* * *
三年前の三月。
明にとってのファーストキスは突然訪れた。
「受かったんだって。おめでとう」
「心にもないこと言うなよ」
三月、中学受験に合格したことを母の墓前に伝えたとき、明のすぐ隣には江本がいた。
座って、目を閉じ、手を合わせていた明は、立ち上がったとき、足がふらついて倒れそうになった。
「あぶなっ……」
「きゃっ……」
思わず江本にもたれかかり、そのまま明の唇が江本の唇を捕らえていた。
それは事故であり、二人きりになっていたとは言え、明は意識してキスしたわけではなかったし、江本も全く予期していなかった事態であったが、今までの二人の間を変えるに相応しい出来事でもあった。
そのときは明の父も江本の母も本堂のほうに行っており、そこには明と江本の二人しかいなかった。そして、そのときもまた、明が手を合わせているのを江本が見つめるという形だった。
「……」
「……」
慌てて江本の元から離れた明は、江本が今にも涙をこぼしそうになりながらも、まだ目を閉じて唇を差し出しているのを目にした。
「ごめん……」それが明の生まれて初めて口にした、江本に対しての本心からの謝りの言葉だった。
「謝られても……」江本は明の言葉を耳にして、瞳を開いて、唇に軽く指を充てた。
避けようと思えば横を見るなりして避けられたのに、このときの江本は避けようとはしなかった。それどころが近づきつつあった明の顔に自分のほうからも近づいていっていた。
「とにかくごめん!」
「謝らなければいけないの?」
「だって……」
「キスって、悲しいこと?」
「普通は嬉しいことだろうけど、今のは……」
「私には嬉しいこと……」
そうして二人が互いの目を見つめあっているところに、江本の母親がきて、江本は母に連れられてどこかへと帰っていった。その後を聞くことはなく……
* * *
再び、三年前のゴールデンウィーク。
明は了子とを唇を重ねながらも、江本とのその時のことに思いを馳せていた。意識して了子のことを考えないようにしていたから。自分が雰囲気に流されやすいタイプの人間だと考えようとしなかった。雰囲気で流されているのではなく、了子に対する自分の気持ちが今の二人の状況を作っているのだと信じていた。
それが覆されたのは了子の頬を伝わる涙に気づいたとき。明は唇を離し、了子の顔をじっと見つめた。
そして気がついた。
昨日の今頃、窓の外に永野がいたはず。
だとすれば、今までのは自分に対してではなく、窓の外の永野に見せ付けるために……
「(……)」
我に帰った明は、自分の手で半裸にまでさせた了子を見つめ、このままでは取り返しのつかないことになると考えて、了子を振り切ってベッドから立ち上がった。
「どうしたの?」
「もう、帰ります」
「どうして?」
「今日はどうかしていたんです。先輩に対する気持ちもはっきりしないのにこのままズルズル行ったら、僕は先輩の身体が欲しかっただけの、どうしようもないバカになって……」
「あたしはそれでもいいけど」
「僕はそんなの嫌いです」
「一時の気の迷いなんかで抱かれるなんてこと、あたしは絶対にしない。だから……」
そう言いながら、了子は自問自答していた。これでいいのだろうかと。
永野から逃れたい。最初はその思いだったはず。
でも、それだけではない何かがある。
レンアイ?……
「好き……」
そう小さくつぶやいた。
明はその小さなつぶやきを聞き逃さなかったが、応えもしなかった。その代わり、了子を見つめながらもドアへ向かい、ドアノブに手をかけた。
「待って」
了子は明の右手の上に自分の右手を重ねた。このまま明を引き止めるのはできないとわかっていた。でも、このまま帰したくはなかった。
「駅まで送ってくよ」
了子のせめてもの抵抗だった。
玄関まで出迎えた了子と、玄関を開けた明は、同じタイミングで永野に目が向かった。おそらく唇を重ねて倒れこんだところも見ていたのであろう、二人が揃って並んでいるところを見ても驚きもしなかった。
「見ていたんでしょ。私たちのこと」
「……」
了子の言葉に、永野は何も答えなかった。
「明、行こう」
見せ付ける意味もあったのだろう。了子は明の手をとって、永野の前を横切って駅のほうへと向かっていった。
何も知らない人は気にも留めなかっただろう。永野は寮を出て行っただけで退学したわけでもないし、高等部に進まなかったのも他の進学校へ行くという理由があったから。
* * *
現在。
午前中、グラウンドでは野球部が、第二グラウンドではアメリカンフットボール部が練習をしていた。
横倒しになっているサッカーゴール付近で、明はパスキャッチの練習をずっとしていた。ヘルメット以外の防具を全て着け、クォーターバックからのパスに合わせたディフェンス陣をかわしてのランと、無理な体勢に頼らないキャッチ。
飛びぬけた駿足ではないが、防具をつけたときのダッシュ力は群を抜いていた。パスキャッチの精確性も高く、中等部のヘッドコーチは明に早くから目を着け、上級生達を押し退けて、どんなミスをしても明を試合に使い続けた。
気がつけば、ジュニアの東京代表を経験し、関東選抜に選ばれ、アメフトで他の高校から推薦入学の申し込みまで受けるようになっていた。中には朱雀台よりもはるかに恵まれた環境の高校もあったが、明は高等部にそのまま上がった。
高等部での練習は毎日ではなかった。練習場所を満足に確保できず、グラウンドでの練習は多くて週三回、ウェイトトレーニングが週一回できるかどうかという状況。それはフットボール部に限ったことではなかった。生徒達には部活で縛られる時間が少なくなって好評であり、例えば了子は明と一緒にいる時間が増えると喜んでいたが、学校に対する強い不満を持つ生徒はわりといた。
「陸上、野球、ソフト、ラグビー、アメフト……、それと、サッカー、ハンドボール、バドミントンが男女あって、テニスが硬式と軟式。これだけのクラブがグラウンドを使うってのに、グラウンドは狭いのが二つ」明は左手で数を数えながら、右手ではコップに水を注いでいた。
「おい、こぼれるぞ」
「へーきへーき。で、バドミントンとテニスは専用のスペース持っているから除くとして、一度に練習できるのはどんなに詰めこんでも五つ」
「で、午前中だけの練習か。いいよな、アメフトは」
「そういう問題じゃなくってな……」
江本が杉本と一緒にパスタを食べていた頃、明は水泳部の神崎とカレーうどんをすすっていた。本来は二三〇円のかけうどんであり、男子寮の食堂から掠めてきたカレーをかけて本来なら三〇〇円のカレーうどんに仕立てあげていた。
「水泳部は休みなしだ。おかげで、向こうに帰るに帰れず、遊びにも行けず、この夏休みはずっと寮とプールの往復だけだ」
「他の部員はわりと時間を上手く使ってるように見えるぞ。こっちに来る前に杉本のバイト先に寄ったんだが、石澤とか、杉本の妹とかはバイトしてたしな」
「その代わり、部活に全然顔を出してない」
「さよけ」
「まあ、あの二人はハナっからユーレイ部員だし、水着姿が拝めない悲しさはあるが、それ以外の問題はない」
食べ終わり、返却口にトレイを運んでから、神崎はプールへ、明は校門へと向かった。
校門には了子が待っていた。三年生は部活もなく、学校に来るべき用事はこれといってない。了子は明に合わせて、フットボール部の練習が終わるまで図書館で涼んでいた。
東棟五階の図書館からは、第二グラウンドでのフットボール部の様子も、練習が終わってから学食へと向かって行く様子も、練習が終わったら一緒に帰ろうという約束が守られなかったことも、手に取るようにわかった。
「昼飯作ってあるって言っただろーっ!」
「わ、わかってま……、痛いですってばー」
「お姉さんは怒ると怖いのだよ」
「わかりましたから離してください」
「よーし」
了子の悪意なき暴力から解放されても、約束を破ったことから逃れることはできなかった。
映画館も、喫茶店も、レストランも、明の財布が負担した。
明の場合、父からの仕送りは、学費と家賃と光熱費で終わってしまう。そこで、生活費はアルバイトに頼ることになる。校則ではアルバイトが禁止されているはずだが、それを『はい、そうですか』と軽く受け入れるような生徒達ではないと教師のほうもわかっている。
実際、アルバイトをしているところを見つかって注意された生徒がいたらしいという噂が立つぐらいで、校則違反を理由に停学や退学になった生徒はいない。
夕方からのアルバイトを終え、レストランでの夕食を明に負担させた後、了子はいつものように明と一緒に明のアパートへ帰った。日に日に壊れかけていく了子の家庭は、もはや了子にとって安息の場所ではなくなっていた。明と一緒に暮らしているほうがずっと安らかになったとき、了子は実家を捨てた。
明の左腕が了子の枕になる毎日が当たり前のように過ぎていた。それが、了子には帰るべき家があることを忘れさせてくれた。
「悪いけど、あと二・三日泊めてくれないか」
「二・三日って言ってもう二ヶ月になりますよ」
「本当に二・三日でいいんだ」
「何かあったんですか?」
「結局、離婚になるそうだ」
「そうですか……」
「まあ、とっくに決まっていたようなものだし、今の世の中、親がいなくても何とかやっていける」
「了子さんの御両親は今いくつなんですか?」
「言ってなかったか?」
「ええ」
「二人とも三九だ」
了子の両親と自分の両親とが同じ学年だと、明はこのとき初めて知った。それには何の意味もないが。
「あたし達……、歳の差なんて関係ないよな」
「ええ……」
了子は再び明の腕に抱かれ、一夜を供に過ごした。
* * *
現在。
午前中、グラウンドでは野球部が、第二グラウンドではアメリカンフットボール部が練習をしていた。
横倒しになっているサッカーゴール付近で、明はパスキャッチの練習をずっとしていた。ヘルメット以外の防具を全て着け、クォーターバックからのパスに合わせたディフェンス陣をかわしてのランと、無理な体勢に頼らないキャッチ。
飛びぬけた駿足ではないが、防具をつけたときのダッシュ力は群を抜いていた。パスキャッチの精確性も高く、中等部のヘッドコーチは明に早くから目を着け、上級生達を押し退けて、どんなミスをしても明を試合に使い続けた。
気がつけば、ジュニアの東京代表を経験し、関東選抜に選ばれ、アメフトで他の高校から推薦入学の申し込みまで受けるようになっていた。中には朱雀台よりもはるかに恵まれた環境の高校もあったが、明は高等部にそのまま上がった。
高等部での練習は毎日ではなかった。練習場所を満足に確保できず、グラウンドでの練習は多くて週三回、ウェイトトレーニングが週一回できるかどうかという状況。それはフットボール部に限ったことではなかった。生徒達には部活で縛られる時間が少なくなって好評であり、例えば了子は明と一緒にいる時間が増えると喜んでいたが、学校に対する強い不満を持つ生徒はわりといた。
「陸上、野球、ソフト、ラグビー、アメフト……、それと、サッカー、ハンドボール、バドミントンが男女あって、テニスが硬式と軟式。これだけのクラブがグラウンドを使うってのに、グラウンドは狭いのが二つ」明は左手で数を数えながら、右手ではコップに水を注いでいた。
「おい、こぼれるぞ」
「へーきへーき。で、バドミントンとテニスは専用のスペース持っているから除くとして、一度に練習できるのはどんなに詰めこんでも五つ」
「で、午前中だけの練習か。いいよな、アメフトは」
「そういう問題じゃなくってな……」
江本が杉本と一緒にパスタを食べていた頃、明は水泳部の神崎とカレーうどんをすすっていた。本来は二三〇円のかけうどんであり、男子寮の食堂から掠めてきたカレーをかけて本来なら三〇〇円のカレーうどんに仕立てあげていた。
「水泳部は休みなしだ。おかげで、向こうに帰るに帰れず、遊びにも行けず、この夏休みはずっと寮とプールの往復だけだ」
「他の部員はわりと時間を上手く使ってるように見えるぞ。こっちに来る前に杉本のバイト先に寄ったんだが、石澤とか、杉本の妹とかはバイトしてたしな」
「その代わり、部活に全然顔を出してない」
「さよけ」
「まあ、あの二人はハナっからユーレイ部員だし、水着姿が拝めない悲しさはあるが、それ以外の問題はない」
食べ終わり、返却口にトレイを運んでから、神崎はプールへ、明は校門へと向かった。
校門には了子が待っていた。三年生は部活もなく、学校に来るべき用事はこれといってない。了子は明に合わせて、フットボール部の練習が終わるまで図書館で涼んでいた。
東棟五階の図書館からは、第二グラウンドでのフットボール部の様子も、練習が終わってから学食へと向かって行く様子も、練習が終わったら一緒に帰ろうという約束が守られなかったことも、手に取るようにわかった。
「昼飯作ってあるって言っただろーっ!」
「わ、わかってま……、痛いですってばー」
「お姉さんは怒ると怖いのだよ」
「わかりましたから離してください」
「よーし」
了子の悪意なき暴力から解放されても、約束を破ったことから逃れることはできなかった。
映画館も、喫茶店も、レストランも、明の財布が負担した。
明の場合、父からの仕送りは、学費と家賃と光熱費で終わってしまう。そこで、生活費はアルバイトに頼ることになる。校則ではアルバイトが禁止されているはずだが、それを『はい、そうですか』と軽く受け入れるような生徒達ではないと教師のほうもわかっている。
実際、アルバイトをしているところを見つかって注意された生徒がいたらしいという噂が立つぐらいで、校則違反を理由に停学や退学になった生徒はいない。
夕方からのアルバイトを終え、レストランでの夕食を明に負担させた後、了子はいつものように明と一緒に明のアパートへ帰った。日に日に壊れかけていく了子の家庭は、もはや了子にとって安息の場所ではなくなっていた。明と一緒に暮らしているほうがずっと安らかになったとき、了子は実家を捨てた。
明の左腕が了子の枕になる毎日が当たり前のように過ぎていた。それが、了子には帰るべき家があることを忘れさせてくれた。
「悪いけど、あと二・三日泊めてくれないか」
「二・三日って言ってもう二ヶ月になりますよ」
「本当に二・三日でいいんだ」
「何かあったんですか?」
「結局、離婚になるそうだ」
「そうですか……」
「まあ、とっくに決まっていたようなものだし、今の世の中、親がいなくても何とかやっていける」
「了子さんの御両親は今いくつなんですか?」
「言ってなかったか?」
「ええ」
「二人とも三九だ」
了子の両親と自分の両親とが同じ学年だと、明はこのとき初めて知った。それには何の意味もないが。
「あたし達……、歳の差なんて関係ないよな」
「ええ……」
了子は再び明の腕に抱かれ、一夜を供に過ごした。
奨学金と母からのささやかな仕送り。
それらだけでは、江本がクラスメートと同じ生活水準を作り出すことは到底不可能である。だからアルバイトをしているのであるが、それでもアパートを借りるまでにはいかない。半ば必然的に、江本は女子寮に入った。
そして、同室ではなかったが、同じ寮内には石澤もいた。門限と入場者のチェックは厳しいが、生活費はほとんどいらないということで、親には好評である。
男子禁制というこの場が、杉本のしつこさから逃れる手立てとしても機能していることは間違いではない。杉本が知っているのは女子寮の住所と女子寮の電話番号であって、一旦管理人を通じてから内線で呼び出してもらうしか江本との連絡はできない。江本は携帯電話もPHSも持っていないので、江本と、架けた本人の二人以外誰にも知られることなく電話を架けることは不可能である。おまけに、忍びこもうにも、なかなか成功しないのがこの女子寮。
ここには朝から香と石澤が江本の部屋を訪れていた。目当ては夏休みの課題である。香は二人が女子寮にいることは知っていて、何度か石澤の部屋に行ったことはあったが、江本の部屋を訪れたのはこれが初めてだった。
「男子寮とはエラい違いだな」玄関に入った瞬間、香は言った。
「行ったことあるの?」
「アニキを利用してね。中等部のときのアニキは寮に入ってたから……」
朱雀台学園は、一応、名門進学校ということになっている。特に中高一貫の六年間のコースはいわゆる有名大学に進学できるだけの学力を身につけることは確かだが、その代わり、中学受験の競争率はかなり高く、数多くの小学生が涙を飲まなければならない。
香は、兄と一緒に中学受験をし、兄だけが合格したという過去を持っている。朱雀台学園の高校受験は中学受験以上に厳しく、中等部の生徒は無条件で進学できるのに対し、他の中学の生徒はなかなか入学できない。そんな状況にあって、杉本香の存在は特殊なものがあった。より厳しいほうに合格したのであるから。
良く言えば初志貫徹、悪く言えば執念を越えた怨念。
そんな香の性格を知っていたからこそ、杉本家は久に三年間の寮暮らしをさせた。
「二段ベッド? 買ったの?」部屋を明けると同時に、あまりいい趣味ではない古びた二段ベッドが香の目に飛びこんできて、それに違和感を抱いた。
「最初から付いてた」
「石澤の部屋には付いてなかったけど」
「私のは改築後のだから」
増築によって、女子寮は三階建てから五階建てへと生まれ変わった。一・二階は以前の古い部屋がほとんど残っているが、三階は部分改築の、四・五階は新築の部屋となった。当然のことながら生徒達は新しいほうを希望し、その結果、人気のなかった一・二階は個室に、三階から上は相部屋になった。
石澤はベッドの上の段に上がってみた。何ということのない普通の布団が敷かれているだけで、これといって面白いものはない。
二段ベッドの下の段は物置になっていた。CDラジカセが置かれている他は、冬物の衣類の入ったダンボールが雑然とあるだけ。
机には江本の英語と数学のワークブックが置かれていた。香はその二冊を手にして広げてみた。一ページ目から最後のページまで、全ての空欄に答えが書かれていて、まさに自分の求めていたものがそこにあるという充足感を得た。これを全部写さなければならないという苦労はまだ思い浮かんでいない。
「どこでコピーすんの?」
「学校でいいんじゃない? 図書室にコピーあったよ」
「でも、混んでんじゃないの?」
「へーきへーき」
香の意見が採用され、三人は学校に向かった。
寮は男女供に中等部と高等部の共用であり、高等部の生徒と中等部の生徒との同室は珍しくない。
女子寮は学校の敷地から少し離れた場所にあり、駅にも学校にも、歩いて行くのに遠いと感じないぎりぎりの距離であり、騒音を感じず、夜でも適度の明るさがあり、忍びこむのも難しい。
このように女子寮はわりと考えられた立地条件に位置しているが、男子寮は学校のすぐ側にあり、四六時中教師に見張られているような圧迫感を受けるのみならず、選挙の度に休みを壊される騒音公害の際たる地点に面している。おまけに、明らかに税金の無駄使いの、誰も利用しない意味不明の文化施設によって、西日以外の陽射しが消されている。
女子寮に住んでいる者を含め、朱雀台の生徒の大多数はこの男子寮の前の道を通るのが最も近道である。男子寮を過ぎたあたりにくると学校からの音も聞こえ、T字路を一回右に曲がるだけで、高等部の校門が目に入ってくる。
校門の真正面には高等部の校舎が二つ並んでいて、右に第一グラウンドと温水プールが、左に体育館があり、道を一本挟んだ隣りに中等部がある。中庭をまっすぐ歩いていくと、中等部のグラウンドともつながっている第二グラウンドがあり、第二グラウンドの様子は端の教室や昇降口からよく見えるようになっている。
三人は上履きに履き換えて階段を登っていった。第二グラウンドでのフットボール部の練習試合の風景が目に入り、香は足を止めて試合を見入った。
「知り合いでもいるの?」
「6番捜してんの。アニキの友達だから。ほら、よくバイト先に現れる、玉城……だよね、あいつ」
香は江本に聞いたが、江本は何も答えず五階へと上がって行き、香も江本について図書館へと向かっていった。
少し前の話しになるが、NFLは衛星放送ではなく日曜の昼間に、普通のテレビで観ることができた。明がアメリカンフットボールを知ったのは、小学校のときに観たそうした番組でのことである。
明は中等部時代から一貫して6番のユニフォームを身に着けているが、それは明の意志ではない。たまたま空いていたのが6番だっただけのこと。憧れは80番だった。取り替えられるものならば80に取り替えてもらいたいとも思っているし、要求してもいる。だが、6番のジャージには6の上にTAMAKIと印刷されている。本人が望む望まないに関わらず、朱雀台の6番と玉城明はイコールで結ばれている。
図書館に入ると、受験を控えた三年生ばかりが目についた。一人だけ、窓の外で繰り広げられているフットボールの試合に目を運んでいる人もいるが、彼女のことなど気にもせずに、参考書や問題集を広げて、ノートに何やら書き込んでいた。本棚の本も、雑誌も、新聞もほとんど利用されず、コピー機もあまり使われないのか「余熱」中になっていた。
香がコピーを撮っている間、江本は石澤と一緒に窓の外に目をやって試合を観ていたが、気持ちはガラス四枚を挟んだ隣りにいる了子に向いていた。
『GO!』
ボールをスナップされたクォーターバック浅井が七歩下がり、ミドルパスを投げた。パスの標的は守備の選手を一人二人と交わすよう小刻みに動きながら前へ走る明。
「(ランは……無理だな)」明は咄嗟にそう判断した。ディフェンスの選手を避けるべく投げられたパスは明の頭上を越えるような軌道を描き、明はボールに飛びついてそのまま倒れこんだ。
観ているほうには何の苦もなくパスを受け取ったように見えたが、標的が普通の選手ならば地面に落とすか相手に取られるようなパス。はっきり言って投げそこないであるにも関わらず、明は狙っていた。飛び上がってパスを受けて着地するだけではファーストダウンにならない。そして、キャッチしてから走れるほどのスペースを相手は与えてくれていない。だが、着地した勢いで前に二・三歩進んでから倒れ込めばファーストダウンがとれる可能性がある。
予定通り倒れこんだ明は審判を見つめた。
『ファーストダウン!』審判の宣告とともに、四回の攻撃が追加された。
パスキャッチを専門とするワイドレシーバー。飛びぬけた駿足でもなく、身長も体重も目立ったものはない、体育の授業でも目立った働きを見せるわけでもない。それでもこのポジションを務めるとき、明を知る人間には信じられない大活躍を確実に見せる。
練習試合だとは言え、秋の新人戦が既に標準に入っている今、朱雀台と公式戦で戦うことになるであろう相手の高校にとって、玉城明という経験豊富でティームプレイを熟知した新戦力は脅威以外の何物でもない。
『ハッハッ!』
ガン!
ヘルメットとヘルメットがぶつかり合い、四方八方に選手が散らばって、一個のボールと残り二〇ヤードとを巡る攻防が始まった。夏休みの最中とあって朱雀台は帰省していない者だけでメンバーを組んでいるが、それでもレギュラーのほとんどが残っているだけに実力通りの試合を展開している。
江本は初めてアメリカンフットボールというものを観た。観たはいいが、勝っているかどうかも、何対何なのか、ボールがどこにあるのか、6番の明がどこにいるのか、そして肝心のルールそのものが全くわからなかった。
「観に行こ」コピーを終えた香はワークブックを持ち主に返し、かなりの枚数のコピーを石澤に渡した。
すぐに帰る必要もなかった三人は図書館を出て階段を降り、靴に履き換えてグラウンドに出た。他のクラブの生徒や、寮でくすぶっていて暇を持て余していた男子生徒など、意外と観客が多かった。グラウンドの片隅の斜面に植えられた桜の木々の木陰に座り込んで、試合の観戦と決め込んだ。周囲には二〇名ほどいたが、彼女たちは最前列に座った。
最前列からだとフィールドと一〇メートルも離れていない。
「どこ見てるの?」なかなか座らず、図書館の窓のほうを眺めている江本に石澤が言った。
江本の視線を感じた了子は一瞬江本のほうに視線を向けたが、すぐに明のほうに視線を向け、江本は二人に合わせて、グラウンドを向いて座った。
朱雀台のユニフォームは赤を基調としていて、ナンバーは銀色で縁取りがされている。番号の上には選手の名前が『TAMAKI』とローマ字で付され、ヘルメットには『FIREBIRD』となぜか単数形のニックネームと、不死鳥をモティーフにしたシンボルマークが付いている。
他にも知っている人が出ているのではと、香や石澤は朱雀台のユニフォームの選手を見渡したが、自分達の知っている人で試合に出ているのは明一人しかおらず、二人の視線は自然と、江本と同じく明に投げかけられるようになった。
「ルールわかる?」江本は石澤に小声で聞いた。
「だいたいはね。それに、わからなくても、自分の知ってる人が一生懸命に何かやってるの観るっての……、ん!」石澤が突然声を挙げた。
『タッチダウン!』
審判の両手が上に掲げられる。
「すごい……」
「?」
朱雀台の選手が騒いでいる。よってたかって一人の選手を取り囲んで祝福の暴力を加えている。その中央には右手を高々と掲げる明がいて、ティームエリア内に帰ってきた明をティームメイトが歓迎していた。フィールド内でのトライフォーポイントの最中も騒ぎは続き、フットボールの最高の瞬間を満喫している。
「あんなのよく取れんな」騒ぎがひとまず収まってから石澤が言った。
「何が?」江本は何だかわからないといった様子で、石澤のほうを見た。
「観てなかったの?」
「うん……」
自分の全く知らない明がそこにいた。憎しみに満ちた目で睨つけていた明も、自分のために泣いて、そして優しく抱きしめてくれた明も知っているのに、それらの全てが虚像に見えるほど、ヘルメットを外したばかりの明は輝いていた。
第二クォーターが終わってハーフタイムとなったとき、コピーのお礼のための買い出しという名目で香は石澤を連れてコンビニに行った。
江本は一人取り残され、明は一人で木陰に座っている江本を見つけ、走ってきた。
「来たんだ」
「うん、……」
「ん?」
「重そう……、その格好」
「中学んときからやってるし、三年以上この格好していればいやでも慣れるよ」
「面倒じゃない? ヨロイでしょ」
「これぐらい身に着けてないと守れないんだよね。これでも肋骨折ったり、鼻の骨を骨折したりする人だっている。俺もタックル食らって左手痛めたことあるし、ね」
江本は三年前を思い出した。
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