戦乱無き混迷 4.寛和の変と尾張国解文 花山天皇のような独善的な政治を行う人には一つの特徴が見られる。それは、側近を必要以上に重視し、能力以上に取り立ててしまうということ。 敵と味方が歴然としていて敵と妥協する意志を見せない者が味方だけを頼りにするのは珍しい話でない。極論すれば現在の議会制民主主義だってこの原則なのである。内閣のどこを見ても与党ではない人間はおらず、政府を批判する野党は議会にいることならばできても内閣に関わることはできない。もっとも、敵と妥協しないというわけではなく、ときには敵である野党の意見を入れて政策を展開することもあるが。 問題は花山天皇の味方になった人間である。その人たちの政治能力が高いならばいいが、能力もなく、花山天皇の政治賛成する気持ちもなく...2014.05.31 15:20平安時代叢書
戦乱無き混迷 3.花山天皇の暴走 天延四(九七六)年五月一一日に焼け落ちた内裏を復旧させ、避難していた円融天皇が内裏に戻ったのが貞元二(九七七)年七月二九日。それから三年四ヶ月になろうという天元三(九八〇)年一一月二二日、また内裏が焼亡した。 平安京の天災や人災に慣れてしまった当時の人たちは、内裏の火災にももう慣れてしまっていた。応天門炎上事件では大騒ぎしたのが嘘であるかのように、あるいは天延四(九七六)年の内裏火災に恐れを抱いたのが嘘であるかのように、平安京の民衆は何の感情も見せなかった。「また内裏が燃えたのか」という程度しか感想を抱けなかった。そして、内裏焼亡の対応についても手慣れたものになってしまっていた。 それでも円融天皇はできる限りのことをしたのだ。ただ...2014.05.31 15:15平安時代叢書
戦乱無き混迷 2.兼通から兼家へ 天延三(九七五)年六月一六日、六衛府官人らが給与支払いを求めてストをはじめた。防人の消滅と武士の台頭により勢いを弱めていた朝廷直属の武官であるが、いかに勢いを弱めていると言っても武器を手にした人間が一斉に集ってストを始めたのであるからこれはただごとではない。 彼らもまた、藤原兼通の口出しの被害者であった。人手を減らされてもノルマはそのまま、それでいて、ノルマを果たせなければ減給なのだからやっていられないという考えだったのだろう。 藤原兼通は当初、ストを甘く考えていた。自分が命じればすぐに沈静化すると考え、太政大臣の名でストの中止を命令。しかし、これは火に油を注いだものになった。 デモの参加者は日に日に増えていき、給与を元に戻すまで...2014.05.31 15:10平安時代叢書
戦乱無き混迷 1.伊尹から兼通へ 藤原実頼の死後、藤氏長者は藤原師輔の長子藤原伊尹の手に移り、摂政の地位にも藤原伊尹が就任した。ただし、この時点の藤原伊尹の地位は右大臣であり、人臣としてのトップではない。人臣のトップは左大臣藤原在衡である。 人臣のトップではないにも関わらず伊尹が摂政となれたのは、かなり早い段階で藤原氏の後継者として指名されていたことに加え、円融天皇の近親者の中での最有力者であったからである。左大臣藤原在衡がいかに人臣のトップであっても、円融天皇との直接の血縁関係がない以上、藤原在衡は摂政になる資格を持たない。一方、右大臣藤原伊尹は、天皇の近親者でなければ摂政に就けないという鉄則に従えば、藤原実頼の死の時点で摂政にもっとも相応しい存在である。何しろ...2014.05.31 15:05平安時代叢書