德薙零己

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覇者の啓蟄 6.征夷大将軍源頼朝

 源頼朝が京都に到着した翌日の建久元(一一九〇)年一一月八日の早朝、三位以上の貴族が身につけることのできる参内用の直衣(のうし)が源頼朝のもとへと届けられた。これにより、源頼朝は一人の貴族として宮中に自由に参内できるようになった。もっとも、理論上は自由に参内できると言っても人生初の参内がそう簡単にすむわけはない上、源頼朝は軍勢を引き連れての上洛であり、その武力でこの国の戦乱を鎮静化させてきた人物である。その人物がこれから、藤原摂関政治の復興を目指している宮中へと乗り込むのだ。藤原北家でなければ居場所はないとまで言い切ることができる場所へ向かうとき、頼りになるのは、源頼朝と近しい限られた貴族を除けばむき出しの武力ということになる。 法に従えば、平安京の敷地に入った瞬間に源頼朝は鎌倉方の武力を見せつけることができなくなるはずである。平安京の敷地内に武器を持って入ることができるのは、朝廷が任命した武官ないしは検非違使と、その部下達だけであり、源頼朝には武官としての正式な職位などない。だが、この時点の朝廷には源頼朝の味方であることが明瞭な武官がいる。 参議を兼任している左兵衛督の一条能保だ。参議である貴族が何かしらの武官の役職を兼務することは珍しくない。たとえ武官の職位が名誉職になっていようと、武官の職位があれば、本人も、その部下も、武装して平安京の敷地内に入ることが許される。 具体的な時刻は記されていないが、一一月八日の段階で一条能保は六波羅の源頼朝のもとを訪問し、佐々木定綱、和田義盛、梶原景時らとともに翌日の参内に向けての警備計画を立てている。侍所別当の和田義盛と所司の梶原景時がいれば、どの御家人をどのような形で配備するかを決定することが可能だ。侍所の指令によって警備役に選ばれた御家人達は一時的に一条能保の部下となり、左兵衛督の武力を前面に掲げての平安京警備が可能となった。 また、実際の参内については権中納言吉田経房を通じて手筈を整えさせた。まずは宮中ではなく、後白河院へ訪問するのである。上洛初日は壮大なパレードを見せたものの六波羅に到着したのみ、翌日も参内はおろか六波羅から出ることすらなく、宮中公式参内は一一月九日であり、最初に訪問するのも後白河法皇のもとであることがここで内外に宣言された。 ところが、日が暮れて、日が明けて、一一月九日になったというのに、六波羅は全く動きを見せない。源頼朝が後白河法皇のもとに向かうための準備は既に整っており、道という道、交差点という交差点には、ことごとく鎌倉方の御家人達が警備のために張り詰めている。理論上は左兵衛督でもある参議一条能保が、武官としての職務を遂行するために部下に命じて京都の警備を担当させているということになっているが、誰もそのような表向きの名目を信じることはない。 動きがあったのは夕方になってから、現在の時制で言うと午後四時頃である。 上洛時は武人として馬上の人であった源頼朝であるが、この日は貴族として牛車での移動である。貴族が参内するときに周囲をボディーガードとしての武士が固めることは通例であり、このときの源頼朝の乗った牛車の周囲もボディーガードである武士達が侍っていた。ここまでであれば普通の貴族の様子に見えたであろうが、源頼朝の牛車の周囲を固めているのは鎌倉方の御家人達である。恒例と言うべきか、吾妻鏡にはこのときの隊列をまとめている。

覇者の啓蟄 5.奥州平定

 源頼朝という人は情報の重要性に関係なく情報そのものを定期的に収集し、同時に発信してきていた人である。それはこのときの奥州遠征でも例外ではない。二階堂行政に書き記させた書状を京都に向けて送り出したのが九月八日、一方、翌九月九日に朝廷からの正式な宣旨が陣ヶ丘に届いている。藤原泰衡追討を命じる宣旨であり、発給日は七月一九日、すなわち、鎌倉方の軍勢出発の日になっている。つまり、鎌倉方の軍勢が鎌倉を出発して東北地方に進軍して藤原泰衡を処罰したことは朝廷の命令に基づいての行動であり、後三年の役のときの源義家のように私戦と判断されることはないという朝廷のお墨付きが得られたこととなる。 さすがに京都に向けて送り出した翌日に宣旨が届いたなどというのは時間軸が怪しく思えるが、京都と前線との定時連絡を欠かさなかった結果であり、翌日というのは偶然、あるいは、源頼朝の演出であろう。 それにしても、いかに交通事情が現在と比べものにならないほど貧弱なこの時代であろうと、さすがに七月一九日に発給された宣旨が九月九日になってようやく到着するというのは時間が掛かりすぎるが、その回答は既に出ている。発給日のほうを改竄したのだ。一条能保を経由して吉田経房が主導して宣旨を発給したときに、鎌倉方の出発日である七月一九日を発給日とするように改竄したのだ。鎌倉方の出発の連絡が京都に届いたのは七月二四日、同日中に宣旨発給の審議がはじまり、七月二六日に宣旨を発給して七月二八日に京都を出発したというのが実際のところだ。鎌倉からの連絡を受けて後追いで宣旨を発給するときに、発給日を改竄することで源頼朝の行動が国法違反とならないようにすることで、朝廷のほうでも後三年の役の後で起こった源義家私戦問題を呼び起こすことが回避できた。妥協と言われればそれまでであるが、このときの朝廷は、既に始まってしまった戦争、しかも、鎌倉方の勝利の可能性が高い戦争については、事後承諾とするしかなかったのである。 源頼朝という人の政治家としての能力の高さは、情報のやりとりだけに発揮されるのではない。部下の統率という点においても発揮される。むしろそのほうが政治家としての能力の発揮であるとも言える。 それが起こったのは文治五(一一八九)年九月九日というから、朝廷からの正式な宣旨が届いたのと同じ日、ただし、時間軸は逆転するが、その出来事が起こったのは朝廷からの正式な宣旨の届く少し前である。 陣ケ岡の陣に留まっている源頼朝のもとに、近隣の寺院である高水寺から苦情が寄せられた。鎌倉方の御家人を名乗る武士がやってきて寺院の建物の中に乱入し、本堂の壁板を合計一三枚剥ぎ取っていったというのだ。 高水寺からの訴えを受けて源頼朝は梶原景時に調査を依頼し、その結果、宇佐見実政の下男達の犯行であることが判明した。 梶原景時は犯人達を高水寺に連行し、犯人達の両手を切断して釘で手を板に打ち付けた。一見すると、この判決はあまりにも残酷で重すぎる刑罰であるかと感じる。たかが壁板を剥ぎ取っていっただけであり、仏像を破壊したわけでも、ましてや誰かを殺害したわけでもないではないかというのがそのときの論拠だ。だが、それは減刑のための言い訳にもならない。押し込み強盗を働いて略奪したことそのものが問題であり、被害の規模は問題ではないのだ。 さらに源頼朝は比企朝宗を岩手郡へ派遣した。この地には歴代の奥州藤原氏の当主達が建立させた寺院があることから、藤原泰衡の死去と奥州藤原氏の壊滅によって寺院存続の危機ではないかという懸念が渦巻いていたからである。その懸念を払拭するために、源頼朝は比企朝宗を派遣したのであるが、その理由が驚愕だ。各寺院にどれだけの建物がありどれだけの僧侶がいるかを報告させた上で、寺院の規模に応じた田畑を与えるとしたのだ。これまでは奥州藤原氏からの支援で成り立たせていた寺院の経営がこれからは自助努力で経営しなければならなくなるが、そこで得られる資産はこれまでの奥州藤原氏からの支援をはるかに超える資産だ。しかも、鎌倉方の武士が寺院に手出しする心配は無くなった。当然だ。壁板を剥がしただけで両手切断という先例ができたというのに、誰が寺院に手を出そうと考えるのか。 源頼朝の狡猾なところはこういうところだ。 このときの軍事侵攻は誰がどう見ても侵略である。それも、最初は源義経を理由とし、源義経が殺害されたら今度は藤原泰衡をターゲットに絞り込む。第三者からすれば源頼朝の主張や行動に正統性はない。しかし、源頼朝は歴史を振り返り、そして、現地の情勢を把握した上で軍事行動を展開したのである。

覇者の啓蟄 4.奥州合戦勃発

 鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り行えないことへの苦悩が読み取れる。 ただ、九条兼実という人は本質的に裏表のある人である。生真面目な人であり、また、常識人でもあるのだが、日記に書き記している内容はお世辞にも上品とは言えないところがある。あるいは、日記だから安心して書き記しているというべきか、九条兼実の日記には他者への、それも権力者への悪口がこれでもかと出てくる。いかに政敵であるとは言え、先代の摂政であり、また、自分の実の甥でもある近衛基通のことを後白河法皇の男色相手と貶したのはその嚆矢であろう。 文治三(一一八七)年九月二七日の九条兼実の日記を読むと、頭中将である源兼忠のことを出仕しても人数に入らぬ人形のような人間だと記し、同じく頭中将である藤原実教については漢字を知らぬ人と貶している。その上で、その他の五位の蔵人たちの勤怠もあまりにも悪いことを嘆き、相応の能力を持った人材がいないために望み通りの政治を執り行えないと憂鬱に陥っているのである。 ちなみに他者の悪口を平然と書き記した九条兼実が漢字の書けない人間と揶揄した藤原実教であるが、この人は本当に漢字を書けなかったようで、九条兼実の他にも、藤原定家が藤原実教のことを漢字が書けない人と日記に書き記している。その代わり、管弦の道に秀でていること、人とのつきあいが巧みであること、そして、抜群の記憶力で何を聞かれても口頭で返す人であるとも記している。つまり、九条兼実は藤原実教のことを嘆いているが、藤原定家は藤原実教の能力を認め、藤原実教が漢字を書けないというのは弱点の一つであるものの、その弱点を埋めるに十分な才能があるというのが藤原定家の記す藤原実教への評価だ。 考えるに、九条兼実自身は有能な人であったろうが、他者を使いこなす能力が高いとは言えなかったのではないだろうか。有能な人によくあることであるが、自分であれもこれもとできてしまうために、誰かに仕事を任せるより自分でやってしまった方が早く済んでしまい、結果として自分がいないとどうにもならない組織を作り上げてしまうことがある。そして、他者に仕事を任せようとしても、命じられた他者が命じた本人よりも品質の悪い結果を残すと、どうしてこんなこともできないのかと落胆する。 従来の藤原摂関家であればこれでもどうにかなった。藤原氏の内部で十分に人材を抱えているので、藤原氏内部の対立は存在していても、上役の求める成果を出すことのできる優秀な人材は内部で用意できていた。しかし、今や藤原氏の結束は過去のものとなり、同じ藤原氏であることよりも、近衛家であるか、九条家であるか、あるいは藤原氏の中の別の家であるかが問われるようになってしまったのだ。さらに藤原氏内部の対立を無視したとしても、平家政権と源平合戦の余波で藤原氏内部の人材教育が停滞してしまった。藤原氏が締めていた役職に平家が入り込んでしまったために経験を積むことができなくなったというタイミングで、平家が短期間で一掃されて空席が大量に生じ、結果、経験の無いままに藤原氏を主とする貴族が空席を埋めることとなったのである。 このような危機を乗り越えることができるほど九条兼実のマネジメント能力は高くは無かったのが、九条兼実を襲うこととなった憂鬱の原因であると言えよう。

覇者の啓蟄 3.源義経逃走

 行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多武峰(とうのみね)は源義経がいたことが確実な吉野から直線距離で五キロもない。いかに踏破の面倒な山道であるといっても少人数が移動するだけならば支障はない。おまけに多武峰(とうのみね)は単なる山ではなく、明治時代の神仏分離で現在は談山神社となっているが、神仏混淆のこの時代は多武峰妙楽寺(とうのみねしょうらくじ)という寺院であり、これまでの歴史で何度も興福寺と争ってきたという過去がある。南都焼討で平家が破壊した興福寺を源平合戦終結もあって立て直しているということは、現政権の手によって憎き敵が復活しているということ、すなわち、現政権に対する反発という目的で源義経を庇護することもありえたのである。もっとも、興福寺からすれば妙楽寺が同じ大和国にある寺院であることは知識として知っていても、勢力差があまりにも大きすぎて、興福寺にとっての妙楽寺は目障りな存在ではあっても敵とは認識していなかった。それどころか、大和国の寺院ということで妙楽寺のやらかしが興福寺にまで飛び火することすらあったのだ。 そのあたりの例証とすべきことが同日に起こっている。源義経の捜索という名目で源義経と関係のある僧侶に対し鎌倉に出頭するよう指令が出たのであるが、このときの出頭命令が出た僧侶は二名おり、一名は源義経が元服前にいた鞍馬寺の東光房阿闍梨であることは納得できても、もう一人の僧侶は興福寺の周防得業聖弘である。鞍馬寺はともかく、興福寺からも呼び出されるというのは、今の感覚で言うと、地方議会で一人会派となっている野党議員がその地方議会で与党となっている政党に対抗する目的で目をつけられそうなことをやらかしたら、その地方議会全体の責任問題として発展し、与党にまで責任追及の手が及んだというところか。 話を元に戻すと、源義経が本当に多武峰(とうのみね)にいたかどうかはわからないが、しかし、確実に言えることが一つある。源義経捜索という名目で鎌倉方の勢力が宗教界にまで深く入り込むようになったということである。これまでは朝廷の命令があったとしても宗教界は一歩引いた立ち位置にあったし、寺社の持つ荘園についても独立性を保っていた。しかし、今後は一歩引いた立ち位置にあり続けることも、荘園の独立性を保つこともできなくなったのである。 それがさらに明瞭化されたのが文治二(一一八六)年二月三〇日に出された宣旨である。現在のカレンダーでは二月に三〇日は無いが、この時代のカレンダーは二月でも三〇日がある。この日、大和国、河内国、伊賀国、伊勢国、紀伊国、阿波国に対して源義経を捜索せよとの宣旨が下されたのであるが、令制国だけでなく、熊野と金峯山にも捜索命令が出たのである。大和国や紀伊国といった令制国だけであれば熊野も金峯山も一歩引いた対応をする、すなわち令制国に対して命令が出ても寺社としては無関係であるという態度で応じられていたのであるが、熊野、あるいは、金峯山と名指しされてしまっては宣旨に従うしかない。

覇者の啓蟄 2.源義経追放

 鎌倉の一歩手前で待たされ続けていたのが源義経であるならば、鎌倉の街中で待たされ続けていたのが連行されてきた平家の落人達である。 彼らのことを源頼朝が放置していたわけではない。早々に判決を下して処罰するなり、京都に戻して処罰させるなりする必要があることは脳裏にあったが、源頼朝は急いで判決を下すつもりはなかった。判決を下そうと思えば下せたのだが、歩調を合わせる必要があったのだ。 何の歩調か? 京都に留まっているはずの平家の文官や平家方の僧侶達に対して朝廷が下した判決との歩調である。武人であるために鎌倉に連行されてきたのだし、戦場において実際に軍勢を指揮し、また、自ら武器を手にして戦ったのであるが、連れてこられた平家の面々は都落ちの前まで位階と官職を持っていた人物でもあるのだ。ここで源頼朝が下さねばならない判決は、戦場での殺害ではなく、公人に対する判決である。武器を手にしていたか否かは関係ない。 京都で平家の文人や僧侶に下された判決がどのようなものであったのかが鎌倉に届いたのは、判決からおよそ半月を経た六月二日のこと。その後も京都から諸々の連絡が届き、ようやく源頼朝は平宗盛をはじめとする鎌倉へと連行されてきた平家の落人と対面することにした。 元暦二(一一八五)年六月七日、敗軍の将である平宗盛が、勝者たる源頼朝の前に連れ出された。平治の乱の後、源頼朝は捕縛されて平家の頭領である平清盛の前に連れ出されて流罪を宣告された。それから四半世紀を経て、立場が逆転して、平家の頭領が源頼朝の前に連れ出された。しかもこのときの源頼朝は直接平宗盛と会ってすらいない。御簾越しである。 御簾(みす)とは、簾(すだれ)、すなわち現在のカーテンに相当するもののうち、人と神との境界のために設営されるものである。ただし、時代とともに女性が男性と接しないために設けられる仕切りを意味するようになり、この時代になると性別に関係なく高貴な人と庶民とが直接接しないための仕切りを意味するようになった。このときの源頼朝が選んだ「御簾越(みすご)し」というのは、犯罪者である平宗盛など従二位という高貴な位階を得ている源頼朝に直接会うことすら許されないのだというアピールでもあった。 おまけに、御簾を挟んでいるだけでなく物理的な距離を置いている。源頼朝と平宗盛とが直接話すのではなく、間に比企能員を置いているのだ。源頼朝が比企能員に言葉を伝え、比企能員が平宗盛に源頼朝の言葉を伝える。平宗盛は比企能員に源頼朝への言葉を伝え、比企能員が源頼朝へ平宗盛の言葉を伝える。この繰り返しである。二人の間がかなりの身分差のあるというケースであればこういうしたやりとりも考えられるが、現在進行形で従二位である源頼朝と、過去形になってはしまっても内大臣まで務めたほどの人物である平宗盛との関係でこうなることは、本来ならば考えられないのである。それが、国家反逆者とされ、捕縛されて連行されてきた犯罪者という扱いになると、二人の関係性はこうも変わる。もう平宗盛のプライドは、そして、平家の落人達のプライドはズタズタだ。

覇者の啓蟄 1.平家滅亡ののち

 かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方、近年の教科書だと、源頼朝が後白河法皇に全国に守護と地頭を置くことを承認させた文治元(一一八五)年が鎌倉幕府成立の年となっていることも多く、その延長で「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という覚え方が広まった。さらに最近の教科書となると、そもそも鎌倉幕府が誕生したのが何年なのかを明記しない教科書も珍しくなくなっている。 いったい歴史教育に何が起きているのか。 結論から記すと、誰一人として鎌倉幕府の成立年を明言できないという現実に、教科書が、そして歴史教育が従ったまでのことである。 どういうことか? 明確に鎌倉幕府の誕生年を特定できないのは、そもそも当時の人たちに鎌倉幕府という用語が、いや、武家政権の呼称としての幕府という用語そのものが存在しなかったからである。そもそも、武家政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代に入ってからであり、鎌倉幕府という用語に至っては明治時代に作られた歴史用語である。ゆえに、鎌倉時代に鎌倉幕府という語は当然ながら存在しない。 ただし、用語は無くとも概念ならばある。源頼朝ら鎌倉方の武士達が、一つ、また一つと新たな権利を手にしていった結果、相模国鎌倉の地に朝廷ですら無視できぬ巨大な政治勢力が生まれていたというのが当時の人たちの認識だ。当時の人達は、相模国鎌倉に誕生した巨大政治勢力のことを、現在の我々が考えるような鎌倉幕府という明瞭な政治権力としてではないものの、鎌倉に存在している源頼朝を中心とした集団勢力としてはさすがに認識していた。独自の権力組織ではなく、この国の統治システムの一部を構成し、かつ、朝廷権力とは一歩下がった場所にある、すなわち、鎌倉において朝廷の支配下に新たに構築されつつある権力構造であるとは見なしていたのである。六波羅や摂津国福原に拠点を構えて勢力を築き上げた平家と同様に、相模国鎌倉を拠点として権力を興隆させてきたのが源氏であるというのがこの時代の人達の認識であり、京都からの距離という大きな差異はあるものの、その構造自体は平家政権と類似していると考えていたのだ。 前述の通り、この時代の史料に鎌倉幕府という用語は存在しないものの、勢力を識別する名称ならば存在している。当時の史料から探すと、権力組織としての識別は「関東」、そのトップである源頼朝は「鎌倉殿」であり、地名がそのまま権力の概念を示す用語として登場している。つまり、当時の人達は新たな権力構造の概念を地名で表すことで納得していたのである。それは、六波羅や福原を平家の代名詞として評したのと類似しているとしても良い。ただし、短命に終わった平家政権と違い、源頼朝が鎌倉に構築した権力は太平記の時代までの一世紀半もの長さを記録することとなったのであるから、そこには当時の人たちには気づかなかった本質的な違いがあったとも言えよう。 それは何も特異なことではない。 歴史を振り返ると、国家を動かす巨大勢力の誕生の瞬間が明瞭な形で示されるケースと、明瞭に示すことが不可能であるケースの双方があることを否応なく目にすることになる。鎌倉時代のスタートの年号を教科書に書き記せなくなっているのも、鎌倉幕府の誕生は後者であるがために、鎌倉時代のスタート年も明瞭に示せないからである。しかし、本作は鎌倉時代のスタート年を明瞭な形で記すこととなる。鎌倉幕府が強力な組織として成立した瞬間を書き記すからであり、その瞬間こそが鎌倉時代のスタート年となるからである。