貞信公忠平 7.危機の終焉 京都はきわめて絶妙なタイミングで救われることとなった。 天慶三(九四〇)年二月二二日、追捕使の小野好古から、純友率いる軍勢が京都に向かって進軍しているという情報が届いたのである。純友は自分が従五位下に任じられたことを最大限利用しようとした。自分に地位を与えてくれたことへの感謝の報告をするという名目で軍勢を率いて京都に向かおうとしたのである。 このニュースを聞きつけた藤原忠平は慌てて外に飛び出し神々に祈りを捧げたと記録に残っている。承平天慶の乱そのものには平然を装っていた忠平も、いざ京都が戦場になるかという事態を目の当たりにして冷静さを失ったと見える。 ところが、その三日後である二月二五日、将門の死を伝える連絡が京都に届いた。この知...2012.12.31 15:35平安時代叢書
貞信公忠平 6.平将門の破滅 興世王は良かれと思って税を集めたが、待っていたのは領民からの激しい反発であった。国府の前に興世王を非難する匿名の手紙が置かれていたことは、興世王のプライドを大きく傷つけた。そして、武芝の元に多くの領民が詰めかけて一大勢力を築いているだけでなく、武蔵武芝が近頃名を馳せている平将門と接近したという知らせまで届いた。 この状況でなお徴税を進めるほど、興世王は愚かな男ではなかった。興世王は武芝との和睦に応じたのである。 それにしても奇妙な光景である。国司である興世王が、郡司である武蔵武芝と対立して戦闘状態寸前に至ったのみならず、この二者を仲介したのが、無位無冠の一庶民でしかないはずの、しかも、武蔵国の住人ですらない平将門である。 興世王も...2012.12.31 15:30平安時代叢書
貞信公忠平 5.関東大乱 将門は敗走した。民衆を見捨て、妻子を見捨てた将門であるが、武具は健在である。ゆえに、再度の武装に要する時間は短縮できる。新たな本拠地とした猿島で将門は良兼打倒の軍勢を整え始めた。 一方、良兼の元に捕らえられた将門の妻子がどのようになっていたかを伝える史料はない。一説によると、このとき捕らえられた将門の妻は良兼の娘であるという。だとすれば、この時代の戦闘で捕らえられた女性の人質に一般に見られたような運命、つまり、レイプの対象とされることはなかったのではないかとする説がある。とはいえ、将門側の史料にはレイプされそうになったときに自死を覚悟したため、貞節を守ることができたとあるから、未遂にしろ似たようなことはあったのであろう。 実の娘や...2012.12.31 15:25平安時代叢書
貞信公忠平 4.反乱勃発 関東地方で平氏同士の争いが展開されているというニュースは京都にも届いていた。届いていたが、京都に届いたとき、そのニュースはその他大勢のニュースの一つに紛れ込んだ。 ではそのとき、京都にはどのようなニュースが届いていたのか。 圧倒的な割合で話題を占めていたのは、何といっても瀬戸内海の海賊である。特に、伊予国の藤原純友の率いる海賊が最大の問題であった。瀬戸内海と山陽道という当時の二大幹線を制圧しただけでなく、四国北部もまた海賊の支配下に入ってしまったからである。 そして、関東地方からは戦乱のニュースが届くだけだが、瀬戸内からは海賊が暴れ回っているというニュースだけでなく、数多くの民衆が殺害され、家を失い、田畑を失い、難民となっていると...2012.12.31 15:20平安時代叢書
貞信公忠平 3.平将門登場 朱雀天皇の治世と藤原忠平の生涯を追いかけるとき、絶対に欠かすことの出来ない人物が一人いる。 より正確に言えば、その人の時代であることを説明するとき、京都で一番勢力を持っていた貴族の名が藤原忠平であり、そのときの天皇が朱雀天皇であるという説明の成されることが普通である。 その人物の名は、平将門。 多くの歴史書では道真の死の後すぐに平将門を描く。もしくは、道真の怨念を描いてから平将門を描く。つまり、この二つの事件を連続して描くことが多いが、今回の作品ではそのようなスタンスをとっていない。それは、この二つの事件が連続していないからである。何しろ道真の死からここまで四半世紀もの時間差があるのだ。 前作「左大臣時平」で菅原道真の死から五年後...2012.12.31 15:15平安時代叢書
貞信公忠平 2.道真怨霊伝説 延喜一七(九一七)年一二月一日、奈良から東大寺で大火が発生したとの情報が届いた。講堂と僧坊の焼失は大きな損害となった。 それは例外ではなかった。 この年の冬、異常気象が日本を、特に近畿一帯を襲ったのである。 冬の乾燥は日本の太平洋岸の気候ならば珍しくない。それは京都も同様で、京都は琵琶湖を通じれば日本海に出られる立地条件であるとは言え、東、北、西の三方が山に囲まれているため、日本海からの気候は山で一度リセットされる。そのため、冬に北から風が吹くとすれば、その風はだいたい乾いた風である。 しかし、いくら乾いた風であろうとそれには限度がある。 この冬は雪も雨も降らなかったのだ。乾燥は井戸水の枯渇を招き、生活用水の枯渇を招いた。京都は東...2012.12.31 15:10平安時代叢書
貞信公忠平 1.忠平政権 聡明にして寛大な性格は誰からも愛され、その死は全ての人に計り知れない悲しみをもたらしたと歴史書は伝えている。 兄である藤原時平の死から四〇年に渡って権力を握り続けただけでなく、藤原氏の権力の系譜も忠平から生まれている。太政大臣や摂政・関白を制度として確立し、武家社会の到来で形骸化するとはいえ明治維新までの九〇〇年を数える長期体制を構築したのだからその政治家としての手腕も高いものがあったというしかない。 しかし、この人が権力を握っている間の日本はどうであったか? これは褒められるようなものではなかった。 東北では蝦夷が反乱を起こした。 関東では平将門が反乱を起こした。 瀬戸内では藤原純友が反乱を起こした。 そのほかの小さな反乱を加え...2012.12.31 15:05平安時代叢書