正暦三(九九二)年四月二七日、一条天皇が母である皇太后藤原詮子のもとを訪れた。
出家した身の者に、子が顔を見せに訪れることは珍しい話ではない。本来、出家とは、俗世間とのしがらみを切り捨て、余生の全てを宗教のみに捧げることを宣言する行為なのだが、この時代の出家にはそこまで切羽詰まった感覚などなく、ただ単に生活様式の一つとしか認識されていない。
それに、いくら俗世間を切り捨てたと言っても、俗世間に残された家族にとってはいつまでも家族なのだ。出家した者が俗世間に残した家族の元を訪れることは滅多になかったが、寺院生活を選んだ親やきょうだいの元を訪ねる俗世間の家族は珍しくもなかったのである。
その珍しくもないことでも、それが皇太后のもとを訪れる天皇という状況になると国家的イベントになる。
どれぐらいのイベントかというと、このイベントの一部始終を仕切った藤原道長が、イベント成功の功績を評価され、正三位から従二位に昇格したほどである。ちなみに、既に述べたように位階のインフレの起こっているこの時代、本来ならば大臣に就任できる位階であるはずの従二位でも権大納言止まりである。上が詰まってしまっていては、従二位だからと簡単に大臣になれるわけではない。
それでも道長はこのときの境遇に対して不満を述べてはいない。何と言ってもまだ二七歳である。人生五〇年と考えられていたこの時代でも、二七歳の若さで従二位権大納言となれば相当なスピード出世である。
おまけに、父藤原兼家が存命中の頃は先を行くライバルとして扱われていた藤原公任が、気がついたら自分の足元にも及ばない低い地位に留まっている。三位以上になるか、もしくは参議に就任することで公式記録に名を残せるようになるが、そのどこを見ても藤原公任の名前はない。藤原公任の名が登場するのはこの年の八月二八日のことで、そのときの地位も、正四位下の参議である。三位でも参議になれない者がいる中で正四位下という低い地位にありながら参議になったのは特筆すべきことであるが、従二位と正四位下では大きな開きがあるし、権大納言と参議でもやはり大きな開きがある。
藤原道長より上の地位の者を見たとき、その全員が道長より歳上であり、道長と同い年の藤原公任ははるかに下であることを考えても、甥の道頼や伊周が急に出世してきているとは言え、自分たち世代の中のトップは自分だという自負が道長にはあった。
長兄の藤原道隆や、次兄の藤原道兼に何かあったとき、自派のトップに立つのは自分であると、このときの道長は確信していたのである。
この確信をさらに強めたのが正暦三(九九二)年六月一六日に突如飛び込んできた知らせである。
藤原道長の確信に対する最大の懸念は、叔父の藤原為光が太政大臣として君臨していることであった。仮に今ここで摂政藤原道隆に何かあったとしたら、後を受けるのはこの太政大臣になる。この太政大臣の行動次第では運命から見捨てられ、それまで持っていた権威や権力を失う可能性もあった。何しろ、藤原為光は、道長の父である藤原兼家と激しく対立していた人だったのだ。
その藤原為光がこの日、従一位太政大臣という地位で亡くなった。享年五一歳。先例に倣い恒徳公の名が贈られ、死者のみに与えられる最高の栄誉である正一位にも就任した。
太政大臣が亡くなったという点だけを見ると、日本国中を揺るがす大ニュースに思える。
ところが、そうはならなかった。
特に大きな反響を呼ばなかったのだ。そして、藤原道長をはじめとする貴族たちは、これで人事のシャッフルがあるだろうとは考えたものの、これから先、日本国はどうなるのだろうと考えることはなかった。
太政大臣と言っても、別の者が摂政として君臨している中での太政大臣である。
太政大臣に与えられている権力は、何と言っても拒否権につきる。議政官の決議を拒否し、審議差し戻しにする権利が太政大臣には存在するのだ。
しかし、摂政がいるとなると話は変わる。なぜなら、摂政に存在するのは拒否権どころの話では済まない大権である。何しろ天皇の職務を代行できるのだ。太政大臣の拒否を無かったことにすることだって摂政には可能なのだ。
しかも、摂政には人事権も付随している。名目は一条天皇の名による任命であったとしても、実際には摂政藤原道隆の任命した者が、参議となり、中納言となり、大納言となって議政官で幅を利かせるようになる。一方、太政大臣にはそんな権限などない。あるのは議政官の決議に対する拒否権だけである。
するとどうなるか?
太政大臣が名誉職になってしまうのである。
藤原為光は藤原兼家の異母弟であり、藤原兼家のライバルと目されていたこともあった。実際、藤原兼通が実弟の兼家を冷遇したのとは対照的に、兼通のもとで順調な出世をし、ピーク時には大納言筆頭として藤原兼家より出世競争で勝ってもいた。
ところが、花山天皇の時代で全てが狂った。藤原為光は花山天皇と接近しすぎたために、花山天皇の時代が突然の終わりを迎えると権勢を失い、あとは兼家の後塵を拝する人生となってしまったのである。
その後も藤原為光は出世をした。何しろ太政大臣であるからかなりの出世と言えよう。だが、時代は人臣トップの太政大臣ですら名誉職に変わってしまう摂関政治の時代になってしまった。摂政だから権力を持つのではない。議政官を、すなわち議会を操ることができるから権力を持つのである。
太政大臣は議政官の決議に加わることが許されない。つまり、国家の運営に関わる決定に直接からむことが許されない。無論、腹心を議政官に送り込んで議政官を外からコントロールするぐらいは誰でもやっている。だが、議政官を外からコントロールしようとしたところで、議政官の評決は多数決であり、人事権を持たない太政大臣には議政官の議決を左右できるほどの腹心など用意できない。
一方、人事権を握っている摂政ならば議政官の過半数を自派で占めることなど造作もない。
過半数を自派で占めれば議政官の決議を自分の意のままに操るなど造作もない。
仮に議政官の決議が太政大臣の拒否権発動によって差し戻されたとしたら、そのときは摂政の出番である。天皇の名で議政官の決議を有効と宣言することもできるのだ。何しろ、議論の末に下した結論を天皇がそのまま政策とすると決定するのだから、文句のつけようがない。公式記録にだって、太政大臣の拒否権発動はあったものの、議政官の決議が最終決議となったと記されて終わりである。
摂政になるか、あるいは関白にならなければ権力のトップに立ったことにはならない。そして、上がいる状態での太政大臣は名誉職にならざるを得ないのである。
名誉職であっても、摂政藤原道隆に何かあったとしたら、理論上、貴族のトップに立つのは太政大臣藤原為光になるというのがこれまでであった。そして、藤原為光の判断次第では、道長だけでなく、藤原兼家の子や孫の全員がそれまで掴んでいた権力を失いかねなかった。
その懸念がこの日、解消されたのである。
太政大臣死去に伴う人事のシャッフルの開始は、死去から二ヶ月を経た正暦三(九九二)年八月二二日に始まった。前年二月に全ての官職を剥奪された藤原在国が、およそ一年半の空白を経て従三位に復帰したのである。ただし、復帰したのは従三位の位階のみであり、参議も名を連ねることは許されなかった。
藤原在国の復帰から七日を経た正暦三(九九二)年八月二八日、人事のシャッフルが本格的に始まった。
まず、権大納言を勤めている源重光が権大納言を辞職。空席となった権大納言に従三位の藤原伊周が昇格。わずか一九歳での権大納言である。位階ではまだ差があるが、これで藤原伊周は藤原道長と同じ官職に登ったこととなる。
同日、正三位源時中が権中納言に昇格。同時に右衛門督の職を辞任。後任の右衛門督には従三位権中納言藤原道頼が就任。
藤原在国のライバルと目され、藤原兼家が左右の目の一人とまで評した平惟仲が、正四位下でありながら参議に就任。藤原在国をはじめとする多くの貴族が三位でありながら参議になれていない状況で、正四位下にして参議就任というのはかなりの抜擢とするしかない。もしかしたらこれが藤原道隆なりの仕打ちなのかもしれない。藤原兼家の後継者争いで藤原道隆を批判した藤原在国は、官職剥奪に逢い、復帰したものの無官の身で留められたのに対し、藤原道隆の味方をした平惟仲は位階が進まなかったものの参議に就任したのだから。
また、この日、正四位下の藤原公任も参議に就任した。二七歳での参議就任は早い方ではあるが、同い年の藤原道長との差はやはり歴然と存在している。
さらに議政官以外の官職就任を見てみると、藤原通任が左兵衛権佐に、源頼定が弾正大弼に、藤原正光が左近衛中将に、藤原隆家が左近衛少将に就任している。武力を手にしている藤原道長に対抗すべく、朝廷のオフィシャルな軍事のポストを藤原道隆の側近に割り振ることで、その下に連なる地方の武士団を軍事力として計算できるようになった。
これが正暦三(九九二)年の人事シャッフルの全てである。大規模ではあったが、太政大臣が亡くなったことを踏まえると物足りなさを感じる。
何と言っても大臣の異動がない。
藤原道長はこのときの人事刷新で人事の玉突きが起こると考えていた。いや、藤原道長だけでなく、多くの貴族が、太政大臣が空位なのだから、左大臣が太政大臣へ、右大臣が左大臣へとシフトしていくと考えていた。
藤原道長は大臣のシフトの流れの中でより上に進めるのではないかと考えていた。しかし、その考えが頓挫したどころか、自分と同じ官職に、自分より若い、わずかに一九歳でしかない藤原伊周が就任したことで道長の人生計画そのものが狂ってしまった。
若さを全面に押しだして、次代のトップは自分だと考える人間にとって、自分より若い者の台頭は脅威でこそあれ歓迎することではないのである。
ではなぜ、大臣のスライドがなかったのか。
じつはこのとき、左右の大臣がともに藤原氏ではなかったのである。
左大臣は従一位源雅信、右大臣は正二位源重信であり、順当にスライドさせると藤原氏ではなく源氏が太政大臣になるという事態になる。ちなみに、源雅信と源重信は実の兄弟であり、このときは兄弟で左右の大臣を占めていたこととなる。
藤原氏として、この源氏の兄弟のどちらかが太政大臣に就くことは避けて通りたかった。いかに太政大臣が名誉職になったと言っても、藤原氏の内部で収まるならばという条件が付いてのことであったのである。
左右の大臣じゃなくても内大臣がいるではないかという話もあるだろう。そして、このときの内大臣は正二位藤原道兼、すなわち、摂政藤原道隆の実弟である。内大臣が左右の大臣を経験することなく太政大臣に就任することは前例がある。藤原兼通という例外中の例外としても良い話であるが、それでも先例は先例。摂政の実弟が太政大臣になるのだからこれなら問題ないように見える。
だが、この先例を適用することは許されなかった。摂政藤原道隆の権力システムを考えたとき、議政官の議事進行を進める役、つまり左右の大臣が源氏であることは受け入れても、残る一人の大臣である内大臣を空席にする、あるいは他の者で埋めることは許されなかった。
ここで仮に内大臣藤原道兼を太政大臣に昇格させたとしよう。すると、議政官から藤原氏が一人減る。太政大臣は議政官に含まれないから、国の議決に摂政藤原通隆の意見を反映させることが困難になる。
ならば、他の者で内大臣を埋めれば良いではないか、それは藤原道長で良いではないかとなるが、実はそう簡単に済む話ではない。実は、藤原道長の妻である源倫子は、左大臣源雅信の娘なのだ。それも、倫子を皇族に嫁がせようとしていた源雅信に頼み込んで妻として迎え入れたという状況があるのだ。化け物のたぐいを恐れることはなかった藤原道長も、この岳父には頭が上がらなかったのである。
それも、私的な面だけの話ではない。
源雅信という人の政治的視点が藤原道長に少なからぬ影響を与えているのである。
藤原良房が律令を否定し現実主義に政治の主軸を移したとき、律令に反することが最新トレンドであり、反律令が若者を引きつける思想になった。
それが、時代の変遷とともに、反律令が現実主義と乖離してきた。もともとは現実と律令とが乖離していることを正すために、律令を否定して現実に基づく政治を行うのが本来の趣旨であったはずの反律令の精神が、反律令そのものが有職故実として構築され、律令の頃と同様に前例に基づく政治をすることが善とされるようになったのだ。こうなると、反律令のほうが現実から乖離し始める。
同じようなことは現在でも散見される。考え出された当時は最新であったが、今となっては古くさいものとなってしまった考えがあり、その考えを墨守する自分を最新と、その考えに背く者を守旧と捉える考え方である。
革新というのは本来ならば新しい社会を作ろうとする動きのことである。ところが、今の日本で革新と名乗っているのは、これまでの社会を維持しよう、あるいは、とっくに古くさいものとなってしまった考えを実現させようとしている者である。しかも、皮肉にもそれらが「リベラル」と名乗っている。
リベラルというのは本来ならば自由主義、すなわち、平等を制限してでも自由な社会を構築しようとする動きのことであり、現実を直視して、現実と理想が離れたならば理想のほうを改める考えのことである。自由主義者が求めるのは言論の自由だけではない。当然とするしかない言論の自由だけでなく、行動の自由、そして、成果の自由を求める。言論や行動や成果に他者の干渉を挟ませないし、自分も干渉しないというのが本来あるべき自由主義である。それなのに、現在のリベラルは、自由(リベラル)の名の真逆、現状を維持するために自由を制限し、自由主義の本来の姿である自由な社会の構築を目指す動きを、保守的、あるいは極右的と批判する。干渉するだけでも自由に反するのに、干渉ではあきたらず自分の意見を押しつけて成果を横取りしようとする。
「革新的なリベラル」を名乗る者のしていることは、自由な考えを認めるものでもなく、現実と理想のゆがみを認めることでもない。一方で、現実に即して新しいことをしようとする革新的な自由主義者は「保守的」「非リベラル」と扱われる。
この時代も似たようなものであった。律令を墨守しないことが「新しいこと」であり、その「新しいこと」を古くから代々受け継ぐことが「新しさ」であった。その一方で、代々受け継がれてきた「新しいこと」に背いて現実に向かい合うことは「古いこと」と見なされた。
この状況下にあって、「有職故実に則った政務は新しいものでない」「先例踏襲ではなく現実に即した政務をすべきである」と左大臣源雅信は主張し、藤原道長がこの考えに近づいていったのだ。
自分を「自由主義者」と任じるリベラルの藤原道隆にとっては、後継者の候補の一人である藤原道長が反リベラル(=自由主義)に軸足を移していることが気がかりであった。そして、何度も道長の政治スタンスを変えようとした。だが、全く変わらなかった。道長は自分の意見を兄に押しつけたりはしない。なぜなら道長は自由主義者だからである。自由主義者が絶対にできないことは、他人の意見そのものを受け入れるよう強制されることなのだから。
自らを正そうとする兄に反発するかのように、藤原道長は自由主義を実践した。
その行動は、リベラルである兄道隆にはとうてい想像もつかないことであった。批判を全く受け入れないばかりか、反対派を弾圧することをいとわない典型的なリベラルである摂政藤原道隆と対抗するかのように、藤原道長は藤原氏の人間には考えられない行動に打って出たのである。
それは何かというと、結婚。
藤原道長が左大臣源雅信の娘を妻として迎え入れていることは既に記したが、源雅信の娘倫子と結婚してすぐ、藤原道長は二人目の妻を迎え入れている。この二人目の妻が問題となったのだ。
ちなみに、この時代でも正式な結婚相手は一人と決まっている。ただ、正式な結婚ではないにせよ、限りなく正式な結婚の儀式に基づいて正式な妻として迎え入れたかのような体裁を整えた上で側室を迎え入れることは貴族社会においては珍しくないし、側室の子を認知しないなどあり得ない。無論、正妻か側室かでは立場が違う。正妻の子は優遇される一方で、側室の子は軽く見られることも珍しくない。何より藤原道長自身が正妻の子であるがために、末っ子でありながら権大納言という地位まで出世しているのである。
話はそれたが、藤原道長が二人目の妻として迎え入れた女性の名は源明子。父親は源高明である。藤原氏に反旗をひるがえしたために太宰府追放の憂き目にあった源高明の娘を、藤原道長は、正妻ではないにせよ、妻として迎え入れたのである。
源高明と言えば反藤原の論客であった。追放解除後に京都に戻ってからは、公職に就くことなく、外部から反藤原の論陣を張っていたのが源高明である。
もっとも、藤原道長は藤原氏と何のつながりを持たない女性と結婚したわけではない。源高明の妻、すなわち、源明子の母は藤原師輔の娘であり、藤原道長は従妹を側室に迎え入れたに過ぎないのである。
そのため、摂政藤原道隆も反論のしようがなかった。本音を言えば、かの源高明の娘が義理の妹になり、藤原氏の権力構造に加わるなど快く思うわけはなかったのだが、道長にとって従妹にあたる女性は道隆にとっても従妹である。従妹の処遇を考えた道長が側室として迎え入れたとなると何とも返答しようがない。
従来の有職故実に則った政務では大きな動きなどない。有職故実という綿密なマニュアルがあるために誰でも政務をこなせるようになり、個人の実力は重要視されなくなった。その結果、親が誰であるかがその人の運命を決め、人生の大部分を決定してしまうようになった。何しろ才能に恵まれなくても、恵まれた家系に産まれさえすれば出世できるのだ。これは裏を返せばどんなに才能があろうと生まれが恵まれなければ出世できなくなり権力を掴めなくなる。
もっとも、これはやむを得ない事態であった。何しろついこの間まで、大陸では国が次々と滅んでいたのだ。それまで存在するのが当たり前であった新羅が消え、最大の同盟国であった渤海国も消え、日本が仰ぎ見る存在であった大帝国の唐ですら消えたのだ。しかも、日本国内に目を向けると平将門や藤原純友という危機があった。こうなると、多少の無茶があろうとも何とかして国家存続を考えなければならなくなる。その結果が藤原氏による権力独占と継承であり、この選択が成功して日本国は危機を乗り越えることができ、日本国は存続し続けることができたのである。
ただ、その危機を乗り越えるための選択が強く残ってしまった。しかも、成功例として残ってしまったのだ。藤原氏が権力を握り、藤原氏が権力を継承し、藤原氏として生まれればどんなに愚鈍でも政務をこなせるよう有職故実としてマニュアルがまとまった結果、藤原氏の淘汰が行なわれなくなった。朝廷のいたるところに藤原氏があふれかえるようになり、藤原氏以外は源氏しか見当たらないようになってしまった。これが安定と引き替えに誕生した藤原独占の政治である。しかも、肝心の藤原氏の質の劣化が目に見えて現れるようになってしまったのだ。
律令制が機能していた頃は、親が誰であるかよりその人がどれだけの実力の持ち主であるかがその人の評価であった。そのため、議政官の面々を見てもバラエティに富んだ苗字である。藤原氏は有力貴族であったが、藤原氏でなければ貴族に非ずという風潮は存在しなかった。不安定ではあったが淘汰はあった。藤原氏でも淘汰に勝ち抜かねば権力にたどり着けなかったのが律令制の頃であった。
左大臣源雅信の求めていたのは、既に危機は脱したとし、藤原氏によって独占されるようになった現状を打破し、藤原氏以外の人材にも目を向けることであった。無論、藤原氏以外の人材の中には自分たち源氏も含まれるが、それを表に掲げることはない。あくまでも公平な機会による自由競争を求めたのだ。
現在のリベラルにも似た守旧派が政権中枢に君臨し、自由主義が対立軸として存在している。そして、政権中枢を担う人間の一人であるはずの藤原道長が自由主義の動きに同調するようになっていた。
藤原氏が議政官の過半数を占めることで政権の安定を維持するという面では間違いなく藤原道長も藤原氏の一部を構成している。だが、その政治的視野が藤原氏だけでなく藤原氏以外にも向いている。これはこれまで続いてきた藤原独裁を覆す内部の裏切りにも見えることであった。
おそらくこの頃には、自らの後継者候補者の一人から藤原道長は外されていたと推測される。
一方、後継者とした藤原伊周を権大納言に昇格させることに成功した摂政藤原道隆であるが、ここで大きな失敗をしてしまった。
藤原道隆のブレインとして義父である高階成忠が君臨していることは既に記した。
高階成忠は婿が摂政であるだけでなく、孫娘である藤原定子が一条天皇の中宮になっている。
普通に考えれば高階成忠にも一条天皇の義理の祖父として相応の地位が与えられるはずである。
ところがそれがなかった。
このときの高階成忠は従三位であった。位階だけで見れば中宮の祖父としておかしなものではない。しかし、役職はない。参議にもなっていないのだ。
太政大臣の死去に伴う人事のシャッフルで自分にも何かあるのではないかと考えたのは藤原道長だけではない。それまでブレインとして摂政藤原道隆を支えてきた自負を踏まえても、高階成忠は、自分に対し何かしらの恩恵があるべきだと考えていたのである。
それなのに、人事のシャッフルのどこを見ても高階成忠の名前がない。位階だけはあるが役職がないのである。
それどころか、同じ位階である孫の藤原伊周が権大納言に就任し、自分より下の位階である平惟仲が参議になった。
史料の中には、このときの高階成忠が従三位ではなく従二位であったとするものもある。従二位となればなおさら、何の役職にも就いていないことは異常事態とするしかない。
これは藤原道隆にとって取り返しのつかないミスとするしかなかった。孫が出世したではないか、孫娘が中宮になったではないかと説得しても無駄である。自分への評価が下されないことは簡単に絶望を生むのだ。
高階成忠はこのとき既に七〇歳になっている。藤原道隆を通じることで自らと血のつながった人物を天皇家に接近させることは成功した。しかし、高階氏としては接近していないのである。位階は上がったが役職はつかず、気づけば年齢も七〇に達している。
それでもこの年齢まで耐え続けていた。摂政藤原道隆のブレインに徹することで表立った評価を得られなくても耐えてきた。ただし、それはブレインという地位に誇りを感じていたからではなく、やがて来るはずの自らの栄光を考えてのことであった。
その栄光はもはや望めないものになった。冷徹なブレインであることに徹し続けてきた藤原道隆との絆が断たれたと、尽くしてきた摂政藤原道隆に裏切られたと感じたのだ。
正暦三(九九二)年一〇月一一日、高階成忠、出家。この日、摂政藤原道隆はブレインを失った。
ブレインを失った者がいる一方で、新たな命を授かった者がいる。
藤原道長である。
後に藤原道長の後継者となる藤原頼通がこの頃に誕生している。ただし、正式な誕生日はわからない。正暦三(九九二)年生まれであることは間違いないのだが、何月何日かはわからない。一説によるとこの年の一月生まれだともいう。
この時代の人物の誕生日がわからないことなど珍しくもない。何月何日に亡くなったのかなら記録は残っているのだが、何月何日に生まれたのかとなると、誰かが日記に残してくれていなければまず記録に残らない。
日記なら藤原道長自身の記した『御堂関白記』があるでは無いかと考える人もいるであろうが、『御堂関白記』の開始はこれより三年後である。日記を書き始めてからは親バカぶりを発揮する藤原道長も、さすがに日記を書き始める前のことを遡って記録に残すことはしていない。
ちなみに誕生日がわからないという一点で言うと、藤原道長も人のことを言えない。康保三(九六六)年の生まれであることは判明しているのだが、やはり誕生日がわからないのである。
こうなると、この時代の人たちは誕生日という概念を持ち出すことも仕方のないこととなるであろう。
この時代は、藤原純友が暴れ回った日々から四〇年以上、菅原道真の怨霊伝説がピークを迎えた日々から七〇年以上を経過した時代である。平成二六(二〇一四)年の現在から見れば、藤原純友は学生運動のピークの頃、菅原道真は戦争末期に相当するぐらい古い。ましてや五〇歳で高齢者と扱われるこの時代である。これらの過去は実体験ではなく歴史として語り継がれる内容であった。
しかし、ピークは過ぎても学生運動自体はまだ存在するのと同様に、この時代もまだ海賊は存在していた。現在の人が学生運動を見て「まだやってるの?」と感じるように、この時代も海賊に対しては「まだやってるの?」と感じていた。もっとも、いくら古くさいことと見下そうと、実害を被る犯罪であることに変わりはない。いかに学生運動を題目に掲げていようとそれが犯罪であれば法に基づいて取り締まるのと同じように、この時代も、いくら反体制運動を題目に掲げていようと、海賊は犯罪であり取り締まるべき対象であった。
正暦三(九九二)年一一月三〇日、阿波国海賊追討使源忠良が海賊一六人を討伐したという知らせが飛び込んできたのも、未だに海賊があることに加え、その海賊対策を怠ってはいなかったという証でもある。
かつて存在していた大規模な犯罪が現在は見られないとなったときというのは、犯罪そのものが無くなったのではなく、取り締まりに成功し続けていることを意味する。
たとえそれが世間の注目を集めなくても、時に世間から避難されようとも、無能無知な権力者から暴力装置と呼ばれようと、命がけで日常を守る人がいなければ日常は壊れてしまう。いとも簡単に。
この延長で、当時は普通に存在するものとされていた怨霊伝説についても当時の朝廷は対策をし続けていた。
この時代にだって覚めた者はいる。怨霊伝説そのものを信じない者もいるし、そのような伝説を信じることをバカらしいと考える者もいる。だが、本人がいかにバカらしいと考えていようと、国民の多くが望んでいることを迷信の一言で裁断するようでは統治者として失格である。
このようなことは礼儀に関わるのだ。
阿波国から海賊討伐の連絡が来てから五日後の正暦三(九九二)年一二月四日、筑前国の安楽寺から菅原道真の託宣が届いたのであるが、このときの対応も現在ならば考えられなくても、当時としては当然のことであった。
これを無視するようでは統治者として失格とするしかない。
かといって、全てを受け入れてはきりがなくなる。
採られた対策とは、託宣の内容の公開である。いつどこで誰がどのような託宣を聞いたかを全て公表したのだ。
さらに、この託宣の内容を朝廷は利用した。
菅原道真怨霊伝説において、現在では、藤原時平が祟りによって亡くなったと扱われている一方、その弟の藤原忠平は菅原道真と親交が深かったために祟りの対象とならなかったとなっているが、実はこの出典というのがこのときの託宣である。
藤原忠平が菅原道真に許された存在であるならば、忠平の子孫である藤原氏の面々もまた、菅原道真に許された存在であるとの理屈が成り立つのである。これは藤原氏にとってかなり都合のいい内容であった。何しろ、日本中の人が七〇年を経てもなお恐れおののいている菅原道真怨霊伝説から、藤原氏は、特に忠平の子孫たちは、除外されているのだ。これは目に見えぬ特権であるとするしかない。そして、その特権を持つ藤原氏を優位に働かせる効果もあったのである。
ちなみに、筑前国の安楽寺は現存しない。
では、安楽寺ではなく何になっているかというと、太宰府天満宮。
もともとは安楽寺という寺院があり、その寺院の一角に天満宮が造られ、安楽寺天満宮となった。それから明治維新までは寺院と神社が一カ所にまとまった神仏混交の宗教施設であったのだが、明治維新により神仏分離が命じられると、元々あった寺院のほうが切り捨てられ、残された天満宮の部分が神社となり、現在の太宰府天満宮へとなったわけである。
筑前国の安楽寺から菅原道真の託宣が届いたということは、現代の感覚で行くと太宰府天満宮からの託宣となる。菅原道真が亡くなった地からの託宣である以上、無視できるわけはなかった。
摂政藤原道隆の考えはこの頃にはもうはっきりとするようになっていた。
自身の後継者は藤原伊周であり、藤原伊周を軸とする藤原独裁体制を築いていくというものである。
現在の政治の仕組みはいっさい変えない。構成する人間を入れ替えるだけである。
大枠で見れば藤原独裁の一員である藤原道長は、自由主義に身を投じた以上、後継者候補から外される。権大納言まで昇っているがそれ以上には出世させない。藤原独裁を構成するコマの一つとして利用するのみであり、摂政藤原道隆、そして、後継者である藤原伊周の発言に賛成することだけを求め、藤原道長の意見を採り上げることはない。それが摂政藤原道隆の判断であった。
もっとも、そこにはかなりの無茶があった。
正暦三(九九二)年一二月七日、権大納言藤原伊周が従三位に昇格。位階で言うと五人を一気に飛び越えたこととなり、あまりにも異例なこととして世の人を驚かせた。何しろ、藤原伊周はまだ一九歳なのだ。
翌正暦四(九九三)年一月一日時点の人事の序列は以下の通りである。ちなみにこの時代は一月一日に一斉に一歳繰り上がる数え年であることが普通なので、年明けと同時に藤原伊周は二〇歳になっている。
まず、トップに君臨しているのが、正二位摂政藤原道隆、四一歳。
次に、七四歳の従一位左大臣源雅信が来る。
三番目に、正二位右大臣源重信、七二歳。
四番目が正二位内大臣藤原道兼、三三歳。藤原道兼は右近衛大将を兼任している。ここまでが大臣クラスとなる。
五番目からは大臣ではなくなり、四三歳の正二位大納言藤原朝光が五番手となる。
六番目に正二位大納言藤原済時、五三歳。この人は左近衛大将を兼任している。
そして七番目に二八歳の従二位権大納言藤原道長が来る。
正三位になってまだ一ヶ月を経ていない二〇歳の権大納言藤原伊周は序列で言うと八番目になる。
同じ権大納言でも、道長と伊周とでは道長の方が上という扱いになっているが、抜き去るのは時間の問題と見られるようになっていた。
ただし、先にも述べたが、藤原道長の公的地位は、単なる権大納言ではなく、中宮大夫兼任の権大納言である。
ちなみに、中宮大夫は本来ならば従四位下が就任する職務であり、従二位の、それも権大納言でもある藤原道長が兼任しているのはかなり異例な事態であるが、自由主義に傾倒しつつあり、藤原道隆との政治的見解の相違を見せるようになっていたにも関わらず藤原道長をこの職務から解任していないことから、中宮大夫としての藤原道長はなかなかの実績を残していたことが推測される。
なお、正暦四(九九三)年一月一日という日は、当時の人は全く認識していなかった行事の最後の日となったのである。
その行事というのは、朝賀。
毎年一月一日に皇族や文武百官が大極殿に赴いて天皇に拝謁する儀式である。以前から中止となることが頻発しており、この年に開催されたことはむしろ珍しいと捉えられたほどであったが、まさかそれが最後の朝賀になると考えた者は誰もいなかった。
藤原独裁という体制はもともと、危機に際しての臨時の体制である。藤原氏が権力を継承し続ける仕組みにすることで政権交代を起こさず、政権交代を起こさないことで国家滅亡の危機を遠ざけるシステムである。
ただし、あくまでも臨時である。唐が滅び、渤海が滅び、新羅が滅ぶという国外情勢に直面して構築された体制であるために、国外の危機が沈静化してきたならば藤原独裁を見直すべきであるとの左大臣源雅信の理屈は正しい。
もっとも、それは大義名分であって本音ではない。本音は源雅信ら藤原氏以外の貴族の権勢の向上であり、そのために障害になっている藤原独裁を見直すことを求めるものであるが、そんな本音など口にするわけがない。
それは独裁の当事者である藤原氏も同じこと。本音を言えば現在手に入れている権勢を手放すつもりなどなれないが、そうではない建前を掲げて現在の状況を維持しようとする。
危機は過ぎ去ったとする源雅信の主張に対する絶好の逃げ口上がこの頃中国から届いた。
正暦四(九九三)年二月、宋の成都で反乱が起こったというニュースが届いたのである。
反乱の首謀者は王小波。その右腕は、王小波の妻の弟である李順。この二人が指揮する反乱は貧困からの脱却をスローガンに掲げた反乱であった。もっとも、今ある資産を奪って配るという社会主義的な貧困脱却を訴えたため、産業育成は全く存在せず、ただただ富裕層への攻撃をくり返した結果、何の生産も、何の成果も生んでいない。つまり、一〇〇〇年前の文化大革命だったわけである。我が国に歴史を直視せよと求める本人はどうも歴史から学ぶことができないらしい。
その直視すべき歴史であるが、百人規模で始まった反乱は次第に勢力を強め、成都を攻め落とすと宋からの独立を宣言するまでに至った。
この反乱のニュースが日本に伝わったとき、藤原氏はこれこそ国外の危機が今でも続いている証拠だと発表した。そして、危機はまだ続いている以上、現状の体制を壊すわけにはいかないとした。
正暦四(九九三)年に国を揺るがす危機はたしかにあった。だから、現在が危機だとする藤原氏の主張はウソではない。
しかし、現実の危機と、藤原氏の主張する危機との内容が大きく違っていた。
この頃、天然痘の大流行が観測されたのだ。
さらに、危機は脱したと訴えていた左大臣源雅信が倒れたのだ。源雅信が天然痘で倒れたかどうかはわからない。しかし、史料には正暦四(九九三)年五月に源雅信が病気により退官したとある。
さらにこの危機を増幅させたのが、藤原道隆の摂政罷免である。
これはなにも、一条天皇が藤原道隆に対して摂政として不合格であると告げたわけではない。一条天皇が元服したのは永祚二(九九〇)年一月五日。このとき、一条天皇は数え年で一一歳、満年齢では一〇歳にもなっていない。だから、元服を迎えた天皇でありながら摂政がいるという状況でもやむを得ぬこととされていたのである。
しかし、既に数え年で一五歳、現在の年齢に直すと中学二年生になる一条天皇は、この時代の感覚で行くと充分大人である。ゆえに、摂政がいることのほうがおかしい。
そのため、摂政藤原道隆を罷免すると同時に藤原道隆を関白に任命したのである。
ただ、何度も記しているが、摂政と関白とでは発揮できる権力が違う。摂政の決定は天皇の決定として通用する、つまり、国の最終意志として通用するのに対し、関白の決定は天皇の決定と何の関わりも持たない。無論、かなりの実力者でないと関白には就けないので関白の意見を全く無視するわけにはいかないが、関白が何を言おうと、あるいは関白が何をしようと、一条天皇が最終決定をしない限り国の最終意志とはならないのである。
若き一条天皇は、天然痘の流行の最中に、それまで摂政藤原道隆が執り行なっていた政務を一手に引き受けることとなったのである。しかも、左大臣源雅信不在という状況下において。
一条天皇はよくやったとするしかない。
この時代の感覚で行けば、このような伝染病の流行が起こるのは、天が執政者を断罪している証拠となる。つまり、政権批判の絶好の題目となる。庶民の口から天災を嘆く声が挙がった場合、それは、災害そのものではなく、災害に何もできずにいる政権への不満であることが普通である。
多くの人が天然痘に罹患し、多くの人が命を落としているにも関わらず、このときの天然痘流行で一条天皇への不満の声は起こっていない。藤原道隆が言論の自由を認めない典型的なリベラルとして君臨し続けていたのも理由にあるが、庶民というものは国がいくら言論の自由を取り締まろうと、あの手この手で自分の意見を発表するものである。それでも不満の声が挙がっていないということは、一条天皇はまずまずの支持を獲得できていたということであろう。
この時代にはウィルスや菌などという概念はないが、天然痘患者の近くにいる人が天然痘に罹患することは知識として知っている。一条天皇は最優先事項として罹患者の隔離を命じた。次いで、患者とその遺族に対する国からの保護を打ち出した。さらに、このような伝染病が広まると一気に景気が悪くなる。景気が悪くなったときにイベントを開催して景気を刺激するのは、古今東西様々な政治家が行なってきた景気対策である。
正暦四(九九三)年六月二六日、菅原道真に左大臣正一位を贈ると発表した。この伝染病は菅原道真の祟りであるとし、道真の祟りを鎮めるために、源雅信の退官で空席となっている左大臣を菅原道真に与えるとしたのである。そして、左大臣菅原道真就任を大々的なイベントとするよう命じた。
これらの対策は一条天皇の支持を集めるのに役に立った一方で、一条天皇には想像もできなかった、そして当時の人が誰も考えなかった問題が露見した。
国家財政の危機である。
予算というものが空から降ってくるかのように、あれもこれもと景気のいい話をする人がいる。
そのような人に「どこでその予算を見つけるのか」と聞いてもトンチンカンな答えが返ってくる。
それでも、そのような人が権力と無関係のところで騒いでいるだけなら、迷惑ではあるが実害は少ない。
冗談では済まなくなるのは、予算の概念のない人が権力を握ったときである。
一条天皇の理論は理解できる。天然痘で家族を失った悲しみを癒すのも、働き手を失って生活に困るようになった人を保護するのも、何らおかしなことではない。それどころか、その意見を批判するのはよほどの人でなしである。ただ、満足行くだけの保護をする予算が無かったのだ。
現在でもそうだが、特定地域でだけ手厚い保護をすると表明したら、その特定地域に多くの人が流れ込む。しかも、その多くの人は失業者。何ら生産を生まずに貰うものだけ貰って日々を過ごすだけの人たちである。
本来ならここで失業対策を、すなわち、天然痘拡散の元凶ともなっている平安京内のスラム整理を兼ねた公共事業を展開すべきであった。だが、一条天皇は柱一本建てることなく、予算の全てを食べ物にしてばらまいたのである。
喜ばない人はいないだろう。何しろタダで食べ物が貰えるのだ。天然痘対策と銘打ってはいるが、実際には食料をただで配るだけのことである。
しかも、この時代の予算というものは、現金ではなくコメ。コメをコメとしてばらまいたらどうなるか。一瞬だが飢えは減る。飢えは減るが、次の年の税収にはつながらない。何しろコメを受け取ったのは失業者であり、田畑を耕す農民ではないのだ。公共事業とせずとも、ここで田畑を用意し、農機具と種モミを貸すからコメを栽培せよと命じたなら、失業が減ると同時に次年度の税収アップにつながったのに、田畑も農機具も用意することなく、種モミになれたはずのコメをばらまいて終わり。ゆとりのない者にとっての貰ったコメは食料であり、多少でもゆとりのある者にとっての貰ったコメは、ため込む資産であって、投資に回す資産ではない。
しかも、一条天皇は伝染病を理由に減税まで打ち出している。不況なら増税すべきところなのにその逆をやったのだ。こうなると、どんなにイベントを開催しようと不景気は悪化し、税収は落ち込み、失業者は増える一方になる。京都に行って天然痘被害者のフリをすれば、そして、失業者となり就業の意志を見せなければ、真面目に田畑を耕して手にできるコメよりも大量のコメをタダで貰えるのだ。これで誰が真面目に働く気になれようか。
一条天皇の思惑とは裏腹に、景気が悪化している。
天然痘の流行は、沈静化するどころかますます悪化している。
景気回復につながらないことに予算をばらまいた上に不潔なスラムを放置しているのだから、景気は悪くなるし伝染病の流行だって悪化するに決まっているが、一条天皇はそう考えなかった。
あるいは、これが藤原道隆の政治家としての限界なのかも知れない。
危機に対する対応として、一条天皇のとった行動はあまりにも幼稚である。幼稚であるが、まだ一五歳の少年の考えたことだという補足を付ければ納得もできる。
ただ、その少年天皇の考えを貴族たちはそのまま政策とするであろうか?
律令に基づけば、議政官がどのような協議をしようと、天皇が決定すればそれが国の決定である。だが、現実には議政官の決議をそのまま天皇が承諾して国の決定とするのが普通である。天皇の発案であろうと、関白が推敲し、議政官が討論するのが本来の姿である。
その本来の姿を通した結果の政策としては幼稚すぎるのである。
となると、これがこの時点での人臣のトップに君臨する藤原道隆の能力だとしてもいい。
振り返ると、藤原道隆が関白ではなく摂政であった時代は、危機を盛んに口にしながら本当の危機は全くなかった。藤原道隆を批判する者を追放したりと人間関係で怪しくなってはいたが、天災がおこったわけでもなければ、伝染病が大流行したわけでもない。景気も、良くはないが悪くもない。
つまり、危機に直面したことがなかったのが摂政時代の藤原道隆なのである。
その藤原道隆が摂政でなくなったと同時に、伝染病の流行という大問題が起こった。しかも、このようなときに頼れる百戦錬磨の政治家であった左大臣源雅信はもういない。
病に倒れ退官した前左大臣源雅信が、正暦四(九九三)年七月二九日に亡くなったのである。
経験したことのない危機に対し、一条天皇は、あるいは関白藤原道隆は、支持率だけを考えれば合格点を付けられる対応をした。しかし、結果は伴わなかった。伝染病は広まり、景気は悪化したのである。
この時代の医学では対処しきれない問題に際し、この時代の理解で行動した結果が残っている。
正暦四(九九三)年八月二一日、天然痘の流行の沈静化を祈念するため、紫宸殿、建礼門、朱雀門で大祓を行なった。
正暦四(九九三)年閏一〇月二〇日、ついこの前に左大臣の地位を贈った亡き菅原道真に、同じく空席であった太政大臣を贈ることが決まった。
ここでついに菅原道真は人臣トップに立つこととなったのである。
怨霊伝説で恐れられる存在に対し、地位を与えることで鎮静化を異図することはある。
そして、この時代の人が最も恐れていた怨霊伝説とは菅原道真である。
その菅原道真にこれ以上ない地位が与えられたのである。
この時代の考えでいけば、これで何もかも全て解決するはずであった。
ちなみに、現在でも祟りがあると言われている平将門についてであるが、この時代の記録には特にこれといったものがない。また、京都市民を恐怖に落とし込んだ藤原純友については、怨霊伝説の記録そのものがない。死後に怨霊伝説として語りついで貰うには、多少なりとも生前に同情されていなければならないということである。ただ憎まれ、死んだら喜ばれるような人間は、怨霊として語り継がれることなどない。
さて、この頃国外ではどうなっていたのか。
まず、宋で起こった反乱であるが、戦況は一進一退であった。
宋軍は反乱の首謀者である王小波を戦死させることに成功した。だが、首謀者の死は反乱をますます活気づけることになった。王小波の右腕であった李順が指揮をとるようになると反乱軍はさらに勢いづき、成都の南方一帯を支配下に置くと、さらに成都を占領することに成功。国号を「蜀」として宋からの独立を宣言し、李順は自らを蜀王と号し、宋からの独立を宣言するために、独自の年号である「広遠」を制定した。
ただし、皇帝ではなく王と宣言している。これは、中国全土の平定を目的とはせず、あくまでも成都周辺一帯だけの独立を宣言するものである。そのため、宋の皇帝権力は認めており、新国家「蜀」は宋と並立する国であるとしたのである。
忘れてはならないのが、この時代の中国はついこの間まで五代十国の内乱時代であったということである。この時代の中国人にとっては、今のところは宋が統一を果たしているものの、中国各地に国家が生まれては消えていた光景のほうが日常であり、宋でない現状のほうが見慣れぬ光景なのである。そして、このときの新国家「蜀」についても、当時の中国人たちにとっては驚きではなく、日常が蘇ったという感覚のほうが強かったのである。
一方、朝鮮半島で起こっていたのは内乱ではなく戦争である。契丹による高麗侵略が始まったのだ。
もともと契丹と高麗は国交断絶状態にありいつ戦争が起こってもおかしくない状態であった。
しかも、契丹は宋とも戦争をしており均衡状態にある。
という状況で発生した宋での反乱。これは契丹にとって吉報としても良い。ただちに宋への侵略計画が組まれ、軍勢が組織化された。
ただし、問題があった。
これから戦争を始めようとしている国にとってやっかいなのは、複数方面に軍を展開する事態に追い込まれることである。軍勢というものは一点集中したほうが効率的であるし威力も増す。となると、一点集中を阻害する要因を排除しなければならない。その要因が高麗であった。
高麗にとってはとんでもない言いがかりである。これから戦争を始めるが、高麗が後ろからちょっかい出すかも知れないから、今のうちに高麗を叩いておいて、後ろの安全を確保した上で宋に攻め込もうというのだ。
当然ながら高麗は契丹軍に抵抗する。だが、その抵抗もむなしいものであった。
朝鮮半島二〇〇〇年の歴史は敗戦の歴史である。朝鮮半島内部の争いでの勝った負けたはあっても、有史以来一度として朝鮮半島の外の敵と戦争をして勝ったことがない。強いて挙げれば、相手が勝手に戦争を止めて帰ったのがあるぐらいである。
この敗戦の記録は、この年の契丹からの侵略についても同じことであった。高麗の派遣した軍勢など契丹軍の前には敵ではなかった。それでも契丹軍の前に抵抗し、そして戦場に倒れたなら軍人としての栄誉を飾ることもできるであろう。だが、派遣した軍勢がことごとく、抵抗するどころか我先に降伏し、争うように契丹軍の軍門に下る始末。これもまた、二〇〇〇年の歴史で毎回繰り返してきたことである。
それまで宋に対して臣従していた高麗王も、この現実の前には契丹の前に臣従せざるを得なくなる。現実を直視する前までは威勢の良いことを口にして自己賛美に酔いしれていても、やっとの思いで集めた軍勢が契丹に次々と降伏していくのを目の当たりにすると、いやでも現実を直視しないことなどできなくなる。
明らかに侵略戦争であったが、勝者は侵略者である契丹で、敗者は侵略を食らった高麗である。戦争の勝敗が決まったあとは、侵略の有無など関係なくなり、後に残っているのは勝者と敗者だけ。契丹と高麗との間に結ばれた講和条約も勝者が敗者に命じるものであり、宋と高麗の国交断絶、高麗に拿捕された契丹軍の捕虜の返還、契丹への朝貢、契丹の年号使用が高麗王に対して命じられた。ちなみに、契丹に拿捕された高麗軍の捕虜の返還義務は条約に記されておらず、少なくない高麗人がこのとき契丹へと連れて行かれることとなった。
ただし、契丹はここで珍しい対応を見せている。
当初、契丹は高麗に対して領土の割譲を要求していた。西京(現在の平壌)以北の領土の割譲を求めていたのであるが、その要求を契丹は途中から捨てている。
宋に対して侵略計画を立てるような国なら、普通は領土拡張を求めるものである。そして、このときの契丹もいわゆる普通の流れに基づいて領土要求をしている。それを途中から引っ込めたのだ。これは珍しいとするしかない。
もっとも、ビジネスライクに考えれば理解できない話ではない。領土と言っても、現在のように資源採掘なんて目的があるわけでも、水産資源なんて考えがあるわけでもない。領土を広げたという誇りを手にできたとしても、本来、領土を広げる目的とは、広げた領土から何かを得たいという欲望がある。たとえば広げた領土の収穫に対し税を課すなんていうのはわかりやすい領土拡張の目的だ。
その視点でいうと、どうしてわざわざ貧乏な高麗の領土なんかを手にしなければならないのか、となる。実際に軍勢を繰り出したことで契丹は高麗の現実を目の当たりにした。高麗があまりにも貧しいことに驚愕した。戦場になったから貧しくなったのではない。もともとが貧しい土地なのだ。そもそも、国が貧しいから多くの者が国を捨てて国外に逃れ続けているのである。大和時代には朝鮮半島から日本に渡来人としてやってきたなんて記録もあるが、あれだって、貧乏で文化もない朝鮮半島を捨てて豊かな文明国である日本に密入国してきただけのことである。生活の便利さだけを求めてやってきた密入国者に対しても人道的な対応をしてしまうのが日本国の良いところであると言えばそれまでであるが。
話を契丹の侵略戦争に戻すと、ここで契丹が高麗の領土を手にしたとしたら、領土拡張欲は満たされたとしても、税収アップどころか税収ダウンにつながる。契丹が支援しないと、新たに獲得した領土から収穫をあげるなどとてもではないができないのだ。
さらに時代は飛ぶが、ここで思い出していただきたいのが日本による韓国併合である。日本が朝鮮半島を併合していた頃、朝鮮半島の生活水準を維持するためだけに国家予算の一〇パーセントを毎年つぎ込んでいた。おかげで朝鮮半島のGDP成長率は毎年四パーセント超え人口も倍になったが、それらの成果は当時の日本国民の犠牲の上になり立っていたのである。
また時代は一〇〇〇年前に戻るが、このときの契丹にそんな余裕などなかった。大切なのは宋へ攻め込もうとしているときに後ろから攻撃されないことであり、それが約束されるのなら領土欲など不要であった。より正確に言えば、領土欲に満ちてはいたのだが、その契丹人ですら忌避するほど高麗が貧しすぎたのである。
天然痘流行を鎮めるために、亡き菅原道真に対し、当初は左大臣、次いで太政大臣の地位を与えたのは既に記したとおりである。いずれも空席である職務を亡き菅原道真に与えたのであるが、当初は左大臣、次いで太政大臣を与えたため、正暦五(九九四)年の正月の時点では左大臣が空席になった。
普通に考えると、ここはただちに空席を埋めるべきである。源雅信存命中の頃と違い、左右の大臣のどちら兄も藤原氏が就けていないという状況ではなくなっているのだ。
順当に行くと、右大臣源重信が左大臣に昇格し、内大臣藤原道兼が右大臣に昇格する。そして、藤原朝光と藤原済時の二人の大納言のどちらかが内大臣に昇格する。
ところが、太政大臣が亡き菅原道真、左大臣も空席という状況が続いたのである。律令に従えば、左大臣不在のときは右大臣が左大臣の職務を遂行する。だから、左右の大臣のどちらか一人がいれば政務の運営はできる。
しかし、いくら運営できるからと言って、左大臣が空席というのは異常事態とするしかない。
多くの人は一月の恒例の除目、すなわち人事異動で左大臣が埋まるものと考えていた。
ところが、左大臣を埋める動きはなかった。それどころか人事異動が全くなかったのだ。左大臣が空席という前年末の状態で新年を迎え、その状態が続いたのだ。
いったい何があったのか。
九州で観測された伝染病が全国に蔓延してしまったのだ。天然痘が収束していないにも関わらず、新たな伝染病が日本中に広まってしまったのだ。
天然痘は致死率の高い病気であるが、一度罹患し命をつなぎとめたなら、二度と感染しない。医学書には複数回感染の事例があるにはあるが、極めて珍しいこととして載っているに過ぎない。
つまり、この時代の人たちにとって、天然痘が流行し自分が天然痘に罹患したとしても、命を落とさなければ二度と天然痘に苦しまなくて済むという安心感だけはあったのだ。無論、天然痘の痕跡は残る。だが、そのようなものなどどうとでも隠せるし、隠さなくても誰も何も言わない。天然痘の痕跡を残す人を指さして嘲笑するようなことがあったら、嘲笑する人のほうが叩かれる時代でもあったのだ。犯罪率の高さに目を閉じ、天然痘差別を許さないという一点だけに着目すれば、平安時代の日本人は今の日本人より民度が高い。
ところが、今度広まった伝染病は何度も何度も罹患する。一度罹かったから二度と罹からないなどという保証などない。おまけに、天然痘を経験したために天然痘の流行から免れていた人にも、病原菌は何ら差別することなく襲いかかってくる。
正暦五(九九四)年に流行した伝染病がの病名や症状といった詳細情報は不明である。しかし、残した爪痕の深刻さは伝わっている。京都市中だけを見渡しても、伝染病に倒れ身動きできなくなっている者がいたるところに見てとれる。伝染病で命を落とした者の遺体も放置されている。放置された遺体を野良犬が食べる光景も日常のものとなっている。
左大臣がいないのは確かに異常事態であるが、この状況を放置して人事争いにうつつを抜かしていたら、そのほうがより深刻な異常事態である。
さらに多くの人が当たり前のように次々と命を落とすのを目の当たりにすると、世の中に対して絶望するようになる。
人間、一度は耐えられる。たいていの困難も一度なら乗り越えられる。
だが、一度乗り越えた困難をもう一度乗り越えようなどという気は起きない。一回だけ乗り越えればいいと考えるから困難に挑むのであって、何度も何度も困難を乗り越えようなどというのはよほどの物好きだけだ。
天然痘の流行という現実をまさに乗り越えつつあったそのときに、新たな伝染病の流行が起こったのである。どんなに看病しても治ることなく命を落とす。家族が一人、また一人と命を落としていき、ついに自分一人となったとき、人はどう思うだろうか。
神も仏もない現実に嫌気をさして、自暴自棄になる。
みんなで手を合わせて困難を乗り越えようというスローガンなど、何もわかってない第三者の勝手な言いぐさとしか思えなくなる。
その結果が治安の悪化だった。
もともと平安時代は治安の良い時代ではないが、この頃は平安時代でも特筆して治安が悪い。現実から抜け出したいと考える人が、手っ取り早い現実逃避を選んだのだ。
朝廷とて無策ではない。正暦五(九九四)年二月一七日、関白藤原道隆の申請を受け入れる形で、積善寺(しゃくぜんじ)を御願寺(ごがんじ・ 天皇の御願を修する寺)とすることが決まった。と同時に、寺院の説く宗教的な救いで、自暴自棄から荒れ始めた治安をどうにかしようとした。
ただ、治安はどうにもならなかった。
強引に治安問題を解決するために、正暦五(九九四)年三月六日、源満正ら武士に盗賊討伐を命じた。
慈善で治安問題を解決するために、正暦五(九九四)年四月二四日、薬王寺を開放して病人を収容した。
ただ、どちらも無駄であった。
治安の悪化に加え伝染病の流行は日々勢いを増し、この年の七月までの間に五位以上の貴族だけで六十七人も亡くなったのだ。
その上、正暦五(九九四)年七月六日には、金剛峯寺の大塔や講堂が焼亡。最後の救いを宗教に求めていた人ですら、この現実には呆然とするしかなかった。
正暦五(九九四)年八月八日、従三位でありながら何の役職にも就けていなかった藤原在国が勘解由長官に就任すると発表された。
藤原在国は関白藤原道隆を批判して政界追放を食らった人物である。議政官の一員ではないにせよ、その人物に公的地位を与えることとなったのは、やはり藤原在国が優秀な人材だからである。しかも、伝染病の流行により五位以上の貴族だけで六十七人も亡くなるという状況である。ついこの間まで位階のインフレが起こって役職に就けない貴族であふれかえっていたのに、今や逆に人材不足に苦しむようになってしまったのだ。
伝染病の流行の最中に、伝染病対策を後回しにして人事争いにうつつを抜かすようでは統治者失格である。だが、伝染病で人材が次々と失われている状況を放置するようではやはり統治者失格なのである。
八月八日の人事発表は、抜本的な対策の布告でもあった。
その布告の内容は八月二八日に明白になった。
右大臣源重信が左大臣に昇格。
内大臣藤原道兼が右大臣に昇格。
ここまでは予想されていたことである。
だが、次の発表は日本中の人を驚かせた。
権大納言藤原伊周が、同じ権大納言でも位階を上回る藤原道長や、格上であるはずの二人の大納言を差し置いて内大臣に昇格したのである。二一歳というあまりにも若すぎる大臣の誕生であった。
さらに、藤原伊周の内大臣昇格によってできた権大納言の空席に就いたのは藤原道頼。藤原伊周が三人を飛び越えての昇格を果たすと同時に、二四歳の藤原道頼が四人を飛び越えた昇格を果たしたのだ。
権大納言藤原道長には何もなかった。役職も、位階も、そのままであったのだ。
これはもう明白な宣言であった。藤原道長がどのような政治思想を持っているかなど全く関係なく、ただ、藤原独裁体制を維持するための駒になれとの宣言であった。
これに対する藤原道長の対応が『大鏡』に載ってはいる。もっとも、大鏡は後世の説話なので信憑性が乏しいと言えばそれまでだが。
既に記したとおり、藤原道長と藤原伊周は、叔父と甥の関係にあたる。
親族である以上、この二人がプライベートで接点を持っていてもおかしな話ではない。
大鏡では、正暦五(九九四)年にあったと推測されるこの出来事を、「道長が一年ばかりものをやすからず思し召した」という書き始めから、つまり、出世競争で追い抜かれてふてくされていた頃の話として述べている。
平安時代の貴族というと、運動不足でインドアな生活をしていたのではないかとイメージされることもあるが、この時代の貴族は意外とアウトドアな趣味もしている。寺院に参詣したり祭りを観に行ったりするのもそうだが、それらに加えスポーツに興じる貴族は多く、狩りや相撲、そして弓道を趣味とする貴族は多かった。中でも菅原道真は、第一回祇園祭のイベントで開催された弓道大会において、並み居る武士たちを押しのけて優勝し、武人としてスカウトされたほどである。
藤原道長もまた弓道を趣味としていた。そして、この趣味は藤原伊周も同じであった。
正暦五(九九四)年のある日のこと、関白藤原道隆の見ている前で、道隆の子である伊周が藤原氏の邸宅である東三条殿の南院で弓を射っていると、不意にそこに藤原道長がやってきた。兄の元を弟が訪れるのはおかしなは話ではない。政治的な対立があったとしてもそこはやはり兄と弟、叔父と甥である。
伊周が弓を射っていると、自分にもやらせろと道長が言ってくる。弓道で勝負しようと言うのだ。
これはおもしろい余興だと藤原道隆は弟と息子の勝負を認めた。二人とも弓道が趣味だというのはよく知っている。ただ、このときまでは、弟より息子のほうが弓矢の腕前は上だと考えていたらしい。
この珍しい組み合わせによる勝負はすぐに注目を浴び、瞬く間に多くのギャラリーが詰めかける事態になった。「応天門燃ゆ」でも記したが、この時代の庶民は現在の感覚で行けば立入禁止になるであろう場所にも普通に出入りしているし、庶民の出入りをとがめる貴族もほとんどいなかった。
ただでさえ伝染病の蔓延に苦しんでいて不景気感が漂っているところに加え、都の人でも話題になっている若き内大臣藤原伊周と、その伊周に追い抜かれた叔父の藤原道長との対決である。これが興味を引かないわけがない。
そのため噂が噂を呼んで多くのギャラリーが詰めかける事態になったのだが、どちらが勝つのかと期待して見つめていたところ、意に反して、藤原道長が圧勝という展開になった。多くの人が勝負は五分五分、あるいは伊周有利と考えていただけに、この試合展開は想像外だった。
これがおもしろくない道隆は、弟に対して二本の延長戦をするよう命じた。
道長はこれを受け入れた。それもただ受け入れたのではない。
一本目は、「道長の家から、天皇や后がお立ちになるのであれば、この矢当れ」と言ってから矢を放ったのである。しかも矢は的のど真ん中に命中。
道長のこの声に反応するかのように、伊周も同様の言葉を吐いてから矢を射るが、的に当たるどころか見当違いのほうに飛んでいった。
さらに道長は二本目を「将来、自分が摂政や関白になるならば、この矢当れ」と言って矢を放つと、矢は的の真ん中に当たっただけでなく、的を壊してしまった。
これを見た道隆は、息子にギブアップさせた。
年が明けた正暦六(九九五)年一月二日、藤原道長はもう一つの行動を起こした。こちらは大鏡ではなく正式な記録として残っている。
この日、一条天皇が母后である東三条院藤原詮子のもとを訪ねた。朝現行幸である。
当然ながら、一条天皇一人が足を運ぶわけではない。主な貴族を引き連れての行幸である。この行幸に参加しない貴族がいるとすれば、それは、任務により京都にいない貴族のみであるとしてもよい。
そして、行列の並び順がそのまま貴族たちの席次でもある。普通に考えれば関白藤原道隆が貴族たちの先頭にいなければならない。
ところが、このときは違った。藤原通隆が欠席したのである。『小右記』によれば病欠とある。症状から見る限り、どうやらこの頃の藤原道隆は糖尿病をかなり悪化させてしまっていたという。小右記では前年一一月頃から身動きするのも困難な状態であったとあるからただ事ではない。
そしてもう一人、欠席した者がいる。それが権大納言藤原道長である。
これは奇妙なこととするしかない。
藤原詮子は東三条院の号を受けたが、住まいは東三条殿ではなく土御門殿である。そして、その土御門殿は藤原道長の邸宅である。
つまり、自宅に住む姉のもとを天皇が自ら訪ねるというのに、その自宅の主であるはずの藤原道長が欠席したのだ。
研究者によると、このときの道長の行動は、甥の伊周に追い抜かれたことに対するボイコットではないかとされている。藤原道隆の病欠に伴う私的な代理ではあるが、このときの朝現行幸において、本来道隆がいるべき位置に内大臣藤原伊周がいるのである。
しかも、藤原詮子は、関白藤原道隆の病欠を認めなかった一方で、道長の理由無き欠席を不問に付している。理由としては、本来参加しなければならない藤原道隆がいないのは認められないというものである。道長のボイコットは関白藤原道隆の不在に対する抗議としてのボイコットだから何の問題もないとするものであった。
このときおそらく、藤原伊周は、自分の権力継承に逆らう存在が自分の想像以上の大きさで君臨していることを悟ったはずである。
叔父道長を追い抜いたものの道長を自分の駒とすることはできずにいる。しかも、一条天皇の実母である叔母の詮子は自分の敵となっている。
身内が敵なのである。
さらに藤原伊周にとって想定外の事態が起こったのが、正暦六(九九五)年一月九日のこと。
藤原伊周と兄の道隆は、母親が違う上に、出世競争という点でも伊周が優先になっている。関白藤原道隆が伊周を後継者とするようレールを敷いていたのだから出世競争に差が付くのはやむを得ないと考えたのか、それとも、この頃には既に伝説のような扱いにまでなっていた藤原良房と、良房の兄の藤原長良との関係になぞらえ、自らを第二の藤原長良と見なしたのか、この二人の兄弟の仲は悪くはなかった。
何しろ、兄弟で同じ邸宅、通称「二条第」に住んでいたのである。ちなみに、中宮定子も二条第の一郭に自らの別邸を構えている。
そして、想定外の事態が起こったのはまさにこの二条第。一月九日、二条第が焼亡したのだ。
なお、このときの火災はすさまじく、冷泉上皇が御所としている鴨院も一緒に焼き尽くしている。
ただでさえ前年からの伝染病が続くどころか勢いを増し、父の関白藤原道隆も病に倒れたという場面で起こった自宅の火災は、若き藤原伊周に執政者としての宿命を見せつけることとなった。
普通の人なら「国は何をやっているんだ」と憤ることができる。
だが、執政者にそれは許されない。その「何かをやる」が執政者なのだ。そして、全ての責任が執政者の元に行き着くのだ。
それも、見知らぬ他人が勝手にやったことまで責任が降りかかるのが執政者というものなのだ。
自宅の再建もさることながら伝染病対策も行なわねばならないと考えた伊周は、自宅の再建を放置して伝染病対策に全力にあたることにしたのだ。この国は今も昔も、自分のことを放置して公益に尽力する者をほめたたえる精神がある。だから、自宅が焼けたことなど無かったかのように伝染病対策に尽力することを批判する者はいなかった。
ただ、伝染病対策が何もできていないことに対する批判はあったのだ。
伊周だって批判はわかっている。だから、自分で議政官を動かし、国としての伝染病対策を練りたかったのだ。
藤原伊周は内大臣である。内大臣は左大臣や右大臣と違い、議政官の議長となることはできない。しかも、左大臣や右大臣は健在である。いないのは病に倒れた関白藤原道隆だけであり、議政官の面々は代わっていない。つまり、内大臣になったからと言って、議政官の中で抜きんでた権力を振るえるようになったわけではないのである。
こうなると、内大臣としての権力ではなく、議論の中での弁論の能力で議政官を支配しなければならなくなる。
藤原伊周は、現在起こっている問題をどうにかしたいと考えていた。いや、どうにかすることが自分に課せられた使命であると思っていた。どうにかすることで病に倒れた父に認めてもらうこと、そして、批判する者を黙らせるだけの成果を心から欲していた。
だが、藤原伊周に弁論の能力はなかった。そして、現状の問題を解決するアイデアもなかった。
議政官の中で賛否の意志を示すことはできても、自らの意見で議政官を動かすことはできなかったのだ。
父から期待を寄せられているのに期待に応えられず、批判を受けていても何の反論もできない。
藤原伊周は内大臣になってはじめて気づいたのだ。
権大納言藤原道長の弁論の能力に。
平安時代は藤原氏による権力独占が続いていた時代であるというのは間違った解釈ではないが、実際の権力の基盤は数の力である。
その数の力の内訳について、藤原時平までと藤原忠平以後とで見方を変える必要がある。
藤原時平までの藤原氏は、圧倒的な能力を持った個人が率いる、様々な氏族の者が集った派閥であった。ゆえに、藤原氏だけが派閥の構成員ではない。藤原冬嗣は人事権を手にし、藤原良房は反律令を掲げ、藤原基経は現実主義に基づく政務を展開することで支持者を集め派閥を築き自らの政務を展開した。基経の派閥を受け継いだ時平までは、政策に基づく数の力で権力を握っていた。この時点までの藤原氏は、抜き出た存在ではあっても国勢の過半数を占めるまでの存在ではなかったのである。
それが藤原忠平以後、藤原氏が貴族の過半数を占めるようになった。藤原氏だけで権力を操れるようになり、藤原氏のトップに立てば自動的に国勢をふるえるようになっていた。
とは言え、いかにして藤原氏のトップに立つかという問題がある。
ここで問われたのが議政官での弁論の力であったのだ。全くの無能としてもよい藤原兼通は、議政官で弁論をふるうこともないまま、いかにしてやかましいクレーマーを排除するかという策を練った末に権力が巡ってきたが、それは例外中の例外であり、普通は議政官における弁論の力が藤原氏のトップ争いを決めるようになる。
それまではただ漠然と、大臣になれば権力も付随し、自らの意志で政務を展開できるようになると考えていた藤原伊周であったが、内大臣という上位の職に就いてはじめて、議政官における藤原道長の存在に気づかされたのだ。
議政官の面々が前もって意見を持った状態で参加するなら、自らの意見を述べればよい。だが、自らの意見がない場合は、その場で考えるか、誰かの意見に賛否を示すしかない。
藤原伊周には自らの意見がなかった。だから、他人の意見への賛否を示すしかなかった。
藤原道長は何であれ意見を示した。そして、その意見の中身は至極まっとうなものであった。ゆえに、議政官の多くの者が道長の意見に賛成した。
しかも、この時代の会議というものは、地位の低い者から順番に意見を述べる仕組みになっている。地位の低い者が上位の役職の者の権威にひるんで自らの意見を封じ込めることのないようにするという目的である。これまでの権力者は、議政官の中で先に意見を言う地位の低い者に自分の意見を伝えておき、早々に自分の意見を議政官に展開して、議決を自分の意見に沿うように持ってくるぐらいのことはするものだが、若き藤原伊周にはそれができなかった。関白藤原道隆の後継者であると言われても、自らの派閥を形成できるほどの人生経験はなかったのだ。
藤原道長と同格の頃は、伊周より経験のある道長が伊周の後に発言していた。そして、道長の意見が伊周と違った意見であっても、それは二人の経験の差だと見なされ特に問題視されてこなかった。
ところが、今や道長のほうが格下である。つまり、道長が先に意見を述べ、それから伊周が意見を述べる立場になり、上位の者として道長より優れた意見を述べることを求められるようになる。
こうなると否応なく、道長の意見と伊周自身の意見との差を思い知らされるのである。
おそらくこの頃には、議政官を構成する数多くの者が、関白の後継者の資質に疑念を抱いていたと思われる。
その疑念をさらに悪化させたのが、正暦六(九九五)年二月の出来事である。
藤原伊周の住む二条第が焼亡したことは既に記した。そして、二条第の再建は優先事項とされてこなかった。それよりも伝染病流行という国難に対処すべきというもっともな姿勢はほめられてもいた。
ところが、まさにその二条第の再建後回しが問題になったのである。
問題のきっかけとなったのは藤原顕盛という中流貴族である。かつては国司をつとめた経験もあることから、位階のインフレによる官職不足の中にあってもそれなりの実績が認められたであろうと推測できる。
その藤原顕盛が何をしたかだが、東三条院藤原詮子から借金(正確に言えば「借コメ」)をしていたのだ。借金事態は金融あるところ常に存在するものだからおかしな話ではない。また、天皇の実母ともなれば相応の資産を持つのも普通だからその資産から借りようとする者が現れてもおかしくはないし、資産を持つ側だって国司をつとめたほどの貴族ともなれば身元の保証だって心配ない。
ところが、身元の保証も心配ないはずの藤原顕盛が借金を踏み倒そうとしたのだ。
世の中には借金を踏み倒されても「高い勉強代になった」と泰然と構えている人もいるが、普通はそうはいかない。貸したのを返せと迫るのが普通である。
債権回収を迫られた藤原顕盛は、よりによって再建工事中の二条第に逃げ込んだ。しかも、二条第の中でも中宮定子の別邸であった二条北宮に逃げ込んだのだ。
火災からの再建工事中とは言え、内大臣の住まいの、しかも中宮の別邸に逃げ込んだとあっては大問題とならない方がおかしい。そして、この問題は、逃げ込んだ藤原顕盛ではなく、邸宅の持ち主である内大臣藤原伊周の責任問題にまで発展したのだ。
おまけに、天皇の実母からの借り入れだと言っても、女性一人で債権回収に出向くわけはない。実際、このときも東三条院藤原詮子の執事である藤原有親が軍勢を率いて債権回収に向かったと言うからただ事ではない。
さらに、二条第に逃げ込んだ藤原顕盛はそこで籠城したのだ。中宮の別邸とあっては手出ししないであろうという目論見である。
方や債権回収を迫る軍勢。
もう一方は中宮の別邸を守る軍勢。
その二つの軍勢が自宅の中と外とでにらみ合っている状態だというのに、藤原伊周は放置したのである。いや、手出しできなかったとするほうが正確か。
正当な所有者が何もできぬまま眺めるしかなかった対立は、最悪の事態を迎えた。
軍勢を率いて二条第の外に陣を敷いていた藤原有親が二条第に突入したのだ。天皇の実母の債権を回収しようという軍勢と、天皇の中宮の別邸を守ろうとする軍勢の争いは、京都市民に一つの現実を突きつけた。
内大臣であり、関白の後継者である若者は、自分の住まい一つ守ることのできない者だということを。
正暦六(九九五)年二月二二日、伝染病の流行を沈静化させるために、長徳に改元すると発表された。
ところが、まさに改元の発表が成されたわずか五日後、関白藤原道隆が病気のために関白を辞職したいと願い出たことで事態はおかしくなった。
藤原道隆が糖尿病に苦しんでいるというのを知っている者は少ないが、伝染病の流行と時を同じくして病気により表舞台から姿を消したことは多くの人が知っている。
その伝染病をくい止めることを期待しての改元があってすぐに、人臣のトップが病気を理由に辞職しようとしている。これは改元の効果をゼロにするどころか、マイナスにまで持って行きかねない大問題であった。実際、一条天皇はこの辞職願を握りつぶしている。
しかし、いくら辞職願を握りつぶそうと、それで関白藤原道隆の体調が劇的に改善するわけはない。糖尿病のメカニズムが把握され、食事療法やインシュリン注射といった対処療法も確立している現在と違い、この時代はそもそも糖尿病という病気が何なのかわかってもいないし、当然ながら薬もない。おまけに、病気なのだから精のつくものを摂らせなければと、現在の食事療法とは全く逆のことをしている。これで藤原道隆の症状が改善するはずなどない。
日々悪化する関白の体調。
沈静化しない伝染病。
正暦から長徳への改元は当時の人にとっては特に強い思い入れを抱かせるものではなかったのだ。
ところが、現在に住む我々は、まさにこのタイミングを特筆すべき頃と見なすのである。
それは何か?
枕草子である。
枕草子の作者である清少納言がこの頃から姿を見せるようになったのだ。
清少納言の本名は現在でもわからない。本来の意味からすると「清原氏の少納言の近親者」なのだが、史料のどこを探しても清原氏で少納言になった者はいない。藤原氏の少納言の男性と事実婚の関係にあったとする説や、中宮定子がつけたあだ名であるとする説もあるが、いずれも確証はとれていない。
何年生まれなのかも判明していない。有力な説としては康保三(九六六)年生まれとするものがあるが、それも確証はとれていない。ただし、正暦から長徳への改元の頃はおよそ三〇歳前後であったことは確実視されている。
天延二(九七四)年、父である清原元輔が周防国司に就任したため、父に同行して周防国に出向き、周防国で四年間を過ごしている。康保三(九六六)年生まれの説が正しいとすると、現在の学齢に直せば小学校三年生から六年生までの四年間を周防国で過ごしたこととなる。枕草子に船旅についての描写があるが、その描写は幼い頃に体験したこのときの船旅によるものであろう。
天元四(九八一)年、一度目の結婚をしている。結婚相手は当時陸奥国司であった橘則光。こちらは生まれた年がはっきりしており、康保二(九六五)年生まれである。なお、陸奥国司であると言っても清少納言の父のように実際に任国に赴いたわけではなく、京都に留まっている。
現在の感覚でいくと中学生から高校生ぐらいの男女の結婚生活ということになるが、さすがに若すぎる二人の結婚生活に無茶があったのか、それとも無骨な夫と、知性と上品を重んじる妻とで夫婦仲が良くなかったのか、この結婚生活は失敗に終わっている。もっとも、この結婚生活で清少納言は一人息子である橘則長を産んでおり、離婚後も橘則光と清少納言は普通に付き合っていたようで、この二人の元夫婦のカップルは宮中公認であったようである。
一度目の結婚に失敗した清少納言はさすがに考えたのであろう、藤原氏や源氏との結婚を望んだのである。藤原氏や源氏と結婚し、皇室とつながりを持つ野心を抱いたようで、藤原氏や源氏の男性にいろいろとアプローチを掛けており、藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房といった男性の名前が記録に残っている。ところが、藤原氏も、源氏も、清少納言とアバンチュールを楽しむことは求めても結婚は求めなかった。いくら清少納言自身が知性を誇っていようと、清少納言自身が上品さを誇っていようと、清原氏という今となってはその他大勢の貴族となってしまった家系の女性では無価値なのだ。
清少納言自身の名誉を満たすだけの相手を求めて妥協に妥協を重ねたようであるが、それでも藤原氏か源氏という条件だけは譲らなかった。その結果、清少納言より二〇歳以上歳上の藤原棟世と結婚し、清少納言はこの結婚で女子をもうけた。
これで念願の藤原氏の妻という地位を手に入れた清少納言であるが、奇妙なことに、枕草子に藤原棟世の名は見えない。その一方で、別れた夫である橘則光の名は何度が出てくる。家系だけを求め結婚した相手に恋愛感情は抱けなかったようである。ただ、皮肉なことに、清少納言を最後の最後で救うことになるのはこの夫なのである。
藤原棟世は藤原氏の一人であるが、藤原北家の人間ではない。藤原氏でも亜流と見なされるようになっていた藤原南家の人間であり、当然ながら朝廷中枢とはほど遠い。それでも国司を歴任するぐらいの地位はあったようで、藤原棟世は筑前、山城、摂津などの国司を歴任している。位階のインフレで国司に就けない貴族が続出していた時代にあって、各国の国司を歴任できたということはそれなりの能力を持っていたとするしかない。
そして、藤原棟世は任国に妻を同行させていない。その代わりに、妻を中宮定子の教育係として宮中に派遣したようである。ただし、オフィシャルな地位ではない。清少納言の公的地位はあくまでも国司藤原棟世の妻であり、中宮定子とはあくまでもプライベートなつきあいだったのである。
記録によると、清少納言が中宮定子の教育係となったのは正暦四(九九三)年のこととされている。そして、枕草子が記されるきっかけになったのは内大臣藤原伊周から一条天皇と中宮定子に料紙が献上されたことによる。
料紙というのは顔料や染料で色づけされたり文様を刷り込んだりした紙で、現在でも高価であるが、平安時代はもっと高価で、内大臣が天皇に献上するに相応しいほどであっら。
一条天皇に献上したほどの高価な紙を受け取った中宮定子は、受け取った紙を自身の教育係となっていた清少納言に渡した。
「帝は『史記』を書き写されましたが、こちらは何を書きましょうか?」
そう訊ねた中宮定子に対する清少納言からの答えが
「枕にこそはし侍らむ」
であった。
『枕草子』誕生の瞬間である。
長徳元(九九五)年三月九日、関白藤原道隆の体調不良に伴い、内大臣藤原伊周を関白代行に命じた。
ある職務にある者が病気で倒れたため、将来その職務に就くことが決まっている者が代行をつとめることは珍しい話ではない。関白藤原道隆の後継者は内大臣藤原伊周であると日本中の者が認めざるをえなくなっているのだから、ここで藤原伊周が関白代行になるのは、理論上おかしな話ではない。
もっとも、不安要素もある。何しろ藤原伊周はこのときわずか二二歳。この若さで関白がつとまるのだろうかとは誰もが思ったことである。実力さえあれば若さなど関係ないが、その実力においてもやはり疑問符がつく。特に議政官というまさに国の要職にある面々が、藤原伊周の執政者としての能力に疑問を抱いているのでる。
それでも藤原伊周自身がこの悪評を跳ね返すだけのことをするならば問題なかった。
特に関白という職務は、権威はあっても権力はない。求められるのは実務であって執政ではないのである。政治家としての能力を発揮しなくても、事務的なことを淡々とこなせば、かなりの割合で「役割を真面目にこなしているではないか」という評価を得やすいのが関白という職務なのだ。
何しろ、個人に圧倒的な権威があろうと、ただ関白であるというだけでは天皇の助言者にすぎず、その発言で国を動かすことはあっても、その発言を国の決定とすることはできない。特権として、天皇に上奏される文書を天皇より先に目を通すことが許されているし、天皇から下される文書に誰よりも先に目を通すことができるが、それはあくまでも天皇へ上奏された文書であり天皇から下賜された文書であって、関白への文書でも関白からの文書でもない。
文書作成にあたって助言することはあっても、関白自らが筆をとってはならないのである。
許されているのは天皇に文書を上奏するときに自分の意見を述べることであって、文書の中身を変えることは無論、天皇の意見を変えることも許されていないのが関白である。関白の意見を参考にして天皇が意志を決めることは珍しくなかったが、多くの場合は議政官の決定をそのまま伝えるのみであり、関白が天皇に述べるのも議政官の決議であって関白一人だけの意見ではないのである。
こうなると執政者としての能力が劣っていようと、関白としての能力が劣っていることには必ずしもつながらず、それまでの評価を良い方向に変えるのもさほど難しい話ではない。要は、実務を淡々とこなせばよいのだ。
ところが、ここで藤原伊周は大失態をやらかすのである。それも、自分自身を関白代行とする、一条天皇の文書において。
一条天皇が長徳元年三月九日に発した文書は、「関白の病の間、官、外記の文書は内大臣をして見せしむべし」という勅命である。関白藤原通隆が病気で倒れている間は、関白の職務の一つである文書閲覧の権利を内大臣藤原伊周に与えるというものであり、これは事実上、天皇への文書の全てについて内大臣藤原伊周が目を通すようにと命じるものであった。
ここまではいい。文書に目を通すことが関白の役目であり、その役目を担っている者が病に倒れたのであるから代理の者にその職務を委ねるだけの話である。ただし、関白藤原通隆が倒れている間は。つまり、関白藤原道隆が復帰したら、当然ながら関白代行藤原伊周は関白代行でなくなる。
しかし、一条天皇が下賜した文書を、藤原伊周が改竄しようとしたのだ。元々は「関白の病の間」であったのに、「関白の病の替」と書き換えようとしたのだ。つまり、関白藤原道隆が病から復帰しても、内大臣藤原伊周が関白代行であり続けるという文書に書き換えようとしたのである。関白代行という立場であっても、永遠に関白代行のままで続けばそれはもう事実上の関白だ。目論見が成功すれば二二歳の若き関白が誕生することとなったのである。
無論、藤原伊周自身が書き換えようとしたわけではない。ただ、天皇から下賜された文書が国の正式な法令である「宣旨」になるためには、天皇から下賜された文書を清書しなければならない。その清書の段階で圧力を掛けたのだ。
一条天皇が出した命令の文書は、権大納言藤原道頼がいったん受け取り、頭弁源俊賢を通じて、大外記中原致時と右大史小槻奉親の二人に渡された。この二人が清書してはじめて一条天皇の正式な命令となり、宣旨として日本全国に発布される。当然ながら、この間において一字一句たりとも変えることなど許されない。一文字でも書き間違えがあったらその瞬間に全部書き直しである。
圧力はここで掛かった。「間」の一文字を「替」の字に書き換えよとの圧力である。
当然ながら職務にある二人は拒否した。いや、拒否しただけでは済まず、圧力があったことを公表したのである。この話を聞いた誰もが内大臣藤原伊周からの圧力であると感じた。史料にも当時の人がそのように感じたことが記されている。
ところが、実際の証拠はない。圧力はあったのだが、誰からの圧力であるのかは徹底的に握りつぶされたのだ。そのため、藤原伊周は当初の文書の通り、関白藤原道隆が病気で倒れている「間」、関白代行に就くこととなったのである。
それでも関白代行は関白代行である。
藤原伊周はこれから事実の関白として君臨するつもりであった。そして、一人、また一人と自派の者を宮中に招き寄せたのである。議政官を握ることはできなくても、その下の事務方を抱き込めば長期スパンで見れば藤原伊周の権力を作り上げることができる。
先の宣旨改竄未遂において、中原致時と小槻奉親の二人に直接圧力を加えた者の名として、藤原実資は『小右記』に左少弁高階信順をはじめとする数人であったとしている。高階氏と言えば藤原伊周の母方の親族であり、高階信順個人も藤原伊周から見て叔父にあたる。かつて藤原道隆のブレインとして権勢を誇っていた高階成忠の息子でもあるその叔父が、事務方で有力な職務である左少弁となっている。さらに、高階信順の弟である高階助順、高階明順、高階道順の三人、つまり、藤原伊周から見て叔父たちが事務方で権力を握るようになってきたのである。しかもそのうちの何人か(あるいはその全員)が、一条天皇に藤原伊周を関白に任命するよう上奏してもいたのだ。
名目上は、病気で倒れている藤原道隆の回復を待っているのでは国政を停滞させてしまうというものであったが、本音はもちろん、自分たちの甥である藤原伊周が関白になることで自分たちの権威を広げることにある。暴挙と言えば暴挙であるが、これに対する処罰は全くない。それどころか、関白代行藤原伊周の誕生とともに、将来は彼らが権力を掴むのだと、にわかに脚光を浴びるようになったのである。
こうした母系の親族を利用する自派の形成を行なっていたまさにそのタイミングで、藤原伊周を絶望させる連絡が飛び込んできた。
長徳元(九九五)年四月三日、関白藤原道隆の症状がさらに悪化したため、関白の職務遂行不可能として辞表を提出したのだ。
関白代行藤原伊周は、あくまでも関白藤原道隆の代行であって、関白という職務そのものに就いているわけではない。本来の関白である藤原道隆が辞表を提出したら、関白代行藤原伊周も関白代行でなくなるのだ。
さらに四月六日には、藤原道隆が出家したとの連絡まで届いた。死を覚悟した者が死の前に出家することはいかにこの時代においてよくあることとは言え、このときの藤原伊周はまだ四三歳である。いかに平均寿命が短いこの時代でも、四三歳での死の覚悟というのは異例である。
この時点ではまだ藤原伊周が関白代行ではあった。関白代行ではあったが、正式な関白が決まるのは時間の問題とするのがこの時代の人たちの共通認識であった。
藤原伊周は、ここで自分が正式な関白になるという自負があった。いや、心の底では疑いを持っていたであろうが、自分が関白になると信じ込むことでその疑いを払拭しようとしていた。
藤原実資の『小右記』によると、その間である長徳元(九九五)年四月五日、藤原道長の邸宅である土御門殿に住む藤原詮子のもとに、関白代行藤原伊周が姿を見せたという。名目としては、一条天皇から随身、つまり、身辺警護をする武士たちを賜ったことの報告だが、実際にはこれで関白が自分のものになったとアピールすることにあった。このとき賜った武士たちは、一昨日に関白の辞表を提出した藤原道隆の身辺警護をしていた武士たちなのである。
この武士たちを率いていることこそ、自分が次期関白である確たる証拠であると藤原伊周は宣言したのであろう。そして、この邸宅の主である藤原道長は関白争いから外されたと宣言したのだ。
だが、思いとは裏腹に、藤原伊周はこのときの行動で失笑を浴びるのである。
『小右記』にも「此の事は定めて嘲瞬有るか」と記されており、当時の人たちは藤原伊周の軽率な行動に嘲笑を浴びせたようである。おそらく、藤原詮子もまた自分の目の前で繰り広げられた甥の失態に笑いをかみ殺していたのかも知れない。
ではなぜ、失笑を浴びたのか。
それは、藤原伊周が現在の情勢を理解していないことにあった。いくら藤原伊周が関白代行であるといっても、大臣としては三番手である。藤原氏という枠組みで見ても叔父の藤原道兼が右大臣として君臨しており、年齢から考えても、席次から考えても、そして、実力を考えても、右大臣藤原道兼が次の関白になるのは誰の目にも明らかであったのである。関白代理であることと、正式な関白とはやはり違うのだ。そのことを当時の人たちはよく理解していた。
一条天皇から武士が下賜されたことと、次期関白とすることとは何の関係もない。いや、それこそ次期関白から外されたことを示す印であったのである。
武士というのは個人的なつながりが強い。現在の軍人はシビリアンコントロールが利く存在であるのが普通だが、この時代の武士は朝廷の命令より個人的なつながりの方を優先するのである。
藤原道隆の随身であった武士たちが、道隆の子である伊周に下賜されたことは、新たな関白を任命するのにあわせて随身もまた選び直すというサインだったのだ。そして、前関白の随身を下賜されたということは、前関白の随身であった武士たちの面倒を、前関白の息子としてみるようにという印であったのだ。
これをわかっていなかったからこそ、随身を下賜されて得意げになっている藤原伊周が嘲笑を浴びたのである。
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