役人の腐敗は止まらないどころか悪化していた。
無論、それに対して何もしていなかったわけではない。
二月九日、横領の容疑で複数名の役人が逮捕された。ただし、懲戒免職となった三名と、発覚する前に死去していたため免罪となった二名の名が伝わっているが、その他の名は伝わっていない。
その一方で、民衆のためを思って働いていた役人もいた。渤海使帰国後は空室となった鴻臚館(こうろかん・現在で言う迎賓館)を、住まいを失っている民衆の避難場所として開放したのもその例である。
ところが、その行為は善意であったが、結果はそうではなかった。
売ればカネになるとカベを引き剥がし、屋根瓦を持ち去り、庭の木を切り倒し、賓客歓待用の食器は勝手に売りさばくといった行動が当たり前になり、よかれと思ってやった食糧配給は夜中まで続く宴会を呼び、ついには些細な口論から乱闘が繰り広げられた。
このときの状況は、厚生労働省の講堂で寝泊まりした年越し派遣村の面々の行動を思い出していただければいい。その時代にタバコはないからその場に棄てられた吸い殻の有無だけは違っているが、これ以上ないほど汚しまくり、復旧するまでにかなりの手間と時間を要したのはこの時代も同じである。
三月二日、鴻臚館は閉鎖され、そこに住んでいた人たちも追い出され、以後、鴻臚館の開放は国外からの賓客を迎えるとき以外厳禁となった。
同じ月、禁止されたのがもう一つある。三月二〇日、陸奥・出羽両国からの馬の買い付けが禁止される。この両国出身の馬は高値で取り引きされた上に、上流階級の間で馬の飼育がブームになっていたことから、数多くの馬が陸奥や出羽から京都へと流れ、東北地方での軍備の維持に困難が生じるようになっていた。
この時代の馬は単なる動物ではない。現在の感覚で言うと、オートバイであり乗用車である。現在の成功した人間が高級車を選ぶように当時の成功者はより優れた馬を手に入れようと努力した。持っている馬の優劣がそのままその人のステータスになっていたのだから。
弘仁六(八一五)年という年は、人の行動なら前年と大差ないが、自然という点では前年の間逆であった。
雨のない前年と違い、雨に苦しむ一年となったのである。
梅雨の前から雨の日が多く、梅雨は例年以上の雨となり、梅雨が終わっても雨が降る日が続いた。
雨を免れることのできた地域もあったが、そこでは雨のかわりにイナゴが大発生した。薩摩国はこれで四年連続の被害である。そして、五月一四日、この年もまた免税が発せられた。
それ以外の地域で言えば単に雨が多いという情報だけであったが、その雨の多さが日を重ねるに連れて危険へと向かった。
六月一六日、河内国でついに洪水が発生した。多くの死者が出て、生き残った者も住まいと食料を失った。被災者対策のために国庫からコメが配られた。
その八日後の六月二四日には、雨が豪雨となり、雷雨となって近畿一帯を襲った。山城国の京都郊外では豪雨と雷による死者も出た。
七月一三日にも京都に豪雨が降り注いだ。死者が記録に残されていないことから犠牲者は少なかったとも考えられるが、それでも京都の都市機能に大ダメージを与えることとなった。
この一ヶ月間の被災に対処すべく、七月二五日、京都市内と五畿の免税が発せられる。
免税が発せられたことで税負担は減ったが、田畑の喪失と作物の全滅はどうにもならず、雨はなおも降り続いた。
八月三日、長雨が続き各地で水害が起こっているため、伊勢と加茂に使者を派遣し祈祷させる。京都近郊以外の水害の様子は伝わっていないが、地層を分析した結果、死者が出るほどの水害ではないにせよ、家や田畑が水害に遭うことは多々あったのではないかと考えられている。
京都近郊以外の水害の様子が文献で残っている唯一の例外は大宰府管轄の地域のみ。九州から中国地方西部にかけての一帯の水害が激しく、租税を三年間免除することとなったという記録が残っている。ただし、それがこの年の何月頃のことなのかは伝わっていない。
この弘仁六(八一五)年という年は特筆すべき法が定められた年であった。
一一月二一日に宣言された死刑の事実上の停止がそれである。すでに死刑の執行が行われなくなっていたが、やらないというだけでできないわけではない。しかし、これ以降は死刑執行そのものが困難となった。まず、死刑は秋冬にしか執行してはならないことが再確認され、一一月と一二月は国の祭事が連続しているため死刑執行が禁止された。さらに、京都と陸奥や出羽との連絡には二ヶ月を要するため、春が来る前に連絡が完了するには一〇月までに死刑執行の連絡を出さねばならないとなった。
ところが、監獄を管理する役人から死刑執行についての是非に関する連絡が上奏されるのは年末、通常は一二月に上奏するのが習わしとなっている。そして、年が変わったらリセット。死刑執行のためにはもう一度上奏文を提出しなければならない。
一二月に出される書類を一〇月までに出さねばならないと定めることは事実上の死刑停止である。一二月の提出は慣例であり、書類を前倒しで提出すれば死刑執行にも対応できるがその例はなかった。
それどころか、仲成の死刑以後、どんな重罪であっても死刑判決自体がなくなった。
このときの『格(律令の補完や実状に合わない部分の改訂をする法律)』の制定は死刑を最高刑罰とする律(刑法)を否定するものではなかった。死刑を定めた法は有効であり、ただ単に、律に従えば死刑となる犯罪であっても、死刑ではなく一段階低い追放刑に処すということとなっただけである。
そのため、このときの決断は死刑の『廃止』ではなく『停止』である。
とは言え、死刑にならないと言ってもそれが犯罪者にとってバラ色になるわけでもなく、被害者や遺族に二重の苦痛を与えるものでもなかった。
現在のように交通も発達し、海で隔てられていても飛行機で軽々と移動できる時代ではない。島流しとなったとしたら、いかに行動の自由はあろうと、鉄格子のない牢獄で死ぬまで過ごすということである。
高貴な人や比較的罪が軽いと思われる犯罪者は人の暮らしがある有人島に流されたし、脱出するチャンスも、許されて帰還する希望もあったが、そうでない犯罪者は、生活するのは無理だろうという無人島で餓死するまで放置されたり、もっとひどい場合だと、船にむりやり乗せたあと船にフタをして釘を打ちつけて、脱出できないようにさせた上で海の彼方へと流すことも行われた。
こうなると、死刑ではないが、飢餓で苦しんで死ぬまで痛め続けるという、事実上の死刑である。
そしてもう一つ、冬嗣家にとってのニュースがあった。
次男の良房(よしふさ)に嵯峨天皇の娘で臣籍降下した源潔姫(みなもとのきよひめ)が嫁いできた。とは言え、良房はこのとき一一歳、潔姫は五歳。天皇家でない者が皇族に嫁ぐという先例は多々あるが、臣籍降下したとは言え、天皇の実の娘が臣下の妻となるのは、確認できる限りではこれが歴史上初めてのこと。
当時の人はそれだけでも冬嗣の権勢を理解できた。
「(薬子の出会いもこういうものだったのだろか。いや、それは考えるまい)」
幼い二人のままごとのような暮らしとしてスタートしたが、この時代にしては珍しく、この二人の関係は潔姫が四六歳で亡くなるまで続いた。
恋愛に多少なりとも距離を置いてきた冬嗣も、実の子の恋愛ならば目を細める一人の父親だった。
翌弘仁七(八一六)年の年明けは前年から続く雨。通常なら正月一日に行われるはずの宮中の行事もこの雨で中止になった。ただ、雪ではないことから、降水量はともかく、気温は前年よりましだった可能性もある。
雨が止んだ後で降ってきたのは砂だった。一月二五日に黄砂現象と思われる記録が記されている。
もっとも、この年の天災はこの程度で済んでいた。
天候不良も見られず、この年の前後には頻発されていた免税もこの年は少ない。
そればかりでなく、三月九日には、前年に三年間の免税となった大宰府管轄の地域に、免除された税の代わりに絹を納めるよう命令が下っている。
どうやら、田畑の復旧に要する時間は思ったより早かったようである。ただ、元通りの収穫となるには時間を要しているため、絹での納税という形をとることで、完全な免税から税の一部減免へと変えたらしい。
そのほかの地域でも天候的に穏やかであり、対外関係も平穏、政治も安泰という安定した時期を過ごしていた。
八月までは。
八月二三日、関東地方からニュースが飛び込んできた。上総国(現在の千葉県)で大火が発生し、国衙所有の米倉六〇棟が消失したというのである。
第一報では、出火はあくまでも自然発火。米倉の管理責任者であり、上総国の徴税の責任者でもあった久米部当人(くめべのまさひと)は責任をとって自殺した、という連絡が届いた。
これを怪しいとみた冬嗣は、ただちに刑部省(現在の裁判所と検察庁を合わせたような省庁)に対し火災事件の捜査を命じる。
上総国の国司交代はこの年に行われる。国司交代の引継には任期中の国内の収穫とそこからの税収が含まれており、その数字が京都で管理している数字と一致しない場合は国司の横領が疑われる。
以前であれば多少の横領は認められていたかもしれない。実際、国司を務めあげることで一財産築く者もいたし、国司となって地方に赴任することを希望する貴族は多かった。
ところが、冬嗣の断固とした態度は国司たちのそうした雰囲気を一掃した。真面目に務めあげなければ全財産没収の上追放となるとさえ言われた。
そんな中で届いた火災発生と米倉の消失。それも六〇棟という大量の米倉の消失。そして、証言可能であったはずの責任者の死。
これは怪しくないわけがない。
冬嗣の命による捜査の結果浮かんだのは、やはりと言うべきか横領発覚を恐れたことによる隠蔽工作というものであった。
しかし、前の上総国司である多治比全成は横領など一切無かったと主張し、その他の役人たちも横領を否定。引き継ぎ時の数字が合わなかったとすれば、それはその自殺した久米部当人の横領であると主張した。
刑部省の最終回答は、放火であったという証拠は見つからず、放火可能であった者も死んでいるため、被疑者死亡による不起訴とするしかできないというものであった。
そこで冬嗣は、官有物の消失ということで、法に基づき、国司をはじめとする上総国衙の役人たちに損害賠償を請求するという決断を下した。
だが、この出火は国司交代のタイミングで起きており、現在はもう新たな国司が着任している。官有物に対する損害賠償となると、前任の国司や役人たちではなく、着任したばかりの国司や役人たちとなる。
これが問題となった。
法を適用するとなると無関係な者に責任をとらせなければならなくなる。しかし、それしか責任をとらせる法はない。
そこで、冬嗣は法の拡大解釈をした。
引継期間の間に発生した官有物消失の責任は、その期間に応じ前任者も負うべきというものである。
これにより、交代前の役人たちへの損害賠償請求が実現することとなったが、これもうやむやのうちにもみ消されることとなる。
九月四日、嵯峨天皇が病に倒れる。病とあるだけでどのような症状かはわからないが、病の祈願を行わなければならないほどというのは判明している。
誰が注進したのかわからないが、この病は上総国の火災に対する措置の誤りを正すための天罰ということになった。そして嵯峨天皇はそれを受け入れた。
九月二五日、上総国出火の責任を免除するとの通達がでた。
これに冬嗣は怒った。横領し、隠蔽し、手下に責任を押しつけ自殺させ、罪を着せられたら祟りがあると言い、一切の責任を負わずにのうのうと暮らす者がいることが我慢ならなかった。
その結果が『検非違使(けびいし)』の設置である。
検非違使は律令に記された官職ではないため、正規の出世ルートからは外れる。しかし、警察権と司法権の両方を手にするだけでなく、バックに冬嗣がついているため、生半可な権力者では太刀打ちできない捜査権を手にしている。おまけに、冬嗣がその権力でもって、この職務を務めあげた者には五位以上への出世の道を用意した。
いつの時代にも正義感あふれる若者はいる。
理想に燃えている。
親が裕福なおかげで理想を議論していても食べていける。
エリートっぽい道を歩いてはいるがトップエリートではない。
そのくせ、野心に満ちていて、本来の自分はこんなものではないと考えている。
天下国家を論じるもののその内容は具体的でも現実的でもない。
こういう若者が。
そうした若者が検非違使に飛びついた。任官を願う者が殺到し、自分たちが悪と考えるもの、特に貴族や役人の腐敗を遠慮なく取り締まるようになった。
よく言えば秩序の確立、悪く言えば秘密警察を使っての恐怖政治だが、このときの検非違使は冬嗣にとって理想的な結果をもたらした。
冬嗣にとって都合の悪い存在が黙り込むこととなったのである。この時代の貴族や役人が、何一つ犯罪に触れることなく現在の地位にいるなどあり得ない。賄賂や横領など叩けばすぐにホコリが出てくるし、仮に自分がやっていなくても部下がやっていたらそれは使用者の責任になる。
検非違使の職務は律令で定められた職務と重なっている。司法権は刑部省の管轄であるし、警察については弾正台という組織があった。京都市中の行政や治安維持については京職といった官職もあった。だが、その全てを包括する検非違使は権力を徐々に拡大し、その他の官職は有名無実と化していく。
さらに、のちには武士が検非違使に就くこととなり、武士の中央政界への進出のきっかけとなった。
現在の日本を難民の受け入れについて閉鎖的な社会と見るか開放的な社会と見るか、この判断は難しい。正式な手続きを踏んだ上での難民の受け入れに目を向ければ閉鎖的だが、難民として日本にやってきた韓国人とその子孫に対する特権に目を向ければ、必要以上に開放的となる。
では、この時代の日本はどうか。
これは無条件で開放的と言える。
俘囚や新羅人の対策をとり続けたのも、そうした生活苦から逃れようと日本へやってきた難民を受け入れ続けた結果に他ならない。
ただし、当時の日本は、彼らが日本語を使い、日本人として日本の習俗で暮らすことを要求した。つまり、難民を受け入れるが、外国人として生活することは拒否するという態度であった。
難民の第一世代は日本で定住するための生活の援助をするが、その次の世代は特権など無く、日本人として扱われる。現在の在日韓国人のように、世代が変わり、日本語しか話せない世代となっても韓国人のままというようなことはなかった。
一見するとそれは暴論だが、郷に入りては郷に従うのは無駄な摩擦を生まないために世界中どこでもしなければならないこと。移住した先で、自分の家の中で移住前の風習を続けることは構わないが、自分たちだけで固まって集落を作り、外とは拒絶された空間を作って、その土地の風習に従わずに暮らすのは無駄な摩擦を生むもとになる。
民族全体が差別されるケースというのは、自分たちを特別と考えて周囲を見下し、周囲にとけ込まずに自分たちだけで暮らしているケースである。
この時代の二大難民である俘囚と新羅人について、この年の一〇月に記録が二つ残っている。
一〇月一〇日、俘囚に口分田を配布。
口分田を配るということは、日本の税体系の中に俘囚が組み込まれたということである。
すでに日本人であろうが俘囚であろうが関係なく、同じ権利が与えられていた。また、法の上でも俘囚であることが記録されなくなり、ただ、義務だけが違っていた。
その義務が同じになった。
かつて俘囚と呼ばれていようと、日本人と同じ義務が課され、種籾の貸し付けも無料ではなく出挙に変わった。
一〇月一三日、新羅人一八〇人、帰化を求め亡命。
それまでは、許可なく勝手に日本にやってきては住み着いていたのが亡命新羅人である。日本の立場としては、いつの間にかやって来ては生活しているというものであり、難民として受け入れたわけではなかった。ただ、原理原則に従っていたら現実と辻褄が合わなくなるので、原理原則のほうを曲げていただけである。
だが、今回は違った。
はっきりとした亡命であり、かつ、日本人になると宣言しての入国である。これに対する朝廷内の議論は伝わっていない。
この二つの出来事。
結論から言うと悲劇をもたらすものだった。
それからおよそ半年後となる弘仁八(八一七)年三月一五日、四三人の新羅人が帰化を希望して日本へやってきた。これは記録に残った例であるが、個人や数人程度であったため記録に残っていない者や、密入国してきた者もいると考えられており、この時期にどれだけの規模の難民が新羅からやってきたのかわからなくなっている。
だが、こうした難民を受け入れる日本の状況は楽観視できるものではなかった。
地方から、飢饉が派生したため餓死者や流浪者が増加し、残っている者も食料が乏しくなっているという連絡が相次いで届いた。
五月二一日、信濃(現在の長野県)、長門(同山口県)での飢饉に対処するための物資援助を表明。ただし、何をどの規模援助したのかは伝わっていない。
六月には前年とうってかわった干害が全国を襲う。河川やため池が枯れ、結果、田畑の水も必要を満たすに至らなくなった。これに対処するため、嵯峨天皇は雨乞いを命じる。
六月三日、筑前でも飢饉が深刻化したため、大宰府が大規模な援助を実施。同日の記録にはそのほかの国にも飢饉が発生したと書いてあるがそれがどこかは書いていない。
琵琶湖水系は干害にも強いため、琵琶湖からの水が利用できる山城や摂津では干害の被害も他より少ないのが通例であったが、別の災害がこの地を苦しめる。七月一七日、摂津で高潮が発生し、およそ二二〇人の死者が出た。
繰り返される自然災害、終わることのない飢餓、抜け出すことのできない貧困は動揺を招く。
この頃、東北地方で俘囚の反乱が発生したのもその一例である。
残された記録によれば、反乱と言うよりも、少し多めの強盗集団、あるいは、テロとか過激派といった類であろう。なぜなら、大規模な軍勢の投入ではなく、既存の武力で解決しているのだから。
反乱を起こすといっても、それは日本からの独立を本当に願ってのものではなかった。題目としては自分たちを支配する日本に抵抗し、蝦夷としてのアイデンティティを掲げ、最終的には日本からの独立を勝ち取ることを挙げたが、実際は、自分たちが食べていくこと、暴れ回ること、奪うこと、殺し回ることが目的であった。
何しろ、被害者もまたついこの間まで俘囚と呼ばれていた者なのだから。
いくら彼らが、日本に従うようになった蝦夷は裏切り者だと主張しようと同調する者は少なく、被害者は身の安全を日本に頼んだ。
もうこの頃には、俘囚とかつて呼ばれていようと自分は日本人であり、自分は日本に属する者というアイデンティティが確立されるようになっていた。
九月二〇日、反乱軍の首脳オヤシベと、その仲間六一人を拿捕。通常、こうした反乱の首謀者は拿捕された後に京都へ送られるが、このときは送られなかった。
反乱を越した者に対する温情措置が、蝦夷との決別と日本への浸透をよりいっそう生むこととなる。
その四日前、朝廷にニュースが届いた。
九月一六日、藤原縄主死去。
薬子の正式な夫であるが、奈良の反乱に対して連座されることなく、外交官として、貴族として遅い出世を歩んでいた縄主は、その敵を作らぬ温厚な性格からこの頃には朝廷内で重宝されるようになっていた。
冬嗣と葛野麻呂、あるいは文屋綿麻呂との関係はお世辞にも良好なものではなかったが、縄主が間に入ると関係が維持できた。
ただ、これは縄主にとって複雑な感情であったと思われる。
薬子が安殿親王のもとへ向かってから、縄主の女性関係は全く見えない。それは薬子が自殺してからも変わっていない。
押しつけられた結婚であったとしても、そして、相手の好意が自分には向かっていない結婚であったとしても、やはり、縄主は薬子を愛していた。そして、自分の元を去ってもなお、その思いは貫いた。
その薬子を自殺に追い込んだ男と向かい合うのである。
辛かったであろう。
苦しかったであろう。
しかし、その感情を隠して、死の直前まで貴族としての責務を貫いた。
誰もがそれを理解し、その死に心を痛めた。
一〇月七日、常陸国(現在の茨城県)で大火。米倉一三棟、コメ六〇〇トンを消失。上総のときと違い、横領の証拠隠滅のための放火とは見なされず、処分された者もいなかった。
そして、一一月以降、京都に天災が連続する。
一一月二五日、大雪。
一二月一三日、地震。
一二月一四日、大雪。
一二月一八日、地震。
一二月二〇日、地震。
これらの雪や地震の規模は伝わっていない。地質調査を見ても、それほどの被害は出なかったであろうと推測されている。
しかし、現実の被害の有無と感覚とは一致しない。
縄主の祟りではないかとする感覚は生じなかったが、繰り返される天災は何らかの凶兆とする考えが広まった。
また、実際の干害や水害は生活を苦しめた。収穫がないため、税が納められないばかりか、食べるものが無くなった。
生活苦に加え未来への展望が乏しくなった民衆を救うことは当然考えた。考えたが、救うだけの財源がなかった。
冬嗣は最後の手段に手を出した。
翌弘仁九(八一八)年の三月一九日、財源捻出のために貴族や役人の給与の二五パーセントカットが決定された。
ここに至るまでには猛反発を招いた。
「ただでさえ不作で収益が出ないのに、このうえ給与まで減らされたらどうやって生活しろと言うのだ!」
「給与を減らせば仕事に対する熱意も冷める。役人はより一層の不正に手を染めるようになる。」
「律令に定められた給与を支払うのは国の責務。それすら果たせぬほどではない。」
これが縄主の祟りなのかと思わせるほどに縄主の不在は痛かった。冬嗣と、葛野麻呂をはじめとする貴族の対立は深刻なものとなり、冬嗣は検非違使の出動まで匂わせた。
「全財産没収か、給与の減額か、好きなほうを選べ。」
それは冬嗣が久しぶりに見せた恫喝だった。
財源確保のための給与減額を実現させたが、それで天候が穏やかになるわけではない。
春になったと同時に冬の大雪を忘れさせるだけの日照りが起こった。
四月三日、嵯峨天皇は干害続きのため雨乞いを命じる。
しかし、なおも雨の足音はなく、四月二三日には広隆寺が失火する。
同日、嵯峨天皇は干魃による不作や失火が天より下された天罰であるとし、天の恩寵を得るために、経費の削減、市中に放置されたままとなっている餓死者の埋葬、飢餓にある者への施の実施、監獄に収容されている者の再審理と冤罪判明後の釈放を命じる。
自然現象に対する嵯峨天皇の行動は一貫している。
自然災害を天からの警告と捉え、天の警告をそらすための徳の積み重ねに奔走する。
それにはオカルティックな面もあり、合理的精神とは言えない。これは嵯峨天皇がそうしたオカルティックな考えの持ち主であったと言うところもあるが、そうでなかったとしても嵯峨天皇はこうした儀式を行う必要があった。
天皇に限らず、政権のトップに立つ者が現実主義を貫いてそうしたオカルト部分を排除することが、必ずしも正しいとは言えない。そうしたオカルト的な考えを持つ人も含め、全ての人を統治するのは執政者の義務であり、本人がいくらそれは現実的ではないと無情に接しても、天の裁きとか、死者の呪いとか、そうしたオカルト的な考えを持つ人を納得させることはできない。
ましてや、時代は、そうしたオカルト思想が圧倒的多数を占めている時代である。嵯峨天皇自らがそうした考えの人にあわせて儀式を行わせることは、世間の平穏を保つのに効果があった。
平穏を保つ効果はあったが、天災から逃れる効果はなかった。
七月、関東地方北部を中心とする大規模な地震が発生した。
関東大震災やそれ以前の江戸時代の関東地震は海底のプレートの沈み込みによる地震であったが、このときの地震は群馬県の地層の断絶による内陸型地震であった。現在でもこの地震の痕跡は確認でき、群馬県の前橋市から桐生市にかけて、最大四〇センチに及ぶ地割れの痕跡が確認できるほか、地層にはこのときに発生した土砂災害による地層形成が確認できている。
こうした地質調査の結果、このときの地震はマグニチュード八を軽く超える超巨大地震であったとされる。ちなみに、記憶にも新しい一九九五年の阪神淡路大震災はマグニチュード七・三、中国の四川大震災でもマグニチュード七・八、日本史上最大の被害となった大正時代の関東大震災でもマグニチュード七・九であり、マグニチュード八を超える巨大地震となると、その震源付近は震度七に軽く達する被害であったと推測される。
ところが、これだけの大地震でありながら、弘仁九年七月に発生したということが記録されているだけで、詳しい日付は不明である。また、大規模な土砂災害や、その結果の水害による多数の被害者が出たともあるが、被害の詳細はわからない。
朝廷がその情報を掴むのにも時間がかかったとみえ、地震の被害の調査と被災者の救済のための役人の派遣が決定され、被害の状況に応じた免税が命じられたのは八月一九日になってからである。
九月一〇日、嵯峨天皇が今回の地震は自身の不徳のためであるとし、徳を積むため、二年前以前の税の滞納を全て免除すると発表。
だが、これはさらに国家財政を悪化させるきっかけとなった。
関東の援助のために持ち出された財政の穴を埋めることができなくなり、その結果、貴族や役人の給与の支払いに支障が生じるようになった。
冬嗣は給与カットに次ぐ更なる禁じ手を出す。
一一月一日、新通貨「富寿神宝」発行。貨幣価値はこれまで流通していた銅銭「隆平永宝」一〇枚分とした。ただし、これまでの通貨よりも小さく、鉛分も多い劣悪な貨幣であった。
新貨幣は旧貨幣の一〇倍の価値があるため支払われる銭の枚数がヒトケタ減った。そして、旧貨幣と同じ素材で旧貨幣以上の発行枚数を出せたため、国の財政は一瞬ではあるが潤った。
だが、これはどうにもならない大インフレを呼ぶだけだった。
通例であれば、こうした騒動が起きた場合に真っ先に冬嗣攻撃を行う葛野麻呂であったが、このときはそれがなかった。
したくてもできなかったと言うほうが正しい。
一一月一〇日、藤原葛野麻呂死去。
葛野麻呂の死去により、冬嗣に対峙する人間が藤原緒嗣だけになった。
緒嗣は葛野麻呂のように野心あふれた人間ではないが、自尊心は強い。そのため、出世レースにおいて冬嗣に追い越されたことに対する反発心は強かった。
ただ、嵯峨天皇の信任という点で緒嗣は冬嗣に勝てなかった。特定の天皇の忠臣となったわけではなく、朝廷の一官僚に徹してきた緒嗣は、早熟の天才としてスピード出世を遂げることはできたが、それは途中まで。
はるか後ろを走っていたはずの冬嗣は嵯峨天皇の側近中の側近となった事でスピード出世を続け、弘仁五年に逆転。以後は冬嗣が緒嗣より上に立ち続けることとなった。
新年恒例の朝賀を暴風厳寒のため中止するという良くないスタートの弘仁一〇(八一九)年、その緒嗣が暴走した。
二月二〇日、不作からくる財政難のため貧困者の救済はこれ以上できなくなったとし、富豪の蓄えを調査して、余裕ありと判断した者に対し、貧困者に無担保無利子で貸し出させるよう進言したのである。
そしてこれが許可された。
良く言えば累進課税だがこれにも限度はある。無担保無利子であろうと貸し出しである以上返ってくるものであるはずだが、不作のために返還不可能となった場合までの返済義務はなく、これは事実上の財産没収であった。
三月二日、山城、美濃(現在の岐阜県南部)、若狭(同福井県西部)、能登(同石川県北部)、出雲などで飢饉が発生したため、無担保無利子の貸し出しを先行して開始。
力ずくによる財産没収であるため各地で猛反発が生まれた。
理屈の上では緒嗣の言うことは正しい。豊かな人間の財産を貧しい人に分ければ貧富の差はなくなる。だが、これが失敗する理屈でしかないことは共産主義の滅亡という事実を持ち出すまでもない。
貧富の差で問題になるのは貧困の差そのものではなく、貧困の差を埋められない環境のほうである。執政者が成すべきことは、貧しい者が豊かになるチャンスを用意することであって、豊かな者を貧しくすることではない。
緒嗣はそれをやった。
元々冬嗣はこの政策に乗り気ではなく、検非違使の出動も抑えていた。そのため、財産没収を強行する役人や、それに抵抗する富裕者との対決を抑えることができなくなった。
はっきりとした確証はないが、武士という存在の誕生はこのあたりである。
従来の説では、地方の富裕層が自分たちの財産を守るために、自ら武装したり、武装した者を雇うようになったのが武士の始まりとされている。
近年の説では、武人としての訓練を積んでいた皇族や貴族や下級官吏が、配下の兵士たちとともに地方に流れ、所領を守るための武装集団を形成するようになったのが武士の始まりと言われる。
いずれにせよ、おびただしい数の失業者が盗賊と化して治安悪化を招いていたことに加え、朝廷権力による財産没収を目の前にしては、それが法に触れることであろうと自らの財産を守るための武装を選ぶ者は多かった。それが武士の誕生とつながったという確証はないが、綿麻呂によって解雇された兵士といった武人としての訓練を積んだ者が失業者として存在しており、武力を必要とする人がいた以上、遅かれ早かれ武士の誕生は免れ得なかったであろう。
武力に頼って抵抗するというのは最後の方法であり、そのケースは深刻化するほどの数ではない。
ただ、それに頼らないで何とかして自分の財産を守ろうとすることは手広く行われた。
地方に派遣される官吏の税は、現住所ではなく赴任先で納めることが認められており、赴任先で納めた税はその国の税収として利用された。ただ、それを利用する者は少なかった。メリットがあまりなかったからである。
しかし、緒嗣の命令による財産調査の先行実施地域に京都もその一部である山城国が含まれていることから、納税を赴任先で済ませることとする貴族や役人が続出した。赴任先で納税すると主張することで、実際に納税するかどうかは別として、財産調査から納税分が引かれるからである。
その上、真面目に納税するのであっても、赴任先で納税するほうがメリットとなった。
この頃、京都や五畿よりも地方のほうがコメの値段が安いことが広く知られるようになった。
そのため、給与を銭で受け取ったあと赴任先でコメを買い、そのコメを納入するという方法を選べば差分が利益となった。
この方法は、貴族や役人の財産を守る効果があったが、京都や五畿の税収の落ち込みを呼んだ。これは、単に地域の財政を悪化させたに留まらない。
地方で納める税はその土地の収入となるが、京都や五畿で納める税は国家財政である。
冬嗣は国家財政の減少を食い止めるために、赴任する場合であっても現住所で納税することを命じるよう主張する。
五月二日、冬嗣の意見が採用され、住所での納税が命令された。
緒嗣の進めた政策は善意から発案された政策である。しかし、結果を見れば、悪意から起こした政策であるとしか言いようがない。
たしかに豊かな者の財産は減った。だが、貧しい者が豊かになったわけではなかった。
京都市中にあふれる失業者は減ることなく、インフレの激しさから市場で物を買うこともできず飢えに苦しんだ。
六月四日、京都市内の困窮者に新通貨「富寿神宝」を給付。
しかし、モノの絶対数が少ないところで通貨量が増えたがために上がった物価。ここで通貨をばらまくことはインフレを加速させるに充分だった。
しかも、モノが少ない理由である不作はいっこうに治まる気配が無く、この年も不作であることがこの段階で明らかになっていた。
七月、干害発生。雨乞いにより雨を降らせた寺社に褒美が与えられる。
七月二〇日、京都に暴風雨。
八月、一転して長雨。それまで雨乞いを命じていた寺社に快晴を祈らせる。
まったく嵯峨天皇と冬嗣の時代は天災と人災の連続である。
その結果の不作と貧困から抜け出すことができないまま一〇年を経過し、これはこの後も続く。
水害や干害、地震、暴風雨といったものは人間の手でどうこうなるものではないし、この時代、天災による不作が続いたという記録は日本だけでなく中国や渤海の史書にも残っている以上、これは日本だけの現象ではない。
この時代についての史料としてもっとも使用されるのが「日本後記」であり、この作品の基礎資料も日本後記である。
日本後記は「続日本紀」の続きを記すことを目的に、この年、嵯峨天皇の命令によって編纂が開始された。実際に作成に当たったのは、冬嗣、緒嗣に加え、藤原貞嗣、良岑安世など。完成したのは承和七(八四一)年一二月九日であるが、その前から段階的に公表されており、嵯峨天皇は自分の治世中の出来事の記録を目の当たりにしている。
冬嗣存命中は、冬嗣が事実上の編集長として強大な発言権を持っており、冬嗣存命中の時期の記載はそのまま冬嗣の指示と言っても良い。
無論、冬嗣は偽りを書いたのではない。実際に起こった出来事を書いたのであり、それは現在の地質調査や他の史料などからも事実であることが証明されている。
これは日本後記に限ったことではないが、六国史と呼ばれる上代日本の正式な歴史書は事実の羅列を基礎としている。そこには作成者の感情もなく、単にそのときの記録を連挙しているにすぎない。そのため、物語性に欠けるが信頼性は他の歴史書より高い。
しかし、日本後記には例外がある。ごく一部ではあるが、作成者の感情が表れているがために、真実か否かが怪しい箇所がある。
それは、冬嗣存命中に記された、奈良の反乱についての容赦ない罵倒。言い回しは冷静を装い、事実を客観的に記しているかのような感覚を受けるが、その内容は仲成と薬子に対する罵倒の連続である。
藤原仲成は大悪人で、藤原薬子は希代の悪女。奈良の反乱は正義に対する悪の反乱であり、二人の死は正義の結果とされた。
おそらく、この二人を死に追いやったことは冬嗣に一生つきまとっていたのだろう。だからこそ、冬嗣は自分の正当性を声高に主張する必要があった。
しかし、それがかえって奈良の反乱に対する記録の信憑性を低めており、それ以外の箇所の信憑性が高いゆえに画竜点睛を欠く結果になっている。
弘仁一一(八二〇)年二月、遠江・駿河の両国(ともに現在の静岡県)から緊急の連絡がもたらされた。
およそ七〇〇人の新羅人が反乱を起こしたという連絡である。
新羅からの亡命者が日本国内で社会問題となるのは以前からあったが、せいぜい犯罪のレベルで済んでいた。
しかし、このときは社会問題では済まなくなった。
多くの日本人が犯され、殺され、倉は奪われ、家は焼かれた。
しかも、遠江・駿河領国の国衙に常駐する兵士だけで対処できなかった。
これは一刻を争う事態であると判断した冬嗣は綿麻呂に出動を要請するが、綿麻呂はこれだけでは不充分であると判断。
「今から京都で軍勢を集め東海に派遣するのでは、相手に逃げ出す機会を与えるのみ。」
「ならばどうしろと言うのだ。」
「一刻も早く使者を関東、特に相模と武蔵に派遣し、関東より兵を派遣させ、東西より挟み撃ちとする。」
冬嗣は兵を率いることに関しては完全に無知である。その経験もないし、学んだこともない。また、それを必要とする局面も無かった。武力が必要なら検非違使を動かせばそれで済んでいたからである。
だが、今回は違った。
国衙常駐の兵士で太刀打ちできないということは検非違使でも太刀打ちできないということである。
朝廷が動かせる武力は綿麻呂しかいなかった。
直ちに綿麻呂を中心に対策が立てられ、使者が関東地方の各国へ派遣された。
このときの亡命新羅人の反乱の名目はわからない。俘囚の反乱であれば、少なくとも日本の支配からの脱却という名目があるが、彼らの反乱の名目は今でもわかっていない。
ただし、目的と経過なら同じである。
目的。自分たちが食べるための強奪。
経過。数多くの日本人が殺され、数多くの建物が焼かれた。
日本に亡命する新羅人は以前から多かったが、亡命先での暮らしは新羅人を満足させられるものではなかった。それも当然で、いくら新羅が日本に無条件降伏しようと、新羅人にとって日本は格下であり、日本では自分たちが特権階級として扱われるべきと考えている彼らに、一般人として扱われる待遇は屈辱でしかなかった。
また、日本での住まいも、彼らが希望した新羅を海の向こうに眺めることのできる北九州や山陰ではなく、海の見えぬ場所や、海が見えてもそこは太平洋という場所があてがわれていた。
これに対し、そもそも亡命であったのかとする説もある。
日本に来たのは密貿易や人身売買のためであり、それが失敗したために日本への亡命を装うことにしたというものである。海の向こうが新羅である山陰や北九州に住むことを願ったのもそうした新羅との連絡を容易にするためであり、朝廷がそれを見破ったために彼ら亡命新羅人を新羅から遠ざけたという考えである。これはこれで信憑性がある。
日本へ逃れてきた亡命新羅人の数と反乱を起こした新羅人との数を見た場合、反乱を起こした者の数が少なすぎる。
新羅人の中のごく一部、それも、日本への帰化意志の全くなかった者を集中して現在の静岡県に住まわせたことに目をつけた新羅が、生活苦に苦しむ同胞をたきつけて起こした反乱ではないか。
研究者によっては、彼らがそもそも亡命を装った工作員であったとする説を挙げる人さえいる。日本国内で内乱を起こし、日本を壊滅状態にさせたあとで新羅が日本に侵攻する計画であったという説である。
さすがにそれは考えすぎだと思われるが、名目無き反乱でありながら、その始まりは見事なものであることは間違いない。準備も、制圧計画も、相手の軍備状況も見通した上での行動開始であり、対する日本の朝廷は完全にノーマーク。これは偶発的に起きた反乱ではなく、新羅の軍事作戦の一環として計画されたと考えるべきであろう。
ただし、この後は杜撰の一言でしかないが。
反乱を起こして日本にダメージを与えることは成功した。
だが、その後がなかった。
そもそも反乱に参加した人数が少なすぎる。
新羅は亡命新羅人や俘囚、さらには生活苦に苦しむ日本人も反乱に同調して立ち上がると考えたが、それはなかった。反乱に参加する日本人がいないだけでなく、俘囚も、他の亡命新羅人も反乱に加わらなかったのである。彼らを解放軍と見る者など居らず、ただただ恐怖と怨念で眺めるのみ。
結果は、反乱の下火。
暴れるだけ暴れてもその後がない。
暴れる場所が無くなった反乱新羅人は勢力を東へと移し、伊豆へと到達する。
伊豆でも彼らの所行に違いはなかった。人は殺され、建物は焼かれた。
しかし、なぜ伊豆に向かったのかはわからない。
あるいは、伊豆に向かったことの明確な理由など無いのかも知れない。荒らし回って次のターゲットを探し続けた結果がたまたま伊豆だっただけだとも考えられる。
この伊豆で、彼らは意外な行動を見せた。
倉の穀物だけではなく、船を奪い、海へと乗り出した。
ここで彼らの行動パターンが読めなくなった。
海賊となって海沿いの集落を襲うのか、海の彼方の新天地を探すのか、遠回りして新羅と連絡を取るのか。そのどれもが当てはまらず、彼らの船は伊豆沖に停留し、それが陸地から確認できる距離に留まった。
だが、これも、今回の反乱の始まりを考えれば理解できなくもない。
元々無謀な反乱だった。最初は仲間が増えるだろうと思っていたし、新羅本国との連携もとれると考えていた。しかし、それがなかった。日本人だけではなく、かつて新羅人であった帰化者も彼らの味方をしなかった。新羅との連絡も全くとれず彼らは孤立を余儀なくされた。
計画のスタートだけは見事だったのに、その後の計画はムシが良すぎる内容で、おかげで反乱はすぐに破綻した。
何しろ、今やっていることの目的が見えていない。暴れるだけ暴れたはいいが、その後どうするべきかというビジョンがない。新羅に帰るなら帰るでいい。自分たちの新天地を探すならそれでもいい。ところが、暴れるだけ暴れたあとで待っていたのは、自分たちはいったい何をしているのかという思いだけである。
自分たち以外に仲間などなく、ただただ、暴れる日々を過ごすのみ。
来るはずの新羅の援軍など影もなく、ついには噂にすら上らなくなった。
新羅としては、攻め込むべきタイミングが現れなかったために軍船を出せずにいたというところか。そのため、この反乱はあくまでも亡命した新羅人たちが勝手に起こした反乱であり、新羅当局の知らぬことと称した。
つまり、反乱軍を見殺しにした。
二月一三日、反乱を起こした新羅人全員を拿捕。
綿麻呂の出陣を待つこと無く、相模・武蔵をはじめとする七カ国の常駐軍の派遣で事が済んだ。
このあとの新羅人たちを伝える記録はない。
ただ、戦闘の最中に死者が出たことはあっても、拿捕された後に死刑になることはなかったと推測されている。
新羅の反乱の鎮圧に成功したことで幸先の良い年の始まりであると考え、今年は期待できると考える者は多かった。何より、嵯峨天皇自身がそうであろうとした。
だが、天災はその思いを簡単に吹き飛ばした。
新羅人拿捕の前日である二月一二日、河内国で洪水が発生。二月の冷たい水が集落や田畑を襲い、多数の死者や行方不明者が出た。食料や住まいを失った民衆に対する施は直ちに実施された。
三月五日、京都で施を実施。これは災害によるものではなく、京都に逃れた貧困者の救済が目的である。
だが、いくら貧困者を救済しても、田畑に戻ったところで荒れ果てているし、新たに開墾するにもそれだけの資産がない。そして何より、出挙の返済義務が重くのしかかっている以上、下手に戻ったらまた厳しい取り立てに合うのは目に見えている。
それを考えたのだと思われるが、四月九日、未納の税に加え、一切の出挙の返済を免除。公出挙だけではなく私出挙にも適用した。
借金の全額帳消しである。
借りていた側はいいが、貸していた側は大損でしかない。
しかも、その貸していた側というのは、財産調査を受けて無担保無利子での貸し出しを強制された側。それで財産が減らされた上に、収入を期待できた出挙も権利を全部捨てろと命じられたのである。
これは経済の原理を完全に無視した暴論だった。
豊かな人間の富を取り上げ貧しい者に配ったところで、貧困は無くなることなどないばかりかかえって悪化する。貧しさはさらにエスカレートし、経済成長はマイナスだけを記録する。当然だ。豊かになったらその分を召し上げられるというのに、誰が懸命に働くというのか。
これを考えるのは何も難しいことではない。現在に生きる我々は共産主義を考えればよいのである。この政策は共産主義そのものであり、夢や希望のはずだった共産主義は一つの例外すらなく失敗に終わったという事実を考えれば、この時代の日本の貧困も理解できよう。
共産主義とか社会主義とかいう言葉はこの時代まだないが、貧富の差を無くそうとする概念と、その概念を実行させた結果の失敗という現実は、もうあった。
この年の四月にはもう一つ出来事がある。
四月二一日に弘仁格と弘仁式が同時に撰進された。律令を補完し、細則を定めたものである。
これにより、死刑廃止が正式に決まった。
もっとも、不備が見つかったための改訂が繰り返されたため、現存する弘仁格と弘仁式はこのときのものではなく、改訂されたものである。
また、現存する条文は少なく、オリジナルがどのようなものであったのかは伝わっていない。
その後、災害に関する記録が例年のように続く。
四月二六日、和泉国で飢饉のため施を実施。
五月一〇日、讃岐国(現在の香川県)で干魃のため施を実施。
六月、干害解消の祈祷を命じる。
ところが、このあと災害に関する情報が出てこなくなる。だったら他の情報ならばあるのかというとそれもなく、日本後紀でのこのあたりの記録は一ヶ月当たり数行、一〇月に至ってはわずか一行の記載があるのみという少なさになる。
記録が再び充実するのは一一月になってから。
一一月七日、収穫が復旧したため、カットされた給与を元に戻すと決定された。
これは単に、減らされた給与を元に戻せというだけでなく、本当に収穫が復旧したらしいのである。それをふまえてこの年の災害情報を見ると近畿から四国東部に限定されており、どうやら、それ以外の地域では災害がひどくなかったらしい。
研究者の中には、この年を以て『弘仁の飢饉』の終焉とする人もいる。
人類の歴史は戦争の歴史だと言う人もいるが、私はそうは考えていない。
戦争が歴史で取り上げられることが多いのは、単に、戦争に関する記録が多く残っているからに過ぎない。
これは戦争に限ったことではなく、災害もまた戦争と同様に記録として残る頻度が高い。逆に言えば、ほのぼのした話題はまず記録に残らない。
そのため、災害が頻発したことは記せても、そうでないときの暮らしがどうであったかとか、災害のあと、被災した人がどう立ち直ったか、あるいは、京都に逃れてどう暮らしたかといった情報は極端に少なくなる。それは事件性が少ないから。
現在の新聞やテレビのニュース、そしてインターネットのニュースサイトでも、戦争や災害となったらそれがトップニュースとなり、数多くの記録が残されるが、その後について記すのは、その出来事からちょうど何年目とか、裁判の判決が出たとか、そうしたタイミングでないと大きく取り上げられない。
歴史書は新聞ではない。事件や事故がないからといって他の話題で紙面を埋めるなどしない。話題がなければ記録のほうが減るのである。
冬嗣の時代の記録がある程度残っているのも、それだけ災害に見舞われ続けた時代だったからである。もし、平穏無事な時代であればここまで記録に残らなかったであろう。
冬嗣の時代が悲しくなるほど天災と人災の繰り返された時代であったことは考古学の調査などからも明らかになっている。だが、それが終わった後で待っているのは、平穏ではなく記録の減少。考古学も、他の資料も、その隙間は埋めない。
弘仁一二年以後は記録量が少なくなる。
弘仁一二(八二一)年一月九日、藤原冬嗣、右大臣就任。
二月一一日、第一回が行われてから中断してきた高齢者への穀物支給を再開するよう指示。
五月二七日、讃岐国より万農池の堤防建設工事の進捗に遅れが出ているため、故郷出身の空海を工事の担当責任者に任命し、人々を工事に積極参加させるよう要請が出る。
一〇月二四日、河内・摂津・山城の三国で水害が発生。特に被害の激しかった河内で災害対策として租税の免除と施の実施が決定。
一一月一三日、渤海使来朝。
日付は不明だが、この年、冬嗣が藤原氏の子弟の教育機関である「勧学院」を創立。
弘仁一二年の記事はこれだけである。あとは嵯峨天皇がどこへ行ったとか、誰かが亡くなったとか、三つ子が生まれた農家があったとか、その程度。
だが、後世から見るとこの頃に歴史の大きな転換点が生まれていた。
新しい経済のスタートである。
全ての国民に平等に田畑を渡すという班田収受の理想はだんだんと現実に浸食され、私有地の増大と、競争を生み出した。より多くの土地を持ち、より多くの収穫を残した者が豊かになり、そうでなければ貧しくなる。
そして、この不作は競争にさらなる拍車を掛けた。
それまでは、収穫が多いか少ないかだったが、今は、収穫があるか無いか。つまり、生きていけるかいけないかという競争である。
この長期に渡る不作を乗り越えることができた農家は優秀な土壌と優秀な技術に恵まれた農家であったろう。
この優秀な農家が富を集めるようになった。緒嗣はそうした者の富を取り上げることを画策し、一部では実行もさせたが、経済の移り変わりは政策のほうを無力化させた。
ある時は武力で、またあるときは政治力で、彼らは自分の財産を守るようになった。
豊かな農民の中には、貧しい農民の納税を肩代わりする者も現れた。その代わりに、貧しい農民に自分の開墾した土地を耕させるのである。報酬として、耕した部分で得られる収穫の一部が農民の元に渡ることとなった。要は小作料であり後に問題となるが、この時点では出挙の負担よりは少なく、貧しい農民は労働量が増えたもののこれまでの負担から逃れることとなったことから歓迎された。
この豊かになった農民を「田堵(たと)」と言う。
そして、田堵らは国衙と結託した。
法を一切逸脱していない。税を代わりに払っているだけであって、脱税しているわけでもなければ、賄賂を送っているわけでもない。そのため、国衙にとっては、税を安定して納めてくれる田堵がありがたい存在となった。
だが、有力な納税者となった以上、相応の発言権がある。単純に言えば、気にくわなければ代わりの納税などしないと脅しをかける。本来課せられるべきは自分の分の税のみであり、他人の税を代わって払う義務はない。
理論上は、田堵が税を払わないというなら本来の納税者の元に徴税に行けばいいだけの話である。しかし、そんな理論など現実の前では無力だった。
班田収受の納税システムはとっくに崩壊していた。
農民に直接徴税に行ってもその前に田堵が立ちはだかった。
田堵はその政治力で、時には武力で国衙の圧力を排除し、自分の元で働く農民を守り続けた。
田堵の誕生は武士の誕生とほぼ同じ頃だが、両者の関連性は不明瞭なところが多い。両者は全くの無関係ではないが完全に一致する存在でもない。
地方に流れてきた貴族や役人が地方に流れてくる場合、田堵となったケースもあるし、武士となったケースもある。強いて分けるとすれば、田堵はその政治力と経済力で力を持ち、武士はその武力で力を持つようになったというところか。そして、田堵が自ら武力を持ったり武士を多数雇ったりして武士団を形成することもあったし、武士が政治力や経済力を手にして田堵となることもあった。
そして、この二つは互いに密接につながりながら、地方における新たな権力を構築していった。
三五歳で権力を握ってから一二年、冬嗣も四七歳を迎えた。
今でこそ働き盛りの年齢だが、当時は五〇歳を超えれば老人扱いされる時代であり、冬嗣も自分の後を考える年齢となった。
冬嗣には自分の地位の後継者となれる人が二人いた。二〇歳をまもなく迎える長男の長良(ながよし。「ながら」と読んでいたとする説もある)と、長男より二歳下の次男の良房の二人である。
元服なら二人ともとっくに迎えていたが、冬嗣はなぜか、この年齢になってもこの二人に官職をつけていない。
冬嗣ほどの権力があれば自分の子にかなりの地位を用意することはできたが、それをしていないのは何かしらの理由があったはず。
そこで思い浮かべるのが、弘仁一二年に創立された「勧学院」である。
「大学」という教育機関はこの時代にも存在している。もっとも、名前こそ現在と同じだがその中身は大きく違っており、一〇歳から九年間の修学期間という決まりとなっていることから、現在の小学校高学年から、中学、高校ぐらいのレベルの教育であったと推測されている。
だが、これが次第に形骸化してきた。役割としては官僚養成のための学校であり、規律上、五位以上の貴族の子は入るのが義務、六位から八位の役人の子は希望すれば入学可能というものであったが、大学に子を通わせるのは教育に熱心な氏族か、親の位が高くないために出世の機会として子を入学させる家に限られるようになった。何しろ、有力者の子の場合は大学を出ることなくいきなり官職に就くことも可能であり、事実上、そちらのほうが出世レースでも有利だったのだから。
朝廷は何とかして大学に通わせようと躍起になっており、修業年限を九年から四年に短縮、入学可能年齢も一七歳まで猶予するといった対応をとるが、上級貴族になればなるほど大学から遠ざかるものになった。
長良と良房の兄弟が大学に通っていたかどうかについての記録はない。
規定の上では通っていなければならないが、どうやら、兄弟そろって通っていなかったようなのである。
しかし、何の教育も施していないわけではない。
冬嗣は自分から鼻に掛けているわけではないが、身につけている教養はなかなか深いものがある。また、長良や良房の生涯を見てみると、こちらもまた父と同様に深い教養を持ち合わせていることが読み取れる。
つまり、何らかの形で教育に接しており、かつ、それを子供たちにも展開していたと思われる。
おそらく、かなりレベルの高い帝王教育を家庭内で施していたのであろう。
そして、長良と良房の兄弟が成人したあとで、その教育組織を拡張し、「勧学院」として設立したのではなかろうか。
二人を大学に通わせていなかったのは、大学が冬嗣の要求するレベルに達していなかったからではないかと思われる。大学の教育は官僚養成が目的であっても、事実上は下級官僚の養成になっており、藤原家にふさわしい教育ではないと判断したからではないか。
勧学院はその後藤原家の一族全体に開かれた高等教育機関として確立され、それに倣って他の氏族も同様の高等教育機関を設立する。そして、勧学院をはじめとする高等教育機関出身の者が朝廷内で勢力を握るようになった。
弘仁一三(八二二)年、冬嗣の子がついにデビューした。
年初恒例の人事発表。
父冬嗣の従二位昇格の四日後の一月一一日、長良が内舎人(うどねり・天皇の身辺警護を務める)に就任した。ただし、それに対する特別なインパクトは残っていない。
二〇歳でのデビューは有力者の子のデビューとしては遅い。しかも、時期による増減はあるが内舎人は最大定員九〇名という職務。さらに、内舎人に任命されるのは四位か五位の貴族の子であり、二位にまで出世している冬嗣の子のデビューの場としてはかなり格が低い。
つまり、長良に対して冬嗣の子としての注目をする人はいたが、長良個人の出世レースのスタートとしてはほとんど注目されなかった。
これは、冬嗣の判断によるものであろう。
冬嗣は幸運と実力で現在の地位を掴んだのであり、家柄で手にしたわけではない。たまたま自らが側近を務める神野親王が天皇となり、ライバルである藤原仲成を死に追いやったかがために現在の地位と権力を手にし、現在まで維持できた。
しかし、自分の子は違う。
自分の子に特権を与えた場合の反発は無視できない。
自分が生きている間はいいが、もし自分が亡くなったら、自分に反発する貴族たちの中を生きていかなければならない。
自分は他の貴族を冷たく扱えるし、逆らう者は検非違使を使って追いやることも出来るが、それは自分個人だけの話であって子どもたちには該当しない。
その反発を抑える方法は一つ。
特権を使わないこと。
特権は、手放さないが使わず、子どもには逆にハンデを与えての出世レースのスタートをさせれば、追い抜かれたときの反発はあっても、恵まれたスタートであることの反発は生じさせようがない。
無論、冬嗣の子なのだから出世は他の人より早いであろう。だが、スタートが後ろならば、実際上はともかく、理論上は文句を言えない。
仮に文句を言ったとしても、
「長良より恵まれていた地位を活かさなかったのはそっちだ。」
と言われるだけである。
弘仁の飢饉が終わってつかの間の平穏が訪れたが、弘仁一三年は再び災害と不作に襲われる年となった。
特に七月の状況がひどかった。
六月以前の状況は、五月一三日、石見の飢饉に伴う施の実施の記録のみであるが、七月に入るととたんに記録が増えてくる。
七月二日、十日連続の日照りにより田畑の水が枯渇したため、引水の順番を貧しい者を優先させるように命じる。厳密に言えば既に存在していた規律の再確認であり、罰則のないまま無視されていた規律を、罰則付きの規律に変更したのが今回の措置。罰則の内容は伝わっていないが、おそらく罰金刑だろう。
七月八日、貧困に陥った皇族に資金援助を実施。
同日、山城国の飢饉に伴う施を実施。
同日、甲斐国(現在の山梨県)で発生した疫病の救済のための施を実施。
同日、五位以上の者の給与減額を指令。
ただ、全国的な災害ではなく、どうやら局所限定の災害と不作であったようである。
例年であれば実施されていた免税もこの年は行われていない。
感覚としては、辛いことは辛いが、最悪ではないというところか。
それに、この年は前から待ち望んでいた希望があった。それはずっと楽しみに待たれており、それが民衆の不満を大いに和らげていた。
弘仁一三年の冬至は一一月一日。
この時代、冬至が一日と重なる「朔旦冬至」は新しい時代の始まる区切りと言われ、その日が近づくに連れて日本全体が祝賀ムードに包まれた。
今で言うと、クリスマスと正月を一〇年分まとめて開催するようなところか。
国全体が祝賀ムードとなり、民衆はこの日に向け服を新調し、奮発してごちそうを買い、当日は仕事もせず、神社や寺院に参詣して各々が祝日に興じた。
普段の辛い生活もこの日ばかりは忘れ去られ、この一日を楽しんだ。
この祝賀ムードは宮中も例外ではなく、嵯峨天皇は祝賀行事を開催している。
嵯峨天皇はその場で、祝賀のためと、徳を積んで天恵を得るために、大規模な恩赦を実行。殺人や強盗傷害、偽金鋳造などの重犯罪者を除く罪人が釈放された。
また、数多くの役人や貴族に出世した新しい位が与えられ、宮中に勤務する役人には祝賀のプレゼントが配られた。そのプレゼントの中身はわかっていない。
この祝賀ムードは日が変わっても続き、例年のような苦しい年末とは正反対の空気が漂った。
そしてそれが奇妙な結果をもたらす。
景気が良くなったのである。
確かに不作のピークは過ぎ、ひと頃よりは生活が楽になっている。だが、それでも楽な暮らしとは言えない。
それなのに、景気は良くなった。
これは不景気というものが、数字ではなく感覚によるものだからとしか説明できない。
どんなに数字を挙げて今の景気は悪くないと説明しても、感覚として景気が悪ければ不景気である。
だが、祝賀ムードがその雰囲気を一掃した。
なけなしのカネではあっても、そのカネをはたいて服を新調し、ごちそうを買ったことで、消費が増え、景気の向上をもたらした。
オリンピックやワールドカップといったイベントを開催しようとするのも、要はそうした経済効果を見込んでである。その上、現在のこうしたイベントは建設業の失業改善をもたらすというプラス効果もある。
歴史上、オリンピックやワールドカップの開催に経済的理由で反対する人はいつの時代にもどの場所にもいたが、開催したせいで景気が悪化したという前例は一つもない。
この祝賀ムードは所詮一時的なものであり、永続するものではない。
こうした感覚を、祭り気分の反動とか、祭りの後の静けさとか言うが、要は熱が冷めて現実に舞い戻ったということである。
現実に戻ると貧困は続いていた。
景気は良くなったが、職が無いという現実も、カネが無いという現実も残っていた。
年が変わって弘仁一四(八二三)年二月一日、京都市中の貧困者に対する銭の支給が行われた。
二月、九州を中心とする西日本で疫病が流行。多数の死者が出た。
三月一六日、京都市中のコメの値段が高騰したため、穀倉院のコメを安値で販売した。
三月二二日、京都の飢饉が深刻になったため、コメの無償配給を実施した。
祝賀ムードは消え、また元の不景気感が戻ってきた。
ただ、一度体験した好況だけにその落差は大きかった。
嵯峨天皇は即位してから今まで、ただの一度も好景気を体験したことがなかった。
そして訪れた祭り。
そして訪れた現実。
即位してから初の好景気が終わり、再び現実が舞い戻ってきたとき、嵯峨天皇の精神は大きな落ち込みを見せた。
四月一〇日、嵯峨天皇が退位を示唆。
後継の天皇として、皇太弟でもある嵯峨天皇の弟の大伴親王を推挙。自身の不徳に対する天罰がこうした不作・飢饉・疫病・不況の原因であるとし、徳を積んだ者が天皇となればこうした問題は解決すると主張した。
冬嗣は、ここで嵯峨天皇が上皇となった場合、天皇一名上皇二名という体制となり、財政負担も重いものとなると反対。退位するのであれば豊作となった後とすべきと進言した。
これは冬嗣の失言だった。
即位から今まで一度も豊作を経験していないのが嵯峨天皇である。
それも一年や二年の話ではなく一〇年以上続いた話。
冬嗣が言った「退位するなら豊作になった後」という言葉。
そして、退位への反対意志。
これを嵯峨天皇は、自分が帝位にある限り不作は終わらないと言ったと捉えたのである。
以前からきしみだしていた嵯峨天皇と冬嗣の関係に、これで亀裂が生じた。
嵯峨天皇の帝位とは言え、これまでずっと実権を握ってきたのは冬嗣であり、嵯峨天皇が主導権を握ったことはなかった。
確かに信頼はしていた。強烈なリーダーシップは他の誰よりも頼りになったし、何より、冬嗣がいたからこそ平城上皇との争いに勝つことも、今まで帝位にあることもできた。
だが、今まで一度も好景気を体験していない。
いつ頃から冬嗣の能力に疑問を感じるようになったかはわからないが、一度生じた疑問は消えることなく、嵯峨天皇の脳裏から離れなくなった。
今回の冬嗣の失言はそれが表面化するきっかけになった。
嵯峨天皇は帝位を降りると決意した。決意したことで、これまでくすぶっていた冬嗣への感情が爆発した。
今まで何があろうと冬嗣とだけは接してきた嵯峨天皇が冬嗣とも会わなくなり、一人で籠もるようになった。
これは冬嗣にもどうにもならなかった。
「長良、良房。」
「はい。」「はい。」
その日の夜、冬嗣は息子二人を呼び寄せた。
「もはや譲位は避けえぬ状況となった。主上が退位されるということは父の時代の終わるということだ。父は主上の退位にあわせて隠居する。」
「父上! それはなりませぬ!」
「長良、良房、二人はこれから自分の手で時代を切り開かねばならない。今は大伴親王に帝位に就いてもらうがその後を考えねばならない。」
「正良親王(まさらしんのう・嵯峨天皇の子)ですか?」
「ああ。まあ、大伴親王に子ができたときは考えねばならないが、今は正良親王を考えるのが本道だろう。」
「父上、いかがなさるおつもりで。」
「順子(のぶこ・冬嗣の長女)を嫁に出す。」
「順子は一四歳、正良親王より年上ではありませんか。」
「それは良房が言うようなことでは無かろう。潔姫は良房より四歳歳下ではないか。それに比べればたかが二歳差などとりたてるほどのこともあるまい。」
四月一六日、嵯峨天皇退位。大伴親王が淳和天皇として即位。
その際、大伴親王は頑なに天皇即位を辞退したが、嵯峨天皇は頑としてそれを認めず、冬嗣も取り合わなかった。
嵯峨前天皇と淳和天皇は兄と弟の関係にあるが、母が違う。
嵯峨前天皇は平城上皇とともに桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)の子であるが、淳和天皇こと大伴親王は藤原旅子(ふじわらのたびこ)の子であり、嵯峨前天皇とは同い年である。
皇位継承レースからは外れているとみなされていたのか、平城上皇ほどの皇位継承に対する配慮もなされておらず、嵯峨前天皇ほどの帝王教育も受けないまま成長した。
このままでいけば皇族の一人に過ぎなかったはずであるが、奈良の反乱が全ての予定を狂わせた。
嵯峨天皇の弟として皇太弟となり、嵯峨天皇の政務を裏方として真面目に支えたことから評価が上り、嵯峨天皇は自分の後継者に自分の子ではなく大伴親王を選ぶきっかけとなった。
つまり、嵯峨天皇の後継者は大伴親王しかあり得なかったのである。
しかし、順でいけば嵯峨前天皇の子に帝位が遷るべきところ。それを考えた淳和天皇は、四月一八日、皇太子に嵯峨前天皇の皇子である正良親王を指名する。
しかし、嵯峨前天皇がこれを拒否。
冬嗣と袂を分かった嵯峨前天皇にとって、冬嗣と密接につながっている正良親王は皇位継承権から外さねばならない存在だった。
本来であればいかに前天皇と言え皇太子の任命に対する異議を唱えることは許されないはずであったが、嵯峨前天皇にとって正良親王は実の子。父親としての反対を持ち出すことで抵抗した。
同日、淳和天皇の命令により京都市内の病人に対する施を実施。
四月一九日、淳和天皇は再度正良親王の皇太子就任の要請をするが、嵯峨前天皇は頑迷に拒否。
四月二〇日、淳和天皇が嵯峨前天皇と直接会談に及び、正良親王の皇太子就任を再度要請するが議論は平行線をたどる。
この二日後、思わぬ方向から助け船が出された。
四月二二日、奈良の寺院に籠もっていた平城上皇が、平城京跡地に勤める官吏の京都帰京と、自身の太上天皇(=上皇)の位の返上を申し出る。
これが実現すれば、上皇二人制の解消が実現し、財政負担も軽くなる。
この時点ではまだ嵯峨前天皇は上皇となっておらず、天皇の地位を辞した一皇族になっている。そして、嵯峨前天皇が上皇となれば、父としてではなく政務に関連する公人となり、正良親王の皇太子即位に対する拒否権は発動できなくなる。
平城上皇の申し入れは冬嗣によって半分受け入れられ、もう半分は却下された。官吏の帰京は認めるが、上皇位の返上は拒否されたのである。
そのかわり、四月二三日、嵯峨上皇に正式に太上天皇位を奉ることが決まった。例を見ない上皇二名体制の確立であるが、平城上皇の国政関与はほとんど見られないため、この時点では混乱とならなかった。ただし、この段階ではまだ尊号を贈ったに過ぎず、正式な上皇就任とはなっていない。
四月二四日、嵯峨前天皇、太上天皇就任を拒否。単なる「前天皇」に留まりたいとの意志を示す。
四月二五日、淳和天皇が嵯峨前天皇に再度太上天皇位を奉る。嵯峨前天皇は再度拒否するが、その返信の受け取りを冬嗣が拒否。
結果、嵯峨前天皇は拒否の宣言をしなかったと扱われ、これにより、嵯峨上皇が正式に誕生。同時に、正良親王の皇太子就任に対する拒否権が止められ、正良親王の皇太子就任が決まった。
その騒動の中、一時代を築いた武人が亡くなる。四月二六日、文屋綿麻呂死去。この日は一日中喪に服すこととなり、帝位就任に関する一切が停止された。
四月二七日、淳和天皇正式に即位。
即位祝いとして、京都市内と五畿に住む障害者、母子家庭、孤児、高齢者に施を実施。また、出挙の未納分の支払いを免除。貴族・役人の位をそれぞれ昇格させる。これにより、冬嗣は正二位に昇格する。
四月二八日、太古から続く名門家系である「大伴」家が家名を「伴」家に改めた。淳和天皇こと大伴親王の名と重なることを畏れ多いと考えた結果である。
淳和天皇の治世の始まりも嵯峨天皇の頃と同じだった。すなわち、災害と不況である。
この時代の考えでは、天皇の交代は新しい時代の到来であり、良くないことは全てリセットされるものだった。
そのため、淳和天皇即位に伴うゴタゴタと、そのころから続いた天候不順が、淳和天皇の治世を暗雲立ちこめるものと考える者が多かった。
特に、雨の日の連続が農業に影響を与えること必至となったことで、淳和天皇は何よりもまず、長雨対策に追われた。快晴の祈願と、長雨による困窮者への施の実施である。
淳和天皇は善き天皇であろうとした。
悪しき天皇であろうとする人はさすがにいないが、淳和天皇は生真面目なまでに善人であろうとした。それは、そうであろうと演じるのではなく、心の底から善人だからそうしたのであろう。
こうした人が帝位に就くとどうなるか。
財政を悪化させる。
何も悪化させようとして悪化させるのではない。
困った人を助けようとするために支出を増やし、結果、財政を悪化させる。
財政危機とか財政破綻とかのきっかけは、悪よりも善であることが多い。軍事費とか、公共事業費とか、悪とされるカネの使い方など国家財政に比べれば取るに足らぬ額であるし、減らそうと努力したところで財政危機には何の影響も与えない。だが、福祉とか、医療費とか、善とされるカネの使い方は財政を大きく揺さぶる。そして、この削減は例外なく国家財政の向上をもたらす。
この一年の淳和天皇の財政出動を見ると、よくもまあここまでの支出を冬嗣は許したものだと思わずにはいられない。
もっとも、権力を手に入れたと同時に緊縮財政をやると、いかに財政を立て直すためであろうと確実に支持率は下がる。民主主義でこれをやったら確実に次の選挙で負けるし、民主主義でなくとも不人気の政権間違いなし。
ただ、善人であることと、天の恵みがあることとは一致すればいいのだが、それはなかった。
天が差別しているのかと言いたくなるほど、善人の治世に難題が発生することなど珍しくない。
その珍しくないことに淳和天皇の治世がぶつかった。
善人ゆえの財政出動に加え、災害対策の財政出動が重なった。
五月二〇日、高齢者へのコメの支給を指令。ただし、対象は八〇歳以上限定。本来であれば対象年齢をもっと引き下げるところであったが、冬嗣の反対により八〇歳にされた。
七月一九日、長門国の干害と疫病流行に伴い、税を一部免除。
同日、美濃・阿波(現在の徳島県)の両国で疫病が流行しているため施を実施。
七月二〇日、三河・遠江両国での干害と疫病流行に伴い、税を一部免除。
八月六日、近江国で疫病が発生したため穀物を支給。これまでの施ではどれだけの量の支給が行われたかの記録はないが、このときは二〇〇〇斛(およそ一二〇トン)と記録が残っている。
不況は治安の悪化をもたらす。
これは、市民生活に直接影響を与える。
治安の悪化の対処は単に日々の暮らしに用心を深めればいいというものではない。二四時間緊張を要するような暮らしは心休まるものではないし、用心していようとそれ以上の暴力が目の前で展開されたらどうにもならない。
一〇月七日、内裏の延政門で火災。このときは延焼を食い止める。しかし、これは事件の始まりでしかなかった。
一〇月二一日、こんどは大蔵省で火災が発生。大火となり、建物が焼失。三〇名あまりの者が消火活動にあたり鎮火にあたり、その功績により淳和天皇より褒賞が与えられた。
延政門の火災をふまえれば偶然の連続とは考えられず、冬嗣は警備の強化を指令する。
その状態は一ヶ月を迎えたが、ちょうど一ヶ月後の一一月二一日、再び大蔵省で火災が発生したことで事件は急展開を見せる。
偶然の失火ではないと見た冬嗣は検非違使に犯人逮捕を命じる。この時点ですでに、この連続火災は人災であると見抜いていた。
ほどなく、放火犯四人が逮捕される。
放火犯の名前も、逮捕後の犯罪者の処遇も現在に伝わってはない。死刑は廃止されたが、その他の刑罰まで廃止されたわけではなく、現在では禁止されている拷問もこの時代は合法であった。
記録によれば、一〇月二一日の火災も自分たちの放火であり、放火の騒動中に大蔵省の財物を盗み出すことが目的であったと証言したことが判明している。これはおそらく真実であろう。
犯人逮捕には成功したが、治安が一著しく悪化していることは隠せなかった。特に、国の直轄の役所で犯罪が起きたことは時代への絶望を抱かせるに充分だった。
ついこの間の祭り気分は過去のものとなり、辛く厳しい現実が待っている日々だけが目の前に横たわった。
ただ、淳和天皇は淳和天皇なりに未来への希望を抱かせる日々を構築しようとしたのである。
弘仁一五(八二四)年一月五日、元号を「天長」へ改元。
皇位のリセットは好景気を呼び込まなかったが、改元なら世相を一新するのではないかとの思いがあった。現在と違い、この時代は天皇の交代が元号の交代とはつながらない。在位中に何度も元号を変えることも、天皇が変わっても前の元号を続けることも珍しくなかった。
ただ、弘仁という元号の時代が幸福の日々でないことは誰もが実感できていることだった。
改元は意識をリセットさせ、景気を回復させる行為と考えられた。
ただし、それを行うまでは。
改元しても、貧困は続いているし、不景気も続いている。
それでも淳和天皇は新しい時代を信じ、冬嗣はそれに努力した。
ただ、時代は変わってくれなかった。
前年の財政出動は国家財政を悪化させたが、景気の回復はもたらさず、収支を悪化させるのみだった。
この状況に立ち上がったのが緒嗣である。
緒嗣は財政悪化をくい止めるために外交費の削減を提案する。具体的には渤海使の供応の費用削減である。
渤海使の渡航費用や滞在費用は全て日本の負担だった。つまり、渤海は日本との関係維持を日本の財政でまかなっていたということである。
この当時、外交に要する費用は格上が負担した上で格下が格上を訪問するものとされていた。つまり、必要とする側が費用を相手に負担させた上で使者を派遣するという形式である。
日本は新羅や渤海の使者を受け入れたことはあっても渤海に使者を派遣することは少なく、新羅にいたっては宝亀一〇(七七九)年を最後に使者派遣に関する記録が全くなくなり、延暦一八(七九九)年には桓武天皇の命令によって遣新羅使が廃止。その後も二度派遣された記録はあるがいずれも非公式なものになっている。これは日本の当時の対外意識の結果であろう
遣唐使の派遣も渤海や新羅が送った回数に比べればその頻度が驚くほど少ないばかりか、費用を自主的に日本が負担し、さらには唐からの使者の日本派遣を執拗に要請している。
桓武天皇以後の対外政策はこうしたところにも現れていた。ただ、これはプライドを保てはしても、経済効率的に良いものではない。
一月二四日、藤原緒嗣より渤海の来朝を一二年に一度にすべしとの意見が出る。
渤海との関係が頻繁にすぎる。両国間の規約によれば、一二年に一度の訪問により関係を維持するとあったため、緒嗣の意見は規約の再確認にすぎない。
これにより外交費用の節約が図れると考えられたためこの訴えは認められ、渤海に対し、来朝は一二年に一度とするよう通告された。
渤海はこれを受け入れた。
三月一日、美濃国で飢餓が深刻化しているため、施を実施。
三月二八日、亡命してきた新羅人へ口分田を配布。
四月二一日、淡路島で飢饉が深刻化したため施を実施。
五月一一日、亡命新羅人に陸奥への入植を命じる。
六月一日、施を実施。実施場所、実施内容は不明。
六月一一日、安芸国が干害と疫病流行に苦しんでいるため施を実施。
こうした政策を淳和天皇は病をおして進めた。
善人であろうとする淳和天皇は、大伴親王と呼ばれていた頃であれば、健康を絵に描いたようとまでは形容できなくても、断じて病弱ではなかった。
しかし、皇位に就いて以後、淳和天皇に健康問題が見られるようになる。体調不良が続き、起きあがって政務をとる姿はいかにも弱々しく、ときには床に伏したままという状態にまでなった。
これは、体力によるものではなくストレスによるものだろう。
善人であろうと務めれば務めるほど結果は望まぬものとなる。
施をしても民衆は豊かにならず、災害は続き、飢饉ははびこっている。
この結果が現れぬことが多大なストレスとなって淳和天皇に襲いかかっていたのではないか。
この時期の冬嗣をみると、淳和天皇の治世に対する何かしらの諦めを抱いているかのようである。淳和天皇の進める政策に対するアクションがなく、淳和天皇のなすがままにさせている。
これは淳和天皇の即位が冬嗣の想像もしていなかったタイミングで起こったことだからであろう。嵯峨天皇の退位は想像すらしていないところでおきた事件であり、冬嗣は嵯峨天皇の後の時代に対する対処を全くできない状態でその時代を迎えてしまった。
つまり、権力の奪取に失敗した。
役職や位は手にしているが、冬嗣はそれを有効活用できずにいた。現在の地位を維持するのに精一杯でそれ以上何もできなかったのである。
この冬嗣にできることは淳和天皇の次を見据えることだった。
冬嗣は淳和天皇の治世が長いものとはならないだろうと予期した。
倒れた淳和天皇は病床のまま政務を執った。
冬嗣は地位に応じた職務は果たしていたが、先陣を切って政務を執ることはなかった。
この権力の隙間に入り込むように緒嗣が勢力を伸ばそうとしてきた。
ところが、淳和天皇がそれを遮った。
淳和天皇が右腕として選ぶ人材は駿河にいた。このとき駿河国司として駿河国に赴任していた同い年の藤原吉野(よしの)。淳和天皇とは幼なじみであり、淳和天皇が教育を受けるときは常に学友として側にいた。吉野はかなり高い教養を身につけているが、長良や良房のように藤原家で受けた教育ではなく、皇族教育の結果であろう。
吉野は藤原家の本流ではない。吉野の出身は冬嗣の所属する藤原北家ではなく、縄主が所属していた藤原式家で、父の綱継(つなつぐ)は縄主の弟、つまり、吉野は縄主と伯父と甥の関係にあたる。
この頃までは縄主と同様に特にこれといったインパクトのない人材と見られていた。
話題に上ることがあるとすれば、敵を作らぬ温厚の性格の伯父と違い、明確に敵を作る性格の人であったということぐらい。自分の味方と考える人には情けを尽くすが、敵には容赦なく冷血になれることは、周囲に恐怖を振りまいていた。
この意味で、吉野の性格はむしろ冬嗣に近いものであった。
駿河国司として能力は高く、民衆からの支持も強いものがあった。吉野にとって、一般民衆は味方であるが役人は敵であった。そして、犯罪の被害者は同情を寄せる存在であり加害者は明確な敵であった。
税の取り立てを厳しくする役人や、汚職に手を染める役人は、容赦せず全財産没収の上駿河から追放した。
犯罪者にいたってはもっと苛烈だった。死刑はなくなったが、駿河で犯罪に手を染めた者には事実上の死刑が待っていた。両手両脚を縛られた状態で船に乗せられ、海の彼方へと放り出された。
その結果、駿河では治安が向上した。犯罪があまりにもリスクの高い行動となったことで犯罪者は身を潜めるか駿河から出て行くしかなくなったのだから。
七月七日、奈良からニュースが届く。
平城上皇崩御。
国葬は奈良で執り行われ、旧平城京の北部、楊梅陵(やまもものみささぎ:奈良県奈良市佐紀町)に葬られたとされている。ただし、これは宮内庁の公式見解ではあるが発掘の内容とは一致しない。
楊梅陵は上空から見ると円形になっている。このことから、かつては国内最大の円墳とされてきた。ところが、昭和三七(一九六七)年から行われた調査の結果、この楊梅陵はもともと平城京築造前に存在していた前方後円墳で、その台形の部分が平城京築造の際に切り崩されたと判明したのである。
楊梅陵 正面 2009年08月30日撮影
楊梅陵 遠景 2009年08月30日撮影
ゆえに、平城上皇の正式な墓はない。
参詣するとすれば、宮内庁の公式発表に従って楊梅陵に足を運ぶしかないのだが、そこに平城上皇の遺体は眠っていない。
また、楊梅陵に薬子を思わせる記録は何もない。
ただ平城上皇の陵墓として指定されているだけである。
楊梅陵 看板 2009年08月30日撮影
日本後紀は著名人の死を記録するとき、その人の簡単な伝記を記している。
平城上皇も例外ではなく、「その知識や度量は奥深く、知恵や計略に優れていた。天皇としての政務に勤しみ、無駄な国費の浪費を削減し、法令を厳格に適用して秩序を守った」と称賛する一方、「生まれつき他者への妬みが激しく、寛容さが欠けていた。さらに婦人を寵愛し、その婦人とその親族に政治を委ねた」とした。
そして「牝鶏戒晨惟家之喪(メスの鶏が鳴く家は滅びる)」という一文で平城天皇の一生についての記事を締めている。
淳和天皇と距離を置き権力を弱めた冬嗣であるが、オフィシャルな歴史に対する権力は最後まで手放さなかった。
冬嗣の一生を悩ませることとなる二つの出来事、仲成の死刑と、薬子を自殺に追いやったことの二点は、冬嗣が最後までその正当性を主張し続けたことだった。
そのため、仲成や薬子について言及しなければはならない局面では、ありとあらゆる手段で二人を悪人と扱っている。
だが、この冬嗣の行動に対し、意外なところから横槍が入った。
八月九日、嵯峨上皇が奈良の反乱に関係したために免職となった者や流罪となった者を免罪とすると発表した。それに対し淳和天皇は何の反応も示していない。
そして、冬嗣は何も言わなかった。許す者は免職や流罪になった者であって、死罪や自害した者ではない。ゆえに、仲成や薬子については触れていない以上どうにもできない。
だが、それの意味するところは誰もが理解できていた。
赦しではなく奈良の反乱のときの冬嗣の行動の否定である。
殺害したことが誤りであり、自殺に追い込んだことも誤りであると暗に示した。
淳和天皇の体調はすぐれないまま年を越え、翌天長二(八二五)年一月一日、淳和天皇の体調不良により朝賀を中止するまでに至った。
だれもが淳和天皇の治世は長いものとはならないと感じた。
その淳和天皇を救うため、駿河国司であった吉野が急遽呼び戻された。蔵人就任の上、淳和天皇のサポート役に任命された。
京都へ戻ってきた吉野は自分の置かれた境遇の違いに驚きを見せ、自分の地位が思いがけない高いものになっていることに足を震わせた。
このとき、吉野以外の者も出世を見せている。
四月五日、冬嗣、左大臣へ出世。兼任している左近衛大将は兼務継続。後任の右大臣には藤原緒嗣が就任。
これは冬嗣の人生のゴールと言っても良い地位である。制度上、その上には太政大臣があるが、これは臨時職であって常設ではない。常設の官職でトップというのは左大臣と定められている。
そして、右大臣というのがナンバー2であることも定められていることであり、緒嗣がこの地位に就くこともおかしなことを見られなかった。
ところが、この頃から緒嗣が不可解な行動に出る。
四月九日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
四月一三日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
四月一六日、緒嗣が右大臣辞任を表明。却下。
七日間で三度の辞職表明である。
なぜ辞意を示したのかは記録に残っていないが、考えられる理由は三つある。
一つは自らが権力を掴めていないことに関する絶望。
嵯峨天皇の時代の緒嗣は不遇だった。それは冬嗣がいたためであり、自分はその後塵を拝してきた。
それが淳和天皇に変わった。そして、冬嗣は嵯峨天皇のときのように密接な関係を築けなかった。
これは緒嗣にとってこれ以上ないチャンスに思えたはずである。実際、淳和天皇即位直後、誰よりも先に淳和天皇と接しようとしている。
ところが、淳和天皇の回答は緒嗣を満足させるものではなかった。善人であろうとする淳和天皇にとって、権力にすり寄る緒嗣は疎ましく感じられたのであろう。むしろ権力を持ちながらすり寄らない冬嗣のほうが清潔に感じられるほどだった。
二つ目は、淳和天皇の次の時代を見据えて。淳和天皇の政権獲得時に何ら行動を示せなかった緒嗣にとって、淳和天皇にしがみつくのは得策ではなかった。
緒嗣もまた、冬嗣と同様、淳和天皇の時代は自分の時代ではないと悟ったのではないだろうか。そして、冬嗣のように権力にしがみつくことなく、権力から離れることで時期をみたのではないかとも思われる。
ここで注目してほしいのは、権力から離れるのであって、権力を諦めるのではないということである。
そして最後の理由。これは第二の理由のラストともつながる。
権力を諦めないという行為の中に、淳和天皇に自分を認めさせるという選択肢もあった。つまり、淳和天皇の次を狙った辞職騒動であっても、自分のこの行動が淳和天皇に良い形でアピールすることにもなるのではないかという打算もあった。権力にしがみつかない清廉潔白さをアピールすることで、善人である淳和天皇の心証を良くしようという打算が。
この打算に冬嗣が刺激された。
さらに、淳和天皇の体調が回復し、短いものとなると思われた治世が意外なほど長くなると考えられるようになったのも加わった。
となれば、淳和天皇の心証を良くすることはプラスに働く。時代は掴めなくても、それがマイナスにはならない。
善人の淳和天皇の心証を良くするには、善人であると思われる行動が必要だった。
五月初頭(日付不明)、冬嗣は、貴族や役人の給与引き下げを提言する。
善人の統治者は無駄な税の使い道をわかりやすい形で削減する。そのいい例が政治家や役人の給与削減。現実の効果は大したこと無いが、アピールとしては強力なものがある。自身も最高の貴族である冬嗣にとって、貴族の給与削減は収入の減少を意味するが、それ以上のアピールを得られる行為だった。
ところが、緒嗣はそれ以上のアピールを示す。五月八日、藤原緒嗣が右大臣職に対して与えられる封戸(ふこ・職務に応じて与えられる田畑)の半分を国庫に返還すると発表した。
これは収入減どころの話ではない。一族を養うだけの財も得られなくなる行動であり、緒嗣の実家では妻や子の猛反対があった。
これに刺激されたのか、五月一一日、冬嗣も封戸の返還を発表する。しかし、あまりのエスカレートが問題と感じたのか、翌五月一二日、淳和天皇は冬嗣の封戸返還を却下する。
緒嗣の返還についての記録は残っていないが、一部の返還は実現したかもしれなくても全部の返還とは至っていないであろうと思われ、その一部の返還もすぐに元通りにされたと考えられている。
一二月三日、渤海使来朝。一二年に一度の禁を破っての来朝に対応が割れる。
自分が主張しただけあり、緒嗣は今回の渤海使の受け入れを受け入れるべきではないと頑迷に主張。一二月七日、渤海使をただちに帰国させるべきとの上表文を緒嗣が提出。
これに対する冬嗣の反応はない。
この頃から冬嗣の記録が歴史書から消え始める。もしかしたら、このときにはもう冬嗣の体調のほうが悪化してきたのかも知れない。
天長三(八二六)年一月二一日、良房、従五位下に昇格し、蔵人に就任。このとき、良房は出世レースで兄を超え、二月四日には中判事に遷任されるにいたる。
「長良か。良房はどうした。」
「主上のもとにございます。」
「そうか。」
冬嗣はこのとき病床にあった。そして、長良と良房の兄弟を二人とも呼びよせようとしたのだが、枕元に来たのは兄の長良だけだった。
「すまぬ。本来であれば長良を先にすべきであったのだが。」
「いえ、父上。時代は良房のもの。私は良房の影になる定めなのです。」
「それでよいのか、長良。」
「良房は先の帝の御子を妻とする身。これからの藤原のためを考えても良房が表に立つべきです。」
冬嗣はこのときになってはじめて、自分の後継者が良房一人になったと感じた。
当初の予定では長良と良房の兄弟がともに朝廷で勢力を築くことを想定していたのに、長良自身がそれを拒否し、良房一人が出世のピラミッドに挑戦する。
「この後、良房に何があろうと私は良房を守ります。」
「そうか。ならばもう言うまい。」
その頃、良房は朝廷にあった。
「渤海使を帰国させるには反対します。」
「良房は黙っていろ! 貴様はただの蔵人だ。」
「身分云々を口に出して、間違いを正すことを許す度量を持たぬ者にとやかく言われる筋合いはありません。」
朝廷にはこのとき、間違いなく冬嗣の後継者が誕生したという空気が広まっていた。
強硬に渤海使の帰国を主張する緒嗣、それに賛同し実力行使をもって渤海使を帰国させようとする吉野、この二人に対し、良房は若かりし頃の冬嗣を見るかのような態度で挑んだ。
「今の本朝にとって、渤海との関係なしに平和を保つなどできません。新羅を敵に回し、唐とも渡り合えているのも、渤海の協力があるからです。」
「だが、それによる財政負担は大きすぎる。」
「それを受け入れなければ戦争になります! 財政にかこつけたあなたの誇りのために、数万、数十万の命を捨ててもいいと言うのですか! あなたはそんなに偉いのですか! あなた一人の誇りは民衆を屍とさせてまで守らねばならない誇りですか!」
三月一日、渤海使を帰国させるべきとの意見を緒嗣が再度提出するが、良房の強硬な反対に淳和天皇も賛同し却下される。
これに吉野は不安感を抱き、良房の蔵人罷免を淳和天皇に進言するにいたる。
これに対抗するかのように、良房は自費で渤海使を歓待すると宣言し、これに抵抗する吉野が国際関係を悪化させ、戦争を引き起こそうとしていると公の場で非難する。
これを聞いた世論は良房支持が大勢を占めた。
この対立の解決点は見いだすことができず、一ヶ月以上経て、長良が双方に歩み寄らせて妥協案を提示してやっと解決した。
五月八日、渤海使、入京。鴻臚館にて歓待。
五月一四日、渤海使帰国の途に就く。極めて短い滞在期間。
これが長良の示した妥協であった。
早期帰国を主張する緒嗣と、それに猛反対する良房の二人の意見の妥協点を模索した結果、通例ではあり得ない短い滞在期間となった。
これが長良と良房の政界デビューである。
緒嗣や吉野に反発する良房と、その間を取り持つ長良という関係がスタートと同時にできあがっていた。
緒嗣も吉野も、冬嗣はとんでもない後継者を宮中に送り込んできたものだと背筋を凍らせた。
息子二人の政界デビューを見届けた冬嗣は宮中に参内しなくなり、自宅で床に伏すようになる。
もはや誰の目にも冬嗣の最後は目前だとわかった。
七月二四日、冬嗣死去。
死因も辞世の言葉も残っていない。
しかし、冬嗣は藤原氏の本流を作った。
この後の日本は、冬嗣の子孫たちが権力を握る社会となる。
- 北家起つ 完 -
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