北家起つ 2.対新羅戦争

 東北地方の戦乱が集結したことで、とりあえず平和にはなったと誰もが感じた。

 だが、その平和は半月しかもたなかった。

 一二月二八日、新羅軍、対馬襲来。

 桓武天皇の時代は、新羅といつ戦争となってもおかしくない時代でもあった。外交の対立が両国の関係を悪化させ、敵対している状態が続いているためにお互いに手出しできないでいることがかえって平和を招いていた。

 その緊張を平城天皇は平和的に破った。敵対していた新羅との関係を友好に転換させたのである。両国の使節が往来するようになったことは、いつ戦端が開かれてもおかしくない緊張を緩和させることとなった。

 傍目には平城天皇のほうが平和に近いと思われるが、平和を望むならばむしろいつでも戦闘に打って出てやるという態度でいるほうがいい。友好を深めて戦闘には打って出ないという態度で終始したために、かえって攻め込むスキをつかれた国は歴史上掃いて捨てるほどある。

 このときの日本は心底平和を満喫していた。長年の懸案だった蝦夷問題を最高の形で解決したことの満足が上から下まで支配していた。

 さらに、綿麻呂による兵力削減も、それに対する兵士の反発も国外にも知られていた。

 これは、今ここで攻め込んだ場合の日本側の反撃も少なくて済むということである。攻め込もうという立場に立てばこれほど好都合なことはない。

 ただ、それを幸運と呼ぶことは人間性が疑われるが、あえて言うなら日本にとって幸運なことが一つだけあった。新羅の不作が日本以上にひどかったのである。

 新羅が日本に来襲したのは蝦夷が攻め込んできたのと同じ理由。つまり、生活苦のために日本へ襲いかかり、コメとモノを奪い去ることが目的である。ただ、蝦夷と違い陸続きのところを攻めるのではない。攻めていくには船を用意しなければならないし、向こうに行くまでの食料や真水も積んでいかなければならない。

 新羅はそれが用意できなかった。

 二〇隻以上の艦隊ではあったが一隻あたり一〇名前後という少なさであり、合計二〇〇名前後である。新羅からの攻撃の第一報も、新羅軍襲来ではなく海賊襲来と判断されたのもそれが原因であった。

 「今ここで動いておけば東北のような惨劇を食い止められます。逆に言えば、動かないと五〇年とも一〇〇年ともつかない、長い長い地獄が始まります。」

 報告を告げる冬嗣の言葉に、横から口を挟む者など誰もいなかった。

 それは、ここにいる誰もが事態の重大さを把握したということ。戦争は時に国内世論の統一をもたらす。それはこの時代も例外ではなかった。

 京都にはまず、対馬が新羅の襲撃を受けたことを伝える情報だけが届いた。その軍勢が少なく海賊の規模であることも伝えられたが、それは蝦夷のときと同様に第一陣でしかないと考えられ、ただちに軍勢の結集と、出雲・石見(ともに現在の島根県)・長門(山口県)の沿岸警備が命ぜられた。

 冬嗣のその判断は迅速なものであり、充分合格点をつけても良い判断の速さである。

 ただし、判断の速さには合格点をつけられても、対応には合格点をつけられない。

 沿岸警備を命じるだけで、それに要する人員の派遣も、物資やコメの派遣もなかったのである。

 派遣したくてもできなかったのが正解なのだろうし、そのことはもう誰の目にも明らかだった。今の日本は不作による貧困と不況にあえいでおり、朝廷には余裕など無い。そして、それを正直に言えば理解も納得もされる。

 ところが、冬嗣はそれを一言も言わずに命令だけをしている。

 まるで、今の日本は不作ではないとでも言いたげな様子で。

 この冬嗣の態度は、日本の各地に反冬嗣感情を生じさせることとなった。

 もし、この時代に支持率という概念があるとしたら、冬嗣の支持率は辞職もやむなしという数字となっていたであろう。

 幸いなことに、対馬を侵略した新羅軍は対馬常駐の守備隊に撃退された。

 ただし、新羅軍の戦死者五名、拿捕五名という結果であり、残りのほとんどは逃走した。

 これで安心した者などほとんどいなかった。第一陣は撃退できたが、第二陣、第三陣と攻め込んでくるであろうことは充分予想された。

 当然のことながら、日本は新羅との国交を打ち切ることを宣言し、新羅対策を国家最重要課題として対応することとした。

 まず、年明け早々の一月一二日、嵯峨天皇の弟で、のちの平家の始祖ともなる葛原親王(かずわらしんのう)を大宰師(だざいのそち)に任命し、それまで新羅との交渉を一手に引き受けてきた藤原縄主(薬子の正式な夫)を京都に呼び戻して従三位に昇進させると同時に兵部卿に任命した。

 それまでの温情路線を勧めていた縄主を大宰府の交渉窓口担当から外し、対新羅強硬派で知られる二六歳の親王を大宰府のトップに任命することで日本の態度を明確にした。新羅の蛮行は断じて許さないとする態度である。

 同時に、綿麻呂に対する忠誠を失い軍としての統率がとれなくなった兵士たちをまとめるのが縄主の新たな仕事になった。

 敵を作らぬ温厚な性格は兵士たちの感情を和らげるのに役立った。また、敵である新羅のことを誰よりも知っていることは兵士たちに安心をもたらした。


 国家財政はもはやどうにもならないものになっていた。

 前年秋の収穫が乏しく、税収は悪化の一途をたどっていた。

 そして、ついに役人に支払う給与もなくなった冬嗣は禁じ手に手を染めた。

 三月一日より、給与支給をコメから銭へ変えると宣言したのである。

 この時代は国家による通貨供給量がコントロールされている時代ではない。銅があればあるだけ鋳造され、市場へ流れていた。その上、私鋳銭(市民の手による勝手な銅貨鋳造・今で言うニセ札)も大量に流通していた。

 そこに訪れた不作。

 市場のコメは値上がりし、それは他の物資の値上げも招いていた。法によればコメ一升(当時の一升は現在でいうだいたい〇・七リットル)につき銭一枚というのが決まりだったが、そのような決まりなど市場の論理の前には何の役にも立たない。増え続ける銭と減り続けるコメとの関係は、コメ一升が銭二枚、二枚が四枚、四枚が八枚と、銭の価値を落とすだけだった。

 給与がコメで払われている間は、給与であるコメそのものが市場で高い価値を有するものであるため役人の生活はある程度保証されたものになっていた。給与として受け取ったコメを市場に持っていけば、コメの値段がそれ以外の品よりも上がっているため他の品を買いやすくなっていたのである。たとえば、それまでコメ五合出さないと買えなかった服が、コメ三合で買えるようになっていた。

 つまり、物価そのものは上がっているのだが、コメの価値がそれ以上に上がっているため、京都の民衆にとってはインフレでも、官庁に勤める給与生活者にとってはデフレになっていた。

 ところが、給与がコメから銅銭になり、市場に流れ込む銅銭が一気に増えた。

 これはただでさえ混乱していた市場により一層の混乱をもたらすだけだった。

 ハイパーインフレ発生である。

 役人たちはこれ以上価値を落とす前に給与を全てコメに変えておこうと市場に殺到し、それがかえってコメの値段を上げることとなった。そして、受け取った銅銭だけでは生活できないため、ある者は残業を増やし、ある者は副業に手を出し、ある者は不正な手段に手を出すこととなった。

 農業を除く副業は禁止されており、不正な手段などは論外である。そのため、残業を増やすことで収入を増やそうとした者がいた。

 この時代の法で定められている勤務時間は、五位以上と六位以下とで分けられる。

 五位以上は日の出から正午までのだいたい六時間が勤務時間であるが、緊急会議が行われる場合は午後や深夜まで突入するし、その場合でも残業手当は出ず、休日手当という概念も、休日という概念もない。現在でいう残業代が支給されない管理職を考えていただけるとわかりやすいだろう。ただし、五位以上になるというのはかなりの出世であり、その報酬も多く、名ばかり管理職ではなかった。現在のサラリーマンでいうと少なくとも取締役以上の身分になる。

 六位以下は五位以上と同様に日の出とともに出勤するが、正午までではなく日の沈むまでのだいたい一二時間が勤務時間となる。日の沈んだあとも勤務した場合は残業手当が支給される。また、五日間働くと一日の休日が与えられ、その休日に出勤した場合は休日出勤手当が出る。これは現在で言う残業代の出るサラリーマンと変わらない。もっとも、五位に近い六位とか七位の職務になるとその責任も給与も多くなっており、現在の企業でいうと部長や支店長クラスに該当する。

 この残業手当と休日出勤手当を命綱と考える者が増えた。

 と言っても、引き受ける仕事を増やしたのではない。

 能率を下げて仕事を後ろにのばし、仕事の有無に関わらず休日でも出勤するようになった。記録によれば、このときの役人の労働時間は最も多い者で一ヶ月に四五〇時間に達したとある。

 もっとも、それは長続きしなかった。

 そうして増やした時間外手当を持って市場に行っても、同じことを考える役人や、手持ちの銭をいち早くコメに変えようとする者がうごめいていて、コメの値段をみるみる突き上げていったことを知ったから。

 役人の超過勤務は一ヶ月で終わった。

 マジメな役人はやる気を失い、マジメでない役人ともども、本業そっちのけで副業に手を出すようになった。四五〇時間働いた者はもういなかった。その代わり、三日に一度しか出勤せず、出勤してもいつの間にか早退している者が続出した。彼らの向かうのはアルバイト先であった。

 この時代の役人がただ一つ許されていた副業は農業である。役人であろうと日本国民として班田収受に従い土地を受け取っており、そこを耕すことは認められているどころか推奨されていた。ただ、家族や奴隷に耕させたり、近隣の農家へ貸し出したり、あるいは何もせずに放っておくなど自分では田畑を耕さずにいることが多く、本人が耕す光景があまり見られなかっただけである。それが、このときから役人が自分で田畑を耕す光景が広く見られるようになった。

 ただし、これは法に触れない副業であり、休日ならば問題視されなかった。

 問題視されたのはその他のアルバイトである。突出して多かったのが、読み書きできる能力を生かしての本を書き写す副業であり、その圧倒的大多数が写経であった。

 平安京は意識的に寺院を制限した都市であり、奈良時代なら苦境のときに頼ることのできた寺院という存在がなかった。

 しかし、最後の心のよりどころとして宗教に対する期待は増えていた。生活苦に直面すると、思想や宗教といった精神世界にすがるようになるというのは今も変わらない。

 寺院に頼ることのできない京都では、寺院に変わる存在として経典に目が向けられた。その意味などはどうでもよく、とにかく漢字の書かれた神秘的な文書そのものが心の安らぎを与えるかのように考えられた。一昔前、マルクスと名が付けば、中身を理解することなく本が売れたのと同じである。

 そして、経典の市場における価格が上がってきていた。作るそばから売れ、売り切れが続出し、珍しく市場に出回ったかと思えば前より値上がりしている。経典の値段はコメと歩調を合わせているかのようであった。

 経典の作成はポートフォリオで言う市場成長率の高い産業ということになるだろう。需要に供給が追いついていないのである。

 そこで、経典作成がビジネスとして捉えられ、そのために経典を作れる人間が重宝されるようになった。一つ一つ手で書かなければならないのだからその人数は多い方がいい。かといって、街中にあふれる失業者を集めたところで役には立たない。何しろこの時代は義務教育というものもなく、文字の読み書きができるだけで既にそれは特殊技能であり、その特殊技能がないと経典作りに参加できない以上、集める対象は絞られる。この時代におけるそれは僧侶と役人だけ。

 しかも、全国的に見れば僧侶を考えられるが、京都でその技能を持った者を探そうとすると役人しかいなかった。京都には、僧侶や、寺院をリストラされた元僧侶は少なかった。

 この時点で最も僧侶が多かったのはやはりまだ奈良であったが、奈良の協力はまず得られなかった。奈良の寺院にしても経典作成は貴重な収入源であり、僧侶を貸し出すどころかリストラした僧侶の穴埋めを探している状態であり、修行ということで寺院の外に出した僧侶を還俗(僧侶をやめ俗世間に戻ること)させて、写経のためだけのアルバイトとして雇うまでになっていた。

 経典をたくさん作るならば印刷すれば良いではないかと思われるかも知れない。たしかにこの時代にはもう紙への印刷技術があったし、現存する印刷された経典もある。だが、それができるだけの紙がなかった。また、あったとしても、それでは売れなかった。手書きの経典でなければ価値はなく、印刷物は見向きもされなかった。御利益がないと見なされたのだろう。

 この時代、書くときに最も多く使用されていたのが木簡(もっかん)である。

 木簡とは、長さが二〇センチから三〇センチ、横幅が二センチから四センチの細長い木の板であり、紙よりも気軽に手に入り、また紙より丈夫なため、文章そのものは短くて済むがそれを持って移動しなければならない書き物、例えば税の運搬の荷札や、役所間の文書のやりとり、そして、木簡を束ねて巻物にし、経典として使用されることが多かった。

 これが自分の勤めている役所において使用する文書の書き込みであれば立派な公務で何の問題もないが、そうではない場所での書き込みや、役所の中であってもその中身が役所とは関係のない書き込みとなるとアルバイトとなる。

 これがいいビジネスになった。仕事は何とか理由を付けて欠勤し、写経所に出向いて写経すれば、こなした数だけ収入が増える。出勤しても、隠し持った木簡に経典を書いて時間をつぶし、帰宅時にそれを写経所に持って行けば売れる。それも、銭ではなくコメや絹織物といった貨幣の役割を果たすものと引き替えに。

 嵯峨天皇はこの状況を苦々しく感じ、冬嗣は何度も禁止令を出すが、収入に困った役人は冬嗣の命令を聞かなかった。

 その結末が役人の腐敗である。

 役人とか政治家という人種が必ずしも腐敗するとは限らない。強い信念を持って賄賂を絶対に受け取らないと宣言する人もいるし、清貧を最後まで貫く人もいる。だが、それと役人や政治家の評価とは全く関係ない。ダーティーであろうが、これ以上なく腐りきっていようが、そんなものはどうでもいい。彼らのただ一つの役割は国民の生活を良くすること。それだけが政治家や役人の評価である。クリーンを貫こうが、清貧を貫こうが、国民生活が苦しければ評価は無能の一言で片づけるしかない。

 ただし、歴史を眺めて経験的に言えることがある。それは、貧困と腐敗はたいていつながっているということ。

 腐ったから貧しくなったのではない。

 貧しくなったから腐ったのである。

 国民生活が苦しいのに国家財政は豊かだということはない。特権階級が国家財政で贅沢な暮らしをしたり、無能な政治家が無駄なことに税を使ったりということはあっても、国家財政そのものが潤沢なわけではない。国民生活が苦しくなるとそれと歩調を合わせるように国家財政も厳しくなるし、国家財政で生活している者も苦しくなる。

 給与の支払いに支障が出ることもあるし、定められた給与が支払われてもインフレのせいで生活が苦しくなることもある。また、財政引き締めとして、政治家や役人の給与カットが行われることもある。

 役人だろうと政治家だろうと人間。日々の暮らしというものがあるし、より良い暮らしをしたいという欲望もある。腐らずマジメに働けばいい暮らしが待っているというなら誰だってそうする。だが、そうではなくなった。マジメに働いても得るものが少なくなったというのに誰がマジメに働くというのか。

 暮らしを良くしようというのは人間の本性。そして、真面目に働くより生活を良くする手段があればそれに手を出すのもまた本性。それが法の隙間を縫うか、あるいは法に逆らうか、その特権ゆえに民衆にはできない方法で暮らしを良くする手段があるとき、権力を手にした者がそれに手を出すのも、古今東西変わることのない人間の本性である。

 自分は断じて腐っていないという宣言は、強靭な意志の持ち主なのではなく、単に腐る機会が無かったというだけのことに過ぎない。クリーンをアピールする野党が権力を握ったと同時にそれまでの与党以上に腐りだすことなど珍しくもない。

 では、この時代はどう腐ったのか。

 まずは賄賂である。賄賂が存在しない社会というのは、清廉潔白な人間ばかりの社会ではなく、賄賂が割の合わないビジネスになっている社会のこと。そうでなければ、規模の大小はあれ、渡した以上の利益が得られるならば賄賂はどんな状況でも起こる。いかに法で厳しく禁じていようと賄賂は起こるし、特権階級ののみならず、庶民まで進んで行う。たとえば税を見逃してもらうために税よりは少ない額を役人に手渡すように。

 これがエスカレートすると、役人が民衆と接する仕事をするとき、無料であるべきところが賄賂を受け取らなければ何もしないとなる。

 その手始めとして、本来無料であるはずの医療が事実上の有料になった。

 無料の医療を求めて門を叩いても、何かしらのプレゼントを用意しなければまともな治療を受けられなくなった。それを拒んであくまでも無料を貫くと延々と待たされることとなるし、それだけならまだしも、待つだけ待って何の治療も受けられずに診療時間が終わることすらあった。

 休んでも給与の貰える身分ならば構わないが、休んだらその日の売り上げがゼロになる人にとって、一日中待たされる無料の医療は利益どころか損失になった。

 結果、プレゼントを用意できずに無料の医療しか利用できない人はなかなか治療が受けられず、待たされ続けたあげくに収入が減り生活が苦しくなる。一方、ある程度豊かで医者へのプレゼントを用意できた患者は待つことなく診てもらえる。

 無償医療を実践したときに必ず起こるこの医療格差問題は一二〇〇年前に既に発生した。

 賄賂と同時に起きたのが怠慢である。得られるものも変わらないならより少ない労力で済ませようというのも人間の本質。役人から積極性は消え、陽が上っても出勤せず、出勤したかと思えばいつの間にか早退している。それでも出勤すればいいほうで、あれこれと理由を付けては欠勤するようになった。

 勤務中の態度も誉められるものではなくなった。副業として持ち込んだ写経は懸命にやるが、本業は遅々として進まなくなった。書類は片づかず、各地から上ってくる報告も山に埋もれ、統計はいい加減になった。

 自分の担当する部署は何ら問題が起きていないことになり、貧困からの脱却を狙う数々の命令は滞りなく実行されたことになったし、その命令が成功して結果を出したことにもなった。

 そして、横領も増えていった。

 職場で使う筆や紙ならばまだほほえましいが、税の着服、国の米倉からのコメの持ち出しとなると、国家財政を揺るがす大問題となる。

 民衆はこうした役人の不正に怒りを覚え、冬嗣はこうした役人の不正を正そうとしたが、腐敗は無くならなかった。無くなるどころか一層悪化したのである。

 神仏に頼った嵯峨天皇であるが、その対象となるべき寺院の腐敗もこの時代進んでいた。

 まず、寺院が営利に走るようになっていた。僧をリストラし、写経で稼ぐだけでなく、奴隷を利用して土地を開墾して領地を広げ、奴隷に働かせてその収穫を運用に回し、さらに多額の布施をかき集めるようになった。

 僧侶になる目的自体も不純になった。仏教の哲学を求めてではなく、寺院に入って豊かな暮らしをすることが目的になった。それは僧侶になるとついてくる免税だけが理由ではない。

 わかりやすく言えば、この時代の寺院とは今で言う民間の企業である。大きいところに入れば生活も安定するし、そこの一員であること自体が社会のステータスになる。入るための競争は熾烈を極めるし、入ったあとの競争もあるが、出家して中に入れば俗世間よりは安定する。

 ただ、それまでの終身雇用が無くなり、リストラも始まっていた。僧侶を還俗させて写経生にさせることは現在で言う子会社への出向であり、奴隷を使っての土地の開墾や耕作など、その仕組みは大企業と派遣社員との関係と同じである。

 この時代はこれを苦々しく思う空海や最澄といった名僧も輩出するが、彼らが行なったのは自分たちの理想とする寺院の建立であって、日本の仏教界全体の改革ではなかった。

 弘仁三(八一二)年三月二〇日、嵯峨天皇は各寺院の管理・監督を国司に命令する。

 四月一六日には戒律を破った僧侶を処罰するよう宣言する。これは僧侶に異性との接触を禁じるものであった。ただし、寺院に信仰上の救いを求めてきた者、医療行為、そして、寺院の雇っている奴隷は例外とされた。

 これは空文に終わった。セックス目的で連れ込んだのであっても医療だの仏教行事だのと何とでも理屈がつけられ、女人禁制の寺院に女性が入り浸り、男子禁制の尼僧院に男が押し寄せた。そして、相変わらず寺院の中では本来禁止されているはずのセックスが横行し、さらにはそのセックスを営利事業として始めるようになった。この時代の寺院の中にはまるでホストクラブではないかと思わせる寺院まで存在しており、これらが下火になるのは織田信長を待たなければならない。

 さらに、この禁令をステップアップとして、異性と接しないという戒律は守っているとでも言いたげに、寺院の中で同性愛が盛んになった。生活の苦しい農民が自分の息子を寺院に売り飛ばすようにもなり、家族を養うために僧侶に肛門を捧げることも横行した。


 京都の治安悪化は目を覆うばかりになっていた。

 次々と死者が生じているのに、道に座り込む貧しい人の数は増える一方だった。地方から続々と流れ込む人の流れが止まらなかったのだから。

 地方に暮らしの希望など無かった。食べ物がなくなり、自然の恵みも期待できず、身の安全も期待できなくなっていた。

 中でも最大の問題が俘囚だった。

 彼らは自分たちが受けた被害を忘れていなかった。そして立ち上がった。

 それまで俘囚が住んでいたところに襲いかかり、家や家財道具、そして食料を奪って住むようになっていた日本人がまず殺された。

 次に、俘囚の妻や娘を犯した日本人が殺され、仕返しとばかりに今度は日本人の女性がレイプされた。

 そして、俘囚を奴隷に売り飛ばした者も、奴隷として買った者も殺された。

 さらに、何の罪もない日本人も、一年前、自分たちを襲った者と同じ村に住んでいるというだけで殺された。

 復讐を掲げる俘囚の集団が誕生したのだ。

 やっていることは東北の反乱軍と同じだった。集落を襲って食べ物を奪い、そこにいる人たちを殺し、草木の生えぬ廃墟としたあとで次の村へと移動する。

 それを彼らは復讐と呼んだ。だが、彼らは自分たちの仲間を殺した者のいる集落だけではなく、俘囚と関わりを持たなかった集落も襲った。

 その被害を受けるようになった日本人は、抵抗ではなく逃避を選んだ。

 怒りと勢いに任せて俘囚の集落を襲ったときは日本人の数のほうが多く圧倒的に優勢だったが、今や俘囚が集団となっている。

 それは一つの集落でどうこうできるものではない数、しかも、身に覚えのあることへの復讐。日本人は俘囚に恐れおののき、より安全な場所へ逃げることにした。

 それが京都だった。

 しかし、京都の状況も天国ではなかった。

 とりあえず俘囚から逃れることはできるが、京都に行ったところで生活のすべなど無かった。

 五月一八日、およそ一年ぶりに、京都に住む貧民を対象とする「施(せ・食料の無料配給)」が実施された。

 施は六月四日にも実施され、一六日には市場でのコメの価格を下げるために、国の倉庫からコメが大量に供給された。

 これらの政策で少なくとも餓死者は減った。だが、治安が改善されたわけではなかった。

 根本原因の解消、つまり、不作続きから生まれる貧困は解決できなかった。

 それだけではなく、今年も不作になるであろうことがこの時点ですでに予見されるようになっていた。

 まず、薩摩(現在の鹿児島県)でイナゴが大発生し田畑を喰い荒らした。

 そして、全国的に梅雨になっても雨が降らない日が続き、嵯峨天皇は各地の神社に雨乞いを命じた。

 そして訪れた疫病。体力を失っていた貧しい人は、俘囚や餓死から逃れても、病死からは逃れられなかった。

 冬嗣はこの状況からの脱却を計り様々な手段を講じるが、一時凌ぎにはなっても具体的な成果は現れなかった。

 嵯峨天皇は焦りからますます神仏を頼るようになった。病を無くし、イナゴを無くし、日照りを無くし、豊作となるよう神社や寺院に祈らせた。

 しかし、神社の神官も、寺院の僧侶も、嵯峨天皇の求めを叶えるものではなかった。命令だからと仕方なく祈祷はしたが、それは明らかにこれまでより短く簡単なものに終わった。それでいて祈祷料はこれまで以上の額を、それもコメで要請した。

 これに嵯峨天皇の怒りが爆発した。

 僧侶も神官も取り締まることを命じ、あるまじき態度の者は処分するとした。これには冬嗣も驚きを見せたが、嵯峨天皇は冬嗣を押し切り、勅令を出した。

 女性と一緒にいた僧侶が種子島に追放された。

 神社の掃除を怠った神官が罷免された。

 それまで認められていた場所で狩りをした者も、それが神社や寺院の近くとされると不敬とされ処罰された。

 だが、それらは嵯峨天皇の敵を増やすに終わっただけだった。

 民衆の間でははっきりと、冬嗣批判、朝廷批判、そして嵯峨天皇批判の声が挙がった。民衆は桓武天皇の時代を懐かしみ、出家して寺院にこもっている平城上皇の再登場を願うようになった。

 さらに、この頃から怪しい予言が民衆の間で言い交わされるようになった。

 曰く、これから戦争が起こる。

 曰く、これから大地震が起こる。

 そして、神罰があり、人類は滅びる、と。

 こうした予言はいつの時代にも現れる。そして、そうした不安をあおることで商売をする者も現れる。紙切れや、墨で書きなぐった板きれを御利益があると称して売るだけでなく、酔った勢いの戯言を神の言葉と称し、転んで脚をすりむいただけで神のたたりと脅す者も現れた。

 さらには怪しげな新興宗教を起こし、これから起こる大災害でも自分たちは助かり、そのあとは自分たちが権力を握るパラダイスが訪れるといった話をもちかける集団まで現れている。そうした集団は何も共産主義やオウムに始まった話ではない。人類の歴史上幾度と無く現れては消えた話である。

 だが、いくら人類の歴史に付き物とは言え、それを放っておくことは許されなかった。

 九月二六日、嵯峨天皇は法や秩序を乱す言論を取り締まるよう命じた。それは人類滅亡を謡う新興宗教だけではなく、天皇批判も取り締まりの対象になった。

 言論の不自由とか思想の不自由とかいった概念などこの時代にはない。だが、その感覚ならあった。このときはまさにそれが誕生した瞬間だった。

 それでも、生活の不満を口にする自由ならあっただけ、日本海の向こうの某国よりはマシだが。

 一〇月六日、冬嗣は父である藤原内麻呂を亡くす。

 その一ヶ月前に病気から辞意を申し出るが、許可されずにいたことで余計に体調を悪化させていた。

 父を亡くしたことで、冬嗣は喪に服し、宮中から姿を消した。

 そして嵯峨天皇はこの時になってはじめて、冬嗣のフィルタを掛けない生の情報に接することとなった。

 それまでは、地方から上がってくる情報が常に冬嗣を経由していた。それまで受け取っていた情報もかなり高いレベルの警報であったが、それでも冬嗣のフィルタが掛かっていた。つまり、冬嗣にとって都合の悪い情報は伝えられないし、嵯峨天皇の気分を害する情報も伝えられていない。

 それが無くなった。

 全ての情報が嵯峨天皇に直結し、嵯峨天皇は現実に愕然とした。

 自分の命令が何の結果ももたらしていない。寺院は相変わらず腐ったままだし、役人は働かない。民衆の暮らしは貧しくて、自分への批判は止むことがない。

 さらに、今年の収穫もまた不作であり、まともな税収は期待できないこと、それは自然の結果もあるが人災の側面もあることを知った。自分が良かれと思ってやったことがかえって悪影響を与えているのを知ったのは空しさすら感じた。

 医療の無料化がかえって生活を悪化させる悪循環。

 俘囚への福祉がかえって俘囚を孤立させ、敵対感情を生み出して血の惨劇を招いている悪循環。

 京都に流れていた民衆を救うことがかえって京都に民衆を呼び寄せ、農地からさらに人を奪う結果になった悪循環。

 それがさらに不作を招き、不作が貧困を招き、貧困がさらに京都に人を呼び寄せる悪循環。

 嵯峨天皇は福祉のジレンマに陥っていた。

 福祉を厚くすればするほど貧困が拡大し、治安を悪化させる。だが、その福祉はもはや権利となってしまい奪うことができなくなっている。

 俘囚の集団は、生まれ故郷の東北ではなく、西へ西へと移動していた。

 目的地は出雲(現在の島根県東部)。

 なぜ出雲なのかはわからない。

 山陰地方の方言は東北と似ていることから、山陰と東北とは何らかの接点があったのではないかとする説もあるほどである。もしかしたら、出雲には以前から俘囚の一大コミュニティがあったのかもしれない。

 また、海外勢力、すなわち新羅と呼応していたとする説もある。実際、亡命新羅人がやってくるルートの終点は、九州と並んで山陰であることが多く、俘囚が山陰にやってくることは、対新羅の守備隊にとっては海と陸の両方から挟み撃ちになる格好になる。そうして守備隊を撃破すれば山陰を京都の勢力の及ばない地とすることができ、新羅にとっては格好の前線基地、俘囚にとっては独立の地を手にすることになる。

 ただ、東北や新羅との接点など無く、彼らが出雲に向かったのはただの偶然であり、山陰の方言が東北に似ているのは、このときの俘囚がそのまま山陰に住み着いた結果であるとする説もある。

 いずれにせよ、俘囚の集団が西へと移動し、日本海に向かっていることは報告として上がっていた。

 嵯峨天皇はそれまでの融和路線を捨て、俘囚討伐を命じた。ただ、命じたが、その軍勢を指揮する者も、その軍勢に参加させる兵もいなかった。

 本来ならばここで文屋綿麻呂に指揮させるところである。これまでの軍事経験は申し分ないし、この人には東北制圧の実績がある。だが、この人は兵の信頼を失っていた。

 あとは綿麻呂に従っていた副官たちからの選択となるが、彼らは田村麻呂や綿麻呂の指揮の元で活躍する副官タイプであって、軍勢のトップで指揮するタイプではない。

 指揮官の重要な役目に、兵を集めるというのがある。以前は防人(さきもり)という徴兵制があったが、桓武天皇以後は事実上の志願兵制に変わっている。

 戦乱の都度兵士が集められ戦地へ赴くわけだが、東北に向かうときにはそれなりに集まったのに、今はそれを期待できなくなっている。

 その理由は二つ。

 ひとつは、やはり田村麻呂の人望が素晴らしかったこと。綿麻呂が東北に向かったときも、田村麻呂の副官が指揮する軍勢ということでの参加だった。だが、今はもうそれが使えない。綿麻呂はもう兵士の信頼を失っており、その他の指揮官に対する評価も似たようなものだった。

 そして、二番目の理由は財源不足。

 兵士を雇えるだけの予算がもう無くなっていた。そして、それは公言するまでもなく民衆の共通理解になっていた。

 少し前までであれば、少なくとも兵士である間の衣食住は保証されていたし、少ないながらも給与が払われていた。そのため、軍隊が失業対策として機能していた。

 しかし、今は違う。綿麻呂が兵士の八割を除隊させたことで、軍隊にはもう衣食住も給与も期待できないことが知られてしまった。

 つまり、兵士になることのメリットがなく、やる気も起きないという状況が広がっていた。

 一一月二八日、嵯峨天皇は喪中であった冬嗣に出仕を命じた。

 冬嗣のいない間の嵯峨天皇は明らかに迷っていた。嵯峨天皇に直言できる人間もいなければ、右腕となって活躍する人間もいない。政策に一貫性もなく、命令はするものの、それを実行するための行動がない。それらは冬嗣とて大差ないが、冬嗣は少なくとも現実を見ている。

 厳密に言えば、当初は現実を見れていなかったのだが、権力を握ってからの年月が現実を直視せざるを得なくさせている。

 その一事だけでも、嵯峨天皇にとって冬嗣以上に頼れる人材はいないという思いにさせることだった。

 ただ、出仕した冬嗣は嵯峨天皇の期待に応えていない。

 「俘囚の鎮圧に必要なコメがありません。」

 冬嗣はまずこう諭した。

 「ですが、コメがないのは俘囚も同じです。ならば、俘囚を出雲に閉じこめたまま、俘囚の餓死を待つという手もございます。これ以上俘囚が暴れないようにするだけの兵を用意することができれば、あとは時が解決します。」

 その上で、冬嗣は直言を加えた。

 「それよりも心配なのは民です。今は俘囚の騒動だけで済んでいますが、このままですと民の暴動が起こり得ます。すでに民の不満は限界に達し、いつ破裂してもおかしくありません。」

 冬嗣の話は現状分析に留まった。解決するアイデアがないのだからそれしか話せないのもやむなしといったところか。

 「冬嗣にもどうにもならぬということか。」

 嵯峨天皇は落胆を隠せなかった。

 「一時的に回避するすべならございます。」

 「それは何だ!」

 「各国の国司に無理を承知で税の取り立てを命じ、民の怒りを国司に向けさせた後にその国司を罷免すれば、財政と民の不満は一ヶ月ならどうにかなります。」

 それは根本的な解決になっていないが、それでも何の手も打たないよりはマシだと考えたのか、冬嗣のアイデアは実行された。


 「それを持って行かれると飢え死にいたします!」

 「やかましい!」

 冬嗣のアイデアは国司たちに絶好の口実を与えることとなった。それまでであればその場で懲戒免職間違い無しという税の取り立てをしても、今のこの瞬間は許される。

 その結果、多いところでは全農民の一割が餓死し、三割が逃亡という有様になった。

 また、国司の命令に従い取り立てに来た役人が、取り立てに抵抗する農民に殺されるという事件も起きた。

 そうして集められた税のうち、どれぐらいが途中で消えたかわからない。それでも、不作にしてはなかなかの納税額となり、これで国家財政はどうにかなったのである。

 一大勢力となった俘囚の集団に対抗するための予算がどうにかなり、田畑を捨てた農民を兵士とすることで兵力もどうにかなった。

 ただ、民衆の不満は限界近くまで達していた。

 冬嗣は、戦争を煽ることで国内の世論を沈めようとした。

 今の日本は国内に俘囚、国外に新羅と戦争状態にあるとし、今の苦痛は全てがそのためであるとした。

 これが二つの面で有効に働いた。

 一つは、新羅から実際に侵略を受けたという事実。対馬侵略をもくろむ新羅を撃退させたが、それはあくまで第一陣に過ぎず、第二陣がいつ来るかわからないというのは庶民の間でも話題となるほど広まっていた。

 もう一つは俘囚から逃げ回らなければならなければなくなっている現実。反感を爆発させたが、その反動で俘囚を暴徒とさせ、憎しみだけでなく恐怖とさせていた。こちらは新羅以上に差し迫った問題だった。 

 そして、この過酷な徴税も、俘囚と新羅という二つの敵との戦争のための一時的なものだと考えられたのである。

 一二月五日、藤原冬嗣、正四位下に出世。同日、縄主が中納言へ、葛野麻呂が中納言兼民部卿に就任。

 戦時体制が確立された。

 年明けの弘仁四(八一三)年一月一〇日、冬嗣のアイデアが第二段階に進んだ。特に取り立ての厳しかった一六人の国司が罷免され新たな国司が任命された。

 と同時に、過酷な税の取り立てが取り締まりの対象となり、罷免されずに済んだ国司たちに言明され、特に取り立ての激しく、また不作が厳しかったところに集められたコメが分け与えられた。配布するモノの違いはあれ、定額給付金のようなものである。

 この配布のときにちょっとしたトラブルがあった。

 俘囚が反乱を起こしていると言っても俘囚の全員が反乱に参加しているわけではない。反乱に参加せずに俘囚の集落で暮らしている者もいるし、日本人と溶け込んで暮らしている者もいる。

 この俘囚を配布の対象とするか否かが問題となった。納税対象はあくまでも納税してきた日本人だけとするか、それとも、生活苦に苦しむ者全てとするかで国論が二分されたと言っても良い。前者は、今は反乱を起こした俘囚との戦争状態にあることと、元々が税であることから税を払った本人に返すべきであることを主張し、後者は、困窮者を助けることが今回の給付の本筋であり、ここで俘囚を除外したら生活苦から反乱を起こした集団に参加しようとしたり、新たな反乱を起こしたりする者も現れるだろうと主唱した。

 朝廷でもこの議論は起こったが、結果は後者が選択された。二月二五日、俘囚のうち、何かしらの公的な役割を担っていない者、つまり、役人となっている者や、俘囚の集落の村長を除く者を、日本人と変わらぬ給付を受ける対象とすることが宣言された。そして、反乱に参加する俘囚は給付対象としないが、反乱から離脱した者は対象とすることも宣告された。

 民衆は、本心は不満だったが、反乱軍の軍勢を増やすわけにいかないという理屈は理解した。

 そして、これが反乱軍の内部にも亀裂を生んだ。出雲を目指して進撃を続ける俘囚の意見が二分されたのがそれにあたる。

 集団から逃れれば給付が受けられる。充分ではないかも知れないが、こうして反乱に参加したところで得られるものは少ないことを考えると、逃れることのほうがメリットに感じられた。

 彼らは、日本人への復讐が動機であったとしても、自らに直接危害を与えた者をターゲットとするならともかく、今の自分たちがターゲットとしているのは自分たちに危害を加えたわけではない赤の他人。それをただ日本人というだけで襲い続けていることに疑問を生じてもいる一派であった。

 だが、日本という存在から苦痛を受けたのだと考え、一時的な給付で恨みが消えるのかという思いも抱く一派もあった。自分たちが日本人への襲撃を続けているのは復讐のためであり、また、侵略されたことへの抵抗でもある。そして、最終的には京都からの独立を果たすのが目的とする一派でもあった。

 前者は現実的かつ穏健派、後者は理想的かつ過激派と言っても良い。こういったときに、現状を受け入れるか、原理原則を貫くかということはいつの時代にも起こる。

 前者のリーダーとなっていたのがタカキとトシネの二人、後者のリーダーがアラカキ。

 はじめはともに日本への復讐を誓い合った仲であったが、このとき生まれた三人の間の溝は最後まで埋まらなかった。

 二月二九日、予期していたことがついに起こった。

 新羅軍第二陣襲来。

 対馬に住む日本人一〇〇名以上を拉致した軍勢は南を目指した。

 矛先は北九州でも山陰でもなく、五島列島だった。

 新羅は、前年の対馬侵略失敗に加え、山陰の警備が強化されているという情報も掴んでいた。そのため、警備の薄いと考えられる方角から侵略するのが得策と考えて行動した。

 だが、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)にも日本は海軍を配属してあった。その軍団の名を「基肆団(きしだん・「基肆」は現在の佐賀県基山町の当時の地名)」という。

 基肆団は常駐の海軍と言うよりも、地域の漁師に武具を持たせて、いざというときに対処できるようにした自警団であり、その自警団が五島列島に侵略した新羅と対峙した。

 戦いの様子は詳しく伝わっていない。全員ではないにせよ拉致された日本人の救出に成功し、新羅軍の死者九名、捕虜一〇一名の戦果を挙げたとあるが、敗走できた新羅軍の様子も、基肆団の被害も記録に残っていない。

 ただし、結果だけはわかっている。

 日本の完勝。

 この後の日本と新羅との交渉も、戦勝国日本と、敗戦国新羅という関係で終始している。

 三月一八日、日本国内にいる新羅人に対し、日本人となるか、新羅へ帰るかといった二択を迫った。多くの者は新羅を捨て日本人となることを選んだが、中には新羅へ戻る者もいた。

 この敗戦は新羅人のプライドを傷つけるに充分だった。国力を挙げて送り込んだ軍勢が、地域の自警団に手も足も出ずに叩きのめされ、無条件降伏を余儀なくされたのである。

 それだけなら戦闘の敗北で済むが、日本は、捕虜を手厚くもてなし、無事に新羅に送り届けたのである。

 これは新羅人の自尊心をさらに傷つけた。海の向こうの野蛮の国と思っていた相手に、戦争だけでなく文明でも大惨敗を喫したのだから。

 以前から、新羅からは多いときで年に一〇〇人単位の亡命者が日本へやってきていた。彼ら新羅人の日本国内における処遇は俘囚と同じで、日本より土地を与えられ農業で生活することを求められたが、税の負担は課されなかった。ただし、俘囚と違って新羅は農耕社会が浸透しており、自分たちは日本人より格上だというプライドさえ捨てれば俘囚よりは容易に日本社会にとけ込めた。

 ただ、その最後の一点が問題となっていたためにとけ込めずにいた者が多かった。それは譲ることのできないプライドであり、どんなに貧困に陥ろうと、自分たちは日本人より格上という意識だけは捨てられなかった。

 ところが、その最後の拠り所であったプライドが引き裂かれた。貧困の激しさから新羅から逃れてきたが、それでも新羅は祖国であり、アイデンティティでもあった。その新羅が日本に戦争を仕掛け、負けた。

 待っていたのは、自分たちが敗北者であるという現実である。その上、亡命者自身はともかく、その子や孫となると日本の言葉しかわからず、日本の暮らししか知らない世代である。さらに、当時の新羅は今の韓国ほど名に関する思い入れを持っておらず、改姓も頻繁に行なっていた。

 自分が敗戦国新羅の人間であるという思いより、戦勝国日本の人間であるという思いのほうが強くなり、日本に残ることにした新羅人の多くが、このとき自分の名を捨てて日本名を名乗るようになった。

 ただ、新羅相手には文明国で接した日本も、国内問題では野蛮な習俗が残っていた。

 拉致。

 今でこそ日本人は北朝鮮を野蛮人と馬鹿にできるが、この当時の日本は北朝鮮のことをそこまで笑えなかった。本人や親が承知した上の身売りだけでなく、誘拐や強制連行が頻発していたのである。

 目的は、身代金よりも、拉致した人間の販売にあった。

 あるときは労働力として、またあるときはセックスの相手として売り渡され、奴隷とされた。中には脱出できた者もいたが、多くの者が救い出されることなく留め置かれた。

 国はこれを放置していたわけではない。実際、律令によれば、拉致した者だけでなく、拉致被害者を買った者も処罰の対象となっていた。ただ、検挙率が低かった。

 新羅人に対する二択を迫った同じ日、拉致に関わった者に出頭するよう命じる布告が出された。

 だが、これは、命令だけに終わった。

 この拉致被害者がどういった境遇にあったかを伝える記録が六月一日付で残されている。

 それによると、奴隷にされた者は、病気になると家を追い出されているとある。家を追い出されて行くところもなく、平安京の道ばたで横になり、病で亡くなるのを待っている人が多いことが問題となっていた。

 無論、奴隷の全員がそういった境遇ではない。だが、これは決して珍しい現象ではなかった。

 六月一日の布告で、こうした奴隷の養育放棄をした者は、鞭打ちの刑に処すとした。これは少しだけだが効果があった。

 話は前後するが、その少し前の五月二五日、朝廷が行なってきた給付がついに底をついた。

 そして、布告が出された。

 『これといった災害が起きていないのに不作が続き、飢えに苦しむ人が続出しているのは、国司の圧制に原因がある。』

 『農繁期に国司が農民に農作業ではない労働義務を課したために、農民が田畑を耕せず不作となった。』

 『しかも、厳しい取り立てがよりいっそう民衆を苦しめている。』

 『それだけしておいて、コメが足りないからと朝廷にコメの配給を要請するのは嘆かわしい。コメが足りないのは国司の責任なのだから国司がどうにかせよ。』

 『これまでは対処してきたが、もはや国には余分なコメなど無い以上、今後一切、朝廷はコメの配給を行わない。』

 原文はもっと厳かだが、要はこういうことである。

 冬嗣は国の財政がどうにもならなくなった理由を国司に押しつけただけでなく、自分には何の責任もないと宣言した。

 この時代、天災というものは単なる自然災害とは考えられていなかった。能力の欠けた者や悪事を働く者が権力を握ると現れる天の裁きだと考えられていたのである。

 そう考えると、今のこの不作は権力を握った冬嗣に対する天の裁きとなる。実際、反冬嗣の者はそう考えていた。

 だが、冬嗣はそれを認めなかった。天の裁きを認めないだけでなく、天災そのものを認めなかった。そして、現実に起こっている不作は全て人災だとした。

 こう言われた側はたまったものではない。

 雨が降らない。降ったかと思えば洪水。台風上陸に、イナゴの発生。これを天災と呼ばずに何と言うのか。

 天災に対処すべき国がその責任を放棄し、その対処を各国に押しつける冬嗣の姿勢は新たな敵を生み出した。

 ただし、一つだけ共通理解があった。

 それは、国の財政が底をついたということ。

 誰の目にも明らかとなっているこの問題に対応するには、冬嗣のような強引な言い訳を用意しなければならないのだろうとする考えを抱く者もいた。

 では、本当に国のコメは尽きたのだろうか。

 その五日後の五月三〇日、嵯峨天皇は文屋綿麻呂を征夷将軍に任命した。対俘囚の最高司令官である。

 人選に困り、軍事費に困っていたはずなのに、スムーズに指名し行動している。

 どうやら、国のコメが尽きたと言っても軍勢を出せるだけの余力はあったようである。ただ、地方の援助に回せるほどではなかったということらしい。

 もっともこれはここ数年の通常の光景である。ただ、異常事態であることは確かであり、その状態を納得させる手段として今は戦時下だと宣言することで今まではどうにかできていた。

 ところが、新羅に完勝し新羅を無条件降伏させたことで、日本の敵は一つ減ってしまった。

 それは喜ばしいことなのだが、同時に困った問題も生んでいた。今の重税は戦時の臨時税であるのだから、新羅降伏により戦争が終わった以上、余った分は返して貰えるとする雰囲気が広まっていたのである。

 だが、そんなコメなどなかった。だいいち、もう配り終えている。しかし、新羅降伏という事実がある以上、このままでは税を返すべきと言う意見に対し何もできない。

 そこで考えたのが残る敵である俘囚討伐。その司令官に綿麻呂を選んだのも、何と言おうとこの時代の最高の指揮官なのだから。そして、今はまだ戦争中であり、国内の敵を倒すことを優先させなければならないという姿勢を打ち出すことで、税の返還要求を封じようとした。

 縄主に預けられていた軍事力は再び綿麻呂の元に集い、これまでとは逆の方角である西へ向けて軍勢を出発させた。

 天災は無いと宣言した冬嗣であるが、無いと宣言できただけで天災から逃れられるわけなどない。

 六月二日、石見国(現在の島根県西部)と安芸国(現在の広島県西部)で洪水が発生。

 翌三日には、大隅国と薩摩国(ともに現在の鹿児島県)でイナゴが大量発生。

 どちらも紛れもない天災であり、田畑に壊滅的な被害をもたらしたため、税の免除が命じられた。

 イナゴは一〇月にも発生し、洪水ではないが大型の台風が同じく一〇月の二九日から三〇日にかけて九州全域を襲った。

 ただ、どうやらこの弘仁四(八一三)年は、天災に遭わなかった地域についてなら、まずまずの収穫であったようである。

 こちらも時間が前後するが、一〇月三日に嵯峨天皇は豊作への感謝を神に捧げており、また、天災と免税の記述はあるが、不作に関する記録もない。飢饉の記録も、飢饉に苦しむ民衆を救ったという記録もない。

 冬嗣の体面を維持するために、本当は不作であったのに記録に残さなかったとする考えもあるが、だとするなら天災の記述をしておきながら不作の記述をしないのも理不尽である。

 ここは、文字通りまずまずの収穫があったと考えたほうがいいだろう。

 そこで先に述べた冬嗣の宣言、すなわち、不作は国司のせいとする意見を思い出してみると、それがあながち的外れではないのではという思いを抱かせる。

 内容がいかに言いがかりであろうと、冬嗣は人事権を握っている。国司としてふさわしくないとなったらいつでもクビにできるし、実際、年始には大量一六人もの国司をクビにしている。

 いつでもクビにできる人間が命令を下している以上、クビになりたくなければ、いくら言いがかりでもそれに従わざるを得ず、結果、国司の厳しい取り立てや労働義務は減っただろう。

 また、冬嗣は出挙について何も言っていない。しかし、最高利率を三〇パーセントとする法はなお有効であり、国司はそれも守らなければならなかったはずである。

 労働義務が減ったか無くなったかはわからないが、少なくとも農民が田畑に専念できるようになったことは大きかった。そして、取り立てを厳しくしないというのも大きかった。

 その結果が、記録されることのない程度の収穫が出たということにつながったとは、あながち間違いだとは言い切れない。

 ただし、財政問題の解決とはなっておらず、陸奥・出羽両国に常駐する兵士の維持費を、越後国と信濃国の両国に負担させるよう命令が出ている。

 さて、この陸奥・出羽両国に常駐する兵士であるが、大規模な軍事攻勢に出ることはなくても、小規模な出動なら頻繁に繰り返していたようである。本州全域を制圧したと言ってもまだ蝦夷の残党は残っているし、海の向こうからやってきた集団に対しても向かい合っている。記録には、ただ軍勢が出動したとあるだけでその詳細は記されていないが、これも記すまでもない程度のものだったからであろう。

 そして、記録が残されていないのがもう一つある。出雲の俘囚の反乱と、それを鎮圧すべく西へ向かった綿麻呂の行動についての記録が残っていない。

 反乱があって鎮圧したとは書いてある。ただ、その詳細が残されていない。

 一一月一日、八ヶ国の国司に対して俘囚の陳情を可能な限り聞き入れ、これ以上の反乱を起こさぬように務めよと命じている。と同時に、俘囚に対しても、陳情先は国司までとし、中央への訴えは正式な手続きを経ない限り認めないと命じた。

 本来ならばこの八ヶ国だけでなく全国の国司に命ずべきところのはず。しかし、八ヶ国に限っているのは、それが俘囚の反乱への対策であり、対外関係対策もあったのではなかろうか。

 命ぜられた八ヶ国は、播磨(兵庫県西部)、備前、備中(ともに岡山県)という当時の京都から出雲に至るルートにある国と、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前の九州北部の五ヶ国。前者は出雲の反乱の拡大防止があり、後者は俘囚が新羅と連帯するのをくい止めるという意味があった。

 新羅が無条件降伏したことは、新羅が二度と日本に攻め込まなくなったということではない。むしろ、復讐心を呼び起こしてさらなる侵略をたくらむ動機になる。

 その新羅にとって、日本国内で反乱を起こしている俘囚は、敵の敵であるがゆえに味方であり、充分利用できる価値がある。

 その流れをくい止めるには、新羅との接触の多い地域にいる俘囚が、新羅ではなく日本を選ぶようにしなければならない。


 この年の年末年始にかけては平穏であったようで、これといった記録はみられない。

 そして、出雲の反乱もどうやらこのあたりで解決したようである。弘仁五(八一四)年二月一〇日、出雲反乱討伐に功績があったということで、俘囚であるキミモシに、外従五位下という、ギリギリではあるが貴族の一員に加えるという特別処置が下された。この人物についての詳細は不明だが、おそらく、綿麻呂に従って参戦した者の一人であろう。

 一五日にはタカキとトシネに報償が出ている。ただし、タカキとトシネの報償はアラカキに妻と子を殺されたことへの見舞いという名目であり、どうやら、俘囚の反乱の末期は、日本を敵とするのではなく、仲間同士が殺し合う凄惨な状況が展開されていたと思われる。

 おびただしい血が流れたはずだが、それでも、これによってひとまずの争乱は収まった。

 四月二八日、藤原冬嗣、従三位に出世。

 同時に、式部大輔を辞任。

 理論上、これで冬嗣は人事権を手放したことになる。

 だが、従三位となったことは、冬嗣に権威をもたらした。

 もはや知らぬ者のいない嵯峨天皇の右腕である。数多くいる三位以上の者の中で、冬嗣は頭一つ抜け出ていた。

 桓武天皇の忠臣たちがただ一つ寄って立つところは、自分が冬嗣より上の身分であるという一事。権力ならともかく権威なら冬嗣を上回っていることが最後に残されていたプライドだった。

 その冬嗣が三位になった。これで権威でも冬嗣が自分たちに並んだことになる。これは桓武天皇の忠臣たちにとって最後の一撃となった。

 彼らは、もはや自分たちの時代ではないこと、そして、自分たちの次の世代が時代を掴んだことを悟った。

 それでも、少なくとも嵯峨天皇の前での言論の自由はあった。そして、そのことだけは桓武天皇の頃と変わらなかった。

 ただ、葛野麻呂がいかに冬嗣に反発しようと、緒嗣のように辞職をかけて冬嗣に抗議しようと、その意見が採用されることはなかった。

 薬子との恋に生きた平城天皇と違い、冬嗣は恋愛で人生を左右してはいない。セックスをして子供も残したが、関係を持った女性はあくまでもセックスの相手であり、心を狂わせる相手ではなかった。

 では、平城天皇の弟である嵯峨天皇はどうか。

 恋愛感は冬嗣に近いと言える。後嗣をもうけることも天皇としての義務だと考えたのか、一人の女性に愛情を注ぐのではなく数多くの女性と関係を持っている。

 ところが、その数がすごい。

 皇后以下、最低でも二九人の女性と関係を持ち、男子二一人、女子二二人、合計四三人の子をもうけている。

 後継者がいなくなったために断絶した天武朝の教訓、そして、恋愛で人生を狂わせた兄平城天皇の負の記憶もあるだろうが、それにしても多すぎる。

 そのため、嵯峨天皇は子供たちの何人かを天皇家から除外することを考えた。なにしろ、子供たちの養育費だけでも国家財政に関わる問題となっていたのだから。

 貴族の子でも民衆の子でもない、連綿と続く天皇家の子供である。その時代の最高の環境と最高の教育を用意しなければならない。同じことを貴族が子供に対して自分の財産を用いてやっても文句を言われないのに、天皇家はそのカネの出るところが税金であるがために、財政問題と連動して考えなければならない宿命を持っている。

 五月八日、嵯峨天皇は、自分の子供のうち、すでに『親王』や『内親王』の位を得ている者を除く全員を、皇室から離脱させ、臣下の一人として遇すると発表。また、これから産まれる子についても、皇后から産まれる子については皇室に留めるが、それ以外の子は皇室から離すとした。

 これに対する反対意見が翌日奏上された。この世が誕生した頃から天皇家とそれ以外の者とは明確な区別が成されており、天皇家として生まれた者が臣下となるなど例が無く、それを知った後世の有識者も穏やかなことではないと判断するであろうという理由である。

 資料には『公卿』とあるだけで、誰がその反対意見を述べたのかは伝えられていない。ただ、おそらく桓武天皇の忠臣の誰かだろう。

 この意見は封殺され、嵯峨天皇の子がこのとき、大量に臣下となった。その後も産まれた子を臣下にすることが続き、二一人の男子のうち一七人、二二人の女子のうち一五人、合計三二人に『源(みなもと)』の姓が与えられ、臣下となった。

 後に何度も行われることとなる臣籍降下(しんせきこうか)のはじまりである。

 反対意見が出された同じ日、新羅から非公式な接触があった。国交回復を求める接触である。

 嵯峨天皇はこれに対し、新羅が敗戦国として臣下の礼をとるなら接するが、対等な関係を要求してきたときは交渉を打ち切って使者を帰国させるよう命じる。ただし、帰国費用や帰国に使用する船は日本で負担するとした。

 これに対する新羅の反応はない。

 だが、想像はできる。

 唐との関係も渤海との関係も進展せず、唯一外交関係を結べそうにあったのが日本だった。ところが、不作からの脱却を求めて日本に対して行なったのが、外交に基づく援助の要請ではなく軍事侵攻。しかも、失敗して無条件降伏に追い込まれた。

 何とかもう一度外交を切り開いて貰おうと使者を派遣したが、日本が平城天皇の頃の平和路線ではなく、強攻策を貫いて新羅と敵対関係で終始した桓武天皇の時代に戻っていたと確信したのではないか。

 新羅を統治する憲徳(ホンドク)王は八方ふさがりの状態に陥った。新羅国内は盗賊が強盗団を形成するに及び、唐や渤海といつ戦端が開かれるかわからず、無条件降伏したゆえに平和となった日本との関係も喜べるものではない。

 これは新羅にとって絶望以外の何物でもなかった。

 現在の韓国史の研究者は西暦七八〇年頃から滅亡までの新羅を「新羅下代」と呼んで新羅衰退期にあったとしている。この当時の人も新羅が衰退期に入ったことは感覚として掴めていた。ただ、その新羅があと一〇〇年生き残るとは誰も予想していなかった。

 一息ついたと思われた不作。

 しかし、収穫があったと言っても次の収穫までの余裕があったわけではない。

 自ら耕したものを生活の糧とする人々の生活の状況は断片的にしか残っていない。

 その断片ではこのように記されている。

 『本来なら国司が郡毎にコメの収穫をまとめるべきところであるが、国司や役人の怠慢によりそれが行われず、中央への報告が国単位でまとめられているため、郡毎の貧富のばらつきが中央で把握できなくなっている。』

 『国司や国衙に勤務する役人の給与は国衙の近くの郡の収穫が充てられ、それより離れたところの郡のコメが出挙の原資として使われているため、国衙近くのコメが遠くの郡へと流れることとなり、国衙より遠ければ遠いほど豊かな暮らしとなっている。』

 『それでありながら同じ税が課されるため、貧しい地域は税に加え出挙の返済でますます貧しくなり、豊かな地域は税があっても出挙の収入があるため豊かになっている。』

 これは一〇〇パーセント真実を伝えているとは言い切れないが、一つだけ考えさせられることがある。それは、地域による貧富の差が起きていること、それも、地域の中心ではなく地方のほうが豊かになっているという、歴史的にはあまり見られない現象が起きていること。

 ただ、実際にはそういうこともあったのではなかろうかとも思わせる。

 各地の地方史を見てみると、その地域の歴史が千年以上もの間連綿と続いていることがよく見られる。文字に残された記録だけではなく、また、遺跡に注視するのでもなく、今なお使われている田畑や道路といった生活を見れば、長い間そこに集落が存在し、その集落では生活が存在していたことも読み取れる。と言うことは、貧しいと言われ、収穫が乏しくても、そこに暮らす人がいて、世代が受け継がれ続けてきたと言うこと。

 生活できないほど貧しい集落は存続できない。頑張ろうが無茶しようがそこでは生活できないのだから、住民全てに見捨てられたか、意地で残った場合は生活できずに餓死となっていなければおかしい。逆に言えば、存在していると言うことは、不作であってもその集落で生活できたということ。つまり、その集落は、自然環境によるのか、土壌によるのか、農業技術によるのか、あるいは交通事情によるのかはわからないが、収穫にしろ交易にしろ、生活できるだけの何かがあり続けた集落ということになる。

 それまでは、どのような事情があろうと建前としては全ての集落が平等であり、平等に田畑が分け与えられているはずだった。班田収受はこの平等を前提とした制度であり、地域による格差は断じて許されることではなかった。

 だが、格差はあった。それも平等の名目を破壊するほどの格差が。

 その格差がどうにもならなくなったとき、班田収受は崩壊し、集落の淘汰が始まった。

 この時代、ある程度の収益のある集落はますます豊かになり、そうでない集落がますます貧しくなっていた。

 それは、富というものがが、一部の恵まれた特権階級のものではなく、ごくありふれた一般市民のものとなったということ。

 それでいて、富を得て豊かになった当の本人は、自分自身のことを、特権階級ではなく、税を搾取される貧しき庶民と認識し、税に加えて出挙の返済も迫られる本当に貧しい人のことは自己責任の一言で捨てるようになった。

 たった一度の出挙の利用が勝ち組から負け組へと転落する。そして、転落したら最後、勝ち組に戻ることはできない。

 それは問題だと考える者は多かったが、その解決は朝廷の責任にあるとされ、本来の解決方法、すなわち、勝ち組が自分の特権を捨てて負け組を勝ち組に引き上げることは断じて拒否した。

 今と変わらない、敗者復活の機会のない格差社会が誕生した。

 しかし、何も格差社会を誕生させようとして諸々の制度を制定したのではない。それどころか、一つ一つの制度は格差を無くそうとするために始めたことである。

 出挙は貧しい人を助けるためのものだった。

 特権階級への課税も貧富の差を埋めるためのものだった。

 手厚い福祉も財産の差による生活水準を均等化する目的だった。

 ところが、そのどれもが格差を広げ、格差を固定化するに役立つだけだった。

 出挙は貧しい人を苦しめ、豊かな者を富ませるだけだった。

 特権階級への課税は、限られた特権階級の没落と、その下に位置する数多くの豊かな者の特権階級化を生んだ。

 手厚い福祉は財産の差による生活水準をさらに広げた。

 一つ一つは格差を無くそうとする動きなのに、格差を無くそうとすればするほど、些細な差が絶望的な格差となって現れる。

 これは何も今に始まった問題ではない。

 現在の過疎の問題も、都会への憧れによって若者が都会へ出て行ってしまうことが原因として挙げられることが多いが、それよりも大きな理由がある。

 そこでの生活がいやだからということ。

 平安京に流れてきた人は、集落での暮らしが生活できるほどではなかった人たちである。そして、その流れがずっと続いている。残酷な言い方をすれば、死んでも死んでも難民が減らない。だが、出挙バブルが破綻し不作が始まったのは二ヶ月前とか三ヶ月前とかの話ではない。数年に渡った話である。

 ならば、いま平安京にたどり着いたばかりの者というのは、不作と言われようと、少なくともついこの間まで農村で生活できていた者ということになる。

 人が都市に流れるのは、都市に行けば豊かになれるからではない。都市が便利で、文化水準が高いからでもない。都市に行く以外どうにもならないと思い詰めたからである。

 この時代で言えば、不作でも来年の収穫まで何とかなると思えば集落を離れないが、来年の見込みも見込めないとなったら都市へと流れる。

 では、なぜ都市か。

 理由は単純で、農村が彼らを受け入れないから。

 土いじりが嫌だとか、農業なんてしたくないというのもあるだろうが、それよりももっと大きな理由は、収穫の多い集落に行ったところで耕すべき田畑がないということに尽きる。

 勝ち組となった農村は新しい人を受け入れることをほとんどせず、仮に受け入れたとしてもヨソ者として扱った。田畑や山林を譲るのは自分の子であって他者ではなく、その集落に生まれたのでも譲るべき田畑がない子は、自分で田畑を切り開くか、跡継ぎのない家の田畑を継ぐか、集落の外に出るしかない。

 それが自分たちの富を守るための選択だった。

 富は増やし守るものであって、他者に分け与えるものではないと考える者は多い。妥協しても同じ集落の者は助けるが、見知らぬ集落の見ず知らずの赤の他人を救う意識は全くなかった。

 無論、貧困や格差が大問題だということは知っている。

 しかし、彼らにとっての真っ先に解決すべき問題とは、他人より自分の富が少ないことの解決であってが、その日の食事に困る人の救済はその次。そうした人を救うのは国の役目であり、いくら救済のためであろうと自分の富を減らすなどあり得ず、救済のための税はとっくに払ったという態度で終始している。

 今の日本では、勝ち組の高齢者と負け組の若者という関係だが、この当時の日本では、勝ち組の農民と、負け組の都市難民という構図だった。

 では、格差の負け組を受け入れた京都はどうだったのか。

 都市は農村と違い、仕事とつながるのは給与であって収穫ではない。つまり、生活のためには受け取った給与を持って市場(いちば)に行き、食料や生活用品を買わなければならない。

 その市場の物価が上がっていた。

 市場(しじょう)は政策ではなく経済で動く。物価を決めるのは需要と供給のバランスであって、物価をいくらにせよという命令ではない。無理して値下げさせることはできたが、供給とバランスのとれない命令された物価は直ちに品不足を呼び寄せただけだった。

 そして、命令を無視する闇市場にモノが集まり、そこでは需要と供給のバランスのとれた値段でモノが売買されるようになった。

 何かしらのモノを持つ者はそこで売ることで利益を稼ぎ、転売を繰り返すことで富を増やした。一方、売るべきモノを持たぬ者は闇に足を踏み入れることも許されなかった。

 ここでも、すでに持つ者がますます富み、持たぬ者が貧しくなる光景が繰り返された。

 持たぬ者のほとんどは地方から逃れてきた人。彼らは都以外に行くところがないからやってきたが、都に出ても職など無く、収入のアテもなかった。

 ここで解決すべきは失業問題でなければならなかったのに、冬嗣の選択は違った。

 六月三日、京都でおよそ一年ぶりとなる施を実施。これは一瞬ではあるが、京都に流れ込んだ民衆を救うことになる。ただし、根本解決とは至っていない。


 その上、これまで税の免除を申し出ることの少なかった京都近郊から不穏な知らせがもたらされた。

 気候や土壌の良さに加え、農地面積当たりの人口も多く、技術革新も進んでいたため、他の地域よりも安定した収穫があったのが「畿内」とも「五畿(現在の読みは「ごき」であるが、当時の読みは「いつつのうちつくに」)」とも言われる、摂津、河内、山城、大和、和泉の五ヶ国である(かつては河内と和泉が一つの国であり「四畿」と言われていた)。

 この五ヶ国は今で言うと「首都圏」を構成する地域であるが、今の首都圏と違い、他の地域以上の義務が課される代わりに、他の地域にはない様々な特権が与えられていた。税率が他の地域より高かったが、国家予算は優先的に配分され、福祉の恩恵も他より多かったのである。それでも、より多くの義務に対するより多くの権利と考えられ、この当時は特におかしなこととは考えられていなかった。

 そのうちの大和国と河内国から、税の減免を求める嘆願が届いたのは前代未聞だった。法に定められたことではないが、経済基盤を五畿に置く貴族は非常に多く、そこで自分の土地を広げて収穫を獲得し、自身の収入としていることが普通だった。

 その五畿の不作に貴族たちは慌てふためいた。それまで悠長に構えているところもあった不作が、自分たちのフトコロを痛める現実のものとなったのである。

 七月二一日、農家の破産を防ぐために、大和・河内の両国に対し免税を指令する。

 しかし、免税を指令しても収穫がでないことにはどうにもならない。そして、この年の収穫は絶望的だった。

 梅雨だというのに雨が降らず、作物は枯れ、田畑は水不足からひび割れを起こした。

 この干害は五畿だけでなく、近畿一帯を襲った。

 七月二五日、嵯峨天皇はこの干害の責任は国司にあると宣言。中国の故事を持ち出し、国司の非道な行いに対する天罰が今回の干害であるとした。

 これに対する国司たちの態度は記録に残されていない。

 民衆からは施を求める声が挙がったが、その財源などなかった。それどころか、首都圏の免税を埋めるべく、いかに税収を増やすかに苦心していたほどである。

 冬嗣はこれに妙案で応じた。

 八月二九日、高齢者、母子家庭、障害者、孤児に限定する支給を行うと宣言。ただし、この時点では何をどれだけ支給するかは決められていない。

 九月一一日、その第一回の支給内容が公表された。一〇〇歳以上の老人に穀物四俵(約一二〇キロ)、九〇歳以上で穀物二俵(約六〇キロ)、八〇歳以上で穀物一俵(約三〇キロ)、その他の者が穀物一斗から三斗(約六キロから一八キロ)。今は一〇〇歳を超える老人など珍しくもないが、五〇歳で老人扱いされる時代の一〇〇歳は現在の感覚で行くと一三〇歳を超える超長寿。探せばいるかも知れないが、まずありえない数字である。

 施はする。それも充分な量の施を定期的に行う。ただし、それは、働けない者やハンデを背負っている者に限定する。

 これは京都の民衆を黙らせるのに充分だった。

 自己責任による貧困の打開に目覚めたのではない。

 冬嗣を見放し、朝廷はもう頼れないと考えたのである。

 それまでは、批判はしていたが、少なくとも施がありその日の食料にありつけた。しかし、これからはもう考えられない。

 困っていることをいかに訴えようと、高齢者でも障害者でもないと判断されたらそれで終わり。自分でどうにかしろと言われるだけ。

 彼らは自分の力で生きて行く以外に方法が無くなった。

 と書けばまだ格好はつくが、仕事も収入もない状態で生きていくとなると、残飯を漁るか犯罪に手を染めるしか無くなる。

 もともと良いとは言えなかった治安がより一層悪化し、その対策のために、福祉を減らすことで浮いた以上の負担を強いられることとなった。

 近畿を襲った干害が収まったのは秋になってから。収穫の季節が終わってから雨に恵まれ、一〇月には雪にも恵まれた。

 そして、一二月二日には京都の都市機能を麻痺させるに充分の大雪が降った。

 その大雪の前日、画期的な布告が出された。

 東北地方を平定したとは言え、それまでは、日本人は日本人として扱われ、俘囚は俘囚として扱われていた。戸籍や住民台帳にも「夷俘」とだけ記され、俘囚の氏名は記されなかった。

 しかし、今後は俘囚であろうと姓名を記すよう、役人に命じられた。

 これにより、少なくとも法の上では俘囚がいなくなったのである。無論、自己のアイデンティティを蝦夷に置く者もいるし、日本にあくまでも逆らおうとする者もいる。

 しかし、法の上では平等となった。

 このあたりから資料上の俘囚の名が消え出す。と言っても、俘囚が死んでいったからではない。俘囚の名でなく日本人風の名を名乗る者が増えたからである。それは流行でもあり、また、現実的な判断でもあった。

 俘囚の反乱が鎮圧されたということは、俘囚が日本人に見下される日々が再開されたということでもある。そのときの身を守る手段の一つが名の変更であった。

 俘囚だけの集落や俘囚だけの家庭内では改名前の名が使われたかもしれない。だが、その外では日本人の名であった。

 特に、俘囚の若者にその流れが強かった。

 日本人の名が格好良く感じられ、日本人の暮らしも格好良いものに映った。野や山林を巡り歩いて獲物を見つける暮らしより、田畑を耕す暮らしのほうが格好良いものと考えられた。

 これは悪く言えばアイデンティティの喪失であり、蝦夷の暮らしを誇りとする年長者は怒りをもってこの情景を眺めたが、昔ながらの暮らしをみっともないと見る若者に、そんな苦言など通用しなかった。

 俘囚はこのあとも日本人と同化していき、翌年には俘囚出身の貴族が誕生する。それまでにも貴族となった俘囚出身者はいたが、それは戦乱の功績であり名誉職的なところもあった。だが、それより先は一般の貴族として列せられることとなる。

 これとは別であるが、もう一つ、自らの意志で日本人に加わる者がいた。

 一〇月二七日、新羅からの亡命者二六人が大宰府へ漂着。それまで非合法な形で日本へやってくる新羅人は数多くいたが、大宰府に正式に届け出た上で、日本への帰化を望む形での亡命は珍しかった。

 弘仁五(八一四)年は渤海使来朝の年でもあった。新羅とは戦端を開かれてもおかしくない情勢であったが、渤海とは一貫して友好関係を築いていたのが日本の外交である。

 ともに新羅を仮想敵国とする同士、両者の関係は渤海滅亡まで友好関係のままであった。

 それは、両国間に適度の距離があり、民間人の交流が乏しかっためであろう。新羅も渤海と同様に海を隔てているが、当時の民衆にとっての新羅は目に見える脅威であり、生活の中で目の当たりにできる新羅人とは、亡命人よりもむしろ強盗であり殺人犯であって、友好や尊敬を抱ける相手ではなかった。

 だが、渤海は違う。まず、渤海人が日本に来ることは滅多になかった。来たとすればそれは渤海からの正式な使節であり、彼らが日本人と接触するときも当代きっての文化人との交流であって、民衆の生活には脚を踏み入れていない。

 おそらく、当時の民衆は渤海を知識としては知っていても、生活の中で意識することはなかったはず。意識することがあるとすれば渤海からの使者を迎えたときの歓迎ムードであり、そのときのお祭り騒ぎぐらいなものであろう。

 友好を前面に立てた上で民間人の交流がない状態を維持できれば、関係を悪化させるほうが難しい。

 ただし、渤海は文化的な交流をするために使節を日本に派遣したのではない。

 渤海もまた日本と同じ問題を抱えていた。

 環境の変動による不作と経済不振である。

 新羅と敵対し、唐とは一定の距離を置く渤海にとって、最大の味方であったのがこの当時の日本である。

 渤海は日本の援助を求めてきた。

 と言っても、日本の無償援助を要請したのではない。

 渤海で穫れる毛皮と日本の穀物との取引である。

 「難しい問題になりました。」

 冬嗣は渤海の要請に頭を抱えた。

 友好関係にある渤海との関係を壊すわけにはいかない。だが、渤海に渡すだけの穀物はなかった。

 「毛皮は魅力的です。着込んで暖をとるだけでなく、財貨としても有用です。」

 「今の国庫から出せるとすればどれだけだ。」

 「無です。それどころか、今の国庫のままでは収穫まで持たせることができません。おそらく、夏には尽きるでしょう。ここで渤海の要求を受け入れた場合、最悪の結果として十万人規模の餓死者が出ることもあります。」

 嵯峨天皇も迷っていた。

 今年の税収で得たコメを渤海に渡すことは二つのメリットがあった。

 渤海にとって日本が最大の味方であると同様、日本にとっても渤海が最大の同盟国である。新羅を降伏に追い込んだとは言え、新羅と友好関係を築けていない以上、孤立を避けるためにも渤海と敵対関係になることは何としても避けなければならない。

 そして、渤海の持ち出した条件である毛皮もまた魅力的な条件だった。毛皮は単に着るだけではなく、コメと同様の貨幣として立派に通用した。絹などの布地も含め、衣料はコメに次ぐ価値を市場で持っていたが、毛皮はそのトップに君臨していた。

 だが、それで失われる食糧が問題だった。

 嵯峨天皇は結局結論を出さず、この問題に時間をかけるとした。

 この状態で年を越す。

 渤海からの使者もまた、日本で新しい年、弘仁六(八一五)年を迎えた。

 その間も、朝廷では討議が繰り返されていた。

 意見は真っ二つに分かれ、そのどちらも優位を占めなかった。

 何と言っても毛皮は魅力的であるが、それは毛皮が高価だからではない。この時代の経済の基礎の第一はコメだが、絹や木綿といった布地もコメに次ぐ地位を占めていた。そして、毛皮はそうした布地の頂点に位置していた。

 つまり、交易による毛皮の獲得というのは、高価な製品がもたらされるというだけではなく、財政を好転させる要素でもあった。

 その上、最大の同盟国との交易である。ここで断ることは、これまで友好を築き上げてきた日本の対渤海関係を悪化させる要素になりかねなかった。

 だが、その対価は日本にとって重すぎる負担だった。

 コメに限らず他の穀物も不足し、庶民の食糧事情が悪化している状態での食料輸出は簡単にできることではない。

 高価な財貨と対外友好を得られる代償としては重すぎる。

 一月二二日、渤海使帰国。

 結論がどのようなものであったかは伝えられていないが、使節は手ぶらで帰国したわけではない。

 遺跡からの出土品から推定すると、どうやら、絹や木綿といった衣料を持ち帰ったらしい。

 これは日本の出来るぎりぎりの譲歩だった。

 コメに次ぐ価値を市場で持つ製品の輸出、しかも、渤海では日本以上に高値で取引される布地の輸出であれば、対外友好も、使節のメンツも立たせることが出来る。

 ただ、渤海が当初求めていた結果でないことは事実であり、嵯峨天皇は渤海国王宛に国書を送っている。

 このときもたらされた渤海の毛皮は朝廷の財政を幾分か軽くし、市場に流されることで、市場の衣料の価格を下げるのに貢献した。

 この年の冬は例年より寒く、暖をとるための燃料のために山に入って木を切ろうとして捕まる者も出ていたほどである。この状況でもたらされた毛皮は凍死者を減らすのに役立った。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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