鳥羽院の時代 5.保元の乱 災害で記録が失われることは歴史上に何度も登場する。アレクサンドリアの大図書館しかり、この時代から三七年後の平泉しかり。また、応仁の乱で失われた歴史資料はあまりにも多く、現在は一部しか残っていない、あるいは書名しか残っていない資料は応仁の乱での消失が理由であるというのも珍しくない。 そこまでの規模ではなくとも、記録が失われる事態となったケースとして仁平三(一一五三)年四月一五日の事例が挙げられる。未刻というから現在の時制にすると昼の二時前後、五条坊門南から鳥丸東にかけてのエリアから出火し、大規模な火災へと発展した。このときの火災により、大江家で代々保存していた図書およそ数万が灰に消えたという。 数万の図書というのは誇張表現であろうが...2020.04.01 07:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 4.悪左府の時代 話を源頼朝の産まれる前年である久安二(一一四六)年に戻すと、朝廷内に一つの問題が起こっていた。 左大臣源有仁の体調不良である。このとき左大臣源有仁四四歳。 当初は誰もが一時的な体調不良であると考えていた。いかに五〇歳で高齢者扱いされる時代であるとは言え、四四歳の人間を相手に加齢による寿命を考える人はいない。 律令には左大臣不在時の対処が定められている。左大臣不在時は右大臣が、右大臣も不在のときは大納言筆頭が左大臣の職務を代行する。内大臣に左大臣代行はできない。 久安二(一一四六)年時点で右大臣はいない。内大臣藤原頼長がいるが、前述の通り藤原頼長は内大臣であるため、藤原頼長に左大臣の代行は認められていない。ゆえに大納言筆頭が左大臣代...2020.04.01 06:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 3.叛旗を翻す者 鳥羽法皇と崇徳上皇からなる二頭体制は、藤原摂関家にとって痛手であった。 とは言え、鳥羽法皇は何一つ法令違反をしていないのである。法に精通している内大臣藤原頼長が黙っていたのも、鳥羽法皇に逆らうことを躊躇したからという側面もゼロではないが、それよりもっと大きな理由は鳥羽法皇に付け入る隙が無かったというところである。そこへ来て、藤原摂関家の内部分裂の今や誰の目にも明らかになっていた。内大臣藤原頼長と、兄の摂政藤原忠通との対立である。ここに出家した父の藤原忠実が加わると話はよりややこしくなる。 勢力を伸ばしていく院と、内部分裂している藤原摂関家という構図であったが、ここにきて、藤原摂関家には院に匹敵する力があることを日本中に広める出来事...2020.04.01 05:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 2.諍う若者たち さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあるが、それだけである。この時代、雨が降らないとなれば雨乞いもするが、それすらない。 後の記録を知る者は、このときの旱魃が危機のスタートであることを知っている。だが、それを知らなければこのときの呑気な様子はむしろ正解とするしかない。言い伝えとしても「日照りに不作無し」というのはある。全く雨が降らないのではさすがに作付けに影響が出るが、日本国の河川はそう簡単に水量がゼロになるということは無い。河川の始まりである山はその多くが森林に覆われ、森...2020.04.01 04:00平安時代叢書
鳥羽院の時代 1.鳥羽院政開始 社会科学は実験できるか? 結論から言うと、できない。 こうすればより良い社会、より良い法律、より良い経済、より良い政治を作り出せるかを試行錯誤することはあっても、その全ては現実の暮らしとなって人々の日常に降り注ぐ。どんなに実験のつもりであったとしても、実験そのものが日常を破壊したとき、実験は失敗であったと認めて元に戻そうとしても、破壊された日常が勝手に元に戻ることはない。「こうなるはずだ」という理論を立てることは可能でも、「試してみたらこうなった」という証拠を用意することはできない。それが社会科学の宿命である。 しかし、実験に極めて近い例証を提示することは可能である。 一つは歴史。もう一つは人文地理。 過去にどのようなことが行われ...2020.04.01 03:00平安時代叢書