではない。
そのもっとも極端な例が本であった。この時代、都とその周辺以外で本を入手するのは極めて困難であった。本を手紙のように運ばせる方法はあったがそう何度も利用できるものではなく、また、新しい本として何があるのかといった情報はまず手に入らなかった。
自他ともに認める読書家を自負する道真にとって、本が手に入らないことに対する飢えは激しいものがあった。
その状態での都への帰還であり、都には讃岐では味わえなかった本に恵まれた場所がある。それが陽成院である。
「まことにこちらは夢のような場所にございます。」
陽成上皇も時平も道真を知っていた。だが、このように顔を合わせるのは初めてのことであった。
二人の前にいたのは、宇多天皇が右腕として頼ろうとしているような存在ではなく、これまで陽成院で何人と見られた一人の読書家であった。
「長恨歌の写しは幾度となく見て参りましたが、このような書は初めてにございます。」
「そうか。長恨歌を愛読する者は多いが、そちほどに喜びを見せるのは初めてだ。」
「讃岐ではこのような書は手に入りませぬか。」
「そうですな。一冊も手に入らぬとわけではあらぬが、都のように市で手に入れるようなことはできぬ。」
道真はこの二人より一回り歳上であり、ついでに言うと能有と同い年である。だが、そこには年齢を超えた趣味人同士の会話があった。
時平は陽成上皇と違い、漢詩や和歌に対する知識はさほど無い。もっとも、人並みの知識はあるので二人の会話にはついていける。だが、陽成上皇と道真との間の漢詩の話に割り込めるほどではない。そのため、自然と聞き役に回る。
「時平殿が足繁く通う理由もわかりますな。」
「それが陽成院の素晴らしさです。陽成院は誰にでも開かれている書の殿堂、学びたい者がいつでも立ち寄ることができますから。」
「ならば、もっと大勢の人に立ち寄っていただきたいものです。」
「やはり、陽成院という立場がどうしても邪魔をしてしまうのです。実にもったいないことに。」
「それは無粋というものでしょう。書とは、学び、悦び、愉しむもの。立場などいかようにも超えられます。」
陽成院を出てから牛車に乗り込むまでのわずかな時間ではあるが、時平は道真と並んで歩いた。
その間、政治の話は全く出なかった。
いや、道真が陽成院に来てから今のこの瞬間まで、道真の口から政治に関わる話は一言も発せられなかった。
会話はあくまでも和歌や漢詩、そして、書に関するもので、陽成上皇の応えもそれに合わせたものであった。
「万葉集が生まれてからこれまで、どれだけの詩歌が詠まれてきたでしょうか。」
「さあ、いかほどでしょう。千や万では足りぬでしょう。」
「私にもそれはわかりません。しかし、ただ一つ言えること、それは後世に伝えるべき優れた詩歌があるということです。我々人間はいずれ死ぬべき運命にあります。しかし、書は人が亡くなった後も残り、百年後の人にも、千年後の人にも伝えてくれます。」
道真は歩みを止め、後ろを振り返った。
時平は道真の動きに合わせて、後ろを見た。
「時平殿、私は今日、この素晴らしい文庫(現在で言うところの「図書館」)に出会いました。そして、この文庫は後世の人にも大いに役立つものであると確信しました。しかし、ここを以てしても、未だ文字になっておらぬために目にできぬ詩歌が数多くあることを知りました。都に戻ってきたからには、そうした詩歌を書にまとめたいのです。時平殿、力を貸してくださらぬか。」
これは時平には全く思いもつかないことであった。
道真を宇多天皇の右腕、すなわち、政治上の対立軸になる人間だと時平は認識していたのである。
その道真が自分に協力を求めてきた。
一見すると単なる文化事業だが、話を総合すると、万葉集に次ぐ和歌集を一緒に作ろうというのである。
これは壮大な国家事業であることを時平は瞬時に察知した。
「わっはっはっはっ! 道真に協力を求められたか!」
基経は大笑いした。
「万葉集をもう一度作ると言われて当惑しているのはこちらです。」
「でも、兄上。お受けなさるのでしょう。」
「まだ決めてはいない。」
「しかし、橘広相と違って風流を解する男か、道真というのは。」
「はい。陽成院での会話は、終始、詩歌のみでした。」
「詩歌なら何も困ることはあるまい。時平、協力してやれ。どうせおぬしは蔵人頭をクビになって暇であろう。」
「それはそうでございますが。」
「それに、陽成院の全面協力も期待できるのだろう。」
「はい。」
「帝が期待している道真が、事もあろうに、おぬしと、陽成院と手を取り合って、二百年以上は捨て置かれた国家の大事業に乗り出すとは、何とも愉快な話ではないか。」
基経は愉快な話と笑ったが、愉快でないのが宇多天皇である。
基経から新しい万葉集の編集を聞かされた宇多天皇は激怒した。
「陽成院、陽成院! どいつもこいつも陽成院!」
一度は自分の右腕にと期待した時平は、幼時からの友情と政略のために自分を捨てて陽成上皇を選んだ。
次に自分の右腕として期待していた道真は、陽成院の図書と学者としての思いから陽成上皇のもとに日参している。
それが純粋に詩歌を愉しむ集いであるにせよ、国家的文化事業を、自分をないがしろにするばかりか、陽成上皇のもとで行なおうというのが気にくわなかった。
「いまどき万葉集ではあるまい!」
「しかしながら、万葉集より二百四十年、その間に生まれた詩歌は数知れず、漢詩ならばまだ記録されておりますが、和歌となりますとほとんど残されておりません。このまま捨ておくとなりますと、大きな損失となります。」
「損失して誰が困る。だいたい、詩歌が何の役に立つというのか。」
「国家千年の損失にございます。」
「なにゆえにだ、基経。」
「本朝の創始以来、歌の絶えたことはございません。それは、歌が、全ての人に開かれた楽しみであり安らぎであるからです。栄華を彩る者だけが認められた楽しみではなく、税に恐懼する者にも、明日の食べ物に困る者にも、歌だけは残されているのです。それを取り上げると言うのですか。」
基経は宇多天皇を一喝した。
宇多天皇も基経の言い分は正しいと判断し、その件については黙り込んだ。
しかし、自分のいないところで進められる和歌集の編纂だけは納得できなかった。
本来ならば国の編纂とするべきところを断じて認めず、あくまでも、個人の編集としたのである。
そのため、この「新撰万葉集」は全二巻と初代の万葉集と比べ量が少ない。しかし、第一巻の完成は早く、この二年後、寛平三(八九一)年には完成している。
道真が陽成院に顔を出すようになったとは言え、道真の政治的立場が藤原派と同調したわけではない。
自身の主張する地方の開発を取り下げたわけではなく、それを無視する基経の態度に迎合する向きもない。
しかし、陽成院という私的な楽しみを満喫できる場所で道真は陽成上皇や時平と意気投合しており、また、自身の進める新しい万葉集(このときはまだ「新撰万葉集」の名はない)に反抗する宇多天皇とこれを諫める関白基経という図式では、時平や基経に親近感を感じるのも当然といえば当然である。
いや、このときの道真は親近感というよりももっと上の感情であったかもしれない。
都に戻ってきた道真が目にしたのは、天皇に変わって実務を取り仕切り、夜明け前から真夜中まで休むことなく働き続けている基経であった。
それまで捉えていた基経のイメージは、権力をほしいままにし、私利私欲にまみれ、天皇をないがしろにし、気にくわないとボイコットまでしでかす悪徳政治家というものであった。
だが、讃岐国司という地位に立って道真はわかった。
実務をすることの苦労を。
四年間という短期間、しかも、讃岐という一地域に限定してでさえ神経をすり減らす日々なのに、基経はそれを全国規模で、しかも、期限指定なしに行なっている。
これは自分には難しいと素直に感じた。
だが、それを認めたものの、基経が財産をため込んでいるという思いを捨て去るには時間がかかった。
国司の中には財産をしこたま貯め込んでから任国を後にするのがいる。だから、道真は当初、基経の苦労は認めたものの、基経はそれらの国司以上に財産をため込んでいると考えていて、基経を素直に評価する気にはなれなかった。
確かに基経の財産は莫大で荘園も広大に渡っている。だが、基経はそれをため込まずに吐き出している。それらは全て荘園にいる者、すなわち、自分を頼って生きている者を養うため。
それは幾度となく顔を合わせた時平からも推測できた。
貴族としての服装ではあるが、華美ではなく、地味を通り越して質素。また、三位以上となった場合の服の色は濃い紫であることが求められるはずなのに、時平のそれは紫を通り越して黒である。黒に近ければ近い紫であるほど高価であるが、黒一色となるとその値段は急に安くなる。単純に言えば、庶民でも買える布地。
牛車は流行から大きく遅れた年代物で、手入れはしていると思われるが、経年劣化が明らかになっている。これがあの藤原家の牛車なのかと都の者は驚きを隠せなかった。
食事にしても、庶民からすれば高価ではあるが、貴族全体からみるとかなり安値の部類に入る。
陽成院から借りた本を写すときの紙も、大量にある安値の品質の劣る紙。
当初は質素を心がけているのだと考えていたが、それにしては程度が重すぎる。
なぜかと考えてたどり着いた結論。それは、それが藤原の財産の現実なのだということ。藤原家は収入も多いが、支出はもっと多いのである。それも、自分のためではなく、荘園に生きる者を守るための支出が。
その代わりに基経はいったい何を得ているのか。
そう考えたとき、道真は何一つ思い浮かべるものがなかった。ありがとうという感謝の言葉すら。
何も得ることなく、ただただ天皇に代わって実務をこなすだけの日々。他者の日々のくつろぎには理解を示すが、基経自身はくつろぎなど無縁。給与は高いが贅沢な暮らしとは無縁。民衆の支持はあるが、国が何かしらの評価をすることは全くない。
その上、宇多天皇と基経の関係は日々悪化する一方。このまま改善しないとなると今度こそ取り返しのつかない事態になるのではないか。実際、宇多天皇がどれほど張り切ろうと、実務は全て基経の手にあるのだから、基経が再びボイコットなどに訴えてしまったら今度こそ国内は大混乱を呼び起こす。
そこで、道真は考えた。
基経がまだ得ていない栄誉を与えることで、宇多天皇と基経の関係改善が図れるのではないか。
「栄誉の称号?」
「はい。」
「あの基経にこれ以上栄誉を加えてやれと言うのか。」
「太政大臣に栄誉を与えるのではなく、後世の道標としての栄誉を与えるのです。開始は無位無冠でも、自らの力でここまで登り詰めることができるという栄誉を。」
道真のこの申し出は権謀術数の結果ではなかった。
しかし、宇多天皇はそれを権謀術数の手段として考え出した。
基経に何かしらの栄誉を与えるにしても、どんな栄誉ならば良いのか。
それを考えた宇多天皇は過去の事例を探した。
そして見つけた。
「准三宮宣下でございますか。」
三宮とは元来、太皇太后、皇太后、皇后のことであるが、この時代になるともう少し意味が広がり、皇族生まれではないが皇族になった人という意味で捉えられるようになっていた。
これに准がつくと、皇族になってはいないが皇族に匹敵する権威を国が保証するという称号になる。ただし、この時点でその権威を受けたことがあるのは基経の養父である良房だけ。
「太政大臣の国家に対する貢献をふまえれば、決して相応しからぬ称号ではない。」
道真は何も言わなかった。
だが、良からぬ結果になるのではという漠然とした思いは抱いた。
寛平二(八九〇)年二月一九日、宇多天皇は藤原基経に准三宮宣下を下した。
思いもよらぬ栄誉に驚いた基経であるが、その真意を基経はすぐに理解した。
それまでただ一度だけ行なわれた准三宮宣下、それは、基経の養父、良房に対してのものであることは先に述べたとおりである。
問題は、なぜ良房にこの栄誉が与えられたかである。
それは、良房がこのときすでに六七歳になっており、年齢から来る体力の衰えから政務も滞りがちになり、基経に実権が移りつつあったからである。そして、良房はこの栄誉を受けたあと事実上引退し、それから一年と経たずに亡くなっている。
何のことはない。充分働いたからそれに対する栄誉を与える。その代わり引退しろ、ということなのである。
阿衡のときは意識せず基経を突き放す言葉の使用になったが、今回は、意識しての言葉の使用である。
しかし、名目はあくまでも権威であり、それを受けた者が居るという過去の例があり、しかもそれが他ならぬ養父良房。これでは簡単に断るわけにはいかない。
これは思いもよらぬ栄誉であり、また、権力が伴わない権威の称号であるため、権力を奪うことに対する事項は全く存在しない。だから、引退とかを匂わせるものは全くない。
だが、ただ一度の事例をふまえれば、宇多天皇が何を狙っているのかすぐに理解できることであった。
それでも基経はこの栄誉を受けている。阿衡と違い、養父が受けたという過去もあるが、何よりもまして大きかったのは、その権威に付随する市民からの評価である。
自分たちを守ってくれた基経が得た栄誉に喜ぶ市民は多かった。
その多くは、基経がやっと国に評価されたのかという思いであり、宇多天皇の真意は伝わっていなかった。真意はこうではないかと感じた者はいたが、基経が引退することも、ましてや死を迎えることも、誰一人考えていなかった。
だが、宇多天皇の真意は、時間はかかったものの実現することとなる。
基経が栄華を極めたと誰もが考えていた裏で、これに反発する勢力が台頭しつつあった。
きっかけは、寛平二(八九〇)年五月一六日の橘広相の死去である。
かつて学者派のトップとして基経と渡り合いながら、阿衡事件で敗れ去り、宮中から追われた橘広相の死は、それなりに大きなニュースとなった。
そして、橘広相の葬儀に始まった輪は次第に大きくなっていき、その矛先は藤原派ではなく、自分たちのリーダーになっていてもおかしくはなかった道真に向けられることとなった。
藤原父子が自分たちの敵なのは最初からわかりきっていることだが、道真の立場は不鮮明であった。
まず、時平や陽成院とのつきあいを日々深めている。
そして、基経との関係も良好である。
次に、宇多天皇のもとに日参している。
それでいて自分たちとの手紙のやりとりは欠かさない。
つまり、誰とも均等の立場に立っていたのである。
明確な対立を宣言している集団にとって、敵対する相手は、対立している相手だけではない。自分たちと相手とともに接している存在もまた敵対する相手なのである。
その中で頭角を現したのが三善清行である。
三善清行のこれまでのキャリアは道真の歩んだ道を少し遅れて歩いているようなものであった。
文章生になったのは二七歳、方略式に合格したのが三七歳と道真と比べるとだいぶ遅い。しかし、この二人は二歳しか違わないのである。
三善清行の方が二歳若いのだが、二人のキャリアの開きは二年でどうにかなるものではなかった。
文章生になるべく奮闘している頃、二歳上の道真はもう渤海との折衝にあたっていた。
方略試に何度も挑戦し、十年を経てやっと合格したときには、道真はもう貴族の仲間入りをしていた。
そればかりか、役人になるべく受けた試験の試験官は道真で、道真は三善清行を不合格にしているのである。
追いつこうともがけばもがくほど差は開くばかり。それでも自分たちのリーダーとして活躍してくれればまだいいが、陽成院に入り浸り、藤原家と親交を深め、天皇とも関係を築いている。
三善清行の道真に対する感情は、嫉妬と、怨恨と、怒りに集約されていた。
その三善清行が学者派のリーダーとして頭角を現した。
三善清行登場を道真はどう見ていたのか伝える資料はない。
しかし、ある程度は想像できる。
道真はかなりの可能性で歓迎していたのではないであろうか。
基経の日々の政務を見ていれば、それがいかに激務かすぐに想像できた。
そして、年齢的なことを考えると、基経にはいつ不測の事態が起こってもおかしくはない。
そのとき、基経の後を誰が継ぐのか。
実務としては能有であろうが、形式上は時平である。
時平のキャリアはまだ途中であり、基経の後を受けていきなり関白太政大臣になれるわけはない。となると、待っているのは宇多天皇による親政である。
ところが、宇多天皇と接していて道真は気づいたのでは無かろうか。宇多天皇の統治者としての能力は基経に劣るものであるということを。
最低でも現状維持をつとめるには誰かが基経の役割を引き受けなければならないが、その激務を誰がやるのか。今の朝廷を見渡しても一人で受け持てる人間は居ないのである。
強いて挙げれば能有の名が出てくるが、能有がいかに勤勉でも基経には及ばない。
ならば、現状では複数人で分担してやるしかない。
そして、その人数は多い方がいい。
その複数人に三善清行を考えていたのではなかろうか。何と言っても、方略試に受かった人間で、自分と大して年齢が変わらない人物の登場、つまり、自分の代わりをできる人間の登場ということである。
しかし、これはあまりにもお人好しすぎる。
道真にしてみれば弟のような年齢の人物が苦労してここまで来たという喜びであったろうが、三善清行にそんな思いはなかった。
それに道真は最後まで気づかなかった。
栄誉を得た基経は、どうやら自分の命を考えるようになっていたと思われる。
寛平二(八九〇)年一二月一四日、基経が関白を辞任した。
後継者である時平はすでに従三位にまで来ている。
能有のサポートも期待でき、陽成院という後ろ盾があり、敵対すると思われていた道真は今や時平とともに活躍する仲間である。
宇多天皇との関係はお世辞にも良いものではないが、それは能有や道真が何とかしてくれるという期待ももてた。
自分が居なくなった後の心配は片づけたと確信したからこその関白辞任のではなかったか。
そして、それは自分の時代の終わりを悟ったが故の引き際ではなかったか。
基経は関白辞任を最後に宮中に姿を見せなくなる。
それでもなお影響力はあり続けたのか、宇多天皇は基経が姿を見せなくなっても何ら動きを示していない。
だが、宇多天皇の胸中は断じて静かではなかった。
まもなく訪れる時間を待ちわびていた。
そのときは年をまたいで訪れた。
寛平三(八九一)年一月一三日、藤原基経、死去。
時平はそのとき、泣き崩れる二人の弟を精一杯はげまそうとしたが、自分の涙に打ち勝つことはできなかった。
基経の死の知らせは直ちに都中に広まった。
宇多天皇はその知らせを受けて笑みを浮かべたが、直ちにそれを取り消さざるを得なくなった。
基経が居なくなったという知らせの瞬間、都が蒼然としだしたのである。
都に住む者はこれまでに二度、基経の居なくなったときのことを経験していた。一度目は基経の復帰で静まった。二度目は能有や時平の尽力で収まったが、その背後に基経が居ることは誰もが知っていた。
だが、三度目はもう基経が居ないのである。
店頭から再び商品が消え失せ、物価上昇が瞬く間に始まった。
そして、都の者は藤原家の邸宅前に集まりだした。
ある者は嘆き悲しみ、ある者は死を信じず、またある者は時平に直ちに基経と同じ動きをするよう頼み込んだ。
これを受けた宇多天皇は数日の間があいたものの声明を出した。
基経の政務を継続するという声明である。
誰が、どのように、基経の役割を引き受けるのかという事項は全く記されていなかったが、とにかくそれで都の混乱は収まった。
しかし、これに対する混乱が宮中で起こるのである。
「先の大臣(基経のこと)の政務を誰が引き受けるというのか。」
言葉はそうであったが、本音はそうではなかった。
基経の権力は引き受けたいが、基経の実務からは逃れたい。これは一部を除く貴族の共通認識となった。
その除かれる一部の一人が道真である。
「父君を失う悲しさは朕も体験している。しかし、時平はその悲しみも見せんと、宮中に日参しておる。喪に服したところでだれも文句は言わぬというのに。」
「父を失う悲しみは私も体験しております。そして、政務にいそしむことで自分を忙しくし、悲しみから多少なりとも逃れることも。今の時平殿はまさにその状態です。しかも、都の者は時平殿が先の大臣のあとを継ぐことを願っており、それをしなければ都に争乱も起きます。」
「争乱とは物騒だな。」
「主上、これは笑い事にはございませぬ。都の者は先の大臣の居なくなったという現実を受け入れられぬのです。それを受け入れることがすなわち自分たちの暮らしに関わることだからこそ。」
「わかっておる。だからこそ基経の政務は継続すると表したのだ。」
「では、誰が如何にして、先の大臣の役を引き受けさせるのですか。」
「朕に決まっておろう。」
道真はこのとき確信した。
宇多天皇は基経の政務の継承など全く考えていないことを。
それどころか、自らをトップに据えた独裁政権の構築を狙っていると。
「都の者が時平を望んでいる以上、時平を拒絶することはできぬ。しかし、時平に基経の特権を与えることはならん。もはや関白などいらぬのだ。」
基経の死は単なる一臣下の死であるというのは建前に過ぎず、実際には新天皇即位に似た人事刷新が必要であった。単純に言えば、基経の役割を担う人物の指名、ないし、役割を担う機関の創設が必要であった。
これまでは基経の影響で充分にふるえなかったが、人事権は宇多天皇にある。しかし、公約として明示した基経の政務の継承を破ることはしなかった。言葉の信義を重んじたからと言うよりも、それによって起こる混乱を危惧してのものである。
その結果、関白と太政大臣の二つのポジションが無人になり、それ以下の左右大臣や大納言・中納言といった役職は、空席を埋める以外現状維持となった。
左大臣は源融が継続して就任。
源多(みなもとのまさる)の死によって空席となっていた右大臣には藤原良世(よしよ)が就任。この藤原良世は時平の伯父にあたる。
だが、このふたつのポジションは事実上名誉職と化していた。
世間はそれを見て、現在の政務の継続を確認した。
宇多天皇が手をつけたのはその下のポジションに人を配置することによる、自身に権力の集中する仕組みの構築である。
寛平三(八九一)年二月二九日、菅原道真、蔵人頭就任。
三月九日、菅原道真、式部少輔兼任。
三月一九日、藤原時平、参議就任。
四月一一日、菅原道真、左中弁を兼任。
同日、藤原時平、右衛門督を兼任。
その結果、一ヶ月半の間に道真と時平に様々な権力が与えられた。もっとも、時平に関しては、本人の功績よりも、基経の継承をイメージ付けさせるためであると言える。
逆に目を引いたのは道真の蔵人頭就任である。
時平の時にふれたが、この職は若い者が就くのが慣例である。四位である道真は位的にはおかしなことはなかったが、宇多天皇とは親子ほどの年齢の開きがある道真の就任は注目を浴びずにいられなかった。
しかし、宇多天皇の立場に立ってみれば道真を選ぶことが最良の選択なのである。
基経の影響からの脱却を望んでいた宇多天皇はついにその希望を果たした。そして、念願だった親政の開始。
だが、現実問題、天皇という職務に伴う雑多な事務作業を誰がやるのかという問題がある。基経はそれを自分でやっていた。それが関白という職種だからだが、宇多天皇はそうした雑務に対する意識が乏しい。もっとも、それは必要なことであるとは理解しているので、誰かがやらなければならないという意識はある。ただ、その誰かというのが自分ではないのである。
では、誰が。
宇多天皇の答えが道真であった。
讃岐国司の時に見せた高い事務処理能力を買ったのと、時平と違って出しゃばらないことがその理由である。そこで言う時平の出しゃばりというのはあくまでも緊急事態だったからだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるは人類普遍の法則。宇多天皇は、やはり時平は基経の息子なのだと考えていた。
しかし、宇多天皇がどのように感じようと、時平はこのとき一心不乱に働いていた。
父を亡くした悲しさから逃れるためもあるが、一番の理由は宇多天皇の後始末である。
改革を自負する人によく見られるのがその場の思いつきである。
じっくりと考えた結果ではないから、それをしたらどのような結果が待っているかという考えがない。その代わり、言い出した本人はそれでいい結果が待っていると思っている。
これを止めるのが時平の役目であった。
あるときは理詰めで説得し、あるときはボイコットを示唆して宇多天皇の動きを止めた。
要するに口うるさい家老役を引き受けたのである。
これ自体は基経がやっていたことでもある。
宇多天皇にしてみれば口うるさい大臣が亡くなり、これでやっと自分の思い通りになると思った矢先に、その口うるさい大臣の子供があれこれと言い出してきたといったところか。
ただ、基経には関白太政大臣というかなり強力な肩書きがある上、年長者としての経験と威厳があったが、時平にはその両方がなかった。
宇多天皇より年下で、肩書きもそう高いものではない。その時平が使うことができたのは、陽成院で学んだ書から得た知識、そして道真の協力であった。
陽成院が和歌や漢詩を通じて道真と接するようになったこと、そして、それが新撰万葉集を生み出したことは先に述べた。
元祖の万葉集でもそうだが、こうした歌集に編集者の作った歌がたくさん載ることは珍しくない。事実、元祖の万葉集では編者である大伴家持(おおとものやかもち)の歌が、長歌・短歌など合計四七三首載っている。
それは大伴家持の名声を後世に残すのに役に立った。
これに危機感を抱いたのが宇多天皇である。
いくら道真が中心であるとはいえ、時平や陽成院の協力なくして新撰万葉集は誕生しない。
これが大きく取り上げられると困るのである。
特に自身に対する評価の結実という点で大問題となる。
自分が天皇であることの理由は父の地位を引き継いだということであり、これだけなら問題はない。
だが、一度は源姓を名乗り、皇族から離れていたという過去は否応無く問題として直面する。
そして、こう結論づけられる。これだけ優れた文化事業を残した陽成天皇が帝位を追われ、正当性の劣る宇多天皇がなぜ天皇になれたのか、と。
陽成天皇はその失政が原因となって退位したのは事実である。
しかし、このままではその失政よりも文化事業に名を残した英明な上皇として名が残ることとなってしまう。
しかも自分より二歳若く、皇位の正当性で行けば自分よりも優れている。
宇多天皇は考えた。
いかにして陽成院の気配を文書から消すか。
何しろ相手は個人のブログではない。道真個人となってはいても、国が編纂する正式な書物なのである。そこで陽成上皇が出てくるとなると、国として、陽成上皇の存在を強力に認めてしまうことになる。
だが、新撰万葉集の編纂開始はすでに周知の事実。しかも、第一巻が上梓されている。
幸いにして陽成院の歌はわずか一首載るのみであったが、第二巻以後大量に載ることは想像できた。
寛平四(八九二)年五月一日、宇多天皇は、道真と時平、そして、源能有、大蔵善行、三統理平の三名の、計五名を招いた。
いつもの思いつきかと思ったが、それにしては人が多い。
用心して聞いてみると、新しい歴史書を作るというのである。
「清和帝、陽成帝、そして、父光孝帝の三代、この三〇年間を扱う歴史書を作る。」
これまで、国が正式な歴史書として編纂し、対外的に公開したのは五冊。日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録の五冊である。そのほかに古事記があるが、あれは国内向けの歴史書であり、国の認めた正式な歴史書という位置づけではない。
「日本文徳天皇実録の後を継ぐ歴史書の編纂にございますか。」
「そうだ。」
誰も異論はなかった。
しかし、時平は宇多天皇のこの目論見を見抜いていた。
「朕を歴史から抹殺するか。」
「はい。」
陽成院を訪ねた時平から聞かされたのは、自分という存在を宇多天皇が消そうとしているということだった。
その中でも源能有の存在が厄介であった。
基経の信頼を受けた能有は無能ではない。政治的にも基経に近いものがある。ボイコット時の協力で能有のことをよくわかっている。味方としてはかなり頼りになる人材であるし、基経も時平の後ろ盾に考えたほどである。
だが、今の能有自身には後ろ盾がないのである。
母の身分の低さから皇族から降ろされ、出世は諦めていたが、基経に認められ臣下として順調に出世階段を歩んできた。そして、さあこれからというときに基経が亡くなり後ろ盾を無くす。
そこに降って湧いた宇多天皇からの勅命。これを源能有が逃すはずがなく、宇多天皇の望むとおりの史書編纂に当たるのは容易に推測できた。
「国の定める歴史と言えば聞こえはよいが、定省にとって都合の良い歴史を作ると言うことか。」
「何とかして自身の帝位の正当性を確保したいのでしょう。」
「それに、定省は朕が目障りなのだな。」
「……、はい。」
「まあ良い。定省がどのような書を作ろうと、朕はそれに対しとやかく言うことはできん。それが誤りに満ちた内容であろうと。」
「しかし、気になることがございます。」
「何だ?」
「道真殿にございます。そのような歴史書を作れと命じられ、今は学者としての誇りと、宮中に仕える者としての義務感とに板挟みになっております。」
「間違いは書きたくないが、それを書くのが仕事となった、というところか。」
「国の定める文の作成を誰に任せるかとなれば、私も道真殿を選びます。あれだけの文を記せる者は他におりません。」
「それが余計に道真を苦しめるのだな。ならばその苦しみ、定省にも体験して貰うか。」
陽成上皇はこのあと、新しい歴史書の編纂に全面協力すると発表した。陽成院で所有している資料の貸し出しを認め、そればかりか、編纂のための空間として陽成院を開放すると宣言したのである。
新しい歴史書の中身については何一つ触れていない。しかし、陽成上皇が歴史書編集に関係を持つと暗に宣言している。
宇多天皇は協力に感謝すると言いながらも、編纂のための場所は宮中にあるので心配無用、また、歴史を記すに必要な資料は全てこちらで用意するとして、陽成院の協力を拒んだ。
世間はこの対立を面白半分で見ていた。
ちなみに、この歴史書編纂の際に、それまでの史書や古典から必要な部分を抽出して道真が書にまとめたのが「類聚国史(るいじゅうこくし)」である。もともとは本文二〇〇巻、図録二巻、系図三巻からなる大書であったが、応仁の乱でその三分の二が失われたため、現在は六二巻しか残っていない。
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