寛弘二(一〇〇五)年一月一六日、宮中において大スキャンダルが起こった。
事件の犯人として名が残っているのは六名。
藤原道兼の子である藤原兼綱。
かつての左大臣源雅信の孫で、大納言源時中の子である源朝任。
藤原兼通の孫で、参議藤原正光の子である藤原兼貞。
藤原道隆の孫で、権大納言藤原道頼の子である藤原忠経。
藤原実頼の曾孫で、参議藤原懐平の子である藤原経通。
権大納言藤原実資の養子である藤原資平。
この六人が何をしたのか。
宮中の行事で暴れたのだ。それも、行事を取り仕切る蔵人たちに対し一方的な暴行を加えたのだ。
この日、宮中では「踏歌節会(とうかのせちえ)」という行事が開催されることとなっていた。踏歌というのは一年の慶祝を願って行なわれるダンスであり、踏歌節会は毎年一月一六日に宮中で開催される日本国の一年の安寧を願う行事であった。踏歌節会でダンスを舞うのはこのための特訓を受けた女性たちであり、彼女たちにとっては一年間の特訓の成果を見せる場でもあった。この日のダンスのために彼女たちには当時としては最高の衣装もそろえられ、箸や櫛といった小物も蔵人たちによって運ばれていた。後はその小物を身につければいつでも踏歌節会が始められるというタイミングでもあった。
そのタイミングで六人は蔵人たちに襲いかかり、運ばれている最中の箸や櫛を奪っただけでなく、取り返そうとした蔵人たちに殴りかかっていったのだ。
暴れ出した理由は全くわからないが、せいぜい、目の前を横切ったとか、「ちょっと見せろや」などと言って近寄ったら拒否されたとか、殴りかかるに値するような理由でもないだろう。
暴れ回った彼らは、大問題とは考えなかったであろうし、彼らなりの正義が実現したとでも考えたであろうが、やらかしたことは冗談では済まない大問題であった。何しろ国家行事を妨害したのだ。律令に従えば死罪である。この時代は死刑が廃止されているから実際に命を落とすわけではないであろうが、それでも追放刑を喰らってもおかしくない大事件である。
結局、有力貴族たちの子であるという点から温情判決となったが、それでもこの犯人六名に対しては謹慎処分が課せられることとなった。
寛弘二(一〇〇五)年二月二五日、藤原伊周に対する一つの処置が下った。藤原伊周の地位を、大臣と大納言の間の地位とするという処置である。
もちろんそんな役職はない。ゆえに、藤原伊周に対する肩書は位階しかない。さらに、この時点においても公式には宮中立入禁止のままなのである。
さすがに元大臣を大臣未満の地位に就けるなど許されないという思いは誰もが共通認識として抱いていたのであろう。かといって、法皇に弓を向けた者を許すわけはいかないという感情も当然ながらあった。
それならば弟の隆家だって同じではないかとなるが、隆家は兵部卿でありながら議政官に加わることなく宮中から一歩引いたところで朝廷を守り続けていたという実績があるのだ。つまり、充分な反省をし、許されるだけの償いをしたのだからこれ以上責め立てるわけにはいかないという認識があった。今や、誰一人として過去の隆家ののことを責める者はいなかったのである。
一方、伊周にそのようなものは無い。相変わらず花山法皇襲撃について責め立てられている。より正確に言えば、若くして権勢を掴み関白の座を握ろうとしていたことへの反発から伊周に対して厳しくなっているのだ。
この微妙なポジションをさらに複雑にさせたのが、翌二六日の宮中立入禁止の一時停止命令である。つまり宮中に参内しても良いという命令であるが、宮中に行ったところで伊周の居場所などどこにも無かった。伊周に話しかける者もいなければ、宮中でやるべき仕事も無い。いかに大納言より上の立場であると宣言されても議政官の一員ではない以上、伊周にできることは何も無い。
さらに言えば一月一六日に起こった不祥事がある。血の気の多い若者が伊周に襲撃を仕掛けないなどという保証はどこにも無かった。彼らにとって伊周は明確な敵なのである。
宮中に出向いてやることもないまま、暴力の恐怖に怯えながら過ごすなどできる話ではなかった。
寛弘二(一〇〇五)年四月一四日、平惟仲の後を受けて太宰府の事務方のトップを務めていた藤原高遠、上野国司橘忠範、加賀国司藤原兼親、因幡国司橘行平の四名から税務軽減の申し出があった。
その中の因幡国司橘行平からの申し出について、繁田信一氏は詳しい論考をまとめている。以下、繁田氏の論考を参考に記述する。
因幡国からの減税措置の嘆願は、名目としては因幡国の衰弱によるものである。この時代の徴税は国単位なため、国全体が不作になった場合、国内の庶民に対する税負担が増えることとなる。これを回避することが因幡国司橘行平の嘆願の理由であった。
この嘆願が却下された。因幡国の不作や不況という知らせが全く届いていなかったのである。その代わりに届いていたのが因幡国の財政状況の改善のニュースだったのである。
不況のときこそ増税し、好況のときに減税すべきというのが、歴史が人類に教えてくれる教訓である。これを踏まえれば、経済状況の改善が見られたから税負担の軽減を求めるのは理解できる。あるいは、財政状況改善のほうが誤りでありこれまで通りの税負担をすべきという請願であれば理解できる。
そのどちらでもない経済状況悪化ゆえの税負担の軽減要請である。
因幡国が何かおかしい。それがこのときの朝廷の判断であった。
寛弘二(一〇〇五)年二月まで因幡国司を勤めていたのは藤原惟憲である。その藤原惟憲から届いていた情報というのが因幡国の財政状況改善の知らせである。
藤原惟憲の任期が終わり、新たに橘行平が国司に任命され、因幡国に向かった。その因幡国に着任してすぐに橘行平から税務軽減の嘆願が届いたのである。
藤原惟憲は貴族になってから一六年のキャリアを持つ三九歳の貴族である。ただし、それまでの生涯で国司経験は無かった。国司以外の任務で地方官を経験したことはあるようだが、地方のトップとしての経験は因幡国司がはじめてである。
一方、橘行平は因幡国司になる前に駿河や常陸で国司を経験しているだけでなく、国司としての評価の高さから従四位下に昇格している。国司としての能力はどう考えても橘行平のほうが信頼置ける。
ただし、減税嘆願というのは色々と悪用されるものでもあった。朝廷からは減税が認められたのに、領国の徴税は今まで通り行う国司が結構いたのだ。そして、朝廷が認めた減税後の徴税分と、それまでの税率に基づく徴税との差分はそのまま国司の懐へと入っていくのである。橘行平の嘆願がそれであった可能性もある。
さて、国司というものは、京都に留まらず任国に赴任すると決めた場合、任命されてからだいたい二ヶ月ほどしてから京都を離れるものである。任国赴任中の自らのバックアップを上位貴族に求めたからである。要は何かあったときに守ってくれるパトロン探しである。
普通の国司は任命された後、その時代の上流貴族たちに次々に挨拶に回る。藤原実資も、この年に任命された国司たちが次々と自宅にやってきたことを記している。しかしながら、橘行平の名はそこに見えない。自分の国司としての実績に誇りを持っているのか、それとも、そのようなことは自らのプライドが許さないのか、ただ単に藤原実資のことを無視していただけなのかはわからない。
さて、この時点の平安京における評判は、前任である藤原惟憲のほうが上であった。何と言っても財政立て直しというのは立派な結果であるし、今と違って新聞もテレビもネットも無いこの時代、伝聞の持つ情報力というのはバカにできないものがあった。因幡国が復興したというのが常識になっており、その復興を否定する橘行平のほうが疎んじられたのだ。
国司交代というものは、ある日突然、前国司から新国司へと入れ替わるというものではなく、数ヶ月間は新旧の国司が共存して事務の引き継ぎを行う。そのため、因幡国でも、前国司の藤原惟憲と新国司の橘行平との間で事務手続きが進められていた。
その事務手続きを終え、新国司から前国司に解由状が渡され、解由状を朝廷に提出して正式に国司の任務が終わるのであるが、藤原惟憲は解由状が手渡されなかったのだ。
解由状を渡すことで前任の国司に何の問題がなかったと新国司が証明したことになるのだから、解由状を受け取れなかったということは前国司の業務に問題があったと証明されてしまったのと同じなのである。
解由状を受け取れなかった藤原惟憲は左大臣藤原道長に泣きついた。そして、藤原道長は橘行平に対し、藤原惟憲に向けての解由状を出すように命じたのだが、それが何とこの年の一二月二九日のことである。つまりそれまでの間、解由状が出されなかったのだ。
ところが、この解由状を出すようにという命令に対しても橘行平は拒否。そこで、橘行平を京都に召還して尋問しようという所まで話が進んだが、この召還を橘行平が拒否。
橘行平が拒否したことで藤原道長は「前因幡国司藤原惟憲に対し解由状を出さないことの方がおかしい。因幡国司橘行平はただちに解由状を出すように」と朝廷として命令を発令したのである。
因幡国司橘行平は解由状を出すに出せない事情があった。前任の藤原惟憲から受け継いだ国衙の公有資産が明らかに足りなかったのである。何しろ公有資産の引き継ぎは誤差を許さないものであった。誤差を解消するために前任の国司がどさくさに紛れて持って行こうとしていた資産を切り崩して欠損を補うことでやっと解由状がもらえたというエピソードもよく見られることであった。
それにしても、一介の前国司に過ぎない藤原惟憲がときの左大臣、それも、関白や太政大臣になってもおかしくないだけの権力を持ちながら左大臣に留まっている道長に泣きつくなどどうしてできたのか。
理由は簡単で、藤原惟憲は貴族としてのキャリアを道長のもとで積んでいたから。もともと道長のもとに仕える家臣としてキャリアを積み重ね、そのキャリアをもとにして朝廷に移り、朝廷の役人としての経験を積んだ後に国司に就任したからである。もっとも、このようなキャリアの積み方をする者は珍しくない。朝廷の役職には数の限りがあって人材があぶれているため、大学を出てすぐに役人になることが難しくなっていた上に、氏族の執務をする者は常に不足していたのである。
道長のもとに仕えていたというのを藤原道長の私的な秘書と捉えるからおかしなこととなるので、朝廷に仕える役人を中央官庁に勤める国家公務員と、そして、道長のもとに仕える家臣を民間企業の社員と捉えれば良い。
藤原氏は現在の感覚で行くと立派に民間企業であった。株式会社藤原氏とでも呼んでよいほどである。道長個人に仕えると言っても、それは何も道長個人のプライベートを補佐するだけでなく、この時代の他の貴族と同様、所有する荘園、資産管理、そして膨大な書類作りとその整理と、平安時代の上流貴族は全国展開する企業の本社にあるような組織を邸宅内に構えていたので、そのための人員がどうしても必要だったのである。
この時代にそのような実務をこなせる教育を受けてきた人間は二種類しかいない。僧侶と、役人になるために大学や勧学院などで学んできた者である。現在では中央省庁を蹴って民間企業で働く者もいるが、この時代は朝廷に勤める役人が最優先で、貴族に仕えることを最優先に考える者は滅多にいない。そのため、貴族に仕える人材を確保するためには、貴族に仕えることを公務扱いにし、位階を与え、結果次第では中央官庁の役職に転職できるように保証しなければならない。民間企業への終身雇用という概念はなかったのである。藤原惟憲のように道長に仕えることで結果を出しつつ、いくつかの地方官の経験を踏まえ、念願叶って国司へとなったというのは、道長個人のもとに仕えることがメリットのあることだと示す最高のモデルケースだったのである。
ただし、一つだけ現在の民間企業と異なる点がある。それは、私的に仕える者自身もまた、貴族として一人の経営者であったということである。藤原道長に仕えることで道長から給与を得ていたと同時に、自身もまた荘園を持ち、荘園から収入を得ていた貴族なのである。そのため、雇われの身ではあってもその収入はかなり高い。現在のサラリーマンの年収はおよそ四〇〇万円となっているが、この時代の藤原氏に私的に仕える貴族の年収を現在の物価に直すと一〇〇〇万円は軽く超える。しかも、現在と違って保険や年金を引かれるわけではないし、住居も位階に応じた屋敷が貸し出されるので住宅ローンの負担もゼロ。サラリーマンの年収が四〇〇万円であっても額面で行くと二八〇万円程度に留まる上に、ここに住宅ローンや家賃が覆い被さってくるのに対し、この時代の上流貴族に仕える下級貴族の場合、年収一〇〇〇万円なら額面も一〇〇〇万円で家賃負担はゼロなのである。
その代わり、ここが現在と大きく違う点であるが、高い年収を得ている側もそれなりの負担をしなければならない。現在のサラリーマンが会社に対して負担しているのは労働力と労働時間であるが、この時代に私的に仕える者はそれに加え費用の負担もしているのである。
まあ、現在だってサービス残業や安月給で費用負担をしているではないかと言われればそれまでだが、現在の場合、そこで負担を引き受けなかったら会社をクビになるという現実があるのに対し、この時代、雇用主に未来を見いだせないとなったら遠慮せずにそれまでの関係を打ち切って雇用主を捨てることの方が当たり前であった。この時代の私的な主従関係で重要なのはいかにして朝廷に加われるかであって、朝廷入りが無理だと悟られてしまったら見捨てられるのもやむを得ないとされていたのである。
その代わり、未来に希望を見いだせるのであれば負担を引き受けるのも当たり前であったし、ときには率先して負担を申し出ることもあった。実際、後年の話になるが、藤原道長の邸宅である土御門殿で仏事を開催するにあたり、藤原惟憲は必要な仏具一式を寄贈している。
さて、藤原惟憲に解由状が出なかった件に戻ると、まず、藤原惟憲が因幡国司として因幡に赴任した時点で因幡国の不動穀がゼロになっていた。「不動穀」というのは現代における地方公共団体の準備基金のようなもので、要は緊急時に使用する費用である。この時代で言うと現金ではなくコメが予算の基礎になるので、不動穀は緊急時の予算に加えて、飢饉時の支援食料を兼ねている。
これがゼロというのは冗談では済まない状況に陥っていることを意味する。このゼロになってしまった不動穀を取り戻し、最終的には八〇〇〇石の不動穀を確保したというのが因幡国司としての藤原惟憲の功績として宣伝されていたのである。
八〇〇〇石と言えば当時の庶民の年収の一〇〇〇倍、現在の感覚で行くと四〇億円の準備基金を用意したということになる。この時代の因幡国の人口は多く見ても六万人であるから、緊急時、因幡国の住民は一人あたり年収の六〇分の一、現在の金額に直すとおよそ七万円の援助を国衙から受けられることとなる。ちなみに、政令指定都市の中で準備基金が多いとして野党が攻撃をしているさいたま市の場合で、準備基金を人口で割ったら一人当たり五万円にしかならない。しかも、そのうち一万五〇〇〇円が市債の償却、一万円が健康保険のための基金だから、本当の意味での準備基金となるともっと減る。
多すぎるとして批判を受けるほどのさいたま市ですら情けないほど少ない準備基金であることを考えれば、しかも因幡国ではゼロからの出発であったことを踏まえれば、四〇億円もの準備基金を用意したことは充分に評価できる数字であると言えよう。
ところが、国司交代で因幡国に出向いた橘行平は八〇〇〇石あるはずの不動穀がゼロであることを知ってしまった。こうなると、盛んに宣伝されていた八〇〇〇石の不動穀が嘘になるだけでなく、準備基金用に回していた税がどこかに消えてしまったこととなる。これは公費流用と結論づけざるを得ない。ゆえに解由状は発行できないということとなったのである。
そこで藤原惟憲は何をしたのか。
自力で八〇〇〇石の不動穀を集め倉にしまったのである。無論、これは一人でできる話では無い。そもそも倉の鍵というものは国司のみが扱えるものである。前国司であろうとも、新たな国司が赴任されたならば何よりも先に鍵を渡さねばならないのである。にも関わらず藤原惟憲は鍵を開けることに成功し、八〇〇〇石という莫大な資産をしまうことに成功したのだ。
これで橘行平は解由状を出さざるを得なくなった。
そして、橘行平は因幡国において味方のいない状態であることを思い知らされることとなった。前国司が倉の鍵を開け閉めできる状態であるということは、国司以下の国衙の役人たちが前国司である藤原惟憲の味方であることを教えてくれた。
おそらく着服はあったのだろう。その上で、着服し続けるより隠蔽工作に走る方を選んだと思われる。それぞれが着服した予算の積み重ねに加え、ここで藤原道長につながっている藤原惟憲の味方をすることで得られるであろう将来の栄達を考えれば自分の懐を痛めてでも八〇〇〇石を集めることなど造作も無かったであろうし、どこからか鍵を持ち出して倉にしまうことも造作も無かったであろう。
寛弘二(一〇〇五)年五月二四日、従二位中納言平惟仲が太宰府で亡くなったという知らせが届いた。宇佐神宮にとってもっともやっかいな相手の死である。
それは同時に、宇佐神宮の勢いが復活することを意味するものであった。
宇佐神宮のことを宇佐八幡と言うことがある。
八幡(はちまん)を祀る神社には、鎌倉の鶴岡八幡宮や京都の石清水八幡宮などもあるが、宇佐八幡はそれらの八幡宮の総本宮である。
八幡神は元を正せば北九州の氏神であった。北九州市を構成する旧五都市の一つの八幡(やわた)がその起源であり、この八幡神を氏神とする氏族が宇佐氏、そして、この宇佐氏が創建したのが宇佐神宮である。
この八幡神は第一五代応神天皇のことであり、後に比売神(ひめがみ)と、応神天皇の母である神功皇后も加えられ、八幡三神として祀られるようになった。
応神天皇は母である神功皇后とともに朝鮮半島との戦争を勝利に導いた軍功が称えられる天皇であった。八幡神を祀ることは応神天皇を祀ると同時にすなわち軍功を祈念することでもあったのである。そのため多くの武士が八幡神を祀るようになり、源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を創建してからはあたかも源氏の氏神と見られるようになったが、この時代は少なくとも源氏の氏神という位置づけではなく、九州の一大勢力という位置づけであった。
平惟仲によって抑えられていた宇佐神宮も、八幡を前面に掲げることで勢力を盛り返すことに成功した。武人にとって武功の御利益は何よりも必要とするものであり、その御利益を前面に掲げる八幡神は多くの信者を獲得するものであった。
しかも、敵となった平惟仲を死に至らしめた。これは宇佐神宮にとって絶好の宣伝材料となった。
さて、平安時代を小説やマンガでとりあげるとき、かなりの割合で出てくる人物として安倍晴明がいる。
安倍晴明は架空の人物ではなくこの時代に実在した人物である。
この安倍晴明は現在でこそ誰もが知る陰陽師として有名であるが、当時は、陰陽師でもある役人であり貴族であるという位置づけであった。実際に陰陽師として活躍していたことはあるのだが、意外なことに陰陽師のトップである陰陽頭に就任した経験は無く、その代わり、主計権助という現在で言う国税庁の次官を務めたのち、左京権大夫(現在で言う東京都庁の上級職)、穀倉院別当(現在で言う日本銀行総裁)、播磨国司(現在で言う兵庫県知事)と、役人から貴族になった者として順調なキャリアアップを果たしている。
その間も陰陽師として呼ばれることはあったようで、干害対策としても雨乞いを命じられたところ雨が降ったという伝承はあるが、同時代の史料にそのような記述はない。
当時としては異例の長寿であったようで、寛弘二(一〇〇五)年九月二六日に亡くなったという伝承がある。生まれたのが延喜二一(九二一)年一月であるから、八〇歳以上という当時としては異例なまでの長寿であった。
つまり、現在の小説やマンガに取り上げられるような若き青年としての安倍晴明はもっと前の時代のことであり、この時代の安倍晴明は自らの死を予期していた八〇過ぎの元陰陽師である貴族であったわけである。
よく藤原道長とともに行動していたなどという描写があるが、この二人は四〇歳以上の年齢差がある。道長とともに描くなら安倍晴明は高齢者でなければならないし、若き安倍晴明を描くとすれば道長はまだ生まれていない。
寛弘二(一〇〇五)年一一月一三日、藤原伊周が正式に宮中に復帰した。議政官の一員にカウントされるようになったのである。とは言え、もはや藤原伊周に何の発言権もなかった。何も発言しなかったわけではないが、藤原伊周の意見など誰も参考にしなかったのだ。
藤原道長は伊周の宮中復帰を全く記していない。藤原実資もその他大勢の扱いである。藤原行成が記録してくれているからこの日に伊周が宮中に復帰したことがわかるものの、それが伊周に対する現実であった。
それでもやっとの思いで復帰を果たした舞台である。藤原伊周はここで名誉挽回のチャンスを掴むと意気込んでいた。そして、これから毎日宮中に参内し、自らの存在感を強める決意をしたのである。
ところが、その決意は三日で終わった。
それは何も伊周に何かしらの問題があったわけではない。
一一月一五日、また内裏が焼け落ちたのである。しかもこのときの火災で三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)が灰になるという大問題を起こした。もともと八咫鏡は天元三(九八〇)年の火災で大きく損傷し鏡としての役割を果たさなくなっていた。それでも実物は残っていたのだが、今度は灰である。
実は、歴史上、三種の神器を実際に見た人はほとんどいない。それは天皇とて例外ではなく、八尺瓊勾玉(やさにのまがたま)が入っているとされている箱だけが皇居にあり、八咫鏡は伊勢神宮に、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は熱田神宮に神体として祀られていて、皇居にあるのは八咫鏡と天叢雲剣の形代(かたしろ・神霊が依り憑き易いように形を整えた物)がおさめられているとされている箱である。ちなみに、現時点で最後にその箱に触れたのは今上天皇の即位の儀のときの宮内庁の従者であり、それ以後はたとえ天皇陛下であっても近づくことすら許されない場所に安置されている。
通常、内裏が使えなくなった場合はまず職御曹司(しきのみぞうし)に避難する。ところが今回の火災は職御曹司にも拡がっていたため、職御曹司への避難は不可能であった。
そこで一条天皇は太政官朝所に避難したのだが、ここはとにかく狭い。
職御曹司の敷地面積は内裏の半分である。これでも狭いのだが、太政官朝所はもっと狭い。職御曹司の四分の一にも満たないのである。ここに内裏の全機能を詰め込むなどどうあがいても無理な話である。
これまで、一条天皇は、一条院に避難することが多かった。
一条院は大内裏の目と鼻の先にある建物であり、過去二回の避難経験もあって内裏の代替機能も整っていた。それに、敷地面積だけで言えば内裏に匹敵する。もっとも、敷地の真ん中に猪隈小路が走っているので敷地が東西に二分されているからその部分が不便であるが、それでも内裏が元に戻るまでというのなら我慢できる程度である。
一条天皇も、一条院への避難を模索したようであるが、どういうわけかこのときの、一条院は空いていなかった。もしかしたらこのときの内裏の火災が一条院にも及んでいたのかも知れないが、そのあたりの記録は残されていない。
そのため、避難場所が見つかるまで、一条天皇は太政官朝所にいたのである。
このとき道長が思いも寄らない提案をした。
避難場所として東三条第を提供するというのである。寛弘二(一〇〇五)年一一月一八日、一条天皇を迎え入れる準備が必要なので時間を欲しいとした上で、避難場所として東三条第を渡すとしたのだ。
東三条殿と言えば藤原氏の本拠地である。とは言え、藤原道長の邸宅である土御門殿のほうに藤原の本拠地がだんだんと移動しつつあり、東三条第の役割は相対的に下がってきていた。つまり、都合良く空いていたのだ。
それに、東三条第の敷地面積は内裏に匹敵する。一条天皇を迎え入れ内裏の代替機能を備えるための時間が必要であったが、その時間さえもらえるのであれば内裏の代替として可能なのだ。
寛弘二(一〇〇五)年一一月二七日、一条天皇が東三条第に避難した。これからしばらくの間は東三条第が内裏になるのである。この臨時の内裏のことを「里内裏」という。もっとも、当時の記録は単に「内裏」とだけ記しており、里内裏であるとかは記していない。一条天皇の住まうところが内裏である。
これまでの内裏火災において、内裏の代替を担ったのは、村上天皇の冷泉院、円融天皇の堀河院、そして一条天皇の一条院の三箇所だけである。冷泉院は退位した天皇が上皇として過ごすことを念頭に置いて建設された建物であり、堀河院は円融天皇の皇后の実家である。一条院は既に述べたように一条天皇の退位以後の住まいとして用意されていた建物であり、ときの天皇と直接関係ない住まいへの避難はこれがはじめてである。
ゆえに今回の東三条第は異例なことなのであるが、冷泉院や堀河院、そして一条院といった里内裏を経験してきた貴族達にとって、東三条第の機能の素晴らしさは目を見張らせるものがあった。内裏には及ばないにせよ、内裏機能の全てを過不足なくこなせるのである。
しかも、東三条第という当時の高級住宅地のほぼ中央。つまり、どの貴族も大内裏に行くより便利な場所である。
もっとも、避難したのは内裏だけであり朝廷機能の全てが避難してきたわけではない。現在の感覚で行くと首相官邸と国会議事堂は避難したが、その他の省庁や最高裁判所はそのまま残ったという感覚である。そのため、直接内裏に行く用件の者にとっては便利になったが、大蔵省や民部省といった官庁に行くにはむしろ遠くなってしまった。
つまり、内裏に一日中いる上流貴族は問題ないのだが、内裏と官庁とを行き来するのが役割の下流貴族や役人たちは往復がかなり面倒なことになったのだ。現在の東京で言うと、火災前は新宿駅から東京都庁までの移動で済んでいたのが、火災後は国立競技場から東京都庁に移動しなければならなくなったのとほぼ同じ距離である。
どんなに素晴らしい設備を持った施設であっても、他の施設との間に片道二キロメートルを毎日何往復も歩かなければならなくなった者に同情するしかない。
寛弘二(一〇〇五)年一二月二九日、ついに中宮彰子にも清少納言に匹敵する女官が登場した。この日、紫式部が中宮彰子に仕えるようになったのである。もっとも、異説もあり、寛弘二(一〇〇五)年ではなく寛弘三(一〇〇六)年であるとの説もある。
実はこの時点における紫式部の評判は特に際立った者ではなかった。
才女であることは知られていたが、源氏物語という大作を著した女性であるという評判はまだ立っていなかった。そのため、中宮彰子のもとに仕えることになった数多くの女性の一人という認識しかなかったのである。
ところがいざ宮中に姿を見せるとその才覚は他の女性と段違いであることを思い知らされることとなった。
紫式部本人は漢字の「一」の字も書けないとまで振る舞っていたが、どうしても教養がにじみ出てしまうのだ。学者出身の貴族ですら紫式部の前にはかすんでしまう程の教養が紫式部にはあった。
ただし、紫式部には一つだけ苦手とするものがあった。
和歌である。
この時代の人はどんなに無教養の人でも和歌を即興で詠めることが求められていたのであるが、紫式部はこれが苦手だった。今で言うEメールやLINEの役割を和歌が担っていたと考えれば良いであろう。
するとこのような推測ができる。
教養は深いが人とのコミュニケーションが苦手。素晴らしい作品を世に送り出すほどの才覚があるだけでなく、中宮彰子の教育係として申し分ない実績を残るのだから頭が良いことは間違いないのだが、困ったことに人付き合いが苦手で引きこもりがち。
こういう人はいつの時代にもいる。現在ではそうした人たちをオタクと呼んでいるが、平安時代にもオタクはいたのである。
そう言えば、オタクを気持ち悪いと言って批難する人も多いが、批難してきた人たちの中に歴史に名を残すような作品を創り出した人などいない。
宮中に入った紫式部は、そのスタートこそ夫を亡くした国司の娘という立場であったが、すぐにその才能が評判になった。和歌を除いて。
この紫式部の評判を聞きつけたのが、他ならぬ一条天皇である。一条天皇は当然ながら天皇として相応しい教育を受けている。そのため、高い教養を持っており、一条天皇を退屈させることなく一条天皇と会話をするには、相応の知識を身につけていなければならない。
一条天皇はどうやらこの時点で源氏物語を知っていたようである。源氏物語が多くの人を楽しませるであろう文学作品であるというだけでなく、人物描写、社会描写、そして歴史描写の深さに感心していたところで、その作者が中宮彰子の元に仕えるようになったと聞きつけ、いざ会って話をしてみると、これは一条天皇もただただ驚嘆するばかりの深い教養の持ち主。噂通りの才能がにじみでており、「この人は歴史書をかなり読み込んでいるに違いない」と感想を漏らした。
ここまでは良かった。
問題はここから。
おかげで源氏物語の評判が広まったと同時に、紫式部は「日本紀の御局」と呼ばれるようになってしまったのだ。要は「歴史オタク女」という意味であり、断じて誉め言葉ではない。
こう呼ばれて紫式部も嬉しがるわけはなく、「日本紀の御局」というあだ名を考えて広めた張本人である「左衛門」こと橘隆子と何かにつけて張り合ったという。
橘隆子はその姓から想像つくとおり橘氏という学者一門の家に生まれた女性であり、自分の教養の深さを自負していた。おそらくであるが、紫式部が中宮彰子に仕えるようになる前は、橘隆子が最高の教養を持った教育係として存在していたのであろう。ところが、そこにやってきたのは一〇〇〇年を数えてもなおベストセラーであるという日本史上最高傑作の小説を残した女性。これではどうあっても立ち向かえない。おかげで嫉妬から紫式部を貶すあだ名を付けて広めたのだが、紫式部は世界中の歴史の教科書に名前を残したのに対し、橘隆子は紫式部に不名誉なあだ名を付けた嫉妬深い女という一点以外、何の記録も残していない。
偉人にとっての受けた悪事は伝記の一ページだが、偉人に悪事を働いた者にとっては悪事だけが伝記である。
今から六〇年以上前に一世を風靡したベストセラーに「パーキンソンの法則」という一冊がある。
その中の有名な法則として、「役人の数は仕事の量とは関係なく増大する」という一節がある。
藤原道長は死による空席を埋めないことで議政官の大規模なリストラを敢行していたが、その道長ですらパーキンソンの法則と無縁ではいられなかった。
ゼロにまで減らしたはずの権中納言は五人にまで増えてしまっていた。
抑えつけていたはずの位階も膨れあがってしまい、藤原道長と同格の正二位が五人も出る始末。
それでも正二位左大臣藤原道長はそれより上を求めなかった。そのため上が詰まった状態になった。いくら空席を埋めないというスタンスを貫こうと、実績を出している者を正当に評価しないと志気にも関わるのだ。
ビジネスに限ったことではないが、マネジメントをしていく上で志気という者は馬鹿にできるものではない。少なくとも、成果を出したことに対する正当な評価をせずにいたら、二度とその成果は得られない。給与を増やさないのも、待遇を向上させないのも、得られる成果を悪化させるだけで何のメリットもないのだ。
現状の厳しさを訴えて耐えるように説得しても無駄である。どんな会社であれ、会社が厳しい状況だからと社員やアルバイトに負担を求めたとしたら、社員やアルバイトは意欲を無くし、辞める者や、辞めないにしても限界までサボる者が現れる。これは会社に限った話ではなく、勤労に対する評価をしないと、どんなに理詰めをして説得しても、これまで通りの成果どころかところで何の結果も出ないのである。
極論すれば、道長が耐えているのは道長の勝手であって、付き合わされる義理はないのだ。これがわかっているからこそ、いかに道長がリストラを進めようと、正当な評価をしないという選択肢は許される選択ではなかったのだ。
内裏焼亡に伴って、一条天皇が避難した先は東三条第であったが、一条天皇の東三条第への避難を終えたのは寛弘三(一〇〇六)年三月四日のことである。とは言え、内裏に戻るわけではない。これまで二度利用してきた、一条院に避難しなおすのである。
設備としては劣っていても、大内裏と目と鼻の先にある、一条院のほうが下級貴族や役人にとってはありがたい施設であった。東三条第が内裏だと国立競技場から東京都庁の間の往復になるが、一条院が内裏なら西武新宿駅から東京都庁との間の往復で済むのである。
さすがに東三条第を内裏とすることの弊害を感じた道長であったが、東三条第を出て一条院に遷るとしたときのタイミングを利用している。
藤原頼通に東三条第での花宴を主催させたのである。
基本的に、藤原道長という人はそんなに長い日記を書くような人ではない。それなのに三月四日の記事については異様に長い。他の者が「三月四日に東三条第で花宴があった」としるしているだけのこのイベントについて、道長は、誰が参加し、どのような催しがあり、どのような食事が振る舞われ、どのような音楽が奏でられたかが詳細に記されている。
そして、このイベントの功績により我が子頼通が従三位に昇格したことも日記に記した。ただし、参議にはしておらず、議政官の一員に加えたわけでもない。あれだけリストラを進め貴族たちの昇格を遅らせたのに我が子に限っては三位に引き上げたとなると反感を買うものであるが、さすがに参議にはしていない。そこまでするのはさすがに反感を買うことこの上ないと判断してのことであろう。
何しろ藤原頼通はまだ一五歳なのだ。
寛弘三(一〇〇六)年五月一〇日、藤原有国の次男で、蔵人の一人であった藤原広業が何者かに襲撃された。
藤原広業は、父の藤原有国と同様、勧学院ではなく大学で学んだ後に官界入りした者である。菅原道真が二六歳という当時最年少の若さで合格した方略試に、二〇歳という若さで挑み、史上最年少の若さで合格した秀才としても知られており、二三歳で貴族の仲間入りをすると同時に筑後国司に就任。さらにその翌年には父の補佐をするために勘解由次官を勤めている。
大学出身の貴族でありながら二九歳という若さでこの活躍は特筆すべき成果である。おかげで嫉妬を買うことも甚だしく、このときの暴行もその当たりの嫉妬であろうと推測される。
もっとも、藤原広業は優秀な成績を残した学生であったがひ弱な学生であったわけではない。
まず何者かに襲撃されたと訴えた藤原広業はたしかに顔に傷を作っていた。
その後、犯人は蔵人の一人である藤原定佐(さだすけ)であると判明。検非違使が藤原定佐の邸宅に駆けつけてみると、藤原定佐は藤原広業が受けたケガとは比較にならないほどの大ケガを負っていた。
話を聞いたところ、「藤原広業を襲撃したら仕返しを喰らった」という。
ケガを負ったとは言え、一方的に犯行を仕掛けておいて被害者に抵抗された末でのケガに同情の余地はないし、喧嘩両成敗などという考えなど通用しない。
結果、藤原定佐は除籍処分となった。現在は「除籍」を「じょせき」と発音し、名簿からその人の名を取り除くことで集団から追放することを意味するが、平安時代はこの言葉を「じょしゃく」と発音し、給与支給の対象者であることを示す簡(ふだ)を取り除くことである。これは位階の剥奪を意味した。処罰としては平安時代のほうが重いと言えるであろう。
貴族同士の騒乱にはそれなりの処罰を受けたが、争乱を起こしながら処罰を受けない者がいる。
宗教関係者である。
既に宇佐神宮はこの特権を獲得していた。
これを同じ特権を獲得しようとするところが現れた。
興福寺である。
興福寺は藤原氏の氏寺であり、平城京なき後の奈良において東大寺と並んで勢力を持つ寺院であった。どれだけ勢力を持っていたかというと、大和国の荘園の大部分が興福寺の所領であり、貴族の立ち入る余地がなかったばかりか、後年、武士の時代になり幕府が各地に守護を置くようになっても、大和国は興福寺に太刀打ちできないとして守護が置かれなかったほどである。
この時代は守護という職務もなければそもそも武家政権でもない。政権からは国司が派遣される。
もっとも、その興福寺は大和国司の税の取り立てに対する抵抗勢力としても役割を果たしており、長保二(一〇〇〇)年五月八日には、興福寺の僧侶たちが大挙して添下郡にある大和国司の館に乱入するという事件を起こし、長保三(一〇〇一)年一二月には興福寺主導のもと、大和国の百姓(当時の「百姓」は現在の「庶民」という意味であり、必ずしも農民とは限らない)が大挙して京都に押し寄せ現状の過酷さを訴える書状を提出している。
大和国の国司と興福寺との対立に直面した藤原道長は、長保六(一〇〇四)年一月二四日に村上天皇の孫である源頼定を大和国司に任命することで事態の収拾を図ろうとしたが、その源頼定が蔵人頭として、一条天皇に引き抜かれてしまったため、源頼光の弟である源頼親を大和国司に任命した。
同じ源氏でも村上源氏の源頼定は文人として名を馳せる平和な統治者であったが、清和源氏の源頼親は兄譲りの武人であり、かつ、大和国内に荘園を持つ身でもあった。
こうなると、興福寺と国司とが武力衝突する事態となるのは目に見えている。
寛弘三(一〇〇六)年六月二〇日、大和国から、興福寺の僧侶である蓮聖が僧侶や信者あわせて数千人もの人を率い、大和国内の田畑を荒らしたという報告が上がってきた。この田畑は、どの国の荘園でもない田畑であったり、源頼親の所有する荘園であったりした。
この時点では、報告が上がってきただけというニュースであり、どのような処分とするのかはまだ定まっていない。
寛弘三(一〇〇六)年七月三日、内裏火災で損傷した八咫鏡の改鋳是非を審議が行なわれた。結論はすぐに出た。八ヶ月もの間、様々な議論を呼んできた八咫鏡の改鋳であるが、灰のまま保管するという結論に収まったのである。様々な議論が出ていたのに、いざ議政官の審議が始まると、灰のままとすべきという意見が圧倒的で、結論はすぐにまとまったのである。
問題は同日に行なわれた大和国からの請願である。
まず、田畑の損壊は事実であるとし、損壊に参加した者への逮捕命令が出た。
と言ってもこれは難しい話である。
考えてみていただきたい。デモに参加し、デモが暴徒と化し、集団暴動へと発展したとき、デモに参加した者全員を逮捕できるであろうか。本来ならばそうでなければならないのだが、実際には難しい。そんなことは共産主義国でも不可能な話である。
そのため、このときに下した結論が、暴動の中心人物であった興福寺の僧侶である蓮聖の逮捕、そして、蓮聖の証言する暴動参加者の逮捕を発令したのである。
しかも、この命令は一条天皇からの勅令であった。藤原道長が全面的にバックアップした結果ではあるが、天皇の名が記された正式な国の命令となったのである。
奈良から京都は四〇キロメートルほどの距離しかない。観光がてらあれこれ寄り道したとしても、五日もあれば余裕で歩いて行ける。健康な人なら一日あれば移動できる。馬ならもっと早く移動可能だ。
寛弘三(一〇〇六)年七月三日に興福寺に対する処分が出たのだから、四日にはもう興福寺に結果が届いていたであろう。
興福寺の僧侶、抱える僧兵、さらに興福寺の荘園の住人に動員をかければ一〇日もあれば京都に一大群衆を集めることも可能だ。
もっとも、この時代の大和国の推定人口は一二万人ほど。さすがにその全員が京都に行くとは思えないが、それでも数千人単位の京都動員ならば可能である。京都に行けば報酬を出すとなれば、農繁期でもない限り行って帰ってくるぐらいの暇を作れる。
それに、多くの者が大和国司ではなく興福寺のほうに親近感を抱いているのだ。税を取り立てる国司と、その国司から暮らしを守ってくれる興福寺とどちらがありがたい存在か、あえて記すまでもない。
それに、自分自身が犯罪者として取り締まられる可能性だってある。興福寺の僧侶である蓮聖への逮捕命令が出ていると同時に、蓮聖には暴動参加者を述べるようにという命令が出ているのだ。蓮聖が逮捕された後、暴動参加者を朝廷に伝えたら、待っているのは自分の人生の終わり、そして家族の生活の終わりである。ただ単に逮捕されるだけではない。それまで荘園ということで興福寺の保護を受けることができていたのに、その保護が消えて大和国司源頼親の支配を受け入れなければならなくなる。
興福寺のやっかいな問題は、興福寺という存在が朝廷の命令をおとなしく従うような存在ではないということに行き着く。それも、武力行使だけではなく、現在でもつながるような運動を展開できる存在であったことに行き着く。
寛弘三(一〇〇六)年七月一二日、興福寺の定澄僧都が道長のもとを訪れた。
「明日より興福寺の者が大挙して京都に押し寄せます。蓮聖に対する裁定が正しく行なわれなかった場合、大挙して押し寄せた者が、こちら土御門殿や、大和国司である源頼親の邸宅あたりがどうなるかわかりません」
これは脅しであった。
ただし、この脅しに屈するような道長ではなかった。
「問題をしでかすとしたら不幸な結果を招くことになる。そなたが僧侶であり続けることもできないだろう」
完全な物別れである。
その後、興福寺の僧侶のうち、今回の騒動に関わっていなかった者も土御門殿にやってきて状況を伝えた。
「興福寺の率いる群衆が木幡山の大谷に集結しております。その数およそ二〇〇〇人はおります」
この進言は二〇〇〇人もの群衆が押し寄せたらどうなるかわからないという心配であるが、道長はその進言も笑い飛ばした。
「何も恐れることはない。やってきた場合はどうしてくれようか」
このあたりの発言は全て道長自身が御堂関白記に記している。当然ながら道長のプライベートに関わる問題なのでその他の記録に残っているわけはない。それに、道長の日記は後世の参考になるように記している。つまり、硬軟双方の脅しに対する対処法としてこのような台詞を口にしたと記しているわけである。
なお、興福寺からの先鞭隊は道長の元だけに押し寄せてきたわけではないと見え、翌七月一三日、合計一二名もの貴族が土御門殿にやってきて興福寺の僧侶達の襲撃を心配する声を述べている。
それに対して、道長は、「どうと言うことはない。内裏に行く」として、土御門殿にやってきた貴族たちを引き連れ内裏に向かった。
しかも内裏での議論で興福寺の者たちのことは議案に上がらなかった。
正確に言えば話し合いの対象となる予定であったのだが、「検非違使に命じて退散させよ」という、一条天皇からの勅命が下ったのである。こうなると議政官の議論が意味をなさなくなる。
寛弘三(一〇〇六)年七月一四日は一日中雨が降りしきり、京都に集ってきた興福寺の面々の動きも静かなものがあった。
ただし、この日の夜、道長は興福寺の面々に対して「帰れ」と命令している。
興福寺の代表者が土御門殿に呼び出されて突きつけられたのが、自分たちの要求を全く受け入れられないどころか、要求全否定という言葉であった。しかも、武人の警護する中に呼び出されての「帰れ」の命令である。恐怖に感じないとすればその方がおかしい。
この道長の脅迫に対し興福寺側は議論百出したが、道長が本気であること、武人に動員を掛けていること、いつでも検非違使を動かせる状態にあることを悟り、黙り込まざるを得なくなった。
ただし、興福寺からの要求を伝えることだけは譲らなかった。
七月一五日、興福寺から四ヵ条の要望書が提出された。
一つ目は、蓮聖の率いた群衆の起こした暴動に対する逮捕令状を取り下げること。
二つ目は、源頼親を大和国司から解任すること。
三つ目は、源頼親の部下で、このとき馬允として検非違使をサポートする役割であった当麻為頼を馬允から解任すること。興福寺の主導した群衆の前に立ちはだかる検非違使たちを指揮していたのが当麻為頼であった。
そして最後が、蓮聖の逮捕を取り下げること。
その全ての要求について道長は拒否した。暴動参加者の調査は続行する。源頼親は大和国司であり続ける。当麻為頼は馬允である。
なお、蓮聖の逮捕を取り下げることについては、現状のままでは取り下げるつもりはないが、正当な法手続に基づいて上申するなら、先例に基づいて議案にかけなければならないから、それだけは再考するとある。
もしここで興福寺の群衆が動き始めたら、日本史上初の民衆暴動として名を残すことになっていたであろうが、そのようなことは起こらなかった。
それは何も道長が果断な対応をしたからではない。
京都に詰めかけたはいいが、京都市民の支持が全く得られなかったからである。
興福寺側が暴れたために逮捕されようとしているのに、その逮捕が嫌だからと暴動を起こすることについて納得する京都市民は少なかった。多くの京都市民は、自分たちは苦しい生活をしながらも何とか税を納めているのに、興福寺の荘園の連中は旨いもの食べて良い暮らしをし、その上で免税の特権まで得ている。それでいながら自分が弱者だと訴える。この図々しさに辟易していたのだ。
それだけではない。興福寺の荘園の者にとって源頼親は憎むべき敵であったが、京都市民にとっては自分たちを守ってくれる清和源氏の一員なのだ。京都で暴れているのは興福寺をはじめとする寺院のほうであって、清和源氏の武士たちはその横暴から京都市民を守ってくれる存在だったのだ。
その自分たちの味方が、ワガママを貫いている興福寺の荘園の連中に鉄槌を下して喝采を浴びせていたところで沸き起こった興福寺の動員による暴動未遂。
それも、京都に勝手にやってきて、いきなり野宿をして、京都のために何かするでなく、それどころか京都市民に負担を掛けさせ、迷惑を掛け、それでいて自分たちの意見を朝廷は聞き入れろなどというのはムシの良すぎる話であった。
興福寺に対する有罪判決を受けて激高し、京都に詰めかけて運動を起こしてみようとしたら、自分たちのほうが京都市民の敵として認定されてしまった。迷惑がられ、近寄る者は少なく、気がつくと検非違使に取り囲まれている。現在の感覚で行くと機動隊に取り囲まれているだけでなく、多くの一般人が機動隊に声援を送り、機動隊の味方をしているのである。これで自分たちが正しいなどと思えるであろうか。
怒りに満ちた状態で京都に向かった興福寺の面々であったが、奈良への帰路については意気消沈したものであった。
道長による後継者育成は順調であった。
まず、長男の藤原頼通がついに正三位にまで昇格した。さすがに参議にさせてはいないが、一六歳での正三位は異例であった。
さらに五男の藤原教通も元服を済ませると同時に貴族入りしていた。
道長の男児だけでなく女児もまた順調であった。皇后定子亡きあと、皇后定子の生んだ三人の子を養う中宮彰子に一条天皇の関心が向かうようになり、さらに中宮彰子の教育係である紫式部の手によって中宮彰子の才覚も発揮しはじめてきていた。
一方、藤原頼通が元服する前は後継者筆頭と見なされていた藤原隆家であるが、頼通の登場に対して何らかの不満を述べているわけではない。
これには二つの理由が考えられる。
一つは、隆家自身が頼通までのつなぎであると自覚していたこと。道長に何かあって自分のもとに藤原氏の実権が転がりこんできたとしても道長を支える家臣団が一致団結して頼通を守り立てる。彼らは隆家が頼通に権力を譲るまでのつなぎに徹するならば何もしないが、その枠を越えたら何をするかわからない。それはついこの間の興福寺に対する処断でも明白である。
もう一つの理由であるが、未だ実績のない頼通が議政官でない正三位なのに対し、隆家は同じ正三位でも権中納言という役職にあること。この温情により道長への尊敬の念を抱いていたのである。
かつて花山法皇に弓を向けた過去がある者としては特筆すべき出世であるとするしかない。兄の伊周は大臣と大納言の間の地位であるという特別な宣旨を受けているが、そんな役職はないし、議政官の中でも兄は浮いている。誰も話しかける物はおらず、一人じっと黙って宮中で所在なく時間を浪費している。本来であればこれが犯罪者に与えられる当然の処罰であるところなのに、自分は権中納言になり、当たり前の議政官の一員として迎え入れられている。
自分を処罰したのは確かに道長である。だが、犯罪をしたのはまぎれもなく自分であり、道長はその犯罪に対して正当な処分を下したにすぎない。しかも、その道長が自分をここまで名誉回復してくれたのである。道長でなかったとしたらここまでの名誉回復は見込めなかったとしても良い。
隆家は、尊敬する道長とその後継者である頼通を支える家臣団の一人になると決意していたのである。その隆家が、頼通の登場に未来の希望を抱くことはあっても不満を持つことはなかった。
太宰府からその事件についての緊急連絡が京都に届いたのがいつのことかは残っていない。ただし、事件が起こったのは寛弘四(一〇〇七)年七月一日であることは判明している。
何が起こったのか?
大隅国司の菅野重忠が、太宰府で大蔵満高に弓で射殺されたというのである。
大蔵満高の父は太宰大監の大蔵種材である。大監(だいげん)というのは、現地登用の役人のトップの地位であり、それより上の地位の役人は京都から派遣されてくる者が就くことが決まっているので、大蔵種材は、太宰府生え抜きの役人たちがキャリアの頂点として目指している地位を獲得した者ということとなる。
いや、大監となると通常は五位以上の位階が与えられることとなっているから、現地登用の役人ではなく、太宰府に居を構える貴族であるとしても良い。
その地方貴族の息子が、京都から派遣されてきた大隅国司を殺害したのだ。これは異常事態とするしかない。
太宰府の都市機能が喪失したのは藤原純友の乱がきっかけであり、この頃にはもう、九州最大の都市の地位を博多に持って行かれていた。
とは言え、統治機能は太宰府にあり続けたのだ。博多のほうがいかに便利でも、太宰府が壊れていようとも、博多はビジネスの街であって政治の街ではない。現在の感覚でいくと、アメリカの経済の中心は何と言ってもニューヨークであるが、政治の中心はニューヨークから離れたワシントンDCにあるというところか。
近年の発掘調査により、藤原純友による破壊のあとで太宰府を再現しようとした痕跡が残っている。例えば、現在の太宰府跡に残っている礎石は藤原純友による破壊後の再建工事で設置されたものであることが判明している。
太宰府の復興は太宰府生え抜きの役人にとって最重要課題であった。一方、京都から派遣された者にとっての太宰府は、復興を考慮しなければならない要素ではあるものの最重要課題ではない。京都にとって最優先課題は九州の安定であり、太宰府は九州を構成する一要素でしかなかったのだ。
歴史を学べば学ぶほど痛感させられるのが、「なぜ中世が存在したのか」という点である。
中世という現象はヨーロッパだけに起こった現象ではなく、日本でも起こったし、古代ギリシャにも「ギリシャの中世」と呼ばれる時代があった。
それらに共通しているのが、中央巨大政権の崩壊と地方政権の誕生である。
と書くといかにもそれっぽいが、要は原始に戻ったのである。
文明が止まり、文化が止まり、生活水準が悪化し、その日を生きるのに精一杯になった時代、それが中世である。
大きな経済圏が失われて小さな自給自足経済で生きていかなければならなくなり、生活必需品の全てを小さな自給自足経済で用意しなければならなくなり、よく言えば独創的な、普通に考えればレベルの下がった製品しか手に入らない時代になったということである。
しかもここに戦争が加わる。小さな政権が周辺と争うことが日常になり、戦争が日常の光景となり、戦争をしないことの方が珍しくなる。戦争から身を守るために武人を小さな政権で抱えることが必要となり、武人を抱えるための税負担がのしかかる。
だが、誰もこんな世界を作ろうとして中世社会を作ったわけではない。それどころか、一つ一つのことはその時点での最良の選択と考えられた結果である。
中央は考える。地方のために中央は負担を引き受けているのだと。
地方は考える。自分たちの努力の成果が過剰な税として中央に吸い取られていると。
スタートはこのようなものなのだ。それが、「より少ない負担を求めて」という同じ目的でありながら互いが真逆な行動を起こし、地方が中央から独立してしまい、経済圏も小さなものになってしまった結果が中世である。
より少ない負担でのより豊かな暮らしを求めての行動であったのに、結果的により大きな負担で貧しい暮らしになってしまった。しかも、そうなったときにはもう取り返しのつかないところまで来ていた。
時代を寛弘四(一〇〇七)年七月に戻してみよう。
大隅国に派遣された国司の菅野重忠は日本全体のことを考えて行動していたはずである。一方、太宰府生え抜きの役人たちは太宰府のことを考えていたはずである。これが全国と地方との対立の瞬間である。
地方がより強い自治権を求める場合、そのスタートは、中央の求めることと地方の求めることとの違いであることが多い。寛弘四(一〇〇七)年七月時点だと、藤原純友の乱から五〇年以上経ってもなお復興が終わらない太宰府を嘆く者と、日本全体の安定を考えたために太宰府が現状のままでもやむを得ないと考える京都から派遣された役人との考えの違いはそう簡単に埋まるものではなかった。
史料に残っていないので推測するしかないのだが、太宰大監の大蔵種材は後に武人としても名を馳せるようになる人物である。また、大蔵種材の父である大蔵春実は藤原純友を最後まで追い詰めた武人として名を馳せた存在でもあった。つまり、九州を代表する武人であったわけである。中世の首領的存在の萌芽としてもよい。そして、本人ないしはその息子が、大隅国の事情を知らずに中央から派遣された大隅国司の菅野重忠と対立し、それが弓矢で射殺すという最悪の結果を招いたのであろう。
ただ単に仲が悪いとかというレベルで片付く話ではない。
権益を巡る争いという側面もあったろう。
しかし、現実を直視することなく行動する者にとっては、権益よりも大切なものがある。それが自らの信念。
京都の朝廷の意思を最優先にすべしとする信念と、地方の意見をくみ入れるべきであるとする信念との対立は、永遠の妥協点を見いだすことなく対立し続ける。
その対立が終わることがあるとすれば、それは一方の死しかない。
その対立の終わりかたを迎えてしまったのである。
寛弘四(一〇〇七)年七月二三日、因幡国の官人・百姓らが国司橘行平を訴えた。以前、解由状を出す出さないでもめていた因幡国の問題がこのような形で噴出したのだ。
ここもまた、京都から派遣された国司と、在地の実力者との対立が起こったわけである。
前任の因幡国司である藤原惟憲のときにこのような問題が起こらなかった理由として、藤原惟憲と在地の実力者が同じ悪事に手を染めていた共犯者同士であったからだとする考えがある。確かにこの要素もゼロでは無いだろう。
ただ、藤原惟憲が京都の意思ではなく因幡在地の有力者の意見を聞き入れていたというのもあるだろう。
忘れてはならないのは、藤原惟憲が道長の側近であったという点、そして、橘行平は数多くの国の国司を歴任してきた国司のプロフェッショナルであるという点である。
藤原惟憲が道長の側近としてキャリアを積んできた以上、藤原惟憲の統治方式も藤原道長の概念を受け継いだものとなる。一方、橘行平にそのようなものはない。
つまり、杓子定規の国司であった橘行平と、現実を受け入れる藤原惟憲という違いがあったのだ。行動が正義か悪かで判断するなら橘行平のほうが正義だと言えるが、結果で判断するならば、混乱をまき散らした橘行平のほうが悪で、藤原惟憲のほうが正義だと断言できる。
七月二三日に因幡国の者が国司橘行平を訴えた理由、それは、国司橘行平による殺人である。しかも、被害者は因幡介の因幡千兼である。ちなみに橘行平は因幡守、つまり因幡国の国司が二人いて、上司の側である橘行平が部下の側である因幡千兼を殺害したこととなる。本当かどうかは別として。
なぜ本当の事かどうか疑わしいのかというと、この頃に因幡千兼が死んだのは間違いないようなのだが、それが殺害によるものなのかどうか全くわからないのである。
因幡氏といえば宝亀二(七七一)年に、後に桓武天皇となる山部親王に仕え、その功績が認められて山部親王から因幡国造姓が与えられたところからはじまる因幡国の有力豪族である。
わかっているのは、その有力豪族がこの瞬間に滅亡したということだけである。
寛弘四(一〇〇七)年八月一一日、藤原道長が金峯山に参詣し金銅経筒を埋納した。
これだけならば左大臣藤原道長のレジャーなだけである。現在でも内閣総理大臣が夏休みをとるのはごく普通のことであり、そのごく普通のことが一〇〇〇年前にもあったというだけになる。
しかしここに冗談では済まない事情が存在していた。
このとき一つの噂が流れていたのである。
藤原伊周と隆家の兄弟が、藤原道長を暗殺しようと計画し、平致頼を派遣したという噂が立ったのだ。
平致頼と言えば、長徳四(九九八)年に伊勢国で同族の平維衡と争い、朝廷に出頭を命じられた武士である。しかも、平維衡はおとなしく出頭し、自らの非を認めたために位階は剥奪されず淡路国への配流に留まったのに対し、平致頼はなかなか出頭せず、出生後も最後まで非を認めなかったために、位階を剥奪され隠岐への配流となったという過去を持っている。
この時点では罪を許され位階も戻っていたが、素行の悪さは治っていなかった。相変わらず伊勢国に留まって物騒な存在としてあり続けていたのだ。
藤原道長が夏季休暇をとり金峯山に向かったのは八月二日。
そして、噂が流れたのが八月九日。
噂の主にされた藤原隆家は必死になってこの噂を打ち消そうとしたが、藤原伊周は何の反応も示していない。本当に暗殺を命じたのかもしれないし、もともとの性格がこのような場面でのことの重大さを理解しなかったせいなのかも知れない。
そして、肝心の平致頼は消息不明である。
京都に残る貴族たちはかなり慌てたようで、まずは道長の身の安全を確認しようと、八月一三日、頭中将であった源頼定が派遣された。現在のようにネットで常に最新情報を獲得できる時代であっても知りたい情報を常に獲得できるわけではない。ましてやこの時代の通信など考えるだけだけでも無意味な話である。いかに便りが無いのは無事な知らせとなどと言われようと、情報がやってこない以上、人を派遣して情報を集めさせるしかないのだ。
幸いにして、京都の貴族たちの心配は杞憂に終わった。八月一四日、道長が無事に京都に戻ってきたのである。道長は自分が暗殺されたという噂話が飛んでいることも知らなかった。日記に記してあるのも、八月二日から一二日間のこの休暇をどのように過ごしたかを記してあるだけで、身の危険を感じさせるものはどこにも無かった。
ちなみに、この旅について日記で記している点で興味深いのは、往復の道中で道長が歓待されたと同時に、明らかに歓待に要した以上の費用を旅の途中でばらまいていることである。人臣最高位者がやってくるとなるとさすがに道中の各地はかなり費用を掛けて歓待しなければならず、普通に考えればかなりの負担になったはずである。
道中の村や町では、当初こそ突然命じられた負担に対する不満が渦巻いたが、いざ道長がやってくると、田舎の村では体験できない豪華な催しが用意されただけでなく、その村の誰もが招待され、道長が京都から連れてきた最新の音楽と料理が振る舞われた。歓待する側のほうが逆に道長に歓待されたのである。この時代では高級品として滅多に庶民の口にすることの無かった酒も、道長とともに繰り広げられる主演で振る舞われた。
それだけでも夢物語のように感じたのだが、道長が通ったあとは大量の穀物と布地が置き土産として残された。貨幣経済の破綻したこの時代、穀物も布地も貨幣としての価値を持っている。最高の音楽と、料理と、酒だけでも感激した村人達は、さらに現金まで残されたことに信じられないという面持ちを隠せなかった。
京都に戻った道長は、戻ってきたという報告は済ませただけで、自分への暗殺という噂については一笑に付した。
隆家は相変わらず道長の側近の一人で有り続けたし、伊周も議政官の一人であり続けたのである。
道長暗殺の噂の現れた理由は全く根拠の無い話だったわけではない。
かつて、藤原伊周と隆家の二人が花山法皇を弓矢で狙ったという、既に追放という罰を受け、その罰をこなして宮中に復帰してもなお、忘れることのできない過去の話として残っていた。
その花山法皇がこの頃から体調を崩すようになっていたのだ。
花山法皇の命の危機ももまた噂の状態である。しかし、何の身の危険をかんじることなく京都に戻ってきた道長と違い、花山院に閉じこもったままでいる花山法皇の様子は京都市民の知るところではない。
現在、花山法皇がこのときガンに冒されていたことが判明している。ただし、どの部位がガンであったのかはわからない。
当然ながら、この時代にガンの除去手術などない。
だが、ガンという病気の存在は知っていた。
誰も助けようのない激痛、日々痩せこけていく身体、病気に対する知識の乏しいこの時代では、何者かの呪詛によるものであったと考えてしまいたくなる。
その何者かが噂の世界で藤原伊周や隆家になり、噂の世界における何者かのターゲットが花山法皇から藤原道長へと移っていったのである。
一方、花山法皇の容態悪化について、何らかのアクションを起こした者はいない。
花山院は相変わらず物騒な存在であり、近寄ろうとする者が極めて限られていたからである。
さすがに花山法皇の容態が冗談では済まないと判断したのか、それとも花山院が静かになったのか、花山法皇を見舞う者が次々と現れ、寛弘五(一〇〇八)年二月六日には藤原道長も見舞った。
道長の目にした花山法皇は、ガンの末期患者のそれであった。
死を誰もが覚悟し、花山法皇自身も覚悟していた。
翌二月七日、一条天皇自身が花山法皇への見舞いに足を運んだ。一条天皇が目の当たりにしたのは、かつての暴れ回っていた頃の花山法皇の面影の全くない病人の姿であった。
二月八日、藤原行成が花山法皇の元へ見舞いに訪れた。この頃既に花山法皇の容態は厳しくなっており、藤原行成は来るべき時が間もなく来ると覚悟した。
その来るべき時が来たのは藤原行成が見舞いから帰宅してからであった。
藤原行成は日記に花山法皇が亡くなったとだけ記しているが、藤原道長はさすがに左大臣だけあってこのときの状況を詳しく記している。
夜中にいきなり使者が藤原道長のもとにやってきたが、花山法皇の容態については道長もこの目で見ているので突然の訪問について道長は何の驚きも見せておらず、花山法皇が亡くなったという知らせを受けている。その後、一条天皇から遣わされた使者として藤原広業が道長の元を訪問し、花山法皇の死についていかに対応すべきかという相談を持ちかけられた。
夜が明けてからの道長の土御門殿は花山法皇の葬送に関する打ち合わせに終始することとなった。しかも、内裏となっている一条院と、道長の住む土御門殿とでそれぞれ葬送に対する協議をし、その間を使者が往復するという光景である。その役目を引き受けることとなった藤原広業は土御門殿と一条院とを何往復もしなければならなかったわけであり、かなり疲弊させられたであろう。距離だけで言えば、現在の東京で言うとお茶の水と秋葉原との間の距離ぐらいであるから往復できなくはない距離ではあるが、この日は暴風雪の吹き荒れる一日であったことを踏まえると、往復する役目を背負った藤原広業には同情させられる。
寛弘五(一〇〇八)年二月二七日、尾張国の郡司・百姓らが尾張守藤原中清を訴えるという事件があった。
またである。
尾張国という場所は国司を訴えるのが年中行事に加わっていると言いたくなるほど、ちょっとでも何かあるとすぐに国司が訴えられる宿命を持っている。一見するととんでもないクレーマーが尾張国内でとんでもない権力を持っていたとさえ言えるが、そう甘いものではない。
国司が何かしらのミスをしたというのであれば訴えも当然であるが、どうもその限度を超えているとしか思えないケースもあったのではないかと推測するしかない。尾張国の領民が自らの負担に対する強い拒否反応を示すだけの何かがあったのではないかとするしかないのだ。
訴えの手続きそのものは何の問題も無い。正当な手順で正当な書式による訴えである。ゆえに審議が必要なのだが、この審議に対して思わぬところから横やりが入った。
一条天皇である。
訴えの内容は尾張国司に伝えるから、訴え出た者はただちに尾張国に帰るようにという命令である。その上で、一条天皇は上奏文を道長に渡し、訴えの内容を全て吟味した上で内容を尾張国司に伝えるよう命じた。
その吟味した結果が訴えた者の意に沿うかどうかはわからない。
だが、一条天皇の命令によって吟味した結果なのである。これで文句を言うわけにはいかない。
それにしてもどうして尾張国ではここまで尾張国司と対立するのが日常化するようになったのであろうか。
ここで気になるのが尾張国推定人口の推移である。平安時代初期の推定人口は五万五四〇〇人、それが一〇〇年後には八万六六〇〇人に増えている。他の国の推定人口は横ばいかむしろ減っているケースが多いのに、尾張国は一〇〇年間で一・五倍に増えている。この人口の増え方は異常だ。
ただし、その原因を簡単に見いだせる視点がある。
荘園の増大だ。
尾張国に大量に荘園が建設されたことで人口が増え、荘園が力を持つようになり国司に抵抗する勢力が形成されたのだ。
尾張国とともに現在の愛知県を構成する三河国と比較するとおもしろい結果が見られる。平安時代初期の時点では尾張国と三河国の人口に大きな違いは無かった。誤差の範囲で三河国のほうが多かったほどである。
ところが、この一〇〇年間で尾張国と三河国の人口に大きな開きが現れた。尾張国が一・五倍へと人口を増やしたのに対し、三河国は人口減少社会に突入したのである。自然減もあるだろうが、三河国から尾張国への人口流入もあったのだ。
尾張国への人口流入は三河国だけではない。尾張の北にある美濃国もまた尾張国への人口流入が止まらない国の一つであった。
荘園は三河国にも美濃国にもある。それなのにどうして尾張国の荘園だけ特別になったのか。どうして多くの人を周辺から呼び寄せることができるようになったのか。
荘園のもたらす減税の効果が強かったからというしかない。三河国の荘園よりも尾張国の荘園のほうがより減税の恩恵を受けやすいと考えられるのだ。おまけに、面積当たりの収穫は尾張のほうが多いためより豊かな暮らしをしやすくなる。
先に平安時代初期の人口は尾張国と三河国とでほぼ同じであったと記したが、同様にほぼ同じであったのが作付面積である。それが一〇〇年間で作付面積でも大きな差が生まれるようになった。尾張国は一・七五倍に増えたのに対し、三河国は確かに増加したものの一・〇三倍の増加でしかない。人口増加を上回る作付面積の増大があれば、耕作者を求める動きだって当然強まる。
荘園というのは農業だけを行なう存在ではない。一つの閉ざされた経済組織であり、荘園内部で最低限の生活必需品が手に入る。尾張国では荘園が次から次へと増えてきており、荘園の従業員が人手不足を起こしていたのである。
荘園というものは、現在の感覚で考えると地域を支える中規模企業であり、荘園で働く人はその中規模企業で働く会社員である。会社員と考えるのであれば、人が移動するのはとてもわかりやすい。月収も安く不安定な身分である派遣社員に対し、今と同じ仕事をしてもらった上で住まいを用意し、月収手取り三〇万円で正社員としての待遇を約束するから尾張国の荘園に来ないかという誘いがあったら、普通に考えれば尾張国に流れて行くであろう。
尾張国に住む人はただでさえ人手不足であるところに加え、移動の自由を数多く経験している。つまり、自分の意見を強く持てるようになったのだ。
この状態で京都からやってきた国司が尾張国の状況を無視して税を課そうとした場合、反発を喰らうことは予想に難くない。請われてわざわざ尾張にやってきて、尾張でこれまでうまくやってきたのに、いきなり何のメリットもない赤の他人からの負担要求を素直に受け入れられるであろうか。
何度も述べていることであるが、不景気のときは増税し、好景気のときは減税しなければならない。そして、この時の尾張国は好景気にあったのである。ここで増税を課すことは強い反発を招くだけでなく、経済を冷え込ませてしまう原因にもなるのだ。
尾張は景気が良いが、日本全体で見ると好景気とは言いづらい状態である。だから一条天皇は尾張国に負担を求めようとする。それが日本全体のためである。
一方、尾張の荘園に住む者にとっては自分たちの努力で作ってきたこれまでの暮らしであり、御も義理もない京都のために費やす負担はコメ一粒たりともないと考える。
この考えもまた、日本の中世化への第一歩に連なるものであった。
寛弘四(一〇〇七)年七月に、大隅国司である菅野重忠が、太宰大監である大蔵種材の息子の大蔵光高に射殺されたことはすでに記した。
ところがどういうわけか、そのニュースが京都で話題となるのは寛弘四(一〇〇七)年の年末になってから、朝廷で話し合われるようになったのが寛弘五(一〇〇八)年五月になってからという遅さである。
その上、犯人が逮捕され京都に連行されてきたのが、この年の一一月一四日という遅さである。事件発生から一年四ヶ月を経てやっとここまできたのだ。
そして、この逮捕され連行されてきた犯人を見て、京都の人はみな驚いた。
ニュースによれば、実行犯は太宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高のはずである。
だが、実際に連行されてきたのは太宰大監大蔵種材その人なのだ。
太宰府生え抜きで京都と縁のない人物であると言っても、さすがに貴族にカウントされる人物とあっては他の者と一緒に牢獄に入れるわけにはいかない。現在ではたとえ国会議員であろうと犯罪を犯して収監されるときは差別も特別扱いもされないが、この時代の貴族は特別扱いなのである。
ゆえに牢獄ではなく大内裏の中にある弓場殿が収監場所となった。宮殿内にある弓矢の練習場だ。弓矢を使って殺人をした者を弓矢の練習場に収監するのは奇妙な感じもするが、弓矢という危険なものを扱う建物である以上、他の建物より堅牢で、安全管理面も他の建物より優れていたのであろう。
さて、殺人事件の犯人として、容疑者ではなく容疑者の父親が連行されてきたわけであるが、実行犯でない以上、当然ながら自らの無実を訴える。かといって、太宰府から送られてきた犯人はこの人なのだ。
大蔵種材は自分が犯人ではないと訴え、太宰府の判決が間違っていたと主張する。現在でも地裁から高裁を経て最高裁にまでもつれる裁判があるが、このときの大蔵種材も最高裁までもつれ込んだと一緒であった。太宰府という高等裁判所の判決が間違っているから、京都という最高裁判所で最終決着してくれというのが大蔵種材の訴えであった。
しかも、大蔵種材は誰が真犯人なのかを完全に黙秘した。誰が犯人なのかはノーコメントで通し、自らの殺人容疑についての否定だけをし続けたのである。
ところで、ここで源氏物語の世界に足を踏み入れてみると、おもしろい人物が浮かび上がってくる。所詮は小説の登場人物でしかないのだが、太宰大監である大蔵種材をモデルとしたとしか思えない人物が出てくるのだ。
源氏物語第二二帖「玉鬘」に登場する「大夫監(たゆうのげん)」である。
「玉鬘」で、夕顔亡きあと、乳母に育てられることとなった夕顔の娘である玉鬘が、乳母の夫が太宰府に赴任することとなったため九州に渡ったのち、乳母の夫が九州の地で亡くなってしまい京都に戻れなくなったという場面で、「京都からやってきた身分の高い美しい女性」として九州の地で評判となった玉鬘にしつこくつめよる求愛者として、大夫監は以下の通りに描かれている。
役職名に「監」とあることからわかるとおり太宰府につとめる者の中で現地生え抜きのトップクラスの権力を持っている。
九州の肥後国において絶大な権限を持っている。
肥後国においては神や仏も大夫監にはかなわない。
他の求婚者が玉鬘をあきらめているのに、大夫監だけは諦めることなくしつこく食い下がる。
「玉鬘」は、しつこく食い下がる大夫監から逃れて、玉鬘はめでたく京都に帰れましたとさ、めでたし、めでたしとなっているが、源氏物語のこのエピソードを読んだ当時の読者は、例外なく太宰大監である大蔵種材のことを、物語に出てくる大夫監と捉えたであろう。
源氏物語の大夫監は、玉鬘が京都に帰ってからの話に登場してこない。唯一の例外が源氏物語第二五帖「蛍」の回想シーンだけである。つまり、源氏物語に描かれている限りにおいて、大夫監は九州の地から一歩も出ない人物であり、大蔵種材のように京都に姿を見せてはいない。
そして、現実の大蔵種材もまた、本質的には九州に留まり続ける人物であった。収監されてから半年後、証拠不充分として釈放された大蔵種材はただちに九州に帰っているのである。理由はどうあれ、無罪となって釈放された以上、京都在住の貴族となったのだから京都でよりいっそうの出世を目指すこともできたはずなのに、そのような試みは全く見せていない。
中宮彰子が一条天皇のもとに入内したのが長保元年(九九九)の一一月。そのとき藤原彰子はわずか一二歳であった。
それからおよそ九年の月日を経た寛弘五年(一〇〇八)九月一一日、二一歳になった中宮彰子がついに、第二皇子となる敦成親王を産んだのである。
道長は宿願を果たしたと言ってもよい。ついに我が孫が天皇の息子として生まれたのである。皇位継承権筆頭皇子の誕生であり、道長政権のさらなる安定を約束するものであった。
道長の喜びようは尋常ではなく、敦成親王の五〇日の儀の宴席は当時の主な貴族が集結する大祝宴となったのである。
皇子誕生から五〇日の儀自体は珍しいものではないが、この大祝宴は日本文学史において絶対に切り捨てることのできない祝宴となった。
寛弘五(一〇〇八)年一一月一日のこの祝宴において、源氏物語の存在が歴史上はじめて確認されたのである。
国家行事でもある祝宴とあって日本国を形成する主な貴族が集結したのだが、紫式部が「紫式部日記」に書いてくれている光景を見る限り、身分の高い人たちであるということ以外、現在の居酒屋で見られる光景と同じであるとしか思えない乱痴気ぶりであった。
左大臣藤原道長は酔っぱらって紫式部に和歌を詠むようすすめてきた。これなど、部下の女性にカラオケを強要する男性上司と何ら変わらない。
右大臣藤原顕光は人に絡まなかったが、モノに絡んだ。布製の家具のほころんでいるところを破いていたのである。酔ってテーブルの上にある布巾や箸置きをいじり出す者がいるが、それと同じである。さすがに家具を壊されてはかなわないと、右大臣藤原顕光をたしなめる女官がいたが、今度はその女官に絡んで下品な言葉を口にする始末。タチが悪い。
内大臣藤原公季はどうか? この人は泣き上戸だった。何の前触れもなく泣き出したまま収拾がつかなくなっていた。まあ、やっかいではあるが、他人に絡まないだけマシだろう。
権中納言藤原隆家は一人の女性に絡んでいた。腕を掴んで離さず、無理矢理離したら今度は服にしがみつく始末。現在でも酒の勢いで女性にからみつくスケベがいるが、それと一緒だった。
権大納言藤原実資は、女性の衣服の裾を掴んで、何枚の重ね着をしているのか数えていたというが、恐ろしいことに、この藤原実資がもっともマシだったと紫式部は記している。まあ、紫式部という女性は才女であるが、悪口の度合いも甚だしいからいくらか割り引かなければならないが。
その、皆が酔い乱れている中で一番マシだという藤原実資に紫式部が話しかけたところ、中納言藤原公任が割り込んできた。
そのときの藤原公任の一言が、源氏物語についてのもっとも古い証拠である。
「申し訳ありません。このあたりに若紫はおりませんか」と。
「若紫」と言えば、源氏物語の最大のヒロイン「紫の上」の若かりし頃の呼び名である。藤原公任は源氏物語の作者に向かって作品のヒロインをきっかけにして話しかけてきたのだ。
それに対し紫式部は何も答えなかった。ただ、こう答えてやれば良かったのにと紫式部日記の中で毒づいている。
「光源氏になれるような素晴らしい殿方もいないのに、紫の上だけが来るわけないでしょうに」と。
それにしても、これが日本文学史上最高傑作である源氏物語が初めて確認できたときの記録なのである。人間らしいと言えば人間らしい瞬間であるが、みっともないと言えばみっともない。
このときのやりとりで明らかになるのが、この時点で既に源氏物語が広く宮中で読まれる作品になっていたということである。ただし、完成していたとは考えられていない。源氏物語五四帖のうちの何帖かがこの時点で公表されていたであろうということしかわからないのである。
現在ならば何年何月何日に発売開始になった本なのかわかるが、この当時はいつ公開されるようになった作品なのかわからないのが普通であった。ある日突然物語が登場し、色々な人の手で書き写されて広まっていく。そして、優れた作品はより多くの人の手を経て広まっていく。
源氏物語が一〇〇〇年の時を超えて今なお残っているのは、発表当時それだけ多くの人に愛されたからである。発表時に評判を呼んだから写本も多く出回り、数多くの本が誕生したから現在も残る作品となった。
古典作品が多くの人の興味を引きつけるのは、古いからではない。作品そのものが面白いからである。
それにしても源氏物語で興味深いのが、藤原氏全盛のこの時代に、藤原氏ではなく源氏を主人公とする物語を記したことである。しかも、その源氏が藤原氏を想像させる貴族たちに打ち勝って栄華を極める作品を記したのだ。
普通なら、時代に迎合して藤原氏を主人公とする作品を記すところである。何しろ読者として想定される人の多くが藤原氏であり、他ならぬ紫式部自身も藤原氏である。にも関わらず、この時代の敗者である源氏を主人公とする物語を記し、藤原氏を想定させるライバルを登場させておきながら、その作品が藤原氏たちに受け入れられたのである。
単にフィクションだからというだけで説明づけられるであろうか。源氏物語はたしかにフィクションだが、この時代に誕生した文学作品の中にはノンフィクションも数多く存在する。そして、それらの作品に出てくる藤原氏は作者から容赦ない批判を受けている。フィクションだから許されるというのであれば、ノンフィクションが許されていることについての説明にならない。
あるいはこういう説明はどうか。
源氏物語の出だしは「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」となっており、紫式部はこの小説が昔の話であるとしている。研究者によると、この時代からおよそ一〇〇年前、菅原道真の頃の時代を想定して記された作品であるとしており、この時代の人たちも少し昔のことと考えて作品を楽しんだのであろう。
昔のことだから藤原ではなく源氏としても問題なかったとする人がいる。
ただ、一〇〇年前だって藤原氏は勢力を持っていたのだ。いや、それ以前からずっと勢力を持ち続けていたのだ。
ここは、昔のことだから何でも許される、あるいは、小説というフィクションの世界だから何でも許される、そういう概念を捨てた方がいい。
そうではなく、藤原道長という人は言論弾圧をいっさいしない人だったのだ。そして、言論弾圧を認めないという雰囲気を藤原氏全体が持つようになっていたのだ。どのような言論であろうと、それが自分や藤原氏全体に対する容赦ない批判であろうと、その発言を取り締まることはしなかったし、自分の敵であろうと許したのである。どうしてかと言われても、それが藤原道長という人であり、この時代の雰囲気なのだとしか説明できない。
寛弘六(一〇〇九)年一月三日、皇太子居貞親王のもとを二人の貴族が訪れようとしていた。
一人は権中納言藤原斉信、そしてもう一人は、今や誰もが認める藤原道長の後継者である藤原頼通。この二人が皇太子の元を訪問したのである。
これだけならば特筆することなど何もない。特に藤原頼通はこのとき春宮権大夫、つまり、皇太子居貞親王の身の回りの世話をする役目を背負っている。その頼通が勤務先とも言える皇太子のもとを訪問するのは何らおかしなことではない。
ところが、牛車のルートが問題であった。右大臣藤原顕光の住む「堀河院」の前を通り過ぎたのである。
この時代のマナーとして、たとえ大臣であろうとの他の貴族の邸宅の前を牛車に乗ったまま通り過ぎてはならないというものがあった。もともとは「通り過ぎてはならない」であったのだが、どの貴族の邸宅の前を通ることもなく目的地にたどり着ける者がいたとすれば、それは、目的地と自宅との間に貴族の邸宅が無い者だけである。
そのため、ルールが緩和されていた。
邸宅の前を通り過ぎるときに牛車から降りて歩くなら問題ないというルールである。
もし牛車に乗ったまま通り過ぎようとしたら、その邸宅に住む者から容赦ない投石を受けること間違いなしであった。
そして、このときの藤原頼通は投石を食らったのである。無論、右大臣藤原顕光本人が石を投げつけてきたわけではなく、石を投げてきたのは藤原顕光に仕える武士たちであるが、右大臣の家臣が、今をときめく左大臣藤原道長の後継者の乗った牛車に向かって石の嵐を降り注いだのだ。
これで問題にならない方がおかしい。
藤原道長の住まいである土御門殿は平安京の東端にあるだけでなく、その周囲を貴族の邸宅に囲まれている。つまり、貴族の邸宅の前を通ることなくどこかに赴くなどできるわけない話である。
しかし、この頃の道長が石の嵐を食らったという記録はない。
当然だろう。誰が左大臣の乗った牛車に向かって石を投げつけるというのか。しかも、藤原道長はただの左大臣ではない。この日本国を自由自在に操れるだけの権威を持った権力者であり、源頼光をはじめとする武士団を率いてもいる。投石などしようものなら、生きていられれば牢獄行き、宋でなければあの世行きだ。
おそらく、藤原頼通は父のこうした姿を見て育ってきたのであろう。他の貴族は牛車から降りても、自分は牛車から降りなくていい特別な貴族なのだ、と。
ところが、それは父の威光によるものだとこのとき否応なく悟らされることとなった。
問題になったが、道長は右大臣藤原顕光の行為の方が正しいとし、牛車から降りずに通り過ぎようとした息子の頼通の方がマナー違反をしたのだとしたのだ。そして、父として息子の不品行を右大臣に詫びたのである。
寛弘六(一〇〇九)年一月七日、藤原伊周が正二位に昇格した。これで位階においては藤原道長に並んだこととなるのであるが、伊周は、大納言の上、大臣の下という微妙な立ち位置であることに変わりはなく、公的地位も「元内大臣」しかなかった。
位階の昇格自体はもはや道長ですら止められるものではなかった。正当な評価を下すために人事のインフレを起こすのはやむを得ぬことと諦めの気持ちも抱いていたようなのである。その道長にも絶対に譲れない一点があった。正二位左大臣である藤原道長がトップであり、道長より上の役職の者も、上の位階の者も認めないという一点である。
位階が並ぶのはやむを得ぬこととしていた。大臣クラスである正二位が何人もいるのはこれまでにも何度もあったことである。その代わり、誰一人として一位に昇格するのを認めなかった。かつては複数人いた従一位はこの時代誰もいない。ちなみに、正一位は死者への称号であると認識されていて、生前に授与されるという例はなかった。
何もしていない伊周が正二位であることに不満を持つ者もいたが、伊周は大納言より上とされている。つまり、大納言である者にある程度の位階を与えるためには、大納言より上である伊周を正二位にするしかなかったのだ。
理屈は理解できた。理解できたが納得はできなかった者が多く現れた。
その結果何が起こったか?
藤原伊周に呪いの噂が降って沸いたのである。
寛弘六(一〇〇九)年二月二〇日、中宮彰子と敦成親王を呪詛したとして、藤原伊周が内裏追放となったのだ。
一年半前の道長暗殺計画が本当のことであったのか今となってはわからないのと同様、このときの呪詛も本当のことかどうかわからない。ただ、現在と違い、呪いというものを迷信と一笑に付す人間は少なかったし、呪いの証拠などいくらでも捏造できた。
おまけに、藤原伊周には過去二回、呪いに関する噂を生んでいる。一度目は長徳元(九九五)年八月一〇日、伊周本人ではなく義父である高階成忠が、それも高階成忠が直接呪ったのではなく陰陽師に呪わせたという噂である。そして二度目は長徳二(九九六)年四月一日、花山法皇襲撃事件の延長上で藤原伊周が勝手に太元帥法を行なっているという密告があった。
このような過去を持っているだけでなく、友人も少なく、人付き合いも少なく、陰気で何をするかわからないと思われている藤原伊周のことである。おまけに一年半前には藤原道長を暗殺しようとしたとされている。こうなると呪いという噂が立っても誰も不審に思わない。
もっとも、証拠不充分であることに違いはなく、伊周の呪いの噂はは二ヶ月後に公式に否定され、四ヶ月後の六月には内裏に復帰している。
内裏から追放された者がいる一方で、内裏の中央に姿を見せるようになった人物がいる。
一八歳の藤原頼通である。
寛弘六(一〇〇九)年三月四日、藤原頼通が参議を経験することなく権中納言になったのだ。
藤原道長の息子の教育は、実地訓練最優先で理論はない。
普通の藤原氏は勧学院に通い、教養を積んで、大学出の学者と匹敵する学力を身につけてから政界入りする。しかし、摂政や関白の子供となると途中過程を飛ばしていきなり貴族の一員となる。藤原頼通は当然のことながら途中過程を飛ばしての貴族入りであった。
頼通の性格を考えると果たして正しかったのかと考えてしまうが、当時はこれが最良の手順と考えられてきた。少なくとも藤原忠平以後の藤原氏の摂政や関白は、勧学院で学ぶこともなく統治者としての実地訓練を最前線で積むことで後継者となることが期待されていたし、これまでの面々はその期待に応えてきたのである。道長のこのときの行動も先例に則ったまでのことで特に不可解な行動ではない。
それに、道長は息子のサポートのための人事体制を整えた上での議政官入りを用意したのである。
同日、後に藤原頼通が師と仰ぐこととなる藤原実資が大納言に昇格。
また、プライベートで頼通を支えることが多く、牛車に乗ったまま右大臣の邸宅前を通り過ぎたことで頼通と一緒に石の嵐を喰らった藤原斉信が権大納言に昇格。
かつては道長と比べられるほどの存在でありながらこのときは道長のブレインの一人と目されるようになっていた藤原公任も同じく権大納言に昇格。
かつては兄とともに道長の敵と認識されながら、今では道長を武で支える立場になっている藤原隆家が中納言に就任。
一条天皇の信任も厚く、道長からも有能さを評価されていた藤原行成が権大納言に就任。
今ここで道長に何かあったとしても、公私ともに信頼できる者が頼通の周囲を固めるように配慮した上での頼通の議政官デビューを用意したのだ。
さらに、頼通が何かあったとしても問題がないよう、寛弘六(一〇〇九)年三月二〇日、頼通の同母弟である藤原教通を左近衛中将に任命した。頼通に何かあったときの藤原氏はこの一四歳の若者が継ぐと宣言したのである。
藤原頼通は道長の長男である。頼通の母である源倫子は男の子を二人、頼通と教通の二人の男児を産んでおり、上の子の頼通と下の子の教通の年齢差は四歳である。
ところが、ここがややこしい話で、教通は道長の五男なのだ。
どういうことかというと、道長のもう一人の妻である源明子が男の子を三年連続で産んでおり、頼通と教通の間に、次男頼宗、三男顕信、四男能信と三人の男児がいるのである。
その三人の男児について、道長は自分の子であることは認めていても、後継者としての教育を何ら施していない。後継者は頼通、頼通に何かあった場合は教通が後継者であり、源明子との間に生まれた三人の子は、頼通と教通の二人を支える貴族になることは期待されていても、藤原氏を継ぐことは期待されていなかったのである。
道長のこの思いは後に藤原氏を大きく揺るがすこととなるのだが、頼通の教育と同様にこの時点では特に問題ないと思われていた。
なお、源明子との間に生まれた三人の子のうち、四男能信が後継者候補から外された理由については、母親の違いだけではないと思われるエピソードが残っている。
時代は少し飛んで長和二(一〇一三)年二月三〇日、このとき一九歳に成長していた藤原能信についてのエピソードである。ちなみに、平安時代は二月にも三〇日はあり、この記載は間違いではない。
その日は石清水八幡宮の祭礼の日であり、この時代の数少ない娯楽として、朝廷から派遣される石清水八幡宮への奉幣勅使の行列を見物しようと街道は人で埋め尽くされていた。それは庶民に限らず貴族でも同じで、違いがあるとすれば庶民と違って牛車の中から見物していたことぐらいである。
その貴族たちの牛車の集うエリアにやってきたのが藤原能信の乗った牛車である。
この時代の常識では、先に着て場所を確保していようが、偉い人がやってきたら場所を譲らねばならない。もっとも、その偉い人の許可を得ることができれば、場所を譲って遠くまでいくのではなく、スペースを空けるだけで近くで見物することが許される。現在からすれば不条理だが、それがこの時代のルールであった。
いかに一九歳の若者とは言え、かの藤原道長の実の子である。貴族たちは若造としか言いようのない藤原能信に許可を求めようとした。
普通なら、手順に沿った許可の求めかたである以上、断る理由にはならない。ところが、藤原能信は断るだけではなく、藤原能信の部下たちによって、まず大中臣輔親と源懐信の二人を牛車から引きずり降ろした。多くの見物客がいる前のこの狼藉に騒然となった。この時代の貴族にとって、牛車から引きずり出されるというのは恥辱以外の何物でもない。しかも、衆人環視の元での所行である。
これを見た藤原為盛と高階成順は牛車から逃げ出して自分の足で走って逃げていった。牛車から引きずりおろされるのも恥辱であるが、自分で降りて走って逃げるというのも充分に恥辱である。
藤原景斉、源兼澄、藤原為盛の三人は牛車に閉じこもって抵抗しようとした。抵抗しようとしたが藤原能信の部下たちから容赦ない投石を受けただけでなく、藤原景斉に至っては藤原能信の部下たちによって牛車から引きずり降ろされ、藤原能信の部下たちから殴る蹴るの暴行を受けたのである。
この騒ぎで駆けつけた検非違使によって藤原能信の部下の一人が逮捕されたが、藤原能信は知らぬ存ぜぬを通し無罪放免になった。
だが、この騒ぎによって、道長がどうして藤原能信を後継者候補から外したのか多くの人が理解するところとなった。
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