末法之世 2.社会、経済、文化の変容

 島根県を代表する観光地、出雲大社。

 いつ誕生したのかの記録を遡ると古事記や日本書紀にまで遡る。

 ただし、出雲大社という名称を歴史資料で探しても出てこない。出てくるとすればそれは明治時代以後の史料である。

 江戸時代まではどう称していたかというと、ただ単に「大社」。あるいは「杵築社(きづきしゃ)」。杵築というのは出雲国風土記に既に見られる出雲大社周辺の地名であり、出雲大社の所在地も正式には島根県出雲市大社町杵築東。

 この杵築社という名前は歴史資料に何度か登場するが、その少なくない数が、出雲大社の倒壊に関する記録である。五重塔は台風が来ようが地震が来ようが壊れなかったが、出雲大社は歴史上何度も倒壊してきた。

 現在の出雲大社は、大きな建物であるが高い建物ではない。しかし、平安時代の出雲大社は大きいだけでなく高い建物であった。九六メートルの高さがあったとする研究者もいる。復元模型を見てもいかにも不安定であるだけでなく、地盤も消して頑丈とは言えず、長元四(一〇三一)年の倒壊を調査した大林組は、構造上の問題に加え地盤の軟弱さを原因に挙げている。

 この長元四(一〇三一)年の出雲大社倒壊については出雲国司に復元工事が命じられた。無論、復旧費用は国から支給されているし、労働者向けの賃金も提供されている。

 ところが、この費用が着服された。

 どの規模の着服なのかは不明であるが、長元五(一〇三二)年九月二七日、出雲国司橘俊孝が、杵築社造営に関する着服で佐渡国へ配流すると決まったのである。


 この橘俊孝は一つの悪評がある。

 さかのぼること四年前、長元元(一〇二八)年七月、但馬国司の藤原能通の京都での邸宅前では連日連夜のデモが繰り広げられていた。デモというのは近年になって登場した行動ではない。少なくとも紀元前の古代ギリシャには見られたし、日本の歴史を振り返っても平安時代には既に存在していた。そしてこれは現代日本のデモでもお馴染みの光景であるが、法律が出来たことによって取り締まられることになる犯罪者が、金をちらつかせて人を集めて、犯罪を取り締まらないように大騒ぎする、甚だ迷惑な行為であった。

 この長元元年のデモを主催していたのが橘俊孝であった。藤原能通が国司として但馬国の治安回復に尽力していたことは周知の事実であった。それはすなわち、それまで好き勝手やっていた犯罪者が逮捕されやすくなったということである。

 現在のデモもそうであるように、デモに参加する側が、自分自身が犯罪者であるという自覚が無かった。そして、デモのターゲットだけでなく、デモに加わらない者を敵視し、不当な弾圧に抵抗する自分たちは正義で、その他は悪であるという単純な二元論で世の中を捉えていたこともまた、現在のデモと共通している。

 そのデモの先導者であった橘俊孝がどのような経緯で出雲国司になったについてだが、ついこの間までの日本国の政治、つまり、岡崎トミ子を国家公安委員長にするような政治を考えればおかしな話ではない。国民生活を苦しめる人間であっても、苦しめている同志では仲間なのである。前に藤原頼通をリベラルと評したが、橘俊孝もまた、日本国民を苦しめるリベラルの一員であった。正当な取り締まりを不当な弾圧と主張してきた人間も、不当な弾圧に怒りの声を挙げる同志にとっては、犯罪者ではなく正義の闘士になる。その結果がこの無様な結果であった。


 現在の感覚で行くと、その年最大のニュースになっていなければおかしい出来事が、長元五(一〇三二)年の一二月にあった。

 ただ、当時の記録を見ると実にあっさりしている。何しろ、京都にその連絡が届いたのがおよそ二ヶ月を経てからなのである。

 それは何かと言うと、富士山噴火。

 もっとも、富士山の歴史でいうと三〇〇年に渡って富士山が噴火しないほうが珍しいのであり、この時代は、富士山というものが数十年に一度は噴火する火山であると認識されていた。平安京遷都後だけで区切っても、延暦一九(八〇〇)年、延暦二一(八〇二)年、貞観六(八六四)年、承平七(九三七)年、長保元(九九九)年と噴火をしており、恒例というわけではないが、富士山噴火は対応のマニュアルのある天災であったのである。

 長元六年(一〇三三)年二月一〇日の記録は、駿河国から、前年一二月一六日に富士山が噴火したことと、溶岩が山麓まで届いたことを記してはいる。記してはいるが、被害の記録が全くない。

 貞観六(八六四)年の貞観大噴火は、周囲の集落が溶岩に飲み込まれて多くの命を失っただけでなく、東海道を封鎖してしまったために京都と関東との連絡がとれなくなったこと、富士山の北にある湖が溶岩で埋まり、残った部分が精進湖と西湖になったことを伝えている。また、近年の調査により、青木ヶ原樹海はこの噴火で流れ出したのちに固まった地盤の上にできた樹海であることが判明している。その上、貞観大噴火の五年後には、東日本大震災に匹敵する巨大地震である貞観地震が起こっている。こうなると、貞観大噴火は世代を超えて語り継がれる大災害になる。

 世代を超えて語り継がれる大災害は、災害のときの対処を教えてくれる。

 つまり、被害が大きくなることはない。

 噴火に飲み込まれそうなところには普段から近寄らないし、そもそも危険度に高い場所には住まない。交通インフラも噴火を想定したものになる。その上で、噴火の兆候が見られたらただちに避難する。

 被害の記録がないのは、記録者の怠慢や国司の怠慢ではなく、本当に被害が少なかっただけと考える方が自然である。


 ここで、この時代の東アジアの状況を見てみよう。

 結論より先に記すと、平和である。ただ、偶然に偶然が重なった上での平和であり、平和を愛するがゆえに平和になったのでも、突出した軍事力により強引にパワーバランスを維持するようになったのでもない。

 まず着目すべきは宋の変貌である。

 五代十国の混乱を経た結果、それまで地方の強力者としていた貴族たちが姿を消し、宋は貴族なき国家として誕生した。地方の有力貴族が軍事力を持つことは、国にとっては脅威であるが、国民にとっては必ずしも脅威とは言えない。いや、少なくとも安全を守ってくれる存在が身近にあることはむしろ歓迎すべきことである。実際、五代十国の当初は、庶民の命の危険はさほどでもなかった。地域の有力者が地域の庶民の命を守っていたからである。

 このあたりは日本の戦国時代を思い浮かべていただきたい。武田氏の統治する甲斐国や、上杉謙信の治める越後国の領民は、兵士として戦国大名とともに戦場に駆けつけたなら命の危険を感じただろうが、そうでない日常で命の危険を感じてはいない。戦死する恐れを感じることはあっても、攻め込まれる恐れを感じはしなかったであろう。

 その守ってくれる存在が五代十国の混乱の末に姿を消し、宋という国家そのものが安全を守る存在にならなければならなくなった。それが宋という国のスタートの情勢である。その結果、国家予算の過半数が軍事費という異様な財政になった。

 ところが、国家予算の半分を軍事費としているにも関わらず、ベトナム侵略に失敗して敗走した頃から軍事力の劣化が目につくようになったのである。

 地方の有力者が軍事力を駆使して中央に背いて反乱を起こすのを防ぐために、全ての兵士は宋王朝に仕える兵士となった。兵士はただ皇帝の命令のみに従う存在となった。かつ、徴兵制は断固として禁じた。無理やり挑発された兵士は戦場で役に立たないどころかかえって敵に利する存在になるというのがその理由である。徴兵制廃止は新自由主義の登場を待つまでもなく、紀元前からの人類の常識としても良い。

 ここまではいい。

 だが、その方法が問題だった。皇帝直属の兵士であることを示すために顔に入れ墨を入れるよう命令したのである。これは、罪人に対する処分と同じであった。

 宋の兵士は高給が保証されていた上に、現在の年金制度と比較しても遜色ない生涯の生活保障があったのも、それだけの待遇を用意しないと兵士が集まらなかったからである。それに、国に仕える兵士はかなりの地位のある官僚に等しい役職であるともされたのだが、社会的地位の低さから、「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」という風潮を迎えた。

 その結果、兵になろうとする人の数が減り、軍はその規模を縮小せざるを得なくなった。

 現在の日本国の自衛隊は、陸上で四倍、海上と航空では六倍以上の倍率があり、知力と体力の双方で選抜された者でなければ入隊できなくなっているが、この時代の宋は志願すればまず入隊可能で満足いく待遇を死ぬまで得られるにも関わらず、募集人員を満たさずに定員の方を減らさなければならなくなっていたのである。良く言えば軍縮だが、実際には、戦闘になったら勝てないという現実があり、侵略されない代わりに北の契丹に対して毎年年貢を納めなければならない時代となったのである。

 平和になるなら経済的負担も軽いものだと考えていられるのは初めのうちである。時間とともに負担は重くなっていき、年貢を払えなくなると容赦なく侵略が始まる。奪われ、犯され、殺される日常が待っている。

 この時代はまだ、平和のための年貢負担が耐えられる状態だった。侵略者である契丹側が年貢の上乗せを要求しても払えてはいたのである。そして、現実に侵略を受けていないという一点で、現状の政策は正しいと誰もが考える時代となってもいた。もし、この時代に危険を想定した軍備拡張を訴え出る官僚がいたら皇帝によって罷免されていたであろうし、そのような者が皇帝となったら内乱になっていたであろう。

 この時代の宋の皇帝は第四代皇帝の仁宋である。一二歳で帝位に就いてから既に一〇年。若く聡明な皇帝のもと、宋は安定した経済繁栄を見せていた。生活水準だけで言えば、かつての大唐帝国に勝るとも劣らない暮らしを実現できてもいた。

 契丹に支払う毎年の年貢は絹二〇万疋と銀一〇万両。現在の貨幣価値に直して五〇〇億円であり、契丹にとっては国家予算の一割を超える莫大な金額であったが、宋にとっては、気にならないとまでは言えないまでもどうにかなる金額であった。年貢はどうにかなったのである。どうにもならなかったのは国家予算の半分を占める軍事費のほうであった。この穴埋めとなったのが専売制である。もともと農作物に対する課税が存在したが、これに加え、塩、酒、茶に対する専売が加わったのである。これらの生産品は全て国営となり、国の作成した商品以外の販売が禁止された。

 特に、塩に対する専売は宋の国民を苦しめた。専売制導入と同時に価格が一一倍に引き上げられたのである。想像していただきたい。消費税が五パーセントから八パーセントに上がり、一〇五円の商品が一〇八円に値上げしただけで大騒ぎなのに、一〇五円の商品が一一五五円に上がったらどう感じるか。その差額はまるまる税なのだ。

 経済力の向上、特に、長江より南の地域で始まった二期作や二毛作による農業生産性の向上により、生活水準はたしかに上がった。そして、塩をはじめとする専売にも耐えられていた。戦争で負けたために契丹に支払う年貢のために増税を課されているのは腹に立つことであったが、その怒りを跳ね返すよりも、戦争にならない平和を維持することを、宋の国民は選んでいた。

 しかし、それは爆弾を抱えているようなものであった。経済成長が続くならどうにかなる。カネで平和を買うこともできる。

 だが、経済成長が止まったら……


 一方、侵略をしない代償として宋から毎年年貢を受け取れるようになっただけでなく、南で国境を接する高麗との戦いも終結し、高麗からも年貢を受け取れるようになった契丹は、この時代の北東アジアで最強の国家とみられるようになっていた。

 ただし、契丹の領土はそもそも生産性の高い地域では無い。牧畜と漁業が主産業である一方、農耕生産性は低く、GDPそのものが低い。国内の生産品だけで生きていける人数が少ない結果、軍勢は強力であるものの人口が少なかった。頻繁に侵略をくり返していたのも、名目は復讐であり解放のためであっても、実際には生きていくためであった。これまでは。

 生きていくために侵略をするなら、生きていけるならそもそも侵略をしない。侵略は、是非はともかくビジネスとしてみるとリターンは大きいがリスクも高い行動である。まともな思考をするなら、生きていけるなら侵略などしない。

 その上、この時点の契丹は宋とのビジネスが成り立っていた。

 宋の農業生産性の向上は、農作物の価格破壊を生んでいた。必要以上の農作物の収穫があった場合、通常ならデフレになる。ひどいケースとなると、作った農作物を売った結果より、売るために必要なコストの方が上回る。こうなると、農作物の栽培に要した労力や費用を回収するなど夢の話で、農作物を廃棄した方がまだ懐を傷めないという結果になる。

 しかし、ここで農作物を必要とするところがそれなりの金額で買うと言ってきたらどうなるか? これならばビジネスが成り立つ。

 宋の余剰生産物を契丹に売ろうにも、これまでであれば契丹に農作物を買える金銭など無かった以上、取引が成立しなかった。だが、今は宋からの年貢がある。絹織物や銀を受け取り、その銀や絹織物を貨幣として宋の農作物を買う。宋の農民は農作物を売ることができ、契丹人は農作物を買える。これなら一応はWIN・WINにはなるのである。契丹に年貢を納めることは、宋の国家としてのプライドをズタズタに引き裂く行為ではあったが、国内の景気問題だけを考えるなら、農家に対して補助金を渡しているのと同じになる。

 ただ、これもまた、宋の農作物が安定して収穫できるという極めて危うい前提が存在しなければならなかった。

 この安定が崩れれば……


 この時代の人は何とも思わなかったであろうが、数年後には宋の人にとって、そして北東アジア全体にとって脅威となる国家がこの頃誕生している。

 西夏がそれである。

 正式な国号は「夏(か)」。歴史上、古代王朝の夏王朝と区別するため「西夏」と呼ばれるこの国家はチベット系の民族であるタングート族の建国した国である。タングート族は五代十国の終了の頃から契丹と宋の間で揺れ動き、この頃は契丹に服属していた。

 その契丹に服属していたタングート族が契丹の庇護のもとで国家を作り上げたのが西夏王国である。

 既に契丹と宋との間では澶淵(せんえん)の盟(めい)により宋から契丹へ年貢が支払われていたが、この澶淵(せんえん)の盟(めい)が拡大解釈され、宋より銀一万両、絹一万匹、銅銭二万貫、茶二〇〇斤が西夏に支払われることとなった。宋にとってはさらなる負担であるが、タダでさえ北から契丹の圧力が続いているところに加え、北西に新たに誕生した新国家の存在は脅威であり、戦乱となったら目も当てられない事態になる。年貢でカタがつくなら安いものと考えたのであろう。

 ただ、西夏はそんな安穏としていられる国家ではなかった。いや、カネでどうこうなるわけはなかった。西夏は宋に侵略され奪われたままの領土を取り返そうとしているのである。それも、ただ単に主張しているのではなくいつでも実行に移す準備を整えているのである。

 侵略だと宣言して始める戦争は無い。復讐として始まるか、あるいは、解放として始まるかのどちらかである。そのどちらも、攻め込まれる側がいかに平和を訴え、反戦を訴えたところで、復讐と考える側にとっては侵略しておきながら今更平和を訴える図々しい考えとなるし、解放と考える側にとっては解放してあげようとしているのに迎え入れない無礼な態度と映る。

 金銭で平和を買い取ろうとしても、それで得られるのは一瞬の安寧であり永遠の平和ではない。しかも、誕生したばかりの国とおうのは国内が何かと不安定である。そのようなとき、国外に敵を作って国内世論をまとめるのは常套手段である。それが、かつての侵略者で、西夏の領土を奪っておきながら今や金銭で平和を買い取ろうとしている落ちぶれた国となれば、なおさら敵国として扱いやすくなる。

 宋にとっては厄介な新興勢力が生まれてしまったことになる。この時点では、多少の金銭でどうにかなる小国であり、さほど重要な問題と認識されてはいなかったが、これから数年で、宋を悩ませる存在へと発展するのである。


 高麗国王である徳宗は一五歳で即位してから即位二年目という若き国王であった。戦争に勝って高麗を属国とすることに成功した契丹にとって、徳宗は扱いづらい国王であった。

 徳宗は平然と契丹に逆らったのである。

 契丹が高麗に突きつけた服属の条件は、年貢の上納と契丹の年号使用である。それを守るなら高麗へは侵略しないというのが契丹の約束であった。それを徳宗は守ってはいた。

 ただし、それ以上の譲歩はしなかった。契丹と高麗の国境を流れる鴨緑江への架橋工事に高麗人を動員していると知った徳宗は、ただちに高麗人を解放して工事を中止するようにと上奏。さらに契丹からの亡命者を受け入れると表明した。記録によると、このとき渤海人が高麗に亡命したという。渤海王国が滅ぼされた後も渤海人が残っていたことは記録に残っているが、時代を経る毎にその痕跡が減っていき、およそ一〇〇年ぶりに渤海人が姿を見せたこととなる。

 もっとも、このときの騒動で契丹との間で戦闘となっている。戦闘は一応高麗の勝利に終わったが、戦場は高麗国内。高麗はまたも戦場となったのである。

 高麗の人口はこの時点でおよそ四〇〇万人。ただ、この数字は奇妙なことに、過去一〇〇〇年ほど遡っても変わっていないのである。朝鮮半島は紀元前には既に四〇〇万人以上の人口があったと推測されており、その時代は日本列島の総人口よりも多いほどであったが、この一〇〇〇年間で日本の人口は朝鮮半島を追い抜き、一一世紀初頭の段階で、日本の人口は七〇〇万人と、高麗の人口の倍近い数を数えるまでになったのである。

 理由は明白で、食料生産性の低さ。

 朝鮮半島で子供が生まれないわけでは無い。生まれた子供にまともな栄養を与えることが難しく、一〇人の新生児のうち成人を迎えることができるのが二人いるかどうかという有り様だったのだ。

 そもそも朝鮮半島はコメの栽培に適した土地では無い。それでも日本で品種改良を加えた寒冷地用のコメが伝わって五世紀頃にようやく稲作が始まったが、収穫量は日本の半分以下に留まっている。

 その代わりに、アワ、ヒエ、キビと言った雑穀の農耕ならばあった。朝鮮半島の稲作の歴史が始まる前は、主としてこうした、寒冷地での栽培に適している雑穀が栽培されていたのである。これらの雑穀はコメと比べても栽培が簡単で安定した収穫が期待できるが、その反面、収穫量が乏しく、土地が痩せやすくなる。コメの栽培に成功するなら、収穫の不安定さはあるものの収穫量は期待できるし、土地の痩せかたも雑穀よりはマシである。それに、コメは雑穀よりも格上に見られており、コメを食べることが豊かさの証明、そうでない雑穀を食べることは貧しさのシンボルであったことから、コメ栽培を諦め雑穀栽培を選ぶ者は多くはなかった。そして、その多くが収穫に失敗した。

 ちなみに、朝鮮半島でコメのみのご飯を食べることが出来るようになったのは、日本領であった時代と、南半分限定ということになるが一九八〇年以降の話である。


 こうして見ると、戦争になりそうな気配は、無いと言えば、無い。

 ただ、不安定である。

 高麗は、新羅時代よりはマシになったとは言え、まだまだ貧しいままである。貧しさから犯罪に走り、いつまた海賊となって日本海を越えてくるかわからなかった。実際に日本国内で暴れている海賊を捕らえてみれば高麗人だったというケースも珍しくもなかったし、刀伊の入寇はついこの間の出来事であった。

 契丹は相変わらず軍事的脅威であった。宋との交易が成立したことで宋に攻め込む理由も必要もなくなっていたが、その交易は宋の収穫の安定を前提とした、綱渡りに似たギリギリなものであった。宋の農耕が不作になった瞬間、契丹に飢饉が訪れるのである。いかに銀や絹織物を年貢として受け取ろうと、銀や絹織物は食べ物そのものではない。

 食料の不足を交易で求めるならまだいいが、奪って食べるとなったら冗談では済まなくなる。普通に考えればそれは犯罪だが、戦争という名がつけばその瞬間に全て許される。奪われる側がどんなに戦争を拒否しようと、奪う側には奪われる側の事情など知ったことではない。どんなに平和を叫ぼうと、どんなに友好を訴えようと、復讐だの解放だの正義だのを前面に掲げた相手には全く届かない。それどころか、犯罪を成さないことの方が犯罪になってしまうのだ。

 宋は軍事力を減らした。かつては唐が北東アジアの盟主として君臨し、日本と渤海が新羅を挟み撃ちにして安定を保つというパクス・シナの構図が成立していたが、今やそんなものはない。宋は、経済大国としては考えることができても、警察の役割を果たす文字通りの大国としては全く期待できない。

 一つ一つは平和のための選択なのである。だが、この時代から二〇〇年後の世界を知っている現代人にとっては、覇者なき微妙なバランスが、モンゴル帝国による殺戮を生み出してしまった原因であると知っている。無論、この時代にモンゴル帝国の興隆を予想した者などいない。だが、国際情勢が微妙なバランスの上に成り立つ綱渡りになってしまっていることを見通せた者はいたのだ。

 宋は、北に契丹、黄海の向こうに高麗、南にベトナムと、宋の敵国によって囲まれている。うち、ベトナムと契丹の二ヶ国との間には和平が成立していたし、高麗は契丹の属国である以上、外交を考慮しなくてもいい。

 問題は、東シナ海の向こうにある日本である。

 かつては、契丹・日本・ベトナムと続く包囲網で宋を取り囲んでいた。そのうち、契丹とベトナムの二ヶ国とは実際に戦争となり講和を結んだ。

 残るは日本である。

 この国は宋と戦争をしているわけではない。かと言って、正式な外交を結んでいる国でもない。その上、契丹にしろ、ベトナムにしろ、実際に戦争を引き起こした反面、宋があることを前提とした経済を国策としてもいるが、日本の場合、戦争をしない代わりに宋を必要とする経済政策も持っていない。

 二一世紀の独立国は、国交を結んでいるそれぞれの国に大使や公使を派遣するし、外務大臣や政府首脳が訪問する外交が当然のようにあるが、この時代の北東アジアは、格下の国が格上の国に使節を派遣することが外交である。戦争となればさすがに格上だの格下だの関係なく使節を派遣するが、戦争でない以上、使節の派遣には格の意識が伴う。

 宋は中華帝国として、使節を迎え入れることはあっても、戦争もしていない国に使節を派遣することはなかった。だから、日本と外交をする必要があろうと、日本が使節を派遣するのを待たねばならなかったのである。

 だが、日本はいつまで経っても使節を派遣しない。

 日本の立場で考えればそれも当然である。日本は宋を必要とはしていないのだ。必要としていない国に、わざわざ格下となって使節を派遣しなければならない義理はない。経済ではなく安全保障を考えたとしてもそれはなおさらである。契丹との戦争に負け、ベトナムとの戦争にも負け、年貢を払って侵略されないように懇願するような国を頼もしく思うわけがないのだ。そのような国と親しくしたら、今度は日本も年貢を払わされる側に加わってしまう。

 宋の経済力は日本の認めるところでもあったし、交易している商人もいた。それについては何も言わない。

 ただ、正式な国交となると話は別なのである。

 日本も、宋も、この時代の北東アジア情勢が微妙なバランスであることは認識していた。だから、どうにかしなければならないという点では認識の一致を見ていたのである。

 この認識の一致を見出したのは藤原道長であった。誰もが認める日本国内最大の実力者であるが、その時点での地位はあくまでも一人の出家した僧侶。そして、国境を越えたやり取りであっても、理論上は仏教の僧侶同士の連絡の取り合いということになっていた。

 というタイミングで藤原道長が亡くなり、宋との外交交渉が頓挫していた。

 いつまでもこのまま放置しては置けないと、出家した一個人である藤原道長の息子として、一個人藤原頼通が、私的な書状を宋に送ったのである。関白左大臣としてではなく、一人の仏教徒である藤原頼通からの書状は、長元五(一〇三二)年一二月二三日に発送された。宋にとって、この返答は満足いくものではなかったが、日本の事情を踏まえるとやむをえぬことと理解せざるをえない返答でもあった。

 藤原道長はもういないのだ。


 国際情勢と同時に見つめておかなければならないのが、この時代の経済情勢である。

 この時代の経済情勢で欠かせないのが荘園の存在である。この時代の二〇〇年前にはじまった荘園が、この時代も拡大し続けていた。

 と、ここまで書いた文を読んで、違和感を覚えた人はいないだろうか?

 平安時代になると、班田収授が事実上消滅し、代わりに登場したのが荘園であると考える人は多いだろうし、歴史の教科書にもそのように記されている。

 それなのに、荘園が拡大し続けている。これはおかしな話ではないだろうか。班田収授が消滅したと同時に、荘園へと一斉に切り替わったのではと考える人は多いのではなかろうか?

 荘園とは、新しく開墾した田畑の所有権を開墾者本人に与えるという墾田永年私財法に基づく法人である。ゆえに、それまで田畑ではなかった土地を田畑にすれば所有権を得ることができ、荘園が拡大する。だが、それだけで荘園の拡大を説明付けることはできない。

 実は、荘園では無い土地があり続けたのである。いや、あり続けたというレベルの話ではない。石井進氏の研究によるとこの時代の日本の全ての田畑のうち、荘園であった土地はわずかに二パーセントであり、荘園とは、存在してはいるものの、それはごく一部の限られた存在、それも例外的に恵まれた存在だったのである。

 では、残る九八パーセントの土地は何か? 荘園としてカウントされない土地である。

 一般には、「国衙領(こくがりょう)」とされている。つまり、国司の支配の及ぶ土地である。もとは班田であるため、理論上の所有者は日本国そのものであるが、班田収授に基づく土地の再分配が行われなくなったため、従来からの耕作者がそのまま事実上の土地所有者となっていた。そして、これらの土地に対しては国司の徴税権が存在した。

 班田収受が機能していた頃は、税は各個人に対して課され、税を直接国に納めていたが、班田収受が機能しなくなると、税は各国司に課されるようになった。国司は領国内で税を集め、ノルマ分を国に納める義務を課された。どのように徴税するかは国司の判断に委ねられている。国が国司に求めるのはノルマをこなすことのみ。

 問題はその徴税方法である。

 領国内にある荘園には税を課せない。理論上は不輸不入の権によるものであるが、事実上は荘園領主の権威が国司を上回っているから手出しできない結果である。

 不輸不入の権にしても、厳密に言えばグレーゾーンの拡大解釈である。不輸の権とは課税されない権利のことであり、不入の権とは課税に関わる調査を受けない権利である。現在で言うと、税務署に税金を納めないで良いのが不輸の権、税務署に申告しないでいいのが不入の権である。どちらも現在では許されないことであるが、この時代は必ずしも違法では無かった。

 まず、不輸の権については、律令に定められている納税免除規定である。そもそも日本国内の全ての田畑が納税しなければならない対象なわけではない。国衙や駅家など、公的施設の予算は、現在だと税金でまかなわれるが、この当時は付随する田畑からもたらされる収穫によるものであった。これらの収穫は、税として徴収することが無い代わりに、公的施設の維持費用のために使わなければならないことが決まっていた。

 その対象は寺社に付随する田畑も含まれる。今でも宗教団体は課税対象になっていないが、このあたりは今も昔も変わらない。寺院や神社が田畑を拡大させた場合も課税対象にならない。ここに不輸の権が存在することとなる。

 貴族の所有する荘園については本来、不輸の権が生じなかった。しかし、朝廷の財政難に伴い、給与としてのコメの支給を減らす代わりに貴族の所有する荘園についての不輸の権が黙認されるようになっていった。今でも公務員や国会議員の歳費を減らせという声があるが、その要求は何らかのインセンティヴを用意しなければ成立しない。歴史上、インセンティヴ無しに歳費を減らした例はたしかに見つかる。だが、その結果生み出したナチスドイツをもう一度くり返したいなどと考える愚か者はいない。

 一方の不入の権であるが、こちらは税務申告をごまかすのと同じである。何しろ、課税対象田畑がどれだけの広さでどれだけの農業生産性を挙げられるのかの調査をさせないのである。と聞くと、そんなの許されるのかと思うかも知れないが、現在でも課税所得捕捉率を示す言葉として、給与所得者が九割、自営業者が六割、農林水産業が四割であることから九・六・四(クロヨン)、さらには、給与所得者が十割、自営業者が五割、農林水産業が三割、政治家が一割であることから十・五・三・一(トーゴーサンピン)などという言葉がある。これはもう、課税所得の捕捉はそういうものなのだと諦めるしかない、あるいは、マイナンバーでどうにかするしかない。

 話は戻すが、この不入の権はオフィシャルな権利では無い。貴族や寺社が自らの圧力を国司に掛けることによって成り立たせている権利であり、不入の権が認められるか否かは国司が交替するたびに変化する。

 国司は、朝廷の認める不輸の権、朝廷が黙認する不輸の権、国司が自分の判断で下す不入の権を都度判断して税を課すことが求められることとなった。

 この課税は荘園以外の土地に課すものであるのだが、これがなかなか上手くいくものではない。荘園以外の土地はたしかに国司の支配の及ぶ土地であるが、おとなしく税に従うわけではない。武力で抵抗することもあるし、逃げ出すこともある。あるいは、身売りして荘園になってしまうこともある。そのどれもが国司としての能力不足を示すものであり、いかに国司を一期務めれば一生分の財産を築けると言われても、任期終了後のことを考えるとそうは無茶な取り立てなどできなくなる。

 先に、荘園は全体の二パーセントに過ぎないと記したが、完全に荘園と呼べる土地が二パーセントであって、何らかの納税免除があった田畑は全体の八〇パーセントにのぼっていたという記録もある。つまり、法に定められた納税を全て課されていた田畑は全体の二〇パーセントに過ぎない。しかも、その二〇パーセントはおとなしく納税に従う土地では無かった。

 納税対象の二〇パーセントに含まれる国衙領となっている側も、無理して反抗を示すより、ある程度国司に従う方が得だという判断をすることもあった。

 国衙領のルーツは班田収受にあると言っても、個々の庶民が直接国司とつながっているわけではなく、郡司を筆頭とした地域の有力者を間に挟んでいる。特に、地方に流れてきた源氏や平氏、あるいは藤原氏の中でも本流を外れた者が間に挟まる有力者となっている。そして、その多くは武士としても存在している。



 ここで国司と繋がりを持てば、地方有力者は中央とのコネクションを築ける。そうなれば未来を期待できる。俗っぽく言えば、中央の官職も不可能で無くなる。中央の官職を掴めば、自分の権力の及ぶ土地を荘園とすることも可能だ。そうなったら、自分の地位は単なる地方の有力者ではなく荘園領主へとステップアップする。

 荘園領主となれば、国司を務めるよりもはるかに安定した暮らしを手にできる。国司を一期務めるだけで一生分の財産を築けると言っても、子々孫々に至るまでその財産を継承できるわけではない。一度に大量に手にして、あとは切り崩して使うだけである。だが、荘園領主になれれば、毎年の安定収入が期待できる。それも、子々孫々に継承できるかなり優良な安定資産だ。

 それは、国衙領の有力者だけでなく国司も同じである。任期中に自らの勢力を領国内に築き上げ、国司としての評価によって自らの地位を高めれば、自身が単なる有力者となるだけでなく、荘園という安定資産を持つ貴族になることができる。次の国司よりも自らの地位を高めさえすればそれで実現可能だ。

 それは明白なヒエラルキーであった。

 全ての土地のうち、トップに荘園が来る。その下に国衙領があるが、同じ国衙領でも、荘園にステップアップできる可能性の高い国衙領と低い国衙領がある。無論、ヒエラルキーの高いのは、荘園にステップアップできる可能性の高い方の国衙領だ。

 また、荘園の中にもヒエラルキーがある。誰を荘園領主とするかのヒエラルキーである。

 トップは何と言っても藤原北家。この時代でいうと藤原頼通が頂点である。荘園領主の地位は世襲可能な財産でもあるため、藤氏長者として世襲してきた荘園だけでもかなりのものであるが、それに加え、新しい荘園が毎年のように加わる。後年、藤原頼通は、何もしてなくても勝手に荘園が増えていったので、自分がどれだけの荘園を持っているのかわからないとまで言っている。

 荘園の領民にとって、自分がどの貴族の荘園の領民であるかというのは、自らの負担に関わる重要問題であった。そのため、現時点の荘園領主に頼み込んで、荘園の名義上の所有者を、藤原頼通を頂点とする有力貴族に書き換えさせることもあった。名義使用料としての年貢を払うのは必須であるが、国からの税を引き受けるぐらいなら、有力貴族に年貢を追加で払うほうがまだ安く済んだのである。

 ヒエラルキーで言うと、藤原北家に負けていないのが大寺院である。寺院の荘園になると、その寺院の僧侶になりやすくなる。僧侶というのは、高貴な身分に生まれて出家した者であれば確かに寺院内での地位を築くのに有利に働くが、不確かな身分に生まれたとしても僧侶としての実績で地位を築けるものである。官界に身を置いたとしても上の方はどうせ藤原氏と源氏で埋まってしまっている。正規のルートに従って出世しようとしても、大学は菅原氏のものになっていてどうにもならない。だが、僧侶は違う。高貴な身分の生まれでなくても出世できる。寺院のトップに立てば国司レベルでは手も足も出せない権勢を掴める。南都北嶺なら、藤原北家ですらどうにかできてしまう。寺院所有の荘園の領民になるということは、この時代では数少ない、事実上唯一と言うべき、身分の差を超えた個人のステップアップにつながる入り口なのである。

 荘園の領民になれば、それまで引き受けさせられていた負担から逃れることができるだけでなく、将来への展望も見えてくる。それは、ほぼ全ての非荘園の住人にとって、現実的な希望であった。


 と、ここまで書いてきて、荘園と、荘園以前の班田収授との関係性について現代でも極めて近い存在があることに気づかされた。

 それは、株式。

 荘園領主を親会社、あるいは筆頭株主と考え、班田収授における出挙を社債と考えると、田畑の経営というものが現在の企業経営と酷似していると気づかされるのである。

 出挙、すなわち借金は、返さなければならない義務を持つ。その利子が法外であるために問題となったが、種籾を貸し出して収穫で返してもらうというのは金融としておかしなシステムではない。倒産、すなわち、天災や人災で収穫が得られなかった場合であろうと、現実的にはともかく理論的には返済義務を持つ。その代わり、返し終わったらもうそれ以上の義務は課されない。出挙の最盛期には一〇〇パーセント、つまり、借りたら倍にして返すというとんでもない利率があったが、それでも返し終わったらそれ以上は求められない。

 一方、株式というものは、売り物である。会社の資金を出資してくれる人に株式を売り、買った人は、会社の経営に関する発言権と、その年の利益に基づく株主配当を得られる。倒産したら手にした株券は紙切れになる。買ったことを後悔するしかなく、出したカネを返せと訴えたところで誰も相手にされない。出資者としてはリスクの高い出資方法である。

 ハイリスクである代わりに、株式はハイリターンの投資でもある。株主配当は株式額を一年や二年で充足するほどではないが、返済が終わるとそれで何もかも無くなったことになる社債と違い、株主配当は企業が存在し続ける限り得続けられる。さらに、株主配当は企業の業績に連動する。企業の業績が上がれば配当も増える。利率が決まっている社債と比べ、決まっていないがゆえに得られるリターンも可能性の大きなものがある。

 世の中には、会社の従業員などどうでもいいから配当を増やせという株主もいるが、そのような株主の言うことをまともに聞く企業は少ないし、そのようなことを言うのはまともな株主ではない。企業の業績をあげれば永続的に配当を得られるのに対し、一瞬の配当のために企業の従業員を酷使することは無意味である。そのような企業や株主はすぐに破綻する。何しろ、株式というのは相続可能な権利なのだ。子や孫に渡せば、子や孫がある程度の配当を得続けられる。しかも、その配当は物価に連動している。インフレで物価が一万倍になった場合、社債は一万分の一の価値になってしまうが、株式は一万倍のインフレと連動し、以前と変わらぬ価値を持ち続けられるのである。

 おまけに株式にはキャピタルゲインがある。要は株式の売買だ。株を欲しいと考える人がいたら、株を手に入れたときの金額よりも高く売ることもできる。このキャピタルゲインこそが証券取引場という存在を成り立たせていると言っていい。


 話を平安時代に戻すと、土地の所有者であることは株主であると同じで、土地の利用者、すなわち従業員に対しての発言権を持ち、年貢、すなわち株主配当を受け取る権利を持つ一方、土地の生産性が最良の状態となるように務める必要がある。何しろ、収穫の良し悪しがそのまま自分の受け取る収入に連動するのだ。

 その荘園の所有権は、株式と同様に売買可能だった。貨幣経済が破綻したこの時代であるが、金融の概念が無くなったわけではない。金銭を必要とする人に余剰資産を貸したり、対価を用意して資産を譲り受けたりするのは当たり前に存在した。市場に行って鍋を買うときにコメと引き換えにするならコメが貨幣になるし、牛車を買うために絹織物の布地と交換するなら布地が貨幣になる。では、より大きな買い物だと?

 それが土地所有権、つまり、荘園を企業として捉えた場合の株式であった。荘園の所有権と引き換えに平安京の一等地の邸宅を手に入れたり、役職に就くために荘園の所有権を差し出したりする。それも、土地の全部の権利とは限らず、三割であったり半分であったりする。現在でも一万株を持っている人が半分の五〇〇〇株を売るという図式は頻繁に見られるが、今から一〇〇〇年前も同じであったのだ。

 荘園で働く農民も株式会社の社員と捉えればわかりやすい。働いて給与を得ると言っても、サラリーマンは自分の叩き出した売り上げの全額を給料として手にできるわけではない。歩合だとしても、全額手にできるわけではなく、会社がいくらか引いた結果を給与として受け取っている。そのいくらか差し引く分が荘園領主に納める年貢、現在で言う株主配当であった。その代わりに、個人事業主では自分で全てならなければならないことを、会社に相当する荘園が大部分やってくれる。

 荘園領主に年貢を納める必要はあるものの、国に対する税は免除となるため、それは不正義であるとして荘園制度を問題視する者は多い。この視点は現在の歴史家だけでなく、当時の人も抱いていた認識であった。しかし、荘園制度が始まってからおよそ二〇〇年という長きにわたり、大飢饉がほぼ起こらなかったことは着目すべきことである。

 不作はあったし、生活苦から土地を捨てる者、生きるために平安京をはじめとする都市部に流れてくる者もまた数多くいた。そして、生きるために犯罪に走る者もいた。だが、大飢饉と呼べるような絶望的な不作は、天慶五(九四二)年六月を最後にしてここ一〇〇年ほど途絶えている。この天慶五(九四二)年の不作にしても、前年まで続いていた藤原純友の乱の影響によるものであって、この年の秋の収穫にはただちに元に戻っている。

 これは、気候に恵まれたこともさることながら、荘園という制度が収穫に対する最高の条件を整えていたからだとも言える。わずか二パーセントと侮るかも知れないが、残る九八パーセントも荘園を目指し、荘園の生産性を可能な限り取り入れていたことは見逃せない。

 荘園は、初期投資費用に加え、田畑の維持費用も荘園領主が負担する。また、荘園内に住む者のボディーガードも荘園領主に仕える武士の仕事だ。荘園領主に払う年貢は、株主配当でもあるが、そのための必要経費でもある。荘園は一にも二にも生活のための仕組みであり、生活のジャマになる存在は徹底的に除外する。荘園が免税のための存在であったのは事実であるが、それだけが荘園の存在理由ではない。

 農作業の邪魔をするような負担、あるいは農業以外の仕事に従事する者の仕事の障害となるような負担を荘園領主から求められることは少なかった。国に納める税も、その税を京都まで運ぶ負担も、さらには国の命じる強制労働からも、荘園に住む者は免除されていたのだ。その代わり、荘園の維持に必要な賦役は課されていた。道路の整備や水路の維持といった、現在では専門の会社が実施すべき仕事を荘園内の住民が担当していたのである。もっとも、それをするしないが生活に関わることだとわかっている以上、水路整備も、道路工事も逃れずにこなしている。本音を言えばやりたくない面倒くさいことではあるが、やらなかったら荘園全体の危機に関わる話であるために引き受けている。


 もう一つ免除されていたのが兵役である。もっとも、律令制に定められた徴兵制としての防人(さきもり)は桓武天皇の時代に終わりを迎え健児(こんでい)になったが、その人員は国防の需要どころか平時の治安維持にすら足らない。何しろ、最大でも一ヶ国二〇〇名、少ない国だと五〇名が定員である。その上、計一七ヶ国が健児の対象外、つまり、兵役そのものが不要である国であったのがこの時代である。その代わりに武士があったが、武士はあくまでも自分の意思でなるものであり、徴兵制ではない。集落存亡の危機でもない限り、本人の意思を無視して武装させることはまず無かった。

 この時代は、貴族と武士、役人と武士、一般庶民と武士との境界線が曖昧であったが、一つだけ言えることがある。それは、武士と兼任していることが生活の負担とならなかったこと。収穫の時期に戦乱となったとしても、何しろ襲いかかる側にとっては最高の成果を得られるタイミングであるから戦乱に巻き込まれる可能性も高かったが、そのときでも収穫に専念することが可能であった。優れた荘園領主であればあるほど、そのような時期にも動ける武士を配備している。そのための維持費は荘園の領民が年貢として負担したが、モノも命も全て奪われるのに比べればまだマシだ。

 こうした生産性の向上、より正確に言えば、生産性低下の原因の排除は、荘園のみならず、荘園以外の土地でも可能な限り取り入れられるようになっていた。


 さて、荘園の領民はどれだけの負担をしていたのであろうか。

 まず、律令制に従えば日本国民の税負担とは以下の通りである。

 現在の所得税に相当するのが租(そ)。班田一段につき二束二把、現在の単位に直すとおよそ四〇リットルになり、これを税率に直すと三パーセントに相当する。班田収受だと成人男性一人あたり二段が配布されるので、一人あたり八〇リットルになる。ただし、ここには土地の格付けと、その年の収穫に基づいた減免措置があるので、最高で八〇リットルであって、それ以下で済むことはあっても、それ以上を求められることは無い。

 次に、現在には無い概念であるが、国から無償労働を命じられるのが庸(よう)。ただし、文字通りにただ働きさせられるのではなく、代わりにコメや布地を納入する方法も認められていた。税が課される対象は二一歳から六〇歳までの男性であり、男性が六一歳以上になると税負担が半分になる。これは本人の貧富に関わらず一律に課される人頭税であり、二一歳から六〇歳までの男性が労働ではなくコメで納税するとした場合、二〇リットルのコメを納めることとなる。

 現在の住民税に相当するのが調(ちょう)。その土地のならではの特産品を納めるとなっているが、その多くは布地である。また、飛騨国限定であるが、都に出向いて工事にあたることで調とすることもあった。

 ここまでであれば税負担は重いと言えない。租庸をコメで納め、調を布地で納めるとしても税率が一〇パーセントを超えることは無い。

 ただし、税が現金で、かつ、銀行の口座の数字をやりとりすればそれで納税完了となる現在と違い、この時代の納税は文字通り持ち運んでいかなければならない。現在であれば運送業者に依頼できるところだが、この時代にそのようなものはない。納税する本人がコメや布地を担いでいかなければならないのである。これが重い負担であった。

 ここまでが律令で定められた税負担である。


 ここに加わるのが二種類ある。

 一つは雑徭(ぞうよう)。これは地方に派遣された国司が国内の領民に対して、年間六〇日まで無償労働を命じることができるというものである。後に三〇日に減らされたが、それでも大きな負担であった。ボランティアと言えば聞こえは良いが、やりたくもない無償強制労働を命じられるのは苦痛以外の何物でも無かった。おまけに、その労働を命じられるタイミングが農作業の時期と重なろうと全く考慮されない。クソ忙しいときに雑用を命じられ、そのせいで収穫が台無しになろうと責任をとらないどころか、それで税を納められない事態になったとしたら脱税扱いされる。

 さらに大きな負担であったのが、出挙。種籾を貸し出して、収穫時期になったら利子を付けて返してもらうという、種籾を無くした農家への福祉として始まった制度であったのが、いつしか悪徳金融になってしまった制度である。このあたりは「北家起つ」を参照していただきたいので簡単に記すが、出挙の利率は最大で一〇〇パーセント、つまり、一〇リットルの種籾を受け取ったら収穫後に倍の二〇リットルのコメを返さねばならないのである。当初は福祉として始まった制度であったが、簡単に悪徳金融へと変貌し、最終的には収入の五〇パーセントを占める負担へと跳ね上がってしまったのである。

 何しろ、強制的に貸し付けるのである。断る権利も権力も無いのだ。種籾を押しつけられ、収穫時期になったら問答無用で倍の返済を求められる。日本史上最悪と言われる弘仁の大飢饉は、直接の理由は不作によるものであったが、不作の最大の理由は天候ではなく出挙の負担の重さである。懸命に働いて田畑を耕しても、収穫した多くを出挙の返済として奪われる。それならば田畑を捨てて逃げてしまった方がまだマシだ。


 この現状に対する反旗が荘園であった。

 まず、国司からの強制労働を許さない。何しろ荘園の所有者は国司程度では手出しできない有力貴族や有力寺院だ。そこで働いている者に強制労働を命じようものなら政治家人生の終焉を迎えると言ってもいい。雑徭は「働かせても良い」であって「働かさねばならない」ではない。国司が「雑徭はしません」と宣告したらそれで終わりである。

 出挙にいたってはもっと不可能である。貸し付けようとしている農民が、貧しい一般庶民ではなく、大貴族や大寺院に仕える者になったのである。しかも、種籾はその大貴族や大寺院が既に貸し出している。そのような者に種籾を貸しだそうとした場合、それまでであれば強引な貸し出しも許されたが、荘園となったら大貴族や大寺院の貸し出しを無視する暴挙になる。

 それでも、あくまでも社会福祉の前提で貸し出すことは可能であるが、取り立てはまず無理である。田畑を実際に耕す者に直接貸し出したとしても、土地の所有者は大貴族や大寺院であって、返済もそちらに頼らねばならない。それに、先に利率一〇〇パーセントと記したが、これは法定利率を簡単に超える利率であって充分に有罪になるに足りる。取り立てようものなら、法で定められた犯罪に手を染めたとして逮捕されて牢屋行きだ。

 出挙は貞観四(八六二)年三月二六日に正式に廃止されている。ただし、尾張国郡司百姓等下文にもある通り、社会福祉を前提とした種籾の貸し出し自体は存在していた。国司が貸し出す場合もあるが、荘園領主そのものが貸し出す場合もある。もっとも、一〇〇パーセントという暴利はさすがにない。尾張国郡司百姓等下文で告発された藤原元命でもその利率は一八パーセントであり、それでも暴利とされたのである。

 荘園の領民は、国に支払う税からは逃れていたのだが、荘園領主への年貢は存在した。その税率であるが、およそ一〇パーセントから二〇パーセントと推測されている。厳密に言うと、納めねばならないコメの量が決まっているのであり、割合で決まっているのではない。なので、豊作に恵まれれば年貢を納めた残りは実際に田畑を耕した者の手取りである。また、納めねばならないのはコメとは決まっていない。そもそも、全員が全員農民ではない。漁師もいるし鍛冶屋もいる。荘園の事務管理をする者もいれば、荘園と、荘園領主の邸宅とを行き来する者もいる。そして、荘園を守る武士もいる。それぞれの職にある者がそれぞれの職に見合った年貢を支払っており、その負担は画一では無かった。画一では無いゆえに、公平であった。

 この時代における最高の生産性を追求し、生産性のジャマになる要素を排除した荘園という仕組みの存在そのものが、およそ一〇〇年に渡って飢饉を招かなかった理由である。


 そしてもう一つ注目していただきたいことがある。

 現在、税というものはどれだけの割合を支払わねばならないかというものになっている。所得税にしろ、法人税にしろ、消費税にしろ、税率であって、定額では無い。たとえば消費税が八パーセントから一〇パーセントに上がるのは、一〇八〇円から一一〇〇円へと二〇円の増税、一万〇八〇〇円から一万一〇〇〇円へと二〇〇円の増税となることを意味する。消費税の増税とは、税率が上がることであって、値段に関係なく一律二〇〇円の税が課されるのではない。税の計算の仕組みが消費税ほど単純ではないにしても、割合で決まるという点では所得税も法人税も変わらない。違いがあるとすれば、金持ちほど多くの負担となるような累進課税になっているという点ぐらいなものである。

 ところが、平安時代の、いや、明治時代を迎えるまでの日本の税というものは、率ではなく定額であった。どういうことかというと、いくらの税負担なのかが前もって決まっており、その年の収穫を終えたら決まっている税を納める仕組みだったのである。どれだけの収穫があろうと、納めるべき税が変わることはない。納めるべき税額が変わるのは調査が入った後であり、収穫直後に決まるのではない。一方、不作の場合は減免規定がある。つまり、豊作にすればするほど手元に多くの収穫が残ったのである。こう書くと、江戸時代の五公五民という言葉を思い浮かべるかもしれないが、実際には、江戸時代であっても納入すべき年貢の量は決まっていたのである。徳川吉宗の定免制は、その年貢の量の算定基準を改めたにすぎない。

 律令制が崩壊し、班田収授が有名無実化したことで、土地は永遠に自分のもの、そして、自分の子孫のものとなった。班田収授の頃は、土地に対してどれだけの工夫をしても、どれだけの投資をしても、時期を迎えたら国に没収されていた。あとで没収されるとわかっている資産に積極的に投資する者などいない。税を納めれば、現代の感覚でいくとノルマを果たせばそれでよしという感覚であったのが班田収授である。ゆえに、収穫量も増えるわけがない。

 だが、土地が自分のものとなり没収される心配がなくなると話が変わる。税を納めること自体は変わらないが、土地の収穫が増えれば増えるほど自分の手元に残る収穫が増えたのだ。それも永遠に。それでいて、納めねばならない税額は同じである。こうなると、時代とともに生活に余裕が出てくる。

 班田収授では一定期間を経ると新しい土地を手にできていた、つまり、土地がグチャグチャになったとしても、少し耐えれば新しい土地を国が用意してくれたのだが、班田収授が無くなると土地所有のリセットが働かなくなる。戦乱や火災や地震や津波や水害で田畑がやられたとしても、班田収授であれば代わりの土地を国が用意してくれたが、班田収授が無くなるとそこは自己責任である。荘園であれば土地の復旧や新地開墾の費用を荘園領主が出してくれていたが、先に述べたように、この時代の荘園の割合はわずかに二パーセントでしかない。残る九八パーセントは、何らかの免税があるケースが多いといえば多いが、それでも基本的には自己責任である。

 土地あたりの収量は増えた。土地に投資すればするほど、品種改良をすればするほど、手元に残る作物は増える。何しろ、税額は変わっていないのだ。ただし、土地がやられたら、戦乱にしろ災害にしろ土地がやられてしまったら、立ち直ることは難しい。その結果が、平安京に流れ込んでくる多くの市民であり、その結果としての治安悪化である。

 藤原道長はこのように平安京に流れ込んでスラムを形成するようになっていた人たちに対し、職を用意した。災害からの復旧工事であり、寺院の造営である。建設業に失業者を吸収させることで、社会問題の解決を図ったのである。父の展開したこれらの政策を息子も引き継いでいた。

 経済の鉄則は、好景気のときは減税、不景気のときは増税である。当時はGDPを正確に測れる経済指標などないから推測で行くしかないのだが、GDPがプラス成長にあるときに税額を上げなければ、それは減税と同じことになる。藤原頼通が父のこの政策を引き継いだのは正しい判断であった。ただし、財政問題も横たわっていたが。


 国の財政が潤沢であることなどまず考えられない。たいていは、税に対する要望の全てを叶えることのできる予算などなく、限られた予算でどうにかするために要望の方を取捨選択する必要に迫られる。

 藤原道長が、貴族の位階を上げず、自らも長きに渡って左大臣であり続けたことは既に記したとおりである。

 貴族は、位階と役職との二種類の給与を受け取れる。ただし、何の役職にも就いていなければ位階のみの給与になる。それだけが理由ではないが、ほとんどの貴族は、何の役職にも就いていないという状況を脱しようと、あの手この手で役職を求めるものである。

 藤原道長は自身が二位の左大臣であり続けることで、貴族の役職の数を制限しただけでなく、位階を抑えることにも成功していた。そしてそれは、朝廷の支払う人件費の削減にもつながっていた。給与が払えないからと、給与の代わりに荘園に対する免税で相殺することもあった。

 一方、藤原頼通は左大臣であり続けていることでは父の流れを継承しているが、従一位の関白でもある。つまり、同年齢の頃の父よりも位階が高くなっているだけでなく、役職も増えている。こうなると、自分自身が受け取る給与も高くなる。

 さらに、正二位でも権中納言にしかなれないという位階のインフレを引き起こしてもいた。こうなると貴族に支払う給与が増え、給与が払えないからと荘園に対する免税措置で相殺するケースが増える。免税が増えるということは、国の収入が減ることを意味する。一瞬はどうにかなっても、長期的には国家財政を衰退させることとなる。これを藤原頼通が、そして、この時代の議政官たちが理解していたかどうか怪しい。


 この時代の日本ことで表すと、平和、である。

 飢饉がない、つまり、餓死するような心配はない。遊んで暮らせるわけではないが、職に就けばかなりの高確率で生活の安定を得られる。平安京の街中で行き倒れる人もいるし、ホームレスとなっている人も見かける。埋葬させてもらえず野晒しにされているも遺体も見かける。そこに、夜道を歩くのは命がけとするしかない治安の悪さが加わる。現代の日本人からすれば信じられない劣悪な環境であったが、それでもマシになったのだ。働き口はあり、働けば食べていけるという社会は成立してはいたのだ。

 生活の安定にはもう一つ、未来に対する安心感がある。議政官の面々を見ても、国司に就けず官職なき貴族となっている者の多さを見ても、社会における人の流れはそのほとんどが固まっているとしか言いようがない。しかし、裏を返せば今より落ちる可能性は極めて低い。今よりも低い位階に落とされることも、今より貧しい暮らしになることも考えられず、明日も今日と変わらぬ暮らしがあるという前提を得られるのだ。

 この前提があれば、平和はかなりの可能性で得られる。先に述べたように、現在と比べ物にならない治安の悪さもあるし、国外からの侵略は刀伊の入寇まで、内乱については平忠常まで遡れば充分だ。それらはこの時代の人にとって忘れることのできない、ついこの前、実際に体験した悪夢であるし、繰り返してはならない悲劇でもあった。

 それでも、こうした悲劇が繰り返されるという心配は、ゼロとまではいかないにせよ、ある程度抑えることもできていた。

 この時点の藤原頼通に統治者としての採点をするなら、充分に合格点をつけられる。常々記しているが、政治家の評価は一つしかない。庶民の暮らしが前より良くなることがそれである。賄賂にまみれていようと、無能無知と蔑まされようと、激しい批判を受けていようと、支持率が低かろうと、庶民の暮らしが前より良くなったらそれは政治家として合格、清廉潔白で頭脳明晰、批判も無く支持率も高い政治家であっても、暮らしが悪化したら政治家不合格である。この意味で、長元六(一〇三三)年時点の藤原頼通は政治家として合格点をつけてよい。ただし、もう少し長期的な視点で眺めると話は変わる。それも、悪意ではなく善意であるゆえに、話は余計にややこしくなる。

 この時代の平和を乱すものは無かった。

 その代わり、何も生まなかった。

 古典文学を思い浮かべていただきたい。平安時代は日本史上に、いや、世界史上に名を残す文学作品を多く生み出してきた時代である。だが、世界史に名を残すような文学作品の成立時期の年表をどんなに眺めても、この時代に誕生した文学作品は無い。フィクションの物語だけが無くなったのではない。ノンフィクションの作品すら無いのである。正確に言えば文学作品が無くなったわけではなく、「狭衣物語」、「浜松中納言物語」、「夜半の寝覚」といった源氏物語の影響を受けた作品があったことが記録に残っているし、それらの物語の一部は現存してはいるが、源氏物語が残したような影響を与えてはおらず、よほど詳しい年表でもない限り、文学史年表から省略されている。

 文学史年表に残っている作品を強いて挙げれば万寿五(一〇二八)年には登場していたであろうと推測されている「栄花物語」があるが、これは、日本三代実録で終わりを迎えてしまった日本の正史の続きを記すことを目的とした私的な歴史叙述であり、源氏物語のような世界史に轟く壮大な文学作品というわけではない。

 なぜこのような事態となったのか?

 この時代の人に訊いてみれば、このような応えが返ってくるだろう。「あの時代はムチャクチャだったが今は皆真面目になった」と。この時代の人は良かれと思って悪徳を排除したのである。ところが、悪徳であるがゆえに生み出されていた文化が消えてしまったのである。源氏物語を模倣した作品は大手を振って歩けるものではなく日陰たることを求められてしまったのだ。

 文学に限ったことではないが、宗教を除く創作は、悪徳とされる概念も許容される時代でなければ生まれない。下品だとされても、気持ち悪いと扱われても、良かれと思って取り締まることは簡単に文化を消し去る。当時の人はそれで正義が実現されたと感じただろうが、あとには何も残さなかった。藤原頼通自身が真面目な性格であったところに加え、時代そのものが真面目を良しとする空気になってしまった結果がこうであった。

 豊かと言えば豊かである。ただ、生きにくい時代になってしまったとは感じたであろう。自由が減ってしまったのだ。

 藤原道長の頃、言論の自由は存在していた。どのような作品を発表しようと、それが藤原道長を徹底的に非難するような作品であろうと、藤原道長は何も言わなかった。不謹慎だとか、取り締まれとか言い出す人がいたとしても、他ならぬ藤原道長が許しているのだ。こうなると、取り締まりを訴えることのほうができなくなる。

 言論の自由は弾圧によって消えるのでは無い。自主規制によって消える。「ここまで言うと問題だろうか」「これは許されるだろうか」という試行錯誤があり、許されざる言論だとされたら言論の自由のハードルが上がって、問題ない言論だと判断されたらハードルも下がる。藤原道長は何であれ許すことで自由のハードルを限界まで下げ続けていたのだが、藤原頼通はそのような行為を見せなかった。

 誰か特定個人が悪いわけでは無い。自由を認めない空気を真面目という名でごまかした結果が、文化の消滅であった。


 平安京という都市は自然災害に弱い都市である。と記すと、だったら自然災害の対策をすればいいじゃないかとなるが、この世の常として、大規模な工事は税の無駄遣いと批判される。そもそも、平安京の建設工事そのものが、これ以上の工事は税の無駄遣いになるとして、西半分の工事を中止させられたという経緯を持っている。その結果、西半分の右京は頻繁に洪水の被害に遭い、ついには無人の土地となってしまったのだが、この結果を、税の無駄と批判した人が反省したのかというと、そんなことはない。それどころか、自分が口にした「税の無駄」のへの対処であることを完全に忘却した上で水害対策をしていないことについて文句を言い続けた。水害対策の工事を税の無駄と批判した口で。

 残念ながら、そういう人でも権力者になれてしまうのもまた、この世の常である。

 するとどうなるか?

 工事が減る。

 工事というのは実にわかりやすい税の使い方である。目の前で行われていることが自分の納めた税によるものだと考えたら、この工事が無くなれば自分の税負担ももっと軽くなるのにとは誰もが考えることである。

 それは、大きな工事であればあるほどより強く思われるようになる。

 一〇〇億円の公共事業の予算があるとき、「一〇〇億円の予算の工事を一ヶ所」「一億円の予算の工事を一〇〇ヶ所」「工事をせずに税を一〇〇億円分減らす」という選択があったらどれを選ぶだろうか? 多くの人は、減税を考え、建設業の失業を考えた人は一億円の予算の工事を一〇〇ヶ所という主張をするだろう。だが、これはともに間違いである。正解は、一〇〇億円の工事を一ヶ所。

 大型予算を組んで大規模な工事をすると、失業が劇的に減るだけでなく工事に伴う周辺産業も生まれ、莫大な経済効果をもたらす。少なくとも一〇倍の一〇〇〇億円の経済効果を計上する。一方、一億円の予算の工事を一〇〇ヶ所で展開するのは良くて一〇〇億円の経済効果、つまりプラスマイナスゼロに留まる。税を一〇〇億円分減らすと経済効果が一〇〇億円に届かず、せいぜい一〇分の一の一〇億円にとどまり、相殺するとマイナスになって、不況を悪化させるだけでメリットどころかデメリットしかなくなる。一〇〇億円の予算の工事は税の無駄遣いどころか、税の有効活用とするしかないのである。しかし、税の無駄遣いを訴える人はそう考えないし、現実を突きつけても目を背ける。

 平安京建設工事を中止させたのは藤原緒嗣だが、藤原頼通も藤原緒嗣に似た考えの人間であった。

 藤原頼通の場合、父が着手してきた工事については継承しているが、その他の工事は手をつけていない。つまり、維持するために必要な工事すらしていない。国家財政の問題を考えた結果であり、税の無駄遣いに対する非難を恐れての結果であろう。

 その結果何が生じたか?

 長元七(一〇三四)年八月九日、京都とその周辺が大豪雨に見舞われた。ここまでであれば自然の脅威である。

 だが、この日の暴風雨は被害を伴った。洪水が発生して多数の死者を数えることになってしまったのである。

 この時代から二〇〇年前のことを言っても仕方ないのだが、税の無駄と判断して平安京建設工事を中断したせいで、平安京の住民は一体どれだけ殺されたてきたことか。税の無駄遣いという言葉は簡単に人を殺すのだ。税を無駄遣いしたせいで死ぬことはないのに。

 おまけに、このときの藤原頼通の対策は誉められたものではない。

 災害から一ヶ月半を過ぎた長元七(一〇三四)年九月二三日になってやっと、関白左大臣の名での法要を開催したのである。現在の感覚でいくと災害被災者のための追悼式典というところか。一〇月一七日に被災した円教寺御堂の再建供養を開催したというから復旧工事そのものはあったのだろうが、それにしても切迫感が感じられない。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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