左大臣時平 3.道真は“追放”されたのか? 歴史書の編集は面白さをもって眺められたが、その数日後、とてもではないが笑えない事態が見つかった。 「主上は防人を復活なさるおつもりですか。」 いつも通りの思いつきかと思い、宇多天皇に拝謁するとやはりその通りであった。 だが、源能有がそこにいたのはいつもと違っていた。 源能有は、史書編纂のため資料を集めた結果、現状を目の当たりにしたのである。 「本朝の軍事力の停滞を新羅に悟られた可能性があります。」 それを聞いた宇多天皇による緊急招集である。 「出羽の反乱に新羅人が参加していました。」 「何ですと!」 「これをご覧ください!」 源能有が示したのは、ここ数十年の新羅からの亡命者の動向である。 年間百人単位で新羅から日本に亡命者がやって...2009.02.01 03:15平安時代叢書
左大臣時平 2.阿衡事件 さて、時平はこのとき何をしていたのか。 時平はこうなることを知っていて、それでもなお高みの見物を決めていた。 時平は基経と同様学者派と対立している。そして、学者派の追放にかける思いは父より強かった。しかし、基経ほどの権力を持っていれば対立が成立するが、時平の権力では対立ではなく、一方的に危害を加えられる、イジメの被害者と同じ状況にある。それは陣定における時平の処遇からも見て取れる。 今は蔵人頭として天皇のそばにいるから危険から回避できているが、その立場でなくなったときは容赦ない侮蔑と悪口雑音がぶつけられるはず。 この状況で加害者である学者派にいかにして対抗するか。実力行使にしろ、口論にしろ、時平は多勢に無勢である。となると、無勢で...2009.02.01 03:10平安時代叢書
左大臣時平 1.後継者藤原時平 「それが大臣(おとど)たる者の言葉とは思われません。」 「どのように言われても構わない。朝(ちょう)にはそのような力などなく、民にはそれを受けるだけの力などないのです。」 元慶七(八八三)年、陽成天皇を迎えての会議、「陣定(じんのさだめ)」の場は紛糾した。 通常、陣定は午前中のみの開催であり昼には終わる。 また、天皇や太政大臣、左右大臣の参加はないのが原則である。 しかし、この日は違った。陽成天皇が出席すると言ったのである。これには太政大臣藤原基経も慌てた。 基経は急遽自分も出席すると表明。さらに、右大臣源多(みなもとのまさる)が参加を表明し、態度を不明瞭としていた左大臣源融も最後には出席を決めた。 ここに、時の朝廷の最高権力者が...2009.02.01 03:05平安時代叢書