応天門燃ゆ 8.応天門炎上事件 では、この間、良房は何をしていたのか。 名目上は咳逆病に罹ったために貴族の邸宅に立ち並ぶ自宅を離れ、比較的閑散としている地域に建つ染殿第で療養していることとなっているが、そんなものは目的のごく一部でしかない。 一番の目的は権力のスムーズな移行にある。今回の御霊会を取り仕切った基経という人物が良房の後継者であることは、知識としてならば以前から知られていたし、水害対策の実績もあるのだが、それ以後の基経は目立っていない。無論、何もしていないわけではない。蔵人として、また、少納言としての日々の執務の評判は高かった。だが、それが知られているのは大内裏の中だけで、一般庶民の間に基経が広く知れ渡っているわけではなかったのである。 良房のデビュ...2011.03.01 09:40平安時代叢書
応天門燃ゆ 7.御霊会 清和天皇が即位した後も元号は「天安」のままであったが、前天皇の元号をそのまま使い続けるというのはあまり一般的ではない。もっとも、現在のように天皇の死去と同時に元号が変わるという決まりはないので、天皇が変わってもそれまでの元号をしばらくは使い続けるというのはある。 清和天皇の即位から八ヶ月を迎えた天安三年四月一五日、改元の詔が出された。新しい元号は「貞観」。 この新しい元号を聞いた貴族たちは一様に驚きを隠せなかった。 日本で独自の元号を使うようになってから二〇〇年以上、これまで二六の元号が登場してきたが、その中に一つとして中国で使われた元号はない。 ところが、このとき選ばれた「貞観」は日本オリジナルではない。 貞観は唐の太宗の治世に...2011.03.01 09:35平安時代叢書
応天門燃ゆ 6.太政大臣 良房の権力の最たる物は何であるか? この問いに対するの答えは、そのまま藤原北家がなぜ二〇〇年もの長きにわたって権力を維持し続けてきたかという答えになる。 良房の権力の由来は、娘を天皇の妻としたことでも、皇太子の祖父となったことでもない。生前左大臣までつとめた人物の後継者として登場し、その権力を継承することに成功したことである。自動的に権力を継承できたわけではなく、一蔵人としてスタートしてから一歩ずつ上り詰めていった結果の太政大臣就任ではあるが、それでも、藤原冬嗣の政治を継承しこれまで続けているという実績がある。 これは政策が一貫するということでもある。権力を掴む過程で「律令制の否定」というわかりやすいスローガンを掲げて若者の支持を...2011.03.01 09:30平安時代叢書
応天門燃ゆ 5.トロイカ体制 良房は自宅を開放し、天然痘の災厄を逃れようとする者を収容した。もっとも、いくら良房が裕福であると言っても、この時代の医学水準を超えるような医療を提供できるわけではない。つまり、良房の屋敷に足を運んでも天然痘が治るわけではなく、天然痘に罹る可能性を低くできるというだけである。 この良房の行動は評判となり、仁寿三(八五三)年二月三〇日(当時のカレンダーには二月三〇日があった)には、良房の邸宅に収容された避難民を文徳天皇が見舞いにくるほどであった。 ただ、文徳天皇が足を運んでも、それで天然痘が収拾するわけではない。 伝染病の流行を食い止めることは、どのような政治的立場にあろうとも政治家である者ならば必ず全力を尽くさなければならないことで...2011.03.01 09:25平安時代叢書
応天門燃ゆ 4.文徳天皇 嘉祥三(八五〇)年一月六日、仁明天皇体調不良で倒れる。 翌一月七日、仁明天皇不在のまま、左大臣源常、右大臣藤原良房の二名により、この年の昇格者が発表される。皇族一名、貴族一四名がこの日昇格。同時に一三名の役人が新たに貴族となる。このとき、正四位下であった源融が従三位に、従四位下であった藤原良相が従四位上に昇格している。 仁明天皇の回復は一月八日には成されていたと考えられる。この日の行事が滞りなく行われており、前日の昇格者発表のときのようにわざわざ仁明天皇が不在であることを記してはいないから。 一月一五日、新たな役職の発表が行われる。対象者三一名、うち二八名が地方官。このとき地方官に任命された者にはある共通点がある。 若さ。 貴族に...2011.03.01 09:20平安時代叢書
応天門燃ゆ 3.巻き返し 良房と反良房の対立は、律令を捨てるか律令を守るかの対立でもある。 両派とも現状が良くないことは認識できていた。ただし、現状が良くない理由を、良房派は律令そのものに原因があるとし、反良房派は律令を守っていないことから起こるとしている。これでは議論が平行線をたどるばかりで落ち着くわけなどない。 良房が圧倒的権力を持っていた頃であれば律令派などただやかましいだけの権力無き野党に過ぎず、国政に何ら影響を与えてはいなかった。しかし、善男が裁判に勝ち、蔵人頭となった現在、律令派は決して無視できる存在ではないし、相応の権力を持つようになった。 政策の少なからぬ部分は律令派によるものであるし、どんなに悪い結果に終わることが明白でも、悪意ではなく善...2011.03.01 09:15平安時代叢書
応天門燃ゆ 2.律令派 良房はこれに加え、もう一つの罠を用意した。 二月八日、伴善男が右少弁(うしょうべん)に任命される。弁官は太政官、いわゆる中央政府のもとで庶務や雑務を行う職務であり、右少弁はその上から六番目の地位に相当する。 中央政府に対して各省庁や地方から上げられる連絡や、中央政府から下される命令はその大部分が弁官を経由するため、弁官を務めるということはその時点の国家最高機密を含む最大級の情報が手に入ることでもある。そのため、弁官になることは出世街道の王道でもあった。 善男がこの役職に就くことに対する批判はあったが、良房は善男をこの役に就けた。何と言っても律令に詳しく有能であることには変わりはない。弁官に求められる律令の知識を考えた場合、地位を考...2011.03.01 09:10平安時代叢書
応天門燃ゆ 1.伴善男登場 意外なことかも知れないが、平安時代、庶民が宮中に足を運ぶことは自由にできた。ただし、建物に入ることはできない。そのため、屋外で開催される宮廷行事の様子を描いた絵巻物であれば、観客として行事を見物する一般庶民の姿を確認することができる。 宮中に庶民が詰めかけることは誰もおかしなことと考えなかったばかりか、集めた庶民の数の多さでその人の権勢と人気を知る要素となったほどであり、催し物の主催者はイベント告知を都中で大々的に行ない、宮中に来た者へ現金やコメの支給をしたほどであった。 ただし、緒嗣も良房も無理して人を集めるようなことはしてない。 緒嗣は民衆が宮中にやってくること自体を好んでいなかったようなので、あえて人が集まるような努力をする...2011.03.01 09:05平安時代叢書