源氏物語の時代 7.満ちたる望月 一方で、道長が激怒したのは長和二(一〇一三)年五月九日のことである。 三条天皇はこの日、天文博士安倍吉昌の辞表と遍救法師の申文を受け取った。 このような上奏文が天皇のもとに届くのはおかしなことではない。ところが、この二通の書状は内覧である藤原道長の目を通ることなく三条天皇に届いたのである。これが大問題になった。 ただ単に道長を無視して三条天皇のもとに書状が届いたと言うだけならそこまで激怒しない。だが、天文博士安倍吉昌の辞表となると冗談で済む話ではなくなる。 天文博士の存在は国政に関わる大問題なのだ。 天文博士とは、この時代の天文学の第一人者である。日食や月食がいつ起こるのかを計算して報告するのもその仕事の一つであるが、天文博士に課...2015.05.31 15:35平安時代叢書
源氏物語の時代 6.三条天皇 寛弘六(一〇〇九)年一〇月五日、里内裏として事実上の内裏として機能していた一条院が焼亡した。一条天皇は緊急避難措置として織部司庁に遷ったが、内裏とするには手狭な建物であった。 一条院は、その本来の目的こそ一条天皇退位後の住まいであったが、何度となく里内裏とされたために改築が進み、現在となっては内裏以上に内裏に相応しい設備を整えた建物となっていた。おまけに大内裏に近いから貴族や役人の通勤に支障が出ることも少なく、過去二回の内裏の火災と違い内裏の大規模な全面改修を命じたこともあって、一条天皇は内裏が復旧するまでの間、つまり、少なくとも数年はこの一条院に腰を据えるつもりでいたのである。 その一条院が焼け落ちた。 かといって、一条院以上に...2015.05.31 15:30平安時代叢書
源氏物語の時代 5.紫式部のいる宮中 寛弘二(一〇〇五)年一月一六日、宮中において大スキャンダルが起こった。 事件の犯人として名が残っているのは六名。 藤原道兼の子である藤原兼綱。 かつての左大臣源雅信の孫で、大納言源時中の子である源朝任。 藤原兼通の孫で、参議藤原正光の子である藤原兼貞。 藤原道隆の孫で、権大納言藤原道頼の子である藤原忠経。 藤原実頼の曾孫で、参議藤原懐平の子である藤原経通。 権大納言藤原実資の養子である藤原資平。 この六人が何をしたのか。 宮中の行事で暴れたのだ。それも、行事を取り仕切る蔵人たちに対し一方的な暴行を加えたのだ。 この日、宮中では「踏歌節会(とうかのせちえ)」という行事が開催されることとなっていた。踏歌というのは一年の慶祝を願って行な...2015.05.31 15:25平安時代叢書
源氏物語の時代 4.藤原道長政権始動 長徳五(九九九)年一月一日時点の議政官構成は、藤原氏一二名、源氏二名、平氏一名という極端な藤原独占ではあったが、総勢一五名という少ない陣容でもあった。これが前年の伝染病の影響の結果である。貴族が次々と亡くなり、その穴を道長が放置していたためである。 それも、怠慢による放置ではなく、意図的な放置であった。 そもそもこれまで人員が多すぎたのである。次から次へと位階を上げていったせいで高位の貴族が続出し、位階に合わせた役職を用意すべく、律令に定められていない権大納言や権中納言といった役職を創設してその役職に高位の貴族を任命したため、異様なまでに議政官の人数が膨れ上がってしまったのである。 道長はこの状況を正そうとしたのだ。 まず、誰もが...2015.05.31 15:20平安時代叢書
源氏物語の時代 3.藤原伊周の破滅 長徳元(九九五)年四月一〇日、正二位関白藤原道隆。四三歳の若さで死去。 同日、内大臣藤原伊周が関白代行の職務から解かれる。名目上は父の死による服喪のため参内できなくなることに伴う措置であるが、誰の目にも関白不適格の烙印を押されたことは明白であった。 関白の死去が当時の国政に与えた影響は計り知れないが、忘れてはならないのは、このタイミングが伝染病の荒れ狂う日常であったということである。 関白が亡くなったのであるからただちに後任の関白を選定すべきところであったのだが、それどころではなかったのだ。 長徳元(九九五)年四月一九日、この時代最高の医師と評される丹波康頼が死去。 長徳元(九九五)年四月二三日、正二位大納言藤原済時が死去。 内裏...2015.05.31 15:15平安時代叢書
源氏物語の時代 2.藤原伊周と枕草子 正暦三(九九二)年四月二七日、一条天皇が母である皇太后藤原詮子のもとを訪れた。 出家した身の者に、子が顔を見せに訪れることは珍しい話ではない。本来、出家とは、俗世間とのしがらみを切り捨て、余生の全てを宗教のみに捧げることを宣言する行為なのだが、この時代の出家にはそこまで切羽詰まった感覚などなく、ただ単に生活様式の一つとしか認識されていない。 それに、いくら俗世間を切り捨てたと言っても、俗世間に残された家族にとってはいつまでも家族なのだ。出家した者が俗世間に残した家族の元を訪れることは滅多になかったが、寺院生活を選んだ親やきょうだいの元を訪ねる俗世間の家族は珍しくもなかったのである。 その珍しくもないことでも、それが皇太后のもとを訪...2015.05.31 15:10平安時代叢書
源氏物語の時代 1.藤原道隆の時代 藤原氏を代表する人物と言えば藤原道長である。 書店で子供向けの伝記のコーナーに足を運んだとき、そこにいる藤原氏は、藤原冬嗣でも、良房でも、基経でも、時平でも、忠平でもなく、藤原道長である。 それは歴史の教科書でも同じことが言える。 先に述べた藤原氏の面々はほとんどと言っていいほど叙述されない。せいぜい名前が列挙されて終わりである。人臣最初の摂政として良房が、初の関白として基経が出てくることがあっても、その生涯が語られることはなく、肖像画が載せられることもない。 一方、藤原道長はその名が太字で強調され、肖像画も掲載されるという栄誉を受けている。 だが、藤原道長が政治家として何をしたのかを答えられる人はいるだろうか? 摂関政治の黄金期...2015.05.31 15:05平安時代叢書