* * *
三年前。
「一人で来たんだ」
「……」明の声を無視するかのように、江本は手を合わせたまま無言でいた。
明と会うのは四ヶ月ぶりだったが、二人きりで会う約束をしていたのはその日が初めてだった。蝉がけたたましく鳴いたその日は、その年一番の暑さだったことはよく覚えている。
「その手……」立ち上がって明のほうを見た江本は、三角巾で左手を首に吊っているのに驚きを見せた。
「タックル食らってね。で、コケてボキッっと……」ギブスで固められた左手を平気で振りながら、平然とした顔で言った。
「あまり、危険なことしないで……」
「だいじょぶだよ。もうほとんど固まってんだしね」
明は江本の横を通りすぎて、さっきまで江本がいた場所にしゃがみこんで目を閉じた。明の祈りを江本が見つめるというのはここに来る度にくり返される儀式であったが、このときはいくぶんか長いように感じた。
この日がちょうど十年目だから、そのぶん長く時を掛けているのだろうと江本は考えていたが、明にはそうした区切りに対する特別な感情を持っていなかった。東京に出て行ったことで頻繁に墓前に来ることができなくなっていたために、明はここで四ヶ月分の祈りを捧げようとしていただけ。
脳裏を駆け巡る母の面影が明に語り掛けていた。その声がだんだんと小さくなってきて完全に沈黙したときに、明は瞳を開き、立ち上がろうとした。
「待って」江本は明を制した。
「あ、ああ。そうだね」江本の言葉に従うように、明はゆっくりと、ふらつかないように立ち上がった。
二人の視線は自然と互いの唇へと向かっていた。ファーストキスを思い出して。
「キス……、わざとじゃないからな」
「そう……。言いたいことはそれだけ?」
「他に何か言わなきゃいけないことでもあんのか?」
「それもそうね」
江本は後ろを振り返って、明を置き去りにするようにこの場から去っていった。その歩みはひじょうにゆっくりとしたもので、後ろから来るであろう明に追いかけてきてほしいかのようであった。
「なに期待してんだろ……」
だが、どんなに振り返ってみても明は自分を追いかけもせず、見渡す限り自分一人しかいなかった。
江本の中にいる明が、江本本人の意識によって少しずつ変えられている。責任感、罪の意識、玉城父子を哀れむ気持ちと、その裏返しの玉城父子への憎悪。それらの全てを以てしても隠すことはできなかった複雑な思いの正体が、たった一瞬の出来事で好意なんだと気づかせてしまった。
キスをしたことではなく、自分のほうからキスを求めたという事実が。
「あんなヤツ、あんなヤツなんかどうでもいいのに……」
バス停に着くとバスが過ぎ去った直後だった。次のバスまで時間があると考えた江本は、バス停を通りすぎて駅のほうへと歩いていった。バスに乗ればわりとすぐに着く駅であるが、歩いて行くにはかなりの距離になるとは気づいていなかった。
どこまで歩けば駅へ着くのかも全くわからず、アスファルトを焼きつけるような陽射しも手伝って、江本を疲れさせていた。
江本と離れてから一時間ほどして、明は再び江本を見かけた。バスに乗らずにどこかへと歩いていった江本を見た明は、自転車に乗ってその後を追いかけていこうとした。何度も見落としながら、江本の向かったほうを人に聞きながら自転車を走らせ、やっと江本を見かけたそのとき、人目の着かぬ公園の脇に停められた目立たぬ車の中で、見知らぬ男に押し倒され、服を脱がされようとしていた。
このまま抵抗しなければ何をされるのか江本にはわかっていた。だが、抵抗はできなかった。ずっと逃げ続けなければならない人生を送ってきた江本にとって、自らにふりかかる苦痛とは、撥ね除けるものではなく、黙って耐えるか、逃げるかするべきものだったのだから。
必死の車のドアを開けようとし、ギブスを巻いている左手でガラス窓を叩き壊そうとしている明を見て、はじめて、江本は悲鳴を挙げ、男に抵抗をした。
明は左手を守るはずのギブスを凶器にした。相手の男に殺意さえ抱き、何もかもを壊さなければ気がすまないほどに気が高ぶった。そして実際、男にケガを負わせていた。
男はあわててエンジンをかけ、江本を捨てて逃走した。
力なく座り込んだ江本を明は直視できず、バラバラに壊れたギブスを見つめていた。何と言って声を掛ければいいのかわからず、かと言って江本を見捨てておくこともできず、しばらく黙ってその場に立ちつくしていた。
「明……」
江本の涙声となった声を聞いて、やっと江本のほうに気持ちを向けることができた。膝をついて江本を見つめると、スカートは破かれ、ブラウスのボタンは引きちぎられて、手で押さえていなければはだけてしまうようになっていた。
「抵抗ぐらいしろよ!」
「明が……」
「俺が?」
「明が来てくれるって、信じてたから」
「俺が来なかったらどうするつもりだったんだよ!」
「絶対に来るって信じてた。でも、でも……」
大粒の涙をこぼしながら江本は明の胸に飛びこんできた。
「すごくいやだった……、怖くて、悔しくて……」
明は江本に好きなだけ泣かせた。そっと江本の背に手を回して、軽く抱きしめた。
このまま帰すわけにはいかないと考えた明は、江本に自分に家に来るかどうかを聞いた。江本が軽く頷いたのを確認して、自転車を押しながら、自分の身体で周囲の人の目から江本を隠すようにして自宅までの二〇分ほどを歩いていった。
父はその日不在だった。そのため明は一人で江本と会うこととなったのだが、自分の家で江本と二人きりということを意識させられることにもなった。
明は江本にシャワーを浴びさせ、その間、明は近所で江本の着れるような服を買ってきた。一つのフロアで食べ物も着るものも売っている店なのであまりより好みはできず、江本のサイズもわからず、時間もないという状況であったわりには、江本にピッタリの服だった。
「ちょっと大きいかな」
「ううん。そんなことない」明の買ってきた服を着て出てきた江本から、微かな湯気がたっていた。
洗濯機は江本の着ていた服を洗っていた。
下着類は洗われずにバスタオルと一緒に置かれていたが、江本はできれば洗濯機に放りこみたかった。自らの手で一枚一枚服を脱いで行くとき、あの男にさわられた服を全て洗いたいという思いがこみあげてきたが、洗剤で洗ったところで全てをふっきれるだろうかという思いが、ブラウスとスカートと靴下だけを入れて洗濯機の蓋を閉じさせ、その他をバスタオルの上に置いて風呂へ入らせた。
「何か飲むか……って言っても、麦茶しかないや」
「いいよ。気を使わなくても」
江本を来客用のソファに座らせ、江本を一人の客として扱った。
今までなら家に連れてこようなどという気すら起きてこなかった、それどころか、江本を追いかけることも、車の中で押し倒されていた江本を助けることさえもしなかったはず。
「……」
「ん?」
「ううん……」
アイスコーヒーに差されたストローに口を付けた江本のほうを見て、江本が明のほうを見ると顔を背ける。目の前のグラスに目を向けたり、意味もなくついているテレビに目を向けたり、窓の外の見慣れた風景に目を向けたりしても、しばらくたてば江本のほうを向いていた。
「了子さんと一緒にいるときと全然違う……。でも、了子さんより安心する……」
「何か言った?」
「何も」
「……」
「……」
「……、すごく、嬉しかった。明が私のために……」
「当然だよ。ああいうときは俺でなくても助ける」
「でも、もっと早く来てほしかった。もっと早く来てくれれば、明の左手も……」
「それより自分のことをもっと大切に考えろよ。犯されそうになったのは江本なんだしさ。俺の左手なんてそのうち治るけど」
「気休めは聞きたくない」
「自分をもっと大切にしないと、今度は未遂じゃすまないよ。いつも俺が側にいるわけじゃないんだから」
「明なんか、私なんかどうなったっていいと思ってるくせに」
「そんなふうに考えるなよ」
「私なんか、いないほうがいいって思ってるくせに!」
「そんなこと言うな」
「もうやめて!」
「……」
「いつだってそうじゃない。いつもいつも被害者ぶって、何かあるとすぐ『お母さんを返せ』って言って……、明だって、明だって人殺しの子じゃない……。何で私だけ差別されなきゃ……」
「?」
「お父さん死刑にしたの、あんたの父親でしょ! いつもいつも被害者ぶってるけど、お父さん殺すことに決めたの……明のお父さんじゃないか……」
「……」明は何も言い返せなかった。直接の判決を下したわけではない。だが、明の父の証言が、江本貞夫の中学時代からの友人ではなく、被害者の夫としての証言がまさに決め手となって判決は下された。
「明に罪はないのわかるけど、私は、一生あの人を許さない。一人の人間を堂々と殺させて、それで正義だって胸張ってるあの人が許せない……、でも、でも、一番許せないのは、私と、お母さんと、暮らせていけるのも、あの人が、お金送ってくれるからだって……こと……。私には幸せを感じる資格なんてない……。だから、相手の気の済むまで我慢するしか……」
「そんなことない……」
「私の顔を見るたびに殴りかかってきたじゃない。お母さんに石を投げつけてきてたじゃない。謝ってすむことじゃないってのはわかってるから、だからずっと我慢してきたんじゃないか……。いまさら優しくされたって……」
明は黙っていた。江本の言葉が江本美香という女性の本心だとすぐにわかったし、自分が今まで江本にしていたことが江本を苦しめていたことだとも理解した。江本の言葉ではないが、謝ってすむことじゃない。
「……でも、嬉しかったのは本当……。自分のこと考えてないわけじゃないけど、本当に明の左手が心配だったから……」
自分の感情を赤裸々に打ち明けることもなく、どんなに一緒にいてもどこか本心を隠している。それが明のイメージの江本だったのに、このときの江本の言葉は、彼女の本心を打ち明けているかのように思えた。
「明……、あんまり危ないことしないで……」江本は囁くような小声と同時に、痛みの消えぬ明の左手に右手を重ねてきた。
「ムチャしすぎたかな」
「……」
「ん?」
「すごく、すごく悔しかった……。明が来てくれなかったら、今頃……」
江本は明の胸元に飛びこんでいった。明はそっと江本を抱きしめて、江本も両手を明の背中に回した。
ヤケになっていたところもなくはない。犯罪の末に奪われるくらいなら、自分の心を許せる人にくれてやったほうがいいと江本が考えたのは事実。だが、そういった打算だけで明に身を委ねたのではなかった。ソファに横になっている間中、江本はずっと心の底から微笑んでいた。瞳を潤わせていても、それは嬉しさの呼んだ涙だった。
了子とは寸前までたどり着いていても最後の一線を越えることがなかった。それなのに、江本とは簡単に一線を越えた。
好きあっている二人なのだと、二人ともこのとき知った。
それから一ヶ月間、明の家での二人暮らしが続いた。新婚生活のような初々しさもあれば、何もかも知り尽くしているという慣れもある。何とも奇妙な同居だった。
* * *
現在。
「今でも痛むことある?」
「普段は忘れてられるけど、思い出すと途端に痛くなる。条件反射なのかもな」
「思い出してくれるんだ」
「そりゃあね。で、江本は?」
「すごく、嬉しかったから。もちろん……」二人が打ち解けた過去を思い出して、江本は少し微笑んだ。
しばらくの沈黙のあと、江本は明のヘルメットを見た。
「これ? かぶってみる?」
「ううん。いい」
「やっぱり汗臭いかな」
「そうじゃなくて……。やっぱり、明には危険なことしてほしくないんだ……」
「危なくないスポーツなんてないよ。でも、面白いからやってんだし、やめようなんて気はないな」
「どうして?」
「好きだからね、アメフトが。それだけ」
「私にはわからないな。その気持ちも、アメフトも」
「6番見ててよ。それだけでいいから」
「うん」
「じゃ、後半が始まっから」明は小走りでティームエリアへと帰っていった。
ふと校舎のほうを見上げると、図書館の窓から見下ろしている了子の顔が見えた。明の視線に気づくと、了子は図書館の中に引き籠もり、窓を閉めた。
「何か言われるだろうな……」
アパートに帰ってから了子を考えると、前途が暗くなる。それから逃げるように明は意識して江本のことを考えようとしていた。
江本と話をしていたときでも了子の顔が浮かび上がってきて、了子と一緒にいるときの安堵に逃げようとする気持ちが沸き上がってきていた。だけど、了子と一緒にいるときは逆に江本のことが思い浮かぶ。
「やな奴だ……。俺って……」
明には江本のことを誰よりも知っているという自負がある。彼女の過去も、彼女の孤独も、閉ざされたままの心も知っている。
「(了子さんのことを考えるのは、了子さんと一緒のときだけにしよう。江本は、了子さん以上に寂しい人だから。俺が考えなかったら、誰も、江本のことを考えてくれる人なんていないから……)」後半の作戦指示も聞かず、明は二人のことを考えていた。
まずディフェンスの選手達がフィールドに出て、明達オフェンスの選手はティームエリアに残った。
「玉城、玉城!」
「……、ん? 何ですか?」
「さっき話してたの彼女か?」先輩の一人が近寄ってきて、江本のほうを指さしながら言った。
「同じクラスなんですよ」
「だったら紹介してくん……」
「いやです」
「まだ何も言ってない」
「ほい」
「どうも」
試合が再開されてしばらくしてから、二人がコンビニの袋を持って江本の元にやってきた。香は江本に袋を渡し、スカートを両足の間にはさむようにしてから座り、石澤はわりと無頓着に座った。袋にはウーロン茶のペットボトルとサンドイッチが入っていた。
「さっき、彼と何か話してたでしょ」石澤はティームエリアにいるナンバー6を指差しながら言った。
「まあね……」明のことを聞かれても驚きもせず、何を話したかを一切答えなかった。
「私も残ってればよかったかな?」
「話したいなら、アルバイト先でいいじゃない。毎日来るよ」
「それじゃ意味ないって。やっぱあの格好してっときじゃなきゃ」
「そういうもんなの?」江本には、自分の知っている明と、選手の明との区別ができなかった。明と一緒にいることの当たり前さが、時間を割いて自分のところに来てくれたことの意味をわからせずにいた。
「江本にはどうせ香のお兄ちゃんがいるからね」
「はいはい」
杉本の江本に対する思いを認めたがっていないのは江本本人ぐらいなもの。石澤にとってはせいぜいからかいのネタぐらいの意味しか持ってないが、本人達にとっては真剣な問題になっている。
「下手すりゃ江本を取られるかもな。アニキもたいへんだ」
「ムリムリ。あいつはアメフトやってっときだけ。神崎とか、玉城とか、C組の男どもは部活しか張り切らん」
石澤は江本を羨ましく思ってもいた。杉本に言い寄られていることをどんなにからかっても、自分には言い寄ってくるような男がいない。急ぐ必要は感じないと頭で考えても、友達に現在進行形がいればどうしても急いでしまう。
「もし玉城に言い寄られたらどうする? アニキはさっさと捨てて玉城に乗り換えるのか?」香は江本に聞いた。
「根本が違うよ。杉本君も玉城君も、誰とつき合うかなんてのも私には関係ないことだし、その逆だってそう」
「そういうこと言ってて虚しくならない? 自分に自分で嘘ついてさ」
「何で嘘つくことになるわけ?」
「……、さよけ」
そう言う石澤自身も誰か心に抱いている人がいるかどうかなんてわかっていない。会津若松にいた頃にバレンタインのチョコレートを渡した人がいるぐらいで、好きか嫌いかのレベル以前に、好奇心を感じる人すらいない。
できることならこの二人に自分のしていない恋愛を果たして欲しいと思っているが、それが江本にはおせっかいに感じる。
「意外とかっこいいよ、アイツ。教室の中じゃわりとバカやってるけど」朱雀台の攻撃の場面を迎え、フィールドへと戻った6番を見て石澤が言った。
「昔はそうじゃなかったんだけどね」中等部の頃の明を知る香は言い放った。
「どっちが? かっこいいのと、バカやってるのと」
「両方。以外とバカなんてやるヤツじゃなかったし、格好いいなんて微塵もないヤツだった。それに……」
「キャア!」香が続きを言いかけたとき、江本は悲鳴を挙げた。
クォーターバック浅見から投げられた山なりのボールが、三人の座っているほうに向かって飛んできた。エンドラインのパイロンから並木まで一〇メートルもない。明らかに浅見の失敗のパス。
「あきらーーー!」
江本とボールとの間に割りこんで、一人また一人とディフェンスの選手を抜いて走ってきた明が立ちふさがった。ボールとタイミングを合わせて高く飛び上がり、両手を伸ばしてボールを掴み、両足を静かに地面に着けた。
「タッチダウン!」
何人もの選手が明の元に詰め寄ってきた。
江本はヘルメット越しに明が自分のほうをじっと見つめていたのがわかった。が、それに応える前に手荒な祝福に明が包み込まれた。
江本は明が自分の側から離れていくような感じを受けた。スターダムにのし上がっていくような予感もして、過去の想い出が永遠に想い出だけで終わってしまうような気がした。
その気持ちを元に戻してくれたのが、二人の新しい形のからかいだった。
「アキラ?」
「え……」
江本が咄嗟に明の名を呼んだことを、二人は聞き逃さなかった。江本はそれを指摘されるまで自分がその名を口にしたと気づかず、何の事かわからなかった。
「もう、どうだっていいじゃない!」
「あきらあきらあきらあきら!……」
「これはアニキにもぜひ伝えなければなりませんのぉ」
「私らのいない間にデキたな」
「やめて!」
江本は立ち上がって二人から離れようとしたが、石澤に止められて再び座った。
明とのことをあれこれ言われるほうが、杉本とのことでからかわれるよりマシと考えたから。
杉本には悪いが、明との噂があれこれ立てば、杉本は自分に言い寄ってくるのを諦めるのではないかと江本は思った。
杉本のことをふるのはいつでもできる。だが、それで杉本のことを傷つけるのはいやだった。
最高の形は杉本のほうが自分以外の人に熱を上げての自然消滅、次が杉本が勝手に諦めること、三番目が杉本に諦めさせることで、それ以外を江本は考えたくもなかった。
「で、石澤から見て、6番の選手はどうなんだ?」明のほうを見ながら香は聞いた。
「神崎や杉本兄とバカやってることを知らないで、江本とデキてなかったら、ラブレターの一枚でも出してる」
「ってことは……、江本とアキラくんとのことを知らない人がこの試合を観てれば、ラブレター出すようになるわけね」『玉城』ではなく『アキラ』と呼んだが、江本に矛先を向けてのことである。
自分のことをからかいに入れながら話しをしている二人を無視して、江本は再びフィールドに立った明に目をやった。
「(助けてくれる。無意識……。『明』って呼ぶことが当たり前……。呼べばいつでも来てくれたから、いつでも側に来てくれるから、当たり前……)」江本は黙りこんで心の中で呟いた。
明は江本のほうに目をやった。
ヘルメット越しのその視線に、江本は気づいた。
練習試合が終わったと同時に、この日のフットボール部の練習は終わった。
いつもなら校門に了子が待っているはずだが、この日は誰も待っておらず、せいぜい水泳部の練習の終わった神崎と顔を合わせたぐらいだった。
「珍しいな。いつもはもっと遅いんだろ」
「3時からは使えねえんだ。地元のボランティアに貸すからな」
「あの脱税がか?」
「それもタダでな」
朱雀台の生徒には、『脱税』というフレーズが特別な意味を持っている。すなわち、朱雀台学園の三代目理事長で、贈賄と脱税の噂の絶えない(そして、それらは真実であると言われている)人物を指し示す名詞。
「新聞あたりに点数稼いでおこうってとこだろ。朱雀台くんだりまで来るんなら、ついでにさっきの練習試合も取材してくれりゃいいのに」
「そりゃ無意味だ。玉城には悪いが、新聞には俺が先に載る」
「自首するのか?」
「真面目に言ってんだ! いいか、俺らが新聞に載るとしたら、新人戦でがんばって新聞に載るというのが最も近い。俺は神崎って個人名で出れるが、アメフト部は学校名と点数だけだ。そこに玉城の名前はまずないだろ」
「なるほど」
男子寮の前まで来て、明は神崎と分かれ駅へと向かった。それと同時に、まだ昼食を取っていないことも思い出した。冷蔵庫にいろいろあったはずとの確信を持って、電車に乗ってアパートへと帰っていった。
男子寮を出た明の選んだアパートは、了子の実家のある駅の一つ手前の駅から乗り換えて二つ先の駅にある。
と聞くと複雑に感じるが、実際は自転車でせいぜい五分ほどの距離である。
了子は実家と明のアパートの往復に自転車を利用していたが、後にスクーターにとって替わった。
アパートに着くと、見慣れた了子のスクーターが停まっているのが目に入った。
いつものように階段を上がり、いつものように二〇一号室のドアの鍵が開いているのを確認してからドアを開けると、いつものように了子がいた。横になって買ったばかりの雑誌を読んでいたのだが、爪先がドアのほうに向いており、ドアを開けたと同時に了子のミニスカートの間から見える白い下着が目に飛び込んできた。
「あの……、見えてますよ」
「言うことはそれだけか?」
雑誌に目を向けて自分のほうを見ないことに、明は了子の怒りを感じた。江本と一緒にいるところを見られたときから覚悟はしていたが、いざそのときが訪れると、やはり恐怖を感じる。
「いいわけはしません。江本と一緒にいました」
「今度はそう来たか」
「下手ないいわけは見苦しいですから」
「まぁいいか。美香と一緒にカラオケに行かなかっただけでもヨシとするとこだな」
「?」
「美香が友達と一緒にカラオケ行くとこ見たから明ももしかしたらと思ったが、取り越し苦労だったようだな」
了子は読んでいた雑誌を閉じ、明をベッドに座らせ、自分も横に座った。
「できることならグラウンドまで出て行って、頬の一つでもひっぱたいてやりたいところだったんだ。もしそんなことをしたら、彼女があたしを払いのけて、あたしの代わりにここに座るようになるだろうから思い止まったけど」
「江本はそんなことできる娘じゃないですよ」
「その美香と同棲してたのはどこのどいつだ」
「あれは同棲じゃなくってただの二人暮らしです」
「明が美香のことをかばう気持ちはわかるが、美香は今でもあのときの暮らしを再現したいって考えてるだろうし、あたしを追い出す口実を見逃すとも思えん。明だって、暴力を振るう女より、優しく慰めてくれる女のほうがいいだろうし」
「はい」明は即答した。
「お前な……」
「だいたい、無意味に暴力を振るう人がいるはずありません。みんな理由があるんですから」
「親父さんがそう言ったのか?」
「悟ったんです」
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