天暦之治 3.安和の変 そもそも藤原独裁とは何か? 血筋による藤原北家の権力継承という答えは正解ではない。 正解は、藤原氏の教育機関である勧学院の出身者による権力継承である。 律令制によれば、国の教育機関である大学寮を卒業して役人となり、経験を踏んで出世した後に貴族となるのが決まりである。そして大学寮では律令と律令に基づく政治学が教えられる。ゆえに、律令制の元での教育を受けた者は誰もが律令派となる。これは藤原冬嗣とて例外ではなかった。 だが、藤原冬嗣は自分の子供たちを大学に通わせなかった。その結果、藤原長良も藤原良房も、独学で学識を身につけ政治の世界に飛び込むこととなった。そして、律令は必ずしも現状と合致するものではないという反律令の思想が誕生し、律令に...2013.10.31 15:15平安時代叢書
天暦之治 2.藤原北家再興 藤原良房の時代から、源氏の面々は藤原氏とのつながりを深めるのが当たり前であった。この意味で、清和源氏の行動はこれまでの源氏の伝統を継承していると言える。 とは言うものの、源氏の行動はただ単に藤原氏の臣下になったという意味ではない。藤原氏に近づいて藤原氏を利用したのである。 その方法の多くは、藤原良房を支えた源信や、藤原基経を支え藤原時平を育てた源能有のように、その時代の藤原氏のトップと深くつながることで自身の出世を果たすと同時に、自身の考える政治を実現させるものであった。 これが可能であったのも、これまでの源氏の面々が藤原氏の提唱する反律令の現実主義に賛意を示したからである。 源氏の中でも臣籍降下されて間もない者の多くは、貴族とな...2013.10.31 15:10平安時代叢書
天暦之治 1.村上天皇親政 村上天皇の妻は太政大臣藤原忠平の次男、藤原師輔の娘である。その上、忠平の長男である藤原実頼は四八歳の左大臣、そして、義父でもある藤原師輔は四〇歳の右大臣。さらに、忠平の四男の藤原師氏が三五歳の参議、五男の藤原師尹が二八歳の参議である。これらに加え、彼ら藤原兄弟の上に関白太政大臣である藤原忠平が君臨するという藤原独裁の真っ直中なのが、「天暦の治」のスタートである天暦元(九四七)年四月二六日の政治情勢であった。しかも、村上天皇はこのときまだ二一歳の若者であり、関白を置いていることからも明らかなとおり、村上天皇に与えられた権限は乏しいとしか言いようがない。これはどう考えても、村上天皇はこれからの治世として、藤原忠平の構築した藤原独裁の政...2013.10.31 15:05平安時代叢書