覇者の啓蟄 1.平家滅亡ののち

 かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方、近年の教科書だと、源頼朝が後白河法皇に全国に守護と地頭を置くことを承認させた文治元(一一八五)年が鎌倉幕府成立の年となっていることも多く、その延長で「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という覚え方が広まった。さらに最近の教科書となると、そもそも鎌倉幕府が誕生したのが何年なのかを明記しない教科書も珍しくなくなっている。

 いったい歴史教育に何が起きているのか。

 結論から記すと、誰一人として鎌倉幕府の成立年を明言できないという現実に、教科書が、そして歴史教育が従ったまでのことである。

 どういうことか?

 明確に鎌倉幕府の誕生年を特定できないのは、そもそも当時の人たちに鎌倉幕府という用語が、いや、武家政権の呼称としての幕府という用語そのものが存在しなかったからである。そもそも、武家政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代に入ってからであり、鎌倉幕府という用語に至っては明治時代に作られた歴史用語である。ゆえに、鎌倉時代に鎌倉幕府という語は当然ながら存在しない。

 ただし、用語は無くとも概念ならばある。源頼朝ら鎌倉方の武士達が、一つ、また一つと新たな権利を手にしていった結果、相模国鎌倉の地に朝廷ですら無視できぬ巨大な政治勢力が生まれていたというのが当時の人たちの認識だ。当時の人達は、相模国鎌倉に誕生した巨大政治勢力のことを、現在の我々が考えるような鎌倉幕府という明瞭な政治権力としてではないものの、鎌倉に存在している源頼朝を中心とした集団勢力としてはさすがに認識していた。独自の権力組織ではなく、この国の統治システムの一部を構成し、かつ、朝廷権力とは一歩下がった場所にある、すなわち、鎌倉において朝廷の支配下に新たに構築されつつある権力構造であるとは見なしていたのである。六波羅や摂津国福原に拠点を構えて勢力を築き上げた平家と同様に、相模国鎌倉を拠点として権力を興隆させてきたのが源氏であるというのがこの時代の人達の認識であり、京都からの距離という大きな差異はあるものの、その構造自体は平家政権と類似していると考えていたのだ。

 前述の通り、この時代の史料に鎌倉幕府という用語は存在しないものの、勢力を識別する名称ならば存在している。当時の史料から探すと、権力組織としての識別は「関東」、そのトップである源頼朝は「鎌倉殿」であり、地名がそのまま権力の概念を示す用語として登場している。つまり、当時の人達は新たな権力構造の概念を地名で表すことで納得していたのである。それは、六波羅や福原を平家の代名詞として評したのと類似しているとしても良い。ただし、短命に終わった平家政権と違い、源頼朝が鎌倉に構築した権力は太平記の時代までの一世紀半もの長さを記録することとなったのであるから、そこには当時の人たちには気づかなかった本質的な違いがあったとも言えよう。

 それは何も特異なことではない。

 歴史を振り返ると、国家を動かす巨大勢力の誕生の瞬間が明瞭な形で示されるケースと、明瞭に示すことが不可能であるケースの双方があることを否応なく目にすることになる。鎌倉時代のスタートの年号を教科書に書き記せなくなっているのも、鎌倉幕府の誕生は後者であるがために、鎌倉時代のスタート年も明瞭に示せないからである。しかし、本作は鎌倉時代のスタート年を明瞭な形で記すこととなる。鎌倉幕府が強力な組織として成立した瞬間を書き記すからであり、その瞬間こそが鎌倉時代のスタート年となるからである。


 この時代における「関東」、現代で述べるところの「鎌倉幕府」を現代に生きる人の視点で捉えるとするならば、政党がそれであろう。平安時代叢書では何度か藤原氏を現代日本史における自民党に類する存在として記してきたが、源頼朝が鎌倉の地に打ち立てた政治勢力は藤原氏に類する自民党とは少し違う性格の政党である。言うなれば、一党独裁を前提とする国家における政党とすべきであろう。ただし、これは日本国における歴史として誇るべきところでもあるが、政党としての鎌倉幕府は、コミュニストは無論、ファシストなどと同レベルまで落ちぶれることは無かった。鎌倉幕府という政党と、ファシズムやコミュニズムとの関係は、差異ではなく優劣である。鎌倉幕府の方がはるかに優れている、言い方を変えれば、コミュニズムは無論、コミュニズムよりはまだマシであるファシズムでも鎌倉幕府に比べればはるかに劣っていて、この時代の日本人達はいくら何でもそこまで落ちぶれはしなかったと記すべきか。

 これは一党独裁の国家に限ったことではないが、政党というものはそれ自体が一つの権力組織であると同時に国政と関連する組織である一方で、政党が国家そのものというわけではない。どんなに政党が国家と密接につながっており、国家と政党とが事実上不可分な関係にある国であろうと、理論上、政党の内部でいかなる地位や権力を手にしたところで国家レベルでは直接的な意味を有さない。政党の権限が強い議院内閣制の国家では議会に占める政党の議席数に応じて政党内での地位と国政における地位とがある程度は連動するが、それでも自動的に結びつくわけではない。兼ねることがあっても自動的に連動するのではなく、政党における地位や権力の獲得とは別に、国家における地位や権力の獲得が存在している。現代の例で言うと、自民党の幹事長ともなれば常に多くの報道陣の前に身を晒す宿命があり、その発言の一つ一つが日本国の経済や社会を動かす発言となるが、自民党の幹事長であろうと一個人として行使できる権力となると、有権者としては選挙時の投票の一票、国会議員としては国会の、多くは衆議院の議決における投票の一票のみであり、それ以上の権力の行使、たとえば大臣としての権力の行使はできない。国政における一票の投票以上に権力を行使するためには、党での役職ではなく国政における役職が必要となる。

 視点を八三〇年前に移して鎌倉幕府を政党として捉えたとき、鎌倉幕府の内部における地位と権力は決して無視できるような存在でないものの、必ずしも国政と自動的に連携するわけではない存在でもあるという点で現代との類似性を見出せる。だからこそ、鎌倉方の武士達は地位や権力を構築できたとも言えるし、だからこそ、一党独裁でありながらファシズムへと落ちぶれることのない組織を作り上げることに成功したとも言える。

 そして、もう一つ気づかされるであろうことがある。それは、源頼朝の打ち立てた組織が、ゼロから構築されたものではなく既存の組織を流用しただけであること、すなわち、相模国鎌倉であるという一点では特異ではあるものの、それ以外は当時の人達にとって馴染みのあるものであったという点である。鎌倉幕府の組織名として教科書にも載る侍所や、後に源頼朝が設置することになる政所も、遡ると藤原忠実の時代には既にその存在が確認できており、この時代となると一廉(ひとかど)の貴族であれば間違いなく自身の名で設置しているべき組織であったのだ。源頼朝も新たな組織を構築しようと侍所や政所を設置したのではなく、一廉(ひとかど)の貴族ならば設置していなければならない侍所や政所を設置したのである。

 どのような改革や革命を成し遂げようと、改革後の組織や革命後の組織は改革前や革命前の既存組織の影響を受け、その多くを流用する。もし、全くのゼロから組織を構築したならば、その組織は間違いなく自壊する。理想が正しかったのに理想通りに行動しなかったから自壊するのではない。理想が間違っているから自壊するのである。

 源頼朝はそのようなことをしていない。

 現在に生きる我々は鎌倉幕府を画期的で独自性の強い組織と考えるが、当時の人は、それこそ組織を構築した源頼朝自身ですら、画期的でもなく、また、独自性が強くもない、馴染み深い既存の組織の流用だと考えた。だからこそ鎌倉幕府は一世紀半もの寿命を得られたとも言える。

 本作で記すのは、壇ノ浦の戦いにおいて最大のライバルであった平家を滅亡させた鎌倉方の武士達が、前述のような地位や権力をいかに手にし、いかにして現在で捉えるところの鎌倉幕府を構築していったのかという過程である。鎌倉時代は独自の時代区分を作り出す一つの時代であり、鎌倉幕府はその時代の権力を一手に握っていた組織であったが、時代も、組織も、平安時代の延長線上に存在している。

 そこに分断は、無い。


 元暦二(一一八五)年三月二四日、壇ノ浦の戦いは平家の敗北に終わった。平家方は、ある者は自ら死を選び、ある者は死を選んだものの源氏方に救い出され、ある者は戦場から離脱して逃走した。平家が一人残らずこの世から消えたわけではないが、平家はこの日に滅亡した。治承三年の政変からわずかに五年半、都落ちからは二年も経たずに、権力としての平家はこの瞬間に完全に消滅したのである。

 源氏方からすれば完勝である。

 だが、手放しで喜べる結果では無かった。

 数多(あまた)の命が失われたことは当然ながら悲劇であるし大問題でもある。しかし、このときは失われた命だけが問題となったのではない。後白河法皇も、源頼朝も、そして京都に住む誰もが、安徳天皇が皇位を退いて上皇となって京都へと戻り、安徳上皇から後鳥羽天皇へと三種の神器を渡す、すなわち、禅譲による正当な皇位継承がなされることで皇統の連綿を保つ未来を考えており、そのことは源氏方の誰もが熟知していたのである。

 そうした未来を構築するための前提が、安徳帝の入水によって潰えた。しかも、三種の神器も海中に沈んだことで二重の意味で頓挫したのだ。

 禅譲無き皇位継承自体は、前例を探すと西暦五九二年の崇峻天皇暗殺とその後の推古天皇即位まで遡れば前例として見出すことが可能である。しかし、推古天皇の先例でも三種の神器の継承は成功しているのに対し、今回は禅譲ではない上に三種の神器の継承もできないままなのだ。八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は拾い上げることに成功したが、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)はついに見つからなかった。三種の神器というレガリアの継承など形式的なことではないかと超然とした態度で終始しようと、三種の神器を伴わない即位となると前例は存在せず、後鳥羽天皇の政権の正統性(レジティマシー)に関係してしまう話となるのだ。

 壇ノ浦の戦いの結果が京都に届いたのは、元暦二(一一八五)年四月三日のことである。九条兼実は前月末に非公式情報として壇ノ浦の戦いの結末を知ったようであるが、公式な情報伝達は四月に入ってからである。

 四月三日に京都に届いた内容は、前内大臣平宗盛や前大納言平時忠が生け捕りとなり、神器はあったが安徳天皇は行方がわからなくなっているというものであった。情報に偽りはなくても全てが届いたわけではない。すなわち、「神器」はあったが「三種の神器の全て」があったと記しているわけではないのだ。九条兼実はこの情報の不正確さに苦言を呈している。

 当然のことながら壇ノ浦の戦いを終えた源氏方とて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を見つけ出そうと懸命になっていたし、安徳天皇を助け出そうともしていたのである。かといって、三種の神器が全て揃うまで報告を遅らせるなどできないし、安徳天皇の無事を確認するまで報告を遅らせることもできない。戦勝は一刻も早く届けなければならないのだ。その結果が、嘘ではないものの正確とは言い切れない報告という形になってしまった。なお、三種の神器のうち天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が見つからないでいることの情報が正式に京都にまで届いたのは四月二五日になってからのことである。

 この四月二五日という日付が何の日であるのかは後述することとなる。先行して部分的に記すと、戦勝であると同時に、これ以上隠し通せなくなった日付でもあるとだけ記しておく。

 他方、京都の民衆の間では、平家滅亡は悲運として受け止められはしたものの、源氏の完勝が、長く苦しかった時代の終わりとこれからの輝ける未来への希望、そして、源氏方の一員として活躍した源義経への喝采を呼び寄せることとなった。


 鎌倉に平家滅亡の知らせが届いたのは元暦二(一一八五)年四月一一日のことである。この時代の交通通信事情を考えると、異例のスピードとするしかない早さでの鎌倉への情報連携であると言えよう。

 吾妻鏡によるとこの日に鎌倉に届いた連絡はかなり詳細なものである。

 安徳天皇、入水。消息不明。

 安徳天皇の弟である守貞親王、救助。

 二品禅尼こと平時子、入水。消息不明。

 建礼門院平徳子、入水後、救助。

 按察使局伊勢(あぜのつぼねいせ)、安徳天皇を抱き抱えて入水した後、救助。

 安徳天皇の乳母である師典侍、生け捕り。

 平重衡の妻である大納言典侍、生け捕り。

 平時子の妹である師の局、生け捕り。

 平清盛の弟の前門脇中納言平教盛、生け捕り。

 平清盛の弟の前参議平経盛、入水。消息不明。

 平重盛の子の新三位中将平資盛、入水。消息不明。

 平重盛の子の前少将平有盛、入水。消息不明。

 平清盛の子の前内大臣平宗盛、入水後、救助。

 平宗盛の子の右衛門督平清宗、入水後、救助。

 平宗盛の子で後の平能宗こと副将丸、生け捕り。

 平清盛の次男である平基盛の子の左馬頭平行盛、入水。消息不明。

 大納言平時忠、生け捕り。

 平時忠の子の左中将平時実、生け捕り、ただし、重傷。

 前内蔵頭平信基、生け捕り、ただし、重傷。

 兵部少輔藤原尹明、生け捕り。

 美濃前司源則清、生け捕り。

 民部大夫田口成良、生け捕り。

 源大夫判官飯富季貞、生け捕り。

 摂津判官平盛澄、生け捕り。

 飛騨左衛門尉藤原経景、生け捕り。

 後藤内左衛門尉信康、生け捕り。

 矢野右馬允家村、生け捕り。

 僧都全真、生け捕り。

 律師忠快、生け捕り。

 法眼能円、生け捕り。

 熊野別当法眼行明、生け捕り。

 そして、三種の神器のうちの一つ、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が未だ発見できずにいる。

 なお、鎌倉にはその前に源頼朝を落胆させる知らせが届いていた。カレンダーだけを見ると壇ノ浦の戦いの三日後である三月二七日に、源頼朝の同母弟で、源義朝の第五子である源希義の遺髪を持参した僧侶が鎌倉にやってきていたのである。土佐国に流されていた弟が既にこの世の人でなくなっていることは知っていた源頼朝であるが、たとえ髪の毛のみとなってしまったとは言え、平治の乱の後で生き別れとなった実弟との二五年ぶりの再会である。心穏やかなる心境ではない。

 源頼朝のもとに平家滅亡の知らせが届いたのは勝長寿院南御堂の立柱式に臨席している最中であった。勝長寿院南御堂は鎌倉の地で亡き父である源義朝を弔うために建造させていたものであり、普段は鎌倉方のトップとして君臨していても、このときばかりは亡き父や亡き兄や亡き弟を偲ぶ一個人としての源頼朝であった。ただでさえ実弟の遺髪をついこの前に接したばかりであり、父や兄弟を死に追いやった平家に対する憎しみも消えることは無かったであろうというタイミングで平家滅亡の知らせが届いたのであるから、仮に喜びを爆発させたとしても、断じて上品とは言えないにせよ理解はされたであろう。しかし、平家滅亡の知らせを知った源頼朝は何の言葉も発することはなかったと伝えられている。喜びを爆発させることもなく黙って知らせを聞いていたことについて、鎌倉方の面々は源頼朝の冷静さと、その裏返しとも言うべき無感情さを痛感したが、源頼朝の立場で捉えると、一言も発しなかったことの方が当然と考えるしかない。このときの源頼朝には冷静でいること以外の選択肢はなかったとするしかないのだ。


 源頼朝にとっての平家はたしかに倒すべき敵であったが、平家打倒の成就は目標の前の通過点であってゴールではない。完全に破壊された日本国を立て直すのが源頼朝の目指すべきゴールであり、この後に待っているのは日本国復興という大事業なのだ。

 治承三年の政変で平家が天下を握ってからの日本国民の生活水準は明らかに悪化していた。平清盛の失政に加え、天候不順と戦乱とが生み出した凶作と飢饉、そして治安の悪化が生活を苦しくさせていた。源頼朝は政治家として、鎌倉方の支配地域だけでなく日本全国に目を向けてこの問題に対処しなければならなくなったのである。しかも、治承三年の政変から五年半に渡って続いてきた戦乱が、もっと遡れば保元の乱から頻繁に繰り返されてきた戦乱が終わり、これでようやく平和で豊かな暮らしが一瞬にして戻ってくるとほとんどの人が考えている状況下なのだ。そんな状況下で民衆の暮らしを再建しなければならないのが源頼朝である。生活苦の責任は平家だけにあるのではないが、多くの人は平家に責任があると考え、その平家がいなくなったのだから事態は好転すると考える。しかも、多くの人にとって保元の乱以前の生活は知識でしか知らない。現代に生きる我々の感覚でいくと、平成生まれの人にとってのバブル景気だ。伝承でしか知らない想像上の古き良き時代が平家滅亡によって蘇り、源頼朝の手によって一瞬にして成就するという期待が湧き上がったのである。

 それだけでも厄介な問題であるが、ここに平家が滅亡してしまったという問題が加わる。源頼朝にとって、いや、源氏にとって平家とはたしかに討伐すべき敵ではあるが、滅亡という形で償わねばならぬほどの存在ではなかった。より正確に言えば、平治の乱直後のように平家が圧倒的存在として君臨して源氏が絶滅寸前という状況は受け入れられないものの、保元の乱の頃のように源平双方が並び立つという構造は、許容を超えて、理想とも言える姿であった。源氏だけでこの国の軍事を引き受けるよりも、分担できる相手がいるほうが今後の民政復興において有効に働くのである。

 源頼朝の考えによれば、平治の乱の後で平家が源氏を最終的には存置させたように、壇ノ浦の戦いの後で源氏が平家を存置させることも選択肢としてありえたのである。たとえその内容が非現実的な構想であったとしても、平家を滅ぼすのではなく、源平双方が協力してこの国の軍事を担う時代を構築し、双方の武力を結集させることでこの国の治安悪化に対処するという方法もあったのだ。なお、鎌倉方の一員として平家の公達の一人でもある平頼盛がいることから、源頼朝の傀儡であったとしても平頼盛を利用して平家方の軍事力を構築することも理論上はありえたが、源頼朝はその決断を選んでいない。平頼盛はたしかに平家方の重要人物ではあるが、平家に言わせれば都落ちのときに真っ先に平家を裏切った人物である。平家にしてみれば、この期に及んで平頼盛が平家のトップであるかのように振る舞い、平頼盛が公的地位を論拠として平家を指揮しようとしても従うわけはない。


 源頼朝の意思はどうあれ、平家は滅んだ。すなわち、日本国の軍事は源頼朝の手に委ねられることとなった。この後で源頼朝の身に待っているのは、日本国内の治安維持を一手に担わなければならないという責任である。権力を手にした覇者として専制的に振る舞うのでなく、権力を委ねられた執政者として日本国民全体の治安維持と生活水準の向上を果たさねばならないという使命が源頼朝に課されることとなったのだ。

 しかも、いくら平家滅亡と言っても平家の軍勢が一人残らず海に消えたのではない。主立った面々の消息については情報が伝達されたものの、平家方の武士全員の消息が明らかになったわけではないのである。壇ノ浦からの逃走に成功した平家方の武士も存在するし、そもそも壇ノ浦の戦いに参陣しなかった平家方の武士だって存在する。そうした武士達が今後は鎌倉方に逆らう存在になることは想定の範囲内だ。平治の乱の後で源氏がバラバラになったにもかかわらず、以仁王の呼びかけに応じて立ち上がった源氏がどれだけいたのかは、他ならぬ源頼朝が、そして全ての鎌倉方の武士達が嫌と言うほど知っている。それと同じことが源平の立場を逆にして発生する、すなわち、皇室の誰か、あるいは摂関家の誰かが平家の残党に呼びかけて反乱を企てる未来が発生することとなってもおかしくないのだ。鎌倉方には平頼盛がいるではないか、そして、平頼盛に平家の残党を管理監督させればいいではないかと思うかもしれないが、平治の乱の後の平家方にだって源頼政がいたではないかという反論、そして、その源頼政が導火線となって全国各地の源氏が平家打倒のために立ち上がったという治承四(一一八〇)年、つまり、たった五年前の出来事を思い出させるだけで完結する反論が、平頼盛を鎌倉方として抱えておくだけでは不十分であることの何よりの例証となる。

 これは、今後、それもそう遠くない未来に、容赦ない激務が源頼朝のもとにやってくることを意味する。

 その激務の内容は、長期的に捉えれば日本国民の生活水準の向上であるが、直近の問題として源頼朝が対峙しなければならなくなったのは食糧難という大問題である。養和の飢饉の最悪期よりはマシではあるが、国民全体に行き渡るほどの充分な食糧が確保されているかと問われれば、その答えは否である。平家滅亡の知らせが源頼朝のもとに届いたのは元暦二(一一八五)年四月、すなわち、収穫までまだまだ遠く、普通に考えてもこの年の収穫まであと半年は計算しなければならない。四月時点で考えるべきは、現時点で存在する食糧で今後の半年間をいかに乗り越えるかだ。

 しかもここに、全国各地に散らばった平家の残党が今後は盗賊となって襲いかかってくることもありえるという問題が加わる。平家の一員として行動していれば少なくとも生活がどうにかなっていた武士達はことごとく、平家滅亡によってその日の生活にも困る身になることが決まったのだ。壇ノ浦の戦いの後も生き残った平家の残党にとっては、平家が滅亡した後こそが自らの生死を賭けた戦いになる、と書けば格好がつくが、要は、村や町を襲って食料を奪って食いつながなければ生きていけない日々が始まるのだ。かつては自分の領地を持っていたような平家方の武士であっても、敗者となった現在、手にしていた領地は他者のもとに、具体的には鎌倉方の武士の手元に渡っている。失った領地を取り戻そうとしても朝廷によって朝敵と名指しされた以上、法によって取り戻すことはできない。こうなると、武力によって奪い返すしかなくなる。これを領地に住む庶民の立場で捉えると、かつての領主が盗賊と化して襲いかかってくるという図式になる。


 生きるという根源的な問題であるだけに、庶民は執政者にその全てを委ねるなどという楽観的なことはしない。一人一人の日本国民がそれぞれいかにして生きていくかを考えて行動する。短期的には、今後の半年間をどうやって生きていくかを考えて行動する。国内世論を考えたとき、考えと行動に一致点が見いだせるなら、一致点でなくとも妥協点を見いだせるなら、執政者としても手段を選べる。ところが、一致どころか妥協できない対立が存在するとなると、執政者のもとには過酷な選択肢が突きつけられる。

 元暦二(一一八五)年四月という時期は、この半年間をどう生きるかで、京都と地方とで激しい意見対立があったのだ。これまでは平家が存在することによって隠せていた意見対立が、この時期になって表出化したのである。

 そうでなくとも元暦二(一一八五)年二月に源義経が京都を出発して四国屋島の平家の軍勢に攻め込んだ理由は、この時点における兵糧不足である。源範頼の軍勢が立ちいかなくなっているために源義経も軍勢を派遣することを決めたのも、源範頼の率いる軍勢が兵糧不足で動けなくなっているのを放置していては、その隙に平家が勢力を盛り返してしまうと考えたからである。現時点で動くことのできる範囲で平家討伐に動き続けた結果が平家滅亡であるが、源義経は軽率であったとするしかない。戦略としては平家滅亡という結果を生み出したことを評価すべきであるが、政略で言うと、兵糧不足の根本解決には何ら寄与しなかった、さらに言ってしまえばむしろ悪化させてしまったことを咎めるべきこととなったのだ。

 もともと、平家を滅亡させたところで兵糧不足が、言い換えれば長期的かつ広範囲に広がっている食糧難の問題が解決するわけではない。しかも、平家を倒した以上、これまでのように平家との戦争であることを前面に掲げて兵糧不足の問題を隠すことはできなくなる。平家が滅亡したところで食糧が空から降ってくることなどないし、いきなり倉庫が食糧で満ちることなどない。

 ところが、都の多くの人たちは平家滅亡で全ての問題が解決すると考えていた。食糧難が過去の話になり、食糧が難なく手に入る生活を過ごせるようになると考えたのだ。

 現在でも選挙での政権交代や革命によってそれまでの生活苦が一変し、貧困が終わって財貨に満ち溢れた暮らしがやってくると希望を抱くことがあるが、人類史上一度として、そんな希望が実現したことなどない。悪とされる存在を倒したところで貧困をリセットすることはできないのである。それまでの苦労に対する償いをしつつ、悪とされる存在を倒した上で生産と流通を見直すことで少しずつ回復させる以外に経済再建は存在しないが、政権交代や革命に身を投じる人はそうは考えない。悪を打倒した瞬間に輝かしい時代がやってくると考える。元暦二(一一八五)年四月においても、平家が滅亡したのだから、これから先、日本中にバラ色の未来がやってくると多くの人は考えた。実際にそれだけの食糧が存在するわけはないのに。


 しかも、政権交代や革命のように民衆が直接参加しての悪の討伐ではなく、軍事衝突の結果での平家滅亡である。軍事衝突と言おうと、あるいは内戦と言おうと、勝者には責任が付きまとう。源平合戦で言うと源氏のトップである源頼朝に責任が付きまとう。実際に軍勢を指揮した源範頼でも、戦場における鎌倉方の最大の功労者である源義経でもなく、集団のトップである源頼朝に責任が覆いかぶさることとなる。これまでは平家との戦争であるということで食糧難問題から世論を逸らせていたのが、これからは転嫁する先などなく、源頼朝が一手に背負わねばならないのである。しいて挙げれば食糧難の責任を朝廷に押し付けることもできるが、この時代の朝廷というのは、建前はともかく実際の視点は日本全体ではなく京都に向いている。どんなに広く視野を広げたとしても、東は琵琶湖、南は奈良、西は福原が限界で、それより遠方の民衆の声は届かない、というより、朝廷にとっての世論とは京都とその周辺に住む民衆の声のことであり、それより遠くに住む民衆の声は届かないのがこの時代の朝廷の現実だ。

 一方、源頼朝のもとには民衆の声が届いている。源頼朝という人は伊豆の流人であった頃から京都の情報を定期的に収集していた人であるから、源頼朝のもとにも朝廷に届いているような京都の世論は届いている。ただ、届いているのは京都の世論だけではなかった。鎌倉方の支配する各地の民衆の声も届いていたのである。いや、現在進行形で届き続けているのである。その上で、この双方の意見が対立していることも源頼朝は理解できていたのである。

 朝廷に届く世論と源頼朝の考える世論との対立がここで起こった、と書くと格好がつくが、要は、地方の収穫を年貢として首都に納めさせるべきと考える京都と、とてもではないがこの収穫では年貢を納めるなどできないと考える地方との対立だ。

 朝廷と違って源頼朝は地方の声を拾っている。当然だ。鎌倉方の武士達は源頼朝と共に戦ってくれている武士であると同時に、地方の荘園を自らの所領としている武士でもある。収穫の状況も、年貢納税の現実も嫌というほど見聞きしている。彼らの声を集めれば、地方の民衆が生きていくためには年貢を納めるどころか年貢を減らすか無くすかのどちらかしかないという声に行き着く。

 ここで二律背反が起こる。

 地方の声を受け入れる場合、平安京では食糧難が発生することは理屈としては理解できるものの年貢を納めさせるわけにはいかないという結論になる。一方、平安京内外の庶民からの声を拾い集めると、平安京に食糧が届かないという声に収斂され、京都の庶民の声に応えるためには地方から規定通りの納税をしてもらわなければならないという結論になる。そうしないと飢饉がまた起こってしまう。この時代の京都の民衆にとって、養和の飢饉とは歴史的出来事ではなく、自らが体験した思い出したくもない過去の苦痛だ。こうなると、納税を求める京都と、納税を拒否する地方との対立となる。これまでは平家との戦争を名目にして意見の対立を封じることに成功してきたのが、今後は意見を封じるなどできない露骨な対立となる。

 さらにここに厄介な問題が加わる。京都の意志を具現化したような人物が源氏方の一員として大活躍したことだ。しかも、厳密に言えば鎌倉方の一員ではなく朝廷の派遣した検非違使としての活動ということで活躍した人物がいたことだ。

 源義経という人物がその人である。


 源義経は源平合戦において最大級の賛辞を浴びるヒーローである。近年の研究では平家物語などに記されている源義経の活躍の多くはフィクションではないかとされているが、仮にフィクションであったとしても源義経抜きに鎌倉方の勝利はありえなかったと断言できる。

 ところが源義経という人は、鎌倉ではなく京都の代弁者であり、源平合戦における源義経の活躍も、実質的には鎌倉方の武士の一人としての行動であっても、理論上は朝廷が任命した左衛門少尉兼検非違使少尉として治安維持活動に専念した結果ということになるのだ。鎌倉の源頼朝の弟である武士であり、その前は奥州平泉にいたのだから、首都と地方とで分けて考えると源義経は地方に区分されるのではないかとイメージする人も多いであろうが、源義経は鎌倉方の武士の中で最大級の京都側の人間なのである。三善康信や中原広元など京都で活躍していた貴族や官僚よりも、北条時政のように京都での勤務経験のある武士よりも、源義経は首都の人間であったし、源義経のもとに地方の困窮の声が届いたとしても源義経の目に映っていたのは京都の民衆の困窮のほうであった。元暦元(一一八四)年時点での源義経は、養和の飢饉に苦しみ、木曾義仲の劫掠に苦しんできた京都を助け出した武士達の中の一人という位置づけであったのだが、一ノ谷の戦いの後で京都に在中して実績を残してきたことで、京都の守護者へと昇華していたのだ。その源義経が京都の民衆の声に応えるように源平合戦で活躍し、平家を倒すことに成功したのであるから、京都の民衆は源義経を熱狂的に受け入れ、京都において時代を代表的するヒーローとして持て囃されるようになり、京都に凱旋する源義経を待ち侘びる民衆が数多く見られるようになったのである。

 一方、京都以外の場所となると源義経はヒーローどころか悪役以外の何者でもなくなる。京都以外の土地における源義経とは、略奪者であり、拉致犯である。戦いに勝つためとして物資を奪うこともあったし、船を操らせるために漁師を拉致することも、戦場においてはタブーであるはずの船を操る水夫への攻撃も命じたこともあったのが源義経だ。戦いが終わっても連れ去られた人が村に戻れたとは限らず、奪われた物資は当然のように戻ってこなかった。源義経の通った村々は平家という盗賊の襲撃を受けた後で源義経という盗賊の襲撃を受けたようなものであり、とてもではないが絶賛などできるわけなどなかった。


 ここに源範頼と共に戦ってきた武士達の思いが重なる。本来は源範頼が指揮官であり、鎌倉方の武士達も源範頼に従って行軍していた。兵糧不足のせいで行軍がうまくいかなくなっていたのは事実であるが、およそ半年間に亘って、山陽道から北部九州にかけての鎌倉方の軍事作戦を展開してきたのは自分たちであるという自負がある。それなのに京都からやってきた源義経がいきなり横からしゃしゃり出て手柄だけ持ち去っていったのだから心中穏やかなるものではない。しかも、源義経の行動に対する法的根拠は、源頼朝に出された平家追討の宣旨ではなく、検非違使としての職務に基づく行動であるから、源範頼の命令に従う義務も無い。戦線を共にするのは源義経が自発的に従っている結果であり、仮に源義経が源範頼の命令に従わなかったとしてもそこに法的な問題は存在しないのである。なお、源義経は検非違使として平家の討伐に乗り出すと宣言した上で京都を出発したのであり、朝廷からの指令を受けて出発したのではない。その行動も検非違使としての職掌の拡大解釈である。源義経は検非違使であるが検非違使のトップではなく序列で言うと三番目の検非違使少尉であり、かつ、左衛門少尉を兼任している。つまり、検非違使の指揮命令から離れることも可能な状態で、検非違使としての職務遂行においてある程度の自由も利くという、検非違使の組織図から離れる業務に乗り出したとしても左衛門府としての組織図に基づく行動となるというポイントを突いての行動である。

 何かと悪役にされることの多い梶原景時が鎌倉の源頼朝に対して個人的怨嗟のこもった書状を届けたとするのが源義経をヒーロー視するときの視点であり、吾妻鏡に記されている梶原景時の書状もかなり潤色されたものであるが、現存する史料から潤色を取り除くと虚構は消えて客観的記録が残る。怨嗟のこもった内容であるのは認めるしかないが、それでも徹頭徹尾客観的であったからこそ、鎌倉方の武士達全体の怨嗟の声が鎌倉の源頼朝に届いたとも言える。

 元暦二(一一八五)年四月一二日、源頼朝は源範頼と源義経に対して指令を送り届けた。源範頼は九州に留まり、それまで平家が所有していた所領、いわゆる平家没官領について処置をするように、源義経は左衛門少尉兼検非違使少尉として、捕虜とした平家方の面々を連れて京都へと向かうように命じたのである。この二つの指令は何らおかしなものではない。軍勢の総指揮を担う源範頼が勝者として敗者の支配していた地域を占領して統治するのは当然である。また、京都において源義経がスーパースターとなっていることは源頼朝も知っている。ゆえに、京都まで平家方の捕虜を連行する役割を源義経が担うことで、京都を熱狂させ、源氏の勝利をより強固に印象付けることに成功する。しかも、源義経は検非違使であるから、平家の面々を京都まで護送することは検非違使としての職掌となる。たしかに平家滅亡は計算違いであっても、これからの統治のことを考えると、鎌倉方をいかに勝者として印象付けるかという視点で捉えれば、京都までの捕虜の連行を源義経にさせることはメリットが大きい。源義経が過剰なまでにヒーロー視されることになってしまうが、そんなデメリットよりも鎌倉方の軍事力をこれ以上なく見せつけることのメリットの方が大きい。

 さらに、この指令を発展させると、源頼朝が鎌倉に、源義経が京都に、源範頼が九州に滞在することで、鎌倉の源頼朝が東日本を、京都の源義経が京都を中心とする五畿とその周辺を、九州の源範頼が九州と瀬戸内海近隣を統治するという鎌倉方の分散システムが構築できる。ただし、鎌倉方の指示系統はあくまで鎌倉の源頼朝がトップに立ち、京都の源義経も九州の源範頼も鎌倉の源頼朝の指揮下で行動するという仕組みだ。

 そしてこのときの源頼朝の指令は、源義経に対する首都の熱狂を冷まさせる効果もある、はずであった。


 平家滅亡後に源氏がその軍事力を見せつける、いや、鎌倉方の持つ軍事力に期待する動きが見られた最初の記録は、元暦二(一一八五)年四月一三日に登場する。壇ノ浦の戦いの結果が京都に届いたのが四月三日、鎌倉に届いたのが四月一一日であることを考えると、こんな早くに軍事力を期待する動きが見られたのかと感嘆せざるをえない。

 感嘆はともかく、どういった動きがあったのか?

 内容だけを記すと土地をめぐる争いである。長尾寺と弘明寺管轄の僧である長栄が、小山有高の威光寺領である荘園を不正に押領したとして頼朝に訴え出たのである。源頼朝はこの訴えを受け、所領の所有権は寺領であることを認めた上で、小山有高に対して不正に横領した荘園を返還するよう命令を出している。

 これは、現在の感覚でいけば民事裁判である。また、小山有高の素性については不明なところがあるが、五年後の建久元(一一九〇)年の記録に鎌倉方を構成する武士の一人として小山有高の名が登場するので、おそらくこの時点で鎌倉方の武士の一人であったと推測できる。つまり、鎌倉方の武士の所業を鎌倉方のトップである源頼朝に訴え出て、源頼朝が訴えに応じた判決を下したわけである。

 軍事力を見せつけるというのは一見すると物騒に感じるが、人が軍事力に何を求めているかを考えると合理的な行動となる。

 治安だ。

 少なくとも安心して暮らせる日々を過ごせる。これが軍事力に対する期待を突き詰めていった結果だ。平家の軍勢が暴れ回り、木曾義仲の軍勢が暴れ回り、そして源義経の軍勢が暴れ回ってきた。そうした悪夢の日々がようやく終わった。これでようやく地獄が終わったと考えた人たちに対し、もう地獄を体験しなくていいと安心させるのは、強力な法ではなく、剥き出しの軍事力である。強力な法を用意しても遵法意識を欠いた犯罪者には効果を持たないが、犯罪者が犯罪を思い留まらせるだけの軍事力が示されればそれだけで犯罪者は黙り込み、治安は劇的に向上する。その軍事力の一翼を担っている人たちが犯罪者になる可能性はあるが、そんな可能性があっても、複数の勢力が争い続けているのに比べればはるかにマシだ。

 治安維持ならば軍事力ではなく警察力ではないか、あるいは司法ではないかと考える人もいるであろうが、現代社会ならばその考えは通用してもこの時代の日本人にその考えは通用しない。いや、制度的には明治維新、心情的には現在に至るまで、日本という国は司法と検察と警察と軍事が国家権力として密接につながっている国だ。学校では三権分立の一つとして権力としての司法を習うが、感情的には警察に捕まったら刑務所に入れられるという概念を捨てきれないでいるのが日本社会というものである。検察に引き渡され、弁護士が被告人の側で弁護をし、その上で裁判において裁かれて有罪になるかどうか決まるというプロセスは、学校教育で習うものの実生活において実感することはそうはない。裏を返せば、犯罪を取り締まる人がいるならばそれで犯罪者は駆逐されると考えるということでもある。元暦二(一一八五)年四月時点において犯罪者を取り締まることのできる能力を持っているのは鎌倉の源頼朝だけだ。それが戦いに勝った者に向けられる視線であり、応えなければならない期待である。源頼朝に軍事力を見せつけないという選択肢はありえない。

 配下の武士の一人の所業を裁いたのは、源頼朝の持つ軍事力、言い方を変えれば治安維持能力を内外に示す絶好の機会でもあった。


 元暦二(一一八五)年三月二四日の壇ノ浦の戦いの結末が鎌倉に届いたのが四月一一日であり、その三日後の四月一四日に朝廷からの使者が関東に到着した。第一報からは三日のタイムラグがあるが、朝廷で検討した時間を考えなければならない上、そもそも四月一一日に壇ノ浦の戦いの結果が鎌倉へと届いたというのが早すぎる話であり、四月一四日に朝廷からの使者が到着したというのは、どんなにせっかちな人でも順当、通常の感覚の人ならかなり早い連絡である。

 また、第一報を届けたのは書状を送り届けるだけの飛脚であったのに対し、四月一四日に到着したのは大蔵卿高階泰経である。かなり高い地位の官職を有する朝廷からの正式な使者が鎌倉に到着したことから、単に情報を伝えるだけの使者ではなく、朝廷と鎌倉との連携を図るための使者が派遣されたことが読み取れる。なお、朝廷からの使者となってはいるが正確には後白河法皇から派遣された使者であり、名目は院宣を源頼朝に伝える使者ということになっている。

 同日、九州の戦場から波多野経家が鎌倉に帰還し、戦場の様子と、戦場から鎌倉に至る道中の様子が源頼朝に伝えられた。

 高階泰経が源頼朝に伝えた詳細についても、波多野経家が源頼朝に伝えた詳細についても、双方とも史料に残っていない。しかし、どのような内容を伝えたのかは四月一五日に判明する。双方が類似した内容を伝えていたことが四月一五日の記録から推察できるのである。

 元暦二(一一八五)年四月一五日、源頼朝が一つの指令を出した。源頼朝の許可を受けずに朝廷から任官された二四名の御家人に対し、墨俣川の東に渡ることを禁止したのである。墨俣川を西から東に渡ったならば所領の保有権を没収するだけでなく斬罪にするというのだから穏やかではない。現在の中京地区に住む人にとって、墨俣川、現在の河川名称で言う長良川を渡ることは通勤や通学で当たり前に見られる日常の光景であるが、この時代の墨俣川は尾張国と美濃国の間を流れる河川であると同時に東海道と東山道の境でもあり、さらには元暦二(一一八五)年四月一五日時点の源頼朝の勢力圏の内と外との境界という、心理的に武士の動きを制限させることのできる川であった。何しろ、墨俣川を渡ることが源頼朝の勢力下に入ることを意味し、源頼朝のこのときの通達は、二四名の武士に対して鎌倉方から追放することを意味したのである。

 それだけであれば冷酷な判断と評せられるが、このときの源頼朝の通達は、お世辞にも冷酷とは言えない子供染みたものであった。もっとも、冷酷極まりない文面であったならば源頼朝の怒りがそのまま文章となって表れた文面となったであろうが、冷酷さの片鱗も無い子供染みたものであるために怒りの度合いを消してくれているとも言える。

 以下は吾妻鏡の伝える源頼朝の通達の内容である。

 兵衛尉義廉については、「木曾義仲の方がいいと言って父親をはじめとする一族揃って木曾義仲に加勢しようとしただけじゃなく、源頼朝に仕えたままでは落人(おちうど)となって処罰されるだろうなどと言っていた、とんでもない悪兵衛尉だ」。なお、兵衛尉義廉の名は吾妻鏡のこの箇所に登場するのみで、具体的な姓名や鎌倉方としての功績については全く不明である。

 佐藤兵衛尉忠信については、「奥州藤原氏の藤原秀衡の家来のくせに官位を拝領するなんてとんでもない。最後っ屁の鼬(いたち)以下だ」。佐藤忠信は源義経とともに奥州藤原氏のもとから源頼朝の元に参じた武士である。

 師岡兵衛尉重経については、「石橋山の戦いで勘当としていたのを許してやり、結果を出してきたことだからそろそろ領地を返してやろうかと思っていたところなのに、こうなっては領地を返すなんてできない」。師岡重経の名は源頼家の生誕時に大庭景能と多々良貞義とともに鳴弦(めいげん)の役を果たした武士として登場するが、その他の詳伝は不明である。

 渋谷馬允重助については、「地元にずっと残っていた父と違って、最初は平家と行動を共にし、そのあとは木曾義仲に従い、源義経が京都に入るとなったら源義経に鞍替えした。それでも戦場で結果を出したから許してやろうかと思っていたが、勝手に任官となっては首を切り落とすしかない。せいぜい腕利きの鍛冶に頼んで首に厚い金具でも巻いておけ」。渋谷重助は渋谷重国の息子で、もともとは父とともに石橋山の戦いで平家方として源頼朝に対峙した武士であったが、源頼朝の関東制圧の過程で父の渋谷重国が源頼朝に臣従するようになったのに対し、渋谷重助はその後も平家方でありつづけた後、平家を裏切って木曾義仲に臣従し、木曾義仲の京都離脱後に源義経の元に降った。源頼朝は渋谷重助がよほど腹に据えかねたのか、通達の中でもっとも激しい罵倒を加えているのがこの渋谷重助である。

 小河馬允については、「ようやく勘当を許してやって、こちらとしても仕方ないやつだと思っていたら、身分に合ってない任官の報せ。任官したところで意味があるのか」。なお、小河馬允についての詳伝は無い。

 後藤新兵衛尉基清については、「目はネズミの目で、おとなしく仕えるしかないのに勝手に任官なんてとんでもない」。後藤基清は俵藤太こと藤原秀郷の子孫であり、パッとしない血筋であるとは言え藤原北家の一員でもあるため他の武士より一目置かれている。なお、歌人としても有名な西行こと佐藤義清の甥でもある。

 波多野右馬允有経については、「小者だが、木曽義仲を倒したので仕方なく許してあげたというのに、おとなしく従っていればいいのに、五位の馬允の任命を受けるなんて前代未聞だ」。なお、波多野有経という名の武士についての詳伝はさほど無い。同じ「ありつね」である波多野有常ならば、治承四(一一八〇)年の源頼朝の挙兵時に大庭景親らとともに平家方に立ち石橋山の戦いでの勝者となりながら、二ヶ月も経たずに富士川の戦いの前に勢いを盛り返してきた源頼朝の軍勢に圧倒されて自ら死を選んだ波多野義常の嫡男として記録に残っている。

 梶原刑部烝朝景については、「声は嗄(しわが)れて髪は薄く、ようやく髷を結ってるなんて外見。とてもじゃないが刑部の姿じゃない」。梶原朝景は梶原景時の弟である。

 梶原兵衛尉景貞については、「合戦で奮闘したから素晴らしいと思っていたのに、勝手な任官なんてとんでもないことをしでかしてくれたものだ」。梶原景貞は梶原朝景の息子、すなわち、梶原景時の甥である。

 梶原兵衛尉景高については、「見るからに悪人顔で前からおかしな奴と思ってた。それが任官など見苦しい」。梶原景高は梶原景時の次男で、長男の梶原景季が華々しい武功を挙げ続け梶原景時の後継者と目されていたのに対し、梶原景高は一ノ谷の戦いなどで兄と同じほどの戦功を残してはいたものの、周囲からの評価は賢兄愚弟という見られ方であった。

 中村馬允時経については、「大嘘つきで、似つかわしくない官職好みで、揖斐庄の由来も知らず、せいぜい水駅(みずうまや)(現在の感覚で言うと安酒場)程度で、悪い馬を育てるのが精一杯じゃないか」。中村時経は一般に武蔵七党と称される武蔵国を中心に周辺各国に勢力を伸ばしていた同族武士団の位置の一つの、現在の埼玉県秩父から飯能にかけての地域を本拠地としていた丹党の一員であったことは判明している。また、源範頼とともに一ノ谷の戦いにおける大手軍の一員として中村時経の名が残っている。

 兵衛尉季綱については、「勘当を多少は許してあげたというのに、無意味な任官だ」。なお、吾妻鏡には「兵衛尉季綱」とだけ記されている彼の名は海老名季綱であるとの説もあるが断定できない。確認できる限りにおいて、海老名家の家系図に季綱の名が記されていないのである。

 本間右馬允能忠については、ただ一言「同じ」とだけ。言いたいことは海老名季綱と同じということである。なお、吾妻鏡には「能忠」と記されているが、この人の名の正式な表記は「義忠」である。あるいは、この後も鎌倉方の武士の一人として活躍した本間義忠ではなく、同じ読みで漢字表記の異なる本間能忠かもしれない。

 豊田兵衛尉義幹については、「色白で、顔はだらしなく、おとなしく仕えていればいいのに、勝手な任官なんてとんでもない。だいたい、父親も下総国で何度も呼びつけたのに参上せず、参上したのは関東を平定してから。親子揃って不覚物だ」。豊田義幹は常陸国豊田、現在の茨城県常総市を本拠地とする武士であり、この後も鎌倉方の武士として行動したことが記録に残っている。

 兵衛尉政綱、この人については源頼朝は何も記していない。なお、後の出雲目代として兵衛尉政綱の名が残っており同一人物であると推測されるが、苗字をはじめとするその他の詳伝は不明である。

 兵衛尉忠綱については、「もとの領地を少し返してあげるのに、勝手に任官するなどとんでもない。領地を戻すのはもうやめた。愚か者めが」。前段の兵衛尉政綱と同様に苗字が不明である。この後の鎌倉方の武士として確認できる忠綱という名の武士として波多野忠綱と岡邊忠綱の二名の存在が確認できるが、この両名のどちらのことかは不明。あるいは両名のどちらでもない第三の武士である可能性もある。

 平子馬允有長、この人についても源頼朝は何も記していない。平子有長は現在の横浜市磯子区にあたる地域の武士で、この後も鎌倉方の武士として登場する。

 平山右衛門尉季重については、「ふわふわした顔面で、とんでもない勝手な任官だ」。平山季重は現在の東京都八王子市にあたる地域の武士であり、平子有長と同様に今後も鎌倉方の武士として登場する。

 梶原源太左衛門尉景季、この人についても源頼朝は何も記していない。ただし、梶原景高の箇所にも記したがこの人は梶原景時の長男にして後継者であり、このときの二四名の中で群を抜いて功績を残している人物である。源頼朝の側としては、何も記していないのではなく記せなかったのではないかと推測される。

 縫殿助山内首藤重俊、この人についても源頼朝は何も記していない。山内首藤経俊の子であり、父は波多野義常とともに源頼朝の挙兵時に平家側に立った人物であるが、波多野義常と違って源頼朝に降伏し、以後は鎌倉方の武士の一員となっている。

 宮内丞舒国については、「大井の渡しに来た時には声を出すのも臆病だったくせに、それが任官だなんて見苦しい」。この人も苗字不詳の一人である。大井の渡しとは太井川のことで、太井川に来たとなると上総介広常の率いる軍勢の一人としてやってきた武士の一人であったろう。

 刑部丞山内首藤瀧口三郎経俊については、「官職好みなのに、その使い道なんか無いだろうに、無益なことを」。山内首藤重俊のところで述べたが、この人は源平合戦スタート時に平家方に立ちながら自ら敗北を悟って降伏した後に鎌倉方に臣従した人物である。

 人物の羅列はここでいったん終わり、「この他の面々も何人か任官したのがいるが、文官や武官の何の官職を受けたか知る必要も無いので詳しく書き出さない。書き出さないが、永遠に京都からもとの領地に帰れないものと考えろ」、と締めている。

 そして、人物の羅列を終えたとしながら源頼朝はその後で、八田右衛門尉知家と小山兵衛尉朝政について、「九州へ下ったときに京都で官職を任官するなんて、鈍間な馬が道草を食っているのと同じだ。前の連中と同様に関東へ帰ってくることを許さない」としている。

 吾妻鏡の内容を現代語に訳して書き写したのだが、何と言うか、一言でまとめると、下品。それが当時の感性なのだとどんなに脳内で納得させようとしても、読む側だけなく現代語に訳して書いている側にしてもどうしても受け付けられないレベルでの品の無い文章だ。鎌倉方の一員となるまでの過去についてとやかく言うならまだしも、生まれとか、育ちとか、さらには外見とかで相手を貶しているのを読むのは苦痛でしかない。ましてや当事者が読むとなったら、そのときの情景を言葉にすることすらできない。

 ただ、ここでもう一歩先を考えると、名指しされた面々には諦念を伴う覚悟が読み取れる。


 多くは武士はこれまで、何らかの形で官職を持つ人と接してきた。本人が官職を持つのではなく、官職を持つ人の家臣として仕える人生を過ごしてきた武士がかなり多いのである。何らかの功績を残して朝廷から官職を与えられるというのは、夢見たことはあっても現実とするのは一部の武士しか手にできない話であった。

 今までは。

 そんな人生を過ごしてきて、そんな人生がこれからも続くと思っていたところあったのに、予期せぬところでいきなり平家討伐の功績として官職が付与されたのである。これで武士達は舞い上がったとするしかない。

 舞い上がってしまったために官職を受け入れてしまい、源頼朝の叱責を買ってしまった。

 叱責を買ったことで武士達は諦念と覚悟を突きつけられた。

 もはや源頼朝に従うしか選択肢がないのだということを。

 彼らの多くは、源頼朝という人が、軍勢を率いるのも下手ならば、一人の武士として戦うことも下手であることを知っている。しかし、源頼朝に逆らったらどのような運命を迎えるかも、これもまた、嫌と言うほど知っている。源頼朝は武人としては三流でも政治家としては超一流だ。そして、官職とは武人の世界ではなく政治の世界、すなわち源頼朝にとっての主戦場なのである。その主戦場に素人が乗り込んでいって勝てる見込みなど、無い。

 性格だの、出生だの、外見だのというのは、本人の努力でどうこうなるものではない。否定もできないし、書き換えることもできない。その上で、源頼朝は当事者にはどうしようもない点を挙げて非難しているのだから、非難されている側の選ぶことのできる方法は挽回だけである。しかも、挽回というのはマイナス要素を打ち消すことではなく、マイナス要素を超える分量のプラス要素を積み上げるということだ。どれだけ評価できる要素を積み上げてもそれまでのマイナスが消えるわけではなく、何らかの失態をすると消えないでいたマイナス要素がさらに加算されてしまう。


 源平合戦として源氏と平家が争い、源氏内部でも木曾方と鎌倉方とで争っている状況であったら、源頼朝と袂を分かって木曾方に、あるいは平家方に身を寄せるという選択肢も選べたが、今や源頼朝は唯一無二の勝利者であり、武士としてこれから生きていくならば源頼朝に従う以外の選択肢が消滅している。しかも、この日の書状で名が挙がった面々はその多くが一度は源頼朝に刃向かいながらも源頼朝に許されてここまで来られた武士達である。ここでさらに源頼朝の意向を無視して勝手に朝廷の官職に就任する道を選んだならば、それは一度目の赦しを放棄して裏切ることも意味してしまい、身の破滅へとつながってしまうのだ。

 官職を保持し続けるために、仮に源頼朝のもとを離れて鎌倉方の勢力から独立した小規模の武士団となるという道を選んだとしても、そこにメリットはない。天下を手にした集団の一員であるという身分から離れ、天下から見放された小規模な武士団へ移るというのは、いかに鶏口牛後と胸を張ろうと世間からの評判は転身ではなく転落であり、さらに言えば自己の存在が保証できなくなることすら意味する。源氏はたしかに平家を倒した。だが、平家討伐は源氏のゴールではないことは誰もが知っている。平家は強大な相手であり、もっとも厄介な存在であったのは事実であるが、平家だけが源氏の敵ではない。日本国再建を考えている源頼朝が自己に逆らう存在を放置しておくとはありえず、どんなに取るに足らない小さな勢力であろうと鎌倉方に逆らう存在は撃破される、それも各個撃破される運命が待っている。鎌倉方から離脱しようものなら、待っているのは独立ではなく身の破滅だ。

 たとえば北条時政がそうであったように大番役として京都に出向いた経験がある武士は珍しくないし、梶原景時のように京都の貴族達と互角に渡り合えるだけの文人としての才能を有している武士だっている。彼らのこれまでの功績を考えるならば平家討伐の功績で官職を得たとしてもおかしくない。しかし、鎌倉方の一員であり続けるならば朝廷の組織に組み込まれることは許されないと理解していたし、実際に朝廷に組み込まれることはなかった。

 なぜか?

 源頼朝のもとを離れて一人の官人として朝廷に仕えることは、鎌倉方と離れた独自の軍事組織を構築できてしまうことを意味する。鎌倉方の一員であり続け、源頼朝の認可を得た上で官職を得て鎌倉方を強化するのに貢献するのは構わない。だが、源頼朝の元から離れて自己の栄達のために官職に就くのは、独自の軍事勢力を生みだしてしまうこと、すなわち、せっかく手にした平和を破壊する筋道を作りだしてしまうのだ。

 それではいったい何のために平家を滅亡させるまで戦い続けたのか。そんなもの源頼朝が許すはずがないし、鎌倉方の他の武士も許すはずがない。

 この書状を見て恐れ戦いた武士は多く、源頼朝自身が推挙をして三河守の地位を獲得したはずの源範頼が三河守の地位を辞任するという騒動も巻き起こした。

 しかし、ここで何の動揺も見せずにいた、あるいは、動揺は見せたかも知れないがその様子を後世に残すことの無かった鎌倉方の武士が一人いた。そもそも源頼朝からの書状に名を記されていなかった上に、源頼朝の許しのもとで公的な地位を得ていたのだから恐れ戦く必要が無かったと言えばそれまでであるが、同じような境遇である源範頼が官職を返上したのに比べれば、その武士の示した姿は源範頼とあまりにも大きな差異がある。

 その武士の名を源義経という。


 元暦二(一一八五)年四月二一日、梶原景時からの書状が鎌倉に届いた。書状の前半部は、吉夢を見たとか、平家方が鎌倉方の軍勢を過大評価して怖じ気づいたとか、めでたい亀が現れたとか、白い鳩が降り立ったとか、源氏の白旗が大空に現れてなびいたとかの慶事が続いたことが記され、理論上は戦場にいなかった源頼朝の功績を天が称えたので源氏が勝利したことを謳っている手紙であるものの、虚飾に満ちたその内容は、言ってはなんだが北朝鮮の独裁者を褒め称えるために生み出される捏造と言っても通用してしまう内容で、書状を受け取った側としても喜ぶどころか苦痛に感じる内容である。

 しかし、梶原景時の書状の主目的はそこではない。壇ノ浦の戦いに至るまでの源義経の所業を訴える内容なのである。源義経は源平合戦での勝利の功績は自分一人にあると主張していることについて苦言を呈しているだけでなく、多くの武士が源義経から離反しつつあることが伝えられたのである。源氏軍の総大将である源範頼については、源範頼が多くの武士の意見を受け入れるだけでなく武士達もまた源範頼を総大将として従っていると記している一方、源義経については、独断専行の傾向が強く、源義経が他の武士の意見を聞き入れないばかりか全体の作戦を無視するスタンドプレーに走っており、これまではどうにか結果を出してはいるが、このままでは破綻してしまうというのが梶原景時の伝えるところであった。

 このときの鎌倉方において、侍所の長官である別当は和田義盛、副長官である所司は梶原景時である。侍(さむらい)とは本来であれば貴人の周囲に仕える人のことであって武士に限定した単語ではない。少なくとも藤原忠実の時代には侍所は政所とともに藤原摂関家のもとに属する組織として確認できている。侍所は本来であれば貴族に仕える面々の人事を扱う役所のことであったし、鎌倉方においても貴族の一員である源頼朝に仕える面々の人事を掌握している部署となっていた。だが、源頼朝はただの貴族ではないし、仕える面々もただの人ではない。源頼朝自身をはじめとする彼らの多くが武士であり、侍所という組織そのものが、戦場における鎌倉方の軍事的人員管理を司る部署となる。つまり、侍と武士とが鎌倉方においては完全に同じとまではいかなくとも近似値となるのだ。そして、和田義盛と梶原景時の二人は軍勢指揮の実務を担当し、戦場における人員配置を司っている。軍勢の総指揮は源範頼であるが、実務のトップは和田義盛と梶原景時の二人が務めていた。

 和田義盛は梶原景時のような苦言を呈してはいない。それは、和田義盛の方が度量が広いからではなく、和田義盛が源範頼の率いる鎌倉方の大手軍を、梶原景時が源義経の率いる搦手軍を担当したからである。和田義盛が侍所のトップであり、梶原景時が二番手であることを考えると、侍所の実務を戦場で展開する上では最適な配備であったろう。だが、人間関係で言えば源義経と梶原景時との関係は最悪だった。

 大手軍は人員が多いことから和田義盛のサポート役として千葉常胤も帯同しており、源範頼はこの二人をはじめとする多くの武士達と常に相談して独断専行することなく行動した。多くの武士達が源範頼に従ったのも、源範頼が武氏達の意見に耳を傾けた上で一緒に戦う武士達に行動を示したからである。このあたりは源範頼と武士達との間に類似性、すなわち、育った場所の違いこそあれ、それまでの人生で過ごしてきた環境が似たような環境であったことからくる共通体験もあったろう。一方、源義経は違った。この人は鞍馬寺で五年間、平泉で六年間に亘って学問を修めてきた人である。武士としての活躍は目を見張るものがあるが、源義経という人は文武両道、それも、武よりも文に重心を置いてきた人であり、本質的に武士としての流儀の生活様式も身についていない。だからこそマナー違反の戦術を繰り出して平然としていられたと言えばそれまでであるが、マナー違反を繰り返してきたからこそ眉を顰める武士も多かったのだ。

 また、これは学識の高さを誇る人によくあることであるが、源義経は他者の意見を聞き入れることなく自分の考えは正しいと信じきってしまい、自らの考えだけで行動してしまうところがあった。他者から意見を聞いたとしても同じ土俵の上の人であると認識することなく、意見を聞くフリはするものの、自分より学識の劣った者の放つ無意味な騒音としか認識しないのが源義経である。おまけに源義経の行動に対する法的根拠には源義経が左衛門少尉兼検非違使少尉であるという点も存在する。源義経は源頼朝の指令に基づいて壇ノ浦まで来たのではない。あくまでも衛門府の武官の職掌、そして、検非違使の職掌である治安維持活動の一環として、壇ノ浦まで犯罪者たる平家を追いかけてきたのである。こうした法的根拠を持ち出されると、いかに源義経に反感を持っていようと黙り込むしかなくなる。

 しかし、そんな源義経であろうと、鎌倉方の軍勢の中に自分と同等の学識を持っていると納得しなければならない人物がいる。それが梶原景時だ。梶原景時もまた、京都の貴族達と対等に渡り合えるだけの学識を持った人であり、学識を数値で測るとするなら源義経よりも梶原景時の方が高い数値を叩き出すであろう。そして、梶原景時もまた、自身の学識の高さを自負する人であり、梶原景時にしてみれば源義経の考えの誤りを正す必要があると結論づけるしかない。勝つためとは言え、行軍の途中で船を操る人がいないとなれば通りすがりの村々から人を拉致して水夫として無理やり船を操縦させた。また、船上の戦いでは武装していない水夫は攻撃してはならないという不文律を破って平家軍の船を操る水夫を弓矢で射って平然とした。おまけに、戦闘が終われば水夫として拉致した人はそのまま放置して故郷に戻すこともしないでいた。これらは全てマナー違反どころの話では済まず、ただただ敵を作り出すだけである。さらに、検非違使としての職掌であるならばそもそも京都を離れることは許されず、壇ノ浦まで犯罪者たる平家を追いかけてきたのは検非違使として行使することのできる権限を逸脱しており、これまで許容されてきたのは非常事態ゆえの黙認であって是認ではないのだ。左衛門少尉兼検非違使少尉であるために、検非違使としての職掌の限界に接したならば衛門府の職掌を乗り出せるが、それとて厳密に言えばボーダーラインなのである。梶原景時はこのように源義経の所業に対して苦言を呈したのであるが、源義経は梶原景時の苦言を無視した。源義経にしてみれば、拉致にしろ、水夫への攻撃にしろ、それらは全て戦勝のための行動である以上、何の問題もないと考えていたのである。それどころか、拉致であるとすら認識してもおらず、平家軍の水夫への攻撃とも認識しておらず、拉致してきたのではなく源氏の船を操るために協力してくれた人達であり、水夫への攻撃ではなく敵兵への攻撃であったのだ。その上、拉致した人達を故郷に戻すことについても自発的な協力なのだから自分で勝手に故郷に帰ればいいとして放置し、攻撃を受けた水夫についても戦場に散った敵兵だとして放置した。仮にそこに問題があろうと、源義経はあくまで検非違使としての職掌を遂行したに過ぎないのである。

 こうした源義経の暴挙を食い止める方法はただ一つ、鎌倉方のトップである源頼朝に命令を出してもらうしかなかったのだ。これは梶原景時一人の意見ではなく、壇ノ浦の戦いに至るまで鎌倉方の一員として戦ってきた多くの武士達にとっての共通認識であった。

 この共通認識を、源義経は最後まで、いや、最期まで理解することはなかった。



 元暦二(一一八五)年四月二五日、この日の京都は朝から熱狂に巻き込まれていた。源義経が京都に凱旋してくるというのだ。ただし、熱狂していたのは京都に住む多くの人であって全員ではない。本来であれば、京都に住む誰もが熱狂して源義経を迎え入れたであろうが、熱狂できないことを悟った人も複数名存在した。

 源義経の京都凱旋は四月二五日のことであるが、源義経は四月二五日にいきなり京都に姿を見せたわけではない。前日である四月二四日に摂津国今津、現在の兵庫県西宮市の今津駅のあたりに到着している。今津で頭中将藤原通資が源義経を迎え入れたところで、一月八日からおよそ三ヶ月半に渡って続いてきた源義経の軍事作戦行動が完了し、源義経の京都帰還が始まった。と同時に、安徳帝が海に没したことと天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が失われたことが判明した。ただちに京都に早馬が送られ、平安京の庶民には源義経が帰洛したことだけが、朝廷の貴族達には安徳帝の崩御と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の喪失とが伝えられた。庶民達からは熱狂、貴族達からは苦悶が生まれた。

 既に述べたように壇ノ浦の戦いを終えた後の源義経から届いていたのは平家を討ち破ったという大雑把な知らせであり、壇ノ浦の戦いの詳細については京都に伝わっていなかった。意図的ではなかったにせよ隠匿されていたことがここで判明したのだ。源義経にしてみれば、第一報を伝えはしたが第二報はまだであったという理屈になるであろうが、貴族達はそのようには考えない。第一報の中身が正確でなかった上に第二報も届けていないのであるから大問題だ。第一報の段階で詳細が伝わっていないことについて九条兼実は疑念を感じ苦言を呈していたが、その疑念は当たってしまったのである。たしかに源義経は勝者として京都に凱旋してきたが、任務の全てを全うしたわけではない。源義経はたしかに「神器」を取り戻した。しかし、「三種の神器の全て」を取り戻したわけではなかったのだ。平家の手から取り戻すことに成功したのは八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の二つであり、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は失われてしまったのである。

 さらに問題となったのが、安徳天皇が海に没したという知らせであった。これにより後鳥羽天皇の皇位継承問題は永遠にこじれ続けることが決まった。たとえ先帝の死去に伴う皇位継承であったとしても、推古天皇以降のこれまでの皇位継承は全て禅譲、すなわち、先帝から正式に皇位を継承した即位であるということになっていた。だが、後鳥羽天皇はそうではない。先帝と帝位にある期間が重複している上に、皇位継承のレガリアたる三種の神器の無いまま即位するという、推古天皇まで遡らなければ先例が見つからない禅譲なき皇位継承を余儀なくされたのである。しかも、前例となる推古天皇にしても崇峻天皇が暗殺されたという前代未聞の事件の結果による禅譲なき即位であり、安徳天皇の不在、すなわち先帝存命中に即位するのは皇位継承の正統性(レジティマシー)にかかわる話なのだ。何しろ、平家に言わせれば安徳帝のほうが正式な天皇であり、京都で皇位に就いたと称する後鳥羽天皇は皇位簒奪者であるという理屈が成立してしまうのである。

 それでも安徳帝から正当な手続きによって皇位を継承したなら、二年間の帝位重複期間があるにせよ、正統性(レジティマシー)の問題は全て解決する、はずであった。


 その想定が完全に壊れた。後鳥羽天皇は永遠に正当な皇位継承を経ずに帝位に就いた天皇となることが決まってしまったのだ。せめてもの救いは平家が滅亡したことであるが、それとて平家が完全にこの世から殲滅したわけではない。平治の乱で壊滅状態となった源氏が四半世紀を経て時代の勝者となったのと同じように、長い年月を経て平家が復活することだってありうる。そのときに後鳥羽天皇の皇位継承の正統性(レジティマシー)を指摘される可能性だってある。

 早馬によって伝えられた壇ノ浦の戦いでの詳細結果報告を受けて、四月二四日の夜にただちに、議政官の貴族の中からは権中納言吉田経房と参議藤原泰通が、まだ議政官入りはしていない貴族の中からは権右中弁源兼忠、左近衛中将滋野井公時、右近衛少将滋野井範能、蔵人左衛門権佐藤原親雅といった面々が源義経を桂川付近で出迎えた。ここでいったん待機して、翌日に京都に凱旋することが決まった。

 そして迎えた元暦二(一一八五)年四月二五日、源義経を出迎えた貴族達の先導により、源義経の率いる軍勢が朱雀大路を南から北へ向かい、六条大路で東に曲がり、大宮大路を北に曲がって待賢門へと向かって大内裏へと入り、太政官の朝所へと到着した。朝所(あいたんどころ)というのは太政官正庁の北東隅にあった殿舎の名で、参議以上の者が会食をする場所であると同時に、政務にも用いられる場所であった。位階を考えればこの場に源義経が入るというのは本来であれば許されざることであったが、さすがに戦勝報告時にそのような原理原則を突きつける者はいない。それに、源義経は検非違使左衛門少尉であり、平家討伐として西国に赴いたのも検非違使として犯罪者たる平家を討伐するという職務遂行である。職務遂行結果を報告するのは官人としての義務であり、このときはスケールが通常より大きなものであるのは事実であっても、行動自体は検非違使としての通例通りである。それに、三種の神器の一つを失い、安徳帝を死に至らしめてしまったことはたしかに痛事であるものの、源義経がいなければこの戦いを終わらせることは絶対にできなかったのも事実であり、ここで源義経を迎え入れないという選択肢は無かったのだ。

 なお、朝廷は源義経を歓待すると同時に、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をただちに回収するよう指令を出している。

 朱雀大路から大内裏に向かうまでの間、源義経は武装をして馬上のままであり続けている。名目上は戦いの勝利者が朝廷に戦勝を報告するために平安京内を進んだだけであるが、その道中は多くの庶民が道の両端に連なり大盛況となっていた。


 この大盛況に輪を掛けたのが、敗者の姿であった。ただし、敗者の帰洛は源義経が受けたような栄誉に満ちたものではなく、日を改めた上で展開された見せしめでもあった。

 元暦二(一一八五)年四月二六日、前日の源義経とはあまりにも大きな落差のある光景が展開された。平宗盛とその息子の平清宗、さらには平時忠といった平家の捕虜達が見世物として京都の街中を引き回されたのである。

 通常、戦勝の凱旋というのは、勝者が軍装を整えて街中を行進すると同時に、敗者が見世物となって引き回される。しかし、四月二五日の源義経はそれをしていない。源義経らが京都のもっとも賑わいのあるルートを通って大内裏へと向かったが、その行列の中に捕虜となった平家の面々はいなかったのだ。

 これは京都市民を困惑させた。

 平家を討ち破ったはずなのに、行列の中にその平家の面々がいないのだ。

 その理由が一日置いて判明した。

 平家の面々は翌日になって京都市中を引き回されたのである。

 源義経はなぜ、このような行動を選んだのか?

 四月二五日は、実質上はともかく、理論上は朝廷からの命令による平家討伐の完了報告のための行列であり、行列に加わることが許されるのは大内裏に入ることのできる貴族と役人、そして、朝廷からの命令に従った武士達であり、この行列の中に平家の面々を加えないというのは、平家の面々は大内裏から追放となった、すなわち、もはや貴族でも何でもないただの罪人になったのだと内外に示す効果があったのだ。

 その上で、四月二六日に京都市中を引き回された平家の面々が向かった先は、大内裏ではなく京都にある源義経の私邸である。実際は前日と同じ凱旋でも、この日は戦いに勝利した者が捕虜を個人的に連行したという名目だったのだ。捕虜となった平家の面々のプライドはボロボロである。

 源義経はここでさらに、ボロボロになった平家の面々のプライドをさらにズタズタにさせる方法を選んだ。

 貴族が平安京の街中を行くときは、通常であれば周囲を警護の武士が固めた牛車に乗る。その際、街道を取り巻く庶民の目に貴族の姿が映ることはない。牛車の簾(すだれ)が下ろされているからで、現在の感覚で捉えると乗用車のガラスにスモークが入っていて中に誰が乗っているのかはわからないが、ボディーガードが帯同している上に、クルマそのものが見るからに高級な乗用車であるため、中に誰が乗っているかはわからないが間違いなく有力者が乗っていることが誰の目にもわかる乗用車というところか。ところが、このときの平家の捕虜達はたしかに車に乗せられたものの、簾(すだれ)が全開になっていて外から丸見えである。理論上は貴族の移動であるものの、事実上は罪人の連行の姿であると周囲に示されたのだ。おまけに、牛車の周囲を警護する武士も平家に仕えてきた武士ではなく土肥実平や伊勢義盛といった鎌倉方の武士達である。理論上は牛車の警護だが、実際には罪人の連行だ。

 平宗盛もこれは理解しており、このときの平宗盛は浄衣を着ていたとされている。浄衣(じょうえ)とは神事のときに着る真っ白な狩衣であり、平宗盛なりの覚悟の格好であった。

 何の覚悟か?

 殺される覚悟である。

 切腹時の白装束という儀礼はこの時代にはまだ存在しない。しかし、概念ならばある。神と向かい合うための装束であると同時に、死後の世界に向かうための装束である。

 これが、天下を掌握してこの国の実権を手に入れた平家の末路であった。


 平宗盛や平時忠が京都市民の見せ物となって市中引き回しとなっている間、壇ノ浦の戦いにおいて鎌倉方によって救出された一人の女性に対する処遇が決まった。

 元暦二(一一八五)年四月二六日、建礼門院平徳子に対する女院待遇の停止が定められたのである。

 本来ならば院号を得ることが許されるのは上皇のみであり、上皇のみが退位後の経済基盤である院を保持することが許されていたが、時代とともに皇太后や太皇太后にも院の保持が認められ経済基盤を有することが可能となり、さらに院号を保持することが認められる女性が増えていった。ただし、いくら増えたと言っても限界があり、皇妃、天皇の生母、内親王のいずれかに該当する女性でなければ院号を保持することが許されない。そして、院号を獲得すれば皇族でありながら私的な資産を構築することが許される。

 院号保持という点で平徳子は微妙な立ち位置であった。高倉天皇に嫁いで安徳天皇を産んだのだから院号を保持すること自体は問題ない。問題ないのだが、彼女は平家の人間なのだ。平家は国家の敵と断罪された集団であり、院号を保持して国から特権を維持し続けるのは果たして許されるのか。

 かといって、平家が国家の敵となり、源氏が平家を滅ぼすに至った法的根拠は平家追討の宣旨である。ただし、その宣旨がターゲットとしているのは平家の貴族や武士であり、平徳子を含めるべきか否かとなると、否となる。平清盛の娘であるのは事実であるが、平徳子は高倉天皇に嫁いで皇室に入り、安徳帝を生んだ国母であるとなると、彼女を平家の一員とカウントすることは断じて許されない話ともなる。

 そんな平徳子に対する処遇をどのようにすべきか朝廷内でも問題となったようで、九条兼実は四月二一日のこととして「武士でないのだから武士としての処罰を科すことはできず、そもそも皇妃の罪科そのものが先例のないことなのだから、どこかで隠遁生活をしてくれないものだろうか」と日記に書き記している。

 朝廷内で議論が繰り広げられたのであろう、平徳子に与えられていた建礼門院の院号に基づいて与えられる女院待遇の停止が決まったのである。ただし、朝廷が待遇の停止を宣言したのではない。慣例として、院号を得ている者が出家したなら院号自体が停止となる。院号停止と同時に皇籍から離れて資産形成手段を失うものの、僧籍に入ったならば一人の僧侶として寺院経由で資産を形成することは可能だ。そうすれば、少なくともその日の暮らしに困るようなことは無くなる。天皇の実母がその日の暮らしにも困る日々を過ごさねばならないというのは憐憫とかの話ではなく国の名誉にもかかわる話であり、何とかして平徳子に出家してもらえないだろうかと工作するようになったのだ。

 では、平徳子自身はどう考えていたのか。

 結論から言うと、出家以外に方法はないと覚悟していた。

 平徳子自身は自分が戦闘における敗者であることを自覚していた。

 我が子が祖母に抱かれて壇ノ浦の海中に沈んだ。

 自分も海中に飛び込んだが助け出された。それもよりによって敵である源氏の手によって。

 叔父も兄も弟も源氏との戦闘の中で命を落とし、そして囚われの身となって京都市中の晒し者となっている。

 天皇は我が子であり京都の後鳥羽天皇は皇位簒奪者なのだという自負も、理解はされても同意はされない敗者の戯言になった。

 せめて兄の平宗盛のように晒し者になったならまだ救いはあったが、先帝の母であるためにそのような処遇を受けることはなく、かといって元に戻るわけでもない。

 残る生涯の過ごし方として許されている選択肢は、寺院に入ることしかないのだ。


 敗者として見世物となり、敗者として出家へと誘われる者が現れた一方で、それとは真逆の栄誉を得た者もいる。

 源頼朝だ。

 元暦二(一一八五)年四月二七日、源頼朝が従二位の位階を得た。なお、位階相当の役職はない。

 源頼朝は間違いなく時代の主役であり、誰もが一目置かざるを得ない重要人物である。その一挙手一投足が世間の注目を集め、その発言の一つ一つが社会を動かす発言となる。

 しかし、国家統治システムだけで考えると源頼朝は貴族の一人なだけとなるのだ。

 三位以上の位階を得るか、あるいは議政官の一員になると公卿補任にその名が記される。公卿補任は各年の議政官の面々について記した公式記録であり、基本的には役職、位階、氏名、年齢、そしてその年にその役職に就いたならば何月何日に就任してその前はどのような役職であったのか、その役職を辞したならば何月何日に辞してその後どんな役職に就いたか、あるいは死去したか、あるいは隠遁したかが記されている記録である。三位以上の位階を得たか、あるいは新しく議政官の一員となって公卿補任に初めてその人の氏名が記されるときは公卿補任に記される身になる前にどのようなキャリアを積んでいたかが記される。

 公卿補任に記されている源頼朝のキャリアは、皇后宮権少進に始まり、右近衛将監、上西門院蔵人、従五位下右兵衛権佐とキャリアアップをして、前年である元暦元(一一八四)年には正四位下に昇叙し、このときに晴れて従二位に昇叙したというものである。藤原北家でない貴族のキャリアとしてはかなり順調なものであると言えよう。とある一文を除けば。

 公卿補任はこのように記す。永暦元(一一六〇)年三月一一日に伊豆国に配流となり、寿永二(一一八三)年一〇月九日従五位下に復帰した、と。この一文が無ければ源頼朝のキャリアは藤原氏でない貴族の中の一人としか捉えることはできないのである。

 なお、この一文は他の貴族と比べて異質と言えば異質であるが、前代未聞の異質さを描き出しているわけではない。一点を除いて。

 一時的に失脚の目に遭った貴族は珍しくなく、失脚から復帰した貴族も数多くいる。一人や二人は失脚から復帰した経験のある貴族が議政官の一員に名を連ねていても、それは議政官の通常態であったとさえ言える。しかし、失脚から復帰してもなお京都に戻ることのないどころか、京都近郊ですらない関東地方に居続けている貴族というのは例が無かった。罪に問われ位階と官職を失い京都から遠く離れた場に流された貴族は、罪を許され元の位階に戻ったならば、できうる限りただちに京都に帰還するものであり、流された地に居続けるなどありえなかったのだ。源頼朝が遠流となった先は伊豆国であり、現時点で源頼朝がいるのは相模国であるから、流された地にいるわけではないと言えばその通りであるが、相模国は伊豆国の隣国であるだけでなく、相模国鎌倉に自身がトップとして君臨する都市を築いている。そして、源頼朝は相模国鎌倉に拠点を築いて関東地方に一大勢力を築いている。

 そんな貴族は他にいない。

 他に例を挙げれば平泉の奥州藤原家第三代当主藤原秀衡という例があるが、藤原秀衡は陸奥出羽押領使を経て元暦二(一一八五)年時点では陸奥守を役職として拝命しているのだから陸奥国にいるのは当然である。それに、藤原秀衡は貴族ではあるものの位階は従五位上だ。地方の有力者に位階と官職を与えたと言えばそれまでであるが、朝廷の建前としては、藤原秀衡はあくまでも地方を統治する位階の低い一人の貴族であり、陸奥国平泉にいるのは彼が陸奥守だからというスタイルを崩さなかったのだ。


 位階を見ても、奥州藤原氏の藤原秀衡が従五位上、すなわち数多くの下級貴族の一人であるのに対し、源頼朝は公卿補任に名を残す上級貴族になった。その上級貴族が京都に足を運ぶことなく地方で勢力を築くことになった。

 これが源頼朝という人の異質さであり、これが鎌倉幕府という組織の根幹を築き上げる要素となったのである。

 源頼朝が従二位の位階を得たことで、源頼朝は鎌倉の地で上級貴族ゆえに振るうことのできる権力を行使できるようになった。鎌倉にいる源頼朝が従二位の位階を得たことを公的に知るのは五月一一日になってからであるが、源頼朝は非公式ながらその情報を得ていたようで、かなり早い段階から上流貴族としての振る舞いをしている。

 そのわかりやすい例が擬似的な政所(まんどころ)である。後述するように源頼朝が正式に政所を設置したのはこれより六年後のことであるため、元暦二(一一八五)年四月の段階では、後に政所へと発展することを前提とした公文所の運営ということになる。

 政所という組織は本来であれば、親王、もしくは従三位以上の位階を持つ貴族の家政を担当する組織である。家政を担当すると言っても、当初は家の中のやりとりを管理監督するだけであったのが、次第にその範囲を拡張させ、特に貴族の場合は、貴族の所有する荘園の管理監督をするのが政所の重要な役割となっていた。政所は侍所と同様に藤原忠実の時代の藤原摂関家にその存在が確認でき、この時点になると、貴族や院の持つ所領を管理する組織として政所が、貴族や院に仕える人の人事を担当する組織として侍所が存在するのが当たり前になっていた。源頼朝もその意味で侍所を設置していたし、この時点ではまだ政所という名称ではないものの、擬似的な政所機能を持つ組織を設置したのである。

 荘園と政所の関係は株式会社と持株会社、それも純粋持株会社でなく事業持株会社との関係を考えていただくと理解しやすいであろう。傘下にある一つ一つの企業を支配する形で管理監督しながら個々の企業が効率的に運営できるように指揮命令をし、一つ一つの企業の規模では参入できない新規事業を立ち上げることも、自然災害をはじめとする予期せぬ原因で大きなダメージを負った一つの企業を救済することも、事業持株会社であれば可能となる。これは事業持株会社を政所と置き換えても通用する。


 前述の通り、政所の設置が許されているのは、親王か、あるいは三位以上の貴族である。では、四位以下の貴族は政所を設置して荘園の管理監督ができないのか?

 そのようなことはない。四位以下の貴族も荘園を管理監督する組織を設置することが認められていた。ただし、その規模は政所より小さく、行使できる権力も政所よりは小さい。その組織のことを「公文所」という。公文所とは元々、貴族や寺社、また、国衙や荘園における公文書の管理のための組織であったが、次第に指揮命令権を有するようになり、貴族が所有する荘園の管理監督と運営をする組織へと昇華していった。ルーツをたどると公文所と政所は別組織であるが、次第に相互に役割が重なるようになり、結果として三位以上の貴族ならば政所の設置が認められ、四位以下の位階の貴族だと公文所の設置しか認められないという区別になった。東京証券取引所における東証一部上場、今で言うプライムが政所、スタンダードが公文所といったところか。

 源頼朝はこれまで、一人の貴族として公文所を設置してきた。源頼朝の位階が上がったことでその公文所を政所へと進化させることが可能となった。正式な政所となるのはこれより六年後のことであるが、源頼朝はこの段階で政所を持っていてもおかしくない貴族であるとアピールするために公文所の機能を政所と呼べるレベルまで拡張したのである。三位以上の位階を得た貴族が自身の持つ公文所を拡張させて政所へと昇華させた例はあるから、タイミングが早いとは言え源頼朝は前例のないことをしたのではない。それに、正式に従二位の位階を得る前に政所を機能させたことを指摘されたとしても公文所の運営をしたに過ぎないと返答すればそれまでだ。

 なお、ここで注意すべきことがある。それが、公文所にしろ、政所にしろ、源頼朝は荘園の管理運営だけを職掌とさせず、荘園の管理運営を超えて、鎌倉方全体の組織運営を担うようにさせたことである。名目上は本来の家政組織であることを徹底させたのであるが、それがかえって前例のない政所のあり方に進化する原因となる。

 後世に住む我々は鎌倉幕府という組織を朝廷とは別の、そして、朝廷とは異なる独自の組織体制であると考える。しかし、源頼朝は、そして鎌倉方の武士達はそのように考えてはいない。源頼朝は一人の貴族として、一廉(ひとかど)の貴族であれば保持しているのが当然の組織体を構築したに過ぎないのである。構築した場所は京都ではなく鎌倉であり、他の貴族と比べると仕えている武士が多いが、それ以外はごく普通の貴族が抱えている組織体なのだ。

 ところが、前述の「それ以外」が問題なのである。京都ではなく京都から遠く離れた地方都市であり、武士の数があまりにも多い。こうなると、既存の仕組みを一切逸脱することなしに事実上の独立勢力が誕生してしまうこととなる。しかも、その勢力が京都の朝廷にも根深く食い込んでいる。これで脅威に感じないとしたら、そのほうがおかしい。


 さらに厄介なのが、武士の保有する「所領」と、院や貴族、あるいは寺院や神社の所有する「荘園」との関連性である。源頼朝は自身とともに戦ってくれている武士達に対し、現時点で保有している所領の保有権を認める「本領安堵」と、構成に応じて新たな所領の保有権を与える「新恩給与」の二点の恩賞を用意していた。

 しかし、ここには問題が二つある。一つは武士の保有する土地が荘園であること、もう一つはそれらの荘園の所有権が院や貴族や寺社にあったことである。荘園の名義は院であったり貴族であったり寺社であったりするが、そのどれもが徴税担当者よりも高い地位にある者という点では共通している。ゆえに、荘園住人に対して国司や郡司の派遣する徴税担当者が税を納めるように命じたとしても、院や貴族や寺社といった高位な者の権威によって税を免ぜられている。これが荘園である。荘園に住む者は国法の定める税を納める必要がないだけでなく、国法を逸脱する地方官僚からの不正な徴税要求を拒否できるというメリットがあったし、自然災害や人災についても荘園の所有権を持つ者の救済を期待できたし、荘園の拡張ということで新たな土地を開墾する際にも荘園の所有者の資金援助を期待できたのだ。

 さて、私はここまで「保有」と「所有」とを区別して書いてきた。この二つの語は何が違うのか?

 保有とは、一時的に自分のものとしていること。

 所有とは、永久に自分のものとすること。

 法的根拠を以て永遠に自分のものとするのが所有であるのに対し、法的根拠無しに自分のものとする代わりに永続的とはならないのが保有である。

 武士が荘園に対する保有権を持ち、土地を武士の所領とするというのは、荘園に対する貴族達と武士達との関係が、貴族達は荘園を所有し、武士達が荘園を保有するという関係となっているからである。

 もとを正せば貴族らの所有する個々の荘園を管理し、国庫に納めるべき税よりは安価である代わりに荘園所有者へ納める年貢の徴税を請け負い、外敵から荘園を守る役割を負っていたのが武士であった。武士は貴族に仕える身であり、貴族と武士との関係は現在で言うと上司と部下の関係に相当していたとしてもいいだろう。武士は京都にいる貴族の命令に従って現地で荘園の運営をしていたわけである。武士が手にする報酬も、荘園管理の一貫として請け負っている年貢の徴税から貴族達に送る分を除いた額であり、現在のサラリーマンの感覚で行くと、京都本社の上司の指揮のもと、現地の支社長や営業所長として現地の運営をし、現地での売り上げのうち本社に送り届けた後の残りを現地の支社長や営業所長が収入としていたと考えていただくとわかりやすかったであろう。

 本来は。

 それが、分離した。

 荘園の名目上の所有権はたしかに、院であり、貴族であり、寺社である。名目上の所有権者に対する年貢の上納も一応はある。

 しかし、荘園の実質上の保有権が武士の手に移るようになったのだ。そもそもの徴税権が武士にあり、荘園の運営権も武士にある。荘園の治安維持を受け持つ警察権も武士の手に握られている。貴族達は荘園の所有権を手にしているはずなのに、荘園に対する指揮命令を何ら下せなくなってしまっていたのだ。いや、それだけならばまだいい。貴族達の意思を完全に無視して勝手に保有権が移り変わるようになり、その土地を実質的に保有しているのが誰なのかを貴族達が把握することもできなくなっていったのだ。せめてもの救いは名目上の所有権者である貴族達への年貢の上納が一応は存在していたことであるが、その上納も途絶えることが頻発し、気が付くと収穫があったのに全く年貢が上納されないというケースも珍しくなくなっていった。現在でも地方の支社や営業所が独立してできた別会社という法人もあるし、別会社とまではいかなくとも本社の統治機能が支社や営業所に働かなくなることもあるが、現在の場合はどんなに本社との関係が決裂した結果であろうと法に基づく別会社化であるのに対し、この時代は明瞭な別個化ではない。理論上は荘園であり続けていながら、実質上は荘園所有者の意思が機能しない存在へと化すようになる。


 こうなると荘園の所有権が意味を成さなくなる。荘園を所有していた院や貴族や寺社からすれば、年貢、すなわち毎年入ってきたはずの収入が途絶えるだけでなく、荘園に対する権利の一切を失うこととなる。一九二九年の世界恐慌のスタートを考えていただきたい。上場している株式会社の株式が価値を持たなくなって、せめてどんなに安値でもゼロになるよりはマシだと考えて株を売ろうと株式市場に足を運ぶも誰も買い手が付かなくなる状況を。同じことがこの時代にも起こっていたのだ。ただし、金融問題としてではなく社会問題として。これが純然たる金融恐慌であるなら政策的対応でどうにか対応できようが、金融問題ではなく時代の移り変わりによって荘園の所有権が失われつつあったのだ。それも、底辺まで落ちていったなら上昇する希望を抱けようが、まさに落ちている途中なのだ。

 このような状況下で、源頼朝が鎌倉の地にいながら従二位の位階を得て政所を設置する権利を得た。厳密にはまだ政所ではないが、貴族としての源頼朝の持つ公文所が政所機能を持つ組織体へと発展していた。ここで源頼朝が権力を行使する対象となるのは源頼朝が個人的に所有する荘園ではなく、源頼朝に仕える武士達が保有する土地なのだ。

 理論上、武士達は位階の低い役人であるか、あるいは位階を持たない庶民である。庶民である武士達は、何かしらの位階を持っている者の家臣となる。いかに武人として能力が高くとも、無位無冠にはまともな権利や権力を行使できない仕組みになっているのがこの時代の日本国だ。その上で、無位無冠の武士であるなら荘園を所有する貴族達がその荘園に住む武士を家臣として雇い、位階を持つ武士であるなら役人となるため、朝廷の統治機構に組み込まれている下級役人と上司である貴族という構図になる。どちらの場合でも武士達は貴族達の部下となる宿命にある。武士がいかに所領を保有していようと、上司である貴族達の命令一つで武士の持つ土地の保有権は動かすことが可能となる。何なら、武士を荘園から追放することも可能だ。法の上では。

 ところが、源頼朝が従二位の位階を持つ武士となると、源頼朝と個々の武士達との間の関係が、武士としての主従関係ではなく、貴族とその家臣という朝廷の統治機構に基づく関係となるのだ。その上で、個々の武士達は土地の保有権を持ち、土地の保有権を源頼朝が、すなわち、従二位という高い地位にある貴族が保証するという仕組みが誕生してしまう。もともとは年貢徴税の代理人であったはずの武士が、年貢徴税がそのまま自身の収入源となるようになり、誰が荘園の所有権を持っているかどうかなど関係なく所領を保有しているか否かが生きていくための収入源となる。いかに多くの荘園を所有しているかではなく、いかに多くの所領の保有権を得ているかが重要なのだ。

 荘園の所有者が誰であるのかは法的根拠を伴う権利である一方、土地の保有権が誰であるのかは何ら法的根拠の無い話であった。これまでは、貴族達の名義の荘園で、荘園での収穫は所有者である貴族のもとに年貢として上納され、それが貴族の資産の根幹であり、特に物納であるときは京都の貴族のもとにコメをはじめとする物資が上納されることで平安京とその周囲に対する物資の供給となるという仕組みになっていた。

 治承三年の政変以後、それが途絶えた。

 いや、その後の源平合戦勃発によって途絶えた。

 平安京に物資が届かなくなって発生したのが養和の飢饉だ。

 飢饉のピークは過ぎて回復に向かってきていたが、完全な回復とまでは至っていない。完全に回復するにはこれまでのように荘園の所有者である貴族達のもとに相応の年貢が送られてくることが大前提であるが、源頼朝が従二位になったことで、荘園の所有権ではなく所領の保有権が貴族の権威を伴う権利と認められるようになった。物資が年貢として荘園の所有者の元に無事に届けられるかどうかは源頼朝の胸先三寸で決まるようになってしまったのだ。

 誰もが養和の飢饉の再来に恐れ戦いた。とは言え、平家政権下での不自由な日常と、木曾義仲による容赦ない略奪の日々を終わらせてくれたのも源頼朝なのだ。最悪から解放してくれたことは栄誉を伴って感謝しなければならない。従二位の位階は順当、あるいは必要最低限の栄誉である。栄誉ではあるのだが、従二位の位階を得たために政所開設の資格を得るようになってしまったために、それまでの経済の根幹が壊れることにもなってしまったのだ。

 普通に考えれば、従二位の位階を与えるという判断をすると同時に何らかの対処をするはずである。何しろ朝廷の、特に後白河法皇の手練手管は元暦二(一一八五)年四月時点でも健在なのだ。そして、結論から記すと手練手管は既に発動していたのである。ただし、問題が一点のみ存在した。平家相手にも木曾義仲相手にも通用したその手練手管が、果たして源頼朝に通用するか否かという一点が。


 その手練手管とは何か?

 源義経である。

 源義経は、京都を一歩離れると怨嗟の対象であるが、京都市中では英雄である。

 木曾義仲から京都を取り戻し、西国に赴いて平家を倒したのは、源頼朝をトップに据える鎌倉方の軍勢であるが、その中の先陣を担っていると、実際に戦場にいた人はともかくと京都市中の多くの人が考えてきたのが源義経である。

 元暦二(一一八五)年四月時点の源義経は左衛門少尉兼検非違使少尉であり、また、従五位下の位階も得ている。源義経が平家討伐の軍勢を組織して西国に向かったときの公的な見解は検非違使としての治安維持活動であり、西国に赴いている途中で、あるいは戦場で何をしたかについては問いただす必要があるだろうが、西国に向かって戦場で平家を倒したことそのものには何ら違法性がない。

 ただ、ここで厄介な問題がある。

 そもそも平家討伐のために検非違使に就任したのであるから、平家討伐が完了した後の源義経の公的地位はどうなってしまうのかという問題があるのだ。理論上、左衛門少尉の職務も検非違使少尉の職務も双方とも罷免となってもおかしくない。源頼朝の意向に基づいて公的な官職を鎌倉方の武士に与えないとすると、貴族としての最下層の位階とは言え従五位下の位階を持つ貴族ともなっている源義経から役職を剥奪することにもなってしまう。源範頼のような自発的な官職返上であるなら構わないが、鎌倉の圧力に負けての役職罷免だと大問題になること間違い無しである。それに、仮に源義経が鎌倉の兄の意向に従ったとしたら、京都市中の庶民達から湧き起こる感情は、まずは失望、次いで激しい怒りであろう。今の京都は鎌倉方の武士達によって解放されてようやくの安寧を手にしたのであり、現時点ではまだ鎌倉方の武士達を、特に源義経を解放者として歓迎しているが、治承三年の政変以後の平家、その後の木曾義仲と続く悪夢からの脱却は認めていても、鎌倉方そのものとは少し距離を置いている。より正確に言えば、源義経がいてくれれば京都の治安は最低最悪から脱せられるのであり、その源義経が京都から離れようものなら、多くの人はついこの前までの絶望が蘇ってしまうと考えていたのである。そのような決断は断じて許されない、というのがこの時点における京都市中の民衆の感情であったとすべきであろう。

 この民衆の感情に応えたと言うべきか、あるいは民衆の感情を利用したと言うべきか、朝廷はここで手練手管を披露した。源頼朝が従二位に昇叙したのと同日の元暦二(一一八五)年四月二七日に、源義経を院御厩司(いんのみまやのつかさ)に任命したのである。


 院御厩司という役職を付与したのも何とも絶妙である。

 御厩(みやま)は、名目上は牛馬の管理をする職務であり、御厩司(みやまのつかさ)となるとその役職のトップ、ないしはトップに近い地位となる。ならば、牛や馬の管理が職掌なのかというと、そのような範囲では済まない。牛も馬も日常の交通手段として用いると同時に軍需品でもある。特に馬はこの時代の最重要軍事装備だ。何頭の馬を養っているか、そして、その馬がどれほどの素晴らしさなのかがその人の繰り出すことのできる軍事力を意味するのだから、御厩(みやま)とはその人の持つ私的な軍事力、御厩司(みやまのつかさ)はその人の繰り出すことのできる軍事力のトップを意味する職掌となる。正式なトップが別にいたとしても、実務でトップを務められる人間がいるならば、御厩司(みやまのつかさ)の職掌はそれなりの軍事力を発揮できることとなる。

 しかも、この職種は朝廷直下に存在する役職ではなく、朝廷から一歩離れた職種である。

 源義経がこの日に就任した役職の場合、役職名の先頭に「院」の漢字が付される。つまり、後白河法皇という一個人のもとでの軍事のトップであることを意味するため、実質上はともかく名目上は朝廷から一線を画す役職となるのだ。それでいて、京都市中に在駐しながら公的な軍事力を行使できる存在ともなる。白河法皇がそうであったように、鳥羽法皇がそうであったように、後白河法皇もその住まいを平安京内に構えているわけではない。しかし、後白河法皇が主たる住まいとした法住寺は鴨川の東であるから平安京の敷地内であるとは言え、現在の地図で言うと京都駅から歩いて二〇分で行ける距離だ。源義経が検非違使を辞して後白河法皇の軍事を司るために後白河法皇のもとに行ったとしても、源義経は京都から離れないこととなる。

 おまけに、院御厩(いんのみまや)の別当であった藤原朝方が木曾義仲によって追放されてから別当職が空席となっていたタイミングでもある。誰かがこの職務に就かなければならないが適切な人物がいないとなっていたところで源義経が登場したのであるから、功績を考えても源義経を任命することは何ら問題ない。もっとも、藤原朝方は参議から権中納言を経て中納言にまで出世していた人物であり、いかに実績を残していても位階も役職も藤原朝方には遠く及ばない源義経を別当とするわけにはいかない。ゆえに、院御厩(いんのみまや)のトップ層の一人という位置づけとなる。ただし、いかにトップ層の一人であろうと源義経の人気と実力は他の追随を許さないものがある。後白河院が独自に武力を行使するとなると、院御厩司(いんのみまやのつかさ)である源義経の出番となる。

 これは何とも巧妙である。

 京都における源義経の人気は揺るぎないものがあった。源頼朝とて京都と無縁なわけではないが、平治の乱で敗れて一三歳で伊豆国に追放されてから四半世紀以上に亘って京都から離れており、名前こそ京都中の人に知れ渡っているものの源頼朝の顔を知る者は少ない。一方、初上洛時こそ源義経は無名の人物であったが、今や京都で源義経の名を知らない者はいないどころか純粋な知名度だけでも源頼朝以上のものがあったし、顔を知っているものも多い。認知度も、知名度も、そして人気も京都の中では源頼朝より源義経なのだ。その源義経が院の命じた役職に基づいて京都に滞在し続けるのは、京都から鎌倉に投げかけた巧妙な取引条件であったとするしかない。


 それに、従二位の位階を得た源頼朝が一人の上流貴族であり続けるためには、源頼朝本人がいかに鎌倉に居続けるにしても、誰かしらが京都に滞在して鎌倉と京都との窓口の役割を務めなければならない。その役割を務める人材として源義経以上に適任な人材はいない。京都における人気もさることながら、源義経の文人としての能力も無視できないものがあったし、源義経は従五位下という位階を得ている貴族の一人でもあるのだ。二一世紀に住む我々の世界では、鎌倉時代の武士を野蛮だとか、あるいはこの時代の武士は読み書きできなかったとかと半ば嘲るような風潮があるが、実際には文官として必要最低限の読み書きをできるかどうかの判断で合格としてよいだけの能力を持つ武士は多かった。ただし、京都の貴族と問題なく渡り合えるかどうかとなると疑問符が付く。だが、源義経は違った。この人はこの時代の貴族達と文句なしに渡り合えるだけの、さらに言えば、この時代の貴族達をはるかに凌駕する文人としての能力も持ち合わせていた。しかも、低いとはいえ貴族の一員としてカウントされる位階を手にしているのであるから貴族達とて無視できようはずがない。

 それだけの能力と位階を持った人物である上に、京都において絶大な人気を持ち、戦場においては八面六臂の活躍を見せ、しかも源頼朝の弟だというのだから、源頼朝が鎌倉方の人物として誰かを京都に滞在させると考えたなら源義経を第一候補に推すのはおかしな話ではない。

 と同時に、京都としても源義経を前面に押し出すという選択肢を得ることにもなったのだ。源頼朝が鎌倉で強大な組織を構築して日本国からの独立を図ろう、あるいは、独立とまでは行かなくとも京都の朝廷の権威や権勢の及ばない、平たく言えば年貢を取りはぐれるという事態を完成させたとしても、そのとき院御厩司(いんのみまやのつかさ)となった源義経に命じて鎌倉方の軍勢を討伐させることも不可能では無くなるのだ。源義経が率いることになると想定される軍勢は、名目上は後白河法皇の派遣した軍勢であるが、実質上は朝廷の派遣する軍勢であり、その軍勢の向かう先は鎌倉方の軍勢、いや、国家反逆者の軍勢となる。

 また、この日に源義経が就任したのは院の役職であり、名目上は朝廷の公式な役職ではない。しかも、左衛門少尉兼検非違使少尉と職掌がかなり重なるから、源義経は新たな役職を手にしても日常の政務も執行できる権力も現状と変わりはない。仮に源頼朝が源義経に対して検非違使を辞し、そして左衛門少尉を辞すように命じて鎌倉に呼び戻すようなことがあっても、院の役職が続いている以上、源義経は京都に居続けることが認められることとなる。仮に源頼朝が朝廷に苦情を述べようとしても、院の命じる役職である以上、実質上はともかく理論上は朝廷にはどうすることもできず、どうにかできるのは後白河法皇ただ一人ということとなる。

 そこから先は後白河法皇と源頼朝の政治的取引の話になる。これからは戦場ではなく、源義経という人物を間に挟んでの政治力を前面に掲げての対決が始まるのである。

 ただし、結論から先に言うと、この対決は成立しなかった。

 源頼朝は京都の想像を遥かに凌駕する存在であったのだ。


 源義経はたしかに京都で大スターとなっていた。戦場においても活躍した。そして、現在進行形で貴族達と対等に渡り合えるだけの文人としての能力のあることを示し続けている。しかし、京都駐在の源義経が、鎌倉方の京都における責任者としての役割を果たしているかと言われると、その答えは否とするしかなかった。

 源義経は一つの大きな素養を欠いていたとするしかない。

 政治家としての素養を欠いていたのだ。リーダーシップが低かったとも、集団を指揮する能力が低かったとしてもよい。

 これまでたしかに源義経は活躍してきた。源義経とともに戦場に向かった武士も多かった。木曾義仲から京都を取り戻したとき、源義経は鎌倉方の顔になってもいた。

 ただ、鎌倉方の武士達は源義経に従ったのではなかった。源頼朝に従った武士達であり、源頼朝が命令をしたから源義経のもとで軍務に就いたのである。源義経の指揮下に入ったとは言っても源頼朝の描いたグランドデザインの一貫としての行動であり、源義経個人に心酔した結果ではないのである。

 このようなとき、源義経の指揮下に入る必要が無くなった瞬間に指揮系統のエアポケットが発生する。要は、それまでは源頼朝の命令だからと源義経に従っていた武士達が、源義経の指揮から離れて好き勝手に行動するようになってしまうのだ。

 これを源頼朝は理解していなかったのか?

 結論から言うと、理解していた。

 容易に想像できるとは思うが、京都と鎌倉との間にはタイムラグがある。ネットも無ければテレビもラジオも電話も無いこの時代に、京都で起こっていることを鎌倉でリアルタイムで知ることはできない。とは言え、京都と鎌倉との間を移動する人が増えると交通環境が整備され、京都から鎌倉へと、あるいは、鎌倉から京都へと移動するのに必要な時間が短縮される。それに、瀬戸内海沿岸や日本海沿岸と比べ太平洋沿岸は航路がたしかに未発達であったが、黒潮に乗ることに成功すれば紀伊半島から三浦半島まで海路で三日だ。京都から鎌倉へと向かう一方通行ではあるが、情報連携のスピードを考えれば情報の大切さを考えている源頼朝が無視することはない。

 それを如実に思い知らされる出来事が元暦二(一一八五)年四月二六日と、その二日後の四月二八日に起こっている。なお、その間の四月二七日に源頼朝が従二位の位階を得て、源義経が院御厩司(いんのみまやのつかさ)の役職に任命されているが、それはただの偶然である。いかに情報の重要性を熟知し、京都と鎌倉との間の情報連携スピードを向上させようとしてきた源頼朝とて、京都で起こった出来事を一日や二日で鎌倉にいながら知ることはさすがにできない。


 話を四月二八日に戻すと、この日、近江国に在住し、かつては出羽守を務めるまでになっていた源重遠が出羽国から鎌倉まで赴いて、京都における鎌倉方の武士達の乱暴狼藉を取り締まるように訴え出たのである。源重遠が言うには、兵糧だと言っては食糧を奪い取り、兵役だと言っては人を拉致しているという。なお、吾妻鏡によると前出羽守重遠とだけあり姓も苗字も記されておらず、源重遠ではなく平重遠と記している書籍もある。ただし、彼の姓を源とする書籍でも平とする書籍でも、彼について共通して記載していることが二点ある。彼が長年に亘って清和源氏に仕え続けてきた武士であることと、元暦二(一一八五)年時点で既に八〇歳とこの時代において異例とも言える高齢であったことである。現在でも高齢者と扱われる年齢の者が、この時代の交通事情でありながら近江国から鎌倉までやってきたというのが共通している点だ。

 かなりの苦労のもとで鎌倉までやって来たであろう源重遠は知らなかった。訴え出る二日前の四月二六日に、源頼朝は土肥実平と梶原景時の二名に対して京都内外の武士達の乱行を取り締まるよう命令を出しているのである。本来ならば源義経が取り締まるべきであるが、兄は弟を見限り、京都における武士の統率権を源頼朝自身が担うこととしたのだ。源重遠は無駄足だったかと思ったかもしれないが、同時に、自分が訴え出る前にもう動き始めている、つまり、鎌倉は自分達を見捨てていないことを知ったのだ。

 さらに乱行取締命令は、極秘裏にではあるが、四月二九日にさらに強力な形へと発展して発令された。西国の武士達に対し、源義経の指揮下に入らず源頼朝の直接の指揮下に入ることを要請する書状を発したのである。これはあくまでも要請であって命令ではない。だが、誰が源頼朝に逆らえようか。源頼朝自身がいかに武人としては無能であっても政治家としては超一流だ。今後を考えたとき、いや、現時点での身の置き方を考えたとき、いかに戦場で活躍しようと京都以外の民意を全く得ていない源義経と、超一流の政治家として民意を得ている源頼朝とでどちらを選ぶかと言えば、その答えは一つである。

 鎌倉方が組織を少しずつ、しかし着実に建設している頃、壇ノ浦の戦いで命を落とさなかった平家の面々は敗者としての現実を見せつけられつつあった。

 その先陣を担うこととなったのが、高倉天皇妃で安徳天皇の生母である建礼門院平徳子である。元暦二(一一八五)年五月一日、建礼門院平徳子、出家。院号を持つ女性に対する措置としてこれ以外に方法はないと考えられ、暗に促されていた身の処し方を実践したのである。これにより建礼門院の院号は停止となった。

 平家物語によると平徳子は長楽寺の印誓上人を戒師として出家したとあるが、吉田経房の日記には大原来迎院の本成房である湛斅を戒師としたとある。どちらが正しいかはわからないが、少なくとも長楽寺には安徳天皇が入水する直前まで身につけていた直衣(のうし)を幡に作り替え、現存する唯一の安徳天皇の遺物である「安徳天皇御衣幡」が現存していること、また肖像として現在も教科書等に掲載されることの多い「安徳天皇御影」や「建礼門院御影」も長楽寺に保管されていることから、平徳子と長楽寺の関係は無視できるものではない。なお、幡(はた)とは布などを材料とした道具で、仏教祭祀の際に高く掲げて目印や装飾とするのに用いるものである。本来は仏、特に菩薩(ぼさつ)の威徳を示す荘厳具であるが、仏教そのものの威光よりも誰に由来する幡(はた)であるかが幡(はた)の優劣を決定する要素となっていた。聖武天皇に由来する幡(はた)や、真偽不明ながら聖徳太子に由来する幡(はた)を有する寺院も珍しくなくなっていたのであるから、天皇が亡くなる直前まで身につけていた直衣(のうし)より作った幡(はた)となるとかなり高い権威を示すこととなり、長楽寺としても秘匿するより前面に掲げるほうが寺院としてありうる選択だ。

 なお、平徳子が出家したのは長楽寺ではなく、鴨川の東であることでは長楽寺と同じでも、実際には吉田の地、現在の地図で言うと京都大学医学部のあるあたりであるところであること、そして、出家からしばらくの間、出家した吉田の地に住まいを構えたことはわかっている。ただし吉田の地は、出家して直如覚尼と呼ばれることとなる平徳子にとって安住の地とはならなかった。七月九日に発生した地震の影響もあるが、吉田の地はギリギリで平安京ではないものの目と鼻の先が平安京という環境が彼女を安寧とさせなかったとも言え、後に彼女は大原に住まいを移すこととなる。

 京都駅からバスで大原三千院に向かうと、途中まではバスの外の光景が京都の市街地であるのに、途中から市街地の光景が完全に消えることに気づくであろう。今でこそ京都の観光名所の一つであり、多くの観光客が京都観光時に大原にまで足を運ぶが、この時代の大原は京都の中心から遠く離れた、京都の一部とは認識されていなかった場所であり、だからこそ世を捨てなければならなくなった平徳子が出家後の住まいとして身を寄せる場所として選んだと言える。


 平徳子が出家したと同日の元暦二(一一八五)年五月一日、源頼朝が二人の人物に対する処遇を発表した。と言っても、一人は源頼朝自身にどうにかできても、もう一人は源頼朝が一人でどうこうできる人物ではない。それでも一人の貴族として自らの意思を内外に示すことは大きな意味があった。

 源頼朝自身でどうにかできるのが木曾義仲の妹である宮菊についての処遇である。現在の日本の刑法では犯罪者の妹であるからといって何らかの罪科が課されるようにはなっていないが、この時代は連座が概念として存在していた。兄が犯罪に手を染めたなら妹にも責任が及ぶとされてもおかしくないとされており、宮菊も責任を課される可能性があったのだ。ただし、法で定められているわけではない。被害者が自らの苦痛を犯罪者の親族にも訴えて苦痛に対する責任をとるように責めたとき、現在の日本の法では、責めた側は理解ならば得ることはできても法に基づく責任をとらせることはできないが、この時代は、理解を得ると同時に責任をとらせることも不可能ではなかったのである。

 宮菊は、いかに木曾義仲の妹であろうと、妹であるという理由だけで兄の犯罪の責任について追及されるのはおかしな話であると訴える。一方、木曾義仲に住まいを荒らされ、罪科を奪われ、貞操を奪われ、さらには家族の命を奪われた人は、怒りの矛先を求め、その矛先として京都にいる宮菊をスケープゴートとする。

 源頼朝は宮菊を京都から鎌倉に呼び寄せていた。その宮菊が鎌倉に到着したのが五月一日である。源頼朝は木曾義仲の悪行の責任が宮菊には及ばないことを宣言した上で、美濃国遠山庄、現在の岐阜県瑞浪市にあたる地域の所領の保有権を宮菊に与えるとした。木曾義仲の最大勢力の頃からすれば小さな所領であるが、それでもこれで生活に困らないだけの余生を過ごせる。木曾義仲に対する不平不満がある人にとって宮菊の受けたこの処遇は満足いくものではなかったが、生まれ故郷である信州木曾と一本道でつながっているとは言えある程度の距離があり、京都からも離れた場所で生涯を過ごすと考えれば、宮菊の処遇は許容範囲内であるとも言えた。

 一方、源頼朝だけではどうにもできない人物についてであるが、源頼朝が意思を示したのは大きな効果があった。その人物は誰かというと、亡き崇徳院の墓守をしている左兵衛佐局である。崇徳院の眠る法華堂を守っている彼女に対し、源頼朝の名で備前国福岡庄、現在の瀬戸内市長船町福岡にある所領を寄附したのである。この所領からの収益を法華堂の維持費とするためである。

 源頼朝が公的に亡き崇徳院を弔うことを公表したことは極めて大きな意味がある。そもそも源頼朝父親である源義朝は保元の乱において後白河天皇の側に立って崇徳上皇方に立ち向かった人物である。その人物の後継者が公的に崇徳院への弔意を示しただけでなく、弔うための経済的支援を公表したのである。崇徳院の怨念への恐怖はまだ消えていないというのもあるが、保元の乱にまで遡っての歴史の清算をすると宣言したのである。

 崇徳院への弔意については誰も何も文句を言えない話である。仮に文句を言う人がいたとしても、左兵衛佐局は源頼朝と旧知の仲にある女性であり、生活に困窮している旧知の人に対し源頼朝が個人的に財政支援をしたとしても何ら問題のある話にはならない。

 ただし、これを後白河法皇はどう捉えるであろうかという懸念もあるが。


 何度も記してきたことであるが、京都と鎌倉との間のタイムラグは、通常でも半月、急いだとしても一〇日を要するのは普通だ。京都から鎌倉への片道に限れば、紀伊半島から黒潮に乗ることに成功すればもっと短くできるが、それでも現在のように、京都で起こっていることを鎌倉にいながら知ることはできないし、鎌倉から電話やメールやリモートで逐次連絡を送り届けることなどできない。

 つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都や京都以西にいる鎌倉方の武士達に命令を出すとしたら、細かな命令ではなく、現場にかなりの裁量権を付与した命令としなければならない。このような裁量権を付与した上で人を送り込む、あるいは遠くにいる人に命令を下すのはこの時代に限ったことではなく、そもそも律令制の令制国を介した統治がそのようになっている。源頼朝の場合、鎌倉にいながら京都にいる人に対して命令を下すのであるから命令を出す側と受け取る側の方向が逆であるという点を除けば、律令制導入からこの時代に至るまでのごく普通の命令発令構図である。

 ところが、構図そのものはごく普通でも、源頼朝の情報収集能力は普通ではない。さすがにリアルタイムとまでは行かないが、この時代ではありえない頻度での情報収集をしている。そもそも伊豆国の流人であった頃から一ヶ月に三回、頻度で言うと一〇日に一回の割合で京都の情報を受け取っていたのが源頼朝である。その源頼朝が源平合戦の勝者になったということは、これまで通りの情報収集となるわけでも、情報収集の頻度を減らすこともなく、むしろ情報収集の頻度を増やすことになったことを意味するし、さらに言えば、情報を一方的に収集するのではなく情報を発する側にもなったということでもある。何しろ鎌倉方の武士は京都にもいるし、もっと西に目を向けるとそもそも鎌倉方の軍勢の総大将である源範頼が九州に居留し続けているのである。たとえそれがまだ正式な政所でなく公文所であると言っても、源頼朝は従二位の位階を得た貴族でもあるから、そう遠くない未来に政所の設置が認められた貴族にもなったということである。すなわち、源頼朝は京都や京都以西から情報を受け取るとともに、自身が手にすることとなった権利の行使という形で法に基づいた命令を発しているのである。それも矢継ぎ早に。


 源頼朝はまず、元暦二(一一八五)年五月四日に、梶原景時からの現地報告に対する返信として、九州で戦後処理を担当している鎌倉方の軍勢に対して源義経の指揮下に入らぬよう、そして、捕らえた平家の面々に対する処遇は源義経に一任して、九州にいる者はそのまま現地に留まって鎌倉への帰還はまだせぬよう指令を出した。吾妻鏡によると源義経に対する譴責処分が下ったからというのが源義経の指揮下に入らぬように命じた根拠となっているが、実際には平家討伐の戦後処理である。特に問題なのが壇ノ浦の戦いで敗れて戦場から逃走した平家の残党であった。

 大規模な戦闘に敗れたことで統率の効かない小規模軍勢が大量に発生することは、大量の盗賊、言い方を変えれば大量のテロリストが誕生するということでもあるのだ。それでも盗賊やテロリストと自覚しているならまだしも、彼らは自分自身ことを盗賊ともテロリストとも考えず、何なら未だに朝廷の派遣した正規軍であると考えている。正式な天皇は安徳天皇であって後鳥羽天皇は皇位簒奪者であるから従う必要は無いと考えると、実態がいかに犯罪であろうと、彼らに言わせれば反乱者に対する朝廷による正当な討伐となる。これを完了させるまで軍勢を引き上げるわけにはいかない。

 さらに九州に留まっている彼らには重要な使命が託されていた。未だ見つからずにいる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を見つけ出すことである。安徳天皇、いや、安徳上皇からの禅譲によって後鳥羽天皇が即位するというのはもはや断念するしかないと誰もが覚悟していた。だが、三種の神器というレガリアの継承による即位ならばまだ希望はあったのだ。八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は無事に取り返すことに成功しただけでなく京都まで持ち帰るのに成功している。後は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)さえどうにかなれば後鳥羽天皇の皇位継承の正統性を阻害する二つの要素のうちの一つが消えるのだ。

 とは言え、いつまでも延々と天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)の捜索に時間を掛けるわけにはいかない。関門海峡の水深は平均二〇メートルほどであるが最深部だと四七メートルにもなる。それに、この時代には潜水艦など無いどころか、酸素ボンベもシュノーケルもない以上、いかに潜水が得意な者でも潜っていられる時間は数分だ。おまけに関門海峡の海流の速度は最大で一〇ノット、時速にすると一八・五キロメートルにもなる。関門海峡に潜って捜索したところで天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が見つかる可能性は極めて低いとするしかない。朝廷からは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を見つけるよう指令が出ているが、源頼朝は冬を迎えたら捜索を取りやめるよう指示を出した。そうでなければ水温で命を落とす者が続出してしまう。命知らずの武士であると誇りを持つことと、命を使い捨ての消耗品として扱うのとは同次元の話ではない。


 この時点ではまだ検非違使である源義経は、壇ノ浦の戦いに至るまでの一連の戦いで源氏方に捕らえられた平家方の面々に対する処遇を源頼朝から託されることとなった。ただし、源義経が裁判官となって判決を下すわけではない。平家の面々は朝廷に逆らった反逆者であり、その処罰を下す権限も朝廷にある。源義経に託されたのは、朝廷に判決を促すことと、朝廷の判決に従った処罰を実践することである。いかに源義経自身は検非違使、すなわち、現在の日本国で言うところの警察官兼検察官兼裁判官でもあるため、犯罪者としての平家の面々に法に基づく判決を下す権限を持ってはいるが、さすがに、かつて大臣であった平宗盛や平時忠といった面々を一介の検非違使が簡単に処罰できるわけではない。最低でも朝廷の指示を仰がねばならないのがこの時点での法に基づく処遇である。朝廷としてみれば厄介で面倒な話であるが、そのまま放置することも許されない話である。

 朝廷が下した処遇は、鎌倉の源頼朝のもとへの護送である。

 ただし、全員ではない。

 人員を選抜した上での護送である。

 その結果、平宗盛は一つの悲劇に直面することとなった。元暦二(一一八五)年五月六日、平宗盛は源義経に対し、自分の次男である平能宗との対面を懇願した。なお、平家物語では五月六日ではなく五月四日のこととなっており、年齢も、吾妻鏡では六歳としているのに対し平家物語では八歳としている。既に一六歳となっている長男の平清宗は実際に武装して戦場に身を置いたがゆえに、捕らえられ、父とともに京都まで連行されてきた。悲劇的ではあるが、戦いに敗れた一人の武士として当然の処遇と受け入れることもできよう。しかし、次男の平能宗は、平家物語の通りの年齢だとしても現在の満年齢にすると七歳、吾妻鏡の通りならば満五歳だ。幼いとしか形容しようのない年齢の男児ではあるが、それなのに捕らえられて京都へと連行されてきたのだ。平家の一員として壇ノ浦の戦いに至るまで戦場に居続け、壇ノ浦の戦いにおいて源氏に捕らえられることとなったのは、理屈では納得するしかなくとも感情としては受け入れられなかった。それが一族の存亡をかけた戦いというものであり、それが一族の存亡をかけた戦いに敗れた敗者の運命であり、平宗盛とて自分がこれからどのような結末を迎えるかを知らないはずはないし、自分の息子たちが幼いからという理由で助けられる可能性など無いことも熟知している。他ならぬ平家自身が、平治の乱で敗れて囚われの身となった源義朝の子をどのように扱ったかを知っている。そして、あのとき源義朝と同じ運命を迎えさせていれば平家がこのような境遇を迎えなくても済んだことをこれ以上なく理解している。だからこそ、最後に一度だけでもいいから息子に会いたいと願ったのだ。

 平家物語に記されている平宗盛と平能宗との対面の場面は感動的であり、これもまた平家滅亡の過程を彩る悲劇であると同時に、かなり残酷な場面であるとも言える。

 九条兼実は日記にこのように記している。元暦二(一一八五)年五月七日、平宗盛と長男の平清宗の二人が鎌倉へと連行されていったと。京都を出発するときの光景は、これまで何度か見られてきたような流罪の光景ではないと。これが意味するところはただ一つである。

 父が鎌倉へと連行されていったのと同じ五月七日、平能宗、六条河原にて斬首。


 平宗盛らが鎌倉へと連行されていった同日である元暦二(一一八五)年五月七日、源義経からの使者である亀井重清が鎌倉に到着した。吾妻鏡によると、源頼朝からの書状が京都に届いたことに対する返信であり、源頼朝からの書状が届いて初めて源頼朝の怒りを知った源義経が慌てて返書を書き記して鎌倉へと送り届けたのだろうとして、源頼朝は弟からの書状を受け取らなかったという。

 だが、これには多少の疑問がある。

 そもそも源義経は定期的に源頼朝に向けて書状を書き記してきている。タイミング的に合致してしまうことは考えられても、源頼朝から書状が届いたからという理由で慌てて書状を書き記したのではなく、いつもの定期連絡の書状を送ったまでのことである。また、源頼朝にしても、書状を受け取らないという選択肢はない。情報の重要性を熟知している人間は、たとえその情報がノイズになってしまうことになっても、現在のようにコンピュータウィルスが混入していて開いた瞬間にコンピュータが壊されるようなeメールでもあるまいし、紙で送られてきた貴重な情報を、開くことなく捨てるなどありえない。

 源頼朝はたしかに源平合戦における源義経の行動について納得できなかった。略奪も、拉致も、到底許される話ではなかった。しかし、京都における源頼朝の代理人としてならば源義経以上に頼りになる人材もいなかった。武人としての名声に加え、京都の貴族たちとまともに渡り合えるだけの文官としての能力もあり、そして、源頼朝の弟であるという血統は、余人を以て代え難い存在であったのだ。

 そしてもう一つ、源義経は源頼朝にとって貴重なポイントがあった。

 源義経に仕える武士の少なさである。

 平家討伐において源義経とともに戦った武士は多いが、それは、源義経とともに戦いたいと願ったからではなく、朝廷からの指令によって参戦したところ、指揮官が検非違使である源義経であったというだけである。時流を見て源氏方の一人として参戦すると決めた武士もいたが、それでも源義経とともに戦うことを選んだのではなく作戦の一環として源義経の率いる部隊に配属になったというだけで、戦いに専念するという前提があるならば一応は源義経の命令に従うものの、戦の場を離れて源義経と源頼朝とを選ばなければならないとなったなら、ほとんどの武士は迷うことなく源頼朝を選ぶ。源義経は朝廷からの派遣命令を受けて西国に赴いたのであり、源義経とともに戦ってきた武士達は源義経ではなくその上にいる源頼朝やさらにその上にある朝廷に視線を向けている。特に源頼朝の存在はあまりにも大きく、源義経が朝廷の意向に逆らおうものなら誰も付き従う者などいないと断言できるが、源頼朝が朝廷の意向に逆らったとしても源頼朝にならば付き従う者が続出することが目に見えているのだ。源義経にはカリスマ性がないと言ってしまえばそれまでであるが、何と言っても源頼朝の有する正統性(レジティマシー)があまりにも大きく、一人の武士として考えるならば、源義経に仕えたところで未来は見えないが、源頼朝に仕えるならば華やかな未来が待っているのである。

 源義経が五位の位階を得て左衛門少尉兼検非違使少尉の役職を得ているのも、源義経個人の人気に加え、源頼朝の京都における代理人であったからである。少なくとも公職を得て京都にいるならば源義経は源頼朝の役に立つ存在となるが、京都を離れた源義経は厄介極まりない存在となる。この後の源頼朝からの指令を見ても、源義経が京都にいることを前提としたものであり、兄が弟を見る目としては冷めているものの、一人の家臣としての処遇と考えるならば妥当な処遇であったと判断できるのである。


 平宗盛らの連行は源義経が主導したが、源義経が一行の最高位者であったわけではない。

 京都と鎌倉を往復した経験もある藤原北家中御門流の貴族である一条能保が一行の最高位者であった。

 これだけを書くと藤原摂関家の人物が京都から鎌倉まで向かう一行の指揮を執ったのかと思うかも知れないが、実際には指揮を執ったわけではない。指揮は源義経が執っており、一条能保は源義経に護ってもらっているという立場である。つまり、源義経は平宗盛らを護送すると同時に、このタイミングで京都から鎌倉に移動する一条能保らの護衛もしていたわけである。

 この一条能保という人物、実は、源頼朝とは義理の兄弟である。一条能保の妻である坊門姫は源頼朝の姉とも妹ともされる女性なのだ。同じ母から生まれた女性であるのは判明しているのであるが、久安元(一一四五)年生まれとする説と久寿元(一一五四)年生まれとする説とがあり、源頼朝が久安三(一一四七)年生まれであることは確実なので、久安元(一一四五)年説だと姉、久寿元(一一五四)年説だと妹になる。

 藤原北家中御門流という名門中の名門の出身である一条能保こと藤原能保は、血筋の良さも手伝って一一歳にして丹波国司に就いたという経歴を持っている。しかし、彼は平家政権下で冷遇され、国司の職も一年で解任されている。その後は太皇太后藤原多子や上西門院統子内親王に仕えることで生計を立てるようになっていた。その彼が選んだのが坊門姫と離婚しないこと、すなわち、源頼朝と義兄弟であり続けることであった。一条能保は源頼朝と義兄弟になるために坊門姫と結婚したのでなく、自らの素性を隠して公的には北面の武士である後藤実基の娘となっていた坊門姫と結婚したら実は源頼朝と実のきょうだいであることを知ったという経緯である。このときの源頼朝についての公的な処遇は平治の乱の敗者であるために伊豆国に流罪となった国家反逆者であり、そのような人物と義兄弟になってしまうような結婚をしたと知ったとき、この時代の考えでは普通ならば即座に離婚となってもおかしくなかったが、一条能保は妻との離婚ではなく、未だ流人の身である源頼朝の義兄弟であり続けることを選び、その結果、源頼朝の京都におけるスパイの一人となることを選んだのだ。

 一一歳で国司になった早熟の天才でありながら気づけば無名の存在になっていた一条能保の正体に真っ先に気づいたのは平頼盛である。平家都落ちに帯同することなく鎌倉の源頼朝のもとに降ることを選んだ平頼盛は、自分と同じく木曾義仲から鎌倉まで逃れてきた無名貴族である一条能保を源頼朝が歓待していることを知り、ここでどうして源頼朝の挙兵からこれまで平家が敗北を重ねてきたのかを知った。知ったときには遅かった。源頼朝の要請に応じて全くの無名の存在であることを受け入れながら、さらには無能であると周囲を欺きながら、源頼朝のスパイであり続けることを選んだ人間が京都にいたことを知ったのだ。一条能保は木曾義仲から逃れるために鎌倉にまで逃げたのではなく、スパイとしての役割を終えたので鎌倉に戻ったのである。

 その一条能保が一年ぶりに鎌倉に戻ってきた。前年は木曾義仲からの避難という名目での鎌倉までの逃避行であったが、今や誰もが一条能保の正体を知っている。どういう理由で京都から鎌倉まで行くのかも誰もが理解できる話であるし、このタイミングで源義経に護られながら妻と一緒に鎌倉で行く理由についても誰もが納得している。

 ちなみに、鎌倉幕府第四代将軍藤原頼経は一条能保と坊門姫との間に生まれた娘の孫である。


 元暦二(一一八五)年五月八日、源頼朝が九州の戦後処理についての基本方針を発表した。それも、密書として九州に送り届けるのではなく、多くの文人官僚と討議した末の結論として、七か条からなる基本方針を公表したのである。

 以下がその七か条である。

 まず、宇佐八幡宮はこれまで平家の組織体制に組み込まれていたが、今後は平家以前の状態、すなわち、国家直属の神社とするように命じられた。

 次に、平家の組織体制に組み込まれる代わりに平家によって所有権を保全されていた宇佐八幡の領地については、本領安堵の一環として今後も宇佐八幡が所有権を有することを認める。

 三番目に、源平合戦によって大きく破損することとなった宇佐八幡宮の社殿については鎌倉方からの損害賠償によって修繕すること。

 以上の三か条は宇佐八幡に対する鎌倉方の方針である。源氏が八幡宮を氏神としているから宇佐八幡を特別視したというのは間違いではないが、それだけが理由ではない。宇佐八幡に対する対処は九州における他の勢力に対する先例となるのである。平家の保護下にあることによって保全されていた資産については、今後は鎌倉方の保護下で保全されることが約束されたのである。これにより、源平合戦後も平家方に残ることを選んで源氏に対峙することを選ぶ必要性がなくなった。

 四番目はその具現化のための第一歩で、平家が九州に所有していた所領についてまとめるように指令を出している。特に、平家の所領であったことが確実な所領だけでなく、所有権も保有権も不明瞭である所領に対し平家の面々が根拠無しに平家に保有権ありとして管理徴税をしていた所領についても明示化するように命令している。

 五番目から七番目は人事についてである。

 まず五番目に、鎌倉方の武士のうち源範頼に反抗したことが既に報告されている者を関東まで連行するように命令している。

 六番目に、源範頼に反抗したわけではないが、既に戦争は終わったとして勝手に関東に戻る者がいることを述べた上で、今後は勝手に帰還しないように命じている。なお、既に戻ってしまった者については何も記していない。この七か条は公表されたものであるため、九州を離れて自領へと戻る途中で源頼朝の発した基本方針を知ったなら、勝手に九州を放れて自領へと戻ったという情報が源頼朝の元に届く前にUターンして九州へと戻れば、源頼朝からの叱責を受けることはないだろうと期待を持てる。

 そして最後の七番目であるが、関西以西に新しく鎌倉方に加わることとなった御家人について名簿を作成すること、名簿作成の責任者は侍所別当の和田義盛とすることを命じている。

 これで九州はどうにかなったのかと疑念に思う人もいるかもしれないが、これでどうにかなったのである。資産が保護されるだけでなく、少なくとも鎌倉方の一員であることを選択した武士はもれなく源頼朝の支配下に組み込まれること、すなわち、源頼朝の命令なくして行動を起こすことはできなくなる。源範頼は源頼朝の指令の実践者であり、源範頼の命令が源頼朝の指令に背くものでない限り、九州の全ての武士が源範頼の命令下に置かれることが決まったのである。


 このときの討議に源頼朝が招集した人物として吾妻鏡に名が記されているのは、中原広元、三善康信、藤原俊兼、二階堂行政、惟宗孝尚の五名であり、五名とも鎌倉方の文官である。ただし、この五名しか招集されなかったわけではなく、吾妻鏡にはその他の人物も招集されたことが記されている。吾妻鏡になの乗っている五名はいずれも文人であるが、実際には文人だけではなく武士も討議に加わったかもしれない。いかにシビリアンコントロールの重要性を考えても、九州の戦後処理については、文官だけではなく戦場を体験している武人の意見が参考となったとしてもおかしくない。

 後に鎌倉幕府と称されることとなる組織体を鎌倉方が完成させたとき、その統治には一種の共和制度を導入し、地方分権についても幅広い裁量を持たせる組織体制を構築することとなるが、この時点の鎌倉方は源頼朝をトップとする上意下達の組織体制となっており、全ての指令が鎌倉の源頼朝をトップとするピラミッド構造になっている。とはいえ、リアルタイムの情報連携などできないこの時代の情報通信事情も絡んで、実際に派遣された者には、現在の基準で考えるとかなり高いレベルの裁量が与えられている。鎌倉幕府が組織として完成した後から考えると鎌倉の影響を強く受けるが、現在からすると自由裁量が与えられているというところか。

 源頼朝は鎌倉から動かないでいるが、鎌倉方の軍勢は関東地方から九州にかけての一帯に分散している。この分散を大きく分けると、鎌倉、京都、そして九州の三ヶ所となる。そして、鎌倉が源頼朝自身が存在して全体を指揮し、京都に源義経、九州に源範頼がいて、両名とも源頼朝の代理として現地のトップを務める。ただし、源義経はたしかに京都市民の人気こそ高いが武士達からの信頼は薄く、源範頼は鎌倉方の軍勢の総指揮を執ったという実績はあるものの凡庸という評価を得ている。

 鎌倉と京都との間には流人当時の源頼朝が既に情報路を構築し、鎌倉にいながら京都の情報を掴むことに成功し、鎌倉から京都に書状を用いた指令を送ることも可能になっていた。しかし、京都より西、特に九州に滞在する源範頼との連絡となると、完全に断絶しているわけではないが未完成である。たしかに大和朝廷の頃から畿内と九州とを結ぶ情報路は存在していたので、京都を経由することで鎌倉と九州との情報路を構築することは可能であるが、物理的な距離はどうにもならない。どんなに短くとも一ヶ月は見込んでおく必要がある。ゆえに、九州の戦後処理の方針を定めるにあたっては、九州にいる源範頼にある程度の裁量を与えながらも、源範頼による統治は鎌倉の源頼朝の指令に基づくものであることを示さねばならない。凡庸と評価されてきていた源範頼の独自の発言だと耳を傾けることは少なくとも、源頼朝が、鎌倉にいる多くの文人官僚と検討した末にまとめた指針に基づく発言とあれば、いかに源範頼に嫌悪感を示す人であろうと耳を傾けないわけにはいかない。源頼朝が九州の戦後処理の基本方針を明示したのは、鎌倉と九州の物理的な距離の制約と、源範頼をトップとする現地の体制の現実、そして、実際に統治を受けることとなる九州の庶民感情を考えての妥当性を持った内容と判断するしかない。


 壇ノ浦の戦いで平家は敗れた。しかしそれは平家一門の全滅を意味する結末ではない。平家の公達として朝廷に君臨していた面々が囚われの身となり、平安京で見世物として引き回された後に鎌倉へと連行されていったのは事実であるが、平家一門として戦い続けてきた武士が一人残らず同じ運命を迎えたわけではないのである。壇ノ浦の戦いで海の底へと沈んでいった武士がいると同時に、壇ノ浦から逃げ延びた武士、そして、そもそも壇ノ浦の戦いに参加しなかった平家方の武士もいた。

 こうした平家の残党を探し回るのも源範頼や源義経に課された任務であり、鎌倉方の武士達への任務でもあった。落ち武者となった平家の残党は一つのまとまった勢力となっているのではなくバラバラになっている。それは平治の乱の後での源氏でも同じであるが、壇ノ浦の戦いにおける平家は平治の乱のときの源氏と比べて圧倒的に強大な権力を手にしていた集団であり、平家一門であることを利用することで振るうことのできていた権力も平治の乱時点の源氏とは比べ物にもならない。つまり、落ち武者となった個々の面々はバラバラに散っているのであるが、落ち武者一人ひとりの振るうことのできる権力がかなり大きい。

 元暦二(一一八五)年五月一〇日、志摩国から京都に一つの報告が届いた。志摩国麻生浦において、加藤光員の率いる軍勢が伊藤忠清を捕らえたとの連絡が届いたのである。伊藤忠清は平家都落ちに帯同せずに畿内に留まったのち、出家して僧籍に入ることで身を隠しつつ伊勢国に逃れ、元暦元(一一八四)年七月には平家都落ちに帯同しなかった平家方の武士達と供に反乱を起こした人物である。反乱そのものは後に「三日平氏の乱」と呼ばれるほどに短期間に鎮圧され、伊藤忠清の多くの仲間は源氏方の軍勢に討伐されたが、伊藤忠清自身はその後で行方をくらませることに成功していたのである。言わば、平家の落人の中でもっとも京都に近いところに潜んでいる不穏勢力であったのが伊藤忠清だ。

 伊藤忠清を拿捕したという知らせは京都に安堵の息をつかせた。と同時に、伊藤忠清へのこれまでの恐れから、実に単純明快な、しかし残酷な判断を下した。

 伊藤忠清、斬首。

 京都を悩ませる頭痛の一つが消えたことで、前年の夏に京都市民を恐怖に追いやった人物が死を迎えたことで多くの人が安堵の息を吐いた。しかし、落ち武者となった平家の残党にとっては、拿捕と死とが同じ結末であることを伝える宣告ともなったのである。源氏によって捕らえられるだけでなく、自分のことを捕らえた相手が源氏であるかどうかに関係なく、捕らわれることが死を迎えることを意味するようになったのだ。

 これにより、平家の残党はますます人目を避けるようになり、テロリズムへと傾倒していくようになった。


 壇ノ浦の戦いで拿捕された平家の面々が鎌倉へと連行されるというのは、源氏の独断専行ではなく朝廷からの正式な指令に基づく政務遂行である。その護送を源義経が引き受けているのも、実質上は源義経が源頼朝の弟であるからであるが、名目上は検非違使として治安維持を司る役職にある人物が、犯罪者を連行する際に護送しているという形になっている。

 源義経という人は、一ノ谷の戦いや屋島の戦いでの不意打ちのイメージもあって、いきなり姿を見せる人という固定観念を抱かれやすい人であるが、実際にはかなり筆まめで、不意打ちを狙うのでない限り自分達がこれから向かう先に先遣隊を派遣して書状を届けさせ、これから源義経らの一行がここを通ることを事前に伝えることで、通る予定の町や村に準備を整えさせている。ただし、こうした先遣隊の派遣は源義経だけではなく、平時においてある程度の規模の人数を率いて行動する人であれば誰もが実施することであり、源義経の先遣隊の派遣は何も特別なわけではない。特別なことがあるとすれば、文人としての源義経は自分の書いた手紙が後世の文例集に載るような模範的な文書を書き記す人であるということ、すなわち、誰もが理解できる明瞭簡潔な文章であるために、書状を受け取った人は言い逃れができないという状況を作り出せる人であるということである。

 そのため、源義経の派遣した先遣隊が持参した手紙を読むだけで、どれだけの人数がどのタイミングで到達するのかがわかってしまう。戦時においてはこれから軍勢が拉致する人数と略奪する物資の数が事前に判明するという恐怖の書状であったが、平時においてはこれからちょっとした非日常のパレードが繰り広げられるという予告になり、畏怖ではなく一応は歓迎の対象になる。ただし、積極的な歓迎ではない。何より負担が大きい。有り体に言えば食糧だ。

 京都から鎌倉に向かう場合、ある程度の食糧を持って移動はするが必要を満たすほどでは無い。食糧をはじめとする消耗品は途中での現地調達を前提として行動するのである。それでは移動経路に負担になるだろうという思いがあろうと、そもそも、養和の飢饉から立ち直る過程である出発時の京都にそこまで満ち足りた食糧などなかったがゆえに、行軍途中で食糧を恵んでもらうしかなかったのだ。とは言え、いかに東国における養和の飢饉の被害が西国よりは軽かろうと、途中の町や村もそこまで余裕のある暮らしをしているわけではない。余裕のある暮らしをしているわけではないが、受け入れないという選択肢は無い。採りうる選択肢は、食糧を用意しなければならないのはやむをえぬこととして受け入れて、行軍そのものを眺めることを一生に一度あるか無いかの一大イベントと捉え、最小限の負担はするから早々に過ぎ去ってもらうというものである。

 ちなみに、町や村の庶民は一行を迎え入れるための食糧は用意しなければならないが、宿泊施設を用意する必要は無かった。この時代に現在のようなホテルなどないが、その代わりに寺社がある。あるいは、その土地の有力者の私邸がある。寺院は元からして宿泊機能を有しているし、地域の有力者の私邸も来客用のスペースを邸宅内に構えているのがこの時代では当たり前である。普段は庶民の上に立って町や村で威張っている寺社や地域の有力者も、このときばかりは庶民から同情を受けるものである。

 こうした源義経の先遣隊は実際に源義経が姿を見せる前に源義経がこちらに向かっていることを知らせる役割を果たしていたが、先遣隊は最後の最後で源義経の到着よりも重要な知らせを届ける役割を担った。元暦二(一一八五)年五月一一日、源頼朝のもとに、従二位に昇叙したことの正式な知らせが届いたのである。忘れてはならないのが、源義経の一行には一条能保がいたことである。彼は一行の最上位者であり、朝廷からのかなりハイレベルな書状を直接源頼朝の元に届けることのできるだけの位階と役職を持っている。もっとも、源頼朝自身は自分が従二位に昇叙していることは別ルートで知っていたようで、このときの情報伝達はあくまでも正式な情報伝達である。


 壇ノ浦の戦いで捕らえた平家の面々を源義経が護衛して鎌倉へと向かっているという知らせはかなり早い段階で鎌倉の源頼朝のもとに届いている。元暦二(一一八五)年五月一一日に源頼朝の昇叙の知らせが届いたときにはもう、何月何日頃に一行が鎌倉に到着するのか推測できていたほどだ。

 第二報が鎌倉に届いたのは五月一五日のこと。この日、相模国酒匂(さかわ)、現在の神奈川県小田原市に一行が到着する見込みであり、翌日には鎌倉に一行が到着するというのがその連絡である。

 ここで、かの有名な出来事が起こる。源義経の悲劇の始まりである腰越状である。源義経は鎌倉に入ることを許されず、鎌倉の手前の腰越で自らに非がないことを書状に書き記し兄に向けて送り届けたものの、源頼朝からの返答は無く、源義経はおとなしく京都へと帰るしかなかったというのが腰越状の骨子であるが、状況だけ見ればその通りでも、実情はかなり異なる。

 まず、五月一六日に壇ノ浦の戦いで捕らえられた平家の面々が鎌倉に到着した。平宗盛は輿に、平宗盛の息子の平清宗をはじめ、源則清、平盛国、源季貞、後藤盛澄、藤原経景、後藤信康、矢野家村といった面々が馬に騎乗して若宮大路を進んだ。このように書くと平家の面々が堂々たる行進を鎌倉のメインストリートで繰り広げたかのように思えてしまうが、実際には見せしめである。若宮大路を進んだ彼らは源頼朝の待つ御所へと進んで、ここで源頼朝と面会するのを待つこととなった。平宗盛にしてみれば、平治の乱の後で捕縛された姿を見てから四半世紀を経て、あまりにも違う立場になってしまった関係での再会となる。なお、源頼朝と実際に面会するのはこの日のうちというわけにはいかず、しばらく待たされることとなる。

 吾妻鏡によると、平家の面々に対する処罰について後白河法皇経由で朝廷から指令が出ていたという。死罪がそれである。ただし、平時忠は三種の神器のうち八咫鏡(やたのかがみ)を紛失させなかったことを評価して、本来ならば死罪であるところを罪一等を減じるとの指令も来ている。これに対し、源頼朝は彼らに死を命じることなく、特に平宗盛には御所の一室を与え中原広元が直接遇するというこの時点の鎌倉方における最大限での厚遇でもてなした。平宗盛は敗者であるが最高官職が内大臣という、これまで鎌倉を訪れたことのある人の中で最高官職の人物である。

 ここまでは問題ない。

 問題は、ここに至るまでの流れに京都からやってきた源義経も一条能保もいなかったことだ。これが後の腰越場の伏線となっているのだが、よく見ると彼らが二人ともいないことは非合理的な判断でもなくなるのだ。

 まず、源義経は現職の検非違使である。平家の落人を京都から鎌倉まで源義経が連行してきたのは、実質上は源頼朝の弟だからという理由であるが、理論上は検非違使の役職の一つである。本来であれば京都在駐が必須である検非違使が京都から離れて鎌倉の近くまで来ることのほうが異例であり、鎌倉に入らないでいるのは職務遂行だけを考えれば正しいのである。

 どういうことか?

 そもそも平家討伐の法的根拠は二種類存在していた。一つは寿永三(一一八四)年一月二一日の公卿議定に基づいて源頼朝に対し発せられた平家追討の宣旨、もう一つは元暦二(一一八五)年一月八日の源義経の奏上である。源氏の武士団と一言で言っても、厳密に言うと、平家追討の宣旨によって軍事行動を展開している源頼朝の軍勢と、検非違使としての治安維持活動の延長で活動している源義経の軍勢とがあり、その両者が混合しているのが源氏の武士団なのである。そして、源義経は既に平家を伴って壇ノ浦から京都に帰還しており、この瞬間に源義経の平家討伐任務は完了している。以降の源義経は検非違使としての職務に専念することが求められ、検非違使として平家の面々を鎌倉へと連行する職務を果たすために京都から相模国まで向かったのである。

 鎌倉にいる源頼朝に平家の面々を引き渡したのは、平家追討の宣旨に基づく平家の処断を、宣旨を受けた源頼朝に遂行してもらうためであり、事実上は源氏方の一員である源義経も、法的には宣旨の実践である場に参加する資格を有さない。源義経が次に果たすべき責務は源頼朝の下した平家の面々に対する処罰を京都に伝えることであって、その処罰の内容そのものを下すことではないのだ。

 それでも、必ずしも鎌倉に入ることが許されないというわけではないはずであった。処罰の場にいることは許されなくとも、鎌倉入りすることそのものは問題ないと言えばその通りなのである。しかし、源義経は鎌倉入りしていない。

 それは五月一六日以降に源頼朝のもとに届いた知らせを考えれば納得できる。


 平家の面々が鎌倉に到着した日である元暦二(一一八五)年五月一六日、一条能保の従者と源義経の従者とが争いを始めた。口論だとか、殴り合いだとか、そんな平和的な諍いではない。武器を手にとっての殺し合い寸前に至ったのである。

 経緯は以下の通りである。宿舎にて源義経の従者の伊勢能盛が食事を用意するよう指示をしている最中に、一条能保の従者である後藤基清の家来が伊勢能盛の宿舎の前を走りすぎようとしたところで、伊勢能盛の替え馬が後藤基清の家来の一人を踏んでしまった。後藤基清の家来が伊勢能盛の家来に対して馬の扱いをしっかりしていないせいで馬が蹴飛ばされたと文句を言ったところ、伊勢能盛の家来からは馬が勝手にやったことだから馬に文句を言えと反論。後藤基清の家来は頭へ来て刀を抜いて馬の手綱を切ってしまったため馬は走って逃げていってしまった。

 これを目にした伊勢能盛らは外へ走り出て弓矢を手にして矢を放ちまくり、後藤基清の家来らは慌てて逃げ回ることとなった。ただし、それを受け入れるほどこの時代の武士は甘くはない。やられたらやり返すのがこの時代の武士である。一条能保の従者らが馬に騎乗して源義経の従者らに復讐してやると息巻くまでになったのである。

 事態を重く考えた一条能保が慌てて源義経のもとに連絡を遣ると同時に従者達の争いをむりやり押しとどめ、さらには事態が鎌倉の源頼朝のもとに伝わることのないように箝口令を敷こうとしたが、このような知らせが手に入らないような源頼朝ではない。

 源頼朝はこの騒動を知ったとき、伊勢能盛に原因があるとして断罪しただけでなく、伊勢能盛は源義経の従者でもあるため責任は源義経にも及ぶとされた。源義経はもとからして股肱の部下の乏しい人間であり、数少ない股肱の部下の制御すらできないとあっては人の上に立つ者として大きなマイナスである。

 この争いが五月一六日のことであり、一条能保が鎌倉に来ることができたのは翌五月一七日である。なお、一条能保は前日に高熱を出して倒れていたために五月一七日の鎌倉入りとなったということにされた。この時点で源義経に関する処遇は公表されていない。

 ただし、源義経に関連する決議がなされたことが元暦二(一一八五)年五月一九日のこととして記録に残っている。京都やその周辺の治安が悪化していることを問題視し、左衛門少尉兼検非違使少尉として京都の治安維持を担当すべき源義経が相模国にいることの弊害が出てしまっているとしたのである。しかも、治安悪化の元凶は平家の敗残兵だ。源氏に敗れたことを受け入れずに平家の権力がまだ続いているとし、後鳥羽天皇は皇位僭称者で帝位は今でも安徳天皇にあるとし、僭称者に対する抵抗に協力しろという名目で京都市中や周辺の農村に出没しては夜闇に乗じてめぼしいものを奪い取っている。それがここに来て急激に増えてきており、ただちに源義経を京都に戻してほしいという陳情まで届いていたのである。

 平家だけでなく源氏にも問題があった。遠江国では自分が源頼朝に仕える御家人であるとして年貢を勝手に徴収し、さらには朝廷に使者を派遣して勝手に院宣を得ようとする者も現れた。また、源義経の親族であると詐称して他者の荘園に勝手に押し入っては所領とする者も現れた。なお、源義経の親族と詐称した者は自分で自分のことを源義経の娘婿だと言ったが、この時点で源義経に娘がいたという記録は無い。そもそも元暦二(一一八五)年時点で源義経はまだ二五歳であり、結婚したのは前年九月のことである。もっとも源義経に愛人がいたという記録もあるので源義経の愛人が産んだ女の子の婿と称したのかも知れないが、それにしてもまだ二五歳である人間の娘の婚約者ならばまだしも婿を名乗るとは、剛胆というより浅慮とするしかない。なお、吾妻鏡ではその人物を源有綱、すなわち、源頼政の孫で、以仁王の挙兵時に伊豆国にいたために難を逃れたものの、身の安全が脅かされる懸念があることから伊豆から離れる必要があったことと、源頼朝から平泉にいる源義経との連絡をとることが求められたことから、奥州に逃れたのちに源義経とともに平泉から参戦した人物であるとしている。ちなみに、富士川の戦いの後で源義経が源頼朝と出会うシーンに源有綱がいたかどうかを示す確実な資料は無い。


 平宗盛らは鎌倉に連行されたが、壇ノ浦の戦いに至る一連の戦いにおいて拿捕された全ての平家の面々が鎌倉に連行されたわけではない。京都に留められた者もいるし、平宗盛の息子の平能宗のように既に処刑された者もいる。

 基本的には、文人や僧侶は京都に留め置かれ、武士については鎌倉に連行されている。拿捕した平家の面々に対する処罰を鎌倉の源頼朝に任せたとは言っても、京都に留め置かれている人物についての処罰は朝廷で定めるとしたようで、元暦二(一一八五)年五月二〇日に、平家と同行した文人や僧侶、合計九名についての処分が決まった。

 元権大納言平時忠、能登国への流罪。

 元内蔵頭平信基、備後国への流罪。

 平時忠の子である元左近衛中将平時実、周防国への流罪。

 元出羽守藤原尹明、出雲国への流罪。

 醍醐寺の僧侶で安徳天皇の護持僧であった良弘、阿波国への流罪。

 二位尼平時子の猶子でもある僧侶の全真、安芸国への流罪。

 平教盛の子でもある僧侶の忠快、伊豆国への流罪。

 二位尼平時子の弟でもある僧侶の能円、備中国へと流罪。

 熊野別当である行命、常陸国へと流罪。

 ただし、朝廷としてはこのように処分を決めたものの処分を執行するのは検非違使であり、検非違使の一人である、そして組織図上は検非違使の三番目の職務であっても事実上検非違使の実務を一手に担っている源義経が京都に帰還してからである。源義経が平宗盛らを鎌倉へと連行していったことは周知の事実であり、京都から鎌倉まで往復でどれぐらいの時間が掛かるのかを考えると前述の九名に対する刑の執行はそれなりに待つこととなる。言い換えれば、自宅軟禁状態ではあるものの刑の執行はされていないため、完全なる自由ではないもののそれなりの自由は手にできていたこととなる。

 その自由の中には文書通信の自由も含まれる。本人は邸宅から出ることができなくとも、書状を託して外部との連絡をとるとは可能だ。

 そして、彼らの選んだ連絡先、それは源義経であった。

 まったく、彼らにとって源義経以上に命乞いを託せる相手などありえなかった。壇ノ浦の戦いに至るまでどれだけの仲間が源義経に殺されたかなど、命乞いを思いとどまらせる要素にはなり得なかった。鎌倉方の最高指揮官である源頼朝の弟にして京都における現地指揮官であり、朝廷から検非違使の役職を拝領しているために京都における警察権も持っている、すなわち、源義経さえどうにかできれば自身に科せられた流罪という刑罰を軽減ないしは無効化することも不可能では無くなる。

 それを源頼朝が許すわけなどないと思いもしなかったのかと疑問に感じる人もいるであろうが、流罪になるかどうかの瀬戸際である。ダメでもともと、上手くいったら儲けものという心境である。源義経に命乞いしたところで失うものなど何もないのだ。


 平家の生き残りが命乞いを試みている一方、源頼朝は二つの観点から今後の対応に目を向けていた。

 一つは平家の破壊した奈良の再興、もう一つは国外との関係性である。

 平家の破壊した奈良の再興について記すと、元暦二(一一八五)年五月二一日に源頼朝は奈良から呼び寄せた仏師の成朝と面会したという。鎌倉に仏像を建立させることが主目的であるが、同時に、現在進行形で再建中である東大寺の大仏の建立の状況を確認すること、すなわち、灰燼に帰した奈良の復興のシンボルが現時点でどこまで元に戻っているのかの状況を確認することも目的としていた。

 治承四(一一八〇)年一二月二八日の南都焼討で東大寺盧舎那仏像、いわゆる「奈良の大仏」が焼け落ちてから再建工事が始まるまで半年も必要としなかった。平清盛が亡くなって間もなく平宗盛が東大寺と興福寺に課されていた制裁を解除したからである。ただ、いかに処分を解除したと言っても灰となってしまった建物がただちに蘇ることはなく、そして、失われてしまった命も生き返ることはない。それでもどうにかして元に戻そうと努力したところで、先立つモノが無ければ身動きできない。東大寺も興福寺も寺院再建を宣言しながら灰燼に帰した後の後始末をすることもできずにいたのである。それでも興福寺は藤原摂関家の私的な支援によってどうにか再建に向けて動き出せていたが、東大寺はどうにもならないまま放置されていた。

 東大時代勧進職、すなわち東大寺再建の責任者となった僧侶の重源は、奈良時代の行基を見倣って山陽道各国や近畿地方各地を巡って東大寺再建の協力を募っていたが、重源の苦労は全くの無駄ではなかったものの東大寺の再建にははるかに届かなかった。

 その危機を救った人物が、源頼朝と、奥州藤原氏第三代当主藤原秀衡の二人である。南都焼討から三年半を経た元暦元(一一八四)年六月二三日に、源頼朝から金一〇〇〇両、現在の貨幣価値にすると三億円、平泉の藤原秀衡から金五〇〇〇両、現在の貨幣価値で一五億円もの金額が東大寺再建費用として寄附されたと公表されたのである。

 それがどんなに見返り無しの善意に基づく寄附であろうと、寄附の結果がどうなったか、あるいは現在進行形でどうなっているかを寄附してくれた人に伝えないということはありえない。寄附した人が知らないと情報を拒絶するのは寄附した人の自由であるが、寄附を受けた人は寄附してくれた人に現状を伝える義務がある。吾妻鏡にあるのは源頼朝が奈良の再建についての確認をしたことだけであるが、おそらく奥州藤原氏のほうでも奈良の復興の様子は確認していたはずである。ただし、中央から距離を置いた独自の勢力の確立を図っていた奥州藤原氏の場合は中央と従来通りの距離を絵続けるための出費であったのに対し、国家再興を念頭に置いている源頼朝にとっては中央との距離を縮めるための出費である。奈良の復興、特に奈良のシンボルである大仏の再建は、平家が時代の破壊者であり、源頼朝は平家の破壊から日本国を救い出す次世代の執政者たることを示す絶好のアピールポイントなのである。


 もう一つの関係性である国外との関係性であるが、実は源平合戦では一つの奇跡が起こっている。内乱で国内が荒れ狂っているのに他国からの侵略を受けなかったという奇跡である。

 南宋は孝宗、金帝国は世宗のもと国内の安定を見せており、両国間の関係も一一六四年に結ばれた隆興の和議に基づく平和が維持されていた。後に脅威となるモンゴルもこの段階ではまだ国家権力として成立しておらず、金帝国の勢力に刃向かうどころか圧力に屈している側であった。

 問題は高麗だった。高麗は一一七〇年の庚寅の乱によって武臣政権が成立し、高麗国内で地方での勢力を持つ武人達が権力をめぐる争いを繰り広げていた。保元の乱以降に武士が政権の中枢に食い込むようになり、平治の乱で動静が完全に決まった日本と状況が似ていると言えばその通りであるし、自身が国家元首となることなく傀儡の国王を擁立して政権を牛耳るという構造も平家政権と類似していると言えばその通りであるが、日本と決定的な違いが一つある。名目上はともかく実質上のトップに立った人間は事実上平清盛ただ一人がだけという平家政権と違い、高麗の武臣政権は実質上のトップに立つ人物がコロコロと変わってきた。一一八五年時点で高麗の政権を事実上掌握してきた李義?(イ・ウィミン)で既に四代目、しかも過去三代のうち二人が暗殺死という不安定さである。不安定な政権となってしまったとき国外に敵を作ることで国内世論を一つにまとめると同時に国内の不満を逸らせることがあるが、李義旼政権はそのような選択を選ばなかった。いや、選べなかった。強権で高麗国内を強引に統治していたからである。李義旼に仕える武人達は国外から侵略してくる敵に向かい合うのではなく国内で政権に楯突く敵と向かい合う日々を余儀なくされていたのである。

 また、平家は南宋との交易を政策の根幹の一つとしており、そのための交易港として福原を建築したほどである。また、平家は平清盛の父の平忠盛の段階で既にこの時代の日本最大の貿易港である博多港を手に入れていた。すなわち、博多港の目の前にある高麗のことを平家が脳裏に置かないはずは無いのであるが、平家の交易政策の相手は南宋に偏っていて、高麗は無い。探せばあるだろうが微少とするしかないのである。ただ、関係が乏しいということは、消極的ではあるが平和の構築にもつながる。こうした日本と高麗との関係によって幸いにして源平合戦の渦中に国境を越えた戦乱となるまで発展することは無かったが、源平合戦末期に危機を迎えたのである。

 吾妻鏡によると、屋島の戦いの半月後、壇ノ浦の戦いから見ると二〇日前であたる元暦二(一一八五)年三月四日に対馬守の宗親光が高麗に渡ったとあり、渡った理由が劣勢となっている平家が対馬に向かってくる恐れがあったための逃走であったというが、無関心ゆえに戦端を開くことなく済んでいるのに、このタイミングでの高麗渡航は高麗にとって不満を逸らすための絶好の口実を生みだしてしまうのだ。亡命した宗親光を対馬に戻すというのは高麗軍を組織して対馬へと侵攻するこれ以上ありえない口実であり、高麗の国内世論を一時的にしても対馬侵攻、高麗に言わせれば高麗解放に向かわせることで高麗の安定を図れるのだ。

 源頼朝は元暦二(一一八五)年五月二三日に、高麗に対して正式に平家が滅亡したこと、そのため、平家が対馬に侵攻することが無いことを通告した上で宗親光を戻すように要請する使者を派遣することを決めた。なお、このときは文人官僚ではなく鎌倉方の武士の一人を派遣させているのは、使者を実際には高麗に渡らせるわけでなく、対馬に在駐させて対馬に鎌倉方の軍事拠点を構築することが求められたからである。


 平家の落人を鎌倉まで連れてきた源義経は、京都で流罪宣告を受けた平家の文官や僧侶達からの命乞いのターゲットになっていることを知らないまま、鎌倉の手前で待たされ続けていた。九日間に渡って鎌倉に入れないでいることにしびれを切らし、どうにかして鎌倉に入ることができないものかと嘆願するために源義経が書いたとされているのが、かの有名な腰越状である。吾妻鏡では元暦二(一一八五)年五月二四日の出来事として、源義経が腰越で源頼朝宛の書状を書き記し、中原広元に書状を託したものの、源頼朝からは結局鎌倉に入ることができなかったとしている。

 吾妻鏡にはそのときの源義経が書き記したという書状がそのまま転記されている。この時代の正式な書状は全て漢文であり、源義経が書き記した書状も全て漢文である。

 その内容を現在文に訳して書いてみると以下のようになる。

 「左衛門少尉源義経、恐縮ながら申し上げます。私は鎌倉殿の代理の一番手に選ばれ、皇室への使者を務め、国の敵を倒し、先祖代々受け継いできた武芸を披露し、亡き父の雪辱を果たしました。本来ならば称賛されるべきところですが、予想だにせず非難を受け、多大な手柄も無視されてしまいました。私は何ら非もないのに責められてしまい、手柄は立てても間違ったことはしていないのに、鎌倉殿の怒りを受けて悲しみの血の涙にふけっております。色々と考えてみますと、良薬は口に苦いと言いますし、正しい忠告は耳が痛いと、昔のことわざにもあります。今ここで、告げ口をした奴の是非を正すことなく、私を鎌倉へ入れないまま、私の真意を話しようも無く、虚しく日数を費やしております。今に至るまで長い間お会いしていないのでは、兄弟の情は無いのと同じじゃないですか。私の運もここまででしょうか。あるいは、よほど前世で悪いことをしたので、その報いを受けているのでしょうか。悲しいことです。このようなことでは、亡き父が生き返りでもしない限り、誰が愚かな私の悲しい境遇を申し開いてくれましょうか。誰が私を哀れんで救ってくれるでしょうか。いま始めて話すことは思い出話のようではありますが、私はこの体を父母から授かり、生まれてすぐに父は亡くなり、孤児となってしまい、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ向かって以来、一日たりとも平穏な日々はありませんでした。どうしようもないとは思いながらも、京都では平家の目が光っており、思うように行動もできないので、諸国を流浪してあちこちに隠れ住んでいました。また、地方の田舎に隠れ住み、その土地の人達のもとで凌いできました。しかし、待っていた甲斐があって、時は熟し平家一族を追討するために京都へ上り、ちょうど出くわした木曾義仲を攻め滅ぼしました。そのあとは、平家を倒すために、あるときは険しい岩だらけの山へ馬で登り、敵を滅ぼすためには自分の命を惜しみませんでした。またあるときは、大きな海原を風波に翻弄され、その体は鯨の餌になってしまうかも知れないと感じても、これを気にかけず、そればかりか、甲冑を枕とし、弓矢を仕事とする立派な武士でありました。私の思いは、父の敵討ちをして父の屈辱を晴らすことです。その望みを遂げたいと思っていた以外には何もありません。しかも私は五位の検非違使に任命されたことて源氏の面目を立て、一族の誇りとなる住職を務めました。これより素晴らしい名誉はありません。そうはいっても、今となれば情けが無く悲しいことです。神や仏の助けを借りる以外に、どうすれば私の哀しい訴えを届けられるでしょうか。ですので、全ての神社に、(誓を守らないと天罰を受けるとされている)牛王宝印の押してある紙の裏面に、全く野心を持っていないと、日本国中の大小の神様達に約束を破ったら罰を受けてもいいと誓い、何枚か誓いの起請文を書いてお出ししているのに、未だに許してはもらえていません。そもそも、わが国は神の国であり、神に誓った起請文が通用しないのなら、他に手立てがありません。ここは鎌倉殿の寛大な慈悲の心に訴えて、機会をえてお耳に届くよう、策略を練り、間違いではないと気付かせてもらって、私が許可をされたならば、積み重ねて余りあるほどの気配りを源氏一門に与え、子々孫々まで大事にさせましょう。そして、今までの悲しいことを解決し、この世の安心を与えて欲しいと思いますが、思うように書き切れませんので、簡単な文章になってしまいました。賢明なる判断を下していただきたく願います。源義経は恐縮しながら謹んで申します。元暦二年五月日左衛門少尉源義経 進上 因幡前司殿」

 前述の通り本来は漢文である。そして、源義経という人は文人官僚として京都の貴族と対等に渡り合えるだけの文章作成能力を持っている人である。実際に当時の文例集に源義経の文章が採用されたほどで、源義経は官僚として申し分ない文章を書き記すことのできる人なのである。

 それだけの文章力を持つ人でありながら、文章としては弱い。現代語訳した筆者の力量の低さも認めねばならないが、もととなっている漢文そのものの文章が弱い。腰越状は自分の感情を包み隠さず書いた文章であって、それまで源義経が書いてきたような定型的な文章ではないと言えばそれまでだが、定型的な文章か否かの問題であるとしても、吾妻鏡に記載されている腰越状は源義経の残してきた他の文章とはあまりにも大きな隔たりがあるのだ。


 この文章の違いの理由については、源義経の直筆ではなく、源義経の右筆、すなわち、雇用主の代わりに文章を書き記す役職を受け持つ者とされている中原信康が腰越状を記したから生じた違いであるという説もある。だとすれば文面の違いも許容はできよう。ちなみにこの中原信康という人物であるが、源義経が京都に留まって各種事務手続きをする際に事務方のサポートをするために源義経が雇った人物とされており、平家物語をはじめとする源平合戦についての叙述で源義経の活躍が細かく描かれているのは、中原信康が源義経とともに行動し続け、戦場における源義経の言動や行動を記録しており、その内容を平家物語をはじめとする源平合戦の叙述を書き記す際に中原信康の残した記録を当時は参照できたからだともいう。そして、後に源義経の動静が歴史から消えることになるのも中原信康が源義経から離れたからだともいう。だとすれば文面の違いとして許容できる。後世の文例集に採用されている源義経の残した文面は一ノ谷の戦いの前までの書状であり、中原信康が源義経に雇われたタイミングがいつであるかを考えると一ノ谷の戦いを終えて源義経が京都に戻ってからというのがその答えになるから、現存する源義経の書状と、吾妻鏡に掲載されている腰越状の文面との差異もそれで説明できる。

 ただ、腰越状は文面そのものよりもっと大きな問題を抱えている書状なのだ。

 それは、そもそも源義経は腰越状など書いていないということ、正確に言えば、腰越状そのものが存在せず後世の創作であるという説が有力だということである。私もその説に同意なのだが、そもそも源義経に腰越状を書き記さねばならない動機が存在しないのだ。同時代記録である九条兼実の日記には腰越状に記したような源義経の心情を転記したかのような記載も存在するが、日記に書き記した時点の九条兼実の立場を考えると、源義経の心情を慮(おもんばか)るよりもむしろ源頼朝への攻撃材料として記載していると考えるほうが適切だろう。とすると、先に九条兼実の記載があり、あるいは当時の人の源義経に対する同情ないしは源頼朝に対する反感があり、その記載や反感を腰越状という形で吾妻鏡に残したと考えるほうが適切であろう。

 感情を抜きにして状況だけを記すと、鎌倉に入れず鎌倉の手前の腰越で留まっていたのは事実でも、それは源義経が検非違使としての役割を果たしていたからに過ぎないのだ。検非違使たる源義経に課せられた使命は三つ、まずはじめに、犯罪者たる平家の落人を鎌倉に連行して源頼朝に処罰を検討してもらうこと、二番目に、そのまま鎌倉で処罰されたならば結果を京都に伝えること、最後に、処罰だけを下して実際の処分を、京都や、あるいは鎌倉から京都までの道中のどこかで検非違使たる源義経が執り行うのであれば、罪人たる平家の落人を鎌倉から連れ戻すことの三つである。その間、源義経は検非違使としての職務を遂行するために鎌倉に入らないまま日時をやり過ごさねばならない。検非違使たる源義経が不在のまま刑罰を下すことが許されるのかという疑念もあるだろうが、このときの源頼朝は従二位の位階を得ている公卿の一人であり、源義経は源頼朝の命令を遂行するのが役割なのである。検非違使不在という京都の治安維持の問題は念頭に置かねばならないが、それとて、平家の落人の処分を考えれば優先順位を落とさねばならない話になるのがこの時点の状況である。それに、源義経は検非違使の序列で言うと三番目である。有名無実と化していようが源義経は数多くいる検非違使のうちの一人である。

 たしかに鎌倉の手前の腰越で滞在し続ける日数が長くなっている。だが、このときの源頼朝は平家の落人に対する処罰を定めるだけでなく、平家滅亡に伴う日本国の再建、さらには国外とのやりとりについても検討しなければならなかったのである。討議する日数が短かったとしたらむしろそのほうがおかしいほどだ。既に述べた高麗との関係もあるし、平家が破壊した奈良の復興の問題もある。そして一番大きな問題として国民生活の復旧が存在する。鎌倉の手前で待たせている源義経のことは、必ずしも優先させねばならない要素ではない。

 腰越状を書かねばならなかったほど源義経が追い詰められていたわけでも、腰越状を書かせるほどに源義経を排斥しようとしていたわけでもないことは、このあとで源頼朝が源義経に対して下した処遇からもわかる。実際の内容は源頼朝が下した処遇が公表されたときに記すが、内容に対する評論を一点だけ先に記すと、これが源義経を排除しようと考える人間の考えた処遇であろうかと疑問に感じる内容なのである。


 源頼朝は京都における自らの代理人を必要としていた。

 吾妻鏡によると、腰越状の翌日である元暦二(一一八五)年五月二五日に、事前に派遣していた二名の廻国使、すなわち、京都とその周辺の領地争いと年貢徴収の審判ならびに治安の改善のために鎌倉から京都へと派遣していた中原久経と近藤国平の両名に対し、実務の補助をする六名の武士を派遣するとともに従二位源頼朝の名で記した書状を送り届けたとある。中原久経と近藤国平の両名が京都に派遣されたのは屋島の戦いの始まる前の二月五日であるから、これまでは鎌倉の源頼朝が派遣した鎌倉方の代表者という扱いであったが、書状が届いたならば従二位の公卿の命令で動くこととなる。

 想定では、二名の廻国使の上に源義経が立つことで、鎌倉方の京都における出先機関を成立させ、左衛門少尉兼検非違使少尉である源義経の公的権力を利用した秩序回復の実務を担わせようとしていたのであるが、源義経は京都を離れている。ゆえに、京都における実務は二名の廻国使に委ねられることとなっていた。痛手ではあるが源義経が戻るまでは対処できるであろうというのが元暦二(一一八五)年五月下旬における源頼朝の想定であったのだ。

 しかし、その想定は元暦二(一一八五)年五月二七日に届いた急報によって崩れ去ることとなった。どれだけ急いだのかは、問題となった事件が発生したのが五月一八日であるのに、五月二七日にはもう、源頼兼が鎌倉に到着して事件を源頼朝に直接報告したことからも読み取れる。

 どんな事件が起こったのか?

 何者かが内裏に忍び込み、御剣を盗み出したのだ。

 御剣と言っても三種の神器の一つである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)のことではない。そもそも壇ノ浦に沈んだまま未だ発見されずにいる。ただ、いかに三種の神器ではないとは言え天皇の住まう内裏に盗賊が入り込んで何かしらを盗み出していったというのだから、これは大スキャンダルだ。

 盗賊を捕らえたのは、鎌倉まで報告しに来た源頼兼である。源頼兼は源頼政の次男であるが以仁王の挙兵には参加せず、木曾義仲の京都制圧時に源氏の軍勢の一員としてその名を記録している。その後、

 源頼兼が捕らえた盗賊の正体が誰であるかはわからない。捕らえたときは既に自殺を試みたあとであり、命はまだ落としていないものの意思の疎通はできなくなっていたからである。そのため、生活苦から内裏に忍び込むことを選んだ庶民であるとも、平家の落人の一人が計画して実行したテロ行為であるともいう風評が広まった。その風評が源頼朝の元に届いたのである。

 どちらの風評であろうと、あるいはどちらでもない真相であろうと、源頼朝によっては首都の治安を守ることもできない、それも天皇の住まいを守ることすらできないというマイナス材料、源氏に反発を見せる人にとってはこれ以上無い攻撃材料になってしまう。

 食い止めるためにできる方策はただ一つ、一刻も早く源義経が京都に戻ることである。源義経の力量を買っているという点もあるが、もっとも重要なのは源義経が京都で得ている名声だ。実力以上の名声であろうと結果を伴うならばそれで問題はない。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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