欠けたる望月 2.あの和歌

 寛仁元(一〇一七)年四月二八日、三条上皇が危篤状態となった。

 この知らせが飛び込んできたのは現在の時刻にすると午前四時ごろである。

 知らせに慌てた道長は夜が明けぬうちに三条上皇のもとを訪れ、三条上皇の容態が落ち着いたのを見て、日が昇った頃にいったん退出。午前九時頃に再び三条上皇のもとを訪れ、正午ごろに再度退出した。

 道長はすでに覚悟していた。このまま三条上皇の容態が回復することはない。亡くなるのは時間の問題であると。

 これは三条上皇自身も理解していることであった。自分自身の体調の悪化がどのようなものであるかわかっていた。その上で、今の三条上皇ができるただ一つのことを覚悟した。

 翌四月二九日、三条上皇、出家。

 寛仁元(一〇一七)年五月一日からは道長が法華三十講を開始した。三条法皇の病状からの回復を祈るためである。これは家臣が私的に行なえる最大級の祈祷であった。

 皇族の健康回復を祈る祈祷を国家行事として行なうことは珍しくなかった。そのための予算も組まれていたし、それを専門とする役人もいた。それが陰陽師である。

 一方、このときの藤原道長が選んだのは法華三十講。

 この儀式は源氏物語の中にも法華八講として登場するが、やっていることは同じである。一日に一回か二回、法華経の経典のうち一巻を読み上げ、僧侶から経典の解釈を聞き、教義についての問答を行なうというものであり、これはこの時代において、私的に行なえる仏教行事の最高レベルものであった。

 この行事の最中は食事が簡素になる一方、私財の寄付が行なわれる。寄付先は寺院であるが、寺院はこれを寺院の懐に収めるのではなく、寺院を通じて貧しい者を助けるようにしなければならない。こういうところを道長という人は厳しく監視していたし、道長は生涯に何度か法華三十講を開催しているが、その都度、道長から寺院を通じて一般庶民へのプレゼントが贈ってきたので、このときも道長が法華三十講を開催すると聞くと何かしら貰えることを期待して寺院に詰めかけたために、寺院としては道長から貰った以上の出費を覚悟しなければならなかった。

 法華八講だと一日二回として四日間となり、法華三十講だと一日二回でも一五日間となる。一五日でもかなりの出費なのに、藤原道長は法華三十講を一日一回で行なうように、つまり、三〇日間行なうように僧侶に命じた。

 こうなると道長の出費は最大限のものとなる。法華八講から数字を増やすことはあるが、それでも十講が精一杯で、三十講というのは例が少ない。それは、かなりの出費を必要とするからで、いかに有力者であろうとそう簡単にできるものではなかった。そもそも法華八講を開催するだけでもかなりの有力者が私財の大部分を投じないとできないのだ。

 それを三十講としただけでなく、一日一回とすることで出費を倍にすることは、三条法皇への祈りとしてこれ以上ないものであった。繰り返すが、これはあくまでも藤原道長の私財であり、国家予算はいっさい投じていないのである。

 道長の法華三十講開始からしばらく三条法皇は生死の境を彷徨い続け、寛仁元(一〇一七)年五月九日、三条法皇はついに息を引き取った。

 道長はその後も法華三十講を続けさせた。三条天皇の回復を祈っての講であり、その願いが叶わなかったのは事実であるが、それは途中で止めることなど許されないことでもあったのだ。

 ただし、三条法皇の葬送の儀と重なったときはさすがに中断させた。寛仁元(一〇一七)年五月一二日に三条法皇の入棺と葬列があったとき、道長は法華三十講の中断を命じると同時に、僧侶たちにも葬列への参加を命じている。

 その後も法華三十講は続き、終了したのは五月二五日。三〇日間ではなく二五日間、それも、三条法皇の葬儀に伴う中断があるから実際にはもっと短くなることについて、道長は日記に何も記していない。五月二五日に法華三十講が終了したと記しているだけである。

 そして相変わらず政治的なことは何も記していない。唯一政治的な事柄に含まれそうなのが五月一七日の摂政藤原頼通からの相談である。三条法皇の崩御に伴い、予定されていた相撲節会を開催するべきかどうかという相談であり、先例に従えば自粛すべきであるが、開催を望む声も多く、どうすべきかという相談であった。

 道長は、我が子への問いかけではなく、無冠の庶民から摂政への助言として、相撲節会を予定通り、左近衛大将藤原教通を主催者として開催させてはいかがでしょうかと、敬語で返答している。

 ただ、いかに道長が政治的位置から距離を置き、政治のトップは摂政藤原頼通にあると宣言しても、そのまま藤原頼通が絶大な権力を振るえるようになったことを意味しない。

 それどころか、頼通の統治者としての資質を疑わせるような記録まで存在するのである。どうやら、この頃の頼通は他の貴族たちから受け入れられていなかったようなのだ。

 寛仁元(一〇一七)年六月一四日、摂政藤原頼通から道長宛に書状が届けられた。明後日に迫った大極殿での読経に参加する貴族が四人しかいないのでどうしようという相談である。

 その四人が誰なのかは記録に残っていないのでわからない。ただ一つ言えることは、摂政藤原頼通の主催する宮中のイベントだというのに、貴族の参加が四人しかいないという異常事態についてである。

 道長はこのような経験をしたことがなかった。道長がイベントを開催すると発表すれば、わざわざ呼びかけなくとも貴族たちの方から争ってイベントにやって来たのである。

 それが、主催者が藤原頼通になったというだけでこの有り様である。貴族たちが藤原頼通をどう見ていたのか、それだけでわかる。

 頼通に実権はない。頼通にすり寄ったところで官職に巡り合うこともなければ、朝廷内での権勢に優位に働かせる要素にもならない。道長に近寄れば、道長という人はどのような立場であれ実力を公平に判断するから、道長のそばに近寄って実力を発揮すればそれだけで将来が開ける。だが、頼通にそれは期待できない。

 道長は、イベントの日程をずらしたらどうかと返信している。元々一八日を予備日として設けているので、一六日ではなく予備日に開催したらどうかという返信である。

 これに対する返信はない。ただし、イベントの開催具合に関する記録ならば残っている。一八日に開催することを決めたものの、前日である一七日が大雨であり、このままでは開催できないことから二三日に順延。その順延した二三日にあくまでも一人の貴族として藤原道長が参加すると発表があったことから他の貴族も詰めかけることとなり、イベントは成功に終わった。

 なぜこのような事態になったのか。

 藤原頼通という人の人生を振り返ると、頼通には人を惹きつける何かがなかったとしか言いようがないのである。

 リーダーとしての役割は果たしていたが、リーダーになれたのは父が用意した地位にそのまま就いたからであって、実力で登りつめたわけではない。父の用意した地位に就けたのも藤原独裁が完全に固定されていたからであって、律令派との争いが繰り広げられていた頃であれば直ちに失脚していたであろう。

 このようなたとえ話ならばわかりやすいであろう。

 藤原道長と藤原頼通の二人が同じ教室にいる生徒だとした場合、その教室の教師は、間違いなく藤原頼通のほうを評価する。真面目で、教師の言うことをきき、上品で、何より出来がいい。こんな優等生を評価しない教師はいない。ただ、この生徒は、クラスメートから除け者にされている。

 一方の藤原道長は、素行も悪く、出来も悪く、品も悪ければ教師の言うこともきかない。教師にとっては問題児とするしかない生徒である。ただ、人望はあるのだ。クラスメートも、優等生の頼通より、人望のある道長を慕う者が多く、道長が学級委員として君臨していることで、クラスは何の問題もなくやれている。教師もそれは認めている。

 道長は学級委員を辞め、自分の次の学級委員に優等生の藤原頼通を指名した。新しい学級委員になった藤原頼通は何とかしてクラスをまとめようとしているし、頑張ってもいるのだが、クラスの者は言うことを聞かない。クラスは学級崩壊寸前である。

 そこで、前学級委員の藤原道長が、頼通の言うことをきかないクラスメートの見ている前で、率先して新たな学級委員に従う姿を見せる。その姿を見たクラスメートは、そのときだけは新しい学級委員に従う。

 学級委員の藤原道長は、誰が学級委員になっても自分が学級委員であった頃と変わらないクラスになるような仕組みを作ったつもりであったのだが、クラスの誰もが、前学級委員の藤原道長に従うことを前提に動いている。

 藤原頼通の人望の無さの中には、この人の性格も含まれている。

 藤原頼通は父よりもはるかに真面目で優秀である。しかし、父の持っていた要素、つまり、自分と異なる性格の者への寛容を持ち合わせてはいなかった。

 頼通個人が真面目なのはいい。ただ、頼通は自分の真面目さだけを尺度にして人を評価し、真面目でない者を遠ざけてしまっているのだ。その結果、頼通の周辺は常に緊張感が漂い、少しの不真面目さも許さない雰囲気が漂っている。

 道長にそのような雰囲気はない。まず、道長自身が不真面目である。その上、自分に対する悪口だろうといっさい気にしないし、他人が真面目に過ごしていたところでそれについてどうのこうの言わない。他人が真面目であるとき、その真面目さを茶化したりすることもなく、素晴らしい個性だとして認めて干渉していない。

 革命とか改革とかを考える集団の質は、その集団が不真面目をどれだけ許すかにかかっている。真面目を第一に掲げ、笑いすら許さないような集団は存在価値などないし、そのような集団が権力を握ったら、確かに真面目にはなるが、同時に、大量虐殺を生み出す。少しの不真面目も許さない厳密な組織であればあるほど、人の命は軽くなり、いとも簡単に殺されるようになる。

 不真面目は真面目を許すが、真面目は不真面目を許さない。自分自身がこれ以上なく真面目でありながら、他者の不真面目を許す寛容な精神を持つ者などいないのが人間としての本質である。真面目な人は、上に立つ者にとっては都合の良い存在であるが、上に立たれるとこれ以上なく厄介な存在になるのだ。

 このあたりが、藤原頼通の人望の無さにつながる。

 と同時に、花開いた平安文学の萌芽が摘み取られる理由にもつながる。

 摂政藤原頼通は人望が無いが、真面目である。

 真面目な人間というのは、往々にして古いことを守ろうとする。昔からの伝統であるからという理由をすんなりと受け入れるし、なぜそれをするのかという疑問を抱くこともない。このような人間が権力を掴むと、安定する代わりに停滞する。今まで通りに行動することに疑念を抱かないため、今と同じであることはある程度保証されるが、今より良くなることは期待できない。

 先例がマニュアルとして整備されていれば、マニュアル通りに行動できる。それもかなりスムーズに行動できる。一方、マニュアルにないことは右往左往する。

 時間は少し遡るが、寛仁元(一〇一七)年六月、藤原頼通がマニュアルに従うことで見事な結果を見せた出来事が連続して起こった。

 六月一日、亡き円融天皇の皇后であった、太皇太后藤原遵子薨去。

 この知らせを受けた道長は沈黙を保つ。摂政藤原頼通に全てを委ねるためである。頼通は父の期待に応えるべく、太皇太后大夫であった権大納言藤原藤原公任と、太皇太后権大夫であった中納言藤原行成の二人を呼び寄せ、二人の職を解いた。薨去に伴い太皇太后大夫や太皇太后権大夫の職を解くのは当然のことであったが、その手際の良さは周囲をうならせた。

 六月一〇日、病気のため参議を辞任していた平親信が、病状悪化に伴い出家。その二日後に亡くなったときも摂政藤原頼通が中心となって、藤原氏でも源氏でもない子の貴族のための弔意を示させた。

 この頃の藤原道長の記録を見ると、道長が家に籠もって外出していないのが読み取れる。藤原道長という人はいないのだと扱わせるかのように人との接触を断ち、面会する人間の数を徹底的に絞っている。

 息子である藤原頼通との会話も厳密に言えばゼロである。書状のやりとりはあるが、顔を合わせてはいない。

 藤原頼通は、マニュアルにあることなら問題なくできたのだ。

 ただ、真面目なマニュアル人間によくあることだが、マニュアルにない事態には対応できない。

 それを如実に示したのが、寛仁元(一〇一七)年七月二日の出来事である。

 この日は朝から大雨で、道長も日記に京都が海になってしまったようだと記している。

 道長はこの日、法興院に参詣する予定であったが、その道中が完全に水没してしまって通行止めになっており、参詣を取りやめていた。

 というタイミングで摂政藤原頼通から手紙がきた。賀茂斎院こと選子内親王のもとに、この豪雨にまぎれて盗賊が忍び込んできたというのである。盗賊が現れたことは大問題であるが、事件を伝えること自体はおかしなことではない。だが、その手紙の続きに記されていなければならないことが全く記されていなかった。すなわち、盗賊を捕らえたのかも、捕らえられなかったが何らかの対処をしたのかも、全く記されていなかった。

 これは記し忘れたのではない。摂政藤原頼通は何もしなかったのだ。いや、何をしたらよいかわからなくなり、結局は何もできずに終わってしまったのだ。

 これにはさすがに道長も呆れたようであったが、事態は一刻を争うと考え、まずは情報収集にあたった。

 その結果判明したのは、賀茂斎院に盗賊が忍び込んだのは事実であること、賀茂斎院は滝口の武士による警備を求めていること、その求めに対する摂政藤原頼通からの返答が無いことであった。

 道長は頼通に対し、かなり強い口調の文面の手紙を送りつけた。ただちに賀茂斎院の求めに応じて滝口の武士を派遣するようにとの強い要請である。

 唐の衰退により日本国内産の製品のほうが日本国内で価値を持つようになっていた時代は終わり、宋の発展に伴って宋からの輸入品が日本国内で最高級品として扱われる時代になった。

 源氏物語を見ても宋からの輸入品がこの時代の日本に溢れていたことがわかるが、裏を返せば、それだけの輸入品を日本にもたらすことができたということでもある。

 どうしてそれができたのか?

 物々交換で宋の産出する製品を手に入れるのは難しくても、日本には世界に通用する財物があったのだ。それも、その財物の価値は紀元前から存在し続けているばかりか、現在もなお価値ある産品であり続けている。

 それは何かと言うと、黄金。

 黄金は日本国内で産出できる。奈良の大仏の建立の際に日本国内で発見されたのが日本での黄金産出の始まりであり、黄金産出は日本の重要な産業であり続けていた。それも、日本の重要な輸出品であった。

 黄金は国際貿易だけでなく国内でも貨幣として流通していた。ただし、江戸時代の小判のように明確な形となっていたわけではなく、砂金である。そのため、金を数える単位は「~枚」ではなく「~両」。この時代の一両はおよそ三八グラム、五〇〇円硬貨で五枚分ほどの重さである。ただし、金一両は二五〇〇円というわけではなく、現在の感覚で行くとおよそ二〇万円にものぼる。しかも、これが黄金を取り扱う際の最小単位で、それより少ない量での取引はない。

 現在でも二〇万円分の紙幣を常にポケットに忍ばせているような者などそう多くはいないように、この時代も黄金を日常の買い物で使う者はほとんどいなかった。価値あるものだから誰もが欲しがるが、手に入れたところでそう簡単に使えるわけではないので扱いに困るものでもある。

 すると、どうなるか?

 時間は少し遡るが、寛仁元(一〇一七)年五月二七日、藤原道長個人所有の金が盗まれるという事件があった。およそ二〇〇〇両ものの黄金が盗まれたという。これは現在の貨幣価値にすると四億円ほどの被害である。

 大金である。道長もその被害の大きさに動揺を隠せない金額である。

 ただ、盗んだ方もあまりにも大金過ぎて使えなかった。市場に行って黄金を使おうとしても、黄金ではあまりにも高価すぎて売ってくれるものなどない。仮にあったとしても出所不明の黄金など受け取るわけにはいかない。どう考えても一般庶民が手にできるものではないのだ。

 窃盗犯は、黄金を盗むのに成功したはいいが、それでは何も買えないと悟って黄金の取り扱いにかなり悩んだ。

 その結果なのか、七月一〇日、検非違使によって盗賊が逮捕され、盗まれた二〇〇〇両の黄金のうち七〇〇両から八〇〇両の黄金が返ってきた。差分の一〇〇両を大雑把に見積もっているが、その差額は二〇〇〇万円である。それを大雑把に見積もれるぐらいの資産家でないと黄金所有者として相応しくないというところか。

 七月一一日、盗賊の関係者と見なされていた藤原高親が取り調べを受けた。取り調べの最高責任者は摂政藤原頼通である。頼通はその日のうちに取り調べを終え、藤原高親をいったん解放している。

 翌七月一二日、三人の盗賊が逮捕された。前日解放された藤原高親は、犯行の直接の犯人では無かったが、藤原高親の従者が実行犯の一人であった。また、藤原資頼の従者と、源経房の従者の計二名も実行犯であった。主犯はこの三人で、道長の所有する黄金を盗み、藤原高親を通じて売り飛ばしたというのである。

 ちなみに、このときの捜索でちょっとした問題が起こっている。

 寛仁元(一〇一七)年七月一三日、検非違使が紀佐延の邸宅に捜査に入ったことについて抗議した安倍守親に対し、検非違使別当で、道長の次男でもある藤原頼宗が反論。捜査を受けた本人をそっちのけで怒鳴りあいとなっていた。プライベートの場での論争ならばまだしも、論争の場は蔵人所というオフィシャルの場。

 検非違使としてみれば黄金窃盗犯の容疑者宅の捜査であり、それ自体は警察権力としておかしな話ではないのだが、捜査方法がかなり強引だったというので苦情を入れたところ、いまにも殴りかかりそうな展開へと発展してしまったのである。

 藤原道長はこの論争の当事者でもある次男の藤原頼宗に対し、優しい言い方ではあるものの、「二度と父の家に来るな」と言い放っている。

 一条天皇と三条天皇は従兄弟である。後一条天皇は一条天皇の子であり、三条天皇は自らが退位する際に、自分の子である敦明親王が次期天皇に就くことを確約させている。

 その結果、後一条天皇の皇太子は敦明親王となった。一般には天皇の実子の就くことの多い皇太子位であるが、皇太子として求められるのは次期天皇としての責務を果たすことであり、天皇の実子であるかどうかの要件は最重要ではなかった。

 年齢は後一条天皇より敦明親王の方が上である。皇太子に求められる最重要要素が次期天皇としての責務を果たすことなので、天皇より歳上であることは異例ではあるが先例の無いことではない。

 その敦明親王が皇太子を辞めたいと漏らしたことが広まったのが寛仁元(一〇一七)年八月五日のことである。この日、摂政藤原頼通から貴族たちに伝えられたのがそのニュースの始まりであった。

 ただし、敦明親王の辞意を藤原道長はその前日に把握している。

 権力者というのは、何もしなくても情報が飛び込んでくる。ただし、より優れた権力者は情報というものを、ただ入ってくる情報だけに頼ったりはしない。誰よりも早く、誰よりも正確な情報に接しようとするために、自分で情報収集の手段を構築しているものである。

 まして、この時代は京都市内、より正確に言えば内裏とその周辺だけで全ての政務が決まっている時代である。京都市内で皇族や貴族達の動向を掴めばそれで政治家としての情報収集は七割ほど完了となる。こうなると、その程度で済むことをしない方がおかしいとしてもよいほどだ。

 頼通が知ったのは八月五日。そのときは皇太子敦明親王が辞意を漏らしたという話であったが、道長は同日、皇太子の辞意が覆らないものであることを知り、その対策を検討させている。ここでも親子の情報収集の差は大きい。

 八月六日、藤原道長が皇太子敦明親王の求めに応じて姿を見せた。くり返すが、藤原道長は従一位ではあるものの役職は無い。そのため、姿を見せるように求められたときでなければ内裏や皇太子のもとに姿を見せることは許されていない。

 なお、このとき皇太子のもとに姿を見せたのは藤原道長だけではなく、摂政藤原頼通、権中納言兼左近衛大将藤原教通、左衛門督兼権中納言藤原頼宗も一緒である、と書くと朝廷中枢が一堂に会したように見えるが、道長との血縁関係で言うと、長男頼通、次男頼宗、五男教通という組み合わせになる。なので、名目上は道長とその子供達を私的に呼び寄せただけとなる。

 ただ、いかに私的な呼び寄せであろうと、朝廷の中枢が皇太子のもとに足を運んだという事実は変わらない。実際、藤原道長はこのとき子供達と一緒に皇太子のもとを訪問したことを日記に記してはいるが、そこでは子供達と訪問したのではなく、摂政、左近衛大将、左衛門督とともに皇太子のもとを訪問したと記している。

 皇太子敦明親王は藤原道長に対し、皇太子を辞したいことと、皇太子を辞するにあたって左大臣藤原顕光と皇后藤原娍子(三条天皇后)に相談したことの二つを述べた上で、道長の力で皇太子から降ろしてもらえないかと話を持ちかけてきた。

 敦明親王の求めに対し、道長は、摂政を差し置いてそのような話はできないこと、摂政であれば皇太子廃位も可能であることを伝え、摂政藤原頼通だけを残して退出した。

 その後、藤原道長らは内裏となっている一条院に赴き、皇太后藤原彰子に一部始終を伝えた。敦明親王の皇太子辞意の知らせを聞いた皇太后藤原彰子の様子について、道長は日記に「ここに記すべきではない」として言葉を濁らせているが、どうやらこのとき藤原彰子はかなり激怒したようである。

 皇太子を辞した敦明親王の処遇が決まったのは、寛仁元(一〇一七)年八月二五日のこと。このとき、敦明親王に与えられた処遇は異例としか言いようのないものであった。

 その処遇とは、上皇。

 天皇に就いたことがないにも関わらず、敦明親王には小一条院太上天皇という尊号が贈られたのである。

 上皇に等しい処遇は称号だけではない。敦明親王、いや、これからは小一条院と呼ばれる皇族の身の回りを世話する家司も用意された上に、小一条院の子は親王宣下の対象となるとも決まったのだ。

 通常、天皇に就いたことのない皇族の子は、天皇になる資格を有する親王ではなく、皇族ではあっても天皇に就く資格を持たない王に留まるし、臣籍降下で民間人になったとしても、親王からの臣籍降下を示す源姓ではなく、王からの臣籍降下を示す平姓である。

 その通常を破り、親王宣下の権利も、源姓の権利も、そして、上皇に相応しい収入も保証されるという、例外に例外を重ねた破格の待遇が用意されたのだ。

 なぜ小一条院がここまでの破格の待遇を得たのかについて、研究者の間には様々な説が展開されている。三条天皇の退位をめぐる騒動の結果、三条天皇の子として生を受けながら皇位から遠ざけられることとなったことに対する保証であるとする説や、道長が、自分の血を引く敦良親王に皇太子を譲らせる代わりに破格の待遇を用意したとする説などがある。

 ただ、それらの説は大局的な視点が抜けている。この時点の小一条院は、実にわかりやすいシンボルだったのだ。

 何のシンボルか?

 反藤原頼通を束ねるシンボルである。

 藤原行成は自身の日記に小一条院を天皇の器ではないと記している。おそらくその通りであろう。小一条院についての記録を振り返っても、粗暴というか、分別が無いというか、帝王として相応しい要素を欠いているとしか言い様がない。小一条院の皇太子辞任がそもそも自発的なものではなく道長からの圧力によるものだとする説もあるほどで、天皇として相応しいか否かを判断した結果、道長が不合格の烙印とともに皇太子辞任を迫ったとするのも理解できる話なのである。

 ただ、そうなるとシンボルとして実に都合良い存在となってしまうのだ。特に、これから長期政権を担うこととなる藤原頼通に対する反対勢力があったとしたら、頼通の父によって強制的に皇太子を辞任させられた存在以上に担ぎやすいシンボルはない。ここではシンボル自身の有能さ無能さはいっさい関係ない。担げるか担げないかだけが問われる案件である。いや、下手に有能だとシンボルを制御しきれなくなってしまうから、むしろ無能であるほうがありがたい。

 ここで厚遇を与えることは、異例である上に出費も大きい。だが、小一条院を担いでクーデターを起こされるなんてことを考えたならば、厚遇を用意して小一条院を道長と頼通のもとに留めておくほうがはるかにマシである。

 道長はさらに小一条院をシンボルとして担ぎ上げさせない手段を用意した。道長の娘で頼通にとっては妹となる藤原寛子との結婚である。

 ただし、これは問題があった。

 小一条院にはすでに藤原延子という妃がいたのである。しかも、藤原延子の父は左大臣藤原顕光、長年に渡り道長の右腕として道長を支え続けてきた大臣であり、道長が左大臣を辞したあとの議政官を取り仕切っている者である。

 左大臣藤原顕光にとっては寝耳に水の話とするしかない。これまで道長を陰に日向に支え続けてきた自分に対する、あまりにも過酷な仕打ちである。当然ながら左大臣藤原顕光は激怒した。

 もっとも、道長はそれも計算済である。

 藤原顕光は長年にわたって自分を支え続けてくれていた。それは道長も認めるところである。だが、道長のいなくなったあとの議政官を仕切るのは藤原頼通でなければならない。現在の藤原頼通は摂政内大臣であるが、後一条天皇が元服を迎えたら摂政ではなくなる。つまり、大臣職に専念できる。

 そうなったとき、頼通を支える大臣ならば歓迎するが、藤原顕光を見る限りそうは思えない。極論を言えば、藤原頼通に反対する勢力を作り出しかねないのである。しかも、自分の娘を小一条院に嫁がせている。こうなると左大臣藤原顕光と小一条院のつながりは無視できないものとなる。

 道長は藤原顕光を利用してきた。しかし、利用する価値が無くなったら平然と捨てるつもりなのだ。藤原顕光が政界を引退するなら、それまでの恩義を考えて何らかの報償を用意する可能性はある。道長のことだからそれぐらい用意するだろう。だが、引退せずに大臣にとどまり、自身の後継者である藤原頼通に抵抗する勢力になるなら、道長は遠慮しない。

 さすがに現職の左大臣だけあって、藤原顕光の見せる抵抗は大きなものであった。議政官の決議として藤原寛子と小一条院との婚姻を妨害しようとしたし、その決議を公表もした。

 それに対する道長の回答はない。

 摂政として大権を振るえるはずの藤原頼通も、議政官の決議の前には黙り込んでいる。

 かと言って、藤原寛子と小一条院との婚姻が破談になったわけではない。これまでずっと小一条院を支え続けてきた藤原延子に対する世間からの同情の強さを背景に婚姻を先延ばしにすることは成功できても、白紙撤回することはできなかったのである。

 もっとも、すでに藤原延子という妃がいるではないかという理屈は、この時代においては通用しない。名目上は一夫一妻であったが、皇族や貴族は一夫多妻、さらには多夫多妻なのが普通であった時代である。その上、皇族は血統を絶やさないためにも数多くの女性と婚姻関係となることを推奨されていた時代である。ここで小一条院が藤原寛子と結婚することは、当時の感覚では不都合なことではなかったのである。

 その間、藤原道長は娘の婚姻について日記に記録を残していない。無冠の一貴族としての日々を過ごしているかのようである。

 と同時に、左大臣が日記に登場することもなくなる。右大臣藤原公季は何度か日記に登場するし、息子である藤原頼通から政治に関する書状が届いているとも日記に記しているのだから、道長が政界から完全に身を引いたとは言えない。本人がいくら自分は摂政でも大臣でもないと主張しようと、政界の方が道長を手放さないのだ。

 それにも関わらず左大臣藤原顕光についての記録が消えるのだから、これはもう、道長と藤原顕光との対立がもう隠せないものになったということである。

 対立のまま日々が過ぎていたが、結論はとっくに出ていた。

 寛仁元(一〇一七)年一一月二二日、この時代の慣例に従って、小一条院が藤原寛子のもとに婿入りしてきた。ただし、道長はその場にいない。道長にとって義理の息子となる小一条院と顔を合わせないというのは異例とするしかないことだが、左大臣藤原顕光との対立を踏まえると、ここで道長が小一条院を歓待するのは、余計な波風を立てる元凶となってしまう。

 時間は少しさかのぼって寛仁元(一〇一七)年八月二八日、藤原道長は京都を離れ宇治に向かっている。

 と言っても、宇治に何かしらの用事があったわけではない。

 重要なのは京都から離れることであった。

 では、この日の京都に何があったのか?

 この日、京都では摂政藤原頼通による人事発表が行なわれていたのである。道長は京都を離れることで、今回の人事は自分が関わっておらず、全て摂政藤原頼通に基づく人事であることを示そうとしたのである。いや、今回だけではない。これからもずっと、人事権は摂政藤原頼通にあり続けると宣言したのだ。

 頼通からは、人事発表の二日後に、その頃宇治から戻ってきたばかりの藤原道長の元に結果を伝える書状が送られてきただけであった。

 道長はこれを見て、多少の不満はあるものの、時間をかけて経験を積むことで摂政藤原頼通による政権が強固なものになると確信した。

 人事というものは、上に立つ者のなさねばならない宿命である。

 無論、完璧な人事などあるわけがない。現在でも、どうでもいいことで大臣に対して難癖をつけるだけでなく、総理大臣に対する任命責任という名目で攻撃をする勢力がいるように、この時代にも重箱の隅をつついて批判の種を見つけ出し、個人だけでなく、その地位を命じた者、この時代の場合では摂政藤原頼通に対し、その任命責任を突きつける動きはあったのである。

 それでも道長は頼通の人事を評価した。他人を貶すことしか知らない者の叫ぶ任命責任の声などどうでもいいことと切り捨て、その人の能力に応じた地位と役職を用意したという客観的評価を下したのである。そして、上に立つ者として欠かせない人事について、摂政藤原頼通を合格だと評価したのである。

 藤原頼通の役職は摂政兼内大臣である。摂政であることからもわかる通り、後一条天皇は元服していない。

 元服していないのは当然で、何しろ後一条天皇はこの時わずかに九歳なのである。数え年でいっても一〇歳。これではとてもではないが大人として扱うわけにはいかない。

 ところが、このタイミングで問題が露見した。

 やがていつかは後一条天皇の元服がやってくる。

 天皇の元服自体は例のない話ではない。清和天皇と一条天皇という先例がある。だから、後一条天皇の元服の儀もこの二例に従えば良い。

 ただ、この二例ともにその当時は太政大臣がいたのだ。

 皇族の男性が元服するとき、加冠の儀という儀式が行なわれる。これは元服する皇族の髪を冠の中に入れるという儀式なのだが、その儀式で髪を冠の中に入れるのは天皇の役割なのである。

 その、髪を冠の中に入れるべき役割の天皇が、まさに元服しようとしている。これは非常に問題となる。

 過去の二例はどうしたか?

 その二例とも太政大臣が加冠の儀で天皇の髪を冠に入れたのだ。

 先例に従うと太政大臣が後一条天皇の髪を冠に入れるしかない。しかし、今は太政大臣がいない。

 太政大臣になれる者を探すとすると、摂政藤原頼通がもっとも適切になる。内大臣から右大臣や左大臣を経ることなく太政大臣になった例もあるし、すでに摂政である藤原頼通は太政大臣に就く資格もある。

 だが、それは藤原道長の考えた今後の政権運営を根底から覆すこととなるのだ。

 道長の考える政権運営とは、左大臣が議政官を取り仕切り、議政官の議決をそのまま政策とする政権運営である。議政官の議決に対する拒否権を持つ太政大臣や、議政官の議決を無視できる摂政は、可能な限り置くべきではない役職なのだ。

 藤原道長は、そう遠くない未来、藤原頼通が右大臣になり、さらには左大臣になって議政官を取り仕切ることを考えていた。その頼通が右大臣も左大臣も経ることなく太政大臣になってしまっては、政権運営の根底を揺るがすこととなるのだ。

 太政大臣にしろ、摂政にしろ、そこには権力に対する監視の働かない独裁権力がある。議政官がどのような議決をしようと、それを拒否できる太政大臣や、無視できる摂政の存在は、実に簡単に権力の暴走を生み出す。暴走した権力が何を生むかは、この時代の貴族たちの知る範囲の歴史を振り返ってみても、悲劇しか存在しない。ついこの間の花山天皇のように国の経済をメチャクチャにしただけでも深い傷跡を残した出来事であったが、それでも日本国はまだマシだった。海の向こうでは独裁の暴走の末に国が滅びる光景が珍しくなかったのだ。

 絶対的権力者であったはずの藤原道長が、あくまでも左大臣にこだわっただけでなく、いかなる言論だろうと全て認め、自分に逆らう存在であろうと有能と判断すれば相応の役職を用意したのも、自らの独裁を抑えるためである。独裁者になれる権威を持ちながらも、権力においては監視役の支配下に置かれることを選んだ藤原道長は、自分のこの立場を、まずは息子の頼通が、頼通の後は頼通の子らが継承することを考えていた。

 権威はあっても、左大臣までなら議政官においては一票である。左大臣なら、弁論で周囲を納得させることはあるだろうが、権力で他者を従わせることはできない。左大臣が賛成票を投じても、過半数が反対なら、議決は反対。そして、左大臣はその議決に従わねばならない。

 このあたりの感覚は、現在の日本人ならばすんなりと理解できるだろう。内閣総理大臣であろうとも、国会においては一票しか投じることができない。そして、国会の議決が内閣総理大臣の意思と反対の結果になったとしても、内閣総理大臣は国会の決議に従わざるを得ない。実際には衆議院を解散して民意を問うという手段が広く見られるが、理論上は、内閣より国会の方が強い。

 以前も記したが、律令制における左大臣の権力は、現在の内閣総理大臣と匹敵する。アメリカの大統領のように連邦議会の議決に対する拒否権を持っているのが太政大臣に相当するなら、議会制民主主義国における首相に相当するのが左大臣である。

 その矢先に直面した太政大臣問題に対し、藤原道長は、例外的な対応をとることにした。すでに政界を退いたはずの自分を太政大臣にするのである。それも後一条天皇の元服のためだけに。

 道長が太政大臣になることについて文句を言う人もいるであろうが、後一条天皇の加冠の儀のために、政界引退の身ではあるが仕方なく引き受けるとあれば、誰であれ黙り込むしかなくなる。天皇の元服における太政大臣の役割は誰もが知っているし、太政大臣は現時点で空席であることも周知のことである。それに、藤原道長は従一位。位階においても太政大臣となるのに問題はない。

 理論上はどうあれ、感情的には藤原道長の太政大臣就任に納得できない人は多かった。何しろ、太政大臣や摂政の圧倒的権力を否定した政権運営を心がけてきた藤原道長が、まさにその太政大臣に就任しようというのである。

 摂政はまだ理解できる。後一条天皇はまだ幼い。未だ元服を迎えていない幼き天皇が親政にあたるなど考えられない上に、天皇の近親者が私的なつながりによって天皇代理を務めるのが摂政という役職なのだから、後一条天皇の祖父である藤原道長や、伯父である藤原頼通が摂政を務めるのはおかしな話ではないのである。

 だが、太政大臣となるとそうはいかない。ただでさえ権威を持つ藤原道長が、議政官の決議に対する拒否権という権力まで手にするのだ。

 道長は言うだろう。あくまでも後一条天皇元服のためだけに就く特例だと。それに、太政大臣に与えられている拒否権も使用しないつもりでいると。

 理論上はその通りだが、武器を持たないのと、武器を持っていても使わないでいるのとでは意味が違う。卑俗な言い方をすれば脅しが利くか利かないかという違いがある。政界を引退した藤原道長は、権威はあるが権力は持たないというスタンスを崩さなかった。言わば、自ら武装放棄を選んだのだ。武器を持たぬ以上、議政官が道長の意志と異なる決定を下しても、道長は何も言えない。政界引退後の道長は議政官の議決に苦言を呈したことはあっても圧力をかけたことはない。それは道長の自制心によるものであったのだが、周囲の人はそう考えない。武器を持たぬゆえに苦言だけに留まっていると考えたのである。それが今度は太政大臣就任。つまり、議政官の議決を差し戻す権力を手にすることとなったのである。いかに道長が議政官の決議を尊重すると言っても、いつでも決議を差し戻せる権力を持った上での決議尊重の言葉をそうやすやすと信じられるものではない。

 寛仁元(一〇一七)年一一月二七日、後一条天皇から宣旨が下った。藤原道長を自身の元服の儀に備えて太政大臣に任命するという宣旨である。反発を受けるであろう必至のこの件に対し、道長はあくまでも後一条天皇の直接の命令ゆえに従って太政大臣になるというスタンスを崩さなかった。

 それも、通常であれば太政大臣に任命するという宣旨は内裏で天皇が直接下すものであるところなのに、このときの道長は後一条天皇からではなく摂政藤原頼通から宣旨を受けるという体裁を選んだ。さすがに場所は内裏であったが、道長はあくまでも内裏で行われる祭礼に参加したのであり、太政大臣に任命されるために内裏に赴いたのではない。その証拠に、後一条天皇とのアポイントメントをとっていない。つまり、後一条天皇と顔を合わせる機会などないという立場であり続けていたでのある。

 摂政頼通から宣旨を受けた、正確に言えば、後一条天皇の記した宣旨を摂政が代読したのは異例なことであるが、それだけ状況が迫っている上にので仕方なく引き受けるという立場を貫いたのである。

 道長の政権運営を振り返るとこういう疑問も抱かないであろうか?

 道長は律令派なのではないのか、と。

 統治者の役職という点では律令を遵守している。律令制における人臣の最高位は左大臣であり、左大臣が議政官の議長を務め、議政官の決議が上奏されて天皇の名で法令として発布されるというのが律令制の仕組みである。道長はその形に従っていると言える。

 この時点では藤原独裁については全く疑っていないが、それはあくまでも藤原独裁がもっとも効率的な結果を残してきたからで、結果さえ出るならば藤原独裁を捨てても構わないとさえ考えている。自分が権力を掴めたのは自分が藤原氏だからであるし、政権安定のためには議政官の過半数が藤原氏という現状を続けるのがもっとも結果を出すとも考えているが、後のことになるが、この人は藤原頼通の後継者に、藤原氏の血縁関係にあるとは言え源氏である源師房を選んだような人なのだ。

 藤原良房がはじめて律令制否定をしてからおよそ二〇〇年、その間は藤原北家による権力継承が続いていた。そして、藤原氏以外が人臣の最高位者になることもなくなった。

 この藤原独裁について、デメリットに目を向ければきりがない。きりがないデメリットの中でも、能力がなくとも血筋だけで高い地位に就け、圧倒的権力と莫大な資産を手にするという一点だけでもかなり大きなデメリットであり、その点を追及されたら藤原氏の誰もが黙り込むしかなくなる。

 そのデメリットに向かい合ったのが道長であった。自身が左大臣に留まり続けることで、議政官の中の切磋琢磨を課し続けたのだ。いかに圧倒的権威を持つ身であろうとも、左大臣のままでは議政官の一票でしかない。自分の意見を通したければ、裏工作に走ろうと、表立った論戦を挑もうと、何とかして議政官の過半数を獲得しなければならない。

 藤原道長という人は、自身への批判を含む全ての言論の自由を許してきた人である。議政官の中で道長の意見に反論したとしたら、道長の機嫌を悪くするどころか、有能な者だと見込まれてさらなる出世が待っている。これでは道長への阿諛追従も減る。こうなると、議政官の過半数を獲得するというのはなかなか至難の技なのである。

 その至難な技を軽くする方法が藤原独裁だった。

 律令制華やかなりし頃は、藤原氏とて数多くの貴族の一部に過ぎず、どんなに多くとも議政官の三分の一を超えることはなかった。その結果、議論は活発になったが、国論は各人の事情で簡単に三分五裂する羽目になった。

 その当時は、唐、渤海、新羅、そして日本がそれぞれ安定政権を築いており、北東アジアはまだ平和だった。日本は新羅からの侵略さえ対処しておけばそれでよかったほどだった。裏を返せば、その平和があったからこそ、国論の分裂も許されていたのである。

 しかし、新羅が滅び、渤海が滅び、永遠の大帝国と考えられてもいた唐ですら滅んだ。そして、その後の時代が迎えたのは、新たな国が現れてはすぐに滅ぶ五代十国の時代であり、渤海を灰燼に帰した契丹の勃興であり、朝鮮半島の内乱であった。

 いや、国外に目をむけなくても、日本国内には平将門や藤原純友といった内乱があったのだ。藤原独裁はこの国を滅ぼさないために選んだ先人達の知恵の結晶であり、道長もそれは同じ思いで見つめていたのだ。

 議論に議論を重ねた結果を上奏するのが律令の意思だとすれば、道長は律令派と言える。しかし、その議論はあくまでも藤原氏のもので、源氏が一部加われること以外に、その他の貴族は議論に参加することもできない。これは律令の精神と合致しない。

 道長は、摂政や太政大臣といった絶対的独裁者による統治ではなく、議政官で過半数を獲得し続けられるという試練を乗り越え続ける者による統治を続けさせることを考えたのである。それによって、統治者に相応の能力を持たせるようにしたのだ。もし、藤原道長の想定通りに藤原頼通の後継者が源氏である源師房となっていたら、歴史は変わっていただろう。

 寛仁元(一〇一七)年一二月四日、藤原道長が太政大臣に正式に就任した。後一条天皇の元服のためであると全ての人が知っている。元服が終われば太政大臣から降りるとも聞いている。しかし、誰もが認める圧倒的権威者が、無冠であることを捨て、権力においても圧倒的存在になるのだ。何ら法に背くことではないと理屈ではわかっていても、これは特別視せざるを得ない。

 太政大臣就任の儀式は、道長の亡き父である藤原兼家の太政大臣就任の儀式に則って執行された。その詳細は道長自身の日記に記されている

 まず、正午に内裏へ向かう。もっともこのときは内裏再建中のため、仮の内裏となっている一条院へ向かう。その後、正式な昇殿の連絡が来るまで門前で待機し、後一条天皇からの昇殿許可が下りると正式に内裏に入れる。

 内裏に入ると左右の大臣をはじめとする議政官の面々が列をなしており、彼らの前を通って後一条天皇の前に進む。なおこのとき、右大臣藤原公季が道長の前を横切るというミスをしている。道長はこのミスを日記に記載したものの、右大臣に対して直接叱責してはいない。

 後一条天皇の前に進んだ道長は、ここで正式に太政大臣就任を命じられる。太政大臣就任を承った道長はそのあと、後一条天皇の生母である彰子皇太后に感謝の言葉を伝える。彰子皇太后は道長の実の娘であるが、いかに実の父娘の関係であろうと、娘は皇族、父は一般庶民。この関係は断じて対等ではなく、一般庶民である父が、皇族である娘に礼節を尽くさねばならない。

 皇太后に感謝の言葉を伝えた後は皇太子敦良親王の前に進み出て、同様に感謝の言葉を伝える。これで内裏における儀式は終わりであり、道長は直ちに内裏から退出しなければならず、議政官の面々も道長に従って退出しなければならない。道長に従うのは、議政官の決議に対する太政大臣の拒否権を明示するためであり、本来なら摂政藤原頼通は道長に従う必要はなく道長退出後も内裏に残っていなければならないのだが、頼通は内大臣も兼ねているため、ここでは内大臣として道長に従っている。

 その後、二条第に移って太政大臣就任の祝宴がはじまる。もし、紫式部がこの場にいたら人情味あふれる祝宴の様子をこれ以上なく詳しく残してくれていたであろうが、残念ながら道長の日記しか残っていないため、誰が祝宴に出たのかとか、どのような料理が振る舞われたのかという、人間性あふれる祝宴の様子をうかがい知ることはできない。

 寛仁元(一〇一七)年一二月一三日、後一条天皇の元服の儀が、翌年一月三日に開催することが決まった。

 この開催は議政官の決議であり、左大臣藤原顕光からの奏上によって受諾された。

 太政大臣となった藤原道長は、権利として議政官の決議に対する拒否権を有している。ただし、拒否権を持っていることと拒否権を行使することとは違う。それに、道長は自分が太政大臣に就いたのは後一条天皇の元服のためであり、議政官の決議はこれまで通り尊重することを宣言している。

 藤原道長の日記だけではなく、藤原行成の日記にも、元服の儀が翌年一月三日に決まったことについて、左大臣藤原顕光の主催する議政官の会議によって決まったことは記してあっても、藤原道長がその途中にしろ結果にしろなんらかの形で介在したことについては全く記していない。

 その後も、藤原道長がなんらかの形で政治的権利を行使したことに対する記録は見られない。日記に記してあるのも貴族の日常としてのそれであり、太政大臣としての、いや、政治家としてのそれはどこにも見られない。強いて挙げれば、儀式として太政大臣の署名が必要な書類に署名したことぐらいである。

 ただし、情報は欠かさず取得している。一二月二七日に、間も無く迎える後一条天皇の元服の儀の準備の一つとして、内裏内に太政大臣用の椅子が設置されたというところまで掴んでいる。

 上位の地位にある者は、放っておいても情報が手に入る。手に入るが、それを活かすか否かはその人の資質による。道長はその資質が高い。自分への配慮が行なわれていることを知りながら知らぬふりを続けたし、不備があればそれとなく助けを差し伸べている。

 それに、配慮というのは自分が受けることのほかに自分が提供するものもある。道長が掴んだ情報の中に、藤原氏の教育機関である勧学院の若者たちの現状が飛び込んできていた。これから官界や政界に飛ぶこむことになる若者たちは、これから先、藤原頼通の手足となって活躍することを期待されている者たちである。ただ、現状では必ずしも頼通の手足としての活躍を期待できるものではなかった。むしろ反発心が強かったのである。

 反発の理由はわからないでもない。藤原頼通は父の敷いたレールの上に乗って権力を掴んでいる。無能か有能かで言えば有能と言えるが、目を見張るほどの有能さがあるか否かと言われれれば、否という答えが出てくる。能力でいえば自分たちと対して変わらないのに、同じ藤原氏でありながらただ父親に恵まれたという一点だけで権力を掴んでいることへの反発があったのである。

 道長はこうした反発を踏まえ、勧学院の若者たちを招き、自身の太政大臣就任記念として、太政大臣就任後に実施したのと同じ規模の祝宴を開催したのだ。現在で言う飲みニケーションといったところだが、何しろ規模が違う。居酒屋でワイワイやるのと、超一流ホテルを貸し切ってやるのとを同列に考える者などいない。道長は、その超一流ホテルでの貸切ですらみすぼらしく見えるほどの祝宴に勧学院の若者たちを招き、これからも頼通を支え続けてくれるようにと頼み込んだのだ。これで何も感じない者がいるとすれば、それはよほどひねくれた者だけである。

 寛仁二(一〇一八)年一月一日、その日は朝から雨が降っていたが、正午には止み、後一条天皇の小朝拝が執り行われた。太政大臣藤原道長と、摂政藤原頼通とが臨席した。皇室にとっては毎年元日に開催する恒例の行事であるが、藤原氏にとっては藤原氏のトップ交代を明確にイメージづける効果をもたらした。

 元日が公人としての正月なら、一月二日は私人としての正月である。多くの来訪者が道長の元を訪問しており、摂政藤原頼通も、息子が父を訪問するという形で道長の元に足を運んでいる。もっとも、その私人としての正月の中には藤原彰子とその子もいる。道長にとっては娘と孫、頼通にとっては妹と甥であると言っても、皇太后と皇太子である以上、皇族に対する礼節が伴っていなければならない。すなわち、牛車も、服装も、娘や妹に会うための格好ではなく、内裏に参上するための格好でなければならず、いかに父や兄であると言っても、父や兄の元に呼び寄せるのではなく、父や兄が訪問するのでなければならない。

 彰子皇太后にとってはめでたい新年を父や兄と共に過ごせる時間であったが、道長も、頼通も、訪問しただけでさほどの長居はせず、酒を飲むこともなかった。当然だ。翌日に大イベントを控えているのだから。

 寛仁二(一〇一八)年一月三日、後一条天皇の元服の儀が開催された。後一条天皇、このとき一一歳。いくら今よりも若くして大人扱いされる時代であるとは言え、現在の学齢で言うと小学四年生から五年生である。これはかなり異例とするしかない。

 異例とするしかないのだが、当時の人はその若さでの元服をやむ得ないことと誰もが考えていた。これ以上長引かせてしまうと藤原氏の権力継承に支障が出てしまう。それは単なる一氏族による権力の継続ではなく、この国の安定に関わる問題なのだ。この時代の貴族にとって、国が滅ぶということは切実な現実であった。どこの国のどの歴史書を読んでも、国というものは生まれては滅ぶことを書いてある。それらが書いていないのは日本国の歴史書だけだが、それでも平将門や藤原純友といった例がある。国が滅ぶというのは、誇大妄想ではなく現実の脅威であったのだ。

 後一条天皇が元服することは重要事であったが、それよりも道長から頼通へと権力の継承が行なわれることの方がはるかに重要であった。ただし、いくらそれが本音であろうとその本音をベラベラと喋る者はいない。この日はあくまでも後一条天皇の元服がメインであり、太政大臣も摂政もその儀式を彩る飾りに過ぎないのである。

 儀式は摂政藤原頼通と、本来なら天皇が務めるべき加冠役の太政大臣藤原道長がすでにスタンバイしているところから始まる。なお、本来なら頼通の方が先に来ていなければならないだが、このときはトラブルがあったために道長の方が先に着いていた。どのようなトラブルかは記録に残っていないが、道長はそれを聞いてやむを得ないことと扱っている。

 太政大臣藤原道長はこれから後一条天皇の冠ることとなる冠を手にし、摂政藤原頼通は跪いて後一条天皇を待ち続ける。本来ならばその冠を手にできるのは天皇だけであるのだが、元服の儀で、かつ、その元服を迎えるのが天皇その人であるという場面において、儀式開始の直前から実際に加冠するまでの間という極めて限られた時間だけ、太政大臣が手にすることが許されている。

 この状態で後一条天皇の入場を待ち続け、しばらくして後一条天皇が入場し、膝をついたままの摂政が祝詞を読み上げる。祝詞が終わったあとで摂政藤原頼通が後一条天皇の髪を整え、そのあとで太政大臣藤原道長が加冠する。これで正式に後一条天皇は元服したこととなる。

 あとは天皇の元服を祝うための祝宴であるが、その祝宴の中に、貴族にとっては一生を左右する儀式が執り行なわれる者がいる。

 それは、後一条天皇と年齢の近い子弟のいる貴族。

 もともと一月三日は元服の儀が開催されることの多い日であるが、そのタイミングで天皇の元服があると、天皇の元服の儀に合わせて同時に元服を済ませることが多い。藤原行成の息子の藤原行経もその一人で、藤原行成は後一条天皇の元服の様子よりも我が子の元服の様子を事細かに記しているほどである。

 太政大臣として後一条天皇の加冠を務めた道長は、約束通り、その後の政務について何ら権力を発揮していない。右大臣藤原公季や摂政藤原頼通から定期的に手紙で連絡が来て、その返信を送ってはいるものの、その返信のどこにも権力を発揮させるものはない。

 右大臣からは日々の政務が、摂政からは人事についての連絡が届くが、それらは全て事後報告である。サラリーマンが上司によく言われる「報告」「連絡」「相談」、いわゆる「ホウ・レン・ソウ」のうちの連絡も無ければ相談も無かったのである。

 とは言え、道長がこれらの情報と全く接点を持っていなかったわけではない。道長は相変わらず自分で情報を集めており、報告が来たときというのは、道長の手元にある情報が正式なルートでも来たこと、そして、その間に差異がないことを確認できたということであった。

 さらに、世の中の常であるが、不都合な情報を伝えるのをためらうことがある。たとえば、寛仁二(一〇一八)年一月一八日に開催された踏歌節会(とうかのせちえ)でトラブルがあった。儀式の順番を間違えたり、司会進行役が本来の人と違ったりといった、イベント開催に不慣れな者がやりそうなミスが頻発したのだが、この報告は道長の元に届いていない。届いていないが、誰がどのようなミスをしたのかを道長は全て把握しており、その様子を日記に記している。

 こういった道長の情報収集について、情報収集される側はどう感じるであろうか。

 恐ろしく窮屈に感じるのではないだろうか。

 何を言おうと、何をしようと、道長から叱責されることはない。どこかの独裁国家のように批判しただけで命が吹き飛ぶなんてことは断じて無い。それどころか言論の自由を推奨してさえいる。

 ただ、言論の自由に対する責任をゼロとするとまでは言っていない。誰がどのような発言をしようとそれは自由であるが、誰がどのような発言をしたのかは全て太政大臣の手元に記録されているのだ。これはかなり不気味な感覚を受けると言わざるを得ない。

 当時の貴族が日記をつけるのは当たり前のことである。日記はただ単にその日の記録を留めるだけのものではない。この時代の貴族にとっては、子や孫、さらにその子孫に対して自らの経験を伝え、政務に際するマニュアルとなるように意図しているものである。

 道長が道長の子たちのために日記を残していることは誰もが知っていた。ただし、その日記の中身を読むことができるのは本人だけ、極論すれば藤原道長しか読者がいない。公開するのは道長が政界を完全に去って出家するか、道長が死を迎えるのを待つしかない。ゆえに、この時代の人は道長がどのような日記を書いているのかは知らない。知らないが、想像はできる。

 果たしてどこまで言論の自由を許すのか。

 道長がいくら言論の自由を許すと言っても、未来永劫許され続ける保証はどこにもない。いや、普通に考えれば、ある日突然、それまでの自由が失われ、これまでの言論によって処罰されるのではと考えてしまう。実際、それまで道長の忠実な右腕であった左大臣藤原顕光は、今では捨てられてしまった過去の人になってしまっているのだ。左大臣が捨てられたのは言論の結果ではないが、捨てられたという事実は変わらない。

 情報を知る。情報を手にする。情報を活用する。その上で言論の自由を行使する。

 情報が濃ければ濃いほど、そこに責任が伴う。責任の重さと言論の自由とを比較して、責任から逃れるのを選ぶために自ら自由を捨てることは今も昔も変わらない。

 言論の自由を壊すのは、弾圧ではなく、自主規制である。

 

 後一条天皇の元服からちょうど一ヶ月を経た寛仁二(一〇一八)年二月三日、道長は太政大臣を辞職すると発表した。

 太政大臣に就任したのは後一条天皇の元服のためだが、当時の人は果たしてその通りなのかと考えていた。

 太政大臣になったことで絶大な権力を手にした。それをそう簡単に手放すであろうかというのが当時の人の考えであった。

 にも関わらず、道長は後一条天皇の元服からわずか一ヶ月、太政大臣就任から数えても二ヶ月で辞職を表明したのである。

 あまりにも突然の辞意表明に、朝廷内の誰もが動揺を隠せなかった。その結果、道長の辞表は受理されず返却された。

 しかし、道長は二月五日にも辞表を提出。道長は最初の辞意表明の時点で既に自らの意思を京都中に広めていたので、道長が太政大臣を辞めようとしていることを知らない庶民はいないほどであった。

 ただ、朝廷としては困るのだ。太政大臣藤原道長がいるという前提でこれからの政務を予定していたのである。そのタイミングでいきなり辞意を表明されても困るのである。

 道長は、自分が太政大臣に就任する前に戻るだけではないかと考えたが、実情はそうではない。それまで左大臣として国政の全てを担っていた道長がいなくなったことで朝廷内はギリギリの状態にまで落ちてしまったのである。理論上は道長の掲げる「藤原道長がいなくても道長の頃と変わらぬ政務」であったが、実際は、微妙なパワーバランスがいつ崩れるかわからない朝廷内になってしまっていたのである。

 道長が太政大臣になったことで、パワーバランスではなく安定を蘇らせることができるようになったと誰もが考え、これからも道長がいることを前提とした政務に戻そうとしようとしていた矢先の話だったのである。

 寛仁二(一〇一八)年二月九日、藤原道長が三度目となる太政大臣の辞表を提出。藤原道長の太政大臣辞意が覆らないと把握した朝廷はこの辞表を受け入れた。

 これで藤原道長は、実際上はともかく、名目上は政界から完全に引退したこととなった。これで太政大臣のそばに控える秘書やボディーガードも御役御免である。もっとも、従一位という位階は持っているし、何より准三后という皇族に準じるという特権を得ているから、秘書やボディーガードが一人もいなくなったわけではない。太政大臣を辞めたと同時に減ったのはあくまでも太政大臣に対しての人員であって、藤原道長個人の秘書やボディーガードではない。

 しかも、道長はそうした人たちの次の職場を確保しただけでなく、退職金まで払っている。その額、絹二匹。一般的な役人の年収以上の大金であるが、それが、突然の太政大臣辞任に伴う失職への補償であった。秘書やボディーガードとして国から派遣された人たちとは、元々が国家公務員であるため役所で仕事を用意すればそれで解決する話ではあったのだが、この時代はそもそも役人の数が多く、役人としての位階を得ても何の職に就けない者が続出していたため、せっかく手にした太政大臣の近辺という職場をわずか二ヶ月で去らなければならなくなったことへの損害賠償でもあった。

 道長はこれで政界を完全に退いたつもりであった。

 それまでは、いかに無冠の貴族であると言っても従一位という人身最高位を手にしていただけでなく、元左大臣にして元摂政という権威があったし、二ヶ月で終わったとは言え太政大臣も務めてもいた。

 しかし、これからはもう無冠の一民間人である。日本国籍を持っていれば参政権を持つ現在と違い、元太政大臣であると言っても政治に対する発言権を何ら有さない身になったのだ。太政大臣を辞した後の道長の元には摂政藤原頼通からの手紙が届いてきていたが、道長はその手紙に対し、一民間人が摂政に対して返信するというスタイルを崩していない。元太政大臣であることも、いや、実の父であることも匂わせもしない態度で終始したのである。

 と同時に、道長はプライベートの世界に入り込むようになっていった。

 まずは、自分の住まいである。道長は太政大臣を辞めた後、頻繁に自宅の建設状況を視察している。もっとも、道長は何も自分のための大邸宅を建てようとしていたわけではなく、火事で焼け落ちた自分の住まいの再建の具合を把握しに行っているだけである。

 道長の住まいは平安京最東端の土御門殿である。ただし、実質上はともかく名目上の所有者は後一条天皇の生母である藤原彰子であり、道長は娘の住まいに身を寄せる父親というスタイルを崩していない。このときも、自分の住まいの再建が本音ではあっても、建前としては天皇の生母の実家を父である自分が支援しているだけということになっている。

 ちなみに、土御門殿が火事で焼け落ちた後の道長の住まいは決まっていなかった。とは言え、道端で野宿していたわけでも、どこかの空き家に勝手に住み着いたわけでもない。住まいをなくしたと言っても、その日の食べ物に困るような生活をしているわけではないし、いかに火災からの復興支援に全財産を注ぎ込んだと言っても自分の持つ荘園からの収入や国から支給される給与がある。つまり無一文になったわけではない。それどころか太政大臣を辞めるにあたって周囲の者に退職金まで渡している。

 住まいを無くしたがカネならあると言うのなら、現代社会であればホテルがあるからそこに泊まればいいが、この時代にそのようなものはない。律令制が機能していた頃は、全国各地に敷かれた道路沿いに宿場があり、そこには公営の宿泊施設もあったが、それは京都から地方に向かうにあたっての道中の話であり、京都市内の話ではない。つまり京都市内に宿泊施設などそもそもない。強いて挙げれば、国外からの賓客をもてなすための鴻臚館、現在で言う迎賓館があるが、それは国賓のためのもので、いかに日本国内で重要な位置にあった者であろうと泊まることなど許されない。

 では、道長はどこにいたのか?

 京都市内の各地を転々とし、ときには平安京の外にも出て、その日を過ごしている。あちこちの住まいに客人として招かれる日々を過ごしていたのである。

 どこからも呼ばれないときは、まさに工事している途中の土御門殿にまで牛車を向かわせ、建設中の建物の中で一泊してもいる。

 ただし、一箇所だけ確実に足を運んでいない場所がある。

 それは、摂政藤原頼通の住まいである高陽院。

 高陽院は摂政の住まいであり、摂政に仕える一貴族となった自分は、いかに実の父であろうと気軽に足を運べる場所ではない。頼通が父を自宅にいくら招こうと、摂政が政務において高陽院に呼び寄せなければならないシチュエーションでもない限り、道長は牛車を高陽院へ向かわせはしなかった。

 政務から離れ、プライベートに重きを移すようになった道長であるが、一つだけ、絶対に捨てることのない政務があった。

 この国の安定である。

 何度も記しているが、摂政とはあくまでも天皇の近親者が身内として幼き天皇を支える仕組みである。娘や姉妹が天皇と結婚し、その女性が次期天皇を産めば、自分は祖父として、あるいは伯父や叔父として、天皇の身内となって摂政に就ける。

 その天皇の身内となる人間が現在の政治体制を続ける人物であることさえ担保できれば、現在の政権は続くのである。極論すれば藤原氏でなくてもいい。求めているのは現在の政策の継承である。

 政権交代といえば聞こえは良いが、それまでを否定するあまりこれまで続けてきた政治を大きく変えてしまい、変えなくてもいいことを変えてしまっただけでなく、人事に目新しさを求めようとしてそれまで無能ゆえに権力と遠かった者を抜擢する一方、能力の高さから権力を掴んでいた者を排除してしまい、結果、取り返しのつかない大損害を招くのが世の常である。損害を招いても時間とともに回復するならまだ耐えられるかもしれないが、この時代の人たちにとっては、国が滅び戦乱が繰り広げられる、つまり、取り返しにつかない事態となるという現実問題であったのだ。

 それを避けるためにも何とかして現在の体制を続けなければならなかった。不正義だの、腐敗だの、そんな悪評は国家滅亡に比べればどうということはないと割り切ってもいた。道長は言論の自由を許したし、その中には自分自身への容赦ない罵倒もあったが、国が滅ぶことに比べれば悪評など軽いものである。自分がそうした情報を掴んでいることを隠したりはしていなかったから自主規制が働いているとは言え、現在にも残る記録を眺めると、藤原道長という人はよくもまあここまでの悪評を受けても平然としていられたものだと感心してしまうほどである。

 その悪評も、安定と平和の代償であると納得させているから受け入れられているのであり、安定と平和を覆すようなことは断じて許すわけにはいかなかった。現在の仕組みに従えば、藤原氏に生まれさえすればある程度の地位に就ける。しかし、摂政だけは違う。皇族が摂政になるかもしれないし、藤原氏でない貴族が摂政になるかもしれない。道長の作り上げたシステムにおける唯一としても良い穴が摂政なのである。

 この摂政の地位を他に奪われないようにと考え出した結果が、道長の娘と後一条天皇との婚姻である。

 本来ならば頼通の娘を嫁がせたいところではあるのだが、この時点で藤原頼通に娘はいない。娘がいないどころか、この時点で二七歳になっているにも関わらず藤原頼通には子がいない。それが道長の心配事の一つでもあったのだが、子がいないという点では摂関政治の始祖としても良い藤原良房だって子がいなかったのだ。後継者となった藤原基経は、良房の兄であるが長良の子であり、良房は甥を養子に迎え入れて後継者としている以上、政治の継承問題だけに絞れば子がいないことに対する手は打てる。

 手が打てないのは後一条天皇の妃に相応しい女性がいないことの方なのだ。もしここで後一条天皇と藤原氏ではない貴族の娘とが結婚し、子が生まれ、その子が天皇となったら、藤原氏ではない摂政が誕生し、政権の連続性が途切れ、国は混乱を招くこととなる。

 道長が、娘を後一条天皇に嫁がせることにしたのは、この時点で打てる手がそれしかなかったからである。

 またもや娘を天皇に嫁がせることに、世間からは容赦ない悪評が飛び交った。藤原実資は日記に、道長は帝王としてこの世の全てを操っているかのようだとまで書き記している。

 実際はどうあれ、形式的には後一条天皇が藤原道長の娘である藤原威子(ふじわらのたけこ)と結婚したいという意思を示したので、道長は娘の意向を踏まえた上で娘を嫁に出す父となった。甥と叔母、道長視点に立てば孫と娘の結婚ということになるが、道長の娘が天皇の元に嫁ぎすぎていることについての批判はあっても、近い血縁関係にある者の結婚ではないかという批判は存在しない。

 寛仁二(一〇一八)年三月一日に、藤原威子のもとに後一条天皇から手紙が届き、道長は娘の結婚を父として許すと表明。

 三月四日には後一条天皇のもとに嫁ぐ娘の幸せを願って祈祷。

 三月五日に再び後一条天皇から手紙が届き、その旨を中宮藤原妍子と小一条院に報告。

 そして、三月七日に藤原威子が入内。

 当時は一週間という概念などなかったが、まさに一週間で藤原威子が後一条天皇の元に嫁いだのである。

 ただし、この時点の藤原威子の地位は尚侍(ないしのかみ)であり、事実上はともかく名目上は天皇のそばに仕える事務方の女性の一人である。ただ、名目上は事務方の女性、現在の会社の感覚で行くと社長秘書である女性のような役目ではあるが、事実上はこれから天皇の后になろうとする女性のスタートとなる職務であった。そう言えば、かつて藤原薬子が平城天皇のその職を務めたときも、事実上は夫と妻の関係であったとしても、名目上は平城天皇の事務を支える、そして実際に事務を支えてきたという例があった。

 このとき、後一条天皇一一歳。一方、藤原威子二〇歳。九歳差の婚姻であり威子はこの年齢差を恥ずかしがったというが、藤原道長の娘の結婚相手となると相当な男性でなければならない。後一条天皇という結婚相手は、年齢差さえ無視すれば、道長の娘としてこれ以上ない相手なのである。

 この婚姻に対する藤原威子の感想は、この年齢差を恥ずかしがったという一点しかない。当然と言うべきか、道長の日記をどう読んでも、娘の婚姻に対する娘自身の言葉など載っていない。載っているのはどのような手順で娘が入内したかだけであり、道長の日記は後世のマニュアルとして役に立ったであろうが、道長以外の人物の心情を伝える機能は持ち合わせていない。

 藤原威子が入内したとき、内裏は一条院であった。長和四年(一〇一五年)一一月一七日に内裏が焼け落ちてから三年半、内裏の再建工事はまだ完了していなかったからである。

 藤原実資は自身の日記に、藤原道長の邸宅である土御門殿は瞬く間に再建されているのに、内裏の再建工事はなかなか進んでいないことを嘆くように記しているが、これは比べていいものではない。

 そもそも大きさが違う。いくら土御門殿が大きな建物であると言っても敷地面積の半分以上は庭であり、建物そのものだけを見れば内裏の半分もない。その上、建物の複雑さが違う。普通の貴族の住まいを大きくすればそれで充分な土御門殿と違い、日本国の国政を司る建物である。掛けなければならない手間が倍は違う。

 藤原実資は道長のクリエンテスたち、特に清和源氏の面々が争うように土御門殿の再建に協力する一方で、内裏の再建は蔑ろにしていると嘆いているが、いかに藤原氏の天下であろうと内裏再建を私人の寄付で賄おうとするわけにはいかない以上、全て国家予算による再建でなければならないのである。仮にここで私人の寄付を受け付けてしまったら、その私人が執政者としての能力とは無関係に権力を掴めるようになってしまうのだ。

 さらに、再建に時間がかかっていることについての嘆きも、再建工事そのものが失業対策になっていることに着目すると単純には比べられなくなる。これまで三年半もの長きに渡ってきた工事であると言うことは、三年半もの間、平安京に住む失業者に職を与えてきたことを意味するのである。早く再建すればするほど、再建工事によって失業から免れていた人たちが再び失業者へとなってしまうのである。

 三年半というのは、藤原道長が自邸の再建を優先させたために遅くなった結果ではなく、藤原道長の、いや、当時の議政官全体が共通認識としていた経済政策の結果だと考える方が適切であるとするしかない。

 その三年半に渡る内裏再建工事は寛仁二(一〇一八)年四月にはほとんど完了しており、あとは一条院から内裏に遷御すれがいいだけとなっていた。

 内裏遷御は一般人の引越しではない。天皇をはじめとする皇族が揃って遷ること自体が国家行事であり、一大イベントである。そして何より、内裏再建工事に当たった人たちの任務完了を祝う一大祝賀なのである。ゆえに相当な準備期間を要する。

 何しろ、何月何日に遷御するかを決めるだけで四日かかったのだ。それも当時の議政官たちが議論に議論を重ね、先例を照合し、陰陽師たちに吉日を問うた末の結論である。

 寛仁二(一〇一八)年四月二八日、内裏遷御が挙行された。

 後一条天皇の乗った牛車は一条院の西門を出て大内裏に入り、新造内裏に遷った。その際、内裏再建工事に当たった人たちの前を通りすぎた。当時の一般庶民が天皇に拝謁できるのは役人として位階を得ていなければならなかったのだが、工事に当たった者は位階を得ていなくても後一条天皇に拝謁できた。現在のように誰もが皇居一般参賀に足を運べる現在と違い、当時はそれだけでも例外中の例外としても良い特別なことであった。

 位階を得ている役人達、さらに役職の高い貴族たちは、大内裏の中で後一条天皇を迎え入れるために並んでいる。ただし、その中に藤原道長はいなかった。並び順は位階の順番でなければならないのだが、そうなると摂政藤原頼通より位階の高い藤原道長がトップに来てしまう。政界を退いたと宣言している道長にとって、この逆転現象は許されることではなかった。

 この内裏遷御で一条院から新造内裏に遷った者の中には尚侍であった藤原威子もいた。だが、一条院の中では尚侍であった藤原威子も、新造内裏の中では女御である。一条院を出る直前に藤原威子を女御にすると発表されたためで、一条院の中では事務方の女性の一人であった藤原威子が、新造内裏の中では後一条天皇の妻となることが決まったのである。なお、この時点ではまだ後一条天皇の妻になることが決まっている女性という地位であり、正式な婚姻となっているわけではない。

 内裏遷宮が完了し、娘の威子が後一条天皇の女御になったことで、これで今後の安泰が保証されたと考えた道長であるが、道長自身の安泰とは繋がらなかった。

 この頃から道長の体調が目に見えて悪化するようになったのである。道長自身の日記には体調が思わしくないと記しているだけであるが、藤原実資は閏四月一七日に「大殿(=藤原道長)の体調がかなりひどく、苦しみに叫ぶ声が大きく聞こえる。悪霊に祟られているかのようだ」と、五月一九日には「大殿が苦しに叫ぶ声がいっそう激しくなっている」と記録している。

 道長の日記だけを読むと、引退した元政治家が自宅の再建を観察したり、知人と会ったり、私的な付き合いとして内裏に足に運んだりといった様子が記されているだけであるが、それまでは毎日欠かさず日記をつけていた道長なのにこの頃になると日記を記さない日が増えていき、日記に何かを記したとしてもその記事の量が極めて少なくなってきているなど、明らかに以前と違う道長であることが読み取れる。

 道長が太政大臣を退いただけでなく、体調が思わしくなくなってきていることは朝廷にとって想定外の事態であったとするしかない。道長は自分がいなくなった後も自分の頃と変わらぬ政治体制が続くことを想定していたはずなのに、朝廷は道長がいることを想定し続けていたのである。

 ここで道長が居なくなるのが現実の話として見えてくると、待っていたのは決意ではなく混乱であった。

 混乱の最たるものは、いったい誰が軸になるかということであった。制度に従えば左大臣藤原顕光である。道長の忠実な手足となると右大臣藤原公季である。道長の後継者となると内大臣藤原頼通である。普通に考えれば内大臣藤原頼通は左大臣と右大臣の下に位置する役職の者であるのだが、この人は摂政を兼ねているだけでなく、後一条天皇が元服した、つまり、摂政を置く意味がなくなったにも関わらず摂政を辞めずにいる。

 周囲は頼通に対して摂政辞任を促していたのだが、頼通から返ってきたのは内大臣の辞任表明であった。内大臣だと左大臣と右大臣の下に位置することとなるが、摂政だとその二人の上に立つこととなる。役職を手放すとすれば、摂政の方ではなく内大臣の方であると宣言したのだ。

 これは藤原頼通による左大臣藤原顕光と右大臣藤原公季への挑戦状であった。

 摂政に与えられた権限は極めて大きい。何しろ議政官の決議を全否定することも、いや、議政官にかけることなく自らの意思を天皇の意思であるとして国策にすることもできるのである。

 もっとも、それは「できる」であって、「必ずそうしなければならない」というものではない。それどころか、通例として議政官の決議を摂政が覆すことはなかった。ただ、先例がいくら無いと言っても、使われたことがないというだけで権利はあるのだ。

 抜かれてはいない伝家の宝刀を藤原頼通が握り続けている。それも、左大臣や右大臣を無視する宣言までした上で握り続けている。これで満足いく国政が遂行できるであろうか?

 藤原道長の日記を読んでも、この頃の政局の混迷に対して道長がどう考えていたのかを知ることはできない。ただし、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季、摂政内大臣藤原頼通の三人が三人とも病床の道長を利用しようとしてきたことは読み取れる。

 一方、道長の日記だけでは全く読み取れないものがある。

 火災から再建工事中であった土御門殿がひとまずの完成を見せたのが寛仁二(一〇一八)年六月二六日、その翌日には道長が早くも移り住んでいる。ただ、それらの記録は道長の日記のどこを読んでも出てこない。これらの記録は藤原実資の日記に残っている話であり、道長の日記だと七月二日の記録として「先月末の転居以来、病状が良くなく外出できずにいる」と記されているだけである。

 寛仁二(一〇一八)年七月二八日、彰子太皇太后から一つの宣言が出された。藤原威子の立后についてである。藤原威子を早めに立后させるべきとの宣言であり、これは後一条天皇の実母としての強い要請であった。

 ただし、彰子太皇太后が自分の意見として立后を宣言させたとは考えづらい。と言うのも、七月二五日から二七日にかけて開催された相撲節会(すまいのせちえ)で道長と彰子太皇太后は並んで観覧しているのである。名目上は後一条天皇の実母とその実父とが並んで座っているだけであっても、そのような名目は信じられるものではなかった。

 藤原威子の立后の宣言に対し、道長は何の働きも見せていない。宣言は太皇太后にして後一条天皇の実母である女性が、あくまでも我が子のことを思っての宣言であるとしており、そのどこにも道長の存在を匂わせる言葉は無かった。無かったが、誰もが道長の存在を把握できていた。

 陰陽師を呼び寄せて吉日を問い合わせ、立后の日取りを決めさせた。一〇月一六日がその答えである。

 土御門殿は平安京の高級住宅地に区分されるエリアにある。だが、高級住宅地の真ん中ではなく最も東の端にあり、道一本挟んだ東は平安京とその外とを分ける塀、そして、塀の向こうに広がるのは庶民の住宅地である。

 内裏と自宅を往復するだけの貴族にとっては、土御門殿が日常生活の中に入り込んでいるわけではない。特別な用事でもない限り土御門殿のことを意識することはないのが貴族である。

 一方、平安京の一般庶民にとっては目の前にある大豪邸である。その上、その大豪邸に住んでいるのは、火災で住まいを無くした自分たちのために私財を投げ打って、自分たちのための住まいと食事、それに当面の就職口まで用意してくれた恩人である。

 その結果どうなったか?

 再建された土御門殿が一大観光名所になったのだ。

 平安時代の貴族の住まいの復元図や復元模型には、建物の中の人物として貴族社会の男女だけが描かれているが、それは間違っている。当時の絵巻物を見ても、この時代の貴族の建物というのは一般庶民が普通に出入りできるようになっているし、そもそも一般庶民が庭に入ってくることを前提とした作りになっている。ただし、全てのエリアに立ち入りが認められているわけではなく、許されているエリアとそうでないエリアの区分けぐらいはある。

 現在の都市は地域住民のための公園があるのが普通だが、平安京のどこを見ても公園などない。平安京を一歩出れば外には自然が広がっているから自然を満喫したかったら平安京の外に出ればいいし、そうしたレジャーもあったのだが、それより身近な公園であったのが貴族の邸宅の庭だったのである。

 そして、いかに多くの庶民を自宅に呼び寄せることができるかが貴族としてのステータスでもあった。

 ステータスの最も低いのは、庶民を受け付けず厳しい態度で排他的になる邸宅。当然ながらそのような邸宅の貴族は庶民からの人気が低く、徹底的に貶される。庶民の一人である作者の実感する限り、庶民というのは庶民に厳しい態度をとる権力者をバカにする。恐れるのではない。バカにする。

 ならばどんな庶民でもウェルカムという態度でいればいいかと言われると、そうでもない。歓迎しても、退屈きわまりない庭だとすぐに愛想を尽かされる。そしてケチだという評判が立つ。綺麗な花が咲いている、珍しい食べ物や飲み物が用意されているといった要素がないと庶民はリピーターにならないのである。

 道長はそのあたりが完璧であった。

 まず、土御門殿の建物そのものが美しい。思わず見とれてしまう。余程のことがない限り庶民には入ることなど許されない新造内裏は土御門殿よりはるかに美しいという評判だが、手の届かない美しさより手の届く美しさの方がより親しみを感じるものである。

 さらに、庭を彩る花が退屈させない。昨日と同じ花が咲いているわけではなく、いつ行っても今までと違う花が咲いている。完成間もなくということもあってこの時期はまだ咲いていないが、噂によると桜の咲きぶりは平安京のどこよりも見事なものになるという。

 そして、毎日というわけではないが、頻繁に音楽が聴こえる。忘れてはならないのは、現在のようにいつでも気軽に音楽が聴ける時代ではないということ。音楽の演奏が耳に届くというだけでも特別なことであった。

 そして最後が、食べ物。道長は様々な菓子を用意し頻繁に振舞っていた。砂糖より甘味の乏しい甘味料である甘葛(あまづら)ですら庶民の年収を全部つぎ込んでも手が届かないという時代において、甘味のある菓子を用意できるというのは想像の遥か上をいく歓待であった。

 立后の手順については、道長がその日記に詳しく書き記してくれているので、現在でもどのような手順であったのか容易に追うことができる。もっとも日記は道長個人の日常も混ざっているので、全部が全部、立后のための手順と言うわけではない。でなければ、風邪をひいた藤原威子のために、道長が自分も飲んでいる風邪薬を届けたことも、立后の一ヶ月前には新たに中宮となる女性の父が娘のために薬を渡すという儀式をするという手順になってしまう。

 確実に立后のための手順と言い切れるのは、寛仁二(一〇一八) 年一〇月五日、藤原威子が土御門殿に移ったところからである。女御として入内していても、立后が決まったらいったん父の元に戻り、立后の日まで父の元にいることが儀礼であった。

 土御門殿に戻った藤原威子のもとに、その日のうちに後一条天皇の派遣した使者がやってくる。使者と言っても大納言以下総勢一三名の貴族たちであり、道長は彼らを歓待している。

 後一条天皇からは翌日の一〇月六日にも使者が派遣されている。この日の使者の人数について、道長は十数名と記しているのみであり詳細な人数はわからない。ただし、その全員が貴族であることは前日と同じであり、この全員を道長は昨日と同様に歓待している。

 後一条天皇からの三度目の使者がやってきたのは一〇月九日。この日者の使者に対しては歓待していない。というより歓待など許されるはずなかった。と言うのも、前二回の使者派遣は貴族たちが遣わされたことからもわかるとおり、儀礼的なものであって実質的には立后に対する祝賀の宴がメインであったのに対し、今回の使者は蔵人の平範国一人であり、平範国は後一条天皇からの連絡を伝えた後でただちに内裏に戻っているのである。

 寛仁二(一〇一八)年一〇月一六日、藤原威子立后の儀。

 まず、この日の早朝、摂政藤原頼通が土御門殿に派遣された。いかに実の妹であろうと、ここでは天皇の后になる女性と天皇に仕える一家臣である。天皇の家臣の中で唯一、後一条天皇の代理を務めることのできる摂政だからこそこの場への派遣に相応しかった。

 道長としても、実の子との対面ではあっても、ここでは天皇の代理である摂政として接しなければならない。もっとも道長は、摂政を頼通に譲ったときからこれまで一貫して、自分は摂政の下に位置する何ら役職を持たない一庶民であるという態度で通している。つまり、いつも通りの態度であればそれで問題なかった。

 藤原威子が内裏に向かったのは正午すぎである。内裏の入り口の門では、本来ならば左大臣が新たに天皇の后となる女性を迎え入れなければならないところであるが、高齢によるのか左大臣藤原顕光の姿はそこにはなく、右大臣藤原公季が左大臣代理を務めていた。というところで遅れてきた左大臣が到着した。失態であろうと儀礼は儀礼。左大臣藤原顕光は右大臣から役職を受け継いだ。

 左大臣の手によって内裏の門が開き、内裏に入った藤原威子は貴族たちの居並ぶ中を通して中央に進み出る。

 全員が揃った中で、後一条天皇からの宣命が読み上げられる。

 この瞬間、藤原威子は皇族の一員となり、中宮威子が誕生した。

 同日、藤原道長は土御門殿に居続けた。何度も記しているが、この時の藤原道長に公的な役職はない。その上、嫁を出す父親であることが求められている。つまり、娘と一緒に内裏に向かうのではなく、娘の居なくなった邸宅で娘の居なくなった寂しさを噛みしめている父親でなければならなかったのである。

 ただ、名目上は娘が嫁に行ったことに苦悩する父親であっても、実際には娘を皇族にさせることに成功した父親であり、かなりの可能性で天皇の祖父になることが予期される存在になったということである。

 すでに実力者である者が、これからも実力者であり続けることが確定したと知り、人はどのような反応を示すか。

 これもまた藤原道長は自らの日記に書き記している。

 まず、摂政藤原頼通が土御門殿を訪問してきた。一応は嫁に行った妹のことを父と一緒に心配する兄というスタイルであったが、そのような名目上のスタイルを信じる者などいない。

 次いで、中宮大夫に任命された藤原斉信、中宮権大夫に任命された藤原能信、中宮亮に任命された橘則隆の三人が土御門殿に姿を見せた。これから先、中宮藤原威子の事務を支えることになる三人が、中宮の実父の元に挨拶に来たと言えばそれまでだが、無論、本音はそこではない。

 その後も貴族たちが次々と道長の元に顔を見せにきた。誰もが名目は同じで、娘の結婚という祝賀を祝うためであるが、本音はこのタイミングで藤原道長との接点をつかもうというものである。

 このような祝賀行事のときに貴族が続々と詰めかけるのは当たり前のことであったようで、道長はかなり前からこの日の貴族たちの訪問に備えて準備をしている。摂政藤原頼通をはじめとする土御門殿を訪問した貴族たちもそのことを見越していて、最初からこの日は家に帰らないと、つまり、道長の元で朝まで飲み明かすことを宣言して家を出て土御門殿に向かっている。

 この日の夜の祝賀こそ、現在の我々が藤原道長と聞いて真っ先に思い浮かべるあの場面である。

 道長は自身の日記に、祝宴の中で和歌を詠み、祝宴に参加した貴族たちが自分の詠んだ和歌を詠唱したとしか記していないが、祝宴に参加した貴族の一人である藤原実資がそのときの和歌を書き記してくれている。

 この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることの無しと思えば

 なぜ道長がこの和歌を詠んだのかの理由は簡単で、この祝宴に参加した者がみんな何かしらの和歌を詠んだのである。道長が詠んだのも単に自分の順番が来たからにすぎず、それも前持って用意していたのではなく、いざ歌を詠むことになったときに、たまたま目についた満月、つまり望月を入れた歌を即興で作っただけのことである。

 ただ、道長のこの歌を聞いた者は驚きを隠せなかった。尊大すぎるのだ。

 道長は自分の順番を終えたし、その歌の意味するところに気づいてもいない。娘がこれ以上ない相手に元に嫁いだ父親としての幸せを歌にしただけであるが、素直に歌の文章だけを読むと、この社会の全ては自分のもので、その様子はなんら欠けていない満月のようだという和歌になる。

 藤原実資はこれ以上の和歌を作れないとして、その代わりにここにいるみんなで道長の詠んだ和歌を唱えようと提案。貴族たちは藤原実資の提案に賛成して、歌を作ることを止めて道長の詠んだ歌を皆で唱えた。

 ここにいる誰もが、藤原道長の権勢は既に揺るぎなく、道長の詠んだように完璧に見えた。

 だが、満ちた月は日々欠けていくのと同様に、藤原道長の権勢も、いや、藤原氏全体の権勢が、この日から少しずつ欠けていくのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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