天下三不如意 5.山法師たち とは言え、事件は事件として審理されてはいたのだ。許されざる事件であるが、この時代の法に基づいて審理されていたのであるから、この審理自体は問題ないはずである。 しかし、比叡山延暦寺はここを問題視した。 殺人という穢れをなした人物が知らぬ顔をして首都にやってきたのは大問題だという一大キャンペーンを打ち出したのである。現代の日本人には理解できない概念であるが、この時代では充分に有効な概念であった。もっとも、未だに福島県に対する差別を隠さない人間がいるから、そうしたレベルの人間だったら現代の日本人でも理解できてしまうのであろうが。 天永二(一一一一)年一一月一九日、源明国に対する判決は佐渡への配流に決まった。配流は、死刑の無いこの時代では...2019.03.29 15:45平安時代叢書
天下三不如意 4.清和源氏の崩壊と再生 治安を悪化させる要因は、検非違使と北面の武士を総動員してデモ集団にぶつけたことだけではない。この時代の犯罪に直面したときの対応の常識にもある。 その一例が、嘉承三(一一〇八)年四月二四日の夜の出来事として記録されている。場所は二条富小路とあるから高級住宅地、ただし、邸宅の主人は貴族としてはギリギリである五位。この五位の貴族の家に強盗が入り込み、五位の貴族をはじめとするこの家の人たちを殺害して財物を奪い去っていったのである。ここまでは、とんでもない出来事ではあるが、古今東西どの国でも起こる出来事でもある。 近所で起きたこの出来事に直面した者の名を、当時の記録は少内記光遠と残している。強盗が襲撃してきたというのは、被害者にとっては一生...2019.03.29 15:23平安時代叢書
天下三不如意 3.堀河帝から鳥羽帝へ 彗星というのは、現在では単なる天体現象である。 しかし、彗星のメカニズムが知られていない時代において、何の前触れもなく姿を見せる彗星というのは凶兆であった。箒星(ほうきぼし)という別名からもわかるとおり、世の中の汚れを一掃して新しい時代を迎えるときに現れるシンボルとされていたのである。新しくなるならいいではないかと考え、それのどこが凶兆なのかと考える人もいるかもしれないが、そのような人はこのように考えて欲しい。自分がまさに一掃される側の汚れと見なされたらどうなるか、と。収穫量が以前より減ってインフレが高まり、暮らしぶりが悪化していると実感してきているの加え、寺社のデモ集団が平安京にまでやってきて暴れ回っているというだけでも世の中の...2019.03.29 14:55平安時代叢書
天下三不如意 2.新勢力の勃興 康和四(一一〇二)年に興福寺の起こした武装蜂起は、年が明けた康和五(一一〇三)年、最悪な形で収束した。 一日、また一日と興福寺の武装勢力は平安京に近寄り、三月中旬には白河法皇が破壊を命じた宇治橋を超え、三月二五日には平安京になだれ込んだ。興福寺の武装勢力を止める者はおらず、武士団も自分たちの守るべき人の警護しかできず、武装集団は右大臣藤原忠実のもとへとたどり着いたのである。現在の感覚で行くと、デモ隊が首相官邸になだれ込んで首相に直接要求を突きつけているのと同じである。違いがあるとすれば、このときの興福寺の武装デモ隊は春日社の神木を奉じていたことぐらいか。 これに対する右大臣藤原忠実の態度がどのようなものであったかは不明であるが、結...2019.03.29 14:25平安時代叢書
天下三不如意 1.藤原師実亡きあと 格差が問題だと考えるのは現在も平安時代も同じである。 そして、格差社会の解決方法が存在しないのも、現在も平安時代も同じである。 厳密に言えばあるのだが、それは、格差のほうがまだマシと言える絶望、すなわち、戦争、革命、大規模自然災害のいずれか、あるいはそれらの組み合わせである。豊かな者も貧しい者も等しく貧しくなったため、「格差が無くなった」という言葉は嘘ではなくなるが、そこに登場する社会は、格差社会の解消した形として求められる誰もが豊かな社会とは真逆の、誰もが等しく貧しい社会である。 格差とは豊かさとともに生じる宿命であり、豊かさを捨てることなく格差を無くすことはできない。豊かさと等しさとを天秤にかけて豊かさを選び続ける限り、格差か...2019.03.29 14:18平安時代叢書
次に来るもの 8.藤原師通 寛治五(一〇九一)年八月七日、京都を中心とする地域を巨大地震が襲った。 藤原道長の建立した法成寺は大打撃を受け多くの建物が崩壊した。 白河上皇の建立した法勝寺は、そのシンボルであった九重塔が傾いたほか、確認できるだけで五つの建物が崩壊した。 大和国からは吉野にある宝殿が崩壊したという連絡が届いた。 歴史の記録として残っているのは寺院に関するものだけであるが、それ以外の被害が全くなかったとは考えられない。それどころか、被害は史料に残された具体的な記録よりはるかに大きかったのではないかと推測されるのである。 何があったのか? 寛治五(一〇九一)年一一月一五日、藤原清衡から関白藤原師実に対して二頭の馬が献上された。まずは第一弾として二頭...2018.04.30 09:40平安時代叢書
次に来るもの 7.後三年の役終結 朝廷からの連絡が来ないまま時間を過ごしていた源義家は、援軍なしでの軍事行動を決意する。清原清衡とともに軍勢を進めた源義家は、出羽国沼柵(現在の秋田県横手市雄物川町)にある清原家衡の本拠地までたどり着いた。ただの陸奥国司であれば国境の外まで軍勢を派遣したこの瞬間に国司失格の行動となったところであるが、源義家は鎮守府将軍を兼任している。ゆえに、軍勢を派遣する先が出羽国である場合に限り、陸奥国の外まで軍勢を派遣することが許される。 ただ、いかに権限があろうと、戦闘に勝てるかどうかは全く別の話である。季節は冬。軍勢の移動に適した季節ではない。兵糧はどうにかなったとしても、攻城戦に適しているとは言い切れないのだ。 結果は、攻城失敗。 攻撃を...2018.04.30 09:35平安時代叢書
次に来るもの 6.後三年の役開戦 承暦四(一〇八〇)年八月一四日、白河天皇はついに決断した。 内大臣藤原信長を太政大臣に昇格させると発表したのである。内大臣から太政大臣への昇格自体は過去に例のないことではないが、丸六年に渡って政務をボイコットしていた人物を太政大臣に昇格させるというのはああまりにも異例であった。また、太政大臣に昇格したと同時に右近衛大将から解任された。右近衛大将を太政大臣が兼ねることはあり得ないことであり、右近衛大将解任自体は通例に基づくものである。ただし、そのやり方はあまりにも強引であった。何しろ、太政大臣でありながら位階は正二位のままなのだ。正二位でありながら太政大臣というのは 人事の詰まりが解消されたことにもなり、同日、大幅な人事刷新が行われ...2018.04.30 09:30平安時代叢書
次に来るもの 5.三不如意の萌芽 藤原信長のストライキによる内大臣不在は続いていた。 内大臣がいなくても政務がどうにかなっていたということである。 白河天皇は、やがていつかは自分が帝位に就くことを確信してきた人生を過ごしていた。ただ、二〇歳という若さで即位するとは夢にも思わずにいた。父が四〇歳を迎える前に退位して二〇歳の自分に帝位を譲るとは全く想像してこなかったし、即位後、継母である禎子内親王が歯向かう存在となるとも想像していなかった。それが、若くして即位しただけでなく、気がつくと、藤原頼通が亡くなり、関白藤原教通も亡くなり、上東門院藤原彰子も亡くなった摂関家が味方という状況になっていた。その上、白河天皇自身が、皇太子実仁親王が即位するまでの中継ぎの天皇とさえ見ら...2018.04.30 09:20平安時代叢書
次に来るもの 4.白河天皇即位 後三条上皇について、新たに帝位に就いた白河天皇がどのような思いでいたのかを示す面白い記録がある。後三条天皇は、摂関政治の否定、荘園の否定、内裏再建の三つに全身全霊をかけてきた。そのうち、内裏再建は既に完了し、摂関政治の否定は白河天皇の後継者が藤原氏を母としない実仁親王となったことで形になった。そして、後三条上皇が見えないところで君臨している。普通に考えれば全身全霊をかけてきた政策の残る一つである荘園の否定についても継続しているはずである。 ところが、荘園の否定を前提とした組織である記録荘園券契所の記録が白河天皇の即位とほぼ同時に姿を消す。荘園整理自体が無くなったわけではない。だが、荘園整理をする組織が無くなったのに荘園整理がうまく...2018.04.30 09:20平安時代叢書
次に来るもの 3.後三条天皇退位 さて、しつこいくらいにこの時代の通貨は「コメや布地」と書いてきたが、途中から通貨がコメしかないかのような書き方をしてきた。ここに、この時代のインフレの問題点がある。 コメや布地が通貨として機能している、いや、コメと布地の二種類が通貨として機能していると言うことは、モノやサービスの売買をコメにするか布地にするか選べると言うことでもある。 化学繊維など存在しないこの時代、布地というのは天然繊維である。 では、どのような天然繊維があったのか? まずは絹である。発掘調査の結果、日本国での絹生産は紀元前二世紀にはすでに始まっていたことが判明しており、律令における税制でも絹織物を納めるよう規定されていた。農家の貴重な副業であると同時に、絹糸を...2018.04.30 09:15平安時代叢書