末法之世 1.藤原道長の影と遺産

 時代の移り変わりには二種類ある。一瞬で起こった移り変わりと、少しずつ変化して気がついたら時代が変わっていた移り変わりである。多くの人は、前者の移り変わりについては明確に自覚するし、そのとき自分は何をしていたのかをはっきりと思い出せる。そして、未だ生まれぬ子や孫の世代にも語り継ぐことができる。戦争や災害は語り継がれる記憶となり、学ぶべき歴史の出来事となる。第二次大戦の記憶が、阪神淡路大震災の記憶が、東日本大震災の記憶が語り継がれ、記憶は記録となり、記録は歴史となる。

 しかし、後者の移り変わりが現在進行形で続いていることに気づくことはない。気がついたら時代が変わっていて、かつて時代の覇者であった者は時代から取り残され、それまで目を向けることもなかった存在が時代の覇者となったことを認めようともしない。時代が変わったことを自覚するのは、移り変わり終わってしばらくしてからである。つまり、取り返しがつかなくなったときである。

 長元四(一〇三一)年八月一六日に源頼信が平忠常の首を携えて入京したことが、これから一六〇年後に誕生する鎌倉武家政権へのスタートであったと気づいた同時代人はいない。それを指摘するのは、鎌倉武家政権の誕生を目の当たりにし、そのときになってはじめて過去を振り返った歴史家だけである。

 日本国の歴史を学んできた者は知っている。この時代から一六〇年後に鎌倉幕府が誕生したことを知っている。鎌倉時代が終わっても、室町時代、戦国時代、安土桃山時代を経て江戸時代を迎えたことを知っている。江戸時代が終わるのは明治維新であることを知っている。武士が政治の主導権を握る時代が長期に渡って存在してきたことを知っている。

 だが、この時代に生きる誰一人として、後に武士が政権を築くようになるとは想像もしていない。武士の地位は低く、中央では有力者のボディーガード、地方では領主ないしは領主に雇われた武力集団でしかないと信じていたのである。

 本作を読み進めれば読み進めるほど、この時代の貴族たちは、そして、多くの庶民はどうして、後の権力者となる武士たちをここまで蔑ろにできたのだろうと感じるであろう。ただ、その感覚はとても大切だが、もう一つ、その感覚は歴史を知る未来人であるからこそ抱ける感覚であることを忘れないでいただきたい。そうでなければ、この時代の人たちの一つ一つの小さな決断を理解できないであろうから。



 平忠常の乱の終結を示す長元四(一〇三一)年八月一六日の源頼信の凱旋は、内乱が終わったことを把握させたが、時代の移り変わりを把握させたものではなかった。すぐに元に戻れると誰もが考えていたのである。元に戻るというのは、皇室の下に藤原氏を頂点とする貴族たちがいて、京都から派遣した国司たちが地方を統治する仕組みである。その仕組みの中における武士とは、皇室を頂点とするヒエラルキーのかなり下層の存在でしかない。貴族であり武士である場合のみ、下級貴族としてどうにか認識してもらえるというレベルである。

 内乱を鎮圧させた源頼信に対する褒賞はなかった。貴族として朝廷の命令を遂行したことは、ノルマを達成したというだけであって褒賞の対象ではなかったのである。それでも源頼信はまだいい。関東地方に赴いたとほぼ同時に内乱の鎮圧に成功したとなっている。問題は、行きたくもなかったのに関東地方まで行かざるを得ず、命がけの任務だというのに満足いく軍勢を用意してももらえず、これでは討ち死にするからと援軍を頼んでも何の回答も得られず、京都からはいつになったら反乱を鎮圧させることができるのかという催促が来るだけであった平直方と、平直方の軍勢の一員として実際に関東地方で戦った平氏たちである。

 何もなかったのだ。

 命がけで反乱鎮圧にあたった功績を評価するどころか、汚れた存在だと遠ざけられたのである。そのくせ、平忠常の反乱の間は届かなかった税を納めるようにという指令だけは届いていた。

 これには呆れ果ててモノも言えなかった。平忠常の反乱のせいで房総半島は焼け野原と化している。税を納めるどころか、生きていくための収穫すら期待できなかったのだ。

 源頼信が伝えた房総半島の惨状を聞いた朝廷はさすがに安房・上総・下総の三ヶ国に対する免税を決定させたが、免税だけで支援は無かった。

 実際に関東地方に足を運んだ源頼信は、房総半島だけでなく関東地方全域に支援が必要であると考え、私財を投げ打って関東地方の再建に取り組んだ。このことに対する朝廷の動きはこの時点ではまだ無かった。

 ただし、このときの源頼信の行動が、一六〇年後に意味を持つようになったのである。

 平忠常の乱が終わるまで、相模国鎌倉は平直方の所有する地であり、鎌倉の邸宅も平直方の邸宅であった。それが平忠常の乱の平定後は源頼信の所有となったのである。奪い取ったのではない。平直方が提供したのだ。

 相模国鎌倉は、南が海、残る三方は山という天然の要塞と言っても良い地形である。戦闘における守りを最優先に考えるならば、関東地方全体を見渡しても群を抜いて優れている。それでいて、京都とは東海道で直結し、関東地方全域との交通も申し分ない。

 平直方の提供したのは邸宅であったが、その他の関東地方の武士たちは、邸宅以上の存在を提供した。

 それは、自分自身。

 この時代まで、関東地方の武士たちはことごとく平氏とその子孫であった。藤原氏もいたにはいたが、平氏にあらずば関東地方の武士にあらずというのがこの時代までの関東地方だったのである。苗字こそ平ではないにせよ、北条氏や三浦氏といった後の鎌倉幕府を構成する御家人たちだけでなく、江戸、千葉、秩父といった関東地方の地名としてその名を残す武士たちも、ことごとく平氏とその子孫であり、姓としては平氏なのである。その関東地方の平氏の子孫たちが揃って源頼信の家臣となったのだ。源平合戦で、どうして平氏の子孫が源氏の軍勢の一翼を担い、平家と争ったのであろうかと思った人もいるだろうが、源平合戦に至るまでの一五〇年という長きにわたる主従関係が存在していたのである。


 今、苗字と姓とをあえて使い分けて書いたが、これには理由がある。

 姓とは、天皇が日本国民に与える、一族の総称である。皇室から分かれ出たときに源や平といった姓を天皇から与えられることもあれば、大和時代の渡来人のように日本にやってきたときに天皇から与えられることもある。姓の有無は皇室とそうでない一般庶民とを分ける指標であり、姓が無ければ皇族、天皇から与えられた姓を持つ者は皇室に仕える庶民となる。

 藤原頼通を例にとると、一族名が藤原で、その一族の一員として頼通という名を持つ。

 公式の場では藤原頼通という連名が必要になるが、家の中では姓ではなく頼通という名だけで呼ばれる。

 ここまではいい。

 問題は、一族が多くなってきた結果、一族の総称としての姓だけでは個人が特定できなくなるケースが出てきたことである。かと言って、新規に姓を天皇から拝領するわけにはいかない。藤原氏や源氏といった一族の一員であるために、その人が貴族としての、あるいは役人として存在できるのである。

 そこで登場してきたのが、通称である苗字。

 現在でも苗字に藤の字を有する者は多いが、その人の祖先をたどると藤原氏である。遠藤さんは遠江国にゆかりのある藤原氏、近藤さんは近江国にゆかりのある藤原氏、佐藤さんは、朝廷における官職のうち現在の次官に相当する「佐(すけ)」をつとめていた藤原氏といった具合に、ゆかりの地名や、勤務している官職を組み合わせたアダ名が誕生し、あたかも姓であるかのように扱われるようになったのである。

 さらに、姓と無縁の苗字も珍しくなくなった。姓を組み込んだり、姓の一部を残したりしてもなお個人の特定ができなくなったケースが増えたためで、地名を苗字としたり、職業を苗字としたりすることがこの時代は当たり前になったのだ。前述した北条や三浦などの関東地方の平氏たちがその例である。

 苗字はあくまでも通称なので、正式な場では姓を用いる。これは平安時代に限ったことではなく幕末まで続いており、例えば、織田信長は平信長、徳川家康は源家康が朝廷における正式な姓名で、織田も徳川も、実際上はともかく理論上は通称である。ちなみに、豊臣秀吉は豊臣が姓である。これは天皇から豊臣姓を与えられたためであり、朝廷内でも豊臣秀吉が正式な姓名と扱われている。

 なお、明治維新の直後もこの仕組みを維持する予定であった。たとえば木戸孝允は明治天皇の前では大江孝允と名乗っていた。しかし、源、平、藤原、橘の四種類の姓で当時の日本人の八五パーセントを占めていることが判明し、明治八(一八七五)年に苗字を姓と同等に扱うという決定がなされ、その時点で使用していた苗字を姓とすることとなって、現在に至っている。そして、それまでは所詮アダ名であったため自由に決めることも変えることもできていた苗字が、姓と同じ扱いとなって変更不可な存在へとなった。


 自らの暮らしが誰かの犠牲の上で成り立っていることを知る者は少ない。知ったとしても、自らの暮らしを犠牲にして、自分のために犠牲になっている者を救おうとする者はもっと少ない。

 振り返ってみていただきたい。値上げを嫌がっていないか? 増税にしろ、原材料高騰による価格転嫁にしろ、値上げには値上げの理由がある。その理由を受け入れたとしても、値上げを仕方ないと考えるか、値上げに文句を言うかのどちらか。値上げを拒否する声が強ければ強いほど、値上げをできずにいる生産者や販売者はより多くの犠牲を強いられる。人手が減るか、あるいは給与が減るか、あるいは労働時間が増えるか、あるいはその全ての形をとって。

 それを社会問題であると考える者は多いし、どうにかしなければならないと誰もが考える。考えるが、自分が負担を引き受けるという選択肢はない。負担を引き受けるのは自分ではない誰かであり、自分自身は、今までの暮らしを維持するか、あるいは向上させることを望む。劣化させるという選択肢はない。

 犠牲になっている者の声が届くこともある。それでも、出てくる答えはせいぜい「がんばれ」。既に限界を超えているのだからどうにかしてくれと訴えているのに、犠牲になっている者の声を聞かされている側は「今までやってきたのだし、これまで通りやれば問題ないだろう」と言い放って終わり。

 平忠常の乱は確かに沈静化した。しかし、不満の爆発は、一つの理由だけをきっかけにして、一瞬で起こるものではない。積もり積もった不満の最後のきっかけで爆発するのであり、爆発を沈静化させても不満がたまっている現状をどうにかしない限り、問題の解決にはつながらないのである。

 この時代の武士たちが望んでいたのは、自らの地位であり、資産であり、安全であり、生活の向上である。いや、ここは武士とするより下級貴族とするべきであろう。

 すでに述べたように、この時代の武士の中には皇室につながる家系の者が無数に存在している。皇室とつながる生まれであれば、時代が時代なら中央政界で大手を振って歩けたのである。現時点の地位では大手を振って歩けないとしても、本人の努力と運によって中央に名を刻むことは夢物語でもなかったのだ。中央に出てどこかの国の国司になることができれば一生分の財産を築けるし、財産を築ければそれを元に藤原氏や源氏に近づいて、自身の栄達も、子孫の繁栄も可能だったのである。

 ところが、この時代、それは極めて狭い門になってしまった。ゼロではない。ゼロではないが、飛び抜けて優秀で、かつ、立ち回りがうまく、その上で幸運も重なってやっと狭い門に挑戦できる。

 かと思えば、生まれが恵まれているというだけで、政治家としての能力に難があろうと、コミュニケーション能力が絶望的であろうと、まず間違いなく三位は獲得できる。地方の下級貴族が幸運とかなりの実力を伴ってやっと五位になれるかというときに、ただ生まれが恵まれているというだけで三位というのは、世の中がそういう仕組みになっているといくら自分で自分に言い聞かせようと、納得できるものではない。

 それに、国司になれば財産を築けるのは事実でも、多くの武士にとって国司とは対面する存在である。つまり、税を取り立てようとする国司に対抗するのが武士なのである。税を払うのが気にくわないというのもあるが、税の負担が重すぎるのだ。法で定める以上の税を取り立てようとする国司に対し、文字通りの実力行使で立ち向かうのが武士の役割の一つであった。より正確に言えば、武力を使って荘園に住む仲間の、そして家族の暮らしを守るのが武士だったのである。中央に打って出てどこかの国司になりたいという希望はあるが、自分が国司と対抗する側になったらどんな手段を使ってでも徴税に抵抗することが武士に求められたことだったのである。

 日本国憲法は、納税を義務としている。しかし、国によっては納税の権利を憲法で定めているところがある。税を納める代わりに納税に見合った施策を要求する権利、払えないレベルの負担を押し付けられない権利、そして、税を強要する支配者を追放する権利である。追放と言うと物騒に感じるが、選挙で退陣に追い込むのは権力者を追放することである。

 話を平安時代に戻すと、武士は武力でもって納税の権利を守っていたのである。そして、中央で名を築くことの欲望を隠しはしなかったが、世代を超えて一つの土地に勢力を築き続けることで、地域の有力者として存在するようになったのである。地域の声を力として、京都からの命令と向かい合う。聞き入れることのできる命令である場合は我慢することもあるが、聞き入れることのできない命令であるときはその旨を訴える。

 まともな統治者ならば、地方から上がってくる要望に応える。無茶な命令であるとの訴えが届いたときは本当に無茶であるか吟味させるし、国司の統治に対する不満があれば国司の調査もする。場合によっては国司を罷免して京都に連れ戻す。

 ところが、地方から上ってくる要望に応えないでいると、地方は中央に対して怒りを見せるようになる。それでも中央は気づかない。不満の声が上がっているのを無視する。無視された不満は積もるのみで消えない。そして、不満が積もりに積もって爆発する。しかも、武士という武力を持った軍事集団が暴れまわるという爆発である。平忠常の乱は、反乱こそ確かに鎮圧したものの、不満はますます募らせる結果を生んだのである。


 不満の源泉として忘れてはならない点がある。

 一八世紀初頭のイギリスの精神科医のバーナード・デ・マンデヴィルが記した「蜂の寓話」という本がある。書名でわかる通り、この本の主人公は蜂たちであるが、蜂の生態について記した本ではない。この本の副題は「私悪すなわち公益」であり、経済について記した本である。アダム・スミスの「見えざる手」に影響を与えただけでなく、ヒューム、ケインズ、ハイエクといった後世の哲学者や経済学者にも大きな影響を与えている。

 「蜂の寓話」は、人間が悪徳と考えている行為が経済に与える影響を記した書である。あくまでも蜂の世界であるという但し書きがつくが、マンデヴィルの書の中の蜂は、悪徳を排除しようとし、排除に成功する。酒を飲む悪徳を排除し、犯罪に走る悪徳を排除し、揉め事を排除し、贅沢を排除し、戦いを排除する。

 その一つ一つは素晴らしいことであると誰もが思うだろうし、書の中の蜂たちも素晴らしいことを実践していると自負している。しかし、物語は蜂たちの思い通りには進まない。酒を飲む悪徳を排除したために、酒を造る者、酒の肴を作る者、そしてそれらを売る者が失業した。犯罪に走る悪徳を排除したために犯罪から身や財産を守る必要がなくなり、頑丈なドアや窓を作る職人が失業し、多くの鍛冶職人が失業した。揉め事を排除したために弁護士が失業し、判事が失業し、警察官が失業した。贅沢を排除したために農民は作物が売れなくなり、服屋は服が売れなくなり、失業した。戦いを排除したために戦う者が失業した。

 素晴らしいことを実現させた社会は、一握りの蜂しか必要としない社会になった。多くの蜂たちは自分の存在意義を失い、社会から必要とされず、命を落とした。蜂の社会は日に日に小さくなり、ついに、別の蜂の群れに襲われ、消滅した。

 マンデヴィルは、経済が動くことで人は生きていけると説いたのである。悪徳とされる要素を排除することは経済を小さくさせ、社会を小さくさせ、貧困を招くとしたのだ。

 藤原道長を清廉潔白な人間であったと評する人はいない。贅沢もしたし、受け取ってきた賄賂だって叩けばホコリが出るというレベルではない。ただし、多くの人を失業から救ってきたのは事実なのだ。無駄遣いと酷評されようと、それで失業が減るなら酷評される方を選んできた。

 一方、藤原頼通は、そのような酷評を受け止めることのできる人間ではなかった。あるいは、時代の空気がそうであった。悪徳をなさないことが人としての評価であると同時に統治者としての評価であり、それによって失業が増えたとしてもやむなしという時代の空気だったのである。

 必要とされなくなった蜂は巣から出ていってひっそりと命を落としたが、必要とされなくなった人間はどこに行くのか。

 人は社会から排除されても簡単には死なない。人間というのは、地球上でもかなり大きな、そして、かなり有力な生物である。一日食べなければ死ぬなどということはなく、空腹ではあるものの普通に動ける。社会から排除された人間が別の居場所を探すのはごく普通のことである。

 そして、古今東西、こうした被排除者を受け入れる集団というのが存在している。

 それは、宗教。

 まったく、宗教の歴史を振り返れば振り返るほど、その存在意義は世界の救済ではなく、社会の脱落者への居場所の提供であることを痛感させられる。それは自らを宗教団体と認めない集団でも違いはない。社会変革を訴える集団であったり、反差別や反格差を訴える集団であったりしても同じである。

 社会において存在価値を失った人の最後の拠り所になっているのがこうした集団なのだ。かつての学生運動の頃、あるいは、二〇世紀末のオウム真理教の頃、高学歴のエリートのはずなのにどうしてこんな集団にいるのかと思わせるケースが頻繁に見られたが、実際に高学歴の人であふれている集団を見てみると、かなりの割合で集団に溶け込めずに浮いている人、自分の存在価値を見出せない人というのを見かける。

 ペーパーテストで計ると確かに高得点を叩き出す。しかし、人としての魅力は乏しい。

 かと言って、断じて不真面目なのではない。それどころか、本人は至って真面目なのである。それこそ、右側通行ではなく左側を歩いてしまったとか、学校の帰りに寄り道してしまったとか、それでとやかく言われるようなことはないだろうということですら自らが悪事を成したと考えてしまうほどの真面目な人なのだ。

 親や教育者の言う通りに育ってきた自分は真面目で正しい人間であると信じている。そして、自分と違うこと、すなわち、親や教育者が否定したことをする人を見下す。ところが、いざ大人になってみると自分が浮いていることに気づかされる。自分が見下してきた人たちが評価され、自分が評価されなくなっている。しかも、評価されない理由を、人間としての魅力の欠如ではなく真面目さの不足と考える。 

 結果、ますます真面目になる。ますます融通が利かなくなる。ますます頑固になる。そして、周囲からさらに浮く。

 宗教にしろ、社会運動団体にしろ、スタートは理想であっても、組織の維持に用いるのは、権力であり、武力であり、財力であって、当初掲げた理想ではない。ただし、題目としては降ろさない。

 自分が評価されない世の中がおかしいと考えている人に、自己を変えるよう促すのは困難だ。しかし、題目を前面に掲げ、世の中の方が間違っており、あなたが評価されない社会が間違っているのであって、あなたは間違っていないと訴えると、いともたやすく組織の一員になる。組織にとって重要なのは頭数が揃うこと、それも、無料で働くだけでなく財産を勝手に差し出してくれる都合のいい奴隷が揃うことであって、優秀な人間を集めることではない。そもそも優秀な人間などそんな組織には加わらない。そこにいるのはせいぜい、ペーパーテストのおかげで自分をエリートだと勘違いしたまま、現実を直視することなく育ってきた、つぶしの効かない人間である。


 関白にして左大臣という、それより上には皇族しかいない地位に就いてはいるものの、藤原頼通はどうしても比べられ、そして、敗者となる運命が待っていたのである。

 藤原頼通が比べられ、そして、藤原頼通を敗北させている人間こそ、他ならぬ実父の藤原道長であった。それも、すでに故人となっているために人々の記憶の中で美化された藤原道長であった。

 頼通は何をしても「これが藤原道長であったら違っていたのに」という感想を相手に抱かれてしまう宿命を持っていたのである。その上、道長が権力者であった頃は無縁であった戦争や内乱が、頼通には現実のものとして突きつけられている。

 右大臣藤原実資の日記にも、何かと左大臣藤原頼通が相談にやってくることが記されている。ここまで何でも頼ってこられると迷惑だと言わんばかりの筆致であるが、頼通の立場に立つとわからないでもない。他に頼れる人がいないのだ。

 関白としての、あるいは左大臣としての政務をこなすにしても、頼通には父道長にあったような人間としての魅力がない。

 道長は議政官を取り仕切り、自らの意見を議政官の議決として天皇に上奏することで、誰にも文句を言わせない政務を展開したが、見かけ上は議論の末の結論であったとしても、実質上は独裁者藤原道長のようなものである。政策に不満があろうと、その手順が完璧であったために文句のつけどころがなかったのである。

 その上、藤原道長は全ての言論の自由を許してきた人間である。道長に文句があったら堂々と言うこともできたし、書くこともできた。議政官の場で弁論を立てることもできたのである。そこまでの自由があり、反論する権利もありながら、自らの意見ではなく藤原道長の意見が議決となると、これではもうどうにもならないではないか。しかも、どんなに藤原道長を罵倒しようと、道長が有能だと認めたならその者の才能に応じた職務を果たすよう求められる。罵倒する人間と、罵倒を知りながらもなおその者の才能を認めて役職を用意する人間と、世間はどちらを評価するか。

 一方、藤原頼通は、理論上こそ藤原道長と同じ統治システムである。藤原氏という議政官の最大会派のボスであり、左大臣という議政官で最高の役職の者である。藤原頼通の意見は、藤原道長がそうであったように、議政官を通して国策とすることも可能であったのだ。

 ただ、頼通には魅力がなかった。相手を黙らせるだけの威圧感もなければ、相手をひれ伏させられるだけの威厳もない。道長の意見に従っていた者も、頼通の意見に従うとは限らない。

 この頼通のどうにもならない焦燥感を癒した存在こそ宗教であった。道長は政界引退後に宗教を利用したが、頼通は、現役の最高執政者でありながら宗教に利用される存在へとなってしまったのである。


 平安時代の宗教といえば、それは無条件で仏教を指す。

 と言うと、古代からの神道が消えて無くなってしまったかのような印象を抱くが、そんなことはない。ただ、仏教と神道との境界線が不明瞭になったのである。

 日本の歴史における、あるいは、日本社会における宗教観をうまく説明するのは難しい。正月に神道の宗教施設に参詣し、クリスマスにキリスト教の祭典に参加し、大晦日に仏教の寺院に足を運ぶ。これだけでもかなりムチャクチャな話なのに、イスラム教徒が日本にたくさんやってきて、イスラム教の寺院であるモスクも日本に建つようになったら今度は、地域住民の間で「モスクさん」という呼び名で普通に受け入れられるようになった。それも、宗教施設としての当然の礼節とともに受け入れられるようになった。世界平和を願う人が夢に見るような異宗教間の融合が日本国では当たり前であり、どんな宗教でも受け入れるというのが日本国における宗教観である。

 他の人が神聖な存在として扱っている建物や道具、その教えに基づく暮らし、そして教えそのものを、自分と違う考えであるからといって排除することはしないだけでなく、異なる教えだろうと普通に受け入れる。それは、二一世紀の日本人だけではなく、平安時代の日本人にとっても当たり前の考えであった。寺院の中に神社があっても、神社の中に寺院があっても、それでどうこう言う人はいなかったのである。厳密に言えばどうこう言う人はいたが、「どうでもいいことにこだわる無能者」扱いされて終わりであった。

 ただし、平安時代の宗教施設は、現在の宗教施設と大きな違いがある。それは、宗教施設が現在の企業に相当する組織であり、かつ、武力も持った組織であるという点である。宗教施設とその周辺で完結する経済圏を持っており、異なる宗教施設との間は、協力すべき関係ではなく、敵対すべき関係が存在したのである。

 それでも宗教は宗教である。救いを求める人に手を差し伸べるのは普通にする。

 そして、宗教の寛容もある。仏教寺院が神道の施設を境内の中に建てても誰も何も言わない。

 ただ、他の宗教施設は敵なのだ。それも、武力で争う敵なのだ。

 寺院が多くの人に手を差し伸べたのは事実であるが、他の寺院が手を差し伸べる光景を喜んで見ているわけではなかった。

 結果は僧兵という武力のぶつかり合い。

 仏教と神道が手を結ぶことはごく当たり前にあったが、異なる寺院との間で手を取り合うことは想像するだけ無意味だった。

 宗教勢力の拡大は昔から問題であり続けた。少なくとも桓武天皇はこの問題に対する対策を考慮した上で平安京の設計をしていた。平安京の中に東寺と西寺以外の寺院を建てさせなかったのである。清水寺は坂上田村麻呂が建立させたという歴史ある寺院であり、平安時代から多くの人が参詣に訪れてもいただけでなく、現在も京都観光名所の一つであるが、清水寺は平安京の区画外の寺院である。

 つまり、平安京の中に住む人が平安京の外にある寺院や神社に参詣することは誰も何も言わなかったが、寺院や神社が平安京の中に入り込んでくることは絶対に許さなかったのである。桓武天皇の定めはこの時代でも有効であり、藤原道長の建てさせた法成寺もまた、いかに目と鼻の先が平安京であるとはいえ、区画そのものは平安京の外にあった。

 しかし、平安京の中に寺院も神社も入り込むことは許さなくとも、平安京の外となると話は変わる。

 特にこの時代の宗教の二代勢力となっていたのが、比叡山延暦寺と奈良の興福寺であった。この二者のことを、南都北嶺と言う。南都とは平城京のこと、北嶺とは比叡山のこと。どちらも文字通りに捉えればこの時代の単なる地名であるが、意味するところはそんな単純なものではない。

 まず、比叡山延暦寺であるが、実は、延暦寺という寺院はない。狭義では比叡山の山内にある一五〇ほどの堂塔の総称であり、広義では比叡山の敷地を超え平安京の東を流れる鴨川の東岸にまで至る仏教施設群である。現在でこそ一五〇ほどに留まっているが、最盛期には三〇〇〇もの仏教施設が存在していた。

 比叡山延暦寺の最大の力の源泉は、何と言っても人材輩出力である。延暦寺の僧侶になるために一二年間の教育カリキュラムが用意されており、これはこの時代の全ての教育期間の中でもっとも長く、もっとも体系づけられたものであった。その内容は厳しいものであったが、その代わり、全てを終えた者は格別の尊敬を受け、僧侶としての最高の待遇が用意されていた。これが、野心あふれる若者を延暦寺に呼び寄せる源泉となり、延暦寺で育った若者が修行を重ねて高僧となって、さらに延暦寺の勢力を伸ばしていったのである。ちなみに、このカリキュラムは現在でも存在しており、終えた者への最高の待遇の一つとして、京都御所への土足の立ち入りが許されている。京都御所への土足の立ち入りなど内閣総理大臣でも許されていない。

 なお、比叡山延暦寺がこの時代は二分されていた。比叡山に残った派閥である山門と、比叡山を下りた派閥である寺門とである。寺門は近江国大津の園城寺、別名三井寺を本拠地とし、北嶺内部で激しい派閥争いを繰り広げていた。

 一方、奈良の興福寺であるが、こちらは興福寺という一つの寺院である。一つの寺院であるがその勢力は莫大で、大和国の主要部のほぼ全てを傘下に治めていた。その勢力がどれほどかというと、もう少し先の話になるが、大和国司という職が意味をなさなくなったほどである。国司の役職の一つは領国内から税を徴収して中央に届けることであるが、大和国の場合、見渡す限り興福寺の荘園で、荘園となると税の徴収は難しい。律令に従えば荘園だろうと納税の義務はあるのだが、僧兵が武器を構えて立ちはだかっているところに踏み込んで税を取り立てようなどという命知らずはいない。

 延暦寺の源泉が人材であるように、興福寺の源泉もまた人材である。

 ただし、延暦寺のように体系づけられた教育カリキュラムによってではなく、教育を受けた者が興福寺にやってくるのである。

 それは誰か? 皇族と藤原氏である。

 延暦寺は最澄を開祖とする寺院である。最澄といえば天台宗の開祖であり、遣唐使として唐に渡った経験もある名僧である。一方、興福寺の開祖は誰かというと、藤原鎌足。そう、興福寺は藤原氏の氏寺であったのである。いや、藤原氏にとっての興福寺はただの氏寺ではない。権力争いから脱落した者を収容する場所であり、荘園の守護を引き受ける組織でもあったのだ。また、皇族や藤原氏の中には、このままの人生であり続けることの疑念を持つ者も多くいたが、そうした皇族にも興福寺は手を差し伸べていた。宗教の役割である人の心の救済としての役目であるから誰も何も言わない。それに、寺院においてはあくまでも一人の僧侶である。だが、元皇族、元藤原氏、こうした僧侶がごく普通の一人の僧侶であると誰が考えるであろうか?

 一方はその勢力を平安京のすぐ近くまで伸ばし、もう一方は中央政界につながる人脈を持っている。

 この二者が激突しないとしたらその方がおかしい。比叡山の内部で山門と寺門で争っていると言っても、だからといって興福寺と手を組むということはなかったのである。




 最初の激突は祇園寺をめぐる争いであった。祇園寺はその名の通り、祇園祭を主催する寺院であるだけでなく、八坂神社と名を変えた現在でも初詣参拝客数で京都市第二位となっているという歴史と伝統を現在進行形で持っている。祇園祭の開催権は室町時代の足利義満による改革によって失われたが、この時代は祇園寺と言えば祇園祭と結びつく有名寺院であった。ちなみに、名の変遷からもわかる通り、元々は神社であったのが、平安時代に寺院となり、明治維新で神社に戻ったという歴史を持っている。このあたりの混在は珍しいものではない。

 以後は平安時代の名称である祇園寺で統一させるが、祇園寺は京都近郊ということもあって、平安時代は多くの平安京の庶民が参詣する寺院であったが、南都北嶺と比べれば勢力の弱い寺院であった。このような場合、独立した宗教施設であり続けるより、有力寺院の傘下に加わることを選ぶことが普通であったが、どこにでもある普通の寺院でもどこが傘下に収めるかの争いがあるのに、藤原基経に由来する祇園祭の主催寺院となると簡単に収束するわけがない。おまけに、祇園寺は平安京の区画外であるとはいえ、平安京の目と鼻の先にあるのだ。祇園寺を傘下に収めれば平安京に手の届く場所に勢力を伸ばすことができる。

 これほどの好条件を黙って見過ごすわけがなかった。

 結果は興福寺と延暦寺の争い。

 祇園祭が藤原基経由来であることから当初は興福寺に有利に展開していたが、最終的には延暦寺の傘下に収まることとなった。ただし、この時点ではあくまでも傘下というだけで、延暦寺の一部となったわけではない。興福寺は奪還を目指し、延暦寺は完全支配下を目指す。この争いが始まったのである。

 この南都北嶺の争いに加わったのが藤原道長の建立させた法成寺であった。法成寺は、理論上こそたしかに平安京の区画の外であるが、道路一本挟めばそこはもう平安京であるだけでなく、道路一本挟んだ先は平安京の中でも有数の高級住宅街なのだ。現在の東京で言うと、六本木に巨大寺院を構えたようなものである。参詣が信仰であるだけでなくレジャーでもあったこの時代、前日から念入りに準備をして夜明けとともに出かけるのと、その日の気分でぶらりと立ち寄るのと、どちらが身近に感じられる存在であろうか。

 しかも、これは法成寺に限ったことではないが、寺院の庇護を受ければある程度の生活が保障されるのである。生活保護や社会福祉という概念のないこの時代、寺院がその役割を担っていたのである。寺院に行けばとりあえず食べることができる。寺院の敷地内で寝泊まりができる。寺院の持つ田畑を耕す身になれば、年貢を寺院に収める必要はあるが、国に税を納める必要はなくなる。生活を取り戻せる。現在の生活保護は、職業に就いて定期的な収入を得られるとなったら打ち切られるが、寺院の庇護下ではその概念がない。寺院というものは救いを求める人に救いの手を差し伸べるものであり、救いはもういらないと言わない限り手を差し伸べ続けるものである。

 ただただ税を持っていくだけの国と、年貢を納めねばならないにせよ救いの手を差し伸べる寺院と、どちらがより身近な存在に感じるか。

 二つの勢力が拮抗しているときに、双方の勢力と対抗しうる第三勢力が登場した場合、その第三勢力は壮大な勢いを持つ。ましてや、その一方はその内部で激しい争いを繰り広げているとなると、第三勢力の存在価値は激増する。そして、争いを続けている既存勢力に対して辟易していた人の支持を得やすくなる。法成寺はまさにそれであったが、法成寺にはこれに加え、平安京に隣接しているという地盤のメリット、数多くの京都市民を救ってきた実績、そして、藤原道長の命令によって創建されたという背景がある。ここまでくると、多くの人が法成寺に身を寄せるようになる。それは他ならぬ関白左大臣藤原頼通とて例外ではない。父が創建させたという点がある以上やむを得ないとも言えるが、父道長が宗教を利用してきたのに対し、息子の頼通は法成寺をはじめとする寺院に利用される存在になってしまったのだ。

 三本足の椅子はあっても、二本足の椅子はない。四本以上の足を持つ椅子はガタつく。ゆえに、安定という点では三本足がもっとも優れている。理論上は。

 理論上は優れている三本足も、勢力争いとなると、三つの勢力が拮抗しているという状況という言い方になるが、これはお世辞にも安定とは言えない。

 勢力争いという点でもっとも安定しているのは、一つだけが絶大な勢力を持ち、逆らう存在があるもののそれが重心を担うことはないというケース。現代の民主主義で言うと、与党が議会で単独過半数を占め続けている状況がそれにあたる。平安時代に話を戻しても、藤原独裁を考えれば理解は容易であろうし、世界史レベルに視点を広げると、カトリックはそのような組織運営をしている。ただし、主たる勢力に逆らう勢力を認めないわけではない。認めないのでは生き地獄が始まる。共産主義と呼ぼうと軍国主義と呼ぼうとリベラルと呼ぼうと、それらは全て、ファシズムという生き地獄に括ることができる。そう言えば、カトリック以外を許さなかった頃の西ヨーロッパは現在の感覚で言うと生き地獄以外の何ものでもない。

 勢力争いでそれなりに安定しているといってもいいのが、拮抗する二つの勢力が存在しながらも、人の行き来は自由であるというケース。その時々によって重心を担う勢力は移り変わるが、大きく移り変わるわけではなく、安定はしている。アメリカの二大政党制がそれにあたる。その時々によって共和党になるか民主党になるかの違いはあるが、共和党と民主党との間にそれほどの大きな政策の違いがあるわけではない。一方、第一次大戦までのイギリスも保守党と自由党という争いであったが、党は異なっても人の行き来は自由であった。それが保守党と労働党という枠組みになったら簡単に戦争を招き出し、戦後は絶望的な貧困を招いた。ちなみに、日本人もそれを笑うことはできない。戦前の日本は政友会と民政党という絶望的な貧困と戦争を招いた悪しき先例があったし、ついこの間も民主党という二度と繰り返してはならない悲劇を経験したのだから。

 最悪なのが、どこも長期的に重心を担えず、重心がコロコロ移り変わるケース。同じ二大政党制でも、二つの政党の間の意見が大きく食い違っていたら、選挙のたびに国策がフラフラする。また、どの政党も単独過半数を取れず、全く政策の違う複数政党からなる連立政権は、政策が安定しないだけでなく何をさせても一貫せず、つまらぬ派閥争いがはじまり、連立政権が瓦解する。

 二者が拮抗している状態は、最良とまではいかなくとも、次善までには至れるのである。しかし、第三勢力が登場するとなると、最悪な状況、すなわち、どこも長期的な重心を担えない状況を生み出す。

 二者の争いに割って入る第三勢力は、多くの場合、瞬間最大風速的にとてつもない勢いを見せる。ただし、長続きしない。しかも、長続きしないことに気づかされるのは常に未来である。瞬間最大風速の最中に、新しい第三勢力が衰退を見せると考える者は少ない。最近の日本でも、みんなの党は姿を消し、維新の会はかつての勢いを失っているが、勢力が華やかであった頃、誰がこの惨状を想像したであろうか。

 話を法成寺に戻すと、現在の我々は、法成寺などもうこの世に存在しないことを知っている。いや、現在の我々だけではない。徒然草にはもう、法成寺は跡地となっていることが記されている。延暦寺も興福寺も現在まで残っているのに、その二大勢力と拮抗しうる存在とされていた法成寺は兼好法師のころにはもう過去の存在となってしまっていたのである。だが、話を平安時代に戻すと、法成寺はまさに、今後の一大勢力となると誰もが考える巨大寺院になりつつあったのだ。先に瞬間最大風速と書いたが、このころに法成寺はまだ瞬間最大風速も訪れていない、だんだんと風が強くなっていた頃だったのだ。

 二大勢力の争いといっても、多くの人はそこまで肩入れしない。自分と無関係のところで勝手に争っていて、その争いの余波で迷惑を被っている。そうした延暦寺にも興福寺にも不信感を持つ人にとって、第三勢力として台頭してきた法成寺は魅力的な存在であった。

 ただ、第三勢力によく見られることであるが、今いる人材の力で組織を拡大することはできても、新しい人材を招き入れて組織を維持する仕組みを持っていないことが多い。それに、今いる人材の質もお世辞にも高いものとは言えないことがほとんどである。実力以上に高い期待をかけられながら、実力をそのまま示すと既存勢力よりみっともない結果に終わる。


 これが長元五(一〇三二)年一月一日時点の議政官の構成である。相変わらず藤原氏が多数を占め、源氏は姿を見せてはいるものの大臣はおろか大納言にも姿を見せていない。

 ただし、一人だけ特筆すべき源氏がいる。藤原頼通の後継者との指名を受けていた、二三歳の権中納言源師房である。

 藤原頼通に子がいないわけではない。少なくともこの時点で三人の男児がいたのである。ただ、正室の隆姫女王との間に子がいなかった。隆姫女王はこの時点で三七歳になっており、高齢出産が珍しくない現在では妊娠するごく普通の年齢であっても、平安時代は三七歳の女性に出産を期待しない。つまり、藤原頼通は正室との間の子がいない生涯を歩まねばならないことが宿命づけられていたのである。

 前作「欠けたる望月」では藤原頼通の血を引いた子を産むために、一度は藤原頼通のもとを離れた藤原祇子が長元二(一〇二九)年に戻って来たところまで記した。そして、藤原祇子が待望の男児を産んだのである。

 ただし、いくら男児を産んだとしても、生まれて間もない幼児が藤原頼通の身に何かあったときの後継者とすることはできない。少なくとも、あと二〇年は源師房を後継者とする既定路線を守らねばならないのである。

 二三歳の権中納言は現時点の関白左大臣である人物の後継者として申し分ない役職である。ここは問題ない。問題はその位階。なんと従二位である。

 本来、二位は大臣相当の位階である。従二位の右大臣など当たり前で、低くても大納言になっていなければならない。それなのに権中納言なのだからこれはおかしい。

 そこで、源師房の上を見てみると、シャレにならない以上事態が起こっていることに気付かされる。関白左大臣藤原頼通が従一位である以外、全員が正二位なのである。そして、源師房の下を見ると全員が三位以下。つまり、議政官の中に従二位は源師房ただ一人がおり、源師房より上と下とで完全に二分されているのである。

 つまり、源師房が従二位権中納言に留められている間、源師房より下の職務、下の位階のある者は現在より上に行けない。現在より上に行くには源師房より上の職務、上の位階の者が政界引退するのを待つしか無いのである。

 ただでさえ努力に対する功績が見られなくなっているのに、完全に人事が固まってしまっているのを目の当たりにしては、希望を抱けと命令する方がおかしな話になってしまうのだ。

 特に問題だったのが、いつ爆発するかわからない武士たちの不満であった。


 武士たちの不満を抑えるべく、長元五(一〇三二)年二月八日、平忠常追討の功績により、源頼信を美濃国司とすることが決まった。もともと美濃国司は藤原庶政が務めており、任期満了を迎えていたので誰かを新たな国司にする必要があったというところで、源頼信に転身が命じられたのである。

 源頼信は長元二(一〇二九)年から甲斐国司でもあったから一見すると任期満了前に美濃国司に転身したように見えるが、実際には異例づくしの待遇であった。

 正二位でも権中納言に留まるほど人事の硬直化が進んでいたが、それがもっとも顕著だったのが国司である。

 令制国は、国としての大きさにより、大国、上国、中国、下国に区分される。甲斐国も美濃国も上国に区分されており、上国の国司は従五位下で就任可能である。本来、従五位下であれば国司になる資格を得るのだが、五位どころか四位になってもどの国の国司にも就任できないことが珍しくなかった。

 何しろ、国司の定員は決まっているのに、国司になれる従五位下以上の貴族だけはそれよりはるかに多い。研究者の中には四桁に及んでいたのではないかとする人までいる。さすがに多く見積もりすぎだとしても、律令に従えば、せいぜい二〇〇名程度しか五位以上の位階を得られないはずなのに、例外に例外が積み重なり、律令に基づく数字の二倍や三倍では済まない数の貴族が誕生していたことは間違いない。

 令制国は通常六六ヶ国と扱われるが実際には六八ヶ国存在する。また、大国と上国は守と介の二人の国司が任命される。一方、大国の上総国、常陸国、上野国の三ヶ国は親王が守になるので介しかいない。また、大国の介は正六位下、上国の介は従六位上が必要条件なので、貴族でなくても就任できる。特に、国の治安や貧困が問題となっている場合、有力貴族であるよりも実務能力の優れた役人を派遣することが多いので、介としての国司に貴族が就任する割合はさほどでもない。

 律令に定められた規定を全て充足したとしても一〇三名の国司が上限である。それも、上述の通り、介は貴族でなくても就任できるから、貴族が就任できる国司の人数として計算できるのはせいぜい二桁の後半の数字である。

 仮に一〇三名全員を貴族としても、国司の任期は四年だから、平均すると四分の一の二六人しか枠がない。その二六しか数えることできない枠に、中央でそれなりの地位を得ていてもおかしくない位階の貴族が殺到するのだ。それも、何の役職にも就けずに位階だけを手に入れている日々を過ごしている貴族が、貴族でなくても就任できる役職目指して殺到するのだ。

 国司の空席ができたと聞きつければ争うように自己推薦文を手に宮中に殺到する。そのため、国司をやりたい者の募集をするどころか、国司になりたい者の中から国司に相応しい人材を選ぶのに一苦労していたほどだ。おまけに、その中にはかつて名国司として名を馳せていた者も珍しくなかった。そのため、どんなに国司としての実績を残した者であっても数年の空白期間があるのが普通であったのである。

 この時点の源頼信は従四位下だから、甲斐国司の必要条件である従五位下より四つの上の位階であるが、それでも、国司になるだけでも激しい競争に勝ち抜かねばならなかった。甲斐国司になれたのも、従四位下という充分な位階に加え、目と鼻の先でまさに反乱が起こっている現状を踏まえての軍事的な意味合いがあった。

 その甲斐国司でもあった源頼信を、同じ上国である美濃国司に転任させたのは異例中の異例だったのである。同じ上国でも、甲斐国は四郡三一郷の小規模の国なのに対し、美濃国は一八郡一三一郷の大規模な国である。三五ヶ国が該当する上国の中で、美濃国より大きな国はない。日本全国六六ヶ国、正式なカウントをして六八ヶ国を見渡しても、美濃国より大きな国は、三五郡一九三郷の陸奥国(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)と、 二一郡一一九郷の武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県川崎市・横浜市)の二ヶ国しかない。郡の数では武蔵国に負けていても、最小行政単位、現在で言う市町村に相当する郷の数で言うと、美濃国は武蔵国を超えて日本第二位に浮かび上がる。

 しかも、陸奥国も武蔵国も領地が広い上に歴史上何度も内乱のあった土地であり、この時点でも武士の反乱がいつ起こってもおかしくない物騒な国であり、それに加え京都から遠いこともあって国司として獲得できる資産より果たさねばならない義務と出費が上回っていたことから敬遠されることが多かったのに対し、美濃国は安定している上に京都に近いことから、国司就任希望者が毎回殺到していた。

 その美濃国司に無条件で転任させるというのは、当時としては破格の栄誉だったのである。


 さて、令制国を全て数えると六八ヶ国存在する。しかし、明治維新を迎えるまで、令制国は六六ヶ国とされていた。日本全国は六六ヶ国からなるというのが明治時代を迎えるまでの日本人の常識であり、数えてみれば六八ヶ国ではないかという指摘には、備前・備中・備後の三ヶ国をまとめて「吉備国」としたり、対馬と壱岐を国ではなく日本国の直轄地として数えなかったりと、かなり苦心していたようである。

 これは何も、当時の人が数を数えられなかったからではない。令制国の推移があり、令制国の数が一定していなかっただけの話である。数が一定していなかった時代に日本全国六六ヶ国という言い方が先に成立したので、六八ヶ国で固定しても六六ヶ国という呼び名が定着したのである。令制国の数が一般に言われている数と実際の数と一致していないことから、六十余州という言い方でぼやかした言い方をすることもあった。このあたり、どう考えても五〇を数えることはできないのに、仮名を五十音と言うのに似ている。

 さて、六六ヶ国と六八ヶ国の違いのことを調べても、不整合の解決は見つからない。何しろ、古地図をどんなに探しても日本国は六八ヶ国なのであるが、それでいて、日本国は六六ヶ国からなるとも記されているのである。それは日本国内に留まらず、時代は下って一七世紀になるが、イエズス会の宣教師マテオ・リッチが中国(当時の国号は明)で描いた世界地図「坤輿万国全図」にも、日本国は六六ヶ国からなると記していると同時に六八の国名を記してある。これは日本を取材して描いた地図ではなく、明の人たちの間で昔から伝わる日本に関する知識を図にした結果であり、つまり、日本国は六六ヶ国からなるが六八ヶ国存在すると国外にも知られていたのである。

 ちなみに、最古の日本地図としては行基図が知られているが、これは参考にならない。そもそも、最古の地図と言っても奈良時代の行基の描いた地図ではなく、江戸時代の模写である。その上、江戸時代に模写をしたという藤貞幹(とう・ていかん)(藤原貞幹(ふじわらさだもと)と名乗っていたこともある)も、延暦二四(八〇六)年に作成した図の写しであると注記しているのだが、その行基図の模写が六八ヶ国存在する。延暦二四(八〇六)年はまだ存在しなかった加賀国が描かれているなど、そもそもが模写なのかどうかが怪しく、それは江戸時代の地図を行基図のように現した地図だとしか言いようがないのである。

 日本に存在する令制国の数と通称とが一致したのは明治時代になってからである。出羽国が二ヶ国に、陸奥国が七ヶ国に分割され、北海道内に一一ヶ国が設定され、琉球国が設置され、八五ヶ国で固まった。

 なお、現時点でも令制国の制度が廃止になったわけではなく、使われるケースが激減しただけという名目になっている。国司がいるわけでも住所として通用するわけでもないが、教科書検定に合格する地図は、現在の都道府県だけでなく令制国の名称も記載しなければならないと定められている。


 源頼信が美濃国司に任命されたと同日、文学史に残る人物が、より正確に言えば娘の七光で文学史に残る人物が国司に任命されている。この日、菅原孝標が常陸国司に任命されたのである。

 更級日記の作者である菅原孝標女は、父の菅原孝標とともに上総国から帰京するところから日記を記している。このことから菅原孝標は上総国司としての知名度が高くなっているが、菅原孝標自身は各地の国司を歴任する地方官のプロフェッショナルであり、このときの常陸国赴任も、平忠常の乱によって荒廃した房総半島の復興を後方で支援する役割が託された赴任であった。

 ちなみに、菅原孝標の五代前の直系の先祖に菅原道真がいる。菅原道真の息子の菅原高視は大学頭、その子の菅原雅既は文章博士を経験した後に地方官を歴任、さらにその子の菅原資忠も文章博士を経験した後に地方官を歴任という経験をしているのに、菅原孝標は地方官の経験はあっても大学の役職を務めた経験は無い。さらに言うと、菅原孝標の子の菅原定義、さらにその子の菅原在良も文章博士を経験した後に地方官を歴任している。

 道真の父である菅原是善、道真の祖父である菅原清公、道真の曾祖父にして菅原氏の始祖である菅原古人も揃って大学の役職をつとめており、平安時代から鎌倉時代初期にかけて菅原氏の一〇代の当主のうち八人がこの時代の学者の最高地位である文章博士に就任し、就任しなかった二人のうち一人は大学頭として教育機関のトップ、現在で言う文部科学大臣を経験するという、まさに学問の系図と言っても良いのが菅原氏である。その菅原氏の系図において、どういうわけか菅原孝標だけが学問の世界から離れて地方官に専念している。

 それなのに、現在でも国語の教科書に名を残しているのが、大学と離れていた菅原孝標の娘なのは何とも言えない皮肉な話である。

 菅原氏は代々学問の世界で権勢を振るっており、それは菅原道真とて例外ではなかった。例外は、学問の世界から一線を画し地方官にキャリアの全てを捧げた菅原孝標のほうである。

 もっとも、菅原孝標の選択は、この時代の考えに照らせば何の不合理なことでもなかった。

 学問の世界に身を置くことと将来の生活とが結びつかなかったのである。

 先に、この時代の貴族の人数が、律令で定められている人数の二倍や三倍では済まない数になったと記したが、貴族になるための手順が時代とともに変化を見せるようになったわけではない。大学(当時の正式名称は「大學寮」)を卒業し、役人になり、出世をし、五位以上の位階を獲得することが貴族になる条件であり、役人としての職務を遂行していけば評価され、出世階段を一歩ずつ登れることは昔から変わらないのである。

 問題は、大学を出ることが貴族になる必要条件ではなくなったことであった。

 貴族の子弟であれば、役人になるときのスタートがかなり高いところになる。大臣を務めるような貴族の子弟となれば、役人経験なしにいきなり貴族になるのも可能だ。

 その上、貴族の子弟だからと自動的に役人になると言っても、役人になる前に、大学に相当する、あるいは大学を超える教育を受けての官界入りである。その教育がなければいかに有力貴族の子弟であると言っても無意味であったし、実際に大学出身者に等しい、あるいはそれ以上の学識を備えているのは当然のことであった。大学を出た者が自らの学識をどんなに誇ろうと、誇りの拠り所であるまさにその学識そのもので、貴族の子弟であるというだけで官界入りした者に敗れるのである。

 律令制が機能していた頃は、大学を卒業して役人になり、出世をして貴族になる者が当たり前のようにいた。有力貴族の子弟であっても大学を出ることが求められていたのである。理由は明白で、国政を担うに必要な素養を身につけていることが求められていたからである。

 それが、藤原冬嗣以後、必ずしも大学を出ることが求められるようにはならなくなった。藤原冬嗣自身は大学を出ているが、息子の藤原良房らは大学に通わせなかった。大学の質の劣化を目の当たりにしたからである。自分を含め、大学を出た貴族たちに国政を担うに必要な素養が身についていないと看破した藤原冬嗣は、息子たちを大学に通わせず、家庭学習のみをほどこして官界に送り込んだのだ。


 この時代に経済学や政治学という学問の概念があるわけではない。ゆえに、体系化された学問として大学で学ぶようにはなっていない。大学で律令を教えはするが、最重要素養とは見なされていない。代わりに最重要視されていたのが、文章技術であり、中国の古典思想である。

 それらの素養はあるに越したことではないが、経済学も政治学も学ばねば、政治家として必要な素養を身につけたとは言えないと藤原冬嗣は見抜き、それらの学問を息子たちに学ばせた。その教育を受けて育った藤原良房は、自分が受けた教育に加え、大学頭、現在でいう文部科学大臣を務めた経験を生かし、藤原氏専用の学校組織である勧学院を作り出した。

 勧学院には入れるのは藤原氏の若者に限定されている。官界入りの理由も、大学を出た結果ではなく、藤原の血筋によるものである。だが、勧学院を卒業して官界入りした藤原氏の若者達は優秀だった。大学を出た若者と比べても優秀だった。

 律令制が完全に機能していた頃は、朝鮮半島が新羅であり、日本海の向こうに日本の同盟国である渤海国があり、その向こうには大唐帝国があった。新羅が幾度となく日本に侵略しに来てはいたが、それでもその少し後の時代に比べれば平和だった。

 それが、渤海国の滅亡、朝鮮半島の内乱、そして、永遠と思われていた唐の滅亡と国が現れては滅ぶ五代十国の時代を迎え、国というものは永遠の存在ではないと日本中の誰もが理解するようになった。そして、そのときになって気付かされた。勧学院出身者による国政運営によって、平将門や藤原純友といった例はあったにせよ、国が滅ぶという事態を迎えることなくやり過ごせたのである。

 こうなると、大学はアイデンティティを失ってしまう。大学という学問の場で学識を身につけて政界で活かすことを目的としているのに、藤原氏という血筋が官界入りの由来であろうと、大学以上の学識を身につけただけでなく、文句の言えない結果を出してきた集団がいるのである。

 大学の価値が落ちたからと言って、知性の下落が起こったのではない。知性の下落が起こるようでは、世界文学史に名を残すような文化を生み出せるわけがない。

 たしかに大学を出て、官界入りし、貴族になる道が稀少になった。

 ゼロになったのではない。大学を出て、役人になり、出世をして貴族になる者もいたにはいたのである。遣唐使が無くなったので一気に何階級も位階が上がる手段は消えたが、地道に一つずつ出世していく者はいたのである。ただ、そうでない貴族があまりにも多すぎた。

 法的には有力貴族の子弟としての貴族の絶対数が増えたのだが、実質的には学識能力の高い貴族の激増である。それなのに、貴族に値するポストの数は微増。こうなると、ポストに就くのに求められる素養は以前より厳しくなる。奈良時代であれば大臣になっていてもおかしくない位階の人間がこの時代では中納言になれるかどうかという有り様なのだから、それよりも下の役職についてはより悲惨であったろう。

 かつては大学を卒業したというだけでトップエリートとして朝廷での出世が約束されていたのに、この時代になると、それは必ずしもトップエリートを意味する肩書きではなくなってしまったのだ。

 これは世の中が平和になり、豊かになり、教育に金を掛けられる者が増えてくるとごく当たり前に起こる現象とするしかない。中国の科挙も、内乱の末に新王朝が成立してすぐだと、まずまずの成績を残せばほぼ無条件に何らかの役職が手にできたのに、平和が進むと科挙のレベルが上がり、それまでなら文句なしで合格だった成績を記録しても不合格、満点に近い成績を残して合格してもまともな役職に巡りあえない時代になった。

 日本も他国のことは言えない。戦前の陸軍士官学校や旧制第一高校の入試問題を見てみると、旧仮名遣いの読みづらささえどうにかすれば、現在の中学二年生でも解けるような問題である。これは戦後も同じで、平和な時代を迎え、教育水準が向上した結果について、文部科学省が平成一九(二〇〇七)年におもしろい調査結果を報告している。よく、「最近の若者は~」とか「これだからゆとり世代は~」などという人がいるが、同じ試験問題に対する正解率を昭和三九(一九六四)年の小中学生と平成一九(二〇〇七)年の小中学生で比較すると、平成一九(二〇〇七)年の小中学生のほうが二倍から三倍の正答率を残している。そして、この正答率は年を重ねるにつれて上がる一方なのである。

 つまり、八〇年前なら日本最高水準の学校に進め、五〇年前の中学校ならクラスで一位や二位という成績の中学生であっても、同じレベルの成績では現在だとむしろ落ちこぼれにランクされるのである。

 同じ努力をし、同じ結果を出しながら、八〇年前は天才となり、五〇年前なら秀才と扱われながら、現在では落ちこぼれと扱われる。これは平安時代でも変わらない現象であった。

 これで、昔ながらの大学に存在意義を見いだせるであろうか。

 かといって、藤原氏でもないのに政界で名を残す道は事実上閉ざされている。理論上こそ道は存在するが、その道を進んで成功した者はいない。強いて挙げれば菅原道真が挑戦者と言うことになるが、菅原氏はそもそも大学を家業としているとしても良いほどの家系である。

 藤原氏じゃない人のための道に挑戦しようものなら、今度は菅原氏と対決しなければならない。それがこの時代であった。


 平安時代の治安が悪かったのも、死刑がなかったことに加え、このあたりにもまた理由があるだろう。

 長元五(一〇三二)年六月二日、安芸国司の紀宣明(きののぶあき)とその妻が強盗に殺されるという事件が起こった。

 国司の殺害など論外であるが、いや、国司に限らず誰であれ殺害するなど論外であるが、人間社会にそのような事件が起こるのは必然とするしかないのが現実である。そして、人間社会の現実がもう一つある。それは、偉くなればなるほど身を守られるということ。

 強盗が一般庶民を殺害することなど珍しくないのがこの時代であったが、強盗のターゲットが国司に向かうというのは異常事態である。ゆえに、記録に残されたのである。

 強盗も好き好んで一般庶民に襲いかかっていたのではない。国司ともなれば、通常ならかなりの規模のボディーガードがついている。殺して奪うという目的や方法を、感情は無視してビジネスだけで考える場合、国司をターゲットにするのは、ハイリターンではあるが、それで穴埋めにはできないハイリスクがある。奪う以前にボディーガードに殺される可能性が高いのだ。自爆テロのように自分の命を顧みずに犯罪をしでかすのは例外中の例外であり、普通は自分がこれからも生きる前提で、それも、今より良い暮らしをする前提で犯罪に走る。この前提がある以上、殺される可能性が高い相手に挑むわけはない。

 国司を殺害した、いや、国司を殺害できたということは、安芸国の治安維持機能が完全に失われていたことを意味する。国司を守ることすらできないほどに劣化し、国司を殺害できるほどに強盗団の勢力が強まったのだ。

 平安時代は日本史上最悪としても良い治安の時代である。

 それでも藤原道長の頃はどうにかなっていたのだが、藤原頼通の時代を迎えると同時に元の治安の悪さに戻ってしまったのだ。

 この時代は三つが無かった。

 死刑が無かった。

 希望が無かった。

 未来が無かった。

 どの家庭に生まれたかである程度の将来が決まる。グレゴリー・クラーク氏は著書「格差の世界経済史」で世襲がもたらす格差の固定を述べたが、この時代はまさにグレゴリー・クラーク氏の主張そのままの時代だったのだ。

 生まれによって希望が生まれず、生まれによって未来が見えない。その代わり、どんなムチャクチャな犯罪をしても、逮捕時に殺されない限り、死を気にしないで良かった。死刑になるような犯罪で捕まっても牢屋に入れられるどころか追放刑を喰らうだけである。追放された場所で見張られているわけでもなく自由に過ごせる。それどころか、いつの間にか故郷に戻ることだって不可能ではない。今のように飛行機や新幹線で気軽に移動できるわけではないが、かなりの確率で故郷に戻ることができたのである。

 未来が無く、希望が無いところで、今の暮らしをどうにかするために犯罪に走っても命の心配はさほどないとなれば、犯罪に走るのに躊躇はしなくなる。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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