源氏物語の時代 7.満ちたる望月

 一方で、道長が激怒したのは長和二(一〇一三)年五月九日のことである。

 三条天皇はこの日、天文博士安倍吉昌の辞表と遍救法師の申文を受け取った。

 このような上奏文が天皇のもとに届くのはおかしなことではない。ところが、この二通の書状は内覧である藤原道長の目を通ることなく三条天皇に届いたのである。これが大問題になった。

 ただ単に道長を無視して三条天皇のもとに書状が届いたと言うだけならそこまで激怒しない。だが、天文博士安倍吉昌の辞表となると冗談で済む話ではなくなる。

 天文博士の存在は国政に関わる大問題なのだ。

 天文博士とは、この時代の天文学の第一人者である。日食や月食がいつ起こるのかを計算して報告するのもその仕事の一つであるが、天文博士に課せられた最大の仕事、それは日本国のカレンダーを作り上げることである。たかがカレンダーと考えるかもしれないが、国が独自のカレンダーを運用して国内に流通させるということは、他国の支配を受け入れない独立国である証でもあるのだ。ゆえに、軽々しく考えることは許されないのである。

 天文博士が辞表を出すのは仕方のないことである。加齢もあれば体調不良もある。思うところあって辞表を出す者もいるだろう。だが、道長を経由することなくいきなり三条天皇に提出するというのは大問題であった。

 調べてみたところ、蔵人の藤原隆佐と藤原頼祐が道長への報告を怠って直接三条天皇に提出していたことが判明したが、蔵人と言えば天皇の側近である。その天皇の側近が果たして国の一大事をおろそかにするであろうか。道長は「隆佐に思うところがあるのか、その本心が未だにわからない」と『御堂関白記』に記したが、蔵人への苦言という形をとった三条天皇への不信感であると言える。

 長和二(一〇一三)年五月一八日、皇太子敦成親王が病に倒れた。

 藤原道長はこの一大事に、自分のあらゆるツテを頼って、医師、僧侶、陰陽師を動員した。

 さて、この皇太子敦成親王が病に倒れたときの記録に意外な人物が姿を見せている。

 皇太子の病状はトップシークレットとなっており、何とかして皇太子の病状を把握しようとする者があとを絶たなかった。ここで皇太子敦成親王の病状回復に貢献したとあれば自身のこれからの栄達に大きな効果をもたらすのである。

 藤原実資もそうした貴族の一人であり、藤原資平を通じて皇太子敦成親王の病状を把握しようとしたのだが、その藤原資平が接した女性が「越後守為時の女」として記録されている女性なのだ。

 そう、紫式部はここにいたのである。

 それだけではない。藤原実資はこれまでにも何度かこの女性を通じて彰子皇太后と接しているのである。

 研究者によれば、紫式部が中宮彰子のサロンを去ったのは寛弘八(一〇一一)年のことだという。その後の紫式部についての記録は乏しいとするしかないのだが、その乏しい記録をつなぎ合わせると以下のようなことが見えてくる。

 中宮の教育係としての紫式部は中宮彰子が彰子皇太后になったと同時に役割を終え、寛弘八(一〇一一)年頃に一度はサロンを去った。しかし、彰子皇太后にとって紫式部が特別な存在であることに違いはなく、皇太后となったのちも頻繁に彰子皇太后と紫式部は会っていたようである。

 紫式部は夫を亡くした女性であったが、この時点で父である藤原為時は健在である。この時代の多くの未亡人と同様に、父の元に戻って暮らしていたのであろう。ただし、藤原為時が寛弘八(一〇一一)年に越後国司に任命されて越後国に赴任したため、正確には、父の元で過ごしたのではなく、父の留守居役をつとめていたこととなる。藤原為時はかつて越前国司をつとめたほどの人物でもあるので、夫を亡くした娘を養えるぐらいの財産は当然あったろう。つまり、源氏物語という傑作を生みだし、中宮彰子のサロンを離れたあとの紫式部に待っていたのは悠々自適な暮らしであったわけである。

 そう言えば、清少納言の末路を悲惨なものであったとする説話はあるが、紫式部の晩年については特にこれという逸話がない。

 長和二(一〇一三)年六月二三日、三条天皇と藤原道長との間で、人事を巡る駆け引きが繰り広げられた。

 きっかけは、六月四日に正三位権中納言藤原忠輔が亡くなったことである。これにより権中納言の空席が一つできたと考えた三条天皇と、増えすぎた権中納言の人員を元に戻すためにも空席を埋めないとする道長との間で対立が起きた。

 三条天皇は皇太子時代からの側近である藤原懐平を権中納言に昇格させようとした。それも、ただ側近を昇格させようというだけではない。道長の五男である藤原教通も同時に権中納言に昇格させようというのが三条天皇の提示したアイデアであった。

 三条天皇は、藤原懐平はこれまで、三条天皇が皇太子であった頃から一心不乱に皇太子の側に仕え職務を果たしてきており、既に年齢も年齢であるため、ここで権中納言にさせてやりたいと訴えたのに対し、道長は、三条天皇のアイデアを実現させると中納言と権中納言が合わせて七名に膨れ上がってしまうため、これでは人事のバランスがとれなくなるとして反対した。


 ここで長和二(一〇一三)年六月二三日時点の議政官の構成を振り返ってみると、以下のようになる。

 位階のインフレを抑え、役職のインフレを抑えてきた道長であったのに、インフレを止めることはできず、正二位だけで九名である。それでもかなり無茶をさせ、つまり、本来なら大臣であってもおかしくない正二位源俊賢を権中納言に留めるという荒療治をして、どうにか議政官の人員構成での問題を抑えてきたのである。

 ここでいきなり藤原懐平を権中納言に昇格させるとなると、やっと終えた無茶が再開してしまう。

 参議筆頭である藤原懐平はたしかに昇格させるに相応しい位置にいる。何しろ位階は従二位だ。本来の運用なら内大臣、悪くても大納言になっていなければならない位階である。ゆえに、三条天皇の権中納言にさせてやりたいとの思いも理解できなくはない。だが、既に権中納言は三人いる。四人いたことのほうがおかしいので、一人欠員が出たからと言って簡単に昇格させることはできない。

 そして、藤原教通の権中納言昇格はもっと無茶な話である。

 先に記した議政官の面々の名を見ていただきたい。

 どこにも藤原教通の名前などない。

 名前がないのは当然で、この頃の藤原教通は議政官の一人ではなかったのである。 

 位階こそ正三位であったが、権中納言どころか参議ですらなく、このときの藤原教通の役職は左近衛権中将兼中宮権大夫兼近江権守と、これから議政官入りすることとなる者が勤める役職をこなしていた最中だったのである。つまり、藤原教通の参議昇格なら話はわかっても、権中納言への昇格は、いかに道長の息子であると言っても難しかったのである。

 その後、三条天皇は教通の権中納言昇格については放置した上で、藤原懐平の権中納言昇格にこだわりを見せ、道長と言い争いになった。何としても藤原懐平を昇格させようとする三条天皇と、七名体制は人事のバランスを壊すとする道長との争いは平行線をたどったかに見えた。

 ただ、道長は交渉術に長けた人でもある。言論の力があるからこそ議政官を自由自在に操れたのだし、議政官を操れるという自負があるから左大臣のままにとどまっていたのである。

 道長の交渉術はここでも発揮された。

 道長の長男である藤原頼通を権大納言に昇格させるというアイデアである。そうすれば中納言に空きが一つできるから、七名ではなく六名になって、妥協できる人数に落ち着く。

 無論、三条天皇は頼通の権大納言昇格に反対である。それも、道長が展開したと同じ理由での反対であった。すなわち、頼通が権大納言昇格すると、大納言と権大納言の合計が五名となる。これもまた人事のバランスを欠いた体制になるのだ。

 しかし、道長には奥の手があった。頼通もまた皇太子に仕えている身なのである。それも、三条天皇が皇太子であった頃だけでなく、現在も皇太子敦成親王に仕えている身なのだ。つまり、皇太子に仕えている期間という点を加味して藤原懐平を昇格させねばならないなら、藤原頼通も昇格要件を満たすこととなるのである。

 三条天皇が熱く語った理由を前面に出されては、三条天皇とて黙るしかなかった。ただし、最初の自分のアイデアである藤原懐平と藤原教通の二人の権中納言昇格については妥協しなかった。

 両者の妥協の末、この日、藤原懐平と藤原教通が権中納言に昇格すると同時に、藤原頼通が権大納言に就任した。

 中宮妍子のお腹もいよいよ大きくなり、いつ出産を迎えてもおかしくない頃になった。

 無論、三条天皇も藤原道長も男児を生んでくれることを期待する。

 そして迎えた長和二(一〇一三)年七月六日、戌剋(現在の時刻に直すと夜七時から九時頃)に産気付いた中宮妍子は、子剋(同じく夜一一時から深夜一時頃)、無事に出産した。

 女児であった。

 女児であったという知らせをきいた藤原道長は落胆したと言うが、道長自身の残した記録によれば、すぐに、まだまだ若い中宮妍子ならばこれからも出産の機会があるし、男児を生むのは今後に期待できる、と考え直したという。

 ただし、このときの道長の様子を見ていた藤原実資は、落胆したまま呆然として誰とも会おうとしなかったという。

 おそらく実資の方が真相に近いであろう。

 何しろ道長は生後五日の儀式においても落胆したままであったというのだ。理屈では言い聞かせることができる。一度出産した経験があるのだから、二度、三度と出産を繰り返すことになるであろう。そうすればいずれ男児を生むと頭で考えることはできた。ところが、男児を期待されながら女児が生まれたことの落胆は感情の問題である。理屈でそう簡単に抑えられるものではなかったのだ。

 中宮妍子が女児を出産したのは土御門殿においてである。そして、出産してからしばらくは内裏に戻っていない。つまり、三条天皇は生まれた我が子と対面していない。

 これは陰陽師に吉日を選ばせたためであった。三条天皇が何月何日に初対面をし、中宮妍子が何月何日に内裏に戻るのがもっとも縁起良いのかを決めたためで、この時代の皇族や貴族は、一般庶民なら誕生の瞬間に味わえる新たな家族の誕生を、陰陽師の決めた吉日になるまで先延ばしさせられるのが普通であった。

 それにしても、三条天皇が生まれた我が子と会えたのが長和二(一〇一三)年九月一六日。つまり、生後二ヶ月を経てやっと対面できたこととなる。それも、三条天皇が土御門殿に行幸しての対面である。天皇が、生まれた我が子と会うために家臣の家に行くというのだから、これは極めて特殊なこととするしかない。なお、いかに我が子と対面するという事情があろうと、そのために家臣の家に行くというのは問題ではないのかという非難が挙がっていたが、その非難は黙殺している。

 本来なら父と娘の対面なのだから長時間用意すべきなのであるが、何しろ天皇である。分刻みのスケジュールをくぐり抜けての土御門殿への行幸であったために、我が子と触れあえた時間は二時間程度しかとれなかった。しかも、その間に我が子との対面だけではなく、土御門殿での競馬の観覧と饗宴をこなしているのだから、三条天皇の忙しさは並大抵のものではなかったであろう。おまけに、この日は土御門殿への行幸をすませて内裏に戻った後、いつも通りの政務を再開しているのだ。


 中宮妍子の産んだ子が親王宣下を受け、女児の名が禎子内親王となったのが長和二(一〇一三)年一〇月二二日、その禎子内親王が実母である中宮妍子とともに内裏に戻るのは一一月一一日と決まっていた。

 ところが、どういうわけか内裏に戻らなかったのである。

 男児誕生を望んでいたわりに、中宮妍子を三条天皇から離しているのは理解しづらい話である。

 もっとも、内裏が中宮妍子と禎子内親王にとって安全な場所ではなかったという側面もある。

 一一月一六日、野生のイノシシが紫震殿に出現した。後で冷静になって振り返るからイノシシとわかるのだが、何の前触れもなく現れればそれは奇妙な物の怪の出現になる。おまけに、ほぼ同タイミングで、弘徽殿においてボヤ騒ぎがあった。野生のイノシシが現れたのとボヤ騒ぎとがたまたま重なっただけであるが、これを悪霊出現と考えてしまい失神する者が現れてしまった。

 さらに、一一月二八日、三条天皇が石清水八幡宮へ行幸したまさにその頃、朱女町で火災が発生し、内裏に飛び火するところであった。翌日、行幸から戻った三条天皇が聞いたのは無事に消火できたという知らせであったが、その知らせを聞いた道長は、皇太子敦成親王の身に危険が及んだのではないかと考えて右往左往したと道長自身が日記に残している。

 物の怪騒ぎ、火災騒ぎとして、続くは盗賊騒ぎである。一二月九日に盗賊が内裏の飛香舎と凝華舎の間の渡殿に入りこんだのだ。道長は盗賊を一喝して追い払ったが、本来ならば国家最高の警備でなければならない内裏にこれだけ悪条件が重なると、一私人の私邸であっても武士によって守られている土御門殿の方が中宮妍子と禎子内親王を守るに相応しい建物のほうに見えてくる。

 おかげで長和三(一〇一四)年一月二日に開催されるはずであった中宮大饗は、肝心の中宮妍子が内裏にいないために中止になったほどであった。

 内裏に人影が見えないのは中宮妍子だけではない。

 そもそも三条天皇の周囲に侍る人が少なく、朝廷内の儀式がまともに遂行されない有様であったのだ。長和三(一〇一四)年一月八日に予定していた御斎会にいたっては、二〇名以上はいるはずの三位以上の貴族のうち、参加したのはわずかに三名。藤原実資は「何たるいい加減さだ」と自らの日記に書き記している。

 貴族たちが家に引きこもって出てこないのではない。その証拠の道長のもとには呼んでもないのに勝手にやってくる貴族がひしめき合っていたのだ。

 貴族たちから見放された天皇はもの悲しい。かつて一条天皇も味わったが、天皇につき従うよりも左大臣藤原道長に従う方が自らの栄達に近づくだけでなく、自身の政治信条にも納得できるのである。何しろ、三条天皇にとっての貴族は自らの命令を実現させるための駒でしかないのに対し、道長にとっての貴族は、上下関係こそあるものの、基本的には同僚である。三条天皇に反論しようものなら国家反逆罪に問われかねないが、道長に反論したところで身の危険を感じることはない。かなりの可能性で道長に言い負かされるが、それでも道長の前であれば議論の自由があるし、言論の自由があるし、思想の自由がある。

 政治の世界に身を置く者にとって、自らの意見を遠慮なく発言できることの重要さは計り知れないものがある。三条天皇は三条天皇の意見こそが唯一絶対であり、三条天皇に逆らうのは断じて許さないという姿勢であるが、道長は、どんな発言をしようと、それこそ藤原氏絶滅を訴えようと、どうということはない。自らの信じる考えを訴え、議政官で過半数の同意を得れば、自らの意見が国家の決定につながるのだ。

 三条天皇の元から距離を置くのは、名目上は物忌みであったり体調不良であったりと、この時代ではやむを得ないとされる理由であるが、実際にはそれが貴族たちの言論の自由を求めた戦いでもあったのだ。三条天皇の命令をボイコットすることで、自らの意志を示すことにしたのである。

 天皇になれば独裁権力を振るえると考えていた皇族は多い。そして、天皇に即位したと同時に独裁者として振る舞った天皇もいる。だが、世の中はそう甘くはない。天皇であろうと、政治家に求められる唯一の役割、すなわち、庶民生活のさらなる向上という役割から逃れることはできないのだ。

 言論の自由が庶民生活の向上につながるとの断言はできない。しかし、言論の不自由と庶民生活の向上が同時に実現したことは、人類史上一度として存在しない。それを一〇〇〇年前の貴族たちはわかっていたのだ。

 自らの周囲から貴族たちが姿を消している寂しさの中には中宮妍子がいないことの寂しさもあったようで、三条天皇は中宮妍子に向けて和歌を一首送っている。 

  春来れど過ぎにし方の氷こそ松に久しくとどこほりけれ
 (春はやってきたのに、去年の氷は松の枝に冷たく凍りついて、いつまでも溶けないままだ)

 この和歌に対する中宮妍子からの返信はこうである。

  千代経べき松の氷は春来れどうちとけがたきものにぞありける
 (一〇〇〇年の命を持つ松の枝に張り付いた氷は、春が訪れても簡単には溶けないものです)

 三条天皇は、中宮妍子を含め、自分と距離を置くようになった面々を「溶けぬ氷」と評し、中宮妍子は氷が溶けぬのは松のほうに原因があるとしている。

 中宮妍子の例えこそ、この時代の貴族たちにとっての三条天皇であろう。三条天皇とは心から打ちとけることができない。それも、三条天皇に理由があって打ちとけることができない。

 そう言い放った中宮妍子であるが、この和歌を理由にしての処罰を受けてはいない。他の貴族がこんな和歌を送ったら一発で検非違使に逮捕されるであろうが、中宮にして道長の娘でもある中宮妍子であれば逮捕される心配はなかった。

 中宮妍子が生まれたばかりの内親王を連れて内裏に戻ってきたのは長和三(一〇一四)年一月一九日のこと。予定を二ヶ月も過ぎての内裏帰還であった。

 ただ、三条天皇と中宮妍子との関係は冷え切ってしまっていた。

 三条天皇の孤独はより深まることとなった。


 三条天皇の苦悩は孤独だけではなかった。

 長和三(一〇一四)年二月九日、ここに内裏火災が加わったのだ。

 それにしても、また、である。

 九年前に焼け落ち、三年前にやっと再建工事を終えたと思ったら、また焼け落ちたのだ。

 火災発生源は人のほとんどいない登華殿というから、これは放火である可能性が高い。何しろ、国家最高の警備が敷かれていなければならない内裏なのに盗賊が入ったほどなのだ。見つかることなく中に進入し、火をつけてから盗みを働いたか、盗みを働いてから火をつけたかはわからないが、放火強盗がこの火災を起こした可能性はかなり高い。

 三条天皇は輿に乗って朝堂院に、中宮妍子と皇太子敦成親王は車に乗って朝堂院の東廊の外に避難。

 火災を聞きつけた藤原道長は、馬に乗って陽明門から参入し被害状況を確認した。その結果、三条天皇も中宮も皇太子も無事であったが、火災に巻き込まれ焼け死んだ者、崩れた建物に押しつぶされて命を落とした者が続出したことが判明した。道長はただちに、家臣には被災者の収容を、僧侶には犠牲者への弔いを命じた。こういう緊急事態における態度もまた、支持者を獲得するか減らすかという原因になる。もっとも、道長が左大臣になってから内裏の火災はこれで四度目。ここまで経験を積めば否応なく対処できてしまうと言えばそれまでだが。

 それにしても、道長の行動は素早かったが、その他の貴族は翌朝になってやっと参内してきたのである。

 彼らとて内裏の火災を知らないわけではない。それなのに、左大臣藤原道長だけが急いで内裏に出向いて陣頭指揮を執っていたのである。

 では、その他の貴族は何をしていたのか。

 被災者の収容と、応急処置に必要な材木の手配、そして、復旧工事に必要な人員の確保であった。こちらもまた何度も内裏の火災を経験しているだけに手際よく、翌朝参内したと同時に復旧工事を始めることができたほどである。

 三条天皇の苦悩に加わったのは、火災そのものだけではない。緊急事態の対応における自らの無力さも加わったのである。

 この頃、三条天皇の苦悩の大部分を占めることになる、ある現象が三条天皇の身に起こり始めていた。

 長和三(一〇一四)年三月一日、松本曹司に避難していた三条天皇は藤原資平に一つのことを打ち明けた。

 「ここ数日、片目が見えず、片耳が聞こえない」と。

 三条天皇は軽い感じで打ち明けたのだが、これが大問題になった。

 視力や聴力に異常があっては天皇としての執務ができないのだ。

 三条天皇の身に何があったのかについて、砒素と水銀からなる薬を多量に服用したために中毒となったとする説、緑内障であるとする説、脳腫瘍であるとする説、髄膜腫であるとする説などがあって一定はしていない。共通しているのはケガによる障碍ではなく、病気による障碍、それも伝染性のものではない病気による障碍であるという点である。

 三条天皇が、片目が見えず、片耳が聞こえないという話は瞬く間に広まった。ただし、どちらの目が見えず、どちらの耳が聞こえないのかまでは情報として広まらなかった。おまけに、三条天皇の顔のどこを見ても、病気であることを伺わせる痕跡はどこにもなかった。三条天皇に拝謁した者の中には、「そもそも見えず聞こえずという話はただの冗談であろう」と話す者までいたほどである。

 三条天皇の症状も、一時的なもので、すぐに回復すると誰もが考えていたが、日をどんなに重ねても片目が見えず片目が聞こえない状態が続いている。その上、三月一二日にはまたもや火災が発生。大宿直(おおとのい・大内裏を警備する人たちの控室)、内蔵寮(くらりょう・皇室の財産管理と宮中行事の運営を行なう部署)の不動倉(ふどうそう・皇室所有の財産を保管する倉)、掃部寮(かもんりょう・宮中設備の維持管理と清掃を行なう部署)などが焼け落ち、皇室や朝廷所有の財産およそ数万点が灰になってしまった。

 三条天皇の身に起こった障碍、そして、相次いだ火災、そのどちらも三条天皇に対する疑念を抱かせるに充分な出来事であった。

 当時の人の考えである「災害は天が執政者に失格を突きつけた証拠」に従えば、天が三条天皇を失格と判断したと言えるのである。

 長和三(一〇一四)年三月一四日、藤原道長が兄の道綱とともに三条天皇のもとに赴き、世間で流布している言葉を伝えた。道長がはじめて、三条天皇の退位を真剣に考えだしたのである。

 災害は天が示す執政者失格の証拠とする世間の話を三条天皇は聞き入れ、道長がそれを口にした意味も理解した。

 三条天皇は落ち着いてその話を聞いていたが、この話を聞きつけた藤原実資は激怒した。「あの大馬鹿者には天罰が下る」と。ただし、面と向かって言ったわけではなく、こっそりと日記に記している。もっとも、その日記の中身は道長に知れ渡ることとなるのだが、それで道長から何かあったわけではない。

 道長は真剣に三条天皇の退位を考え出すようになったのは、それが民意であるからであり、同時に、三条天皇の目と耳を考えてのことである。天皇としての執務ができなくなった以上、帝位を去り新たな天皇を誕生させるべきだと考えたのだ。

 特に、藤原道綱が同席したことには大きな意味があった。藤原道綱は皇太子時代から三条天皇の側近の一人であり、丁寧に三条天皇の身の周りの世話をしてきた過去がある。つまり、三条天皇の健康状態を診るのにもっとも適した人物であったのだ。その道綱が見た三条天皇は、かつての元気溌剌さなど影もなく、ただただ自らの苦悩に苦しむ三条天皇であった。

 このまま三条天皇を天皇とさせておくことを心苦しく感じ、弟に涙ながらに何とかしてほしいと頼み込む姿に、三条天皇は自らを悟ったのである。

 それでも三条天皇は退位を選ばなかった。現在は確かに体調が最悪である。だが、元に戻ると考えてもいたのだ。いくら健康を取り戻しても退位してしまっては元も子もない。退位せず天皇のままであり続けるという選択肢しか三条天皇は選ばなかったし、そのために、自分の数少ない見方の一人と考えていた藤原実資の甥であり、実資の養子になっていた藤原資平を蔵人頭に任命しようとした。自分の味方を天皇の実務的な右腕である蔵人頭にすることで天皇としての権力を強めようとしたのである。

 ところが、この選択が三条天皇にとって大打撃となった。

 長和三(一〇一四)年三月二二日、藤原資平の蔵人頭就任を藤原道長が拒否。代替要員として藤原道雅、藤原兼綱、藤原経通の三名の中から蔵人頭を選ぶように要請した。

 そして、三月二五日、道長がついに直接、三条天皇に対して退位するよう要請する事態に至った。ここでもまた藤原実資は「奇怪だ」と憤慨して日記に書き記している。たしかに臣下が天皇に退位を迫るのは珍しいとするしかない。三条天皇の兄である花山天皇のように騙される形で退位した天皇はいるが、面と向かって辞めろと訴えるような事態はそうはなかった。

 名目としては視力と聴力の低下である。たしかに道長の言うとおり、現在の三条天皇では天皇としての職務を遂行できない。

 だが、本音は、人事を巡る三条天皇と道長との対立であった。道長はこれまで、過去の貴族のインフレを力ずくで食い止め人事政策の健全化を押し進めてきた。一条天皇の末期にまた貴族のインフレが見られるようになったが、それでもギリギリ踏みとどまっていたのだ。ところが、三条天皇が即位してからというもの、ギリギリの踏みとどまりはいとも簡単に決壊し、人事はまたもや滅茶苦茶になってしまったのだ。

 ここにきてまた三条天皇が我を張って人事を押し通そうとしていることに、道長はついに三条天皇を見限ったのである。三条天皇を退位させ新たな天皇を即位させなければ、この国の人事、いや、この国の根幹が崩れ去ってしまうと考えたのだ。

 三条天皇と道長との溝は、決して埋まることのない深いものへとなってしまったのである。


 三条天皇はあくまでも藤原資平を蔵人頭にするよう求め、四月一四日には、三条天皇が直接、次の蔵人頭に藤原資平を任命すると本人に伝えた。

 長和三(一〇一四)年五月一六日、三条天皇が土御門殿へ行幸した。本来なら内裏で行なうべきであった儀式を、内裏が復旧工事中のため、場所を土御門殿に変えて実施したのである。

 その土御門殿で、三条天皇は仰天の発表をした。

 蔵人頭は藤原兼綱とするという発表である。

 藤原実資も藤原資平も約束が違うと抗議したが、既に決定してしまった以上どうにもならなかった。実資は日記に三条天皇に裏切られたと記している。

 一方の三条天皇は、翌五月一七日、藤原実資を呼びだし、「蔵人頭の空席ができたら、次の蔵人頭は必ず資平を任命する。これまでの蔵人頭と比べものにならないほどに親しく接するつもりだ」と述べた。

 裏切られたと考えている実資にとって、三条天皇のあまりにも軽々しいこの言葉は、かえって三条天皇への敬意を失わせる結果になった。

 三条天皇への敬意を失ったのは藤原実資だけではない。藤原資平が蔵人頭となることを三条天皇が口約束していたように、内裏復旧工事の最高責任者である造宮別当に藤原懐平を就けると約束していたのであるが、五月二四日、その造宮別当に藤原教通が任命されたのである。さらに、まだ若い藤原教通だけでは不安があるという声をかき消すように、藤原兼隆と藤原公信の二人を補佐役に任命したのだ。

 人事の対立で道長に軍配が上がった結果でもあるのだが、三条天皇を信じてきた者たちにとってはこうした人事の口約束と実際の人事との違いを目の当たりにすることで、三条天皇に裏切られたと感じずにはいられないことになる。

 長和三(一〇一四)年一〇月六日、三条天皇の長子である敦明親王に皇子が誕生した。母は右大臣藤原顕光の娘である藤原延子。

 ここで皇位継承問題がややこしくなった。

 道長がいる現在、皇太子は亡き一条天皇の皇子である敦成親王であり、三条天皇の子は皇太子でない。皇位継承権はかなり高いが、皇太子でない以上、次期天皇の地位が約束されているとは言えない。

 だが、未だ元服も迎えていない敦成親王には当然ながら子供がいない。つまり、敦成親王が天皇になったとして場合、皇太子は敦明親王となる可能性が高いのだ。そして、その敦明親王に男児がいるとなると、冷泉天皇流と円融天皇流で順々に受け継いできた皇統が、冷泉天皇流一本にまとまる可能性が高まる。

 これに輪をかけてややこしくさせているのが、敦明親王の后が右大臣藤原顕光の娘であるという点である。いかに藤原道長が絶対的存在として君臨していようと、後継者として指名した藤原頼通はまだ権大納言であり大臣ではない。つまり、道長に何かあったら、右大臣藤原顕光が人臣のトップに立ち、藤原氏のトップに立つのだ。

 こうなると、皇統争いに加え、藤原内部の権力抗争につながる。 

 当然ながら、道長がそのあたりのことを理解していないわけなどない。

 道長は罠を二つ仕掛けたのである。それも、文句の言われないような罠を。

 一つは下品な罠であった。

 皇太子敦成親王は亡き一条天皇の長子ではない。一条天皇の長子は定子皇后の生んだ敦康親王である。運命が運命ならば敦康親王は天皇になってもおかしくなかったのだが、敦康親王は早々に天皇候補から除外されており、敦康親王自身も自分が天皇になれないことを納得した人生を歩んでいた。

 長和三(一〇一四)年一〇月二五日、その敦康親王が主催する遊宴が催されたのであるが、一五歳の少年が主催するとは思えないほど大規模なものであった。三条天皇のもとには三名から四名の貴族しか、それも、促されて仕方なくといった感じでしか集まらないのに対し、敦康親王主催の宴は呼んでもないのに多くの貴族が参加する始末である。

 こうした出席者は全員、敦康親王主催であっても、裏にいるのが道長であることを知っている。いかにこの宴における道長は参加者の一人にすぎないという体裁をとっていようと、開催費用を出したのも道長であることは明白であったし、そもそも開催場所が道長の所有する宇治第なのだ。

 そのため、宴は他に類を見ない豪勢なものとなり、宴に招かれた遊女およそ四〇名に、絹一〇〇疋、コメ一〇〇石が与えられるという、しばらく評判を得続けることとなる成果を残した。

 なお、この宴に参加した藤原実資は「軽々しい極みだ」と、この宴の下品さを嘆いている。自分で好き好んで参加しておきながら下品を嘆くのはどうかとも思うが、宴そのものは下品であっても、これ以上ない豪勢なものであったことに違いはなかった。

 これが道長の示した罠の一つである。天皇になることを諦めれば、このような豪勢な暮らしを道長が保証するという罠である。

 さすがにこの罠は三条天皇も思うところがあったのだろう、「極めて善くない」と述べている。

 ここで一つだけ弁護させてもらうと、敦康親王は下品な人ではない。宴を下品なものへと導いたのは、参加者の一人でしかなかったはずの道長の暴走の結果であり、まだ一五歳の敦康親王にとっては、右も左もわからない状態でいきなり宴の主催者にさせられ、気がついたら豪勢で下品なものへとなってしまっていたのである。

 敦康親王は本来、和歌をはじめとする風流の世界に生きる趣味人の暮らしを選んでおり、敦康親王の生涯にいささかなりとも下品という形容を用いる場面はこの宴が最初で最後である。

 もう一つの道長の罠、これは上品としか形容できないものであった。

 長和三(一〇一四)年一一月一七日、皇太子敦成親王が三条天皇の元を訪れ、三条天皇に謁見した。

 このとき敦成親王はわずか七歳であったはずなのに、その立派な態度と礼儀正しい振る舞いは三条天皇を、そして、その場にいた貴族全員を仰天させた。

 このとき、三条天皇の長子敦明親王は二一歳、そして皇太子敦成親王は七歳である。

 普通に考えれば、三条天皇に何かあったとき、後を継ぐのに相応しいのは七歳ではなく二一歳であろう。ところが、このときの敦成親王の礼儀正しさはその評価を一変させるものであった。

 何しろ、敦明親王の粗暴さは宮中で知らぬ者のいないほど有名であったのだ。記録に残っているだけでも、この年の六月一六日には加賀守源政職に対し一方的な暴行を加えて騒然となったほどである。

 年長者でも粗暴な敦明親王より、まだ幼いものの正式な皇太子である上に礼儀正しい敦成親王の方が次の天皇に相応しいという雰囲気が形成されるようになったのだ。

 三条天皇の病気はまだ治っていない。治っていないどころか以前より悪化していたのだ。

 視力が著しく衰え、嗅覚が失われた。おまけに身動きをとるのも一苦労するという様子であったのだ。

 天皇に退位を促した道長の不遜さを批判する声は、三条天皇の現状を見た者からは挙がらなくなった。とてもではないが天皇としての職務を遂行できないというのが誰もが抱いた感想だったのだ。天皇に退位を要請するなど並の貴族程度ではとてもではないが口に出すわけにはいかない言葉であるが、「自分は左大臣の意見に賛成する」と言うのであれば口に出せる。

 三条天皇の退位、そして、皇太子敦成親王の即位は近い未来に起こるであろう既定路線へとなったのだ。


 三条天皇の長子でありながら皇太子になれず、その上、七歳の幼児に評判で敗れた二一歳の敦明親王は、長和三(一〇一四)年一二月、またもや問題を起こした。

 一二月一日、敦明親王の従者たちが、藤原公任の息子でこのとき右中弁であった藤原定頼の従者たちと殴り合いの大乱闘を演じたのである。

 この殴り合いは当初、藤原定頼の従者たちのほうが敦明親王の従者たちに殴りかかっていったとされていた。つまり、敦明親王の従者たちは言われなき暴行を受けたので抵抗しただけであったとされたのである。おまけに、このときの乱闘が原因で敦明親王の従者の一人が意識不明の重体となり、一二月五日に息を引き取ったとあっては一大事である。

 ここまでなら敦明親王は被害者でいられたのだ。

 ところが、一二月八日、敦明親王が藤原定頼に対し一方的な暴行を加えたのだ。

 従者が、ではない。本人が、である。

 これが大騒ぎにならないわけがない。当時の記録によると、敦明親王の暴行に対し、道長が「書き記すこともためらわれる言葉」で非難したという。当然ながらその非難の言葉そのものは残っていないが、その言葉を耳にした実資は「極めて心苦しい言葉があった」と記録している。

 花山法皇亡きあと、花山院は皇后娍子の所有する邸宅となっていた。ただし、皇后娍子は内裏焼亡後の避難先として花山院を選んではいない。皇后宮大夫である藤原懐平の家に身を寄せており、花山院は主の住んでいない邸宅となっていたのである。

 とは言え、誰も住んでいなかったわけではなく、長和三(一〇一四)年一二月は延暦寺の僧侶である慶円が滞在していた。一〇〇日間にわたって読経を続けることで三条天皇の健康回復を祈っていたのである。

 長和三(一〇一四)年一二月一七日、その花山院が火災に遭った。

 焼け落ちる花山院の建物のうち、慶円が滞在していた檀所の舎だけは焼けることなく残っていた。多くの人はこれを慶円の恩恵であるとし、三条天皇もまたその恩恵があると考えた。何しろ自分のために祈っていてくれていたのだから、恩恵があると考えない方がおかしい。ちなみに、三条天皇は火災に遭った皇后娍子のもとを誰が見舞いに訪れたか記録をとらせている。後の報償の材料としようとしたのであろう。

 ただし、全く興味を示さなかった者がいる。藤原道長である。道長はその意見に同意することなく冷淡であった。

 三条天皇と藤原道長は気が合わなかったが、それでも妥協できるところはあった。

 ところが、藤原道長と慶円は全く気が合わないのである。元を正せば道長の三男である藤原顕信の受戒に立ち会うために延暦寺に向かった藤原道長に対し、慶円率いる僧侶たちが石を投げたところから敵対が始まり、道長が慶円の比叡山内での出世に干渉したら、慶円が道長からの祈祷依頼を断るという、子供じみた、それでも本人にとっては真剣である対立が続いていたのだ。

 このとき慶円は比叡山のトップである天台座主になることを願っていた。功績から考えると天台座主でも問題なかったのであるが、道長が絶対に許さなかったのである。

 一二月二一日、花山院の火災の件で道長と慶円の直接対話があったが、そこで天台座主になりたいと申し出ても道長からの返事は火災の事情聴取のみ。会談は完全に冷え切ったものだったのである。

 結局、一二月二六日に自分への祈祷に感謝するという名目で三条天皇の勅令があって慶円が無事に天台座主になれたが、お世辞にも円満解決というわけではなかった。

 ここで、長和四(一〇一五)年の議政官の構成を見てみよう。

 藤原道長が左大臣になってから二〇年が経過した、議政官の構成である。

 さらに、三位以上でありながら参議にもなっていない者が四名いる。

 貴族のインフレを抑えることに躍起になっていた道長なのに、気がつくとこの有様である。かなり厳しい綱渡りを繰り返してきたのであろうことが想像できるが、それにしても二位の多さは異常とするしかない。

 長和四(一〇一五)年、藤原道長五〇歳、三条天皇四〇歳という節目の一年であるのだが、三条天皇の具合は悪化が止まらず、祝賀どころではなかった。

 祝賀どころではなかったのは道長も同じであった。

 正月早々インフルエンザに罹患して倒れたのである。それでも正月二日に彰子皇太后と中宮妍子、そして皇太子敦成親王の元を訪れているが、その様子もかなり無茶をしての訪問であったと見えて、その後の宮中行事は全て欠席した。

 こうなると道長のリモートコントロールの開始であるが、三条天皇にも奥の手があった。前年に断念させられた藤原資平の蔵人頭登用である。道長が不在の今であれば蔵人頭の人事はどうにかなる。

 さすがに道長のリモートコントロールはここでも機能していたが、このときは三条天皇が勝利を収めた。ついに藤原資平を蔵人頭とさせることに成功したのである。ただし、蔵人頭就任は二月一六日なのだからかなり苦労させられたのであろう。

 しかも、この時の三条天皇はますます病状を悪化させていた。左目はもうほとんど見えなくなっていたのである。薬と加持祈祷による体調回復を模索するが何の効果も得られなかったのだ。

 三月二三日には頭から冷水をかぶった。医師たちがそのように勧めたのである。何しろ氷がまだ残る冷水である。それを何倍も頭からかけられ、三条天皇のは体調を回復するどころか青白い顔になり、全身をガタガタ震わせることとなった。現在では低俗なバラエティ番組でしかやらないような光景が、この当時は真剣な、かつ、最新の理論に基づいた最高級の治療であったのである。

 もちろんではあるが、そんなもの利くわけがない。三月二六日には自分が天台座主に任命した慶円に祈らせることで回復をもくろむこととなった。

 三条天皇の苦悩をさらに増幅させたのが、長男である敦明親王の狼藉である。

 長和四(一〇一五)年四月三日、検非違使が拘禁していた強盗が脱走したのである。その強盗は敦明親王の従者の一人であった。

 脱獄に成功した従者は敦明親王の住む堀河院に逃げ込んだだけでなく、追いかけてきた検非違使たちが堀河院に入ったところで敦明親王の従者たちが検非違使に対峙したのである。

 結果は、検非違使たちが敦明親王の従者たちに捉えられ、縄で縛り付けられた上で暴行を受けるというものであった。警察権力である検非違使が犯罪者たちに捕縛されて暴行を受けるという大失態であるだけでなく、天皇の息子の従者と言うこともあって敦明親王の従者たちは無罪放免であったのだ。

 しかも、敦明親王の従者たちはこれだけでは済まなかった。翌四月四日、今度は検非違使の別当、現在で言う警察庁長官である藤原実成の邸宅に襲撃を掛けたのだ。おまけにこのときも敦明親王の従者たちは無罪放免である。

 さすがにこれは道長も苦言を述べたが、三条天皇は何の反応も示さなかった。道長は日記に、このような乱行は敦明親王の周辺でばかり起こる、右大臣藤原顕光が何の躾もせず敦明親王の乱行を止めてないし、三条天皇からはなんの咎めもないと記した上で、「奇怪なことである、奇怪なことである」と大事なことなので二回言いましたと書きたくなるような締め方をしている。


 まさにその同日である、長和四(一〇一五)年四月四日に、こちらも検非違使がらみで珍しい事件が起こっている。

 冒頭だけを記すととんでもない大事件である。中宮になる前の藤原妍子の乳母を務めていた女性である藤原灑子が拉致されたのだ。これはとんでもない話とするしかない。

 目撃者の話によると、藤原灑子を拉致したのは前遠江守藤原惟貞、犯行時刻は戌剋(現在の夜七時〜夜九時頃)。灑子は平安京内を牛車で移動する間に路上で拉致されたたというのである。灑子の牛車に賊が乗り込み、彼女は牛車ごと連れ去られたというのだから穏やかではない。

 中宮妍子の育ての母が拉致されたとあっては放置しておくなどできない。道長はただちに検非違使を派遣し、拉致された藤原灑子の行方を捜させるように命じた。犯人とされる藤原惟貞の邸宅への捜査令状も発行された。

 検非違使はきわめて素早く藤原惟貞の逮捕と藤原灑子の救出を実現させた。藤原灑子は藤原惟貞の邸宅にいたのであるから、救出は造作もない話であった。

 朝を迎えると藤原道長の邸宅である土御門殿の門前に藤原惟貞が縄で縛られて放置されている。何事かと平安京の庶民が次々と集まり、その人だかりはさながら市のようであったという。

 しかもこの縄で縛られている男は中宮妍子の乳母を誘拐しようとした犯人だという。許せないという感情が庶民にわき起こるのは素早く、検非違使たちは未だ容疑者の段階であり犯人であるときまったわけではない藤原惟貞を守らなければならなくなった。

 ここまでであれば許されない拉致事件であったのだが、保護された藤原灑子の供述から思いがけない展開を迎えることとなった。

 実は藤原灑子は藤原惟貞と再婚していたというのだ。今回の事件も、拉致ではなく、愛する妻に早く会いたい新婚の夫の茶目っ気が起こしたことであったのだ。

 藤原灑子が夫を亡くしたあと、独り身であったことは道長の家の者は誰もが知っている。寡婦になってしまった藤原灑子のために斡旋した職が中宮になる前の藤原妍子の乳母だったのだから知っていて当然である。だが、その藤原灑子が再婚したこと、その再婚相手が藤原惟貞であったと知る者は少なかった。

 仕事一筋で生きてきた女性がやっと掴んだ幸せの日々を今日もくり返そうとした結果まさかこんな形を迎えるとは,本人たちは全く想像もしていなかったであろう。

 それにしても可愛そうなのは藤原惟貞である。勝手に誘拐犯扱いされただけでなく、縄で縛られ見世物にされたのだ。

 三条天皇は、自分の病状もストレスであったが、道長との関係がストレスでもあり、いつ爆発するかわからない状況であった。あるいは、目が見えないという原因の一端になっている。

 長和四(一〇一五)年四月一三日、三条天皇は藤原隆家にこう打ち明けている。

 「今日は具合が良い。目はまだ良くないが。左大臣が今日参内してきた。左大臣の機嫌が良くなかった。こちらの具合が良いのを見て不愉快になったのであろう」と。

 隆家経由でこの話を聞いた藤原実資は、左大臣藤原道長を「不忠義極まりない」と弾劾している。

 もっとも藤原道長にとっては言いがかりも甚だしい。自分の職務に従って参内し、三条天皇と謁見したらいきなり機嫌が悪いという扱いを受けている。

 隆家は、かつては反道長であったこともある。しかし、今では道長の側近の一人である。それでいて皇后娍子に仕えている身である。つまり、道長と三条天皇の両方の橋渡しができるだけでなく、三条天皇から必要以上に頼られてしまうのだ。

 そのプレッシャーたるや尋常なものではなかったであろう。そのプレッシャーから逃れるためもあってか、隆家はここで脱走するのである。それも三条天皇が文句を言えない理由で。

 それは、太宰権帥に任命されているという点を利用しての太宰府赴任である。それも、太宰府に赴いて三条天皇の眼病治療を祈願するというのである。

 そして、藤原隆家のこのときの判断が、結果として日本国未曾有の危機を結果として救うこととなるのであるが、さすがにこのときにそこまで考えている者はいなかった。

 神仏に頼る三条天皇は痛々しくもあったが、長和四(一〇一五)年五月になると三条天皇の視力が徐々に回復してきたのである。ほとんどと見えなかったものが何とか見えるようになり、次第にくっきりと見えるようになってきたのである。この調子でいけば来月には目も回復するであろうと考えていた。

 ところが、五月一一日から再び目は悪くなり、一三日にいったん回復したものの一五日には完全に見えなくなってしまった。

 前年に焼けた内裏に戻ることに三条天皇はこだわっており、三条天皇は何度も藤原道長に対して内裏修復工事の進捗状況を尋ねていたが、道長からの返答は素っ気ないものであった。三条天皇は目が何とか見えるうちに内裏に戻ることを懇願しており無茶な修繕計画となったのであるが、無茶なスケジュールは手抜き工事を招く。道長にとっての内裏修復は、無茶な計画によって実現させるのではなく、充分な時間を掛けての納得のいく修復に徹すべきものであったのである。

 それでは三条天皇の目に間に合わないではないかとなるが、三条天皇が天皇としての職務を遂行できなくなっているのが誰の目にも明らかになっている以上、内裏復帰にこだわるよりも天皇交代を優先させるべきであると道長は考えていた。

 その後も三条天皇の目は回復したり悪化したりをくり返していた。五月二三日には普通に見えるように回復し、翌二四日には普通に歩いて行動できるまでになった。

 ところが、五月二七日になるとまた三条天皇の視力が失われた。


 長和四(一〇一五)年六月、今度は伝染病が猛威を振るい始めた。そして、藤原道長がこの病に罹り倒れる事態となった。

 藤原実資などは、道長が倒れたのだから三条天皇の病状は回復するであろうなどと日記に述べたが、実資のこの予想は完全に外れた。三条天皇の目は全く良くならなかったのである。

 もはや三条天皇の内裏復帰は執念であったが、道長はその執念に答えなかった。伝染病が流行しているため工事の人員が確保できず、平安京には多くの死体が転がっている有り様である。しかも木材が不足しており予定通りの工事をするのはどうあっても無理であるというのが道長の回答であった。道長自身が伝染病に罹患し半月に渡って寝込んだからこそ、今回の伝染病がどのような症状であるかよく知っている。そして、この伝染病が流行している間は無理して工事をするべきではないというのが道長の考えであった。

 修復工事の責任者は道長の五男の藤原教通である。教通は三条天皇に工事の進捗状況を報告する義務があった。

 六月一三日、内裏修復工事の進捗状況を報告した。それに対する三条天皇の回答は、工事のうち特に進捗遅れが出ている建物設営の責任者である木工頭(もくのかみ)の更迭であった。資材不足、人手不足、それに加えてそもそも計画が無茶。これは工事責任者の更迭でどうにかなるものではなかったのだが、それを認める三条天皇ではなかった。

 長和四(一〇一五)年六月一九日、三条天皇が伝染病に罹患した。

 その間も三条天皇は内裏に遷ることに固執し続けていた。

 三条天皇にとって内裏は特別な場所であった。平安京の北辺中央に構える内裏こそが天皇のいるべき場所であり、いかに火災で焼けていようと、臣下の一人に過ぎない藤原氏の私邸に身を寄せ、そこを「内裏」と呼ぶのは耐えがたい屈辱であったのだ。

 火災で住めなくなってしまったのは現実として受け入れなければならないにしても、一刻も早く内裏に戻ることだけは何としても実現させなければならないことであったのだ。

 そのために無茶なスケジュールでの復旧工事を要求した。スケジュール通りにいかないという報告が挙がったら、その責任をとらせようとした。

 三条天皇には即位直後に内裏に入ろうとした前歴がある。その三条天皇にとって、工事の遅れは許されることではなかったのだ。六月になるまで内裏に戻るのを延長しただけでも妥協に妥協を重ねた末の結果であり、これを延ばすなど考えもつかないことであったのだ。

 その三条天皇が伝染病に罹り、たおれた。そのため、六月中の内裏復帰は諦めた。それでも工事の遅れによる延長ではなく、自分の体調不良によるやむを得ない内裏復帰の延期であるとした。

 工事が遅れていることについての責任追及を止めることもなく、伝染病からの回復はした閏六月一四日に、内裏復旧工事を担当した各部署に対し、工事が終わらなかった場合は罪科を下すように議政官で議論するよう藤原道長に命令した。

 もっとも、三条天皇の命令を受けて議政官で議論した末に挙がってきた結果は、罪科に該当する部署無し、であったが。

 その藤原道長であるが、長和四(一〇一五)年閏六月一九日、大ケガをした。ケガのせいで全く身動きできなくなり、座ることも立ち上がることもできず、牛車に乗るにも介護が必要になるという大ケガであった。

 では、そもそもどのようなケガだったのか。

 トイレで用を済ませ、自室へと戻る途中の廊下を歩いているときに廊下から落ちて左足を骨折したのである。落ちてからしばらくは前後不覚の状態であったと言うからかなりの重傷であったとするしかない。にも関わらず、道長は日記にただ一行「左足を損傷して前後不覚になった」と書いているだけである。翌日も「足が痛いので蓮や楊(かわやなぎ)の湯で患部を洗った」とだけ記している。

 さすがに道長の重傷という知らせは三条天皇を驚愕させ、三条天皇から見舞いの使者がやってきたほどなのだが、このときの大ケガについての道長自身の記録は実にあっさりしている。ところどころに「足が痛い」という記録が見られるものの、動けないときはリモートコントロールで、動けるようになったら抱えられながらも参内して、ごく普通に政務をしている。

 これまで何度も重病を経験してきた道長にとって、大ケガではあっても、頭はハッキリしていて政務を執ることに支障が無い状況というのは、多少の不便ささえ我慢すれば特にどうと言うことのないものであったのだろう。

 一度は見舞いをよこしたはずの三条天皇も、足のケガを除けばどうと言うことのない道長の様子を見て、いつも通りの日常が回復したと感じた。

 今、三条天皇が道長の様子を見たと書いたが、文字通り三条天皇は道長を見たのである。三条天皇の目は見えるようになったり見えなくなったりをくり返しており、何度も加持祈祷に頼っては、ときに利いたり、ときに利かなかったりと、果たして加持祈祷が効くのか効かないのか、三条天皇を困惑させている。

 長和四(一〇一五)年七月末、いよいよ三条天皇の視力が完全に失われるときが登場した。とは言え、それが延々と続いたわけではない。数日間の失明状態の後、ある日突然視力が回復して普通に見えるようになるなど、三条天皇の両目は不安定な状態になっていたのである。

 この現状を受け、三条天皇は一つの覚悟をした。

 病状回復までの間、道長に摂政を任せるというものである。

 自分でも天皇としての職務がとれないことは認めなければならなくなったのである。ただし、視力さえ回復すればいつでも政務に復帰する意思は隠さなかった。

 八月一日、三条天皇から道長に対し、視力が回復しているときは三条天皇が職務を行なうが、そうでないときは道長が摂政となるという提案がなされた。

 この要求に対する道長からの返答は,拒否。

 さすがにムシの良すぎる提案であるとするしかない。視力が回復しているときは摂政が停止となり、回復しないときだけ摂政を務めろというのだから、道長とてそう簡単に受け入れられる受け入れられる条件ではなかったのである。

 その上、道長は太政大臣ではない。議政官に出る必要の無い太政大臣であれば摂政との兼職はこなせるが、議政官を主催しなければならない左大臣は摂政との兼職が簡単にできる程度の仕事量ではない。

 道長は単に拒否しただけでなく、三条天皇に退位を促したのである。無論、次の天皇は皇太子敦成親王である。敦成親王が即位したなら、まだ元服を迎えていない以上、実の祖父である道長は摂政を引き受けるつもりである。そのためには今まで固執してきた左大臣の地位も捨てる。次の皇太子には三条天皇の長子である敦明親王を就ける。それが道長の提示した三条天皇退位に対する条件である。

 三条天皇は道長からの退位要請を拒否。その上で改めて、道長に臨時の摂政に就くように要請した。

 この頃の三条天皇と藤原道長の思いについては藤原実資が日記に記している。三条天皇も、藤原道長も、実資に色々と相談していたからである。相談事を日記に記して後世に伝えるのはどうかと思うが、道長はそのことについては何も語っていない。道長という人は、気の合わない人がいるのは認めても、その人が自分を嫌っていることについてどうこう言うことはなかった人なのである。

 長和四(一〇一五)年八月一九日、三条天皇は実資に対し、最近道長が頻繁に譲位を迫っているが、そもそも内裏に戻ってもいないのに譲位も何もあったものではないと述べている。これはもう三条天皇の執念とするしかない。

 ただし、内裏に戻ったなら譲位することも考えると述べており、これが三条天皇自身の口から語られたはじめての譲位の意思であった。

 道長が実資に語ったのは二二日のこと。三条天皇の目が極めて悪くなっており、奏上された文書を読むことが全くできなくなっている。そのため、三条天皇自身が行なわねばならない政務が全く推敲できず、この停滞はどうにかしないと日本国の存亡に関わる問題に発展しかねないとしている。

 さらに二七日には、藤原道長が、亡き資子内親王の邸宅であった三条院を購入したとの連絡を聞いた。実資はこの理由がすぐに判断できた。一条天皇の退位後の邸宅として一条院が用意されていたように、道長は三条天皇の退位後の邸宅を用意したのである。

 ちなみに、我々は「三条天皇」と呼んでいるが、そのように呼ばれるようになったのは道長がこの三条院を購入し、実際に三条天皇が退位後に住むこととなったからである。

 長和四(一〇一五)年九月七日、三条天皇は極秘裏に自身の退位について実資に相談している。もうこの頃には退位が既定路線として固まってきたとするしかない。

 それでも三条天皇は一点だけどうしても妥協しないところがあった。

 復旧工事を終えた内裏に戻ることである。天皇としてもう一度内裏に戻るまでは絶対に退位しないと決意していたのであった。

 裏を返せば、内裏に戻りさえすれば三条天皇は退位を考えるということである。

 ただでさえ三条天皇の目は三条天皇が天皇としての職務をこなすことを困難にさせているほどなのである。一刻も早く三条天皇の退位を実現させなければ国政の混乱はさらに先延ばしされてしまうとの判断が、それまで時間を掛けてでも完全な内裏修復を考えていた道長をして、質よりも時間を優先させることへと促した。

 九月二〇日、三条天皇がついに修復工事を完了させた内裏へと戻った。

 本来であれば天皇とて自らの足で歩まねばならないところであったが、この時の三条天皇は自分の足で歩くこともできず、藤原道長をはじめとする公卿たちに支えられてようやく内裏入りできるとする状況であった。

 内裏修復完了と、天皇の内裏復帰があったとき、普通ならば内裏復旧工事の功績を称えるための人事評価があるはずである。ところが、このときの三条天皇はそれができなかった。人事案は用意していたのであるが、三条天皇自身が読み上げることができなかったのである。

 そして、この内裏復帰が三条天皇の体調を戻すことはなかった。悪化はしないが改善もしない、内裏に戻る前と同様に政務に支障が出ることに変わりなかったのである。

 この日、もう一人内裏に戻ってきた人がいる。皇太子敦成親王である。それまで祖父道長の邸宅である土御門殿に避難していた敦成親王は、土御門殿から新造内裏へと戻る道筋において、新造内裏の主であるかのように京都市民の歓迎を受けていた。

 一方、内裏に戻っていなければならないのに内裏に戻らなかった人がいる。三条天皇とともに枇杷殿に避難していた中宮妍子である。はじめは三条天皇とともに内裏に戻る予定であったのだが、一〇月三日に延期になり、一一月二八日へと延期になったということであった。

 三条天皇が内裏に戻ったことで、道長は当然とでもいうように三条天皇の退位を求めるようになった。

 さらに、三条天皇の味方と考えられていた貴族たちでさえ、三条天皇の退位に同意するようになった。

 これは何も道長の権勢にひれ伏したわけではない。彼らは純粋に天皇としての職務、そして、三条天皇自身の病状を考えて譲位を促したのである。目がほとんど見えないだけでなく、まともに身動きできなくもなっている三条天皇が皇位に留まり続けることによってもたらす損害は軽いものではなかった。国家の存亡に関わる問題と考えるのは、大げさに考える者ではなく、国政を直視する者なのである。

 ところが三条天皇は退位の様子を見せるどころか、なお天皇に留まり続けることを選んだのである。それも、道長を巻き込んでの皇位継続を狙ったのである。

 長和四(一〇一五)年一〇月、藤原道長が息子の頼通の左近衛大将昇格を三条天皇に打診したとき、三条天皇が禔子内親王を頼通のもとに降嫁させようと提案してきたのだ。このとき、藤原頼通二四歳、禔子内親王一三歳、この時代ではごく普通の年齢差である。

 なお、このときの頼通にはすでに隆姫女王という妻がいた。

 名からしてわかる通り、皇族である。ただし、内親王ではない。つまり、皇族でありながら天皇になる資格を持っていない王である。それでも皇族が姓を持つ一庶民のもとに嫁いで来るというのは極めて異例なことである。歴史を遡れば藤原良房が嵯峨天皇の娘を妻としたことがあるが、とのときでも、嵯峨天皇は娘をいったん臣籍降下させてから、つまり姓を持つ庶民にさせてから妻とさせている。そうではなく、皇族が皇族のまま一庶民である藤原頼通と結婚したというのは極めて珍しい。

 それだけでも珍しいのに、三条天皇が降嫁させようというのは内親王である。つまり、天皇になる資格を持つ親王を、姓を持つ一庶民の嫁にしようというのだ。既に妻がいる頼通にもう一人嫁を娶らせるというのは、妻のいた皇太子時代の三条天皇に自分の娘を押しつけ、自身も二人の妻がいた藤原道長に文句を言える筋合いではない。

 その上、隆姫女王と結婚してからこれまで、藤原頼通に子供の生まれる気配は全く無い。この一点を突きつけられるといかに道長でも黙らざるを得なくなる。

 長和四(一〇一五)年一〇月二二日、三条天皇が自らの容態を藤原実資に打ち明けた。完全に目が見えず、足も動かないというのが三条天皇の語る現状であった。実際、内裏復旧に伴う人事発表をこの前日に行なったのだが、本来ならもっと早期に実現しておくべきだったのに、内裏遷移から一ヶ月を経てやっと発表、それも、三条天皇が動けないために准摂政藤原道長が代わりに読み上げるという異例づくしの人事発表であった。

 これを見た誰もが、三条天皇はこれ以上天皇として政務を遂行できないと把握した。道長が前年から退位を薦めているのも、道長の強欲ではなく三条天皇の現状を理解してのものであったと理解した。

 そして、一〇月二七日、三条天皇が道長を准摂政に任命すると発表した。准摂政とは耳慣れない職務であるが、三条天皇が以前から言っていた、三条天皇の体調が悪いときに限定しての摂政である。

 その前日、三条天皇は実資にこう語っている。「皇位を退く決意をしたがすぐに退くわけではない。政務を左大臣(藤原道長)にいったん譲るが、左大臣に非があるなら天の裁きが左大臣に下るであろう」と。ここまで来ても三条天皇はあくまで道長より優位に立つことを考えていたのである。

 三条天皇は天の裁きと言ったが、世間の人は三条天皇の病状のほうが天の裁きであると考えていた。

 その天の裁きは退位を決断しても三条天皇を許すことはなかった。

 また、退位すると三条天皇は決意したが、いつ頃退位するかについては名言にしていなかった。

 長和四(一〇一五)年一一月五日、三条天皇が来年春に退位することを決意した。ただし、何月何日かは明言していない。

 その三条天皇の退位を見守るためもあって、皇后娍子が九日に内裏に戻ってきた。三条天皇の天皇としての最後の日々を過ごすのに、やはり最愛の女性がともにいることの方が相応しいと考えての判断であった。

 道長は以前から中宮妍子と三条天皇との関係について諦めを見せていたようであるが、このタイミングで完全に関係を捨て去り、最後の情けとして最愛の女性とのひとときを用意したのである。

 間もなく迎える終わりに相応しい女性、そして、間もなく遷ることとなる三条院、道長は完全な準備を整え、あとは来年の譲位を待つだけとなっていた、はずであった。

 ところがその内裏での最後のひとときは一一月一七日に突然の終わりを迎えるのである。この日の亥剋(現在の時刻に直すと夜九時から夜一一時)に内裏がまた燃えてしまったのだ。三条天皇が内裏に戻ってからわずか二ヶ月でもう焼けてしまった。

 火災発生源は主殿寮(とのりょう)の内侍所(ないしどころ)。大内裏の中でも一番北にある建物である。この建物から発した炎は風に乗って内裏を包み込んだ。

 この時代の男性は常に烏帽子をはじめとする帽子類をかぶるのがマナーであり、皇族を含め宮中にいる者の場合は、それが冠になる。突然の火災に加え、もともとが身動きできない体調である三条天皇は、冠をかぶらぬ状態で脱出した。この時代の人は、このエピソードをとりあげただけで三条天皇がいかに慌てて脱出したのかわかった。なお、三条天皇が冠を身につけていないのを目の当たりにした敦明親王は、自分がかぶっていた冠を脱いで父に渡している。

 足も不自由になっている三条天皇は、後涼殿の西の馬道口で敦明親王と敦平親王に寄りかかって火災の沈静化を待っていたが、火の勢いは弱まるどころかむしろ強まり、手輿に乗って中和院、次いで桂芳坊、太政官、松下曹司へと避難した。

 父の避難を見届けた敦明親王は、母である皇后娍子を抱きかかえて車に載せ、内裏を脱出して、懐平の邸宅、次いで為任の邸宅に避難した。

 皇太子敦成親王も縫殿寮から太政官朝所に避難し、玄輝門の下で祖父の藤原道長に助けられたのち、藤原道長の邸宅である土御門殿に遷ることとなった。

 内裏が焼け落ちたためどこかを仮の内裏である里内裏としなければならないのであるが、その仮の内裏となれる建物は枇杷殿しかなかった。

 皮肉なことに、枇杷殿は中宮妍子の住まいであった。

 冷え切ってしまった夫婦関係、そして、最後は最愛の女性と一緒にいることを用意されていたのに、今はやむを得ぬ事情で一つ屋根の下に住んでいる。その上、三条天皇はかなりの重病で身動きも困難になっている。

 中宮妍子としては苦しい状況であるが、ここで三条天皇を見捨てるようでは人でなしとするしかない。最後の最後で、中宮妍子は三条天皇ともっとも近しい女性となったのである。

 三条天皇はそれを理解していた。

 そして、中宮妍子に対し和歌を一首贈った。今も百人一首の一つとして残るこの歌である。

  心にもあらでうき世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな
 (思いに反してこのつらい世の中に生きていくなら、そのときにきっと恋しく思うはずだ。この夜半の美しい月よ)

 三条天皇に歌人としての評判はない。歌を詠まなかったわけではないが、名を残す歌を続々と生み出してきたわけでも、和歌をメインとするイベントを催してきたわけでもない。

 それでも、このときのこの歌は評判を呼び、百人一首に選ばれるほどの評価を受けているのは、三条天皇がこれまでどのような苦しい思いをしてきたか、そして、最後の最後に誰と一緒にいたかを知っていたからである。

 三条天皇は退位を覚悟しても、一つだけ希望を寄せているところがあった。娘である禔子内親王が、道長の後継者である藤原頼通に嫁ぎ、道長と三条天皇が結びつくことである。

 ところが、長和四(一〇一五)年一二月にその話が急遽消滅した。

 一二月八日、藤原頼通が急遽高熱を出してうなされた。これは伝染病ではないかという噂が広まったが、高熱を出したのは頼通だけである。

 そして現れた噂が、これは亡き藤原伊周の怨霊であるという伝説である。栄達を目の前にしながら掴むことができず、志半ばで亡くなった藤原伊周の怨霊となると、この時代の人は簡単に信じることとなる。

 それを信じたのが他ならぬ三条天皇であった。

 三条天皇は今まさに自分が視力を失いつつあり足も動かなくなるという難病に冒されている。その三条天皇が怨霊伝説に飛びつくのは簡単であった。

 そしてもう一人、藤原道長その人も伊周の怨霊伝説に飛びついたのだ。もっとも、道長の場合は怨霊伝説を信じたと言うより、以前から乗り気でなかった禔子内親王の降嫁を断る絶好の口実を手にしたと言うべきであろう。

 ただし、皇族に生まれた女性、それも内親王の結婚相手というのはかなり限られている。最低でも皇族、姓を持つ庶民と結婚するのならば妥協に妥協を重ねても大臣の御曹司なら何とか耐えられるという話である。

 そのため、道長は長男の頼通との縁談については断ったものの、五男の教通との縁談を進めている。道長の後継者二番手である藤原教通であれば結婚相手としても妥協できる範囲内であった。

 逝去や突然の辞意表明による天皇交代の場合は何もかもが慌てて進むが、このときの三条天皇のように事前から退位が判明している場合は、人事についてもある程度事前に決まる。特に、皇太子や、新たな蔵人頭の選定について時間を掛けることができる。

 誰を皇太子にするのかについては三条天皇の意見と道長の意見とが一致した。三条天皇の長子である敦明親王である。道長は、敦明親王の素行にいささかの疑問があるが、内裏の火災における対処を見て、いざというときに頼れる人物であると見定めたのである。

 ただし、蔵人頭の選定については三条天皇の意見と道長の意見が最後まで折り合いがつくことなく、決まらないまま年が変わった。

 その代わりに決まったのが、三条天皇の退位する日程である。

 陰陽師に調査させた結果、挙がったのが長和五(一〇一六)年一月二九日に退位するのが最良であるとの回答であり、その回答に従うこととなった。

 三条天皇が退位する長和五(一〇一六)年はこうした中で始まった。

 三条天皇の病気のこともあり、また、退位することも決まっているとあって、宮中に新年を祝う雰囲気はなかった。

 准摂政である藤原道長が天皇の職務を代行し、一月六日からの位階の昇格を告げる叙位の儀も、一二日の新たな役職の発表である除目も、道長が読み上げて対象者が応えるという図式であった。ただし、このときの除目は三条天皇の意向に沿ったものであり、周囲の人は、最後ぐらい三条天皇の思いを実現させたのだろうと話した。その除目の発表の頃、三条天皇は単に眼病だけではなく、激しい腹痛に襲われて身動きできなくなっていた。

 この除目で公表されない役職が当然ながら存在する。

 新たに皇太子になる敦明親王の周囲を固める人員である。

 敦明親王の周囲に就きたがる者が誰もいなかったのだ。敦明親王の側に就くことがこれからの貴族生活に大きなダメージとなることは容易に想像できた。その上、新たに天皇となる敦成親王は九歳、皇太子になる敦明親王は二三歳。敦成親王の次は敦明親王だと言われても、それはいったいいつの時代になるのかという話になる。

 それに、敦明親王がずっと皇太子でいる保証はどこにもない。そもそも素行の悪さを考えると、敦明親王が天皇に相応しいとは思えないのである。

 長和五(一〇一六)年一月一八日、三条天皇から藤原実資に対して東宮大夫への就任要請があったが、すでに高齢であることを理由に実資は拒否。翌日、右大臣藤原顕光を東宮傳(とうぐうのふ)、藤原通任を春宮大夫にするというアイデアが道長から出された。

 皇太子のことを「とうぐう」と言い、「とうぐう」には「東宮」と「春宮」の二種類の書き方があるというのは既に記した。ここで改めてもう一度記すが、「東宮」は皇太子の職務そのものを指すのに対し、「春宮」は皇太子個人を指す。つまり、「東宮」だと皇太子が誰であろうと職務を継続するが、「春宮」だと皇太子が変わると同時に職務を失うこととなる。その代わり、皇太子が天皇に即位した場合、「東宮」は次の皇太子に仕えなおすこととなるが、「春宮」だと新天皇の側近として取り立てられる可能性が高まる。

 一月二六日、藤原道長は自分の息子の誰かが皇太子の周囲に仕えることを拒否。東宮大夫の打診を受けた藤原懐平も拒否。東宮亮の打診を受けた大江景理は「もしその役職に任命されたら京都を抜け出して行方をくらます」とまで言い切って強く拒否した。

 次々と拒否者が現れたために、敦明親王にとっては義父にあたる右大臣藤原顕光一人だけが新たな皇太子の側近を務めることを承諾するという異常事態となった。

 この状況について藤原実資は「位階の高い者も低い者も相次いで辞退している。実に奇怪なことである」と述べている。ちなみに、辞退の第一号はその藤原実資である。

 自分がこのような扱いを受けていることについて、当の敦明親王はどう思っていたのか。それに対する記録は一月二四日の皇后娍子の言葉として残っている。

 皇后娍子は、我が子、すなわち敦明親王が皇太子につくのを拒否し、堀河院に遷りたいと述べているという。ここまで嫌われればさすがに家出の一つもしたくなるであろうが、その知らせを聞いた宮中の反応は、敦明親王以外の皇子を皇太子にしてはどうかという反応しかなかった。

 そしていよいよこの日がやってきた。

 長和五(一〇一六)年一月二九日、三条天皇退位。

 皇太子敦成親王が天皇に就く。後一条天皇の時代の始まりである。

 一条天皇が二五年という長きに渡る在位期間を残したのに対し、三条天皇はわずか四年半という短い期間しか天皇でいられなかった。かつ、その半分近くが眼病に苦しめられて天皇としての職務をまともに遂行できず、道長から退位を打診されるという天皇在位期間である。

 同日、後一条天皇から左大臣藤原道長を摂政とするという命令が下った。未だ元服を迎えておらず、父である一条天皇を亡くしている後一条天皇から見て、実の祖父である藤原道長は最も身近な男性の肉親であり、摂政に相応しい者として藤原道長しかいないのは誰の目にも明かであった。ただし、正式な即位式を迎えているわけではない後一条天皇から摂政に任命されたと言うことは、ほぼ決定ではあるが正式決定なわけではない。

 一月三〇日、摂政藤原道長に摂政の護衛をする人員が配備されたが、その配備を伝えたのは、後一条天皇ではなく、後一条天皇の母后である彰子皇太后であった。これが後一条天皇の権力構造を世間に伝える効果は大きかった。

 二月七日、後一条天皇の即位式が挙行され、この日、正式に摂政藤原道長が誕生した。

 摂関政治の頂点と言われる藤原道長なのに、長徳元(九九五)年五月八日に関白藤原道兼が亡くなってから二〇年八ヶ月に渡って摂政も関白もいない政治体制を藤原道長は維持し、長徳二(九九六)年七月二〇日から一九年半という長期間に渡り、左大臣が議政官のトップに立つという律令本来の統治体制でこの国を維持してきたのである。

 しかも、その終わりは未だ元服を迎えていない後一条天皇の即位に伴う摂政就任というやむを得ぬ事態を迎えたからであり、その統治機構は基本的にこれからも維持されるのである。

 源氏物語の時代と名付けられる時代は、藤原氏の摂関政治がピークを迎えたとされる時代である。しかし、藤原氏の摂関政治のピークであるはずの源氏物語の時代のどこを探しても、摂政も、関白も、太政大臣もいない。圧倒的な権威はあったが、藤原道長はあくまでも左大臣としてこの国を導いていたのである。

 このあと、藤原道長の権勢は頂点を迎え、藤原氏の権勢もまた頂点を迎えることとなる。

 その様子を藤原道長はこう和歌に詠んだ。

  この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

 しかし、まさにこの瞬間から望月は欠けていくのである。

  -源氏物語の時代 完-

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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