欠けたる望月 6.道長の死

 右大臣藤原実資の生み出した冤罪事件の噂が京都市民の間を駆け巡ったのは万寿四(一〇二七)年五月まで。六月になるとそれよりもはるかに大きな噂が京都市民の間を駆け巡ることとなった。

 法成寺の藤原道長がいよいよ危ないという噂である。

 たしかに、ときおり見かける法成寺の藤原道長は糖尿病に冒されている姿以外の何物でもない。兄の藤原隆家がそうであったように、また、伯父の藤原伊尹がそうであったように、だんだんと痩せてきて、いや、やつれてきて、やたらと水を飲むようになり、視力がだんだんと失われてきていた。

 現在の医学は、このときの藤原道長を糖尿病であったと断定している。ただし、俗に言われているように贅沢三昧の末に糖尿病になったのではなく、遺伝による先天的な腎臓障害であったと考えられている。

 伯父がどのように亡くなったか、兄がどのように亡くなったかを知っている人たちは、来るべきときが藤原道長にも来てしまったのだと感じた。そして、その感覚は正解だった。

 その感覚を抱いたのは市井の民衆だけではない。藤原道長自身が自分の命が間もなく終わることを直視させられていた。

 医師のエリザベス・キューブラー・ロス氏の著書「死ぬ瞬間」によると、自らの死が迫ってきたとき、人は五つの段階を経るという。

 「自分に限ってそんなことはない」という「否認」。

 「どうして自分がこんな目に合わなければならないのか」という「怒り」。

 「何とかして助かる方法はないか」と模索するようになる「取引」。

 「何を試しても無駄だった」と諦めるようになる「抑鬱」。

 「死を受け入れるしかない」と悟る「受容」。

 よく、「これを食べたらガンが治りました」とか、「この神様に祈ったら命が助かりました」とかいう宣伝文句で近寄ってくるのがいるが、こうした詐欺は、先に述べた五段階のうち、怒りの段階から取引の段階の期間にかけて見られることである。つまり、死を認めざるを得なくなっているが、どうにかして助かる方法があるはずだと考えるているところに付け込んでいるわけである。

 この頃の道長はまさに、怒りの段階から取引の段階に移っているところであった。

 藤原実資の日記によると、この頃の藤原道長の仏教への傾倒が甚だしくなっているのが読み取れる。仏像を作らせては法成寺に安置させ、仏像を安置しては祈らせ、祈りが終われば次の仏像を作らせている。

 道長にとっては命を長らえさせるための行動であり、求めている結果は健康の回復であったが、周囲の人にとっては命がいよいよ終わりに近づいていると意識させるだけであった。

 弱る一方であった藤原道長に追い打ちをかける出来事が起こったのが万寿四(一〇二七)年九月のことである。

 三条天皇に嫁いだ道長の娘の妍子は、女児を産んだことはあるものの、一度も男児を生むことなく結婚生活を終えた女性であった。それでもただ一人の子である禎子内親王が東宮敦良親王のもとに嫁いだことで、女系ではあるが道長の血筋と皇族とのつながりを保つという一点だけは維持できた。

 三条上皇の退位後も枇杷殿での三条上皇との暮らしを続けていたが、皇太后となった妍子の婚姻生活は三条上皇の薨去によって終わりを迎えた。

 それでも妍子皇太后は枇杷殿に住み続けており、道長とはある程度の距離を置いていた。より正確に言えば兄である藤原頼道との関係が良くなかった。すでに何度も述べてきたことであるが、藤原頼通という人は真面目な人である。一方、妍子皇太后は真面目さと遠い女性であった。道長の娘の中でも飛び抜けて美しく、また、妍子自身も、周囲に仕える女性たちも、この時代の流行の最先端を生み出している存在であった。これが頼通の反発を生んだ。

 真面目な人間によくあることであるが、藤原頼通のような真面目な人間は不真面目な人間に心を開かない。「常識」と考えていることと違うことをすると反発するのが真面目な人間である。

 学生時代を思い出していただくと、こういう同級生がいなかったであろうか?

 校則を真面目に守るし、成績も非常に良い。しかし、イケてない。教師からの評判は良いが、イケている異性から嫌われている。卑近な書き方をしたが、藤原頼通はこのイケてない真面目な生徒であり、藤原妍子はイケている女子である。この二人は兄と妹だから接点があるが、そうでなければまず接点は生まれないであろう関係である。

 道長はもともと真面目な人間ではなかった。そのためか、妍子の行動に関して苦言を呈すことはなかった。ただし、息子を生まなかったことについては失望していたようであった。妍子もこのことは理解しており、娘しか生むことができなかった自分は父の求めを叶えることができなかった、ひいては、この時代の女性の最高の成功を収めたわけではなかったという負い目があった。

 気の合わない兄に頼るつもりになれなかったのか、それとも、最高の成功を手にできなかった悔しさからか、父や兄との関係を絶っていたのである。

 その妍子皇太后が枇杷殿を出たのが万寿四(一〇二七)年九月のこと。その理由は、出家。それも、自らの命の終わりを悟った上での出家である。

 枇杷殿を出たと聞いた藤原道長は娘との再会に希望を持ったようであったが、目の前に現れた娘の姿は、いつ命を落としてもおかしくない病人の姿であった。

 万寿四(一〇二七)年九月一四日、妍子皇太后死去。享年三四。

 娘の死を目の当たりにした藤原道長は「仏様はなんと辛い仕打ちをされるのか。この年齢まで生き長らえさせてもらってきたが、まさか、このような目にあうことになろうとは」と叫び、「老いた父母を残してどうして旅立つのか。私たちも一緒に連れて行ってくれ」と嘆き悲しんだ。

 娘の死、そして、否応なく直面せざるを得なくなった自らの命。

 万寿四(一〇二七)年一〇月になると、道長の体調回復を考えること自体が愚かなことと思われるまでになった。この頃になると平安京の内外で道長死亡説が公然と語られるようになり、その噂を耳にした道長が、自分のことを死者として扱われていることに腹を立てることも日常になった。

 一〇月末になると激しい下痢に襲われるようになり、月が変わって一一月になると自ら用を済ませることもできなくなり失禁状態になった。

 朝廷としてできることは限られていた。万寿四(一〇二七)年一一月一三日には藤原道長の病状からの回復を願っての非常赦を実施した。また、一一月二六日には後一条天皇が法成寺に行幸して藤原道長を見舞った。無論、それでどうにかなることはなかった。

 さらに、道長の背中に大きなコブができ、一一月の終わりにはその大きさが女性のおっぱいのようになった。一二月二日には医者がコブを治療しようとコブに針を刺して膿を抜こうとしたが、血と膿の混ざった液体が少し出ただけで効果がなかった。

 針を刺しても何もならなかったことを知った道長は、仏像に奇跡を祈るようになった。赤、青、白、黒、黄色の五色の糸を、一方は自分の手の五本の指に、もう一方は法成寺の九体の阿弥陀如来像の手に結びつけ、北枕で横になり、浄土があるとされていた西に顔を向いて横になった。それで奇跡が起こるはずもなかったが、道長はさらに奇跡を起こすようにと、天台宗の座主を呼びよせて念仏を唱えさせた。

 念仏を唱えさせたが、念仏を唱えている僧侶も、唱えさせている道長も、もはや何をしても無駄だと悟った。

 万寿四(一〇二七)年一二月三日、藤原道長が意識不明の重体となる。それでも口は念仏を唱えているかのように動いていたというが、駆けつけた頼通が父に呼びかけても何の応答もなかった。

 万寿四(一〇二七)年一二月四日、藤原道長死去。享年六二。

 右大臣藤原実資の日記によれば、藤原道長の遺体は亡くなった翌日である万寿四(一〇二七)年一二月五日に入棺、その二日後の七日に鳥辺野で火葬となり、翌八日に宇治に埋葬された。

 また、藤原道長が亡くなった同日に権大納言藤原行成も亡くなったため、議政官の多くの者が服喪になった。記録に残っているだけでも、関白左大臣藤原頼通、内大臣藤原教通、権大納言藤原頼宗、権大納言藤原能信、権中納言藤原長家の五人が服喪になっている。

 ところが、明確な記録として残っているのはここまでで、宇治に埋葬されたことはわかるのだが、道長の墓がどこなのかはっきりしていない。

 無論、当時は明瞭だったのであろう。後の話として道長の墓が鳴動したという記録が残っているのだから、道長の墓がどこにあるのかは当時の貴族にとって常識であったとするしかないのである。

 にも関わらず、現代まで藤原道長の墓ははっきりしていない。

 JR京都駅から奈良線に乗って木幡駅に行き、木幡駅から南に歩くと「藤原氏塋域(ふじわらしえいいき)」と彫られている小さな石碑がある。これは、宇治周辺に埋葬されているという言い伝えのある藤原氏の墓をまとめている石碑であるが、この石碑は明治時代に宮内庁が設置したもので、平安時代からこの石碑があったわけではない。

 木幡駅周辺には宮内庁の指定した三七箇所の藤原氏の陵墓があり、それぞれに番号が振られている。そのうち、三四号陵墓が藤原冬嗣、三五号陵墓が藤原時平、三六号陵墓が藤原基経の陵墓であることはほぼ確実視されている。しかし、道長の陵墓がどこなのかははっきりしていない。現在のところ、三三号陵墓が道長の陵墓ではないかとする説が有力であるが、三三号陵墓は藤原頼通の陵墓であるとする説もあってはっきりしない。

 そう言えば、摂関政治を生み出した藤原良房はそもそも墓がない。「藤原氏塋域」に刻まれている歴代藤原氏の面々の中に藤原良房の名がない。それどころか、藤原良房は、肖像画も、建物も、碑文も残っていない。残っているのは政治システムであって、個人としての藤原良房を示すものは何もない。何もないゆえに、何かを残しているよりも潔いと感じる。

 自身は左大臣として権力を駆使したものの、藤原良房の作り上げた摂関政治の最盛期は道長のものである。そうであるなら、道長の名が「藤原氏塋域」にあり、そこに名が刻まれているというだけで、実際の墓についてははっきりしていない方がむしろ藤原道長に相応しいのかもしれない。

 藤原道長の死は、あくまでも出家した一僧侶の死ということにされた。

 議政官の人事は全く変わらず、その下の人事も固定されたままであった。

 しかし、道長の死の与えた衝撃は、朝廷の想定を遙かに超えたものであった。特に、道長がいることによって抑えることので来ていた武士たちの対立が再燃するようになったのである。

 平将門や藤原純友の悪夢から八〇年以上経ている。平均寿命の短いこの時代、その悪夢を実体験として語り継いでいる人はまずいない。この時代の確認できる最年長である太政大臣藤原公季や右大臣藤原実資でさえ、その生まれは藤原純友の乱の終結後である。フィクションの世界では大鏡の語り部である大宅世継と夏山繁樹の二人がいるが、あくまでもフィクションの世界であって現実ではない。

 よく「世代を超えて語り継がれる」という言い回しがある。それはそれで事実なのであるが、実体験した者が語るのと、親や祖父母の体験したこととして語るのでは切迫感が違う。実体験した者は再び実体験するかも知れない出来事として語るのに対し、世代を超えると実体験と結びつかない出来事となる。つまり、どこか遠い世界での話であり、切迫感が乏しくなる。

 それでも、似たようなことが頻発していていれば切迫感を伝えることができる。例えば、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災の記録は現在でも語り継がれているが、そこには阪神淡路大震災や東日本大震災の記憶も積み重なっている。地震の恐ろしさを体験した者が語り継ぐことで、関東大震災のみならず、地震そのものが恐ろしいものだと語り継ぐことができる。

 だが、似たようなものがないと切迫感はない。ただ、人の血の通わない歴史の語り継ぎなだけである。平将門の乱の土地であった関東地方も、平将門のことなどなかったかのように表面上は平穏な状態である。語り継がれる過去はあったが、過去は現在と断絶した別世界の出来事であったのだ。

 例えば、更級日記の作者である菅原孝標女は上総国市原で少女時代を過ごし、上総国から京都に戻るまでの様子も更級日記の冒頭部に記しているが、その中に武士の戦乱について記してはいない。京都から遠く離れて源氏物語が手に入りづらいこと、疫病で多くの人が亡くなったことは記している。また、道中に通過した武蔵国で武士と出会ったこと、その武士は京都で宮中の警護にあたっていたところ、守るべき姫君といつの間にか恋仲になってしまい、故郷である武蔵国まで駆け落ちしてきたという言い伝えがあることについても記している。しかし、武士の戦乱も、過去に武士同士の衝突があったことも記していない。

 菅原孝標女は現在の学齢で行くと小学三年から六年までの四年間を上総国で過ごしていたこととなる。その世代の少女が知らなかったであろう、関東地方の武士同士の対立はこのようなものであった。

 この時代の桓武平氏高望王流の家系図をまとめると次のようになる。

 系図では下の方になっているが、関東地方の平氏の主流は平貞盛の子孫の側に移っており、かつて親皇を宣言するほどの勢力を築いた平将門の子孫は、一族もろとも絶滅させられたわけではないものの弱小勢力となっている。

 ただし、弱小勢力ではあっても平貞盛の子孫の側に全面服従するわけではなく、それどころか、女系ではあるが平将門の孫であることを前面に打ち出す平忠常が、この時代の関東地方で一定の勢力を築いていたのである。

 平忠常の生年ははっきりしていない。康保四(九六七)年とする説から、天延三(九七五)年であるとする説まである。はっきりしているのは、かつて藤原教通に仕えていた過去があること、そして、万寿五(一〇二八)年時点で息子である平常近が押領使として朝廷から安房国に赴任するまでの年齢であったことである。京都で藤原教通に仕えていた功績が認められ、武蔵国押領使に任命されて関東地方に戻ってきたと自称していたが、朝廷の正式記録に平忠常の記録は無く、あくまでも私的に藤原教通の元に仕えていただけであろう。

 記録には上総介としての経歴があったとも記されているが、歴代上総国司の名簿の中に平忠常の名は無い。史料によっては上総介ではなく下総権介であったとするものもあり、どうにもハッキリしない。

 オフィシャルな立場はハッキリしないが、非公式な立場なら判明している。安房国、上総国、下総国の三ヶ国にまたがる広大な所領を持つ大規模武士団の総帥である。

 この平忠常に対する評判は真逆である。税を納めず傍若無人に暴れ回る物騒な存在とする評判もある一方で、安房国司の命じる高額の税に抵抗する存在とする評判も存在する。まあ、やっていることは同じで、平忠常は武力に頼って納税を拒否していたのである。

 この事情を朝廷が知らなかったとは思えない。ただ、実際に武装蜂起しているわけでないこと、また、納税拒否自体はこの時代日本中のどこでも見られていた現象であったことから重要視していなかったとしか思えない。

 平忠常が房総半島一帯に勢力を持っているだけならば、この時代の日本各地にごく普通に見られることという認識で終わっていた。税を払わないという一点は問題であったが、荘園の持つ不輸不入の権を自らに財産の基軸に置いている貴族や寺社はあまりにも多く、税の不払いを理由に取り締まろうとすると、取り締まる側の貴族の方も取り締まりの対象となってしまう。ゆえに、この段階での平忠常は取り締まりの対象となっていなかった。

 気がかりな点としては、母が平将門の娘であり、自分は平将門の孫であるということを前面に打ち出していることである。だがそれも、平将門と違って日本からの独立を宣言したわけではなく、あくまでも京都の朝廷の支配下に身を置き、日本国の秩序の中に組み込まれているのだと自らを定義している以上、朝廷としても何もできずにいた。

 一触即発と言うほどでもない緊張はあったが、この時代の房総半島は、平和と言えば平和だったのである。

 平忠常にしても、自らがいかに安房、上総、下総の三ヶ国にまたがる所領を有する武士団のトップであると言っても、朝廷に太刀打ちできる勢力でないことは理解していた。より正確に言えば、藤原道長をトップとするこの時代の武士のヒエラルキーは覆せるものではないと考えていた。

 というタイミングで、京都から藤原道長の死の知らせが届いてきた。

 これは武士のヒエラルキーを根底から覆すニュースであった。

 今までであったら、何かしたらその瞬間に藤原道長が動く。道長が動くということは、身の破滅を意味する。しかし、その道長はもういない。道長が影響力を行使できる、つまり、国の秩序維持のための動員できる武士の数が減ってきていたが、敵となる武士の数が減ったところで道長がいるというだけで睨みがきいたのだ。

 その道長がもういない。これは動きたくても動けなかった者にとって、その制約を解き放つ絶好のチャンスであった。

 理論上は内大臣藤原教通が左近衛大将を兼任している。左近衛大将は律令制における武人の最高官職であり、武士を、武士としてではなく武官として捉えた場合、全ての武士は内大臣藤原教通の指揮下に入る。だが、藤原教通は武人へ官職を与えるための役職として左近衛大将の地位を利用するのみで、武人を指揮するための役職としては利用してこなかった。

 平忠常がいつ動いたのかはわからない。京都の朝廷に第一報が届いたのは万寿五(一〇二八)年二月のことで、平忠常が上総国府を攻め落として上総国を制圧しただけでなく、安房国衙を襲撃し、安房国司平惟忠を焼き殺したというのがその知らせであった。

 安房国司平惟忠が何者なのかは不明である。姓だけを見れば平氏であることは間違いないのだが、桓武平氏の家系図を見る限りその名の者は見当たらない。より厳密に言えば、いることはいるのだが、それは鎌倉時代、この時代から見て二〇〇年ほど後の時代に生きた者、つまり赤の他人である。

 源氏にしろ、平氏にしろ、数多くの家系の者がいる。いかに皇室の血を引いていようと、日本という国は姓を得た瞬間に庶民となり、姓を持った後は自らの力で生きていかなければならない国である。臣籍降下の直後は特別扱いで高い地位の貴族になることも可能であったが、世代を経るに連れ中央での出世は望めなくなり、多くの源氏や平氏が地方に流れて行くようになった。

 地方の武士団のトップが源氏や平氏であることは珍しくなかった。地方に流れた貴族にとって、武士団のトップになるということは自らの権力と正当性を維持できる数少ない手段であった上に、武士団を必要とする地方の者も、素性は怪しいが武力は問題ない者より、本人の武力が頼りなくても貴族を思わせる者であるほうがより高い価値を見出していた。こうなると、源氏でも平氏でもない者は、いかに武力を誇ろうと立場が弱くなる。

 自分の素性が明らかではないと低い立場に置かれる。しかし、明らかでないということはいくらでも創作できるということでもある。

 家系図を創作することは不可能ではなかった。見破られる可能性はあるにはあったが、全ての者が藤原鎌足につながる藤原氏と違い、源氏や平氏は始祖となる者が数多くいる。その中には、途中の家系図が掴めなくなっている者もいる。この家系図を作り出し、自らをその家系図に組み込ませれば、源氏や平氏を名乗ることは可能だったのだ。

 それにしても、平氏の血筋を引いていることが明瞭な平忠常が反乱を起こした側で、本当に平氏の血を引いているのかどうかも怪しい平惟忠が朝廷の命じた安房国司である。なんとも皮肉なことである。

 安房国司平惟忠の課す税があまりにも重すぎるため、重税に苦しむ庶民の声を聞き入れての反乱ということになっているが、平忠常が安房にも勢力を伸ばそうとして軍勢を進めたという側面もある。

 だいいち、平忠常は安房国だけでなく上総国も攻め落としているのである。上総国府の占領は一時的なものであり、その証拠に朝廷に平忠常の反乱の知らせを伝えたのは上総国府なのである。上総国府は平忠常に敗れ占領下に置かれたものの、平忠常の支配を脱して国府としての機能を取り戻している。とは言え、上総国の大部分は平忠常の支配下にある。上総国府は上総国の統治ではなく、平忠常の支配地域に浮かぶ朝廷の出先機関とまでに化していた。平忠常がその状態で放置したのは、平将門と違って朝廷からの独立を宣言しているわけではないと明示するためであり、事実上はどうあれ、名目上は上総国が国司の支配下にあると訴えるためでもあった。

 平忠常は安房、上総、下総の三ヶ国にまたがる所領を持つ有力な武士団であったが、上総国と下総国では圧倒的権力を持っていたのに対し、安房国ではさほど大きな勢力となっていなかった。

 一般に、平忠常の子孫のことを「房総平氏」という。しかし、研究者の中には、安房国での平氏の勢力は最後まで強くなかったとして「両総平氏」と呼ぶべきだとする者がいるほどである。

 その房総平氏の始祖である平忠常が安房国に軍を進めたのも、安房国が平忠常の勢力の弱いところであったからとするべきであろう。既にある程度の勢力を築いている上総国ではこれ以上の武力行使も不要であったが、安房国には武力による勢力拡大が必要であった。しかも、この平忠常には絶好の大義名分があった。息子の平忠近が押領使として安房国に赴任していたのである。押領使というのは現在でいう道府県警本部の本部長のような地位であり、任国の治安維持の責任を持っている。その責任を果たすために父として協力するというのが平忠常の大義名分であった。

 もっとも、この大義名分は朝廷に通用しなかった。平忠常の安房国衙襲撃の報を受けた朝廷はただちに、かつて平将門を討ち取った平忠盛の曾孫である平直方を追討使に任命した。

 これが万寿五(一〇二八)年二月のことである。

 そして、奇妙なことに、万寿五(一〇二八)年六月二一日にも、平直方が追討使に任命されているのである。いったいどういうことか?

 まったく、藤原道長がいなくなった瞬間に朝廷は機能不全に陥ってしまったのだ。

 前例踏襲はどうにかなった。しかし、前例のないことはどうにもできなかった。

 その上、反乱勃発という大事件を目の当たりにしても、朝廷としては右往左往するばかりで何もできずにいる。二月に、かつての平貞盛がしてくれたように、その子孫である平直方なら何とかしてくれるだろうという軽い気持ちでの任命である。しかも、任命しただけで朝廷からの支援はゼロであった。

 平直方は、平忠常の軍勢がどれぐらいであるかを知っている。そして、これからその軍勢と戦いに行くのである。軍というものは勝手に生まれ育つものではない。軍勢を集め、兵糧を集め、戦地までの往復の補給路を確保しなければ軍勢は成立しない。

 それなのに、朝廷からの命令は「上総国に行って平忠常を討ち取るように」という命令だけで、軍勢を集めるのも、兵糧を集めるのも全く無視されていた。

 朝廷からは即座に上総国に向かうようにとの命令が出るが、軍勢を集める費用も、兵糧にすべき食料の支給もないばかりか、その不足を訴えても「それはお前がどうにかしろ」というだけで何の支援もなかった。その結果、四ヶ月に渡って平直方は京都から出発しなかったのである。

 さすがに四ヶ月も動かないのは問題だと考えた朝廷であるが、その答えは、軍勢集結のための支援ではなく、追討使の再任命であった。それも、平直方一人とした前回と違い、検非違使の中原成道の二人を追討使とするという命令であった。

 このとき、議政官内部で意見の対立があった。平直方を推したのは左大臣藤原頼通、そして、右大臣藤原実資は源頼信を推薦した。武人のトップであるはずの内大臣藤原教通がどのような意見であったのかは記録に残っていない。

 平直方は何と言っても平将門を討ち取った平忠盛の曾孫である。また、まだ出発していないと言っても追討使は平直方であるといったんは決まったのである。それも、後一条天皇が正式に任命した追討使なのである。こうあっては改めて別の人間を選び直すわけにはいかないという理由もあった。

 源頼信はかつて平忠常の上官であったことがあり、頼信であれば房総半島にいる平忠常容易を征圧できるとの判断である。

 左右の大臣の意見の対立によって議政官は紛糾したが、最終的には後一条天皇の決断を覆すわけにはいかないという理由で平直方が追討使に再度選ばれると同時に、右大臣のメンツを立てるためか、中原成道が追加されると決まったのである。かつての冤罪事件で右大臣藤原実資の指示に従って行動したために弾劾されている中原成道も追討使に追加することで体裁を整えたのである。

 議政官の議論で優先されたのは議政官を構成する貴族達のメンツであり、反乱鎮圧では無かったのだ。

 現在から見ると、平忠常の乱は内乱以外の何物でも無い。

 だが、当時は微妙な線引きだったのだ。テロなのか、それとも戦争なのか。

 現在、テロを容認するような政党は、自分たち自身がテロリストである政党以外ありえない。だが、テロに対する武力行使を容認しない政党ならある。それらの政党はどのようにテロに対処すべきか主張しているかというと、警察によるテロの逮捕。

 この時代の議論も、突き詰めれば、武力なのか、それとも警察権力なのかという点に行き着く。より正確に言えば、平忠常の乱を内乱や戦争と認めたくない心理から来る、事態を大ごとと認めたくない心理に行き着く。検非違使である中原成道であれば警察権力による平忠常の逮捕になる。武士の派遣となれば戦争となる。

 現在起きているのが戦争だと認めたくない心理が働いていたとしてもいいだろう。

 藤原実資は間違いなくこれは戦争であると考えていた。ゆえに源頼信を推薦した。一方、藤原頼通はいま起きているのが戦争であると認めたくなかった。関東地方に派遣する追討使は平直方であるとしたのは後一条天皇である。頼通はそれを推すと同時に、警察権力で事態を解決しようと、現役の検非違使である中原成道を並べたのである。

 ナポレオンは、「凡なる一将は、非凡なる二将に優る」と言った。軍において、指揮系統が明確にならない状態では戦力を発揮できない。いや、戦力を発揮できないのは軍隊だけでなく、およそこの世の組織と言われる存在の全てにおいて言えることである。仮に優秀な者が二名いたとしても、その二名の間に明確な上下関係が無く完全に平等となっていては、戦力の有効活用どころか戦力を無駄に消耗させるだけである。こう言うと、かつてのV9の頃の巨人は長嶋茂雄と王貞治の二人が並び立っていたではないかという人もいるが、その時代の将は川上哲治監督であって、並び立っていた二人も監督の前では手駒の一人に過ぎなかったことを忘れてはならないい。

 凡なる一将は、非凡なる二将に優る。では、凡なる二将が並び立つとどうか?

 最悪である。凡なる一将であればまだ軍として成立するが、凡なる二将は、物騒な集団になることはできても軍勢とならない。

 それでも凡なる二将が協力体制にあるならまだマシだったが、中原成道も平直方も相手への敬意が見られず、ただただ相手に反発して行動したのである。

 反乱勃発という大事態に対し、これでは正気かと疑いたくなる。

 追討使に任命された中原成道であるが、どうもこの人は上総国に行きたいと全く思っていなかったようで、あの手この手で上総国派遣を取りやめてもらおうとしていた。右大臣藤原実資の引き起こした冤罪事件の取り調べ担当者であったために信用を失い、どうにかして失った信用を取り戻そうとしていたところに飛び込んできた追討使任命の知らせは喜んで受け入れたものの、現役の検非違使と言うこともあって朝廷の示した条件ではとてもではないが平忠常追討不可能であると悟ったとするしかない。

 万寿五(一〇二八)年七月八日に九ヵ条からなる上申書を議政官に提出している。その上申書の中には、国家の一大事であり、関白藤原頼通も同行していただきたいという一文があったと伝えられている。まあ、行きたくもない戦地へ行けと命じられたら、「だったらアンタも一緒に来いや」と言いたくなるだろう。それでも文面は礼儀に乗ったものであるし、その上申書は正当な手続きに則ったものであったので議論もされた。議論もされたが、七月一〇日に出たその結論は「ふざけるな」という簡単なものであった。

 正気かと疑いたくなるのは戦場から遠いからで、戦場に近い者は正気を保つっていた。本来は戦場という異常事態に正気を保つほうがおかしな話なのであるが、このときは朝廷のほうが正気かと疑いたくなる態度で、当事者に近いほど正常に見えたのである。これもまた、この時代の異常事態を示す事項である。

 最大の当事者としてよいのが、上総国司である縣犬養為政(あがたいぬかいのためまさ)であった。彼は国府が襲撃を受けても国府を守り続け、平忠常の勢力に上総国全体が飲み込まれつつありながらも上総国府の機能を何とかして保ち続けていた。

 縣犬養為政が上総国府に留まることは平忠常に屈しないというアピールになっていたが、それでも妻と子を京へ逃すことはした。

 万寿五(一〇二八)年七月一五日、上総国司縣犬養為政の妻と子が京都に到着。京都の人は、上総国司縣犬養為政が討死覚悟であること、それでも妻と子の命は守るつもりであることを悟り、朝廷に対し一刻も早く平忠常を討つように催促した。

 それでも相変わらず軍勢は出発しない。万寿五(一〇二八)年七月二五日は吉日であったが軍勢の出発よりも改元のほうが相応しいとして、元号を長元と改めると同時に軍事行動を控えよとの布告が出たのである。その間にも上総国からは軍勢の派遣を求める連絡が届いていたが、その連絡に対する返信は全く無かった。

 長元元(一〇二八)年八月一日、他ならぬ平忠常からの使者が京都にやってきた。敵からの使者ということで検非違使に拿捕されたが、平忠常からの書状は宛先に届いた。その宛先は、内大臣左近衛大将藤原教通。関白左大臣藤原頼通の弟である。ただし、教通宛に書状を送ったのは、関白の弟だからでも、制度上の武人統括職である左近衛大将だからでもない。平忠常がかつて藤原教通の元に仕えていたからである。そう言えば、平将門もかつては藤原忠平に仕えている過去があって、関東地方での対立の最中に藤原忠平に庇護を求めたことも、反乱開始後に申し開きの連絡を送ったこともあった。このあたりも平忠平は祖父を真似たのか。

 藤原教通に送られた書状が議政官で審議されたのが八月四日。その翌日、任命されてから一ヶ月半を経た八月五日、ようやく平直方と中原成道の指揮する軍勢が京都を出発した。出発したのは亥刻というから、現在の時制に直すと午後一〇時、まともな照明のないこの時代、貴族はともかく庶民が起きている時間ではない。にも関わらず、多くの京都市民が詰めかけ、待ちに待った軍勢出発を盛大に祝おうとした。「これでようやく反乱が鎮圧される」「戦地で奮闘する上総国司の縣犬養為政が助かる」と安堵の声を挙げたかったのだ。

 だが、実際の軍勢を見て愕然とした。祝うどころか不安感を滲ませることとなったのである。

 二〇〇騎。これがその軍勢である。

 房総半島を征圧しているという話まで届いている反乱軍に対し、たった二〇〇騎で何ができるというのか、いったい朝廷は何をしているのか、誰もがそう思ったが、すぐ後に絶望感を伴う現実を直視させられることとなった。

 これが二人の用意できる軍勢の現実であった。中原成道は検非違使であって武士団を率いる身ではない。平直方は確かに武士でもあるが、全国の武士団の間に名前を知られている程度であって、武士が進んで馳せ参じるような地位や名声を得ているわけではない。それでも朝廷が予算を組めば軍勢を増やすことは出来たであろうが、その費用はゼロでは無いにせよ乏しいものであった。

 その上、二人の追討使は互いに協力し合う意思など全く無くバラバラに行動した。

 行動はバラバラだが、率いる軍勢で平忠常に挑むとどうなるかという見解では一致を見ていた。すなわち、このままなら負けるという結論である。

 この結論に対し、平直方と中原成道は真逆の対応をした。

 平直方は、平氏の名を利用して、北陸道、東山道、東海道から軍勢を集めようとした。

 一方、中原成道はボイコットを選んだ。

 ただし、外から見る目は一緒だった。

 軍勢がなかなか進まないのである。

 更級日記によると、上総国から陸路で京都に戻るまで七五日間を要したとなっているが、それは特に何の問題も無い国司一家の帰京であって、軍勢の移動がそんな悠長なことを言っていられるはずがない。どんなゆっくりだとしても一ヶ月、およそ三〇日あれば現地に着いていなければならない。

 長元元(一〇二八)年八月五日に京都を軍勢が出発したという知らせが京都中を駆け巡ってから一〇日後に京都に届いた情報は、軍勢が関東に向かうどころか、まだ美濃国(現在の岐阜県南部)あたりをつろついているという知らせである。

 これに京都市民は怒りを見せた。八月一八日の日の出とともに藤原頼通の邸宅である高陽院に落書きがあるのが見つかったのである。現在で言うと首相官邸の壁に落書きするようなものか。なお、このときの犯人が誰なのかは全く判明していない。判明していないが、京都市民はこの落書き犯に拍手喝采をしている。

 一方、京都市民が朝廷をどう見ているかを頼通はいやというほど目の当たりにすることとなった。言論の自由を認めてきた藤原道長であれば笑って済ませたであろうが、頼通は言論の正常化を求めはしても、言論の自由には目を向けていない。

 それでも怒りに耐えながら現実を目の当たりにし、美濃国に早々に出発するように命じた書状を送りもしたが、中原成道からの返信は「八〇歳になる母が病気になったので帰りたい」というものであった。

 平忠常の反乱平定のために関東地方に向かった軍勢であるが、結論から言うと、何もしていない。この程度の軍勢で平忠常の軍勢にまともに勝負を挑んだら一瞬にして負けることぐらい誰でもわかる。

 ただし、一つだけ太刀打ちできる方法があった。平忠常の消耗待ちである。軍勢が少なければ必要とする兵糧も少なくて済む。朝廷からの支援がいくら乏しいと言っても、二〇〇騎の兵力の物資ならどうにかなる。ましてや関東地方は平直方の地元、特に相模国の鎌倉は平直方の根拠地と言っても良い土地である。東京湾を挟んだ対岸に根拠地があればやっていける。一方、大軍が必要とする兵糧は膨大な量になる。平忠常は税の重さに耐えかねた民衆の声に乗っての反乱ということになっているが、その民衆の声が平忠常から離れれば、平忠常の軍勢は次第に弱まっていく。

 戦えば負ける。だが、戦わない限り負けない。そして、戦わなければ戦わないほど相手が弱まっていく。これが朝廷の派遣した軍勢が選べる唯一の方法であった。

 ただし、これは平忠常の支配下にある地域にかなりの負担を求める。最初は朝廷に対する反乱で、反乱に協力すれば今よりも良い暮らしが待っていると期待して平忠常を支援したが、その反乱軍が生きていくために自分たちに犠牲を求めるとなると、黙って犠牲を受け入れるわけはない。もっとも、相手は軍勢。協力すれば奪われる。協力しなければ殺されて奪われる。

 戦略としては有効でも、損害があまりにも大きすぎた。

 長元元(一〇二八)年八月一五日、宋の商人である周文裔(しゅう・ぶんえい)が来日した。

 来日目的は藤原道長であった。これだけを見ると国境の向こうから商人がやってきて僧侶に面会を求めただけであり何ら問題ないように思われる。

 ところが、太宰府にとってこれは大問題であったのだ。藤原道長がもう亡くなっていることが問題ではない。宋がこのタイミングで日本に対してアクションを起こしてきたことが問題なのである。

 事態は一〇〇四年に遡る。この年、契丹の第六代皇帝聖宗が率いる軍勢が宋に攻め込んできたのである。これだけであれば宋が建国されてからこれまで何度も起こってきたことである。いつもならば宋が契丹軍に立ち向かって戦争になるところである。

 だが、一〇〇四年の結果は平和なものであった。ただし、それは宋にとって屈辱を伴う内容でもあったのだ。

 このとき契丹と宋との間で結ばれた平和条約のことを「澶淵の盟」と言う。

 契丹は宋を兄とする。

 兄である宋は弟である契丹に対し、毎年絹二〇万疋、銀一〇万両を送る。

 この関係が続く限り両国は互いに領土を侵害しない。

 これが「澶淵の盟」の内容である。

 絹二〇万疋と銀一〇万両という金額を現在の貨幣価値に直すと五〇〇億円ほどになる。それを毎年払い続けなければならないのだ。

 カネで平和を買うというのは反発を受ける。だが、このときの宋には契丹に対抗できる戦力など無かった。ゆえに屈辱ではあるが払い続けなければならない。

 宋はこの苦境を脱するためにまずは高麗との接近を図った。契丹の属国として平和な状態ではあったが貧しさの続いていた高麗は、常に国論が二分されていた。貧しくとも平和である現状を続けるために契丹の属国であり続けるか、貧しさを脱すために行動を示すかの二分である。国論が二分されていて、一方が契丹への叛逆を題目に掲げていれば、裏から宋が手を回すのは容易である。

 一〇〇九年、宋の援助を受けた康兆が第七代国王の穆宗を殺害し、顕宗を王に就けるというクーデターを起こした。これを「康兆の政変」という。康兆はただちに契丹からの独立と宋との接近を始めようとしたが、契丹皇帝の聖宗は事態が悪化する前に高麗を鎮めるため、四〇万の軍勢を率いて高麗に出兵した。

 一〇一〇年一一月、契丹皇帝聖宗が自ら率いる四〇万の契丹軍の進軍開始の連絡を受け、クーデターの首班である康兆自身が高麗軍の指揮を担った。高麗の総力を結集して三〇万人の軍勢を集め、国境付近に防衛線を建築。当初は防衛線を突破できると考えていた契丹軍であるが、防衛線が想像以上に頑強であることを悟り、防衛線突破を断念。

 特に国境付近にそびえ立つ陣地である興化鎮の防御能力は高く攻略は困難であると考えたが、攻略しなければ契丹と前線とをつなぐ補給路が構築できないため、契丹軍はまず全力で防衛戦の突破を図り、全軍の半分である二〇万人を南下部隊に、残る二〇万人を興化鎮攻略にあてた。

 前線で軍勢を指揮する康兆は、一度は契丹軍に大打撃を与えたものの、契丹軍に大敗を喫して一万人以上の死傷者を出し、自身も捕虜となった後に殺害された。

 康兆の死を伝え聞いた高麗王朝は、契丹への降伏を一度は考えたが、首都開京から南に逃れての徹底抗戦を決断。一〇一一年一二月二八日に高麗王朝は日本海沿岸の羅州に逃れ、年が明けた一〇一一年一月一日に、主(あるじ)のいない首都となっていた開京が契丹の手に落ちた。

 南に逃れた高麗王朝の元に届く情報は、どれもこれも絶望を感じさせるものであった。羅州に逃れたのは戦争を最終的には勝利に導くためであったのに、どの情報からも勝利どころか高麗存続すら危ういという結論しか出なかった。

 首都開京が契丹に占領されてから一〇日を経た一月一一日、高麗王顕宗が契丹に降伏すると宣言。これにより一度は戦争が終わった。

 高麗は再び契丹の属国となり、宋に課したよりは少額であるが、毎年朝貢することに加え、高麗国王顕宗が契丹に赴いて契丹人の前で降伏を宣言することが課せられた。

 屈辱ではあるが、高麗はこの条件を受け入れざるを得なかった。

 ここで高麗が条件を果たせば平和を果たせたのである。契丹は高麗の領土など望んでもいなかったのだ。より正確に言えば、とれるものなど期待できない高麗の領土など手にしても意味が無い。契丹が求めていたのは東から攻め込まれるようなことが無い保証であったのである。

 攻め込んでくることさえないとわかっているなら契丹からは何もしない。しかし、攻め込もうというのなら全力で迎え撃つ。

 高麗はこれがわかっていなかった。契丹と結んだ講和条約を高麗側から破ったのである。高麗からの朝貢も、高麗国王の契丹訪問も実現させなかった、実現させなくても何も言ってこない契丹を見下しはじめ、朝貢を促す使者が高麗に派遣されると、使者をもてなすどころか監禁するという、外交問題に発展すること間違いない大問題をしでかしたのだ。

 おまけに、高麗の後ろには相変わらず宋がついていた。普通なら躊躇うような外交の失態も、宋が後ろについていると考えれば可能である。

 そのことは契丹もわかっていた。高麗が契丹に抵抗しているのは宋が後ろ盾についているからである。ゆえに、高麗に対し条約履行を要求するように強く出ると宋と高麗との二方面戦争となる。かといって、宋はというと相変わらず毎年の絹と銀の支払いを続けているから戦争に訴えることもできない。

 それに、四〇万人もの大軍を動かしたことの後遺症は大きかった。契丹がいかに大国であると言っても四〇万人の軍勢を簡単に動かせるような国力など無い。そのため、高麗への再侵攻を考えても数年の歳月を要する。

 一〇一四年に高麗が契丹との国交断絶と宋との国交回復を宣言。翌一〇一五年、契丹が再び高麗に攻め込んだ。

 両国とも準備を重ねた末での戦争であるため戦争は一進一退の様相を示した。それは、戦場となった高麗の土地がさらなる荒廃を生むことを意味する。ただでさえ貧しい土地に加え、貴重な働き手がことごとく兵士として軍に連れて行かれたために田畑は荒廃し、収穫は乏しいものとなった。それでも収穫があるだけまだマシで、収穫前の田畑が焼かれることも珍しくはなくなった。

 中でも、高麗と契丹との国境付近の被害は激しく、かつて二〇万人の軍勢に包囲された興化鎮はこのときも堅牢な要塞であり続け、数多くの契丹軍兵士の命を奪ったが、興化鎮を指揮する鄭神勇も戦いの中で命を落とした。それでも興化鎮は落ちず、契丹は複数回に渡って大軍で高麗に侵攻。それが荒廃を加速させた。

 荒廃を加速させたのは契丹軍だけでない。契丹軍の現地調達を許さないよう、契丹軍の進む道と思われる場所は見渡す限りが高麗兵によって焼き尽くされた。

 戦場から遠いと言っても安心は出来なかった。日本海沿岸は海賊となった女真族の侵略のターゲットになったからである。たちが悪いことに、女真族の海賊に加わる高麗人が続出。ひどいケースになると女真族より高麗人のほうが多く、船の中の言葉も高麗の言葉が中心であるというものまであった。この海賊のターゲットは高麗の日本海沿岸だけではなく、対馬や壱岐、九州北部といった日本領まで向かった。日本ではこれを刀伊の入寇と呼んでいる。

 焦土作戦により戦争は高麗優位に進展したようにも見えたが、高麗の受けた損害はこれ以上の戦争を望めなくするものであった。高麗は国の総力を挙げて戦争をしているのに対し、契丹は、痛手とは言えまだ余力がある。最終的に高麗から契丹人を一人残らず追い出したとしても、いつまた契丹が攻めてくるかわからない。何しろ契丹が求めているのは東の安全であって高麗の領有ではない。安全さえ保証されるなら攻めてこないが、安全が保証されないとあったら何度でも自国の安全のために高麗に侵略するつもりであると明言しているのである。いくら戦争を優位に進めようと、これでは終わりが無い。

 生き残るためには方法が一つしか無かったのだ。これまでの戦闘も、抵抗も、全て無駄なことであったと悟り、再び契丹の属国になる以外に方法はなかったのである。

 一〇二〇年、高麗王顕宗が契丹に降伏し、一〇年に渡る朝鮮半島の戦乱はついに終わりを迎えた。ようやく平和を手にした高麗に残されていたのは、ただでさえ貧しい土地であった高麗が、以前よりさらに貧しくなったという悲劇だけであった。

 一方の契丹はこれにより東の安全を確保でき、いつでも宋に対して軍勢を向ける準備が整ったのである。

 契丹の受けた損害は軽いものでは無かったが、年を経る毎に国力の回復を見せ、高麗の戦乱のバックアップをしていた宋に対し、条約違反を理由にして攻め込むぐらい力を見せるまでになっていた。

 このようなタイミングで宋の商人が来日し、藤原道長との面会を求めたのである。名目上は一商人が一僧侶に会いに来たというだけであるが、実際には非公式の宋からの使節である。宋としては、間もなく迎えることとなるはずの契丹との戦争に向けて、東の安全を保証すると同時に、二方面作戦を展開すべく日本からの軍事侵攻を期待していたのである。

 だが、商人が知ったのは藤原道長がこの世の人手はなくなっていたという現実であった。しかも、関東地方で反乱が発生したのに二〇〇騎の兵しか送れないという日本の軍事の限界も目の当たりにした。

 太宰府はこの事実を隠そうとしたのである。とは言え、それらは隠し通せることではなかった。宋の商人が九州に到着し藤原道長との面会を求めているのに、その情報を京都まで届けなかったことで、太宰府の首脳部が懲戒処分を受けたのである。朝廷としても日本の現状を国外に広めるのは望ましいことでは無かったが、隠し通そうとすることの方がより大問題になる。

 長元元(一〇二八)年九月二日の夜から三日に掛けて、京都を台風が襲った。

 関白左大臣藤原頼通はただちに法成寺に向かった。神仏に祈りを捧げるためではない。鴨川の氾濫の被害をまともに食らったからである。いかに藤原道長が私財を投じて築き上げた大寺院であっても、元を正せば平安京の敷地外に広がるスラム街だった場所である。スラム街がスラム街である理由は住むのに不便なために地価が安いことに尽きる。地価の安さは周辺環境だけではなく自然や治水の問題も忘れてはならない。

 おまけに、法成寺はかつてスラム街の住人であった人たちの上に成り立っている寺院である。法成寺が水害の被害を受けたということは、平安京の庶民の中でも比較的貧しい人たちが菅井の被害を受けたということなのだ。

 関白左大臣藤原頼通が直接陣頭指揮に当たったのは、左大臣が出向くほどの大災害であったからということに加え、平忠常の乱の対応に対する平安京の庶民からの批判を和らげる目的もあった。

 それにしても、長元元(一〇二八)年九月の藤原頼通は、現在の多国籍企業の社長でももう少し余裕を持ったスケジュールを組むと言いたくなる忙しさである。法成寺に出向いて支援の陣頭指揮に当たったかと思えば、逮捕された犯罪者の尋問に顔を出し、法成寺以外の被災地に顔を出して、議政官を集合させて国政の決議をし、当時はそのような単語など無かったが、まさに、マネジメント・バイ・フライング・アラウンドを具現化していたのである。なお、本当ならばマネジメント・バイ・フライング・アラウンドに対応する日本語の訳を使いたかったのだが、訳すと「世界中を飛び回って自分の目で現地を確認しその場における最適な判断を自分の責任で即座に下す日々を過ごす多国籍企業の経営者」となるのでカタカナ記載に留めた。

 現在のビジネス用語の概念が通用すると同時に、もう一つ、これもまた現在ともつながることなのだが、仕事を詰め込み忙しくすることと、どういう結果を残したのかについては何の関係もない。それなのに、忙しくすることを以て評価としてしまう。確かにこのときの藤原頼通は忙しくしていた。忙しくしていたが、それと実績とは何の関係も無い。これがまた悲劇を重くした。

 長元元(一〇二八)年一〇月一四日、源頼信の子の源頼義が相模国司に任命された。これは、平忠常の反乱鎮圧のための援軍派遣の意味もあった。

 この時点で朝廷に届く情報は上総国司の縣犬養為政と、殺害された平惟忠に替わる安房国司の藤原光業からの情報であり、関東地方に派遣した平直方と中原成道からの情報は皆無である。

 国司たちからの情報は平忠常の軍勢による被害を訴えるものばかりで、朝廷から派遣した軍勢の奮闘の様子は全く記されていなかった。記されていないのは当然で、平直方も中原成道も関東で何もしていなかったのだ。

 何もせず、平忠常の軍勢の消耗を待つ。これは確かに有効な戦術ではあったのだが、土地と地元民に与える損害が大きすぎる。その損害のピークがこの頃だった。上総国からも、安房国からも、平忠常の軍勢によって、奪われ、連れ去られ、殺されているとの報告が挙がり、国衙に詰める兵士が国衙を守るのに手一杯であるために一刻も早く朝廷からの軍勢が到着することを催促する手紙が届いていた。

 関白左大臣藤原頼通が、朝廷が出すことのできる軍勢の現実を知らなかったとは思えない。ただ、頼通には清和源氏を動かすという手があったのを気付いていなかったのか、あるいは意地になって清和源氏を動かさなかったのかはわからない。藤原道長は源頼光との個人的なつながりがあり清和源氏に指揮命令することもできたが、源頼光は既にこの世の人ではない。ここまでは事実である。しかし、清和源氏は道長の後継者である源頼通に忠誠を誓っていたのだ。そして、清和源氏の頭領となった源頼信はいつでも動けたのだ。

 頼通が何もせずにいたとしても、内大臣藤原教通が動くという手は残っていた。何と言っても武官としてのトップの官職である左近衛大将を兼任している。ここで左近衛大将として出撃命令を出せば武官である者は動く義務がある。

 それをわかっている源頼信は、左近衛大将として命令があれば、あるいは、頼通が個人的な命令を出せば、清和源氏の軍勢を動員して平忠常の反乱を制圧すると頼通に上奏もしていた。だが、朝廷からの答えは息子を相模国司にするという命令である。全くの無反応ではないが、これでは反乱鎮圧にほど遠い。

 右大臣藤原実資の日記「小右記」によると、長元元(一〇二八)年という年は、平忠常の反乱は別格であるにせよ、それ以外にも細かな地方の問題が続出した年であったことがうかがえる。

 既に挙げた太宰府の隠蔽だけでなく、前国司の不正蓄財を新任の国司が訴え出たり、帰京せずに土着した国司の親族の窃盗について訴え出る者が現れたり、国司解任を求める訴えをしに京都までやってくる者がいたりと、日本各地から問題が上奏されてきていたのだ。これに対し、議政官は可能な限り律儀に対応している。ただし、律儀に対応していることと問題解決とがつながるとは限らない。なぜなら、それは訴えられた側ではなく訴え出た側の問題であったことも多々あったからで、それが問題を根深いものとさせていたのだ。

 例えば、長元元(一〇二八)年一〇月一三日には、金峯山の僧侶一〇〇人ほどが陽明門に参集して大和守藤原保昌を訴えるという出来事が起こっている。普通に考えれば大和国司が大和国にある金峯山寺に対して何かをし、それに対して反発を見せる金峯山寺の僧侶が反旗を翻したというところであろう。

 しかし、事情はそう簡単ではない。

 大和国は現在の奈良県に相当する。そして、奈良県の県庁所在地である奈良市はかつての平城京が元になってできた都市である。また、大和国の国衙がどこにあったのかは現在でも不明であるが、もっとも有力なのは現在の橿原市の周辺であろうとする説である。領域内にかつての首都があるだけでなく、その跡地に残された寺院の勢力も強いものがあった。そして、国衙はそれら平城京跡に残る寺院たちと強い結びつきがある。

 一方、金峯山はそれらの寺院と一線を画した吉野の中にある。一線を画すというのは地理的なものもあるが、組織的な意味で一線を画してもいた。一線を画すと記すと体裁のつく書き方になるが、要は殴り合いも日常の光景になるほどに対立するようになっていたのだ。

 おまけに、金峯山はこの時代の貴族たちにとっての絶好のレジャースポットでもあった。京都から金峯山に足を運び、山を登り、寺院に詣り、山を降りて京都に戻る。その旅路は半月以上を要するのが通常であったが、それでも宇多法皇や藤原道長といった有力者は忙しい日々の中に休みを作り出して金峯山に足を運んだ。有力者が寺院に足を運ぶと、ただ単に足を運んだという記録を残すだけではなく、寺院とその周辺に対して有形無形の恩恵を残す。コメや布と言った資産そのものだけでなく、農地や、さらには荘園の寄進すら見られたのである。

 資産がある組織は強い。資産次第では武力を集めることも可能になるし、武力次第では国司に平然と立ち向かうことも可能になる。そうなれば国司に逆らう抵抗勢力になるのも時間の問題だ。また、武力で対立とまではいかなくても、対立する国司を訴えるぐらいは造作もない話になる。

 藤原道長という圧倒的存在には、それまでにも存在していた地域対立を強引に抑えつけるだけの威光があった。ただし、抑えつけていただけで、対立を消し去ったわけではない。道長の威光は道長が生きているというだけでも存在したが、亡くなってしまっては消えてしまう。道長の威光によって抑えつけられていた対立は、道長の死で爆発するように一気に表面化するようになったのだ。

 もし、頼通に父の威光を継承できるだけの人間味があれば対立は抑えつけ続けることが可能であったろう。だが、頼通にそれはない。真面目であることは認められても、頼通の人間味は乏しいとするしかなかったのである。

 対立による武力のぶつかり合いも治安悪化の要因の一つになるが、窃盗や放火、強盗集団が暴れまわるのもまた治安悪化の要因も一つになる。

 治安悪化に対処するのは執政者の責務である。安心して道を歩ける、安心して自宅で眠れる、こうした安心を提供できない者は執政者失格とするしかないのである。

 この意味で関白左大臣藤原頼通は執政者失格であった。

 力で抑えつけるものであろうと、威光は威光。強盗に走らなくても暮らしていける日々を提供するだけでなく、真面目に働くより奪う方が手っ取り早いと考える人を抑えつけるのも、執政者の人となりが影響を与える。前より良い暮らしができるようになったと感じさせる経済政策を展開すると同時に、逮捕されたらどうなるかわからないという恐怖心もまた、執政者は持ち合わせていなければならないものである。

 平安時代はただでさえ治安が悪い。清少納言は枕草子に、自宅に強盗が入るより隣人宅に強盗が入ったという知らせを聞いた方が恐ろしいと書いたが、それが共感できるほどに犯罪が日常と隣り合わせだったのだ。

 道長の時代も現在に比べれば唖然とするしかない治安の悪さであるが、道長亡き後はそれよりも程度の増した治安の悪さであった。長元元(一〇二八)年一一月九日、枇杷殿焼亡。忍び込んでから火をつけたか、火をつけてどさくさに紛れて盗み出そうとしたのかはわからないが、放火に始まる火災であったことに違いはない。ただ、記録に残っているのは、何が奪われたかではなく火災によってどれだけの被害を生んだかであり、一町四方の敷地を持つ枇杷殿の範囲を超えて、平安京の北辺にまで達したと記録にある。

 この火災からの修復工事が展開されていた一一月三〇日は内裏には盗賊が侵入。藤原忠道が逃げていく盗賊を中和門で射殺すという出来事まであった。なお、右大臣藤原実資は「縁起でもないものを見てしまった」として、当時の慣習に従って内裏全体を物忌みにすべしと答申している。うまくは言えないが、人が死んでいることについてもこのようにしか感じないこの時代の貴族たちのこうした感覚もまた、治安悪化の要因の一つのような気がする。

 長元二(一〇二九)年一月、表面上は穏やかな年明けであった。

 関東地方で起こっている平忠常の反乱に対する情報が届いてこないが、この時点ではまだやむを得ないこととされていた。上総国司や安房国司からの支援要請の連絡だけが届き、戦地に赴いているはずの平直方や中原成道からの連絡が来ないが、タイムラグを考えればおかしなことではないと考えていた。

 京都から関東地方までの軍勢の移動には一ヶ月を要することを考えると、そろそろ軍勢が関東に到着し平忠常を討ち取っている頃であろうというのがこの時代の朝廷の認識だったのである。普通に考えればたった二〇〇騎の軍勢で平忠常を討ち取れると考えていたなら正気を疑うしかないが、この時代の議政官の面々は見たくない現実から目を背け続けてきた面々である。これで問題は解決すると考えていたのだ。

 治安悪化は現実のものとして直視しているが、軍勢同士がぶつかり合うのは伝え聞く話であって目の当たりにする話ではない。その上、武士の地位は低い。貴族としての位階の高い者ならいるにはいるが、議政官の面々に言わせるとそれでも下級貴族であって議政官と対等ではない。ましてや、位階を持たない武士など全く視界に飛び込んで来ない存在である。物騒ではあるが、認識としては風景に過ぎないのである。その風景を彩る者同士が殺し合いをしようと、議政官の気に止める対象ではなかったのだ。

 関東地方で反乱が起こっている。それも、平将門の孫が暴れているという情報は朝廷を慌てふためかせる情報ではあった。だから平忠常を討ち取れと命令した。しかし、命令だけして支援をしていない。朝廷の予算がないのは事実であったろうが、それならば私財を投げ打ってでも支援すべきであったのだ。それなのに、自分の懐を傷めることなく命令だけして、平直方がやっとの思いで集めた二〇〇騎の軍勢派遣で関東の反乱を沈静化できると考えるのは明らかに異常事態である。

 その異常事態が議政官の中では日常化してしまったのである。議政官を構成する二〇名の貴族の中に一人として実際に軍勢を指揮したことのある者も、ましてや戦場を目の当たりにしたことのある者もいない。組織図上で軍を指揮する立場にあるのは、単に武官に役職を与えて自派を形成することしか考えていない内大臣藤原教通である。この人は一度も軍勢を指揮したことなどない。

 一方、刀伊の入寇のときに太宰府で陣頭指揮をとっていた藤原隆家は、正二位の位階こそ得ているものの議政官からは外されている。

 つまり、軍事についての討議をまともにできる者が一人もいなかったのである。その面々が決めた机上の空論に基づく命令を、現場の者がこなさなけらばならない。しかも、現場からは「これでは無理です」とする声だけしか挙がってこないのに、朝廷からは「いいからやれ」という返事しかしない。

 これで無事に解決できると考えていたとすれば、その方がおかしい。

 もっとも、現代の人間がそれを笑えるとは言えない。

 平成二六年に面白い出来事があった。自衛隊から韓国軍に対して一万発の銃弾が貸し出されたというニュースに対し、軍事評論家に「一万発の銃弾があれば韓国軍は何日ぐらい戦えるものでしょうか」という取材が来たという。その軍事評論家はこう答えた。「韓国軍は三個中隊と聞いていますので、せいぜい一〇分ですね」と。戦いを知らない者は、「これだけあれば充分だろう」と考える。いや、戦いに限らず、現場を知らない者は「これだけあれば充分だろう」と考える。専門家とまではいかなくとも、少なくとも現場を知っている者がいないところで決められた決定はだいたい乏しい。

 議政官の能力が衰えている。

 これはもう隠しようのない事実であった。

 長和五(一〇一六)年の左大臣藤原道長、右大臣藤原顕光、内大臣藤原公季。

 長元二(一〇二九)年の左大臣藤原頼通、右大臣藤原実資、内大臣藤原教通。

 この合計六人の大臣に仮に筆記試験を課したとしたら、勝つのは長元二(一〇二九)年のほうだろう。だが、政治家の唯一の評価基準である国民生活の向上という点では長和五(一〇一六)年のほうが圧勝している。

 現在でも、学歴で評価すれば安倍晋三や麻生太郎よりも、鳩山由紀夫や福島瑞穂のほうが上になる。おそらく、筆記試験を課したら高得点を叩き出すであろう。だが、鳩山由紀夫が何をしたか、福島瑞穂が何をしたかを考えたとき、とてもではないが評価に値するものなど何も無い。

 また、日清戦争、日露戦争、そして、先の大戦と、当時の軍の指揮官に対して学歴を比較し筆記試験を課したとしたら、先の大戦のほうが圧勝する。戦前昭和の軍人、それも、将官となると試験に次ぐ試験を勝ち抜いてきたエリート中のエリートである。しかし、先の大戦の指揮官が有能であったなどとはとてもではないが言えない。

 知性に基づいて人材を評価することは、客観的に人材を評価できるというメリットがある。ゆえに評価そのものに文句を付ける余地はない。だが、過去の歴史を振り返ると、それで良いのかと言いたくなる。既に答えが出ていることを覚えておく知力はあるのであろうが、未知の問題に対する解決力がない。人を引きつける魅力があるかと言われると断言は出来ない。そして、発想が突拍子もない。「頭の良い俺が考えたんだからこれで正しいはずだ」「間違っているのは実践する方が俺の言うことを実戦しなかったからだ」という独善に陥る。

 無論、自分の能力が低いと自分で認める者はいない。そのような悪口が出てきていることすら認めない者もいる。悪口が聞こえてきても、それが自分に対する正当な評価とは見なさず、愚者の狂った嫉妬としか見なさない。

 そのため、苦情を受け付けようとしない。そもそも苦情が正当な苦情であるとすら考えないし、聞き入れる余地も持たない。独善的に物事を進め、悪化しているという現実から目をそらそうともする。

 トップの能力の衰えを真っ先に感じるのは現場の者である。関東地方に派遣された平直方はもちろん感じたであろうし、派遣されずに放置されている源頼信もまた感じていた。

 それでも、彼らは現在起きている問題を解決する意思と意欲を持っていた。

 問題は、その意思も意欲も失った者である。

 長元二(一〇二九)年一月六日、ある役人が一二〇日連続で休んだ。

 役人の名を右大臣藤原実資は「左大史佐親」と記している。「左大史」というのは役職名であり「佐親」は下の名前である。この表記に姓はない。

 それでも、当時の人は「左大史佐親」という記し方だけで充分であった。何故か?

 「左大史」は小槻(おつき)氏が務める役職と決まっていたからである。本来は議政官の下にある弁官職のすぐ下に位置する職であり、現在の国家公務員で言うと一つの部局の局長というところである。本来ならば大学を出て役人となり、出世街道を登り詰め、貴族になる一歩手前に体験する地位であったのだが、長徳元(九九五)年に算博士でもある小槻奉親が左大史に就任すると、左大史でありながら五位の貴族に昇格するという偉業を成し遂げ、他に後任を務められる者がいないとなり、左大史は事実上、小槻氏の世襲官職となったのである。その結果が小槻佐親の左大史就任であった。

 とは言え、この段階ではまだ世襲もおぼつかない。その上、算博士、現在でいう総合大学の理学部の学部長を務める学者でもあったという優秀な父親と何かと比べられることの多かった佐親である。おそらくプレッシャーとストレスからか自分で職務遂行不可能と判断し。勤務放棄を選んだのであろう。

 これが有能なトップを抱える組織であったら、不向きな職務に就いている者をその職務から外すぐらいの配慮を見せたであろう。それなのに、議政官からの命令は「職務放棄するな」という命令だけである。試験エリートというのは自らの失敗を認めないと同時に、自分にはその能力がないと訴える者に対する理解もできない人種である。

 長元二(一〇二九)年二月、未確認情報ながら、平忠常の反乱は沈静化の欠片も見られないこと、朝廷の派遣した軍勢は反乱鎮圧どころか何もしていないとの情報が届いた。その原因は軍勢の少なさに由来するというのも伝わってきた。

 本来ならここで軍勢の追加派遣をすべきところであった。指揮する者がいなかったわけではない。源頼信がいる。源頼信に命令を下せば清和源氏を率いて関東に向かえたはずである。

 それなのに、朝廷からの命令は、東海道、東山道、北陸道の諸国に対する忠常追討の官符である。命令の降った国は平忠常を討ち取るために軍勢を派遣するようにとの命令であり、そのための費用負担や税の軽減などの朝廷の負担は全くなかった。

 当然と言うべきか、この命令に対する地方の動きは鈍いものがあった。負担だけで見返りのない命令を受け入れる者はいない。

 前年に来日した宋の商人の面会目的は藤原道長であったが、藤原道長が既に亡くなっているだけでなく、この時代の朝廷が関東地方で発生した反乱に対処できないほどになっていることは、宋の日本との提携目的が失われたことを意味した。

 それでも礼儀というものはある。

 長元二(一〇二九)年三月二日、京都までやってきた宋の商人である周文裔(しゅう・ぶんえい)は、後一条天皇でも関白左大臣藤原頼通でもなく、右大臣藤原実資と面会し、書状と、交易品を藤原実資に渡している。

 歴代の中華帝国の認識では、まず中央に中華帝国があり、その周辺には蛮族がいるという世界構図になっていた。蛮族の中でも中華帝国に臣従する国の方が格上で、それらの国は中華帝国から国王の称号が与えられるが、臣従しなければそれよりも格下と扱われる。現実的には東アジアだけでしか通用しない認識であるが、中華帝国はそれが全世界に通用すると考えていた。

 ところが、他ならぬ東アジアに日本という例外がある。何しろこの国は自らのトップを天皇、すなわち、中華帝国の皇帝と等しい存在と称すだけでなく、この時点で既に一〇〇〇年以上、伝説まで含めれば一六〇〇年以上続く皇統を誇っていおり、日本に比べれば宋などつい最近生まれたばかりの新興国にすぎないのだ。その上、日本という国は、中華帝国の冊封に入らなかった国である。入る意欲を全く見せないどころか、歴代の中華帝国の方を蛮族扱いして平然としている。しかも、宋が五代十国の混乱を鎮め統一を実現させた頃は宋の軍事力に抵抗する動きを見せていたが、今は契丹やベトナムに対して宋がどのように敗れ去ったかを熟知している。

 さらに、宋に対して朝貢する国は宋の富や進んだ文明を学ぶことも求めていたが、これもまた日本からのアクションはゼロ。民間人が交易しに来ることはあっても国として宋と関係を持とうという意欲もないだけでなく、ましてや宋から学ぶものなど何一つないという態度でいる。

 このような国に対し、向こうからアクションを起こしてくることを期待しても無駄である。この時点で接触を必要としているのは宋の側だけであり、日本は宋を必要としていない。それで宋からの使者派遣はあくまでも一民間人の派遣という体裁をとったのだが、宋の皇帝が正式に派遣した使者ならともかく、一商人に過ぎない人物との面会を、天皇や、天皇の代理としての政務も可能な関白が引き受けることはありえなかったのである。

 宋は、二重の意味で日本との折衝を断念せざるを得なくなった。一つは日本の軍事力。その乏しい軍事力では、契丹に、あるいは高麗に軍を向けてもらうなど無駄である。二つ目は日本の宋に対する態度。宋の方から日本と国交を結びたいというなら結んでやってもいいが、日本からは宋に対するアクションを起こすつもりなどないというのが日本の態度である。

 さて、この時代の人臣最高位者は関白左大臣藤原頼通であるが、左大臣としての藤原頼通には、理論上、上司がいる。太政大臣藤原公季がその人である。

 藤原公季は、母が朱雀帝と村上帝の実姉である康子内親王であったこともあり、幼い頃は宮中であたかも皇子であるかのように育てられたという逸話があるが、青年を迎えた後の政治家藤原公季についての逸話は乏しい。唯一の記録となると、紫式部日記の中で、敦成親王の五〇日の儀において、酒に酔って泣き上戸になり、泣き続けて収拾がつかなくなったことぐらいである。

 藤原公季は、天皇の孫という血筋の高さからも藤原道長のライバルとして君臨することも可能であったはずなのに、選んだのは甥である藤原道長の側近となることであった。長徳三(九九七)年から寛仁元(一〇一七)年にかけての実に二〇年に渡って左大臣藤原道長を支える内大臣であり続け、藤原道長の政権を支え続けたのである。

 その後、道長の太政大臣昇格に伴って右大臣に昇格して四年を過ごし、藤原道長の後をめぐる権力争いの末に太政大臣となって議政官の第一線から離れ、事実上の閑職に追いやられていた。

 その藤原公季の体調悪化の報が長元二(一〇二九)年八月に届いてきた。右大臣藤原実資の日記には、太政大臣が病に倒れたとだけ記しているがこの時点で既に七一歳という高齢であったこともあり、誰もが来るべき時が来たと考えた。なお、長子の藤原実成が五五歳の正二位の中納言、藤原実成の長子の藤原公成が三一歳の正四位下の参議であり、藤原公季自身の後継者の育成も成功していた。特に、藤原公季の孫にあたる藤原公成は公季が特に目を掛けて育てており、太政大臣としての公的行事に参加する際にも孫の公成を帯同させていたほどである。

 もっとも、藤原公成は祖父が望んでいたほどの栄達を遂げてはいない。しかし、藤原公成の子孫は明治維新まで続いており、明治維新後に太政大臣となった三条実美や最後の元老となった西園寺公望は藤原公成の子孫である。

 長元二(一〇二九)年九月一六日、突然のニュースが朝廷を騒がせた。従一位関白左大臣藤原頼通が病気を理由に辞表を提出したのである。

 九月一二日には既に藤原頼通が病気に倒れたことは朝廷にニュースとして飛び込んできていた。この時代は病原菌という概念は無くても伝染病という概念ならばある。そして、病気を食い止めるには風水に基づいて療養場所を変えるという考えがある。迷信と言い切ってしまうと身も蓋もないが、風気の流れや上下水道の清潔さを考えるとあながち嘘八百とは言えない。

 頼通が療養場所に選んだのは源道成の邸宅であった。源道成が何らかの特別な医療知識を持っているわけではなく、純粋に場所を選んでのことである。

 このとき右大臣藤原実資は、太政大臣藤原公季が重病になっていることに加え、左大臣藤原頼通が病気で倒れたことで、政務を一手に引き受ける身となっており、かなり忙しい日々を過ごさなければならなくなった。このとき藤原実資七三歳。病気で倒れた太政大臣藤原公季よりも、亡くなった藤原道長よりも歳上である。誰の目にも老体に鞭打って奮闘することを求められることが明白であり、全てを捨てて投げ出したとしても理解され同情されるであろう状況である。本来ならば関白としての藤原頼通が引き受けなければならない政務も右大臣として代行しており、右大臣藤原実資がこの時点の朝廷でただ一人そびえ立つ大黒柱に見えるようになってもいたのだ。

 その奮闘を一瞬にして萎えさせたのが九月一五日に飛び込んできた知らせである。

 太政大臣藤原公季が、太政大臣を辞任すると同時に後任の太政大臣に右大臣藤原実資を要望すると申し出たのだ。あくまでも要望であって指名ではない。だが、七三歳の高齢者に対する名誉の称号としては理解できることであった。これが他のタイミングであったら藤原実資も藤原公季の配慮に感動していたであろう。だが、今は老いた自分が一人で朝廷を支えているという強い使命感を抱いている。そのタイミングで実権を捨てて名誉職になれというのは理解できない話であった。

 というところで飛び込んできた藤原頼通の辞表。藤原実資は何とも言えない脱力感に襲われることとなった。

 藤原頼通の辞表は却下されたが、頼通が病床にあることに違いはない。そのため、関白としての職務である内覧が、藤原実資の甥で、このとき正三位権中納言の藤原経通に臨時に与えられることとなった。

 藤原頼通が倒れたことでにわかに脚光を浴びることとなったのが藤原氏の後継者問題である。一度は藤原頼通の後継者であると藤原道長に指名された源師房であるが、摂関の後継者となることは可能でも、藤原氏の後継者となることはできない。

 藤原頼通の正室は具平親王の娘である隆姫女王であり、既に記したように、皇族を正室に持つ身になるとそう簡単に側室を構えるなどできない。そしてこれも繰り返し記すこととなるが、この時点で隆姫女王の産んだ子は一人もいなかった。そこで、隆姫女王の実弟である源師房に加え、頼通の弟である教通の子の信家を養子として迎え入れている。また、後年のことになるが、源師房の子である源俊房と源仁覚の兄弟も養子として迎え入れている。

 頼通の甥にあたる藤原信家を養子として迎え入れたことは良房が基経を養子として迎え入れた先例に該当する。藤原氏のトップである藤氏長者を誰が継ぐかと考えたとき、藤原信家であれば血筋として問題ない。だが、このときの藤原信家はまだ一〇歳なのだ。元服も迎えていない少年を後継者とするなど許される話ではなかった。

 皇室の女性を妻として迎え入れていても側室を持つべきであるとの考えがいつ成立したかはわからない。判明しているのは、万寿二(一〇二五)年に「対の君」と呼ばれる本名不詳の女性が頼通の子である藤原通房を産んだこと、長元元(一〇二八)年に隆姫女王と血縁関係にある藤原祇子(源祇子と記す史料もある)が男児を産んだことである。ただし、藤原通房は母の身分の低さから後継者候補から外され、藤原祇子は妊娠中に頼通から離れさせられ橘俊遠に嫁がされ、生まれた子も橘俊遠の養子とされたため、藤原の姓を持つことなく橘氏の一員となった。藤原祇子に対する仕打ちは隆姫女王の嫉妬によるものと歴史書は記しているが、その歴史書である「愚管抄」は、この時代から二〇〇年後に記された歴史書であり、同時代史料ではない。

 つまり、この時点で藤原頼通と関係を持った女性が三人いて、一人が正妻、一人が無名の女性、そして最後の一人が橘俊遠の妻になった藤原祇子である。

 この藤原祇子がにわかに脚光を浴びることとなった。正確な日時は不明であるが、この頃藤原頼通の元に戻ってきたのである。目的はただ一つ。一刻も早く藤原頼通の子、それも、皇族に嫁がせること可能な女児を産んでもらうことである。

 藤原頼通の体調は長元二(一〇二九)年九月二二日には小康状態になった。それまでは頼通が自分の命の終わりを覚悟したほどであり、小康状態になったと言ってもまだ万全とまでは行かなかった。

 父道長も病弱ではあったが、病床の道長はリモートコントロールで政務を展開できていた。一方、頼通はリモートコントロールなどゼロである。病床で指示を出すほどの意欲がなかったのではなく、リモートコントロールのために動ける人がいなかったのである。何度も記しているが、藤原頼通は人を引きつける魅力を欠いている。手足となって動いてくれる人間がおらず、藤原氏のトップであるために側に仕える人間ならばいるが、頼通個人の魅力に引きつけられての人間ではない。それでも道長がやっていたのと同じようなリモートコントロールに携わるように命じられればその通り動けたであろうが、人を引きつける魅力を持たぬまま年齢を重ねてきた者は人に指示を出す能力を欠いている。

 それでも無能ならまだいい。周囲の者が思いを図って行動するからどうにかなる。ところがやっかいなことに藤原頼通は有能なのだ。有能であるために多少困難なことも自分でこなせてしまう。こうなると、いざというときに機能しなくなる。

 結局、藤原実資が国政を取り仕切り、関白としての職務は臨時の内覧になった藤原経通が代行する仕組みでどうにかやり過ごした。

 九月二三日、いったんは小康状態となった藤原頼通の病状が再び悪化。と同時に二度目の辞表が提出された。このとき藤原頼通は自分の死を真剣に考えたようである。

 このときの頼通の病状がどのような症状であったのかを伝える史料はない。同時期に権中納言藤原定頼がおたふく風邪で倒れたという記録があるが、頼通がおたふく風邪であったかどうかは不明である。症状の長さを見てもおたふく風邪にしては長すぎる。死を覚悟したとしてもおかしくはなかった。

 二日後の九月二五日、頼通の病状は確かに悪化しているが、辞表の受理は拒否すると決定した。それだけでなく、長元二(一〇二九)年九月二七日には藤原頼通の病状は回復しており、今後、頼通の辞表は常に却下するという公式発表が為された。無論、病状回復を宣言しただけで勝手に病気が治るわけではない。

 長元二(一〇二九)年一〇月一七日、従一位太政大臣藤原公季、七三歳で死去。同日、中納言藤原実成と参議藤原公成が喪中となった。

 一〇月二二日、亡き藤原公季に正一位の位階と仁義公の名が送られた。太政大臣職が空席となったが、既に長期に渡って太政大臣は閑職同然となっており、藤原公季の死が国政に影響を与えることはなかった。

 それよりも危惧されたのは空席となった太政大臣に藤原実資が祭り上げられるのではないかということであった。

 藤原頼通がいつ議政官に復活したのかのかは不明であるが、しばらくは元気溌剌の状態ではなく、かなり無茶しての参内であったこともあり、結局は藤原実資が議政官を取り仕切らなければならなかった。

 藤原実資が大黒柱となっている議政官から藤原実資を取り除いたら、国政に与える影響が冗談では済まないものとなる。一方、藤原実資の七四歳という年齢は、いつ何があってもおかしくない年齢であり、順当に行けばこのタイミングで太政大臣になるのはおかしな話でもないのである。

 この時代の国政は文字通りの綱渡りであったのだ。

 この綱渡りの国政における最大の問題は何と言っても平忠常の反乱であった。

 対策を打っていなかったわけではない。実際、朝廷にしてみれば鎮圧を命じたし、そのための軍勢が出発したのも見届けたのである。ただ、前年八月に関東地方に向けて出発してから一年以上に渡って何の連絡も無かったのだ。正確に言えば、平直方からの連絡はあった。連絡はあったが、その内容が嘘八百であった。平直方からの書状には、反乱を起こした平忠常が出家して常安と名乗る僧侶となったとあったが、その書状以外に平忠常が出家したという情報はどこにも無く、その代わりに届くのは相変わらず平忠常が暴れ回っているという知らせである。

 それでも連絡を送っただけ平直方はマシであると思われるほどのいい加減であったのが中原成道である。何しろ書状一つ送らずに平然としていたのだ。これが、もともと関東に行くのを嫌がり、「問題だというなら関白頼通も一緒に関東に来い」「母親の病気が治るのを見届ける義務がある」などあの手この手で関東行きを拒否していたのを無理矢理出発させた結果である。

 これに対し痺れを切らしたのか、長元二(一〇二九)年一二月八日、追討使中原成道を罷免するとの発表がなされた。その仕事をやりたくないと言っていたのに無理矢理押しつけられたので、徹底してボイコットを続けたおかげで、ついに念願の罷免を勝ち取ったというところか。

 誰もが、房総半島で暴れている平忠常をどうにかしなければならないと考えている。だが、それをやるのは自分ではない誰かであり、誰もが自分の仕事ではないと考えている。やりたいと名乗り出たわけでもないにも関わらずやるように命令され、それでも支援するならまだ納得できるが、何の支援もないどころか自分で負担しろと言われるだけ。その結果がこれである。

 話はそれるが、現在のブラック企業問題の解決法はこのあたりにもあるのではないかと考える。やりたくないこと、自分の能力ではどうにもならないことを押しつけられ、それでも頑張ってこなしてしまうので次の命令が来てしまう。

 ブラック企業問題の解決は、経営者に改善を求めても、法律による規制を求めても根本改善は見られない。それより、薄情と言われようと、無責任と言われようと、やりたくないことはしない、自分のできる以上のことはしない、貰っている給料以上のことはしない、目の前で問題が起こっていても無視する、文句を言うならクビにして貰って結構、このような態度を貫けばいいのである。働く者の側が動けばブラック企業は存続できない。

 ビジネスは歴史を教科書とできるケースが多い。ブラック企業問題もまた歴史を教科書とできるビジネスケースである。

 やりたくない者に無理矢理やらせても結果は出ない。

 やりたい者がいない場合、相応の対価は絶対に必要である。それも、やり甲斐や名誉といったどうでもいいものではなく、目に見える対価が必要である。給与を上げたり、出世させたり、進学先や就職先を用意したりといった対価が絶対に必要である。

 中原成道の失敗はこうした対価を全く用意することなく命令だけをした結果である。それは平直方も同様であるが、平直方の場合は関東地方に土地を持つ武士であるため、平忠常を打倒するととは関東地方における自らの勢力拡大につながる。ゆえに、やりたくない仕事を押しつけられたのは事実でも、仕事を終えた後の対価という点では期待が持てたのである。

 とは言え、対価に期待が持てても、戦闘を挑んだら敗れることはわかっている。「死んでも守る」という精神状態は命を懸けても良い対象があるからできる話であり、そうでなければ、「相手に勝った上で自分は無傷のまま生き残り、今までよりも良い暮らしを手にする」という精神状態である方が普通である。その普通の精神状態である者に死を命じたところで、言われたとおりに死を覚悟して戦いに臨むわけなどない。戦わなければ殺すという命令が届いたとしたら、その命令を出した者を殺す方がよほど利口である。

 朝廷は、平直方が、房総半島で暴れ回っている平忠常の消耗を狙っていることを理解していた。正面から戦ったら敗れるが、消耗して戦えなくなった相手ならば勝てるのだ。そして、平直方にはそれ以外に勝利の方法がないことも理解していた。

 一方、房総半島の国司たちから届くのは悲痛な叫びであった。

 反乱勃発から三年目の長元三(一〇三〇)年、平忠常の勢力は房総半島をほぼ征圧していた。それだけでない。これだけ広大な領地を占領下に置くようになっていながら、平忠常の所在が全く掴めなくなったのだ。

 朝廷に届くのは、占領下にある人たちから届いた必死の思いの訴えである。平忠常の軍勢に全て奪われ、来年の種籾どころか今日を生きるための食料も無くなった。田畑は焼け野原と化し、住まいは焼け落ち、男は奴隷、女は性奴隷として連れ去られて行方がわからない。連れ去られるのを逃れた者は、生きるために兵士となって平忠常のもとに下るか、あてもなく逃げ惑うしかなくなっている。

 この悲痛な叫びを前に朝廷は何もできなかった。平直方が選べる唯一の勝利への手段が、あまりにも激しい被害を生んでいるのだ。

 長元三(一〇三〇)年三月二七日、殺害された平惟忠に代わって安房国司を務めていた藤原光業が、平忠常の軍勢に攻め込まれ京都に脱出。しかも、安房国の印鎰を捨てて逃げ帰るという失態を演じた。事実上はどうあれ、名目上、安房国の印鎰が平忠常ものとなった、つまり、平忠常の出す書状が安房国司としての正式な書状となる事態を招いたのである。

 それでも京都に脱出できた藤原光業はまだ幸せだった。下総国司の藤原為頼は、下総国全体が飢饉となり、国衙で保管していた食料はとっくに食べ尽くし、国司自らが餓死寸前の様相であっただけでなく、妻と子が国衙で亡くなった。それでも一縷の望みを託して京都に書状を送ったが、京都の朝廷からの返信はなく、軍勢の派遣もなかった。

 安房国司が京都に逃れたため、後任の安房国司を選ばなければならなくなったが、いつもなら国司の空きが出たと聞くと大勢の貴族が自己推薦文を手に朝廷に詰めかけるのに、このときは誰もやってこない。仕方なく、平正輔を安房国司に任じるが、平正輔は安房国に赴くどころか、伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返しており、任国に向かう素振りも見せなかった。

 房総半島から届くのは悲痛な叫びだけ。

 朝廷から送られるのは対策にならない対策だけ。

 この現実を前に多くの京都市民が絶望の様子を見せるようになった。

 平忠常が反乱を起こしたと聞いたときは朝廷の無為無策に怒りを見せ、一刻も早い事態の沈静化を願っていたが、その答えは二〇〇騎という異様なまでに少ない軍勢である。それでも戦地に赴くなら話はわかるが、届く情報と言えば戦地に向かわずにいることと、房総半島の被害が日に日に惨くなっていくことだけ。朝廷に即効性のある抜本的な対処を求める市民の声はあったが、そんなもの無いと思い知らされ、世の荒廃を嘆くしかできなくなったのだ。

 そんな中、それまで所在がつかめなかった平忠常が、上総国夷隅郡に根拠地を築いているという情報は入ってきた。根拠地を叩けばどうにかなる。そう考えた市民の多くはさらなる軍勢派遣を要請したが、朝廷からの返答は鈍かった。

 長元三(一〇三〇)年九月二日、朝廷は一つの決断をした。平直方を更迭し、新たに源頼信を追討使に任命する。また、関東地方の諸国の国司に対し軍勢の提供を命令したのである。

 まったく、なぜもっと早くこれができなかったのか!

 源頼信はいつでも軍を率いて関東に向かうことができたのである。しかも、清和源氏と言えば藤原道長の存命中の頃から武のトップと見なされていた家系であり、源頼信はその頭領である。源頼信が一声掛ければ、少なく見ても四ケタの、うまくすれば一万人以上の軍勢を集めることも可能だったのだ。実際、このときはただちに五〇〇〇騎もの軍勢を集めている。その上、藤原道長と清和源氏との個人的なクネクションはまだ健在だったのだ。国の正式な軍勢派遣でなくとも、道長の子として藤原頼通が清和源氏に依頼を出せばそれで完了したのである。

 しかも、他ならぬ右大臣藤原実資が源頼信の派遣を当初は訴えていたのである。それを却下し、平直方と中原成道の二人を選んだのは左大臣藤原頼通であった。

 源頼信はかつて平忠常の上官であった。と同時に、武人としての能力が高かった。凡なる二将から凡なる一将を経て、非凡な一将が指揮するようになったのである。

 この時点の源頼信は甲斐国司である。ところが、源頼信はこの頃京都にいた。甲斐国に赴いていなかったか、一時的に京都に戻っていたかのどちらなのかわからない。一般に、赴任すると任期満了まで帰京しないものであるが、事態は一刻を争っている。赴任していたとしても京都に呼び戻すのはおかしな話ではない。

 判明しているのは、京都で作戦を練った上での出発となったという点である。

 源頼信の選んだ方法は、一見すると卑怯な方法である。京都で僧侶になっていた平忠常の息子を連れて関東に向かったのだ。

 長元四(一〇三一)年二月一九日、太宰府から一つの連絡が来た。済州島独立運動への支援を求めてきたのである。

 現在、済州島は韓国の領土の一部であるが、この時代の済州島は韓国の領土ではなかった。では、何であったかというと、耽羅国という半独立国である。半独立国と記すには理由があり、かつては新羅に、この時代は高麗に服属してはいるものの、独自の言語を持ち、王をいだき、独自の外交を展開していたのである。高麗が契丹と一〇年に渡る戦争を繰り広げた末に廃墟となったこの時代、契丹の直接の侵略を受けなかった済州島は、再び独立国となるために動き始めたのである。

 そのための選択肢の一つが日本であった。耽羅国はもともと独立国であったが、継体天皇の時代の五〇八年に百済に服属するようになり、百済が滅亡すると、百済の宗主国であった日本に服属するようになった。朝鮮半島を統一した新羅にとって済州島は目の上のこぶであり続けたのである。

 しかし、日本との関係は天武天皇の時代の六七七年に終わりを迎えた。唐と敵対することを天武天皇が選ばなかったからである。日本との関係が潰えた済州島は新羅に服属することで新羅からの侵略を食い止めることに必死であった。

 その後、新羅滅亡の後で一度独立し、高麗による朝鮮半島統一で再び独立を失っていた耽羅国にとって、高麗が契丹に侵略されていることはむしろチャンスであった。

 このチャンスをより確実なものにするために日本に近寄ってきたのである。

 頼られて困るのは日本である。耽羅国は確かに朝鮮半島と異なる文化があり異なる言語の国である。だが、独立国であり続けることのできる背景が無い。土地が貧しいのだ。高麗も豊かとは言えないが、耽羅国はもっと貧しい。そのため、耽羅国の人は昔から交易で生きてきたのである。

 交易というのは、交易先が平和であることが大前提である。交易拠点は軍事上の重要拠点であることが普通だから軍事基地があるのは当たり前のことであるが、その交易拠点が独立を目指して戦争を仕掛けるだけでなく、交易に携わる国を巻き込もうとするのは自殺行為とするしかない。

 耽羅国の目論見は失敗に終わった。いや、この目論見そのものがかなり切羽詰まった末の行動であり、耽羅国の行動が異常で、日本の対応が当たり前であったとするべきか。

 長元四(一〇三一)年四月二八日、平忠常の乱は唐突の終わりを迎えた。源頼信が平忠常の息子を連れて関東地方に軍勢を進めたと知った平忠常が、源頼信の前に息子二人と家来三人を伴って源頼信の前に現れたのである。

 武装解除をした上での全面降伏を選んだのだ。

 房総半島が焦土と化しこれ以上の反乱を続けることはできない。その上、平忠常自身も病気となりいつ命を失うかわからない状態となっている。このまま反乱を続けても勝てないだけでなく失われる命も多すぎる。ならば、反乱の首謀者である自分が降伏することで、共に戦った仲間の、そして、房総半島の庶民達の命を命を救おうとしたのであろう。

 後に上総国司となる藤原辰重が上奏した報告によると、平忠常が反乱を起こす前の上総国は二万二〇〇〇町の田畑があったが、反乱終結後はわずかに一八町に減ってしまったという。しかも、田畑がそれだけ減ってしまった理由の大部分は、平忠常の軍勢ではなく、朝廷の派遣した軍勢による被害であったという。

 この惨状を前に、平忠常も源頼信も同じ判断を下した。既に限界まで血が流れているのに、これ以上の血を流すことはできない。

 源頼信は、平忠常は反乱の首謀者として京都に連行する、平忠常の息子の命は助けるという結論を下し平忠常を伴って京都に戻ることとした。

 ただ、病身である平忠常は京都に戻るだけの体力を残していなかった。

 長元四(一〇三一)年六月一六日、美濃国で平忠常死去。源頼信は平忠常の首を切り落とし、平忠常の首を携えて上洛した。

 朝廷は源頼信の結論を承認。平忠常は、本来ならば死罪に該当する犯罪であるが、既に亡くなっているため不問とする。また、平忠常の子供を無罪とするという結論も承認した。平将門と違い、切り落とされた首が晒し首になることは無く、関東へ戻る子供たちに父親の首が返されることとなった。

 名を馳せた源頼信に対し、名を汚したのは平直方である。だが、非難一辺倒であった平直方を源頼信は擁護したのだ。そもそも軍勢を集める手助けもせず、兵糧の用意も手伝わず、命令だけ出して費用は自分持ちなどという馬鹿げた命令を下したからこうなったのだと主張。房総半島が焦土と化したのも、命令だけして負担を引き受けない朝廷の態度に責任があるとしたのである。

 この正面切っての朝廷批判は、朝廷における源頼信の立場を危うくするものがあったが、関東地方の武士たちには好評を持って迎え入れられた。

 特に、平直方からの感謝はかなり高いものがあった。まず、平直方は娘を源頼信の息子で相模国司の源頼義に嫁がせると決まった。さらに、それまで平直方の持ち物であった鎌倉にある邸宅を源頼義に差し出すと決まった。平忠常の死によって関東地方の武士団をまとめる地位に就く者がいなくなったが、この結婚と邸宅譲渡の結果、その地位を源氏である源頼義が就くこととなったのである。

 このときから鎌倉が源氏の本拠地となった。そして、北条、千葉、梶原、江戸、畠山、梶原といった関東地方の平氏の傍系がことごとく源氏の家臣となった。後の源平合戦で、源氏方に平氏の血を引く武士が数多く参戦することとなるが、そのときのきっかけはこのときの決断である。

 歴史の教科書における平忠常の乱の扱いは極めて少ない。だが、後の鎌倉幕府に、いや、明治維新までの武家政権のきっかけはこの反乱であり、そして、関白左大臣藤原頼通のこのときの対応である。

 頼通は自分の決断が後の武家政権を生むきっかけとなるなど想像もしなかったであろう。確かに頼通の時代はまだ、藤原道長の敷いたレールが健在であり、システムが強固なものとして君臨していた。しかし、時代は確実に武士の時代へと動き出したのである。


- 欠けたる望月 完 -

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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