中納言良房 6.承和の変 常嗣、淳和天皇とこの年は死者が相次いでいたが、七月七日、また新たな死者が出る。 右大臣藤原三守死去。享年五六歳。 就任する直前まで大臣になるなど想像せぬ人生であったが、右大臣に就任してからこれまで、左大臣が左大臣だけに右大臣の活躍が求められる場は多く、三守はその全てに誠心誠意応えてきた。就任当初は長良や良房の傀儡と考えられたこともあるし、右大臣としての職務も良房の影響が現れているが、それが三守の評判を下げる要素にはならなかった。 確かに清野の頃のほうが豊かな生活であった。この年の六月には飢饉対策として、冬嗣の頃頻繁に見られた免税が布告されている。だが、その責任は緒嗣にあると見る市民は数多く、三守は良くやっていると見る人のほうが多か...2010.04.30 11:35平安時代叢書
中納言良房 5.遣唐使帰国 三月一一日、常嗣と篁に餞別が渡された。そのときの儀式の様子は前年の四月二四日に行なわれた賜餞の儀式と全く同じである。詩のタイトルが「春晩入唐使に餞別を賜わるの題」に変わったことと、大使常嗣が激しい酔いに襲われ途中退出したことは前年と異なる。 常嗣が途中退出したのは強いストレスによるものだろう。常嗣はこのとき既に海への恐怖を抱くようになっていた。 しかし、動き出した遣唐使派遣への流れは止まらない。三月一三日には遣唐使の朝拝が行なわれ、二日後の三月一五日には遣唐大使藤原常嗣と遣唐副使小野篁に再び節刀が渡された。読み上げられた宣命は前年と同じ、常嗣が進み出て左肩に節刀を打ちあてて退出する動きも、篁が常嗣の前に走りよって相連なって退くのも...2010.04.30 11:25平安時代叢書
中納言良房 4.遣唐使渡航失敗 承和昌宝の大きさだが、直径が約二一ミリの円形だから現在の五〇円硬貨と同じ大きさである。ただし、現在の五〇円硬貨が四グラムあるのに対し、承和昌宝は約二・五グラムしかない。実際に手に取ってみるとその軽さに拍子抜けするほどである。 見た感じだが、一言で言って粗悪品。和同開珎以後作られた一二種類の貨幣(これを「皇朝十二銭」という)の中でも一・二を争う出来の悪さである。ただ、これは銅の絶対量が減少していたという側面もある。 富寿神宝とて粗悪品であることには変わりなかったが、承和昌宝はよりいっそうの粗悪品だった。 それでいて、承和昌宝一枚は富寿神宝一〇枚に相当する。 その結果何が起こったか。 私鋳銭の横行。 承和昌宝を富寿神宝一〇枚と定めたこ...2010.04.30 11:20平安時代叢書
中納言良房 3.仁明天皇の時代 しかし、このときの水害救援を淳和天皇は評価するのである。 一一月二日、藤原緒嗣が念願だった左大臣に就任した。 ただし、後任の右大臣には清原夏野が就任する。 緒嗣にとっては満面の喜びに水を差された形となる。 「右大臣就任おめでとうございます。」 良房は夏野を素直に祝福した。 自身は今回の救援に対する評価がなく、出世もない。空席ができたはずなのに空席を埋める人材として自分が選ばれなかったことは悔しいはずであったが、良房の表情にはそうした点が皆無だった。 夏野もそれはわかっていた。 ここ数年の良房の活躍は並の貴族と同水準ではない。その活躍に応えるためには少なくとも参議には昇っていないとおかしい。 ところが、今回の淳和天皇の判断は良房を全...2010.04.30 11:15平安時代叢書
中納言良房 2.若者は時代に挑む 閏三月九日、空席となっていた大学頭に藤原良房が任命された。淳和天皇の強い推薦があったからである。 淳和天皇は空席となった大学頭の後任を探したとき、皇太子に相談するという名目で春宮亮である藤原三成にも相談を持ちかけている。自身の後継者を育て上げている三成であれば、教育に関する相談に最適と考えてのことである。 このとき三成は即座に良房の名を挙げた。三成も教育のスペシャリストとして良房の教育理念に強く賛同させられるところがあった。 ただし、いくら良房の教育理念が共感を得るものであろうとも、現代の感覚で行くと、義務教育もまともに受けず家庭教育だけで勉強を済ませた、年齢から言っても大学生としてもおかしくない若者を国立大学の総長に任命するよう...2010.04.30 11:05平安時代叢書
中納言良房 1.若き反逆者 藤原氏の確立した摂関政治と、徳川氏の確立した江戸幕府。この二つはともに最高権力を継続するシステムとして二〇〇年以上の寿命を持ったが、この二つの政体を比べた場合決定的な違いが存在する。 それは後者が完全な世襲で、後継者が前歴や年齢に関係なく自動的に前任者の地位を継承するのに対し、摂関政治の場合、後継者に指名されても前任者が就いていた地位を自動的に継承できるわけではなかったということ。 藤原氏の場合、親が有力者であるという要素は、あくまでも優位なスタート位置、言うなればポールポジションなだけというだけで、ゴールにたどり着くには自分でレースに勝ち上がらなければならないという特色があった。 勝ち上がらなければならないのは当然で、徳川氏は他...2010.04.30 11:00平安時代叢書