欠けたる望月 3.刀伊の入寇

 藤原道長の詠んだ和歌が話題になったという記録はない。現在の我々が道長の詠んだ和歌を知ることができるのは藤原実資の日記に記されているからであるが、その続きを見ても、ただ単に詠んだというだけで、それが話題になったという記録はない。

 平安時代に流行歌がなかったわけではない。遣唐使派遣を批判する目的で小野篁が詠んだ「西道謡」は承和五(八三八)年の大ヒットソングになったし、小野篁はこの批判の歌を作ったせいで隠岐に追放されたのだが、その道中で作った「謫行吟」は「西道謡」を超える大ヒットを巻き起こしたという歴史もある。

 ましてや、この時代の和歌は現在のヒットソングであると同時に、Eメールであり、SNSであり、メディアである。誰がどこでどのような和歌を詠んだかはただちに広まり、その出来栄えが素晴らしければ賞賛を、できがひどければ容赦ない罵倒を受けるものである。その上、藤原道長という人は全ての言論の自由を認めてきた人である。

 自尊すぎる「この世をば〜」の和歌に対し、残っている記録は元からして道長批判を隠さなかった藤原実資だけであるというのは、当時の人は道長のこの和歌に何ら関心を抱かず、ただ、道長批判を隠さなかった藤原実資だけが噛みついたという図式であろうとするしかない。

 現在でも政治家の失言に噛み付くのは、対立する政党の面々と、その政治家と対立するスタンスのメディアだけであることを考えると、道長の和歌もその程度のものであったとすべきであろう。

 もっとも、リアルタイムではその程度のものというレベルで済んだが、時代を重ねるにつれその程度という概念では済まない話になってくる。

 恵まれた境遇にある者は、自分の恵まれた境遇に気づかない。気付くのは終わった後である。

 それが誰の目にもわかる一瞬での転落であれば、その一瞬さえなければと悔やむこととなる。だが、誰も気づくことなく徐々に進行する転落であるとき、悔やむことはできない。気がつけば転落しているだけでなく、転落の渦中にあっても自分が今まさに転落の渦中にあることに気づかない。転落の渦中であると気づいたときは手遅れ。転落を食い止めることも、転落から逃れることもできなくなっている。

 なぜか?

 転落の原因と成功の理由とが同一なのだ。何らかの悪意が働いて転落に向かって行ったのではない。成功を手にするためにしていることが転落の原因であると気づかないどころか、転落しているのは転落の原因の遂行が足りないからだとさえ考えてしまうのだ。

 およそ二〇〇年続いた藤原独裁の転落は、藤原氏が独裁を手にするために成してきたことが理由で始まる。そして、それが転落の原因であると気づいた者はいない。

 藤原道長が娘を後一条天皇に嫁がせた。それはこれまでの藤原氏の実施してきた政策をそっくりそのまま遂行したに過ぎない。しかも、そこには国外で見られたような国家滅亡を食い止めるという、誰にも文句のつけどころのない理由が存在する。

 しかし、藤原氏が二〇〇年に渡って皇室と婚姻関係を築いてきた過程で、藤原氏ではない多くの者が排除されてきた。いや、排除されたのは藤原氏以外の者だけではない。藤原氏の内部でもまた排除があった。当初は藤原北家がその他の藤原氏を、次に藤原忠平の子孫がそれ以外の藤原北家を排除し続けてきたのである。

 この結果、数多くの貴族が、藤原氏の本流ではないという理由だけで中央政界で出世から遠ざけられ、ある者は下位職に甘んじ、ある者は地方に活路を見出した。

 それはいつ噴火してもおかしくない噴火直前の火山であった。ただ、見た目は噴火など想定もできない山であった。今までも噴火しなかったのだからこれからも噴火しないだろうと誰もが考えていたのである。

 自然現象としての噴火は人間の手でどうにかできるものではない。しかし、人間社会の織り成した結果としての噴火は人間の手で強引に押さえつけることができる。その押さえつけに成功してきたのが藤原道長である。より正確に言えば藤原道長の持つ強大な権力である。政治だけでなく、経済においても、軍事においても、藤原道長の持つ権力は絶対である。不満の爆発としての噴火は、噴火させることで不満を解消することを目的としている。噴火した後に待っているのが噴火させる前よりも悲惨な境遇だと理解しているのに、好き好んで噴火させるものなどいない。まだ噴火させずに我慢している方がはるかにマシである。

 だが、噴火させたほうがマシだと考えたらどうなるか?

 藤原道長は自身の権力の全てを後継者である藤原頼通に譲ったと確信していた。唯一渡せなかったのが軍事力であったが、渡せていないことに気づいていた者はいなかった。藤原頼通が左近衛大将の地位から降りたことは知っていたが、その地位を受けついたのが弟の藤原教通であり、兄弟が協力しあうという藤原良房の洗礼に従えば特に問題を感じさせるものではなかった。藤原道長個人とつながっている清和源氏の武士たちも、道長の後継者である摂政藤原頼通と、制度上の軍事力のトップである左近衛大将藤原教通の二人に忠誠を誓っている。清和源氏が従えば、他の武士たちも従わざるを得ない。実際、この時点で、目に見える形でなんらかの行動を起こした武士はいない。ただし、目み見えない形となると話は変わる。

 不満を噴火させないための方法はいくつかある。

 まず、庶民からすれば恵まれている地位に見えても、本人は現時点で恵まれない境遇にあると考えている者がいる。実務をこなせど出世できずにいる役人や、国司の地位を巡る争いを繰り広げる位階の低い貴族たちである。このような者を懐柔させるのはさほど難しくない。出世に対する希望を抱かせれば良いのである。

 無論、無条件で出世させるわけではない。彼らが望んでいるのは現時点で同位にある者よりも上に立つことであって、自分と同位の者と一緒に出世することではない。それに、道長のはじめた位階のインフレ抑制によって、かつてであれば出世できているはずの成果を挙げてきた者であっても、今や出世することなく留め置かれることが普通になってきていて、それは誰もが、本心からではないにしても納得はしていることである。

 インフレ抑制を諦めれば位階だけならどうにかなるが、役職を伴った出世はどうにもならない。そのような役職の空席などないのである。これもまた本心からではないにしても納得はしていることである。

 道長が選んだのは祝宴である。寛仁二(一〇一八)年一〇月一七日から二二日にかけて、道長は土御門殿でたびたび祝宴を開催している。それも、上位の貴族ではなく、下位の貴族や、これから貴族になろうとしている役人たちを招いての祝宴である。

 これは、道長と個人的なコネクションを作れるということを意味した。この時代の人事権はいかに摂政藤原頼通が握っていることになっていようと、そして、藤原道長がいかに政界を引退した身であると振る舞おうと、道長ほどの権威があれば自分の気に入った者をその者の望む地位に就けさせることなど造作もない。

 彼らが願っているのは自分の特別扱いであって、全体が平等に結果を得ることではない。ここで道長主催の祝宴に顔を出し、道長に自分のことを覚えてもらうのば、彼らの不満を大きく減らす効果があった。

 次に採用したのが、役人への道を用意することである。

 日本国に科挙がなかったというのは事実ではない。科挙という名称ではないにしても、生まれの身分に関係なく、試験に受かれば役人になれるという道は存在していた。存在はしていたが軽視されるようになっており、気がつけば試験による役人任官後の出世が厳しくなっていたというのがこの時代である。

 それでも、細々としたものではあったが試験による役人任官は存在していた。ここが科挙と大きく違うところであるが、科挙は学校に通うことが形骸化し試験での一発勝負に重きが置かれるようになっていたのに対し、平安時代の日本では、まず学校に通い、学校の成績が良くなければ試験を受ける資格が与えられなかったのである。

 中国の、と言ってもこの時代から八〇〇年もあとの清代の科挙についての史料を読むと、試験に臨む者が学校に通わず、学校に通ったとしても誰も教師の言うことを聞かずにいることを嘆く記録が読み取れる。と言うのも、科挙における学校というのは、もともとは科挙を受ける資格を得るには学校に通う身分でなければならないというところからスタートしたものであり、学校に入るための試験がそのまま科挙という試験システムの中に組み込まれているものの、重要なのは受験資格そのものであって学校に通うことではないというリアリズムがあったからである。それに、学校の教師の地位も見逃すことのできない要素である。科挙のシステムにおける学校の教師というのは、科挙でドロップアウトした者、つまり、試験を受けて役人になることを諦めた者が就く職業であり、これから試験を受けて役人になろうとしている者にとっては、「ああはなりたくない」と感じさせる存在であったのだ。

 一方、平安時代の学校はどうか。制度としては、それぞれの律令国に学校があり、その上の存在として京都に一校だけ大学、当時の名称だと「大學寮」があり、その大学に通う学生になってはじめて、役人になる可能性が生じる。あくまでも可能性であって、必ずなれるわけではない。必ず役人になれるわけではないことは科挙と同じだが、入学さえすれば受験資格が得られる科挙と違い、平安時代の大学では大学内での成績が良くなければそもそも試験を受ける資格が得られない。ゆえに、大学をないがしろにするなどということはありえない。それに、大学の教師は、五位以上の位階を持つ立派な貴族である。これからまさに試験を受けて役人になろうとしている者にとっては、これ以上ない人生の目標なのだ。さらに言えば、大学で教鞭をとる者がさらに出世した場合、自分の教え子を自分の部下として抜擢することなど珍しくもない。これで教師をないがしろにする者など現れるはずない。仮に現れたとしたら、それはよほどのヒネクレ者である。

 ただし、役人になる方法は学校に通い試験を受けることだけではない。有力者の弟や子であれば、無試験で役人になれる。藤原氏は、大学に匹敵する教育機関である「勧学院」を設置し、藤原氏の若者に役人として必要な素養を必ず学ばせていたし、その教育内容は大学に匹敵、時代によっては大学以上に厳しいものがあり、大学を出て試験を受けて役人になった者よりも勧学院で学んだのちに役人になったものの方が有能だという評判が立ちもしたが、それでも役人になる手順としては有力者の弟や子であるという点に基づくものである。

 これは藤原氏に限ったことではなく、今となってはその他大勢の氏族になってしまっている橘氏や清原氏も同様の教育機関を持ち、有力者の子弟であることを利用して無試験で役人にさせている。さらに、源氏や平氏はもともと皇族から分かれ出た氏族であり、藤原氏以上により簡単に役人になれるようになっている。

 試験を受けて役人になる者より、血筋を利用して役人になる者の方が多くなった上に、役人の絶対数が増えてもポジションの数は増えていないとなると、役人になったあとの競争はより熾烈なものとなる。

 その上、時代は藤原独裁。藤原氏でなければ、それも藤原道長に近い血筋でなければ上位の貴族になれない。ならばそれより低い地位で満足しようと自分で自分に言い聞かせても、そこにいるのは高い地位に就けなかった藤原氏をはじめとする有力氏族や、自分よりもはるかに良い成績で試験に合格した先輩たち。こうなると真面目に学校に通い、真面目に試験を受けた者は、これから先の未来の乏しさに絶望してしまう。

 その絶望を覆す方法が一つだけあった。

 菅原道真が合格したことでも有名な「方略試」に合格することである。この試験に合格すれば、他の試験と違って役人としてかなり高い地位から役人人生をスタートできる。結果次第ではいきなり五位以上の位階を獲得していきなり貴族になることもできる。

 ただし、受験資格は厳しい。大学は明法道(法学部)、明経道(哲学部)、算道(理学部)、紀伝道(文学部)の四学部から構成されいるが、紀伝道以外の三学部は一〇〇名以上の学生がいることもあったのに、紀伝道だけは二〇名と定員が決まっている。この二〇名のことを「文章生(もんじょうせい)」といい、この時代、学生(当時の読みがなは「がくしょう」)といえばこの「文章生」のことを指していた。他の学部の学生は卒業して試験に受からないと役人となれないのに対し、文章生になるとそれだけで位階を獲得できるほどに特権を得ていた

 文章生はあまりに定員が少なすぎるとしてさらに二〇名が追加されて紀伝道で学んでいたが、紀伝道の学生としてカウントされるのは本来の二〇名だけである。追加された二〇名は「擬文章生」と呼ばれ、文章生と違うとして差別されていた。この差別を跳ね返す方法はただ一つ、試験に合格して文章生になることである。文章生はみな、擬文章生として明からさまな待遇の違いを目の当たりにしながら、その屈辱を乗り越えて試験に挑み、合格した者ばかりである。

 方略試を受けることができるのは、文章生の二〇名の中から特別に選ばれた二名だけである。これだけでも充分に厳しい関門に見えるが、この方略試というものは、合格者が出るのが三年に一度あるかないかという難しさであった。菅原道真が二六歳でこの試験に合格したのが感嘆の目で見られたのは、若くても三〇代で合格できるかどうかという試験だからであり、だからこそ現在でも学問の神様と扱われているのである。

 なお、方略試に合格しなくても、方略試を受けたことがあるというだけで役人としてなかなかの地位に就けたし、方略試を受ける資格を獲得していなくても文章生であったというだけでそれなりの地位には就けた。就けたが、やはり合格した者とは大きな差がつけられる。後輩の受ける試験に試験官として派遣されたとしても、方略試の合格者は試験問題を作る役目を請け負ったのに対し、そうでない者は試験会場の設営や答案用紙の配布といった試験における雑用を命じられる。

 大学に通う若者たちにとって、この試験がいかに大切かを知らない貴族はいなかった。裏を返せば、試験実施そのものが人心掌握の方法として利用できるのである。

 寛仁二(一〇一八)年一〇月二二日から、これらの試験を実施した。まず、一〇月二二日は、擬文章生に対して試験が開催された。これに合格すれば文章生になれるのだが、後一条天皇と左大臣藤原顕光が見ている前で試験を受けなければならないだけでなく、出題者が左大臣で、その問題文を後一条天皇が目の前で認可して出題している。試験にリラックスできるようにと音楽が奏でられる中での試験であったが、天皇に見つめられ、左大臣が見回る中の試験はただならぬ緊張であったろう。なお、試験終了後、擬文章生たちは議政官の面々とともに祝宴に参加したことは記録に残っているが、この試験の結果についての記録は残っていない。

 一〇月二八日、今度は文章生に向けての試験である。この試験に後一条天皇は臨席していないが、左大臣藤原顕光は試験官として出席している。

 この試験の結果については記録が残っている。と言うのも、この試験の採点において一悶着あったからである。

 この試験で合格したのは紀重文、不合格となったのは源頼成。

 ところが、源頼成からクレームが寄せられた。

 試験問題と各人の答案は公表されている。ゆえに、合格者がどのような回答をし、不合格者がどのような回答をしているかも明らかになっている。

 源頼成が不合格となったのは、「無」と記すべきところを「不」と記したからである。それで減点となり、結果として不合格になった。これについては文句を言っていない。源頼成が文句を言ったのは、合格した紀重文の答案の中に、本来なら入っていなければならない「無」の字と「改」の字が入っていなかったことである。

 これが大問題となった。

 文章生の試験の答案をチェックするのは役人たちであるが、ただの役人ではない。ほぼ全員がこの試験を受けた者である。中には方略試に合格した者もいる。そうした者たちがチェックをし、さらに左大臣がチェックした上で結果を公表しているのだが、そこでミスがあったとなるとチェック体制そのものの責任が問われるのである。

 議論百出の末、寛仁二(一〇一八)年一一月四日、紀重文の合格を取り消すことが決まった。紀重文としてはやっと手にした将来の地位を奪われたこととなる。その悔しさは計り知れないものがあったろう。

 寛仁二(一〇一八)年一一月の初頭から、道長の体調に明らかな異変が登場してくる。モノが見づらくなってきたのだ。

 現在では糖尿病によるものと考えられているが、この時代に糖尿病という病名はない。病名はないが、長兄の道隆が同じ病で亡くなり、同じ病ではないにせよ三条天皇が目を理由として退位する結果を迎えているとあっては、道長の目についても悪い予感しか感じさせない。いくら道長が生涯に何度も病気を体験した身であると言っても、

 無論、前二者と道長とは立場が違う。繰り返し記すが道長は政界を引退した身なのだ。つまり、今ここで病状が悪化したとしても、既に引退している以上、政務に支障は出ない。理論上は。

 ただ、いくら政務に支障が出ないと言っても、誰もが認める第一人者の病状悪化、それも、実兄が命を落としたのと同じ病状とあっては、平然としていられなくなる。

 この頃の道長の日記に見えるのは、個人としてどのようなことをしたのかという記録と、朝廷に呼ばれて何をしたのかという記録だけであり、自発的に国政に関する何かをしたという記録は見えなくなる。残された他の記録から見ても、この時代の国政は道長のもとを離れ、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季、摂政内大臣藤原頼通の三人が運営したことが読み取れ、次第に道長不在の政権運営をするようになってきたことが明らかとなっている。

 ただ、一人として道長をいないものとして扱っている者はいない。何かあったら道長が直ちに動き出すという前提で政権運営をしているのである。一見すると三本足のテーブルだが、見えないところで巨大な柱が支えているテーブルを思い浮かべていただきたい。三人の大臣たちは見かけ上の三本の足、道長は見えない大黒柱なのである。その大黒柱が倒れそうなのだ。見かけ上は三本足で支えているように見えても、三人が三人とも大黒柱を利用している、いや、テーブルの上に乗る日本国そのものが大黒柱に頼りきっているのである。ここで大黒柱が倒れたら日本国に関わる問題になってしまう。

 とは言え、この時代に道長の目を治す治療法などない。そもそも糖尿病という病名すらない。道長が頼ったのはこの時代の多くの人と同様、加持祈祷であった。日記には何月何日に祈祷をしてもらったという記録が頻繁に登場する。ただし、それで病状が回復してきたという記録はない。

 道長の体調悪化でにわかに脚光を浴びたのが、摂政藤原頼通の次の世代である。

 藤原頼通このとき二七歳。妻は村上天皇第七皇子である具平親王の長女である隆姫女王。かつて藤原良房が嵯峨天皇の娘と結婚した時は大騒ぎになっただけでなく、皇族が民間人のもとに嫁ぐわけにはいかないと、臣籍降下させて源氏とした上で嫁がせたが、そのような時代は終わり、今は藤原氏の中でもトップクラスであれば皇族の女性と結婚することが珍しくなくなっている。かの藤原道長の後継者ともなれば、ましてや現役の摂政となれば、皇族の女性を妻としていてもおかしくない。ただし、天皇の娘という例はさすがに少なく、規制が緩くなったとは言え、天皇の孫ならば許されるというところまでである。

 摂政の妻としてはこれ以上無い身分の女性であったが、この隆姫女王がこの時点でもなお子を産んでいなかったことが問題になった。かといって、相手は現役の皇族。そう簡単に次の女性と結婚するなど許される話ではない。

 皇族を妻とする藤原氏のトップでありながら子宝に恵まれなかった先例はある。それも、最初の例がまさにそれである。藤原良房は臣籍降下の結果、源氏となり、源潔姫と呼ばれることとなった女性を妻とし生涯の伴侶としたが、源潔姫は女児を一人産んだのみで男児は一人も産むことなかった。当時の常識に従えば子を産まない女性は捨てられる運命にあるものであるが、藤原良房は常識のほうを断固拒否し、生涯、源潔姫一人を愛し続け、妻を亡くしてからも再婚せずにいた。藤原良房の生涯をどれだけ調べても、源潔姫以外の女性との恋愛は全く出てこないのである。そして、後継者である男児のいない良房は、兄である長良の息子の基経を養子に迎え入れて後継者とした。

 この先例がある以上、頼通が隆姫女王を捨てないことは、後継者についての問題があろうと、誉められる先例を踏襲していることとなるのである。

 とは言え、子がいないのは事実である。

 おそらく、隆姫女王自身が、妊娠できずにいることをかなり悩み抜いていたのであろう。寛仁二(一〇一八)年一二月、ある決断をした。

 寛仁二(一〇一八)年一二月一七日、二〇歳の若さで病死した敦康親王の長女である嫄子女王を養子として迎え入れることとしたのである。なお、隆姫女王は、生後間もなく父を亡くした弟の万寿宮を受け入れており、後に藤原頼通の養子とさせているが、この時点の万寿宮はまだ藤原頼通の養子ではなく、姉と同居している弟という形をとっている。

 いかに藤原頼通が摂政であろうと、たかが民間人が皇族を養子にするなど許される話ではないが、忘れてはならないのは隆姫女王がまだ皇族であり続けていることである。皇族の女性が、父を失った皇族の女児を養子として迎え入れるのは許される話であった。

 ただし、ここでややこしい手順を踏んでいる。まず、嫄子女王はいったん臣籍降下した上で藤原氏の養子となっている。本来、内親王ならば源氏、ただの王ならば平氏として臣籍降下することとなるのだが、嫄子女王はまだ内親王宣下を受けていない。つまり、従来の手順に従えば平氏としての臣籍降下の対象となるのだが、嫄子女王が内親王宣下を受けていないのはこのときまだ二歳という幼さゆえであり、血筋は内親王宣下を受けないほうがおかしい高さである。そのため、源氏として臣籍降下していったん源嫄子となったのち、藤原頼通の養子となって藤原嫄子となるという手順であった。

 このまま男児を産まなかったとしても、弟たちの誰か、特に頼通と母を同じくする左近衛大将藤原教通のもとに男児が生まれたら、その男児を頼通の養子にして後継者にすれば良いとの考えもあった。この判断は後の後継者問題を混迷に導くきっかけになるのだが、この時点においてはそれが最良の決断だと考えられていた。

 道長を襲ったのは視力の悪さだけではなかった。

 年が明けた寛仁三(一〇一九)年一月から、道長の日記は自らの身体の苦痛を訴える記述ばかりになってくる。

 それでも貴族としての新年の儀式には律儀に顔を出し、摂政藤原頼通の訪問を迎え入れてもいる。なお、自分にはすでに人事権がないとし、頼通の提案した新年を迎えての人事刷新について何ら意見をしていない。ただし、左大臣藤原顕光と右大臣藤原公季の両名がともに不在であるのでどのようにすべきかという相談については、頼通に対し、摂政としてではなく内大臣として議政官を動かすようにとの返答はしている。制度上、内大臣に議政官の議事進行権はなく、このような場合は大納言に議事進行権が委ねられるため、この時の返答も内大臣として大納言に働きかけて議事を進めるようにとの返答になっている。摂政としての大権ではなく、左右の大臣の下に位置する内大臣としての行動を求めたのは、道長自身が築き上げた統治システムに由来する。

 道長は、体調が悪化しても起き上がってはいられたが、一月一〇日に激しい胸痛を訴えてからは身動きができなくなってきた。本来ならば外出する用事があったのだが、それらは全てキャンセルとなった。表向きは凶事なので外出できないということにしていたが、誰の目にも道長の体調が外出を許さないまでになっていることがみてとれた。

 それでも自宅である土御門殿の中での儀式にはなんとか参加したが、ほとんど目が見えなくなっており、二尺から三尺、現在の単位にして六〇センチから九〇センチ離れるとその人の顔も判別できなくなっていた。文章を書かなければならないので筆を手にしたが、書き上げたものはもはや文字ではなくなっていた。

 多くの人は道長の症状がかなり悪化していることを理解した。

 病に苦しむ藤原道長の姿は周囲から痛々しく感じさせるものであった。

 目の前に差し出された文書をなんとか読むことはできるが、顔を判別するのは困難、文字を書くのもありえないほど顔を近づけてどうにか記すというスタイルでなければならず、書いているところを誰にも見られなくてもいい日記についてはどうにかなるものの、公の場で筆をとることはもうできなくなっていた。

 ある者は善意から、またある者はコネの確立から道長の病に効く治療法を伝えてきた。道長の食生活を知った僧侶や医師からは、魚肉を食べるようにとのアドバイスも出た。道長はここ数ヶ月、今で言うベジタリアンの食生活をしていたと自らの日記に記している。動物性タンパクを全く摂取していないことからくる栄養の偏りは、現代人だけではなく、当時の人にとっても明白であった。ただ、この時代のタブーに引っかからない動物性タンパクの魚肉であっても肉食をすることにはかなり抵抗があったようで、寛仁三(一〇一九)年二月六日の日記には、肉食をしなければならない間、法華経を写経することにしたと記している。

 ただ、それで病状が回復したわけではない。視力が著しく悪化してきたのに加え、胸の痛みも激しくなり、ついには貴族としての日常の政務をこなすのもできなくなってきた。政界を引退した身ではあるため大臣や摂政としての職務は求められないが、貴族である以上、貴族としての職務は求められる。その職務を、道長は病気を理由に欠席するようになってきた。

 道長はこれまで何度も病に倒れたが、病床でのリモートコントロールで国政を操り、少しの間を置けば必ず復帰してきた。ところが、今回は病気を理由にした欠席である。道長は、本人は姿を見せなくても情報だけは掴んでいたのだが、今はもうそれすら見られない。

 道長は日記に何も記していないが、藤原実資は、道長がこの頃はげしい胸の痛みを訴え続けていること、出家を覚悟しているようであることを書き記している。

 栄花物語によると、寛仁三(一〇一九)年三月一七日に出家を決意し、同二一日に出家したという。ただし、道長の日記には出家についての記載はない。それ以前に、三月一七日以後の日記そのものがない。道長の日記の次の記述は八月二六日であり、それも、皇太子敦良親王の元服に関する記述である。つまり、かなり重要なことだから日記に残したのだが、その文章量は明らかに少なく、必要最小限のことしか書いていない。

 道長が病気に苦しんでいるという情報、そして、太政大臣を辞したという情報は、国外にも伝わった。

 それも、良くない意味を伴って伝わった。

 日本の国家元首は後一条天皇であるが、政治と軍事を司っているのは藤原道長だということは国外でも知られていた。その藤原道長が病気になって政界を引退したということは、軍事を司る者が引退したことを意味する。

 道長が軍事を司ることが国外の勢力にとって脅威であった。道長の命令一つで日本の軍事力が総動員されるのである。このような者がいるような国は容易に侵略できない。侵略されるような国は軍事の指揮系統が成立していない国であることが多い一方、侵略を許さないような国は政治のもとに軍事があり、その指揮系統が一本化されている。この時代の日本の場合、政治のトップに君臨する藤原道長が軍事の指揮権も握っており、政治の一側面として軍の指揮をできると考えられたのである。

 その道長がいなくなった。これは、政治の断絶だけでなく、軍事の指揮権の空白を意味した。これは侵略する側にとって絶好のチャンスであった。

 平和というのは、戦争をしないと宣言すれば手に入るものではなく、力づくで戦争をさせないと宣告して初めて手に入るものである。

 戦争をさせないという宣告のことを軍事力という。

 軍事力を表明し、仮に侵略されるようなことがあったら容赦なく立ち向かうと宣告する者は平和を享受できる。それをせずに平和を享受できた例は無い。

 容赦なく立ち向かうという姿は侵略する側にとって脅威でしかない。侵略する側は、自分の行動に正義を見出し、悪である敵を成敗するために敵地に乗り込むのだと訴える。そこに話し合いの余地はない。いや、最初から侵略目的であればまだ話し合いの余地があるのだが、侵略ではなく正義に基づく復讐であると結論付けられると話し合いの余地が無くなり、簡単に暴走する。

 しかし、話し合いの余地が無い状態であっても、殴り合いで勝てるかどうかとなると話は別である。侵略しようとしても返り討ちにあうとわかっていたら、侵略する者などいない。いるとすればそれは余程の無能者か自殺志願者だけである。

 この時代の東アジアに、無能で自殺志願者である侵略者はいなかったが、侵略者自体がいなかったわけではない。

 その侵略者とはどのような者であったか?

 その前に、この時代の東アジアに目を向けてみなければならない。なぜならば、このときの東アジアの情勢がこの侵略者を生んだのだから。

 まず中国大陸に目を向けると、宋と契丹とが中国大陸を南北に二分して対立していた。ただし、状況は契丹に有利であった。契丹の軍事力の前に宋が降伏し、宋は契丹に毎年、現在の貨幣価値に直して五〇〇億円もの年貢を支払い続けることを条件に平和を維持していたのである。

 北の契丹とは年貢の支払いで平和を確立した宋であるが、南のベトナムとは特に負担なし平和になっていた。一〇〇九年にベトナムの新たな王となった李太祖によって緊張状態が解け、一〇一〇年に長らく続いていた戦闘状態が終わりを迎え平和が実現していたのである。李太祖は宋の冊封を受けることで平和を実現させると同時に、ベトナムの刑法を改め、長く続いていた戦闘によって疲弊していたベトナムの生活を復活させた。なお、ベトナムのハノイの歴史はこの時代より四〇〇年ほど前から始まるが、この李太祖によって首都と定められたことから大きく発展することとなったという歴史を持っている。

 平和を享受していた宋と対をなすように、新たな爆弾を背負ってしまっていたのが契丹である。

 契丹の支配下にあった高麗の問題が噴出していたのだ。

 一〇一〇年からはじまった契丹からの侵略は、一〇一一年一月に高麗の降伏によって終結。高麗の首都である開城は灰になった。

 その後、契丹の占領を経て、契丹の衛星国となっていた高麗であったが、次第に契丹を捨てて宋へと接近するようになっていた。契丹の占領下での暮らしの悪化が原因である。高麗にとってその悪化を脱する方法は一つしかない。宋と接近することである。

 宋にとっては降って湧いたような朗報であった。南方の平和が実現し、包囲網が北と東のみとなっていた宋は、複数方面相手に軍事力を展開する必要がなくなり経済力の向上へとつなげていた。宋人の生活水準は目に見えて向上し、宋の一般庶民の暮らしぶりを目の当たりにした高麗人は、国土をボロボロにした契丹を憎しみの対象と、宋を憧れの対象と見るようになっていた。

 この状況があれば契丹と高麗の結びつきは簡単に崩れる。包囲網の一部を形成している高麗が契丹を捨て自分たちの側につくというのだ。敵が減るだけでなく、逆に宋のほうが契丹を包囲する形を築け、契丹に大ダメージを与えることとなるこの知らせに対し、宋は援助を約束した。

 一方、契丹にとっては、年貢を受け取ってはいたものの宋に対する軍備配置は維持し続けなければならなかったところに加え、一度は完全に征圧した朝鮮半島がまた敵になってしまうことを意味する。これは看過できるものではない。

 一〇一六年、高麗が宋の冊封を受け入れることを宣言し、宋の援助の元で軍備拡張を進めると公表。これに対し、契丹は再度高麗を征圧するために軍勢を派遣。結果、三年にわたる契丹と高麗との全面戦争が始まった。

 しかも、国境を挟んでにらみ合っての戦争である。

 これは国境付近に住む人たちにとって大災害とするしかない。

 史料によると二〇万人もの兵士が国境を挟んで向かい合ったというのだから、国境付近の荒廃は想像に難くない。

 その上、この国境付近に住む人は、高麗人でも契丹人でもなかったのである。

 これが問題になった。

 現在のハバロフスクからウラジオストクにかけての一帯は、この当時、女真族の住む土地であった。

 女真族は契丹に服従している民族であったが、契丹に服従するまではたびたび契丹相手にゲリラ活動を繰り広げていた民族でもある。

 まず、そもそも土地が貧しい。農作物など期待できない。森の狩猟生活で生きていける人数などたかが知れているが、人口はそのたかが知れている人数を超えている。

 かつて渤海国があった頃は交易によって生活できていた。例えば毛皮は渤海国の重要な輸出品であったが、その中の一部は女真族からもたらされたものである。日本の貴族は渤海国から輸入された毛皮を愛用していた一方、日本からは穀物や布製品などがもたらされていたが、その取引の延長上には女真族もいた。その貿易は日本との関係にとどまらず、当時隆盛を極めていた唐との間でも広く行われていたし、渤海を経由しない直接の交易として、日本海を超えた樺太や北海道のアイヌとの交易もあった。だが、唐が滅んで五代十国の時代となり、渤海国が滅亡して契丹となったとき、交易は途絶え、貧しい生活へと舞い戻ってしまった。アイヌとの交易は残っていたが、それは彼らの生活を満たす水準ではなかった。

 女真族は生き残るために契丹相手に盗賊集団を送り込んでは奪い去る暮らしをするようになり、その対策として女真族を力尽くで封じ込めたのだが、封じ込められては生活ができなくなる。

 それでも契丹の武力が有効である間は黙り込んでいたが、高麗との戦争によって契丹の武力が弱まり、女真族への締め付けが弱まった。その上、高麗と戦争を繰り広げているのは自分たちの土地である。

 これでおとなしくしていたとしたらその方がおかしい。

 かといって、戦闘を繰り広げている戦場に突っ込んでいくわけはない。

 彼らが狙ったは海の向こうであった。

 まず、日本海に沿って南西に行き、高麗の日本海沿岸を襲撃。契丹との戦争で軍事力の大半を北の国境に向けている高麗にとって、海の向こうからやってくる海賊はどうこうできるものではなかった。

 この時点で女真族は日本も狙っていたのである。襲いかかり奪い去るなら、貧しい高麗より豊かな日本のほうがはるかに得られる成果は大きかった。しかも、正式には成立しなかったとは言え、契丹は日本に対し宋を包囲するための同盟を持ちかけてきたこともある。自分たちを侵略した契丹の同盟国となれば、復讐のための襲撃という絶好の口実も手にできる。

 だが、ターゲットとすべき日本には藤原道長をトップとする軍事の指揮系統がある。その上、これまで新羅からの海賊をことごとく駆逐してきた歴史がある。

 死ぬために侵略するのではない。生きるために侵略するのである。

 道長がいる日本に侵略するのは無謀なことと考えていた。

 道長がいなくなったという知らせがいつ届いたのかはわからないが、道長の政界引退の情報はかなり前から女真族のもとに届いていたのであろう。その後の行動を見ても、行き当たりばったりではなく、綿密な計画が練られた末に日本へと向かう軍勢を組織したものであったとするしかない。

 女真族の住む地から日本へと向かうには日本海を渡ればいいのだが、それは船を自由自在に操る航海能力を必要とする。その能力は簡単に身につくものではなく、海に慣れ親しむ伝統があり、かつ、漁をするなり交易をするなりといった、海に出る生活をしなければ身につかない。生活の苦しさから海に出て侵略しようとしている民族が、海に出て生活できる技術を身につけているわけがない。

 ゆえに、日本へと渡るには陸地に沿っての航海でなければならない。陸沿いであれば、航海技術が未熟でもどうにかなるからである。そう考えると、日本へ渡る方法は二種類に絞られる。樺太を経て北海道に渡り本州に向かう方法と、朝鮮半島沿いに南下して九州へ渡る方法である。

 このうちの、樺太と北海道を経由する方法については文献資料が残っていないので不明であるが、おそらく襲撃したであろうことは、この時代の北海道の集落跡の変化によって読み取れる。この時代の頃から、それまでの簡易的な塀から、堅牢な防御施設を備える集落へと変化してきたのである。

 一方、朝鮮半島経由ははっきりと資料が残っている。

 記録に残る女真族の最初の襲撃は一〇〇五年の高麗の日本海沿岸への襲撃の記録である。ただし、この時点では単発の海賊襲撃であった。

 本格的な襲撃が始まるのは一〇一八年のことである。既に高麗と契丹の戦争は八年目を迎えており、契丹も、高麗も、そして居住地が戦場となっている女真族も疲弊しきっていた。その女真族が大規模な海賊となって高麗に襲撃し、ターゲットは高麗の日本海沿岸だけでなく鬱陵島にも広がり、このときの襲撃で鬱陵島にあった于山国が滅亡してしまったほどであった。

 この時点ではまだ道長が太政大臣として君臨していたため女真族も行動を躊躇していたが、準備は整っていた。その上、道長が政治の表舞台を去っていると言ってもいい状態であることを女真族は把握しており、そう遠くない未来に道長が完全に政治の表舞台から去ること、すなわち、軍事の総指揮権が道長の手から離れることは確実視されていた。

 道長が太政大臣を辞したのは寛仁二(一〇一八)年二月九日。もっとも、太政大臣を辞したと言ってもなお政界における最高権力者であり続けているという認識を女真族は持っており、この時点ではまだ行動を起こしていない。また、朝鮮半島沿いに南下すると言っても朝鮮半島の日本海沿岸の地域が女真族の海賊の元に簡単に降伏したわけではない以上、朝鮮半島経由で日本へと侵略の船を差し向けることは困難であった。

 だが、寛仁三(一〇一九)年になると動きが変わる。まず、道長が病気になったという知らせが女真族の元に届いた。その上、女真族によって攻め込まれた高麗沿岸部の人の中には、高麗に留まるより女真族の軍勢に加わって生き延びることを選ぶ者も多かった。この結果、女真族の軍勢でありながら、実際には女真族と高麗人の混成部隊となった。高麗人も高麗に対して攻撃を仕掛けるのには躊躇するが、日本に対しての攻撃であれば躊躇はしない。何しろ日本は敵国なのだ。

 こうなればただちに行動開始である。その行動に拍車がかかったのが道長の出家の知らせである。この時代の情報伝達のスピードを考えると、どう考えても女真族が道長の出家を知っていたわけはないのだが、もしかしたら道長が出家するという噂は先行して広まっていたのかも知れない。と言うのも、道長の出家後の生活は、突然の思いつきで始めたのではなく、周到に準備を重ねた末に始まったものだからである。病気の末に迎えた出家とは、死を覚悟した者の選択であることが普通。つまり、道長は間もなく死を迎えるというのが女真族の判断であった。

 襲撃する側は綿密な計画の結果であったが、喰らう側にとってのこの襲撃は全く予期せぬものであった。契丹と高麗が戦争をしていることは知っていたし、その間に位置する女真族の存在も知られてはいたのだが、その女真族が襲撃してくるという考えは誰も抱いていなかったのだ。

 それどころか、この時代の日本人は女真族が高麗の日本海沿岸の各地を襲撃していることを知らなかった可能性もある。こに時代の日本は、宋との交易はあったが正式な国交はなく、高麗に至ってはまともな交易もない。あるのは朝鮮半島からの海賊の侵略が過去にあったという記録だけである。要は無関心から来る無知であったのだ。

 それでも沿岸警備というものはある。ただ、それは昔からの儀礼的なものであって、危機に備えてのものではなく、このときの襲撃で役に立つものではなかった。

 日本は完全な不意打ちを喰らったのである。

 道長が出家してからわずか七日後の寛仁三年(一〇一九)年三月二八日、およそ五〇隻の船団からなる侵略軍が対馬に襲いかかってきた。無論、道長が出家したことはまだ知られていなかったはずであるが、出家を覚悟するような状況にあることは知っていたはずである。だからこそこのタイミングで襲いかかってきたのだ。

 軍船の大きさから一隻あたり六〇名ほどの侵略軍の兵士が乗っていたと考えられているから、襲撃してきた人数はおよそ三〇〇〇名ほどである。この三〇〇〇名の部隊はそれまで乗ってきた船の単位ではなく、船とは関係ない単位にまとめられた部隊であった。また、女真族も高麗人も混ざった部隊であった。軍勢の中では女真族であるか高麗人であるかなど関係なく、ただその役割だけが求められた。

 侵略軍は一〇〇名単位で一つの部隊を構成し、先陣が二〇名から三〇名いて、この先陣隊が刀を手に襲いかかる。その後ろに七〇名から八〇名の後衛隊がいて、弓矢で襲いかかる。後衛隊から放たれる矢の威力はすさまじく、対馬国の防衛隊の持つ盾など簡単に貫く威力があった。

 侵略軍はまず民家に襲いかかり、抵抗する者は殺し、抵抗しない者は拉致されていった。民家に襲いかかってきた侵略軍は牛や馬を殺して喰い、犬を殺して喰い、それでも物足りないと、死体となった対馬在住の日本人の肉に喰いついた。

 失われたのは命だけではない。家や田畑も焼かれ、対馬銀山も放火の損害の大きさから機能しなくなった。蓄えていた穀物はその日のうちに侵略軍の食料になり、対馬は無人のゴーストタウンへと化してしまった。

 対馬では少なくとも三六名が殺され、三四六名が拉致されたと記録にある。また、拉致された者のうち、青年男性は一〇二名、残る二四四名が女性と子供である。労働力か性の対象かという違いはあるが、拉致された者が奴隷にされることに違いなかった。この中には身分の違いもなく、対馬の判官代であった長嶺諸近とその一族も拉致された。現在の感覚で行くと県議会の議長が拉致されたようなものである。

 ただし、死者の中にも、拉致された者の中にも、対馬国司の姿はなかった。対馬守遠晴は抵抗を続けたのち、対馬からの脱出に成功し大宰府に逃れることに成功していたのである。

 この対馬国司からの報告が、侵略について太宰府が知ることのできた第一報であった。

 このとき太宰府のトップを務めていたのは藤原隆家である。藤原頼通が表舞台に立つ前は道長の後継者筆頭とまで考えられていた人物であり、このとき二度目の太宰権帥であった。太宰権帥とは太宰府のトップであり、九州全土と、対馬、壱岐を統括し、それらの地域の軍事を指揮する権利を持ち、同時に、日本の外交を司る役割を果たしていた。外交を司るという点では現代の外務大臣に相当するが、その権限は現代の外務大臣よりはるかに大きい。

 その太宰権帥であった藤原隆家の判断は文句ないものであった。対馬からの襲撃報告をただちに京都に伝えると同時に、侵略に対して躊躇することなく反撃の軍勢を用意したのである。

 藤原純友によって徹底的に破壊された太宰府はこの時代、ある程度復興してはいたものの、かつての九州随一の都市の地位を失っていた。経済の中心地は太宰府から博多に移り、九州各国の国司も太宰府の意向に必ずしも従う存在ではなくなっていたが、このときは九州各国が侵略に対して対抗するという姿勢を打ち出したのである。荘園から武士が派遣されただけでなく、武器を手にできる者はこぞって武人として太宰府に集結した。

 藤原隆家は、これら武人を率いて博多湾に陣を構えたのである。それはかつての太宰府の雄姿を復活させたかのような印象をもたらした。

 ただし、この時点で伝わっていたのは国外からの侵略があったという情報だけで、その国外というのがどこなのかは掴めていなかった。

 多くの者は高麗からの侵略だと考えていた。新羅にしろ、高麗にしろ、何度も日本に対して侵略を仕掛けてきている。過去の侵略を振り返り、先例に基づく対処をすれば侵略を撃退できると考えた。

 後になって考えるとそれは甘い見通しであったのだが、当時はそれが最善の判断と考えられていた。

 対馬を陥落させた侵略軍は次の標的として壱岐を選んだ。

 壱岐で起きたのは対馬よりもはるかに厳しい現実であった。

 壱岐には既に対馬の悲劇の情報が届いている。そして、壱岐で用意できる軍勢はどう無茶をしても一五〇名が限度。かといって、全員が壱岐を脱出できるほどの船はない。これから侵略されるとわかっていた上で、勝てる見込みのない防衛戦に向かい合うこととなったのである。

 壱岐の人たちは壱岐国司藤原理忠のもとに集った。一ヶ所に集まれば少しは抵抗できる。この抵抗の中には、どうひいき目に見ても声変わりもしていない少年や、立っているのがやっとという老人まで集まっており、それでどうにか一四七名の兵を揃えるところまできたという程度であった。

 戦略はこうである。

 まず、籠城して抵抗する。

 次いで抵抗して九州からの援軍を待つ。

 時間がかかろうととにかく籠城することを考えたのだ。

 一方の侵略軍は、対馬の抵抗で多少は失われていたものの三〇〇〇名の軍勢はほぼ無傷。その上、対馬で略奪した穀物や、食肉加工した牛馬、犬肉、そして人肉まで積んでおり食料に不足していない。

 ただし、このような侵略のときによく見られる光景である捕虜の酷使は見られていない。拉致した人は奴隷として酷使する対象ではなく、高麗や契丹に対して売りつける商品であったからである。

 それに、これから壱岐に侵略しに行くからついてくるようにと命令したとしてもおとなしく従うとは思えない。自分や家族の命を守るために侵略軍に捕らえられるという運命を受け入れたとしても、仲間を殺すのに協力しろという命令はそう簡単に受け入れられるものではない。それが一人の叛逆であっても、船の中に一人でも反乱分子がいれば船全体の航行に関わる。

 奴隷に船を操らせるのではなく、拉致した者は大陸へと連れて行った上で侵略軍の兵士が自ら船を操る方が侵略計画としては成功に近づく。

 侵略軍が対馬に侵略した日付はわかっているが、壱岐に侵略した日はわかっていない。しかし、壱岐が受けた被害は対馬以上であったことがわかっている。

 籠城を狙い、無理を重ねて集めた兵士一四七名が全員が、侵略軍の上陸したその日のうちに戦死。その中には壱岐国司藤原理忠もいた。ただし、侵略軍の受けた損害も大きなものがあった。

 対馬で見せた抵抗よりも激しかったことに怒った侵略軍は、抵抗せずに降伏した者に対してより過酷な態度で接した。対馬では、抵抗せずに降伏すれば最悪でも拉致されただけで済んだが、壱岐ではただ楽しみのためだけに殺された。拉致された者も、対馬の場合は大陸まで送り届けられたのに対し、壱岐では両手を縛られ海に突き落とされる者が続出した。特に、奴隷としての売値が低いとされた幼子や老人がこの侵略軍の娯楽のために命を落とした。

 牛や馬、犬、そして人肉が侵略軍の食料になったことでは対馬と同じであった。穀物を奪われたことも、建物を焼かれたことも対馬と同じであった。ただ一つ違っていたのは、国司が率いる軍勢が全員命を落としたあとも抵抗が続いたことである。

 壱岐で最後の抵抗を見せたのは壱岐国分寺の僧侶たちであった。僧侶の常覚の率いる最後の抵抗勢力が壱岐の中央にある国分寺に籠もり、三度に渡って侵略軍の軍勢の撃退に成功。だが、四度目の成功はなかった。抵抗する僧侶達は自分もともに討ち死にするつもりであるとの常覚を説得し、援軍を呼び寄せるための使者として太宰府に送り出すことに成功。それとほぼ同時に国分寺は侵略軍の手に落ち、建物は灰となって燃え尽きた。

 太宰府に到着した常覚の伝える壱岐の惨状は、太宰府に集った武士達の怒りを燃え上がらせるのに充分であった。

 太宰権帥藤原隆家は兵士の士気は問題ないと判断した。しかし、これからやってくることになる女真族の兵士達と立ち向かえるかどうかという現実を忘れてはいなかった。

 藤原隆家は京都からの援軍を待っていたのである。だが、待てど暮らせど援軍が来ない。それどころか、侵略を受けているという報告に対する返信も届かない。

 藤原隆家は手持ちの軍勢だけで立ち向かわなければならなくなった。

 対馬が落ち、壱岐も落ちた以上、次のターゲットは普通に考えれば九州である。問題は、九州のどこがターゲットになるかであった。

 多くの者が考えたのが博多である。過去、新羅が日本に侵略してきたときは博多に攻め込んでくることが多かったから、博多に防御の拠点を構えるのはオーソドックスな反応であった。

 だが、今回の侵略者は新羅ではなかった。新羅の侵略は日本の領土も狙ったものであったが、今回の侵略はモノ目当てである。目当ては食料であり奴隷であって、奪って居座るのではなく、奪って帰るのを行動計画としている。

 その上、新羅がこれまでどこに攻め込んできたかの歴史を侵略軍は学んでいる。それはつまり、九州で迎え撃つであろう日本の軍勢がどこに根拠地を構えるかをわかっているということでもある。その場所とは博多であり、博多には強力な軍勢が敷かれているであろうことを考えると、好き好んで博多に直行することはない。藤原隆家は博多湾に鉄壁の陣を敷いたが、鉄壁の陣だとわかっている場所めがけて突撃をするのはあり得ない話である。

 寛仁三(一〇一九)年四月七日、侵略軍はたしかに姿を見せた。姿を見せたが、博多に直接向かったのではなく、博多湾に浮かぶ能古島に上陸した。

 完全に裏をかかれた藤原隆家はただちに能古島奪還を命じる軍勢を派遣する。しかし、能古島奪還の軍勢の目の当たりにしたのは、牛馬が食肉となり、人が拉致されたあとの能古島であった。その上、能古島に集結した侵略軍の軍勢は藤原道隆の派遣した軍勢よりも多く、現状のままでは奪還は困難であり、奪還のためには現在以上の軍勢が必要であること、そのための時間はないため時間を置いてに再度奪還を試みることと決まった。

 夜間に奪還するつもりであった藤原隆家の元に届いたのは、博多湾の西からの被害報告であった。能古島に上陸したのは陽動部隊であり、本隊は博多湾の西、筑前国怡土郡、志麻郡、早良郡に渡る広い一帯に一斉に襲撃をかけたのである。侵略して居座るのではなく、侵略して持ち帰ることを前提とした計画である以上、一ヶ所に大量の軍勢を掛けて攻め込むより、小規模な部隊を分散させて一斉に攻撃を仕掛けた方が成果が挙がる。藤原隆家は完全に読みを誤ったのだ。

 寛仁三(一〇一九)年四月八日、藤原隆家が派遣した軍勢は、侵略軍の被害のあった地域の受けた惨状を目の当たりにした。ここでもやはり牛馬が殺され、人が殺され、食料が奪われ、殺されずに済んだ人はことごとく拉致されていた。

 しかし、ここではじめて日本軍が勝利を挙げる。侵略軍があまりにも個別に分けすぎたため、藤原隆家の派遣した軍勢が侵略軍の各個撃破に成功してきたのである。

 侵略軍は唯一安住の地となれていた能古島に撤退した。

 寛仁三(一〇一九)年四月九日、能古島を包囲した藤原隆家の軍勢の前に侵略軍は動けない。それでも、藤原隆家の包囲を解こうと博多にある藤原隆家の根拠地に攻撃を仕掛けることには成功したが、ここは前もって鉄壁の陣を敷いてあった場所である。侵略軍はここで完敗を喫し、生き延びた者は再び能古島に舞い戻ることとなった。

 寛仁三(一〇一九)年四月一〇日は暴風雨の吹いた日である。能古島に籠もった侵略軍は船に乗ることができず島に留まったままであった。その間、藤原隆家は博多の陣営をさらに強固なものとした。

 寛仁三(一〇一九)年四月一一日、侵略軍が博多に一斉攻撃を仕掛けてきたが、この攻撃を藤原隆家の軍勢は完全に撃退。二人を除いて侵略軍はみな死体となって博多湾の砂浜を血で染めることとなった。生き残った侵略軍の二人のうち、一人は男性、もう一人は女性である。男性のほうは重傷であった。

 侵略軍のうち能古島に残っていた者は、味方の軍勢の全滅を知って慌てて退却を始める。しかし、このまま退却するのではなく最後の仕事をしようと、船は北に向かったあと、反時計回りに唐津湾に入り、肥前国松浦郡への侵略を始めた。

 ただし、侵略軍の行動は藤原隆家に読まれていた。博多湾をおとりにしつつ他の場所への侵略をするであろうと予想していた藤原隆家の命令により、肥前国の前国司であった源知の率いる軍勢が待ち構えいたのである。博多が鉄壁であったことは想定内であった侵略軍も、松浦まで鉄壁であったことは予想しておらず、源知の率いる軍勢の前に侵略軍は次々と倒れていき、一人を捕縛した以外、死体となるか退却するかのどちらかの運命しか残されていなかった。

 退却する侵略軍は、壱岐も対馬も素通りして朝鮮半島へと向かった。その後、壱岐を奪還した日本軍が目の当たりにしたのは、島内の生存者がわずか三五人という現実であった。国衙の役人が九名、郡衙の役人が七名、一般庶民が一九名。一方、死者は一四八名。うち、五九名が女性である。さらに二三九名の女性が拉致されていった。もっとも、これは国衙の付近に限ってのことだとする説もあり実際にはもう少し生存者が多かったようであるが、それでも被害はあまりにも大きい。

 その後、全体の被害がまとめられた。

 殺された者、最低でも三六五名。拉致された者、最低でも一二八九名。殺された牛馬、把握しうる限りで三八〇頭。焼かれた家屋は四五棟以上。

 その後、朝鮮半島に戻った侵略軍を待ち構えていたのは高麗の軍勢である。既に日本軍によってかなりのダメージを受けていた侵略軍は、弱体化した高麗軍であっても対処可能なものであった。

 結果、侵略軍はここで全滅。侵略軍の船に乗せられていた日本人のうち、生き残っていた二三〇名が解放され日本へ送り届けられた。

 また、拉致されて奴隷として売り飛ばされるところであった対馬判官代の長嶺諸近は脱出に成功していたが、行方不明となった家族を探して高麗に渡ってみたところ、侵略軍によって奴隷として売り飛ばされた日本人の境遇があまりにも悲惨であったことにショックを受けて帰国することとなった。

 藤原隆家は侵略に遭っている情報を京都に送ったが、その返答が届かなかった。

 返答が届く前に二度目の情報を送ることとなった。撃退に成功したという知らせと、拿捕した捕虜三名の京都送りである。

 京都で検分した貴族たちは、この三人が三人とも高麗人であったことから、今回の侵略は高麗からの侵略であり、ただちに高麗に対して拉致した日本人を一人残らず生かして返すことと、今回の侵略に対する損害賠償請求を検討した。本来ならここで犯人の引き渡しも要求するところであるが、その犯人がどうやら海の藻屑と消えたらしいことでその要求は取り下げることとなった。

 ところが、三人が三人とも、「自分たちは高麗人だが、女真族が高麗に攻め込み、一緒に行動しなければ殺すと脅されたから仕方なく一緒に行動していただけで、責任は女真族にある」と主張したのである。

 当初はこの主張をふざけたものとして退けるつもりであったが、寛仁三(一〇一九)年七月七日、高麗から帰国した長嶺諸近が京都に赴いて状況を報告したことで、今回の襲撃が女真族と高麗の混成であり、主軸は女真族であるとの結論を出すこととなった。

 ただし、一点だけは絶対に妥協しなかった。

 拉致された日本人を一人残らず生かして返すことである。高麗も日本の要求に応えるように、寛仁三(一〇一九)年九月、高麗虜人送使の鄭子良が見つけ出すことに成功した日本人二七〇人を伴って来日した。

 日本はここではじめて、今回の侵略は女真族からの侵略であり、高麗が女真族を呼ぶときの呼び名である「刀伊(とい)」が侵略者であったと公表した。

 そのため、このときの侵略は「刀伊の入寇」と呼ばれることとなった。

 出家した道長がどこに居を構えたのかだが、最初の三ヶ月間はわからない。藤原実資の日記によると「出家しても月に六度は天皇のもとに拝謁するつもりだ」と語っており、今まで通り土御門殿に住み続けたか、出たとしても平安京からそう遠く離れていないところにいたのであろう。

 道長の住まいが記録としてはっきりするのは寛仁三(一〇一九)年七月のことである。

 時はまさに、刀伊の入寇の惨状が日本中で話題になっていた頃であった。海の向こうからいきなりやって来る集団があり、その集団に殺され、連れ去られるという現実を目の当たりにして、それまで続いていた平和が終わったと誰もが考えていたのである。その現実から逃れるために多くの人が宗教に救いを求めるようになった。それは道長も例外ではないが、道長には、いや、全ての統治者には、平穏を求める庶民の声に応える義務がある。

 忘れてはならないのは、平安京の中にある寺院は平安京南部の東寺と西寺だけで、それ以外の寺院は平安京の敷地内に建てることが許されていなかったことである。清水寺は平安時代に坂上田村麻呂が建立させたという歴史ある寺院であるが、それは平安京の敷地の外の建立だから許されたのであり、いかに坂上田村麻呂であろうと平安京の敷地内であったら建設許可自体が下りなかったはずである。

 この決まり自体は道長の出家の頃も有効であった。もとより、道長は平安京の中に寺院を建てるつもりなどなかった。

 ただ、ほぼ平安京の一部だと言える場所だとどうか。

 道長の邸宅である土御門殿は平安京の東の端にあり、道路一本、塀を一つ挟んだらそこは平安京の外に広がる貧民街であった。

 土御門殿の消失時に、これら平安京の外のスラムも焼き尽くされたのである。その住まいを再建させたのが道長であった。

 道長はそのスラム街の中に阿弥陀堂を建立し、そこに住まいを移したのだ。

 なぜ阿弥陀堂か?

 平将門や藤原純友の乱の頃、人々の救いとなっていたのが空也である。空也の唱える浄土信仰は、この世の苦悩に対し、死後や来世の救済を訴えるものであった。現在は苦労していても、あの世に旅立てば幸せな暮らしが待っており、生まれ変わって次の人生を歩むこととなっても現世の苦悩に反比例する豊かな暮らしを過ごせるとしていた。仏門に入らなくても、俗世間で日々の生活を過ごしていても、仏教による救いは得られるのだと、空也は主張したのである。

 この空也の教えを拡充させたのが空也の弟子であった源信である。源信は文字の読めない人でもわかりやすく浄土信仰が理解できるよう、絵を用いて多くの人の心の救済を訴えていた。内乱の時代は過ぎ、世は平和で安定した日常に戻っていたが、内乱の悪夢、悪化した治安、貧富の差、こうした絶望が消え去ったわけではない。源信はこうした絶望に対し、浄土信仰という希望を与えたのである。

 浄土信仰はこの時代の多くの人にとって、最大の希望になっていた。誰もが救われる、それこそ、当時は当たり前のこととされていた身分の差も貧富の差も男女の差も関係なく、苦しみにある人を阿弥陀如来は救ってくれるのだという単純明快な教えが多くの人を引きつけたのだ。

 浄土信仰で救いの対象となるのは全ての人である。出家して僧侶とならなくても、仏教を学問として学ばなくとも、阿弥陀如来に救いを求めれば阿弥陀如来は必ず助けてくれるとしているのである。しかも、それは仏教の宗派を問わない、いや、仏教を信仰していなくても関係ないとするものであった。この結果、厳密に言えば仏教とは別の宗教であるはずの神道が仏教と融合するようになった。神社の一角に寺院が建立され、寺院の一角に神社が建立されるようになった。そこにあったのは「聖なるもの」であって、仏教でも神道でもない存在になった。崇拝し、礼節をもって接すれば、誰もが救われる。それがこの時代の人たちに広まっていた浄土信仰であった。

 ただ、暴走もしていた。この時代は影も形も見えなくなっていた律令派にとって、浄土信仰は最後の、そして絶好の隠れ蓑であった。浄土信仰のためという名目で集い、表向きは浄土信仰を学ぶため、実際は律令政治の復活と藤原北家独裁打倒を実現するための秘密結社を結ぶ動きもあったのである。

 藤原道長が浄土信仰に傾倒するようになったのは、まさに今、自分の身に災厄が起こっているからである。その救いを、この時代では一般的であった浄土信仰に求めたのはおかしな話ではない。ただ、いつの時代もそうであるが、上に立つ者は冷めている。道長自身が浄土信仰に救いを求めることで、浄土信仰に救いを求める一般庶民にとっては親近感を抱かせることとなったし、浄土信仰を隠れ蓑にした秘密結社も抑えることができる。

 しかも、阿弥陀堂を建立したのは平安京から道路一本挟んだ東の隣のスラム街の中。周囲に住む人にとっては浄土信仰を身近に体現できる上に、まっすぐ西に行けば貴族たちの邸宅街、さらに西には内裏と、それまで土御門殿に居を構えることによって得てきたメリットとほぼ同じメリットを獲得できたのである。

 その上、道長はこのスラム街の一掃も目指していた。平安京の中の火災は多かったが、平安京の外の火災もそれに負けず劣らず多かった。特に、計画された都市である平安京と違い、自然にできた平安京の外のスラムは無秩序そのものであった。道長は土御門殿が焼け落ちたとき、土御門殿の再建よりもその隣にあるスラム街の住民の保護と住まいの再建を優先させたが、それは藤原氏の資産をもってしても不充分なものになっていた。以前と同じ住まいの復旧になってしまい、相変わらず災害に弱い区画であり続けてしまったのである。

 スラム街の対策はいつの時代も変わらない。無秩序でいつ大災害が起こってもおかしくない住まいの連なりを壊し、整然とした、最低でも災害が大災害にならない程度の整然とした区画にすることである。

 もっとも、ここには最重要にして最難関の課題もある。

 それは、実際に住んでいる人の暮らし。

 スラム街に住む人は好き好んでスラム街に住んでいるわけではない。そこしか住むところがないからスラム街に住んでいるのである。ゆえに、追い出されたとしたら別なところで新たなスラムを作り出して終わる。

 かつて、藤原良房は、平安京に流れてきた失業者に対し、田畑開墾に要する初期投資費用と当面の生活に必要な資産を与えることで、自作農として就業できるようにしたことがあった。その上、開墾した田畑の名目上の所有者は藤原良房であるが、実質上の所有者は開墾した本人。班田収授の頃はどんなに田畑を手入れして多くの収穫をあげる土地に改良しても期間が経ったら国に没収されてしまっていたが、実質上の所有者になれば、無期限に自分の土地とすることもできるし、我が子に田畑を相続させることもできる。

 藤原良房の時代、多くの農民が田畑を捨てて平安京に流れてきたのは、重税に耐えきれなくなったからではなく高利貸しと化してしまった出挙の返済に耐えきれなくなったからであって、その時代は有効であった律令に従えば田畑に課される税そのものは安い。出挙の本来の目的である春の種籾の貸し出し、現在の感覚で行くと中小企業の運転資金についても藤原良房は忘れてはいない。これまでの出挙と同様に春に藤原良房が出すのだが、その返済はタダ同然。つまり、高利貸しである出挙業者は入り込む隙がない。無理に貸し出そうとしたら藤原良房に睨まれて終わりだ。

 道長はこの先例を利用できた。失業してしまったがために平安京に流れ込んできた人に職を用意すればスラムは解消できるのだ。ただし、藤原良房と違って田畑を用いた就業はできない。藤原良房がやって成功したのは当時は誰も考えつかなかったことをしたからであって、この時代になると当たり前のこととなっている。荘園と言う名の、当たり前の存在が。

 荘園は、初期投資費用も維持費用も大きいが、得られる収入はもっと多い。藤原良房が始めた頃はハイリスクハイリターンの投資先であったのだが、その有効性が確認された今となってはミドルリスクハイリターンの投資先である。貴族や大寺院が競い合うように荘園を作り上げた結果、今さら失業者の中から希望する者に田畑の開墾に要する費用を出して自作農になれと命じたとしても、田畑に向いている土地はもう開墾しつくされていた。開墾し尽くされてしまった上に、優れた土地をめぐる争いが繰り広げられ、治安が悪化した。海辺に近い土地だけではなく海から離れた土地も海賊のターゲットになり、海賊のターゲットにならずに済んだ土地は山賊のターゲットになった。

 平安京に流れてきた人は、重税から逃れようと農地を棄てた人ではない。身の安全のために平安京に流れてきた人である。彼らを元の土地に戻そうとしても、戻るべき土地は極めて危険な土地であった。

 そこで道長が進めたのが公共事業である。平安京の内外の建物の建設として彼らを雇ったのだ。それも、自分一人ではなく多くの貴族たちに出資を命じたのだ。火災からの復旧は藤原道長個人の資産によったが、今回は貴族たちが費用を出し合っての根本解決である。

 そもそもスラムが問題になってしまったのは内裏の工事が完成してしまったからである。内裏の再建工事をしている間は給与が受け取れた。家族や周囲の人にも「自分の仕事は内裏を再建することだ」と誇ることができたし、市で買い物をするのだって「内裏再建工事で貰った給与で買う」と堂々としていることもできる。それが、工事が終わったことによって失業者へと変わってしまった。かと言って、新たな仕事をそう簡単に見つけることもできない。建物を建てる技術ならばあっても、建物を建てる需要がない。他に仕事を見つければいいではないかと言われても、そのような仕事などない。かつてであれば荘園の新規開拓という仕事があったが、この時点でそのような人手の募集はない。

 失業がつらいのは、自分の社会における存在価値を失ってしまうことである。失業して収入が途絶えたのだから、新たな収入源が見つかるまで衣食住を用意しますよと言われても、それはプライドに関わるし、世間の目もある。かと言って、仕事を用意すればそれで良いという話でもない。安月給で厳しい労働条件なところで働くくらいなら、このまま社会に必要とされないままでいる方がマシだと考える人は多い。自分が必要とされ、自分が社会に必要とされていることを実感させる何かを用意しなければ失業対策にはならない。工事が終わったことによって失業してしまった人を救済する方法は、次の工事を用意するしかないのである。

 貴族たちはまず、スラムに住む人たちを工事人夫として雇い入れた。貴族一名につき五〇〇名から六〇〇名というから、その人数は膨大である。

 工事はまず、新たな住まいの区画の道路建設から始まった。

 平安京の中の道路は東西ともにまっすぐに敷いてある。道の交わりは直角で、斜めに走る道もなければ曲がっている道もない。ただし、それは平安京の内部に限った話で、平安京の敷地を一歩出ると雑然とした道になっていた。

 これを、平安京の延長となるように変更した。たとえば、現在の京都市には「十条」という地名がある。平安京の区画は北から順番に一条、二条、三条と続いて九条まであるのだが、十条はない。この十条ができたのがこの頃である。発想は単純で、九条まであるのだから、その南の区画は十条だろうというそれだけの話である。

 十条は平安京の南であるが、平安京の東と北もまた道路の敷かれるエリアとなった。現在でも京都市内の道路はそのほとんどが直線であり、それが平安京の痕跡であるというのは、もともと平安京の区画であった場所には適用できても、平安京の外の区画には適用できない。かつては明らかに平安京の外であったのに現在でもなお東西南北にまっすぐ走る道路が存在するのはこのときの道路施設の結果である。

 道路施設の後は宅地建設であるが、これは自由に任せた。ある程度の道幅を保った道路があり、その道路が規則正しく並んでいるのであれば、道路の障害とならない限りどのような建物を建てようと放置した。計画された都市によく見られる人間味のなさ、すなわち生活しづらさを、規制を最小限に抑えることで食い止めたのである。もっとも、この時代の建設技術は二階建ての建物すら偉業とすべきもので、どんな大貴族であろうと平屋であるから、紀元前のローマ帝国で見られたように、無理やり人を詰め込むために今にも崩れそうな高層建築を建てる者がいるのではないかという心配をする必要がなかったからできた話で、現在の日本でもし同じことをしようとすれば、道路だけでなく建物の高さの規制も必要であろう。

 スラム街を撤去した後には寺院を建立すると決まった。道長が信仰する浄土信仰に基づく寺院で、壮麗で厳粛でありながら、浄土信仰に救いを求める者は誰でも受け入れるという寺院である。ただし、寺院の建立はそう簡単にできるものではない。そのため、しばらくは寺院建設予定地のままであり続け、その中にポツンと、道長が住む阿弥陀堂が存在するという寂しげな光景になった。

 それに、浄土信仰に基づく建設でその費用は個人の負担であると言っても、本来の目的は失業を減らすことである。すぐに工事を終わらせてしまってはまた失業者へと舞い戻ってしまうのだ。失業させないためにも工事の期間はある程度用意しなければならないのである。

 それにしても、「税の無駄遣い」批判とはなんたる罪悪なものかと痛感する。

 平安京は未完成のまま放置された都市であった。

 桓武天皇の治世の末期、平安京の工事が半分ほど終わり、残りの半分もある程度進んできたというところで、藤原緒嗣の建議によって平安京の建設は途中でストップとなった。と同時に、東北地方の平定も、税負担が大きすぎるとして停止された。

 その結果、平安京の西半分は度重なる水害に苦しめられた末に人の住まない地になり、都市であることすら放棄されて農地へとなるところまで出てきたのである。そして、東北地方平定の軍勢も活動を止めさせられたために、東北地方の戦乱はかえって長引き、集結するまで三八年という途方も無い歳月を要することとなった。歴史にIFは厳禁だと言うが、IFが許されるならば、藤原緒嗣の「税の無駄遣い」がなかったケースを想像するのである。平安京は完成して水害に悩まされることもなく、スラムではなく区画整備された土地に人々は住み、東北地方の平定も三八年という長大なものではなくもっと短い時間で完了し、その結果、数多くの命が救われたというケースを。それを「税の無駄遣い」を理由に中止したことで、同時代にも未来にも計り知れない被害を与え、死ななくてよかった人を次々と殺していったのである。藤原緒嗣は言うであろう。悪意は無かったと。もちろん、そのような言い訳は通用しない。政治は結果が全てである。結果の前には善意や悪意などは何の判断材料にもならない。

 何年何月何日にどの貴族がどのような職務に就き、どのような位階を受けたか、そして、何年何月何日に亡くなったのかを記す史料がある。この史料を「公卿補任(くぎょうぶにん)」という。

 この史料をどんなに見ても、刀伊の入寇の記録はない。それどころか、刀伊の入寇に立ち向かった藤原隆家についての記録もない。つまり、太宰権帥として藤原隆家が刀伊の入寇に立ち向かったという記録は全くなく、太宰権帥になったことと、太宰権帥の役職を終えた藤原隆家が中納言に就任したことが記されているだけである。だから、表向きは通常の出世街道を歩む貴族の足跡があるだけである。太宰権帥から中納言であるから、出世としては、規模は小さいが順当というところである。

 だが、もう少し読み進めてみると面白いことに突き当たる。いや、おびただしい人命を失った海賊襲来を面白いというのは不謹慎な話であるのだが、このときの朝廷の動きは面白いと言うしかない。

 寛仁三(一〇一九)年一二月二一日、刀伊の入寇に対する恩賞の議論が議政官内で展開された。

 まず、侵略軍を撃退できたのは太宰権帥藤原隆家の働きによるものであることは誰の目にも疑いようのない事実であった。そのため、本来なら太宰権帥藤原隆家に恩賞を与えるべきところであったのだが、そう簡単にはいかなかった。

 まず、中納言藤原行成は、朝廷からの勅符が到着する前に撃退に成功した、つまり、九州北部で起こった災害に九州北部で対処しただけのことであり、それは太宰権帥として当然のことであると主張。また、戦乱に訴えたのは、平将門や藤原純友のような内乱が二度と起こらないようにと定められた私闘の禁止に該当するとも合わせて主張。ここで恩賞を与えれば武人の私闘が増えて国内の治安は著しく悪化し、戦乱が収まるどころか平和が失われるとして、恩賞をそのものを否定したのである。

 この意見に乗ったのが権大納言藤原公任である。藤原公任もまた、藤原隆家は朝廷の勅符の届く前に無許可で武力を行使したのは許されることではなく、いかなる理由があろうとシビリアンコントロールは守られ続けなければならないと主張。無論、この時代に「シビリアンコントロール」という単語はないが、シビリアンコントロールという概念は存在しており、その概念はこの時代の貴族にとって常識であった。藤原公任は、この時代の貴族たちの常識であるシビリアンコントロールの概念に基づいて、ここで武人の功績に対する恩賞を与えれば日本国中に戦乱が広まるとして撃退の功績を否定した。

 これに激怒したのが藤原実資である。まず、藤原隆家が求めているのは自分に対する恩賞ではなく、命がけでこの国を守った人たちに対する恩賞であり、そこに藤原隆家の私利私欲はないと主張。また、朝廷からの勅符が届く前に軍勢を動かしたのは事実であるが、寛平六(八九四)年の新羅からの侵略に対し、朝廷からの勅符が届く前に軍勢を組織し新羅の海賊を撃退した対馬国司の文室善友が賞された例があるため、今回の恩賞は先例が既にあることであるから問題ないとした上で、このように述べた。

 「侵略を受け、数百人が殺され、数千人が誘拐され、家が焼かれ、寺が焼かれ、牛馬が殺された。壱岐国司藤原理忠も戦死した。これに対し、太宰府はただちに軍勢を組織し、侵略軍を撃退した。拉致された同胞を救い出し、命がけでこの国を守った武人たちの行動のどこに恩賞に値しないところがあるというのか。ここで恩賞を与えないというのであれば、今後、今回のような侵略を受けたとき率先してこの国を、この国の国民を守ろうとする者はいなくなるだろう」と。

 この発言を受けて大納言藤原斉信が恩賞を与えるべきと主張。一度は恩賞反対に傾きつつあった議政官は、賛成多数で恩賞を与えることに決定した。

 面白いのはその後である。まず、太宰権帥藤原隆家は、任期満了ということで京都に戻ることが決まったのだが、後任の太宰権帥として任命されたのが、いちばん最初に恩賞反対の意見を述べた藤原行成である。また、中納言の一人が太宰権帥になったため中納言の空席が一つできたわけであるが、その空席を埋めたのが藤原隆家である。

 これが、安全な京都に留まって現場を見ることなしに命がけで戦った者のことを論じたことに対する回答である。

 この刀伊の入寇に対する恩賞の議論の中に、三人の大臣は全く姿を見せていない。恩賞の議論に限らず、刀伊の入寇に関する記録を現在に最も詳しく残してくれているのは、恩賞の議論においてそれまでの恩賞反対の議論を一変させた藤原実資の日記であるが、その日記のどこを探しても、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季、摂政藤原頼通の三人の記録が見えない。既に述べたように出家してからの道長の日記はその記述量が激減しており、藤原行成の日記に至ってはこの頃になると年に一日しか記されていない有様であるから、史料として頼ろうとしても無駄である。

 日本国内に記録がないからと、刀伊の入寇で日本と同様に被害を受けたはずの高麗の記録を頼ろうとしてもそれはやはり無駄な話である。そもそも同時代資料が残っていない。高麗の歴史書としては、この時代から四四〇年後に記された「高麗史」が最古の史料となるのだが、その高麗史を編纂したタイミングというのは高麗が滅亡して李氏朝鮮が誕生したとき。高麗滅亡から李氏朝鮮誕生に至る戦乱で李氏朝鮮にとって都合の悪い資料はことごとく焼かれてしまった結果、刀伊の入寇をはじめとする、他国の歴史書には残っている朝鮮半島を舞台とした歴史的事実が抜け落ちている。

 そのため、日本国内の記録以外に頼ろうとしたら宋や契丹の記録に頼らざるを得ないのが現状なのであるが、宋や契丹の記録で、刀伊の入寇の様子や、道長が太政大臣を辞めたという記録までは追い求めることができても、刀伊の入寇後の日本国内での恩賞についての議論における大臣の振る舞いなどが資料として残っているのではと期待しても無駄である。

 大臣たちの記録が出てくるのは、翌寛仁三(一〇一九)年一二月二二日になってからである。

 この日、摂政内大臣藤原頼通が関白になったのだ。二八歳の若き関白の誕生である。

 頼通の関白就任は頼通の望んだことであった。

 道長の作り上げた統治システムによれば、政治のトップは左大臣であり、いかにトップであろうと議政官で過半数を占めなければ自らの意見を政策として展開できないとするものである。藤原頼通は、摂政ではあるが議政官の席次においては三番目である内大臣。内大臣は議政官の一員ではあるが、その役割は議政官の一人に過ぎないどころか、大臣でありながら議事進行権を持ってはいない立場である。議政官の議事進行権は左大臣、左大臣不在時は右大臣、右大臣もいないときは大納言が務めるものであり、そこにない大臣が関わることは許されていない。

 しかし、頼通は摂政であった。内大臣としての頼通が自らの意見を政策として展開したかったら、自身の弁論の力で議政官の意見を動かすしかなかったが、摂政としてならば議政官がどのような決議をしようと簡単に覆すことができる。内大臣がいかに反対しようと、過半数が賛成なら、内大臣の反対意見というものは消滅してしまうが、摂政が反対すれば議政官の賛成意見の方が消滅するのだ。

 しかし、後一条天皇はもう元服している。つまり、摂政を置く意味はなくなっている。本来ならば藤原頼通はもう摂政を辞めていなければならないのである。だが、頼通はなかなか摂政の地位を手放そうとしなかった。そうだろう。頼通の手にしている摂政の権力は、左大臣藤原顕光も、右大臣藤原公季も黙らせることのできる絶対的権力なのだ。

 それがわかっているからこそ、左大臣も右大臣も早急に摂政を辞任するように訴えてきたのだし、頼通も摂政にしがみついてきたのである。これは権力闘争であったのだ。

 摂政にしがみつく頼通の姿を道長は苦々しく思っていたが、頼通を摂政から降ろすことはできずにいた。道長自身が政界引退を表明し出家した現在、道長がいかに圧倒的権威を持っていようと権力は持っていなかった。頼通がいかに父に従順な息子であろうと、自らの権力の最大にして唯一の軸である摂政の地位を手放すことはなかった。

 だが、元服した天皇がいるにも関わらず摂政がいるというのはイレギュラーであることは頼通も認識していた。

 頼通が示した案は二つ。一つは、自分を太政大臣にすること。もう一つは自分を関白にすることである。そのどちらかを条件として摂政を辞任すると表明したのだ。そのどちらも、左右の大臣に対して上の地位に就くことを意味する。

 この二つの案に対して下った結論は、関白である。太政大臣になれば議政官の決議に対する拒否権が生まれるが、関白はあくまでも天皇の相談役。摂政の決議は天皇の決議の代替となるが、関白は天皇が決断する際に相談を求められたときに答えを返すことはできても、天皇の決断そのものを決定することはできない。その上、慣例として、天皇は議政官の決議をそのまま受け入れることとなっている。議政官が賛成意見を奏上した場合、太政大臣が反対だというなら決議を差し戻すことができるが、関白が反対だというのは単なる参考意見に留まり、議政官の賛成意見がそのまま天皇の名で発令される。

 現在、摂関政治の頂点と見なされている藤原道長であるが、道長の作り上げたシステムは、摂政は可能な限り、関白は絶対に、置かずに済ませるシステムであった。そのシステムを、後継者である頼通がいとも簡単に壊してしまったのである。

 この破壊をこの時代の人は特に深く考えずにいた。しかし、これもまた、藤原摂関政治の崩壊を呼び込むものとなったのである。

いささめのまとめ

徳薙零己のこれまで公開してきた作品を一気読み。

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