平家起つ 10.鹿ヶ谷の陰謀と治承三年の政変 鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀について、平家物語はそれがいつのことであったのか具体的な日時を記してはいない。確実に言えるのは、平重盛が左近衛大将に、平宗盛が右近衛大将に就任した安元三(一一七七)年一月二四日以降であることのみである。 現在の京都の地図でいうと、平安神宮の北を走る丸太町通りをまっすぐ東に行くと鹿ヶ谷通りと交差する丁字路にたどり着く。この丁字路の地点からさらに五分ほど歩くと俊寛僧都の山荘の跡地への行程を示す石碑にたどり着く。ただし、実際に俊寛僧都の山荘までたどり着くためにはここからさらに三〇分ほど歩かねばならない。 俊寛(しゅんかん)とは法勝寺で二番目の地位である執行の地位にある僧侶で、後白河法皇の側近の一人である。彼は平...2021.06.01 11:30平安時代叢書
平家起つ 9.白山事件と太郎焼亡 視点を京都に戻すと、武士団同士の抗争ではなく武官の人事が展開されていた。承安四(一一七四)年七月八日、源雅通が右近衛大将を辞任し、後任の右近衛大将に権大納言平重盛が就任したのである。 これにより、平家の武力発動に対する障壁はなくなった。何かあればいつでも平重盛が率いる平家の武力が動くとあっては、それまで寺社勢力から喪失していた躊躇が蘇る。平治の乱で清和源氏の勢力が瓦解し平家の軍勢のみが京都における唯一の武装勢力となったことで、武士同士が平安京で争う光景は消えた。武力衝突の危惧は寺社勢力と平家との対立のみであるが、それも平重盛が右近衛大将になったことで寺社勢力のほうが自重するようになった。 おかげで京都では平穏な日々が展開されるよう...2021.06.01 11:20平安時代叢書
平家起つ 8.殿下乗合事件と反平家の萌芽 嘉応二(一一七〇)年五月になると、平家が築き上げつつあるつながりに、それまで意識されることはあってもつながりとして考慮されることのなかった人物が加わった。奥州藤原氏第三代当主である藤原秀衡である。嘉応二(一一七〇)年五月二五日、藤原秀衡が従五位下の位階を獲得すると同時に奥州鎮守府将軍に任じられたのである。さらに平清盛が藤原秀衡を陸奥守兼出羽押領使にも推薦すると、奥州藤原氏と平家との関係性はますます深まるようになる。 もっとも、右大臣九条兼実はこの件を手厳しく批判している。「奥州の夷狄秀平鎮守府将軍に任ぜらる、乱世の基なり」と、書き間違えたのか、それとも皮肉か、藤原秀衡の名を「秀衡」ではなく「秀平」と二文字目を平に書き換えて記してい...2021.06.01 11:10平安時代叢書
平家起つ 7.平家の膨張と雌伏する源氏 平清盛不在の京都では後白河上皇の院政が着々と形作られていた。 まずは後白河院政の中心となる法住寺である。二条天皇と近衛基実の時代は貴族のほとんどが内裏のみに姿を見せていたが、今や多くの貴族が内裏と法住寺との間を往復するようになったのだ。 この動きは、仁安二(一一六七)年四月四日に皇太子憲仁親王が正式に法住寺に渡御したことで加速する。退位した天皇は内裏に入らないのが鉄則であり、白河法皇も鳥羽法皇も内裏と一定の距離を置いている。置いているからこそ院庁が内裏とは別の組織として存在し、院政が朝廷から半ば独立しながら朝廷に深く潜り込む形での権勢を掴むことに成功したのである。後白河上皇もそれは理解していて、後白河上皇は住まいとする法住寺に身を...2021.06.01 11:00平安時代叢書
平家起つ 6.二条天皇親政の終焉 平安京で崇徳上皇の崩御のニュースが公然と語られるようになった長寛二(一一六四)年九月、平家納経の一回目の奉納が行われた。 奉納先は厳島神社。 厳島神社といえば社殿と大鳥居を思い浮かべるが、平家納経が厳島神社に奉納された時点ではまだ現在にあるような社殿や大鳥居は存在していない。ただし、伝承による厳島神社の創建そのものは推古天皇の年代にまで遡り、確実に存在していたことを裏付ける史料に絞ったとしても弘仁二(八一一)年にはその存在が確認できている。 さて、厳島神社に平家納経があること、すなわち、お経を厳島神社に奉納したことを不可解に思う人もいるかもしれない。神社なのになぜ平家はなぜ仏教の経典を奉納したのか、と。確かに当時は神仏融合の時代で...2021.06.01 10:50平安時代叢書