この切迫感の感じられなさについて、もう一つ取り上げるべきエピソードがある。
長元七(一〇三四)年一〇月二四日、上総国の官物を四年間免除すると決定された。上総国に命じられている国からの税を四年間免除するから、その間に上総国の復興をせよという命令である。このような命令は、この時代の災害復旧におけるごく普通の命令であった。
では、上総国に何か災害があったのか?
あった。
ただし、それはこの三年前に収束した災害である。長元元(一〇二八)年から長元四(一〇三一)年まで続いた平忠常の乱がそれである。
平忠常の乱から三年を経てようやく、免税という形での被災地支援が決まったというこのエピソードを、朝廷の怠慢や藤原頼通の怠慢で片付けることは簡単である。目の前で死者が出ている水害ですら一ヶ月半も要したのだから、いかに大規模な被災であろうと被災者の姿を見ることのない上総国の災害は緊急の動議とはならなかった、おそらく、上総国からの納税が滞り、調べてみたら平忠常の影響だったのでそこでようやく腰を上げたというところであろう。
注意すべきは、情報収集力の低下の方である。ここで問題視されるのは怠慢の方であって強欲の方ではない。被害報告に基づき税を四年間免除すること自体は、この時代の被災地支援としてはかなり大規模なケースに分類できる。強欲であればそもそも免税をしないか、あるいは免税の期間を縮めるかであるが、そうではなく四年間の免税を決定したこと自体は、強欲という悪徳には値しない。ここで糾弾すべき悪徳は怠慢のみである。
現在の我々はこの時代の藤原頼通を、あるいは朝廷そのものを怠慢と糾弾できる。ただし、それは現在の我々が平忠常の乱の被災状況を文献記録で知っているからであり、もし知らなければ怠慢と糾弾することはできない。
藤原道長が武士と個人的なコネクションを握っていたのは何度も記した通りである。一方、藤原頼通にそのようなコネクションは無い。コネクションが無くても武人に対して公的地位を与えることのできる左近衛大将の地位があればまだ問題なかったのであるが、藤原頼通はこの地位を早々に手放している。これは藤原頼通が武人との接点を自ら絶ったことを意味する。
無論、藤原頼通自身はそこまで考えてはいなかった。ただ単に、武的な存在を忌避しただけであり、兼職の多さを懸念した結果である。そのため、左近衛大将の地位を譲った相手は弟の藤原教通である。
個人的には武的な存在を忌避しても、藤原氏として武的な存在との接点を持ち続ける必要性は認識していた。また、藤原教通はこの時点で正二位内大臣であり、朝廷内の序列で言えば三番目であるから、左近衛大将に相応しい地位の者はどのような者であるかを認識してもいたし、藤原教通もまた、自らが手にしている職掌を理解してもいた。
ただし、この藤原教通も武人を有効活用していたとは言いづらい。自らの格式を高めるために左近衛大将という武人のトップの官職を保持し、京都とその近郊に身を置いて、朝廷からの公的地位を求める武人に対しては影響力を行使できても、京都から離れたところに身を置き、朝廷からの公的地位を必ずしも求めてはいない武士については影響力を発揮できなかったのである。そもそも、藤原教通の側は公的地位を求めない武士など眼中に無かったし、公的地位を求めない武士も藤原教通を必要とはしていなかったのだ。
公的地位を求めない武士であっても、その土地では有力者である。理論上は朝廷の統治システムに組み込まれた被統治者の一人であるが、現実的には朝廷の権力が必ずしも及ばない独立した存在になったのだ。
これをどうにかしなければならないと考えない国司はいなかったろう。だが、それを実践する国司はいなかった。より正確に言えば、そんなことをできる国司はいなかった。暴力を伴ってでも自らの意思を通そうとする存在に対し、話し合いは通用しない。通用するのは殴り合いだけである。そのような武力を持った国司など存在しない。そのような国司が現れたとすれば、それは、まさに戦乱が起こっている最中に、戦乱を鎮めるために派遣した有力武士であるケースと、その反乱を無事に鎮圧させたことの報奨としての国司任命のケースだけである。
それまでと変わらぬ社会が続くと誰もが信じていた長元八(一〇三五)年、社会が悪くなっていることを実感させられる出来事が起こった。
長元八(一〇三五)年三月七日、園城寺での三尾神祭で延暦寺と園城寺の僧侶らが乱闘を繰り広げ、延暦寺の法師が殺害されるという事件が起こった。
園城寺は三井寺とも言い、歴史的には比叡山延暦寺よりも古くから存在している。天武天皇の許可により建立され、「三井寺」という名称も「御井(みい)」、つまり、皇族の産湯として用いられた井戸があるところからついた名称であるという伝承があるものの、その伝承が正しいかどうかを裏付けるものはない。奈良時代にはすでに園城寺が存在していたことが確認できているから、比叡山延暦寺が最澄の手によって建立されたことを考えると、歴史としては園城寺に軍配が挙がる。
歴史の軍配は挙がるのだが、権勢でいうと延暦寺に圧倒的に軍配が挙がっていた。いや、挙がっていたどころではない。平安時代の始まりとともに園城寺は歴史に埋もれ、平将門や藤原純友が暴れまわっていた時代になると完全に記録から消えるのである。近江国の寺院といえば無条件で比叡山延暦寺のことを意味するようになり、園城寺のことを覚えている人は、地元の人を除いてほとんどいないという状態にまでなってしまっていたのだ。
比叡山延暦寺の開祖は最澄であるが、その勢力を決定づけたのは、遣唐使として唐に渡った経験を持つ僧侶の円珍である。唐から帰国した円珍は、延暦寺もその宗派の一つである天台宗のトップである天台座主になった。その円珍によって園城寺は比叡山延暦寺に組み込まれ、延暦寺を構成する寺院群の一つとなっている。これもまた、園城寺が顧みられなくなったことの理由の一つである。
その状況が一変するのは比叡山延暦寺内部の派閥争いである。円珍の没後、比叡山は、円珍直系の弟子たちと流れと、慈覚大師円仁の弟子たちの流れの二派に分かれて互いに争うようになり、正暦四(九九三)年には、円仁派の僧たちが暴動を起こして円珍派の僧侶たちの住まいである房舎を破壊するという事件を起こす。
これによって二派の対立はどうにもならなくなり、円珍派は比叡山を下りて園城寺に拠点を構えるようになった。比叡山に残った僧侶たちを「山門」、園城寺に移った僧侶たちを「寺門」と称することから、この両派の抗争を「山門寺門の抗争」と言う。もっとも、当の僧侶たちも自分たちのことを山門や寺門と呼ばれていることは知っているが、それを自称することはほとんどない。自分たちこそが正統な比叡山延暦寺の、そして天台宗のトップであり、相手は正統ではない集団と認識しており、比叡山の僧侶たちが園城寺のことを寺門と呼ぶことはあっても自分たちのことを山門と呼ぶことはないし、園城寺の僧侶たちが比叡山の僧侶たちを山門と呼ぶことはあっても自分たちのことを寺門と呼ぶことも無かった。
もともと一触即発の状態であり、三月七日の騒乱は一触即発の一触が起こってしまったという事態であった。
このような対立を、外部の人間は通常冷ややかな目で眺めるものである。一言で言うと「どうでもいい」ことなのだ。そのような争いがあることは知っているが、そこで抱く感情はただ一言「迷惑」であって、どちらかに肩入れするようなものではない。とは言え、武器を持って暴れまわっている集団に対して、迷惑だという理由で鎮まるように言おうものなら命の危機である。だから、じっと黙って身を潜め、争いが終わるのを待つしかない。ただ、当人たちにとっては存亡のかかった一大事である。争いに敗れれば自分たちの存在理由が失われてしまうのだ。
このようなとき、執政者に求められるのは、力づくで争いを鎮めることである。どちらが正しいかなどどうでもいい。とにかく、今現在起こっている迷惑を力づくで封じ込めてくれることを庶民というのは願うものである。争っている当人は言うだろう。これは自分に認められている正統な権利の行使であると。しかし、その理屈は一切通用しない。庶民の目には、騒ぎ、争い、ただただ大迷惑をかけているだけの、話し合いの通用しない野蛮人としか映らない。武器を持って暴れているために恐怖を感じてはいるが、絶対に見上げる存在ではない。バカでバカでどうしようもない人間のクズが暴れているとしか考えないのである。
そして、ここでもやはり、藤原道長と藤原頼通との違いが出てしまうのである。
藤原道長であれば、そもそも争いなど起こさせない。話し合いの通用しない野蛮人でも、殴り合いなら通用する。暴れようものなら殴り殺される覚悟が必要だとわかっているとき、暴れるわけなどない。
一方、藤原頼通の対応は褒められたものでは無かった。何もしなかったのだ。殴り合いを展開しただけでなく、死者まで出ているというのに、藤原頼通は何もしなかった。
暴れまわっても何もされないとわかって、もうこれ以上暴れるのをやめようなどと考える者はいない。何しろ、暴れることを正義と考えている人間なのだから理屈など全く通用しない。
先に、園城寺は比叡山から下りた僧侶たちが本拠地として構えるようになったと記したが、比叡山から完全撤退したわけではない。比叡山のあちこちに園城寺の影響下にある坊舎があったのである。これは、比叡山延暦寺の僧侶にとっては目障り極まりない存在であった。
これを、彼らの考えでは正義の行動となる「処分」しようとしても、今までであれば犯罪者として取り締まられる可能性があっただけでなく、冗談抜きで命の危険に関わる話であった。しかし、三月七日の前例は、もうこれ以上我慢しないでいいと教えてしまった。正義の行動を実践しても命の危険にはならないと知ったらどうなるか?
長元八(一〇三五)年三月二九日、延暦寺の僧侶の手によって、比叡山中にあった園城寺の比坊舎が焼け落ちた。これを比叡山延暦寺の僧侶たちは正義の実現と考え、園城寺の僧侶たちは許されざる極悪非道の所業と考えるようになった。
これでもなお、藤原頼通は、そして、朝廷は動かなかった。
その頃の藤原頼通がどのような政務を行なっていたか?
一見すると藤原道長と同じような政務である。あるいは、歴代の藤原氏の当主たち、すなわち藤氏長者たちが展開していた政務と同じとも言える。皇室と藤原北家の本流とのつながりを軸に議政官における過半数を占めることで政務を意のままに執行し、人事権を駆使してその人の功績に基づく評価をすることで不満を抑え、荘園を黙認することで事実上の減税を実施し、経済を好景気であり続けさせている。
ただし、これは基本となる社会が安定してのことであった。政治は法に基づいて動き、法は経済より生まれ、経済は社会の上に成り立ち、社会は歴史によって成立する。歴史は既に確定しているものである以上、動かすことはできない。人間の手でどうにかできるのは歴史の積み重ねによって成立する社会のあり方を律することからである。社会が今までと変わらなければ、政治だって今まで通りでいい。だが、社会が変わってしまったとき、政治を今まで通りに展開すると今まで通りの結果は得られなくなる。「昔はちゃんとできたのに今はどうしてうまくいかないんだ」というのは、昔と今とで社会が違ってしまったからである。
藤原頼通は、かつてのような平穏さが失われた時代であると認識する必要があった。少なくとも、父道長が抑えつけることに成功していた寺院勢力が、今やごく普通に暴れまわる存在となってしまったことを把握しておく必要があった。
もっとも、それを理解した上でいつもと変わらない政務を展開していたという考えもある。
例えば、長元八(一〇三五)年五月一六日に関白左大臣藤原頼通の名で、高陽院水閣歌合を開催した。歌合自体はこれまで何度も開催されてきたイベントであり、関白左大臣自らが主催するというのもおかしな話ではない。そのイベントを以前からの予定通りに開催したのである。
社会が大変なことになっているのにイベントとは何事かと怒る人もいるかもしれないが、実際には社会が大変なことになっているからという理由でイベントの方を中止してしまうと、社会を混乱させている側のほうの利益になってしまう。よく「テロに屈するな」という言葉が出てくるが、テロに屈しないためにすべきはテロの要求を受け入れないことだけではなく、テロがまるでなかったかのように平穏無事な日常を続けることも重要である。テロリストが最も屈辱を感じるのは身の程を知ったとき、つまり、誰も自分の言葉に耳を傾けないどころか、脅しを拒否するだけでなく無視するのだと知ったときなのだから。
園城寺と、比叡山延暦寺との対立を除けばいつもと変わらぬ日常が続くと誰もが考えていた長元九(一〇三六)年三月、その常識を壊す事態が起こった。
後一条天皇が倒れたのだ。このとき、後一条天皇二九歳。命の危機など誰もが想像すらしていないときに起こった後一条天皇の容体悪化は朝廷を混乱させるのに充分であった。
当時の記録に後一条天皇がどのような症状で倒れたのかの記録はない。しかし、栄花物語には後一条天皇の容体悪化の様子が記されている。栄花物語によると、後一条天皇は突然痩せ始め、やたらと水を飲むようになったというのであるが、これは明らかに糖尿病だ。
糖尿病は贅沢病ではない。当時の貴族が贅沢をし、運動不足の日常を過ごしているから糖尿病に罹患したのだと考えたとしたら、その考えは短絡的すぎる。それより注目すべきは、祖父である藤原道長、道長の兄である藤原道隆、道長の伯父の藤原伊尹も同じ病気で亡くなっていることである。道長はそれなりに長命であったが、藤原道隆も藤原伊尹も若くして亡くなっている。現在は、先天的に膵臓に問題のある家系だったのではないかと考えられている。そして、後一条天皇もこうした藤原北家の面々の血統が母系でつながっている。
後一条天皇の年齢は、若くして糖尿病で亡くなった藤原北家の面々の享年と近い。さらに、この時代にはインシュリン注射などなく、それどころか糖尿病に関する医学知識もなく、そして、糖尿病から回復した症例もない。
当時は飲水病と称した糖尿病は、一度罹患したら永遠に治らない不治の病だったのである。これらの事実を目の当たりにしたとき、朝廷の面々に突きつけられたのは、後一条天皇の体調回復のための手段を検討することではなく、後一条天皇没後の朝廷のあり方を構築することであった。
後一条天皇は藤原道長の娘である藤原威子を妻としている。祖父の娘との結婚だから叔母と甥との結婚ということになるのだが、現在では認められていないこの婚姻関係も、当時は認められていた関係であり、このことについてどうこう言う人はいなかった。
ただし、中宮藤原威子が女児しか産まず、男児を生まなかったことは大問題であった。男児を産んでいれば、その子がどんなに若くても次期天皇の筆頭になれるのだが、いない以上、後一条天皇と最も近い男性を次期天皇とせざるをえない。
後一条天皇の東宮は、実弟の敦良親王であった。天皇の弟であるから次期天皇の候補としては何らおかしなことはない。実際、このときの朝廷は敦良親王を次期天皇とすべく動き出している。
この時点の朝廷に、敦良親王以上に皇位に相応しい人物はいなかった。何と言っても後一条天皇と一歳しか違わぬ実弟であり、この時点で一一歳を迎えている親仁親王という後継者もいる。しかも、親仁親王の母親は藤原道長の娘である藤原嬉子だから、藤原北家としてもこれまでの統治関係を継続できる。
ただし、藤原嬉子は故人である。親仁親王を産んで二日後に亡くなってしまっており、東宮妃として迎え入れたのは三条天皇の娘である禎子内親王である。つまり、このままでは藤原氏ではない女性が皇后になるのが判明しているのだ。禎子内親王の実母は藤原道長の長女である三条天皇皇后藤原妍子だから、藤原北家の血という点では問題ないように見えるが、そう甘くはない。自分が藤原氏であると認識しているのと、自分は皇族であって皇室に仕える一庶民でしかない藤原氏とは違うと考えるのとでは大きく違うのだ。それは藤原氏の血を引いているかどうかなど関係ないのである。
この禎子内親王は二年前の長元七(一〇三四)年に男児を産んでいる。後に後三条天皇となる尊仁親王である。
これが何を意味しているのかわからない藤原北家ではない。いかに藤原氏の血を引いていようと藤原氏でない女性の産んだ男児が天皇に就いたらその瞬間に藤原北家と皇室との関係が途切れ、母系を通じた影響力を用いての摂政、関白、太政大臣の地位がなくなってしまう。これは摂関政治の終焉を意味する。
かと言って、藤原頼通には娘がいない。娘がいれば皇后と中宮の並立も可能だが、いない以上、これはどうにもならない。
既にどうにもならなくなっていた後一条天皇の容体であるが、それでも最後の抵抗は見せようとしていた。とは言っても、この時代の医療技術で糖尿病をどうにかするなどできない。せいぜい僧侶を呼んでの加持祈祷が限度である。
後一条天皇が亡くなったのは、倒れてからおよそ一ヶ月を経た長元九(一〇三六)年四月一七日のことである。このとき、後一条天皇、二九歳。
同日、敦良親王が受禅した。後朱雀天皇の治世の開始である。
なお、このとき奇妙な手順が採用されている。まず、後一条天皇の喪は秘され、後一条天皇から後朱雀天皇へ皇位が譲位されたということにしている。この時点で後一条天皇は後一条上皇となった。
その上で、後一条上皇が亡くなったと発表され、後一条上皇は上皇としての葬儀が執り行なわれると決まった。
なぜこのような手順をとったのかだが、ある程度は想像できる。
まず、天皇が天皇として亡くなるのと、譲位して上皇となった後、上皇や法皇として亡くなるのとでは朝廷として要する時間が違う。現役の天皇が亡くなると服喪期間は例に従えば三年に渡るが、上皇や法皇であればそこまでは長くはない。
また、譲位する際に、これまでの人事が継承されると宣告することはおかしな話ではない。摂政にしろ、関白にしろ、天皇が天皇の名で任命する。天皇が亡くなると摂政も関白も一度空席になり、改めて任命され直さなければならなくなる。さらに言えば、新天皇は摂政や関白を任命する義務などない。摂政も関白も不要だと宣言したらそれまでである。だが、譲位に伴う人事の継承ならば摂政や関白の空白は無くなる。制度上、新たに任命し直す必要は生じるが、それは儀礼的なものにすぎない。
後一条天皇が譲位して後一条上皇となった後に亡くなったという形式にしたことで、後朱雀天皇の治世はかなりスムーズに進んだ。
まず、長元九(一〇三六)年四月一七日、後一条天皇から皇位を受け継いだばかりの後朱雀天皇が、前天皇の意思であるとして藤原頼通を自らの関白に任命した。これで藤原頼通は関白としての職務をこれまで通り継承できたこととなる。
次いで、長子の親仁親王を次期天皇にするとの宣告も下った。ただし、この時点ではまだ正式な皇太子ではない。
東宮であった敦良親王が天皇となり、東宮が空席となった以上、東宮に関わる職務は消滅する。しかし、その他の職務は後一条天皇の治世のまま継続するとも発表された。これにより、できうる全ての人事がこれまで通りとなることが決まった。
なお、譲位されたと言ってもこの時点ではまだ正式な即位にはなっていない。天皇の正式な即位には相応の時間を要するのである。
まず、長元九(一〇三六)年六月二六日に、後朱雀天皇が建礼門をくぐった。建礼門は数多くある内裏の門の中でも最高級の格式の門であり、くぐることができるのは、天皇、皇后、皇太后、太皇太后、上皇、法皇だけである。皇族であろうと、それがたとえ皇太子であろうと、近寄ることまではできてもくぐることはできない。後朱雀天皇がこの門をくぐったことは、自らが天皇に即位すると宣告したことを意味する。
ちなみに、建礼門自体は現在も京都御所に存在している。現在、京都御所の建礼門をくぐることができるのは、天皇皇后両陛下と外国から迎え入れた国家元首だけであり、内閣総理大臣であろうとくぐることはできない。
この建礼門の儀式を終えてからおよそ半月を経た長元九(一〇三六)年七月一〇日、後朱雀天皇が正式に即位した。
正式な即位の翌日を狙ってのことか、陽明門の前でひと騒動あったのが長元九(一〇三六)年七月一一日のことである。この日、近江国の百姓が集って陽明門で国司を訴えたのだ。なお、ここでいう百姓というのは必ずしも農民を意味する言葉では無い。平安時代における百姓とは生活にある程度の余裕のある人のうち役人でも僧侶でも無い人のことで、貧しい農民のイメージとして捉えると話が噛み合わなくなるので前もって把握していただいた上でこれからの文を読んでいただきたい。
近江国は現在の滋賀県のことで、京都のすぐ隣である。現在でも京都まで気軽に行ける場所だが、それは平安時代でも同じで、当時の交通事情でも早ければ日帰り、時間を要しても一泊で京都と行き来できる地域であった。何しろ琵琶湖という大動脈を抱えているのだ。琵琶湖を行き来する船に乗って大津まで行けば、あとは京都まで目と鼻の先だ。
国司が訴えられるケースは二種類あり、一つは、国司の圧政がこれ以上我慢ならないとなっているケース。もう一つは国司が目障りであるというケースである。
前者はわかる。都道府県知事を選挙で選ぶことのできる現在と違い、選挙など無く、中央から赴任してくるその土地とは縁もゆかりも無い貴族が国司として君臨するのがこの時代である。その国司の政治に不満を持つ者が多くなったとしても、選挙で意思を示せるわけでは無い以上、中央に訴え出て国司の罷免を求めるしか民意を示す方法が無いのだ。
ところが、後者になると話がややこしくなる。国司の中には一般庶民の味方になる国司もいるからである。
一見すれば素晴らしいように思えるが、一般庶民の犠牲の上で生活している人にとって死活問題になることも意味するのだ。年貢を安くしろとか、賄賂を受け取るなとか、誰が聞いても正しいと感じる政策を展開された場合、年貢を釣り上げて途中の中抜きで儲けていた者や、賄賂を収支に組み込んでいた者にとっては生活の破壊を意味する。
これがもし、京都から遠く離れた地域であれば、気軽に京都に出向いて請願するなどできない話になる。それこそ、国司以外の民衆が計画を立て、旅費を捻出して訴え出るという話になる。ところが、京都まで気軽に行ける近江国となると、多少の不満を持っただけですぐに京都に行けてしまう。それも、どのタイミングで京都に行くのがベストなのかの情報を充分に掴んだ上で行けてしまう。さらに言えば京都の地理に詳しいから、京都のどこで請願をするのがベストなのかも熟知している。
つまり、近江国に住む有力者が、自分がこれまでやってきた不正を維持するために、目障りになっている国司をクビにするよう陽明門の前に出向いて騒いだのだ。
これに対する平安京の市民の視線は冷ややかなものである。「何を勝手なこと言っているのだ?」というのが近江国の庶民の請願に対する視線だったのだ。
陽明門とは大内裏の外郭、東に設置されている門の一つで、門をくぐるとすぐに左近衛府が存在している。また、少し西に歩くと内裏があるため、重要警備の門の一つとされている。
ちなみに、大内裏には一四の門がある。しかし、一般的な呼ばれ方としては「外郭門郭十二門」。二つ足らないのには理由があり、もともとは本当に一二の門だったのである。
東に陽明門、待賢門、郁芳門。
西に殷富門、藻壁門、談天門。
南に皇嘉門、朱雀門、美福門。
北に安嘉門、偉鑒門、達智門。
一辺に三門というのが大内裏の構成であり、それぞれの門は屋根を備え、高さも奥行きも整った立派な門であった。また、東西南北それぞれに当時の能筆家の手による筆額が掲げられていた。東の三門は嵯峨天皇、西の三門は小野篁の孫の小野美材。南の三門のうち朱雀門を除く二門、および、朱雀門をくぐると現れる応天門の三門は空海、北の三門は橘逸勢の筆額を掲げた。
このような配置は建設計画時こそスッキリとした合理的なものに見えたが、実際に運用が始まると不便なことが露呈した。
大内裏は東西より南北に長い縦長の構造をしている。つまり、南北に配置されている六つの門は門と門との間が狭いので目的とする建物に近い門を選んで入れば何の問題もなかったのだが、東西はそうはいかない。それも、東側の最北である陽明門と北側の最東である達智門との間、そして、西側の最北である殷富門と北側の最西である安嘉門との間が長すぎた。
そこで、大内裏を囲む壁を一部壊し、門として通行可能にした。東のそれを上東門、西のそれを上西門という。ただし、単に塀を壊しただけで屋根をつけたわけでも能筆家による筆額が掲げられていたわけでもないので、門が無いのに比べれば便利であったが恐ろしく通りづらい門であった。
清少納言が枕草子に記した「この土御門しも、かうべもなくしそめけんと、けふこそいとにくけれ」の「土御門」は上東門のことで、この異称は、屋根が無く土がむき出しであったところからついた名で、よく言えば節約、悪く言えばケチというイメージを伴ったものでもあった。そう言えば藤原道長の住まいは土御門殿という名であり、本来は単なる地名なのだが、イメージとしては「自分のことは後回しにしても庶民の暮らしの便利さを優先させる」というものもあったのではなかろうか。藤原道長という人物はなかなか恐ろしい判断力を持った人間だ。
ここで、建設計画と実生活との距離を示す一つのエピソードがある。北側にある三つの門の中央に位置する偉鑒門は、本来ならば二番目に重要な門であるはずだった。
ところが、門として使用された例はかなり少ないのだ。
考えてみれば当然で、平安京は、北端に大内裏が位置するように設計された都市である。つまり、平安京に住む者が内裏に行くには、南から北へ行くか東西に移動するかのどちらかであって、平安京からさらに北に行くことは滅多に無い。強いて挙げれば、南から攻め込んできた軍勢から逃れるために北の門を通ることがあるかどうかというところであるが、いくら治安が悪く戦乱も多発していた平安時代とは言え、平安京そのものが戦場になったという記録はこの時点ではまだ無い。
そのため偉鑒門の異名が「不開門(あかずのもん)」。何しろ最後に使用された例が花山天皇の出家時、それも、人目につかないようにと選んだ結果であるというのだから、いかに使用されてこなかったかがわかる話である。
後朱雀天皇の即位から二ヶ月も経ない長元九(一〇三六)年九月六日、後一条天皇中宮の藤原威子が亡くなった。三八歳での死である。天然痘に罹患したための逝去であったと記録には残っているが、この頃に天然痘が流行したという記録は無い。
考えられるとすれば、天然痘があまりにも当たり前の病気になってしまったということである。
伝染病というものは、大流行を見せることもあるが、ときに、大流行ではなく細々と、それでいて極めて長期的に残り続けることがある。特に、社会がその伝染病を受け入れてしまうと長期的に残り続けることとなる。
天然痘自体に対するパニック的反応がもう見られなくなっていたのだ。天然痘は誰もが罹患する可能性のある病気であり、罹患してしまったら運命を迎え入れるというのがこの時代の人たちの考えであった。命を失う可能性もあるが、一度罹患し、無事に回復できたら二度と天然痘に苦しまなくていいというのはこの時代の人も知っていた。実際、天然痘の再罹患は医学書を見てもほとんど無い。
その結果、天然痘は無欲であるシンボルにすらなり、天然痘を神と崇める考えまで誕生したのである。このあたりは一神教の世界ではわからないであろうが、それが日本人の宗教感覚である。
後朱雀天皇は二五歳で即位した。そして、後朱雀天皇は皇太子敦良親王であった時代に男児をもうけていた。その男児が親仁親王である。親仁親王の生母は藤原道長の六女にして関白藤原頼通の実妹である藤原嬉子である。
しかし、この藤原嬉子は親仁親王を産んだ二日後に亡くなっていた。
藤原嬉子亡き後、皇太子敦良親王の妃となったのは藤原氏ではない。藤原道長の血を引いてはいるが、皇族である禎子内親王である。禎子内親王は良子内親王、娟子内親王、尊仁親王の三人の子を産んでいる。
これが問題になった。
皇太子が天皇に即位するのに伴って皇太子妃が皇后になるのはおかしな話ではない。だが、その皇后は藤原氏の人間ではない。藤原氏の血を引いていると言っても、藤原氏との関わりを期待できるものではない。禎子内親王が皇后となり、尊仁親王が帝位に就くことがあったら、その瞬間に藤原氏の摂関政治は後ろ盾を失うのだ。
藤原氏の誰もが、何とかして藤原氏の血を引く男児を求めるようになった。
ところが、肝心の藤原頼通に女児がいない。そこで選ばれたのが敦康親王の娘で、藤原頼通の妻である隆姫親王の妹を母にする嫄子(もとこ)女王である。父が皇族なのだから本来ならば嫄子(もとこ)女王も皇族であるべきなのだが、敦康親王が亡くなったことで叔父である藤原頼通の養女となっていたのである。
皇族でなくなったことで皇室に仕える家臣であることを示す姓が与えられる場合、親王や内親王であれば源、その他の王であれば平というのが通例であったのだが、藤原氏の養子になったために嫄子(もとこ)女王は藤原嫄子(もとこ)となったのである。
この藤原嫄子(もとこ)が後朱雀天皇の元に嫁ぐと決まった。
面白くないのは禎子内親王である。
理屈はわかる。藤原氏の政権を続けるためには藤原氏の女性が天皇のもとに嫁ぎ、男児を生むことが必要だというのはわかる。ただ、そのために自分の人生を全否定されて平然としていられるわけはない。
藤原氏の血を引く男児が必要だというのなら自分の産んだ尊仁親王がいるではないか。それを無視して別の男児を求めるとは何たることかという怒りが沸き起こったのである。
話し合いは平行線をたどり続け、妥協に妥協を重ねた末にやっと一つの結論が出た。
年が明けた長元一〇(一〇三七)年二月一三日、まずはいったん、禎子内親王を中宮とする。これは、後朱雀天皇の正式な妻は禎子内親王だけであると宣言されたと同じである。
それからおよそ半月後の長元一〇(一〇三七)年三月一日、中宮禎子内親王を皇后に昇格させ、空席となった中宮の地位に藤原嫄子(もとこ)を就けるというものであった。それも、藤原嫄子(もとこ)は今でこそ藤原氏だが、かつては皇族であったことから認められた特例であり、宮廷内の女性の地位はあくまでも皇后禎子内親王がトップで、新しい中宮は皇后禎子内親王に傅く数多くの女性たちの一人にすぎないという体裁を整えた上での入内であった。
さらに、長元一〇(一〇三七)年四月二一日には元号を長暦へと改元すると決まった。後朱雀天皇即位と禎子内親王の皇后就任を祝うための改元であるということで納得させたのである。皇后就任と同日の改元としなかったのは、同日とすると藤原嫄子(もとこ)の中宮就任に対する祝賀も兼ねてしまうからという、何とも形容しがたい事情があった。
時代は明らかに、悪い方向へと転がっていた。
一つ一つは個人の正当な権利の行使であり、相反する権利同士のぶつかり合いがあったとしても、それぞれに判断が必要である。だが、俯瞰して眺めると、長暦へと元号が変わった直後というのは、何とも形容しがたい状況が浮かび上がってくるのである。
まず、長暦元(一〇三七)年閏四月八日、但馬国司の源則理が石清水八幡別宮と争いを起こした。どのような騒乱であったのかの記録はないが、朝廷でこの騒乱についての討議をしている最中、雷が鳴って雹が降っていたという記録がある。
長暦元(一〇三七)年五月一五日、筑前国の安楽寺と太宰権帥の藤原実成が曲水宴で闘乱したことに対して安楽寺からの訴えが起こった。事件調査のため、推問使が太宰府に派遣された。安楽寺は太宰府天満宮を支配している寺院である。
長暦元(一〇三七)年五月二〇日、石清水八幡別宮での騒乱の責任は但馬国司の源則理にあるとして、源則理を国司より罷免し、土佐国へ配流することが決まった。また、同事件の共犯者もそれぞれ追放刑が言い渡された。総勢七名の追放である。
それにしてもなぜ、地方官人たちが宗教施設と争うようになったのか?
理由は単純で、領地をめぐる争いである。
地方官人にとって、領国内の有力貴族や有力寺社の荘園は、手出しできるわけのない強大な存在である。だが、手出しできそうなギリギリなライン、つまり、有力ではない貴族や有力ではない寺社の荘園となると、地方官人たちは課税を計画し、荘園所有者は免税を計画する。ここで争いが起こる。
現在の日本で、脱税するために武器を持って暴れたとしたら、脱税だけでなくまさにその暴れたことも犯罪として加わる。しかし、この時代は脱税のために暴れること、言い換えれば、荘園としての正当な権利を行使するために武器をとることは、何らおかしなことでなかった。そればかりか、その権利の行使を阻害するほうが処罰の対象となりえたのである。
ここで宗教施設の持つ荘園となると、さらにややこしい要素が加わる。宗教施設に対する冒涜と判断されると、その面での処罰も加わるのだ。
これは宗教施設にとってありがたい社会状況である。
宗教が暴れまわり出していることを気にもしていなかったのか、藤原頼通はこの頃、一つの計画を実現させた。藤原独裁の強化のための計画である。
まず、長暦元(一〇三七)年七月二日に、親仁親王を元服させた。満で一二歳、数えで一三歳の元服は、異例の早さとまでは言わないが、若い元服である。
この元服を見届け、さらに一ヶ月以上の間を置いた長暦元(一〇三七)年八月一七日、親仁親王が正式に皇太子となった。これで、後朱雀天皇に何かあったとしても、帝位を継ぐのは藤原道長の娘の子であり、藤原頼通の甥である。
さらに、皇太子就任を祝うための恩赦として、五月二〇日に追放されたばかりの源則理らへの京都帰還命令が出た。記録には源則理らとあるだけで、七名全員が帰還を許されたのか、それとも七名中何名かの帰還に留まったのかはわからない。
ここで問題となったのが皇太子親仁親王の婚姻相手である。未だ若いとはいえ元服した以上、婚姻する権利も有する。とは言え、単に男性が結婚相手を求めているのとはわけが違う。何しろ皇太子、つまり、帝位に登ったら皇后となる女性が誰になるのかという問題がある。
誰もが我が娘を嫁がせようと必死になったが、最も必死になるはずの藤原頼通は参加できなかった。娘がいるにはいたがあまりにも幼すぎて候補から外れる。かと言って、藤原頼通を差し置いて我が娘を嫁がせるわけにもいかない。
また、禎子皇后の目も光っている。先妻の子であるとは言え我が子の婚姻相手が誰になるのかは他人事でいられるわけがないという表向きの理由に加え、すでに芽生えていた藤原氏への反発もあって、黙っていることなどできなかったのだ。
このような啀み合いで時間だけが過ぎていき、紆余曲折の末に妥協点が見つかった。後一条天皇の娘で、両親亡き後は紫式部が仕えていたことでも知られる上東門院彰子の元で育っていた章子内親王である。先帝の娘にして藤原道長の孫という血筋は文句無しである。藤原氏の血を引いているとは言えその身分は禎子皇后と同じく皇族。それでいて、身寄りのなさから庇護者となれるのは藤原氏しかいない。しかも、年齢は親仁親王の一つ下だから釣り合いも完璧である。
この章子内親王の入内は、のちに混迷を招く一員ともなるのであるが、当時としては最善の選択であった。
年が変わった長暦二(一〇三八)年。関白左大臣藤原頼通はもう四七歳になっていた。いや、藤原頼通だけではない。弟の内大臣藤原教通は四三歳、そして、右大臣藤原実資に至っては八二歳である。よく言えば円熟だが、実際には人事が固まったまま年齢だけが積み重なっていったのである。
では、この時点の議政官のメンバーを振り返ってみよう。
議政官二三名のうち、藤原氏が一九名。そのうち一八名は藤原忠平の子孫であり、そうでない藤原氏は参議の藤原重尹だけである。藤原重尹は藤原氏であるが藤原南家の人間で、勧学院で学問を修める通常の藤原氏とは違い大学を出てから官界に身を置いている。
残る四名は源氏。ただし、源氏筆頭の権大納言源師房は藤原頼通の養子であり、権中納言源道方は藤原道長の妻の兄、参議源隆国は藤原頼通の忠実な側近で、源経頼は藤原道長の忠実な部下であった。こうなると、議政官は完全に一つの派閥で埋まることとなる。
上記の他に三位以上の位階を持ちながら議政官の一員で無い者が五名いる。ただし、刀伊の入寇時に太宰権帥として指揮を振るった正二位藤原隆家は前年に再び太宰権帥に任命されたことで中納言を辞して九州に向かっており、また中納言であった正二位藤原兼隆は既に出家に向かって動き出していた。藤原伊周の子である従三位藤原道雅は途中まで出世していたが不祥事を起こして左遷され、関白左大臣藤原頼通の子である従三位藤原通房はまだ一四歳を迎えたばかりのため議政官にはまだ入っていない。つまり、五名中四名は藤原忠平の子孫である。
議政官もしくは三位以上という括りで見たとき、藤原氏でも源氏でも無い者は一人しかいない。正三位の大中臣輔親である。ただし、この大中臣輔親は伊勢神宮の祭主であり、この時代の日本の神道のトップに立つ人物であった。その上、この時点で八五歳という、平安時代では異例としても良い長命であり、三位という位階の裏にはその長命を加味してのものもある。さらに言えば、藤原氏の祖先の藤原鎌足はもともと中臣鎌足という姓名であったことからもわかる通り、もともと神道を司る中臣氏という氏族があり、その中から政治勢力として伸びてきたのが藤原氏、神道に残ったのが大中臣氏、つまり、遠いとはいえ親戚である。
藤原忠平の子孫の家系図を記すと下記の通りとなる。これを観ても、実に物の見事に閉ざされた関係であることが見て取れる。
閉ざされた関係の中で、順番を守っていれば、理論上、そのうち上位の官職がやってくる。ただし、失態をしでかさないことが必須で、何か一つでも傷がつくとその瞬間に出世の道が閉ざされる。より正確に言えば、傷を見つけて攻撃を仕掛ける者がいるので、気を抜けない。
長暦二(一〇三八)年二月一九日、出世の道を閉ざされたのは、中納言藤原実成である。太宰府天満宮を統括する安楽寺との闘乱が罪に問われ、自身は中納言をクビになり、実際に闘乱の首謀者となった、藤原実成の家臣である源致親は隠岐に配流された。
闘乱そのものが起こったのは長暦元(一〇三七)年五月一五日のことである。当時、太宰権帥を兼任していた藤原実成は太宰府にいた。
太宰府は元々九州を統括するための役所であり、また、対外関係を司る役所であり、そして、日本第三の都市であった。その太宰府が都市の機能を失ったのは藤原純友の乱がきっかけであるが、そもそも都市としての立地条件が優れているとは言い難い場所であったこともあり、筑前国最大の都市の地位が博多に移りつつあったこともあって、都市としての太宰府は名目上のものとなってきていた。
とは言え、行政の中心ではあり続けたのである。経済と文化の中心が博多に移っても、行政はあくまで太宰府だったのだ。
衰えつつあった都市としての太宰府の機能を支えていたのが宗教である。元々、太宰府には安楽寺という寺院があった。その寺院の中に、菅原道眞の怨霊伝説対策として建立されたのが太宰府天満宮である。平城京が無くなってもなお奈良の地の宗教施設は勢力を持ち続けたのと同様に、太宰府は九州最大の信仰の地となったのだ。ただ違ったのは、平城京は正式に廃棄されたのに対し、太宰府は、衰退してもなお行政組織の一角に組み込まれ続けていたのである。
太宰府に赴任した者は、九州の統括と国外交渉の両方の責任を担うことになる。その中には、九州における徴税の責任者としての役割も存在する。
徴税の責任者として徴税のノルマをいかにして果たすかを考えたとき、既に税を払っている者にさらなる負担を求めることは現実的でない。普通に考えれば真面目に税を払っていない者への税負担となる。現在は税務調査官の権限がかなり強いが、この時代、荘園の所有者が有力者だと、その瞬間に徴税できなくなる。
藤原実成は、藤原道長政権下で長きにわたって内大臣を務め、その後も順調に出世を重ねて、最後には太政大臣まで上り詰めた藤原公季の長男である。つまり、藤原北家としてかなり高い地位にある人物である。つまり、ちょっとやそっとの権力者など太刀打ちできない高い地位を持っている。
安楽寺にとっては厄介な相手だとするしかない。今までの太宰権帥であれば、税から逃れるために安楽寺の権力を駆使できたし、菅原道長怨霊伝説を使って脅しをかけることもできた。しかし、藤原実成にそれらは通用せず、税を納めるよう言ってきたのである。
これまで守ってきた免税の特権を手放すわけにはいかない。ここで税を納めると、それが前例となって未来永劫税を納め続けなければならなくなる。かと言って、正面で向かいあったら安楽寺の権力では藤原実成の前に敗れ去る。
何とかして税を納めないように抵抗するのだが、藤原実成は力づくで納税させようとする。そのためには武士の力も利用する。それが、家臣である源致親である。源致親は税を取り立てるように命じられ、その命令は実行された。
これを安楽寺の側から見ると、寺院の財産を奪いにきた強盗ということになる。納税しないことに対する差し押さえなのだが、強盗に対して自らも武力で向かい合うとなると、闘乱に発展する。
安楽寺は太宰権帥藤原実成と、その家臣である源致親、そして、実際に闘乱に参加した者を朝廷に訴え出たのだ。それも、脱税のことは何一つ告げず、太宰権帥が犯罪者に落ちぶれたという宣伝をしたのである。
朝廷としては困った話になる。藤原実成は太宰権帥としての職務を果たそうとしたにすぎない。しかし、闘乱は事実であり、この時代の法に従えば有罪となりうる案件である。
一方、安楽寺が納税をしていないことは事実であり、未納分を取り立てただけだという理論は通用する。正義か悪かで言えば正義だ。
だが、その正義が実現されたらどうなるか?
税を納めないという前提で成り立っている安楽寺という寺院が、さらには、その他の寺院が、納税対象となる。これは一見すると正しいように見える。
だが、その正義の実現は許されない話であった。納税させるとなると、間違いなく安楽寺の経営は破綻する。仮に破綻が回避されたとしても、その経営は極めて苦しいこととなる。安楽寺がやっていけているのは税を納めないという前提があるからで、そこに税を課すとなると、安楽寺は安楽寺でいられなくなる。国による社会保障という概念がこの時代にも無かったわけではない。そもそも律令というもの自体が、国家をいかにすべきかという理論の上に成立したものであり、国家を成立させるためには国民の生活をいかに保障すべきかという理論が存在している。その結果が、低負担、平等、高福祉という、素晴らしいが成立しようのない理想であった。その理想の実現のために最優先で切り捨てられたのが低負担である。理想の実現のためとして国民負担が次々と増えていき、ついには飢饉が頻発する社会を生み出したのである。
それは現実的ではないと律令制を否定した結果、荘園制が成立し、藤原独裁政治が始まった。その結果、国による社会保障が薄まった一方で税を納めない者が続出した。これを不正義と考えるのは実に単純明快な話であるが、一度を除いて飢饉が消えたことは無視できない。
荘園制を不正義と捉えていては永遠にこの現象を説明できない。だが、国民を飢饉から遠ざけ、生活を安定させ、社会福祉を国から地域や宗教に移転させた結果が荘園制なのだと考えれば納得できる。
安楽寺は九州各地に荘園を持つ大寺院である。これを現在の感覚に捉えると、数万人の社員を雇う巨大企業である。ここが税を払っていないからという理由で税を払うように命じるのは簡単な話だが、それをしてしまうと、安楽寺は潰れてしまう。
現在でも聞く、「大きすぎて潰せない」がこの時代にもあったのだ。
悪事をなした大企業や、破産しそうな大企業を、その時代の政府が立て直させることがある。それも税金を投入して。
当然ながらただならぬ不平不満を生むが、その時代の政府がその不平不満の声に従うと何が起こるか?
大量失業である。
その会社の従業員だけが職を無くすわけではない。関連する企業も、多くは倒産し、倒産しなかった企業も売り上げが激減する。再就職先が見つからなかった人は社会保障で生きるか、あるいは、自らの暴力によって生きるかを迫られる。再就職先が見つかった人も、今までの生活水準を維持することはできない。
その結果として待っているのは、絶望的な不況。正義を実現させたとしても、その見返りが飢餓に苦しむ暮らしとあっては、悪評を受けようと税金で再建させるほうがまだマシである。
それが不正義であろうと、より大きな不正義が生まれてしまうのを防ぐためには黙認するしかなかったのだ。
この、安楽寺の訴えを認め、宗教施設の持つ荘園が免税であると黙認したことは、国民生活を考えれば最善の判断であったと言える。ただし、宗教に対する圧力が否定されたのもまた事実である。
その結果起こったのが、宗教施設間の争い。
宗教施設の持つ荘園が免税となると決まった以上、荘園を拡大すればするほど寺社の利益が増える。
荘園に限ったことではないが、事業の拡大というものは通常、規模の拡大に伴う収穫逓減が発生する。少なくとも、事業を拡大することと利益が増えることとは必ずしも正比例するわけではない。事業の規模を四倍に拡大したとしても、拡大した事業を維持するための費用がそれ以上に増えるため、利益の増加はせいぜい二倍である。ましてや、維持するための費用を惜しんで事業の拡大だけを図ったら、利益どころか大損害である。よく、従業員に過酷な勤労を命じているがために問題視されている職場があるが、こうした職場は例外なく、一人当たりの業務量が一人でこなせる業務量をはるかに上回っている。本来ならば不足している人員を補うか、超過している分を補うだけの褒賞を用意すべきところなのだが、その負担損害を認めず、本来計上すべき負担を従業員に背負わせている企業である。
これを平安時代に置き換えるとどうなるか? 最大の産業は何と言っても農業である。より広い農地を確保すればより多くの収穫を獲得できる。しかし、いくら広い土地を手に入れたとしても、その土地を耕せる人員がいなければ話にならない。手の加わらない田畑をいくら持っていたところで、そこから収穫を期待することはできないし、利益など想像するだけ無駄である。
かと言って、人員が無限にいるわけではない。律令制の頃は人口がほとんど増えなかったが、律令制が崩壊して荘園制が始まったことで、日本列島の人口は増えてきた。しかし、農地はもっと増えてきた。つまり、農地一人当たりの人員は減ってきていたのである。こうなると、同じ田畑を耕すのでも、より条件の良いところを探すようになる。
この条件の一つが免税だった。タックスヘイブンという考えは近年になって誕生した現象ではない。同じ生産を残せるならより多くの利益が残る場所を選ぶのは当然である。収穫を納めるというのは、理屈としては理解していても、納得できることではなかった。その納得できないことをしなくて良いというのは、労働力を引き付けるのに充分な魅力だったのである。
これまで、その魅力を発揮できるのは、特別な貴族と特別な寺社だけであった。それが、特別とは言い切れない寺社ですら魅力を発揮できるようになったのだ。
先に、この時代の荘園は農地全体の二パーセントにすぎないと書いたが、その割合が急上昇し始めるのである。荘園がその規模を拡大させたのではない。それまで荘園ではなかった土地が荘園だと認識されるようになってきたのだ。
荘園制が始まってからこれまで、荘園という土地は極めて限られた割合であり、荘園に身を寄せる身分になることは、この時代の農民、いや、農民に限らない無位無官の一般庶民全ての夢であったが、その夢は実現が困難なものでもあった。決して叶わぬ夢ではなかったが、叶えるためには多大な努力を要する夢でもあったのだ。
荘園であることの魅力は、荘園の特権もさることながら、荘園の希少性にも由来する。何しろ、上位二パーセントだけが荘園の特権を享受できるのである。
荘園に身を寄せる身分とは、自分が上位二パーセントに入ったことを意味するのであるが、荘園そのものが増えてきた、言い方を変えると荘園の希少性が減ってきたことによって、有り難みがなくなってきた。
長暦二(一〇三八)年一〇月一二日、後朱雀天皇は頭中将藤原資房を通じて、右大臣藤原実資に密かに意見を求めている。そのときの右大臣藤原実資からの答えは「為國家以無事可為第一事也」、すなわち、「国家を治めるには何事もないのが第一でございます」というものであった。
だが、右大臣藤原実資の返信も、後朱雀天皇の願いも、現実の前には虚しいものとして流れ去っていくのである。
宗教施設同士の争いは、哲学的なものであり、経済的なものであり、社会的なものであり、政治的なものである。と言えば聞こえはいいが、食うか食われるかの俗物的な争いであった。
その寺院の僧侶であることや神社の神官であることは、自らの社会的地位を意味する。いや、僧侶や神官でなくとも、その寺社の持つ荘園の住民であるというだけで、社会的地位を獲得できる。現在で言うと、上場企業の正社員が僧侶や神官であり、その企業の関連企業の正社員が荘園の住民である。その寺院や神社の一員であることは自らの存在価値に関わる話であり、簡単に妥協すべき事項ではない。ましてや、その地位を手放したときに待っているのは、自分はもうどこの荘園の人間でもないという現実なのだ。
現在の日本は、建前はともかく、現実は正社員と非正規との間に厳然たる身分差が存在する。どこかの会社の正社員になろうしても、新卒で正社員になるか、どこかの会社の正社員であった人が別の会社の正社員になるという道しかない。厳密に言えば非正規から正社員になることもあるが、その道はとても狭い。それとは逆に正社員でなくなった後で非正規になることは珍しくない。ただ、それを希望に満ちた未来と考える人は少ない。ほとんどの人は再び這い上がること不可能な転落と考える。
この本音を踏まえてもう一度平安時代に話を戻すと、荘園に関わる一員であるというのは、現在で言うと東証一部上場企業の、それも東証株価指数の対象となる二二五社の正社員であるというのに等しい社会的地位がある。その荘園の一員であり続けるためには、他の荘園を踏みつけてでも自らの所属する荘園を拡大させ続けるしかなかった。仮に拡大させることができなかったとしても、最低でも現状維持は必要であった。
なぜ拡大が必要となったのか?
荘園に関わる人間の数が増えたからである。
荘園の一員であるというのは世襲の権利だ。子供が生まれて育ったら、その者は荘園の一員である。
荘園の外から「この荘園で働きたい」と言ってくる人がいたとしても、その人は荘園の一員として簡単に受け入れられるわけではない。荘園の田畑を耕す権利を持つ荘園の住民から、年貢をその農民に納めることを条件に田畑を耕す権利を分けてもらえるかどうかである。これなど現在の派遣労働と変わらない。
しかし、新しく田畑を手にし、それが新しい荘園として認められ、新しい田畑に対する権利が与えられたら、その瞬間に荘園の正式な一員になる。ガレージで生まれた小さな企業がだんだんと大きくなり、気がつけば世間で名の通った大企業になっていることがあるが、新しい荘園の一員になるというのはそれと同じである。
新しい荘園というのは、今後、莫大な収穫を残す可能性を持った荘園である。その荘園に対する所有権を手にすれば、荘園所有者は現在以上の利益を獲得できる。仮に可能性が低いとしても、その荘園に対する所有権を早い段階で確保してしまえば、他の荘園所有者を出し抜くことができる。そして、新しい荘園の人間にとっては、無名の荘園の一員であるよりも、世間に名の通った大荘園の一員であるほうが、名実双方ともにメリットがある。
作者は何を言っているのかと思う人は、グーグル社がアンドロイド社やユーチューブ社をかなり早い段階で買収したこと、フェイスブック社が、当時まだ従業員一三人という生まれて間もない存在であったインスタグラム社を買収したことを思い浮かべていただきたい。優れた経営者というのは自らの経営を拡大するために常にアンテナを張り巡らせているものである。
そのアンテナがぶつかると、争いが起こる。現在のビジネスの世界だとドルの飛び交う買収合戦だが、平安時代だと武器をぶつけあう文字通りの合戦である。この争いの勝者は富と権利を手にし、敗者はその双方を失う。場合によっては敗者の所有していた荘園の一部をも奪われる。奪われるのは土地に対する所有権だけではない。その荘園に住む者としての権利をも奪われる。それまで荘園の一員であった、すなわち正社員であったという身分が消失し、田畑を借り受けていた立場から荘園の正式な一員へと、すなわち派遣から一部上場企業の正社員へと身分が一気に上がる。身分の逆転である。
身分の逆転が起こるのは、荘園の奪い合いだけではない。
大企業に比類する荘園所有者たる寺社の内部でも身分の逆転が起こる。
争いのスタートは、以前から激しい対立の続いていた山門派と寺門派との争いである。天台座主である慶命が亡くなったのが長暦二(一〇三八)年九月七日。既に七四歳とかなりの高齢であったことに加え、誰の目にもその病状の悪化が見て取れていたことから、慶命が亡くなるところまでは誰もが覚悟していたことであった。
問題はその後である。誰が天台宗のトップである天台座主になるかが問題になったのだ。
先に後朱雀天皇が右大臣藤原実資に対して密かに相談を持ちかけたのもこれが原因である。そして、この相談に対する答えが、「国家を治めるには何事もないのが第一でございます」であったのだ。
しかし、いとも簡単に何事もないようにできるようなら苦労しない。
この時点で天台座主にもっとも相応しいと見られていたのは、寺門派である園城寺の明尊である。天台宗の全ての僧侶を見渡しても、明尊以上の実績を残してきた僧侶はいない。そして、誰を天台座主に任命するかを決めることができるのは、天台宗の僧侶たちでなく朝廷の役割である。
ただ、比叡山延暦寺の僧侶たちにとっては許されざる事態である。こともあろうに、敵対する寺門派の、それも園城寺の中心人物である明尊を天台座主にするなど断じて認められない話であった。
その結果発生したのが、延暦寺の僧侶たちによるデモである。長暦二(一〇三八)年一〇月二七日、延暦寺の僧侶およそ三〇〇〇名が陽明門に集結して、明尊の天台座主就任の撤回と、今後、寺門派の僧侶を天台座主に任命しないようにとの確約を求めたのである。ここまでであれば現在でも首相官邸前で繰り広げられるデモと変わりないが、現在の首相官邸前デモと大きく違うのは、延暦寺の僧侶たちが同時にストも繰り広げていたことである。朝廷が比叡山延暦寺の要求を受け入れないなら、比叡山延暦寺が執り行うことになっている仏教儀式を全て止めると言ってきたのだ。
藤原頼通はこのデモを無視するつもりであった。延暦寺の仏教儀式が止まってしまったために、わざわざ延暦寺まで出かけたにもかかわらず出家も受け付けてもらえなければ、念仏を唱えてもらうこともできなかったという不満が挙がったが、それでも藤原頼通は動かなかった。
延暦寺の僧侶たちによるデモは収束しなかった。それどころか、他のデモも発生したのである。詳細な日付は不明だが、長暦二(一〇三八)年閏一〇月には、但馬国の百姓が陽明門に群集し訴えを起こした。
年が明けた長暦三(一〇三九)年二月一五日には、伊勢神宮から神官と神民、すなわち、伊勢神宮の荘園に住む住民が上京して一三ヶ条の要求を訴える。
そして、長暦三(一〇三九)年二月一八日には、延暦寺の僧侶三〇〇〇名ほどが、内裏ではなく藤原頼通の高倉第門前に集い、明尊の天台座主補任反対を訴える。この訴えに対し、藤原頼通がとったのは武力であった。武士に動員をかけて僧侶たちを排除しようとしたのである。
ところが、何度も記しているが、藤原頼通自身は武士に対するコネクションが薄い。無いわけではないが、一声かければ武士が集結するほどではないのだ。これがもし藤原道長であれば、三〇〇〇名の僧侶を黙らせるだけの軍勢を集めたであろうし、そもそも争い事態が起こらなかったであろうが、藤原頼通は藤原道長ではない。武士と僧侶との戦闘となり、戦いは明白に藤原頼通の敗北に流れたのである。貴族の邸宅というのは城塞ではない。塀が建っており門には武士が立って警備をしてはいるが、大軍勢が押し寄せれば簡単に破られる程度の造りである。このままでは邸宅が僧侶たちに占領されることを悟った藤原頼通は、延暦寺の僧侶たちの要求を全て受け入れると宣言したのである。
ただし、比叡山延暦寺の中でも誰を天台座主に任命させるかで色々ともめたらしく、三人の候補者の中から一人に絞り込むまでにおよそ一ヶ月を要している。
長暦三(一〇三九)年三月一二日、山門派の教円を天台座主とすると発表され、デモは、一応は沈静化した。ただし、三人の候補者のうち残る二人は延暦寺から追放され、その派閥の僧侶たちはなおも暴れまわる存在になり続けた。
長暦三(一〇三九)年三月一六日の未明、藤原頼通が邸宅としていた高陽院で火災発生。放火である。犯人は比叡山延暦寺の僧侶であると宣告され、ただちに逮捕令状が発令された。
デモを起こしただけでなく、武力で自らの訴えを認めさせたこと、そして、高陽院の放火事件と、比叡山延暦寺の評判は地に落ちていた。
通常、二派の対立のうち一派が不祥事をしでかすと、残る一派の評判が上がるものである。だが、比叡山延暦寺の評判低下が、対立軸を成す園城寺の評判向上につながることはなかった。園城寺もまた迷惑な存在だと認識させられるようになったのが長暦三(一〇三九)年閏五月のことである。
天台座主が教円になったことは、不平不満があるにせよそれはそれで朝廷の判断であり、天台宗の門徒は朝廷の判断に従う義務があるから受け入れる。ただし、天台座主という存在が唾棄すべき存在になってしまった以上、天台座主よりも格上の存在を作り、その存在に明尊を就任させるべきとしたのである。新しい存在は天台座主より格上であり、天台座主を含む全ての天台宗の門徒は新しい存在に平伏すべきとしたのだ。
この厄介な要求は、正式な手順に則った朝廷への請願であっただけでなく、内容が公表されてもいた。これに藤原頼通は、そして議政官は困惑した。いや、困惑したのは貴族だけではない。後朱雀天皇も困惑させられたのだ。
この時期、後朱雀天皇と藤原頼通との間に手紙が何度も往復した。後朱雀天皇からは、「律令に則って、議政官の決議をそのまま認める」との内容が、藤原頼通からは「議政官は天皇の命令に従う」との内容が飛び交ったのである。
どちらも正しい。議政官は天皇の命令に従う義務があるし、天皇は議政官の決議を尊重しなければならない。だが、これはあまりにも無責任な手紙のやりとりとするしかなかった。
決定に伴う責任を誰もが取りたがらなかったのだ。
決定に伴う責任を取らなくて良いこと、少なくとも先例があって相手を納得させられることであればスムーズに話が進んだ。たとえば、伊勢神宮からの訴えに対しては、祭主大中臣佐国を伊豆へ配流すると決まった。訴えの内容を吟味し、誰が責任を取るべきかが明白であり、しかも先例がある。大中臣佐国にとっては不満の残る判決であったかもしれないが、先例に従えばやむをえない判決であったと納得させられる内容であった。
問題は先例のない訴え、つまり、園城寺の訴えである。先例があれば、認めるにしろ拒否するにしろ黙らせることができる。だが、先例がない以上、認めれば比叡山延暦寺が、却下すれば園城寺が、僧侶たちを京都に派遣してデモを引き起こすことは目に見えている。
簡単に決めるわけにはいかないと誰もがわかっているが、一刻も早く決めてもらわないと困るともわかっている。だからずるずると時間を延ばしている現状は問題だと誰もがわかっていた。
この混迷に輪をかける出来事が起こったのが長暦三(一〇三九)年六月二七日のことである。この日、内裏焼亡。後朱雀天皇はかつて藤原道長が邸宅としていた土御門殿へ遷った。土御門殿は天皇を迎え入れる里内裏としてなら最高の環境が整っている建物である。
ただし、何度も記しているが、土御門殿という場所は決して便利な場所ではない。平安京の東の端にあり、休日に出かける公園としてならば最高の環境であっても、平日の執務を執り行なう場所と考えると遠すぎる。
おかげで政務に多大な支障を生じたが、藤原頼通の判断も、後朱雀天皇の判断も同じであった。すなわち、一刻も早く内裏を再建することである。内裏を手早く再建すればこの不便も解消する。逆に再建がなかなか進まなければこの不便を受け入れなければならない。
この時代の考えでは、地震や火災のような災害は執政者に突きつけられた天からの執政者失格のメッセージである。この考えに感化されたのが後朱雀天皇であった。
この判断に輪をかけたのが、長暦三(一〇三九)年七月一九日の後朱雀天皇の体調悪化である。具体的な体調についての記録はないが、七月二三日まで政務を執れなかったことは記録に残っている。
このようなとき、執政者は寛大な政務を展開することで天の許しを乞おうとする。
まず、倒れた当日である七月一九日に伊豆へと配流になっていた大中臣佐国を呼び戻すことが決まった。そして、体調が回復したあとの七月二六日には藤原実成の罪が許され元に戻った。
後朱雀天皇の考えに従えばこれで万事解決となるはずであった。それは後朱雀天皇だけでなく議政官の面々も同じで、これでひと段落ついたと誰もが考えたのである。
この安堵に加わっていたのが、中宮藤原嫄子(もとこ)の妊娠である。ここで無事に男児を産めばこのあとの安定へとつながるのだ。
ところが、その安堵は裏切られた。長暦三(一〇三九)年八月一九日、中宮藤原嫄子(もとこ)が女児を出産。その上、産後の具合も良くなく、次の出産に期待するどころか命の危機すら危ぶまれる状況であった。
その危機は最悪の結果をもたらした。
長暦三(一〇三九)年八月二八日、中宮藤原嫄子(もとこ)死去。二四歳での死である。
藤原嫄子(もとこ)の死去は、中宮の死という重い出来事であるだけでない。藤原氏全体の危機なのである。藤原氏のトップに君臨する者の娘が皇室に嫁ぎ、男児を生み、その男児が皇太子となり天皇となることを大前提としているのが藤原氏の権力構造である。
ところが、藤原嫄子(もとこ)の死によって、藤原頼通はどうにもならなくなった。嫁がせることのできる女子がいないのだ。そのため、頼通の弟で内大臣でもある藤原教通が娘の藤原生子を入内させることとなった。ただし、中宮としてではない。中宮の地位は空位となったままであり、ただ一人、皇后禎子内親王だけが後朱雀天皇の正室として君臨し続けるようになったのである。
長暦四(一〇四〇)年、実に奇妙な出来事が起こった。
五月二七日以後,頓死者が続出したのである。頓死とは「突然死」のこと。将棋でもこの用語があり「あと一手で王手をかけられ詰まされてしまうが、その一手を防げばどうにかなる。しかし、それに気づかずにいたために詰まされてしまった」という状況を頓死と言う。
将棋でのそれは比喩的表現であるが、長暦四(一〇四〇)年五月以降のそれは、何の前触れもなく人が命を落としていくという、恐怖に満ちたものであった。
ごく普通に健康的な生活をしていて、夜寝て、朝になってもなかなか起きてこないので起こしに行くと死んでいた。
歩いていて、少し休もうかと座り、また立ち上がろうとした瞬間に亡くなった。
こんな症例で亡くなる人が続出してどうして平穏でいられるであろうか?
この時代の人は、頓死の頻発を伝染病と同様に考え、恐れおののいた。とは言え、これまで目の当たりにしてきた伝染病とは状況が全然違う。天然痘にしろ、麻疹にしろ、患者の近くにいる人から罹患し、徐々に体調を崩していくことでは共通している。しかし、このときの頓死は、故人の近くにいようと遠かろうと関係なく、その上、徐々に体調を崩すのではなく一瞬にして体調が崩れている。
現代医学では、「頓死」ではなく「突然死」とし、その条件を発症から二四時間以内の死と定義している。特に多いのが心筋梗塞と脳卒中で、食生活の乱れ、ストレス、過労、運動不足がその原因としている。
というところで気づかされたことがある。
平安京という場所は海から遠いため塩が貴重品であった。ところが、塩の大量生産が可能になり、安い塩が大量に平安京に入り込んできたのである。
貴重品であった塩が安く手に入るとあっては、それまで遠慮して少ししか使わずにいた塩を望むがままに使うようになる。
平安時代の料理の味付けに塩を使うことはほとんどなく、手元にある塩と酢、特別なときにはそれに酒と醤(ひしお)を加え、自分なりの調味料を作って味付けするのがマナーであったが、そこでも、今までは少ししか用意されてこなかった塩が、安くなったおかげで山盛りになる。
おまけに、歯磨きに使うのも塩だ。指に塩を塗って口の中を磨くのがこの時代の歯磨きであり、かつてであれば金持ちだけが許された贅沢であったのが、塩が安くなったおかげでその日の暮らしに窮する者でさえ歯を磨けるようになった。
つまり、塩分の過剰摂取による高血圧なのだ。高血圧は心筋梗塞につながる。頓死した者の記録を見ても、高血圧を原因とする心筋梗塞での突然死とすると辻褄が合う症例ばかりである。
社会が変化していること、それも、悪い方向に変化していることの原因を、荘園の増大にあると見るのは現代人も平安時代の人も変わらない。ただし、荘園制そのものを悪とする考えに私は与しない。
荘園が増大したことによる社会の悪化は認めるが、荘園制という制度により、生産量が増え、飢饉が減り、律令制の頃と比べて生活水準が向上したことは否定できないのである。律令を正義と考え、律令を否定する荘園制を悪と捉えていては、これからの話を理解できないであろう。
長暦四(一〇四〇)年六月三日、一つの命令が出た。これ以上の荘園の増加を禁止するという命令である。歴史の教科書では「長久の荘園停止令」となっているが、実際の命令は改元前のこの日に発令されたものである。
もっとも、六月三日に命令を出すまでに後朱雀天皇と藤原頼通との間で何度も話し合いが持たれており、ここでの発令は熟考の結果であった。
荘園整理令自体は藤原時平が既に延喜の荘園整理令として発令している。この荘園整理令によると、貴族については現時点で所有している荘園に対しての課税義務と、これ以上の荘園拡張の禁止が命じられている。また、宗教施設は荘園そのものを所有することが禁止され、律令に定めている範囲の土地所有しか認められないこととなっている。
延喜の荘園整理令を覆したのが、藤原時平の弟の藤原忠平である。もともと反発が強かった荘園整理令であるが、律令に基づく正しい法の運用であったことは否定できない。そして、荘園所有者である貴族や大規模寺院の反発は強かったが、一般庶民の支持は高かったのだ。藤原時平自身は不人気であったが、荘園整理令だけは絶賛されていたのである。藤原忠平が荘園整理令を事実上の白紙撤回に追い込んだのは、庶民の人気よりも貴族の支持を選んだからと言える。それでいて、庶民からの支持は影響を受けなかったのだ。藤原時平は不人気であったが支持される政策を展開した。一方、藤原忠平は人気があったがために庶民からの支持を得ている政策を取りやめることができた。
それに、正義か悪かでいうと悪に分類される荘園制のもたらすメリット、すなわち、生活水準の向上というメリットは否定できなかった。班田収授が崩壊し、税制は人から土地を基準とするものに変わった。一人あたりどれだけの税を収めるかではなく、令制国ごとにどれだけの税を納めるかに変わったのである。そして、国内の誰からどのように徴税するかは国司の判断に委ねられるようになった。国司が求められたのは朝廷の命じた納税を果たすことであり、それ以上の徴税をしてもそれは国司の必要経費として認められた。つまり、朝廷が命じた額の倍の税を課そうと、一〇倍の税を課そうと、その行為自体は違法では無いのである。ただし、実際に徴税できるかどうかは別の話であるが。
「受領は倒れるところに土をつかめ」という言葉が出るほどに強欲な存在と認識されていた国司も、あまりにもひどいと免職され、これまで積み上げてきた実績も、蓄えてきた資産も、そしてこれからの未来も失われる。それに、いかに徴税が国司の権限であろうと、それが朝廷の出した命令であろうと、朝廷で確固たる地位を築いている者の所領となっている荘園や、朝廷が手出しできない規模に成長している大寺院の荘園となると、徴税を考えるだけ無駄である。
これまではこれでうまくいっていた。荘園と頂点とするヒエラルキーは、税を払わない者がいるという不正義ではあったが、完全に免税となる土地はわずか二パーセントで、残る九八パーセントが課税対象として残っていたのだから。
ところが、宗教施設の荘園保有が認められるようになると、一気に免税対象が拡大する。名目上は、宗教に関する費用を負担することで税が免除されるということになっている。しかし、「この土地を耕作する人が、うちの寺院での仏事に協力いただいたので、その分は宗教に関する費用として免税対象にしてもらえますよね」と言ってくると、宗教施設と無関係の土地であったところが一瞬にして荘園に変化してしまう。かと言って、ウソではないのだ。寺院で働いた、あるいは、寺院にコメを納めたという実績はあったのだから、宗教のための時間や資産をつぎ込んだことは否定できないのである。
この時代の税は物納と同時に無償強制労働もあった。これを雑役という。現在でもボランティアという名目でタダ働きを命じる学校や集団があるが、律令制における雑役は法で定められた国民の義務だったのである。ただし、積極的にやりたいと考える者などいない。誰かがやらなければならないというのは理解しているのだが、その誰かというのは自分ではない。道路工事や建物の建設などの労働力として計算され、その道路や建物を自分でも使うのだと理解してはいても、疲れ切っているところにさらに命令が加わるのだからやってられない。
律令制を崩せたのもここにポイントがあった。建設にしろ建築にしろ、雑役として無償で強制的にやらせようとするから問題になるのであって、正当な報償を支払う職業にしてしまえば、問題は一石二鳥で解決するのである。農地を捨てた失業者は職業を手にできるし、労働力を必要とする人は労働力を手にできる。タダで労働力を求めようとした図々しい人が淘汰され、ちゃんと賃金を払う人と、正当な賃金をもらう人が残ったのである。
ただし、それは充分な人口がいるところ、つまり、都市部に限られた話であった。そもそも地方部では人手不足が広まっていたのである。人口は確かに増えていたが、農地は人口増加率を上回る規模で増えていた。この状況では余剰人口など考えられない話なのである。
だからと言って、道路を作らないわけにも建物を作らないわけにもいかない。いや、作る以前に、修理や維持も必要なのである。だから、どうにかして人手を集めなければならないのだが、その人出が集まらないのだ。
ここで、法に従って、雑役として国内の住民に労働を命じることはできる。ただし、農閑期に小遣い稼ぎになる仕事としてならともかく、時期に関係なく無料で働かされる雑役などやりたくないとは誰もが考える。どうにかして逃れようとあの手この手の手段を考える。
雑役として働かせようとする国司と、働きたくない庶民とのいたちごっこは、荘園の住民になった瞬間に庶民の完全勝利で終わる。荘園の住民は雑役を課されることが無いのだ。貴族は国に仕える役人である。寺社もまた宗教を通じて国に関わる存在である。貴族のために働いている、あるいは、寺社のために働いているとなった瞬間に、その働きは律令の定める雑役を果たしていると同じことと扱われ、国司は雑役を命令することが許されなくなる。現実はともかく、理論上は既に律令で定められた雑役をとっくに果たしているのだから、これ以上の雑役を課すと、律令違反となって国司免職に該当する要件になってしまうのだ。丹波国では国内の過半数の者が、和泉国にいたっては国内の八割以上の者が雑役の免除者になっていたと記録に残っている。
しかし、それらの国司はどうやって国内の住人を調べ、誰がどこの荘園の者であり、誰がどこの荘園にも属さない者であるかを調べたのであろう?
まず、班田収授が機能していた頃から存在していた田畑がある。この田畑は国有地であるから私的所有はできない。班田収授が崩壊し、先祖代々耕し続けていると主張しようと、その土地は国有地であって私有地ではない。だから、ある日突然、国司が土地を取り上げると命令を下しても文句は言えない。ただし、国有地であるから、田畑の維持に要する費用は国が受け持つ。火災や戦乱で焼け落ちたとか、堤防が壊れて田畑が水没したとかの事情があれば、修復は国が責任を持って受け持つ。雑役にはそうした修復も含まれている。
一方、墾田永年私財法により、私的に開墾した土地の所有権は開墾者のものとなる。この田畑は国司がどんなに命令をしようと取り上げることはできない。また、土地所有権は売買可能な金融商品でもあったから、土地所有権を有力者に売ることで、自らの有力貴族の、あるいは有力寺院の荘園に身を置く者であるとすることもできる。ただし、このためには開墾したことを国司に届け出なければならない。
つまり、この時点で国司のもとには、国内の班田収授の田畑、つまり国有地と、墾田永年私財法による田畑、つまり私有地の両方の記録があることとなる。そして、全ての私有地は誰の所有であるかの記録もある。
国司はこの記録に基づいて、土地に対して雑役を課すのである。その土地に何人の住民が住んでいるのかを厳密に記録しているわけではないのだ。ただし、国内に役人を派遣して、記録上の土地と実際の土地とを比較するぐらいはしている。記録上は存在している田畑であっても、現在は誰も住んでいない無人の集落になっている田畑であれば、さすがに税を課すわけにはいかない。一方で、国司に届けられていない土地があれば、それは国有地である。墾田永年私財法に基づいて開墾したと主張しようと、国司に届け出ていない以上、私有は認められないのである。
新しく開墾した土地を役人が調べに来た場合、正直に答えると課税対象となる。そのため、役人に賄賂を渡したり、武力で役人を遠ざけたりすることが見られたが、もっと多く見られたのが荘園の詐称である。「この土地は藤原摂関家の所有する荘園である」という偽の証文を作って役人に見せるのだ。そうなると役人は手出しできない土地であると判断し、国内に荘園があると国司に報告しなければならなくなる。国司は手だてできない。
ここでやっと本題に戻っていくこととなる。
長暦四(一〇四〇)年六月三日の長久の荘園停止令は、これ以上の荘園開発を禁止し、現時点で荘園と認められていない土地は全て国有地であると宣言するものだったのである。
国司にとってはありがたい命令であったとするしかない。
これまで、国司たちは色々な手段で荘園以外の土地を増やそうと、つまり、課税対象となる土地を増やそうとしていた。
もっとも使われたのが、耕作放棄地の再耕である。伊賀国のように、国外から移住してきた者が国内の荒れ地を回復させた場合は一代限りで雑役を免除するという命令を出したところもある。また、和泉国のように国内に住んでいる者が国内の荒れ地を回復させた場合は雑役を軽減するという命令を出したところもある。もっとも、それらの効果は薄い。何しろ、荘園の一員になれば、一代どころか子々孫々に至るまで、部分的ではなく全面的に、雑役が免除されるのである。国司は、国内の課税対象者を増やすことを考えたのであって、課税対象から外れる者を増やそうとしたのではない。しかし、一般庶民が求めているのはまさにその課税対象外となることだったのである。
国司が朝廷から命じられているのは、徴税の義務であって権利ではない。つまり、「税を集めてもいい」ではなく「税を集めなければならない」のである。理論上、国司は朝廷から命じられて各地に赴任しているので、国司の命令ではなく朝廷の命令として国内の全ての者に徴税の命令を発令することができる。だが、実際はそうなっていないことは朝廷の者も知っている。
だからと言って命令を撤回することなどできない。朝廷は国司たちが中央に納める税を国家予算として計画しているのである。天災や人災で納入できないことは認められたとしても、地域の荘園が税を納めないので中央に納めることができませんと言われても、ハイそうですかと返答するなどできないのである。
だが、国の命令としてこれ以上の荘園が止まったとあっては、しかも、荘園の名義によく使われている藤原摂関家自身がこれ以上の荘園を認めないとあっては、現時点で届けていない開墾地は国有地であり納税対象と判断できるのである。
長久の荘園停止令は、一見すると、荘園問題が全て解決する妙案に思える。だが、これは思った通りの成果を挙げなかった。それどころか、荘園の詐称自体が、武力を行使してでも納税を拒否しようとしてきた地域の考えた武力に頼らないで済むアイデアだったのである。ここで優先すべきは武力を行使しないことではなく納税しないことであった。
結果、強引に徴税しようとする国司と、納税を拒否する庶民との間の争いになった。論争ではなく、裁判でもなく、武力を伴った争いである。
正確な記録はないので何年何月何日のことなのかは不明だが、おそらく、長久の荘園停止令が発令されて以後のことと思われる命令が二つ出ている。
一つは租庸調の廃止と全国統一の新税制の導入、もう一つは国郡里制の解体である。いずれも律令に定められながら有名無実となっていた事項を自然消滅させ、新たな制度を導入したものである。
まず租庸調の廃止と新税制の導入であるが、それまで国司のさじ加減で自由に上下させることができていた税率を、全国で固定することが定められた。もっとも、律令で定められた租庸調も、元を正せば全国統一の税率の税制だったのである。それが時代とともに国司の自由裁量権が増えて行き、国司を一期勤めれば一生分の財産を築けるほどになっていたのだ。このときに起こったのは、国司に与えられていた自由裁量権の停止である。国司に朝廷から命じられた分の税を集めて中央に届ける義務があるのは変わらない。違うのは、朝廷から命じられた以上の税を集めた場合、差額を自分の資産とすることができなくなったということである。国司としての給与を含めた徴税は認められるが、国司としての給与を超える徴税をした場合は差額を返さなければならなくなった。
これにより、国司になることの旨味は減った。空席ができると見るや多くの無役職者が殺到するのが通例であったのが国司という役職であったのだが、それは資産を築けると同時に未来へとつながることが期待できる役職であったからである。それが、徴税の上限を設けられることによって労多く益少なき役職へと変貌したのである。国司としての職務次第で中央での地位を築ける可能性があるのは変わらなかったが、ただでさえ藤原北家が主な役職を独占し、その他の役職も藤原氏と源氏で圧倒的大多数を独占しているとあっては、国司としてどれだけの役職を果たそうと中央での出世は期待できない。
その上、荘園に身を寄せる者がもっとも求めていたこと、すなわち雑役については変わっていないのだから、納めるべきコメの量が減ったと宣伝したところで荘園を出て国有地に移る者が現れるわけはなかった。
もう一つの国郡里制の解体であるが、これは現状の追認でしかない。
正確に言えば、国郡里制のうち、里のみの解体である。律令制においては、まず国があり、国の下に郡があり、郡の下に里がある。里を治めるのはその地域の有力者であると同時に国に仕える役人でもある里長である。だが、この里長の支配する里という地方自治の単位が機能しなくなった。住所として利用することはあったし、その国の大きさを示すのに国内にいくつの里があるかを利用することもあったが、生活の単位としては役に立たなくなったのだ。
その代わり、武力でもって国司に対抗してきた地域の武士が、地域における行政官の一人に組み込まれることとなり、その支配下にある地域が一つの里として認識されることとなった。武力を行使してでも納税に抵抗する集団を指揮する者が、徴税を司る国司の配下に組み込まれることとなったのである。ただし、国司の配下に組み込まれると言われても、そう簡単に従うわけではない。何しろ国司に税を納めない、国司の命じる雑役に応じないというのが大前提なのである。部下になったのだから上司である国司の命令に従えと言われても簡単に応じるわけにはいかないのである。それでいて、地域の武士たちは、行政官に組み込まれるために獲得することとなった位階については喜んで受け取っているのだから、そのあたりは現金なものだと言うしかないが。
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